Music Synopsis

音楽に思考の補助線を引く

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当サイト「Music Synopsis」は音楽に関する様々なトピックを扱うブログです。楽曲の特徴や感想だけでなく、テーマやインスピレーションなどの背景も探求し、分かりやすく解説・意味づけをする記事を書いています。

音楽作品を体系的に読み解くという視点で記事を作成しています。音楽の歴史や作り手の背景や影響を受けた要素等を考慮しながら、作品の意味を探るといった内容になっています。

当然のことではありますが、個人的な見解や感性が大きく影響するので、あくまでも「一つの解釈」として参考にしていただければ幸いです。

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寄稿実績

2023年

・初出:文学フリマ 東京36

サークル:「もにも〜ど 」

寄稿本:『もにも〜ど』

「シャフト演出が音楽と交わる時ー物語る前衛音楽と魔法の音の成り立ちについて」

・初出:文学フリマ 東京37

サークル:「Async Voice」

寄稿本:『ボーカロイド文化の現在地』

『インターネット文化の源流からボーカロイド文化まで』

・初出:文学フリマ 東京37

サークル:「もにも〜ど 」

寄稿本:『外伝 もにも〜ど』

『アサルトリリィBOUQUET』のノートーSF、少女小説シェイクスピア 

 

 

 

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この記事は菅野楽曲識者λさん(infinity_drums)さんとの共作記事です。全体文字数が7万文字ですがその中の2万字ほど提供していただきました。非常に有意義な記事になったと思います。

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【寄稿文】『リズと青い鳥』を<物語>シリーズとともに読む 文:大間無題

昨日出した音楽寄稿文について、早速第一弾として大間無題さんの寄稿文をお送りします。主題はタイトルの通り音楽アニメ『リズと青い鳥』を<物語>シリーズ的に読み解くという非常に物珍しい論考になっています。寄稿文の大凡の基準として読んでいただければと思います。それでは本編へどうぞ(rino)

 

・本編

この映画『リズと青い鳥』(二〇一八年)が一見して簡単にその全容を理解できるような単純明快な作品でないことは、恐らく誰もが一見して簡単に理解できる、単純明快な事実にあたるだろう。かといって、単に複雑と言うことも、簡単に難解と言うことも、それはそれで作品の印象を捉え損ねているように思う。この映画にカルトじみたようなところはまったくなく、むしろ普遍的な魅力というものを備えていることもまた、大なり小なり、誰もに理解されるはずだ。説明不足なのにわかりやすいというか、わかりやすいようで不可解というか、総じて曖昧で捉えどころのない、不思議な作品であるように思う。

 端的に言って、いかにも考察を誘う作品だ。

 そんな訳で、この『リズと青い鳥』を<物語>シリーズとともに読む」は、すでにインターネットに数多ある『リズと青い鳥』における論考の末席を汚すべく書かれたものである。既出の考察やインタビューなどにはざっと目を通し、可能な限り妥当性の高い読解を目指した――が、あくまでもそれは個人の見解を超えるものではなく、妥当性が高くとも妥当と呼べるような代物ではないことを、初めにここで断っておきたい。当たり前のことかもしれないが、こればっかりは努力とか筆力とかで超えられる壁ではない。なんとなれば、<物語>シリーズとともに読む理由からして、なににつけても西尾維新を参照しなければなにも考えることができないという、個人的な悪癖によるものでしかなく、『リズと青い鳥』と<物語>シリーズとを対応させる必然性を、その内容から根拠立てて説明できるわけではないのだから。必然性に客観性がない。それこそ、徹頭徹尾、個人の見解である。

 長々と言い訳じみた前置きをしてきたが、要は与太の類として、肩の力を抜いて読んでほしいということだ。シリアスで痛切、エモーショナルで感傷的な作品を論じたものでこそあるが、この文章自体はシリアスでも痛切でもなければ、エモーショナルでも感傷的でもない。ここまでの文章で、思考のチャンネルを『リズと青い鳥』から<物語>シリーズに、馬鹿な掛け合いで満ちた楽しげな小説に切り替えていただければ幸いである。

 

 いい加減に本題に入るとしよう。とにかく言及し甲斐のあるフックに満ち満ちた映画ではあるが、ここではあえて、クライマックスのシーンを最初に取り上げたい。この作品の山場はなんといっても、みぞれが手加減をやめ、希美との実力の差が明らかになる場面だろう。「切ない真実に、あなたは涙するー」というキャッチコピーが公式サイトに掲げられているように、物語はこのシーンに辿り着くべく進行していると言っても過言ではないはずだ。

 しかしながら、このシーンはインパクトがあるわりに理解しにくい、飲み込みにくいものがあるように思う。問題の「切ない真実」というのは、「みぞれが希美のために実力を隠していたこと」だろう。しかし、最初に見たときに引っかかったのは、その「真実」を隠していたのはみぞれであり、それに「涙する」のは希美の方であるという点だ。

 恐らくここで違和感を覚えた観客は多いのではないだろうか。事実、公式サイトで見れる座談会トークなるものでは「Q:はじめてご覧になったとき、みぞれと希美、どちらの目線で見られましたか?」という質問に、序盤に関してはインタビュイーの全員がみぞれの名前を挙げている。少なくとも前半においては、この映画が描いてきたのは他の誰も知らないみぞれの気持ちであり、観客はみぞれしか知らないことを知っている以上、みぞれの一人称視点から映画を見ることになるのが自然だろう。このストーリーは希美が離れ離れになる『リズと青い鳥』に自分たちを重ねるシーンを始めとして、一貫してみぞれが感じる別離の予感を軸として展開していく。みぞれが予感している別れならば、それはみぞれに対して降りかかるものであり、観客はみぞれから希美が去っていくような結末を予想するはずだ。ところが事実はその逆で、肝心要の「真実」とやらを観客が知るのは希美と同じタイミングである。

 このことは普通に考えればおかしい。みぞれだけが感じている不安が描写されるならば、みぞれだけが知っている実力もまた描写されていたほうが然るべきだし、どんでん返しが売り文句の三文ドラマでもないのだから、観客が前もってそのことを知っていたとしても、そのことで物語が不成立になるようなことはないからだ。しかし、ラストに至るまで、みぞれの秘密が明かされることはない。このような描写の取捨選択によって、みぞれが語り手として自身のすべてを詳らかにしているはずだと暗に信頼していた観客は、突如として彼女の視点から弾き出されてしまう。このみぞれから希美への視点の移動は、件のシーンの映像が涙で滲んだようにぼやけだすことにも表れているだろう。最終的に「涙する」ことになる「あなた」は希美の方なのだ。ここで感じられるのは、「私はさっきまでみぞれだったのに、いつの間にか希美になっていた」というような奇妙な状況である。

 よって、この映画から信頼できない語り手の叙述トリックを感じるのは恐らく間違いではない。みぞれの実力を描写し、それを発揮するみぞれの決意を描写し、クライマックスを最後まで飛び立つ青い鳥の視点から描くこともできたはずだ。そうした一切は、最終的に観客の視点をひっくり返すために、恣意的に隠されていたと見るべきだろう。この映画の端々から感じる描写の面での不親切さ(例えばラストの理科室のシーンでは「みぞれに頑張って、とか言って……」という希美の台詞があるが、そうした描写は口パクで「頑張ろう」と言ったシーンしかない。とはいえ、これは間を置いて2回やっているので、ちゃんと刷り込んでおこうという気遣いも感じられるが)は、叙述トリックを極端に不自然に見せないための、木を隠すための森としての機能も持っているように思える。

 では、そのようなギミックが仕込まれていたのはなぜなのだろうか。つまり、観客がそのようにしてみぞれに、言ってしまえば裏切られることは、(もちろん叙述トリック自体の持つ飛び道具的な脅かしは除くとして)どのような効果を生んでいるだろう。それは、語り手であるはずのみぞれの秘密を知らなかった観客の立場を、親友であるはずのみぞれの秘密を知らなかったという希美の立場と同調させるという点にあるように思う。ここで描写されているのは単なる2人の実力差だけでなく、みぞれが希美のためにそれを隠してきたという2人の関係の非対称を知ってしまった希美の寄る辺なさである。言い換えれば、このシーンは希美と一緒に驚いてもらうことを、希美と同じショックを観客に与えることを目的に作られているはずなのだ。

 恐らく、作中作としての『リズと青い鳥』の効果もこの点に関わっている。みぞれの演奏の直前のシーンでは、2人がこの童話に重ねる自分たちの立場を逆転させたことが描かれているが、このことは先に確認した視点の移動と組み合わせることができるだろう。希美が青い鳥を見送るリズの立場に置かれることと、視点がみぞれから希美に移ることによって、観客だけはずっとリズの立場からストーリーを観ることになるのだ。クライマックスのシーンは、童話の『リズと青い鳥』に表れているような「別れの予感に葛藤する主人公が、最後にはその別離を受け入れる」といういかにも童話らしい基本的なカタルシスのツイストとして読むことができるだろう。「別れの予感に葛藤する」みぞれと「最後には別離を受け入れる」希美が別人であるということ、そしてその2つの視点を縫い合わせることによって、童話と同じひとつのドラマを形成すること。これが映画『リズと青い鳥』で描かれている内容のもっとも基本的な理解であるように思う。

 このように整理すると、第三楽章のタイトルにもなっている「愛ゆえの決断」という言葉がかなり微妙な位置にあることがわかるだろう。作中でも言われているように、ここでの決断とはリズが青い鳥を空に帰すという決断である。麗奈の言葉を借りて作中の現実に当てはめるならば、その内容はみぞれの「本気の音が聴きたい」と願う希美の決断となるだろう。ところが、実際に希美がそうした決断をした描写はなく、むしろそのことにいたく衝撃を受けている様子が描かれている。「あなたが青い鳥だったら?」という新山先生の言葉を受けたみぞれは、「希美の決めたことが私の決めたこと」という自らの思いに照らして、「リズの選択を、青い鳥は止められない。だって青い鳥は、リズのことが大好きだから。悲しくても、飛び立つしかない」というが、繰り返すように希美とみぞれとの間に実際に『リズと青い鳥』と同じようなやり取りがあったわけではないのだ。この希美の「愛ゆえの決断」は、いわばみぞれが解釈したものとして存在していると言うことができるだろう。麗奈はみぞれに対して「希美先輩が自分に合わせてくれると思ってない」と言ったが、先の台詞はそうした不信を克服した結果として発されたのだと考えられる。配役の交換という面から見るならば、みぞれは「愛ゆえの決断」を想定することで、リズの役を希美に移したとも言えるだろう。

 整理するならば、ジョハリの窓よろしく、希美自身から見た希美とみぞれから見た希美による、二種類の「決断」を考える必要があるということになる。そこで、まずは希美の視点での「愛ゆえの決断」について考えてみたい。その内容を、本文では「本気の音が聴きたい」とまとめたが、では、希美がどの時点でかような決断をしたのかを探ってみる。さきにも「頑張ろう」という台詞に少し触れたが、希美のそうした意思が最初に表れたのはどこだったか。

 しかしこの考え方はどこかおかしい。そもそもの話、希美の性格を鑑みれば、逆に「自分に合わせて実力をセーブして欲しい」なんてことを思っていたタイミングが作中に一瞬だってあったはずがないことは自明だからだ。「本番、楽しみだね」という希美の台詞があるが、その意図は優子が宣言した「今年の目標はコンクールで金を取ることです(中略)みんなで支えあって、最強の北宇治を作っていこう」という目標と対応するものだろう。もちろん、相手の内心を斟酌して手加減をするような「支えあい」が求められているわけではない。であれば、表れたもなにも、「愛ゆえの決断」はそうした部活動への愛着の一環として、ずっとそこに存在していたと考えることが自然なはずだ。反対に、みぞれの手加減はこうした部の目標に対する連帯意識の希薄さの表れであると考えることもできるだろう。

 つまり時系列としては、『新山先生の言葉によって「みぞれから見た希美」の決断が先に行われ、「希美自身」の決断がそれに従った』ではなく、『「希美自身」の決断ははじめから為されていて、紆余曲折を経た後に、新山先生とのやり取りによって「みぞれから見た希美」の決断が追いついた』ということになるはずなのだ。『リズと青い鳥』とはいわば、希美のメッセージがみぞれに正しい意味で届くまでの物語であると言ってもいいかもしれない。

 逆算になってしまうが、ストーリーの内容をこのようにまとめることで、序盤のある描写を伏線として解釈することができる。希美が『リズと青い鳥』の童話を語って聞かせるシーンだ。

 

「ねえ、きみ。きみ、名前なんていうの?」

「私、傘木希美。一緒に吹部入らない?」

 

 ここで用いられているギミックは、1つ目の鉤括弧で括った台詞が、2つ目の台詞によって、過去に実際に希美が口にした台詞の回想であることが明らかになるということである。このような、後になってから文脈を取り替えることで遡及的に発言の意味する内容を宙吊りにするような描写は、希美とみぞれとの間のすれ違いにまつわる物語とその結末の伏線とも捉えられるだろう。もっとも、このような解釈は自己言及的に解釈の可能性を擁護するところがあるので、わりと詭弁じみているような感もあるが。

 しかし、物語の流れをこのように要約すると、肝心のみぞれの演奏に希美が受ける衝撃を位置づけられなくなってしまう。はじめから「愛ゆえの決断」が存在したとすれば、その実現にショックを受けることと矛盾を来すようになるのは言うに及ばすというものだろう。このことを解決するためには、希美の決断の範囲をさらに厳密に考える必要がある。希美の発したメッセージとみぞれに受け取られたメッセージとの間に違いがあれば、その落差こそ、希美のショックの正体となるだろう。物語をミスコミュニケーションの解消としてではなく、ミスコミュニケーションの変化として解釈しようというわけだ。希美が「頑張ろう」というのは、具体的になにをどうして欲しかったのか。みぞれはそこからなにを読み取り、なにを読み取れなかったのか。

 改めて言うまでもないかもしれないが、これはみぞれが実力を隠していたこと、逆に言えば希美がみぞれの実力を知らなかったことに関わっている。みぞれと希美の実力差を踏まえれば、みぞれが希美に合わせて手を抜くか、希美がみぞれの演奏を「支える」、いわば踏み台としての役割を負うかの二択しかない。もちろん、そのどちらも「頑張ろう」という台詞で想定された内容ではないだろうー前提の実力差を踏まえていないのだから。つまり、みぞれの「本気の音が聴きたい」としてまとめた希美の意思は、「本気」の範囲として、自身のそれを大きく上回るものをそもそも想定していないのである。

 こうした実力の定義を巡るエピソードとして、本編1期の一幕を見ることもできるだろう。この問題は滝先生がオーディションに対する反対意見を退けるにあたって言った「三年生が一年生より上手ければ良いだけのことです。もっとも、一年生より下手だけど大会には出たいというような上級生がいるなら、別ですが」という発言にわかりやすく表現されているように思う。ここで用いられているレトリックは重要だ。この言い分に反論が起こらなかったということは、「一年生より下手だけど大会には出たいというような上級生」はいなかったということになる。しかし、この発言がでるまで反対していた部員は実際にいたのだ。つまり、その反対意見の内容を書き出すならば、「一年生より下手だけど大会には出たい。ただし、仮にも全国を目指している以上、そんなことは言えないので大会に出るからにはあえて実力をはっきりさせることはせず、一年生よりは上手いという体面を保ったまま出させて欲しい」となるだろう。仮に自分が満足する結果になったとしても、それはあくまで集団の利益に適ったものであり、その結果たまたま私の気分が良くなったところでそんなものは単なる副産物に過ぎない、これは私欲を排した無私の願いである――という体面が必要なのだ。作中時点の去年まで、年功序列という明らかに非合理かつ非合目的的な規則が採用されていたのは、ひとえにそうした建前として使いやすいからだろう。その意味では優れて合理かつ合目的的と言い直すべきかも知れない。

 繰り返すが、「一年生より下手だけど大会には出たい」と主張するような部員はひとりだっていない。そんなことをしては体面が崩れてしまうからだ。そう思うならば、主張する内容は「実際に演奏が上手い」という大義名分、大会に出るに値するという証拠の方である。例えば優子は「演奏技術なんてなくても香織先輩は素敵なのでどうかソロを吹かせてあげてください」なんてことは言わない。オーディションの不正を疑い、香織先輩の実力が反映されていないと主張するのだ。これはいわば滝先生が年功序列が「上手ければ良い」という大義名分を反故にし、実力で劣る上級生を保護するものであるということを暴き立てたように、優子もまた、このオーディションは大義名分に反すると主張している訳だ。これを単にあらぬ疑いとして片付けることは不可能だろう。ここであくまで滝先生の判断が正しいと信じろというのは、年功序列に当てはめるならば無条件に上級生の方が上手いということを信じろというのと同じ理屈になってしまう。だからこそ、別の評価基準として多数決を用いた再オーディションが必要となったのだ。

 そして、希美が「頑張ろう」というときに要求していたものは、まさに「一年生より下手だけど大会には出たい。ただし、仮にも全国を目指している以上、そんなことは言えないので大会に出るからにはあえて実力をはっきりさせることはせず、一年生よりは上手いという体を保ったまま出させて欲しい」に相当しないだろうか。希美はオーディションでみぞれと同じパートを争うような立場でこそないが、「みぞれに負けたくなくて」というように、練習へのモチベーションの多くをみぞれと「同等になる」という部分に置いていることがわかる。そして「本番、楽しみだね」という台詞と前後する形で「希美は、練習が好き?」「好きだよ。めっちゃ好き」というやり取りがあることから、みぞれと「同等」であるということが、本番に対して重要な意味を持つという点で、オーディションと対応していると考えることができるだろう。そして、どちらの場合でも八百長は許されないーそういった「支えあい」が求められていないことは、先に確認した通りである。つまり、彼女がみぞれに求めていたのは手加減でもなければ全力でもなく、「全力という体で手加減する」ことだと考えられる。もちろん、みぞれの実力を知らない本人にそんなつもりはなく、文字通りの「本気の音」を望んでいたつもりなのだろうが、彼女がこの台詞を口にするごとにー いや、口にしてはいないが。それは無言のうちにある、まさに言外の意図なのだから ー優子が麗奈に対して行ったような取引を、みぞれに迫っていることになるのである。

 こうした言外の意図は、香織の場合にも見て取ることができるー優子が目にした、「ソロオーディション/絶対吹く」という書き込みだ。優子の行動や麗奈の葛藤は、このメッセージに従ったものとしても解釈できる。あくまでオーディションの結果を受け入れようとする香織だが、同時に明日香に対しては「言ってほしくない。冗談でも、高坂さんがいいとか」というように、建前を、つまり大義名分を抜きにすれば、なにがなんでも麗奈の実力を認めたくなかったことだろう。「一年生より下手だけどソロは吹きたい」と、そう思っていたことだろう。

 そして香織の場合も希美の場合も、建前の裏の私的な欲望とでもいうべきものが、実際に公的な状況で実現してしまえば、必ずや罪悪感を背負うことになるはずだ。こうしたアンビバレンスを考えるにあたっては、『化物語』(二〇〇六年)の「するがモンキー」のエピソードを寓話として取り上げるのがわかりやすいと思う。香織がオーディションに勝ちたいと願った時、それを叶えようとした優子は、いわばレイニーデビルと同じ位置にいないだろうか。一見すると、この一連の事態の責任は優子にあるように思えるし、また優子自身もあくまで自分でその責任を取るつもりでいるようだが、このように捉えると解釈は変わってくるだろう。忍野メメが「被害者面が気に食わねえっつってんだよ」というように、優子のようなわかりやすいわがままではなく、麗奈が「やりにくい」というような、香織の無垢な善性の方にこそ、事態の原因は求められるべきなのだ。

 例えば、もしも仮に優子の要求通りに麗奈が手加減をして、その結果、香織がソロを勝ち取ったなら、そのとき香織に責任がないと言えるだろうか。いや、ミステリでもないのだから*1クイボノに則って考える必要もないし、この場合はあくまで優子の責任であると言えるかもしれないが、そもそも問題の本質は麗奈が「いま私が勝ったら悪者になる」というような状況の方である。優子というキャラクターはその状況がひとりの人間に象徴されたものとしても捉えられるだろう。優子が麗奈に頭を下げるときの、「いじめられたって言っていい」という台詞は、すでにそうした状況が出来上がっていることが念頭になければ読むことができない――「優子先輩に脅されました」と言って、信じてもらえるだけの状況が元から存在するのでなければ、こんな取引は成立しないだろう。ならば、優子という個人は描かれず、代わりに不特定多数の圧力のようなものが描写されていたとしたらどうだろう。その結果として麗奈が折れてしまい、香織がオーディションに勝ったなら、そのときも香織に責任はないのだろうか。

 臥煙伊豆湖の「誤解を解く努力をしないというのは、嘘をついているのと同じなんだよ」という台詞は、こうした状況を想定すれば正しく読み解くことができるだろう。認めているが認めきれない、諦めているが諦めきれない、というような両義的なメッセージは、まさに認めていてること、諦めていることによって、逆説的にも最大限の「認めたくない」「諦めたくない」という意思表示として受け取られてしまう。香織の書き込みを目にした優子はもちろんのこと、「もう、いい。戦場ヶ原先輩のことも、もういい」「もう、いいから。諦めるから」という神原駿河に「そんな泣きそうな顔でー何が諦められる」と返す阿良々木暦を思い浮かべることでも、このジレンマは実感として理解できることだろう。顔 ーまさに言外の意図である。臥煙伊豆湖忍野メメも、単なる言葉を越えた次元で、本当に認めるのでなければ認めたことにはならないということを言っているのだろう。重し蟹や迷い牛にも共通する「願いを叶える」という要素から、怪異の性質を「わかっているけれど、それでも……」といった内心を斟酌する存在として解釈するならば、専門家の言葉としての一貫性を感じられる台詞である。

 このように、それ自体は単なる純粋な願いとしてあるものが、周囲による解釈を経ることによって罪悪感を伴う、罪深いものに変化してしまうという構図は、『リズと青い鳥』にも見ることができる――というか、『響け! ユーフォニアム』(二〇一五年)は香織の辞退という形で、その無垢を保ったまま終わってしまうので、リズを見ることでその構図を見出すことができるようになる、といった方が正確かもしれない。公式サイトのスタッフコメントにあるような、「欲望は空へ羽ばたく翼にもなりますが、自分や誰かを閉じ込める鳥かごにもなります」というテーマは、『響け! ユーフォニアム』シリーズにかなり初期の段階から内在していたものであると言えるだろう。

 やや本題から逸れてしまったが、このことは「欲望は常に正当性を担保する建前としての大義名分を必要としており、そうした体面を、体裁を保てなくなれば、その正当性は消え去り、欲望自体が罪悪感となって失われてしまう」というようにまとめておこう。このように考えれば、希美の視点での「愛ゆえの決断」がはじめから存在したことと、希美がその実現にショックを受けることとの間の矛盾を解消することができるだろう。

 

 さて、随分と遠回りながら、これで「希美のメッセージがみぞれに届くまでの物語」として『リズと青い鳥』を形式づけることを主張できるようになった。では次に、そのストーリーの中で、みぞれはいかにして希美のメッセージを受け取るようになったのかを考えたい。出発点からはじめよう。どうしてみぞれは、希美の「頑張ろう」という言葉を文字通りに受け取らず、その裏を読み取ったのだろうか。

 まず取り上げたいのは、みぞれの「本番なんて一生来なくていい」という台詞だ。これは希美が「本番、楽しみだね」というのを受けてのものになるが、なぜみぞれはそう思わないのだろう。

 このことはもちろんというべきか、希美との別離に関連づけられるべきだろう。「希美と一緒にいたいから、オーボエも頑張った」というように、彼女にとっての楽器や演奏、吹奏楽部とは、希美との絆を保証するための手段としての価値を持っていることがわかる。逆に言えば、それがなくなれば2人の縁を繋ぐものは消えてしまうと考えているのだろう。直接的な言及はないが、彼女が童話『リズと青い鳥』にあれほどまでに心を揺らされたのは、卒業というタイムリミットへの意識がもとからあったことによると考えられる。希美が音大の受験を決めたときにみぞれが色めき立ったのは、それが自分も惹かれていた進路だったから、などということでは恐らくない。単に希美の進路を知ることができたからだろう。

 この卒業と進学に対する意識については、優子と夏紀の関係との対比によって描かれている。希美が音大の受験を決めたあと(=みぞれが音大の受験を決めたあと)のシーンでの2人のやり取りは、まとめるならば自分と同じ志望校を選んだ優子を夏紀がからかい、優子はあくまで偶然だと主張するというものだ。対して、同様に希美と同じ進路を選んだみぞれは「偶然」ではなく「希美が受けるから」という。ここでは優子が実は夏紀と同じ大学に行きたかったのか、はたまた本当に偶然だったのかはわからない。だが重要なのは、それがわからなくても互いにとって問題がないということだろう。この2人の間には、別に同じ進路を望んでいなくても、あるいは実際に進む進路が別々であっても、それでも関係は続いていくという信頼関係が互いに存在しているということが、ここで描写されているのだ。

 翻って、希美とみぞれの間にはそれがない。いや、希美にしてみれば、みぞれがどこまでも自分についてくるであろうことは信頼できるだろうが、みぞれにとっての希美とは、「今度いついなくなるかわからない」という言葉に表れているように、絶対的な不信と不安の対象となっている。

 そしてこの台詞が登場するのは、ちょうどみぞれの「希美の決めたことが私の決めたこと」や、麗奈の「希美先輩が自分に合わせてくれると思ってない」という台詞と同じシーンである。となれば、この3つの台詞から、作中に通底するみぞれの基本的なスタンスのようなものを考えることができるだろう。希美は自分に合わせてくれなくて、今度いついなくなるかわからないから、希美の決めたことに合わせる必要があるのだ。

 では、こうした関係の非対称はなにを端緒として生まれているのだろうか。このことについては回想に描かれた前日譚、希美の退部の一件を考えるべきだろう。みぞれの演奏のシーンでは、絵の具で描かれた青い鳥が飛ぶカットが挟まれているが、同じ絵はみぞれが希美の退部を知るシーンの回想でも使われている。このことから、本編での希美と同じ立場にみぞれが置かれていることを読み取ることは難しくないだろう。ここでは、冒頭でもみぞれが口癖のように繰り返している「知らない」という台詞が強調されていることを取り上げたい。

 当たり前のようだが、この台詞には単に希美が部を辞めていたことを知らなかったという以上の意味が込められている。あえて書き出すならば、「私は友達なのだから希美からそのことを知らされているべきだったのに知らなかった」とでもなるだろうか。もちろん、ここで希美の行動が意味していたのは、みぞれのことを友達だと思っていなかったということではなく、みぞれに退部を知らせるべきだとは思っていなかったということだろう。ここで描かれているのは、希美にとってなんでもないことがみぞれにとっては特別であるというすれ違いが最初に自覚されたシーンであるとも言えるかも知れない。公式サイトの原作者のコメントにあるように、「自分の好きな人が自分だけを見てくれるとは限らないし、自分と相手の好きの重さが全然釣り合ってなかったりする。」というわけだ。

 「知らない」という台詞でこの回想と冒頭とが結び付けられていることから、映画の始まりで希美が『リズと青い鳥』に自分たちを重ねたような構図が、比喩としてではなく作中の現実として決定づけられたのがこのタイミングであり、後にみぞれが希美の「愛ゆえの決断」を信頼することによって、リズの役を希美に移したように、最初にみぞれがリズの役を負うことになったのがこのシーンであると解釈することもできる。ここで回想されているのは『リズと青い鳥』の幕開けのシーンである、と言い換えてもいいだろう。

 要約すれば、ストーリーの前半部では、みぞれにとってコンクールは希美との別離へのタイムリミットであり、モチベーションがないどころか積極的に忌避されるものであるということだ。みぞれの手加減がいつから、どのような思いで行われていたのか、映画内では描写されていないが、そこには希美に合わせるという積極的動機とコンクールに興味がないという消極的動機が混在していたと考えられる。体育の授業のシーンでは、やるべきことを無視してはばからないみぞれのふてぶてしさというものが説明されているのだろう。コンクールなんてどうでもいいばかりか、それが終わってしまえば希美との縁が切れてしまうかも知れないのだから、やる気なんて出るはずもないし、それで希美が楽しく部に居続けてくれるなら手を抜くことを躊躇う理由もないというわけだ

 

 物語の出発点の座標を確認したところで、次はその推移について考えよう。みぞれはどのようにして希美のメッセージを受け取ることができるようになったのだろうか。

 この転換点は、主要登場人物を順に挙げていけば誰もが3番目に思い浮かべるであろう、剣崎梨々花に求められるように思う。彼女がみぞれに接近するシーンは四回登場する。一度目は冒頭のダブルリードの会への誘いを断られたとき。ここでは希美とフルートパートが打ち解けていることとの対比がされている。二度目もまたダブルリードの会への誘いを断られたとき。「のぞ先輩」呼びを意識して「みぞ先輩」と呼ぶようになることから、ここでもフルートパートとの対照を見て取ることができる。付け加えるならば、剣崎後輩がみぞれに望んでいる関係とは、希美とフルートパートの関係と同じようなものであるということが表現されているのだろう。三度目はオーディションに落ちた後。この後に、希美の誘いにみぞれが「他の子も誘っていい?」と返し、希美が動揺する様が描写されている。最後の四度目はその後、ふたりで一緒に練習曲を吹いているシーンである。このあとの合奏のシーンと、みぞれへの高坂後輩の糾弾を皮切りに、希美との間の不調和の描写があからさまになっていく。

 梨々花がみぞれに望んでいたものが、希美とフルートパートとの関係と同じようなそれであると解釈するならば、つまり彼女は単に個人的な好意としてだけでなく、優子の言葉に象徴されるような、吹奏楽部の部員としての連帯をみぞれに求めているということが示されているのだろう。ここで重要なのは、三度目のときの「先輩と一緒にコンクール出たかったです」という台詞だ。この言葉は、こうした梨々花の願望が端的に表れたものであると考えられる。そして、梨々花のこの言葉にみぞれが心を動かされたことの意味は、梨々花から向けられる好意を無視できなくなったことと、それによってコンクールというものがみぞれにとっても実際的な意味を持つようになったことの2つにまとめられるように思う。

 このことは、みぞれの手加減における希美に合わせるという積極的動機とコンクールに興味がないという消極的動機に対応していると言えるだろう。彼女が希美に合わせることができなくなり、終幕へのトリガーが引かれたのがこのシーンであると考えられる。これに関しては特に作劇上の必然性やロジックといったものは抜きに、単にさしものみぞれも目の前で泣きじゃくられては同情心が働いたということなのだろう。逆に、もしみぞれがここでなにも思わないほど希美に心酔していたなら、少なくとも高校生のうちは2人の関係は同じまま、順調に歪みを溜めていっただろうことは想像に難くない(この場合、希美がみぞれの実力を知るとすれば、それは受験の失敗と高校最後のコンクールをふいにしたこととして表れることになるだろう)。さらに言えば、もし希美の退部の段階で打ちひしがれて諦められる程度の好意だったなら、そもそも問題自体が存在しなかっただろう。思いの重さの差が、そのまま問題の大きさと直結していることがわかる一幕である。

 このシーンの後から表出する希美とみぞれとの不和は、夏紀とのやり取りの中で希美自身の口からも説明されている。時系列としては、みぞれと梨々花の四度目のシーン、息の合わない合奏、優子とみぞれの会話(と麗奈の乱入)に続く場面である。特筆したいのは、みぞれに対して「よそよそしくない?」「ソロのところも、なんか息あわないし」と希美がこぼすごとに、みぞれとダブルリードの面々が交流するカットが挟まれることだ(考えてみたらこれを5度目にカウントするべきだったかもしれない)。こうした演出は、みぞれと希美、みぞれと梨々花たちという2つの関係の間の対立を印象づけるためのものだろう。希美に合わせて手加減をすることと、部の一員としてコンクールのために努力することは両立しない。「合わせる」ことと「支えあう」ことの対比、とでも言うべきだろうか。

 

 ここで梨々花が望んでいた関係は希美とフルートパートの関係と同じであるということを踏まえると、さらに読み取れるものがある。というのも、みぞれと希美の一度目のやり取りの前、そして「のぞ先輩」呼びが初めて登場した場面で、「きみら、そんな可愛い重要?」という問いに一斉に「重要ですよ」と答えたメンバーたちに、希美が「息あってるね」と応じる場面があるからだ。希美とフルートパートは息が合う、みぞれとダブルリードは息が合う、しかし希美とみぞれは息が合わない……。このことから、この「可愛い」という要素こそ、「息を合わせる」ために重要なのではないだろうか、ということが考えられる。

 このフルートパートのやり取りが前にも引用した優子部長の宣言に続くものであるということは恐らく意味のないことではない。優子の言葉とフルートパートの雑談は、ちょうど『響け! ユーフォニアム』の考察で述べた外向きの体面と私的な欲望として並列させることができないだろうか。そして香織がなぜそうした建前を抜きにした内心のレベルで成功を望まれるのかといえば、それは香織が「可愛い」からではないだろうか。

 このことから、「可愛い」とはなにかという抽象的かつ大仰な問題を考えざるを得ない。ここで参照したいのは、第一に『囮物語』の千石撫子である。

 まず、千石撫子の可愛さが、先に考察した香織や希美、あるいは神原が持つ性質といかに相同しているかという点を確認したい。この点については、忍野忍の優れて批評的な台詞がある。

 

「黙っているだけでみんなが親切にしてくれたりはせんのか? 黙っておるだけで頭がいいと思われたりはせんのか? 黙っておるだけで思慮深いと思われたりはせんのか? できなくても笑ってもらえんのか? 静かにしておるだけで、嫌なことをやり過ごせるのではないか? 人とおなじことをするだけで、人より高く評価されたりはせんのか? 同じことを言っても、人より感心されたりはせんか? 失敗しても、怒られたりせんのではないのか? 嘘をついても、許してもらえるのではないか?」「困っていると」「誰かが勝手に助けてくれたりは、せんのかのう――揉めていたら、勝手に被害者だと思ってくれたりの」

西尾維新(2011)『囮物語講談社.P148-149

 

 ……まあ、なんというか、これ以上なにを言えばいいのやらという感じだが。忍の舌鋒は「うぬは怪異よりも、よっぽど妖怪じみておるという話じゃよ」と結ばれている。これは忍野メメが怪異に関わった人間に対して「被害者面が気に食わねえっつってんだよ」と言い放つのと並べて読むことができるだろう。同様に、「誤解を解く努力をしないというのは、嘘をついているのと同じなんだよ」という言葉も、この可愛さへの批判として解釈することができる。「好きで可愛いわけじゃない」という撫子に、阿良々木月火は「『可愛い』だけで贔屓されたり褒められたりするのが嫌なんだったら、『可愛い』以外のところを伸ばせばいいだけじゃない。努力して、頑張って」というが、ここで「努力」という言葉が用いられていることも、その傍証となるだろう。

 特に臥煙伊豆湖の台詞にはひとつの重要な手がかりが含まれている。「可愛い」と「誤解」の関係である。努力にまつわる2つの警句を並べてみると、誤解されることと可愛いこととの相同性を見て取ることができるだろう。素朴な感覚に沿って言い換えるならば、可愛いというのは本人が思っている以上に可愛いということなのだ、というように言えると思う。例えば、もし香織にそれを優子が見つけることを期待して譜面を開いておくようなような計算高さがあったなら、この上なく興ざめではないだろうか。香織のメッセージは、本人がそれを伝えていないからこそ伝わるのである。

 とにかく、ここで確認しておきたいのは、「可愛い」という言葉が、『響け! ユーフォニアム』のエピソードを検討したときにを体面や建前、大義名分と呼んだものと深くかかわっているということである。可愛さの定義として、ここではいったん「わかっているが、それでも……」という言外のメッセージを発する能力、あるいは誤解をさせる力とまとめておきたい。これは滝先生が「音楽には、楽譜に書ききれない間合いがあります」という台詞を踏まえれば演奏にも当てはめることができるだろう。「息があう」とは、つまりそうした口にされないルール、暗黙の了解を共有することなのだ。「言外の意図」を内心や心中といったものと同一視するならば、あるいは「好きの重さが釣り合う」状態として想定されているのも、そういったものの共有なのかもしれない。

 

 ここで改めてリズの内容に戻ろう。希美とフルートパートは息が合う、みぞれとダブルリードは息が合う、しかし希美とみぞれは息が合わない。この関係を整理すれば、希美もみぞれも吹奏楽部との連帯を成立させていながら、希美とみぞれとでは反目しあう、友達の友達は敵という構図を描くことができる。このことが先に確認したみぞれのコンクールに対する意識の変化によるものであることはいうまでもないだろう。物語が「みぞれと梨々花の仲が深まるほど、希美とは息があわなくなる」という推移を描いていることは、直感的にもたやすく見て取ることができる。

 では、ストーリーのそうした流れにはどのような必然性があるのだろうか。このことは、希美がどちらがより上手いかという部分を重視していることに求められるように思う。「希美は、練習が好き?」「好きだよ。めっちゃ好き」と「本番、楽しみだね」という台詞を前にも取り上げたが、こうした台詞が吹奏楽部に対する強い連帯意識を表していることを再度確認しておきたい。希美の部に対する愛着は、集団の理念を擬人化して考えるとわかりやすいだろう。ここでももう一度「するがモンキー」を参照したい。希美を神原に、みぞれを阿良々木に、戦場ヶ原を吹奏楽部にそれぞれなぞらえて考えると、希美とみぞれの対立が見通しやすくならないだろうか。2人はある意味で、どちらがより吹部にとって価値を持つかを競う恋敵なのである。加えて、阿良々木とみぞれの立場の相似性として、本人は相手を敵としては認識していないというものがある。「僕は、お前なんか、嫌いじゃないんだ」と言う阿良々木と、「希美のフルートが好き」とは言わないみぞれは、相手にとってなによりも大切なものを大切にしていない、「好きの重さが釣り合っていない」という点で共通の立場にいるといえないだろうか。貝木泥舟が「好きな奴がお前のことを好きになってくれるとは限らないのと同様 ー嫌いな奴がお前のことを嫌いになってくれるとは限らないんだよ。そして嫌われてくれるとさえ限らないんだ」というのは、こうした構図を実によく説明している。

 勝利の価値を踏み乱し、敗北の負債を踏み倒し、開き直って勝負を放棄すること自体が、その勝敗にこだわる人間への最大の打撃となりうる。話はそれるが、球磨川禊と戯言遣いの相同性はこうした攻撃性を用いているという点にあるのだろう。『めだかボックス』(二〇一〇年)の球磨川事件編が手元にないので『戯言』シリーズ(二〇〇二年)のみを参照することになるが、園山赤音に対して、貴宮むいみに対して、紫木一姫に対して、春日井春日に対して、彼は「殺さば殺せ」といわんばかりの態度を崩さない。これは対レイニーデビル、対障り猫における阿良々木暦の基本姿勢でもあるといえるだろう。

 そして、いーちゃん阿良々木暦も、物語を通して最終的にはそうした勝負の内側へと踏み込んでいくことになる。ここでその変遷を論じるには準備と余裕が足りないが、もうひとつ重要なことは、彼らにはこうした勝負からドロップアウトするきっかけとなった、原体験やトラウマと呼べるエピソードが存在するということである。戯言シリーズでは最後まで秘されたままだが、<物語>シリーズでは『傷物語』(二〇〇八年)がそれに相当するだろう。であれば、「するがモンキー」での神原の立場に、「こよみヴァンプ」の阿良々木を重ねることができるはずだ。

 ここまでの「するがモンキー」の考察を踏まえるならば、その相同性がもっとも顕著なのはやはり最終盤、阿良々木がキスショットが自ら進んで殺されようとしていることを知るシーンだろう。キスショットには悪意こそないが、このことには戯言遣い球磨川禊と同じ攻撃性が宿っている。この構図はキスショットに首を差し出す阿良々木にも、阿良々木に食べられてもいいという羽川にも見て取ることができるだろう。いーちゃんの自虐や露悪趣味は、こうした自己犠牲が相手を最大限に貶めるための手段であるということに対する自覚に根ざしたものとして解釈することができるかもしれない。「自分が死ぬのはいいけれどー人が死ぬのは気分が悪い。考えてみれば、「勝手な意見だ」というのは、かなり『傷物語』の核心を突いた反省であるといえるだろう。専門家の忍野メメが「人はひとりで勝手に助かるだけ」という点にこだわることも、こうした人助けが化物じみたものであるということを示しているように思う。

 こうした、食べる、食べられる、食べさせる、食べさせられるという形の関係は、『リズと青い鳥』の読解にも繋げることができる。それも本編ではなく、童話の『リズと青い鳥』である。食べられることと食べさせることとの違いは、忍野メメの「きみが吸血鬼の人喰いに嫌悪を憶えたのは、言ってみれば可愛らしい猫ちゃんが鼠を食べているシーンを見て幻滅するのと同じだよ。そしてきみは、言わばペットとして吸血鬼を飼うことを選んだんだ」という言葉に表れているように思う。自身を食べさせるということは、相手を家畜として飼うことでもあるのだ。『傷物語』の登場人物たちの、一見すると美し自己犠牲の輪は、そのまま相手に対する支配権をめぐる戦争でもあるといえる。「フグに餌あげてた」というみぞれに、希美が「リズみたい」と返すのは、「食べさせる」という行為がリズをリズたらしめていることを示しているのだろう。自己犠牲と飼うことの関係は、「希美の決めたことが、私の決めたこと」という台詞と前後して、「私がリズなら、青い鳥をずっと閉じ込めておく」とみぞれが言っていることにも表れているといえるかもしれない。

 また、「はまってるの? フグ」「うん、可愛い」という会話から、可愛いことと飼われることの関係を考えることもできる。例えば、香織はその可愛さのために、自身のメッセージとは裏腹に、その意志を「諦めたくない」と誤解されたわけだが、その意志に従うことには、まさに戯言遣いのような残酷さがないだろうか。これは希美にスライドして考えるとさらにわかりやすい。みぞれの本気を前にした希美の寄る辺なさとは、自分が努力して掴み取ったと思い込んでいた「みぞれと同等」の立場が、みぞれから給餌されたものに過ぎなかったということに根ざしているといえないだろうか。この構図はキスショットが死ぬつもりだったことを知った『傷物語』の阿良々木にもそのまま当てはまるだろう。

 

結局 ー僕が望みを叶えただけじゃないか。

誰も幸せになっていない。

キスショットに全てを押し付けているだけだ。

 

 これは羽川からキスショットの真意を告げられたあとの阿良々木のモノローグだが、ここで「誰も幸せになっていない」という言葉が使われていることは見逃せない。なぜなら『傷物語』は冒頭でも述べられているように「バッドエンド」、「みんなが不幸になることで終わる」物語だからだ。よって、ここでは「望みを叶える」ことと「幸せになる」ことの区別を考える必要がある。これは『響け! ユーフォニアム』を考察したときの建前と本音の関係、自身の満足は他者の利益ためという建前のもとでしか得られないというジレンマを確認すれば十分だろう。単に望みを叶えるだけでなく、大義名分のもとに望みを叶えなければ幸せにはなれないのだ。誰かに飼われるままに望みを叶えても、幸せになることはできない。『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』(一九六八年)ではないが、人はとにかくなにかを飼っていなければならないのである。「みんなが幸せになる方法を教えてほしい」という阿良々木に、「あるわけないじゃん、そんなの」と返す忍野の言葉は、こうした自己犠牲がもたらす幸せと、それによって望みを叶えられる不幸を念頭に置くことで理解することができるだろう。

 このように『リズと青い鳥』と『傷物語』の間に相似を見るならば、みぞれの立場にはキスショットが当てはまることになるだろう。この2人の立場が交わる点として、どちらにとっても物語は「ひとりぼっち」でいたところを救われるところから始まるというものがある。このときに、キスショットが「儂はうぬのために死のうと」決めたのと同じような思いがみぞれにも生まれるわけだが、その後の展開の対称性にも興味深いものがある。彼女たちはどちらも、「青い鳥」に逃げられることになるのだ。

 人を喰ったために阿良々木に拒絶されるキスショットと、あくまでその好意が希美に届かなかっただけで当人に非があるわけではないみぞれとでは、その印象には天と地ほどの隔たりがあるかもしれない。だが、みぞれと希美の関係が端的に要約された「好きの重さが全然釣り合ってなかったりする」という一文を思い起こせば、ここで起こっているすれ違いを同一視することは難しくないだろう。「通じ合ったつもりになっていても。こっちが勝手に絆を感じていても。所詮――食べ物なのである。」という文章は実に示唆的である。言葉は通じても心は通わない。この非対称は、キスショットが頭を撫でるように要求したシーンに、「吸血鬼は違うルールで動いているようだった」というモノローグが挟まる段階ですでに表れているといえるだろう。『リズと青い鳥』の悲劇とは、究極のところ希美のルールとみぞれのルールの食い違いという点にまとめられるように思う。そしてこのルールとは説明できるものとしてはっきりと理解されているようなものではなく、言うまでもなく、暗黙の了解として存在するものである。だから実際にそれが破られるまで、相手にそのルールが通じているかはわからないのだ。言うまでもなく人は食糧だと思っていたというのがキスショットの立場なら、過去のみぞれは、言うまでもなく自分は希美にとっての特別だと思っていたのだろう。阿良々木がキスショットの頭を撫でたとき、本人がどんなつもりであれ、それは吸血鬼の文化を受け入れ、人喰いを認めたということになるのだ。このことについては、阿良々木自身も「お前のために死のうと、僕は思ったんだからな ーそれはつまり、お前が人を喰うことを許容したってことだ」と言及している。ごちゃごちゃと並べてきたが、要はアンジャッシュ状態という言葉を使えば誰もが一発で頭に思い浮かべられるシチュエーションが、『傷物語』にも『リズと青い鳥』にも発生しているということである。

 このように考えると、最後に阿良々木がキスショットの頭を撫でるシーンの感動的なまでの残酷さというものがわかるだろう。「頭を撫でるのは、服従の証」というが、ここで阿良々木はなにに服従しているのだろう。キスショットの「死にたい」と「死にたくない」は、ちょうど香織の「諦める」「諦めたくない」に相当しないだろうか。繰り返すように、ここで本音を採用し、願いの裏を読むような自己犠牲は、相手を家畜に貶めてしまう。キスショットは誤解を解くことに失敗し、ずっと弱ったまま、可愛いままの存在に成り下がってしまうのである。阿良々木が従僕となることで人喰いを認めてしまったように、キスショットは主となることで「死にたくない」ということを認めてしまったのだ。頭を撫でる行為の反復は、この致命的な非対称を象徴しているように思われる。誰もが誰かのために生きて死のうと願った結果、全員で無意味に生き残ってしまう。『傷物語』のバッドエンドの輪郭は、概ねこのように描写されるだろう。

 

 さて、話が『リズと青い鳥』からずいぶんとそれてしまったが、ここでもう一度、希美が「きみら、そんな可愛い重要?」といった場面に立ち戻りたい。可愛さと誤解の関係を踏まえれば、一斉に「重要ですよ」と答えた部員たちからハッピーアイスクリームと同じモチーフを見出すことは難しくないだろう。それ自体にはなんの意味もない「ハッピーアイスクリーム」という言葉から、同じ意味を「誤解」することーこれはまさに暗黙の了解が共有されたシチュエーションの格好の例であるといえる。このことは劇中に登場するもうひとつ独特なミームにも当てはめて考えることができるだろう。本作のキーワードは「大好きのハグ」である。

 ハッピーアイスクリームと大好きなハグにどこか似たところがあるというのは、直感的にもなんとなく感じとることができるかもしれない。そうとでも解釈しないとハッピーアイスクリームの挿話が本当に意味不明になってしまうというメタ読みもその傍証とできるだろう。しかし、このことはここまで論じてきた建前と誤解の関係を用いてきちんと説明することができる。香織に対する優子の立場を考えればわかりやすいだろう。先にも少し触れたが、優子はいくら香織が好きだからといって、また事実としてそうであるからといって、「麗奈の方が上手いけど、そんなこととは関係なく香織先輩が好きです」とは言えないのである。これはちょうど、レイニーデビルが戦場ヶ原を攻撃できないのと似ているだろう。レイニーデビルが神原のために暴力を振るうならば、戦場ヶ原先輩のためという神原の建前を犯すわけにはいかないように、優子もまた、香織が吹奏楽部の目標ために無私の働きを見せているという見せかけを汚すわけにはいかないのだ。表あっての裏 ー願う側に言い訳が必要なら、叶える側もそれに適った叶え方をしなければならないのである。

 そして「大好きのハグ」は、吹部の目標と同じように好意(神原の場合は悪意だが)を表明するための建前、言い訳であるといえるだろう。これは大好きのハグで表明された好意は単なる建前で、意味のない冗談であるというのではない。むしろ逆で、これは意味のない冗談で、単なる建前である、という建前を共有することによって、「誤解」として本音を伝えることを可能にするためのものなのだ。これはちょうど、香織のメッセージの裏側を吹奏楽部全体が共有していたことに通じるだろう。こうした構図を逆方向から描いたものとして、音大の受験に関して「希美が受けるから、私も」というみぞれの言葉を、希美が「なに本気にしてるの、ふたりとも。みぞれのジョークじゃん」と流すシーンを見ることもできる。「好きの重さが釣り合う」状態を、こうした暗黙の了解を共有することとして考察したが、「大好きのハグ」が冗談めかして重みを取り払うことによってその釣り合いを実現するのとは裏腹に、真剣に口にされたものはそれ自体を冗談として処理することで釣り合いを取っていると考えることもできるだろう。

 みぞれが大好きのハグを見てるだけでやったことがないということから、こうしたミームと「ひとりぼっち」であることの関係を考えることもできるだろう。同じメッセージを同じ意味に「誤解」すること、つまり暗黙の了解を共有することこそが、「息を合わせる」ことの条件なのだ。忍野メメが重し蟹を踏みつけながら「言葉が通じないなら戦争しかない」と言うのは、阿良々木とキスショットの頭を撫でることをめぐるすれ違いとそれに続く決闘のように、メッセージの解釈をめぐる問題として位置づけられるだろう。これは香織のメッセージを文字通りに解釈しようとした麗奈が「悪者」になることにも同じことが言える。これらの物語は総じて、言葉が通じない相手との共存を巡るものであるということもできるかもしれない。

 このことから、理科室での大好きのハグは、みぞれが徐々に他の部員たちと打ち解けていったことを念頭に置いて考える必要があるだろう。みぞれが吹部への連帯意識を持つようになる流れに関しては先にもまとめたが、この文脈から付け加えたいのは、そうしたみぞれの立場の変化が、実力を発揮することだけでなく、希美に自身の想いを伝えることにも関わっているということである。みぞれの本気を引き出したのが麗奈の「先輩の本気の音が聴きたいんです」という言葉に象徴される部の共通の目標への意識なら、みぞれの本心を引き出したのは「大好きのハグ」という共通言語であるといえるだろう。香織と優子の関係を考えるときに触れたように、実力という建前を抜きに好意を表現することはできない。そこでみぞれが採用したのが、「大好きのハグ」という別の建前であると考えることもできる。これは「今度オーディションがあるけど、選ばれたメンバーもそうでないメンバーも、チームの一員であることは変わらないから、みんなで支えあって最強の北宇治を作っていこう」というメッセージを、実際のレベルで実行したものであると解釈することもできるだろう。優子が香織に対する好意を表現するときに用いた建前が「実力」なら、みぞれの大好きのハグは、「チームの一員」であることに支えられた好意である。先の考察では、みぞれと希美、みぞれと梨々花たちという2つの関係の間の対立から「合わせる」ことと「支えあう」ことの対比を見たが、「支えあう」ことを選ぶことは必ずしも希美を切り捨てることではない。こうしたメッセージが優子から発されていることは、この物語にひとつの感動的な倍音を添えているといえるだろう。

 さて、このみぞれの決断への最後の後押しとなったのは、言うまでもなく新山先生とのやり取りである。希美か、吹部か、という板挟みの中で葛藤するみぞれは、希美もまた部員であり、「チームの一員」であるというごく単純な事実を見落としている。『響け! ユーフォニアム』を考察したとき、私的な欲望に対する合目的性と公的な目標に対する合目的性とを区別したが、この段階に至るまで、みぞれには希美の個人的な満足以外は考慮の外だったのだろう。新山先生の「あなたが青い鳥だったら?」という言葉は、作中の現実に当てはめるならば、この「希美も部員である」という事実を指摘するものとして読むことができるはずだ。

 『リズと青い鳥』の配役の交換は、『傷物語』を参照して考察した飼う/飼われるの定義を踏まえるならば、みぞれは希美を飼うことを諦められた、というようにまとめられるだろう。「希美の決めたことが、私の決めたこと」というようなみぞれの強迫的な献身は、本人も言うように「青い鳥をずっと閉じ込めておく」ためのものであり、希美を飼い殺すための努力であることがわかる。では、彼女が最終的に自身が希美に飼われる立場となることを受け入れることができたのはなぜか。このことは『傷物語』の阿良々木に当てはめれば、キスショットの本心を知りながらキスショットを喰い殺すこと、「死にたい」キスショットの表の願いを叶えることにあたるだろう。結局、阿良々木は自分のためだけにキスショットを殺すことができなかったわけだが、ではどうしてみぞれにはそれができたのだろうか。その根拠は、みぞれが全力を出すことが梨々花や麗奈のためにもなるということに求められるだろう。人はとにかくなにかを飼っていなければならない ーみぞれには吹奏楽部という新しいペットがいたからこそ、希美を飼うことを諦められたのである。こうした集団の理念と個人への執着が代替的なものであることは、「するがモンキー」の戦場ヶ原ひたぎを例にとって論じた通りである。みぞれは希美との関係において青い鳥になると同時に、吹部との関係においてリズの立場を占めるようになったと言い換えてもいいだろう。

 このことから逆算すると、ストーリーの前半部では、みぞれ自身が吹奏楽部にとっての青い鳥だったということも言えるだろう。可愛いことと飼われることの関係についてはすでに論じたが、忍野忍が列挙した「可愛い」の特徴は、かなりみぞれにも当てはまっていないだろうか。「黙っているだけでみんなが親切にしてくれたりはせんのか?」とか、「静かにしておるだけで、嫌なことをやり過ごせるのではないか?」とか。体育の授業での夏紀の描写に顕著だが、みぞれに対してそうした世話を焼くことにけっこうみんな乗り気っぽいところも、この『リズと青い鳥』の構図を裏付けているように思う。

 

 みぞれの視点から見たストーリーの流れは、ここで冒頭の考察に繋がることになる。観客がみぞれを青い鳥の立場に重ねるタイミングはその演奏技術が明らかになるシーンを待たなければならないが、新山先生がみぞれを青い鳥になぞらえるときにその根拠とするのがみぞれの技術であるはずはない――それは互いに自明のことだからだ。みぞれは自分の能力に指摘されて気づくような「なろう系」に分類される人物ではない。よって、新山先生がみぞれを青い鳥の立場に置くことで気づかせたこととは、希美もまた梨々花や麗奈と同じように、みぞれの「本気の音」を望んでいるということだろう。物語の語り手として、カメラのようにひたすら希美を見つめ続けたみぞれが、他者からのまなざしを受けとるようになる――最初に確認したみぞれから希美への視点の移動は、こうした物語の流れを演出の面で表現したものであるとも言えるだろう。

 以上の考察を踏まえるならば、本作のハッピーエンド、山田尚子監督のインタビューにあるような「大きさの違う歯車同士がある一瞬動きが重なる」タイミングは、みぞれが譜面に「はばたけ!」という書き込みを見つけるシーンに求められるべきだろう。『響け! ユーフォニアム』を参照したとき、香織の「ソロオーディション/絶対吹く!」という書き込みをコミュニケーションのボトルネックとして取り上げたが、希美のメッセージがこれとちょうど反対の内容であることは恐らく偶然ではない。まさに譜面の余白において、希美がみぞれを求め、みぞれがそれに応える。互いの心中が通い合うこの一瞬の崇高さは、この映画を見たことがあれば誰もが感じ取ったことだろう。

 

 さて、これで本作の主だった内容は概ね回収し終わったように思う。最後になるが、この映画の内容以外の部分、メタフィクションとしての本作がどのように観客と関わっているかについて考察して、この文章を締めたいと思う。いよいよ与太中の与太、余談中の余談になってしまうが、冒頭で述べた「私はさっきまでみぞれだったのに、いつの間にか希美になっていた」という感覚は、<物語>シリーズの怪異について考える上でも少なからず重要な意義を持つように思われるからだ。

 怪異たちに共通する性質として、本文では「願いを叶える」という点を取り上げたが、ここに着目するならば、もうひとつ共通点となる要素を見つけることができる。願いを叶える代償として、怪異が取り立てていくものだ。『化物語』から作中でも例外とされている蝸牛と蛇を除外した鬼、蟹、猿、猫には、どれも身体を乗っ取るという点が共通している。不死身の身体、奪われた体重、猿の手猫耳、といった具合だ。

 こうした願いを叶えることと身体を奪うことの関係は、西尾維新の別作品にも見ることができる。『きみとぼくの壊れた世界』では、主人公が小学生のとき、いじめられている妹を助けたエピソードが回想されている。いじめの存在にに気づいた主人公――櫃内様刻という――は、妹――夜月という――の足を折って入院させ、腹を殴って加害者の名前を吐かせ、カモフラージュ用に無関係の生徒数人を巻き込んで制裁を下すのだ。このことが極めて化物じみていることは、ここまで本文をお読みの方ならば理解できるだろう。事実、神原が最初に猿の手に願ったのはいじめの復讐だった。

 そして『リズと青い鳥』で描かれた視点の移動には、これに近い気持ち悪さがないだろうか。自分の意志や行動が、思いもよらない解釈をされることによって、自身の主観が偏ったものとして、途端に信用できなくなってしまうこと ーこれには自身の身体の操縦を失うこととかなり近いものがあるように思う。ここで考察してきた阿良々木や希美、あるいは神原の立場は、『リズと青い鳥』を観ることと無関係ではないだろう。例えば、神原の願いを叶えたあと、自分の願いの裏面を、猿の手が読み取った誤解を解消するべく、それが持ち主の願いを意に沿わぬ形で叶える猿の手であるという解釈を採用した。同じように、はじめて『リズと青い鳥』を観て、みぞれの演奏にたどり着いたとき、即座にそれまでのストーリーの記憶からその伏線となる要素を拾い集め、「私にはこの事件の犯人が最初からわかっていました」と言わんばかりの理屈を脳内で組み上げなかっただろうか。少なくとも筆者はそうした。

 

 もちろん、これは最初に断ったように、客観性のない個人の見解である。しかし、これも最初に述べたように、この映画は解釈の余地を大いに残す曖昧さを少なからず含んでいる。であれば、ひとりの個人がこの映画をどのように観たかを記録することの意義を主張することも、そこまで無理筋ではないだろう。

 

観測者にとってのみ意味を持つ。

観測者によって意味が違う。

観測者同士にとっての意味が一致しない。

西尾維新(2008)『傷物語講談社. P11

 

 これは『傷物語』の第一章で、阿良々木がキスショットを評して言ったものだが、こうした性質は『リズと青い鳥』にもそのまま当てはまるだろう。メッセージとその解釈をめぐる物語を展開しながら、その問題が作品自体としてパッケージされているという点に、この作品のメタフィクションとしての優れた点があると言えるかもしれない。すでに公開から数年が経つ映画だが、未だに汲みつくされない多義性を備えた、化物じみた傑作であるように思う。

 

文:大間無題

*1:ラテン語由来のミステリ用語 犯罪が行われた場合それによって誰が利益を得ることができるのか という意

方針拡張のお知らせ

 日頃よりお手隙の時間に当ブログを読んでいただき誠にありがとうございます。気がつけば2024年。今年の8月4日で当ブログも6年となります。自分の性格上、というよりも本来ブログって自分のスタイルを書くものではありますが、基本的にただ一人の人間が思索を巡らせるのには限界があります。そろそろその領域に自分もいる気がしており、何か大きいものを書こうという意思はあるし、書き溜まっている下書きもかなりありますが、結局それを物にするに至っていない時点で完成に持っていけるほどの覚悟がないから完成させても仕方がないと思っているせいで、新規の長文記事を中々出せないでいます。他のブログはともかくとして本ブログの強みは間違いなく多岐にわたる内容を通常のブログの文字数の2-4倍くらいのボリュームでお届けすることにあると思います。それが中々時間的にも体力的にもポンポン書けるようなスタイルを送る日々ではなくなったということもあり(今思い返すと2021年が奇跡だった)、「Music Synopsis」は個人的に過去記事のアーカイブ化ブログになっているような気がしているというのが正直なところです。それ自体は別に構わないのですが、更新できない状態が続くこと自体は憂慮だなと思うわけです。自分が更新したい時に、あるいは更新できる日に更新。というのが通常のモチベーションのあり方だと思うのですが、そういう中途半端な感覚がとても性に合わないため、別の方法を考えた結果が、寄稿というスタイルの拡張です。

自分自身、去年より成り行きではあるものの、寄稿をするという形で二つの雑誌に関わったこともあって、寄稿という行為そのものに面白みを感じているため、それを自分のブログで実践したらどうなのかと考えたらなんだか楽しいと思うようになったことがきっかけです。色々な音楽に対する文章を持っている人というのは実は多いのではないかと思うのです。物事が角度によって見え方が変わるように音楽も書き手によって需要のされ方が異なります。そういう人の文章を読みたいという想いが大きいというのもあります。多分潜在層として、わざわざブログをとってまで発表しないだけで、内に秘めているアーティストへの想いの丈を持っている人は。そうした方に是非「Music Synopsis」という場で発表していただきたいといのがある種の願いでもあります。

あくまでも周りからの音楽文という寄稿も取り入れるという、スタンスを拡張するだけです。そうすることで、より多角的な視野で音楽という概念について知見が得ることができ、色々な思考の補助線が引けます。

 

これまで通り自分も記事は書きます。変わることは、「この文章を載せてくれ」という文があった場合、ある程度の軽い条件をクリアしていれば喜んで掲載するということだけです。主題が音楽に少しでもひっかかっていればどういう切り口でも構いません。

以前から考えていたこともあって、自分の親しい知り合いがこのためにということでもないのですが、音楽アニメ『リズと青い鳥』を自分なりに解釈したらどうなるか、という主題を元に書いてくれた文章があり、掲載許可もいただいているため、まず第一弾としてその文章を近日中に載せます。まずはそれを読んでからどういう形の文章までOKなのかという判断基準にしていただいても構いません。

 

・記載されるもの

匿名性を高くしたいので載せるのは文章とPNのみ

(要望がある場合は載せます)

 

興味のある人はぜひ以下のアドレスまで連絡をいただければと思います。

serialmusicrecord○gmail.com(◯→@)

X(旧Twitter)上において、知り合いのフォロワーの方で興味のある方はDMに一報投げていただければと思います。

では、お待ちしております。

2023年に出した記事の振り返る&雑話

今年は不思議な年でした。人と人との関わり合いが非常に多かった。個人的にはある種達成といってもいい年であった。それらほぼ全てに集約するポイント、あるいは因子はやはりこの記事を出したことであった。

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・寄稿に関する振り返り

驚くことにこの記事も公開から一年を迎えましたが、これを出したことでこれまで読者の壁を突破し、音楽好事家層に増してSF関係や評論・批評じみたものが好きな人たちが好んで読むようになったと反響及び記事のURLのエゴサで感じた。それだけ平沢記事が面白がられたという事実はとても嬉しく、クオリティ的に甘んじたところも多々あるし、なんなら前章というか、実は第一部といいますか導入部としてのパートの記事でしかないので、しっかりと語るのであれば実は次の記事からということになります。多分本当に平沢進のリスナーが読みたい文章はそこにあると思うので、そのうち書きます。ボリュームについては未知です。しかし導入部の記事だけでこれほど反響があるのはやはり意外ですね。

そしてその反響から批評同人誌へのお誘いが2件受け、結果的に3つの寄稿をした。

「もにも〜ど」・・・シャフト音楽論

「外伝もにも〜ど」・・・『アサルトリリィ』論 SF・少女小説シェイクスピア

ボーカロイド文化の現在地」・・・インターネット文化からボーカロイド文化まで

また、献本回収のために現地に行った時に色々な方とお話ができたことが大きい収穫でしたし、特に初対面にもかかわらず某F氏と3時間ほど枷なしのマシンガントークができたのは最高に楽しかったです。

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この寄稿のことでブログの記事に費やす時間があまりなくなったことは事実ではあるが、それはそれ。どうせ更新の遅いブログなのでどのみち更新なしの日々が続くよりかはマシであると言いましょう。3つ寄稿したもののやはり最初に寄稿したシャフト音楽論がとても納得のいく出来栄えでとても満足しています。多分あの深度でシャフト作品における音楽を語った文章というものはそこまで存在しないと思う。と思う一方、第一部に書いた<物語>シリーズの劇伴論については日々、内容がどうも色褪せているというのが書き手としての認識。第三部以後のまどマギの話と音楽とを絡めた話はかなり上手くいったのであと3年は持つはずだなと思うが、劇伴論はもう1年も持たないとはっきりと言える。それは何かといえばどうレビューの側面性が出てしまい音楽に対してまともに向き合えていない。誰でも書けるような内容をかいても意味がないと思っている自分としては5月の時にはこれで精一杯と思っていた。ところがその実全くの浅さのラインでしかなかったということに7月あたりで気づき始めたので、再度<物語>シリーズの劇伴論について考えを巡っていたのですが、この思索は下半期によってどんどん加速していき、目処がたったのでいずれ出します。思惑だけ書きますと、<物語>シリーズの劇伴音楽について根本から語るという題目で前衛音楽論について書きます。一応それっぽく音物語とでも仮題をしておきます。最初は原稿ネタで某誌に投げようとも思ったのですが題材重複はつまらないなと思ったのでブログネタにします。既刊の原稿を持っている方はどう思索が変わったのかを楽しむのも一興ですし、ある種の変奏的な記事にもなるので補完としての側面も出てきます。また原稿を読んでいない人でもグッと読めるような文章を目指します。では何がそこまで劇伴論の思索を自分の脳内の中で上手く更新させたのかといえば、『岸辺露伴は動かない』のサントラ発売と、その音楽の効能について明らかなラインが自分には見えたこと。そしてそのサントラの抽選に当選し制作陣の口から思っていたことが全くもって正しかったことが証明されたことに尽きます。それにまつわる話はこれらの記事を参照していただければと思います。このサントラにおけるあらゆる事象がピースを完璧に埋めてくれたし、音物語(仮題)の大きなヒントにもなった。

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そして更にこれでもか、というくらいに『鬼太郎誕生』のOSTがこれまた面白かったし『岸辺露伴は動かない』のサントラから派生してどんどん語りようのある作品でしたのでそこら辺も混ぜつつといったところですね。

寄稿話及び音楽論はこの辺で。

・EGOISTについて

今更感もでてしまっている空気感はありますがもう自分の中ではとっくに解散した存在であり、ryo(supercell)の曲だけが輝き続けるだけ。そういう感じでのアーカイブとしての存在でしかなかったのですがついに解散しましたね。すごく好きなのに。全然ショックではないのは10周くらいした結果、それなりに自分の中でけりをつけていたからであると思うのですが、それにしても最後の最後に『当事者』を出してきたのは『PSYCHO-PASS』という作品的にもEGOISTという存在的にも良い締めであったし、ryo(supercell)が何を目指して楽曲を作っているかの一旦を素人なりにつかめたのがとても嬉しかった。やはりryo(supercell)のボーカルディレクしょの凄まじさは異常で、これを聴いた人は以後歌詞に対するスタンスやアプローチを変えなければならないと思えるほど明らかにしたというのが本当に面白い。

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今更書くことでもないが、自分はryo(supercell)という作曲家を推しているだけの人間なので、これからryo(supercell)が活躍すればそれで問題ないわけですよ。この考えがあるからこそ、「もうEGOISTいいよ」と思える理由の一つでもある。

問題はryo(supercell)がこの後リリースをゆっくりでもいいので毎年世の中に出てくれることを祈るばかり。今年は『当事者』『笑ウ二重人格』、ゲーム『アスタータタリクス』より「運命のstruggle」「I promise you」の計4曲が世に出ました。2018年の0に比べればここ数年は素晴らしい躍進です。そしてこれら全てに今のryo(supercell)の形というものが凄くあると自分は感じます。『笑ウ二重人格』は韓国の歌い手であるyoei.さんが起用されていますが、声質としてはこれまでのボーカル的な側面を出しながらも違うタイプの歌声を起用した。これには正直驚いた。spcl4期オーディションとしてannが選ばれるくらいryo(supercell)の好みの声質って分かりやすいのですがそのラインから外れてきた。もちろん形式が違うためというもの影響していると思うがyoei.さんの起用は韓国の方の発音性に可能性を感じたという見立てができる。要するに日本人が話す日本語とは発声の仕方がどこか異なっているという形をある種逆手にとって、歌ものとしての表現をより拡張させたいという感じの思いがどこかにあったのかもしれないと、ryo(supercell)のリスナーを長くやっていると感じてしまうのだ。あの凝り性だし。また、マイファスのボーカルとのコラボ楽曲が2曲も来たことも大きいですね。ryo(supercell)楽曲で男性Vo.曲というのはそこまで存在しない中で、まさかのhiroという感じで、それはもう最高の2曲でした。中でも「I promise you」は19年くらいにryo(supercell)が聞いていたであろうdisneyの楽曲性が感じられてとても新鮮だったし昇華の仕方が抜群で#Loveと並んで新しい方向性の位置付けとして聴けました。この二曲が混ぜ合わさった形をsupercellでデュオで数曲、annのソロで数曲分聴きたいですね。多分その手の楽曲がきたら最高の瞬間が待っていることは間違いない。とまぁ色々妄想はできるのですが、現実性の高いところで言えば、2024年は『魔法使いの夜』の主題歌は望めるはずなんですよね。なのでそれがきたらいいなと思うばかりですね。

ryo(supercell)といえば個人で進めているryo(supercell)論も今年part2(前半)を出しました。本来は二部として出すはずだったのですが、色々と事情があって分けました。後半はいずれ。

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小林武史が手がける音楽性の強さ

小林武史の楽曲が劇場で聴ける!!とおもって『キリエの歌』を見に行った。

キリエというと、アニメ版デスノートで「キリエ〜エエエ〜」みたいな劇伴が作中象徴的に流れていたな位の印象。

Kyrie

Kyrie

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+それらの元のミサ曲くらいで、岩井俊二の作品もある程度見ている状態で作品を見に行ったのですが、まぁ面白かったです。時系列の編集する感覚が似合わない以外は基本的に受け入れられた。しかし、本来の目的である音楽と物語とのシンクロが見え見えで、製作側の意図するところが一瞬で読めてしまってはいはい結局こういうラインねと推察できてしまうが故に純粋に音楽と物語との協和を楽しめなかったのは想定外。とはいえ、あのラインは小林武史すぎるので気になる人は是非見て欲しい。絶対笑います。

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・amazarashi 新譜『永遠市』

散々記事で思いの丈を書いたのですがやっぱ傑作ALの後はきついよねという話。

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全アーティストあるあるだと思うのですが、数を重ねた上での暫定一位みたいな作品の後ってどうしても新しい境地を開拓している途中くらいの感覚で作られているものが多いですから、好きとは言え「でもなぁ」みたいな感情が入り混じってしまって純粋に楽しみきれなかったのは少しだけ残念です。とはいえこの『永遠市』がのちの名盤に繋がることは間違いないのでその点では将来性に期待が持てるのでまぁよしとするべし。

反感は分析し、共感は理解するという言葉をどこかで読んだ気がしますが、まさにそんな感じですね。音楽にとどまらず作品ってそういうものだと思っているので好きなアーティストでも反感するものがあればむしろ積極的に疑いつづけて分析してその上にあるアーティスト側が表現したい世界、というか奥の奥まで見抜こうとする態度こそが大事なので、毎回何も考えずに「最新作が最高傑作」と声高々には自分は言えないのです。そんなもの本来言えば成立しえないですし。

 

・構成する42枚

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もはやこのラインナップも変わってはいるが、少なくともこの記事を出した当初の自分の中ではこうであったというある種の記録を残せたのは良かったかなと。サムネイルでつって、その実本来の42枚表を記事の中でみせるという、変な構成にしたのが思い出です。こういうものを作る時に1アーティストにつき1枚という縛りは結構面白いなと感じました。このタグは非常に有名で色々な人のベスト42枚が見れます。そしてそのラインナップをみることでその人の趣向もなんとなく掴めるのでそれ込みで面白い遊びかなと思ったり思わなかったり。

 

以上、今年だした記事の振り返りでした。

今年は10記事しか出せませんでしたし、当サイト特有の厚かましさ満載の超大ボリューム記事もブログでは時間の都合上かけませんでしたが、そのほかの媒体で色々と発表できたのは繰り返しにはなるけれど良かったかなという印象です。

 

来年の2024年は1月初っ端から尾石達也監督作品の『傷物語』三部作の一本化ver.の『傷物語 こよみヴァンプ』もあるし『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ 〈ワルプルギスの廻天〉』も冬ごろ控えているので非常に楽しみですね。特に後者はいかなる手を打ってくるが楽しみです。シャフト音楽論ではとある予想めいたことも書きましたが当たっている外れているのどちらにしても、要は作り込みの段階でのレイヤーの層がとても分厚いことだけは確かなので純粋に見に行きたいですね。また『DUNE』の二部作目も控えていますし個人的に楽しみな作品があるのでそれらに期待を寄せつつという感じです。

 

来年もどうか「Music Synopsis」「まふまふ速報」をよろしくお願いします。

 

 

 

 

『岸辺露伴は動かない』サントラトークイベントを振り返って

・前置き
以前の記事にちょろっと追記でお知らせはしていたのですが『岸辺露伴は動かない』のサウンドトラックイベントに参戦しました。抽選100名限定というところが心躍りますね。しかも舞台は遠藤新デザインでもあり重要文化財でもある建築館でもの自由学園明日館講堂。この段階で舞台レベルで作品に合わせてくる気概がなんとも言えないうれしさですね。ドラマ版『岸辺露伴は動かない』を語る軸としてフランク・ロイド・ライトと遠藤新の建築ラインから語れるという軸も当然あるのでいつか書きたいなと思ったり、と色々考えているうちに会場についたわけですが、女性率が尋常じゃないほど高くやはり高橋一生の集客力は凄いなと感心しました。

 

 

 

・本編

そもそも菊地成孔に音楽のオファーがあったのは演出家が作品を作り上げる際に音楽を流してイメージングをしている最中に『記憶喪失学』

記憶喪失学

記憶喪失学

を聴いて「これだ!!」っていう形の上で成立している、というあたりの話から始まったわけですがここで既に一つの謎が解けるわけです。もしかしたらQ&Aがあれば自分が質問したかった中にこれはどうしても聞きたかった質問の一つなのです。

(込み入った質問についてはここで書いてしまうとそれがメインの記事になるのでそこについてはいつか出す前衛音楽論の時にでも)

演出家の渡辺一貴さんは以下のどちらなのか。答えは二つしかない。

  • 直感、感性の範疇での菊地成孔チョイス
  • 映像史として前衛ラインを攻めようと画策して菊地成孔にオファー

個人的には下のラインかと思っていたわけです。なぜかといえばNHKで映像を作る人がそういう手の文脈を知らないはずがないから。まず最初に『岸辺露伴は動かない』を実写に起こすとして、そこに合う音楽とは何かという逆算から考えれば伝奇映画の要素を持ちうることから、その手の音楽家を聴き込んだ上で出した答えが菊地成孔かと勝手に想像していましたが、実は直感的なチョイスであったと。しかしこれも考察し甲斐があるポイントで、『岸辺露伴は動かない』の映像に菊地成孔音楽が合う。というそのフィーリングには実は映像史としての文脈が無意識的に働いたのではないかという説もここで提唱しておきます。

 

そして菊地成孔さんは元々エンタメ(ゲーム・漫画・アニメ)といったものに縁がないのにもかかわらず『ルパン三世』より『峰不二子という女』であったり名前だけはしっている『機動戦士ガンダム』の諸作品の劇伴を手がけている

 

という、ある種特異的なポジションにいる方で、ご本人もわりと意外感はあったようですが、映像が圧巻のクオリティで、劇伴といった音楽は基本的に映像ありきの状態から書き起こすものですから、視覚的に訴えてくる出来上がった作品にはかなり感銘を受けていた印象でした。曰く、3割音楽、7割が美術・背景・演者の力ということでしたが、自分的には5割くらいは音楽の力では?と思ったりしました。それほど『岸辺露伴は動かない』における劇伴というのは奥が深いものがあるわけです。因み先のこともあり、原作は未読の状態で挑んだそうです。また、演者の二人も菊地成孔作品は知っていた状態で始まっていたため、演じる際には脳内で流してよりよりものに仕上げるためにかなり助かったというようなことをおっしゃっていました。飯豊さんは『戦前と戦後』を推していました。

自分は『野生の思考』だな〜と思ったり。

 

 

ここでリスナーからの質問

Q「ファーストインプレッションの曲はなんですか?」

A「大空位時代

本来のオファーとしては「菊地成孔とペペ・トルメント・アスカラール」の音楽性で依頼されていたものの、映像の力のフィーリングに引っ張られていたこともあり、まず最初にエンドロールにおけるクレジットが流れるシーンにつける音楽を模索していたところ、新音楽制作工房の門下生たちに提出していた課題曲が軒並みよくできておりその中で一番良いものを選びそれが「大空位時代」であった。そしてそこに肉付けをしていったというのが始まりとのことです。

 

ここで、リスナーが選ぶ上位3曲が発表され

1位「大空位時代

2位「愛の遺伝」

3位「ザ・ラン」

となり、やはりというべきか、テーマソングが映えある第一位ということで、これに関しては菊地さんも「まぁ当然そうだよね」というような反応でした。

元々応募欄に、菊地成孔への質問という項目とベスト楽曲3という項目がありその統計から導き出されたTOP3なのでまぁこの三曲は自明だろうという面もある一方で自分は変な方向性の楽曲に導かれた感もあったので

1位「nu_nu_jazz」

2位「優雅で感傷的なミニマル」or「ドン・イシグロ・パロディの6つの難事件」

3位「大空位時代

にした記憶があります。送信する前にスクショとっておけばよかったなぁとつぐつぐ後悔の念にかられるわけですが。

そして演者はどうか、という話になり高橋一生さんは「東京-ブレノスアイレス」を飯豊さんは「ザ・ラン」「都鳥」を挙げられていました。ガムラン・ノイズ・民謡という要素を持つ楽曲を挙げるのはなかなか面白いなと思いましたね。「都鳥」におけるスタンスは昔のATGの映画のような方法論に倣ったと菊地さんは話しておりました。

次に高橋一生さんが菊地さんに質問をするという流れになり

「AIにおけるサントラについて」という話が議題にあがりました。

ここでは「ジャンケン小僧」のエピソードをめぐる台詞-音楽の連動性について色々と話されており、実は技法としてはAI前期-AIというタームで作られたという話が出てきました。音声デジタルファイルを駆使して「ジャンケン小僧」における劇伴はつくられており、台詞に合わせて音楽を作っているからこそ本編ではああいう音作りになったと話されたあとにAIはもっとすごいぞという話なりました。まずディープラーニング型とプロンプト型の二つがあり、前者は学習型で後者は対話形式における指示型があり特に前者のディープラーニングでは沢山の楽曲を覚えさせてサンプリングの段階すら超え音楽を生成するという領域にきているから法整備がまだまだ追いついていない、という話がでました。そういった中で創作においてはAIというものを使った取り入れというのは基本的には遅いが、そこを寧ろ推していくべきだと演出家に打診し、OKが出たことでアプローチとしてはかなり挑戦的というか、一歩リードした感覚があるということも言っていました。

ここに関しても「AI制作の弦の劇伴というものに対してのファーストインプレッションはどうか?」「女性コーラスはボーカロイドを使っているが、当初からそういう予定なのか、あるいは人の声のコーラスを検討したのか?」という質問を応募欄に書いていたので、相変わらず読まれてはいないものの、こちらが聞きたい意図については高橋一生さんが別角度でもってくるという素晴らしすぎる進行をしており感謝感激です。

 

 

飯豊さんは「オフの日になにをしている」という質問がありそこから料理の話になったのですが、元々実家が料理屋で後を継げと言われたものの環境が厳しすぎて兄と逃げ出し、その結果兄は小説家に、自分は音楽家という流れ話はなんどか読んだことがあるのでそこに新鮮さはないですが、そこで生まれた小説家というのが菊地秀行という巨匠なのが結構すごいし、片や凄腕ミュージシャンというこの按配さが凄いなぁと唸らされますね。菊地秀行はエイリアンシリーズや、魔界都市新宿、Dシリーズでおなじみの作家でホラーというジャンルにおける大家でもありその影響力は凄まじいものがあるのですがそれは別の話。

 

そしてまたリスナーからの質問で

Q「愛の遺伝は菊地先生のイメージですか?」

A「違います」

という流れになったのですが、ここで自分が質問した答えがある種間接的に返ってきたのが興奮しました。その後に菊地御大が答えたこととして「原作は知らないが映像を見る限り怪奇ものである、モダン・レトロモダンが存分に使われており、そういう雰囲気を辿るために古典映画を参照した」と言い、『犬神家の一族』は参考にしたと語り出したのです。

自分が応募欄に書いた質問としてはこういう問いをしたのです。

Q:『愛の〜』というモチーフは昔でいえば『ゴッドファーザー』でも「愛のテーマ」があり、『犬神家の一族』でも「愛のバラード」というものがあり、音源的なところでいえば、ドラマ『ガリレオ』などでも謎解きの際にそうした重厚な音楽が流れるが、このラインは意識しているか?

これを書いた自分からすれば、質問こそ読まれなかったものの、楽曲におけるテーマ性について思っていたことがそのまま菊地さんの口から正解が出たと言っても過言ではなく喜んでいたら、その後に『エクソシスト』や『サスペリア』をはじめ、フェリーニの映画とニーノ・ロータの音楽について言及されていたので、もう嬉しすぎてこの時間のためだけに自分は今ここにいると思えるほど素晴らしすぎる流れでしたね。つまりやっぱり伝奇映画におけるテーマ性と、前衛との融合性というものは菊地さんはわかった上で作っているという事実がここで確定したわけです。まぁどう考えてもそうでしかありえないことはある程度映像文脈がわかる人であれば誰でも気づけることではありますが。このトークの印象深いことの一つに、ホラー映画には本来二つの側面がある。それは「恐怖」「悲哀」である。この二つのバランスが成り立ってこそホラー映画というものが成立するというような話が菊地さんと高橋一生さんのお二人が議題に挙げ、故にアマゾンプライムで『岸辺露伴 ルーヴルへ行く』がホラーにカテゴライズされたことはとても嬉しいと語っていたことですね。つまりあの作品も「血」というものにまつわるエピソードで語られるのはやはり人間の悲哀みたいなところがあるわけで、そう意味ではバランスが取れているという意味になります。あと、『サスペリア』のくだりで高橋一生さんが「催眠導入剤」であるといったこともポイントですね。これがタルコフスキーとかだったらまぁそうだね。で終わるところを、アルジェントの『サスペリア』、ここではトムヨークの名前を出していたのでリメイク版のことですが、どちらにせよああいう映画を催眠導入剤といってしまうその感性が非常に役として活きていると思うわけです。

やっぱり「岸辺露伴」という役を見事に現実世界に着地させ、納得の行く人物造形を作れる俳優にはそれ相応のビジョンといいますか、結果的にそうなったというだけの話なのかもしれませんが『サスペリア』をそういう風に考えられる感性が非常に「岸辺露伴」を演じるにたりうる素質であると個人的に思ったので非常に感動しましたね。やはり役者はこれくらい尖った感性をもっていなければそういう役は演じきるにたりえないなとも思いました。

「恐怖」「悲哀」におけるホラー映画という流れで、最近は「恐怖」を演出するものでしかない、という指摘もなかなか鋭かったですね。そして電子音楽の容赦がない感覚についても言及されており、人間であればもう少し感性豊かに抑えられるところが全くないその感覚についてはなんと「ボーカロイド音楽」を挙げていました。本来、人間がやればもう少しリラックスして聴けるところに人間性というものが欠落しているその音楽性はある種の恐怖であるというのは膝打ちでしたね。この辺りの高橋一生さんのお話は非常に知見に富んでおり、新しい補助線として使えるなとも思いました。

 

トークとしてこの辺りで時間が来て終わってしまったのですが、最後の挨拶でわかった新事実として演出家や主要キャスト、菊地さん含め全員が原作者の荒木飛呂彦と直接はあっていないという事実も面白かったですね。謎めいた人物という感覚がいかにも荒木飛呂彦だなぁと思いますね。あと、応募における音楽の質問コーナーといったものを儲けたのは高橋一生さんの提案だそうで、普通に応募をかけると俳優目当てとなってしまうため、それだけではない層として、単純に音楽が好きな人や『岸辺露伴は動かない』というドラマ作品が好きな人、という色々な人を混ぜた上で作品世界に通底する場所でトークイベントを、という計らいだそうでこれを聞いた時に自分が今回のイベントに当選した理由の一端を垣間見た気がしました。本当にありがたいことです。おそらく執拗に音楽について書いた文章が運営サイドや、もしかしたら登壇者の方々に読まれたのかな、とか色々考えると恥ずかしい反面、質問内容に書いた内容はほぼ全て別角度から答え合わせのように菊地さんや高橋一生さんのトークの話題として登場したので、自分として今回の劇伴に対するアプローチや考え方というは決して間違ってはいなかったというのが本当にこの上ない愉悦といいますか、喜びなわけです。それを感じられただけでも自分にとってかなり意義のあるイベントになりましたし、今後執筆予定の前衛音楽論についても、十分補強できるようなお話が聞けたのでより面白い文章を書けるという意味でも大変勉強になったイベント会でした。

 

改めて関係者各位には感謝を申し上げます。本当にありがとうございました。

そして『岸辺露伴は動かない』も制作サイドとしては未定ではあるものの、続けられるのであれば続けたいというその願いは確かに受け取ったので、後は我々視聴者が作品を応援することにかかっているので、全力で応援したいなと思いました。

 

以上サントラトークイベントのレポート記事でした。それでは。

『岸辺露伴は動かない』の新音楽制作工房劇伴から前衛音楽の有効性を考える

2020年の年末に第一期が放映されたテレビドラマ『岸辺露伴は動かない』は大人気となり、三期まで制作された上に映画『岸辺露伴 ルーヴルへ行く』が作られるまでの大人気作品となった。しかもルーヴル美術館の撮影許可が降りるという国内映画では二つ目という偉業をさりげなく成し遂げている。(尚、本編ではそんなに映らない)

正直映画は作品の持つテイストからしてテレビドラマの尺がベストであるという認識を再確認する程度のものでしかなかったと思う。例外的にエンドロールで大空位時代を劇場の音質で聴けたという意味では1000円程度の値打ちはあった程度に収まるのだが。

それはさておき、『岸辺露伴は動かない』の原作は『ジョジョの奇妙な冒険』のスピンオフ作品として描かれた作品。短編集にも関わらず、あらゆる引き出しを使い約40分の尺で視聴者を楽しませる作品として活かされた点は製作側からすれば色々あると思うが一視聴者的にいえば、作品の良さに多いに貢献した要素といえば小林靖子の脚本と菊地成孔による劇伴音楽の二点が特に優れていたと言わざるを得ない。別個のエピソードは単体で成立しながらも全話をごく自然に連作として落とし込む作法は流石だった。まず話の面白さとして抜群に優れていることは確か。しかしそれ以上に自分が感動したのはやっぱり音楽だった。エンディングテーマ兼メインテーマといえる「大空位時代」が流れた瞬間に誰もが音源を即座に求めたはずである(この効能についてはあとで言及するとして)。しかし、現実は非情でドラマが終了しても音楽が発売されることは暫くなかった。これは全視聴者がもどかしさを感じずにはいられなかったであろう。自分がまさにそうだ。そして、つい最近になって劇伴集が世に放たれた。

つまり大凡3年待った上での待望のOSTであることを踏まえると随分と待たされたなと思います。内容については「素晴らしい」の一言しかないほど名盤というに相応しいアルバムである。

 

劇伴についての純粋な気持ちで制作事情や背景等は菊地さんが書かれたライナーノーツを読む方が100倍楽しいので、単純に楽しみたい方はここらへんでブラウザバックをすることをお勧めします。文筆家でもある菊地成孔さんが事細かにあらゆる点について書かれており、自分のような素人がそれらに+αで補足的な追加文章を書いても製作者が書く文章以上の面白さはないので。

 

 

第一印象の所感としては、新音楽制作工房というグループに所属するの方々一向が作曲したものも数多く、それぞれ味のある楽曲がある上で代表の菊地成孔御大が手がけているので、それはもう名盤という他なりません。

なにせアニメ劇伴では『

野生の思考

野生の思考

(

 

では、『岸辺露伴は動かない』のOSTはどういう補助線を引いて音楽を楽しむか。音楽としては「過去の作品を聴いていれば新鮮味はない」と言えることもできるがそれはあまりにも感想として味気ないわけです。そんなことを言い出したら久石譲音楽や川井憲次音楽、平沢進音楽など映像作品に縁のある作曲家の音源だってそうだろって話になってしまう。そういう平凡さで片付けるのではなく、劇伴音楽である以上はやはり作品とをリンクして考えるべきである。

 

岸辺露伴は動かない』という作品の魅力を三つの単語に集約するのであれば「怪奇」「謎」「能力」大凡このようなものだろう。これらの要素が作劇に集まっている。

その上で音楽上の作風で採用されているものを三つ挙げればそれは「ジャズ」「前衛」「電子」(+αで弦楽器の味付け)を採用しているのは間違いない。中でも作劇上の「怪異」というモチーフに対して音楽のアプローチに『前衛』が入っていることは注目すべき点である。言ってしまえば有名どころで、劇伴的にも分かりやすいところだと『エクソシスト』とかああいう映画で『Tubular  Bells』

が採用されたことからも分かるように、不気味なものを演習させるための装置として前衛にまみれたテイスト音楽が使われているのである。そしてそうしたアプローチはやがてアニメにも表現技法として伝播する。具体的にいえば『デスノート』がそうであった。メインテーマの『Death Note

Death Note

Death Note

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はギターとピアノのメロディで気づきにくいが、やっていることは繰り返し、つまりはミニマル音楽であるし、良し悪しでいうと悪しで測られることが多いが『Lのテーマ』

Lのテーマ

Lのテーマ

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が『Tubular  Bells』のオマージュ作品であることは寧ろ作風を考えれば至極当然のアプローチであると言える。そして『LのテーマB』

LのテーマB

LのテーマB

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を聴けば、もはやパロディとか下書きでなぞった作品云々以前にミニマル音楽基調していることが理解することができる。そしてこれは変奏として『黒いライト』『ニアのテーマ』という劇伴にも繋がる。

黒いライト

黒いライト

ニアのテーマ

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なぜなら『デスノート』の作風も『岸辺露伴は動かない』における三要素である「謎」「能力」「怪奇」という合致するものを持ち合わせているからだ。『デスノート』にこれを置き換えるのであれば「キラ事件」「デスノート」「死神」ということになる。実際に『デスノート』の劇伴の全体スタイルはやはり前衛であり電子音楽のトラック『緊張』『期待』『ヨツバグループ』

緊張

緊張

期待

期待

ヨツバグループ

ヨツバグループ

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もあれば、弦が主となって情緒的なメロディでありながら展開は前衛といった作品『Low of Solipsism』もある。

Low of Solipsism

Low of Solipsism

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そして何よりも前衛というスタンスが滲みに出ている『時計の針の音』

時計の針の音

時計の針の音

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までいけば音楽が作劇に合わせた前衛音楽を作っているのは自明である。また、シャフトが製作した西尾維新の<物語>シリーズに対する劇伴の仕組みがそうだった。シャフト作品における<物語>シリーズと前衛音楽については山ほど語れるが、それは*1某雑誌に寄稿したのでそちらでご確認ください。気になる人はタップ

アニメという媒体でしか奇抜な表現を知らない場合、逆転現象でアプローチを真似ているという捉え方をする人も一定数いそうですが、それは大昔からある手法なのだ。確かに作家・作品的には西尾維新とその作品の方が後釜なわけですが、映像化は先んじていたし、実際映像表現としての<物語>シリーズは破格の作品である。しかし『岸辺露伴は動かない』のテレビドラマにあたって、演出的に<物語>シリーズを参考にしたからアプローチが同じであると一応に断じてしまうのも違う。実写とはいえ、題材的に先行した一連のアニメは参照リストにもしかしたら入っていたかもしれないが、そこから直接輸入するほど作り手も安直ではない。要はアプローチとしての不気味な作風をもつ作品は必然的に前衛なる音楽を捻出せざるをえないということだ。それこそリアルタイムで『エクソシスト』といった作品を見た人からすればその点の演出は前衛路線と相場が決まっていると思う人もいるが、そうしたバックボーンを理解した上で現在の映像表現を見るというのは中々手が届くようなものでもない。そのため大多数は『岸辺露伴は動かない』のドラマで描かれた世界観と音楽にある種の洗礼を受けた。そうでなければ劇伴がこれほど待望されることもない。

 

前衛は音楽単体だとアウトサイダーアートのような感じで一部受けしかしないが、映像との組み合わせだと化けることが多い。その最たる例であり最大の貢献者が久石譲

本筋とズレるので詳しくはこちらの記事を参照していただきたいが

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一応前衛音楽を例にとって簡易的に説明をすると北野武映画ではデビュー作『その男、凶暴につき』のころからエリック・サティの『グノシェンヌ第1番-Lent』

グノシェンヌ 第1番 - Lent

グノシェンヌ 第1番 - Lent

  • ジャン=イヴ・ティボーデ
  • クラシック
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をいい感じに薄めにした音楽がメインテーマでした。そしてそこから、北野武監督が劇伴音楽作家に久石譲を選択したというのはこの上ないベストディレクションだった。それが『sonatine』や『HANA-BI』『菊次郎の夏

といった作品で多いに活かされ、それらの劇伴は今でも強度のある音楽として古くならず残っている。スタジオジブリ作品の劇伴でミニマル音楽は映像的に有効ではないが、『風の谷のナウシカ』のオープニングは気づきにくいが実はミニマルであった。

風の伝説

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もののけ姫』『ハウルの動く城』『崖の上のポニョ』では重厚なオーケストレーション、というよりもドヴォルザークワーグナーを思いっきり引用していたこともあり壮大、あるいは荘厳なるテーマ音楽として楽しめるし、『千と千尋の神隠し』では誰もが本編の映像がなくても「あの夏へ」

あの夏へ

あの夏へ

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を聴くと、条件反射レベルでとても悲しくも儚くそして美しい情景が浮かび上がってしまう、そんなメロディアスな劇伴に満ち溢れているため、久石譲の音楽=ジブリ音楽と錯覚してしまうのも無理ないが、久石譲の本流はミニマルであることを考えれば、映画劇伴や作曲家としては北野武作品の音楽の方が圧倒的だ。

閑話休題

 

では実際に『岸辺露伴は動かない』における劇伴の感覚を拾ってみる。音楽は元来聴くものであり、文章で再現するのには限界があるためしっかりと劇伴を聴いてほしいのですがなるべく地の文でもわかりやすい感じで書いていくと、『大空位時代のためのレチタティーヴォ (叙唱)』では弦の緩急で世界観に引き込み『明日きっと、晴天から降り注ぎ、わたしを支配する美しい響き』『海亀が陸上を、野牛が水中を歩む』『ピアノソナタ一番』というタイトルでは、決して「ソナタ形式」を守っている作品ではないという点、そして楽曲もアントン・ウェーベルンさながらのアナーキーな前衛さを展開した思えば『電子音による空間彫刻』では電子音をメインに特有の音を展開の楽曲もあるし、タイトルがパロディ(これは菊地成孔作品に通底する一種の作法ではあるが)の「去年マリエンバートで」では、映画『去年マリエンバートで』からのイメージソースから想起させた形のオルガンの楽曲等があり、どれも昔ながらの文法に沿ったアプローチとして前衛を採用しているからこそである。このように作中の劇伴として前衛を展開した上でエンドロールが『大空位時代(TVシリーズver.)』が流れるというのは、本編的に形容するのであれば謎が解けた後の浄化としての音楽であるという見立ても可能である。というより間違いなくそうした感覚で楽曲を取られているからこそ、『大空位時代(TVシリーズver.)』『大空位時代』を聴いた視聴者は全員この楽曲を追い求めてしまうのではないか。単に曲がいいからというのも当然あるが。散々事件に対する謎が提示された後の解決パートで『知覚と快楽の螺旋』

vs. ~知覚と快楽の螺旋~

vs. ~知覚と快楽の螺旋~

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が流れて福山雅治が所構わず無駄に数式を書く『ガリレオ』シリーズ同様に。

 

これまでの作品群と『岸辺露伴は動かない』を含めて、先に挙げた三要素を持ち合わせた作品群の劇伴を展望すると全て同じアプローチをとっているために、それらの楽曲にはいい意味で統一されたミームのようなものが内在されている。もう一度繰り返すが、菊地成孔音楽の過去作品を聴けば『岸辺露伴は動かない』でもアプローチそのものは変わっていないが、映像との相互作用としておそらく過去のタイアップ作品以上に型に合ったのは前衛音楽が「謎」「怪奇」「能力」といったある種説明がつかない畏怖すべき存在なるものを扱っていることが大きい。そこに大いなる感動を抱いた人も多いはずだ。昔からあるアプローチが現代版としてアップデートされた形が少なくとも2020年代の今では『岸辺露伴は動かない』が極地であろう。そういった目線を入れた上で、作品をみてその上でサウンドトラックを熟読ならぬ熟聴し、音楽と映像のあり方というのを今一度考えると新しい発見があるかもしれません。ちなみに自分は『岸辺露伴は動かない』のドラマ全体をみて思ったことは、今の時代なら京極夏彦の『京極堂シリーズ』をテレビドラマで展開することは可能なのではないかということだ。大昔に実相寺昭雄が『姑獲鳥の夏』を撮り商業・作品の両側面で着地に失敗したという前例があるが今一度、京極堂シリーズを音楽込みでしっかりとした文脈にそった形で映像化すれば原作の面白さは確約されている以上、一定の評価を勝ち取れるのではないかと勝手に推察したりしています。脚本はそれこそ小林靖子が最適ではないか。何故ならアニメ版『デスノート』でも幾つかの話数を担当し、『岸辺露伴は動かない』の『六壁坂』の中で江戸川乱歩の『芋虫』や横溝正史タッチな空気を脚本に落とし込むだけの力量があるだから寧ろ、脚本家としてのキャリアを考えれば当然と思ったりするですがいかがでしょうか?原作は鈍器本で尺は十分すぎるほどあるし料理の仕方でドラマの作り方というはいかようにもできるのではないかと思ったりするのですが。仮に実現したと仮定して重要になるのは作品イメージを支えるに足りうる音楽が要になってくるはずである。再三になるが、これまでの成功した『怪奇』『謎』といったモチーフの映像作品には必ず音楽がそれ相応の文脈を踏んだ作品を作った上で成功しているので、そこを押さえることができる音楽家にしてほしいなとか思ったりします。

誰かが講談社より映像化権を勝ち取って、見事に映像化すれば『岸辺露伴は動かない』に比類する作品になると思いますので、誰かよろしくお願いします(丸投げ)

以上、前衛音楽の有効性についてでした。『岸辺露伴は動かない』の作品および音楽が今の映像化表現のトップレベルであるということが少しでも伝われば幸いです。

 

 

12/1に開催されるイベント「岸辺露伴は動かない岸辺露伴 ルーヴルへ行く」オリジナル・サウンドトラック【完全生産限定盤】発売記念スペシャトークイベント」の抽選に当たることを祈って締めたいと思います。どうか100人の中に入りますように

それでは。

 

P.S.
無事、100名に中に入りました。

なるべく菊地成孔音楽のトークを網羅できるよにレポート取り頑張ります。

 

 

*1:もにも〜ど

【宣伝】『ボーカロイド文化の現在地』・『外伝もにも〜ど』に寄稿

懲りずにまた批評同人誌に寄稿をしました。

2023年11月11日に開催される文学フリマ東京37に出店する二つサークルに寄稿しました

highlandさん主宰のサークル「Async Voice」と、

あにもにさん主宰のサークル「もにも〜ど」

 

 

 

にそれぞれ一本ずつ寄稿しました。

 

「Async Voice」ではタイトルから分かるようにボカロ論に関する事を。

「外伝もにも〜ど」では『アサルトリリィ BOUQUET』に関する論考を書きました。

 

 

ボカロ論の方はhighlandさん直々の依頼もので、実は4月の段階でお話をいただいていました。この頃は丁度シャフト音楽論の佳境真っ最中に転がり込んだもので、あまりに間としてのタイミングが悪すぎたのですが、あと先考えず二つ返事で引き受けたという経緯があります。

話をいただいた時にいろいろと考えた挙句、いくら同人とはいえやはり来場者に買ってもらう品物なわけですから、いくらでも調べれば出てくるような当たり前のこと・普段インターネットで散々書かれているような話をはじめ、安直な題材をテーマにするのは流石につまらないし、面白がってもらえないと思ったため少し変わった視点から切り込むスタンスで草稿を書きました。

 

その結果ボカロ論なのにボカロのボの字が殆ど出てこない、人物史・コンテンツ論的な方向性に発展してしまい、これを処理(=文章としてまとめる)していたらいつの間にか7万字くらいになっていて、どう考えても寄稿者が書いて良い分量ではない領域に来たので、*1前回の失敗に倣いそこから引き算で色々と削って1/4に絞った最小限にしたものをhighlandさんに確認していただきながら、付け足し・再構築をするという形にした文章になっています。

 

 

ボーカロイド文化の現在地』目次

批評文章の巧さでいえば学のない自分よりも、他の人たちの方が圧倒的に優れているので、せめて切り口だけは、一風変わったものにしようという意識のもと、色々と試行錯誤をしたのですが、目次を見る限りは自分と同じ切り方をしている人恐らくはいないので載る論考の点の斬新さといいますか、275度くらいの角度から書いたと言う意味では結構自信あります。前述のこともありかなり、ダイジェスト感がありますがそれでも楽しんでいただける文章にはなっていると思います。読む人が読めば、空きの行間も埋まり本来の原稿がどういうものかも見えてくるとは思う程度には諸要素は蒔いてあるので興味がある人は是非探索しください。

この目次改めて見ると色々な意味で面白い人選だなと思います。

個人的にフガクラさんと柊余白さん原稿はタイトルからしてただならぬ面白さを感じました。他にも40p以上MV論を書いている才華さんの論考も、それだけの尺を使って何が書かれているのかという点では非常に面白そうな原稿だなと思います。

 

では、次にシャフト批評誌の「もにも〜ど」についてです。

主題は『アサルトリリィ』についてですが、最初に白状すると別に作品に思い入れがあるわけではないです。前回の「もにも〜ど」の目次が公開された時に「〇〇がない」というようなポスト(当時はツイート)を幾つか目にしまして、「そんなに読みたいのであれば自分で書いて寄稿しろ」とか思いましたが、一層のこと「じゃあ書いてやるよ」っていう反動的で書いたところがあります。

前回論考の対象にはならなかったシャフト作品群の中で自分が一番書きやすい作品は『アサルトリリィ』か『連盟空軍航空魔法音楽隊ルミナスウィッチーズ』の二択だなと思って一応二つ分用意はしていたのですが、『アサルトリリィ』に詰めるのに時間がかかってしまって後者はお蔵入り・あるいは以降の「もにも〜ど」送りみたいな状態です。書いた動機である方々に面白いと思っていただける論考になっていればいいなと思いながら、こっちも感覚的には「気分はもう相当ピーキー」的な方向に舵を取った感があるので、どう作用するやらと言うような感じです。

 

今回2本、前回1本で計3本寄稿をしたわけですが相変わらず批評的なものを書くセンスが絶望的だなと。再認識しました。

このブログは批評ものではないのか?と思われる方も多いかもしれませんが、違います。基本的に「Music Synopsis」は音楽の面白さにちょっとした意味づけを込めた感想文や、好き嫌いを冗長に連ねていることで、普通に聴く以上の体感ができるということを伝えたいだけであって、批評的な側面なんて1mmもないです。難しいこと考えないで、単に好き嫌いにちょっとした意味付けや理由を書いているだけのブログでしかありません。少なくとも音楽批評をするぞというテンションでは書いていないため、同じ文章であっても、批評に慣れていない自分が原稿書くって難しいなと思いました。

 

以上、色々と紆余曲折を経て2本分の寄稿をしたよと言う話でした。是非お買い求めください。

 

最後にもう一度だけ宣伝します。

 

イベント:文学フリマ東京37

日時:2023年11月11日(土) 12:00~17:00

会場:東京流通センター 第一展示場・第二展示場

「Async Voice」-「ち-18」

「もにも〜ど」-「た-11 」

上記の場所でそれぞれ販売されます。よろしくお願いします。

*1:前回は寄稿自体が初めてだったこということもあって加減が分からずに相当あにもにさんに負荷をかけてしまい色々と苦労をかけてしまったという裏話があり流石に2連続でそれをやるのは愚かしいとと思った

amazarashi 7thAL『永遠市』感想

amazarashiもそうだろといえばそうだが、基本的に自分の中で、アニソン系統以外で普通に好きっていうだけで過去にデカい記事1本とアルバムレビュー1本を出していて、そこまで音楽家として飽きも来ていない日本ミュージシャンという括りの中でamazarashiはかなり頑張ってる方でなので、普段ALレビューとかは率先して書かないのですが、今回は『永遠市』の音源を聴く前から書こうと決めていたので書きます。どんなに守備範囲が広い人でも、結局は収まるところってあると思います。その意味では自分の中ではamazarashiは収まっている側のアーティストなのかもしれません。そこまでの熱狂さするほどではないが、新作が出ると聴かずにはいられない。という意味ではある種の税金みたいなものですね。良作であろうと、駄作であろうと「amazarashi税」みたいな。

 

 

ということで、新作レビュー記事になるわけですが前作の『ロストボーイズ』は例外で、気軽に聴いていたら最高傑作が来てしまったので急いでこの凄さを伝搬せねばならないと思ったのでわりと偶発的です。sai96i.hateblo.jp

sai96i.hateblo.jp

 

 

・枕詞/前置き&本作にタイトルについての考察と答え合わせ

七枚目にしてモチーフがSF。これは正直驚きました。amazarashiというと、今やかなりその色は晴れているとは思いますが、初期こそは厭世感を太宰や宮沢賢治寺山修司の言葉を引用して音楽に合わせて詩的な歌詞を歌うというアーティストだったので、そこから考えると随分とテーマ性がSF寄りになったなと。勿論オーウェルの『1984』(一九四七年)や『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』(一九六八年)及びその映画『ブレードランナー』(一九八四年)やをモチーフにした傾向はもとよりありました。しかし上記二作は最早文芸やアート、カルチャー全域に渡り、普通の作品としては考えられないほどの広がりをみせている作品であるため、媒体は何であれ、むしろその手の作品を出さない方が難しいところまで来ていいます。この点に関しては、最早文脈は一切無視して、かっこいい・響きがいいとかそれだけの理由で、邦訳SFネタを使う人が増えたせいで安直に使う人とかも結構いたりします。

Music Synopsisの読者的にローカライズして書くならMarprilの作品だったり

(キミエモーションおすすめ)

電気羊の夢

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長谷川白紙楽曲提供で、随一の狂い具合を誇る楽曲『光る地図』が収録されているALはこれだし

光る地図

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まぁ今なお、こういう領域ですら、(あるいはこういう領域だらこそ)血気盛んなにSFネタをあて擦るって使われます。そう考えていくと、表現者という人たちがこういう行為をすることはある種の通過儀礼的なものでしかないのです。勿論、その中にはしっかり意義がある作品と、そうではないただの借り物でしかない愚作の両方があるわけですがそれは別の話として。

秋田ひろむ今回、アレクサンドル・コルバコフという、旧ソ連のSF作家の作品『宇宙の漂泊者』という大昔の作品を提示してきました。普通ならストルガツキー兄弟あたりの引用で想像力が止まってしまう人も多いなら、アレクサンドル・コルバコフを引用したのは中々面白いと思います。

作劇における「永遠市」というのは端的に書くのであればホールドマンの『終わりなき戦い』が一番分かりやすい例だと思うのですが、ああ言った形で、宇宙空間生活が長すぎて、地上時間軸と乖離差が出てしまった人を「相対性人」と呼び、そういう人たちがクラス空間を「永遠市」と呼ばれている。というのが単語の由来です。しかしここまできても、SF的なものをアプローチしていると、断言してしまうのもまた疑問。恐らく秋田ひろむは「永遠市」と呼ばれる概念そのものに着目したのであって、SF的な世界観で作品を出すというのはどうも想像しきれない。SFにはタイトルの響きで決めるタイプの作品があって、これも分かりやすい例で書けば故・伊藤計劃の『ハーモニー』(二〇〇八年)とかがまさにそうなのですが、単語の持つ響きはいいけどそれが意味するものが凄い怖いというような、タイトルにおける映画的対位法とでも形容すべきでしょうか。つまり「民族浄化」という言葉がもつ響きと、それが意味するもの。というのを考えた時の差異みたいなものに秋田ひろむも惹かれたのではないかなと思ったりします。もっとも安直に言って仕舞えば、秋田ひろむは村上春樹も当然通ってはいると思うのですが、それでいうと、『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』における、「世界の終わり」or「ハードボイルドワンダーランド」の世界・空間を作品内テーマとして取り上げたい。そんな気がするのです。むしろそういうある種の内閉的異空間に焦点を当てて作品を紡いでいく。そういったアプローチのほうが強いのかなと思ったりします。完全にSF調でいくにはamazarashiの音楽性ではちょっと厳しいものもあります(ベクトルが違うという意)

 

なんて書いたんですけど、HPみたらしっかりと基調されていました。

音楽で生きてゆくと腹を括った瞬間があった。それは、そのころの僕にとっては、世間一般でいうところの”幸福”や”安定”との決別と同義だった。
社会的に生きてゆく術も持たず、属する場所もない僕は、この星の人間ではないのだろうと感じていた。そんな僕が生きてゆくにはこの地球とは別の価値観を持つ他の世界を探す必要があると思われた。そしてそれを実現できる可能性があるとすれば、唯一音楽だけがその方法たり得ると考えた。僕にとっての探査機になり得ると。

僕にできることは限られていた。というより、僕ができることで人の心を動かすことができるものは限られていた。孤独や疎外感、怒りを音楽にした。僕が望んでそうした部分もあるが、大半は人が褒めてくれる方へ、認めてくれる方へと導かれた気がする。少なくない共感者が僕らを見つけてくれた結果、僕の世間外れで独りよがりな音楽は不思議と社会性を帯びてきた。以前は居場所がなく疎外感を感じていたこの地球に「居場所がないと歌う」という居場所が与えられた。それはときに滑稽に思えたが、嬉しくもあった。戸惑いももちろんあった。その居場所に抗ってみたこともあったし迎合したこともあった。新しく出会うこの世界の住人と、相容れない思考と言葉をなんとか駆使し、この社会とコミュニケーションを図った。その過程がこのアルバムだ。

この秋田ひろむのお言葉は長いので、いい感じにを要約すると

  • 現実に適応が難しい≠地球の生物ではない。ゆえに別の価値観をもつ世界を探す必要があり、移動手段的を可能にしてくれるロケットみたいな装置が音楽である。
  • 限られた手法で手練手管で自分なりの厭世観をもった音楽をやっていたら案外受け入られたので、そういう場所で出会う住人=相対性人が暮らす社会=地球とのコミュニケーションを音楽的に録ってみました。

 

みたいな感じなるので、やはり、異なる場所というモチーフとして引用したことみるほうが正解に近いと思えます。それにしても、しっかりと引用元を提示した上で作品を作るというスタンスは本当に素晴らしいですね。全ミュージシャン様はこうあるべきだと思います。コラージュの時代だからこそ引用元を提示すること自体は当たり前であって欲しい。どうせ隠してもバレるのだから。

 

永遠市

永遠市

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・本編

では早速作品内世界について入っていきます。

その前に一言加えるならトラックリストの順でタイトルを読むと『超新星』からの『クレプトマニア』=盗人マニア、『ディザスター』=大惨事がおきて、更地ならぬ、『まっさら』というのがいい感じに終末的な世界へ向かっているなと思います。

amazarashiは基本風景として夜が多いけれど、今回はあくまでもイメージとしての感覚だけれど、朝っぽい感じします。それ加えてトラック名に色々隠されている感がすごいですがそれは各トラックの感想で書きます。あらかじめ書くと割と厳しめです。

 

01.『インヒューマンエンパシー』

冒頭トラックとしては正直弱い。だって『ボイコット』のno.1は『拒否オロジー』だし、『七号線ロストボーイズ』では『感情道路七号線』で

生きるために死んで 享楽にえずいて 欲しいのは機関銃

という感じで始まる強烈さというものが前作と前前作ではしっかりと積み込まれていたのに、今回はトラック1から引き込まれる感覚がない。どっちかというと3トラックあたりに入っている感が強いなと。

インヒューマンエンパシー

インヒューマンエンパシー

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02.『下を向いて歩こう』

ご存知、タイトルは『上を向いて歩こう』のパロディではあるものの、こういうアプローチものって思いつきそうで思いつけない微妙なラインではありますが、このタイトルで出してくるのが如何にもamazarashiという感じがして流石だなと思います。

下を向いて歩こう

下を向いて歩こう

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03.『アンチノミー

アンチノミー、二律背反。

・感情を持つな→先が辛くなる 

・人を愛するな→弱さにつながる

・自ら選択するな→安寧がゆがる

・情けはかけるな→白黒の間のさまざまな色彩(グレーみたいな)に戸惑ってしまう

・知性はもつな→真実を知ってしまう

というまず否定から始まってなぜなら、、という歌詞を語る作品です。

歌詞は過去作『古いSF映画』からの発展系みたいな作品だなと思ったりした。『古いSF映画』では

人が人である理由が

人の中にしかないのなら

明け渡してはいけない場所

それを心と呼ぶんでしょ

と説いていた。ここでは、創りものの世界だとしても人であるという規定に達するもとして受け入れないといけないものが心であるという歌詞になっている。

今作では、

機械仕掛けの涙 それに震える心は誰のもの

という歌詞が象徴的な一文になっている。全体として見た時に、あらゆるものが最初から全て設計されている。そうした造り物の中で発生する心情は誰のものだという展開が待っている。歌詞の中で展開されるいくつかのキーワードの中でも最もamazarashi的にキレのある歌詞は

世界は数多の問、繰り返す 返答だけならば機械にだってできる

僕だけの迷いこそが 人の証左となるなら

意味を捨て 意思をとれ

でしょう。応答だけなら機械でいいじゃん。そこで迷うことが人の証明という一文はいかにも秋田ひろむっぽい歌詞だなと思います。

 

アンチノミー

アンチノミー

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04.『ごめんねオデッセイ』

冲方丁における『バイバイ、アース』みたいなネーミング。そしてお馴染みのポエトリーリーディング。この曲は独白がメインで曲というよりかはメッセージ性を高いタイプの楽曲だと思います。過去作でいうところの『メーデーメーデー』にあたります。

だからその具合は流石です。今回のコンセプト性を上げるために小ネタとして挙げられるのが

後に分かるメッセージ、

次元を超えるクーパーとマーフ

これは『インターステラー』ですね。この歌詞はあの映画におけるホルヘ・ルイス・ボルヘスの『バベルの図書館』を彷彿とさせる本棚と次元が繋がっているみたいな展開や主人公とその娘の名前の引用をしていることからも明らかです。今回の世界観はSFだからこその採用だとは思いますが、一映画ファン的には『メッセージ』(原題:arrival)を採ってほしかったなという謎の願望が生まれたりしました。他にも、秋田ひろむは今後、ボルヘス的な世界観を採用して欲しいなと思ったり。

ごめんねオデッセイ

ごめんねオデッセイ

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05.『君はまだ夏を知らない』

純粋にいい曲というのが感想としてあります。夏というとそれこそ『夏、消息不明』や

夏、消息不明

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名曲『夏を待っていました』

夏を待っていました

夏を待っていました

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とかをやっていた時代からすれば、こんなにも明るい詩で夏を書けるようになったのかとか色々と感慨深いものがあります。amazarashi大特集の時書けなかった小ネタを披露すると、一度ツイートはしているのですが

『夏を待っていました』はステレオフェニックスの『100MPH』が元ネタです。

100 MPH

100 MPH

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なので、某ボカロPの作品と併せて比較してみると面白いです。

君はまだ夏を知らない

君はまだ夏を知らない

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06.『自由に向かって逃げろ』

『明日にむかって撃て』とか『俺たちに明日はない』を彷彿とさせるネーミングセンスは流石。これは多分意識的ですね。理由:「自由」と「逃げる」が同居しているのはそういうタイトルは往々にしてアメリカンニューシネマにかぶれている人だから。あるいあ

『自由からの逃走』でも読んだか。まぁ真偽はどうでもいいのですが、タイトルはそういう意味合いが強いなという意味です。

冒頭から間奏みたいなメロディから始まるこの楽曲は、

自由に向かって逃げろ

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07.『スワイプ』

amazarashi初期からある、昔〇〇だけど今じゃ××という芸風の作品ですね。ただ、コンセプトを考えるとちょっと弱いかなと。『ボイコット』における『夕立旅立ち』みたいなポジションを感じずにはいられない。

スワイプ

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08.『俯きヶ丘』

lofi的なbgmに惹かれ過ぎて歌詞なしで、インスト楽曲でもいいのではないかと思ったりした。少ない楽曲で色々詰め込んだ感はありますが、それこそこのテーマで5mくらいで作ってくれたら最高だなと思ったり。

俯きヶ丘

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09.『カシオピア係留所』

宮沢賢治の影響〜というのは最早誰もが理解するところではある。そしてこの手の楽曲で秋田ひろむが仕掛けてくるのであればそれは絶対外してくるわけがない。イントロが結構amazarashi的には『スターライト』的な味を残しつつ、新しいタイプだなぁと思いました。そしてあのイントロんがら、『スターライト』的な感じには繋げないのもいいですね。多分アルバムの中で一番完成度が高い楽曲になっていると思う。応援歌的な側面もありながら物語的な視点、そして体系的な目線が入っている歌詞という真骨頂を感じました。

その痛みは共通言語だ

あらゆる詩を歌い、最終的に「それでも」痛みだけは共通というテーマは雨晒し的な側面も感じました。

カシオピア係留所

カシオピア係留所

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10.『超新星

韻を踏む、tha blue herb的な感じでラップを連ねていく曲で、単純にいい曲としか感じない一方、小ネタの方にむしろ反応してしまいます。

幸福は過ぎた願い 目を背けた青空  虚飾も卑下も脱いでなお残る我がアートマン

多分これって『暗黒神話』におけるヤマトタケルの転生した山門 武がブラフマンからのアートマンに選ばれるっていうあそこから来ていると思います。というよりも日本においてアートマンの認識は諸星大二郎の影響が強すぎるので。

超新星

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11.『クレプトマニア』

セルフパロというべきか

書き下ろした数千行と等価

最後につじつま合わせる僕等

あたりでちょっと笑ったことと、イントロがnujabesの『ordinary joe (feat. Terry Callier)』

ordinary joe (feat. Terry Callier)

ordinary joe (feat. Terry Callier)

  • Nujabes
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みたいな感じで、8もそうですけど、どこかlofiの匂いがするなという感じ。多分これは編曲者の趣味かなと思ったり。秋田ひろむの指示ならそれはそれで色々と可能性を感じますが、正直そういうタイプの音源を作るタイプの作家かどうかといえばNOだと思います。作れって言われたら作れるのでしょうけれど笑。

クレプトマニア

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12.『ディザスター』

秋田ひろむの表現者としての心情性が強い所はいいです

延々待っても来ない順番は 不名誉が僕らの名誉で

が、タイトル負けしてるという印象が強い。十分歌詞としての強さは感じるが、それでもタイトルの『ディザスター』という言葉の持つ力と同程度の強度を持っているかどうかといえば、もう少し踏み込んでほしかった感があります。

ディザスター

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13.『まっさら』

ギター一本という秋田ひろむの歌唱が一番光るタイプの曲だなと思うのですが、このトラックリストから想像する「まっさら」とは違い、上書き保存の積み重ねで、ゼロの状態=白紙には戻れない僕らというモチーフで進む楽曲だったので、SF的な意味でディザスターが降ってきた終末です。はいおしまい。という空気を勝手に感じていた身としては、このアルバムでこのテイストを入れるんだっていう感じですね。いい曲だけど『永遠市』のビジュアルや世界観からはあんまり想像できないタイプの曲なので、全体的にクオリティに文句はないが、別のアルバムで聴きたかった感がすごくあるという意味では惜しい楽曲だなと思います。

まっさら

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総評

10点満点中6.5点くらい。前作のあまりにも出来が良すぎたアルバムに比べたら本作は印象に残る曲も少ない。歌詞の一文で面白いところや共感する部分は多少なりともありますが、全体的なアルバムとしての統一感もない。特に8,11の3分にも見たいな系の曲は、アルバムでは聴きたくないと思うわけです。あと「こういう世界でアルバムを作りたい」という心意気はわかりますしそれは各楽曲にもしっかりと込められているのですが、上手く落とし込めていられているかといえば正直微妙ですね。イメージだけが先行していて楽曲が追いつけていない気がします。まだ一周しただけのファーストインプレッションなので、断定までしきれないが、過去作の傑作を考えればもっと作り込めることはできるはずなので、今後に期待したいです。けれどこれらは実力云々では片付けるのは少しもったいなく、最高傑作を更新してしまった前作『七号線ロストボーイズ』と比べたらという評価軸でありこれまでの全てのアルバムの中ではそこそこ頑張ってる作品だと感じましました。前回からさらに進化していく過程で恐らく9枚目か10枚目で今開拓している方向性でまた傑作が生まれてくると信じていますので、そのための第一歩として捉えるのであればかなりいい方向進んでいることは提示できていると思えるだけのアルバムとしては意義を果たしている。

個人的には歴代アルバムで傑作度順に並べるのであれば

  1. 『七号線ロストボーイズ』
  2. 『夕日信仰ヒガシズム』
  3. 『千年幸福論』
  4. 『世界収束二一一六」
  5. 『永遠市』
  6. 『ボイコット』
  7. 『地方都市のメメント・モリ

という感じですね。あくまでもアルバム全体の完成度であって、個々の楽曲をあげればまた変わってきますが。初日ということもあり時間が経てばまた『永遠市』における印象も変わるかもしれませんが、暫定的には「いまいち」という感じです。部分的にいい曲があるのはプロの仕事である以上、当たり前なのでそこに関しては一々触れる必要はないですね。全部書いた後に結構批判的だなとか、曲よりもイメージ感想が多いなと思ったのですが、それって、本作がしっかりとコンセプトと楽曲を美しく接続仕切れていないからなのかなと思ったり。『ボイコット』を考えた時のあのトラックリストと、『永遠市』というSFコンセプトでの今回のトラックリストを考えた時にどっちがより充実しているかと言えば間違いなく、『ボイコット』だと思います。まぁ好きなアーティストだからといって、好意的な文章だけ書くのも違うな、間違っていると思うところがあるので、こんな感じになりましたが、まぁ前作の非の打ち所がない傑作の後というのが良くも悪くも今作を微妙にしてしまった感は否めません。

というあたりで締めようと思います。では。

 

 

『キリエのうた』を鑑賞した感想と戯言

音楽ブログなので、映画の感想を投げるのも中々気がひけるのですが、本作は音楽映画とカテゴライズしてもおかしくはないので、「音楽映画」的な感じ感想を書くのは別に音楽ブログ的には全然ありだなと思ったので、雑多ではありますが、色々書きます。単純に今年は全くブログ記事を出せていないので、せめて小難しくなく誰でも気軽に読める程度の記事は出しておこうと思ったという理由もあります。

 

 

岩井俊二監督、音楽小林武史という絶妙な組み合わせの新作『キリエのうた』を最近見ました。タイトルからして、「はいはいミサ曲ね」って感じではあるのですが、これは『リリイ・シュシュのすべて』におけるドビュッシーの最初の奥さんの名前の愛称と二番目の奥さんとの間に生まれた娘の名前の愛称を繋ぎ合わせたものである、みたいな遠回しすぎるほどの文脈に比べればまだマシだとか、色々夢想したわけですが、映画そのものは、若干過去現在の描写の切り替え編集が個人的には微妙で、過去パートに少し冗長さを感じたこと以外は普通に面白い映画でした。そして本作には2017-2019くらいにヒットした曲がカバーするという形で流れてきます。タイトルを挙げなくてもこの年代にヒットした曲といえば皆さん大体察しがつくと思います。そして、出てる演者繋がりがちょっとしたヒントにもなってる。まぁそこはどうでもよくて、個人的になんでこれを見に行ったのかといえば、音楽が小林武史だから。『リリイ・シュシュのすべて』における『呼吸』

Kokyuu

Kokyuu

や、『スワロウテイル』におけるYEN TWON BANDの『Montage』

よろしくのKyrieのアルバム*1『DEBUT』

DEBUT

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もあり、個人的には小林武史が紡ぎ出す音楽そのものに興味があったものですから、映画を見に行くというよりも「小林武史の音楽を劇場で聴きにこう」というテンションで臨んだのですが、まぁその意味では今回の『キリエのうた』の楽曲はそこまで刺さるものがなかった。時間が経てばこの感想も変わるかもしれないのだが。要因としてはこの手の暗鬱かつ、ハスキーな女性シンガーを軸としたものって、それこそ『呼吸』や『Montage』で散々やったからもういいよというのが大きい。無論、小林武史だからこそクオリティは非常に高いですが、申し訳ないけどこれくらいなら過去にリリースされた楽曲の方が完成度の具合には及ばない。これは大昔に出した拙作の小林武史プロデュースベスト盤記事でも書いたように、かなりクオリティの高い作品として自分は評価しています。

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あともう一つ、通常のギターver.のものを弦を使ったアレンジという手法もいい加減、聴き飽きた。これって、『小林武史-work I』における『to U』をpianoバージョンにした『to U (Piano Version)』でも見られた傾向。本作では『キリエ~序曲』が最終的に『キリエ・憐れみの讃歌』になるわけですけど、ここでやってることって完全にラヴェルの『ボレロ』だし、なんならMr.Childrenにおける『bolero』なわけですよ。アプローチが全くもって同じ。たしかに『bolero』のトラック1の編曲は中西俊博ですが、あのアルバム全体のプロデュースは当然小林武史なわけですから、意図としては小林武史が提示したものだと考えるのが普通ですし、それを裏付けるように今回の『キリエのうた』で歌曲と『ボレロ』を組み合わせている。しかし、これらは音楽だけを聴いた場合のみにおける感想であり、作劇との組み合わせでみればなるほどねとなることもある。

 

ラストにおいて、主人公キリエがストリートミュージシャンと路上ライブで、オーケストレーションのアレンジver.の曲を歌うのですが、そこで騒音だ、っていう苦情が入って、許可どり云々で主催者の責任者ともめ、結果的に許可書がなくて警官が制止しようとするも、それに気にせず周囲の楽器隊がメロディを奏でる中央で歌い続けるっていう構図があるのですが、ここで『ボレロ』を彷彿とされるものを流して、中心に主人公のキリエは構わず歌い続け、観客もいい感じに盛り上がるっていい感じの雰囲気が出るわけです。作中、主人公は幼少から現在にいたるまでキツイ環境と、面倒臭い人間関係の中で生き続けているわけで、基本的に喋れない、が歌は歌える。基本この設定で押し切ってるわけですが、踊りが得意で、幼少期自体はバレエを習っていたという設定もあるから、バレエにおける「ボレロ」文脈も当然あるわけです。これがラストに結実していると考えると中々巧妙で色々と効いてくるわけです。つまり、「ボレロ」的な感じで演出したかったのねと、ここで観客は初めてあの楽曲の意図するところを理解するわけです。あと側から見たら主人公の意思で色々な面倒なもの(本編では警官の制止を気にしないでという事が)吹っ飛んで歌を続けるという構図は、サブカル的に形容すると、主人公の意思=世界そのもの、みたいなというある種のセカイ系と称される感じもしなくはないが、その手の話は面倒なので、別の人に回すとしましょう。

アルバム『DEBUT』の中のトラックで一番よかったのは、『ずるいよな』と『虹色クジラ』『宙彩(ソライロ)になって』の3曲です。『宙彩(ソライロ)になって』とかは、それこそプロデューサーである小林武史感の色合いが十二分に味わえます。メイン曲として結構流れるの『キリエ・憐れみの讃歌』とか『名前のない街』も普通に良い曲ですが、ボーカルの癖の強さが楽曲の感覚を超越していて、正直そこが合わない。というよりもこれらの曲は映画における物語を通して初めて機能するタイプの曲なので、一楽曲として聞いた場合、他の収録曲と比べると少しだけ魅力が半減しているような気がする。ryo(supercell)と小林武史が組んだ唯一の楽曲『言葉にしたくてできない言葉を』も同様に癖の強い歌手の楽曲だったのですが、そこには癖が強いなりの説得力のある楽曲だったので、普通に聴けたのですが、あれは小林武史ではなく、ryo(supercell)のボーカルディレクションの賜物なのかなと。色々書きましたけど、小林武史音楽が聴ける映画としては普通に面白い作品です。作品の筋書きも変にこねくりました感じもない真っ当で分かりやすい物語です。

 

最後に

この映画を見て、斜に構えてでも面白い論評はないかと思って色々と探したら、鈴木敏夫Pが非常に的確な一文を出していてこれが案外面白い視点でした。

アイナは藤圭子に似ている。
ふたりとも世界を恨んでる。

藤圭子についての説明はもはや説明不要なので飛ばします。実際映画を思い出すと「言うほど恨んでいるか?」とか思わなくないのですが、感覚としてそういう風に鈴木敏夫Pには映ったというだけの話なので、そこに対する是非はともかくとして、そういう風に表現する視点自体は結構大事であると。映画プロデューサー以前に、鈴木敏夫Pは作品を良い感じに読み取る力は本当に面白いなと思います。

 

この記事を読んで少しでも気になった方は是非ご覧になってください。3hありますけどあんまり気にならない長さです。

 

 

 

 

 

*1:『DEBUT』というアルバム名も、小林武史のことですから、ビョークの1stのタイトル『début』とかけてたりするのでしょう。あと単純にデビュー作という意味合いも持つでしょうから、ダブルミーニング

ryo(supercell)の音楽性と作曲家論を考える part2(前編)

おおよそ一年前に投稿した

 

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続物記事を出すのはどうなのか、と自分でも思う所はあるが、まぁ当ブログにおいて間が開くというは当然なので気にしている読者の方が少ないと思いますので、そこに対する弁明はありません。というか、記事を出していないだけで別で4万字以上の文章を寄稿という形で世に送り出しているのでセーフです(謎)。

前回の記事は前座でしかなく、本番はこっからです。

今回からおもっきりアクセルを踏んでいく感じになります。極力誰が読んでも面白く、分かりやすい記事にしているつもりですが、偏愛が過ぎるところがあるかもしれませんが、それはそれ。あと、あくまでも素人目線記事ですから〜という予防線を。

 

この記事を開いたからには是非読んでいっていただきたいです。

それでは本編へ移りましょう。

 

・本編

ryo(supercell)は相当前ではあるが、自分を構成した10枚というのを挙げていた。

このブログではいい加減書いてきたわけだが改めてここで紹介します。

アーティスト/アルバム名という見方です。

さて、これらのラインナップを見てどう考えるかという話なんですが、最早全員が”なるほど”と手を打った状態であろう。

これを認識していると、そらこういうラインナップになるなわって話なんです。

そして、ryo(supercell)の作曲家としての略歴が見えてくるのですが、その前に軽くそもそも論を展開して、補助線を引いていこうと思います。

ryo(supercell)の*1生年月日は恐らく1979年10月21日です。

 

そう考えると、10代後半〜20代前期にリリースされたものが”ryoを作った10枚”の中で8枚もあるわけです。単にこのラインナップを”ryoを作った10枚”でみたら、「ああなんだ洋楽好きか」と片付けてしまいがちですが(4年前まで自分もそういった短絡的な落とし込みだった)、生年月日を踏まえると、"一番影響を受けやすい時期にリリースされた作品でryoが感動した10枚"と言い換えることができ、かなり含みがある意味になります。こうなると当然意味合いも変わってきます。先の10枚からは恐らく世代的な洗練という意味も込みで、絶対的な影響を受けているとみて間違いない。なぜそう思うか、という論旨展開をすると長話になりますが、まぁ端的にまとめるとセンスオブワンダー的に一番グッとくるタイミングだからです。ryo(supercell)の生年月日がわかったところで、ryo(supercell)の年齢別作曲家略歴について話を戻します。なお、実際に出来上がった時期とリリース日が違うことくらいはお分かりだと思います。流石にどれだけの信者といえど、実制作内部の事情は分からないので、その意味では数ヶ月〜年単位で差異があります。

あくまでもリリースされた日・発表日・一般公告された日を基準にしています。

※マイナーすぎるものはカットしています

・2007年

『きみをわすれない』/『メルト』(2007)-28歳

・2008年

『恋は戦争』-28歳(投稿日:2月22日)

『ワールドイズマイン』-28歳(投稿日:5月31日)

ブラック★ロックシューター』-28歳(投稿日:6月13日)

『初めての恋が終わる時』-29歳(投稿日:12月12日)

・2009年

1stAL『suprecell』-29歳(発売日:3月4日)

『午前六時』-29歳(発売日:4月29日)

君の知らない物語』-29歳(発売日:8月12日)

・2010年

さよならメモリーズ』-30歳(発売日:2月10日)

『こっち向いて Baby/Yellow』 -30歳(発売日:7月14日)

うたかた花火』-30歳(発売日:8月25日)

・2011年

2nd AL『Today Is A Beautiful Day』-31歳(発売日:3月15日)

Light My Fire』-32歳(発売日:11月16日)

My Dearest』-32歳(発売日:11月23日)

Departures~あなたにおくるアイの歌~』-32歳(発売日:11月30日)

・2012年

ナイショの話』-32歳(発売日:2月1日)

僕らのあしあと』-32歳(発売日:3月7日)

The Everlasting Guilty Crown』-32歳(発売日:3月7日)

EGOIST 1stAL『Extra terrestrial Biological Entities』-32歳(発売日:9月19日)

名前のない怪物』-33歳(発売日:12月5日)

銀色飛行船』-33歳(発売日:12月19日)

ラブミーギミー』-33歳(発売日:12月19日)

・2013年

The Bravery』-33歳(発売日:3月13日)

All Alone With You』-33歳(発売日:3月6日)

拍手喝采歌合』-33歳(発売日:6月12日)

『好きと言われた日』-34歳(発売日:11月06日)

suprecell3rd AL『ZIGAEXPERIENTIA』-34歳(発売日:11月27日)

・2014年

ハートリアライズ』-34歳(発売日:3月12日)

The Glory Days』-34歳(発売日:10月15日)

『Fallen』-35歳(発売日:11月19日)

・2015年

『Great Distance』-35歳(発売日:5月20日)

BRAVELY SECOND END LAYER Original Soundtrack』-35歳(発売日:5月20日)

『リローデッド』-36歳(発売日:11月11日)

ニルバナ』-36歳(発売日:11月25日)

・2016年

KABANERI OF THE IRON FORTRESS』-36歳(発売日:5月25日)

『Welcome to the *fam』-37歳(発売日:11月23日)

・2017年

Deal with the devil』-37歳(発売日:8月23日)

『英雄 運命の詩』-38歳(発売日:11月1日)

『言葉にしたくてできない言葉を』-38歳(発売日:11月27日)

『メルト 10th ANNIVERSARY MIX』-38歳(発売日:12月24日)

EGOIST BEST『GREATEST HITS 2011-2017 “ALTER EGO"』-38歳(発売日:12月27日)

・2018年

リリースなし!!

・2019年

『咲かせや咲かせ』-39歳(発売日:5月16日)

センコロール オリジナルサウンドトラック』-39歳(発売日:6月29日)

『#Love』-39歳(発売日:9月11日)

・2020年

リリースなし 年齢:40,41

・2021年

『タクト』-41歳(発売日:10月5日)

・2022年

『君よ、気高くあれ』-42歳(発売日:10月9日)

・2023年

『当事者』-43歳(発売日:5月10日)

『笑ウ二重人格』-43歳(配信日:8月23日)

『運命と Struggle』-43歳(ゲーム配信:8月28日)

『I promise you』-43歳(ゲーム配信:8月28日)

 

2007-2023年までの年齢別の作曲歴はこうなります。これをみると一見遅咲きでは?と考える人0.01220703125%くらいはいると思いますが、そうではなく単に巡り合わせの問題ですね。時代の適合性とでも形容すべきなのか。

 

いい加減わかっていた話ではありますが,2011-2013年の時期は最強の敵なし状態なのが凄いですね。全体的にみても佳作レベルがほぼなく、傑作揃いなのが作曲・作詞・編曲ryo(supercell)というクレジットブランドの凄さを物語っています。それはさておき「ryoを作った10枚」にあたらめて話を戻しましょう。

 

特徴的な2枚を起点にそれぞれ広げて、まず考えてみよう。

『Mezzanine』と『UMBRA』はアルバム的にもジャケ的にも恐らくジャンルとしては同じ組み分けとして考えいい。ここでミスチルのベスト盤のジャケを想起する人もまぁ若干数いるとは思いますが、あれは軽率なオマージュとしかいいようながないので此処に並べる必要性はないです。

右:Mezzanine 左:UMBRA

『Mezzanine』とが98で『UMBRA』が01年なので、当然『Mezzanine』の方がはやいのですが。massive attackの音楽性は暗鬱なエレクトロニカのクオリティって今聴いても信じられないくらい太く、それこそ時代を感じさせない圧倒的な名盤。ベース音やドラムの音の作り込み等が異端でトリップホップと言われる、ソウル、ジャズ、アンビエントを掛け合わせたようなジャンル体の開祖とも呼ばれているmassive attackの真髄ここにあり。という形のアルバム。対してブンサテの『UMBRA』は当然、『Mezzanine』とは意識していることは当然として

さきのryo(supercell)がいう当時のRadioheadよりも先鋭的というのは、当然リアルタイムで経験していないため、そこの意図は明確にはわかるはずはないのですが2001年当時のRadioheadディスコグラフィーを考えると丁度『kid A』(2000年)を出し『amneasic』(2001年)を出しているその時期のサウンド性を比べると、たしかにブンサテのほうがより鋭利的ではある節もあると思う。音楽好きが聴いて解る感性ではないからこそあの一言の異才というか、何言ってんだこいつ感がわかって面白いというのがわかるものなので、勘弁。その意味では、系統的トリップホップイズムに同じ『Portishead』はサウンド性よりもアルバム全体を構築する世界観強化型なので、こっちの方が、作品的には聴きやすいようにも思える。それに、ryo(supercell)視点だとRadioheadよりMuse推しということなんでしょうけれど、同じ英国バンドでも視野が違えば聴き方も違うものだと感じます。かくいう私もMuse派ではありますが。

 

また、英ロックバンドという意味ではMuseNirvanaが目立つわけですがここでMuseで『Sunburn』を選んでいるというのが相当歪と思いがち。なぜならアルバムの完成度でいうのであれば大方の名盤系では程度の差はあれ、『Origin of Symmetry』(2001年)『Absolution』(2003年)『Black Holes and Revelations』(2006年)の黎明から全盛期にあたるどれかで確立しているものだと思うし、自分なら当然『Absolution』を問答無用で選出しますけどその中でまさかのデビュー作。こういう選出ほど面白いのもない。確かに、『Sunburn』とそれ以降でMuseってなんか変わっている。よりクラシカルメタルといいいますか、ラフマニノフ系のメロディをつかったピアノロックサウンドに以降していた時期が丁度『Absolution』みたいなところがある(実際に引用しているトラックもありますし)。なので、その加減具合というべきか。よりダークというか先述したmassive attackPortishead的な香りが唯一あるアルバムとも言えるのです。リリースが丁度2000年ですし、そういう時代の雰囲気的なこともあるのでしょうけれど。

と思う、一方で、完成されすぎた作品よりもデビュー作における鋭い感覚の方が単純に好みなのではないか?という考え方もあります。これは所謂、全表現媒体に「デビュー作に全てが詰まっている」というものです。完成されすぎたものは美しいが、そこに至るまでの原点として一番最初の作品を好む人というのは決して少なくないと思います。

 

映画で例えてみましょう。スティーヴン・スピルバーグの監督作で観客が「完璧に仕上がった」と思える瞬間の一つとして『E.T.』(1982年)は必ず上がってくると思います。

本作の素晴らしさはやはりラストシーンの演出です。E.T.が宇宙船に乗って帰る際に、エリオットとその周辺の人たちとお別れをします。このシーンにおいて、エリオット意外の役者の演技は「良かったね。やっと帰れるね」というような微笑ましさを浮かべながら見送ることに対して、エリオット少年の表情は終始不安顔です。この対比をすることでE.T.が帰れることに対して、家族たちは良いものとして、悪意のない意味で「家に帰れるね。良かったね」という心象を映し出すことに対して、エリオットは自分が心を通わせることができる唯一無二の友人と形容しても過言ではないほどの存在が、自分の前から消えてしまうことに「悲しさ」という心象を写している。という空間があの短いシーンに発生しています。そして最後のカットは宇宙船が飛び立つ影響で風が舞い、カメラがエリオットの顔をアップして映画が終わるわけです。

 

正直自分は、あのクリーチャーのデザインがかなり苦手ではあるのですが、そういった好みの問題はともかくとして、このように演出的には文句のつけようのない作品はとても面白いし、だからこそ今でも映画史に残る傑作として世界中の人々の記憶に残っているわけですが、中にはその素晴らしさを認めた上で「でも俺は『激突』(1971年)が好き」「やっぱり『JAWS』(1975年)「いやいや『未知との遭遇』(1977年)でしょう』」

という人たちもまた多いわけです。話を元に戻しますと、これと同じ理屈で考えれば初期作を挙げる気持ちも全然分からないわけではないです。間違いなく先の3作も聴いているはずなんですよね。絶対に。それなのにどうして『Sunburn』なのかというのは本当に考え所。その理由で考えられる絶対的な一因は何か。どうも核心的なところまでは掴みきれない。

 

NirvanaからNevermindを選んでいる理由はryo(supercell)的にはこっちの方向ありでいいんだという意思の現れだと思います。

その意味では、世界で散々流行った(とされる)『あの音楽性がryo(supercell)の感性にも適合したと考えるのが普通です。まぁグランジのを記念碑的な作品であることを考えれば、のちにSmashing Pumpkinsが出てくるわけですが、そこから『Mellon Collie And The Infinite Sadness』を1枚チョイスしているあたり点から思えるのはこの2枚(『Nevermind』『Mellon Collie And The Infinite Sadness』を選んだのは(1979年を軸とした場合)1970年代後半~1980年代前半に生まれたryo(supercell)さんの10代、20代前半期に丁度合致するのでここはいわゆる世代的な流れとしては大いに納得がいくと思います。

 

part2前半はここまでです。最初は後半含めてって思ったのですが、分割方式をとった方が面白いものが書けるという安定性を取りたいので当ブログにしては全くもって珍しい分割記事の中ですら前後編を分けます。

 

では、後編をお待ちください。恐らくそのうち上がると思います。

 

*1:生年はあくまで推定であるが差異はあっても1-2.5年が限界