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Music Synopsis

音楽に思考の補助線を引く Notes on sound, voice, and what remains

サンライズは歌い続ける──『ラブライブ!』から『前橋ウィッチーズ』へ、長崎行男の音響史

サンライズというアニメ制作会社は、実にしぶとく、しかも賢く生き残ってきた企業だと思う。

もっとも、その企業に対して抱かれるイメージは、アニメに触れてきた年代によって大きく異なるのではないだろうか。多少言い切りになるが、1970〜80年代の作品を知る世代にとって、サンライズとは何よりもロボットアニメの制作会社である。『無敵超人ザンボット3』(一九七七年)、『機動戦士ガンダム』(一九七九年)、『装甲騎兵ボトムズ』(一九八三年)といった作品群を考えれば、それも当然だろう。2021年に移転した本社オフィスが「ホワイトベース」と名付けられていることからも、富野由悠季の作品が同社の歴史と企業イメージに与えた影響の大きさがうかがえる。

 

しかし、サンライズの企業史を考えるうえで興味深いのは、そうした過去の成功に依拠し続けることなく、時代ごとに新しい監督と作品を送り出してきたことである。

例えば、2000年代には谷口悟朗が『コードギアス 反逆のルルーシュ』(二〇〇六年)で、オリジナルIPとしての大ヒットを記録している。谷口はそれ以前にも『無限のリヴァイアス』(一九九九年)、『スクライド』(二〇〇一年)などを手掛けており、その仕事はサンライズが長年得意としてきたSF・ロボットアニメの制作環境にありながら、富野作品とは異なる作劇を発展させてきたものだった。

『コードギアス』もまたロボットアニメの形式を用いているが、その物語を牽引するのは、ルルーシュという人物の政治的野心と、それによって変貌していく世界である。こうした作品を新しい世代の監督が生み出し、巨大なオリジナルIPへと成長させたことは、サンライズという企業の創作上の活力を示している。

アニメ制作会社が過去のヒット作や代表的な監督の影響から容易には離れられないなか、サンライズは少なくとも、次の時代を担う監督に新たな作品を作らせ、それを成功へ導く力を維持してきた。そして2010年代以降、そこにもう一つ、産業的な転換点となった作品が登場する。『ラブライブ!』(二〇一三年)である。

もちろん、ロボットアニメは現在もサンライズを代表する分野であり、とりわけ「ガンダム」という巨大IPの存在感は圧倒的だ。しかし、既存IPの存在感が強いロボットアニメ市場に対して、2010年代にはキャラクターソングや声優ライブとの連動によって、アイドルアニメが独自の市場を形成していった。サンライズはこの市場の形成に「ラブライブ」を通じて深く関与し、アニメと音楽の両面にまたがる巨大な事業の柱を獲得することになる。

そして、この成功をアニメ制作会社の側だけから説明することはできない。そこにはLantisという音楽レーベルが2000年代に培ってきたキャラクター音楽文化の蓄積があり、木皿陽平をはじめとする音楽プロデューサーたちの仕事があった。

2000年代後半、Lantisは『涼宮ハルヒの憂鬱』『らき☆すた』などを通じて、キャラクターソングを作品の人気と連動させる方法を発展させていた。その経験を踏まえ、「ラブライブ」では2010年のプロジェクト開始当初から楽曲を発売し、キャラクターと声優ユニットの活動を育て、やがて現実の巨大なライブ市場へと進出していく。

ここでサンライズが獲得したものは大きい。ロボットアニメでは、映像の中で活躍する機体が、現実の商品市場において価値を持ってきた。一方、「ラブライブ」では、映像の中で歌う少女たちが、声優本人の身体を伴って現実のステージに立つ。アニメのキャラクターを起点に市場を形成するという点で、サンライズが得意としてきたIP展開の方法が、アイドルという新しい分野でも成功したのである。

その結果、2010年代以降にアニメへ親しんだ観客にとっては、「ラブライブ」こそがサンライズを象徴する作品の一つになった。同じ制作会社でありながら、接してきた作品と産業的な成功のあり方によって、その印象が変わっているわけである。

なお、2022年の事業再編によって、サンライズはバンダイナムコフィルムワークスのアニメーション制作ブランドとなったが、その制作活動は現在も継続している。

そして、そんなサンライズが2025年に送り出したのが『前橋ウィッチーズ』(二〇二五年)だった。

TVアニメ『前橋ウィッチーズ』Original Soundtrack

TVアニメ『前橋ウィッチーズ』Original Soundtrack

  • 羽深由理 & 前橋ウィッチーズ
  • アニメ
  • ¥3259

ここで注目したいのが、音響監督・長崎行男の存在である。「ラブライブ」で少女たちの歌唱とドラマを支えてきた人物が、今度は魔女とアイドルを組み合わせた「前橋」の音響監督を務めている。

では、同じサンライズが手掛け、同じ音響監督が参加したアイドルアニメにおいて、歌うことの意味はどのように変化したのか。サンライズが積み重ねてきたキャラクター音楽の制作経験は、「前橋」において、どのような表現へと結実しているのか。

今回は、その制作史と長崎行男の音響演出を手掛かりに考えていきたい。

ちなみに、『前橋』は今回の総集編の映画が初めましてで、テレビシリーズ版は知りません。数時間前に知ったコンテンツです。

案外知られていないが、長崎行男は『ラブライブ!』(二〇一三年)から『ラブライブ!サンシャイン!!』(二〇一六年)、『ラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会』(二〇二〇年)、『ラブライブ!スーパースター!!』(二〇二一年)に至る主要TVアニメシリーズの音響監督を一貫して担当している。

長崎の経歴で興味深いのは、1980年代の段階から、アニメと音楽の関係を制作現場で学んでいたことである。EPICソニー在籍時に参加した『超獣機神ダンクーガ』(一九八五年)では、主題歌や劇伴の制作を担当しながら、アフレコやダビングの現場にも足を運んでいたという。

この作品では、主題歌を担当した藤原理恵が声優として出演し、さらに主要キャストによる声優ユニット「獣戦機隊」がライブ活動を行うなど、後年のキャラクター音楽文化を先取りする試みがすでに見られた。そうした企画を主導したのは片岡義朗だったが、長崎もまた、その制作現場に参加していた一人だったわけである。

さらに『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』(一九八八年)ではサウンドトラックの制作を担当し、富野由悠季とも直接仕事をしていたというのだから、サンライズとの関係も相当に古い。

https://febri.jp/febri_talk/yukio_nagasaki_2/

一方、『ダンクーガ』の現場で学んだ音響制作について、長崎は当時の音響監督・松浦典良の劇伴発注を次のように振り返っている。

その音楽メニューが文学的で、今に至るも参考にさせてもらっています。

――長崎行男「長崎行男③ アニメ制作の現場に導いてくれた『超獣機神ダンクーガ』」

 

長崎によれば、脚本の段階では十分につかみきれなかった作品の面白さが、絵コンテを経ることで大きく変化していたという。その経験から、各制作工程を通じて作品が変わっていくことの重要性を学んだと語っている。

音楽プロデューサーとして現場へ参加した人物が、絵コンテによる演出の変化や音響監督の劇伴発注に強い関心を抱き、後に自らも音響監督となる。この経歴からは、長崎がアニメにおける音楽とドラマの関係を、制作現場の経験を通じて学んできたことがうかがえる。

もっとも、音響演出に関わる仕事を見れば、『モノノ怪』(二〇〇七年)から『劇場版モノノ怪 第三章 蛇神』(二〇二六年)に至る中村健治作品、村瀬修功監督の『虐殺器官』(二〇一七年)におけるアフレコ演出、2026年の『ワールド イズ ダンシング』など、その担当領域は驚くほど幅広い。

とりわけ、『虐殺器官』のような硬質なSF作品で村瀬修功の演出を支えてきた人物が、その一方で「ラブライブ」の主要シリーズをほぼ一貫して担当してきたことには注目したい。音楽プロデューサーとしての経験を持ち、キャラクターの芝居と歌唱を扱うアイドルアニメに10年以上にわたって参加してきた長崎は、「ラブライブ」という巨大IPを支えた功労者の一人である。その仕事はシリーズの規模を考えても、もっと注目されてよいと思う。

 

そして、その長崎が2025年に再びサンライズと組み、『前橋ウィッチーズ』(二〇二五年)の音響監督を務めた。

「ラブライブ」で蓄積してきた音響制作の経験を持つ人物が、今度は歌うことそのものを少女たちの葛藤と結びつけた作品に参加する。しかも「前橋」は、企画段階から「ラブライブ」との差別化が意識されていた作品でもある。

実際、山元隼一監督はコミックナタリーのインタビューで、企画の出発点について次のように語っている。

山元 サンライズさんで別作品を担当していたこともあって、「魔法少女+アイドルで企画を動かしたい」とお誘いいただきまして。まだそのときは「前橋」という具体的な地名とかは決まっていなかったんですけど、サンライズさんが今まであんまり作られていない魔法少女ものと、「ラブライブ!」とは違う新しいアイドルものを合体させたような作品を作ろうと。

――コミックナタリー「『前橋ウィッチーズ』のためにできることをしたい」山元隼一監督×岩井勇気対談、2025年5月26日。

山元はさらに、「ラブライブ」が男性から見た理想的なスポ根の少女像を描いてきた作品だとすれば、「前橋」では少女たち自身の悩みに焦点を当てようとしたとも語っている。

つまり、サンライズは従来のアイドルアニメとは異なる人物描写を志向しながら、その音響制作には「ラブライブ」を長年支えてきた長崎行男を起用している。

企画の方向性を変えつつ、音響監督には同じ人物を迎える。これは、ある意味で自己批評的な試みとさえ思える。その意味を考えるためにも、まず長崎が「ラブライブ」でどのような仕事をしてきたのか、劇伴制作の側から振り返ってみたい。

 

長崎行男と「歌う少女たち」の音響史

長崎はもともと音楽プロデューサーとして活動していた人物だが、その音響監督としての仕事については、劇伴作家の証言からも興味深い一面を読み取ることができる。

『ラブライブ!』の劇伴を手掛けた藤澤慶昌は、2018年のReal Soundのインタビューで、長崎の音楽メニューの書き方が映画的だったと振り返っている。

藤澤自身、当時はポップスの作編曲を手掛けていたことから、劇伴でもAメロ、Bメロ、サビという楽曲構成に引っ張られる傾向があったという。そこから映画音楽的な作曲方法へ移行する際に、長崎との仕事が一つのヒントになったと述べている。

音響監督の長崎行男さんは、メニューの書き方が映画っぽいんですよ。

藤澤慶昌、Real Soundインタビュー(2018年3月20日)。

これは先述した『超獣機神ダンクーガ』(一九八五年)での経験とも興味深く符合する。

かつて松浦典良の文学的な劇伴発注に影響を受けた長崎が、後年には自らの音楽メニューを通じて、藤澤の作曲方法に影響を与えていたのである。

音楽メニューは、作品が要求する音楽の性格を作曲家へ伝えるためのものだが、その書き方によっては、楽曲をどのような構成で作るのかという発想自体にも影響を及ぼす。藤澤の証言は、長崎の音楽メニューが作曲家の創作にまで作用していたことを示している。

こうしてみると、長崎が「ラブライブ」で果たしてきた役割も、アイドルアニメの音響監督という肩書だけでは捉えきれない。音楽プロデューサーとしての経験を持ち、実写映画の音響制作にも触れてきた人物が、キャラクターの芝居と音楽を扱う作品で、劇伴の発注段階からその方向性に関与していたのである。

そして、長崎行男の仕事を考えるうえで、もう一作、どうしても触れておきたい作品がある。『宝石の国』(二〇一七年)である。

市川春子の漫画を原作とする本作は、オレンジによるフル3DCGアニメーションとして制作された作品だが、スタッフを見ると興味深い顔ぶれが並んでいる。

監督は京極尚彦、音響監督は長崎行男、音楽は藤澤慶昌。つまり『ラブライブ!』を手掛けた主要スタッフ3人が、今度は鉱物の身体を持つ人型生命体の物語に参加していたのである。

京極は「ラブライブ」で、少女たちの身体を音楽に合わせて躍動させるライブ演出を発展させてきた監督である。しかし『宝石』では、3DCGによって描かれた宝石たちの身体が、砕け、失われ、別の鉱物によって補われていく。その映像を前にして、音楽もまた、人間の感情に寄り添う従来の劇伴とは異なる表現を要求されることになった。

実際、藤澤は本作の劇伴制作に際して、当初の楽曲を大幅に作り直したと振り返っている。人間とは異なる存在を描くために、音楽が人物の感情を説明しすぎないことを目指し、作品世界に一定の距離を置く方法を模索したという。

そこで興味深いのが、月人の登場場面に使用される音楽である。

月人

月人

  • 藤澤慶昌
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藤澤によれば、当初は宗教的な合唱を思わせる声を使用していたが、それでは音楽に人間的な肉体の感覚が生じてしまう。そこで長崎から提案されたのが「ガムランだ!」という一言だった。

藤澤 いちばん具体的だったのは、月人の登場の曲ですね。僕がいちばん最初にコンペで作った楽曲では、わりと声を入れていたんです。いわゆるブルガリアン・ポリフォニーのような、どこか宗教的なコーラスみたいなものだったんですが、それをやっていくとだんだん、肉感的になっていく。それをどうしたらいいかな、とぼんやり考えていたときに、音響監督の長崎行男さんから「ガムランだ!」という話が出たんです。でもガムランってピッチがすごく揺れるので、実際に西洋楽器と合わせると、ぐしゃっとした質感になってしまうんですけど、それをうまく使えたらなと。それが一番、わかりやすく具体的なオーダーでしたね。

インドネシアの伝統的な打楽器音楽であるガムランは、西洋音楽の楽器と組み合わせると、音程の揺れや調律の違いによって独特の響きを生み出す。その異質な音色を月人の登場に用いることで、人間の身体を想起させる宗教的合唱とは異なる、不気味な存在感を表現できるようになったのである。

つまり、ここでの長崎は、作曲家に音楽の方向性を伝えるだけでなく、作品の世界観を成立させるために、具体的な音楽的素材そのものを提案している。

しかも『宝石』では、通常の劇伴メニューに従って制作した楽曲に加え、完成に近い映像の動きや尺に合わせて音楽を書き下ろすフィルムスコアリングも部分的に採用された。アンタークチサイトがさらわれる場面や最終話の場面が、その代表例である。

ここまで来ると、先ほどの藤澤の証言にも別の意味が生まれてくる。

「ラブライブ」の劇伴制作で映画的な音楽メニューに触れた藤澤が、京極・長崎と再び仕事をした『宝石』では、映像の具体的な動きに合わせて楽曲を制作する段階にまで進んでいる。さらに、藤澤は後年のFebriのインタビューで、『宝石』において京極と長崎が自身の音楽的な試みを受け入れてくれたことにも言及している。

――それを踏まえて、価値観を転換する必要があったと。
藤澤 当初はそれまでと同じ感覚で作業を進めていたのですが、京極(尚彦)監督やスタッフと話し合うなかで、この作品の世界観を表現するには根本的に作り方を変えなければいけないのではないかという結論に至って、劇伴も2回ほど、まるまる作り直しています。物語から離れて音楽を作るとはどういうことかを考えていくなかで、自分の内面から何かを導き出さねば、という事実に気がつきました。

劇伴を大幅に作り直すような制作過程にあって、監督と音響監督が作曲家の判断を許容していたことは、こうした音楽表現が成立した背景として見逃せない。

その後、藤澤は『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』(二〇一八年)の劇伴制作でも、『宝石』での経験が参考になったと語っている。

「少女☆歌劇 レヴュースタァライト」オリジナルサウンドトラック

「少女☆歌劇 レヴュースタァライト」オリジナルサウンドトラック

  • 藤澤慶昌 & 加藤達也
  • サウンドトラック
  • ¥2444

藤澤 物語に添わせるのではなく、作品の世界からヒントをもらいながら自分の内側をさらけ出す作業は、まるで自分と戦っているかのようで消耗しました。そういう意味でも、すごく印象に残っている仕事ですね。後に『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』の劇伴を作ったときにも似たような感覚を味わいました。あの作品も残酷さと美しさを持ち合わせていましたし、『宝石の国』での取り組み方がかなり参考になりましたね。

――そのあたりは『ラブライブ!』で一緒に仕事をした京極監督や音響監督の長崎行男さんとの仕事だったからこそできた面もあったのでしょうか?
藤澤 そうですね。『宝石の国』では、京極さんも長崎さんもこちらがやりたい音楽を許容してくださったように思います。その他では東宝の小林(健樹)プロデューサーも手厚くサポートしてくださって、いろいろアイデアを出していただきました。

『ラブライブ!』で少女たちの声と身体を音楽によって際立たせた制作陣が、『宝石の国』では、声が持つ人間的な身体性をいかに遠ざけるかという問題に向き合っていた。

京極尚彦、長崎行男、藤澤慶昌という顔ぶれは同じでも、作品が要求する音楽は大きく異なる。とりわけ、長崎が月人の劇伴にガムランを提案した事例は、作品に必要な音色を判断し、その方向性を作曲家へ伝えるという、音響監督の具体的な仕事をよく示している。

ここに、長崎が2010年代以降のアニメ音響で果たしてきた役割の一端を見ることができる。

そして、長崎のキャリアを考えるうえでは、当然『プリティーリズム・オーロラドリーム』(二〇一一年)を起点とする「プリティーリズム」シリーズも見逃せない。

『プリティーリズム・レインボーライブ』(二〇一三年)を含め、これらの作品では少女たちの歌唱やパフォーマンスが物語を動かす大きな役割を担っている。

さらに、その後の『KING OF PRISM -Shiny Seven Stars-』(二〇一九年)では、京極尚彦がプリズムショー演出を担当し、長崎が音響監督を務めている。

KING OF PRISM -Shiny Seven Stars- Song&Soundtrack

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  • Various Artists
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  • ¥2444

つまり、京極と長崎の協業は「ラブライブ」や『宝石』に限定されたものではなく、タツノコプロによる「プリティー」系列の作品にも及んでいる。映像演出と音響制作の組み合わせを、制作会社の異なる作品でも確認できるわけである。

なかでも、今回の『前橋ウィッチーズ』を考えるうえで見逃せないのが、『連盟空軍航空魔法音楽隊ルミナスウィッチーズ』(二〇二二年)である。

TVアニメ「ルミナスウィッチーズ」オリジナルサウンドトラック

TVアニメ「ルミナスウィッチーズ」オリジナルサウンドトラック

  • 藤澤慶昌, 長岡 成貢, 如月結愛 & KOUGA
  • サウンドトラック
  • ¥2444

『ストライクウィッチーズ』の世界観を受け継ぐ本作は、戦闘を担当するウィッチたちとは異なり、歌によって人々を励ます航空音楽隊を描いた作品である。監督は佐伯昭志、アニメーション制作はシャフト、音響監督は長崎行男。そして劇伴を担当しているのは、先述した「ラブライブ」の藤澤慶昌である。

この顔ぶれには、なかなか興味深い巡り合わせがある。

シャフトといえば、新房昭之を中心とする多種多様なディレクターの作品に、鶴岡陽太が音響監督として長年参加してきたことで知られる。『化物語』(二〇〇九年)や『魔法少女まどか☆マギカ』(二〇一一年)を考えても、その関係は非常に深い。

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ところが、『ルミナス』で音響監督を担当したのは鶴岡ではなく長崎行男であり、劇伴には「ラブライブ」でも長崎と組んできた藤澤慶昌が参加している。この人選には、相応の制作上の意図を感じざるを得ない。

もっとも、シャフトの音響制作史を鶴岡陽太だけで説明するのも正確ではない。『さよなら絶望先生』『ひだまりスケッチ』などを担当した亀山俊樹の存在も大きく、実際には亀山と鶴岡が並行して新房作品を支えてきた時期が長い。

そうした音響制作の人脈を持つシャフトにおいて、佐伯昭志監督による歌唱主体の作品では、長崎と藤澤という「ラブライブ」で実績のある2人が再び組んでいる。藤澤が長崎の映画的な音楽メニューから影響を受けたことを考えても、この協業関係が異なる制作環境で継続していることは興味深い。

制作会社の従来の人脈にとどまらず、企画の性格やスタッフ間の協業経験から、音響監督の人選を考える手掛かりにもなるだろう。

WONDERFUL WORLD

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  • ルミナスウィッチーズ
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ここまで来ると、長崎が「ラブライブ」の音響監督として積み上げてきた経験について、もう少し広い視点から考えたくなる。

「ラブライブ」におけるスクールアイドルの歌唱は、少女たちが自身の夢に向かって活動する過程と密接に関わっている。観客からの応援を受けながらステージへ立つことが、彼女たち自身の成長や自己実現へと結びついていく。

一方、『ルミナス』では、その歌唱が戦時下の人々に向けられる。故郷を離れた人々や戦争によって傷ついた人々を励ますことが、少女たちの活動目的になっているのである。歌う側の成長に加えて、歌を受け取る側の事情が物語を大きく動かしている。

こうした経歴を踏まえ、改めて2025年の『前橋ウィッチーズ』に目を向けたい。

アゲラタム

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ストレリチア

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  • 前橋ウィッチーズ
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春化

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  • アニメ
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「前橋」では、5人の少女たちが魔法の花屋を営み、そこを訪れた人々の願いを叶えようとする。歌唱はその魔法と結びついているが、相手の願いを叶えることが、その人物を幸福にするとは限らない。善意をもって他人に関わろうとする少女たち自身が、そこで別の葛藤を抱えることにもなる。

こうして考えると、「ラブライブ」で少女たちが自分たちの夢のために歌い、『ルミナス』で他人を励ますために歌っていたことに対して、「前橋」では、そもそも他人の願いに応えることが相手の幸福につながるのかという問題が生じている。

もちろん、これらの作品が直接的な影響関係によって生まれたと断じるつもりはない。しかし、アイドルという存在が誰かを元気づけるという理念が、作品ごとに異なる役割を与えられてきたことは確かだろう。そして長崎は、その変化を音響監督として経験してきた人物でもある。

もちろん、音響監督の仕事は劇伴への発注だけに限られない。役者のキャスティングやアフレコ時の演出、音響効果、音楽を使用する箇所の判断など、その担当領域は広い。

歌唱を中心に据えた作品では、普段の会話から歌へと移行し、歌い終わった人物が再び芝居へ戻っていく過程にも相応の説得力が求められる。長崎が継続して扱ってきたのは、そうした人物の声と音楽の関係でもある。

さらに「前橋」でも、5人の声優が現実のステージで「前橋ウィッチーズ」として活動している。キャラクターと声優の歌唱活動を並行させる制作方法は「ラブライブ」とも共通するが、アニメ本編で描かれる少女たちは、必ずしも理想的な人物ではない。ときには他人の願いを理解できず、自分たちの善意によって相手を傷つけてしまう。

ちなみに、上泉マイを演じる百瀬帆南は、幼い頃からアニメの主題歌に親しみ、後に「ラブライブ」や『BanG Dream!』など、キャラクターとキャストが一体となって歌い、踊る作品に感銘を受けたという。当初は出演者になることだけを考えていたわけではなく、制作側としてでも、こうした作品に携わりたいと考えていたそうだ。

インタビュー記事

──声優を目指したきっかけを教えてください。

百瀬帆南:小さい頃は、午前中や夕飯時にテレビでやっている子供向けのアニメを観て、妹とそのアニメの主題歌を歌ったりしていただけだったんですけど、ラブライブ!シリーズや『BanG Dream!(バンドリ!)』などといった、キャラクターとキャストが一体となって歌って踊ったり演奏したりする作品を知ったのがきっかけで、そういったアニメ作品にはまっていきました。作品のコンセプトがあって、そのキャラクターのイメージを守りながらキャストが歌やダンスなどをアニメと同じようにパフォーマンスしていて――すごいコンテンツだなって感じたんです。今の日本の文化を支えているのはこういうコンテンツかもしれないって。最初は表舞台に立つキャストにこだわっていたわけではなく、制作側としてでもいいから、「こういった作品に携われる職業につきたい!」と、当時は漠然と思っていたんです。

その百瀬が、実際に「ラブライブ」の音響監督を務めてきた長崎行男の参加する「前橋」で上泉マイを演じ、声優ユニットの一員としても活動している。

かつて「ラブライブ」に憧れた観客が、今度はその音響制作を支えてきた人物と同じ現場で仕事をしている。長崎もその発展に携わってきたキャラクター音楽文化が、次の世代の出演者へと受け継がれていることを考えると、なかなか象徴的な巡り合わせではないだろうか。

キャラクターの未熟さや矛盾までを引き受けた音楽表現が、アニメとライブの双方で成立しているところに、サンライズが蓄積してきたキャラクター音楽文化の成熟を感じる。

簡単に言えば、サンライズの代表作として「ラブライブ」を挙げることに抵抗を覚える人もいるかもしれない。しかし、長崎行男の仕事を『宝石の国』『ルミナスウィッチーズ』から「前橋」まで追っていくと、そうした見方も少しは変わるのではないだろうか。

「ラブライブ」で培われた音響制作の経験は、サンライズの外でも生かされ、異なる監督や企画のもとで新しい表現を生み出してきた。

そして、かつての成功作とは異なるアイドルアニメを作ろうとするサンライズが、再び長崎を音響監督に迎えている。

過去の成功を新しい企画に生かしながら、同じ方法を繰り返すだけでは終わらない。そうした制作上の判断を見ても、サンライズという企業が、アニメ会社として実にしぶとく、しかも賢く生き残ってきた理由が、少しはわかるように思う。

 

 

というわけで、長崎行男の「歌うアニメ」の最新版がどんなものになっているのか気になる方は、ぜひ『劇場版 前橋ウィッチーズ~魔女見習いのエモエモリーズ~』をご覧ください。なかなか面白いところまで来ています。

スゴすぎ前橋ウィッチーズ!2026

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You Are My World

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さて、ここからは超絶余談なんですが、まだ音響監督が発表されていない『カグラバチ』についても、個人的には長崎行男が担当するのではないかと予想している。

関智一、小西克幸、中村悠一という主人公側の配役には、人物同士の関係を声の厚みで成立させようとする、演劇的な組み合わせを感じる。ここへ敵側の冷徹な音色が加われば、なかなか長崎らしい音響の構図になるのではないだろうか。

しかも、アニメーション制作を担当するCypicは、長崎が音響監督を務めた『ワールド イズ ダンシング』と同じスタジオであり、同作には小西克幸が観阿弥役、櫻井孝宏が足利義満役で出演している。この意味では、『ワールド』が次の制作に向けた前哨戦のようにも見えてくる。

さらに遡れば、長崎が音響監督を務めた『モノノ怪』の薬売り、アフレコ演出を担当した『虐殺器官』のジョン・ポールも櫻井孝宏だった。こうした起用歴を考えると、今度は『カグラバチ』の敵側にあの声が置かれることも、個人的には十分期待したくなる。

もちろん、現時点では推測にすぎない。というより、櫻井孝宏に幽を演じてほしいという個人的な願望が、相当程度混じっていることは否定しない(笑)。

ともあれ、これだけ長崎のキャリアを調べてしまうと、今後の音響監督人事も気になって仕方がないのである。

 

『BADDY BADDY』という逆春日影──Diggy-MO'×JUNKOOの帰還とAve Mujicaの仮面性

まさか『BADDY BADDY』がこんな組み合わせで来るとは、誰も想像できなかったのではないか。というか、本当にソロDiggy-MO'時代の組み合わせをぶつけてくるとは。しかも、それが『BanG Dream!』の楽曲として実現するのだから、余計に面白い。

JUNKOOは、Diggy-MO'のソロアルバム4枚すべてに関わり、主要楽曲の作曲・編曲にも深く携わってきた、ソロ期を語るうえで欠かせない人物である。そのJUNKOOが、よりによってAve Mujicaに参加する。あまりにも贅沢な座組である。

そして、この異例の制作体制を知ったうえで聴くと、ひときわ挑発的に響く一節がある。

www.youtube.com

BADDY BADDY

BADDY BADDY

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ようこソ 本当ノ Ave Mujica ノ世界ヘ

本当かよ、と思えるほど挑戦的な言葉である。というより、これまでの制作史と楽曲の文脈が重なりすぎている。

Ave MujicaはMyGO!!!!!と同様、初期の楽曲にElements Gardenが関わり、TVアニメ本編のOP・EDではSUPA LOVEの作家陣が中心となっている。しかしAve Mujicaの場合、そこにDiggy-MO'という鬼才がサウンドプロデューサーとして存在していることが決定的に大きい。

Diggy-MO'の複雑な韻律を歌唱として成立させる佐々木李子がいて、その声を中心に、メタルを基調とするバンドの演奏が展開される。Diggy-MO'の語法をAve Mujicaの音楽として成立させられることが、このユニットの大きな強みである。そんな恵まれた環境のもとで、これまで数々の楽曲が発表されてきた。詳しい話は以前の音楽論で散々述べたので、そちらを参照していただきたい。

とはいえ、これまでのAve Mujicaは、Diggy-MO'とSUPA LOVEの協業を基盤としていた。「顔」に至って、Diggy-MO'のソロ期を想起させる作家性は相当に前景化したものの、音楽制作の座組そのものがソロ期へと接近することまでは想像していなかった。

そうした矢先に発表されたのが「BADDY BADDY」である。

作詞はDiggy-MO'、作曲・編曲はDiggy-MO'とJUNKOO。

完全にソロDiggy-MO'時代の組み合わせだ。

この2人の協業は、2008年のソロデビュー曲『爆走夢歌』にまで遡る。

爆走夢歌

爆走夢歌

  • Diggy-MO’
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TVアニメ『ソウルイーター』のEDテーマとして知られる同曲ではJUNKOOが編曲を担当し、Diggy-MO'の疾走感あふれるフロウと、メロディアスな楽曲構成を支えていた。

翌2009年の『JUVES』では共同作曲を担当。さらに『Arcadia』や、『STAY BEAUTIFUL』でも作曲・編曲を共に手がけ、ソロ期の主要楽曲を形成している。

Arcadia

Arcadia

  • Diggy-MO’
  • ロック
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STAY BEAUTIFUL

STAY BEAUTIFUL

  • Diggy-MO’
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そして2014年の『Lovin' Junk』では、ジャズやスウィングを想起させる軽妙な音の運びと、音節を自在に変化させるDiggy-MO'特有のフロウが際立つ。

Lovin' Junk

Lovin' Junk

  • Diggy-MO’
  • J-Pop
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さらに2018年には、ソロ10周年記念のベストアルバムに新曲として収録された『GOD SONG』『GIOVANNI』でも、JUNKOOがDiggy-MO'と共同で編曲を担当している。前者では世界の誕生を告げるような壮大な自己宣言が、後者では言葉と音節を戯れさせる独特のユーモアが前面に現れていた。

GOD SONG

GOD SONG

  • Diggy-MO’
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GIOVANNI

GIOVANNI

  • Diggy-MO’
  • J-Pop
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こうして見れば、JUNKOOはソロ活動の黎明期から後期に至るまで、Diggy-MO'の主要楽曲を継続的に支えてきた作家なのである。とりわけ『GOD SONG』で展開された世界創造の想像力が、現在のAve Mujicaの神学的な音楽表現とも響き合っていることを考えると、この組み合わせが『BADDY BADDY』で復活した意味は相当に大きい。

ここまで来ると、Diggy-MO'が制作を統括しているからソロ作品に似ている、という説明では済まない。音楽的な成立条件そのものがソロ期と重なっている。極端に言えば、2018年の『GOD SONG』から続くDiggy-MO'のソロ新曲を、佐々木李子がドロリスとして歌っているかのような感覚さえある。ところが、そこに聴こえるのはDiggy-MO'本人の声ではなく、佐々木李子の歌声なのである。頭の中ではDiggy-MO'の声に置き換えられるほどソロ期の語法が濃厚なのに、実際にはドロリスの歌として完成している。この奇妙な一致と隔たりが、今回の最大の驚きである。

しかも、その楽曲が、かつてElements Gardenの上松範康らが手がけた『Ave Mujica』の冒頭にある、

…ようこそ。Ave Mujica の世界へ

という言葉を、ほとんど直接的なアンサーのように言い直している。最初の楽曲では観客を迎え入れるために発せられた言葉が、今度は、その世界で音楽を育ててきたDiggy-MO'自身の制作系譜から発せられる。しかも、そこには「本当ノ」という一語が加わっている。この追加によって、最初の招待状は、後からその正統性を問われることになる。

そもそも「Ave Mujica」は、『BanG Dream! It's MyGO!!!!!』第13話に登場し、実質的にAve Mujicaの第0話とも呼べる場面で披露された楽曲である。バンドが自らの名前を掲げ、観客を仮面劇の世界へ招き入れる。その意味で、あの一節は世界観を提示する最初の自己宣言として機能していた。

あの時点では、マスカレードの世界を披露するための招待状だったとも言える。

しかし、今や状況は大きく変わっている。アニメ『BanG Dream! Ave Mujica』の本編が完結し、1stアルバム『Completeness』、さらにはベストアルバム『Ave Música』まで発表された。Diggy-MO'とSUPA LOVEの協業によって、Ave Mujicaの音楽は『Sophie』『DIVINE』などを通して、神の存在、創造と救済をめぐる想像力を強めてきた。そこには、Diggy-MO'がViRCAN DiMMER時代から扱ってきた宗教的・宇宙論的なモチーフとの連続性も認められる。

その蓄積を聴いてきたリスナーにも、相応の耐久力がついてきた。次のAve Mujicaは、一体どこへ向かうのか。その問いに対し、EP『神の名を』は、またしても予想を超える回答を突きつけてきた。

神の名を - EP

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  • Ave Mujica
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  • ¥917

なかでも「BADDY BADDY」は、Diggy-MO'×JUNKOOというソロ期からの協業関係を再び成立させたうえで、上松範康らが提示した最初の世界宣言を「本当ノ Ave Mujica ノ世界ヘ」と言い直している。

旧来の制作陣が提示した世界を、別の「過去」を持つ作家たちが引き受け、今度は自分たちの音楽で「本当」を名乗る。

上松範康の言葉がなければ、この宣言は成立しない。ところが、その言葉を引き受けながら「本当ノ」と付け加えることで、最初に提示された世界の正統性まで相対化してしまう。いかにも悪戯っぽい。

そして、この関係はMyGO!!!!!における『春日影』の位置づけを考えると、いっそう奇妙なものに見えてくる。

「逆春日影」─2つの制作史が交わるとき

そもそも、なぜ今回の「BADDY BADDY」を「逆春日影」と呼びたくなったのか。

以前、MyGO!!!!!とCRYCHICについて、「春日影」という楽曲を手がかりに、その「断絶構造」を論じたことがある。そこでは、Elements Gardenが制作したCRYCHICの楽曲が、SUPA LOVE中心のMyGO!!!!!によって再演されることの意味を考察した。

 「春日影」の特異性は、かつて『バンドリ! ガールズバンドパーティ!』の主要楽曲を担ってきたElements Gardenが、劇中で解散したCRYCHICの楽曲を制作し、それをSUPA LOVE中心の新たな制作体制にあるMyGO!!!!!が再演するという関係にあった。

CRYCHICの活動が終わったあとも、「春日影」という楽曲は残された。そして、MyGO!!!!!がその曲を演奏する。これを聴いた祥子は、かつて自分が属していたバンドの音楽が、別のバンドによって演奏される瞬間に立ち会った。そよの「なんで春日影やったの!!」という叫びは、同じ楽曲が別のバンドに属することへの抵抗として響く。だからこそ、作中では、失われたCRYCHICの記憶が、現在のMyGO!!!!!を揺さぶっている。そして制作史から見れば、Elements Gardenという旧来のバンドリ音楽を代表した作家陣の楽曲が、SUPA LOVE中心の新しいバンドの演奏によって再び鳴り始めている。過去に属していた音楽が現在へ入り込み、現在のバンドの存在を揺るがす。その関係を、以前の論考ではCRYCHICとMyGO!!!!!の断絶に重ねて読んだ。

制作変遷

ところが今回の「BADDY BADDY」では、これとは逆方向の動きが起きている。

Ave Mujicaでは、Elements Gardenが制作した「Ave Mujica」が、バンド名そのものを掲げて世界の入口を示していた。一方、その世界で鳴る音楽を積み重ねてきたのは、主にDiggy-MO'とSUPA LOVEの作家たちだった。そこで今度は、Diggy-MO'がソロ期からの盟友JUNKOOを連れてきて、かつての入口の言葉を「本当ノ」と言い直す。

つまり、最初にバンドの顔を示した楽曲へ、その後の音楽を育ててきた側から返事が届く。その返事を聴いたあとでは、最初の名刺に書かれた言葉まで意味が変わって見えるわけである。「春日影」では、旧来の楽曲が新しいバンドによって再演された。「BADDY BADDY」では、新たな楽曲が旧来の自己宣言を引用するかのように言い直している。

前者では、過去の楽曲が現在のバンドに対して、その帰属をめぐる問題を突きつけた。後者では、現在の制作陣が過去の言葉を引き受け、その意味を改めて決定しようとしている。しかも、この関係は制作陣を新旧に分けただけでは説明しきれない。

Diggy-MO'はAve Mujicaの初期(「黒のバースデイ」)から制作に携わっており、Elements GardenからSUPA LOVEへと一方的に交代したわけではない。

さらに今回参加したJUNKOOは、Diggy-MO'個人の音楽史において、2008年のソロデビュー期から制作を共にしてきた人物である。つまり、バンドリの制作史では新たな組み合わせでありながら、Diggy-MO'の音楽史では長年続いてきた組み合わせなのだ。

ここで「過去」と呼んでいるものは、参照する音楽史によって位置づけが変わる。『BanG Dream!』の制作史から見れば、Elements Gardenが旧来の主流に当たる。しかしDiggy-MO'個人の制作史へ目を移すと、JUNKOOとの協業こそが、2008年から続くソロ期の重要な制作体制なのである。

Ave Mujicaにおける変遷

 

Elements Gardenという旧バンドリの主流があり、Diggy-MO'のソロ活動を支えたJUNKOOとの協業がある。両者は異なる音楽史に属しているが、今回のAve Mujicaでは、その2つが同じバンド名のもとで出会ってしまった。

そして、後者が前者の提示した世界へ向かって「本当ノ」と宣言する。

これほど挑戦的な応答もなかなかない。制作陣の名前まで知っていると、あの歓迎の台詞は相当に悪戯っぽく響く。「ようこそ」という言葉自体は同じでも、その言葉を誰が、どの音楽によって発しているのかが変わったことで、最初の「Ave Mujicaの世界」まで異なる意味を帯び始めるからである。

『春日影』を聴いた祥子は、同じ曲が別のバンドのものになる瞬間に立ち会った。今回は聴き手が、同じAve Mujicaという名前のもとで、別の制作系譜から「こちらが本当」と名乗り直される瞬間に立ち会っている。

『春日影』では、過去の楽曲を現在のバンドが演奏したことで、楽曲が誰に属するのかという問題が噴出した。『BADDY BADDY』では、現在の楽曲が過去の世界宣言を引き受け、その名前に「本当ノ」という新しい意味を与える。しかも、その現在の楽曲を作るDiggy-MO'×JUNKOO自体が、別の音楽史における過去から現れた組み合わせなのである。この反転をもって、今回の楽曲を「逆春日影」と呼びたい。

 

しかし、今回の奇妙さはそれだけでは終わらない。というのも、「本当ノ」と宣言したはずの「BADDY BADDY」は、その歌詞の中で、今度は本当の自分が何者なのかという問題に踏み込んでいくからだ。

『顔』から『BADDY BADDY』へ─音楽が与える新たな仮面

「BADDY BADDY」によって、ドロリス、ひいてはAve Mujicaにおける仮面性は、TVシリーズ本編を経たあとで、さらに強まったように思う。そもそも、先述した『顔』は、英題が「Alter Ego」であったように、もう一人の自分を主題とする楽曲だった。

三角初音が三角初華という他者の名前を生きてきたことによって、本来の自分と、他者に向けて演じてきた自分との隔たりが生まれていた。『顔』では、その隔たりが、鏡に映る自己や偽装された人格をめぐる言葉によって表現されている。

しかし、今回の「BADDY BADDY」では、その関係がさらに複雑になる。

というのも、佐々木李子が歌うドロリスという舞台上の人格、その正体として提示されてきた三角初華、さらにその名前を名乗っていた三角初音という関係に加えて、今度はDiggy-MO'自身のソロ作品に由来する音楽的な人格まで、歌唱の背後に現れるからである。言ってしまえば、佐々木李子兼ドロリス兼三角初華兼三角初音という、すでに相当ややこしい関係に、Diggy-MO'の作家性が、本人のソロ期と同じ制作体制によって入り込んでくる。

しかも、その音楽を歌っているのはDiggy-MO'本人ではない。あくまでも佐々木李子であり、ドロリスであり、三角初華という名前を生きてきた三角初音なのである。

この関係は実に奇妙だ。

本編において、Ave Mujicaの仮面は、豊川祥子が作り上げた舞台上の世界を成立させるためのものだった。メンバーは役名を与えられ、その名前にふさわしい存在として振る舞う。しかし物語が進むにつれ、仮面の内側にいる少女たちの素顔や秘密が明らかになり、やがて舞台上の人格と現実の自己との関係が問題になっていく。

その極致にいたのが三角初音である。そもそも彼女は、ドロリスという仮面を被る以前から、三角初華という他者の名前を生きていた。舞台の外へ出たからといって、本来の自分に戻れる人物ではなかったわけだ。そして、物語によってその秘密が明らかになったあと、今度は音楽そのものが、新しい仮面を彼女に与えてしまう。

それがDiggy-MO'の音楽的な人格である。

佐々木李子の歌声からは、Diggy-MO'本人が長年使ってきた発声の運びや韻律を聴き取ることができる。声の主は佐々木李子でありながら、その背後には別の音楽家の身振りが浮かび上がる。三角初音が三角初華という名前を引き受けていたように、今度はドロリスの歌声がDiggy-MO'の音楽的な身振りを引き受けているのである。

当然作詞者であるDiggy-MO'と、歌詞の中の「わたし」をそのまま同一視することはできないが、しかし今回、彼のソロ期を代表するJUNKOOとの制作体制が再現されたことで、韻律の組み立て方から言葉の崩し方、語尾の跳ね方に至るまで、Diggy-MO'自身の音楽的な筆跡がこれまで以上に直接的に現れている。

そして佐々木李子は、その強烈な作家性を自身の歌唱として成立させてしまう。

これが一番の驚きである。

Diggy-MO'の歌唱は、言葉のアクセントを拍の上でずらし、語尾を旋律へ滑り込ませ、意味よりも音の連続を優先するようなフロウによって成立している。『BADDY BADDY』にも、短い呼びかけから一気に言葉を詰め込む運びや、語尾を跳ねさせながら旋律へ移行する処理が現れている。その発声を本人とは異なる声質で成立させているところに、佐々木李子の歌唱の特異性がある。

言葉の切り方、拍に対する声の入り方、母音の伸縮、そしてラップと旋律の境界を曖昧にするフロウ。そのいずれもが、彼自身の声質と発声習慣に深く依存している。だからこそ、別の歌い手がこれを再現しようとすれば、単に同じ音程と言葉をなぞるだけでは済まない。

ところが佐々木李子は、これを歌えてしまう。それも、Diggy-MO'の模倣として成立させるのではなく、Ave Mujicaの楽曲として、ドロリスの歌唱として成立させている。

脳内ではDiggy-MO'の声が再生可能なほどソロ期の語法が濃厚なのに、実際に耳へ届いてくるのは佐々木李子の声である。この違和感こそが、今回の楽曲の最大の味と言える。Diggy-MO'の楽曲は、Diggy-MO'自身の歌唱によって完成するという感覚が強い。にもかかわらず、その音楽的な文法が別の歌い手の身体を得て、しかも彼女自身の表現として完成している。

ここにAve Mujicaというバンドの、ほとんど異常とも呼べる面白さがある。そして、この違和感を人物の側から考えると、さらに奇妙な問題が現れる。

この楽曲の中で繰り返し問われる「本当のわたし」とは、一体誰なのか。

 

この歌の声は佐々木李子のものだ。しかし、舞台上ではドロリスが歌い、その背後には三角初華として生きてきた三角初音がいる。さらに、耳に届く韻律にはDiggy-MO'自身のソロ期の音楽が刻まれている。

では、その歌詞の中で「わたし」と名乗る主体は、どこに位置しているのか。

当然ながら、これらは同じ水準にある人格ではない。三角初音は劇中人物であり、ドロリスはその舞台上の役割、佐々木李子は現実の歌唱者、Diggy-MO'は楽曲の制作者である。しかし、ひとつの歌声を聴いているとき、これらの存在を完全に切り離すことも難しい。

「BADDY BADDY」をDiggy-MO'の音楽として聴けば、ソロ期から磨き上げてきた語法がJUNKOOとの協業によって帰還したように聴こえる。一方、Ave Mujicaの音楽として聴けば、それはドロリスが自分自身の正体を疑いながら歌う楽曲になる。

佐々木李子の歌唱に注目すれば、Diggy-MO'という特異な発声によって成立してきた音楽的な語法を、別の声質と身体によって再現し、そのうえで彼女自身の表現へと変えてしまっていることがわかる。

つまり、同じ歌声を聴いているのに、どの制作史、どの人物の立場から聴くかによって、そこに現れる「わたし」の意味が変わってしまう。

これはAve Mujicaが本編で描いてきた仮面の問題と、驚くほど深く対応している。

「本当ノ Ave Mujica」で、誰が歌っているのか

しかも、今回の楽曲では、その歌唱主体の不安定さが歌詞そのものにも現れている。

冒頭では、薔薇の花束を扱うように言葉を弄び、相手を挑発しながら、自分の欲望を誇示していた語り手が、やがて自分自身さえ自分の所有物ではないという認識に行き当たる。相手を翻弄していた声が、今度は自分自身へ向かって疑問を投げかけ始めるのだ。

そして、自分と他者を入れ替える言葉の反復によって、その境界はますます不確かになっていく。「本当ノ Ave Mujica」という言葉では、歌い手は自らの世界を断定している。しかし、サビで繰り返される自己への言及は、「本当のわたしなら」という条件を伴っている。世界の正統性については断言できても、その世界を歌っている自分自身については、なお仮定の形でしか語れない。この落差が、楽曲の進行とともにいっそう大きくなっていく。

この展開を「顔」からの連続性で捉えると、なおさら興味深い。

顔

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  • Ave Mujica
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  • provided courtesy of iTunes

「顔」では、もう一人の自分という主題が、三角初華/三角初音の関係を通して表現されていた。そこでは、自分とは異なる誰かを演じることが、人物の秘密に直接関係していた。

ところが「BADDY BADDY」では、その秘密を知ったあとにも、歌い手の人格は一つに定まらない。

むしろ、誰が歌っているのかという問いに、制作陣の音楽史まで関わってくる。

TVシリーズ本編で三角初音の素性が明らかになったあと、今度はDiggy-MO'の音楽そのものが、ドロリスに別の仮面を与えているように聴こえるのである。

そして、この問題は楽曲の終盤で、さらに切実なものへと変わっていく。

それまで意味を持っていた言葉が、次第に音節へと崩れ始める。

Diggy-MO'のソロ作品では、意味を持つ言葉が、しばしば音節の連続へと変形される。『SHOTTTTEQKILLA』では、歌詞の文字列に「x」を挿入することで、発音される言葉と記述された言葉の双方が断片化していく。『BADDY BADDY』の終盤でも、すでに登場した一節が欠落した文字列として再び現れ、その後を意味の確定しないスキャットが引き継ぐ。同じ言葉を反復しながら、その言葉を以前と同じ形では発することができなくなっているのである。

SHOTTTTEQKILLA

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今回の「BADDY BADDY」でも、言葉の一部が欠け、意味を確定できない発音の連鎖へと変わっていく。冒頭では相手を挑発するために操られていた言葉が、終盤では語形そのものを失い、音節へと変形していく。語り手が言葉を操っているのか、それとも反復される音によって語り手自身が翻弄されているのか、その主従関係さえ判然としなくなる。

しかし、音楽は止まらない。言葉が意味を確定できなくなったあとも、韻律は走り続ける。音節が反復され、声が拍を刻み、意味の崩れた言葉がなお音楽として成立してしまう。Diggy-MO'がソロで磨いてきた、言葉を自在に操る快楽が、今度は言葉によって自分を確かなものにできない人物の苦しさへと転じる。

その変化まで含めて、「BADDY BADDY」には後期ソロの筆跡が深く刻まれている。

しかも、最後に語り手が求めるものは、自らの世界を支配する力でも、他者を圧倒する権威でもない。自分の歌が本当であること、そしてその歌によって悲しみから救われることである。この結末を、最初の「Ave Mujica」と並べて考えると、さらに大きな反転が見えてくる。Elements Gardenによる「Ave Mujica」では、仮面をつけた者たちが観客を自らの世界へ招き入れ、その願いを叶えると約束していた。世界の外側から観客を誘い、救済を与える立場にあった。ところが「BADDY BADDY」では、同じ名前を掲げた歌い手が「本当ノ」世界を宣言しながら、自分自身の正体を確かめられなくなっていく。そして最後には、歌そのものが本当であることを願い、その歌に救済を求める。

最初の『Ave Mujica』では、観客がその世界へ入ることを受け入れれば、願いは叶えられると約束されていた。救済の条件を提示する側にいたのは、Ave Mujica自身である。ところが『BADDY BADDY』では、その関係が反転する。自らの世界を「本当ノ」と名乗った歌い手が、最後には、自分の歌が本当であるならば救われるという可能性に望みを託している。

最初は他者に条件を与えていたAve Mujicaが、今度は自分自身の救済を条件に委ねているのである。しかも、その条件が「歌」にかかっていることが、この楽曲の奇妙さを際立たせる。Diggy-MO'のソロ期を再現するような制作体制によって生まれた歌を、別の歌い手が自分自身の救済のために歌っている。自分の名前も、自分の声も、完全には自分のものとして確定できない。それでもなお、歌だけは自分を救ってくれるかもしれない。最初の『Ave Mujica』が世界へ入るための招待状だったのだとすれば、『BADDY BADDY』は、その世界の中で自分自身の居場所を求める歌として響いてくる。

思えば「GOD SONG」では、Diggy-MO'自身の声が世界の始まりを告げ、言葉と音節の反復によって、歌い手の存在を強く押し出していた。


その音楽的な語法を受け継いだ佐々木李子の声は、今回、自分自身を所有することさえできない人物の切実さを歌っている。かつて自らの声で世界を創造していた音楽家が、今度は別の表現者にその音楽を託し、その歌い手が「本当ノ Ave Mujica」を名乗りながら、自分自身の不確かさを歌う。そのうえ、歌詞の最後では、自分を保証する言葉を失った人物が、なお歌うことに望みを託している。

こうして考えると、Diggy-MO'×JUNKOOの帰還は、ドロリスの歌唱に独特の二重性を与えている。Diggy-MO'のソロ期から続く音楽が、三角初音という素性を持つ人物の歌として響き、上松範康らが提示した最初の世界宣言を名乗り直す。その声は「本当ノ」と宣言する一方で、自分自身が何者なのかを確定できない。制作史上の帰還が、歌詞の中では自己の不確かさとして現れているのである。

だからこそ、あの「本当ノ」という言葉には、奇妙な説得力と、同じくらいの不確かさが同居している。上松範康らElements Gardenが最初に提示した「Ave Mujica」の世界を、Diggy-MO'×JUNKOOが自分たちの音楽で名乗り直す。それは、現在のAve Mujicaが蓄積してきた音楽的な作家性の到達点として聴くことができる。

ところが、そこで「本当」を名乗っている声はすでにいくつもの名前を背負っている。

本編では、仮面の下に隠されていた人物の秘密が明らかになった。その物語を経た「BADDY BADDY」では、今度は音楽の中で、歌い手の正体が再び不確かなものになっていく。三角初音という人物の素性が明らかになっても、ドロリスという歌い手の意味はなお変化し続けている。

しかも、その変化を生み出しているのは、Diggy-MO'自身のソロ期から続く音楽的な作家性なのである。Diggy-MO'の音楽としての純度が高まるほど、Ave Mujicaの歌い手としての人格も濃くなる。そして同時に、その歌声が誰のものなのかという問いは、ますます容易に答えられなくなる。この逆説を、Diggy-MO'×JUNKOOというソロ期の制作体制そのものを使って成立させたことに、「BADDY BADDY」の恐るべき面白さがある。

おわりに─誰の音楽を、誰が歌うのか

改めて振り返れば、「春日影」では、かつてCRYCHICに属していた楽曲がMyGO!!!!!によって演奏されることで、その音楽が誰のものなのかという問題が噴出した。

長崎そよにとって、あの楽曲はCRYCHICの記憶と切り離せないものだった。しかし、それを演奏したのは、もはやCRYCHICではなかった。そして今回の「BADDY BADDY」では、Diggy-MO'のソロ期を代表する制作体制がAve Mujicaに現れ、上松範康らの自己宣言を引き受けながら、今度は歌い手自身の帰属を不確かなものにしていく。旧制作陣の楽曲を新しいバンドが演奏した「春日影」と、旧来の自己宣言を新しい楽曲が名乗り直す「BADDY BADDY」。

しかも後者を支えているDiggy-MO'×JUNKOOという組み合わせは、別の音楽史において長い過去を持っている。

バンドリの制作史では新しい音楽が、Diggy-MO'の制作史では過去から続いてきた音楽として響く。その音楽を、三角初音の秘密を知ったあとのドロリスが歌っている。

そして、その声を現実に成立させているのが佐々木李子なのである。かつて旧バンドの音楽を誰が演奏するのかが問題になったのだとすれば、今度は新しいAve Mujicaの音楽を、一体誰が歌っているのかが問題になる。

「春日影」では、同じ楽曲が別のバンドのものになっていくことで失われた過去が現在へ噴出した。「BADDY BADDY」では、異なる制作史を持つ音楽家たちが同じバンドの名前を引き受け、その名前を「本当ノ」と言い直した瞬間から、歌い手の自己同一性が揺らぎ始める。

そして、世界の入口を示していた最初の楽曲とは反対に、最後にはその世界を歌う者自身が救済を求めている。その意味で、今回の「逆春日影」は、制作陣の変遷と楽曲の対応関係から始まりながら、Ave Mujicaの仮面性そのものへと行き着いてしまった。

Diggy-MO'というアーティストの本家本元とも呼べる音楽的な成分がAve Mujicaに舞い降り、それを本人以外の歌い手が完璧に歌いこなす。

その摩訶不思議な出来事が、作品内の人物が抱える「本当の自分」という問題に、これほど深く入り込んでくるとは思わなかった。かつての世界宣言を引き受けた声は、今度は自分自身の正体を確かめられないまま、歌による救済を願っている。

そして、その声の背後では、Diggy-MO'×JUNKOOというソロ期から続く音楽が鳴っている。「本当ノ Ave Mujica」とは、一体誰の、どのような世界なのか。

その問いを、これほど贅沢な制作体制と歌唱によって成立させてしまったことに、現在のAve Mujicaというバンドの異常な面白さがあるのだと思う。

続・81プロデュースの個性派声優について考える─少女性、異物性、そして喪失の声

「おいおい、エイベックスや響の役者を論じたいがために、81プロデュースを持ち出すな」。そう思う人もいるだろう。

しかし、創立45周年を迎えた81プロデュースが、これまで所属・輩出してきた役者たちの演技を振り返ると、世代も声質も異なる彼らのあいだに、ある種の「81らしさ」が見えてくる。

例えば、間宮くるみや加藤英美里が得意としてきた人外・マスコットの演技には、可愛らしい声のまま、人間とは異なる身体感覚や知性を成立させる技術がある。そうした資質は、響所属の遠野ひかるにも強く感じられる。

一方、エイベックス所属の安済知佳が見せる、人物の感情が次第に崩れていく芝居には、上田麗奈の演技と比較したくなるだけの特殊性がある。そして、現在の81には永瀬アンナがいる。闊達な少女性を声に残しながら、喪失の予感を抱えた人物を演じられる彼女は、遠野とも安済とも異なる位置にいる。

こうした比較を通じて、81という事務所が長年にわたり育んできた演技巧者の特徴と、その特徴が他事務所の役者にも認められる理由を考えてみたい。

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木皿陽平からたどるLantisとその周辺――キャラクター音楽文化の形成期

『ユメヲカケル!』に、とりわけ好きな歌唱部分がある。

ユメヲカケル!

ユメヲカケル!

  • スペシャルウィーク (CV. 和氣あず未), サイレンススズカ (CV. 高野麻里佳), トウカイテイオー (CV. Machico), ウオッカ (CV. 大橋彩香), ダイワスカーレット (CV. 木村千咲), ゴールドシップ (CV. 上田 瞳) & メジロマックイーン (CV. 大西沙織)
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メジロマックイーン役の大西沙織がソロで歌う、

約束したね あの日 かけがいのない勝負を

という一節だ。

数秒にも満たないパートだが、ここでは大西沙織の持つ気品のある声質がひどく濃厚に響く。アイム声(アイムエンタープライズ)の中でも、声質としてはかなり上位(上品)だと思っているというのは*1当然あるが、『ウマ娘 プリティーダービー』という作品には、こうした「この声優が、このキャラクターとして、このフレーズを歌うからこそ良い」という瞬間が大量に存在している。現在、この種の快楽を最大規模で供給しているコンテンツの一つが『ウマ娘』だろう。

では、そもそもこうした文化はどこから来たのか。

声優がキャラクターとして歌う。楽曲が作品の外へ持ち出される。CDとして発売され、ライブではその声を担当する本人がステージに立つ。さらにレーベルやプロデューサーが、その歌唱を作品そのものの成長へ組み込んでいく。

声優×コンテンツ×楽曲×レーベル。

現在では当然のように見えるこの関係は、いつ頃から、誰によって方法論として育てられてきたのだろうか。

今回はそこから始めたい。

まず取り上げるのは、2010年代の方向性を決定づけた立役者の一人である。

木皿陽平。

*1:アイム声についても色々ありますけど

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Contributions & Translations|寄稿・翻訳・外部参照実績

rino名義で発表した批評・論考のうち、同人批評誌への寄稿、海外媒体での翻訳掲載、外部媒体における参照・引用実績をまとめています。

2023年より文学フリマ東京を中心に批評同人誌への寄稿を継続。アニメーションの映像表現と音響、音楽文化、SF、造形美術などを主題とした論考を発表しています。

 

Ⅰ. 翻訳・海外掲載

2025年|平沢進論の中国語翻訳

原著: 『平沢進楽曲の超現実的光景の源流を多角的視点で徹底解説』

中国語題: 「从多角度全面解读平泽进超现实音乐奇观的起源(上)」

2025年、平沢進の音楽的世界観を音楽史・SF・映画などの視点から考察した長編評論が、中国語に翻訳され、中国語圏の知識共有プラットフォーム「知乎」とカルチャーメディア「机核 GCORES」に掲載されました。

翻訳は著者の許諾を得て行われたものです。机核掲載版には翻訳者による前書きが付され、原著を中国語圏へ紹介するに至った経緯が記されています。

掲載先:


Ⅱ. 外部媒体での参照・引用

2026年10月16日|Real Sound映画部

掲載記事: 『Ave Mujica』奇跡を劇場に “史上最狂のバンドアニメ”はどこにたどり着いたのか

執筆: 徳田要太

参照対象: 『天球と韻律の星図を描くAve Mujica ─Diggy-MO'の介在性、或いは『PTOLEMY』『GOD SONG』『DIVINE』からみる「天球」のMujica』

参照形態: 本文中での先行論考の紹介・注記※10から原著へのリンク

Diggy-MO'が手がけるAve Mujicaの歌詞とコンセプトを論じる箇所で、拙稿が先行する詳細な論考として紹介されました。

本文では、歌詞の意味論的読解とDiggy-MO'の作家論について既存の研究を参照する形が採られており、注記※10には当ブログの該当記事への直接リンクが掲載されています。

2026年8月28日|Real Sound映画部

掲載記事: 『まどマギ ワルプルギスの廻天』に向けて 狩野英孝の因果律と初見の“感情エネルギー”

執筆: 徳田要太

参照対象: 「シャフトアニメの視覚表現美学の源流──劇団イヌカレーとシュルレアリスムについて」

初出: 『シャフト批評合同誌 もにも〜ど3』(2025年)

参照形態: 本文注記※2および参照文献欄への収録

シャフト作品における劇団イヌカレーの視覚表現に関連し、2025年に『もにも〜ど3』へ寄稿した論考が参照されました。

参照文献欄では、石岡良治「魔法少女たちの舞台装置」(『「超」批評 視覚文化×マンガ』所収)に続いて、拙稿が掲載されています。


Ⅲ. 寄稿・刊行実績

2023年

『もにも〜ど』

  • 発行:もにも〜ど

  • 初出:文学フリマ東京36

  • 寄稿論考:「シャフト演出が音楽と交わる時──物語る前衛音楽と魔法の音の成り立ちについて」

シャフト作品の劇伴と映像演出の関係を扱った論考。以後のシャフト音楽論・映像表現研究につながる初期の寄稿です。

『ボーカロイド文化の現在地』

  • 発行:Async Voice

  • 初出:文学フリマ東京37

  • 寄稿論考:「インターネット文化の源流からボーカロイド文化まで」

インターネット文化の歴史を背景に、ボーカロイド文化の形成と発展を考察した論考。

『外伝 もにも〜ど』

  • 発行:もにも〜ど

  • 初出:文学フリマ東京37

  • 寄稿論考:「『アサルトリリィBOUQUET』のノート──SF、少女小説、シェイクスピア」

『アサルトリリィBOUQUET』を、SF、少女小説、シェイクスピアとの関係から読み解いた作品論。

関連:2023年の寄稿告知① / 寄稿告知②

2024年

『ブラインド vol.2』

  • 発行:ブラインド

  • 初出:文学フリマ東京38

  • 寄稿論考:「『グリッドマン ユニバース』に至るまで──『電光超人グリッドマン』から『SSSS.』シリーズに至るまでの想像力」

『電光超人グリッドマン』からアニメーション版『SSSS.』シリーズ、劇場版に至る作品史を扱った論考。

『試作派』

  • 発行:試作派

  • 初出:文学フリマ東京38

  • 寄稿論考:「成田亨デザインの源流について」

成田亨の造形表現を、その美術的背景とデザインの系譜から検討した論考。

同年には製本版も刊行されています。

『伝承 もにも〜ど2.5』

  • 発行:もにも〜ど

  • 初出:文学フリマ東京39

  • 寄稿論考:「シャフトアニメの視覚表現美学の源流──尾石達也とモダニズム」(第1章)

シャフト作品における尾石達也の映像演出を、モダニズム美術との関係から考察した論考。視覚表現美学の源流を扱う連作の第1章です。

『Binder. vol.3』

  • 発行:Binder.

  • 特集:奈須きのこクロニクル

  • 寄稿論考:「影の幾何学──真アサシンが描く無名性の多面体」

『Fate/stay night』の真アサシンを中心に、人物造形と視覚的な表象を検討した作品論。

関連:2024年の寄稿告知① / 寄稿告知②

2025年

『ブラインド vol.3』

  • 発行:ブラインド

  • 初出:文学フリマ東京40

  • 寄稿論考:「音楽×青春×人間関係──ガールズバンドアニメにおける群像劇について、或いは『響け!』から『トラペジウム』に至る病」

ガールズバンドアニメにおける音楽と人間関係を、複数の作品を通して検討した群像劇論。

『型月研通信 vol.3』

  • 発行:Binder.

  • 初出:文学フリマ東京40

  • 寄稿論考:「蒼崎青子(学生時代)のギターはなぜS-S-S型なのか?」

蒼崎青子のギターの造形を入口に、『魔法使いの夜』における小道具の選択と音楽文化上の意味を考察した論考。

『もにも〜ど3』

  • 発行:もにも〜ど

  • 初出:文学フリマ東京41

  • 寄稿論考:「シャフトアニメの視覚表現美学の源流──劇団イヌカレーとシュルレアリスムについて」(第2章)

劇団イヌカレーの視覚表現を、シュルレアリスム美術との関係から考察した論考。2024年の尾石達也論に続く第2章にあたります。

本論考は、2026年8月28日のReal Sound映画部掲載記事で参照文献として採用されました。

関連:2025年の寄稿告知① / 寄稿告知②

2026年|執筆済み・刊行予定

『もにも〜ど3.5』

  • 発行予定:もにも〜ど

  • 頒布予定:文学フリマ東京43(2026年11月8日)

  • 寄稿予定:梶浦由記・鶴岡陽太の音響表現に関する論考

梶浦由記の劇伴と鶴岡陽太の音響演出を対象とする論考を寄稿予定。

2027年|執筆済み・刊行予定

『もにも〜ど〈ワルプルギスの廻天〉』特集号(仮)

  • 発行予定:もにも〜ど

  • 頒布予定:文学フリマ東京44(2027年5月23日)

  • 寄稿予定:「シャフトアニメの視覚表現美学の源流」(第3章)および新規論考

2024年から継続しているシャフトの視覚表現美学に関する連作の第3章を予定しています。

※2026年・2027年の情報は予定段階のものであり、刊行内容や頒布時期が変更される場合があります。


Ⅳ. 関連資料・頒布情報

寄稿書籍の販売先

過去の寄稿書籍は、BOOTHおよびメロンブックスなどで取り扱われています。在庫・販売状況は各リンク先をご参照ください。

もにも〜ど

その他の寄稿誌

批評同人誌の刊行案内

以下は、発行サークルによる刊行告知および寄稿誌の紹介記事です。

もにも〜ど

その他の寄稿誌


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