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Music Synopsis

音楽に思考の補助線を引く

About&Works

Music Synopsisは、音楽を背景から読み解く批評系ブログです。 単なる感想ではなく、楽曲が生まれた文脈、作り手の思想、文化的潮流までを掘り下げ、作品の意味と構造を分析する記事を発信しています。   取り上げるテーマは、ポップス/ロック/ボカロ/劇伴/サブカル音楽から現代声優・アニメ音響まで多岐にわたります。  特に「音楽×演出」「音楽×演技」といった音楽と他ジャンルの交差点を扱う点に特色があります。   現在は複数の同人批評誌に寄稿し、作品論・音響表現・文化的背景の分析などをテーマに継続的に執筆しています。文学フリマ東京を中心に発表を続けており、寄稿実績については下記にまとめています。

寄稿原稿/記事の執筆依頼についてはserialmusicrecord○gmail.com (○→@)まで

お問い合わせ・記事に対する意見等も上記のメールアドレスまでお願いします。

※旧livedoorブログからの移行記事があります。リンクや文体に差異がある場合がありますが、順次見直し予定です。

寄稿実績

2023年

・初出:文学フリマ 東京36

サークル:「もにも〜ど 」

寄稿本:『もにも〜ど』

『シャフト演出が音楽と交わる時ー物語る前衛音楽と魔法の音の成り立ちについて』

・初出:文学フリマ 東京37

サークル:「Async Voice」

寄稿本:『ボーカロイド文化の現在地』

『インターネット文化の源流からボーカロイド文化まで』

・初出:文学フリマ 東京37

サークル:「もにも〜ど 」

寄稿本:『外伝 もにも〜ど』

『アサルトリリィBOUQUET』のノートーSF、少女小説シェイクスピア 


2024年

・初出:文学フリマ 東京38

サークル:「ブラインド」

寄稿本:『ブラインドvol.2』

グリッドマンユニバース』に至るまで-『電光超人グリッドマン』から『SSSS.』シリーズに至るまでの想像力

・初出:文学フリマ 東京38

サークル:「試作派」

寄稿本『試作派』

成田亨デザインの源流について』

・初出:文学フリマ 東京39

サークル:「もにも〜ど」

寄稿本:『伝承 もにも〜ど2.5』

『シャフトアニメの視覚表現美学の源流──尾石達也モダニズム』(第一章)

サークル「Binder.」

寄稿本:『Binder.vol3』第三号 巻頭特集=奈須きのこクロニクル

『影の幾何学──真アサシンが描く無名性の多面体』

サークル:「試作派」

寄稿本『試作派』

成田亨デザインの源流について』(製本版)


2025年

・初出:文学フリマ 東京40

サークル:「ブラインド」

寄稿本:『ブラインドvol.3』

『音楽×青春×人間関係ガールズバンドアニメにおける群像劇について

──或いは『響け!』から『トラペジウム』に至る病』

・初出:文学フリマ 東京40

サークル:「Binder.」

寄稿本:『型月研通信 vol.3』

蒼崎青子(学生時代)のギターはなぜS-S-S型なのか?』

・初出:文学フリマ 東京41

サークル:「もにも〜ど」

寄稿本:『もにも〜ど3(仮)』

『シャフトアニメの視覚表現美学の源流─劇団イヌカレーシュルレアリスムについて』(第二章)


寄稿書籍に関してはBoothを中心とした各サイトでお買い求めいただけます。

以下のサイトよりお買い求めください。

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『Binder.Vol3 奈須きのこクロニクル』

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紹介記事

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以下のリンクはこれまでの記事の中から筆者視点のおすすめとしてご紹介します。

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この記事は菅野楽曲識者λさん(@infinity_drums)さんとの共作記事です。全体文字数が7万文字ですがその中の2万字ほど提供していただきました。非常に有意義な記事になったと思います。

 

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この平沢進記事は当ブログの最大級のスケールとなっております。いずれ改稿はしたいと思っています。第二部も書く予定ではあります。あくまでも導入部としての平沢記事です。

 

 

三部作特集:MyGO!!!!!とAve Mujicaをめぐるトライアングル

アニメ『BanG Dream! It's MyGO!!!!!』および『Ave Mujica』を、音楽・演技・制度という三層から横断的に読み解いた三部作。バンドリという枠を超えて展開される音響・物語・構造の更新を、音楽文化・声優表現・神話的視座から照射しています。

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羊宮 妃那さんの演技言及 四部作

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声優論三部作

 

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羊宮妃那をめぐる冒険 ──迷える羊の声をたどる

2024年11月13日に『Mygo!!!!!』もっと言えば、羊宮 妃那を「明確」に知って大体一年になる。それすなわち羊宮妃那という稀有な役者の表現について非常に考え抜いた年である。

アカウントで初めて言及したポスト

元々この最近の声優役者を軸足に数々の記事を書いてきたが、経緯としては2024年の『トラペジウム』であった。そこで、「結川あさき」「羊宮妃那」を知ることができたことが全ての主因となっている。今や、明田川 仁の音響監督の仕事に世話になっていないアニメ視聴者は存在しないであろう。何度でも想うが、『トラペジウム』は稀に見る組み合わせであることに違いない。

 

最近、結川あさきの中性声についての記事を出したが、声として意識したのは実は、結川あさきの方が先なんです。どちらも素晴らしい表現者であるが、当時としては結川あさきはまだ記事にするにしても、そも役数が少なく、『逃げ上手の若君』がちょうどリアルタイムで放映されていたという時期もあり、いち早く書きたくてもそもそも書けないという状況であった。だから今になって、というよりも2025年11月1日になってようやく書ける下地が揃ったということだ。

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そして、「羊宮妃那」。正直に書けば、この役者は知っていたが、『Mygo!!!!!』を知るまでは単なる「巧い役者」という認識でしかなかった。それが尋常ではない才覚を持つ役者であることに気づくのが遅れたというのが実情である。このタイミングでごく3人しかいないDiscordにて「Mygo」「羊宮」で検索をかけたが、実に1年で「Mygo」397件、「羊宮」475件。羊宮の方が約1.20倍多く、全体の54.5%が「羊宮」言及というクラスになっていた。3人いるなら分散と考える人も多いでしょうが、9.9割型私です。

 

 

そしてこの羊宮を知って以後の一年は、まさに「羊宮妃那をめぐる冒険」であり、迷える羊として声をたどり続けた記録でもあった。

まず、当ブログでも人気記事となった『Mygo!!!!!』『Ave Mujica』の音楽の良さを体系的にまとめた記事を出しました。ここで述べたかったことは、「声優」という職能が持つ歌唱というものは、人によっては絶大な威力をがあるということだ。そんな表現者はなかなか出会えない、だからこそ対比として上田麗奈の『Empathy』を対象としていたわけだが、上田麗奈ファンが「表現特化」としてのアーティスト歌唱をすることでの効能はとても大きいが、一方で、それが軸ではないからこそ、供給としては不足気味にならざるをえないよね、という段階で、同等の声質と表現力、いまや表現者としてのバトンタッチもかなり進んでいると言って「羊宮 妃那」がIPとしての「バンドリ」で『Mygo!!!!!』で高松燈を演じられ、歌唱してというのは明確に大きなアドバンテージがあるということでもある、というのがあの記事で主張したかったポイントだ。

あと表現主義と技術主義という意味でこの二つのバンドは圧倒的であり、後者に至ってはもはや高すぎてという話だ。バンドとしての「Ave Mujica」に関しては進行形で考えいているのでいずれ出します。かなりいいところまで来ています。

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そんなにも『Mygo!!!!!』はすごいのか、と想う方もいるとは思いますが、実際問題として、「アニメも」展開するバンドリという意味ではいい加減初めてのアニメ化ではなく、むしろシリーズ化していたわけだし、なんとなれば企画段階では別のIPであったことはもはやいうまでもありません。つまりのちにバンドリに統合されただけであって、実態は別物というのが「Elements Garden」ではなく「Supalove」であることはこれは、『春日影』論でも書きましたね。

あの記事では、『栞』『春日影』『人間になりたい歌』の三作だけがElements Garden体制であることを手がかりに、意図的な断絶があると読んだ。逆算的に見れば、これは制度更新のための儀式的布石に他ならない。

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この記事はそれぞれ

・天動説=CRYCHIC

・地動説=Mygo!!!!!/Ave Mujica

 

という、アナロジー1本で勝負したという、側からみれば「なじゃそりゃ」となる見立てて書いた1本なのですが、これがうまく当てはまってしまったんですよね。

Diggy-MO'の楽曲込み(『PTOLEMY』=プトレマイオス視点『GOD  SONG』=外側視点)で、なぜああならなければならなかったのか?が説明がつくという、自分でも書きながら「これ酔狂記事だろ笑」と思いながら書いていましたが、ベヘリット=春日影あたりから、「これ、物になる」と確信した記憶は鮮明にあります。そして、結果的に、この見立ては「しっかり」と成立しました。これはコンテンツ評ではありましたが、大胆な飛躍が実は嘘ではないという意味で、かなり印象的な記事になりました。おそらくこの記事ほど『春日影』がなぜ〜なのかという問いを彫ったものはないと思います。

 

さて、話を羊宮妃那に戻そう。

『MyGO!!!!!』で知った当初にまず思ったのは、冒頭のXでも書いた通り、ポエトリーリーディング的な表現の近似性と、楽曲全体が既視感を呼び起こすメロディラインだった。羊宮の歌唱が圧倒的であることは言うまでもないが、同時にamazarashi以後の文体と感情設計が流れ込んでいる感覚があった。

私自身、amazarashiを長く取り上げてきた立場からすれば、この共鳴は偶然ではない。むしろ必然だったのだと思う。

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だから物語としての『MyGO!!!!!』のギスってる感は別に音楽性として、系譜があるからこそ、そこに熱量を入れられる余地があるということだ。でもまさかそこを埋めてくるのが声優の歌唱という文脈で更新されるとは思わなかったという意味でもやはり特別。

そして今年の3月、『小市民』2期手前に私論として若山をもう一つの軸足として置いた記事を書きました。

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これは座標軸として若山、羊宮、結川とそこに関係性がある声優(安済千佳、上田麗奈)を含め、それぞれを座標として現在地の基軸はこの役者群であるということ提言したかったのだ。ここで一つ、重要な発見ができたのが以下の文節である。

声優の声=音という感覚で思索すると以上のようなことが自然と点と点で結ぶことができる。

自分の文章を知っている人はいい加減既知な事実であるが、「全て」においてかなりドライブ感で書いているので、特に下書きやネタ案といったものがとくにあるわけでもなく、脳内で思ったことをリアルタイムで文字起こしで当ブログの全文章は構築されているのですが、この文節に限ってはこれがかなり大きい。ここで声=音と考えられたことが、この記事における「座標」と源でもあり、その因子でもあるからだ。そしてこの直感こそが後の「声=音=言語=演技」論の源流になったのだ。

そして約1か月半(48日)かけて「声=音」を拡張した論がこちら。

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「羊宮妃那論」と銘打ってはいるが、射程は広い。核心は発声とは何か、その差異が吹き替えと字幕にどのような不可逆の差分を生むか、さらに朗読において声はどう作品になるか、という諸相を横断しつつ、翻訳には上限があるという前提を置くことだ。そして、その上限を貫通する声こそが希少であり、その最前線に羊宮妃那がいるという結論に至ったのが本稿。だからこそ、その希少性を説明するためには、出演作やキャリアの長さといった、短絡的なものの「見立て」ではなく、声そのものが受け手にどれほど作用してしまうかという観点から見なければならない。


このとき軸足となるのが、悠木碧加藤英美里上田麗奈水橋かおり、そして「語り手」という概念の最高点に位置する櫻井孝宏である。これら一群らと比較しても十分に耐えうる声であるということが重要なのである。だからこそ冒頭で、『コロンボ』におけるピーター・フォーク小池朝雄ヒース・レジャー, ホアキン・フェニックス, V(『Vフォー・ヴェンデッタ』)といった、変換不能性を帯びた発声×演技の実例を「共有前提」として置いた。

ここで言う変換不能性とは、テキストの意味を越えて声そのものが意味の担い手になる現象である。この前提を踏まえると、中国圏でのMyGO!!!!!の根強い受容も説明がつく。中国語版のMyGO!!!!!楽曲は存在せず、日本語版のみが流通しているにもかかわらず評価が高いのは、まさに翻訳(言語)を越えて届く声の力が働いているからだ。ホアキンの声やVの仮面の「非翻訳性」が伝わるのと同型の現象として、羊宮妃那の歌唱=発声が機能している、というわけである。それが全てとは言い切れないが、歌唱が受けなければMygo!!!!!の人気は説明できないというのも確かな事実であるのはご存知の通り。

 

そしてその「希少性」ある声の正体とは何か?ということを考える時に一つの答えに行き当たる。それが「表音文字」「表意文字」そして「表義文字」という文字帯系列。

音で伝わる文字(ひらがな、カタカナ)

意で伝わる文字(漢字が典型的-「花」「死」「夢」など、形そのものに意味がある)

この二つまでは言語学的にも確立された区分だが、そこに第三の層=表義文字を置く。
それは「文字自体が感情や世界観を発生させる」段階である。

 

もちろん正式な用語では存在しない。だが、表音+表意=表義として読み替えると、声という現象が「音と意味の合成によって世界を構築する」営みであることがわかる。

この構造は、マズローの欲求五段階説における「超越的欲求」に似ている。マズローが五段階を説いたあとに第六段階として「自己超越」を提示しながら、学説としては未体系化に終わった。つまり到達されながらも理論化されなかった層。表義文字も同じく、言語体系の外側でありながら、確かに存在する「超越的な伝達」を示している。

そして、この考え方を最もよく象徴するテキストが、テッド・チャンの『あなたの人生の物語』である。あの作品で描かれるヘプタポッドの言語は、一文が同時に始まりと終わりを持つという構造をとっており、言葉が時間と因果を越えて「世界の形」そのものになる。つまり、「読むこと」と「見ること」、「音」と「意」が分離していない。
これはまさに「表義的言語」であり、声が持つ多層的な意味伝達。音と意と義が同時に働く現象を説明する上で最も近い文学的モデル。

そして、その映像化としてヴィルヌーヴの『ARRIVAL』がある。映画を見れば誰でもわかるように、ヘプタポッドの文字は「円環」そのものだ。始まりと終わりが同時に存在し、時間が折りたたまれ、意味が流動する。つまりそれは、言語が「読むこと」と「見ること」を同時に成立させる構造の可視化である。だから私は、この「ヘプタポッド文字」をそのまま「声優」に置き換えても成立すると考えた。声優の発声とは、言語を時間軸で並べる行為ではなく、瞬間において世界を全体的に生成する行為である。一音一語が過去と未来を含み、演技の「円環」を描く。まるでヘプタポッドの文字が時間を同時に記述するように、声優の声もまた感情・意味・身体・時間を同時に「描く」。その構造を最も純粋な形で体現しているのが、羊宮妃那という存在なのだ。というのがあの記事で伝えたかったのが

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この記事を出した意味で意義でもある。そして、これらの理論が正しいかどうかはともかくとして、「表音声優」「表意声優」「表義声優」という三分類を設定した瞬間、
この世に存在するあらゆる役者は分類可能になるという結論に達した。

 

  • 表音声優とは、音の抑揚やリズムで感情を立ち上げる演者。
  • 表意声優とは、言葉の意味や構文の精度で情景を紡ぐ演者。
  • 表義声優とは、声そのものが世界観を生み出す演者である。

 

この区分を適用してみると、驚くほど整合的に見えてくる。たとえば『ガンダム』シリーズの主人公像は、逆説的だが「音」が主因の声優でなければ成立しない。アムロ・レイの数々の台詞回しにしても古谷徹が発声する「言葉の配列」の美しさよりも「音」が機能しているからこそ、「親父にも殴られたことないのに」と言ったセリフが耳に馴染むし、富野由悠季の独特な言い回しもあって、結果的に「残る」台詞となる。

実際問題他のガンダムの主人公にしたって作品として情動的な面があるのと、「叫ぶ」ことが必然性としてある以上、声にかかる「音」が際立つ役者にしか務まらないという側面は確かにあるのだ。なぜならこの「叫び」こそ、音の純粋な表出であり、物語世界を支えるためには音のエネルギーを持つ声優でなければ成立しない。ガンダム=音の宇宙といえば一発で分かっていただけるだろうか。

 

もちろん声優とは本来、声に特徴があることが前提だ。しかし『ガンダム』の主人公たちが「音」を中心に選ばれてきたことは、この表音的特質を、物語構造そのものが補強し続けている証でもある。

 

一方で表意は「語り手」に属する声優という意味では、トーンが一定の帯域で発声して崩れない、それこそ川澄綾子田中敦子早見沙織といった「台詞」の一音一音が目立つ役者であることもまた、想像に難くない。ここに属する役者は基軸となる声そのものが、「言葉の意味」を精密に構築していくタイプと言える。男性なら神谷浩史がその最たる例だ。そうでなければ「阿良々木暦」は成立しえない。どんな饒舌でも崩壊しないあの異常とも言える滑舌の美しさはやはり「音」よりも「意味」を象徴する。

つまり、表意系の声は「音」よりも「意」を重視しており、一つひとつの台詞がまるで文章のように意味の文法を持っている。だからこそ、台詞や言い回しに「妙」があればそれが視聴者に伝染するのである。

 

ここで整理すると面白いのがガンダムのセリフは実際の役者の声、あるいはそれに寄せることで成立し、再現されることは多い。「声の高さ」や「リズム」、「叫び方」さえ再構成できれば、それらしい「音の再現」は成立する。

 

一方で表意系の「演技」というのはおおよそ「真似」できないのがポイントだ。それは声のトーンや抑揚の問題ではなく、「言葉の意味をどう構築しているか」という内的構文の問題だからだ。つまり、演技が「声」ではなく「言語運用」に支えられているため、模倣の対象が存在しない。だからこそ、発声を伴わない「文章」つまり文字媒体においては、むしろその表意的構造が感染的に増幅される。読み手がその語りのリズムを頭の中で再生することで、声優の文体的影響が「文字」として残存し得る。

 

そして「表義声優」である。これは「模倣不可」であり重力、磁場を揺らす軸である。

表義的声は、意味や感情を超えて存在そのものを変調させる。聞く者の認識をわずかにずらし、世界の密度を変えてしまうという意味で一種の超能力と形容していいだろう。

ここに属する声優はごく僅かだ。表音、表意は、切り替えや演技帯で切り替えがあるので、ばらつくが、ここの領域に至っては、名のある声優をどれほど列挙しても、「誰が選んでも一致する」ような数人しか該当しない。彼らは声を発するたびに、言葉の外側に世界を出現させる。声が響いた瞬間に、音ではなく「場」が生まれる。それこそが表義声優の定義である。そしてその領域にいる声優こそが

櫻井孝宏(声質がテノールからアルトまで同じなのに全部違う演技になる)

関智一(テノールからソプラノまでスイッチのように「声」が切り替えられる)

山寺宏一(言わずと知れた七色声はもはや神域)

上田麗奈(ソプラノ調の発声と妖艶さは随一)

沢城みゆき(どの領域でも違和感なくキャラを演じられる天性の「声」)

悠木碧(人間性を一時的に解除できるキャラクター声は世界一)

そして、この列に羊宮妃那が確実に加わる。ようやく辿り着いたが、こここそが最も重要な地点である。羊宮の声は「歌唱」と「演技」という二項を容易に超越する。
というよりも、彼女にとって歌唱=演技=表現は常に同一平面上にある。通常、声優が歌うとき、発声は演技の延長線上にある。つまり早見沙織が歌っても、ああ、「早見沙織が歌を歌っている」という、ごくごく当たり前の認識の切り替わりがある。しかし羊宮妃那の場合、声が音楽の構造そのものになる。それはメロディやリズムに依存せず、声自体が世界を震わせ、聞き手の感情を空気の密度として変化させる。そうでなければ『Mygo!!!!!』の楽曲は成立しないというのがその証左。そこがあるからこそ、リスナーとしての我々は驚嘆している。そしてそれに近いものは先述の通り、上田麗奈の歌唱くらいしか、類例として挙げられるものが、そもそも存在しない。そしてここにおける共通項は両者ともに表義であり、そこ空間上にいる役者であればということも自明である。

 

そして今や、この二人は富野由悠季の世界で象徴的なキャラクターを担う。上田麗奈は『閃光のハサウェイ』にて「ギギ・アンダルシア」を、羊宮妃那は『ジークアクス』において、「ララァ・スン」を演じた。富野作品の中でもっとも人間の知覚と魂の境界を描く役柄を、この二人が引き受けたこと自体が象徴的だ。表義的声優とは、魂と構造のあいだに声を置く存在であり、この定義を、この共通項が証明している。

 

以上が、羊宮妃那という「声」の存在性を考える中で生まれた、『MyGO!!!!!』における「迷える羊」の声から始まった、一年間にわたる個人的変遷の思索である。

この一年で発表した五本の記事を通して、ようやく見えてきたのは「声」という現象そのものだった。それはやがて「羊宮妃那」という個にとどまらず、「声優」という役者帯をどのように捉えうるのか、という地点へと拡張していった。結果として論は壮大になってしまったが、それもまた一人の表現者が「声」という存在のあり方を考えさせてくれた賜物である。羊宮妃那という役者がいなければ、この思索は決して生まれなかった。

そうした意味で、「今後」の是非よりも、まずこの一年において確かに名前を刻んだ役者であり、だからこそ「文章」として冒険することができた。

今後いかなることがあろうともMygo!!!!!の『焚音打』において高松燈として

大丈夫 僕たちは進もう 迷うことにもう迷わない

という言葉は、まさにその象徴である。

 

 

いまの時代、「sheeple(sheep+people)」という言葉がある。
情報に流される大衆を揶揄するこの語を、あえて肯定的に転用したい。すなわち「羊化」とは、羊宮妃那の声に導かれ、迷いながらも声の世界を彷徨い続ける聴衆たちのことだ。フィリップ・K・ディック的に言うなら、それは一頭の「電気的存在」が私たちを導く構図であり、「迷える羊」とは、声を求める受け手そのもののことなのだ。

 

 

Do Seiyuu Dream of Acoustic Sheep?


Yes — by Youmiya, as the Electric One.

 

 


サムネイル画像は、POSiTRONによる作品「Lucky Sheep」

(デザイン:土井宏明、出典:PressWalkerプレスリリース)より引用。
本画像は文脈における参照として使用しています。

結川あさきにご用心|中性声の帯域の魅力

結川あさきって、とても声の按配が面白くないか?と感じたのは『トラペジウム』で主演を張った時の演技のうまさに惹かれて気づいたポイントの一つ。

2024-07-15

つまり色々と癖ありな話と「東ゆう」というキャラを差し引いても、「可憐」とか「闊達」みたいなラベルができるような、わかりやすい「声」ではないのだ。

 

なかには、「まだデビュー2,3年目なのに」、論なんて張れるのか?と思う人もいることでしょう。それが張れるんです。前提が「デビュー数年目で既に帯域を特定できる」ほど特徴が明確だから。帯域的に説明できる人材という観点なら十分に論じる価値がある。つまり指数関数的に増えいく経験年数とか役の広さなんてものは重要だが、声を捉える時にはさしたるなんか問題ではなく、音響的座標がすでに明確に定義できる声優ということ。その観点でいえば若手も大御所も一列で扱うことができるし、実際そういう観点で進んでいるのが音響でしょうよ。

挿入歌の『なりたいじぶん』とエンディングテーマの『方位自身』どちらも聞けばわかるが、四位一体という構成といえど、東ゆうの声(結川あさき)って他の羊宮や上田、相川遥花と違って全然前景化してこないんですよね。

なりたいじぶん

なりたいじぶん

  • 東ゆう(CV:結川あさき), 大河くるみ(CV:羊宮妃那), 華鳥蘭子(CV:上田麗奈) & 亀井美嘉(CV:相川遥花)
  • アニメ
  • ¥255
  • provided courtesy of iTunes
方位自身

方位自身

  • 東ゆう(CV:結川あさき), 大河くるみ(CV:羊宮妃那), 華鳥蘭子(CV:上田麗奈) & 亀井美嘉(CV:相川遥花)
  • アニメ
  • ¥255
  • provided courtesy of iTunes

いい意味で。口語体と歌唱時が=ではないというか。いや=なんだけれども、中性的な声が軸にあるせいで、あまりにも分かりやすい羊宮の狙った可愛さや、聞き慣れすぎた上田の声、相川遥花の声も、結川的な低さはあるがまだ帯域としてはちょっと低い早見系だなって思える分、声としてはまだわかる

(つまりキャラとしてこういう声が当てられるという原則)。

 

でも、結川あさきって四人でハマる時でも全然前に出てこないというか、わからないんですよね。パート分けという概念的にみても。そしてそれは他三人に比べて「テノール」寄りの声だから。キャラとしてみた時に、あまりにも大河くるみ=羊宮妃那というのが、羊宮の声が前景のリリカルすぎるから余計に、対照的に可聴において差分を掴みやすい。多分こっそり結川あさきの声を差し引いても「歌」のバランスは案外崩れないなじゃないか。なぜなら女性音域におけるアルト〜ソプラノは他の三人が「声」として強いから。女性四声の中で結川が担っているのは、いわば中音域の地平線。他三人、つまり羊宮妃那(あまりもソフトでリリカル系アルトの延長線)、上田麗奈(中高域を乗せる表現型)、相川遥花(ソプラノ寄りでストレートな透明感)が、いずれも倍音の多い「可聴範囲」を形成している。

 

じゃあここにおいて、結川あさきの「声」ってどうなんだろという話です。中性テノール的アルト。テノール的音域の方が聞きやすく、それでありながら「少年」系が映える中性的表現を維持する女性声優というのは、あんまり見かけない。事実、『逃げ上手の若君』の北条時行なんかがそうですけど、ボーイッシュ的なクールさ、ではなく逆に男なんだけど声が判別が迷う、そういうキャラを演じたことからもわかるように、圧倒的に本域は「少年」か、「特殊な高音」が効くタイプの声なんですよ。そして、それは本人もインタビューにおいて以下のように認識している。

mantan-web.jp

 

「自分の声はどちらかというと中性的ではありますし、いつか少年役もやってみたいという思いがありました。まさか時行のようなキャラクターを演じさせていただけるなんて想像していませんでした。うれしかったです」

 

これはあくまでも帯域レベルでの部類だが、一番近いのは帯域の役者は、有名どころだと、大谷育江加藤英美里竹内順子新井里美、あとはオグリキャップ高柳知葉(この人も極端に高い声が合う一方で低音系がマジでいいし、その格が「オグリ」なわけですよ。だから捜査官系で低音だせば絶対合う)がそうかな。とりあえずこれらの「声」系譜です。絶対に。わからない人は上記の演者のサンプルボイスを一通り聞いてみてください。

 

数多の人が「ピカチュウのモノマネ得意」といってもただのモノマネに終わるが、結川あさきはそれが本当にそのタイプの声に該当する。結川自身もそれを言っているからこそ一回でいいのでピカチュウの鳴き声を披露して欲しいもんです。

加藤英美里はデビューの段階から『ネポスこどもCLUB』のネポから始まっていて、あれもいってみればマスコットキャラ、イマジナリーなお友達的なものから始まっているのも示唆的ですが、後の地縛霊と営業マン宇宙人の系譜が振り返れば、という意味合い。要するに一作目の印象というのは監督であっても声優であっても色付けには非常に大きく影響してくる。

 

その上で、アイムに記載されている役柄を一部引用してみます。

【アニメ】

・逃げ上手の若君(北条時行

・アオのハコ(島崎にいな)

・となりの妖怪さん(杉本睦実)

・ゲーセン少女と異文化交流(加賀花梨)

・紫雲寺家の子供たち(横山らら)

・クラスの大嫌いな女子と結婚することになった。(北条留衣)

・ATRI -My Dear Moments-(ミヨ)

・夜のクラゲは泳げない(真弓)

・WIND BREAKER(土屋美緒)

かくりよの宿飯 弐(竹千代)

【ドラマCD】

・勇者宇宙ソーグレーダー(勇之上平) 

まぁこの辺でいいでしょう。で、まず『逃げ上手』以上に実はファクターというか、結川あさきの「色」がでいてるのがドラマCDの『勇者宇宙ソーグレーダー』の勇之上平。これは、完全に明らかに少年の低域。作者の趣向が高い時行的なショタ系でもなく同時に、高音で可愛いではなく中低域で凛と立つタイプ。これです。完全に結川あさきの独占上の一つです。めっちゃいいですよ。 

ドラマCDはマイクも演技もストレートに素の帯域を聴けますし、この役の何が特筆すべきかというと中性的で無理のないピッチ感を保っている点。やはり男性声が女声を出せることはできてもそれが聴けるものとして提示できるのが少ないのと同様、女性声が男の声をだしても元々の声の構造はいいかもしれないが、情緒性でボロが出やすい。

まとめるならば

 

・男性声優が女性声を出すと「構造的に不自然」になりやすい。
・女性声優が男性声を出すと「情緒的に不自然」になりやすい。

このどちらも越えて、構造的にも情緒的にも自然な少年声を出せるのが結川。

 

いわゆる女性声が放つダウナーが近傍ではないのか?と思う人もいるでしょう。でもそれではだめなんですよ。(結川あさきがやれば完璧だしそれはラジオで証明済み)素で「少年」をだせる声というのはそれこそボーイッシュ・ダウナー系よりも少ない帯域。

ダウナーでいえば、『SSSS.ZYNAZENON』(2021年)に若山詩音が南夢芽を演じたときのあの感覚さこそがダウナーさの骨頂だと思うんです。つまり「らしさ」が気怠けに直列しているのであって、別に少年自体はない。儚さはあるけれど。

 

多くの女性声優が少年を演じる時、どうしても高域を軽くして息を混ぜ、軽さで若さを出そうとする。しかしそれではダウナー方向だけに傾き、声が立たない。結川は逆で、中低域を締めてピッチを安定させ、倍音の立ち上がりで若さを演出できる。つまり感情ではなく音響で少年を作れるのだ。地声に余裕があり、だから不自然が一切ないし、生まれない。結果、少年でありながら落ち着きと知性を感じさせる。「時行的ショタ」とも「ボーイッシュ女声」とも違う、第三の位置。逆が故に「壊れたキャラ」が上手い安済千佳の明るいバージョンというべきか、あの『クズの本懐』での演技帯域がもっと中性的になった声。それが故に生まれる演技を誇張せず、ナチュラルな中性。それがこのボイスドラマの真髄なわけです。おそらくメイン軸で将来、唯一無二の軸として活躍するのは第一にこの領域。結川あさきにオファーをする側はもっともっと低い声のキャラを当てるべき。絶対化ける。

 

それこそ同じアイムで言えば、清楚系としての声=早見沙織が少年役といってもピンとこないと思うんです。声が綺麗すぎて、「少年がいる」というより「綺麗な女性が少年の台詞を喋っている」というにならざるを得ない。逆をいえば、そういう演技が声質で可能な役者というわけです。

 

杉本睦実(『となりの妖怪さん』)とかは少女役なんだけど、そういう「らしさ」としての声が全くとまではいえないが、いわゆる「私可愛いでしょ」系の声としての帯域とはずいぶんとかけ離れている。「結川あさきのtime is funny」を聞けばわかるが、地声がそもそもという話。

結川あさき「TIME IS FUNNY」 | インターネットラジオステーション<音泉>

笑ってる時とかの意図してない無邪気さ的(人間的な意味ではなく無意識的にでる一種の発声)なところがどっちとも取れない。つまり意図的な発声とはまったく別の質感を持っている。笑っている時や、素でリアクションしている瞬間に出る声。あれが演技中の少年声や中性的発声と地続き。可愛らしさを出すキャラよりも地声で回した方が良い、というよりも「低く」発声させた方がいいという原理がでる。なんと形容すればいいか、演技を支える基盤が演じる前から中性なんだ。それが、地声→演技→歌唱の三層すべてに貫かれている。さて、ここまで行けば一つの共通点に辿り着く。そう、『名探偵コナン』の高山みなみ御大は、役柄では当然のこと、舞台にせよ、15周年のコナンラジオにせよ、NHKの「NHK +」の移行のアナウンスにせよ絶対に素が「江戸川コナン」さが残るんです。浴びるほど聴いた声なので余計過敏に反応できるという面はいなめないが、つまり、どのマイクを通しても「コナン」が聞こえる。低くなればなるほど味が出るし哲学的な声になっていくわけです。超越的な役者でありながらもその本質は声の帯域が少年向きであることに起因する。


これは「役の再現」ではなく「声質の宿命」。そして帯域で言えば結川あさきもこれと同じ素質があるということ。それこそ北条時行で、結川を知った人はかなり多いと思ううが、その層が地声を聞けば、全く同じ音響現象が発生する。

 

つまり、「コナンを演じる高山」ではなく、「高山という声がコナン帯域に存在する」
同様に、「時行を演じる結川」ではなく、「結川という声が時行帯域に存在する」

 

演技が声を作るのではなく、声が演技を定義する側。これは偶然ではなく、生理的な帯域の宿命であり、同時に音響的な必然。だからこそ、高山声はデビュー三年目で『魔女の宅急便』で一人二役ができる「構造」的な声があった。ということ。流石に超越的な例外ケースではありますが。

だから、無理に低い声を出そうして失敗するというあるあるな声真似っていうのはそれを証明している。元々帯域としてなければ再現性が不可能。例えば堀之紀の低さって男性でも真似できないほど低い。それを真似ようとすると男でもかなりきつい。だからといって、日笠陽子が低い声で威圧しても、それは支配的な「圧」の強さであり少年系にはなりにくい。そういうこと。つまり、音響的再現は「模倣」ではなく「構造の一致」が条件になる。以前に記事で述べたが、「声=音=構造」で結べるからこそ、Aを演じる役者ではなく、役者がの声がAの帯域に存在する、ということが成立するわけだ。

 

それが羊宮妃那の場合「歌と演技が=として架橋できる」という特殊性があるからこそ、論じる「声」としてはこちらも相当に大事という話が、これまでの話。そういう意味では「当たり前」なんだけど、案外見逃されがちということだ。

sai96i.hateblo.jp

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事務所のサンプルボイスでも特に核が出ているのは

「ナレーション➀」(時行調のオーディブル的素材)

「キャラクター②」(これめっちゃ大谷育江感が高い)

否定するわけではないが、それ以外のサンプルボイスはセリフと「風」なセッティングが結川あさきの幅の広さを出したいが故に、本粋の「低音」がないのが相当惜しい。キャラクター①「文化祭JK」キャラクター。例えばこれ、『アマガミ』でお出しされてもこのルートあんま人気ないだろうなっておもうくらい、「違うそうじゃない」という意識の方が強い。③は忍野忍系の老年女児系。吹き替え①は佐倉綾音系の「高圧」と「可愛さ」の同居系の音声、吹き替え②は早見沙織が合う調査隊系。もちろん、事務所のボイスサンプルは単調ではなく「色」のグラデーションを声で見せるものだからバリエーションをつけるのはいいのだが、ならばこそ「低音男子」は一本入れるべきであろうと思うのです。どこの声優の事務所サンプルは一応に「幅」を見せがち。それが機能するかどうかは演者に依拠するが、その意味では結川は幅より核が勝つタイプ。

「俺は逃げないよ。怖いのは当たり前。でも、歩くのは止めない。」

「選ぶことは、手放すことと同じだ。だからこそ、今日は静かに決める。」

などといったセリフの方が魅力は伝わる。ここを唯一押さえているのが『暗号学園のいろは』のコミックボイスだけなんですよ。前記事でも書いましたが、結川あさきの本質は自分の中では

東ゆう(高山一実)/北条時行(松井優征)/夕方多夕(西尾維新)という内容、キャラクターともに一筋縄では行かない奇才作家の軸足をすでに三本は持っている稀有な声優

なんですよね。つまり男子の方がすでに向いているし、結果出ているわけです。だから、文化祭JK・忍野系・高圧かわいいを頭出しされても、逆にそんなの適正でいえば上手い役者は他にいるわけですよ。それに対抗するなら、少年系で攻めた方が早い。個人的に思うのはサンプルに求められるのは「多彩さ」ではなく、「一発でキャスティングを想起させる核」だから、少年軸を先頭に据える方が圧倒的に戦略的なんです。端的に言えば、文化祭JKは正直、代替可能、少年核は代替性がそこまでない。

 

そんな結川あさきですが、唯一「全要素」が詰まっているものがある。

それは先ほど紹介したラジオの主題歌『ナイトワイライト』作詞作曲:結川あさき 編曲:村山シベリウス達彦という構成で組まれていることからもわかるように、自作で楽曲を構築し編曲家がそれをモノにするっていうありがちなあり方ですが、結川あさきの音楽の趣向がボカロ一点に集中しているタイプなので「どこかで聞いたことのがある展開」が結構あってそれはそれで面白いのですが、大事なのは、フレーズごとに声色を変えて歌っているところ。既聴感の中で唯一新しいのが声の構造変化

 

例えばイントロの

笑って泣いて night&day Tuesday 最終回の向こうで おやすみ まで眠らない 

今一度 息を吸い込んで 聴きなれた声を呼んでいる 不安も後悔も尽きないや今までを辿れば一瞬だ もう一度人生を回しだそうと今行こう

ねえ、まだ眠らないでいてよ 君の知らない話を 伝えにきたんだ ねえ、どうだろう? 笑ってくれたらいいな

と交互に低音(男性系)と高音(女性系)を使い分けて歌唱しているんです。最顕著は

声ひとつで明日に向かうよ 永遠の夜に魔法をかける 生涯 命懸け 周回ない 自分らしくでいいでしょう? 今はもう来ないと思うから ノータイム いつも大丈夫 ただ静かに 羽を休め 君の一瞬を 見せて大胆に

のフレーズですが、これ、要するに古くを言えばニコニコ動画の「歌ってみた」におけるタグで「両声類」というものがありましたけど、それに近い歌い方なんですよね。意識しているかどうかはさておき、高さが上がり下がりでの歌唱はその文脈にはいる。言い換えれば、「少年」帯域と「少女」帯域の統合。演技の両翼が1曲の中に折り込まれている。

 

しかもそれをご自身で骨格を作っている。これは明らかに自分の強みを活かしているんですよ。問題はまずこれは現時点で「音泉」のイベントでしか手に入らないイベントCDで、そういうのはサブスクも当然ないので(羊宮でいうところの『セレプロ』的な)、ラジオを聴くくらいしか確認方法がないこと。本当にもったいない。

ONSEN THEME SONG CD

これこそが結川あさきの現時点での表現最高傑作なのに。要するに『ナイトワイライト』は、意図性はともかくとして、結川あさきにおける音響的自己分析の完成形として言い切っていい。それに呼応する決定打がキャスティングとして出てないところ。『かくりよの宿飯 弐』では竹千代を演じられておりますが、本人が「中性的」なところを目指したとラジオで言っている通り、そういう役回り自体はきている。だからこそ、こっから「代表作」とまではすぐにいかずとも、印象づける役を「東ゆう」「北条時行」の次枠で欲しいという話です。もし男系で迷ったらアイムの「結川あさき」。これはここ5年で試せば、先行者ほど有利になる。その動線を藤田音響、明田川音響で開花させた今なのだから使わない手はないでしょう。『勇者宇宙ソーグレーダー』にとどまるだけでは味気ない。自分はこの役者にその可能性をかなり賭けているので、余計にそう思うだけなのかもしれないですけど。

 

当ブログでは羊宮 妃那の登場回数が多いですが、同じくらい注目株、というのはここにしっかりと入れているところかもわかると思いますし、結局「劇伴・声・音」の四人(上田麗奈/若山詩音/羊宮妃那/結川あさき/安済千佳)はこの記事でも登場するのは、狙ってるわけではなく、自分の中の座標であり「点」の代表者たちだからなんです。だから今や結川あさきも座標といっていいですね。

sai96i.hateblo.jp

 

結局、声とは再現ではなく存在の証明だ。
結川あさきという声が「少年帯域」に宿っているという事実は、演技以前に音響的な宿命であり、構造的な必然である。この帯域をどう活かすか。それは演出でもキャスティングでもなく、声そのものに問われている。「声=音=構造」という原理があるかぎり、結川あさきの未来は、すでにその声の中に書き込まれている。少年役が映えるのではなく、「少年を生む声」がある。その先陣(先鋒)として、彼女の声はこの5年の音響史を変えるかもしれない。強めに言えば、というか帯域のポテンシャルという意味に限れば、高山みなみが80〜90年代に確立した帯域を、令和以降に再定義しうる存在として結川が現れたという見立ても可能であり、個人的にはそう願うばかりです。

【データベース】TYPE-MOON(型月)作品の音響・音声史

最近、音響=声優というフレームワークで記事を出しているなかで、タイトル、スタジオ事にある種の「座組」があることは周知の事実であり、であればこそスタジオ単位や長期シリーズの音声史ってあるだろう、ということを思い当たり、音響監督とその系譜において、現在定着している「声」というものがどのタイミングにおいて規定され今なお作品の主軸として機能しているか、という視点を歴史立てても良いのではないかという意味も込めて色々なアニメ作品/スタジオ系譜を「データベース」としてまとめ上げることも、言ってみればそれはそれで重要であると思いたち様々なまとめをしています。その中ではさほど可変なく、一定の声を保ち続けているTYPE-MOON作品をまず第一弾としてまとめてみました。基本的には主軸のタイトルとそれに係るサブのドラマCDメインでいれております。型月はメディアミックスの初手がドラマCDから始まっているものもあり、そういうところを拾ってみると実は、アニメの音響監督「だけ」ではないというもなかなか面白いです。どのタイミングでどの声優が「型月組」の入ったのかというのは作品もそうですが、なかなか面白いと思います。〜の音響・音声史というのは、汎用性があるため今後も固定して流用していく予定です。

本データベースは「職能としての音響監督」を比較軸としています。そのため、劇場版 『Fate/stay night [Heaven’s Feel]』 は制作総括による音響統括であり、厳密な職能定義に照らして主年表から意図的に除外しています。ただし当三部作が初出となる演者の記録は尊重し、声優のみ掲載します。基本奈須きのこがメイン、関わりが強い作品のみに定めており、派生作はのぞいてます。

あくまでもデータベースなので、資料としての活用をお薦めします。

TYPE-MOON作品の音響・録音史 リスト
2003年『真月譚 月姫』 音響監督:明田川仁

鈴村健一遠野志貴

生天目仁美アルクェイド

折笠富美子(シエル)

伊藤静遠野秋葉

植田佳奈琥珀

かかずゆみ翡翠

2006年 『Fate/stay nightDEEN)』 音響監督:辻谷耕史

杉山紀彰衛宮士郎

川澄綾子(セイバー)

植田佳奈遠坂凛

諏訪部順一(アーチャー)

下屋則子間桐桜

門脇舞以イリヤスフィール

浅川悠(ライダー)

神奈延年(ランサー)

田中敦子(キャスター/メディア)

三木眞一郎(アサシン/佐々木小次郎

西前忠久(バーサーカー

関智一ギルガメッシュ

中田譲治言峰綺礼

中多和宏葛木宗一郎

伊藤美紀藤村大河

真殿光昭柳洞一成

神谷浩史間桐慎二

小山力也衛宮切嗣

水沢史絵美綴綾子

野田順子衛宮士郎〈幼少〉)

葛城政典(後藤/騎士)

阪田佳代(女生徒A

芦澤亜希子(女生徒B)

山縣里美(女生徒C/店員/アナウンサー)

小林勝也(魔術師)

辻谷耕史遠坂時臣・回想ボイス)

桑島法子(モードレット・回想)

能登麻美子(ベディヴィエール・回想)

2007年『Fate/stay night [Réalta Nua]』 録音監督 榎本 覚(WAYUTA)

杉山紀彰衛宮士郎) 

川澄綾子(セイバー) 

植田佳奈遠坂凛) 

諏訪部順一(アーチャー) 

下屋則子間桐桜) 

浅川悠(ライダー)

門脇舞以イリヤスフィール) 

西前忠久(バーサーカー) 

中多和宏葛木宗一郎) 

田中敦子(キャスター) 

三木眞一郎(アサシン/佐々木小次郎) 

稲田徹(真アサシン)

中田譲治言峰綺礼) 

神奈延年(ランサー) 

津嘉山正種(間桐臓硯) 

伊藤美紀藤村大河) 

水沢史絵美綴綾子) 

神谷浩史間桐慎二) 

真殿光昭柳洞一成) 

結本ミチル蒔寺楓) 

中尾衣里三枝由紀香) 

中川里江(氷室鐘) 

宮川美保(リーズリット) 

寺田はるひ(セラ) 

小山力也衛宮切嗣) 

野田順子(士郎〈幼少期〉) 

田村ゆかり(ルヴィアゼリッタ)

2007年–2013年 『空の境界』劇場版 音響監督:岩浪美和

坂本真綾両儀式

鈴村健一黒桐幹也

本田貴子蒼崎橙子

藤村歩黒桐鮮花

中田譲治荒耶宗蓮

田中理恵(巫条霧絵/第一章「俯瞰風景」)

能登麻美子浅上藤乃/第三章「痛覚残留」)

東地宏樹(秋巳大輔/第五章「矛盾螺旋」)

水樹奈々黄路美沙夜/第六章「忘却録音」)

置鮎龍太郎玄霧皐月/第六章「忘却録音」)

井口裕香(瀬尾静音/第六章・『未来福音』)

石田彰(瓶倉光溜/『未来福音』)

2008年–2010年 『Sound Drama Fate/Zero』 音響監督:榎本 覚/音響制作:ブレイブハーツ

小山力也衛宮切嗣

川澄綾子(セイバー)

大原さやか(アイリスフィール・フォン・アインツベルン)

速水奨遠坂時臣

関智一(アーチャー/ギルガメッシュ

中田譲治言峰綺礼

山崎たくみ(ケイネス・エルメロイ・アーチボルト)

豊口めぐみ(ソラウ・ヌァザレ・ソフィアリ)

緑川光(ランサー/ディルムッド・オディナ)

浪川大輔ウェイバー・ベルベット

大塚明夫(ライダー/イスカンダル

石田彰(雨生龍之介)

鶴岡聡(キャスター/青髭

新垣樽助(間桐雁夜)

置鮎龍太郎バーサーカーランスロット

恒松あゆみ(久宇舞弥)

広瀬正志(言峰璃正)

伊藤葉純(遠坂葵)

津嘉山正種(間桐臓硯)

門脇舞以イリヤスフィール・フォン・アインツベルン)

植田佳奈遠坂凛

下屋則子間桐桜

阿部幸恵(アサシン)

川村拓央(アサシン(ザイード))

西川幾雄(グレン・マッケンジー

藤本譲(アハト翁/ユーブスタクハイト)

2010年『Fate/stay night - UNLIMITED BLADE WORKS』(DEEN) 音響監督:辻谷耕史

杉山紀彰衛宮士郎

川澄綾子(セイバー)

植田佳奈遠坂凛

諏訪部順一(アーチャー)

下屋則子間桐桜

門脇舞以イリヤスフィール

伊藤美紀藤村大河

神谷浩史間桐慎二

浅川悠(ライダー)

小山力也衛宮切嗣

田中敦子(キャスター)

中多和宏葛木宗一郎

西前忠久(バーサーカー

中田譲治言峰綺礼

三木眞一郎(アサシン/佐々木小次郎

神奈延年(ランサー)

関智一ギルガメッシュ

早見沙織(アナウンサー)

2011年–2012年 TV『Fate/Zero』 音響監督:岩浪美和

小山力也衛宮切嗣

川澄綾子(セイバー)

大原さやか(アイリスフィール)

速水奨遠坂時臣

関智一(アーチャー/ギルガメッシュ

中田譲治言峰綺礼

山崎たくみ(ケイネス・エルメロイ・アーチボルト)

豊口めぐみ(ソラウ・ヌァザレ・ソフィアリ)

緑川光(ランサー/ディルムッド・オディナ)

浪川大輔ウェイバー・ベルベット

大塚明夫(ライダー/イスカンダル

石田彰(雨生龍之介)

鶴岡聡(キャスター/青髭

新垣樽助(間桐雁夜)

置鮎龍太郎バーサーカーランスロット

恒松あゆみ(久宇舞弥)

門脇舞以イリヤスフィール

広瀬正志(言峰璃正)

伊藤葉純(遠坂葵)

津嘉山正種(間桐臓硯)

渡辺明乃(ナタリア・カミンスキー

阿部彬名(アサシン(百の貌のハサン)※分身ボイス)

川村拓央(アサシン(百の貌のハサン)※分身ボイス)

図師晃佑(アサシン(百の貌のハサン)※分身ボイス)

島﨑信長(アサシン(百の貌のハサン)※分身ボイス)

村上裕哉(アサシン(百の貌のハサン)※分身ボイス)

山本格(アサシン(百の貌のハサン)※分身ボイス)

野坂尚也(アサシン(百の貌のハサン)※分身ボイス)

佐々木義人(アサシン(百の貌のハサン)※分身ボイス)

桑畑裕輔(アサシン(百の貌のハサン)※分身ボイス)

野間田一勝(アサシン(百の貌のハサン)※分身ボイス)

松本忍(アサシン(百の貌のハサン)※分身ボイス)

西川幾雄(グレン・マッケンジー

藤本譲(アハト翁/ユーブスタクハイト)

楠見尚己(フィン・マックール)

中川里江(グラニア)

峰あつ子(マーサ)

大木民夫(大王)

瀬戸麻沙美(コトネ)

清水秀光(職員)

岡田栄美(TV音声)

菊本平(隊長)

武田幸史(副隊長)

大原桃子・冨樫かずみ五十嵐裕美・星野早・赤﨑千夏(子ども・男女ボイス)

2013年–2016年『Sound Drama Fate/EXTRA』 音響制作:榎本 覚/音響制作:ブレイブハーツ

阿部敦(岸波白野)

丹下桜(セイバー(ネロ・クラウディウス))

植田佳奈遠坂凛

神谷浩史間桐慎二

鳥海浩輔(アーチャー)

斎藤千和(キャスター/玉藻の前)

2013年『Fate/EXTRA CCC音響監督:榎本 覚/音響制作:ブレイブハーツ

下屋則子(BB) 

早見沙織(メルトリリス) 

小倉唯(パッションリップ) 

田中理恵(殺生院キアラ)

2014年『Fate/stay night [Unlimited Blade Works]』 (ufotable)音響監督:岩浪美和

杉山紀彰衛宮士郎

植田佳奈遠坂凛

川澄綾子(セイバー)

諏訪部順一(アーチャー)

門脇舞以イリヤスフィール

下屋則子間桐桜

神谷浩史間桐慎二

中田譲治言峰綺礼

関智一ギルガメッシュ

神奈延年(ランサー)

浅川悠(ライダー)

田中敦子(キャスター)

三木眞一郎(アサシン/佐々木小次郎

2015年-『Fate/Grand Order』音響制作:ブレイブハーツ

伊丸岡篤(ゴルドルフ・ムジーク)

坂本真綾レオナルド・ダ・ヴィンチ

鈴村健一(ロマニ・アーキマン)

高橋李依(マシュ・キリエライト)

米澤円(オルガマリー・アニムスフィア)

 

2016年 TVSP『Fate/Grand Order -First Order-』音響監督:高寺たけし

島﨑信長(藤丸立香)

高橋李依(マシュ・キリエライト)

米澤円(オルガマリー)

鈴村健一(ロマニ・アーキマン)

杉田智和(レフ・ライノール)

神奈延年(クー・フーリン)

諏訪部順一(エミヤ)

浅川悠(メドゥーサ)

川澄綾子(セイバー・オルタ/フォウ)

 

2017年 TVSP『Fate/Grand Order -MOONLIGHT/LOSTROOM-』音響監督:高寺たけし

島﨑信長(藤丸立香)

高橋李依(マシュ・キリエライト)

米澤円(オルガマリー)

鈴村健一(ロマニ・アーキマン)

杉田智和(レフ・ライノール)

2017–2020年 劇場版『Fate/stay night [Heaven’s Feel](I.presage flower/II.lost butterfly/III.spring song) (職能上の音響監督クレジットなし) 

稲田徹(真アサシン)

沢木郁也(キシュア・ゼルレッチ・シュバインオーグ)

上田燿司(遠坂永人)

立花慎之介(マキリ・ゾォルケン〈若い姿〉)

茅野愛衣(クラウディア・オルテンシア)

2018年『Fate/EXTRA Last Encore』音響監督:鶴岡陽太

阿部敦(岸波白野)

丹下桜(セイバー/ネロ)

植田佳奈遠坂凛

神谷浩史間桐慎二

下屋則子間桐桜

鳥海浩輔(アーチャー)

高乃麗(ライダー)

水島大宙(ガウェイン)

真田アサミラニVIII)

朴璐美(レオナルド・B・ハーウェイ)

羽多野渉(ユリウス・B・ハーウェイ)

東地宏樹(トワイス・H・ピースマン)

2021年 『月姫 -A piece of blue glass moon-』 音響監督:榎本 覚/音響制作:ブレイブハーツ

市ノ瀬加那翡翠

金本涼輔(遠野志貴

桑原由気琥珀

下地紫野遠野秋葉

長谷川育美(アルクェイド・ブリュンスタッド

本渡楓(シエル)

2019–2020年 TV『Fate/Grand Order -絶対魔獣戦線バビロニア-』音響監督:岩浪美和

島﨑信長(藤丸立香)

高橋李依(マシュ・キリエライト)

坂本真綾レオナルド・ダ・ヴィンチ

鈴村健一(ロマニ・アーキマン)

関智一ギルガメッシュ

小林ゆう(キングゥ/エルキドゥ)

櫻井孝宏(マーリン)

植田佳奈(イシュタル/エレシュキガル)

浅川悠(アナ/ゴルゴーン)

内山夕実(シドゥリ)

早見沙織(牛若丸)

稲田徹武蔵坊弁慶

三木眞一郎(レオニダス一世)

伊藤美紀ジャガーマン)

遠藤綾(ケツァル・コアトル)

2020-2021年 劇場版『Fate/Grand Order -神聖円卓領域キャメロット-』音響監督:明田川仁

宮野真守(ベディヴィエール)

島﨑信長(藤丸立香)

高橋李依(マシュ・キリエライト)

坂本真綾レオナルド・ダ・ヴィンチ

川澄綾子獅子王

水島大宙(ガウェイン)

沢城みゆき(モードレッド)

置鮎龍太郎ランスロット

内山昂輝(トリスタン)

安元洋貴(アグラヴェイン)

子安武人(オジマンディアス)

田中美海(ニトクリス)

小松未可子玄奘三蔵

鶴岡聡(アーラシュ)

稲田徹(呪腕のハサン)

千本木彩花(静謐のハサン)

鈴村健一(ロマニ・アーキマン)

2021年 劇場アニメ『Fate/Grand Order -終局特異点 冠位時間神殿ソロモン-』音響監督:岩浪美和

島﨑信長(藤丸立香)

高橋李依(マシュ・キリエライト)

川澄綾子(フォウ)

鈴村健一(ロマニ・アーキマン)

坂本真綾レオナルド・ダ・ヴィンチ

杉田智和(ソロモン)

2021年『MELTY BLOOD: TYPE LUMINA』Voice Director:榎本覚

金本涼輔(遠野志貴

長谷川育美(アルクェイド

下地紫野遠野秋葉

本渡楓(シエル)

市ノ瀬加那翡翠

桑原由気琥珀

2022年 『魔法使いの夜』ボイス版 Voice Director:榎本 覚

小林裕介(静希草十郎)

戸松遥蒼崎青子

花澤香菜久遠寺有珠)

青木瑠璃子蒼崎橙子

種﨑敦美(ルゥ=ベオウルフ)

安済知佳(久万梨金鹿)

梶川翔平(木乃実芳助)

深町寿成(槻司鳶丸)

 

 

 

 

【アーカイブ】『傷物語〈こよみヴァンプ〉』トークイベント

『レゼ篇』の音響話の地続きで本当に申し訳ないのだが、やっぱり真面目に名倉音響を語るうえで、直系の師である鶴岡陽太の仕事線は避けて通れない。

前回は『聲の形』において山田尚子×鶴岡陽太が「is版」を円盤収録へと後押しした経緯を手がかりに、その思想性、つまり牛尾の自我音響というものを確認しました。

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今回は射程を『傷物語こよみヴァンプ〉』へ移し、鶴岡が同作でどのような音響設計に勤しんだのかを、尾石達也×小黒祐一郎トークの発言にあったことを思い出したのでこちらも、急遽アーカイブとして残すことにしました。

同時に、総集編には不参加ながら三部作本編で録音を担った名倉靖の仕事を照応として捉え、名倉音響を考える際の資料としても、活用できるかなと。作品論として面白いイベントでしたし。

こちらも逐語よりではあるが、前回同様、進行形でとるメモというのは本当に乱雑にしかなりません。それが軸なので、文章が変なところもがあります。その点はご了承ください。ただ、文章をまとめたのはイベントが終わってすぐだったので、今回のために記憶を巡らせたというわけではないので、そういう意味では熱気はそのままに近いです。


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作品としての総合的な完成度やインパクトでいえば、正直言えば、山田尚子の『聲の形』や尾石達也の『傷物語』という怪物級には敵わない。

ただし音響アニメという観点に絞れば、『レゼ篇』は明らかにその継承線上に位置づけられる。良し悪しの比較ではなく、設計思想の系譜として。

「聲=保存」「傷=逸脱」「レゼ=架橋」がある感じとでも言いますか。名倉靖が録音で正反対ともいうべき二作品を経験している事実も含めて、最新作が単独で浮かぶんじゃなく、系譜と照応しながら位置づけられるはずであると。


<本編>

小黒: いつか「アニメスタイル」で開催しようと思っていた。新文芸坐の画角でないと映えない映像スタイルな作品でもある。

 

尾石: 小黒さんとの対談が感慨深い。『ぱにぽにだっしゅ』〜『絶望』に至るまで世話になってた。

 

小黒: アニスタで6回ほど取材したが、こういう形で話すのは今回が初。諸般の事情により「新千歳空港国際アニメーション映画祭」に先を越された。

 

尾石: 会った時には既に有名人だった。その上でかなりイけている時代の作品を評価・支持されたことが嬉しかった。

 

小黒: 記事にはならなかったけどね。

 

小黒: 『絶望先生』の時に脚本を描く時に原作者が顔通しする時があった。その時に「人としての軸がぶれている」の映像だけは完成しており、尾石さんも顔合わせをする時だった。すごく「目がいっちゃってる人が、達成感のある顔をしている」姿をみて。大変なことをしているなぁと。

 

小黒: 何らかの時にあった時に『傷物語』の三部作の絵コンテが上がってきた。「一本の絵コンテでこんな時間かかってしまってどうするの?」って聞いた時に「僕はこんかいのこれで映画というものがわかりました。だから次はすぐ描きます」ってことをこの前伝えたら、、

 

尾石: 大馬鹿野郎ですよね。結局今悩んでいるわけだから。でもその時は達成した気持ちだった。

 

小黒: 俺は映画の秘密を掴んだ!!って感じでしたよ。

 

尾石: 本当、その時に戻って聴きたいですよね

 

小黒: お前が掴んだのなんだったんだってw。これからやる絵コンテが3時間の絵コンテになるから、それに比類する長尺な映画を見るっていってましたよね 『涼宮ハルヒの消失』見ましたとか。

 

尾石: いっていましたね。だからやる前に研究するんですよね。まずは『吸血鬼 ノスフェラトゥ』(1922年)から見て、あの当時は『ぼくのエリ 200歳の少女』(2008年)くらいまで一通りみました。そこから考えていった。

 

尾石: 最近忘れが激しい。『傷』で羽川が両手を広げながらバタバタと風にあおられるシーンがあるがあれはフェリーニの『8 1/2』のマルチェロ・マストロヤンニが空を飛んでてバタバタっと煽られるカットにしたく、昔の印象として残っていた。あのシーンは佐藤浩一さんが描いてくれた画、打ち合わせの時にビデオをもっていってみせて「こういうふうにして」と頼んだら全然異なっていて、最終的にいいようにお願いしますという形に落ち着いた。

 

小黒: 元々2時間でまとまる脚本があがっていてそれが絵コンテで3時間オーバーという話じゃないの?

 

尾石: 違います。最初シナリオは4時間あった。『化』をボロボロになってやっている時に『傷』のシナリオ会議が行われていたらしいという情報があった(知らされてなかったが)そして終わったら「これをやりなさい」と言われた。 その時には映画であることは決まっており、シナリオも極力原作網羅をする形で、ページ数的に「これ4時間超えると思うんですけど?」って新房さんに聞いたら「じゃあ4時間の映画つくればいいじゃん」と言われた。 それで「これはちょっとまずいな」と思い自分でシナリオを再編集という作業にはいった。 だから決してコンテで長くなったわけではなく、シナリオ段階で長かった。

 

小黒: 脚本のまとめ直し→コンテ描きで結果的にコンテで時間がかかった。

 

尾石: そうですね。だから待っていただいた方には申し訳ないと思っている。ただ、やはり『化』をずっとやっていたものですから

 

小黒: 配信組はオンエア時の空気を知らないと思うが、ちょっと違って緊張感がありました。配信日1日延長しますとか

 

尾石: 自分が入った段階で『化』は時間がなかった。ただ、「やるんだったら全部自分の美意識でまとめる」と それまでは作品の余裕を考える余地があった。『化』はそのくらい大変だった。 例えば『化』ではお札に「赤瀬川」とあった。それって赤瀬川原平っていう現代芸術家がいて「偽千円札裁判」というものがありそのオマージュで描いているのだけど、それもだから思いつきでオペレーターに言っているわけだから描いている側はよくわかってない。美内が終わった後に「ちょっと美内とは違うんですけど、りんたろうの作品みたいな黄色い空みたいにしてください。」みたいな感じで思いついたことをひたすらやっていく。 戦場ヶ原に思い入れてしまい、デート回の服装などはファッション誌などを参考に、バッグは黄色いバッグであったりと、こうでああでというかたちで考えて作っていった。こういった『化』でボロボロになった後の『傷』だったので辛かった。しかし惚れた弱みっていうかさ、、ほら『機動戦士ガンダム』でアムロが命令違反で独房に入れられる時に(第19話 「ランバ・ラル特攻!」)「僕が一番ガンダムを動かせるのに!!」という気持ちで「僕が一番『傷物語』を動かせるのに!!」という気持ちに。

 

小黒: 整理すると、時間もない中やった『化』が終わった後、次は1から構築したいという思いで『傷』になるわけですね?

 

尾石: そうですね。『化』とは違うスタイルを目指しました。同じことをしたくないし(演出映像スタイル含めて)。 その時自分がイけている映像を作りたいと思っていた。その時一番自分がいいと思うイメージを元に作っていった。よく学習塾の形が違うとか暦の家が違うと、色々と言われていますが、自分の中では「『銀河鉄道999』における星野鉄郎の顔が違う!!」とか、「『ガンダム』のGアーマーコアブースターになっている!!」みたいなものが劇場版だから、そういう感覚で作っていった。

 

小黒: 背景がフォトリアルなのは?

 

尾石: エスカレーターのイメージがあった。その金属感を出したかった。そしてそれは手描きではない。 水、金属を素材として出したくてCGになりました。

 

小黒: 要するに『傷』のアヴァンギャルド感は「ほぼ実写」な世界に手描きのキャラクターがいることで生じる不思議な感覚がそれに繋がっていると思う。ガチガチなリアルにしたかったわけではない??

 

尾石: 自分の美意識の中ではそれはおかしくないこと。TVシリーズを作ってる時だって写真を貼っていたりしていた。アニメでは少ないかも知れないが、古典というか、技法としては確立されていたわけですよ。 割と子供の時から(小黒から『モンティパイソン』があがりそれも頷きながら)『トムとジェリー』がすごく好きでみていたら間にテックス・アヴェリー(カートゥーン黄金期のアニメーター)が実写と合成を当たり前に挟んでいて、幼少からそれがおかしいものとは思わなかった。一方でシャフト演出時代はそもそも時間がなかった。 『月詠』のとき、カッティングを行うのが三日後といったスケジュールで、三週間でオンエアというスケジュール 海外で動画を待つしかない。しかし中1日であがる動画って色々と絵が溶けている。生理的に許せない。であればそこは写真をはったほうがいい。『傷』をやっているときは「『恐竜大戦争アイゼンボーグ』みたいなのでいいんですよ」っていってました。あれは実写の中にアニメキャラが出てくるんです。それにしたかった。潔いし

小黒: 実写フォトリアルにセル画キャラがいることで現実を剥き出しにしてみたいというのはあるんじゃない?

 

尾石: どうなんだろう。そっちの方が面白いとおもった。もっとキャラクターを手描きにした方がいいと思った。

 

小黒: キャラもシリーズよりもリアルだしね。

 

尾石: それは守岡さん(作画監督)などの影響がありますね。そうして欲しいといったようも気もしますが。 アニメにはキャラクター表がありますが、それをみながら描かないでくれとはいったかも。どっちかっていうと絵コンテに近い感じで描いてくれという感じ。

 

小黒: アヴァンギャルドにしたいという思いはなかった?それは結果?

 

尾石: どうなんですかね。小黒さんは自分のことを「アヴァンギャルドな作家」として評価してくださっていますが、どうなんでしょう、、尖ったものを作りたい、見た人に驚いて欲しいというような思いがある。 作家には2タイプいると思っていて、自己優先型と観客に喜ばれたい型。自分は後者であり、シャフト演出時代にすケージュル時間がないなかで生み出した技法もあいまった結果。『ひだまりスケッチ』をやっていたときの話で、まず『ねぎま』のオープニングと第5話の絵コンテ・演出が終わったとき、元々作品が多数いて出席番号と名前全部を覚えた瞬間に新房さんとシャフトの社長に「今日から君は『ひだまりスケッチ』をやりなさい」と言われて、それが11月で、オンエアを聞いたら1月。その段階で美術設定がなく、、、だが当時はイケイケの時だったから、時間がないことを逆手にとって、「じゃあ全部自分よりに染めてやろう」という気概になった。美術設定が終わって2話の絵コンテが12月の頭で1月オンエア、コンテがあがり12月31日。除夜のかねを聴きながら打ち合わせなどをして二週間で作るという。逆手にとるという段階をとっているので全部止め絵、その代わり500カット内200カットを守岡くんに描いて貰えば何となるみたいな。そこで色々と試していく。 トイレの止め絵→黄色色コマ→音を流す→ということで、描写表現をするなど、色々と時間のなさを活用していました。そういった部分が「アヴァンギャルド」という評価に繋がっているのかなぁと。

 

小黒: 時間がない中で写真を使うということ自体に驚いて欲しいという思いはあるわけでしょ?

 

尾石: もちろん。実写とアニメは似ているようで方法論が違う。実写で「すごいロングのキャラがいる」→次のカットでクロースアップすると「どき!!」なるがあの感覚がアニメは決定的にだせない。 羽川が骸骨でトンと出る描写があるがあれはアニメ絵で描いてもその驚きは出ない感覚。だから実写にしている。

 

小黒: 日本の国旗などもセルではダメなんですね。

 

尾石: 無機物は手描きにしたくない。セル画は有機物という描き方という感覚。 昔のアニメって本とかがそうだけど、手書きで書いてあったりして自分としては気持ちが悪くって、間の装丁でっていうことがしたい。 全然関係ないですけど『となりのトトロ』で金田パートあるじゃないですか。コマで飛ぶシーンで、お父さんが仕事しているじゃないですか。その本棚に「著者 金田伊功」ってあって、びっくりしてそれをよく宮崎さんが許したなと。

 

小黒: それでこのパート全部金田さんってわかるわけですね。

 

尾石: そうそう、金田さんもよく自分の名前書いたなって思いますけど

小黒: ストレスたまってたんじゃない?生前に伺っただけどジブリの仕事は己を殺さないといけないから辛いといっていた。 話変わりますが、丹下健三さんの建築美術はどの段階で?

 

尾石: 絵コンテ入る前ですね。

 

小黒: そもそも順番として震災があったときは絵コンテに入る前?

 

尾石: 脚本をいじってた。

 

小黒: これまでインタビューで日本をテーマにした。生きづらい世界だけど、その中でどのように生きるかという思いがあってからの丹下美術なのか?もともとなのか?

 

尾石: 時系列っていうよりか、、自分は理論よりイメージがくる。絵コンテ描く前からエスカレーター見えてたし、最終盤シーンでああいった舞台でバトルをすることも決めていた。序盤のころに学習塾を巨木が回転するカットが浮かんだ。これは他でも言っていると思うが、それが『傷』のとっかかりになるのではないか?震災とは別にそもそもイメージで使えるものを美設の武内さんと色々と探していた。メインイメージが『未来少年コナン』の三角塔に木が生えている感じで、ある日山梨文化会館に向かってみたら、ガイドさんから「これ、『未来少年コナン』の三角塔のモデル担った建物なんです」っていわれた瞬間に必然に変わったような気がして、要するに『化』はモダン(コルビュジエとか)、今回は「日本縛り」にしよう→だから同じように『化』でヌーヴェルヴァーグのイメージだったから今回は「じゃあヌーヴェルヴァーグの影響下にあった60年代の邦画にフォーカスしようと。

 

小黒: タイトル知りたい

 

尾石: それこそ吉田喜重とか

 

小黒: 『エロス+虐殺』(1969年)

 

尾石: そうそう、、とかね、、『煉獄エロイカ』(1970年)とかさそのあたりのイメージです。だから日本縛りがあっての丹下引用という形。

 

小黒: そのあたりで順番はわからないが震災と日本縛りということと、6、70年代という景気が良かった日本だったりと、色々と合わせて「日本テーマでまとまる」とどっかで思いついたわけね

 

尾石: そうですね。『傷』に入るときにどうしても阿良々木暦の気持ちが掴めなかった。まず逃げればいいのに助けて、殺してくれって頼んでるのに、添い遂げるじゃないけど助けてしまう。その気持ちがわからなかった。 ただ、そんなときに3.11があり、福一が爆発して大変になり、活気があるころの小名浜もしっていたため、『傷』は価値観が逆転する話だと思った。そのときに不謹慎かもしれないが阿良々木暦の心境が理解できた気がします。

小黒: 何度か見ておもったが、「人間はいつ吸血鬼に晒されるかわからないという手段をとったという道を選んだ」これはメタファーとして原発との共生を重ね合わせているの?

 

尾石: うーん、キスショット自体が原発のような、こんなことになるとはっていう感じ、いわゆる制御不能な怪物というのが原発と重なることがあった。

 

小黒: そういうこともあって日の丸を引用することで「これは日本の映画です」と。だからキービジュアルでもそうすると

 

尾石: そんな感じですね。だいぶ忘れてしまいましたけどね。

 

小黒: この映画のいけているところは、いきなり赤ん坊の声が入るとか色々あるが、それも意味があると思っているがどうなんですか?

 

尾石: 全部に理由はないが、嫌なことはいれない。好きなことでまとめるという意識でやっている。ドラマツルギー戦で「野球のカットの音」が入るが、あれは『巨人の星』のオープニングのイントロ。しかしダイビングの時に田中さん(音響効果)は音のプロだからそのわけがわからなさに嫌がられて、音響監督の鶴岡さんもあんまりも揉めているから外で話してきてっと言われて話したけど「やりたいんです、、」しか言えなかった。結構そう言った衝動はある。 理屈よりもインスピレーション。迷ったらインスピレーション。 『こよみヴァンプ』では落としたが、羽川がトマトのサンドウィッチを作ってくると。あの件は西尾さんの原作にはない。(『あしたのジョー2』で林 紀子がサンドウィッチを作る描写意識) 吸血鬼でトマト繋がり、「吸血鬼は人間を捕食、人間も何かを捕食」という描写となれば、あれしかないと思った。 エピソード戦の「ははははは」も黄金バットのオリジナルの音を使いたいわけだが、、できないから入野さんに再現をしてもらった。あのカットも過去にみた怪奇映画の引き出しです。なにかはわからないけど。

 

小黒: 羽川のシーン(体育館のくだり)については?

 

尾石: 三部作を見てもらえれば。

 

小黒: 元々、尾石さんの中ではあのシーンは違和感があったんだよね?

 

尾石: 原作を読んで、なぜここでそういうふうになるのかがわからない。悩みどころだったけど しかしそこを無くすと、客はがっかりすると思ったわけです。行動原理として繋がらない。だから自分を納得させるために、『傷』はテレビ版とは異なっている。そこで分け目を描き方を変えることで納得させた。やるなら徹底的に。堀江さんには申し訳ないんですどね、、清純派のイメージがあったので。コンテ描いている時も演じてもらえるのだろうかという思いはあった。が中途半端にはいかない。だから『こよみヴァンプ』は『化』でひたぎにフォーカスしたこともあって、12話以降は羽川に意識して描いていった。 『傷』だとキスショットがメインになるわけだが、今度は坂本さんに申し訳なくなって、命乞いのシーンのお願いをしたら「やりたくない!!」といわれて、、ただそれはその時にしかでいない芝居をなさっているからで、、、 しかし都合上もう一回という形をとった。 音と動きが合わせている以上、全部切ると全部作り直しになるから切れるところと、そうでないところが明白。 再アフレコも編集したところだえ。

小黒: 今後はこういうスタイルになるか、違ってくるのか

 

尾石: 作品は作る時に気負って作る(大傑作をつくる)。一つあるのは『傷』の先をいきたい。2025年で一番いけている作品を作りたい。

 

小黒: スタイルは変わるかもしれないが、、、

尾石: とてつもなく時間はかかるかもしれないが、、自分でいっていきたいのは『傷』が恵まれていたのはスタッフ 絵コンテは孤独だが、実制作側の仕方記憶しかなく、それは関わってくれたスタッフが自分と同じ熱意で取り掛かってくれたから。だからこのフィルムがすごいというのはスタッフのおかげ。故にアニメは一人では作れない。 そういう縁を大事にしていきたいですね。作らせもらえるのであれば。

小黒: じゃあ、もう手直しをしたいシーンはないですね?

尾石: 『傷物語』はやりきりました。

 


 

<おわりに>

結局のところ、『聲の形』の〈is(inner silence)〉にせよ『傷物語』にせよ、鶴岡陽太は音の決定が交差する節点として機能している。『聲の形』では〈is〉を5.1ch特典として残す判断を後押しし、劇伴/環境音/無音の配列そのものを作品装置へと引き上げた。

一方『傷物語』では、実写的SFX(=SE)や引用SEをめぐる演出×効果の綱引きにおいて、極端な音を最終的に通す調停役かつ保証人として立つ。無機物を手描きにしない画作りが質感の断層で衝撃を立ち上げるなら、音はその衝撃を可聴化している。

実際、野球の打球音や黄金バットの笑声といった「異物」は映画的リズムとして定着しており、そこには「音を意味ではなく運動として通す」鶴岡の現場判断の連続性がある。

 

音主導としての『聲の形』is版 →鶴岡(音響)←映像主導の『傷物語

音主導の『聲の形』is版と映像主導の『傷物語』いずれのプロセスでも、最終的に音で画面の見え方を組み替え、映画の運動へ束ねたのは音響監督・鶴岡陽太である。

そのうえで、両作に録音として関わった名倉靖の存在は、性質の異なる二作品を架橋する意味でも、実務の精度としても特筆に値する。やはり冒頭にも書いたが、設計思想の系譜として「聲=保存」「傷=逸脱」「レゼ=架橋」と筋道を建てられるからだ。聲、傷それぞれの要素が『チェンソーマン レゼ篇』で名倉が音響監督として何を目指したのかを考える際、本稿の整理は有効な手がかりになるはずだ。2025年9月時点では詳細は未詳だが、いずれ公式の音響面の発信がなされたとき、その読み解きに資する下敷きとして機能すれば幸いです。

【アーカイブ】『聲の形』「inner silence」上映会 トークイベント

本記事は、拙稿「劇場版『チェンソーマン レゼ篇』に見るアニメ作品における音響監督の重要性」の補助線として公開する資料篇です。

sai96i.hateblo.jp

2016年公開『聲の形』のBlu-ray特典音源「inner silence(以下、is)」をSAION仕様の音響環境で鳴らしたイベントにおける、中村伸一(当時音楽P)×牛尾憲輔(作曲)のトークを、検証可能性を優先してメモを頼りに、極力逐語寄りで記録したものです。

 


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イベント自体は少し前のものです。一部知り合いには全文を寄与していていたのですが、そもそも需要性の問題で当初Music Synopsisで出すかどうかも含めかなり迷っていたが、『レゼ篇』の音響監督における差分に至るサブテキストとして有効と判断し公開します。

本稿自体は評価や解釈を極力排し、一次情報の提示に徹します。方法論に関する私見・仮説(単位系と制作体制のミスマッチ)は本編に集約しています。


<本編>

中村
聲の形の公開が2016年 その翌年のBlu-rayの音声特典に収録されているのがinner silenceの初出。改めて時間がたって、坂本龍一のSAION音響でinner silenceが流れるというのはどうなんでしょうか?

牛尾
実は僕がやりたいといって開催させてもらった。こんなの(inner silence)ないじゃないですか?みたことも聞いたこともないじゃないですか
それを、おそらく日本一の音響で流せるというのは、素晴らしい体験になるだろうなと思いまして、イベント前の音響チェックをしたけど、とにかく凄い。
冒頭とか、スクリーンの奥に巨大なピアノのハンマーが動いているような。そのくらい素晴らしい音響体験になると思います。

中村
Inner silenceの話になる前に、牛尾さんにとって『聲の形』とは?

牛尾
最初にやった映画音楽作品。同時に、山田尚子監督と一緒に二人三脚で作って行ったが、商業映画で、大きな配給があってという作品にもかかわらず、すごくコンセプティヴでアーティスティックに作らせてもらえた。
これがあってののちの自分の10年だった。この作品で自分のやり方を見つけることができた。

中村
今、それから10年経って、ずっと山田監督とお仕事をされているわけですが、結局やっぱり『聲の形』がベースになっていますよね?

牛尾
そうですね。これが一つの単位系。その単位の前にある数字は変わるけど、やり方は一つこれが確立している。そしてこの単位自体も更新はされるけど基準になっているというのはその通り。

中村
あの時にこのような作り方をするというのは珍しいと思うのですが、どういった経緯で?

牛尾
逆に、初めてだったので、山田さん自体も『けいおん!』『たまこラブストーリー』をやってという時代。そしてシリーズに結びつかないという作品という意味では初めての作品であったため、お互いが無我夢中だった。
メタ的なことを狙ったのではなく、クリエイティヴの果てにこうなっている。大きな規模で公開される作品で、中村さんが僕のマネジメント会社に声をかけた時「2016年最大の話題作です」といってくれた。
それくらいの大きな期待を持った作品で、アーティストに根差した作り方をさせてくれたので、それがいいきっかけだった。初期衝動にあふれていた。作りたいから作っているというべきか。
やり方は稚拙かもしれないが、「これが作りたい」というのが自分と山田監督にはあった作品だったので。
いわゆる一般的な作り方としてメニュー表での指示表が一切なかった。例外的な「ゲーム音楽」などにおけるシーンの付け加えはあったが、基本的にはない。
山田監督が絵コンテ、自分が音楽、で色々作っていく間で五十〜八十曲になった。そしてそこにオーダーはない。書きたい曲を書いていた。
山田コンテと牛尾音楽が先にあった。自分は劇伴出身ではない。ソロの方向性でいけたのは珍しい。

中村
山田さんにとっても、音楽家と音楽スタジオで詰めて作るというのは初めてだったと思う。

牛尾
中村さんも、数多の作品を手掛けているが、こういった作り方は?

中村
一切ない。お二人のおオリジナルな作り方。

牛尾
楽家ってアニメの制作から映画に至るまで結構とざま。オーダー表があって作って納品するだけ。そういうのがなかったのもよかった。

中村
最初の一作としても密接な作り方をしたと。isというものが出てきた経緯、
まずはisについて

牛尾
isっていうのは効果音、セリフが一切ないもの。なので、始めてみるとストーリー分からないもしれないという意味ではハードコア。
じゃあ何がどういう、っていう感じって話になるんだけど、さっき言った、コンセプティヴで作った時の話で、パイロット音源を作っていた。
その時にバッハ《インヴェンション第1番 ハ長調 BWV 772》(以下、インヴェンション1番)に紐づいていたので、これを二時間分に解体して再構築して引き伸ばしたりして音響合成で1番をつくり、二時間分の音源をつくった。
そして「こうしたい」プレゼンをした。音響の鶴岡さんや山田監督も気に入ってくれてはいた。しかし流石に二時間ドローンなりっぱなしはないだろうということでなしになった。
流石にもう少しポップにしようという形でできたのが今公開している『聲の形』。そして円盤を出す時に自分はそんなつもりはなかったが、鶴岡さんや山田監督が「あのパイロット版はだすべきだ」と推していただけた。
そこまでやっていいのかなぁと思っていたら、まさかの収録という形になった。しかも5.1chのリニアPCM(音声をデジタル化する方式の一つで、圧縮せずに元の音声をそのまま記録する方式)では収録されている。ディスク容量をたくさん使うため、あれで使ったことで入らなかったものは結構あると思う笑。普通はMP3とかだから。だからis自体は、『聲の形』の剥き出しの部分と僕は捉えていますね。

中村
今日はちょっと珍しいものを見させてもらえると。

牛尾
今日来る人たちは猛者だと思うので。そんな珍しいものではないですけどね。ちょっとこれ見てみてください
これがInner silenceです(実物のプロジェクトファイル提示)

ちょっとオリジナルのisのコンセプトですが、バッハの「インヴェンション1番」を軸にしている。そしてこの曲は時間方向に3の展開に分けられる。アナリズムといいます。
この映画自体も3分割して、「インヴェンション1番」の音だけを使う曲がありました。それもサントラにinvで入っています。

inv(I.i)

inv(I.i)

  • provided courtesy of iTunes

実はisも三部構造になっています。pt1,pt2,pt3これがそれぞれ三部構成を表しています。これはプロダクションのレンダリングでまとまってしまっているんですけど、ノイズとしてピアノの音を貼っていたりしています。赤いところ緑のところ、青のところは絵に合わせてどういうことかっというのを作っています。絵をみて演奏して再構築して、と言った感じです。

 

ラスト、一番最後、文化祭に入るシーンですね。「インヴェンション1番」自体は主人公が校門に入るところで終わらせないといけない。だから、その後はライトバリーションがなっています。というのがこのisの全体像。おおよそ3500小節ですね。これを今日、面白かなと思って持ってきました。昔新千歳でライブでやったけど終わった後死ぬかと思いました。

 

中村
ちなみにis自体がドローンということで、他の作品の中ではきけない音楽かなと思いますけど作曲論としてはどういった?

牛尾
ドローンというのは通奏低音とは違うけど、ずっと持続音が続くことを指します。自分の楽しみで作っていたものとか、アーティストとしての音楽性にあることはあったけど、二時間というのはない。


実はこうしたドローンアンビエントなものは、今でこそ猫も杓子もやっていますけれど、あの時代には、メディアに縛られていたから、長くても八十分だった。その構造自体は新鮮でした。でも映画がそれを求めるなら必ず作らないといけない。

中村
メディアという部分で、時代によって出来ことが変わるわけですが、環境かわってどうなんでしょうか?

牛尾
でも、結構人っていう意味ではアンビエントとドローンというオーダーを受けることもある。その意味ではハードコアすぎるというの時代でもない。

中村
当時としては画期的だったと思います。個人史的にも。

牛尾
おっしゃる通りです。この規模の映画でできたことが得難いし、アンビエントというかドローンみたいなものが示唆するものって、前走的、目眩的。つまり瞑想的なもの。
でも『聲の形』はそうではない。明確に物語に紐づいている。

これが「誰」の「何の」ことなのかを意味している。お話に連動したドローンというのはものすごくレアケース。京アニの作画で感じるという意味では余計に。

中村
今日これからみる観客の見どころについて

牛尾
普段、ご覧になるアニメというのは効果音もセリフも全部あると思います。それに比べてはとても低刺激です。爆発音もないし、喋っている人から声がないからアテンションもいかない。

だからそれ話者以外のことに注意を向けることができます。だから第一にはめちゃくちゃ「作画」をみることです。あの、京アニが細かいことを描いているということがよくわかります。山田監督が、なぜこの世界で雲を絵が描かなかったのか?というのはヒントの一つではあるけど、全部なっていると気づけなかったりする。じゃあ硝子の涙は何色なんだろうとか、そういうものを見るという意味ではisはいい状態です。

 

二つ目は寝てしまうですね。いうて、映画一作なので、二時間九分、素晴らしい音響でこの空間、この座席で爆音でドローンを聞くなんてないと思うんです笑。僕もね、最初作っている時に、寝ちゃったりするんです。すごく気持ちいいので。それはそれでいい音響体験だと思います。

 

三つ目は、こっから129分を人生で一番考える時間にしてください。効果音もセリフもない。アニメという人が手を使って使うメディアにドローンがなるということはどういうことなのか?声が音が聞こえない女の子が出てくる作品に効果音も声もない。ドローンのみがなるってどういうことなんだろっていうのを思考する人生最大の129分にしてくれればいいと思います。『複製技術時代の芸術』という、ベンヤミンの名著がありますけれども、今、こうオーラと映画みたいなのあるじゃないですか?果たしてこれにオーラはないのでしょうか?ちょっと考えてみてください。

僕も答えはわからないですけど。ただ、これはすごく疲れるのでおすすめですけど頑張ってください。途中で寝てもいいと思います。

 

おわりに

セリフと効果音を徹底的に退け、バッハ《インヴェンション第1番》を約3,500小節規模に解体・再構築した inner silence は、いわゆるアート映画やカルト映画の様式に寄りかからず、純映像と音響の結合そのものをBlu-ray特典という器で、しかも5.1chというフォーマットで実現した点に決定的な意味がある。これを後押ししたのが音響監督・鶴岡陽太と監督・山田尚子であった事実をふまえるなら、自分の主張にあたる「鶴岡/名倉/山田尚子+牛尾」の黄金比は、少なくとも〈山田作品〉においては牛尾が必要条件に近く、むしろ完成された言語に近接しているというのは一段と補強される。

 

牛尾憲輔の言葉を借りれば「正解はない」。ただ、is が実在し成立してしまったこと、そして音が自我として前景化する牛尾の作曲言語の在り方を確かめたうえで、『チェンソーマン』における「最適」を語るべきである。inner silence 版『聲の形』という生の参照点を経由して各自の判断を更新する。本稿と資料篇は、そのための補助線である。

 

is収録版ー『聲の形Blu-ray

 

 

こぼれ話

因みに、完全にドジを踏んだ身として二次災害を防ぐため記載しますが、Blu-rayの特典で本編の音、台詞なしのinner silence版は収録されています。問題はそのis版の劇伴についてですが、これは「きゃにめ」を通して買うと特典として付属します。この話はこのイベントの最後に販促として謳われたものですが、会話の流れで、きゃにめ→ポニーキャニオンという文節を誤って誤読したけっか、「きゃにめ」はポニーキャニオンが直営している公式通販サイトで、ここ経由で買った人にだけ付く「きゃにめ限定特典(=inner silenceのCD2枚組)」が設定されています。なので、間違っても一般の流通でポニーキャニオン版を買っても、その特典CDは付きません。

 

Blu-rayディスクに収録されている音声トラック版の「inner silence」はどこで買っても入ってますが、外付けのCDセットが欲しいなら「きゃにめ」で注文するしかないという仕組みという二枚舌みたいな売り方なので決してドジを踏まないように。

というか別に自分が悪いというよりも伝達の仕方が悪いだけ。

普通に「きゃにめ」で買えばついてきます→あれ、「きゃにめ」ってポニーキャニオンでしたっけ?→ポニキャニだね、、って言われたら脳内の論理図式的には

(A=きゃにめ、A⊂C=ポニーキャニオン → 誤って「Cでも特典が付く」と一般化)

ってなるじゃないですか。こういうのを包含の誤投影っていうんです。

論理って難しい。

一般流通版のポニーキャニオンで買った私 vs 「きゃにめ」で買った友人。イベントの販促トークで耳に入った「ポニーキャニオン」の一語に安心して議論が迷子になり、正解は後者(きゃにめ限定)だと判明。悲しいです。

この記事を書きながら「きゃにめ=ポニーキャニオン直営」だと理解し、すべてを悟って三枚目の円盤を「きゃにめ」で無事購入

無事「きゃにめ」で再度『聲の形』の円盤を購入しました。これで3枚目です。

木漏れ日の一つでも欲しいものです。

canime.jp

映画『聲の形』Blu-ray 初回限定版 | きゃにめ

一石二鳥で手に入れたい人がここから購入してください。

 

劇場版『チェンソーマン レゼ篇』に見るアニメ作品における音響監督の重要性─名倉靖音響が持つ系譜

かなり真面目に思うんだけど、『チェンソーマン』の音響がなかなかしっくりこない。それなりにはアニメ作品はみてる中で、こんなにも耳の居心地が歪なのはかなり稀。
つい先日、原作未読の状態で総集編を見たという最中。これが「初めまして」である。
巧拙の類というよりも、キャラと役者が両立していないorアタックが弱いという声/音響の力学的な話である。平たくいえば天秤において均一であるところがどちらかに偏り「すぎている」という話。これが結論。そう感じた理由をこの記事で述べていきたい。

初めましての方は先にこちらを読んでおくと色々話早いです。

sai96i.hateblo.jp

 

いわゆる近年における三大ジャンプ作品にあたる某鬼のアニメ、『呪術廻戦』『チェンソーマン』の中では一番若手起用を積極的に採用しているタイプで、それすなわち大御所に頼らない演技で決めると言う意味では心意気は買うし、ある側面においてはわかる。
 
でもそれはビッグタイトル/巨大IP作品の主軸に添えていい理由にはならない。
 
そして仮に、若年軸で進めるのであれば、それ相応の「バランス」が求められるし、それがないと「破綻」するに決まってる。ソロで上手いやつが一人入れば成立するという作品の類であればまだ、片方をベテランにすることでバランス維持と言うの可能だが、往々にして漫画というのは複数人/多人数で組まれるものである。組織ものでも学校ものでも。だからこそ、もし添えるなら「若手、若手、若手、大手、大手」のようなくくり方をしないそれができないなら、最初から絶対に外さない大手で固めるか。メジャーな作品であればあるほど、この二択しかない。
 
例えばそれなりに注目度の高い、直近の作品で言えば『千歳くんはラムネ瓶のなか』のキャスティングを確認してみよう。

アニメ『千歳くんはラムネ瓶のなか』メインキャスト

まぁそれこそ、早川アキ役の坂田氏がメインを演じている作品なわけですが主人公、ヒロインズというラノベ構築ではあるものの、やっぱり立てているヒロインは石見舞菜香・羊宮妃那・長谷川育美の三人というのは年代的にも明らかだ。この三人は現在最も勢いのある役者群であり、これからの主役を担っていく真っ只中の方々である。ただそれだと演技帯でバランスが取れないからこそ、大久保と安済知佳という2010年代に主に活躍された中堅どころを入れている。これは青春ラブコメ系とはいえ、全員が新人かそれに近い若手だと崩れる。だからバランサーとして石見・羊宮・長谷川を支える配役としてみるべきだ。音響はてっきり青春ラノベアニメで『はがない』『俺ガイル』『俺妹』『弱キャラ友崎くん』を歴任されてきた本山哲さんがご担当されると思ったのだがそうはならず、ということで案外驚いているのですが、まぁ構築の仕方がそういった作品群に寄らざるをえないというのは誰もがわかるラインである。人気声優トライアングル+中堅バランサーで、若手の伸びを殺さず会話の重心を安定させることはどう考えても最低条件なのだ。

 
要するに、人気声優と中堅の二段構え石見・羊宮・長谷川の三叉に大久保・安済を噛ませ、坂田の低中域で芯を通す設計。そして制作はfeel.の地に足の着いた芝居に今組める最高の2025年型ラブコメの王道キャスティングだ。安済の出身でもある、福井ローカルも絡めて、地域性と普遍性の両取りを狙っていると言う意味では本作もかなりデカく見積もっている作品と言える。なによりも初回拡大・分割2クールという投資配分からも、盤石の推し出し体制である。つまり、売り出したい作品はこのように、設計思想が明確にならないといけない。
 
ましてや冒頭に述べた通り、日本アニメとして全部の工程が最高峰で出さざるを得ないという、超大規模IPであるなら、生半可な組み方というのは目立つ。『チェンソーマン』は、本当その典型だと、自分はものすごく感じた。
 
TV版『チェンソーマン』の主役四人は、戸谷菊之介(デンジ)、楠木ともり(マキマ)、坂田将吾(早川アキ)、ファイルーズあい(パワー)。いずれも20年代の新主役層。
重鎮は津田健次郎(岸辺)だけで、中堅としては伊瀬茉莉也(姫野)などサポート側に回る配置。しかも作品がラディカルな作品であるからこそ、役者感における演技の掛け合いにおいて地盤が硬くないと現場の役者が若すぎてキャラ負けするんですよ。前提として役者は一切悪くない。ここで問題したいのは音響の均等割についてであることをは前提として述べておきたい。
 
で、まぁ主人公デンジが戸谷菊之介はいいとしましょう。早川アキも、主人公が若手なら同じ若手の坂田将吾を添えるのもいいし、なにより「こん」の2文字の発話で個人的には「あ、うまい」と感じ取れた(鑑賞後、青二所属で流石に納得)。こういう新鮮な感覚を味わえるという意味でも新規気鋭の役者で主人公と相棒を構築する感覚は、まだわかる。もっと強いアタックができる役者を持ってきたらそれはそれで安定感というものが得ることはできたと思うが、活力と素朴な演技の掛け合いさはおそらく生まれないから。パワーには奇天烈の推進力が必須で、ファイルーズあいの積み上げがそこを担保(ノーベル賞のくだりや、明らかに変なことを発話しているのに、言っている本人は大マジと思えるところに味が出るという演技は間違いなく成立している)。
 
つまりどう聴くかという意味合いにおいて「演技」軸と「声」軸の二つでそれぞれ「うまい」と「あっている」が両立すればそれすなわちキャスティング原理として文句なしということだ。
 
姫野の伊瀬茉莉也は、キルアを担った歴が示すとおり中低域の支えが堅く、早川—姫野帯の会話は彼女の存在で息の幅が確保される。キャラクターもしっかりと妖艶とかっこよさの中に、普通人感としての演技というのは流石だったし、役内でも姫野が早川を指導するが、演者の力学でも伊瀬が梁となって場の重心を安定させ、新規主役層が思い切り踏み込めるクリアランスさ。対位法で言えば、最も均整が取れているのはこのライン。キャラクターと役者のバランスが等分されている。ここまではキャラに、実態が伴っている比重よりの若手起用であるとすれば納得がいく。当然、ベテランと中堅で構築された呪術、鬼と比べると相対的に弱い、でも大手に頼らないなりに組むデッキとしては良い方向性には向かっているというのは確かにある。そういった意味での新鮮さは明らかに効果としては生まれている。
 

が、しかし統括者=マキマという「場を支配する声」を、楠木ともりに据えた必然は他と異なり、見いだしにくい。これは巧拙の問題ではない。楠木の美点である明度の高い芯と滑らかな運びはものすごくよく分かるし、そういった演技でGGOのレンといった役柄をこなしてきたというのも、来歴としては人気作を請け負うと言う点においては十分わかる。しかし、マキマという造形はアニメを見る限りだが、生来低域の支配力と語尾で空気を止める停止力を要求するタイプ。中盤に襲撃返しとして「手動型生贄方式版デスノート暗唱全身スキャナーズ爆破」的な能力を発動する時に名前を要求させるしぐさ、公安に属する社会性集団として、いってみれば課員をまとめる上長感っていうのがそういう意味では本来求められるリアリティがまずあって然るべき。記号性だけとはいえ、公安という組織の統括者としての声。これはキャラ解像度以前の職能要件で、経験者ほど有利な領域。それを、いまの楠木のキャリアと声の設計では、その威圧を持続的に提示するのは酷だ。

 

結果、台詞の意味は強いのに音のトーンが相対的に軽く、画面上では優しい管理者に収まってしまう。それが味であり後半に効くという意見も知り合いの既読勢から指摘を受けたが、そんなのはただの甘えなんですよ。それはアニメ視聴において、N話までみないと面白さがアニメでは伝わらないというのと同じで、それは作法としてあんまり自信がないのと同じ。

 

いい加減、呪詛のような言説ではあるが、いわゆる『まどか』三話以後の三話中心説っていうのも、あれはそもそもの認識がおかしくって「転換点」でしかない。三話を「面白さ」の駆動と勘違いしている。『まどか』は1話から面白い。じゃないと当時十話の構造美には繋がらないし楽しめないでしょう。虚淵玄は最初から面白い本を提示していて、その「面白い」のベクトルが変わるのが三話であって、話の骨格は一話からある。骨格そのものではなくベクトルの転換。言い換えれば、「この物語は可愛い魔法少女の冒険ではなく、死と交換契約の物語として走る」という方向指示。だからあれは構造を変えたのではなく、面白さの軸を切り替えたにすぎないだから、たとえ三話の出来事(巴マミの退場)がなかったとしても、観客はすでに「この世界、何かおかしい」という磁場に、イヌカレーの美術を通して引きずり込まれていたわけあり、それすなわち三話は「方向を変えた」だけで、「面白さを起動した」のではない。

 

この原則はキャスティングにも等しく当てはまる。アニメはアニメで、その時点の情報だけで説得力が完結する設計にするべきだし、「終わりありき」で芝居の意味付けを遡及させるのは作り手の甘えになりやすい。なによりも「役」以上に「キャラが弱そう」「声が軽い」「なんか違う」と思わせてしまう時点で、それは破綻なんですよ。対極的にいえば五条悟=中村悠一に文句をつける人は絶対いないと思うんです。そのくらい強度ある設計にするべし、ということだ。その線でいえば、中村悠一キャラにしては珍しく最強、と思いきや諏訪部順一演ずる両面宿儺には負けるというじゃないですか。

もし、「終わり逆算で考えればあれはあれであり」という世迷言が通じるのであれば、それは五条は最終的に負けるから中村悠一ではなくてもいいというのと理屈は同じ。

でも、たとえそうであってもやはりグラハム・エーカー司波達也折木奉太郎、ラインハルト・ヴァン・アストレアなど「最強/優秀」を歴任してきた声に託するのが本来のあり方で、そのキャスティングで皆が納得している。あの配役が批判不能なほど納得を得たのは、物語の結末に関わらず初見で強度が保証されていたから。

 

その象徴が「大丈夫、ぼく最強だから」になるわけです。

五条悟が出てきて「大丈夫、僕最強だから」と言った瞬間、誰もが「うん、この人最強だわ」って納得する。そして、そこに本来理屈なんて要らない。

あれを中村悠一に配置することで、先に強度を提示し、後で奥行きを増す。この順序を守る限りは既読にも未読にも誠実な体験になるし損はしない。最初から均等に「良い」という設計であれば話が進むにつれ、「ああ終盤はこういうキャラなんだ、じゃあ序盤の演技もいいか」という己が一度言葉にだしたことに対して、手のひら返して評価するのという事象も発生しない。

そして『チェンソーマン』でいえばそこを一番徹底させるべきキャラクターこそ、マキマである。中村の五条悟というキャスティングを認めるなら、「ああなる、こうなる」という後知恵免罪で楠木マキマを擁護するのは一貫性がない。大体「終わりで意味が出る」。それを認めるなら、『仮面ライダーアギト』終盤の賛否も同じ理屈で丸呑みができるはずだ。だから、基本的なあり方としては、全くの初見でも通じる設計であるべき。ましてや声であり明らかに強いキャラクターというのは立場と力関係的に聴覚的にも視覚的にもわかるのだから、後から通しても「ああ、たしかに初期から強い演技だったしな」といえるだけの想像力は先に提示すべきである。

 

初見強度は、いってみれば既知の勝ち筋。同時にこれはスター声優の起用礼賛ではない。役柄には「初見で威信を確保してから奥行きを掘るタイプ」と「過程で強度を自作するタイプ」があり、前者に属する役(顕示的強者/制度的支配者)は前貸しを要求する、という機能論にすぎない。中村=五条を肯定する瞬間に、その評価の仕方はマキマにも連帯責任で及ぶ。ここを曖昧にして「終盤でわかるから大丈夫」と言い換えるのは、評価の時間軸を都合よく移し替えるだけで、基準の透明性を損なうということだ。

その意味では先述の通り、伊瀬茉莉也の姫野は、役とキャリアが一致した重心で奥行きが鳴って響いている。早川—姫野の会話帯が崩れないのは、伊瀬が梁として中低域を張り、坂田との会話の場の呼吸を作っているからだ。このペアによって余計に際立つ。さらにややこしいのは、キャスティングにおける監督とその処理に関わったであろう音響監督・小泉紀介氏が「アニメ感を抜いて、普通に喋る」方向=写実・映画寄りの方針を打ち出した点だ。

shueisha.online

“こういう声”という既存作品のキャラクターのイメージから仕上げるのではなく、「デンジはデンジの声」「マキマはマキマの声」として考え抜き、キャスト陣を決めていきました。

そのため、オーディションにはきちんと時間をかけており、声優さんたちにはテープオーディションや立ち合いオーディションなどいくつかの選考を踏んでいただきました。その上でデンジの戸谷さん、マキマの楠木(ともり)さん、パワーのファイルーズ(あい)さん、アキの坂田(将吾)さんに決まったんです。 

また、このインタビュー、とっても面白いことを述べている。

プロデューサー陣はどんな作品でも等しく「この作品を映像化するにはどのような形が1番いいか」を考えます。その上で演出や表現のイメージを膨らませ、そういった演出や表現を実現できる、あるいは得意とする人にディレクションの依頼をします。

チェンソーマン』でも同様のことを考えたのですが、原作が今までのジャンプ作品とは異なる色を持っていたため、演出や表現の決まった型を持つ人より、“型を持たない新しい人”にディレクションしていただくことでおもしろくなるのではないかと考えたんです。

 前半で「どの作品でも最適な映像化を等しく考える」と言っておきながら、後半では「チェンソーマンは型を持たない新しい人に任せるべきだ」と方向を決めている。
これは「検討プロセスがあった」というより「最初から答えが見えていた」ように読める。「等しく考える=中立性をアピールする言葉」と「新しい人に任せる=方向性を決め打つ言葉」が同じ段落に共存することで、矛盾が強調されている。本来、この手の記事は意図的に言葉を選んでいるはずなのに、かえって論理的な不整合が際立っている。

特に「ジャンプ×MAPPA×チェンソーマン」という大型座組では、「最初から演出家の方向性が決まっていました」とは大手をふっては言えない。だから「等しく考えた結果、今回はこうなりました」という建前をつけざるを得ない。しかしその結果、かえって言葉の整合性の破綻が目立ってしまっている。その意味では同じMAPPAが制作した『呪術廻戦』とは逆にアプローチでいくということを、構造レベルで証言しているのも同義。『チェンソーマン』は型を外れた人材を配して新奇・異色へと転がしていっている。そうした仕草は演技指導でも表れている。あえてマキマは「ミステリアス」感を脱色させている。

www.tvlife.jp

 楠木:最初はマキマのミステリアスさを含ませようとしたんですけど、監督にはそのニュアンスは入れなくて良いとディレクションがありました。これは私の解釈ですけど、特に序盤はデンジ君から見たマキマが多く描かれているので、そうする必要はないのかなと。ですので、基本的にフラットなテンションで、つかみどころがないけど、たまにかわいさがちょっと見えればベストかなと思って演じています。

これは思想として一貫しているが、子音のエッジや語尾の跳ねを抑える処方自体が、マキマの無言の威圧を演じようとさせない。故に、役の造形に求められる圧を音色側で出し切るに難しいことと、演出側がアタックを穏やかに処理する設計であることが二重に重なり、マキマが「公安の統括者」ではなく「そこらへんにいる感じのよい年上の女性」どまりになってしまっている。比喩的にいえば役職持ちの「部長」という権威ではなく、せいぜい入社5年先の先輩程度の距離感に沈む。聴感上矮小化されている。

メタな話でみれば、デビュー年で見れば楠木は2017年、戸谷は2020年で約3年差。初主演ベースでも約4年差にとどまる。なので実測は3〜4年だが、受け手のメタ認知では「先輩/後輩」の印象が体感5年に拡張され、先に述べた「入社5年先の先輩説」像を逆説的に強めてしまう。このズレが、可聴の威圧を欠いたときの「良い先輩」読解へ拍車をかける。確かに、物語上、デンジに与える感覚はその程度で足りるとしても、観客には先を見越せる可聴の伏線が必要だ。

でなければ、新幹線の銃撃で「あーマキマ、死んじまったかぁ」というふうにしかならない。声の強度としてはマキマ登場で色々となにかを言っても声から中村的な「覇気」に相当する可聴の威圧が立ち上がってこない。そしてそれはある意味で、『ウルトラマン』第一話におけるハヤタ隊員の死に対する「作劇上そこに時間かけられないから発生するあっけらかんな反応」が正当化されてしまうのと同義。

なぜなら、「気前のいいそこら辺にいる女性」なら銃で撃たれたら「まあしゃーない」という退場のやむなしと印象としての残り香しかそこにはないから。ゆえに、どれだけ構造上は生存するキャラであったとしても、音としての説得力がなければ生きている≠立っている。立つのは音。ゆえに、アニメである。そして、大原則として元々声がないキャラクターに音を当てる、その所業、料理の仕方は担当する演者に依拠する。

ラピュタ』で言えば

「いいぞ!!」→「繋がりました!!」→「私はムスカ大佐だ」

この一連こそが演技音響の最高峰。こう言われたら確かにムスカは終盤バルスであっけなく退場するけどちゃんと難敵である存在感があるからこそ、キャラが立つわけです。

 

これも「頑張れムスカ」のネタにはなってるけどなるだけの強度があるということ。

作品の美学(写実)自体は理解可能。問題は、その思想が機能的に正しかったかです。

マキマの演技指導にしても、コンセプトとしての「ミステリアス脱色」はやっても、支配性の輪郭は別ルートで立て直すべきだった。『呪術廻戦』は型で守る設計、『チェンソーマン』は型を捨てる設計で突き進んだわけですが、後者でも臨時の処理というのは必要なはず。その単一の設計で押し切った結果、全体軸のバランスが崩れている。

統治者の声は沈黙を支配しなければならない以上、ここだけは「素の喋り/映画的」よりも機能を優先させるべき領域だ。他のキャラクターは役と演者が1対1の対偶でおおむね納得がいくが、マキマだけは写実主義より統治の機能美を先に立てないと、キャラクターが演者に押される。また、監督に統括性があるのは事実として、大型IPのキャスティングや演技帯に深く口を出すべきではない場面がある。そのための音響だからだ。しかも本作の場合、その音響も“自然体”を支持しており、話をややこしくしている。

監督が音響(キャスティング/演技設計/ミックス方針)に深く介入すると、作品の背骨よりも個人の美学が前景化しやすい。極端に言えば自我が出る。これが歴戦の監督であれば、その経験値が作品と合致し、活きてくるのであり、そうでない人が出すとから回る、ということだ。

 

この歪みは、メディアミックス型(例:BanG Dream! の演じる×歌う×演奏する×顔出しの複合プロジェクト)ではさらに増幅される。羊宮妃那/林鼓子/高尾奏音のような中核の声だけが突出し、他は特定IPに限定的なフランチャイズ声優的に見えやすい現象が起き、結果的にアニメのキャスティングが歪に進む。『MyGO!!!!!』『Ave Mujica』を観た人なら体感しているはずだ。目的が異なる以上、それはそれで成立するが、チェンソーマン級の巨大IPで監督のこだわりが音響領域へ強く割り込むのは、適切な所作ではない。

まぁ小日向美香は倍音が強すぎるからこそ、一ノ瀬そよ時代の演技の方が映えているあたり、子供役を演じる方が上手いタイプの声質。等身大の女学生よりも、辿々しさや未成熟を音色自体で演出できるためだ。言い換えればかなり強い表音タイプで、音色の設計が意味の運搬を先導する。その意味では年少役・幼いニュアンスに非常に相性が良い。そもそも声が辿々しい生来の子供の声のあり方、という性質と、倍音が大きすぎるという点が、幼少期を演じるには最良。であれば、その点を統御できれば全然他の可能性だ。『MyGO!!!!!』における跳ねる抑揚で走るのではなく、そこに発声として滑走性へと変えていけば、繋ぎ目がわからないように音と音との移動させる演奏のような発声アプローチをすれば当然、地声でも活きてくる。

要は、声が強すぎる=幼さという声の輪郭が強いだから、今の声に、年齢の根を足せばいいだけの話。具体例は『MyGO!!!!!』第9話を参照。

 

まぁそれはそれとして、結論として、美学は尊重するが、統治者の声だけは機能を先に。音響監督が帯域設計(低域の支配/語尾の停止/倍音の立ち上がり)を握り、監督の美学は背骨を折らない範囲で流し込む。これが本作の規模で求められる正しい力のかけ方である。

 

そんな中で、唯一それを達成して、「場」として聞けるのが師匠役の津田健次郎彼が喋ってるところは当たり前だけどすごく音響として低音が響いて歴戦のキャラクターという投射ができている。でもこの『チェンソーマン』という作品においてメインにおけるキャラクターで大手型が津田健次郎一人しかいないというのも、やはりバランスがおかしい。もう少しあの世界には声の度合いが強い声優がいないと、世界や起きる事象に対して、声がどうしても弱っちい感覚になるのは若手故に存在する磁場。だからこそ、津田健次郎の岸辺や伊瀬茉莉也の姫野が場を鳴らすのは、演技だけでなく音響的な重量があるからであり、ここを音響監督の設計で補うのが筋。

 

万事がこの調子なので、内容はシリアスかつハードなのに、声だけが軽い。東山コベニ(高橋花林)も、「躁鬱の振れ幅」と「芯の強さ」という二極を、経験の浅い役者に背負わせた結果、聴感上は弱々しいのにキャラクター設定だけが強いという逆転が起きている。本来は「躁鬱の振れ幅 × 音の粒立ち」で声色の強度を初手から担保すべき。作品や役者の良し悪しではかる、という意味合いはないが、トーン(作品世界の音色)と声のブランド管理という観点でいえば『アサルトリリィ BOUQUET』に出演している高橋花林が『チェンソーマン』の殺伐世界の配役を当てる、というのは無理な話ではない。しかし、成立においては、なかなか高度な声優でもない限り、技術的にもかなり高い故に、基本的には考えにくいというのが実際だと考える。

作品×声の位相合わせがキャスティングの第一原理なのは確実なのだから。それでもそのトーンを採るならその点はベテランに一任するべきで、それ以外にはそもそも「音響」としては得てして成立しない。だからアニメでコベニの演技をみていても、声域帯は「可視の可憐さ」を「可聴の芯」で打ち消す設計が要るのに、それが欠けた結果、世界観の硬度に対して声だけが軽く見えてしまう。あの地獄みたいな世界で戦う以上、可憐さに寄ったビジュアルを声のトーンで中和し、可愛さとブレを抱えつつも縦芯が通っていることを最初に提示しなければならない。だから、ここは外へ出過ぎず内部で温度差を作れるタイプのベテランとして、悠木碧付近の役者帯をできる人が演じた方が、コベニというキャラクターは決して軽くは見られないし、ああいう世界でデビルハンターを行うだけの理由が声だけで説明できる。感情の上下を制御でき、人間性を一段解除する声帯として機能するという意味でも、そういったベテランでないからこそ、逆にキャラクターが軽く見えた。

象徴としてあげるのであれば、それこそ「佐倉綾音」のような、『ごちうさ』で可憐さ『艦隊これくしょん』では声域劇場をこなし『PSYCHO-PASS2』ではおおよそ全視聴者から反感を得たくらい、「嫌悪さ」の演技まで確立した多芸さ。あくまでもわかりやすさという意味を優先したが、要はそういった巧い役者が本来は添えられるべき。これは直感でも推しという図りでもなく、「起点」に誰の音響があり、「進化」に岩浪音響がいたかどうかの有無。

そう、*1明田川仁の仕事群は、歴代の大手を支える可聴の基盤を量産してきた系譜。

ToHeart』『ゼーガペイン』『とらドラ!』『超電磁砲』から『ごちうさ』『GGO』『空の青さを知る人よ』『トラペジウム』に至るまで、台詞の旋律と語尾の設計で新人の初速と、若手-中堅の集合体の音響座組を上げてきた。

 

もっと馴染みのある実例を出す。ネットミームの文脈で言えば、「オルガ・イツカ細谷佳正」という起用。あのキャラクターでネット民が散々遊べたのは、明田川仁ラインの音響設計が極太だったからだ。本来はお笑いの場面ではないのに、無音→一撃の台詞→低域の余韻という設計があまりに強力で、音が想像力に火を点け、断片だけで引用可能な出来事に変わった(『鉄血のオルフェンズ』の音響監督は明田川仁)。

ここから導ける命題は逆説的だが明快だ。MAD化のしやすさは良い音響アニメの相関指標になり得る(絶対ではない)。相補的に言えば、音響が弱い台詞はMAD素材になりにくい。ゆえに、グレーな存在であるMADであっても、自然発生的に成立して拡がるなら、その作品は多くの場合、音響設計に優れていると言い切れる。

実例はほかにもある。『デスノート』『コードギアス』の「キメ構文」系はもちろん、可愛い声のワンセンテンス耐久(『ご注文はうさぎですか?』のココア、『Re:ゼロ』のレム等)も、音が単体で立つ証拠として機能する。いずれも明田川仁が音響監督として台詞の前傾・粒立ちを徹底しており、ミーム化の「土台」を整えている。

(『ごちうさ』、『Re:ゼロ』ともに音響監督は明田川仁)。

結論として、「世界の硬度に対し、声の硬度を先に立てる」という本稿の原理は、オルガのケースにもっとも分かりやすく実証され、ココアやレムの切り出し耐性にも連続して確認できる。ミームは偶発に見えて、音響の職人芸が支える必然でもある。

 

それ以外に、明田川仁ラインのチルドレンとして代表的な新人/初主演格がハッキリしている例を挙げる。

『トラペジウム』→結川あさき/羊宮妃那〔TV先行ブレイク(『僕ヤバ』『MyGO!!!!!』→劇場主演で〈明田川ライン〉合流〕。

 

そして、若山詩音(第17回・2023)→羊宮妃那(第18回・2024)→結川あさき(第19回・2025)は「新人声優賞」の3年連続ラインである。つまり若山は『空の青さを知る人よ』、結川は『トラペジウム』でいずれも初期段階において、音響監督:明田川仁の案件に参加しており、完璧に明田川チルドレン。

だからこそ、この二人は受賞年の「新人代表」の中に明田川ライン直結が含まれるという構図も成立している。故に明田川系譜は今も現役の育成インフラとして機能しているのだ。その意味で、マキマ役の楠木ともりは『SAO オルタナティブ ガンゲイル・オンライン(GGO)』での抜擢を起点に表舞台へ跳ねた明確な明田川仁チルドレンであり、『チェンソーマン』での大手ポジション起用も、明田川の「耳」が拓いた評価軸の延長線にある。

 

一方で、岩浪音響が得意とするのは低域の支配と無音の張り。この二つを同一個体で両立できる声は、コベニの正解に直結する。だからこそ、明田川×岩浪の交差点に立てるベテランとしての佐倉綾音を添えるのが、設計としての最短距離だ。広義の意味で明田川仁チルドレンの一人ながら、岩浪音響まで接合できるという声の稀有さはまさに、『チェンソーマン』の世界にコベニをおくために必要なものだと思うし、ぶっちゃけそれはマキマも同じ理屈で声を通した方が安定する。その点でいえば、楠木ともり明田川チルドレンとしての資質に加えて岩浪ラインの経験がもう一段あれば、耳で統括者へ届くはずだ。

 

結局、発掘チルドレン × 運用チルドレンを両立できる=表義声優性という存在の圧が隊列に不在なのが最大の問題だ。

 

心的に何かを背負っているor闇を抱えたさを演出するのであれば安済知佳がコベニという線もそれはそれで超怖いし何をしでかわからさの演技がずば抜けるという判断もあり。安済知佳は恐ろしい役者、というよりも多面音響性という意味では本当に輝かしい。『棺姫のチャイカ』(2014年)で「三間雅文の耳に見出された」線からスタートしている。

という、どの音響監督でも完璧にこなし切れる多系統に耐える声なわけです。

発掘=三間、運用=鶴岡/明田川/APU系=安済知佳という逸材。これは反論は少ないはず。だからこそ、怖さ・可憐さ・芯を同一回路で鳴らせるので、安済コベニはifのキャスティングとして優良解だと断言できる。こうした音響のグラデーションと、得意領域における演技の拡張性の観点を差し引いてでも、その可憐さボイスでで突き進むであれば、ポっとでだけでもいいから、さらに味方陣営(公安サイド)には即時に声のプレゼンスを立てる安定声を最低一枚の楔として、重ねておきたい。それだけで隊列の強度は保たれる。

 

その意味ではその象徴としては松岡禎丞はそのライン軸には最適で、『ソードアートオンライン』において岩浪音響チルドレンで時代を確立(桐谷和人=キリト)し、そこに明田川仁音響が変奏がはいりノーゲーム・ノーライフ』(空)/『Re:ゼロから始める異世界生活』(ペテルギウス・ロマネコンティ)といういいズレの配役を経験した上で、小沼則義音響において回帰した「かっこよさ」「ちゃらさ」「つよさ」「悪役味」を同時に出すリコリス・リコイル』(真島)のような多面役者になり今に至る。「リコリコラジオ」第25回でも「真島は役者歴総じてみても、この役はこんな感じ、というものすら度外視してたからこそ、一番自由(フラット)に演じた役だった。本当にそのままで演った」という発言している点からも、自然体でああいう演技ができるという能力。そういう存在感が『チェンソーマン』に最低限必要だった設計図なのではないかとは個人的には思う。

 

でも、この作品は最初からそういう採用をしていない。

 

だから色々とおかしなバランスになっているんです。この作品には明らかに萌え要員は不要だし、いても生存しない世界観なのだから、可愛げだけを前に出す演技は設計上そもそも意味をなさない。ちょい役に高木渉を使うとか、そういうMADHOUSEで『アカギ』における怖い人たちの使い方を本作で援用するのは、少なくも悪手ではない。その上で、『デスノート』でこなしたスタジオがある種MAD HOUSEはMAPPAの精神的前スタジオなわけですし。丸山 正雄さん軸になって設立されたスタジオという意味でもね。

「恐怖のカメオ」で世界観の硬度を底上げするのは有効。古いアニメだが、モブの音響の使い方として古びない作法として挙げたいのが『スクライド』。この谷口悟朗アニメでの採用されているのはそういう使い方だったりするし。というか谷口悟朗アニメにおける「力学」はちゃんと音響に浦上靖夫を置いていたからこそ、あれだけ作品としても受けた一端をになっていたというのは当然の帰結であり、そういう意味では高木渉の使い方、というのは音響の浦上靖夫という天下のレジェンドの作法なのだから、そこは遠慮しないで模倣していいところ。作品内のあり方をねじ曲げずに、どころか世界観を増量できる手筋なのだから。だから、可憐を維持するなら、高木渉のモブに一瞬引けをとる、くらいが、この作品の設計思想のあり方からすればそれ以外にない。つまり、可憐さを守るために、一度壊される必要がある。でも実際のアニメではたただた「キャラ」がヒステリックに叫んでいるだけ。原作からしてそういうキャラなのかもわからないが、少なくとも音が付与された時の印象はそうでしかない。

 

 以上のように、何度も書いているが、「役者の巧拙」ではなく設計論的に読んだ時に新人を起用するのは音響や制作が目指したリアリティ(何を持ってリアリティなのかが明確に定義されていないが)や方向性として冒険した結果、デンジ↔︎パワー/早川アキ↔︎姫野 においてはどちらも女性側の役者の方が歴を積んでいることもあり、バランサーとして機能しているため、それこそ中村/早見というコンビほどの重厚というものはないが、聴けなくはないキャスティングとして落とし込めることができる。が一方でマキマはかなり厳しい。というのが正直なところだ。

この違和感を抱えたまま「なぜ『レゼ篇』では上田麗奈を起用できたのか」を辿ると、音響監督がTV版の小泉紀介から名倉靖に交代している事実に突き当たる。

チェンソーマン 総集篇 エンドロールクレジット

これ、明らかにミスを自覚しているか、あるいは劇場だからそうなのか?って思ったけど、総集編の段階で名倉靖に変わっているあたり、取り直し含め、名倉センスと理解しても、それは解釈としては成立するはず。最初に報道がでたのは2024年12月22日の初報です。しかし変なんですよ。なぜか音響監督の開示がない。おかしいですね。他は細部にいたるまでに明確に提示されているのに。

www.animatetimes.com

記事内のスタッフリスト一覧

その後、本予告解禁から、スタッフ欄に「音響監督:名倉靖」が明記されるようになりました。

2025年7月4日に公開された記事のスタッフリスト

つまり、これらの条件が指し示すものそれは初報段階で「音響監督に小泉氏の名前は公式に示されていない」そして「最終的なクレジットは名倉靖」ということになります。

 

普通、この規模の作品であればどの役職にもそうですが、一様に変わるということは普通はないはず。テレビ版の音響思想を本当に継続するなら初報で小泉名が出て然るべきでありそれが道理というもの。しかしそうではない。つまり名が出なかった時点で「音の基準を更新する可能性」が制作内部で出てきたことは明白。そして、後日の名倉氏が正式発表となった。この事象により、このその読みは確証に近づいた。総集編で耳を作り直し、その結果を携えて本予告期に名義を確定というのは、この手順は、写実基調から機能主義(倍音/低域/無音)へと背骨を差し替える段階的な回頭だったことを示している。

 

その上で、総集編に見られる再編集・再録の気配と、劇場『レゼ篇』の音響を担う名倉氏の経歴『HELLSING OVA』(録音)/『傷物語』三部作(録音)/『ハーモニー』(録音演出)を重ねて見れば、『チェンソーマン レゼ篇』が要請する作劇に近い仕事を既に仕上げてきた人物であることがわかる。上田麗奈の起用は、音響名義が名倉に切り替わる前から既定だった。だからこそ、最初に誰が決めたかは別としても、レゼ=上田麗奈の指名を含め、倍音の立ち上がりと無音の張りを機能で組み直した印象が強い。TV版の理念(写実)を残しつつ、音で物語の重心を戻す方向への回頭である。

 

その意味では匿名性という意味で新人起用を軸にしていたのにレゼは上田というのは、どういうことなのかという疑問も残る。その基準で言えばレゼも若手で羊宮に落ち着くのが「路線」として正しいはず。レゼ枠で「初見で刃が出る声」を要請して機能主義に舵を切ったのなら、マキマも同じ規準で最初からそういう役者にすべきだった。レゼ=機能、マキマ=匿名という割り振りは、制作の考えが「役ごと」に変動している証拠。レゼで機能を選ぶ判断が正しいなら、なおのことマキマは可聴の威信をだせる役者を踏まえたキャスティングでなければならない。方向性そのものが一貫していない。

結果的に「楠木ともりvs上田麗奈」になったときに、明らかに観客の期待は後者にしかよらない。

名倉靖 - allcinema

繰り返しになるが、もしTV版が最適解だったなら、総集編の段階で音響思想を弄る合理性は薄い。それでも変更が先行したという事実そのものが、制作側が「音の基準」を更新する必要を認識していたことの間接証拠になっている。

eiga.com

チェンソーマン レゼ篇 スタッフリストより

でも当然、決まっている役者さんを変えるわけにはいかないから、テレビシリーズよりかは演技力が向上した現在の力量で、セリフ周りを加えることでなんとか整えたのが自分が初めて見た『チェンソーマン 総集篇』と言うのが実情と踏んでいる。

 

再編集・新録・音響調整というのは、2022年テレビ版を視聴している人の中で噂が広く出回っているあたり、総集編時点で台詞の再録・音響の再調整が入った=映画版の音響思想に寄せるハーモナイズと受け取れる。まぁ、申し訳なさ込みで書くと初見体験が「再編集後の音・芝居」だったわけでで、それでも「アタックが弱い」と感じた自分の耳を信じているので、そういう意味では、初期方針(写実・抑制)の色や舵取りが依然として強いのは実際問題として残っている。マシにはなった(のだろうけど)もっと統一すべきということ。でなければ、こう言った記事を書くはずもないわけだから。

 

そもそも論ではあるが、ジャンプ作品ながら、ダークファンタジーで、という作品の場合、本来はこう言う作品は、昔で言えば『東京喰種』で花江を開花させ、今で言えば『鬼人幻燈抄』を担当して、早見、上田、羊宮を然るべきキャラに配置している切り込み方をしている原口昇といった、すでにダークファンタジーで実績のある音響に当てるべきだと思う。 なぜ音響監督をその人にするのか?という突き詰めの果てに、理屈、実績として初手から鳴らすのが最も合理的。

 

あるいは、一層のこと「公安系」と「ダークファンタジー」の世界観という比重性に重きを置くのであれば岩浪美和の音響設計に一任するのが、最も正しい回答を出してくれる音響座組。それに弐瓶勉ラインに影響を受けた作家であるならば、そのまま音響的にも等式の組み方としては、藤本→弐瓶(『ABARA』)ラインに寄せる→岩浪美和の音響設計(『亜人』『BLAME!』系)」は、ダーク寄りの非ジャンプ的緊張を音で立てる別解の王道でありながら、『PSYCHO-PASS』イズムの公安ラインでも声優を立てることは可能。そしてその場合、劇伴も統一性の観点から菅野祐悟になる。外れる組ではない。

まぁさすがに岩浪さんにかかれば誰も文句はいえない配列音響になると言う意味で、この選択肢はちょっと特別すぎるので、その意味では若林和弘さんを起用して、『攻殻機動隊 SAC』『東のエデン』的な思想ラインの軸足で声優を固めるでも良い。

 

この両者に愛用されている声優群で固められたら、それこそ強度としては鬼のアニメくらいの威力でありながら異色なキャストにもなる。ちなみにラノベ構築の上手い本山 哲は若林系譜の音響。

 

そして、若林音響→本山音響という系譜の最高到達点としての役者が早見沙織だ。
若林和弘は『攻殻機動隊』で公安系=制度の声を鍛える現場を作り、そこに早見は『東のエデン』で合流した。のちに本山哲の『俺ガイル』で雪ノ下雪乃というラノベ系ヒロイン像を確立し、その延長で『魔法科高校の劣等生』が厚みを増す。例外的運用としては、鶴岡陽太による「斧乃木余接」や、藤田亜紀子による「蛇喰夢子」の異形の凄みがあるが、総体として早見は若林系の声の制度性を整える〈透明×芯〉を核に、「公安・司令塔に強い声」と、本山音響の会話劇でヒロイン像を定着「ヒロイン/お嬢様」という等式を黄金比で体現する主が表意主体寄りの表義声優となった。

 

実際問題として、この作品が「なぜこの音響とキャスティングでなければならなかったのか」を設計論で捉えるなら、小泉紀介氏は長年の現場経験と、若手中心の座組を機能させる手腕で一定の成果を示している。戸谷菊之介とファイルーズあいを軸に若年層で「押し切り」つつ、聴けるラインに落とした点は、まさしく氏の技量の賜物だ。

一方で、近年の主要クレジット(『ぼくらのよあけ』『らくだい魔女』『囀る鳥は羽ばたかない』など)はダーク寄りの大型旗艦とは性格を異にする領域が中心で、「ダークファンタジーで一本看板を打ち立てた」実績は相対的に少ない。ゆえに、『チェンソーマン』のようなジャンプ発かつダークファンタジーの大看板では、場数以上に低域の支配や無音の緊張を初手から鳴らす設計が求められ、そこは原口昇氏の系譜(『東京喰種』『鬼人幻燈抄』等)のようなジャンル適性の蓄積が有利に働く場面があったというのが自分の見立てである。
だからこそ、ジャンル特性に対する最適化という一点で、より低域に長けたアプローチを初手から選ぶ余地はあった、という話である。
 
ダークファンタジーの路線に限らず、近年の人気TVアニメからの逆算=適材適所という視座で選ぶなら、『チェンソーマン』における最適解は自ずと導ける。
HALF H·P STUDIOの藤田亜紀子氏が音響監督を務めるのが、最も早く、最も合理的だ。
 
藤田は『呪術廻戦』S1で五条・夏油を中村悠一櫻井孝宏に据えつつ、若手~中堅を絡めて全帯域、つまり榎木淳弥(虎杖)・内田雄馬(伏黒)・瀬戸麻沙美(釘崎)という中堅〜若手の帯域を鳴らす座組を確立し、S2では『NARUTO』のえびなやすのり氏へとバトンタッチさせることで「長期シリーズ」の基礎を築いたし、CloverWorksでは『ぼっち・ざ・ろっく!』『その着せ替え人形は恋をする』『WONDER EGG PRIORITY』と、人気作‐異形作どちらの交通整理も請け負ってきた耳だ。倍音の立ち上がり/低域の支配/無音の張りを作品ごとに最適化しつつ、キャスティングとミックスの両輪で音で物語の重心を返す。

個人的にかなり興味深い、というよりも意表をつかれたキャスティング業としては先述の通り、早見沙織に『賭ケグルイ』で蛇喰夢子をセッティングしたこと。正直、早見沙織に蛇喰夢子は全く思いつけなかった。そういう点からも、人気声優の変奏的に扱えると言う意味でも非常に強い実績がある。また、先述のダークファンタジーと言う意味では藤本タツキが愛好する『ドロヘドロ』のアニメの音響も担当していると言う意味でもやはり最適。
 
では、今度はいい意味で狂ってる作家として見た時に、松井優征/藤本タツキという非ジャンプ的な想像力をジャンプの作品で幅の差とかIPの高低さはあれど、音響のバランスで言えば『逃げ若』の方が映像作品として圧倒的に整っている。
 
あれは、本当に最近デビューした結川あさきが、中村悠一と対比的に組み合わせてる設計でしっかりと受けている。これにはいくつかのポイントがある。
第一に、結川あさきが、中性的な声を持つ演者であること。『トラペジウム』の東ゆうを演じても、性格もあいまって、可愛らしさが目立つという声でもない。むしろ中性的ながら、男性を演じるという性質が似合うタイプの声であり、その声を使い演技をして羊宮妃那や上田麗奈と共演しても、ぶれないどころか、しっかりと主演としてこなせている実力。だからこそ、現在は未定ながらも西尾維新の『暗号学園のいろは』における夕方多夕をボイスコミックで声あてをしていることからもおそらく西尾イズムの造形をこなせるラインにもしっかりかかる。その上で、あの松井優征が描くもろもろ要素が満載の北条時行をテレビアニメのスケールでこなすその多芸さ。東ゆう(高山一実)/北条時行(松井優征)/夕方多夕(西尾維新)という内容、キャラクターともに一筋縄では行かない奇才作家の軸足をすでに三本は持っている稀有な声優であること。絶対に輝ける役者。
藤田亜紀子音響『逃げ若』/明田川仁音響『トラペジウム』音響不明:ボイスコミック『暗号学園のいろは』)

『トラペジウム』東ゆう

『逃げ上手の若君』北条時行

『暗号学園のいろは』夕方多夕
(これも断言していいけど、『暗号学園のいろは』がアニメ化されるなら、音響監督は飯田里樹が最適解、というか実質一択。理由は単純で、「学園/教室×群像×心理戦」という要件を実務と実績で長年回してきたから。『暗殺教室』『ダンガンロンパ』『ようこそ実力至上主義の教室へ』『ペルソナ5』とおおよそ『暗号学園のいろは』に必要な軸足のアニメに関わり続けている音響監督を、西尾の学園もので外すとはなかなかに考えにくい。アニプレックス×講談社×シャフトではなく、アニプレックス×集英社×CloverWoksでどこまで行けるかが楽しみですね。というか、その一歩こそが『逃げ上手の若君』という打ち手とさえ思える。ギリギリの振り切りという意味でも、シャフトを例外的に西尾作劇との差分で魅力を分け合う、という意味でも、この座組以外では多分『暗号学園のいろは』のベストはないと思う。正直、この座組以外で同等の再現度を出すのは難しいと思う。少なくとも「学園×群像×心理戦」の三拍子については、飯田里樹=既に勝ちパターンを持つ音響監督なので、どうか「座組」思考のアニプレックスさん、よろしくお願いします。アニプレックス案件であれば長尺のラジオも聞けますし、音泉ラジオも盛り上がると思います。当然、結川あさきは外すべきではない)
 
そうした声優だからこそ、いい意味で転がすことができる。第二にそこにしっかりと中村悠一という低音が強い役者を当てることで、本編同様に、強い的に立ち向かえるための支援者的存在がしっかりといること。つまり、結川あさき(北条時行)×中村悠一諏訪頼重)の対比設計がしっかりと意図的に配置されているから。その上で他のキャラクターにおける若手と中堅、大手の配置も絶妙。
 
若手枠としては雫=矢野妃菜喜/亜也子=鈴代紗弓/吹雪=戸谷菊之介という配列だし、中堅枠は弧次郎=日野まり/風間玄蕃=悠木碧と、若手〜中堅の明度が並ぶ。
その上で、要所に小西克幸足利尊氏)のような心役が入り、明暗のアンカーが常に存在する。だから物語は常に
というように、バランスが取れるし、それでいて鈴代、戸谷、矢野たちのキャラの群像になっても帯域が団子にならない。
 
そして何を隠そう、この『逃げ上手』の音響もまた、藤田亜紀子である。
 
では、なぜこうした近くに実績を出している音響や別解やアプローチごとの音響の起用にいたらなかったのか?といえば、あくまでも推測だが、MAPPA全額出資で自由にできる、という一種の内製化(社内のリソース完遂型)スタイルの解釈を、「できる」を「やる理由」にすり替え、主語が「俺たち」へ肥大化した結果、「本職に任せる」回路が外れたと言うのが実際でしょう。大体、エンディング・テーマは12組のアーティストが週替わりってなんでそんな「逆エンドレスエイト」みたいなことをするのかも不明瞭。
主題歌運用からキャスティング、音響思想まで一貫してその兆候が出ている。
 
そういう遊びと冒険のはてにある想像力としての多種EDは本編ではなくコンピでやる方が手っ取り早い。作品の豪華さは曲数ではなく、世界の響きの統一で決まる。だから米津と常田のOP一本と章EDだけで本編の主旋律を固定したほうがいい。それが『チェンソーマン』のような非ジャンプ的緊張を守りながら、音楽もリーチも最大化する最適解、というか普通のアニメの作り方でも十分通じるわけです。その意味では全体的にBest & BrightestじゃなくBetter & Bitterestで手堅く苦く落ちた
 
大型IPは「やってみた味」ではない。最も屈強で勇敢な奴らを揃えて、バシっときめないといけない。その意味では劇伴の牛尾も全然音楽として前景化してこないあたり、プロとしての最低限の音源は出している、以外の印象がゼロ。山田尚子との組み合わせが一番効果効能を発揮するからこそ、別の意味でカルト性の高い作品い器用すること自体がわけがわからない。もしかしたら『DEVILMAN crybaby』からの触発があって、マガジンでの漫画におけるダークファンタジーの起点としての劇伴という発想からの起用だとしたら、だいぶズレている。
 
アンビエント・ミニマルだから牛尾なのか、それとも牛尾だからアンビエント・ミニマルなのか、あるいはその両方なのか、意味と意義は、大義は果たして明確に劇伴という音楽ライン上にあったのか?というのがどうにも腑に落ちない。仮に、『呪術廻戦』で照井を召喚したような作法でいくのであれば、そこは牛尾ではなく蓮沼執太を連れてくるべき。
実際にアニメで蓮沼を連れてきたのは『SEKIRO: NO DEFEAT』という津田健次郎アニメでありながら、音響が名倉さんという意味では本当にタイトル違いだし、圧倒的にセンスある。これが指し示すもの、それは最初から名倉さんなら、音楽はbetterではなくbestであり得たという可能性。

『SEKIRO: NO DEFEAT』スタッフリスト
作品に地に足がついた音楽カードは牛尾ではなく、蓮沼だった。もっと儲けたいと欲張るからこういう平凡な結果になるんですよ。目先の話題性に欲をかいたせいで落とした。他の劇伴作家と普通に勝負していれば、少なくとも「照井ライン」としての音楽性での評価は勝ち得たはず。

sekiro-anime.jp

村田千恵子のセンスを岩上敦宏が承認することで『国宝』で劇伴作家が原摩利彦だったように、求められる音楽は精密に考えるべき。間違ってもソニー系列の作家だからといって、『国宝』に牛尾を添えるというのはおそらく考えになかったはず。そういうことです。

 

つまりシーズン2、つまり二期において、MAPPAが名倉音響を選んだ時点で「音の制度=設計思想」を名倉系に寄せる意思決定は済んでいる。ゆえに作曲家は可換。

ここからbetterからbestにするには、作曲家を牛尾から、蓮沼に変更させること。実際問題として他作品ではそういった座組が存在する、そして名倉は音響「監督」である。その因果としてMAPPAは名倉を選んだのだから、劇伴の人選を変える程度の判断は当然に織り込み済みだ。設計思想を再定義するのはむしろ自然な帰結。となれば、音響監督が設計思想を通すのは職責ということになります。名倉音響においてベストを目指すとなれば、蓮沼執太へとバトンタッチ、あるいは牛尾との二人体制。このくらいはむしろ座組の変遷として変えないと、名倉音響にした意味がなくなる。既存の音楽スタッフは前任のイメージであって、なにもそこを継承する必要性はない。作品性をあげるなら変えてまでベストに仕上げた方がいいのだから。

アニプレックスは人材単位で設計する人が圧倒的にうまいからこう出れる)

Emergence

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Lunar Mare

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あるいは大手での渋谷慶一郎とか、海外ならBen Frostとか、あるいは一層のこと、ベアー・マクレアリーを劇伴に呼ぶとか、そういうところに根が回らるために「内製化」という帰結でなければ、意味がないんですよね。東宝の縁でゴジラの海外作品として、KOTMでスコアを担当したベアー・マクレアリーという線で温度の高い打診が組めるという考えは実際に現実的。ベアーは Kraft-Engel Management。なら、ここに東宝経由の紹介として正式打診でもすればいい。

Theme from Assassin's Creed Syndicate Jack the Ripper

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Theme from da Vinci’s Demons (Extended Version)

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NHK大河のやり方が、こう言う音楽という背骨を先に決めて、世界観を鳴らせる作家をトップに据えるという技法があります。だからジョン・グラムとかをメインテーマに起用しているわけです。それをアニメに移植すればいいだけ。もしくは、ダニエル・ペンバートンにリドリースコットの映画『悪の法則』(原題『The Counselor』)の音楽、特にブラッド・ピットの首にボリートがつけられて、それが発動されるその刹那を狙った「Wire To The Head」系の冷ややかなミニマルを発注するとか。(これ、普通に歩きながら聞いていても怖い劇伴です。)全曲、ではなく壮大なテーマをベアーに一曲、決めの楽曲を複数ペンバートンにとか、そういう映画劇伴のクオリティを執拗に求めるスタンスはむしろシネフィルネタを引用しまくる『チェンソーマン』にしっかり呼応するならそれくらい徹底するべきで、仮に呼べないしても、そう言う音楽をかき集めたベースを作って、その上でアニメ劇伴としての運用と可変は牛尾が統括こういう「映画級の音楽監督制」に寄せるのが合理的だ。無理難題ではない。難度は高いが、内製で出資まで担うなら、その自由度を最大限に作品の面白さへ投下すべき。

Wire to the Head

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で、なぜにこんなに大掛かりなことを言えるかといえば、MAPPA内製化でありつつも、実際問題としてアニプレックス子会社の親元であるSMEが音楽周りを仕切っているから。偶然かもしれないが、SMAの2人声優起用と、牛尾含め、音楽ではOP/一部EDのSME勢というソニーの重力圏が確かにある。

それが所以で、やれSONYの悪魔」だの「チェンソニーマン」などと揶揄されるのであれば、それを突き返すくらい大盤振る舞いをしないと、視聴者は黙れないと思うんですよね。物故した盛田さんや井深さんにも申し訳が立たないと思うんです。世界のど真ん中で新しい標準をつくる技術と美学を一体で売るがソニーの本懐なんだから。

アニプレ案件でもSONY重力が出てくることを、いい悪いではないという目線で語るのではなく、商業主義の権化で手札を切るならもっと派手に切るべきという話。

出資=MAPPA/流通=ソニー系が太いという二層構造をもつ『チェンソーマン』であれば、Milan Records( Sony Music Masterworks 傘下)と、配給会社の東宝とで手を組むことで、ベアー・マクレアリーを出すことだって夢物語ではない。現実の話で切るのであれば、渡辺信一郎の『LAZARUS』は制作MAPPASOLA体制でありながらも音楽体制は、Kamasi Washington/Bonobo/Floating Pointsのスコアで走り、だからこそ、サントラは国際規格のMilan Recordsからリリースしているじゃないですか。これは「日本制作アニメ × 海外作家 × SME配給」の実働モデルそのものなんですよ。SMESony Music Entertainment)まわりの国際と配給パイプを活かして海外作家の劇伴まで振り抜く設計は十分に描けるし、実際に例も存在する。それが『チェンソーマン』でできなかったのは監督が渡辺監督ほど音楽に対して目配りをせずに外縁としてエンディングテーマ十二曲で盛り上げることに徹したから。もし「海外作家版チェンソー」をやるなら、音楽プロデューサーの常設だったはずだけど。でもそのくらいあれだけ盛り上げるなら、考えるべきだと主張します。配信単位でもCrunchyrollをもっていることを考慮すると、配給=東宝 × 配信=Crunchyroll × サントラ=Milanを三縦串こそ理・真・形であり、これを束ねて「音楽も映画の作法で勝ちに行く」。これこそが「チェンソニーの呪いを解く、最も商業的で、最も美学的な回答。直球的にいえばアニメ『チェンソーマン』がシネフィル文脈を背負う作品なら、音楽も映画の作法で勝ちに行く。それ以外にない。

 

 閑話休題

 

故にジャンプ的大看板×暗色世界×若手主役という難題では、「倍音/低域/無音」の三点を自在に運用できる音響監督が先に立つべきだ。藤田亜紀子は近年の正解分布から導かれるほぼ自動解に等しい。『逃げ上手の若君』で示された帯域設計は、そのまま『チェンソーマン』の弱点補正にも転用できる。加えて、戸谷菊之介が『チェンソーマン』でデンジを、のちに『逃げ上手の若君』で吹雪を演じた履歴は、逃若党サイドから尊氏サイドへと立ち位置が反転しても、演技の帯域/アタックを明確に使い分けられる声優だという証左でもある。そういう意味で小泉体制の戸谷起用は、作品以上に当人のキャリアにとっても欠かせない一手になってはいる。
 
だから、当たり前ではあるが意味がないわけではないのだ。そこは好み以前の問題でプロの仕事として仕上げているという最低限のクオリティは確約されている。
 
じゃあ、ここで問うている「マキマ」は「楠木ともり」が担当している以上、その配役は当然尊重すると言う前提の上で、誰であれば「マキマ」として完璧に視聴者が受け入れることができたのか?と言う話をしてみたい。
 
案1:マキマ=上田麗奈
つまり既存のレゼを演じるのではなく、そのままマキマ路線ならどうか?と言う点だ。
キャリアや演者の特筆性からして、カバーはできるし、楠木版よりもいわゆる統率者、支配者的な側面は間違いなく出る。いかんせんレゼで起用されている手前、自分もマキマは上田麗奈のほうが、音響的にも、演者のバランス帯の跳躍としても成立する。そして、じゃあその場合、いかにもな「レゼ」はどうするのか?と言う点においては、圧倒的にこう答えたい。羊宮妃那。キャリアのタイミングとして、「羊宮妃那」は2020年デビュー組で、勢いの立ち上がりが速い。その上で、主演格の掴みは2022年『僕の心のヤバイやつ』ヒロイン・山田杏奈役。つまり『チェンソーマン』放映後に『レゼ篇』を映画で描きます、と言った時に候補としてあがる声優としてはむしろ筆頭なんです。ここにおける必然性というのは、いわゆる、そもそもとして「マキマ」でさえ楠木という若年の布陣であればこそ、レゼも同年代で組めば、演技バトルとしてそこまで大きな差異はでない。少なくとも上田麗奈が圧勝する未来しか見えない正史としての『レゼ篇』よりも演者のバランスはかなり取れる。
 
レゼを羊宮妃那に置く最大の効能は、軽さ→虚無の落差を成立させるための可逆の声であり、それすなわち、軽さで誘い、母音を冷やして堕とすということ。予告編的な、デンジとのリビドー会話が軽やかに始まり、底が見えた瞬間に怖くなる軌道を描ける素質も『小市民』における小佐内ゆきの演技を浴びた人は全員わかっている。その手の演技の最先端は今や羊宮妃那であることに。
なにをいったところで「ララァ」を演じている事実は、ギギを演じてる上田と張れることの証明である。少なくとも「選ばれている」時点で明白だ。

sai96i.hateblo.jp

もっと言えば、『千歳くんはラムネ瓶のなか』におけるヒロインの声の関係性という意味ではドラマCD→アニメ版とで、上田麗奈→羊宮妃那という交代がそれを象徴している最も良い例だ。音響制作が81PRODUCEのドラマCDだからこそ、81プロデュースという声優事務所に所属する上田麗奈が構造的に選ばれたというのも、実務上の理由の一環としてはあるのでしょう。そのうえで、アニメ側の座組(音響制作・委員会・監督の美学・音楽方針)が変われば、拡張側=羊宮妃那へとバトンが渡るというのは当然である。なぜなら横断的な世代継承なのだから。

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ドラマ版キャスト

そしてこうした関係性を踏まえれば現時点でのこの両者の関係性は

 

  • 絶対値としてのベスト=上田麗奈
  • 時代最適(現在地のベスト)=羊宮妃那

とまとめることができる。上田=原型であり、羊宮は現型。正しさは前者、現在性は後者ということでまとめられる。そしてここには明確な配役の合理性がある。設計思想でいけばこの二人の系譜性は視聴者はわかっているし、直接的なメイン同士ではなくとも、上田・羊宮の組み合わせが多い作品という視点からも絡みとしては合うわけだ。

 

そしてこうした入れ替えは「若手で固める→一柱だけ音の芯を置く」という設計においては優良な別解であることは間違いない。いまの編成は若手×若手×若手+(強キャラも若手)で、台詞の意味は強いのに音の重さが足りず、画面の場に負けている。だからその若手連打を維持しつつ、若手中心の座組に一本「芯」を通す重心役として上田がいれば完璧に現行よりもバランスは取れるし、レゼ=羊宮妃那とすることで、声優的にも戸谷菊之介は乗り越えないといけない壁として成立する。ただ一方で声の性質が強すぎるが故に、マキマと言うキャラ以上に上田麗奈の声が勝ち、御冷ミァハや新条アカネ、ギギ・アンダルシアイズムを逆に負いかねないという危険性もたしかにある。まぁ切り替えはできるだろうけど、視聴者がと言う意味で。

 

 
ちなみに、放映前予想ではほとんどが全布陣においてベテラン組としての予想が多く、当然マキマ、レゼで上田麗奈を候補にあげている人は多数。
 

音響監督との接点から見ても、これはきわめて筋の通った話だ。
決定的ブレイクとしての上田麗奈は、2014年『ハナヤマタ』関谷なる(主演)で音響監督・藤田亜紀子。ゆえに「ハナヤマタで花が開いた上田=藤田チルドレン」と位置づけるのは妥当である。

 

一方、羊宮妃那のブレイクは『僕の心のヤバイやつ』(2023)。APU(AUDIO PLANNING U)育ちの小沼則義が、APU譲りの前傾・微細設計で山田杏奈に抜擢し、台詞を“単体で立つ”ところまで仕上げた。発掘そのものは『その着せ替え人形は恋をする』(2022)で藤田が乾心寿に起用して示している。すなわち「羊宮妃那=藤田チルドレン〔発掘〕/小沼チルドレン〔運用〕」という二重構成であり、老舗スタジオ系の美学で鍛えられた「耳」に支えられている。

以上から、『呪術』と同様に藤田が音響を担っていた場合、この二人をマキマ/レゼに据える確率は高かったと言える。両者とも、藤田の耳が最初に見出した資質だからだ。

 
 
案2:マキマ=平野綾
これは、実は舞台版のマキマの演者が平野綾なんですよね。
こちらからゲネプロの映像を見ていただければその演技の様子はわかります。
これは、いわゆる羊宮案で若手重視というよりも、本当に上田麗奈と対等に、尚且つ文句なしに演技バトルしたら「めちゃくちゃに面白い」布陣という版です。
メタ目線では俯瞰すればこの演技バトルは
涼宮ハルヒ+弥 海砂+ミギー+森川由綺vs御冷ミァハ+新条アカネ+ギギ+関谷なる
みたいな、歴戦キャラの応酬になりますから。面白くならないはずがないんです。
言わずと知れた2000年代中期を代表する役者と、2010年代に台頭してきた上田麗奈という意味合いでも非常に面白いですし。平野マキマ×上田レゼは支配(固定重心)×反転(軽さ→虚無)の二段で非常に映えると言う意味では音響的にもかなり輪郭が明瞭。
上田レゼと本気の真剣勝負の声優力学で殴り合うという意味では多分これが最上。
 
 
案3:マキマ=日笠陽子
案外これが一番しっくりくるかなと。低音の胴鳴りと愛嬌、そしてなによりもカメレオン性。上田・平野ほど象徴役のイメージで固定されていないぶん、聴き手の遅延認知(「あ、日笠だったんだ」)を狙えるのが強い。つまり掴ませない統治者。『けいおん!』澪系の柔らかい接近から、母音を冷やして即停止へ切り替えれば、笑っているのに誰も逆らえない。あるいは『乱歩奇譚』黒蜥蜴の冷たい線で入っても成立する。多面的であること自体が要件のマキマ像なら、日笠は役の可変域を音で提示できる。正体を遅らせる支配者を写実の範囲内で成立させる堅牢としてはおそらく随一。
 
まぁ他にも中原 麻衣だったりと色々と挙げられるが、その中でベストアクターを絞り込むなら自分の中ではこの三人でしかない。そして三人あげたとて、最初から制作の方向が「既存スタイル踏襲」ではない
原作が今までのジャンプ作品とは異なる色を持っていたため、演出や表現の決まった型を持つ人より、“型を持たない新しい人”にディレクションしていただくことでおもしろくなるのではないかと考えたんです。
とある以上、最初から「既存スタイル踏襲」=上田・平野・日笠・中原的な硬度を保証できる配役は選択肢にすら入っていないから徒労ではあるのだが。制作が決めたのだから仕方ない。断言しよう、藤田亜紀子さんであれば、この布陣になるかどうかはさておき、少なくとも選択肢としてもっとこういった選び方をしていたはず。なぜなら中村と櫻井を立てるという使い方がこの既存スタイル型でしかないから。
 
だからこそ劇場版『チェンソーマン レゼ篇』において、名倉靖へバトンタッチしたことが音響力学として大きく付与してくるんです。改めてこの意義について音響監督軸として展開していくと名倉は楽音舎出身であり、鶴岡陽太の現場で録音設計を担ってきた。録音はひらたく言えば、音響の技術的責任を追う職務である。その延長線上で『チェンソーマン レゼ篇』では音響監督を務めるに至る。
 
鶴岡陽太は、おおよ認識範囲としてわかりやすいタイトルとしては古くは『涼宮ハルヒ』、『けいおん!』そして今や音響の教科書となりつつある<物語>シリーズ、『まどか』『氷菓』『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』『響け!ユーフォニアム』など、一般的にはシャフト/京アニ声優の布陣を構築してきた大御所の一人です。派閥としては
その鶴岡音響の録音として支えてきたのが名倉氏、だから実際の経歴としては鶴岡キャリアに名倉の録音が付随している。-名倉靖不参加 以外は録音参加。
 
京アニライン》
《シャフトライン》

主旋律として知られている<物語>シリーズ

 

ちなみにシャフト黄金期の00年代の中枢作品/および物語・まどか以外はほぼ*2亀山俊樹が目立つ。

 

この二枚音響看板が同時期に走っていたから、同じシャフトでも『絶望先生』『電波女』『それ町』系と、『荒川』『ef』『夏あらし』系で音の肌触りが妙に違う。

 

《その他鶴岡*名倉案件》

こうして振り返ると、鶴岡×名倉の実戦歴(京アニ/〈物語〉/HELLSINGブギーポップ)で積んだ「台詞の芯を立てつつ空気を混ぜる」流儀を、録音設計の域を超えて全体演出へ引き上げたのが20年代の今、劇場版『チェンソーマン レゼ篇』において実装されるということです。鶴岡陽太ではなく今度は名倉氏が主体となり、楽音舎(スタジオごんぐ)で鍛えられた鶴岡系譜の録音アーキテクトが、2020年代に「音響監督」として前面に立った象徴例としておそらくアンセム的な作品になるのが『チェンソーマン レゼ篇』となる。

 
そしてその主演は数多の難役をこなしてきた上田麗奈であり音響監督の名倉と上田麗奈の組み合わせは『ハーモニー』における録音演出で一度邂逅済み。と、いうことは、御冷ミァハの録音に携わった方が、レゼで総合的に音響を扱う。こんなにも信頼のおける組み合わせは多分ない。その意味でテレビ版におけるレギュラーの役者含め、明らかに音響の使い方は異なる、というか映画的に趣向になるのは映画『傷物語』を経ているという歴からしても自明。シャフト作品を通じて鶴岡系譜で地続き、肩書でアップデートこの二段重ねが面白い。そして多分上田麗奈が要する微細な息づかいなんて、多分一番向いている人。
 
<以下、本編を見た感想>
以上の系譜と設計を前提に、劇場版『レゼ篇』が実際にどんな音で立ち上がったかを、スクリーンに鳴った事実で確かめていくと、やっぱり上田麗奈はさすがでした。戸谷との組み合わせで当然「上田麗奈劇場」であったことは言うまでもない。その上で戸谷サイドには「花江夏樹」がサメ役で輝いていました。つまり、これなんですよ。上田と真っ向から演技勝負なんて、そりゃキャラクターも相まって決まる。そこで『喰種』で輝きをみせた花江がああいう役をすることで戸谷との掛け合わせで「一段」上にのるわけです。中盤以後の戦闘シーンにおいて演技体として自然に掛け合いとして聞こえたのはどう考えても音響的には「花江」がいたから。『レゼ篇』になって急に配役におけるバランスが取れ始めていたのは正直、総集編の段階で名倉氏が関わっていたとはいえ、ここまで化けるものかと思いました。シャフトで研がれた額縁と京アニで鍛えられた透明が、名倉のもとで一本化されたその確かさが声優の演技や環境音すべてにおいて、圧倒的に「映画」でありバランスの取れた作品であった。そして、やっぱり上田麗奈のキャラはこの映画の回で退場する。だからこそ出番が少ないマキマは、存在感として「あ、やっぱりマキマは別格だな」と思わせるだけの演技は必要であったが、そこは残念ながら感じられず、「そこらへんの年上の女性感」がひたすら残り、キャラとしてマキマ<レゼであり続けること自体は映画の設計である。だから仕方ない、と思いきや、それを言ったらおそらく後半にその真価を発揮するであろうマキマなら、やっぱり声で上田麗奈をも倒すくらいの輝きは必要なのは、レゼ=上田麗奈最高、と言うなら余計にそうあるべき。そして、劇伴の牛尾もテレビシリーズよりも劇場だからか、かなり牛尾色は残りながらも、やはりそれなりに面白い劇伴に仕上げてきていたとは思う。だからテレビシリーズよりかはちゃんと仕事していると言える。とはいえ、音楽性自体が、山田尚子との相性という、真に輝く組み合わせがあるからこそ、純粋に『レゼ篇』で牛尾だからこそ、というのはやっぱり感じられなかった。ここまでくると設計思想の話なので、どうしようもないですけどね。
 
前半の散歩シーンに『リズと青い鳥』由来の既視感が差し込み、戦闘で弦が立ち上がる手際は面白いのに、逃走パートで再び他作で見た構図へ回収される印象が残る。要は設計思想の差で、ここは致し方ない領域だ。その上で戦闘で盛り上げて弦楽器まで入ってくるのが意外に面白さはあったが、その後の逃げる時の音楽において、ここもやっぱり別作品で見たことがあることを繰り返して予算とテレビ版ではトライしていていなかった点をマシマシという印象が強く残る。
 
チェンソーマン』の元アシスタントで現在『ダンダダン』を描いており、こちらもアニメも3期が決まりとかなり好調なのだが、それこそ花江が出ているという意味も含めて、『チェンソーマン』で背景を支えた人(龍幸伸)がかいた漫画とそのアニメの方が牛尾である必然性があった。そしてそれが今度は『レゼ篇』で活かされたのではないか?と少し思ってしまった。でなければ最初からテレビシリーズの段階で今回のような劇伴を作ってれば音楽としての側面は今よりは確実にあがっていた。とはいえ、やはり劇伴作家としてベストではない。今一度その原理原則について。
 
まず出発点。鶴岡・名倉・山田尚子+牛尾の長い系譜は「山田作品」側に限れば、牛尾が必要条件に近い。『平家物語』『きみの色。』では音響が*3木村絵理子に代わっても木村×山田×牛尾が二連続で成立した。これは、音響座組が変わっても山田×牛尾が完成した言語として自立している証左だ。結論は明快、牛尾=山田のラストピースは真である。
だからこそ『聲の形』-inner silence版は音響剥き出し(台詞、劇伴なし)の、言ってみれば牛尾の本髄とも言える音響が全面にもってきた作品として足り得たし、そんな作品がBlu-rayに収録できるくらい、「牛尾音楽」というものが山田尚子作品と適合し、その上で鶴岡陽太もそれを後押ししているのだ。
 
一方、『チェンソーマン』の主語は金属/路地ノイズ/血であり、ここで日常の親密ミニマルを基調に据えると、音源としては聴けるかもしれないが、同じ牛尾でも、山田語法のままではベストに届かないし、それをそのままくっつけても当然うまくいくはずはない。届くためには、楽器情緒を封印し、別作家の環境音を主語に据える文体が不可欠になる。
 
そして、先述した『ダンダダン』が牛尾音源とハマったのは、SARU系の絵作り×牛尾の身体内リズムが同一言語圏にあり、木村音響の運用と合成したからだ。つまり若山詩音と花江夏樹との掛け合いと怪異とラブコメと、という絵作りが、湯浅政明由来のSARU映像との一種のドラッキーイズム前景の作品だからこそEDM系で決めることが逆に「正解」になる。だから合う。それすなわち、ラブコメ的近接と怪異の混ぜ合わせには親密ミニマルが効く。だからこそ、これは例外ではなく必然の適合。ゆえに前年の『チェンソーマン』(2022年)がベストではなかったという逆証明にもなる。実際に統計を取ったわけでもないし、取れるわけではない。
 
では一般人が測れる方法として行動消費型としての音楽サブスクで考えみえればいい。
 
前提として配信されたばかりの公開直後のレゼ篇は最大瞬間風速で上位を占有していたとしてもそれは、いい音源であることに加えて作品公開直後の熱気があるので、均等に見切れにくい。フェアとして考えるなら、それ以外の音楽で考えるべきである。そうなると少なくともApple Musicではこのような並びとなっている。
(画像は2025年9月21日 23時40分時点)

『レゼ篇』の劇伴を除く牛尾音源の人気ランキング(Apple Music)

ご覧のとおり、行動消費の指標では『ダンダダン』のほうがハマっていると主張できる。配信直後のレゼ篇は瞬間最大風速で上位を席巻しているが、Apple Musicの並びを作家名横断で見ると様子が違う。

先頭は『チ。—地球の運動について—』のメインテーマ、次いで『チェンソーマン』の楽曲が1曲。その後は『ダンダダン』と『聲の形』の楽曲が食い込み、末尾側になると『チェンソーマン』の劇伴がまとまって並ぶ。
要するに、単発で上位に2曲置けているのはチェンソーだが、安定して6曲が上位帯に居座っているのはダンダダンという結果で、リスナーの反復再生/日常ループはダンダダン側に寄っていると読める。この差は前段における「合う/合わない」とも符合する。ラブコメ的近接×親密ミニマル=日常BGMに馴染みやすくループが伸びるからだ。このランキングの並びは、そのまま作品と音楽適合が聴かれ方に反映していることの行動的な証拠になっている。ではここで他の大手サービスとも並べることで母数を安定させることで統計的にもそれがどうかを検証してみたい。もう一翼としてのSpotifyの画面で比較してます。

なお、Spotifyアルゴリズムの基本は、再生回数順のため配信直後の『レゼ篇』OSTはそういう意味で反映されないため、より、『レゼ篇』バイアス抜きの結果となるということは今回でいうとより素直な結果として現れるということを留意したい。

Spotify|牛尾アーティストページ

Spotifyの「人気曲」を作家名横断で見ると、トップ10はダンダダン5/チェンソーマン2/聲の形3という配分具合。『レゼ篇』の新譜が同条件で並んでいるにもかかわらず、上位帯に安定して食い込んでいるのはダンダダンの楽曲群である。

(※重要なので再度強調しておくとSpotifyの人気曲は累積+直近再生寄りのため、新譜バイアスが相対的に弱い)。

 

ゆえに、行動消費の観点から明確に言えるのは、テレビ版『チェンソーマン』の劇伴は翌年の『ダンダダン』と比べて「合っていない」という事実である。対して『レゼ篇』はロマンスと哀愁を踏まえた劇場設計と「指示書」によるアプローチの違いがあり、将来的にはこの上位帯をレゼ篇OSTが奪う可能性もある。そうなるなら、制作の仕様に忠実に作ったテレビ版『チェンソーマン』の劇伴は、レゼ篇という更新版の前ではアプローチ自体が劣後していたことになる。言い換えれば、『レゼ篇』がなければ牛尾起用の意味・意義・大義は最低限の保証すら得られないということだ。

以上のことを踏まえ、パンフレットの寄稿文を読むと以下のように文章を寄せている。

TVシリーズのときから「『チェンソーマン』ではまだ出していないアイデアがいっぱいあります」とずっと言っていたんです。この作品に長く関わらせていただけるのなら、「このタイミングではこういうことがやりたい」というものがありました。その一つが「レゼ篇」でオーケストラを使うということです。映画館という優れた環境で鳴らすのは大編成のオーケストラの音適しているだろし、「レゼ篇」は本作の中でも際立って叙情的なパートなので、そういう意味でもオーケストラの音が合うだろうなと。また、大編成のオーケストラとはまったく逆のピアノとバイオリンだけの小さな音の曲も作ることができるなと思いました。映画館では大きな音がよく鳴りますが、小さくて微細な音も聞かせることができるんですよ。そうした曲も「レゼ篇」に適していると思いました。

(中略)

音楽を映像に合わせると合わせないところのメリハリが重要なんです。

MAPPA 東宝.劇場版『チェンソーマン レゼ篇』パンフレット.P30-31.株式会社美松堂

つまり、『レゼ篇』のOSTが良いと思うということは、テレビ版にはない想像力ということの証左であり、ならばなおのこと、テレビ版では様々な理由で牛尾は自分の音楽を全開で見せることは作芸、スタイルの方向性という意味で厳しかったことが伺える。「レゼ篇」だからと書いてあるが、つまり起伏がる物語ではないと、アプローチからして難しいということの表れである。「叙情的」とまさしく述べている通り、「感情」の起伏がある物語であれば、牛尾サウンドは効能として効くというのが見立てとして最低限見積もれる。つまりそれが物語としてない『チェンソーマン』テレビ版は、結局、牛尾である必要はないということを、本人が『レゼ篇』で証明しているとも言える。

もっと踏み込んで言うなら、叙情性=感情の起伏×視点の近接×時間的持続の三点が立っている時、牛尾音楽語法が最大効率で噛むということだ。その意味では逆算だが『レゼ篇』こそ牛尾が輝ける物語であったことはもはや振り返る必要もない。

「映画館でしか聴こえないような小さく繊細な音も楽しんでいただきたいです」という主張は、TV版よりもダイナミックレンジと微細音を設計軸に置いた宣言であり、TVシリーズとは別相で、劇場=音で物語をかける設計に舵を切っていることが可視化されている。だから、プールのシーンで爆発的なメロディが流れて観客は「名シーン」と思えるのです。そういう設計をしているから。もちろん悪意的な「ここで感動しろ!!」っていうのではなく、純粋にこういうシーンではこういうサウンド性が合うからそうするという意味でね。

この『in the pool』は言ってみれば『エヴァQ』の『Quatre Mains (a quatre mains) =3EM16=』に近い。本編の中でもこのシーンが一番「合う」というその映像とのダイナミズムとしてね。

in the pool

in the pool

Quatre Mains (a quatre mains) =3EM16=

Quatre Mains (a quatre mains) =3EM16=

  • provided courtesy of iTunes

そして、これらを取り巻く時系列、つまりはテレビシリーズからできなかったこと、「レゼ篇」になってできた、そして劇伴の受けとしては明らかに『レゼ篇』に評価軸が高くついているが、テレビシリーズではそうではないことが可視化されていることはサブスクのデータも、一例でしかなく、全てであるとは言わないし言えない。が、おおよその傾向としてApple Music、Spotifyでの傾向というのは大手サブスク元の数字として嘘ではない。テレビ版『ダンダダン』の方が劇伴としていいし、『聲の形』の安定性を取れない時点で劇伴としては弱いんですよね。テレビ版は。作家の優劣ではなくテレビシリーズで、合わない題材という環境から発生した非対称によるダメージということだ。

だから、TV版は他作(『ダンダダン』等)と比べても劇伴単体の立ちが弱かった。でも、劇場ではフィルムスコアリング広いダイナミックレンジによって牛尾性が「上がった」。だからこそ、TV期の牛尾アプローチは『チェンソーマン』の要件に適合しなかったということです。それがサブスクにおける「再生回数」としても、多作の方が聴かれている結果も出ていのだ。

 

これらを「ミスマッチ」、感覚として「采配ミス」と捉えたのであれば(あるいはそれに近い感情を抱いたのであれば)、それは「名倉音響×場の作曲」と「山田語法×親密ミニマル」を分離できていないことを自ら認めたということになる。その意味で、劇場版『レゼ篇』をもってしても「名倉音響」にかかる「場の作曲」は依然として不在である。だから本論考では、その「場」を担うアーティストとして蓮沼執太という案を提示している。

 

以上の観点も踏まえると、総じて「最初からこの処方で臨めていれば」を映画が提示してしまった、が妥当だ。もっとも劇伴は半分の達成に留まる。

理由は明快単純で、音響監督は名倉に替わったのに、設計思想は旧来の音響を前提に走り続けたから。細かい理屈をこねなくても説明がつく因果である。

わかりやすく置き換えるなら『シン・エヴァンゲリオン』で、総作監が歴代の骨子を組んできた本田雄ではなく錦織敦史へと交代したことで生じた現象と同型だ。「作監が替われば絵の顔つきが変わる」のと同じく、音響監督が替われば作品の耳の顔つきが変わる。言ってみればただそれだけの話である。

 

MVPは上田麗奈花江夏樹。声優という職能をしっかりと「記憶にのこる演技」としてこなせていたから。上田麗奈はこの後にも『機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ キルケーの魔女』で引き続きギギ・アンダルシアを演じる。これは原作既読勢にはピンとくると思うが、つまりその手前でレゼを演じたのはある種の準備ともいえる。はて、富野御大が作り出したあのキャラを、第二章ではどのようにして演じられるかが楽しみである。
御冷ミァハ(『Harmony』)/新条アカネ(『SSSS.GRIDMAN』)/ギギ・アンダルシア(『閃光のハサウェイ』という破格のキャリアにレゼ(『チェンソーマン レゼ篇』)が加わったこと自体が本当にこの声優の凄さというのを象徴する、その意味ではこの映画は本当に上田ありきの作品だ。
その点でいえば、やはりMAPPAは音響的には圧倒的に『呪術廻戦』のほうが成功している。放映前の予告編の「渋谷事変 特別編集版 × 死滅回游 先行上映」で、乙骨=緒方恵美の低域の「いくよ、リカ」、五条=中村悠一の一言「領域展開」、偽夏油(羂索)=櫻井孝宏の宣告。これらはいずれも台詞が一行で立つ。これこそが「音響」の妙である。対して『チェンソーマン レゼ篇』本編で、この水準に届いたのはレゼ=上田麗奈ビーム=花江夏樹だけ。ここに新人主体の座組が生む音響的ハンデを感じた。声優という職能の本懐は記憶に残る一行で観客の耳を掴むことにあり、キャリア差は言い訳にならない。そして「なぜ比較する?」と聞かれれば、それはジャンプ大型IPの標準に照らせば、比較は当然。『呪術』は主役=量/主権者=音の質を両立し、一行で立つ声を量産できている。『レゼ篇』は名倉の設計で映画的バランスに到達し、上田×花江がその規格線へ肉薄しているから。だからこそ他のキャスティングが相対的に浮く。
 
主題歌においても、オープニングを作曲・作詞・編曲を米津に統一したことはかなりスイッチが入っていた楽曲にもなっており、坂東や常田が不在の分、原液たっぷりの楽曲が味わえて、それこそ作品にあるべき楽曲のオープニングにしあがっていた。ここまではいい。しかしエンディングは正直いかがなものかと思う。
 
曲がいいのは、もはや米津*宇多田ヒカルというライン軸でいえばクオリティが高いのは当たり前。しかし、その組み合わせは本当に『レゼ篇』に必要であったかといえば、そこまでの必然性はない。悪く言えばただの客寄せパンダでしかない。なんと比喩すればいいか、、そう例えばジブリ映画における『風立ちぬ』(2013年)と『君たちはどう生きるか。』(2023年)がまさにいい例で、「良し悪し」ではなく必然性の問題として、本当にそうでなければいけなかったのか?という意味合いにおいて考えると、どう考えても、『風立ちぬ』×「ひこうき雲」は内在的必然(作品にその歌がつく意味)がある。それは、歌詞テーマに「若い死」があり、空・上昇・消失というモチーフが映画の死生観と直結する。つまり作品の主語にかかる。「生きねば」というコピーに。結果、EDで物語の主語を回収する内輪として機能する。でも一方で、『君たちはどう生きるか』×「地球儀」は外接的なんですよね。本編スコアは久石譲が担い世界観の内側を支える。しかもガッツリミニマル音源というかなり実験色なテイストで。だからこそ、余計に設計上は外側の看板に近い振る舞いでしかない。EDで主語を回収する内輪まで降りていない。
要は、内側が硬いかどうかです。『風立ちぬ』はユーミン曲の既存意味と映画の死生観が最初から噛み、EDが物語の主語を回収する設計。
『君どう』は書き下ろしの新しい旗、米津新曲書き下ろしとして機能しつつも、内側(久石スコア)との役割分担が外輪寄りで、観客体験として「中和」まではしても「必然」まで踏み込まない。だから後者は必ず、あるいは絶対的に「そうである」必要性がないということだ。
 
その点でいえば『エヴァ』は一環して鷺巣詩郎であることに作品足しめる効果効能が常に「存在」していた。鷺巣詩郎がTV版から新劇場版まで一貫してスコアを担い、シリーズ横断の動機(今では同じみのBGM含め)やクラシック引用(バッハ、ベートーヴェン等)を再配置して「エヴァの音」を固定してきた。これが土台。硬すぎるほど内輪の音楽が常に偏在する。だからこそ見た人にしか通じないとは思うのだが、それこそ、鶴巻監督の短編『EVANGELION:3.0(-46h)』で「庵野以外のエヴァだと物足りない」と思ってもエンドロールで「mirror mirror: orchestra and choir」が流れると一気にあの世界に引き込まれるわけです。
mirror mirror: orchestra and choir

mirror mirror: orchestra and choir

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この、内側=連続するスコア/外側=継続する主題歌の二重構造があるから、宇多田を起用しても観客は「まあエヴァだし」(作品強度=いくら本が滅茶苦茶でも世界観の軸が鷺巣音楽とカメラワークにおいては絶対「良い」と固定できるに対する信頼感)と腑に落ちるし、作品トーンの変化を音楽が中和して受け止められる。結果的に、音楽が世界観の最低限の連続性を保証する装置になっているからこそ宇多田ヒカルで締めても、作品がぶれないからこそ、逆に成立するのです。「Beautiful World」「桜流し」「One Last Kiss」はそういう意味でのバランスがあったからであり、アニメ映画に宇多田ヒカルをとりあえず起用しておこうっていうのは、その実とても安直なんですよね。

 
たしかにMAPPAは音楽にこだわる節がある、だから思想としてはわからなくはないが、であれば『レゼ篇』で立たせるべきは、上田麗奈の声で楽曲を歌わせることが真の意味での作品性に直結するはずだ。明らか「誰の作品」といえばレゼフォーカスなのは明らかなのだから。
 
実際に上田麗奈は、自身のアーティスト活動においても自分が演じてきたキャラクターの自己的解釈として歌詞へと落として歌唱するというスタイルで、特に『Empathy』はそういったスタンスで構築されたアルバムであった。だからこそ上田麗奈を立てるキャラとして御冷ミァハには『旋律の糸』があり新条アカネには『いつか、また。』がある。新条アカネなんて、こんなエピソードがあるくらい、魂削って演じられていたわけです。
旋律の糸

旋律の糸

いつか、また。

いつか、また。

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そういうスタイルでアーティスト活動をしているのだから、その文脈をついて牛尾に作曲でもさせてfeat.上田麗奈で締めた方が、圧倒的に締まる。そうしないのはやっぱりソニー重力と作品を広めたいという商業的解釈が強いからだ。それはそれで間違っていないが、重圧にするべきところの解釈として数歩、ずれているなという点はいなめない。それこそ『きみの色。』でエンディングテーマが「しろねこ堂」ではなくミスチルの櫻井楽曲で締めたように、それはそれでいいけど「アニメ」としては、「しろねこ堂」のバンドのアニメ作品なのだからそうあるべき、この理屈と同じ。山田尚子×牛尾のラインでは、本編に劇中バンド「しろねこ堂」の楽曲(作曲・編曲:牛尾、作詞:山田)を内在化させつつ、主題歌はMr.Childrenという外輪で締めた。結果として「映画内の声(しろねこ堂)」と「外部の看板」が分立した構図になり、ここに賛否が生まれたのは事実。 ソニーの重力があるのは、半ば致し方ない。

 

その上で、外部スターを使うなら、OP=外輪(米津)/ED=内輪(上田)で主語分担をはっきりさせる手がどっちも納得できる。今作はOPもEDも外輪なので、どうしても規模の見せ筋に「商業主義」の匂いを感じ取って劇場をでないといけないということなってしまったのが個人的には残念なところ。OPは規模、EDは物語。この規模感を保ってこそ、本当の意味で作品というのはあがられると感じます。

それでいえば『私を喰べたい、ひとでなし』はしっかりと「作品性」をとっている。

www.crank-in.net

――カテゴライズしないからこそ、そのキャラクター個々の魅力がより引き立つのですね。また、本作ではエンディング主題歌「リリィ」を比名子役として担当されていますが、彼女が歌うというのは少し意外でした。

上田:そうですよね。でも、実際に比名子として歌ってみると、意外と違和感はなかったんです。完成した音源を聴いてみると、歌詞には彼女の今の状況が色濃く反映されていて、その危うさや儚さ、脆さが自然に香ってくる。

そして最後には、ほんの少しですが“希望”を感じさせる流れになっていて、本編のもどかしい展開の中で、エンディングの彼女の声が一筋の光を見せてくれる。それだけでも救われるような感覚がありました。「本編でこの歌を歌っている比名子を見てみたい」と思わせるエンディングになっていると思います。

主人公=八百歳比名子(cv.上田麗奈)を物語の主語に据え、ED「リリィ」も比名子として上田麗奈が歌う設計。主演とエンディングが同一の声に収束するので、作品は最終的に上田の声で「閉じる」構図になっています。それこそOPは吉乃「贄-nie-」で、外側から世界観を提示し、EDで内側=比名子の一人称へ回収する二重輪。OP=外輪/ED=内輪の綺麗な実例です。内容面でも、上田麗奈自身が「歌詞に比名子の今が色濃く反映され、EDの彼女の声が一筋の光になる」と語っていることからも、EDがキャラクターの心理を担う「内声」として機能していることがわかる。ここまで整って、ようやく観客の情動の着地点がキャラの呼吸と一致する。まさに「作品として上田麗奈で閉じる」体験となるのだ。

 

同じ主演上田麗奈アニメでもこうもアプローチで差がつくのは、劇場であり、IPの差といい、レーベル/権利の力学ゆえにCVによるEDが難しくなる場合があるからというのは理解はできる。でもその上でやはり、CVエンディングの方が効果効能の幅で言えば大きいんですよね。キャラソンをつけろといっているのではない、上田麗奈のような高度な役者を添える演技がメイン軸でありながら、エンディングテーマはそこに全く関係、接点のない宇多田ヒカルをもってくることで「何を聞かされているんだ」感が増す。つまり作品は良かったのに、エンディングで観客の心がずれる。こういうは悪手であるということを主張しております。少なくとも、そこには「本編」に何もかかってないんですよね。わざわざ起用する意味としては。だって一切関係ないじゃないですか。

 

だから『レゼ篇』はあの二人でいい、でも「ufo×アニプレ」系のアニメはLisa、Aimerでなければ締まらない、だからスター主題歌はダメ。こんなの理屈としては通らないんですよ。しかも実際に前者の例で成功しているビジネス世界のなか、いちいち、ある意味ではスター音楽家起用という方式は、つまりアニソンであろうが興行収入ヒット作につながるこのご時世、別にマストで取るべき手法でもない。フランチャイズ作品ごとに好き嫌いで考えていたら何がフェアで、何が目的かというのが絶対ブレる。

だからこそ、音楽起用は「誰を使うか」ではなく「どう機能させるか」で評価すべき。人選は方法、機能が目的。簡単な話です。

 

まぁ、とはいえ、この『チェンソーマン レゼ篇』が何を作品として意図していたかといえば、間違いなく高度な引用ネタとして尾石達也の『傷物語』構成を援用しているという裏設計図という図式でみれば、「Étoile Et Toi」-「JANE DOE」の掛け合いは、つまりは物語の二極を掛け合いを重ねで描くという意味ではかなり似ているし、寄せたと言えば納得はできなくもない。

とくにED=恋の残響という構図の継承は滅茶苦茶強い。『傷物語』が阿良々木暦とキスショットの関係性を甘美的にフランス語で表現というアプローチに対して、『レゼ篇』デンジ/レゼ的な刹那を米津と宇多田のデュエットで閉じる。楽曲自体が、そのままフレンチ直輸入ではないにせよ、シャンソン的な語りのデュエットという構図はも重なる。

簡単にいえば、二人称ロマンスという手つき。

そして、レゼとの戦いにおいて、最後のデンジの腕から直線的にチェンソーを出す構図もまぁ、傷といえば傷。

etoile et toi

etoile et toi

傷物語』<熱血篇>

傷物語』<熱血篇>

傷物語』<熱血篇>

 

だから尾石達也の『傷物語』を知っている人なら構図といい、エンディングの掛け合いといい「なにがしたいのか」という点おいては理解は可能。名倉音響はその意味ではど真ん中で録音を担当をした人。というあたり『傷』自体を意識していないはずもない。

傷物語』の総集編のトークイベントにおいて「鶴岡陽太」言及があったのを思い出したのでこちらに起こしました。3行ですけれど。三部作で録音を担当した名倉劇場という意味でもいかに映像主体の作品に音を当てるということが大変であり、それを通したかという一端が、垣間見えます。

sai96i.hateblo.jp

 

そういう意味では『チェンソーマン レゼ篇』は鶴岡陽太に長年、録音を担当した実績と、楽音舎出身という点からしても鶴岡音響に密接であり、シャフト作品にも多数録音として参加しており、中でも『傷物語』三部作にいることなどから、シャフト作品に縁のあるスタッフといえる。故に、本作は少なくとも、音響アニメという意味では「近傍シャフト」と言える。

スタジオこそMAPPAだが、音響監督=名倉靖(=シャフト作品群で録音を担ってきた中核人材)が音響監督として、メインスタッフに入っているからだ。音響監督の系譜がシャフト直系。ゆえに音響面の系譜で「近傍シャフト」認定で整合が取れる。

でも知らん人からしたらオシャレエンディングテーマにしかならないという二重苦。まぁそれはそれで、別に気にならないければそれまで。でもその場合、この「JANE DOE」の評価軸は「曲が良い/スターがすごい」という、言ってみれば当たり前の職能礼賛だけに収束する。 

アニメーターに絵が上手いとか、作曲家に曲作れるのすごい系の1=1系の入力=出力の同語反復である。1=1はただの点呼です。本来は1+1= でなければならない。

そしてそれは在り方としては作品に「かかっている」実感というものが底抜けしていることの証左であり、「作品」と「エンディングテーマ」は分離していてもいいと言っているようなもの。スタンスとしてそれもあり方はあり。でも全作品にそれを適応するのは、鑑賞者という立場からすれば絶対に「特別な作品」というものが生まれるので、いずれはこう言った問題に直面するはず。じゃあ直面しない方法は一つしかない。

OP=外輪/ED=内輪。

 

総合的に言えば『チェンソーマン レゼ篇』という作品は名倉靖の音響設計が映画に必要なバランスを与え、上田と花江が一行で記憶に残るを達成した。OPは規模で正解、EDは主語を取り違えた。ただしここは物語閉じをキャラクターの時間を止める(内在的エピローグ)か、映画閉じ=物語を観客の時間に返す(外在的エピローグ)という選択制であり、後者をMAPPAが選択したということ。

美点は明確、課題も明白。

 

ここから先の答えは、音で示せばいい。

 

そしてそれにかかる一番重要なポジションこそが「音響監督」なのだ。

 

 

追記.2025年10月8日

natalie.mu

やはりというべきか、牛尾自体はオファーのファーストインプレッションからして否定的。だがMAPPAの熱量によって快諾するという手順で起用されている。ここが問題だ。

初手の段階で担当する作家が「自分でいいの」と思うほど牛尾の中ではオファーされること自体が、予想外であったということが証明されました。

普段やってる自分の音楽性を鑑みても「私でいいんですか……」と。実際できるかどうか迷ったんですけど、大塚学社長をはじめMAPPAの皆さんがとても熱意を持って口説いてくださったので「一緒にがんばりたい」と思いましたし、原作を読んだときに「これめちゃくちゃだな」と感じたんですけど、それがすごくよくて。この印象を楽曲のコンセプトに据えたら楽しそうだなと思ったのがお受けした理由です。

結局、原作の面白さをコンセプトにできればな、という推進力こそ自ら生み出しているが、音楽的には「説得」された以上、原作に寄り添うこと。そしてその結果原作をコンセプチュアルに還元できれば「楽しそうだ」と発言しているからもお察しできるように楽曲との相性、必然性ではない。そしてそれは設計ではなく「牛尾」という名前のブランド性に依拠しているだけ。一体、何を思ってMAPPAの社長様と推した社員は「牛尾」に拘ったのか。ここが最終的な謎なのですが、これが「ネームバリュー」「ブランド」以外にあるのであれば、是非とも公開していただければと思います。『レゼ編』のサントラの功績は、牛尾が生み出したもの。なぜならば、牛尾が叙情的ストーリーにオケを導入したいという作家からの提案にによって生まれているからこそ、ようやくここで前景化してサントラとして極まったというわけです。だからこそテレビ版での意義というものは牛尾本人よりもMAPPAが握っているのでその点さえ明らかになれば問題は解決します。「名札で安心」ではなく「大義を先に立てる思想の深さ」。『国宝』はそれを実装し、『チェンソーマン』は欠いた。どちらもトップが推していても、設計思想の有無が力量差を露呈させ、結果の質を分けたわけです。原摩利彦は、現代音楽・環境音楽・コンテンポラリーのフィールドでは評価も実績もあるし、専門領域では十分に知られた存在。ただし 大衆的なヒットメーカーではない、つまり「名前で数字を保証できるタイプの作曲家」ではない。でも、だからこそ『国宝』での起用は重要で、大衆的な知名度に頼らず、作品の審美と音楽の必然性で選んだことにより、その結果として「100億規模の評価と興行」に繋がり、作曲家の知名度を逆に押し上げた。これがアニプレックスの村田千恵子とそれを繋いだ岩上敦宏の連携プレーの設計・座組の勝ち方である。一方『チェンソーマン』の牛尾は、逆に名札先行で選ばれた印象が強く、必然性の言語化が最後まで不十分。記号として通じる範囲にいたけれど、その意味と作品の意義が噛み合わなかったということが、このインタビューをして、余計に露呈しています。その上で、『レゼ篇』。ここになると、もはや制作の熱意ではなく、牛尾本人が「叙情的ストーリーにオーケストラを導入したい」と作家側からの提案を出したことがポイント。つまり外から押し付けられた枠組みではなく、作曲家自身が能動的に「音でどう物語を拡張するか」を提示した。結果、初めて音楽が前景化し、サントラとして極まった。だからこそここまでサントラの評価もテレビ版より高いんです。そこに名倉音響イズムが過去作との呼応で一致したのもあって。

たまたまですけど、今回の音響監督の名倉さんは「映画 聲の形」(2016年)と「リズと青い鳥」(2018年)のときのミキサーさんなんです。もちろん全体の方向性については名倉さんの統制下で進めるわけですけど、僕は“名倉音響組”のスタッフで、名倉さんは僕のことをすごくわかってくれているので、ある程度の裁量を渡してくださいました。ライブセットの場合、どこに何をどういうふうに当てるかってすごく大事じゃないですか? それって一般的には劇場作曲家の領分を超えていて、本来は音響監督さんとか選曲さんの仕事なんです。「ピンポン THE ANIMATION」「DEVILMAN crybaby」のダンスミュージックとしての音楽的側面は自分の今まで培ってきたものだし、名倉さんの信頼のもとそれをやらせてもらったことも、全体を構造的に作れたことの要因の1つかもしれない。あまり集大成という言葉は使いたくないですけど、これまでのいろんな経験則が結び付いて今回結実したことはよかったなと思います。

ここも象徴的ですね。当然ですが、設計の主語は名倉、牛尾は「理解され・裁量を委ねられた」立場。ライブセット的アサイン(どこに何を当てるか)の作業自体は、本来は音響監督/選曲の領域を牛尾が担えたのは、名倉の統制と過去作品における信頼「ゆえ」に成立しているのです。『ピンポン』『DEVILMAN crybaby』からのダンスミュージック的知見=作家の蓄積が今回「構造的に作れた」要因に直結。正直、ここには『チェンソーマン』以後の『ダンダダン』も含まれます。要は、制作が意味を設計したのではなく、名倉の設計×牛尾の能動が噛み合って初めて前景化したことが全てなんですよ。そしてこれらのことから分かるように、名倉の設計×信頼による裁量移譲×牛尾の能動の三点で成立していて、MAPPAの関与は実質ゼロ。『レゼ篇』は名倉がそれをよって上げたからできた。ゆえに、テレビ版の弱点(MAPPA主導の名札先行)は、ここで完全に露出した。これらが全ての真相です。

でも、だったら最初から蓮沼の方が名倉は妥協せずにいられたと思うし、好きな楽曲を本来の意味でアサインできた、という意味で『チェンソーマン』には適合であるという主張が妥当性を増します。果たして二期以後どうなるかはわかりませんが、この『レゼ編』で見えた諸々の課題は重要なので、それらを早いところ、全てクリアしてほしいものです。それに先のインタビューのこの部分からしても牛尾はしっかりと考えいる作家なので、その意味では仮に「交代」と言われてもすんなり受け入れる可能性が高い。

、「トロン:アレス」の音楽を手がけたトレント・レズナーアッティカス・ロスのコンビなんて非常にシンパシーを感じるチームではないでしょうか。

だいぶ恐れ多いですけど(笑)、勇気付けられます。僕はオーケストラの譜面を1人で書けるわけじゃありません。アカデミズムを経ない、アンダーグラウンド出身者でありつつ、劇伴作曲家をやらせてもらっていますけど、トレント・レズナー、ジャンキーXL、惜しくも亡くなられましたがヨハン・ヨハンソンの活躍を見るともう少しがんばれるかな、と思います。さらに僕の世代のルドウィグ・ゴランソン(1984年生まれ)は、最初からそこに垣根がない。すごくいい時代ですよね。

 全部が『MADMAX』『Socialnetwork』『Tron ares』など文脈を請け負う彼らが担当することで意義をもつ劇伴作家でもあり、その極致としてヴィルヌーヴという、現在における美と商業性と物語の三位一体を成立できてるハリウッド監督の「下地」を支えたヨハン・ヨハンソンをこのように評価するというのは、作品はそれに沿った作家であれ、という主張にほかなりません。大体そうじゃなければラゴンソンまで言及できませんよ。ヒドゥル・グドナドッティルまで言及すれば完璧だけど、これは枝葉的な意見ですが、そこも含めて多分組めている。

 

本記事の主張は『レゼ篇』のサントラ賛美、音響賛美。このどちらか、あるいは両方を支持することによって、名倉音響であることの必然性と、後から、「牛尾」が能動的に動きアプローチをしたことで生まれた設計思想に基づいた基準での図式を認めたことになり、それすなわち現状ベストであるということを認めるということになります。

つまり、しつこいようですが『レゼ篇』においてようやく「ベストに近いベター」になった。つまりこれはスタッフ功績であり、MAPPAは「助かってもらっている」「助けられている」という立場を自覚した方がいいと思います。実際の作品の出来、鑑賞者の反応、作り手のアプローチの違いといい全てがそれを証明しているので、本当に二期でこれらを解消しないと、スタジオとして成長できないと主張します。


 
《シャフトライン》

ef - a tale of memories. - アニメスタッフデータベース

夏のあらし! 〜春夏冬中〜 - アニメスタッフデータベース (不参加) 録音:蝦名恭範

 荒川アンダー ザ ブリッジ - アニメスタッフデータベース (不参加)録音:蝦名恭範

ダンス イン ザ ヴァンパイアバンド - アニメスタッフデータベース

ささみさん@がんばらない - アニメスタッフデータベース (不参加)録音:椎原操志

メカクシティアクターズ - アニメスタッフデータベース (不参加) 録音:矢野さとし

 

 〈物語〉シリーズ(主旋律)

化物語 - アニメスタッフデータベース

偽物語 - アニメスタッフデータベース

<物語>シリーズ セカンドシーズン - アニメスタッフデータベース

 

 

*1:因みに、仁氏の父親である明田川進は日本アニメ創世から音響周りを支えたマジックカプセル創業者でもあり、浦上靖夫に並ぶレジェンドである。担当作は『鉄腕アトム』『リボンの騎士』から『AKIRA』『銀河英雄伝説OVA

*2:月詠 -MOON PHASE-』(2004–05)、『ぱにぽにだっしゅ!』(2005)、『ひだまりスケッチ』(2007〜)、『さよなら絶望先生』(2007–09)、『まりあ†ほりっく』(2009)、『それでも町は廻っている』(2010)、『電波女と青春男』(2011)、『ニセコイ』(2014–16)、『幸腹グラフィティ』(2015)、『3月のライオン』(2016–18)、『美少年探偵団』(2019)

*3:主に吹き替えメインの音響監督。一番有名な仕事は『ハリーポッター』シリーズの吹き替え

『呪術廻戦』懐玉・玉折/渋谷事変 ― 劇伴論(1) ミニマル音楽と会話の格子

<前振り>

偶然、というかやっぱり中村悠一櫻井孝宏がWで主演の作品は見なければならんよなぁということで、食わず嫌いをしていた『呪術廻戦』より「懐玉・玉折」を最近、鑑賞しました。どうでもいいことではありますが、自分はこの記事でも述べた通り

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「ジャンプ的」なものが、どうも身に合わないのですが、そんな自分でも楽しめる作品であったので満足したというのが表の感想。あと、今更とはいえ、子安武人氏が演じる刀もったおっさんキャラクターが面白く、なんかそれこそ、『Fate/Zero』における衛宮切嗣vsアーチボルトという対比「魔術師殺しvs魔術師」というのが「呪術師殺しvs呪術師」という構図の再来に思えて、とてもそういう意味では気分が上がったんですよね。

 

(ちなみに『Fate/Zero』『PSYCHO-PASS』を推すのは作品がどういうもそうですが、それ以上に対複数人、会話メインという作劇において音響監督が岩浪美和さんがご担当されているという象徴性からの援用です。詳しく知りたい人はどうぞ調べてください)

 

向こうは小山力也と山﨑たくみで、まぁ一種目に見えた「やられ役」だったわけですが、「懐玉・玉折」っって描くの面倒いなので、玉玉って略しますが、この話では、ちゃんと強いけど最後には仕留められるという構図だったので納得感がすごく高かったんですよね。超強いもの同士の闘いっていうのが、売りなのか、あるいはそういった戦略と戦術の保線がうまいのか、その点は読んでいないのでなんともですが、キャラ造形はうまいなぁと思ったり、セリフの応酬においてはちゃんと櫻井孝宏に言わせるべきセリフを言わせていたり、中村悠一じゃないと成立しないセリフだったりと完全に計算されているような作品で満足感が高いし、それに対する子安武人の演技の妖艶さといったらね。特に櫻井孝宏子安武人に羨望を抱く役者の一人ですから、そんなお二人がああいう演技合戦をされるとそりゃ心躍るだろうという。

 

でもそれ以上に感動したのが劇伴。本当にシンプルに超良い。爆音で聴くこの快感。

フリー・ジャズ寄りのピアノ×ドラム・デュオ的構成で、ピアノとドラムの当て合い=呼吸と間合いの衝突という力の強さ加減を楽器同士のぶつかり合いで象徴させる運用のうまさ。グルーヴで運ぶよりせめぎ合いで張る方向のジャズ。これがtrack1なのが最高にかっこいい。

 

懐玉

懐玉

  • 照井順政
  • アニメ
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だから、まず「懐玉」で唸って「Our Mission」で笑いが止まらなくなり、「伏黒甚爾」で完全に方向性が読めて「No Hesitation」で到達できた気がする。そんな気持ち。

 

<劇伴を聴くということについて>

その前に一度スタンス的な感じなことを。ここにおける「良い」というのは、本来の劇伴の主張性として、妥当というか全うであるということ。つまり凄いのはいい加減わかるけど数多の作品で方向性として第一次源である梶浦音源は「信頼」できる分、それすなわち外さない曲調というのがありそれがアニプレ戦略×ufotableが築き上げた帝国スタイルなあって座組として梶浦由記が絶対的に劇伴作家として人気作品を担当するからこそ「さすが梶浦!!」になってもそれは同時に「梶浦の場合外さないからワクワクする劇伴」というものが、相対的に感じられにくいということ。

 

鬼の映画をみても椎名豪主体となったとて、「座組」の色が濃いからこそ、音楽は全くと言っていいほど主張性もないし記憶にも残らない音源であったし、じゃあどこで「おっ」となったかといえば終盤にちょろっと流れた「梶浦色」っぽい琴の音のその瞬間なんですよね。さまざまな理由で多面化をしている気がするが、ブランド作家で構築してきた手前、そうでない人が担当すると崩れるといういい例であると思う。予告編の音以上の衝撃がないのだから。つまり逆説的なんだけど、梶浦が安定を築いているからこそ、他の作曲家が前に出ても「主張」として届かないですよ。座組で組んでるゆえの弱さ。というか、梶浦由記とあのアニメでいけば最終戦は絶対にカルミナ・ブラーナ/ヴェルディ的な楽曲路線でコーラス重ねて盛り上げるくらい、設計が見えているのだからというのもあるが。

「カルミナ・ブラーナ」 ~ おお、運命の女神よ

「カルミナ・ブラーナ」 ~ おお、運命の女神よ

つまり、菅野よう子が『∀ガンダム』でそうしたように、鬼のアニメにおいて、ようやく梶浦由記がそのフェーズに足を踏み入れられる領域というわけです。本当にそこを狙ってくるかはわからないけど、それ以外に最終戦を盛り上げる、というのは梶浦スタイル的にはあまり考えられない。じゃあ、それでいえば梶浦由記の「MOON」枠がAimerあたりで聴けると夢想すればこそめちゃくちゃに熱いですけどね。

∀ガンダム (Original  Soundtrack) I

∀ガンダム (Original Soundtrack) I

Final shore ~ おお、再臨ありやと

Final shore ~ おお、再臨ありやと

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Moon

Moon

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終盤でちょっとだけ流れる「あ、梶浦っぽい」とそれまでの劇伴の記憶されてしまうのは象徴的。ブランドの強度が高すぎて、同じ現場に入った人間の音がかき消される。どうやら近藤社長と随分と作り込んだようだけど、正直いって座組で汲んでいるなら梶浦由記以外に、そのクオリティを求めるのは圧倒的に、間違ってる。「印象」に残らない曲しかないという「結果」に対して70曲以上作ったとかいう、「過程」の自慢も取れる文章と、喧嘩状態で作り上げる一方で「もう1人の音楽家梶浦由記とは」という記載がありメインの扱い方を間違え続け、首座の、椎名豪との関係は「近藤と一緒に徹夜して意見ぶつけ合いました!」という制作ドラマの色合いが強くなってしまっている。これは一見熱い現場に見えるけど、超大型IPの音楽基盤としては あまりにも不安定でプロデュース不足。音楽作品ではなく作り手と音響との衝突が物語として前景化。

 

そりゃいい構造的にも環境的にも印象に残る音楽なんて作れるわけないわなと。

 

だから一応、梶浦もクレジット上には記名されているとはいえ、椎名豪を「主体」に据えるというのは、構造的にいえば 『エヴァ』から鷺巣詩郎を外して別の作曲家に差し替えるのと同じこと。鷺巣が作る「エヴァ音楽」は、作品の空気そのものと不可分で、もはや映像演出と同格の柱になっている。そこを崩したら全体の統合感が壊れる。

 

フランスからクラシック音楽作法のコントロールが瓦解したらルグランオマージュの『thème du concerto 494』すらないエヴァの映像ってそれ片手落ちどころの騒ぎではないでしょう。

thème du concerto 494

thème du concerto 494

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作芸やジャンルこそ違えど、『新世紀エヴァンゲリオン』のような作品において鷺巣詩郎以外にあの音楽世界をコントロールできる人がいるかと言えば誰もできない。それと同じ。鷺巣詩郎が構築するからこそOP冒頭から、掴み、まとめ、独白BGMに至るまで、しっかりと鷺巣節が施され情景、哀愁さみたいなものがしっかりとあの世界を包むことで映像と音楽の掛け合わせでものすごいアニメ映画が成立するのでわけです。

tema principale: orchestra dedicata ai maestri

tema principale: orchestra dedicata ai maestri

euro nerv

euro nerv

berceuse: piano dans l’orchestre à cordes

berceuse: piano dans l’orchestre à cordes

what if?: orchestra, choir and piano

what if?: orchestra, choir and piano

born evil

born evil

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それがない、ただただ金がかかったアニメ映像とは?とか思ってしまうわけです。50/50の関係における映像/音楽の比率として明らかにバランスが取れていない。

 

比喩的にいえば『逃げ上手の若君』のエンディングの「ぼっちまるまる」の『鎌倉STYLE』のイントロのあの感じしか、記憶に残らない超大型IP劇伴っていう印象なんですよね。なんだよそれって話で。和風作芸なんだから琴が似合うのはともかくとして。

少なくとも全編梶浦だったら違ったことはむしろ客が一番わかるところ。

だったら『逃げ上手の若君』のEDイントロを聴いて、仲良く「うぉうぉ〜!!」とかいって、『鎌倉STYLE』を聞いた方が楽しいだろって話です。

鎌倉STYLE

鎌倉STYLE

  • ぼっちぼろまる
  • J-Pop
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「安心感=外さない」型の良さになってしまう座組で作品を安定的に組むアニプレックス案件の劇伴はその意味ではつまらない。梶浦と澤野をとりあえず使っておけばいい感というのは、安定だが、安定に勝る楽曲という新鮮味はいい加減ないんですよね。というよりもやはりこれは2000年代から続く潮流を引き摺っているからなんだと思うんだけど。菅野→神前という流れに並列していた梶浦が『コゼットの肖像』やら『.hack』で導線が生まれ、それが回り回って『ソードアートオンライン』『魔法少女まどか☆マギカ』『Fate/Zero』とアニプレの大型案件専門になったという手前、仕方ないけど、2010年代のアニメに馴染みがある層にとっては、梶浦がいくら新曲を書いても「凄い」という水準は保証されている一方で、「未知の驚き」や「新しい扉を開いた感覚」はなかなか得られない。自分が大好きなryo(supercell) も圧倒的に凄すぎて「わからない」が先立つくらい作品よりも楽曲としての作品性がしばし非常に強さというのは、主題曲におけるハズレのなさをわかる話。ああいうのは圧倒的にすぎてむしろ畏敬になるのだがそればっかりだと、つまり、すでにブランドが確立しているがゆえに、革新性を感じづらくなっている。

 

まぁ、劇伴の革新性ってなんだよっていう意味では「劇伴」としてどこまで「懇切丁寧」にアプローチがなされているかどうかの違いではあるのですが。

 

そういうふうに組み立てて考えていくと大手作家でいえば、菅野よう子は「懇切丁寧さのバリエーションを常に更新し続けた人」、梶浦由記は「一度確立した懇切丁寧さを鉄壁のフォーマットにした人」、澤野弘之は「懇切丁寧さよりも圧倒的な表層インパクトで接合部を押し切る人」というパッケージでまとめてしまえるほどこの三者はそれぞれ明確に差別化された「パッケージ」で聴けてしまうほどに作家性が強烈で、だからこそ音源を純度100%で「作品にだけ集中して楽しむ」ことは難しい。必ず作家の声が聴き手に迫ってくる。それは途方もなく凄いことなのだけれど。

 

さて、これが言ってみれば2000-2010年代の支流のあり方であったことを考えると、やはり転換期は牛尾になる。『聲の形』で山田尚子とタッグを汲んで以降、基本的に山田尚子作品では外さないし、イマイチな音源もあるが、基本は78点以上は出す劇伴作家にまで成り上がり、今や朝ドラとプロフェッショナルセットという大衆性まで浸透しつつある。そして彼の成り上がりはともかくとして、以後の潮流としてあるのが、アニメ畑ではない人に音楽を付与することで相乗性を盛り上げてそれが、なんとなれば音楽も前景化し、配信前提のサウンドトラックといい、顔となり劇伴もしっかりと顧みられるようになってきたということだ。じゃあ何で睦月周平は『リコリス・リコイル』の音源を開放しないんだとか思うんだけどそれはそれとして。

 

牛尾憲輔agraph)案件

DEVILMAN crybaby』(2018)、『日本沈没2020』(2020)、『平家物語』(2021)、『チェンソーマン』(2022)などで、電子~ミニマル~伝統音楽を横断。

オオルタイチ案件

『映像研には手を出すな!』(2020)で全編劇伴。ドメスティックな実験音楽出自の作家を番組丸ごと任せた象徴例

マルチ・アーティスト編成案件

『Sonny Boy』(2021)はtoe、ミツメ、落日飛車、VIDEOTAPEMUSICほか多数のオルタナ/電子勢を起用し、BGM(Conisch)と楽曲提供をキュレーション的に混在。」海外ビート~ビートミュージックの導入案件

『YASUKE』(2021)はFlying Lotusがエグゼクティブ・プロデューサー兼作曲。

ビート主体・音色志向の前衛ポップをアニメ側へ本流輸入へ。

 

こうした中に、照井順政の起用を『呪術廻戦』に当てたのは一種流れとしては当然の帰結といえよう。彼もアニメ歴は全くなく、ポストロック、エレクトロニカを主体として音楽を発表してきた「外の人」なわけだ。だからこそ『呪術』の場合、作品も劇伴作家も知らない状態で見たからこそ、余計にその新鮮度は高いし、劇伴としてのあり方も「目的」と「意図」と「方向」がしっかりと明白であるから、聴いていてとても快適であるということ。アニメ劇伴にこなれていないからこその作り方というのが音源に虹見てでいる。

 

この流れの中で構築していくと、『呪術廻戦』の劇伴は、大型漫画原作アニメという最大級の舞台で、「ブランド外」の作曲家に思い切り暴れさせるという到達点を示した。つまり、構造的にも象徴的にも「安定から前景化へ」の潮流がピークに達した事例といえるわけだ。だから、そういして考えていくと、アニプレックスの超人気IPの固有の座組で決めるのは超強いしそうでしか作品を作れない体制はわかるんだけど、がしかし、その分、「アニメ外」の人が作る劇伴と比較した時に新鮮さやアプローチの明快さなどが際立つからこそ、言ってみればちょっと時代遅れにも思える。

 

 

ということで、声の音響話を続けてきたここ数記事でしたが、久しぶりの音楽話を始めます。だけど色々と劇伴に対する整理整頓がないと、全体的な流れがわからないと思ったので前説として劇伴のあり方についてまとめました。別に、個人的には声優の声を音響ととることは全然ありで、むしろ音楽との対比としてはセマンティックとしての意味とサウンドとしての音、という読みなんですけれど。

 

 

 

では次項から『呪術』劇伴についてです。ちなみに本編知識は「懐玉・玉折」しかないです。よろしくお願いします。

 

<本編>

言及アルバムは「呪術廻戦  懐玉・玉折 / 渋谷事変 ORIGINAL SOUNDTRACK」です。

<ミニマル音楽として劇伴>

さて、本編を聴いた時にまず一番気に入ったのがミニマル音楽性が強い以下の曲

『A Little Lesson』

『Our Mission』

『仲間(じゅつし)の屍』

『Prepare Yourself』

『Arrogance』

 

はじめに『A Little Lesson』は、第25話「懐玉」でループしている時に「どのようにして脱出するか」という一種の謎解きの掛け合いを間抜けそうな日笠陽子ボイスキャラと強そうな三石琴乃が会話するシーンから流れ始める音楽です。

A Little Lesson

A Little Lesson

  • 照井順政
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(キャラ名とか知らんので全部声優名で行きます)

『呪術廻戦』第25話-「懐玉」

そう。なぜいいか?という答えは簡単。これはミニマル音楽だから。

ミニマル音楽とは何か?というのはこの記事に譲る

sai96i.hateblo.jp

その上で、画面とどう同期しやすいか、という意味では、ミニマル=反復と格子をつくる音。だから、時間を刻む。ゆえに、映像として通学・作業・監視・研究などの手順の可視化にはもってこいであり、舞台を前景化に切り替えることができる/集中できる音楽の使われ方が最適なのだ。だからこのシーンでいえば、その手前までホラー調であったのに対して「脱出」という方法論を考え始める途端に「ミニマル」音楽として流れはじめる『A Little Lesson』はタイトルの通りミッションでありその過程を前景させるからこそ、そこにミニマル音楽が映えるという理屈にかなった劇伴である。

この手法はもはや、教科書として存在する<物語>シリーズが顕著ではあるのだが、それは別に専売特許というわけでもなく、会話の応酬がメインとなる作品ゆえの当たり前の作り方、ということなのだが、そうした作品を鑑賞している人であれば/意識している人であれば、このシーン場面における転換の劇伴作用については大方理解できる。

そして続く、脱出以後、五条、夏油とあとなんか色々登場して、話の掛け合いにおいて流れるのが『Our Mission』。

Our Mission

Our Mission

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ここは会話メインでありながら、現場整理と状況確認という意味合いにおいて、「あのホラー空間とは一体なんだったのか?」というアンサーを会話の応酬でキャラを立てながら音楽と同期させていくという、一番手法としては明快なミニマル音楽作法、それこそ会話の応酬ではもはや当たり前と言っていいほどの作り方である。だから「懐玉」の第一話から、単にホラー調からバトルへの移行ではなく、思考プロセスを前景化するための音楽設計として構造化されているのだ。

実際、そのあと教師に怒られるくだりでは、音楽は無音。これは「ミニマル」である必要性がないからならさない、というたんに叱りを受ける場合、下手な音楽は挿入しないという当たり前な引きである。

 

 

そして3曲目『仲間(じゅつし)の屍』。これはシーン呼応どうこう以前に、あまりにもスティーヴ・ライヒのオマージュ作といっていいほどミニマル楽曲として成立しているのがまずテイストとして素晴らしいのがある。

仲間(じゅつし)の屍

仲間(じゅつし)の屍

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4〜6音程度の小フレーズを少しずつ足し引きして緊張を保つ構造だからこそこのシーンは第27話-「懐玉-参」において子安武人キャラが、五条を後ろから突き刺して動揺を誘うワンセンテンスに流れはじめる楽曲。

『呪術廻戦』第27話-「懐玉-参」 過去

『呪術廻戦』第27話-「懐玉-参」現在

昔の五条にあった時の回想と、現在という対比で「五条」というキャラが不意を突かれ、傷をおった、その緊迫感としてミニマルを使うというのは方法論としては真っ当ではある。刺突の瞬間から始めたワンセンテンスが、過去(回想)と現在(動揺)を同一の時間軸に縫い合わせる。観客は時間跳躍を連続として捉えられる。そこでライヒ的、というかポスト・ライヒを使うのが秀逸というか巧い。終止を引き延ばし、未解決のまま持続させるという場において感傷を抑えた冷たい昂揚を誘う音楽。緊張感を演出させるのであればこそ、待ってましたと言わんばかりの引用。

具体的には『Music for 18 Musicians』『Six Marimbas』系の援用型。

Music for 18 Musicians

Music for 18 Musicians

Six Marimbas

Six Marimbas

  • Norrbotten NEO & Daniel Saur
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つまりあの数秒に「刺突→動揺→回想→現在」を一つのプロセス音楽で貫ぬいている。視聴していて、とても理にかなったシーケンスとなっているのだ。だからこのシーンは「音楽が良い」だけではなくアニメの演出の運び方の巧妙さも相待ってもの凄く視認性、聴性の高いシーンとして記憶に残るということ。その上でポスト・ライヒを持ってくるというこの意味は、五条の最強=制御像と矛盾しない、どころか、むしろ揺らぎだけを抽出している。だからこそ、整理がついて、vs刀の人との戦いに挑むシーンで音楽はなりやむ。実に運び方がスムーズで理にかなった音楽の使い方である。

 

4曲目『Prepare Yourself』は29話「玉折」において象徴的な流れかたをします。

Prepare Yourself

Prepare Yourself

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「対症療法」と「原因療法」における説明で、「原因療法」を是とするキャラクターが呪霊がどうこう、という話を夏油にレッスンするという場面から流れるの楽曲。色々迷っているなかで、自分が後に歩む理想的なあり方を提示され、驚くこのカットから鳴り始める。

『呪術廻戦』第29話-「玉折」

この曲も先の楽曲と同様に、ポスト・ライヒとしてのスタンスが明確に表れている一曲だ。『仲間(じゅつし)の屍』が、弦楽器による「ゆらぎ」で持続する哀悼であれば、『Prepare Yourself』はピアノのリフで進行する緊張進行型。感情ではなく、手順が物語を押す場面を支える音。

タイトルが示す通り、ここでの役割は臨戦態勢の整流。主旋律ではなく、背後の反復が主役となり、作業/研究という思考の手順が対話と同期する。先述した「作業・研究」の2点における思考のプロセスが対話によってなされることで、この時の夏油を表す音楽としてライヒの『Piano Phase』『Drumming』の型に収斂させるのも一見「前衛的」と思いがちだが、実は機能性という意味では必然である。

 

Piano Phase (1967)

Piano Phase (1967)

  • エドムンド・ニーマン & ヌリット・ティルズ
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Drumming: Part III

Drumming: Part III

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なぜなら、志の明確化→呪詛への滑落というベクトルを感傷抜きの手続きとして提示できるからだ。結果として、キャラクターの目的と物語の方向が、ミニマルという道具立てで美しく一致する。

『呪術廻戦』第29話-「玉折」

『呪術廻戦』第29話-「玉折」

 

続くシーケンスでは、決意した夏油が村人に手をかける。まず〈調査報告書〉という事実が先に提示され、そののち過程が淡々と開示される。ここで鳴るのが「仲間(じゅつし)の屍」。もともとこの曲は、五条側の危機と過去—現在の移行をゆらぎで描いていたが、本話では、夏油が自ら悪行へ踏み出す緊張と、同時に走る学校側の内的動揺を併置するために用いられる。やがて音が途切れ、報告書に目を走らせた五条の「は?」が落ちる。音楽・編集・演技が手続きの論理として噛み合う瞬間である。

そして、事の一件起きて以後、夏油と五条が邂逅する場面で流れる「Arrogance」。

Arrogance

Arrogance

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『仲間(じゅつし)の屍』が弦のゆらぎで哀悼を持続させ、『Prepare Yourself』がピアノの短いリフと、等間隔における臨戦を整流したのち、この曲はその二つの語法を会話のための格子へ転化する。五条の動かない基準と、夏油の増殖する確信。二種の驕り(語り)が、反復という同じ床の上で並走する。「傲慢だな」という夏油が五条へと放つセリフが体現しているように、旋律が主語にならないから、和解も決裂も音楽が代弁しない。代わりに、優位の持続だけが耳の内部で続く。

『呪術廻戦』第29話-「玉折」

『Prepare Yourself』ほど段階的な加算は強くないが、『Electric Counterpoint』系譜の小セル反復とレイヤー操作で組み上げられており、微細な位相のズレ/密度の偏移によって会話の位相差を際立たせる。

Electric Counterpoint: I. Fast

Electric Counterpoint: I. Fast

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結果、情緒ではなく立場が固定され、画面は前に進めない対話として透明に定着する。

加えて、夏油を演じる櫻井孝宏の効果が大きい。乾いた中低域と硬質なサ行、プロソディ(韻律)の精密な段差づけにより

「意味はある。」(断定)→「意義もね、」(軽く受け)→「大義ですらある」(低く着地)
という三段が過熱せず論理先行で響く。これは忍野メメの「味方なんてしないさ、中立だ。」に代表される座標相対主義の話法(メメティック的)、槙島聖護の独白に宿る冷ややかな世界認識と地続きだ。傍観者→教祖→詐欺師→英雄へと立場をスライドしても核温度を一定に保ち、同じ声で別の倫理を語らせる力。

その役者×役歴の記号性が、夏油の台詞「意味はある。意義もね、大義ですらある
をただの名言ではなく、冷たい正当化の美学として音声に定着させる。

無論、これは受け手による役者×役歴の記号効果であるが、なぜ夏油傑というキャラクターに櫻井孝宏が選ばれたのか?という理由は間違いなくその役者×役歴の記号性ならない。

そして、そこに中低音の中村悠一の荒ぶる声との掛け合いにおける言葉の応酬が『Arrogance』と同期するかのように、響いていくというのも見逃せない。ここでは理念の投げ合い=言葉の戦闘が主役で、派手なアクションの連打で来た『懐玉・玉折』の結末に、真逆の対話の頂上決戦を据える意図が、劇伴(格子)×演技(韻律)で鮮やかに完遂されている。

 

この物語におけるミニマル楽曲の採用意図としては、旋律が意味を固定しないゆえ、ミニマルは場面文脈に従い意味を転覆させうる。まさに反復の美学の本質である。旋律で情を決めず、反復で立場を固定するからこそ、この会話は「勝ち負け」よりも決別の形がクリアになるという側面はおそらくあった。いずれにしても、ライヒ節全開ながらも、場によって二つの異なる場面で使用できる楽曲や、会話の応酬型としての楽曲と使い分けが巧みに処理されていることはいわずもがな。そして、こうした「ライヒ」を援用したミニマル音楽を「ジャンプ作品」の大型作品の劇伴で起用するという作法自体が、はたかみれば実験的でありながらも、おそらく照井順政氏からしみてば、正当な帰結として導き出した方向性であると言える。そしてその帰結は、アニメ劇伴に慣れていないからこその純粋に音楽で考えるという固有性が強いからである。

 

それは、Real Soundの「コンセプトから作る」インタビューでの照井順政の発言からも明白だ。彼はミニマル/トライバル/細かなギターフレーズ/変拍子をキーワードに据えつつ、テンポや陰影など映像側の制約に合わせることで必然的に新しい曲が生まれたと述べ、さらに汎用曲を減らし、特定場面に刺す曲を多く採用した制作方針を明らかにしている。

realsound.jp

――『呪術廻戦』の劇伴において、いわゆる劇伴らしい部分と攻めた部分のバランスはどのように意識しましたか。

照井:ミニマルミュージックであったり、トライバルなリズムであったり、自分の持ち味である細かいギターのフレーズだったり変拍子だったり……といったものはキーワードとしてありつつ、「もっとテンポを遅くしなきゃいけないんだ」とか、「ここは途中で暗くしなきゃいけないんだ」という制約があると、好き勝手にやっているつもりでも、今まで作ったことのないものになっていかざるを得なかった。そういう感覚でしたね。

照井:『呪術廻戦』は恐らく一般の劇伴より、いわゆる汎用曲みたいなものが少なくなっていると思います。そもそもメニューで指定された曲数自体が多いし、ある特定の場面にだけはめる曲みたいなものが多分一般のアニメよりは多いと思います。

 本当に日常の汎用曲みたいなものは、例えばループしやすいようにとか、転調はしないでどこを切っても変なふうにならないようにというのを多少意識したんですけど、それ以外の例えばバトルの象徴的な曲だったりは、基本的には制約を考えずに単純に特定のシーンにかっこよくはまるようにという感じで作っていました。

加えてCINRAのインタビューでは、初期打ち合わせ段階で監督から「スティーヴ・ライヒみたいな感じが欲しい」とリクエストがあり、自身も第2期でミニマル導入を提案した経緯を語る。しかも“まんまライヒ”ではなく、ポストロック由来の語法や現代的な要素で最適化したと明言されている。

kompass.cinra.net

照井:もっと真正面なことを言うと、自分がやってきた音楽は意図せずポストロックと呼ばれることが多くて、結構ミニマルの要素を含んでいたので、『呪術廻戦』にもその要素を持ち込めるんじゃないかと思って。それを最初の打ち合わせの段階で監督にお話したところ、面白がっていただいて、実際「スティーヴ・ライヒみたいな感じが欲しい」みたいなことも言っていただいて。

―『呪術廻戦』とミニマルが合うと思ったのは、なぜだったのでしょうか?

照井:呪術的な音楽は繰り返しのなかでトランスしていく要素があると思っていて。トライバルというか、原初的なリズムが核にあって、リズム自体は単純なんだけど、それが繰り返されていくことによって高まる要素がある。それで「ミニマルを取り入れるのはどうですか?」って、第2期の音楽をつくるタイミングでご提案したんです。

jujutsukaisen.jp

小林:「懐玉・玉折」で言えば、例えば夏油については「冷静で規則正しい・術師の秩序を重んじている・若い」といったイメージがあると監督が話していて。それを受けて照井さんから「ミニマルミュージック(※2、以下ミニマル)を取り入れるのはどうですか」という案が出ましたよね。

照井:呪術的な音楽は、音型は単純なんだけども、それが繰り返されることで人の意識が通常とは異なるトランス状態になっていく要素があると思っていて。それでミニマルを取り入れるのはどうでしょうと提案させていただいたんですが、監督には「いいね」と面白がっていただけたんです。「懐玉・玉折」については、五条と夏油の若くてエネルギーを持て余しているところ、ちょっと傲慢で暴走している感じや最強感があるところを表現したいというリクエストがあって、ジャズっぽい跳ね感のある音楽や、決めごとがなく即興的な雰囲気の音楽で表現してみようと思いました。

 

つまり、制作側は最初から音楽の方向性を定めたうえで、アニメ劇伴の慣習に縛られない作家を起用して新鮮味を狙い、それが場面特化の設計とミニマルの機能で大成功に結びついた、という理解で間違いない。

以上が『懐玉・玉折』におけるミニマル劇伴としての素晴らしさである。

 

その意味では、物語が基本的に、先生優位の物語であるからこその即時性と倫理の冷たさを質感で鳴らしていると言える。低域・無音・金属倍音で「先生の倫理」を語らせているとでいうべきか。だって、あらすじレベルを読むだけでも、『呪術廻戦』は、五条悟という「最強」の記号が物語の主権を握るという設計だし、夏油という理念の対偶がその重力を担っていることはわかるし、『懐玉・玉折』『0』が悲劇と特級主人公を先出しで完結させたことにより、受け手の評価軸は以後も五条基準にロックされているのも、まぁわかるわけだ。

 

ようするに、プリクエル主権効果(造語)じゃないけど、完結パッケージ(懐玉・玉折/0)が、物語の主権(誰の意思で世界が動くか)と音の設計思想を先生側=五条/夏油軸でカチッと固めてしまったという側面がある。この作劇上の帰結は、劇伴に還元される際の方向性の担保になる。ゆえに音楽はミニマル/ドローン/EDMの三位一体で機能配分される。

だからこそ、『呪術廻戦』の劇伴は、格子(ミニマル)・静圧(ドローン)・瞬発(EDM)で〈先生の倫理〉と物語主権を鳴らし続ける。

 

というわけで、既に全トラックを通して音楽的には分かる側面が多いのですが、本編未見のため、今わかる範囲という中で『懐玉・玉折』のミニマルベースに劇伴について述べました。何かの参考や再視聴のきっかけとなれば幸いです。

(2)(3)も音楽タッチの質感は既に掴んでいるので後は本編とどう作用しているを「視聴」してから確認すれば、続き物として出せると思います。よろしくお願いします。

 

 

 

 

表音・表意・表義で考える──アニメ『LIAR GAME』キャスティング私論

ついに来た。甲斐谷忍のメディアミックス最大のヒット作、『LIAR GAME』のアニメ化。ずっとこの瞬間を待っていた。

とにかく大好きな漫画だし、実写ドラマ版も大好きだ。

というか『ソムリエ』『霊能力者 小田霧響子の嘘』どれとっても甲斐谷忍作品は全部大好きでしかたがない。

 

しかし、今回アニメ化されるのは明らかに原作準拠の展開だろう。となれば、ドラマ版では省略されていた秋山深一や神崎直、ヨコヤ、福永らの細やかな描写がついに動きと声をともなって描かれる。この事実だけで胸が高鳴る。

LIAR GAME

LIAR GAME

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特に楽しみなのは、あの第四巻で描かれる名シーン「人は疑うべきだ」から始まる会話が、声と演出を伴ってどう描かれるのかという点だ。超重要名あのシーン。

ドラマ版では、これに呼応するかのように戸田恵梨香演じる神崎直が「人を疑うくらいなら、騙された方がマシです」と言い切る場面がある。

実はこの言葉は、原作の直とは真逆のスタンスを象徴している。

たとえば第三回戦の直前、秋山はこう語る。「信じることは高尚だが、その実態は無関心に近い」と。

ドラマ版の直は理想で応じるが、原作の直は、もっと逡巡と成長の中にある存在だ。

ステージを重ねるごとに賢くなっていき、ヨコヤ相手に出し抜くような展開も見られる。要するに、原作の神崎直は、ドラマ版ほど一本調子な騙されキャラではないのだ。

一方で、ドラマ版の福永ユウジ。こいつはかなり強烈です。鈴木浩介によって演じられたこのキャラクターは、原作での「ニューハーフ」という設定が外され、徹底的な裏切りと策謀を体現する存在へと改変された。この変更は、漫画原作の実写化において最も成功したキャラクター改変の一つだとさえ思う。実写版『LIAR GAME』が傑作とされるゆえんは、こうした脚色の妙に加え、中田ヤスタカによる硬質なBGM、戸田恵梨香松田翔太という主役陣の抜群の配役など、あらゆる要素が奇跡的に噛み合った点にある。
数ある漫画原作ドラマの中でも、いまなお数少ない「完全勝利」と呼べる一作だ。

 

ちなみに、実写版『LIAR GAME』の脚本を担当したのは、今や『ラストマン』『グランメゾン東京』『東京MER』『全領域異常解決室』などを手がけ、役者を軸にした構成と、象徴的なセリフまわしで知られる黒岩勉。現在のTBS・フジ両系列を代表する売れっ子脚本家の一人である。そしてもう一人が岡田道尚。いま振り返れば、脚本チームもまた異様に豪華だったのだ。

 

「じゃあアニメ化があるはず」と思っていた人は、きっと少なくないはずだ。

というのも、声優の演技とアニメ的な映像演出の掛け合わせによって、むしろ原作の描写のほうが映えるはずだという直感がある。たとえば、LGT事務局。原作では複数のディーラーたちがそれぞれの局面で登場し、リアクション芸人兼ナレーション的な解説役として機能している。この「顔のない組織的な語り」は、アニメのカット構成や声の演出と非常に相性がいい。

 

だって複数人の声優を入れてリアクション芸をさせることが確定的なのだから。

 

一方でドラマ版では、仮面の男が象徴的に画面に映し出され、LGT事務局の「顔」として前面に配置されていた。人格を与えられたキャラクターとしてのディーラー像が明確に立っており、観る側に強い印象を残す作りになっていた。

これは演出的には非常に理にかなっている。原作のような制度の無機質さをそのまま映像化するのではなく、むしろ仮面という記号を用いて、ホラー調のテイスト──たとえば『SAW』を想起させるような不気味さを助長することで、視覚的な緊張感と不安定さを演出していたのだ。実写だからこそ立ち上がった演出様式であり、原作とは異なるアプローチながら、それはそれで成立していたと言える。そして「声が人格の輪郭そのものになる」構造をとして、喜山茂雄の発話をナレーションとして組み込むことで完璧なモニターに映りながらもリアルタイムでプレイヤーの会話もできるディーラー像があった。その意味では、印象の強さで、喜山茂雄が優先されることも考えられなくはないが、ここは検討しどころである。

 

Golden Rule

Golden Rule

さて、そろそろ本題に入って、各キャラクターのアニメ版キャスティングについて語っていきたい。音響構文的な意味で、声優が命を吹き込むことで、キャラクターがどう変わるのか。声=演技=キャラ再構築の可能性に、ここでは最大限の期待を込めて私論を述べる。なお、下記の記事を前提するため、未読の方はぜひ一読のほどお願いします。

sai96i.hateblo.jp

 

 

神崎直は長谷川育美である。神崎直(長谷川育美)流石にこれです。

「初々しさ×真っ直ぐさ」の等身大。一番向いてる役でしょ。というか、神崎直の馬鹿正直さ、賢さ、直向きさを考えた時にどういう声がいいかを考える時、まず「ない」であろう役者声質は表義、表意だと思うんです。だってそれこそわかりやすい例であげますけど、表義声優の「存在感」で圧倒する感じは、むしろ直以上に声の演技が勝負を圧倒してしまうから。ゆえに彼女の声は表義(存在感で場を制圧)や表意(語り部としての押し)ではなく、表音寄りの質素な中域が望ましい。

 

長谷川育美の事務所サンプルは、その条件を満たす。冒頭の「わたし嘘ついた」で見せる短く切る語尾と、終盤ナレーションの中域固定は、神崎の馬鹿正直さ/賢さ/直向きさを演出ではなく音そのもので支えられる設計だ。

 

それにしても、「長谷川育美いいなぁ」とおもって所属事務所のリンク先でサンプルボイスを聴いたらなんと都合いいことに「わたし嘘ついた」というセリフから始まるありがたさ。なら話は早い。この「嘘ついた」を反転、重みのあるセリフにするキャラ作りを成せばいいだけの話なんですよ。長谷川育美だからこそできるといっても過言ではない下地が全て揃っているのだから。鈴代では強すぎる。直は無垢な合理性を担う役。ここで幼さや過剰な可憐、強さに寄ると、秋山の理詰めが薄くなる。

あと終盤にあるナレーションの喋り方といい、歪曲した言い方にはなるが、変に萌え萌えしくないし、かといって硬直したような声でもない=柔軟性・中庸性=神崎直にふさわしい。なによりも、甲斐谷忍のキャラクターには適格な声だと思うのだ。だから長谷川育美がいいかなと。外さないと思うし、吸血鬼もやればバンドキャラも演じた今、逆に神崎を演じるというのは役を広さを提示できると思う。

www.raccoon-dog.co.jp

そもそも「決め」で場を支配する役目は秋山にある。神崎が過度に表義的だと、作品の力点がズレる。だから、式としては、表音×質素×可読性で算出するべきであり、その三点で、圧倒的に長谷川育美を第一に推す。神崎は真っ直ぐな18歳なので、この可変幅としても長谷川育美がベストと思う。そういう役で張ってきているのだから。

 

 

秋山深一は中村悠一。別に韻を踏みたいわけではない。

おそらくこの配役は、一見すると「わかりやすい」と受け取られるかもしれない。
しかしながら、秋山深一というキャラクターの本質。つまり「常勝の天才」として場を制圧するだけの論理性と静かな支配力を、声の演技として担保するためには、低音の安定感と「理性のカリスマ」が絶対条件となる。

いくら「天才詐欺師」という設定があっても、それを支える声の地力がなければ空転してしまう。その点で、中村悠一は唯一の適任者といっても過言ではない。

実際、彼がこれまで演じてきたキャラクターには共通して「論で戦う」強さがある。たとえば『呪術廻戦』の五条悟には余裕と格があり、『魔法科高校の劣等生』の司馬達也には圧倒的な思考支配力がある。その両者を掛け合わせたような存在が秋山深一である。

 

「五条の余裕」×「司馬の理詰め」=秋山 これがないと秋山深一じゃないです

 

加えて、長谷川育美との組み合わせも絶妙だと思う。中堅トップと次世代トップという布陣は、作品としての安定感と可能性の両立を意味しており、神崎と秋山という関係性にも適した声のバランスが得られるはずだ。

秋山は喋る台詞量が少なくとも、発話一つひとつの圧が物語を支配するキャラクターである。だからこそ、中村悠一の重低音で知性を包むような声が最適。

これ、多分作品を知っている人なら誰でも、中村悠一をまず最初に置くと思う。どう考えても、アニメの秋山を最後まで担保できるのは中村悠一神崎を長谷川で合わせれば、作品の理(秋山)×善(直)の骨格が音だけで立つしペアリングとしてもかなりいい線は明らか。

 

さて、逆に検討しがいがあるのがヨコヤである。
これはなかなか難しい。だが原作における「お茶目と毒」「カリスマと小物感」を一つのフレームに収めたキャラクター像を考えるならば、悪役としての重みと愛される軽さの両立を演じ切れる声優は、もう神谷浩史しかいない。一見、意外に思われるかもしれない。しかし、冷静に考えてほしい。


ヨコヤは、御曹司として金と地位をバックに、恐怖と威圧で人を支配するオールバックな存在である。だがその一方で、密輸ゲームで神崎に「透視」に対して裏をかかれた瞬間の、あのやや情けないリアクション。あるいは「パンデミックゲーム」における小切手のくだりで騙されるところとか、あれを成立させるには、完璧な発声・演技技術を持つ声優が必要だ。

 

畢竟、ヨコヤとは阿良々木暦をものすごく性格悪くして、金持ちにしてLIAR GAMEに参加させたようなキャラなのだ。と、いうよりも阿良々木暦間桐慎二を合体させたようなキャラクターがヨコヤ。「阿良々木暦の弁」×「慎二の狡猾さ」ということ。

だからこそ、神谷浩史の持つ綺麗すぎる滑舌と、言葉の品位に反比例する中身の歪さという演技のズレが、このキャラを声で再構築するためには不可欠となる。神谷の乾いた中域+綺麗な子音は、母音だけに薄く笑いを滲ませるだけで優位を作れる。音量で煽らず、間で支配できるというのは原作のヨコヤの温度に一致。だからこそ勝ちが崩れた瞬間には語尾の宙吊りで小物のほころびも作れる。そう、例えば『パンデミックゲーム』における小切手のくだりとか、ああいう小物が一瞬出る感じまで含めてヨコヤ。しかしシリーズ屈指の頭脳明晰なキャラクター。それぞれの声優史で言えば

「五条の余裕」×「司馬の理詰め」の秋山vs「阿良々木暦の弁」×「慎二の狡猾さ」のヨコヤ

秋山=理性と余裕の合成、ヨコヤ=饒舌と奸智の合成というわけですよ。

このキャスティングで、長谷川育美が真正面で素直さで挑めば絶対面白いし映える。むしろこれ以上の正解はないと断言できる。何より、中村悠一=秋山深一との知性×知性の掛け合いに耐えうる演者であるという点。これは、ここまで積み上げてきたキャスティング私論のなかでも絶対条件の一つであり、そうなると神谷浩史は演技・声質・経験・象徴性のすべてにおいてベストアンサーとなる。ヨコヤに必要なものは歪んだユーモア・自己愛であり、相反する知性、支配と反支配であり、滑舌の綺麗さです。これが前提条件となる時に該当するベストの役者は一人しかいません。

中村悠一(秋山)の中低域ドライに対し、神谷の中〜中高のガラス質が静かな対決を成立させる。これがいいんです。散々、『さよなら絶望先生』や西尾維新の<物語>シリーズで作品で鍛え上げられてきた、饒舌×自省を、性格を悪化させ金と恐怖で増幅した側面だけ抽出した演技を今こそと思うので、神谷浩史を第一候補に置く。

 

ひとまずメインとなる三人は

  • 中村悠一=低音×理性×支配構文(秋山)

  • 神谷浩史=滑舌×毒×歪んだ愛嬌(ヨコヤ)

  • 長谷川育美=可読性×質素さ×柔軟(神崎)

 

三文法で換算すれば

神崎(長谷川) O:60/E:25/G:15

秋山(中村) O:35/E:45/G:25

ヨコヤ(神谷) O:45/E:30/G:35

配分的にも、配役的にもこれが最良であると個人的には思います。

Silent Revive

Silent Revive

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他方、神谷浩史を第一候補に置く一方で、どう演技を見せるかという意味では他の案もある。ここで重要になってくる、というよりも候補として挙げられるのが表意系の声優だ。つまりヨコヤは敵キャラ、表意声優、演技の高低さでリアクション芸もある程度必要になってくるとなった時に挙げられるのが、どう魅せるかというのはもちろん前提ではあるが、ヨコヤがガラス質であることを踏まえると、石田彰内山昂輝岡本信彦福山潤も射程に入らなくもないが、そうすると役者内キャリア的想像力にも引っ張られる。逆にそこをもってくることでキャラを立てるというのも一つの手段ではあるが。それこそ『PSYCHO-PASS』の縢秀星イズムと渚カヲルみたいな使い分けの石田彰ルルーシュと殺せんせーの低音から高音まで、という意味での福山潤というような意味で味付け的な方法論でいくのであればこうした音響構文もありではある。だからこそこのスケールでいえば、さほどその方面で決定打がない内山昂輝もありではある。無邪気な薄笑いと冷たさの反転が鮮烈。であり、理性と温度差が立つという意味では、艶のあるテノールで演じ切るというのも原作とドラマ調の中間立をとるというような可能性ではあってもいい。

 

無論、神谷浩史という滑舌と毒の均衡点がベストとする立場は揺るがない。だが、原作の温度感に異なるニュアンスを持たせるのであれば、これら表意声優による演技の変奏も十分に可能である。結局のところ、ヨコヤというキャラクターは「どう演じるか」で印象が大きく変わる余地を持つ。だからこそ、このような演技構文ベースの検討は、キャスティング私論においていくつかの案を講じるのは必須となる。

 

では、ディーラーもといい、事務局の面子(複数)となった時に誰が最適かといえば、これはもう間髪入れずに櫻井孝宏がどう考えてもベスト。この人ほど諧謔さを出せる声優はいないから。中立的・上から目線・演技で感情を装う無感情を作れる稀有な演者という意味において、『LIAR GAME』というアニメの布陣に参加させない方が変とおもうくらい、必須です。原作のLGT事務局は、実は完全な無機質ではない。ゲームの案内をしつつ、皮肉めいた余白を残したり、プレイヤーにとって不気味な演技性を漂わせる存在です。その表現に必要なのは、ただのロボティックな声ではなく、「中立を装った遊戯者」のようなニュアンスである。そしてそれをプレイヤーだと圧が強すぎるが、調停者としてなら成立するという意味でも、櫻井孝宏はマストと考える。というか来歴そのものがそういうキャラを演じてきた側面がありすぎるため、「裏切りキャラの声」の象徴となった今、櫻井孝宏がいない方があまりにも不自然。

 

そして、さらに重要なのは、原作においてこの事務局の中の人間が、実は秋山深一の大学時代の師である丘辺教授や、ヨコヤの父親など、プレイヤーと地続きの存在であったという事実である。となれば、丘辺教授は誰がいいか?答えは明確。大塚芳忠だ。

彼が演じれば、知性・威厳・遊び心・哲学性──あらゆる重層性を1トーンの声に込めることができる。そして何より、中村悠一に「教えられる側」としての納得感がある声の持ち主である。「成熟した知性の語り」は、彼のためにある。秋山=中村の声が響くなら、その背後には確実に大塚芳忠の声が必要だ。ルートAで描かれる講義口調の長台詞に最適。笑っているのか無感情なのかを曖昧に保てるし、だからといって、媚びも贔屓もしない冷徹差としての演技も完璧にできる。

丘辺教授(大塚芳忠)は威厳 × 知性 × 教育者/中低音 × 荒さ × 包容力

秋山深一(中村悠一)は理性 × 詭弁 × 対話者/低音 × 安定 × 冷静

この組み合わせ、合わないはずがない。

 

では、ヨコヤ父は誰か。そりゃ中田譲治だろと。威圧で押さず冷たい権威を出せる低域が必要だ。Fate』の言峰綺礼と『コードギアス』のディートハルト。あの二つを混ぜれば、完璧な「支配者のDNA」ができあがる。

もちろん、小山力也という選択肢もある。これも『アカギ』の南郷さん路線としてのメタ込みだが、彼の声には「人生に疲れた男」の色が混ざる。それは良い味でもあるが、ゲームの運営側としての支配構造にはやや湿度が高すぎる。

その意味で、乾いた権威で支配できる中田譲治はやはりベストだ。

あとは、乾いた威厳という観点から、津田健次郎も候補には挙がる。が、彼はスマートすぎる印象もあり、やはりヨコヤの親というキャラクター造形においては、中田譲治の方が濁りがある分、説得力がある。

 

Scramble

Scramble

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では次にモブ、および中ボスあたりは誰が盛り上げるべきか問題について。

先に声優だけ列挙しよう

高木渉

松岡禎丞

早見沙織

この三人は入れましょう。いい感じに敵を演じてくれる配列になってくれます。

高木渉に関しては佐藤雄三が作る以上、『アカギ』で矢木を担当したし、甲斐谷忍の別の作品『ONE OUTS』でも出演していたので、多分座組として参加する率が高いのと、まずありかたとして、借金取り、会場警備の早口畳みかけ、パニック参加者の上擦った悲鳴、ルール誤読して詰む男のリアクション担当、どれでもcv高木渉で説明できる便利さがあるし、一方で敵役につるむ攻略が難しい役で声も張れる。その意味では、高木は1話1高木で場の凹凸を即席で立てると場面が締まるし、視聴者も笑えると思うし、そういう存在がいてほしい気もする。だって『LIAR GAME』だもの。

 

松岡禎丞、この人は本当に、いい意味で小物役がものすごく似合う。主人公型を貼る時はとてもかっこいいのだが、悪役となると小物感を演じさせたら天下一品だと思う。

こうX上で書いたのだが、これ本気でそう思っている。つまりラスボスを飾るには悪役声の序列(実力ではなく声の性質として)は

みたいな空気ってあると思うんです。その上で天才キャラを演じるための担保として、『ノーゲーム・ノーライフ』の空役もしっかりと演じ切った実績もあるので、そういう意味でも盤上のゲームで策略を見抜く有能キャラはやはり演じられる基盤を持つという一点だけを考えても、必要な役者であると言える。松岡はイキって崩れる様式美といったら一応に断じてしまうのは失礼かもしれないが、でもそういう時が最も輝いているんですよ。悪役というポジションにいる時は。

 

そして早見沙織。意外に思う人もいるかもしれないが、『賭ケグルイ』の蛇喰夢子を演じた早見であれば、神崎直を煽りたおす女敵役として申し分ない。なにより最終的に秋山深一に先を越されて、美しく、涼しい顔で負けを認めて消えていく。そんなキャラが一人は必要だと思う。早見沙織は基本的になんでも演じられるし、無機質さでいっても斧乃木余接を演じられるから切り替えも上手いし、という意味では女性声優、表意型としては最適である。つまり表意型であることと、ギャンブル漫画の主演を張ったこの二点が『LIAR GAME』の、ある種の参加資格として足り得る演者であると言える。上品に煽る女ボス枠をアニメオリジナルで入れるなら、蛇喰夢子の資産をショー寄りに使い、直を気持ちよく挑発→秋山と直に刈られて美しく散る導線が描ける。

 

それって『LIAR GAME The Final Stage』における武田なんですよね。うん、やはり早見沙織の狂った倫理キャラ演技を見てみたい。

 

あとは知能派プレイヤーという意味では甲斐田裕子や、青木瑠璃子あたりの超強烈な知性と個性をもつ声で演じられると、それこそ中堅以上は確定で張れる。ハリモトあたりの決勝戦あたりには最適。ハリモトは、山路和弘津嘉山正種麦人菅生隆之付近がいいな。大塚芳忠は知性あるあの声でディーラー、教授にまわるならむしろこの帯くらいしかいない。残念ながら、津嘉山正種さんは逝去されてしまったのが非常に悔しいし、それでいえば土師孝也さんもそう。一種、役柄として老年さと狡猾さを演じられる役者というのは様々な条件兼ねてなかなかいないからこそという面はある。

 

そしてここらからはメタな話にはなるが、監督が『アカギ』『ONE OUTS』と人となれば、この両方を演じたのが、萩原聖人であることは流石に忘れてはいけない。でも主演をという作品ではない気がするんです。だからあえて特別出演として、敵役に回ることで視聴者は「赤木しげる、渡久地東亜きちゃったよ……」みたいなメタではあるが、同じギャンブル漫画の象徴である福本伸行的想像力を寄与することができるという意味では、キャスティングに入れてくる可能性の方が高いのではないか?ということだ。ゲスト悪役/特別ディーラーで一発。どうでしょうか?

個人的には、ディーラーはそれぞれ以下の感じで想定している。

これくらい固めて欲しい。そしてこれは豪華声優を集めるというよりも、表意最大級火力の声優と表義性を有した特有の力学的発話ができる役者、色のある表音声でキャラを出す役者、という三すくみにおいて、意味付けができる陣営です。このくらい固めないとあのゲームの陣営は運営としては回せないんですよ。

 

 

「原作メンバー」の母集団における主要5人(直/秋山/福永/ヨコヤ/丘辺)+事務局(複数)で初期〜密輸までの声の骨格は成立するので、ここが勝負です。

自分なりのベストキャスティングは

中村(秋山)/長谷川(直)/神谷(ヨコヤ)/芳忠(丘辺)/櫻井(事務局)

これですね。完全に黄金率です。仮にもメディアミックスで大盛り上がりしたコンテンツなので、このくらい豪華であってほしいです。原作に寄せるなら余計に。

 

ということで、アニメ版『LIAR GAME』のキャスティングを音響構文的に誰がどう配置すると、物語として合致するかという側面の思考性で考えてみました。2026年。蓋を開けてみれば全然違うというも当然あり得るが、こういう『LIAR GAME』があってもいいよねという妄想キャスティングの一つとして受け止めていただければと思います。

 

本当は「少数決」というゲームの偉大さ、「椅子取りゲーム」とか「入札ポーカー」とか色々とどういうゲームを構成に入れるかという話をしたいのだが、キリがないのでそれはここのうちに留めておきます。もうすでに制作側は懸命にゲームを作っていると思うとそれだけで非常に楽しい感情が湧いてきます。早いところみてみたいですね。アニメ版『LIAR GAME』。

The Battle Begins

The Battle Begins

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『響け!ユーフォニアム』という音楽劇──吹奏楽の二大作家・福島弘和と樽屋雅徳の不在

これね、吹奏楽を学生時代にかじった人──あるいは今まさにホール練とか部室練で汗かきながら、ロングトーン地獄に耐え、全体で何度も自由曲をさらい、顧問の抽象的なニュアンス支持に翻弄される。大体いつも話題になるのは「アーティキュレーション」「倍音」「リズム合わせ」の三点セット。気づけば声で旋律を歌わされ、最終的には合唱部みたいな空気になっていく。

吹く前に自分の声で歌えないと吹けないという根本に至り(それはそれで正しいんだけどね)、続くあの時間、そしてようやく演奏できると思った矢先、木管金管、パーカス、どっか一つの集中攻撃の間、「自分たちなにすりゃいいんだ」ってなるあの空気、極め付けは時計を見た時に気付けば「早く終わらないかなぁ」と思いつつ、それでも楽器と向き合い続けている現役の学生なら、神経質なほどわかる名前4文字作家だと思うんですよ。


むしろ、「吹奏楽やっててこの二人知らないってにわかだろ?」ってくらいのレベルで。

島弘和と樽屋雅徳とかいう大正義
自由曲選びで先生がファイル持ってきた瞬間に「来たな…」とわかる。
というか、なんなら『マードック』を演奏したいと学生側が希望しているまである。
あのイントロを演奏したい!! とか秒でしか出番のない、あの「ピアノの一音」で決めたい。大サビのペットで決めたいとかさ、とにかくそんな感情の集合体みたいな楽曲を、樽屋は量産し続ける。


あるいは、「和風!!」みたいな雰囲気で作らせたら、もう、技術的に難しくても、
ウィンズスコアのグレードが高くても演奏するしかない──圧倒的なまでの「決め」な福島楽曲。わかる、わかるよ、大いにわかる。

そしてそれは、どちらかというと逃げじゃない。勝ち筋。

 

 

そしてなによりに自由曲って、選べるようで選べない

常連全国をいくようなバケモン校は、大体、高尚さと技術を見せるためにクラシックに走る。
(特に例の埼玉三強とか、西の京あたりのあそこらへん)

でも、全部が全部そんなレベルの高い楽曲を再現できるわけではないし、
そもそも人がいないからAコンなんて出られません。
あるいは、多すぎてDコンに流される。(Aコン落ちの末路というのは、悪い風潮)

でも、それすらも──いってみれば贅沢なんですよね。
どんなに下手でも、人数が多ければその分選べる自由がある。

本当の地方なんて、人が少なすぎてBを選ぶんだから。

 

そんな少人数制でも演奏できる楽曲があって、しかも共通言語として広く浸透している
それが、この二人の楽曲なんですよね。

つまり、福島弘和と樽屋雅徳というのは、ただの人気作曲家ではないんです。

これ、いっても正直「通った」人以外には肌感覚としては伝わりづらいと思う。
でも彼らの楽曲って、吹奏楽という制度そのものを支えるレベルで、演奏現場に共有されてるんです。

 

指導者・審査員・演奏者、すべての視点から見て「成り立つ」作品。地方の少人数編成から、全国金賞常連校まで全員が知っている王道なんです。

だから、演奏動画にも困らない。逆に複数校が同じ曲を演奏するなんてザラにある。
でもそうなると、どこが良かったか/何が足りなかったかまで、比較で見えてしまう。
ある意味、教材としてすら機能しているんですよ、彼らの曲は。

響け!ユーフォニアム』は、部活の現場的リアリティと、アニメ的ドラマの両立を試みた。作者が経験者ってのもあってそれは半分は成功したといえるでしょう。指導描写や練習風景は共感を得るためのリアルを選んだ。でも自由曲は福島弘和でも樽屋雅徳でもない。劇伴が松田彬人なのに、そこだけ制度的な共感の中核から外れている。

たとえば自由曲だけは「《マードックからの最後の手紙》か《ラッキードラゴン 第五福竜丸の記憶》か」みたいな選択にしてたら、経験者ウケとしてはありな選択。

知らん人は聴いてください。これが「水準」であり「圧倒的自由曲」の存在感です。

マードック》(2004年)も《ラッキードラゴン》(2005年)も、20年近く選ばれ続けている時点で「自由曲としての殿堂入りクラス」な存在なんですよ。

 

 

しかし物語として「キャラが背負って鳴らす」視点を優先した結果、ペット(麗奈)が映える『三日月の舞』になった。

三日月の舞 (全国大会銅賞 Ver.)

三日月の舞 (全国大会銅賞 Ver.)

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そういうバランス感覚だったのかもしれない。とはいえ、結果的には──その『三日月の舞』が逆輸入されて現場で演奏されるようになった。そういう意味では、制度と物語が相互に補完し合う活性化が成立したとも言えるでしょう。ただ、一方で「高坂麗奈=トランペットのための音楽」という存在感というのもまた否めない。

 

やっぱり吹奏楽で「こだわる」なら現場で共通言語として扱われている既存の自由曲を選んだ方が、もっと面白くなった可能性もあるんじゃないか、って思うんですよね。

それ、既存の自由曲でも達成できるし、現実の吹奏楽楽曲の制度と共鳴させたまま、物語も描けたよねって話なんですよ。

それこそ、ペットが主役でいいなら《マードックからの最後の手紙》なんてまさに一撃がある。中盤のペットソロは、吹奏楽経験者なら誰もが演奏してみたいと憧れる瞬間だし、何より音楽そのものに物語性が内在している。しかも《マードック》はオーボエにも大きな見せ場がある。アニメファン向けに翻訳するとですね、これは高坂麗奈(ペット)と鎧塚みぞれ(オーボエ)の一種のダブルソリスト的な構成として完璧に成立してしまうんです!!そしてなによりも自由曲の象徴たる一曲です。

つまり、制度的リアリティと物語的演出の両立が、既存曲でも可能だったのでは?
そう思わせる説得力が、樽屋楽曲には確かにあるし、力強い感じで行くなら例えば、福島の《走れメロス》なんかを採用して盛り上げのところでパーカスが鎖をジャンジャンならすとか、そういうパートをアニメーションで描写したほうが面白くないとか思っちゃうわけですよね。

交響的詩曲「走れメロス」

交響的詩曲「走れメロス」

  • 航空自衛隊西部航空音楽隊 & 加養浩幸
  • クラシック
  • ¥204
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ディティールとしての演奏映えとして。地味だけど、そういうところが楽曲の総和をなしているわけです。そしてこっちでもやっぱりペットは映えるし。

ピッコロが活躍するという意味でも、《走れメロス》は傘木希美の描写にも応用できる。つまり、ソロを背負うキャラクターだけでなく、アンサンブルの中で輝くキャラクターに対しても、既存曲を媒介とした演出は十分可能だったということだ。

特に『リズと青い鳥』では、みぞれとの対比のなかで、圧倒的な実力に苦悩する、内向的で繊細な側面が強調されていた。だからこそ、せめて演奏中の時間だけでも音によって自分を主張できる瞬間があってもよかったのではないか。そう感じさせる余地が、制度的な自由曲には大いにある。

同じ意味でアニメ映画『リズと青い鳥』のように、みぞれと希美という二人の対比関係を中心に据えた構成であれば、自由曲として『リズと青い鳥』(第一章〜最終章、コンクール版)を新たに書き下ろしたのも、選択としては納得がいく。

 

リズと青い鳥 第一楽章「ありふれた日々」

リズと青い鳥 第一楽章「ありふれた日々」

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リズと青い鳥 第二楽章「新しい家族」

リズと青い鳥 第二楽章「新しい家族」

リズと青い鳥 第三楽章「愛ゆえの決断」

リズと青い鳥 第三楽章「愛ゆえの決断」

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リズと青い鳥 第四楽章「遠き空へ」

リズと青い鳥 第四楽章「遠き空へ」

リズと青い鳥 (コンクール用編曲Ver.)

リズと青い鳥 (コンクール用編曲Ver.)

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というのも、これほど長尺でオーボエが主役となる既存の吹奏楽曲は、ほとんど存在しないからだ。みぞれの内面や成長を「音楽そのもの」で語らせるためには、むしろ物語に合わせて曲を創るしかなかった。そうした制作的判断は、山田尚子監督作品であればなおさら自然な選択だったのだろう。

振り返れば、『響け!ユーフォニアム』シリーズは一貫して、「物語のために曲を書く」というスタイルを貫いてきた。だが、もし本気で演奏パートの音楽性そのものを描くことを主眼に置くのであれば、むしろ樽屋や福島の既存楽曲の方がふさわしかった可能性が高い。特に、木上益治による音楽と演技をシンクロさせる繊細な作画演出とは、既存曲であってもより高次元での連動が可能だったのではないか。

自由曲という制度的リアリティを最大限に活かしながら、キャラクターの感情と演奏描写を融合させる──そうしたアプローチも、映像としては充分成立し得たはずだ。だからこそ、こう考えるべきではないか。
響け!ユーフォニアム』は、現実の吹奏楽部を再現する作品ではなく、「創作された物語世界」を貫くために、あえて実在の名曲群を外した。その判断自体が、制度的現実を知ったうえでの「意図的な逸脱」であるという見方である。

──だが、それでも思ってしまうのだ。

京アニで、あれだけ緻密に世界を仕立て上げるのであれば、いっそ福島弘和と樽屋雅徳を召喚し、2年生編・3年生編それぞれで新曲を書き下ろしてもらえばよかったのではないか。彼らの楽曲はすでに現場で繰り返し演奏されており、制度内でもっとも信頼されている作曲家の筆頭である。だからこそ、作品世界の中で発表された新曲が、逆輸入されて現場で演奏されるという循環も、十分に現実的だったはずだ。

それをなぜしなかったのか──そこに、最大の疑問を感じざるを得ない。

なにも、ストラヴィンスキーのような高度なクラシック音楽を編曲し、高難度の演奏を披露せよ、とかプッチーニの『トゥーランドット』を〜などという極端な要求をしているわけではない。それに比べれば、福島弘和や樽屋雅徳といった作曲家の楽曲を選ぶことなど、遥かに現実的であり、平均的かつ妥当な水準の話にすぎない。

なぜなら、そもそもクラシック編曲ものは、Aコン常連校のように限られたリソースと高水準の人員が揃った環境でなければ成立しない。技術の誇示には適しているかもしれないが、それはあくまで一部の頂点の話であり、北宇治のような平均的な部活を描くうえでは、むしろ非現実的な選択にあたる。だからこそ、現場で繰り返し演奏され、審査にも教育にも耐えうる構成を持った作曲家福島弘和や樽屋雅徳の作品を選ぶことこそが、制度内でのもっとも自然なリアリティだったはずなのだ。視聴者の共感という意味でもね。というか、それくらい定着しているが故に、そうでないと相当「片手落ち」。

 

音楽を現実の模倣としてではなく、物語のための言語として扱う──だからこそ、『響け!ユーフォニアム』は「吹奏楽アニメ」というよりも、「音楽劇としてのアニメ」なのだ。たとえば課題曲にしても、足立正の『じゅげむ』のような、実在する楽曲を用いることは十分に可能だったはずだ。実際、劇中で演奏される課題曲I『マーチ・ブルースカイドリーム』は、現実に存在する作品である。

(サンプル例が伊奈学なのはまぁいいじゃん)

マーチ・スカイブルー・ドリーム

マーチ・スカイブルー・ドリーム

  • 埼玉県立伊奈学園総合高等学校
  • クラシック
  • ¥255
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だが一方で、より高難度かつコンクール上位校で好まれる課題曲IVやV、あるいは平均的なIIIの楽曲はまったく登場しない。

この選択は偶然ではなく、制作側が意識的に「制度的リアリティの線引き」を行っていることの表れである。つまり、課題曲Iを用いることで一定の現実味を担保しつつも、それ以上は物語としての整合性を優先させる──それが『響け』という作品の立ち位置なのだと思う。言い換えれば、『響け』はあくまで「創作された物語世界」における音楽劇であり、現実の吹奏楽部をそのまま再現することには重きを置いていないということだ。

 

そもそも、課題曲IVやVを扱える水準のバンドにおいては、演奏技術の向上や選曲そのものに時間を割かれるため、部内の人間関係の衝突といった構造にはなりにくい。

だが、それも含めて「描かないことを選ぶ」演出は、むしろ創作的な線引き=演出意図の表明に他ならない。その上でやはり注目すべきは、「自由曲」という最も創造的個性が出る場面において、樽屋雅徳や福島弘和といった現場の定番作曲家をあえて採用しなかったことだ。これは、リアリズムの観点から見れば意図的なずれである。

 

もし『響け!ユーフォニアム』が「吹奏楽という演奏そのもの」にフォーカスした作品であるならば、演奏効果も高く、知名度もあり、楽曲の物語性も豊かなこの二人の作家を選んだ方が、視聴者にも現場感覚が伝わったのではないかと思う。それは単なる嗜好や経験からくる願望ではない。中高生という限られた期間しか吹奏楽が主題になりえないからこそ、吹奏楽曲そのもののバリエーションを一般層に提示するという意味でも、樽屋・福島という作家の存在は強い。

 

たとえば『斐伊川に流るるクシナダ姫の涙』のような楽曲は、演奏効果・ストーリー性・映像化適性のすべてを備えている。

にもかかわらず、選ばない。それは、キャラクターの感情や物語の設計を優先するためである。

 

だから演奏という意味では、どうしても「これはアニメとして設計された演奏描写なのだな」という感覚が、最後までどこかに残る。もちろんそれは、創作としての完成度の高さと引き換えに選ばれた線引きであり、『響け!ユーフォニアム』が徹底して守り抜いた美学でもある。

だからこそ、その「視点」で考えれば、ソロを誰が吹くか、というのは結局キャラクターものという文脈が否めない。その意味では黒江真由が演奏しようが、久美子が演奏しようが、それは「物語上の役割」であって、実際の吹奏楽部におけるパートの割り振りや音楽的適性とは切り離されている。もちろん、ドラマとしての意味付けがある以上、その演出が悪いわけではない。

だが裏を返せば、その時点で『響け!ユーフォニアム』は「吹奏楽部のリアルな内部」ではなく、「キャラクターが生きる音楽劇」としての道を選び取っているということでもある。

ただ、その上で再三述べておきたいのは──『響け!ユーフォニアム』の成功によって、吹奏楽の未来が本質的に変わり得た可能性が、確かに存在していたということだ。

それは単に「部員が増えた」といった表層的な現象ではなく、もっと本質的で創造的な変化──すなわち、「アニメから新曲が生まれ、現場にフィードバックされる」という回路の成立である。

そして、その構想を現実のものとし得た存在は、「全国の吹奏楽部が頼る作曲家」の代表格である島弘和か樽屋雅徳この二人しかいなかった。

 

響け!ユーフォニアム』は、吹奏楽部の人間関係や成長を描きながら、それを音楽劇として昇華させた稀有な作品である。だが、だからこそ、「吹奏楽部の現場」と「物語の演出」との微細なズレは、最後まで拭いきれなかった。

島弘和や樽屋雅徳という、制度的リアリティと創造性を両立できる数少ない作曲家を迎えることで、その隙間はもう一段階、美しく接合されたのではないか──そう思えてならない。