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Music Synopsis

音楽に思考の補助線を引く

About&Works/サイトの基調・寄稿実績・資料庫について

Music Synopsisは、音楽を背景から読み解く批評系ブログです。単なる感想ではなく楽曲が生まれた文脈、作り手の思想、文化的潮流までを掘り下げ作品の意味と構造を分析する記事を発信しています。

取り上げるテーマは、ポップス/ロック/ボカロ/劇伴/サブカル音楽から現代声優・アニメ音響まで基本オールを目指しています。特に最近は声優論から音というものが画面とどう向き合うのかという意味で「音楽×演出」「音楽×演技」といった音楽と他ジャンルの交差点を扱う点に特色があります。  

そのため内容は自然とクロスオーバーの性質となっており、TL;DR 的な密度になることが多いです。当ブログにおける長文問題解消のため、資料庫をnoteの方にも設けました。具体的な基調はこちらに発表しておりますので、気になる方はご一読のほど宜しくお願いします。

そのほかに、現在は複数の同人批評誌に寄稿し、作品論・音響表現・美術論、造形、文化的背景の分析などをテーマに継続的に執筆中です。スタンスとしては非音楽文章も請け負えます。

発表は文学フリマ東京を中心に寄稿をしています。

寄稿原稿/記事の執筆依頼/お問い合わせ・記事/サイトへの意見等については

serialmusicrecord○gmail.com (○→@)

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livedoorから始めたサイトということもあり、大元のプラットフォームはlivedoorの土壌での構築、レイアウト運営していたため移行に係る記事が存在します。そういった点含め、時代性、年代、価値観の変動の前後もふくめ、リンクや文体に差異がある場合があります。直せるものは順次見直し予定です。

 

【その他】

2025年12月以後の記事において

一部、Amazonリンクにアフィリエイトリンクがあります。(Amazonアソシエイトプログラム登録者)

寄稿実績


2023年

・初出:文学フリマ 東京36

サークル:「もにも〜ど 」

寄稿本:『もにも〜ど』

『シャフト演出が音楽と交わる時ー物語る前衛音楽と魔法の音の成り立ちについて』

・初出:文学フリマ 東京37

サークル:「Async Voice」

寄稿本:『ボーカロイド文化の現在地』

『インターネット文化の源流からボーカロイド文化まで』

・初出:文学フリマ 東京37

サークル:「もにも〜ど 」

寄稿本:『外伝 もにも〜ど』

『アサルトリリィBOUQUET』のノートーSF、少女小説シェイクスピア 


2024年

・初出:文学フリマ 東京38

サークル:「ブラインド」

寄稿本:『ブラインドvol.2』

グリッドマンユニバース』に至るまで-『電光超人グリッドマン』から『SSSS.』シリーズに至るまでの想像力

・初出:文学フリマ 東京38

サークル:「試作派」

寄稿本『試作派』

成田亨デザインの源流について』

・初出:文学フリマ 東京39

サークル:「もにも〜ど」

寄稿本:『伝承 もにも〜ど2.5』

『シャフトアニメの視覚表現美学の源流──尾石達也モダニズム』(第一章)

サークル「Binder.」

寄稿本:『Binder.vol3』第三号 巻頭特集=奈須きのこクロニクル

『影の幾何学──真アサシンが描く無名性の多面体』

サークル:「試作派」

寄稿本『試作派』

成田亨デザインの源流について』(製本版)


2025年

・初出:文学フリマ 東京40

サークル:「ブラインド」

寄稿本:『ブラインドvol.3』

『音楽×青春×人間関係ガールズバンドアニメにおける群像劇について

──或いは『響け!』から『トラペジウム』に至る病』

・初出:文学フリマ 東京40

サークル:「Binder.」

寄稿本:『型月研通信 vol.3』

蒼崎青子(学生時代)のギターはなぜS-S-S型なのか?』

・初出:文学フリマ 東京41

サークル:「もにも〜ど」

寄稿本:『もにも〜ど3』

『シャフトアニメの視覚表現美学の源流─劇団イヌカレーシュルレアリスムについて』(第二章)


2026年

・初出:文学フリマ 東京42

サークル:「もにも〜ど」

寄稿本:『もにも〜ど〈ワルプルギスの廻天〉』特集号』(仮)

『シャフトアニメの視覚表現美学の源流』(第三章)(予定)+新規論考


寄稿書籍に関してはBoothを中心とした各サイトでお買い求めいただけます。

以下の購買サイトとなります。


批評同人誌の紹介記事


以下のリンクはこれまでの記事の中から筆者視点のおすすめとしてご紹介します。
単発記事と、連作記事シリーズの二点の観点からそれぞれ列挙します。

単発記事群(特筆記事はコメントあり)

この記事は菅野楽曲識者λさん(@infinity_drums)さんとの共作記事です。全体文字数が7万文字ですがその中の2万字ほど提供していただきました。非常に有意義な記事になったと思います。

この平沢進記事は当ブログの最大級のスケールとなっております。いずれ改稿はしたいと思っています。第二部も書く予定ではあります。あくまでも導入部としての平沢記事です。(二部の分量は目算4万字は流石にないくらいの心境です)

Mygo!!!!!/CRYCHIC/Ave Mujica三部作

アニメ『BanG Dream! It's MyGO!!!!!』および『Ave Mujica』を、音楽・演技・制度という三層から横断的に読み解いた三部作。バンドリという枠を超えて展開される音響・物語・構造の更新を、音楽文化・声優表現・神話・西洋音楽など視座から照射しています。

羊宮 妃那さんの演技言及<四部作>(もっと増える可能性大)

 

声優論三部作

 

Ave Mujica論×Diggy-MO'論

 

シャフトアニメ/劇伴論

 

 

 

シャフト演出が音楽と交わるとき ── 物語る前衛音楽と魔法の音の成り立ちについて |シャフトが語る、劇伴≒物語

本論考は、アニメーション制作会社シャフトを特集した批評誌『もにも〜ど』Vol.1(2023年5月発行)に寄稿した文章です。そのため、編集部による校閲・調整が入っており、普段のブログ文体とは異なるトーンになっています。

当初は全面公開に積極的ではありませんでしたが、読者の母数を踏まえた結果、ごく限られた層に閉じるよりも、オープンな形で広く公開することに意味があると判断しました。発刊から一定の時間も経過しているため、読みたい方はすでに入手済みである可能性が高いとも考えています。

なお、掲載にあたっては主宰者の了承を得たうえで、本稿を公開しています。

寄稿先である『もにも〜ど』はVol.3まで刊行されており、多種多様な論考が収録されています。シャフト作品に関心がある方、あるいは作品批評を読みたい方は要チェックです。

 

また、2024年以降に公開された新たな作品群、たとえば、『続・終物語』以後の〈物語〉シリーズとして位置づけられる吉澤翠監督の『<OMS>(オフモンスターシーズン)』や、尾石達也監督による劇場版『傷物語』三部作の総集編『傷物語 -こよみヴァンプ-』などに関する音源差分の言及と、それを踏まえた一部微々たる範囲ですが改稿をしました。

 

 

◆目次
はじめに
第一部 〈物語〉シリーズ劇伴の音楽背景と映像作用性について 
第二部   映像における音楽の効能
第三部 『魔法少女まどか☆マギカ』の音楽世界について
おわりに

はじめに 

 アニメーション制作会社シャフトの作品群の中でも新房昭之監督による『化物語』(二〇〇九年)をはじめとする〈物語〉シリーズおよび、『魔法少女まどか☆マギカ』(二〇一一年)はアニメ史においてきわめて重要である。この両作品を視聴したことがある者は一度はこのように思ったはずである。他のアニメと比べて類例のない独自性と芸術性に富んだ画作りをもった作品である、と。
アニメ作品はあくまでも総合芸術である。すなわち、ストーリーのみに着目しては見えてこないものが多々存在するのだ。したがって、われわれはより映像論的な視点に立ってアニメを語り直さねばならない。
 そして映像論以上に語られにくいのが音楽論である。〈物語〉シリーズや『まどか』はアートとしての特性を持つが、音楽的な分かりやすいバックボーンも備えている。しかしその具体的な作用については、これまでほとんど語られてこなかった。本稿では、そうした現状を打破するための一助として、アニメにおける音楽に注目してその効果を論じてみたいと思う。



第一部 〈物語〉シリーズ劇伴の音楽背景と映像作用性について

〈物語〉シリーズの劇伴から音楽性を紐解く
サティ、ミニマル・ミュージック、前衛音楽としての映像視点

 第一部では、まず〈物語〉シリーズにおける劇伴の音楽性を紐解いていく。いくつか特徴的な劇伴音楽を抽出した上で、どのような音楽的アプローチが施されているか、そしてどのように映像と組み合わさっているかといった点について考察を加える。

本節で着目したいのは、〈物語〉シリーズミニマル・ミュージックの関係性である。ミニマル・ミュージックとは、簡単に言えば様々な音楽的装飾を引き算して同じフレーズやリズムを繰り返す音楽のひとつだ。特に『化物語』の劇伴においては、エリック・サティによる『ジムノペディ』(一八八八年)を参照しているものが多い。

これはミニマル・ミュージックの象徴的な作品のひとつである。

 

そもそも振り返ってみれば、〈物語〉シリーズの作り方は特異的だ。シャフトの固有のスタイルではあるが、そのスタイルが一番上手く機能した作品こそ〈物語〉シリーズである。情報量を最小限に絞り、それ以外は省略の限りを尽して構築されている。この作風の正体は何か。シャフトが〈物語〉シリーズを成立させるためにとった手法は、突き詰めて考えるといわゆる「紙芝居」に近いものである。通常のアニメでは作画の積み重ねによって動的なリズムを作るが、〈物語〉シリーズにおいてはそれらの要素は最小限に抑えられている。一枚絵ではなく一枚の紙に文章を挿入して提示する視覚的なアプローチや、極端に絵を記号化して情報を圧縮するなど、その手法は多岐にわたっている。

 

だからこそ、音楽はダイナミズム溢れるものや、その時々の心情、場面状況を音楽に変換させた一般的な音源ではなく、同じく記号的、あるいは一定のパターンで動き続ける音楽としてミニマル・ミュージックを採用しており、それ以外の音楽では成立し得ないのだ。そのような観点を踏まえた上で、〈物語〉シリーズの音楽性をミニマル・ミュージックから考えていくことは、作品全体のアプローチを紐解いていくことにもなるだろう。なお、『化物語』と『偽物語』(二〇一二年)の二作品については、楽曲がどの話数で流れるかも併せて掲載するので必要に応じて参照されたい。また、『猫物語(黒)』(二〇一二年)は、『化物語』や『偽物語』は一部劇伴の使い回しがあるため本稿では割愛する。

化物語』の場合

『深窓の令嬢』(第一話)

深窓の令嬢

深窓の令嬢

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 『化物語』において、『ジムノペディ』を参照している劇伴として最も分かりやすいのが本楽曲である。つまり、リズムやメロディなどの諸要素を徹底的に引き算することによってもたらされる「繰り返し」の魅力がベースになっているのだ。そこへ坂本龍一の『メリー・クリスマス ミスターローレンス』(一九八三年)を想起させるような、いわゆる「泣きメロディ」が挿入されるキャッチーさが本楽曲の特徴であり、哀愁を獲得していると言える。タイトルの「深窓」がサティであり、「令嬢」が泣きメロディであるという見方もできるかもしれない。

本楽曲は第一話の冒頭、螺旋階段から戦場ヶ原ひたぎが落ちてきて、阿良々木暦が彼女を受け止めるシーンにおいて使われる。もちろん、「深窓の令嬢」とは戦場ヶ原を指す。

道聴塗説』(第一話)

道徳塗説

道徳塗説

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本楽曲はミニマル・ミュージックとしての側面を強調しつつ、『ジムノペディ』の型を引用している。『深窓の令嬢』は『ジムノペディ』に泣きメロディを挿入して発展させた楽曲だったが、本楽曲はほとんど同じフレーズの繰り返しで成り立つ。
 ミニマルであり、『ジムノペディ』でありながら、伴奏はピアノ、メインメロディはグロッケンシュピールで奏でられるというありそうでなかった組み合わせの劇伴と言えるだろう。冒頭から結びまで反復して流れるピアノの音とミニマルという要素自体は、久石譲ジブリ映画や北野武映画で採用してきたものでもあるので、どこかしら「らしさ」として彷彿する人もいるだろう。ただし、久石であればグロッケンシュピールではなく、より無機質さが際立つ木琴を用いたことだろう。

本楽曲は、阿良々木と羽川翼が戦場ヶ原について語る際に流れる。ただし、羽川の視点で戦場ヶ原について語るシーンでは途切れて、ミニマルではないメロディ主体の音楽が流れ始める。その楽曲は『羽川翼の場合』というタイトルであることから、羽川視点ではスタイルの異なる楽曲を用いるという制作側の意図が読み取れる。

羽川翼の場合

羽川翼の場合

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街談巷説』(第一話、第二話、第三話、第四話、第六話、第七話、第八話、第九話、第十話、第十二話、第十四話、第十五話)

街談巷説

街談巷説

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本楽曲は『道聴塗説』を踏襲しつつ、メインメロディを奏でる楽器をグロッケンシュピールから木琴に変えている。『道聴塗説』が幻想的な楽曲であったのに対して、ひたすら打点的、さながらアントン・ヴェーベルンのような点描的な楽曲として生まれ変わり、より無機質になったことで、本来ミニマル・ミュージックにある前衛的な側面を引き出した楽曲と言える。本楽曲は、例えば第一話で戦場ヶ原が阿良々木に文房具を預ける場面で流れる。また、第二話以降においても戦場ヶ原との会話の中で使われる。その後も様々なシーンで流れることから、『化物語』におけるメインテーマといっても差し支えないだろう。

 

修験道』(第一話、第二話)

修験道

修験道

 本楽曲もまた、『街談巷説』を別の角度から再現した楽曲だ。リズム隊は太鼓に差し替えられ、木琴も単なる繰り返しではなく、メロディにいくつかのバリエーションが加わっているしかし、リズムとしては「繰り返し」が強調されていることから、この楽曲もまたミニマル楽曲とサティ楽曲の引用型としての側面が強いと言える。
 本楽曲は、「重し蟹」にまつわる話と共に流れる。また第二話で忍野メメと会話する場面でも用いられている。

『素敵減法』(第二話、第三話、第六話、第十話、第十一話、第十三話、第十四話)

 『化物語』のミニマル性の高い劇伴群において、本楽曲はジャズ調であるという異質さを持つ。しかし『街談巷説』に次ぐ頻度で用いられているという事実を踏まえれば、『化物語』という作品に調和していることが窺える。ミニマル要素とポップなジャズの要素を両立することで、親しみやすく汎用的な劇伴に仕上がっているのだ。
 本楽曲は戦場ヶ原と阿良々木のコミカルな会話シーンで用いられるほか、第十話では比較的シリアスな場面の道中にも用いられる。 

『毒舌』(第二話、第三話、第六話、第十二話)

毒舌

毒舌

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本楽曲はピアノのスタッカートが印象的なミニマル・ミュージックである。『街談巷説』など他のミニマルな劇伴と異なるのは、ピアノのみで前衛表現を実現している点にある。一定のフレーズを繰り返すミニマル性を奏でる楽器はピアノであり、そこへ重なり合う不安定なメインメロディを奏でる楽器もまたピアノなのだ。また、DTMならではのディレイも前衛表現に拍車をかけていると言えるだろう。

本楽曲が使われるシーンでは、戦場ヶ原と阿良々木との低俗な掛け合いの後、羽川について語るシーンにて用いられるが、髪を乾かすシーンに移行すると本楽曲は止まる。

『外法』(第二話、第九話)

外法

外法

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アルフレッド・ヒッチコックの傑作『サイコ』(一九六〇年)の劇伴を担当したのはバーナード・ハーマンであった。作風は幅広く、そして強烈な印象を残す劇伴という意味では、『サイコ』でジャネット・リーがモーテルの浴室で襲われるシーンで流れる”The Murder”が挙げられるだろう。その特徴的な弦の音の執拗な繰り返しは、極端なミニマル性と言えるだろう。

The Murder

The Murder

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本楽曲はまさに”The Murder”を意識した楽曲であり、極端なミニマル性が印象的である。本楽曲は神前にて儀式としてお酒を飲むシーンというごくわずかな間しか使われない。このシーンに『サイコ』さながらの弦楽器的な使用を駆使したのは、得も言われぬ恐怖感を演出させるためだろう。したがって、本編では計二話分しか使われない楽曲に収まっている。

 

『表裏』(第二話、第五話、第七話、第八話、第十話、第十一話、第十五話)

表裏

表裏

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これまで取り上げてきた楽曲は『ジムノペディ』とミニマルの発展型が多かったが、当然ミニマル・ミュージックといっても様々な音の表現手段がある。本楽曲は、映画『エクソシスト』(一九七三年)のテーマソングとして使われたマイク・オールドフィールドの”Tubular Bells”をベースとしているところが、ある種シャフトらしさとも言えるかもしれない。

”Tubular Bells”はピアノがメインとして進行するが、本楽曲は『道聴塗説』と同様にグロッケンシュピールがメインである。グロッケンシュピールの持つ小悪魔的な音を劇伴で多用することは、『まどか』をはじめとしてシャフト作品における世界観を表すための楽器として非常に重要な意味を持っていると言える。
 本楽曲は作中にて、戦場ヶ原が蟹と対話をするシーンで流れる。戦場ヶ原が自分自身と心理的に向き合う場面で流れることを考慮すると、ホラー映画の名作の劇伴であり前衛である”Tubular Bells”を参照することは必然的な作用だろう。

 

『以下、回想』(第七話、第十話、第十三話、第十五話)

以下、回想

以下、回想

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本楽曲は『表裏』の発展型である。『表裏』のグロッケンシュピールは”Tubular Bells”の無機質さと怖さを強調させる効果を持ち、”Tubular Bells”の前衛音楽としての側面を採用していたように思う。一方、本楽曲は主旋律のピアノに重厚なリズム隊やギターなどが重なり合う。”Tubular Bells”の構造を強く再現し、プログレッシブ・ロックの金字塔としての側面を採用しているのだ。これによってもたらされるのは、客観的な視点である。
 『表裏』は戦場ヶ原が自分自身と心理的に向き合う場面で流れる抽象性の高い劇伴である一方、本楽曲は例えば第七話において神原が戦場ヶ原について語る際に流れる具体性の高い劇伴である。この対比は、戦場ヶ原の持つ人間性を語り手がどう捉えるかの差異を分かりやすく示している。

 

『散歩』(第二話、第三話、第九話、第十一話)

散歩

散歩

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本楽曲もやはりミニマリズムの印象が強い。これまでと異なる点はピアノのアタックを最初だけ強くし、そこからディミニエンドを繰り返し、その裏では打楽器が鳴っているという点にある。それでいてディミニエンドですぐに音が引いていくため、打楽器が目立つような構造にもなっている。そして最後はピアノメロディだけで締めており、劇伴としての落とし所の巧さを感じられる。

本楽曲もまた、阿良々木と戦場ヶ原の会話の場面で使われている。戦場ヶ原というキャラクターのファーストインプレッションとしてのミニマルさに力点がおかれている。

 

『人畜』(第三話、第六話、第九話、第十三話)

人畜

人畜

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本楽曲はもっぱら平穏な会話劇に添えられるポップな楽曲であるため、耳馴染みのある読者も多いだろう。この楽曲は、戦場ヶ原との絡みのミニマル的な構造を明確に提示している。

例えば第三話において描かれるのは、戦場ヶ原が公園の回旋塔の上にのぼり、それを動かしている阿良々木の姿である。また、シーソーの運動、乗り物を漕ぐ動作、円状に構築されたレールなどは、まさにミニマル──「繰り返し」の魅力そのものである。 
 第三話は映像と音楽の結び付きを強めに打ち出しており、キャラクターと劇伴の繋がりを強固にしているきわめて重要な回である。また第九話で本楽曲が使われるシーンにおいても、神原と阿良々木の会話の中心が戦場ヶ原であることは見逃せない。

 

ファーストタッチ』(第五話)

ファーストタッチ

ファーストタッチ

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本楽曲はオーケストラ──とりわけピョートル・チャイコフスキーによる『くるみ割り人形』(一八九二年)の「花のワルツ」を模している。『化物語』のミニマル性の高い劇伴群において例外的な参照と言えるだろう。

本楽曲は八九寺真宵と阿良々木が互いの手を掴みながらじゃれあいのような喧嘩をする場面で用いられる。その動きはさながらバレエのようである一方、俯瞰で見ると四角形のベンチの周囲をぐるぐると回っておりミニマル的である。このようなチグハグ感を演出する上で必要なのは、ミニマル・ミュージックではなくオーケストラ調の楽曲だったのである。

 

ひとまず『化物語』における特徴的な楽曲の音楽的な特性と、それらが劇中でどのように機能しているかを述べてきた。先ほども述べたが、第三話は音楽と映像の相互作用が象徴的な話数であり、その軸になるのがミニマル・ミュージックなのである。『化物語』の音響監督を務めた鶴岡陽太は、『神前 暁 20th Anniversary Selected Works “DAWN”』のライナーノーツのインタビューで以下のように述べている。

「僕からのオーダーは「ミニマル」だったんですが、普通そんなことを劇伴作家さんにお願いすると、つまらない顔をされるんです(笑)。でも、神前さんはすごく食い付きが良くて、こちらの意図している”ミニマルな音楽を会話劇に乗せる”という手法も即座に理解してくれました」[1] 54頁。

 

つまり『化物語』の劇伴の一貫性は、神前に与えられた的確なオーダーと、それに応え得る神前の手腕によって実現されたことが窺える。そしてミニマルスタイルで劇伴を作る場合、やはりサティを参照することが望ましい帰結であるように思う。なぜならば、サティの代表曲である『ジムノペディ』は、調性、リズム、展開など音楽にあるべき要素をことごとく引き算した上に成り立っており、それをベースに必要なエッセンスを足していくことで効果的な劇伴群が形成されるからである。一方で、オールドフィールドによる”Tubular Bells”の構造を再現、前衛の延長線上の作風をもつハーマンの音楽を引用するというのは、『化物語』の世界観とキャラクター、果てにはシャフトにおけるアニメ表現に実に的確なピースとして成っており、その後展開される〈物語〉シリーズにも一部受け継がれていくことになる。

化物語』の前衛音楽と映像について

 ここであらためて『化物語』で使われるミニマル・ミュージックがどのように機能しているかを振り返りたい。前述した通り、ミニマル・ミュージックは特に戦場ヶ原がクローズ・アップされる際に強調される。『化物語』は怪異を題材としてはいるが、物語の中核はあくまでも阿良々木と戦場ヶ原をめぐるものである。この二人が出会い、お互いを理解し、特別な関係性を築く第五話までのストーリーで、物語はすでに完結していると言って良い。「はやるといいよな」、「戦場ヶ原、惚れ」という阿良々木の台詞とそれに呼応する戦場ヶ原、そしてエンディングテーマ『君の知らない物語』が流れるというドラマチックな展開で、すでにある種の終わりを迎えているのだ。

 『化物語』には怪異の要素があるものの、本質はシャフト流の表現の皮を被った青春アニメであるように思う。だからこそ、第六話以降で別のキャラクターの物語になると、急激にミニマル・ミュージックが使われる回数は減っていくし、それでいてやはり戦場ヶ原が絡むとミニマル・ミュージックが挿入されるようになる。
 記号化された世界における青春物語という特殊な組み合わせにおいて戦場ヶ原というキャラクターにミニマルという属性をつけ、阿良々木との関わり合いの中で演出から美術、動きまでの多くがミニマル化されている。畢竟、第三話における公園でのやりとりこそ、その極地的表現なのである。

そして最も象徴的なのが第十二話である。二人の初デートに当たるこの話は阿良々木と戦場ヶ原が車内という閉鎖空間で繰り広げる会話がエピソードの大半を占めている。緊張した面持ちの阿良々木は、戦場ヶ原の「私のどういうところが好き?」という問いかけに対して、明確な答えを出せない。一方、戦場ヶ原は、「お前は、僕のどういうところが好きなんだ?」という問いに対して「優しいところ。可愛いところ。私が困っているときにはいつだって助けに駆けつけてくれる王子様みたいなところ」とすかした返答をする。

この問いかけは車を降りて、二人で夜空を見上げるシーンで反復されることになる。ただし、今度は阿良々木はきちんと答えるし、戦場ヶ原もまた文言そのものは変わりないが、本心から答えている。戦場ヶ原を主軸に使われてきたミニマル作用が物語と映像の両側面において総合的に結実した瞬間である。
 そして「キスをしましょう、阿良々木くん」という戦場ヶ原の台詞の後、エンディングテーマの『君の知らない物語』がフル尺のイントロから流れ出す。本編映像にエンディングテーマが被さるという構造自体は第五話でも見られたが、第十二話では戦場ヶ原と阿良々木がより深い関係になったことが窺える。なお、ここで使われる『君の知らない物語』の歌い出しは「あれがデネブ、アルタイル、ベガ/君が指さす夏の大三角」であり、これは原作の台詞からの引用とはいえ、数ある選択肢の中でこのフレーズを採用した功績は非常に大きい。この一節だからこそ、星空を見上げる二人の会話が感動的になるのだ。
 以上のことから、繰り返しにはなるが、『化物語』におけるミニマル・ミュージックは戦場ヶ原という人物を象徴するものである。全十五話を通して、戦場ヶ原が主に登場する「ひたぎクラブ」と「まよいマイマイ」はミニマル・ミュージックが使われている頻度が高い。そのミニマル作用は第十二話においてはドラマチックな会話劇の中でも見られ、阿良々木と戦場ヶ原の関係性を深化させるものである。

 『化物語』におけるドラマ性は、第一話から第五話、そして第十二話ですべて完結していることはすでに述べた通りである。シャフトのミニマルな作劇がもっとも効果的に働いたのが、〈物語〉シリーズの原点にあたる『化物語』なのだ。

 

それではこれらの作風を前提とした上で、その後の〈物語〉シリーズの劇伴がどのように受け継がれていきながら、作品毎に変化したのかという点について考えていきたい。

偽物語』の場合

 『偽物語』における劇伴には『化物語』に通じる点と異なる点がある。その最大の理由は、忍野忍である。忍は『化物語』において登場こそしたものの、台詞はなく存在感はきわめて薄かった。しかし、その忍が『偽物語』でクロース・アップされるのである。
 それでは『偽物語』における特筆すべき四曲を挙げたい。

『鉄仮面』(第一話、第三話、第六話、第十話、第十一話)

鉄仮面

鉄仮面

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本楽曲は『化物語』の劇伴である『毒舌』の発展型である。『毒舌』と同じようにキャラクター同士の掛け合いを彩る効果を持ち、例えば第一話では八九寺と阿良々木のコミカルな会話シーンで用いられる。

『愛人関係』(第三話)

愛人関係

愛人関係

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本楽曲は、第三話にて神原と阿良々木の何気ない日常会話で使われる楽曲であり、『偽物語』の中で最も効果的に使われた劇伴のひとつでもある。曲の長さは二分であり、『化物語』第三話において戦場ヶ原とのミニマルな会話シーンを効果的に彩った『人畜』よりも短い。しかし様々な楽器を使った厚みのあるサウンドに仕上がっており、そこへししおどしを用いたケレン味あふれる演出が挿入される。『人畜』のようなミニマル性を備えながらも、映像としての総合的な情報量は非常に多いのだ。

『快楽』(第八話)

快楽

快楽

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本楽曲は、チャイコフスキーバレエ音楽を背景にしている。チャイコフスキーは親しみやすく美しい音楽を作ってきたが、この楽曲では『偽物語』における「快楽」の描写と、チャイコフスキーの楽曲的な性質としての「快楽」を混ざり合わせていると言える。ふざけたシーンで真面目なオーケストラ調の劇伴を流すのは、『化物語』の『ファーストタッチ』と共通した演出効果を狙ったものであると言えるだろう。

『怪異の王』(第四話)

怪異の王

怪異の王

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本楽曲こそ『化物語』では描かれなかった、つまりは忍のシーンで流れる。その荘厳さを演出するため、ミニマル・ミュージックではなくバロック調の音楽が参照された。
 阿良々木と忍の関係性は、これまで語られてこなかった。しかし劇伴で明確なアプローチの違いを見せて、タイトルも「怪異の王」という忍の本来の姿にあたるキスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレードを示唆するものになっている。二人の関係がどれほど重要であるかを示す楽曲である。

〈物語〉シリーズ セカンドシーズン

 セカンドシーズンは時系列上『化物語』を経た後のストーリーになるが、これまで登場した各ヒロインに焦点を当てたエピソードを描くものである。なかでも重要なのは、初めて登場する忍野扇というキャラクターの不気味さだろう。
 また作中の出来事の時系列が目まぐるしく前後するのも特徴的であり、『化物語』や『偽物語』に比べると劇伴の一貫性は低い。したがって、セカンドシーズンの音楽性については、各キャラクターの個性の表出という観点から考えていきたい。すでに確立されたミニマル性を前提として、その上で神前がセカンドシーズンの作品群においてどのようなアプローチを採っていったのかという点について簡潔に述べていく。

猫物語(白)』の場合

 『猫物語(白)』(二〇一三年)は羽川が抱えるもうひとつの怪異、嫉妬によって生じた虎を描くものである。羽川が自分自身を克服する物語であるため、盛り上がりを見せる劇伴は比較的少なく、むしろ羽川というキャラクターを音源化している側面が強い。
 『猫物語(白)』の中でミニマルとして注目すべき楽曲は、『貫徹』(第二話)、『民倉荘』(第二話、第三話)、『下心』(第三話)の三曲である。ピアノと木琴との調和というきわめてシンプルな組み合わせではあるが、毛色はすべて異なる。

貫徹

貫徹

民倉荘

民倉荘

下心

下心

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これまで『化物語』と『偽物語』におけるいくつかの劇伴の派生関係を紐解いてきたが、『以下、回想』における『表裏』の参照、あるいは『鉄仮面』における『毒舌』などは、いずれもミニマル・ミュージックとしての効能は通底していた。しかしながら、先に挙げた『猫物語(白)』の劇伴三曲は、それまでの「繰り返し」の魅力の一貫性からは少し逸れる。例えば『民倉荘』のベースはピアノのスタッカートだが、部分的にテヌートが用いられ、曲展開に明確な緩急がある。また、木琴とピアノが奏でるメロディはいずれもキャッチーかつ叙情的である。これまでに紹介してきた、例えば『街談巷説』や『人畜』といった劇伴に比べると、ミニマル性はいささか薄くなっていると言っていいだろう。

 

この差異については実際に劇伴が使われているシーンを参照すると見えてくるものがある。『民倉荘』は羽川と戦場ヶ原の会話場面で使われている。これまで戦場ヶ原が阿良々木と会話する場面や、第三者が戦場ヶ原について語るシーンにおいては一貫してミニマル性の強い劇伴が使用されてきたが、そこに羽川というキャラクター、すなわちあらゆる面において「真っ白」であるという彼女の性質が交わることによって変化が起きているのだ。キャラクター、台詞、行動すべてが記号にまみれた不思議な性質を持つ戦場ヶ原と、完全無欠なヒロインとしての性質を持つ羽川。〈物語〉シリーズにおけるヒロインでありながら、正反対な二人が混ざることでミニマルという記号性が緩和されている──そのような意図を感じさせる作りの劇伴である。


 このことを強固に感じさせる理由のひとつに、同じく第三話冒頭にて用いられる『下心』がある。これは戦場ヶ原が羽川の人間性を分析する際に使われるが、『民倉荘』とは異なり、ミニマル性の強い劇伴となっている。同じ話数においても、戦場ヶ原が主体である時の会話と、羽川との二者によるキャッチボールとしての会話とで劇伴に明確な差異を作っているのだ。
 あるいは『貫徹』の場合は第二話において羽川の家が火事に遭い、その後の方針を戦場ヶ原が問うシーンで使われる。このシーンの主体は羽川だが、ここでは戦場ヶ原における記号的なミニマル・ミュージックとは異なり、風情のあるピアノメロディとしてのミニマル・ミュージックが流れる。言い換えるならば、『貫徹』は羽川というキャラクターから想起された独自のミニマル楽曲であると言える。

囮物語』の場合

 『囮物語』(二〇一三年)は千石撫子が周りの人間から彼女の人間性の真意を突かれ、自分自身と向きあうというのが主なストーリーである。つまり『猫物語(白)』と同じ理屈で劇伴の記号性は薄れる訳だが、撫子というキャラクターを劇伴に起こすとき、羽川とは性質の異なるアプローチが必要となる。
 例えば『無理な相談』はベーラ・バルトークのピアノ楽曲『アレグロ・バルバロ』(一九一一年)の文脈を参照している節がある。

無理な相談

無理な相談

アレグロ・バルバロ Sz.49

アレグロ・バルバロ Sz.49

  • ゾルターン・コチシュ
  • クラシック
  • ¥255
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バルトークは日本における伊福部昭、つまり民謡などを起点とした作曲家であり、これを神前は参照している。クラリネットは『クチナワ』という劇伴から分かるように、この話における引き回し役である蛇の存在をクラリネット、円筒の楽器を蛇と見立てている。ゆえに、ピアノの打点的な音は撫子のキャラクターを描写しているとみることができるだろう。 『無理な相談』のピアノはミニマルな側面も持つが、バルトークのように情動的な独奏曲が主軸に据えられており、単なるミニマル・ミュージックよりこの物語を飾るのに相応しいと言える。『アレグロ・バルバロ』のテンポを落とし、そこから『組曲 Op.14 IV. ソステヌート』(一九一八年)に代表される憂鬱/億劫性のあるバルトーク楽曲における不気味さを混ぜ合わせている。

組曲 作品14 Sz.62 IV- Sostenuto

組曲 作品14 Sz.62 IV- Sostenuto

  • ゾルターン・コチシュ
  • クラシック
  • ¥255
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鬼物語』の場合

鬼物語』(二〇一三年)は怪異ではなく、ある種の法則とも言うべき正体不明の「くらやみ」をめぐって、キスショットの昔話と八九寺との別れを描く。物語としての起伏が多く、劇伴はそこまで目立たないが、一曲だけ異質な劇伴がある。それが『赤信号』である。

赤信号

赤信号

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 『赤信号』は言ってみれば、点描主義の音楽──すなわちヴェーベルンである。ヴェーベルンアルノルト・シェーンベルクアルバン・ベルクと共に新ウィーン楽派を構成する作曲家である。シェーンベルクが発明した十二音技法や無調音楽などの技法は現代音楽の礎であり、前衛音楽の首魁といって差し支えない。『赤信号』は『ピアノのための変奏曲 Op. 27』の第2楽章的であると形容すべきであろう。

ウェーベルン:ピアノのための変奏曲作品27 Ⅱ- Sher schnell

ウェーベルン:ピアノのための変奏曲作品27 Ⅱ- Sher schnell

  • コンスタンチン・リフシッツ
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恋物語』の場合

 『恋物語』(二〇一三年)は神様となった撫子を貝木が詐欺師として騙すという物語である。タイトルこそ「恋物語」と銘打ってはいるが、本作を映像として読み解くのであれば、明らかに貝木の方を立てている。不気味で地味で狡猾なこのキャラクターを、神前はどのように表現したのか。

とりわけ印象深いのはファゴットを用いた『老婆心』である。

老婆心

老婆心

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『満身創痍』『適材適所』『地獄の沙汰も金次第』などチェロを主旋律に据えた劇伴では、『偽物語』における貝木の不気味さを印象づけている。

満身創痍

満身創痍

適材適所

適材適所

地獄の沙汰も金次第

地獄の沙汰も金次第

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一方、『恋物語』における貝木は単に不気味というだけではなく、むしろ地味で狡猾ながら損な役回りという印象を受ける。チェロとファゴットというふたつの楽器によって、このような不気味さと地味さを同時に表現しているのだ。

楽器として考える際、チェロとファゴットの相性は決して良いとは言えず、少なくとも主流の組み合わせではない。ミニマル・ミュージックは基本的には打楽器か木管楽器がメインで使われることが多いが、しかしクラリネットやサキソフォーン、フルートの音色は貝木というキャラクターには合わない。かといって、ダブルリードを使うオーボエでは妖艶な音となり、これもまたフィットしているとは言い難い。そう考えると、クラリネットとは似て非なる音を出し、それでいて地味さを演出できるファゴットを用いたのだろう。
 

このようにキャラクターを別のアプローチで象った楽曲を作りつつ、『腹芸』、『白けた反応』といった一貫してミニマル・ミュージックを作っている器用さは、『化物語』より一貫して劇伴を担当してきた神前だからこそできた芸当であると言える。

腹芸

腹芸

白けた反応

白けた反応

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劇場版『傷物語』三部作〈I 鉄血篇〉〈Ⅱ熱血篇〉〈Ⅱ熱血篇〉の場合

多ジャンル融合による映画的スケールと怪奇性、そして後期ロマン派の影響という意味で、『傷物語』は西尾維新による〈物語〉シリーズの一編を劇場作品としてアニメ化した三部作であり、その劇伴を担ったのはお馴染みの神前暁。もともと『化物語』以降のシリーズ音楽を担当してきた神前は、TVアニメと劇場版という違いを意識し、より映画的なスケールと多様なジャンルを取り入れている。ここでは、フランス映画音楽・後期ロマン派・ジャズ・ドラムンベース・EDM・アンビエントなどが同居しつつ、〈物語〉シリーズの特徴であるミニマル音楽的アプローチや怪奇要素を表現するための不協和音・前衛音楽も大胆に用いられている点に注目したい。

 

傷物語』の劇伴の方針は他の〈物語〉シリーズと大きく異なり、調性音楽と前衛音楽の両側面を持っている。神前は『映画「傷物語」COMPLETE GUIDE BOOK』のインタビューで以下のように述べている。

 「尾石監督からまず提案されたのが、怪奇映画とフランス映画でした。その要素としてフランス映画はスキャット、怪奇映画は不協和音などの現代音楽のアプローチが象徴的だったと思います」[2] Ⅲ 冷血篇 41頁。

結果として、『傷物語』の音楽はジャズ、フレンチポップ、ピアノコンチェルト、ドラムンベースアンビエントなど多岐にわたるジャンルが混在する興味深いつくりになっている。ここでは代表的な劇伴および主題歌をいくつか取り上げ、尾石達也監督と鶴岡音響監督のディレクションのもと、神前がどういったアプローチを採ったのかを述べていきたい。

『三月二十八日』

 本楽曲は『傷物語〈I 鉄血篇〉』(二〇一六年)のアバンタイトルで流れる。シンセサイザーを用いて無機質なハートビートが表現されており、不気味な巨木やリミナルスペースの描写と併せて怪奇映画としての側面を強く提示している。また、『傷物語〈Ⅲ冷血篇〉』(二〇一七年)のオープニングで流れる『四月六日』は本楽曲の発展形であり、全体としてエンタメ色の強かった『傷物語〈Ⅱ熱血篇〉』(二〇一六年)から本筋であるところの怪奇映画に引き戻す役割を果たしている。
 なお、『傷物語〈Ⅱ熱血篇〉』においても特にバトルシーンの劇伴では電子音の使用が目立つ。神前はEDMやドラムンベースの参照を明言しており、そういったジャンルに由来する激しいサウンドが派手なバトル演出を盛り上げているのは確かだろう。

『一陣の風』

 本楽曲は羽川と阿良々木が初めて出会う場面で使用される。三つ編みを直しながら歩いてくる羽川の姿に阿良々木は目を奪われ、落ち着いたピアノが奏でられる。そして横断歩道前で向き合うふたりの間に「一陣の風」が吹くとともに曲はテンポを増し、羽川のスカートがめくれ上がると同時に曲のテンションは最高潮に達する。阿良々木がそのスカートの中を目撃し、羽川が恥じらう姿がスローで描かれるが、曲のテンポは保たれたままハイテンションなスキャットがシーン終了まで流れるのである。
 『傷物語』には「羽川を美味しく描いてあげたい」という尾石の強い想いがあり、音楽面ではそれがジャズやフランス音楽のポップな部分の参照という形で表れている。本楽曲を始めとして、『友達』や『スパシーボ!』など羽川がクロース・アップされるシーンで用いられる劇伴にはスキャットが多用されているところに神前のこだわりが窺える。

『ハートアンダーブレード』

 本楽曲は幼い姿となったキスショットが自己紹介をする場面で流れる。さながら『2つのヴァイオリンのための協奏曲 ニ短調BWV 1043 第1楽章 Vivace』(一七三〇年)に依拠しているような、オーケストラ調の劇伴である。『偽物語』における『怪異の王』と似たアプローチでありながら、より荘厳さを強調させた楽曲であると言えるだろう。
 他方で、『火達磨』のイントロはハーマン風でありながら、一定のリズムを執拗に繰り返すオスティナートが施されている点でグスターヴ・ホルストの『組曲:惑星』より火星を参照している節も見られる。この辺りの仕草はいかにも神前らしい手付きである。

『気に障ること』

 本楽曲は吸血鬼に興味を持つ羽川に対して阿良々木が強い苛立ちを見せる場面で流れる。ジェルジ・リゲティの前衛音楽を参照していると思われ、このシーンにおける阿良々木の精神的な不安定さを不協和音で効果的に演出している。本楽曲の他にも、『傷物語』における不安定さ/不気味さを表現する劇伴の多くはリゲティを参照していると言えるだろう。
 一方で『傷物語』は名作映画の過剰なオマージュも目立つ。羽川が阿良々木にパンツを見せるシーンで流れる劇伴は、『2001年宇宙の旅』(一九六八年)で使用された『ツァラトゥストラはかく語りき』の音源を薄味にしたパスティーシュである。これはあくまでも私の所感であるが、アニメ演出における中途半端なモノマネほど不愉快なものはない。ましてや元となる演出意図を汲み取りきれていないと思わせるのはもってのほかである。キスショットと阿良々木の邂逅の物語である『傷物語』は、他の物語とは性質が異なる。『傷物語』は重厚で荘厳な物語を描く劇場作品であるし、作画や美術など様々な面から制作陣の非常に高い熱量を感じる。しかし、このシーンにおいてはその熱量がいささか空回りをしていると言わざるをえない。『2001年宇宙の旅』の監督であるスタンリー・キューブリックは『メイキング・オブ・2001年宇宙の旅』に掲載されているインタビューの中で、「視覚的体験」を重視して映画を作ったと述べている。

 「あの映画でわたしが伝えたいのは、言葉で表現できるメッセージではない。『2001年』は言葉に寄らない体験なんだ。2時間19分の映画の中で、セリフの部分は40分もない。わたしが創造しようとしたのは視覚的体験、言葉による分類整理を無視して、感情的で哲学的な内容を直接潜在意識に訴える映画だ。わたしはこの映画が観る者の意識の内側に達する、強烈な主観的体験となるように意図した。ちょうど音楽のように」[3] 313頁。

 つまり『2001年宇宙の旅』は、言語ではなく視覚体験が重視されているシネラマ映画なのである。もちろん物語そのものが存在しないというわけではないし、アーサー・C・クラークの小説を読むことでその全貌は把握できる。また部分的ではあるが、映像を丹念に鑑賞することで読み解くこともできる。しかし、キューブリックの制作意図からして土台物語から読み解くような作品ではない。だからこそ『ツァラトゥストラはかく語りき』をそのまま真似るというのは『2001年宇宙の旅』の視覚体験の本質を理解していない愚行な演出であると言える。映画の演出をアニメに引用することで生まれる作用はたしかに興味深いが、この場合対象としている映画があまりにも特異的な作品であるために成功しているとは言いがたい演出になっているのだ。本来『2001年宇宙の旅』がもつ性質、映画史におけるずば抜けた普遍性を考えるのであれば、音楽のみを引用するだけで十分だろう。さらにそこに映像も真似るとなると、該当シーンが元ネタを知っている観客にしか伝わらなくなり、ハイコンテクストになりすぎてしまう。『2001年宇宙の旅』という作品のイメージを引用したいという気概は分かるのだが、もう少し上手く演出する方法はなかったのだろうかと考えてしまう。他のシャフト作品の素晴らしい演出を思い返すたび、安易な引用に走ったように思えてならないのだ。

『噂』

 羽川が吸血鬼の「噂」を語るシーンで流れる本楽曲のメロディはキスショットがイメージされており、『傷物語』のメインモチーフである。『ハートアンダーブレード』、『私のせい』、『友達。の、つもり』など多くの劇伴でこのモチーフが引用されるほか、『傷物語〈Ⅱ熱血篇〉』のエンディングテーマである『étoile et toi』および『傷物語〈Ⅲ冷血篇〉』のエンディングテーマである『étoile et toi [édition le blanc]』といった主題歌における引用も象徴的である。この主題歌二曲はセルゲイ・ラフマニノフを踏襲しており、元を辿ればおそらく『交響曲第2番 ホ短調 Op. 27』より第三楽章Adagioあたりの作品の型真似であると考えられる。
 様々な派生と進化を辿るこのメインモチーフが行き着く果てである『etoile et toi [edition le blanc]』は壮大なピアノコンチェルトに仕上がっている。これはフランス映画音楽の大家ミシェル・ルグランが意識下にあったのだろう。歌唱を務めたクレモンティーヌは『映画「傷物語」COMPLETE GUIDE BOOK』のインタビューで以下のように述べている。

 「ミシェル・ルグランフランシス・レイが活躍していた「いい時代のフランス」らしさに溢れた曲です。詞の世界と音楽があまりにもマッチしていて感動しました」Ⅲ 冷血篇 45頁。[4]

 もとよりルグランの音楽性はラフマニノフから強い影響を受けており、『ロシュフォールの恋人たち』(一九六七年)における”Concerto Ballet”はその代表的な一例といっていいだろう。これら二曲は後期ロマン派としてのラフマニノフ調の抒情性あるメロディが主軸となっている。神前は本楽曲の制作後、「しばらくクラシックの感覚が抜けなくて、何を作ってもロマン派みたいになる時期がありましたね(笑)」とも述べている。

『前振り』

 ここまでミニマル・ミュージックから大きく逸れた楽曲を紹介してきたが、〈物語〉シリーズの劇伴の一貫性を意識する上で見過ごせないのが、吸血鬼となった直後の阿良々木が忍から「前振り」としての説明を受けるシーンで流れる本楽曲である。『化物語』の劇伴である『道聴塗説』と同じようにジムノペディの参照が認められ、数少ないミニマル・ミュージックとして機能しているのだ。また、キスショットが自身の右脚を食べるシーンで流れる『食事中』は同じく『化物語』の劇伴である『素敵滅法』の発展形である。さらにメメの語りで用いられる『敵か味方か』は『修験道』の変奏であり、これは元を辿れば『街談巷説』の発展形である。いずれも『傷物語』の劇伴の中では強いミニマル性が認められる。

このように実に様々なジャンルの音楽で『傷物語』の劇伴が構成されている中、ミニマル性を見出そうとすればやはり『化物語』に帰結するというのは興味深い事実である。

 


『三人がかり』

傷物語』において、ベースが怪奇とフランス映画で構築されている楽曲群の中で、一際「かっこいい曲」として目立つのが、忍野メメが登場するシーンに流れる当楽曲。この楽曲における異質さとは、すなわち和太鼓+高速の疾走ワルツでシリーズ中でも異質な和風アクションを提示する。劇伴として聴いた時に、まず耳を奪うのは、深い残響をまとった和太鼓系の低域パーカッションである。そしてこの楽曲の構造は明確に川井憲次の二曲を導入していると推定できる。まず入りの静寂さの中で進む構造は、『機動警察パトレイバー2』の『Unnatural City I & II』の導入。

Unnatural City I

Unnatural City I

Unnatural City II

Unnatural City II

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『三人がかり』では曲冒頭 0:00-0:22までの無調効果音/ 0:23 から明確な旋律が入る構成は『Unnatural City I』0:00-0:18まで溜めた後に、0:19〜から旋律導入していく構図と合致する。

空間を震わせるその重低音は、川井憲次が『GHOST IN THE SHELL』や『イノセンス』で確立した儀式的ビートの記憶を呼び起こす。男性コーラスこそ入っていないものの、太鼓で重量感を出すその仕草は聴覚的には「川井的重量感」の再演といってよい。そしてサビ部のタイトなタム系ビートは、川井憲次の『INNOCENCE OST』より「Attack the Wakabayashi」のパターンを想起させる。

ATTACK THE WAKABAYASHI

ATTACK THE WAKABAYASHI

  • 川井憲次
  • アニメ
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具体的にはタイトなタム連打(0:42-0:56)が集中する構成は『三人がかり』も終盤でほぼ同じ配置で引用している。劇中ではこの連打が忍野メメの登場シーンに重なり、緊張を一気に沸点へ押し上げる。総集編PV「こよみヴァンプ」でもメメ登場カットに同フレーズが抜粋されていることから、神前暁の意図は明白だ。


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もっとも川井憲次のそれより劇伴×ダンス・ミュージックという、神前暁流の現代的エッジとポップス感覚で磨き上げられたハイブリッドに仕上がっている。川井であれば男性コーラスをいれるところがなかったり、と総合的にまとめれば、和太鼓・効果音のオスティナートという骨格が川井憲次テイストを保証し、そこへ高速BPMとEDM的処理を持ち込むことで、神前暁の色彩が重ね塗りされた楽曲といえる。よりシンプルに言い換えるのであれば、川井語法の上に神前暁流の EDM スピード感をブレンドした楽曲だ。

 

傷物語 <こよみヴァンプ>』におけるバージョンは『三人がかり -Koyomi Vamp Edition-』として収録されている。このヴァージョンでは、原曲の終盤構成に調整が加えられている。

原曲では一度盛り上がったあと、『Unnatural City I』を想起させる静寂パートが再挿入されていた。しかし本編ではこの静寂部分が省略され、「静寂 → 動的 → サビ」というより直線的な構成となっている。

この再構築により、川井的な重層性は後退しつつも、音楽としての洗練度・疾走感が強化されている点が興味深い。

ファイナルシーズンにおける羽岡佳の劇伴

 『恋物語』までは神前がすべての劇伴を担当していたが、神前の体調不良により、『花物語』(二〇一四年)以降の新規劇伴は羽岡佳が担当することになる。ファイナルシーズンは、特に阿良々木自身についての物語が中心的に描かれ、これまでのストーリーと比べてシリアスなシーンが多い。そしてそこで重要となってくるのが、セカンドシーズンから登場していた扇の存在である。扇は何者であるのか、という問いが『憑物語』(二〇一四年)以降で本格的に展開されることになる。

扇の不気味さを劇伴で演出するという点では、主にアニメ界隈で活躍をする神前よりも、『血の轍』(二〇一四年)、『悪貨』(二〇一四年)、 『スケープゴート』(二〇一五年)など社会派的な実写作品の音楽を担当してきた羽岡のほうが、結果的に良い作用をもたらしたと言えるだろう。

 

 

本節では羽岡が神前と比べてどのようなアプローチを取ったかについて考えていきたい。なお、『花物語』は神前がほとんどの劇伴を手掛けたセカンドシーズンの中のひとつであるので、ここでの言及は割愛する。


憑物語』の場合  

『出自』 

 本楽曲は第一話の冒頭で流れる。​​ファイナルシーズンの第一弾を飾る『憑物語』において、この劇伴から始まることが羽岡という作曲家を象徴している。イントロにグロッケンシュピールとチャイムがレイアウトされており、フルートや中音域のトランペットを用いることで不安感を効果的に演出している。
 こうした不気味さの表現は、例えば黒沢清監督の『リアル〜完全なる首長竜の日〜』(二〇一三年)において羽岡が手掛けた劇伴『フィロソフィカル・ゾンビ』と共通している。『フィロソフィカル・ゾンビ』ではリゲティを参照していたが、『出自』では前衛に振ることなく、金管楽器とパーカッションの音域の差異を利用して不気味さを表現しているところが見事である。『憑物語』というタイトルに相応しい一曲であることに違いない。

『終わりの始まり』

 『出自』が流れ終わった後に本楽曲に切り替わる。静寂さを持つピアノの繰り返しを弦楽器が支えるという構造はスティーヴ・ライヒ的な作り方であるとも言える。静謐なピアノのソロで始まり、同じコードを繰り返しながら、次第に弦楽器を主体とした大きな編成へと変貌していく。この構造はミニマル・ミュージックの礎を確立した作曲家の一人であるスティーヴ・ライヒを想起させ、『大アンサンブルのための音楽』や『18人の音楽家のための音楽』といった彼の代表曲には本楽曲との類似点が認められる。そしてそれらに重なりあうメロディを彩るグロッケンシュピールの味付けは絶妙である。

『とけいもうと』

 『化物語』にて意識されていた”Tubular Bells”を羽岡が参照したのが本楽曲であるが、神前に比べて不気味さが際立っている。少なくとも『表裏』ほどの分かりやすさは存在せず、そこからさらにテリー・ライリーの”A Rainbow in Curved Air, for electric piano, dumbak & tambourines”(一九六九年)のような音の重ね合いをしているという見方もできる。
 本楽曲は阿良々木が目覚まし時計に起こされるシーンで流れることからも画との調和性が取れている。

『絶望的な回答』

 本楽曲は第二話で阿良々木の吸血鬼化が深刻に進んでいる現状を告げられるシーンなどで使われ、おそらく『憑物語』のシリアスさを象徴する劇伴である。『終わりの始まり』の発展型でありながら、ピアノと弦楽器のメロディがだんだんとドラマチックになることによって感情の起伏が表現されている。

『仕上げの総仕上げ』

 本楽曲もまた『終わりの始まり』の発展型としての側面を持ちながらも、冒頭のオルガン、徐々に入れ込んでくるオーボエの色っぽさ、弦楽器の哀愁さと女声合唱が少し入ることで北欧音楽としての味を持つ。これは押井守監督の『アヴァロン』の劇伴である『Log In』と似たアプローチである。

『クレーンゲーム』

 本楽曲は第二話で阿良々木がクレーンゲームで余接をゲットするシーンで流れるほか、第三話で影縫余弦手折正弦の存在をほのめかすシーンでも流れる。
 本楽曲はピチカートとピアノの重ね合わせである。この歪曲した感覚は、先ほどの『仕上げの総仕上げ』同様に、川井憲次からの影響が見受けられる。主にハープの使い方が、『NHKスペシャル未解決事件「file.02 オウム真理教」』(二〇一二年)で川井が作曲した『オウム真理教 M4A (未解決事件 file.02 オウム真理教)』を想起させるのだ。

 

終物語』の場合

 『終物語』(二〇一六年)ではついに扇が中心的に描かれる。扇の不気味さはそのまま『終物語』の劇伴の異質さに表れていると言っていいだろう。例えば『二者択一』は、これまでのシリーズの世界観を壊さない音楽性を持ちつつも、神前とは異なるアプローチを採っている。アタックの強いピアノで始まり、同じフレーズを繰り返しながら、やがて実に様々な楽器による大きな編成へと変貌していく。この構造には、『憑物語』と同じくライヒの影響が窺える。さらに『デッドスペース』、『七月十五日』、『444号室』などもミニマル性が強く、弦楽器のピチカートの繰り返しが主軸となっている。ただしグロッケンシュピールの主張が強くないことに着目すると、羽岡劇伴としては珍しいスタイルであると言えるだろう。
 一方で阿良々木と戦場ヶ原の会話で流れる『誰かの特別』は、流動的なメロディで心境の変化を巧みに表現している。このようにミニマル性の比重が少ない劇伴も散見されるのも『終物語』の特徴である。

オイラー

 『憑物語』の劇伴『クレーンゲーム』にて『オウム真理教 M4A (未解決事件 file.02 オウム真理教)』と共通したアプローチを採ったが、『終物語』の『オイラー』でも川井憲次の影響は共通しており、羽岡の好みが十二分に出ている劇伴と言える。本楽曲には不気味さと穏やかさが同居している。前半ではヴァイオリンによって不気味さが演出され、後半では木管楽器の和音のロングトーンによって穏やかさが演出される。ここで一貫してピチカートを奏でている音に川井憲次の影響が窺えるのだ。
 本楽曲は第一話の冒頭で「オイラーの公式」について阿良々木が語る場面で使われる。そこでここまで冷えきった劇伴を出すことによって、『憑物語』にあったシリアスさが保たれている。

『水かけ論』

 本楽曲が使われるのは老倉育が阿良々木に対して積年の恨みを告白するシーンであり、老倉の心情を表す音楽としてこれ以上ないほどに合致している。

本楽曲は宮内国郎アントニオ・ヴィヴァルディの組み合わせのように思える。宮内国郎といえば、『ウルトラQ』(一九六六年)と『ウルトラマン』(一九六六年)の二作品の音楽を担当し、初期の円谷作品のサウンドを規定した人と言える。

テーマ1 (「ウルトラQ」メインテーマ)

テーマ1 (「ウルトラQ」メインテーマ)

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本楽曲は、『ウルトラQ』のオープニングに似た不協を演出させている音とヴィヴァルディの『四季』(一七二五年)における『冬』のような棘のある弦楽器の音とが融合したような劇伴だ。合間に入るピチカートが味を出していることに加え、メロディにはミニマル性も感じられる一曲である。

 

『新旧文房具女対決』
本楽曲が流れるのは、癇癪を起こした老倉が文房具で阿良々木を刺そうとする場面である。低音と高音が交差する不気味な打点のピアノに潜む感覚と音の正体はおそらくは神前同様に、バルトークのピアノ楽曲『アレグロ・バルバロ』を参照した結果だと考えられる。 『終物語』では序盤から『オイラー』、『水かけ論』、『新旧文房具女対決』など不穏な劇伴が目立ち、羽岡の辣腕さが早い段階で窺える。



『開示すべき場面』
本楽曲は、より”Tubular Bells”を直接的に踏襲した劇伴である。そしてさらにその発展形が『棒読み』である。老倉のストーリーがきわめてミステリ的であることは、最後に阿良々木へ送った手紙の内容を視聴者に明かさないという「リドルストーリー」形式、すなわち例えば芥川龍之介の『藪の中』(一九二二年)にも見られる方式をとっている点からも分かりやすい。つまりここにはミステリにおけるミニマリズムが見て取れるのである。怪異退治ではなく、推理者としての側面が強いが故に異なるアプローチを施したのであろう。さらに外せないのはやはり扇の存在である。扇は阿良々木の内なる「もう一人の自分」が人格化したという点で、デヴィッド・フィンチャー監督の『ファイト・クラブ』(一九九九年)における主人公・ぼくの内なる欲望が実体化したタイラー・ダーデンとでも形容すべきだろうか。あるいはフョードル・ドストエフスキーの『分身』(一八四六年)における「もう一人の自分」である。『分身』の主人公ゴリャートキンは「もう一人の自分」、すなわち新ゴリャートキンが本来の自分にとって代わり、本当の自分が異議を唱え続けた結果、精神病棟に入院をする羽目になってしまう。
 これらを踏まえると、阿良々木にとって都合の良い世界ばかりではなく、正さないといけない問題、嘘、誤魔化しといったテーマから生まれた「もう一人の自分」としての扇というキャラクターが、作中において自分自身と向き合う役割を果たしている。言い換えれば、人間の抱える裏の部分を表出させる役割を持つのだ。だからこそ扇はどこか掴み所がないキャラクターとして描かれるのだが、そこに逆説的に魅力を感じてしまう視聴者が多いというのもまた事実である。
 以上のことから、扇がメインとなる『終物語』において、羽岡は劇伴の趣向を変えて、これまでにないほど異色でシリアスな楽曲群を作ったのだと言える。

<OMS(オフ/モンスターシーズン)>における劇伴

愚物語/つきひアンドゥ』の場合

愚物語』の劇伴は、ここ数年〈物語〉シリーズで主流になっていた弦主体・抒情的な室内楽+ピアノ路線、つまり羽岡の路線から一転し、神前暁MONACA)によるシンセ/ミニマル中心のサウンドに回帰を果たした。制作陣は公式サントラのライナーノーツでも原点回帰と明言しており、端的に言えば 『化物語』から『傷物語』における系統をアップデートした電子音楽寄りの作法といっていいだろう。『化物語』〜『偽物語』期の電子ミニマル語法をさらに洗練させた形態と言える。神前は本作の劇伴を制作する際にインタビューで以下のように述べている

愚物語」は語り部斧乃木余接なので、式神のイメージから、電子音をベースに有機的なテンションを入れるようにしていました。

月刊ニュータイプ 2025 1月号,p18

webnewtype.com

ここにかかるミニマル語法というものを、一度整理してみたい。元々のミニマル音楽元祖、つまりはライヒやライリーなどを軸に始まるA面としての反復ピアノ‐旋律ミニマル面 (サティ/久石譲軸)とは別軸としてのB面、すなわちブライン・イーノやイギリスのWarp Recordsなどが主体となって確立していったIDM軸、つまるところ、電子‐環境音楽面がある。この『愚物語』においては、旋律的なA面=サティ〜久石譲的語法はほとんど後退し、B面=Warp環境音楽/サブベースループグリッチ処理が、物語の進行自体と同期するように前面へと押し出されている。

ちなみに神前が初めてTVアニメ劇伴を担当した際、初期デモはゲーム音楽同様「ループ構造」で提出されたが、「これは劇伴として成立しない」と制作側から却下された、という逸話がある(Real Sound 対談より)。その封じられた作曲術が、〈愚物語〉では逆に語り手が阿良々木暦ではなく、余接になったこともあり開放され、劇伴として正式に機能するに至ったのである。

ゲーム音楽って基本的にループするように作られていて。神前さんはTVアニメ劇伴が初めてだったこともあり、最初の劇伴デモはループする形で上がってきたんですけど、一緒に作品を担当していた副社長が「ループしているじゃないか、これじゃダメだよ!」と注意していて、「そうなんだ……」と思いながら見ていた記憶があります。

realsound.jp

元々、『愚物語』は阿良々木暦の観測者視点が希薄になり、視点の断片化と再構築が主題。反復モチーフと断続的なノイズ処理は、この 語りの欠落を音で可視化する機能を果たしています。抽象的な電子音がキャラクターの内面に距離を置き、観客に外部の耳を強いる。これが従来の情緒寄り楽曲からの最も大きな転換点でもある。

この二点、すなわち「音楽的語法の転換」と「視点構造の変化」をまず押さえておきたい。つまり、『化物語』(2009年)で神前は反復を叙情化する旋律ミニマル(A面)を極め、そして『愚物語』(2024年)では反復を質感化する環境ミニマル(B面)へと回帰した。これは、まさしく語る音から語らぬ音への転調でもある。

『観察報告』から始まり、『人間の振り』〜『成長期』まではほとんど、シンセ・アルペジオと細切れループを基層に据え、アコースティック楽器はパーカッシヴに処理をしている。対照的にA型の面影があるトラックは『キャラデザ』が顕著である。このトラック木琴主体による劇伴にグリッチ処理が背面に処理されているため、AよりのB型の劇伴、つまり旋律ミニマルを残したまま、環境ミニマル的テクスチャが前景化しているトラックである。

A面(旋律ミニマル型)トラック

  • 『キャラデザ』track.8
  • 『理解できない感情』track.10

B面(環境ミニマル型)トラック

  • 『観察報告』track.3
  • 『人間の振り』track.4
  • 『ちゃかちゃか着火』track.5
  • 『格好いい台詞』track.6
  • 『成長期』track.7
  • 『怪異退治』track.9
  • 『天敵』track.11
  • 裏目』track.12
  • 『ことの原因』track.13
  • 『白紙撤回』track.14

B面の『天敵』が顕著な例ではあるが、『愚物語』において、この系統の楽曲がでるというのは逆説的に『傷物語』の段階で、ジャズやフランス映画、ロマン派がテイストが跋扈した劇伴群の中で、『記憶』『あと気分』のイントロが代表的だがB面に移行しつつあったといっていいだろう。言い換えれば、『傷物語』が A/B 等価の「実験段階」とするなら、『愚物語』はその B 面成分が主題化された解禁作である。これらのことから分かるように、『愚物語』における劇伴は「ゲーム音楽由来のループ構造」×「環境音楽の聴かせすぎない質感」という二重の必然が噛み合ったB 面特化作品というのが結論だ。

そしてこのサウンド感覚は『撫物語』もほぼ同型の設計で進みます。ただし、物語的に撫物語の方が、物語性も強いせいか、AとBが半々で使い分けされており、中には両方を兼ねるハイブリッド系も見受けられます。

撫物語』の場合

A面(旋律ミニマル型)トラック

1-3『八方美人』

1-8『キャラクターデザイン』

1-12*1『ルマ撫子』

1-13『育お姉ちゃん』

2-3『未来志向』

2-4『決戦の地』

2-5『「約束……、絶対、描き直してあげるから」』

2-6『神撫子』

2-7『答え合わせ』

2-8『千石撫子、十五歳』

2-9『レクチャー』

B面(環境ミニマル型)トラック

1-4『初対面』

1-6『自業自得』

1-7『二つ目のほう』

1-8『自画像』

1-9『四散』

1-14『人生相談』

1-15『自戒』

2-1『死体感』

2-2『敗因』

A・B両面(旋律要素はあるが質感処理が主役)

1-5『一万時間の法則』(旋律と時計音のW構造)

1-10『式神と自分』(ギター、マリンバグリッチ|シンセの三種混合)

 

業物語』の場合

映像化としては吸血鬼物語。そして劇伴作家は羽岡へとシフトしており、弦楽器メインのものとなっている。ゴシックものであり作劇的にオーケストレーションに振る必要性を踏まえても、神前暁ではなく羽岡への移行は自然なものと言える。

 

羽岡の来歴

本作の音源について触れる前に、まず羽岡の来歴を簡単に確認しておきたい。日藝CROSSのインタビューを読むと、彼自身がわざわざピエール・ブーレーズリゲティといった現代音楽家の名を挙げている。

cross.art.nihon-u.ac.jp

授業の中でも、作曲の個人レッスンは特に貴重な経験となりました。週に一度、先生と1対1で1時間ほど行われるレッスンで、自作の曲を譜面に書いて持参し、先生から理論を交えた詳細なフィードバックを受け、ブラッシュアップをしていくという実践的な形式でした。レッスンの課題は、使用楽器や特定の音楽理論(例えば、ピエール・ブーレーズリゲティといった現代音楽家の技法)に基づいており、当時はまだ出版されていない最先端の情報を直接学ぶことができました。

また、師事関係でいえば、*2綿村松輝と*3千住明を通っている。両者の系譜を通過していることを踏まえるなら、羽岡をまとめて形容するなら「戦後現代音楽(ブーレーズリゲティ)と、クラシック作曲法を背景に持つ劇伴作曲家」と位置づけるのが妥当だろう。作曲専攻という視点からカリキュラムを逆算しても、

国民楽派スメタナドヴォルザークシベリウス
ハンガリー系(バルトークコダーイ・ゾルターン)
ロシア五人組ショスタコーヴィチ
・フランス近代(ドビュッシーラヴェルメシアン
・前衛以降(シェーンベルクブーレーズリゲティ

あたりは当然触れる範囲である。とりわけ現代音楽の作曲に強い綿村松輝の門下であることを考えるなら、西洋音楽史の中でハンガリー民族主義が扱われる枠組みについても、逆算的な導きではあるが、ほぼ確実に授業として経験していると言ってよい。

そうした背景を踏まえれば、これまでの〈物語〉シリーズにおけるバルトーク楽曲的アプローチは、単なる偶然の類似ではなく、教育によって内在化された作曲語法の一つとして読むことができる。すなわち、〈物語〉シリーズに一貫して見られる弦楽器の作芸の良さは、単なるセンスではなく、現代音楽とクラシック作曲法の両側から意識的に鍛えられた書法の成果であり、それが全面的に露出したのが『業物語』である。また、アニメ劇伴の神前暁と対比させた場合、作家としての振れ幅はTVドラマ/映画サントラ仕事を長く担当している点からも、そっちの血統が太いため物語シリーズの中では基本的に「会話のリズムを回す音楽」ではなく、「物語そのものの重力を背負う音楽」として機能するという点も、『業物語』で最大化された点とも言えるだろう。

本作については鶴岡音響からこれまでと異なるものにするという方針が示されている。

最初に、音楽も「これまでの『<物語>シリーズ』とは違うものにしたい」というお話が鶴岡さんからありました。吸血鬼の作品だけど、古い映画の音楽ではなく、今のハリウッド映画みたいな音楽で

月刊ニュータイプ 2025 1月号,p18

ここで鶴岡が提案しているのは実に明瞭です。血鬼もの+古典ゴシック寄り、ではなく現代ハリウッドの「ハイブリッド・オーケストラ」ということは頭に浮かぶのはだいたい重低音/刻む弦/シンセの影が定番です。ハンス・ジマーがオルガンの上で寝落ちしたと揶揄される『インターステラー』みたいなものでありながら、非ロマンスでゴシック系ともなれば、この手の音楽性の洋物はラミン・ジャヴァディ、デヴィッド・アーノルドあたりは定番作家である。

トラックリストは以下のように構築されている。
1.『Suicidal Tendency』
2.『俺様の役目』
3.『亡国の美女』
4.『死体城』
5.『膝枕』
6.『ご容赦』
7.『利害の一致』
8.『鬼死』
9.『下抄え』
10.『線引き』
11.『事実は事実』
12.『委細承知の上』
13.『キスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレード
14.『救済』
15.『六百年ぶりに』

15曲あるうちの5〜9は、スーサイドが作中の「どうやらまた死んでしまったらしい」という台詞に対応する形で設計されている。生き返るたびにこの一言が効くよう、同じイントロを付けるという鶴岡案を採用しつつ、そこへチェロのグリッサンドを流し込むことで、スーサイドマスターが繰り返し死んでいる事実を音楽面でも強調する。そうした意図を、作劇として明確に織り込んでいる。

業物語』のサントラは全15曲あるが、その多くは「入り」をほぼ同型に揃えた、意図的な構成でまとめられている。要するに本作の劇伴は、共通の導入を土台にした変奏の束であり、その限られた枠の中で、どこまでアプローチを展開できるかに比重が置かれている。

一方で、『業物語』の音楽はハリウッド的な方向性を志向しながらも、先に挙げたような派手さを前面には出していない。では本作の「らしさ」に最も近い参照先はどこかと言えば、『岸辺露伴は動かない』のサントラが見逃せない。『業物語』はハリウッドではない。だが、弦楽器の使い方という一点に限れば、むしろこちらの系譜に寄っていると言える。

たとえば、羽岡・鶴岡が生み出した「スーサイドの台詞を象徴するチェロのグリッサンド」という発想。これ自体が珍しいわけではない。だが、本作以前に、同種の手つきで強烈な印象を残した劇伴として挙げられるのが、「大空位時代のためのレチタティーヴォ(叙唱)」だ。弦の緩急によって緊張感を立ち上げ、ドラマ版『岸辺露伴』のアバンタイトルを象徴する楽曲である。

〈物語〉シリーズと『岸辺露伴』の相性は、実際のところアプローチの次元で重なり合う部分がある。共通しているのは、ミニマルをはじめとする前衛的な音楽手法を取り込んでいる点だ。もちろん前衛性の度合いには差がある。だが、サウンドトラックが目指す方向性そのものには、同義的と言っていいレベルで重なる輪郭が見える。

その一致は、両作のサントラと映像を突き合わせて検討すると、よりはっきり立ち上がってくる。もちろん細部に目を凝らせば差分もある。〈物語〉シリーズはミニマル寄りの手法を強く前面化させる一方で、新音楽工房/菊地成孔の『岸辺露伴』は、その上にホラーやインダストリアルの質感、さらにオールAIといった方法論込みで微細に織り込み、音色と気配を緻密に書き分けていく。

そうした関係性を踏まえると、羽岡・鶴岡が参照し得た「2020年代の映像美」としてのドラマ版『岸辺露伴』は、求めるサウンドが偶発的に重なっただけでは片付かない。作者としての西尾維新荒木飛呂彦を並べて考えたとき、映像表現の設計思想が近接し、その結果として劇伴レベルでも似た解釈へ収束してしまう。その合流点こそが、『業物語』と『岸辺露伴は動かない』の呼応的な関係性だと言える。

業物語』は、新房昭之の直截的な映像美に、羽岡の重厚な劇伴、鶴岡の音響設計が重なり合うことで成立している、特殊な一作である。そもそも〈物語〉シリーズの劇伴は「会話劇ベースのアニメ音楽」として結実してきた。しかし本作の音楽群は、『傷物語』を含む従来作とは決定的に異なる位置に立っている。その断絶点こそ、見逃してはならない。

 

忍物語』の場合

忍物語』の場合、OMSの中でも語り手が阿良々木暦であることから、A面/B面の配分が比較的均一に保たれているように見える。従来の〈物語〉シリーズでは、A面――すなわちサティやライヒ的なミニマル音楽の語法と会話劇を軸にした比重が高かった。『愚物語』『業物語』と比べても、語り手が阿良々木暦である以上、これまでの方法論に照らせば、そのA面的要素が前景化するのは当然の帰結だろう。

たとえば「解決」というトラック。これは「素敵滅法」のリズミカルな要素を削ぎ落としつつ、後半に進むにつれて弦楽器によってドラマ性を付与していく。本来であれば神前暁が担当してもおかしくない作品であるにもかかわらず、『忍物語』では羽岡が、OMSにおける神前イズムのエッセンスを受け取りながら、『化物語』期の音源にまで遡る形でリアレンジを施している。

10年以上続くシリーズの中で、その「再演」が現行作として実際に鳴らされる。この点は、特筆に値すると考える。

同時に『忍物語』の劇伴は、〈物語〉シリーズの中でも、旧来の作劇、羽岡イズム、神前暁イズムが混ざり合い、複数の質感がせめぎ合う音楽になっている。全体の触感はやはりハリウッド寄りであり、イコールではないにせよ、近年のハリウッド映画で評価対象となっている潮流、たとえばジョニー・グリーンウッドやDANIEL BLUMBERGに見られる、英国ミニマルへ傾く志向性に接近しているようにも聴こえる。

しかしそれだけではない。別の局面では、マックス・リヒターやヨハン・ヨハンソンを想起させるドローン的な粘度が前に出る一方で、「そうではない」ケースではチャイコフスキー的な情緒に寄る瞬間もある。こうした振れ幅を同一作品内で抱え込んでいるという点で、『忍物語』の劇伴は、作劇にかかる要素がかなり複雑に絡み合った構造を持つと言える。

 
 

A面(旋律ミニマル型)トラック

1-11『伝説の源泉』A

1-12『なれ合い』A

1-13『かつてのあるじ』A

2-1『復元』A

2-3『カリスマ性』A

2-6『潮時』A

2-7『素人』A

2-8『赤い闇』A

2-9『「はは。まあ、乗りかかった船だからな。」』A

2-10『再会』A

 

B面(環境ミニマル型)トラック

1-2『現実逃避』B

1-3『木乃伊』B

1-4『正体不明』B

1-5『ミッシング・リンク』B

1-6『解読』B

1-7『D/V/S』B

1-8『特異な組織』B

1-9『個人情報』B

1-10『同調圧力』B

1-14『クリプトビオシス』B

1-15『幻風景』B

2-2『開眼』B

2-4『見栄』B

2-5『そうでないケース』B

 

 

神前暁羽岡佳の音楽スタンスの違い

これまで神前と羽岡の劇伴を主に取り上げてきた。すでに述べた通り、主にアニメの世界で活躍している神前と、実写映画の世界でも活躍している羽岡とでは根本的に作り方が異なる。神前の楽曲は『涼宮ハルヒの憂鬱』(二〇〇六年/二〇〇九年)や映画『涼宮ハルヒの消失』(二〇一〇年)といった代表作においても歌ものから劇伴曲にいたるすべてが基本的には明るく、分かりやすい音楽の作法である。サティやオールドフィールドといった、一般的にもよく知られた作品の型を引用した劇伴を作り、そこからさらに変化球の劇伴を作るといった側面が目立つ。実際『消失』ではアプローチ、聴かせ方の効能こそ違えど『ジムノペディ』が引用されていた。例外的にハーマンを用いた劇伴も存在するが、そうしたアプローチは邪道であり、主軸は明朗快活な側面とメロディとの兼ね合わせが強い。

 

対する羽岡の場合はマッシヴ・アタックの『Mezzanine』(一九九八年)に代表される暗鬱なビートの刻みや同世代の劇伴音楽家である菅野祐悟的な音の重ね方に、川井憲次的なオーケストラのアプローチ、そして何よりも現代音楽の素地がある作曲家である。

Mezzanine

Mezzanine

〈物語〉シリーズにおいても、ライリーやライヒなどのミニマル・ミュージックを発展させつつ、ヴェーベルンといった新ウィーン学派バルトークのピアノ作品などを再構築しながら劇伴を作っている。にもかかわらず、〈物語〉シリーズの劇伴においては作品の世界観に限りなく透明に近い形で馴染んでいるのは、いずれの作曲家も前衛とミニマル・ミュージックをバックボーンに置いた上で楽曲を制作しているからだと考えられる。『作曲家・羽岡佳 ロングインタビュー!(アニメ・ゲームの“中の人” 第34回)』で、羽岡は以下のように述べている。

 

 「「物語」シリーズでは、新房昭之監督と音響監督の鶴岡陽太さん、音楽プロデューサーの山内真治さんから「ミニマル・ミュージックで」とのお話があったので、クラシック寄りのミニマル・ミュージックから始めて、少しずつシンセを入れてエレクトロな方向に行ったりとか、オーケストラっぽくやってみたりとか、そんなことを試行錯誤しながら作りました」

 

 つまり、羽岡に与えられた大枠のオーダーは神前の場合とまるっきり同様なのである。作曲家が交代しても〈物語〉シリーズの劇伴にミニマル・ミュージックの一貫性が認められるのは、そもそもこうした明確なオーダーがあったからであろう。しかし、ミニマル・ミュージックという楽曲のオーダーを受けてサティを取り入れる神前と、より発展した音楽体系としてのミニマル・ミュージックを参照する羽岡というこのスタンスの現れ方は個性的である。

第二部 映像における音楽の効能

黒澤明スタンリー・キューブリック庵野秀明の場合  

 第一部では〈物語〉シリーズの劇伴について述べてきたが、当然ながら映像に音楽はつきものである。特に物語と映像を持ち合わせた映画という媒体における音楽の扱い方は実に多用である。とりわけ面白い技法としては、描かれている映像とは正反対の雰囲気の楽曲をあえて流すことによって、映像をよりドラマチックにする方法論──「対位法」と呼ばれるものである。この手法は、例えば以下三つの作品で用いられる。
 一つ目は黒澤明監督の『野良犬』(一九四九年)である。作中で何度か対位法が使われるが、中でも印象深いのは終盤において、拳銃の取り合いをめぐる張り詰めた展開にもかかわらず、フリードリヒ・クーラウの『3つのソナチネ ソナチネ第1番 Op.20-1』が軽快に流れる場面である。映像と音楽の不調和が、よりこのシーンをドラマチックにしているのだ。

Piano Sonatina in C Major, Op. 20 No. 1: I. Allegro

Piano Sonatina in C Major, Op. 20 No. 1: I. Allegro

  • Marie-Luise Bodendorff
  • クラシック
  • ¥204
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二つ目の例はスタンリー・キューブリック監督の『時計じかけのオレンジ』である。主人公の非行少年アレックスは劇中で様々な残忍な行為を行う。ある作家夫婦の家に押し入って暴行を加える場面で、アレックスは『雨に唄えば』を高らかに歌い上げるのである。

雨に唄えば

雨に唄えば

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これもまた実際に描かれる映像と、そぐわない音楽が流れるという点で、対位法的である。このキューブリックに影響を受けたクリエイターが庵野秀明であり、三つ目の例は『新世紀エヴァンゲリオン』(一九九五年)である。例えば、第十八話「命の選択を」では、鈴原トウジが搭乗する参号機を第13使徒バルディエルが乗っ取り、エヴァエヴァという戦闘が繰り広げられる。戦闘自体は碇シンジが搭乗する初号機が強制的にダミープラグに切り替えられることで勝利するが、しかしその後ダミープラグで動く初号機がシンジの意思に反して暴走し続け、参号機を徹底的に解体してしまうのである。
 そして新劇場版の二作目『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』(二〇〇九年)ではテレビシリーズにあった描写に様々な変更が施された。その代表例に先述した解体シーンで『今日の日はさようなら』(一九六六年)を流したことが挙げられる。

今日の日はさようなら

今日の日はさようなら

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『今日の日はさようなら』自体はフォークソング・歌謡曲に部類される温かな楽曲であり、国民的に認知されているが、それをアニメのグロテスクなシーンで流すことで、対位法としての極地と形容しても過言ではないほどのシーンに昇華させた。
アニメ作品においてクラシックの引用をすることでシーンを魅せる手法は今でこそ定番になっているが、『エヴァ』はその効能が反響を呼び評価された代表的な作品であると言えるだろう。

以上のことから対位法はクラシック楽曲を直接的に引用することが多い。次節では映像と音楽を並行させることで物語る形式について論述していきたいと思う。

物語としてのクラシック音楽

先述した対位法では直接的なクラシックの引用が主体だったが、アニメにはクラシック音楽風という体裁をとった劇伴パターンも存在する。例えば宮崎駿監督の『崖の上のポニョ』(二〇〇八年)で用いられる劇伴『波の魚のポニョ』は、冒頭節からリヒャルト・ワーグナーの『ニーベルングの指環』(一八七四年)より『ワルキューレの騎行』を意識した楽曲になっている。

波の魚のポニョ

波の魚のポニョ

ワルキューレの騎行

ワルキューレの騎行

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そしてこれは当然、作品の血筋として機能している。
 『ニーベルングの指環』におけるブリュンヒルデの役割はこうだ。ブリュンヒルデはヴォータンと大地の女神エルダとの間に生まれた九人の娘の長女である。ワルキューレの最も勇敢な戦士であり、双子の兄妹ジークムントとジークリンデの子供であるジークフリートの名付け親でもあり、後の恋仲でもあり、その後に悲劇を生む。ラストの『神々の黄昏』では「黄金の指環」をライン河の乙女たちに返す約束をして、愛馬に乗り、炎の中へと消えていく。 『崖の上のポニョ』においてポニョはブリュンヒルデと呼ばれており、稚魚のような数多の妹分の存在が何を示しているかは自明だ。フジモトがグランマンマーレに頭が上がらないというのは、ヴォータンと妻フリッカの関係性を再現したものである。なによりも宗介のポジションは、まさにジークフリートそのものである。

 

しかし『崖の上のポニョ』における物語としては最期まで報われない女性としてのブリュンヒルデという描き方をしていないし、宗介にしても『ニーベルングの指環』に沿った内容であれば劇中のどこかで退場しているはずである。補足するとジークフリートの妻はクリームヒルトであり、ジークフリートを殺められたことで血塗られた物語が待ち受けており、どのポジションだろうが『ニーベルングの指環』を参照している以上惨劇は免れない。

 

その観点から考えると、『神々の黄昏』からの人類の台頭という部分が、『崖の上のポニョ』ではランチュウがモデルとされる金魚のポニョと哺乳類の霊長目ヒト科にあたる人間の宗介という生物学的進化系統樹の立ち位置を踏まえれば、のちに新人類の誕生を示唆させるものとなっていることは明白である。
 このように極端な一例ではあるが、物語る音楽を使用することで脚本上には現れない行間表現が生まれることもある。これはロマン派という音楽の起源が「物語を音楽に転換する」という流れがあったからこそである。

 

第三部 『魔法少女まどか☆マギカ』の音楽世界について

チャイコフスキーの彼方に──チェレスタグロッケンシュピールがもたらす魔法の音

 第三部では、『まどか』の音楽性について論じるために、シャフト作品におけるグロッケンシュピールの使われ方、あるいはチェレスタの効能について考えたい。『まどか』の音の要素として挙げられるこれら楽器の音楽作用を、「魔法を演出する音の世界観」とその源流について考えることで紐解いていきたいと思う。なお本稿では、打楽器と鍵盤楽器という違いこそあれど、グロッケンシュピールチェレスタの効果は基本的には同じものとして論述を進める。
はじめに確認しておきたいのは、『まどか』では梶浦由紀が劇伴音楽を担当しており、『Conturbatio』や『Signum malum』などの劇伴に代表されるように、『まどか』の世界観における日常シーンで流れる音楽は常にグロッケンシュピールが味を出しているという点だ。

Conturbatio

Conturbatio

  • 梶浦由記
  • アニメ
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Signum malum

Signum malum

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さらに、『劇場版 魔法少女まどか マギカ[新編] 叛逆の物語』(二〇一三年)の主題歌である『カラフル』のイントロにもグロッケンシュピールの音が効果的な形で挿入されている通り、その使われ方はきわめて意識的なものと思われる。

カラフル

カラフル

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このイントロに引き込まれた観客はとても多く、テレビシリーズの主題歌である『コネクト』よりも印象深いと感じる人も少なくないだろう。

 

ここで注目したいのが、テレビシリーズのリメイクである『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ [前編] 始まりの物語』(二〇一二年)および『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ [後編] 永遠の物語』(二〇一二年)のオープニング主題歌である『ルミナス』と『コネクト』の関係性、そして『カラフル』との関係性である。

ルミナス

ルミナス

  • ClariS
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コネクト

コネクト

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いずれも作詞・作曲は渡辺翔、編曲は湯浅篤が務めており、『コネクト』と『ルミナス』のイントロは、ピアノという誰でも耳馴染みのある楽器を軸に据えているという点で共通している。ここにはやはり劇場総集編で初めて『まどか』に触れる人々への配慮があったと思われ、映像面でも真っ白な空間にカラフルな水玉が浮かんでいるポップなイメージがテレビシリーズから引用されている。
 対して『カラフル』のイントロはピアノではなくグロッケンシュピールを軸に据えており、『まどか』の世界観にぐっと引き込む作用は『コネクト』や『ルミナス』より強い。何故そうなるのかを考えるとき、先に述べたように『まどか』の劇伴ではテレビシリーズの頃からグロッケンシュピールが効果的に作用していた、という事実が手掛かりになるだろう。『叛逆の物語』を見る人、つまり『まどか』の世界に一度でも触れたことのある人であればグロッケンシュピールの音色からすぐに『まどか』を想起できてしまうほどに、イメージが定着していたのである。
 そして魔法とチェレスタという組み合わせは『まどか』以前に世界的に有名な作品が存在する──それはもちろん『ハリー・ポッター』(二〇〇一年)のメインテーマだ。

 

ジョン・ウィリアムズがメインテーマにチェレスタを用いたのは、チャイコフスキーによる『くるみ割り人形』の一幕における『金平糖の精の踊り』からの影響である。
 シャフト作品では『まどか』だけでなく、『化物語』の劇伴にもチャイコフスキーの『花のワルツ』を意識した楽曲である『ファーストタッチ』があることを踏まえると、チャイコフスキーの面影、あるいはロマン派の音楽が影響していると考えられる。チャイコフスキーに留まらず、印象派音楽の大家として名高いモーリス・ラヴェルクロード・ドビュッシーをはじめ、『交響曲第五番』第四楽章「Adagietto」の作曲家として著名なグスタフ・マーラーチェレスタを愛好していた。このように、チェレスタの音のひとつとっても『まどか』からチャイコフスキー、ロマン派まで遡ることができるのだ。

以上の作品/作家が『まどか』の紡ぎ出す世界観の源流として挙げられる。制作陣が意識的に演出の一環として印象派やロマン派のクラシックの音楽を作劇に忍ばせているとみてまず間違いないはずである。
 『まどか』の世界観を表現しているのはロシア・ロマン派音楽であるが、キャラクター性や心情を表現する際にもクラシックが使用されている点は見逃せない。実際に第四話で上条が聴いている音楽はドビュッシーの『亜麻色の髪の乙女』(一九一〇年)であり、第六話では実際にヴァイオリンで演奏をしている描写まである。

亜麻色の髪の乙女

亜麻色の髪の乙女

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また第五話ではポーランドの作曲家テクラ・バダジェフスカが作曲した『乙女の祈り』(一八五一年)の楽譜が、さやかの変身シーンの背景にパッケージ版で追加された。

乙女の祈り

乙女の祈り

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亜麻色の髪の乙女』とは異なり、『乙女の祈り』は音としては表現されず、楽譜のみが背景に添えられている。これらは物語る音楽としても機能している。『亜麻色の髪の乙女』の「亜麻色」という色は淡い褐色をもつ黄色であり、上条と関わりがあるキャラクターのなかで亜麻色に近い髪色をしている仁美を示唆していると考えることができる。『乙女の祈り』は先述した上条への想いを示唆していることに加え、魔女化したさやかと心中する佐倉杏子が「独りぼっちは、寂しいもんな……いいよ。一緒にいてやるよ。さやか……」と言って祈りのポーズを取るシーンにも符合する。

 

このように『まどか』の魅力を織り成す要素は様々あるが、それを紐解く鍵こそがグロッケンシュピールチェレスタに代表される「魔法の音」と言えるかもしれない。この「魔法の音」は、『まどか』が描く世界観にどのような効用を与えているだろうか。そのためには、『まどか』の世界観をロマン派から象徴主義、そしてシュルレアリスムの系譜として読み解いていく必要がある。『まどか』はドイツのメルヘン型物語と耽美性、それらを音楽に転換したロシアのロマン派音楽という構造に、フランスより発祥したシュルレアリスムの手法をとった美術設定を組み合わせた芸術なのである。

ドイツ文化における魔法とメルヘンの系譜

 「魔法に翻弄される」というテーマはドイツ文学からの系譜として読み解くことができる。オトフリート・プロイスラーの『小さい魔女』(一九五七年)を読んだことのない人はおそらくいないであろう。「ファンタジー」というジャンルはケルト文化圏の歴史をもつ西ヨーロッパ諸国から生まれたものとされ、その潮流が後世の物語に大きな影響力を持つ。中でもイングランドではルイス・キャロルの『不思議な国のアリス』(一八六五年)といった寓話が、ウェールズ地域からは『アーサー王伝説』という物語が今現在も創作物を通して語り継がれている。


しかし現代における魔法/魔法使い/魔女というイメージは今ではドイツ文化圏が主流である。文学史的には、先述のプロイスラーや、E.T.A.ホフマンゲーテ、グリム兄弟が有名であるし、歴史的にはアイヒシュテットやゲルンハウゼンといった地域は魔女狩りに強い因果を持っていたり、さらに地理的にも祭としてヴァルプルギスの夜が行われる本場はハルツ山地のブロッケン山であることからも、そのイメージは根強い。
 ファウスト』の文化的影響力を踏まえると『まどか』におけるワルプルギスの由来はゲーテの作劇に依拠していることは疑いの余地がない。また、グリム兄弟が紡いだ数々の物語には様々な魔術をもつキャラクターが登場する。中でも『シンデレラ』、『ヘンゼルとグレーテル』、『いばら姫』といった作品群は魔女が登場する寓話物語の代表作として世界的に知られている。『眠れる森の美女』はフランスの詩人シャルル・ペローが原作だが、グリム兄弟による『いばら姫』によって描かれた物語の方が有名だろう。王子とのキスによって目覚めるというメルヘンチックな結末はグリム兄弟によって書かれたものであり、ペロー版では実際に百年待った上で自ら目を醒ますという点を踏まえると、現在語られている『眠れる森の美女』はグリム兄弟の想像力から生まれたものといって差し支えない。何よりも、われわれが日常的に使う「メルヘン」という言葉はドイツ語由来のものである。
 また、チャイコフスキーの『くるみ割り人形』や『白鳥の湖』の作中の舞台は共通してドイツの都市である。ホフマンの『くるみ割り人形とねずみの王様』(一八一六年)は、『叛逆の物語』にかなりの影響を与えている。例えばくるみを砕く描写や「くるみ割りの魔女」という名前はその代表例だろう。

 

加えて、くるみ割り人形が壊れた際にマリーが自身の持つ白いリボンを人形に巻く行為は、まどかのピンクのリボンに通底するテーマである。人形たちが置かれている戸棚のガラスに肘が当たり怪我をする場面は、ほむらに手を差し伸べるシーンにて傷ついたまどかの手の描写と重なる。くるみ割り人形がネズミの王様を討ち取ったことで七つの金の王冠をマリーが手にする場面は、王冠の形をしたオーブを手にしたほむらと重なる。以上のことから、相当数のイメージソースとして引用をしていることが分かる。
 

一方で『白鳥の湖』において王女オデットは悪魔のロットバルトに呪いを掛けられてしまい、白鳥に変えられてしまう。昼は白鳥、夜は人間の姿というこの呪いを解くためには「愛」の力が必要だという。そしてその呪いを解く過程で、オデットとそっくりなオディールという「黒い白鳥」が登場する。 『叛逆の物語』にて悪魔化したほむらの衣装はまさにオディールを連想させるものだ。異空間設計を担当した劇団イヌカレーのアート表現の先祖とも言える美術家ヤン・シュヴァンクマイエルチェコ共和国出身であり、ドイツ文化圏に影響を受けていることは想像に難くない。実際にシュヴァンクマイエル長編映画ファウスト』(一九九四年)を制作している。シュヴァンクマイエルの作品が劇団イヌカレーにインスピレーションを与えているのは間違いないだろう。

フランス詩学劇団イヌカレーシュルレアリスム

フランス詩学における『まどか』の流れについては、主だってシュルレアリスムの補助線を引く必要があるだろう。まずフランス詩人の流れとしては、エドガー・アラン・ポーなどから派生したデカダン派の流れを組むシャルル・ボードレールや、高踏派のシャルル=マリ=ルネ・ルコント・ド・リール、あるいはテオドール・ド・バンヴィルなどの一八五〇年代における著名なフランスの詩人が挙げられる。

 

高踏派とはロマン派という文化体系の後継のフランス詩学のジャンルの一つである。その特徴は非個性な性格を持ちながら、そこに完璧な形式美を持ち合わせたものである。そしてその反対運動として起こる象徴主義が一八七〇年代より発露し、ジャン・モレアスが一八八六年に「象徴主義宣言」を発表する。この時代を象徴する五人の詩人こそがポール・ヴェルレーヌ、ステファン・マラルメ、トリスタン・コルビエール、アルチュール・ランボーロートレアモン伯爵である。彼らは一般的に一八七〇年の五人の異端者と呼ばれている。そしてこの五人が一様に影響を受けていたのがボードレールであることから分かるように、象徴主義における作風は人間の不安や運命といった内面を切り開くものである。
 

そして一九二四年にアンドレ・ブルトンが『シュルレアリスム宣言』を発表する。これが世に言うシュルレアリスムであり、この運動からコラージュやルネ・マグリットが多用したデペイズマンといった現代のアートの手法が確立されていく。ハンス・ベルメールオッフェンバックの音楽作品『ホフマン物語』(一八八一年)や、そのモデルとなったホフマンの『砂男』(一八一七年)に影響を受けて球体関節人形を作り、受け入れられたのもこの時代である。

こういった背景を踏まえた上で劇団イヌカレーの美術を見ると、その影響関係は明白だろう。劇団イヌカレーにおける異形なアートは映像のアプローチ以上に詩からの影響がある。例えばロートレアモン伯爵の詩『マルドロオルの歌』のように素材を引用する手付き、あるいは美術家オディロン・ルドンの色彩/異形な画風を模していることも見て取れる。 『まどか』にはフランスのロマン派音楽の要素もあると述べたが、それはルイ・エクトル・ベルリオーズの『幻想交響曲』(一八三〇年)のことを指す。

 

興味深いことにベルリオーズもまた『ファウストの劫罰』(一八四六年)という楽曲を作曲しており、いわゆるゲーテに魅入られた一人である。
幻想交響曲』は『まどか』の世界観と対比すると実に似通っている。

楽章それぞれのタイトルが第一楽章『夢、情熱』、第二楽章『舞踏会』、第三楽章『野の風景』、第四楽章『断頭台への行進』、そして第五楽章の題目は二種類存在する──ひとつが『魔女の夜宴の夢』、もうひとつが『ワルプルギスへの夜の夢』である。

第一楽章、第四楽章、第五楽章のタイトルはまさしく『まどか』を連想させるタイトルである。また、ベルリオーズが『幻想交響曲』を発表する九年前にイギリスの作家トマス・ド・クインシーの『阿片常用者の告白』(一八二一年)がある。ド・クインシーといえば『サスペリア』の原作『深き淵よりの嘆息』(一八四五年)が知られているかもしれないが、これは『阿片常用者の告白』の続編である。阿片によって狂気の夢へと誘われる世界を描いているという点で、ベルリオーズはド・クインシーに影響を受けている。ド・クインシーは『阿片常用者の告白』にて多大なる影響を及ぼしたが、その一人がポーであった。そしてポーに可能性を見出した人物がボードレールである。ボードレールと同時期に生きたベルリオーズは、ゲーテやド・クインシーから影響を受け『幻想交響曲』を作ったのだ。

流れをまとめると、ド・クインシーはベルリオーズの楽曲、ボードレールをはじめとするフランス詩学ダリオ・アルジェント監督の『サスペリア』という、音楽/詩/映像すべての表現に多大なる影響を与えている。そうした意味では、ド・クインシーの散文詩がアニメーションとして生まれ変わったのが『まどか』であるという見方は十分可能である。

ロシア・ロマン派におけるチャイコフスキーメンデルスゾーンラフマニノフ

 『まどか』における世界観を表現する劇伴のアプローチとしては、ロシア・ロマン派音楽の側面が強く、その代表例としてグロッケンシュピールおよびチェレスタの使用、すなわちチャイコフスキーの影響が顕著であるということはすでに述べた通りである。『まどか』はバレエ音楽の世界観を映像に起こしていることから、三大バレエ楽曲を作り上げたチャイコフスキーの楽曲にまずは注目する必要があるだろう。

例えば、第一話の冒頭は舞台の幕開けから始まるが、この演出方法はまさにバレエにおける開幕のようである。この始まり方は、書物であれば「むかしむかしあるところに」といった前置きを彷彿させる。例えば、『スター・ウォーズ』(一九七七年)の有名な冒頭と比較してみても良いかもしれない。

 

 “A long time ago in a galaxy far, far away….”

 

日本語訳で「遠い昔 はるかかなたの銀河系で…」とされているこの原文の妙は”in the galaxy”ではなく、”in a galaxy”としているところにある。”the”を用いると「特定の惑星」という捉え方が可能になるが、 “a”を用いることで「どこかの惑星」という表現に生まれ変わる。つまり普遍性を獲得し、明確に物語の寓話性が強調されているのだ。

こうして考えてみると、『まどか』の第一話における劇場の幕が上がる演出も、『まどか』という作品自体を夢物語としての御伽噺、あるいはある種の寓話としてのメタフィクションであるという作り手側の主張という解釈が可能だ。そして単なる幕開けではなくバレエの開幕というモチーフを使っていることが後に大事な役割を持つことになる。

テレビ版においてはバレエ要素は薄いが、後に作られた『叛逆の物語』では「ピョートル」という名のねずみをモチーフにした魔女の使いが登場する。これはピョートル・チャイコフスキーの名前を引用したものであり、バレエにまつわる要素を作品に取り入れていることが分かる。MADOGATARI展で発表された新作コンセプトムービーでは、まさにバレエそのものをモチーフとして扱っており、まどかがチュチュを身に纏いながらバレエを踊っている姿が描かれている。
 

また、コンセプトムービーには音楽論として読み解いていくと見逃せないキーワードが登場する。それは「妖精」である。

 「助けてくれるの、あなたたちも、妖精さん

 『まどか』と妖精を接続するのであれば、ウィリアム・シェイクスピアの『真夏の夜の夢』(一五九五年)を参照するべきだろう。

日本語題は「真夏」であるが、原題は”Midsummer Night's Dream”であり、”Midsummer”は直訳すると「夏至」である。夏至は六月二十一日をさすものであり、真夏とはとても言い難い。夏至にあたる六月二十一日をキリスト教的観点から考えると夏至祭、つまり聖ヨハネ祭が思い浮かぶだろう。こうした角度からみると「真夏の夜」とは、聖ヨハネ祭のことを指すものと考えられる。故にヨーロッパ圏内のイギリス、スウェーデンフィンランドラトビア等では、六月二十四日は祝日と定められている。『真夏の夜の夢』はそうした文化的背景をもつ中で生まれた作品である。

 

なお、作中にてアテネの公爵シーシアスが「もうわしらは五月祭の朝のつとめもはたした」と話す場面がある。真夏の夜=六月二十四日という月日との差異が生じるが、ここで着目すべきは「五月祭」という点にある。北欧圏における五月祭こそが「ワルプルギスの夜」(四月三十日〜五月一日)である。 『まどか』におけるワルプルギスの夜、『真夏の夜の夢』にて五月祭という隠喩として示唆されるワルプルギスの夜メンデルスゾーンが『真夏の夜の夢』をベースに劇付随音楽『真夏の夜の夢 Op.61』(一八二七年)を作曲し、一方でゲーテを通して『最初のワルプルギスの夜 Op.60』(一八三三年)もまた作曲していること、これら一連は果たして偶然の事象として重なったものであるとは考えにくい。


これらが次回作に予定されている『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ 〈ワルプルギスの廻天〉』と関連しているかは不明である。しかし、コンセプトムービーにて提示した情報から構成されているのであれば、例えば妖精と呼称されるキャラクターの登場シーンなどで劇付随音楽『真夏の夜の夢 Op.61』よりスケルツォのような楽曲を隠喩として流す可能性は高いと言えるだろう。

メンデルスゾーン:真夏の夜の夢 - スケルツォ Op. 61, No. 1

メンデルスゾーン:真夏の夜の夢 - スケルツォ Op. 61, No. 1

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また、ロシア・ロマン派音楽という点について考えるならば、ラフマニノフにも注目する必要性があるだろう。『まどか』におけるラフマニノフの要素は、ヴァイオリニストの上条が病室にてさやかと一緒に聴く音源として登場する。それは歌曲『ヴォカリーズ』(一九一五年)をダヴィッド・オイストラフが演奏したものである。しかし、これは立ち止まって考えてみると実に不思議な選曲である。ラフマニノフはピアニストだ。管弦楽作品も残しているが、叙情性のあるピアノ楽曲で歴史に名を残した後期ロマン派の作曲家として知られている。そして『ヴォカリーズ』も元々はピアノ付きの歌曲であり、のちにヴァイオリンとピアノとの編曲が作られたという経緯がある。

 

本来であるならば、劇中における上条恭介の音楽的描写においては、ピアニズムの象徴であるラフマニノフではなく、悪魔に魂を売ったヴァイオリニストとして知られるニコロ・パガニーニを参照した方が、キャラクター造形としてはより主題に即していたとも考えられる。パガニーニは19世紀ヨーロッパの聴衆に人間離れした技巧と超自然的な狂気をもって迎えられ、その演奏はしばしば「悪魔的」とすら形容された。そうした文脈において彼の『ヴァイオリン協奏曲第1番』や『24のカプリース』は、才能と呪われた身体性が結びついた音楽表現の典型であり、まさに奇跡の両義性を帯びる。

パガニーニ:24のカプリース Op. 1 - No. 23 in E flat major

パガニーニ:24のカプリース Op. 1 - No. 23 in E flat major

  • イリヤ・カーラー
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その意味で、恭介の演奏にパガニーニの主題を仮に引用したとすれば、彼の才能が神の恩寵ではなく呪いにも等しい重荷として物語内に位置づけられただろう。だが、制作側はあえてセルゲイ・ラフマニノフを選んだ。ラフマニノフといえばロシア的憂愁と繊細な叙情性を特徴とするピアニスト作曲家であり、彼の楽曲は技巧の裏に滲む情感の深みこそが魅力とされる。しかし興味深いことに、ラフマニノフには1934年に作曲した《パガニーニの主題による狂詩曲》という代表作が存在し、ここで彼は明確にパガニーニという悪魔的ヴィルトゥオーゾを音楽的に引用・再構成している。すなわち、ラフマニノフという選択はパガニーニ的要素を内包した抑制された悪魔性の象徴とも読めるのだ。

パガニーニの主題による狂詩曲

パガニーニの主題による狂詩曲

  • ジョセフ・ブルヴァ, ブラティスラヴァ放送交響楽団 & ビストリク・レジュハ
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こうした文脈を踏まえたうえで、上条恭介というキャラクターの構造を見直すとき、もうひとつの参照点として浮かび上がるのが、実在の天才ヴァイオリニスト・渡辺茂夫(1954–1993)である。渡辺は幼少期より国内外で注目を集め、13歳にして東京交響楽団チャイコフスキーを共演するなど、早熟の天才として音楽界の未来を約束された存在だった。ヤッシャ・ハイフェッツダヴィッド・オイストラフといった巨匠たちからもその才能を高く評価されるが、異国での生活環境、指導者との関係悪化、そして精神の不調により、渡辺はそのキャリアを自ら断つ形で自殺未遂を図る。命は助かったものの、後遺症により寝たきりとなり、その後は再びヴァイオリンを演奏することなく1993年に没した。

 

渡辺の人生は、才能と引き換えに奪われる身体/運命/自由というテーマを極限まで体現しており、その陰影はフィクションの中にいる上条恭介にも不思議な照射を与える。恭介は劇中でヴァイオリンを失うことによって絶望し、やがて再び演奏できるかもしれないという希望のなかに揺れ動くが、その過程はまさに才能が呪いに変わる臨界点を描き出している。つまり、上条というキャラクターは、ラフマニノフ=感情と技巧の二重構造、パガニーニ=悪魔的天才性、渡辺=現実における才能と喪失の物語、という三者を媒介することで、単なる天才少年ではなく、才能という主題を内面化させた「運命の被造物」として読解可能になる。彼の登場時間が少ないにもかかわらず、作品全体に対して音楽的メタファーとしての深層構造を与えているのは、この複数の参照項を通じた密度の高さによるものである。

 

壮大な音楽が主流となっていったロマン派以降の時代では、ヴァイオリンはオーケストラを構成する楽器のひとつで、演奏家個人の力量に関心が向けられることはあまりない。しかしロマン派以前のモーツァルトハイドンといった古典派音楽がメインだった一八世紀後半から一九世紀初頭の人々は、演奏家個人が曲芸の技術を披露するというスタンスのコンサートに強い関心を抱いた。それまで音楽を鑑賞できたのは貴族など格式高い身分だけであったが、時代の変容により一般市民でもコンサートを主体的に観に行くことが可能となり、嗜好として音楽を楽しめることができるようになっていったのだ。パガニーニの演奏は当時の演奏家のなかでも相当の技巧であり、その唯一無二さから聴衆が感銘を受けるほどのものであったとされており、「個人の演奏」にスポットライトがあてられた時代はたしかに存在したのだ。上条のヴァイオリニストとしての才能を表現するとき、「演奏」の描写が有効であった理由はここにある。


そして、幼心にソリストとしての恭介の姿に感動したさやかだったが、これは「個人の演奏」というよりは「恭介の演奏」に感動したと捉えるのが自然だろう。クラシックの教養を持たないさやかが上条に薦める音源としてパガニーニのような技巧的な音楽ではなく、ラフマニノフを選んだのは、こうした音楽文化の変容により楽器の演奏に対する聴衆の関心が変わっていった歴史的背景が考えられる。一方で、既存のアニメのクラシック音楽の引用との差別化を図りたかったからという見方も可能である。エッセンスとしてはロマン派以前のバロック派/古典主義の音楽を取り込みたいところだが、しかし古典派の音楽をただ流すだけではありふれたアプローチに陥ってしまう。そうした基準で選んだのが、チャイコフスキーの影響を受け、ロマン派時代の作曲家でありながらロマン派以前の形態を導入したラフマニノフなのかもしれない。

標題音楽から魔法少女へ──ベルリオーズワーグナーの幻想が導く『まどか☆マギカ』音楽美学》

標題音楽そのものの概念はバロック音楽のヴィヴァルディの春夏秋冬をモチーフとした『四季』や、ベートーヴェン交響曲第6番『田園』などに代表されるように風景や情景などを主に取り扱っていた。そこにベルリオーズが個人的な体験に基づいた「物語」を入れたことによって、その後の標題音楽における定義が拡張され、後続のワーグナーに繋がる役割を果たした。そしてそのワーグナーのオペラ『ローエングリン』からの強い影響がしばしば指摘される『白鳥の湖』を作曲したのがチャイコフスキーなのである。

 

ワーグナーの楽曲はしばしば「ライトモティーフ」という技法が用いられている。ライトモティーフとは特定のフレーズと、登場人物の心情、感情や場面の変化などを表すアレンジのことを指す。ワーグナー作品で有名なライトモティーフには『ワルキューレの騎行』第三幕がある。あの特徴的なフレーズを聴くだけで、九人の戦士のワルキューレたちのメインテーマを想起することができる。

 

ライトモティーフは音楽的に象徴的な意味合いを持つため、映画音楽の分野においてもしばしば用いられる。『スター・ウォーズ』において打点的に流れるオスティナート作用が用いられたあの音楽を聴くことによって、たとえダース・ベイダーが登場していなくとも、あるいは映画そのものを観ていなくとも自然と帝国軍のイメージが浮かび上がる。

このようなライトモティーフの礎をベルリオーズは『幻想交響曲』にて作った。それはイデー・フィクス(固定観念)と呼称されるもので、楽曲内において明確にシーンを打ち出すときにより強調したメロディが流れる。これが特に顕著なのは第四楽章の『断頭台への行進』と第五楽章『ワルプルギスへの夜の夢』である。第四楽章は断頭台という言葉からギロチンによる処刑のイメージを連想できる。

 

全楽章において物語という要素を加えたことが画期的であった『幻想交響曲』は、中盤までは明るい幻想的な音楽である。それが第四楽章で一転する──聴き手はここで初めて音楽によるグロテスク描写を体験することになるのだ。前半/中盤までは壮大なオーケストレーションで進むが、終盤で緩急をつけたかのようにクラリネットのソロが入る。その後すぐ管弦楽器による強烈なワンフレーズを入れたのちに、ピチカートが挿入される。これはクラリネット=断頭される側であり、断ち切るような管弦楽器の一撃は断頭をする側を表現しており、後に聞こえるピチカートまでもが何を意味するかまで丁寧に描写している。これは『まどか』の第三話でドラマが一転することに近い感覚と言える。第四楽章の「断頭台の行進」というタイトルは、『叛逆の物語』でほむらが断頭台に引かれていく描写そのものである。第五章の『ワルプルギスへの夜の夢』は物語としては魔女たちの宴という描写の章にあたるが、それらの不気味さを表すための音として鐘の音が低音楽器の合間に流れたり、小クラリネットの高い音とピッコロとの兼ね合いのメロディが重なることで演出している。

 


このように『幻想交響曲』では物語の世界観や、ギロチンの描写を音で表現することを可能にした技法こそがイデー・フィクスであり、後にそれをワーグナーがライトモティーフ(示導動機)として置き換えたことで後の映画音楽シーンにおいても使われるようになった。こうした背景を踏まえると、『まどか』における特徴的な音というのは、ベルリオーズに端に発し、ワーグナーの血脈を受け継いだチャイコフスキーの音に見出すことができるだろう。フルートやヴァイオリン、グロッケンシュピールチェレスタが持つ幻想的な可愛らしさは、三大バレエ楽曲を通すことで聴く人に「魔法」をかける。やがてはそういった表現が『まどか』の音楽に繋がるのだ。

 

以上のことから『まどか』はドイツ文学の血を引き、フランス詩学シュルレアリスムの美学を組み合わせたものでもあり、そしてロシア・ロマン派時代の音楽を採用していると言うことができる。ゆえに、現代アニメにおける芸術表現の記念碑的作品なのである。

おわりに

本稿ではシャフト作品における音楽と映像との作用について述べてきた。〈物語〉シリーズではミニマル・ミュージックとシャフトの映像との相互性、『まどか』ではシュルレアリスム的な表現やチャイコフスキーの音楽を中心的に扱って作品論的に論じてきたが、あくまでも主軸は音楽と映像である。

 

唯一の心残りとしては、本来であれば梶浦や、ClariSの楽曲における編曲家の湯浅の音楽性についても述べるつもりではあったが。それらを読み解く部分的な要素は提示できたはずなので、より詳しく知りたいという読者は当論考を参考のひとつにしていただけると幸いである。人間の脳というのは面白いもので普段意識を巡らせていないことや考えてもみなかったことが、ほんの些細なきっかけで見えてくる。当論考の場合、それは『叛逆の物語』の主題歌であるClarisの『カラフル』のイントロにあった。

 

同じく『まどか』の主題歌である『コネクト』や『ルミナス』が同じ型であるのに対して、なぜ『カラフル』のイントロはあの音から始まるのか、という点について考えを巡らせた先に、グロッケンシュピールチェレスタの果たしている役割が同義であるという点に気が付いた。そしてそれらの音色を活用した音楽として同じく魔法がメインモチーフである『ハリー・ポッター』のメインテーマや、チャイコフスキーの『くるみ割り人形』のチェレスタ作用について考えた。そこから濁流のように文学やクラシック音楽との共通項を導き出し、それらがすべて螺旋的に『まどか』の文脈に繋がったことで、当論考を書き上げることができた。

 

また〈物語〉シリーズについてはミニマル・ミュージックに軸足を置いて、映像においてどのような効果を持っているのかという点について考えてきた。これまでそのような具体的かつ、仔細な考察がなされていなかった現状を踏まえると、このような形で寄稿文章の改稿版をブログで発信できたことが、なにかのきっかけのスタートとして機能すれば幸いです。


文章:rino

校閲・推敲 :あにもに(シャフト批評同人誌寄稿版)

サムネイル制作:otaku can change the world

*1:『SPEC』の「波のゆくさき」とほぼ同型

*2:同期言及

*3:本人言及

中国語ポップの現在地─マンドポップおすすめ盤とVsingerという入口から見る、声調性・表音・字義 

今回はいつもと少し趣向を変えて、紹介系のテイストで書いていきたいと思います。後少しだけ実験的な書き方してます。扱うのが日本語圏の楽曲ではなく、英語でもない「中華圏(zh)のポップス」だからです。ここには、ネイティブではない側から聴いたときにこそ立ち上がる面白さがある。その「非zh圏からの可聴体験」という目線から、向こう側でのV的なあり方や文化的な位置づけ、そしてマンドポップという文化圏のアルバムを、いくつか軽く紹介していければと思います。よろしくお願いします。初見は堅苦しいと思うので、以下の記事でまずノリを事前把握していただいた方がいいです。

 

 

さて、まずマンドポップとは何かという点について。Mandarin popular music の略称で、普通話(標準中国語)で歌われるポップス/大衆音楽を指す呼び名を指します。 重要なのは、これが特定のサウンド様式を指すジャンル名というより、まず「歌唱言語」で交通整理するためのラベルとして働いている点である。中国語ポップの世界には、広東語で歌われるカントポップ(Cantopop)なども並立しており、マンドポップはその対比項として「普通話で歌われる側」をまとめて指す便宜的な括りでもある。

したがって射程は常に必然的に広い。バラードも、ラップも、ロックも、エレクトロも、「普通話で歌われる」という一点で同じ棚に収まる。言いかえれば、統一されているのは音色や構造というより、制作・流通・リスナーの回路を束ねる言語のほうだ。より上位の呼称として C-pop(Chinese popular music)があり、その内側にMandopopが置かれる、と理解しておけば混乱しにくい。

本稿ではマンドポップを、ひとまず「普通話で歌われるポップス」という実務的な意味で扱う。Vsinger由来の楽曲やアニメ主題歌のように、別のプラットフォームから流れ込む歌ものも含めて、このラベルで括ったうえで、非zh話者の耳において「字義より先に音節の刻みと声調のうねりが前景化する」という聴こえ方の構造まで含めて、面白さを記述していきたい。

 

 

Vsingerについて

Vsingerは、中国・上海の「上海禾念信息科技有限公司(上海禾念)」が立ち上げた中国語バーチャルシンガー専門レーベルで、日本でいうクリプトン社的な立ち位置です。

ただし、それが単なるVOCALOID音源の集合ではなく、「歌声合成技術+IP運用+ライブ演出」を丸ごと束ねたブランドとして設計されているという点が特徴的。

それは、上海禾念という会社自体が、2011年創業の音楽ソフト開発会社でありYAMAHA/Bplatsと協力して中国語VOCALOIDを開発した「VOCALOID CHINA PROJECT」であったり、その後身のVOCANESEを経て、現在のVsingerへと発展してきた歴史をもつからです。

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日本でいえば「Daisy Project」以後のボカロや、イギリス発のボカロから考えればかなりの新参だなと思う一方で、zh圏ではvの先駆けは『超時空要塞マクロス』のリン・ミンメイからはじまり VOCALOIDの流れと、初音ミクそしてKIZUNA AIと定義している。自分なんかは、以前の「ボーカロイドの現在地」の原稿でも書いたが、出発点はどう考えてもIBM7000シリーズおよびその想像力から生まれた『2001年』のHAL9000だろとか思うのです。だってDaisy projcetって『Daisy Bell』を歌ったことが起因となっているわけですし。


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多分定義づけとしては二次元で歌物でというディティールの上でどうか、ということなので、その意味でミンメイなのかなと。『愛おぼ』はそれはそれでアンセムなんだよなぁということですね。いや当たり前ですが。

愛・おぼえていますか

愛・おぼえていますか

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面白いのはここからで公式サイト上で「虚拟歌手厂牌(バーチャルシンガーレーベル)」と定義されるVsingerは、歌声合成、ARといった技術を統合し、歌手としての活動からライブ、キャラクタービジネスまでを一括で運営するのが他と変わったところ。二次元ACGN (アニメ・コミック・ゲーム・小説)とひとくくりに考えるスタンス含め、総合力で勢いをつけるスタンスであることが伺えます。

現在所属するバーチャル歌手は、洛天依(ルオ・テンイ)、言和(ヤンホー)、乐正绫(ユエジョン・リン)、乐正龙牙(ユエジョン・ロンヤ)、徵羽摩柯(ジーユー・モーカー)、墨清弦(モー・チンシェン)の6名で、それぞれに年齢設定や性格、担当楽器、イメージカラーといった細かなプロフィールが用意されており、「ボカロ音源」であると同時に、ポップスシーンに登場するトップアーティストという枠組みに属している。

そして、中核にいるのが洛天依。2012年の「VOCALOID™ CHINA」デザインコンテストの優勝案をもとに誕生した中国語VOCALOID第1号。そしてVOCALOID3〜5世代を通じてアップデートされた後、現在はAI歌声エンジン版も展開されているという、いわば「Vsinger の顔」としての立ち位置に相当する。ホームページがなかなか稼働(開かない)していないのがこういう時に傷。

このヴァーチャルアイドル市場全体の規模推移のレポートが案外役に立ちました。ここで書いているソースもここを起因にしています。本当はページをスクリーンショットして、貼りたかったのですが向こうの世界ということもありそもそも当然の態度ではありますが自重します。リンクは繋げているので興味のある方はぜひ。

そしてこのzh圏最大の洛天依における日本との接点としては、じん(自然の敵 P)が『カゲロウプロジェクト』の文脈から楽曲『T.A.O』を提供したことが、おそらくいちばん大きい。

T.A.O.

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本来であれば、ここにさらに「没カゲプロ曲」として知られる『draw』が乗っていたはずで、もしこの曲が正式リリースまで至っていれば、日本国内では「カゲプロを通じてメジャーになった Vsinger」というルートが、かなり強固に共有されていたと思われる。

さらに「draw」は、カゲロウプロジェクトの新スピンアウト企画 「カゲロウデイズ No.9」のテーマ曲を予定しており、今回はそのライブバージョンとしていち早く披露することとなった。「T.A.O.」については10 月18日に日本と中国で同時に楽曲配信を予定しており、さらに 同時にミュージックビデオも解禁する予定となっている。

逆に言えば、この「No.9になり損ねたカゲプロ楽曲」が宙づりになったことこそ、日本において Vsinger がいまいち定着しきれなかったの要因のひとつなのかもしれない。『No.9』さえ企画としてしっかりと動いていればという話ですね。

カゲプロ本編の「正式な一曲としての洛天依」が存在していたなら、カゲプロファンが自動的にVsingerに接続される導線ができていたはずだし、その場合、日本におけるマンドポップへの需要やVsingerそのものの受け皿は、少なくとも洛天依周辺には形成されていた可能性が高い。結果として、その浸透は洛天依にある程度限定されていたかもしれないが、それでも、現在の「ほぼ見えない存在」である状況と比べれば、はるかに透き通った輪郭を持った存在にはなっていただろう。「zhボカロの音」を一度、標準的な青春文脈で聴かせるという役割を、ある程度担っていたことを考えると、その原型をかろうじて象徴しているのが、じんによる『T.A.O』のリリースだとも言える。

「カゲプロの一曲として聴いたら、発音もノリも違うけど、これめっちゃ良くね?」という体験から入るのが、一番太い入り口だったはずであり、その入口を丸ごと担当できるポジションにいたのが、楽曲『draw』と、その歌唱を担う洛天依だった。しかし、この組み合わせは正式なリリースには至っていない。

サンプルボイスというか、初音ミクにおける藤田咲的な意味でのベースの声は、声優の山新氏が提供している。彼女は『羅小黒戦記』でも中国語版でメインを張っている人気声優であり、その意味でも「洛天依」というキャラクターと声の基盤は、すでに zh圏ポップカルチャーのど真ん中に組み込まれていると言っていい。名前にあたる「洛天依」自体も、中国古典文学・神話(洛神、天籟、美しい淑女)に由来する意味づけがなされている点や、Bilibili・Weibo・TikTok・贴吧などで膨大な再生数と投稿数を持つ、中国オタクにおける象徴的存在といっていいだろう。実際、2019年にはピアニストの郎朗と上海メルセデス・ベンツアリーナで共演する単独コンサートを開催、国内外メディアから「中国で最も人気のあるバーチャルアイドル」「中国デジタル文化の象徴」といった位置付けを受けている。

 

他のメンバーもそれぞれ、ロック寄りの乐正绫、低音男性ボーカルの乐正龙牙、室内楽・エレクトロ寄りの徵羽摩柯、しっとりした大人声の墨清弦、クール系女性ボーカルの言和という役割を担い、ソロ名義アルバムやEP、合同コンピ、3Dホログラムを用いたワンマンライブ「Vsinger Live」などを通じて、マンドポップの一翼を担うバーチャルシンガー群像として機能している。

言いかえれば、キャラクター設定とビジュアルが先に立ちながら、その声の中身はボカロとAI歌声で構成され、それらを一つの事務所がIPとして一括運用しているという点で、バンドリ的キャラ音楽、初音ミク的ボカロ文化、Vtuber事務所的なタレントマネジメントの三つを同時に体現するブランド、それが「Vsinger」である。

『時光代理人』のOP/ED/キャラソンにみる言語感覚-声調と漢字文体

日本語でポップスを聴くとき、我々はかなり無意識に「文節+軽い韻+情景」のセットでフレーズを受け取っている。

例えばフレーズとして「メロンソーダ、おいしそうだ」という一行なら、

メ|ロ|ン|ソ|ー|ダ|お|い|し|そ|う|だ

この並びが、「ソーダ/そうだ」の母音の揃いをちょっとした韻として響かせつつ、「炭酸飲料」と「食欲」の情景までまとめて立ち上げる。句としての輪郭と、韻と、イメージが一塊になって、気持ちよく耳に残る。

ところが、中国語のポップスやニュースを日本語話者が聞くとき、この「句としての快感」はほとんど作動しない。

准备 准备 你们两个 东西
都带齐了吗

のような、意味としてはきわめて普通の会話文も、耳には

zhun bei zhun bei ni men liang ge dong xi dou dai qi le ma

という、一音節ずつ均等に刻まれた CV の連鎖として届き、声調的にしか聞こえないリズムになる。

『Map of Dreams』冒頭のこの一行は、ネイティブにとっては単に

「準備 準備 二人とも荷物は全部揃った?」

と話しかけるフレーズである一方で、他言語話者の耳には意味が剥がれ落ちた声調のグリッドとして前景化する。

Map of Dreams

Map of Dreams

  • 乔苓, 陆光, 程小时 & 夏斐
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『歡迎光臨』も同じだ。

欢迎光临

欢迎光临

  • 娜迪热
  • マンドポップ
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冒頭の

huan ying guang lin

という四音節のうち、日本語耳が素直に拾えるのは最後の /lin/ に近い「リン」くらいで、残りは「ファン」「イン」「グアン」的なある種の異物の束として脳では処理される。声調パターンは本来 1声-2声-1声-2声といった精密な高さの配列を持っているのに、非ネイティブには「最後にリンで着地する、よく分からない四拍フレーズ」にしか聞こえない。

 

ここには、中国語の二重構造がそのまま現れている。一つは、漢字としての意味レイヤーだ。準備/光臨/方向といった語は、文字列として強い意味ブロックを持っている。歌詞を読めば、まずこの塊が立ち上がる。もう一つは、発音したときの音声レイヤーである。漢字一字ごとに声調(高低パターン)が付与され、ニュースであれポップスであれ、「huan」「ying」「guang」「lin」といったCV一拍の連鎖の上を、1〜4声の高さがうねる。中国語は「アクセント言語」ではなく「声調言語」なので、本来はこの高さのパターン自体が意味の識別に関わっている。ここでも中国語(声調言語)と韓国語(イントネーション言語)とで似て*1非なるものであることも重要だ。

ネイティブはこの二つを同時に処理しているが、外側から聴くと、前者の「表意」の層がごそっと落ち、後者の「声調+リズム」だけが残る。そしてこれは、『時光代理人』の「3,2,1!」のようなポップスでも変わらない。

3,2,1!

3,2,1!

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我不想讓每個終點都沒有意義
wo bu xiang rang mei ge zhong dian dou mei you yi yi

といった行は、テキストとして読むと「どのゴールも無意味にはしたくない」という、わりと重めの一文。ところが可聴的には、

wo | bu | xiang | rang | mei | ge | zhong | dian | dou | mei | you | yi | yi

というように 13 拍のツブにバラされ、しかも声調はメロディラインに引きずられて崩れることが前提になっている。これによって、漢字で見たときの「文のまとまり」と、歌として聞いたときの「音の流れ」が大きくずれてくる。

我不想遵循著
規則習慣著凋零

wo bu xiang zun xun zhe
gui ze xi guan zhe diao ling

も同じだ。歌詞としては「ルールや習慣に従ってしぼんでいくのは嫌だ」というメッセージだが、歌になると

wo-bu-xiang-zun-xun-zhe | gui-ze-xi-guan-zhe-diao-ling

のように、意味上の行末できれいに切れるのではなく、ビートとメロディの都合で真ん中から跨いだりする。文字列=意味の区切りと、音列=声調とリズムの区切りが、徹底的に別レイヤーで動いている。

ここには、「耳は自分の母語のフォーマットでしか聞けない」という、どうしても避けがたい前提も効いてくる。良し悪しではなく、第一言語をどれに持つかで、第二言語以後の楽曲は、本質的には「直感で理解できる単位」が限られてしまう。日本語ならCV一拍+高低アクセントで、英語ならストレスアクセント+母音長短で、そして中国語は徹底して声調+音節リズムで語感が動く。

日本語話者の聴覚システムは、音をまず日本語っぽいCV列とイントネーションに丸める装置としてチューニングされている。そのフィルターを通すと、普通話

wo bu xiang rang mei ge zhong dian dou mei you yi yi

は、最終的には

「を・ぶ・しゃん・らん・めい・ぐ・じょん・でぃ・やん・どぅ・めい・よう・いー・いー」くらいのカタカナ列+謎イントネーションにしかならない。ここで既に「構造的に」意味レイヤーの大半が落ちている。

要するに、中国語側はそもそも二重構造を要求してくる。

・漢字=表意文字としての意味ブロック
・発音=声調付きの音節グリッド

ネイティブはこの二つを同時処理しているが、非zh勢は文字と語彙を持っていないので、漢字レイヤーがまるまる欠落する。

残るのはCV一拍+謎の高低パターンの列である。ニュースが全部「いーりんしゃーうーちん」的に聞こえてしまうのは、まさにこのフィルターの結果だと言っていい。

 

と同時にこの曲は、声調の面白さを超えて、発声と意味合いそのものが立ち上がる。

作品内キャラソン以上の厚みがあると思う。例えばこのあたり。

我明白要回来

永远有下个风暴袭来只为掩埋

未来 未来

我们的存在

究竟是洁白还是陷入新的阴霾

无论一切是否更改

この「未来未来」がとにかく気持ちいい。周辺のフレーズは声調のうねりとして届きやすく、原理的に音だけだと意味を掴みにくい。その中で「未来」は普通話でwèi·lái、つまり「未来」という意味そのものを指す。同じ音節でも声調が違うだけで意味が割れるからこそ、非ネイティブの耳には「意味より先にピッチ輪郭がくっきり来る」。だからこれは非常に聴き取りやすい。

この異常なまでの気持ちよさと、声の通りの良さの核心は、wèi·láiが4声から2声へ、つまり「落ちたあと上がる」という輪郭を2拍でやる点にある。しかも子音がw、lで、破裂音みたいな硬いアタックが少ない。母音もei、aiで抜けがよく、結果として「ウェライ」という音型が、声調込みで透明に立ち上がりやすい。

だからこの一語は、発声として気持ちよく、歌詞として意味が直結し、作品を知っている人なら三人の関係性や帰還のモチーフまで背負って刺さる。非ネイティブだからこそ「声調の快感」と「漢字の意味」を別レイヤーで二重に味わえる歌詞になっている。

 

もう一箇所、それに同等に感じる一節があります。それは、

dive

英語でありながら、ここには4層の意味が重なっている。

第一に声調圏の身体が発する英語としてのdiveであり、発声そのものが「作品外の英語」とは少し違う輪郭を持つ。

第二に、英語が分かる層にはdive=潜り込む/飛び込むという行為がそのまま直結し、想像力が即座に駆動する。

第三に、『DiveBackInTime』という一期OPから通底する、「写真へ潜り込む」作品内のルールとしてのdiveがある。

第四に、diveという語彙を知らなくても、音の響きだけで「落下/突入/勢い」を感じさせる点だ。音と意味が必ずしも無縁ではない、と思わせる強度がここにはある。

この四重性は、『3,2,1!』と『DiveBackInTime』と『時光代理人』を知っているかどうかを通り越して、「言語が分からなくても分かってしまう」側へ落ちていく感覚に近い。

同じく、先述に挙げた『欢迎光临』においても全く同じ効能をもつ歌詞がある。

我在 等待 美好 降临 

まず、意訳の観点から読み解くと

 

我在等待美好降临=私はいま、良いもの(美しいもの)が訪れるのを待っている。

 

となる。これはこれで、歌詞としてたった8語でこれだけの情報量を詰め込められるという点でやはり、日本語とは性質が異なる。そして発音分解すると綺麗になる。

・wǒ·zài·děng·dài·měi·hǎo·jiàng·lín 

これを分解すると

・wǒ3zài4děng3dài4měi3hǎo3jiàng4lín2。

さらに語彙声調として転換すると

・3(wǒ)-4(zài)-3(děng)-4(dài)-3(měi)-3(hǎo)-4(jiàng)-2(lín)

もっと砕かせると

・我wǒ(3)|在zài(4)|等待děngdài(3+4)|美好měihǎo(3+3)|降临jiànglín(4+2)|

また、面白いのが3-4-3-4-3-3-4-2で並んだ場合、第三声+第三声(美好のměi3hǎo3)が並ぶと一語として纏まるように聴こえる。ということは必然的に、前が第二声(mei)に発声として傾きやすく、可聴的にはméi(2)hǎo(3)=méihǎoになりやすい。

これは一般的に、いわゆる你好(ニーハオ)がnǐ3hǎo3→ní2hǎo3と同じである。つまりnǐ(ii)・haoがníhǎoにとなり流動性のあるニーハオになる、というのと同じ原則である。haoが三語である時に「ハオ」の部分は「ハオ↓」と下降することと同義で、第三声は会話だとフルの3声としては、下がって上がる(ハオ↑)という発音にならず、下がるだけの半三声で出ることが多い。結果としてこの一行は、3-4-3-4で刻んだあとに(美好)で上昇が入り、(降临)の4-2で落ちて上がって着地する。意味が追いつかない耳でも、ピッチ輪郭だけが透明に残るという組み合わせになっている。これらを踏まると、逆に全世界共通語となって久しい英語の場合、同曲にあるような

Day and Night

というフレーズを聴くとき、我々はそれを表音的な単語列として、その音と韻とビートを味わっている。

対して「準備準備 你們兩個」は、漢字としては徹底的に表意的でありながら、可聴的には声調付きの音節列としてしか拾えない。このギャップこそが、「マンドポップを意味が分からないのに聴けてしまう」という奇妙な経験の正体になっている。

 

例えば「我絵駄描」という造語を考えると、文法は一度傍に置くとして、漢字圏内の人であれば字形と意味の連想ゲームとしては

我=わたし/絵=え/駄=ダメ/描=かく

くらいは認識できる。見たときは漢字の意味だけで「絵がダメな自分」くらいは想像できる。一方で、声に出した瞬間、各言語ごとのローカルな音の実装だけが立ち上がって、共有されていた意味のイメージは霧散する。漢字文化圏は、大雑把に言えば

字形(見た目の形)/字義(意味)/読み(各言語ごとの音)

という三層構造で動いている。基本的には字形と字義はゆるく共有される一方、「読み」は国と言語ごとに完全にバラバラだ。「我絵駄描」は、字形と字義だけで何とか通じているが、声にした瞬間、共有部分がほとんどゼロになる。マンドポップやVsingerを非zh側から聴いているときに起きているのも、実はこれと同じで、画面に歌詞が出れば漢字のおかげでなんとなく意味は掴めるが、音だけになると、各音節の高さとリズムだけが残って、「我絵駄描」状態で意味がスルッと落ちる。

 

要するに、非zh側の耳では「意味が回収できる単語」だけが支えとして残り、もう言い方は声調とリズムのグリッドにほどけるということだ。

ここまで来ると、非zhから見た「声調×ボカロ」は、現象としてかなり面白い位置に立っている。意味がほぼ剥がれた声調ラインだけを味わえるというのは、ネイティブではなかなか体感として落としにくい。それは「意味」をミュートした状態で声調グリッドだけを聴く体験に他ならないからだ。中国語は、ピッチ=意味(声調)と、リズム=プロソディ=抑揚/強さ/長さ/間で構築されている。

非zhにとっては、最初から「意味のないピッチパターン」として入ってくるので、「声調を持つ言語」を音楽エンジン側から観察できる。

それがボカロ/Vsingerになると、

・もともと漢字は「意味のかたまり」

・それを声調付きで歌うときに、意味と音が二重構造になる

・さらに合成音としての歌声と、バーチャルキャラとしてのパフォーマンスが乗る

という多段レイヤー構造になる。非zhから見ると、そのうち上の二層(意味と言語)はかなり薄まり、下の二層(声とパフォーマンス)だけが異様にクリアに浮き上がる。『時光代理人』は、その上で英語/中文ハイブリッドやラップを投入して、複数パターンでこの構造を揺らしているわけで、ここまでくると、さすがに「単なる歌もの付きアニメ」とい枠組みで済ますにはもったいない。

Dive Back In Time (动画《时光代理人》片头曲)

Dive Back In Time (动画《时光代理人》片头曲)

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第一期のOP『Dive Back In Time』は非zh側からすると、「Dive Back In Time」は完全に意味が取れる語彙圏内で、作品のコンセプト(時間逆走)を一撃で言い切るキャッチでありながら、「dive」という映像の写真に飛び込む感覚まで含んでいる。だから、ここで一度「意味がくっきり立ち上がる」。この意味の杭があるから、その前後でどれだけ中文が電波化しても、曲全体がどこに向かっているかだけは外さない。

 

実際には、この曲は全て英文だが、声調言語話者の身体が発する母音処理が残る。意味がわかる英語で構築されている以上、装飾としてのzhという形で可聴に落とし込めるということだ。

同時にこれは、声調圏のシンガーが英語を歌うときのイントネーションでもある。ネイティブ英語の平坦さや抑揚とは微妙に違うアプローチが前提となる。つまり「声調言語の身体を持った人間が発する英語」という点で、すでに英語と中文のハイブリッドな音のあり方そのものになっている。文字上は100%英語、意味も完全に英語圏の文法で成立なのに、発音/イントネーションは単位では「声調言語の身体で発された英語」というのは、非常に面白い。歌詞や曲以上に声調の発音の癖そのものが与える効果作用というものが考えられるからだ。全部英語のフレーズでも、どの部分で上がる/下がるか、あるいはフラットを保つかが、英語ネイティブのイントネーションと微妙に違う。dive back in time みたいな一撃フレーズすら、よく聴くと「英語っぽい」と「どこか普通話的な響き」を引きずってる。これは歌詞を何にしようが、曲をどう書こうが、「声がその身体を持っている以上ついてくるクセ」と整理できる。だからこそ、歌詞や曲以上のレベルで支配してる要素となる。

では、これらの英中が混ざるとどうなるか?を地で説明しているのが一期のED楽曲にあたる『OverThink』である。

OverThink (动画《时光代理人》片尾曲)

OverThink (动画《时光代理人》片尾曲)

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実際の歌詞を引用してみると以下のような流れとなっている。

我渴求能够回到从前
但却被这狂潮死死咬住
这旧胶片的气味还弥漫在我这屋子里
这若千年过去了我是否还能做我自己

I got lost in the
history that I'm living in

Or maybe I should
just quit
overthinking

中文部分は意訳をすると

昔に戻れたらと渇望している

でもこの狂った潮流にがっちり噛みつかれて離れられない

古いフィルムの匂いがまだこの部屋に漂っている

もし何千年も経っていたら、私はまだ自分でいられるのか

となっている。そこに英語に切り替わる箇所が出てくる。ここだけ日本語話者にも一発で意味が立ち上がる場所で、

history that I'm living in=自分が生きている最中の歴史に迷子になる感覚
overthinking=EDタイトル

になっている。つまり、情景描写は中文、メタな自己診断とラベリングは英語と役割分担されていて、非zhの耳からすると「声調」で流れていく映像的な中文と急に意味がはっきり見える「英語の独白」、そしてまた中文の声調グリッドに戻るという波を何度も浴びる構造になっている。

『Dive Back In Time』が「歌詞はすべて英語だが、声自体が声調圏の身体」というハイブリッドだったのに対して、『OverThink』は歌詞レベルでも英中コードスイッチを内包し、lost や overthinking といった英語フレーズが「意味のアンカー」として、中文の声調バラードのなかに点在している。

和訳で俯瞰すると、

「時間を逆行したいという欲望(中文)」
「今生きている歴史の中で迷子になり、考えすぎている自分(英語)」

というふうに、二つの言語が別レイヤーで鳴っているのが見えてくる。そしてこのやり方は、「視聴者の側に中国語話者が大量にいる」という前提があってはじめて成立する設計でもある。中文話者には情景と比喩がダイレクトに届き、非zh勢には英語だけが意味の杭として残り、そのあいだを声調とビートが橋渡しするという三層構造を前提にしたEDだと言える。『時光代理人』二期でもこの関係性は、OP『VORTEX』とED『The TIDES』によって崩されていないことを踏まえると、『時光代理人』が国際プラットフォームで評価された理由は脚本面・映像面だけでも十分に説明できる一方で、同時に「zh作品であるからこそ」生まれた歌唱・楽曲の妙があると言える。

VORTEX (《时光代理人第二季》动画片头曲)

VORTEX (《时光代理人第二季》动画片头曲)

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The TIDES (《时光代理人第二季》动画片尾曲)

The TIDES (《时光代理人第二季》动画片尾曲)

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ここまできて、一つ可逆性として言えるのが

「zh圏の人が日本語の楽曲を歌ったら?」という点である。

そしてその例も当然存在する。

夏铜子(Xia Tongzi)さんが歌っている楽曲はその最たる例である。この方は、中国(上海)を拠点にする女性シンガーソングライターの方ですが、一方で「日本の東京生まれで、10歳ごろに中国へ戻った」という経歴を持つ方です。そんな夏铜子さんが歌っている、象徴的な楽曲を挙げるとすれば游戏《云图计划》のOSTに収録『絆のオンパレード』であろう。これはzh圏の人が声調をもって日本語楽曲を歌うとどうなるか?という点において、非常に考え深い。

絆のオンパレード

絆のオンパレード

  • Vanguard Sound, 赛博传媒-2064 & 夏铜子
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隠しているみたい

の部分に着目してみる。

「かくしているみたい」というよりも、発音は「k,あ」に近い。つまり、発声がよくよく聴くと独特ということ。「か」というより「kあ」という破裂音に近い。これは『笑ウ二重人格 (feat. yoei.)』でも同様なことが起きている。

笑ウ二重人格 (feat. yoei.)

笑ウ二重人格 (feat. yoei.)

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この時、ryo(supercell)はyoei.のボーカルについて、海外の方ならではの発声ということを以前、有料のセルマガで述べていた。

plugplus.rittor-music.co.jp

そして私自身が、海外在住の外国人ということもあり、「笑ウ二重人格」はセリフが多い楽曲のため、高い壁を感じていました。

具体的な内容は伏せるが、要するに今回、zh圏において声調性によってもたらされる発声の差異と本質的には同じで「日本人」の発声とは異なる「発声」を海外圏の人の歌い方は持ちうる、そしてそれは、武器になるということ。

 

韓国の楽曲を実際に例に取ってみる。最近勢いが熱いでお馴染みのHearts2Heartsにしても、やはり声調というよりもアクセントにより歌い方の方に特徴があります。それらが言語として日本語を歌うと、いい意味で変動さが起きるということ。『STYLE』『FOCUS』における韓国語と英語の混合も「発声」よりもプロソディが持つ強さ・長さ・句末の上げ下げが英語フックとがどう噛み合うか、という観点で「声調言語ではないが、ピッチを表情としてどう楽曲として立たせるかが先にある。

STYLE

STYLE

  • Hearts2Hearts
  • K-Pop
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FOCUS

FOCUS

  • Hearts2Hearts
  • K-Pop
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冷鸢yousaにみる「声質」におけるカバーについて

同時に、声調の上に息多めのハイトーンを乗せてくる冷鸢yousaが歌うと、それはそれで「語数少ない英語+謎言語+浮遊系サウンド」というポジションとして聴こえてくるのもポイントであろう。声質に依拠するという意味では、日本語圏内では声優ソングがいちばん「表音」としての成り立ちでは近い。しかしここでは、声調と実際の字義が、声によってどう包み込まれ、別の聴こえ方を獲得しているかについて述べてみたい。

远旅休憩中的邂逅

远旅休憩中的邂逅

  • 泠鸢yousa
  • マンドポップ
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『远旅休憩中的邂逅』の歌詞をみてみよう。

拨弄噼啪响的火星笑谈
迷茫怀疑的过去 平淡无趣的生命

漢字だけで読むと、これはかなり重たいフレーズだ。「ぱちぱちと火の粉を弄りながら笑って話す」「迷いと疑いに満ちた過去」「平凡で退屈な生命」といった、人生観にまで踏み込むワードが並んでいる。ところが、yousaの声がここに乗ると、体感としてはかなり別物になる。

・息多め

・輪郭やわらかめ

・子音のアタックをそこまで立てない

という三点セットのせいで、非zhから聴くと「CV刻み+声調」の角がかなり丸まり、意味の輪郭がにじんだ、ふわっとした光の帯のようなものとして耳に入ってくる。先に見た「純正的な声調」の例と違って、ここでは声質が声調のエッジを削り、重たい字義をやわらかい質感で包み込んでいる。この感覚は、日本語圏でいえば「歌詞をそのまま読めばかなり重いのに、声質が先に立ってしまうタイプの声優ソング」とかなり近い。谷口悟朗監督作における hitomi などは分かりやすい参照点だろう。最も親しみやすいのはやはり『コードギアス』で、散々な展開の後に、あるいはそのフラグとして流れる『Masquerade』『Innocent Days』はその典型である。どっちも英語、日本語で受け止められるが、それだけならではの味がある。

Masquerade

Masquerade

  • Hitomi
  • アニメ
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Innocent Days

Innocent Days

  • Hitomi
  • アニメ
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yousaの場合もそれに近く、漢字としては「迷茫」「怀疑」「无趣」といった、人生の手触りをかなりストレートに語る語が並んでいるのに、実際に耳に届くときには、声調のと声質の柔らかさが前景化して、「意味を伝える歌」というより、「意味をいったん声質の中に溶かし込んだサウンド」として立ち上がる。ここでは、声調と字義が対立しているわけではない。むしろ、字義の重さを声が包み込み、非zh にとっては「意味の尖った部分」を一度オブラートのように曖昧化してから届ける装置として機能している。同じ声調性をもった海外圏でこのテイストを代表するのは『DEEMO』における歌物、とりわけ『Undo』が代表的だ。

Undo

Undo

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拆掉電視
拆掉聲音
拆掉手機
拆掉記憶

漢字で見ると「テレビを外す/音を外す/携帯を外す/記憶を外す」という、異様に分かりやすい命令文の列で、語彙レベルも超シンプルだ。一方で、音として聞くと

chai diao dian shi / chai diao sheng yin / chai diao shou ji 

という「chai diao」の繰り返し=声調グリッド+子音の刻みになり、非zh耳からすると一気に呪文っぽい電波に化ける。前節では

Let's don't do anything
They want us to do

というように、英語で進んでいるから余計に可聴性的にいえば声調性の挿しこみは面白く聴こえてくる。

つまり、歌い手の声質が乗ることで、それは「電波っぽいのに、丸みを帯びたかわいさを持つマントラ」として成立してしまう。テキストとしては漢字のおかげで意味が透けて見える一方で、サウンドとしては意味がざっくり剥がれ、「chai diao」という音型だけが前景化し、ほとんどマントラ化する。字義・声調・声質が三層でズレながら重なり、そのズレそのものが「気持ちよさ」になっている。

この「声が強すぎる」現象は、目線をずらせば声優ラジオにもかなり近い。内容が薄くても成立してしまうのは、脳が声だけで相手のキャラを瞬時に立ち上げ、「信頼できそう」「距離が近そう」といった印象を高速で作ってしまうからだ。だから話の中身は、極端に言えば「声を浴びるための口実」になり得る。さらにラジオやポッドキャストは「一対一で語りかけられている」という錯覚を作りやすく、疑似的な親密さの回路に乗りやすい。結果として、意味や情報より先に、声そのものがコンテンツとして自立してしまう。

 

ここまで見てきたものが、非zhから見たマンドポップ/Vsingerの魅力のコアである。次はこの感覚が、具体的にどの作品でどう立ち上がるのか。おすすめ盤をいくつか挙げながら、入口を並べていく。

ここは紹介パートなので「66CCFF」を流しながしながら読んでいただければ問題ないです。多分、この楽曲はすぐにハマれると思う。冒頭でだいぶ「共通性」ある電波音楽性があるので結構効くはず。

66CCFF

66CCFF

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・マンドポップおすすめ盤・楽曲

ここではマンドポップ全体のおすすめを紹介していきます。ただし「0からの歴史まとめ」を目的にはせず、現在進行形のシーンへ接続するための入口として、まずはVsinger周辺から抽出する形で提示します。テレサ・テンの時代から掘るよりも、いまのマンドポップを知りたい人のほうが多いはずだ、という前提で、現行マンドポップへ接続するための導線として以下の作品(アルバム/EP/シングル/OSTを含む)を挙げます。この際、ゲーム流行ってないけどサントラ好きという目線で一部ゲームサントラも、「中国語ポップ」ということで込み範囲としています。

(記載例・アーティスト/アルバム・楽曲名)

洛天依/『依如初見』

依如初見

依如初見

・墨清弦/『一曲清歌醉心弦 』

一曲清歌醉心弦 - EP

一曲清歌醉心弦 - EP

  • 墨清弦
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・墨清弦/『金牛座α星, 地球時區5月20日

金牛座α星, 地球時區5月20日

金牛座α星, 地球時區5月20日

  • 墨清弦
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・言和/『聽風言』

聽風言

聽風言

  • 言和
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・徵羽摩柯/『流光夢羽』

流光夢羽 - EP

流光夢羽 - EP

  • 徵羽摩柯
  • マンドポップ
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・乐正龙牙/『朝辞白帝城

朝辞白帝城 - Single

朝辞白帝城 - Single

  • 游九州音乐企划 & 萧忆情
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・泠鸢yousa/『折纸信笺』(書いている時はあったのですが直近JPから聴けなくなった)

赴约四季

赴约四季

  • 泠鸢yousa
  • マンドポップ
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・娜迪热/『欢迎光临』

欢迎光临 - Single

欢迎光临 - Single

  • 娜迪热
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・雷雨心/『Now&Forever (《时光代理人》三周年企划宣传曲)』

・V.A.時光代理人OST/『《时光代理人第二季》动画原声带』(アルバム単位が最近消えた)

The TIDES(《时光代理人第二季》动画片尾曲) - Single

The TIDES(《时光代理人第二季》动画片尾曲) - Single

  • Franklin Zeng & BaishaJAWS
  • アニメ
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・Franklin Zeng/『仙人掌日報社』

仙人掌日報社

仙人掌日報社

  • Franklin Zeng
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・拂言/『失去你的下落』

失去你的下落 - Single

失去你的下落 - Single

  • 拂言
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  • ¥510

・BaishaJAWS/『BaishaJAWS』

在我醒来之后

在我醒来之后

  • BaishaJAWS
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・兰音Reine/『形神合一』

形神合一

形神合一

  • 兰音Reine
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・Vanguard Sound/游戏《云图计划》原声集, Vol. 1&2

游戏《云图计划》原声集

游戏《云图计划》原声集

  • Vanguard Sound, Rabbit J & 赛博传媒-2064
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游戏《云图计划》原声集, Vol. 2

游戏《云图计划》原声集, Vol. 2

  • Vanguard Sound, 赛博传媒-2064 & Rabbit J
  • サウンドトラック
  • ¥2037

・Vanguard Sound/Girls Frontline (Original Game Soundtrack), Vol. 1,2

Girls Frontline (Original Game Soundtrack), Vol. 1

Girls Frontline (Original Game Soundtrack), Vol. 1

  • Vanguard Sound & 赛博传媒-2064
  • サウンドトラック
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Girls Frontline (Original Game Soundtrack), Vol. 2

Girls Frontline (Original Game Soundtrack), Vol. 2

  • Vanguard Sound & 赛博传媒-2064
  • サウンドトラック
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・HOYO-MIX/原神-流変の砂、さやさやと (Original Game Soundtrack)

・HOYO-MIX/崩壊:スターレイル - 制御不能 (Original Game Soundtrack)

・MONSTER SIREN Records/孤星 (Original Soundtrack)

孤星 (Original Soundtrack)

孤星 (Original Soundtrack)

  • 塞壬唱片-MSR
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・KURO GAMES/Dawn over the Ruins(Original Game Soundtrack)

 

今年の記事について

今年は、あと三本出せればいいと思っています。一本は95%の確率でだせます。もう一本は、要素が複雑すぎて自分の頭で文章を構築中なので、そこで奇跡が起これば今年最高の一本をお届けできます。もう一本はかければっていう。

後者はお馴染みの題材です。

*1:普通話では声調が語彙対立そのもので、同じ音節でも高さのパターンが変わるだけで意味が割れる。一方、韓国語(標準語)は語彙の意味を声調で割らず、高低は基本的に文のイントネーションとして組織される。つまり、非母語話者が「高低のうねり」を受け取っているように見えても、その高低が担っている情報の種類がそもそも別物である。

【Diggy-MO'宇宙観楽曲プレイリスト】 Diggy-MO’サウンドの天球譚─SOUL'd OUT・ソロ期・ViRCAN DiMMER・Ave Mujica

本稿はAve Mujicaを軸に Diggy-MO' 宇宙観を整理したMujica論を前提としています。そのため、まず読んでいない方はこちらを読んだ上で、本記事へという形をとっていただければと思います。その関係性で、文意、文章が多少重なる点がありますがMujica論からDiggy-MO'の宇宙論を抽出した記事という位置となっておりますので、あらかじめご了承ください。

sai96i.hateblo.jp

このMujica論では、あくまで「Ave Mujica 側から見た Diggy-MO' 宇宙論」という組み立て方をしたが、本記事では視点を少しずらして、「Diggy-MO' の音楽遍歴だけを、宇宙観という一本の線で追いたい人」の目線でSOUL'd OUT〜ソロ初期から ViRCAN DiMMERの『HOROSCOPE』、Ave Mujicaの初期シングル、ミニアルバムとしての『ELEMENTS』のあり方、そして『天球のMúsica』に至るまでのディスコグラフィーをプレイリスト的に整理していきます。

 

本当は Apple Music のプレイリストリンクをそのまま共有するのが一番手っ取り早いののは承知しておりますが、あれは提示したユーザー側の再生履歴まで丸見えになってしまう仕様なので、であればこちらで整理して記事として提示することで誰でも己で組めるという考えです。

プレイリストは以下の通り(個人的にタイトルはDiggy-MO'×三角初華で達成した天球)

イラストレーターの信澤収さんの三角初華の美しいイラストと共に組むと結構楽しい。

 

『Blue World』 – Diggy-MO’

『PTOLEMY』 – Diggy-MO’

『GOD SONG』 – Diggy-MO’

『Kopernik』– SOUL'd OUT

『HOROSCOPE』 – ViRCAN DiMMER

Ruby Hooty Jack』 – ViRCAN DiMMER

『Zipsy』 – ViRCAN DiMMER

『黙示録 第一章 太陽と月』 – ViRCAN DiMMER

『黙示録 第二章 ラビリンス』 – ViRCAN DiMMER

『黙示録 第三章 牧羊神のカーニヴァル』 – ViRCAN DiMMER

『森のざわめき』 – ViRCAN DiMMER

『別離』 – ViRCAN DiMMER

『Twilight Connection』 – ViRCAN DiMMER

『黒のバースデイ』 – Ave Mujica

『素晴らしき世界 でも どこにもない場所』 – Ave Mujica

『Angles』 – Ave Mujica

『ふたつの月 〜Deep Into The Forest〜』 – Ave Mujica

『Choir ‘S’ Choir』 – Ave Mujica

『神さま、バカ』 – Ave Mujica

『Mas?uerade Rhapsody Re?uest』 – Ave Mujica

『Symbol I : △』 – Ave Mujica

『Symbol II : Air』 – Ave Mujica

『Symbol III : ▽』 – Ave Mujica

『Symbol IV : Earth』 – Ave Mujica

『Ether』 – Ave Mujica

『八芒星ダンス』 – Ave Mujica

『天球(そら)の Música』 – Ave Mujica

『DIVINE』 – Ave Mujica


以下、選曲の基準と時系列の意味について

 

ソロ期の素描/SOでの一曲

『Blue World』では、まだ「世界」は具体的で、生活と都市とブルースが混じり合った「青い世界」として提示される。そこにうっすらと天体・運命・スピリチュアルな視線が入り込み、地上の生活と上空の「何か」を結びつける視線が芽生えている。

 

『PTOLEMY』で、それが一段階抽象化される。プトレマイオスという名前をタイトルに掲げた時点で、地心説的な宇宙モデル=「古い世界の天球観」が、都市生活と同じ座標に引き寄せられている。

ラップはあくまでヒップホップの文法で進行しながら、背後には

円運動としての天/視点としての観測者/中心に立たされた「自分」

という三層構造が見え始める。そして、『GOD SONG』で、そのまま神学的なスケールにジャンプする。神や祈りの語彙がラップの比喩として使われるだけでなく、「音楽そのものが祈りであり、世界の構造そのものに触れてしまう」という感覚が、かなり露骨に前景化しているといっていいだろう。この三曲だけで、すでに現代都市の地平・古代〜中世的な宇宙モデル・神学/祈りとしての音楽が一続きの線上に置かれていて、まだバラバラではあるけれど「宇宙観の部品」はほぼ出揃っている。そこに SOUL’d OUT 側から『Kopernik』が入る。宇宙観としてみた時にSOは本作が一番、その核が出ている。コペルニクスは言うまでもなく地動説の人で、「プトレマイオス的な天球」をひっくり返した人物。

Diggy-MO’名義の『PTOLEMY』と SO 名義の『Kopernik』を並べると、「旧来の宇宙観と、それを書き換える視点」というモチーフが、楽曲の外側で外挿される形になる。

ここまでがソロ/SO 時代の宇宙観の素描と呼んでしまっていいだろう。

ViRCAN DiMMER の『HOROSCOPE』

表題曲『HOROSCOPE』は、そのまま「星占い=星図」。十二星座/黄道を背景に、MC が「十二の炎」を灯す主体として立つ。ここで星座は単なる占いではなく「人生の設計図」であり、「上に描かれた線」が、下で生きる人間の選択や偶然とどう交差してしまうのか、というテーマが提示される。

Ruby Hooty Jack』では、星図がそのまま「賭場」に落ちてくる。夜のギャンブルと酒場、破滅と高揚。運命を読み解く星図は、ここではチップやチケットの形をとってテーブルに落ちてくる。「運命=ギャンブル」観で、「ホロスコープで決まった線を、自分から引き寄せてしまう人間」の物語になっている。その末尾にちらっと名前が出る観測者が『Zipsy』で主役になる。その眠りと覚醒の狭間から、他人の人生を俯瞰し、星や水晶を連想させる言葉で「見えてしまうもの」を語る、ほぼ霊媒/占い師側の視点。
ここで初めて

Rubyの主人公=星図に踊らされる人/Zipsy=星図を読んでしまう人

という、観測者と被観測者の関係が明瞭になる。のちの Ave Mujica における「星図にはない場所」や「星図を読んで逸脱する人々」の原型が、ほぼそのままここにある。

そして「黙示録」三部作。

『黙示録 第一章 太陽と月』では、灼熱の太陽と冷たい月光の間に文明史が吊り下げられる。「宇宙の四元素」「第五の太陽」といった語が投げ込まれ、エンペドクレス的な四元素+何かという構造が、そのままラップ・イメージとして立ち上がる。終盤の「大宇宙の晩餐会」的なイメージまで含めて、これは後年の「大宇宙になる」のプロトタイプだと読んでいい。

『黙示録 第二章 ラビリンス』は、宇宙スケールから一転して都市/精神の迷宮へ。頭上には太陽と月があるはずなのに、雲に隠れて見えない。バス停で明日へのバスを待ち続ける、終わりのない近未来。神話的ラビュリントスと、現代の街角が同じ「ラビリンス」の名の下で重ねられている。

『黙示録 第三章 牧羊神のカーニヴァル』では、パンと葦笛が出てきて、自然宗教多神教側の終末感覚にスライドする。ここでの終わりは「審判のラッパ」ではなく「牧神と祝祭とカーニヴァル」。人と獣と音楽が入り混じり、夜に溶けていくような循環的終末で、一言でいえばアリ・アスター『ミッドサマー』(2019年)的な祝祭/更新儀礼に近い。

そして黙示録三部作を終えての『森のざわめき』はパンへの前振りとしての自然のクロースアップ。『別離』は二つの軌道が離れていく瞬間を、人間関係側で描いた曲。

ラストトラックの『Twilight Connection』は黄昏の中で、すべての線をもう一度つなぎ直す曲で、「星図として与えられた運命」ではなく、「歩いてきた軌跡そのものが自分の星座になる」という結論でアルバムを閉じる。ここまでが、Diggy-MO'宇宙観の「人間側に寄った総仕上げ」としての『HOROSCOPE』としてのトラック群。

Ave Mujica への橋渡し

ここから、器がSO・ViRCAN・ソロ期 から Ave Mujica にバトンタッチされる。

『黒のバースデイ』では、誕生と破滅、祝祭と呪いが一つの頭上に載る。

『素晴らしき世界 でも どこにもない場所』は、ハクスリー『すばらしい新世界』や伊藤計劃『ハーモニー』を想起させる「白い理想」を一度壊す曲。「唯一の光を目指すために壊せ」という方向性は、「幸福に見える白い世界を破壊してでも、本当の光に触れようとする」というテーマで、ここに「創造=白/破壊=黒」の構図が重なる。

『Angles』

『ふたつの月 〜Deep Into The Forest〜』

『Choir ‘S’ Choir』

『神さま、バカ』

『Mas?uerade Rhapsody Re?uest』

の五曲では

天使/堕天使

森と月

聖歌隊

神への反抗

仮面舞踏会

といったモチーフが出揃い、キリスト教・ゴシック・童話・カーニヴァルが混成した Ave Mujica の舞台装置がほぼ完成する。『HOROSCOPE』が星座と都市と人間ドラマを統合したように、ここでは「宗教・寓話・サブカル」が一つの劇場世界に折りたたまれている。

『ELEMENTS』という天球モデル

そして『ELEMENTS』の五曲。

『Symbol I : △』では、高速メタルの中で「火」と「上昇」が暴れ回る。

『Symbol II : Air』では、ジャズピアノとスウィングが「風」と「自己喪失」を運ぶ

『Symbol III : ▽』では、水と女性性、性の合一が、声とピアノだけのバラードとして凝縮

『Symbol IV : Earth』は、大地・母性・収穫の側から、世界を受け止め直す曲。

四曲で火・風・水・土が揃ったところに、

『Ether』が「月より下」と「月より上」を橋渡しする。

月より下=四元素が渦巻く生成消滅の世界

月より上=静寂の中でだけ輝く、真理としての光

一葉の銀河系=一枚の葉に圧縮された宇宙樹/セフィロト

という図式が、平易な日本語の歌詞の中に静かに折り畳まれている。
ラストで「自由になる → 調和 → 自由という概念の消失 → 宇宙へ還る」と進んでいく流れは、『HOROSCOPE』が人間ドラマのレベルで描いた「別離」や「黄昏の接続」を、
一段上の宇宙論レベルに引き上げ直したものだと読める。

ここまで来ると、

『HOROSCOPE』=星図と人間関係のアルバム

『ELEMENTS』=宇宙モデル(四元素+エーテル)のアルバム

という役割分担がかなりはっきりしてくる。

八芒星と天球の終着点

『八芒星ダンス』は、ELEMENTS で描かれた六芒星の先に出てきた「アップデート版の星形」として置くと分かりやすい。六芒星=上下の三角形(火と水)の合一による大宇宙。そこに八芒星が加わることで、

方位

羅針盤

新しい秩序

といったイメージが乗り、「合一された宇宙が、さらに動き出していく」印象が強くなる。だから六芒星で宇宙の構造を描ききったDiggy-MO'が、次のステップとして「運動する星図」を描こうとした結果としての八芒星、と捉えると自然。

『天球(そら)の Música』は、その名の通り musica mundana 的な「天球の音楽」そのものをタイトルに掲げた曲だ。天球が奏でる見えない音楽と、Mujicaが鳴らすバンドサウンドが重なり、三角初華というキャラクターの風貌・役割とDiggy-MO'本人のディスコグラフィーがきれいに重なってくる。

ここまで来ると、

『PTOLEMY』『Kopernik』で始まった宇宙観の話

『HOROSCOPE』で一度、人間ドラマに落とし込まれた宇宙論

『ELEMENTS』で四元素+エーテルとして再構成された世界

が、『天球のMúsica』でようやく「天球そのものの歌」として回収されるような構図になってくる。

最後に『DIVINE』がある。先の記事にも書いたが、タイトルがもうズルい。ここにおいて、神的・超越的・普遍的な何かを指すこの一語にまで、Diggy-MO'の宇宙観は到達してしまう。ここでは天球や星図を一度手放し、「神聖さ」そのものにフォーカスを当てることで、長年積み上げてきた宇宙論を、感覚と音楽のレベルで丸ごと飲み込んでしまうようなトラックになっている。

まとめ

『ELEMENTS』一本読みだけだと、どうしても

四元素+エーテル

六芒星/大宇宙

月より下/月より上

といったモチーフを、あの一枚の中で自己完結した世界観として読むしかない。

そこに

ソロ期の『Blue World』『PTOLEMY』『GOD SONG』

SO 時代の『Kopernik』

ViRCAN DiMMER『HOROSCOPE』一連

Ave Mujica のシングル群

『八芒星ダンス』『天球のMúsica』『DIVINE』

を縦に並べ直すと、見えてくるのはやはり、

「Ave Mujicaという企画にたまたま呼ばれた Diggy-MO'」ではなく、

ピュタゴラス的調和観

プトレマイオス的天球

コペルニクス的転回

黙示録とパン神とカーニヴァル

星図と人生

四元素とエーテル

六芒星と八芒星

天球の音楽と DIVINE

を二十年以上かけて反復してきた、一人のラッパー/ソングライターの宇宙譚となる。こうしてこのプレイリストを通していくと歌詞やモチーフを通じ、Diggy-MO' という一人の作り手の「頭の中の天球儀」がだいぶ立体像となってくると思います。

 

以後Ave Mujica楽曲の動き、気付きなどがありましたら随時更新します。

 

天球と韻律の星図を描くAve Mujica ─Diggy-MO'の介在性、或いは『PTOLEMY』『GOD SONG』『DIVINE』からみる「天球」のMujica

完全無欠超無敵超絶ゴシックアニソンバンドことAve Mujica について語ります。

字数、レイアウト表示の関係上、極力タブレット〜PCでの閲覧をお勧めします。

前置き

このユニットがこの世界に存在していることの素晴らしさは、これまで何度も粒度を変えて書いてきました。そしてMyGO!!!!!(羊宮軸+全員の名前を通した)はすでに語った。CRYCHICもバンド自体はああいう感じですから楽曲を語るより『春日影』ベースにベヘリット的ポジションとして扱う形で作曲家の布陣におけるSUPALOVE/ELEMENTS GARDENの差分込みで語った。

 

であれば当然、このラインでAve Mujicaを「音楽の方向性」からきちんと論じないのは、流石に自分に対して嘘になる。そして公式にはMygo!!!!!とAve MujicaはIPとしての「BanGDream」の中のバンドの一つですが、自分の中では意識的に、企画段階初期における別IPとしての「10人の物語」としての扱いで今は考えて落ち着いており、それすなわち、「分別」して考えていたりするのでそこで距離感とかがかなりあったりするのですがとはいえ、Ave Mujicaに向き合い続ければわかりますが、このバンドとしての存在意義があまりに大きく、ちょっとやそっとの意気込みでは語りきれない。その一方で、バンド「MyGO!!!!!」を語るというのは、何を差し置いても、高松燈/羊宮妃那の歌唱がまず第一にあるという点があまりにも大きいから、正直そこを軸に進めればなんぼでもかけるし、実際に3記事以上それで書いたわけですが、体感としてはそれ以上に「書きがい」があるほど、層としての音楽成分が圧倒的に高い、という事実もある。

 

耳を完全に牛耳られてしまっている以上、真っ正面から向き合わないかぎり、このバンドについては一行たりとも書けない。

 

さらに「アニソン」という枠組みで考えるとき、2020年代における受容のされ方と、2000〜2010年代にかけての「虚構/現実バンド」の系譜がどのように変容し、どう受け止められてきたのかを踏まえると、Ave Mujica はそのどこにもちゃんと収まりきらない。良い意味で特殊であり、良い意味で異常値だ。

こんなバンドが存在していていいのか

と本気で思うレベルの「過剰さ」が、ここにはある。

 

アニソンと「音楽史」の立ち位置

ではまず、その「異常値」をきちんと認知できる足場を共有するために、「境目」の話から始めたい。

個人的には J も K も洋も、すべてはひとまず「音楽」であって、そこにラベルなんて付けなくてもいいじゃないか、と思っている。(切り分けが大事だし、性質が異なることそれ自体は了解している)。何がロックですかみたいな言説に「〜はロック、いやそうでは無い」みたいな声もあれば「英国バンド以外認めません」勢だっている。

だからそういう意味で現実には「国ごとの音楽」「ジャンルごとの音楽」という分類が存在する。J-POPの中でさらに「ポップス」「ロック」「ヒップホップ」などに分かれ、その枝の先に「アニメソング」がぶらさがっている。

問題は、この「アニソン」と「ポップス」の違いが、すでにかなり融解している、という点だ。まず前提として、今はポップスとアニソンの境目がないと言える。


アニメのタイアップ情報を見なくても、「どうせ YOASOBI が起用されているんでしょ?」という空気がある。あるいは Official髭男dism、米津玄師、King Gnu その周辺の面々が、すでにトップレベルの J-POP アーティストとしてアニメと組み、ヒットを連発してきた。アニソンバンドと言われて久しい FLOW や 凛として時雨 といった面々も今や「タイアップ」という戦略の上で J-POP と並列に売られている。そこをあえて揶揄してみせたところで、現状の構造自体はもう変わらない。

 

ここを少し整理すると、今の主流は「J-POP アーティストが戦略的にアニメ主題歌を担当している」のであって、「作品世界側に帰化した存在」になっているケースは実は多くない。極端な例として『チェンソーマン レゼ篇』を挙げるなら、作品の良し悪しとは別に、あり方としては明らかに「アーティスト側で売る」構図になっている。もし作品への帰化性を本気で追求するなら、あのラインナップを上田麗奈の歌唱で閉じる、という選択肢だってあり得たはずだ。だが現実にはそうではない。制作の段階で「宇多田ヒカルありき」で楽曲を組み立てたとパンフレットにもあるように、そこではまず「アーティスト」と作品がセットになっている。

 

作品が先にあり、その中に音楽が溶けるというより、「アーティスト×作品」のパッケージが最初から設計されている、という感触に近い。ここら辺はこの記事の終盤に書いた。もちろん、こうした状況がダメだと言いたいわけではない。ただ、こうなってしまった以上、「どこからどこまでがアニソンか」という線引きは、ほとんど意味をなさなくなりつつある。『ジョジョの奇妙な冒険』のエンディングに YES の『Roundabout』が使われたとき、それをアニソンと呼ぶのかどうか。

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元ネタの繋がりで「アニメ」側に引き込まれた楽曲は、どの時点で「アニソン」と再ラベリングされるのか。そういった思索も、この十数年でかなり共有されてきた。

現在、「これぞアニソンだ」と指名される多くの曲は、すでに名のあるアーティストによって確立された「世界」をもともと持っていて、ときにそれが作品内へと還っていくこともある。だがここ数年のヒットソングの中で、本当の意味で作品内から立ち上がり、作品の側に閉じていった楽曲は、内製スタンスで動くアニプレックス方式、みんな大好き「梶浦由記×Aimer×LiSA/澤野弘之」ラインのような一部を除けば、決して多くはない。

 

Ave Mujica×Diggy-MO' 篇(『黒のバースデイ-『天球(そら)の Música』)

さて、こうした状況の中で、「Ave Mujica」とはどこに位置づけられる存在なのか。

BUSHIROADのコンテンツ「BanG Dream!」から生まれたバンド群のひとつ、という説明をした瞬間に、「そんな二次元コンテンツを真面目に聴いているのか」と内心で嘲笑する視線が、今でも確かに存在している。これは被害妄想ではなくて、「制作システムの出自が最初からアニソン側に属している」という事実に対する、一種の偏見の表れでもある。だが、まさにその「最初からアニソン側に属している」という点こそが、Ave Mujica の特異性の出発点になっている。BanG Dream! は、声優×キャラ×バンドをワンセットにしたメディアミックスとして設計されており、ライブもゲームもアニメも、すべてが「キャラバンド」であることを前提に動いている。

ここがまず、YOASOBI や米津玄師のような、作品の「外側」から呼び込まれる異邦人型アーティストとは、根本的に違う。むしろ今の時代においては、ここまであからさまに「アニソン側」に軸足を置いたまま成立していること自体が、逆説的に誇っていいポイントになっている。表向きには「アニソンじゃん」と切り捨てられがちなフォーマットでありながら、現実には、流行っている音楽のかなりの部分に、SME (ソニーミュージックエンターテイメント)をはじめとしたレーベルが培ってきた「アニメソング的な売り方」のロジックが浸透している。

そのなかで BanG Dream! は、最初から「アニソン側」の制作システムとして組み上げられ、その内側で Ave Mujica のような異常値を生み出してしまったコンテンツでもある。タイアップとしてアニメに「降りてくる」アーティストではなく、作品世界の中から立ち上がり、そのままポップス側を侵食しうるバンドとして存在していることが、まず何よりも重要だ。

楽曲はすべてキャラバンド=Ave Mujica 名義であり、歌っているのは声優陣で、しかも「キャラクターとして歌う」構造が徹底されている。そのモードのまま、リアルライブでも再現される。つまり IP としての BanG Dream!(ゲーム/アニメ/ライブ)の内部に、Ave Mujica は最初から「完全」に埋め込まれている。

ここだけ抜き取れば、仕組みとしては昔からある「声優コンテンツ」と何も変わらないように見えるかもしれない。キャラソン企画の延長線上にある、いつもの二次元バンドだ、と。

だが問題は、そこで動いている「アーティスト構造」がまったく昔と同じではない、という点にある。Ave Mujica は、フォーマットだけ見ると典型的な声優バンドでありながら、その中身は明らかに常軌を逸した超人たちの集結になっている。ここがまず、このバンドの特異性として押さえておくべきポイントだ。

まずは、作品に倣って役者名を振り返ってみます。

  • 三角初華(ドロリス):佐々木李子
  • 豊川祥子(オブリビオニス):高尾奏音
  • 若葉睦(モーティス):渡瀬結月
  • 八幡海鈴(ティモリス):岡田夢以
  • 祐天寺にゃむ(アモーリス):米澤茜

ここだけ見れば、「ふ〜ん」で終わってしまう。
ぱっと見は、どこにでもありそうなキャラ名とキャスト名の列でしかない。

けれど、この役者たちを「中の人の経歴」で言い換えると、話がまったく変わってくる。

  • 佐々木李子:ミュージカル*1「アニー」出身の声楽ガチ勢
  • 高尾奏音:ミラノ国際ジュニアピアノコンクール最高位 ASSOLUTO
  • 渡瀬結月:D4DJ 経由で鍛えられたバンド育成組
  • 岡田夢以:元アイドル/クラブ系パフォーマー
  • 米澤茜:メタル対応のドラマーとして軸が立っている

平均的なメジャーアーティスト1組と並べて見たときに、明らかに編成がおかしい。
「こういう人がひとり混じっていたら十分に強い」というレベルの人材が、全員分そろっている。演者全員が、並々ならぬバックグラウンドを持つ「超過剰な布陣」なのだ。

しかも、それぞれが担当する楽器の編成は

7弦ギター×2、5弦ベース、ツーバス・ドラム、ピアノとオルガンの同時弾き。

(しかも pf の高尾はブラインド弾きや逆さ弾きといったパフォーマンス込みでやってのける)

という有様である。この条件を前提にした時点で、「並レベル」の人間にはそもそも土俵に立てない設計になっている。とはいえ、ここまで読んでもなお、

「でも、作曲や作詞がそこまで凝ってなければ、結局ポテンシャルを活かしきれないのでは?」

と感じる人もいるかもしれない。

問題は、というより、むしろ喜ぶべきなのはAve Mujica では、その「作る側」にまで異常値が配置されていることだ。楽曲の総合統括を担当しているのが、SOUL'd OUT の元MC にして、ソロ以降も異常な言語感覚を武器にしてきた圧倒的なカリスマ性も兼ね備えたDiggy-MO' だという、この一事である。

(嘘みたいな真)

作曲のメインは SUPA LOVE という集団が請け負っているが、リリースを重ねるごとに Diggy-MO' の介在度は明らかに増し、楽曲全体の「Diggy-ism」が増し増しになっていく。そんな状況なのである。

超すごい演者に、超すごい職人が全面的についたらどうなるのか。
本来なら実験としてすら成立しないレベルの構図が、「Ave Mujica」というバンドでは、すでに現実として走ってしまっている。

 

まず「歌詞」について触れておきたい。

Ave Mujica のコンセプトは明確にゴシック性に軸足を置いていて、その内的世界を歌い上げることが前提になっている。そのため歌詞は、ラテン語フレーズや宗教モチーフ、処刑台/革命/記憶といったイメージに満ちており、ほぼすべてが「Ave Mujica」という世界のために書かれている。

ここで重要なのは、Diggy-MO' という J-POP/ヒップホップ寄りの作家を、あくまで作品世界の中へ「召喚」している、という構図だ。彼を「ゲストアーティスト」として外側に据えるのではなく、世界観のコアに据えたからこそ、曲ごとの密度がどれも異常に「濃い」。

音楽ナタリーのインタビューで Diggy は、プロデューサーからのオファー内容として、

・自身のソロ曲『PTOLEMY』や『GOD SONG』に代表されるような
・フィロソフィの強い、アーティスティックな世界観を強く打ち出したい

というコンセプトを示されたと語っている。

natalie.mu

もともとこのコンテンツには明るくなかったので、最初にオファーをいただいたときに、まずはプロデューサーさんからいろいろとお話を聞かせていただいたんです。その中で、それこそ僕のソロの作品の「PTOLEMY」(2017年に発表されたDiggy-MO'の4thアルバム「BEWITCHED」収録曲)や「GOD SONG」(2018年に発表されたDiggy-MO'のベストアルバム「DX - 10th Anniversary All This Time 2008-2018 -」収録曲)に代表されるような、「フィロソフィの強いアーティスティックな世界観を強く打ち出したい」というコンセプトがこのAve Mujicaにはあるというお話をされていて、そのうえで「作詞を担当してほしい」ということだったんですよ。そしてさらに、資料の中にあった中世ヨーロッパやゴシックという世界観も、僕がもともとすごく好きなものだったりしたので、自分の中に脈々とあるいろいろなものを投影できていくのであれば面白いかなと思ったんです。僕自身のパブリックイメージとしては、ラップやストリートカルチャーの印象が強いと思いますけど、僕の実質的な音楽のルーツはピアノやクラシックなので、ラップ系統のアーティスト像だけではない自分の側面とか、歌モノとしての作詞作曲や世界観、自分の持てるスキルなどを最大限に発揮してばっちりやっていくと、このプロジェクトにも楽しく貢献できるかなって。

PTOLEMY

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GOD SONG

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さらに中世ヨーロッパやゴシックを軸にした世界観も「もともと自分が好きな領域」だと明言し、そのうえで「ラップだけではない、自分の歌モノの作詞作曲や世界観、クラシック寄りのルーツも含めて、持てるスキルを全部使う場」だと位置づけている。

 

ここで挙がる『PTOLEMY』という曲名が、すでに象徴的だ。プトレマイオス=天動説。Diggy のソロにおける『PTOLEMY』は、天文学的な比喩を借りながら「世界がどう回っているか」を考える曲であり、それに対応するように『GOD SONG』では、その視点を「内側/外側」へと反転させている。

 

・天を回しているのは誰か
・世界はどこから見て回っているように見えるのか

この「天動説/観測者」の構図が、丸ごと Ave Mujica に要求されている。
要は、「『PTOLEMY』/『GOD SONG』級の哲学性と、天文学的な視点移動をバンド/キャラクターの歌に落とし込んでほしい」という注文であり、Diggy 側もそこに明確に応じている、ということだ。

前提として、Diggy-MO' のソロは「誰も歌えない唯一無二の世界」で構築されている。
その「誰にも歌えない」言語構造としてラテン、英語、日本語、造語、比喩、天体、神学を、そのまま Ave Mujica 側の器(超人バンド+キャラ+物語)に流し込んでしまっているのが、今の Ave Mujica の歌詞群だと言っていい。

「フィロソフィの強いアーティスティックな世界観を、そのままキャラバンドに移植する」というこのコンセプト自体が、すでに過剰であり、そこに Diggy の 『PTOLEMY』/『GOD SONG』系の思考回路を要求している時点で、Ave Mujica の言語領域は最初から 「普通のアニソン」ではあり得ない、足り得ない場所に立たされている。

 

そして『黒のバースデイ』(賀佐泰洋 & Diggy-MO’)である。初期の、しかもまだ比較的「抑えめ」と言っていいシングル楽曲からして、すでに色々とぶっ飛んだ音源が出てきてしまっている。

この曲は、いわゆるタイアップ用の「イメージソング」ではない。アニメ化以前、ノンタイの段階で作られた楽曲だ。つまり、アニメ側から「こういうシーン用に」とオーダーを受けた結果としての曲ではなく、まだ「Ave Mujica」という記号が今ほど固まっていなかった時期に、それでもなおこの密度で立ち上がってしまった曲だ、ということになる。ここがまずおかしい。

黒のバースデイ

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Na, 生々しい艶かしい
mad day 秘密めいた ruler

Loo-la, cool, cool

"ようこそ おいでなさい" 告げる 始まりのとき

ねぇ しなやかなつま先が 'ゆらっ' 描き出すわ
輪舞曲(ロンド)

という流れで、ゴシック/官能/支配/饗宴が一息にたたき込まれる。
普通なら一曲の中で薄めて配置しそうなイメージを、冒頭数行で全部重ねてしまうこの言語圧。さすが Diggy-MO' としか言いようがない。

歌詞の妙という意味では、仕掛け自体は目新しいわけではない。表記上は「輪舞曲」で日本語だが、歌唱では「ロンド」とイタリア語読みすることで、「りんぶきょく」と発音したときには出ない跳ね方と浮遊感を作っている。このあたりはまだ理解可能な範囲のテクニックだろう。

それでも、その手前に置かれた「'ゆらっ'」の区切り方や、子音と母音の配列でニュアンスを揺らす感じは、やはりセンスの塊だと思う。意味と音価の両方を握ったうえで、足先が揺れる情景と、聴き手の知覚そのものを同時に揺らしてくる。

そしてこの「Diggy語」を、佐々木李子にきっちり歌わせてしまう。
前提を踏まえれば、「佐々木李子が歌う」という事実そのものが、とんでもない意味を持っている。クラシカルな声楽基盤を持つミュージカル出身のシンガーが、この言語の塊を、しかも「キャラクターとして」完全に咀嚼し、吐き出しているからだ。

ここで重要なのは、背景にいる Diggy-MO' という存在は、あくまで現実世界側の話であるという点だ。作劇上は、「三角初華=ドロリスが表現している歌」として、すべてが成立していなければならない。設定上は作詞も「キャラクター」が担当していることになっているのだから、現実には Diggy-MO'の言語操作と佐々木李子の声楽的テクニックがフル稼働しているにもかかわらず、表向きのレイヤーでは「ドロリスというキャラクターが歌っている」として耳に届かなければならない。この二重構造を、何事もなかったかのような顔でクリアしている時点で、すでにかなりおかしい。

 

スタートからしてこの調子なので、では、その後はどうなのかという話ではあるが、どんどんおかしくなっていく。『Choir ‘S’ Choir』のイントロなんてほぼほぼ梶浦的多層コーラス重ねである。

Choir ‘S’ Choir

Choir ‘S’ Choir

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Daa-mennus, Daa-menn, Philis-poliaa,
Taa-mennus, Taa-menn, Jealis-Moliaa

Choir Choir, Choir Choir 'S' Choir

並べ方が完全に

・母音を揃えた多声コーラス用の音節
・ラテン風の疑似単語
・意味よりも祈祷感・呪文感を優先した並び

で統一されている。つまり「疑似ラテン×多層コーラス」という意味で、梶浦曲線とほぼ同じ系譜に乗っている。子音単位でもっと分解してみましょう。

「Daa / Taa」ここは母音[a:]を揃えて、mennus / menn みたいに子音を足したり削ったりして、別パートが重ねやすいようにリズムを刻む、そしてPhilis / Jealis でぎりぎりphilia(フィリア=愛) / jealous(ジェラス=嫉妬深い)っぽい意味の残骸を匂わせつつ、poliaa / Moliaa で長母音[a:]をまた伸ばしていく。これらを統合させて意味がギリギリ崩壊しないレベルで単語をバラして、発音しやすい音節に再編成した呪文を発動させている。しかも、そのあとに「Choir Choir, Choir Choir 'S' Choir」と、今度ははっきり意味が分かる英語が乗ってくることで、前半は造語ありきのよく分からない祈祷語=謎のコーラスが、後半になって「Choir」と連呼することで、その祈祷の主体が合唱団であることをメタに宣言させるイントロという構成になっているわけである。

言語はお手のものとはいえ、これは単なる「それっぽい雰囲気」ではない。多声コーラス用の音節設計という、明らかに「そっち側の棚」の技法を持ち出してきているからこそ、「これは Ave Mujica のための書法だ」と納得させられるだけの説得力が生まれている。

 

この調子で『神様、バカ』『Mas?uerade Rhapsody Re?uest』と続いていく時点で、すでに「言語も楽器もおかしい」バンドだということは十分に伝わる。どちらもタイトルからして、神への悪態とマスカレード=仮面舞踏会をねじ曲げたような言葉遊びになっていて、ゴシックと皮肉のブレンド具合がDiggy印そのものだ。

 

神さま、バカ

神さま、バカ

  • Ave Mujica
  • アニメ
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Mas?uerade Rhapsody Re?uest

Mas?uerade Rhapsody Re?uest

  • Ave Mujica
  • アニメ
  • ¥255
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そして、初期楽曲群の締めとして置かれているのが『Ave Mujica』である。

Ave Mujica

Ave Mujica

  • Ave Mujica
  • アニメ
  • ¥255
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この曲、ある意味で実はかなり「救い」になっている。というのも、タイトルが示す通り、バンド「Ave Mujica」がアニメ『MyGO!!!!!』13話において「デビュー曲」として披露する先鋒玉がこの『Ave Mujica』であり、この曲だけは作曲・編曲が Elements Garden上松範康藤永龍太郎)サイド、作詞が織田あすかという、旧来のBanG Dream! 系譜の布陣で書かれているからだ。

つまり流れとしては、ノンタイの段階で「本当の Ave Mujica 成分」をぶっ放した『黒のバースデイ』〜『神さま、バカ』〜『Mas?uerade』〜『素晴らしき世界 でも どこにもない場所』という一連の楽曲で、Diggyism全開の地獄を先に見せておいてから、

「とはいえ、これをアニメ視聴者にいきなり投げつけるのはさすがにぶっ飛ばしすぎだよね」という、どこか冷静なメタ意識が最後の一歩で介入してくる。

 

その結果として、「BanG Dream! らしい」ドラマティックなロックナンバーとして、優しさの残った『Ave Mujica』が上松ラインで書き下ろされ、それが13話で晴れて初披露されるという、わけのわからない周回をしている。

 

・ノンタイ楽曲群

Diggy×SUPA LOVEによる、本来の「技術過剰」ゴシック地獄版の Ave Mujica


・アニメ内デビュー曲『Ave Mujica』

Elements Gardenが担保する、「視聴者に提示するための入口」としての「Ave Mujica」」という二重構造になっているわけで、この時点で「どこまで本気でやるつもりなんだこのバンドは」と軽く眩暈をアニメ『Mygo!!!!!』から追っている人はこれをリアルタイムで経験しているということだ。

振り返った今思えば、あの書き方は、予兆以前に、終わっていないというか、まだ始まってすらいないのだ。この段階での『MyGO!!!!!』世界における Ave Mujica は、あくまでも「仮初め」の姿にすぎない。13話で鳴る『Ave Mujica』は、視聴者に提示するためのプロトタイプであって、本来の怪物形態はまだ封印されたままになっている。

 

では、アニメ『Ave Mujica』では何が起こるのかといきたいところだが、その前に一度だけ「段階」が挟まる。それが、2024年10月ごろに発表されたミニアルバム『ELEMENTS』である。ここで Ave Mujica は、初期シングル群と13話デビュー曲で見せた要素をいったん分解し、再構成するかたちで、さらに一段階上の「進化」を遂げる。

ELEMENTS - EP

ELEMENTS - EP

  • Ave Mujica
  • アニメ
  • ¥917

収録楽曲

・『Symbol I : △』作詞/作曲:Diggy-MO’ & 長谷川大介

・『Symbol II : Air』作詞/作曲:高橋涼 & Diggy-MO’

・『Symbol III : ▽』作詞/作曲:Diggy-MO’ & トミタカズキ

・『Symbol IV : Earth』作詞/作曲:Diggy-MO’ & 長谷川大介

・『Ether』作詞/作曲:Diggy-MO’ & 長谷川大介

タイトルからして「四元素+エーテル」で揃えてあり、作家陣もすべて Diggy-MO’ を軸にした共作で統一されている。この時点で、もはや単なる寄せ集めではなく、「Ave Mujica の世界観そのものを抽象化したコンセプトEP」として設計されていることが分かる。

ここから先のアニメタイアップ楽曲、とりわけDiggy-MO’ & 長谷川大介コンビが手がける『KiLLKiSS』は、アニメ『Ave Mujica』において新しい扉を開ける曲として機能する。ただし、その前段に『Elements』の五曲が揃っているからこそ、これは「Mujica体制」を固めるための強烈な前振りとして、より大きな意味を持つ。

流れとしては、まず初期シングル群で「やばさ」を見せつけ、次に『Ave Mujica』で視聴者向けの入口を用意し、さらに『ELEMENTS』で四元素+エーテルという形で抽象度を一段上げる。そのうえで『KiLLKiSS』へ突入する。ここまでの段階構成それ自体が、すでにバンドの設計思想を語っている。

楽曲的な接続・類似性という観点では、『Alea jacta est』から『KiLLKiSS』へ伸びるラインがいちばんしっくりくる。というのも、『黒のバースデイ』と『KiLLKiSS』はリリック面でかなり同調している一方『ELEMENTS』は Diggy-MO’の解説からも分かる通り、かなり強いコンセプトのもとで固めて作られている。曲調や歌詞世界観まで含め、制作時期の位相は明確に分かれているはずだ。

natalie.mu

 

スタンスは先述の通りで、このミニアルバムでまず構築されているのはコンセプトとしては「火・風・水・土・エーテル」という五元素を軸に、Ave Mujica的な世界観=神話/宗教/ヨーロッパ文明の層を持つ連作ストーリーとして各曲を制作されている。

各エレメントには精霊(火=サラマンドラ、風=シルフのエアリエル、水=ウンディーネ、大地=地母神シアリーズ/デメテル)が対応し、象徴と物語が相互に補強し合う構造。最終章のエーテルで「月より上の領域=真理/光」に触れ、全体を循環と回帰へ還元すると、Diggy-MO'は全体像を俯瞰して制作している。

そしてこれらの要素はどういう時代性で考えられた/練られた世界なのか、という点について思索すると、より「Ave Mujica」における世界観が明確になる。本作に含まれている要素は複雑だが同時に「Ave Mujica」歌詞に潜在する裏打ちの幅広さでもある。幸いにしてDiggy-MO'が自らが解説している記事を自分なり噛み砕いてみる。

 

基本的には西洋秘教がベース。四大元素火・風・水・土の世界観は、エンペドクレスが提唱した「四根(四元素)」が起点。古代ギリシャ(紀元前5世紀)の自然哲学であり、四元素に対応する精霊(サラマンドラ/シルフ/ウンディーネ/ノーム)はパラケルススが16世紀に体系化したルネサンス期の錬金術博物学的オカルトの創造力。

テンペスト』の引用はジャコビアン時代期のシェイクスピアであり、そのまま「風の精霊アリエル」は、テンペスト由来の精霊像+パラケルスス系のエア・エレメンタルとしての機能性が高い。

そして一番組み合わせとして象徴的だなと思うのが、『Symbol III : ▽』。

Symbol III : ▽

Symbol III : ▽

  • Ave Mujica
  • アニメ
  • ¥255
  • provided courtesy of iTunes

男性性=火(△)と、女性性=水(▽)だから、重ねて六芒星=大宇宙という歌詞はtrack1と2が繋がって3に行くという点で明確な「コンセプト」ありきでそれがバラード調で歌われるからこそまとまりとして機能している。

寄せる 寄せる 寄せる波

私の性の中で

馳せる 馳せる 馳せる夢

微かな音を抱きしめて

揺れる 揺れる 揺れる愛

あなた対極にいて その
炎と重なって

いま 大宇宙になる

つまり上下三角の重ね合わせで六芒星記号論的にも面白い収斂。

 

そして「大宇宙」という語彙は、マクロコスモスと小宇宙=ミクロコスモスと対応関係にあり、その合一や、対立物の結婚という読みはヘルメス主義/錬金術に相当する。

寄せる 寄せる 寄せる波

生の中で

馳せる 馳せる 馳せる夢

微かな音を抱きしめて

揺れる 揺れる 揺れる愛

ああ その命と重なって

いま 大空になる

前項と対極的な歌詞が重なっている。

「私の性の中で」「あなた対極にいて」「炎と重なって」「いま 大宇宙になる」

これは性の合一、対極の統合、「元素」の重なり=結婚を経て、ミクロを突き抜けてマクロ(宇宙秩序)へ跳ね上がる構図。

終盤の「生の中で」「命と重なって」「いま 大空になる」は性→生、対極→重なり→大宇宙→宇宙と関係性になっており、ここでのスケールは個の生/身体/感覚の内側に閉じたミクロよりと言える。マクロからミクロへと構図が浮かび上がる。つまり、これは「上が下に似て、下が上に似る」というマクロコスモス/ミクロコスモス対応の定番ロジックそのもので、エメラルド・タブレット由来の「As above, so below」=「上にあるものは下にあるものと同様である」と合致し、「△(火・男性性)と▽(水・女性性)が重なって六芒星=大宇宙」も同義として機能する。

だからこそ、対立物の合一/男女・火水の結婚=超越的な第三の生というのは、同じ運動を内面スケールと宇宙スケールで反復であり、エメラルドの上下同様というのものが、錬金術・ヘルメス主義そのものである、ということだ。

 

そして、『Ether』だが、これはかなり複合的。

Ether

Ether

  • Ave Mujica
  • アニメ
  • ¥255
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月より下

冒頭のこの歌詞は一見普通の表現に見えるが、「月下界」や「地上の世界」を意味するアリストテレスの宇宙観。でなければ歌詞として

月より下に時代を創って

月より下に それでも掲げ 闘うのね

という歌詞は打ってこない。「月より下」が地・水・風・火の四元素からなる生成消滅の世界で、「月より上」が不変で円運動する天界で、その媒質が第五元素アイテールという形式が存在する以上、、『Ether』はシリーズ全体の「四元素=月下/エーテル=月上」という設定を、比喩じゃなく用語レベルで打ち出している。

静寂の中でだけ輝く本当の光

でもね 知ってほしい 本当の光を/静寂の中でだけ輝くその光

ここにおける「光」の繰り返しは、月上=不変の真理・光という役割を、物語の語り手にしゃべらせてる部分だから、いい意味であからさま。

一葉の銀河系

これは一葉というのがいわゆる体系化のことで、それの銀河系というのは生命の樹や、セフィロト的。生命の樹は中世ユダヤ神秘主義カバラで成立し、ルネサンス以降の西洋秘教でも「宇宙全体と魂の地図」として受容された図像でアニメでも『エヴァ』とかで散々モチーフになっている、定番。「一葉=一枚の樹葉」+「銀河系=宇宙の全体像」という圧縮具合が、ミクロ(葉)とマクロ(銀河)を同時に立てる作りになってて、これも『Ether』の「総括章」らしさ。

自由になる → 調和が訪れるとき自由の概念も無くなる → 宇宙へ還る

という終盤の流れも、四元素側で描かれていた「闘争/生成」のレベルを超えて、個々の概念や区別そのものが溶けていく場面として読める。ここで志向されているのは、ヘルメス主義や錬金術が繰り返し描いてきた、「対立や分割が最終的に統合され、もとの一者へ回収されていく」という意識の運動だ。Mujica 楽曲群のなかでも、思想スケールがもっとも大きいのが『Ether』であり、「星図に載っていない場所=既存の運命からはみ出した領域としての Ave Mujica」という、1st シングルのタイトルが提示していたテーマを、宇宙論レベルまで押し上げて言い換えた楽曲だと言える。

 

Diggy-MO' が Ave Mujica で展開している宇宙論は、ゼロから生えたものではない。すでにソロ期ユニット ViRCAN DiMMER のアルバム『HOROSCOPE』(2020年)に、そのプロトタイプがかなりはっきりと刻まれている。

表向きのリリース年は2020年でも、『HOROSCOPE』の中身はほぼ2000年代初頭のデモ群から成り立っている。第二次ラップブームの頃に形作られたDiggy-MO'の宇宙論が、時を経て一枚のアルバムとして「星図化」されたもの、という方が実態には近い。だからこそ、ここで見える四元素や太陽と月、ラビリンスや牧羊神といったモチーフには、のちのAve Mujicaへと直結する「根っこの思想性」がすでに備わっている。

HOROSCOPE

HOROSCOPE

  • ViRCAN DiMMER
  • ヒップホップ/ラップ
  • ¥1681

Diggy-MO'とHAMMERのユニットViRCAN DiMMERによるこの作品は、1曲目から星座や運命を想起させるタイトルを掲げつつ分散的にモチーフと楽曲を合体させている。

『HOROSCOPE』はそのまま直訳で「星占い」。ジャケットが指すような十二支宮・黄道星図みたいなものを背景に、「ViRCAN というユニットが、この星々を灯す存在として立っている」という宣言曲になっているというのがまず中々にコンセプトとしての明確な点である。

十と二つの炎灯す申し子

これはほぼ十二星座(または十二ハウス)の火を灯す存在=ラッパーたち、という自己神話化だと読めるし、そう思えばこそ星座や星図という図像を「人生の設計図」に重ねていくのが全体のムードのトラックなんですよね。

上空にはすでに星々と軌道がある、そしてそこから落ちてくる「運命のかけら」を、下の世界でどう生きるかというテーマ性であり、Ave Mujicaと呼応させると

星図に載っていない場所」「大宇宙になる」「月より下に時代を創って」という歌詞に代表される「宇宙→人生」のマッピングの、ViRCAN版。今から思えばプロトタイプ。楽曲「HOROSCOPE」 が「星図レベルのプロローグ」、『ELEMENTS』 が「四元素レベルの詳細設定」という関係に近い。

Ruby Hooty Jack

Ruby Hooty Jack

  • ViRCAN DiMMER
  • ヒップホップ/ラップ
  • ¥204
  • provided courtesy of iTunes

Ruby Hooty Jack』は、一見、関係性うすいというか、歌詞単位ではあまり共通性はない。しかし紐解くと

ruby hooty jack the 文無しプー

からして、すでに「底辺の勝負師」の話というのは分かる。夜の酒場に集う大人と子ども、それぞれの「人生の分岐点」という歌詞性からも伝わるように、完全に「人生=ギャンブル」という、運命論として捉えれば、ここで「星占い」と「賭場」が連結している「HOROSCOPE」で上から見ていた運命の線が、ここでは「チップ」「ticket」「デジャブ」みたいな地べたのモチーフに変換されている。楽曲を話としてみれば星図に描かれた運命線を、ギャンブルという形で自分から引き寄せてしまう男の話であり、狭間に「Zipsy」が出てくる。

遠くから見つめる“Zipsy”

ここで「Zipsy」は、主人公を遠くから見守る存在=霊媒/占い師/星読みみたいな立ち位置と解釈する方が通りはいいでしょう。「遠くから見つめる」という視点が俯瞰であることからも、個人スケールの「小さな黙示録」をやっていて、その証人として Zipsy がいる、ということになります。『ELEMENTS』的に言い換えれば、四元素のうち「火」と「土」の側で、「月より下」で足掻きまくる人間像の楽曲と言い換えられる。つまり楽曲単位そのものでは「男の話」だが最後に観測者をおくことで『ELEMENTS』と繋げることができてしまうという不思議な楽曲。

Zipsy

Zipsy

  • ViRCAN DiMMER
  • ヒップホップ/ラップ
  • ¥204
  • provided courtesy of iTunes

『Zipsy』は、その Ruby のラストに出てきた「目撃者」が、そのまま主役に昇格した曲だ。眠りと覚醒の境目で語りかけるような視点、水晶や星、運命を連想させる語彙によって、「見えてしまうもの」を主題に据えている。音楽的には、スローペースでローテンションなラップと女性コーラスが乗る、夢の中のような構築性が強いトラックであり、誰かの人生を遠くから見送ってきたような距離感の声が続く。そこまで含めて、完全に「霊媒」「占い師」「星を読む側」の語りであり、「星占い」というアルバムコンセプトをもっとも素直な形で人格化した曲とも言える。

この意味で Zipsy 自体は、のちの Ave Mujica における「星図にはない場所」「星図を読む側/そこから逸脱する側」のキャラクター原型としても機能しうる。上空の星図を掲げる『HOROSCOPE』、その線を自らのギャンブルで引き寄せてしまう『Ruby Hooty Jack』、そしてその運命の軌跡を遠くから見届ける『Zipsy』。この三曲で、すでに「宇宙の星図/月より下の人間/そのあいだを媒介するかたりべ」という、後年の『ELEMENTS』へとつながる三角形が組み上がっている。そのうえで連続して構築されている『黙示録 第一章 太陽と月』『黙示録 第二章 ラビリンス』『黙示録 第三章 牧羊神のカーニヴァル』という三部作が、その宇宙観をさらに極北レベルまで押し広げる章となっている。

 

そして連続して構築されている『黙示録 第一章 太陽と月』『黙示録 第二章 ラビリンス』『黙示録 第三章 牧羊神のカーニヴァル』という三部作がその極北レベルの作劇。ViRCAN DiMMER名義ではあるが、趣向としてはDiggy-MO'よりであり、この「黙示録」三部作も意識的に、小さな宇宙論トラック3作で作っている。

「黙示録 第一章」太陽と月

「黙示録 第一章」太陽と月

  • ViRCAN DiMMER
  • ヒップホップ/ラップ
  • ¥204
  • provided courtesy of iTunes

第一章「太陽と月」では、灼熱の太陽と畏れを抱かせる月光のあいだに文明史が吊り下げられ、サビ前後で「宇宙の四元素」という語がそのまま投げ込まれる。

灼熱の太陽 太陽 時代を築いた new arrival

太陽は「時代を築く」主体として出てきます。ここでの太陽は単なる天体ではなく、歴史そのものを回すエンジン。

宇宙の四元素 天の存在を“第五の太陽”に生きる

と出てきて、ここは完全に「四元素+第五の何か」の系譜。四元素はエンペドクレス以来の火・風・水・土の枠組み、その外に「第五の太陽」が置かれている構造です。ここでいう「第五の太陽」は、アステカ神話の「第五の太陽=いま我々が生きている時代」というモチーフを踏まえた宇宙論っぽく読めるし、Ave Mujica 側でいう Ether=第五元素と、役割がかなり近い。

さらに終盤では、仲間とコンクリートに腰を下ろし、大宇宙の晩餐会にグラスを掲げるイメージを語っています。

大宇宙の晩餐会 9の月に13回 太陽が顔を出したからまた乾杯

と「大宇宙の晩餐会」が出てきて、宇宙規模の宴=コスモス全体を舞台にした祝祭にスケールが跳ね上がる。9 と 13 という数字も、黙示録的・占星術的な数の匂いが強い(13 は月の公転周期を数えた「13ヶ月暦」や、黙示録の獣の数字 666 の因数 3×3×3×の系譜を連想させる領域としての読み)

ここで天体運行・世界史・都市の残骸・友情と祝祭が一続きの図として結ばれていて、

  • 太陽/月=時代と運命の指標

  • 四元素+「第五の太陽」という構造とELEMENTS の「四元素+エーテル」と平行

  • 最後は「大宇宙の晩餐会」というコスモス規模の祝祭へ抜ける

そのまま後年の Ave Mujica が使う「大宇宙」や四元素モチーフの原型がすでに出揃っている。

「黙示録 第二章」ラビリンス

「黙示録 第二章」ラビリンス

  • ViRCAN DiMMER
  • ヒップホップ/ラップ
  • ¥204
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第二章「ラビリンス」は、タイトル通り迷宮都市と精神の錯綜を扱う。上空の太陽と月から一段降りてきて、現代の街路や地下空間、そこで彷徨う主体の視点にフォーカスが移る構成になっており、天体と都市、歴史と現在を貫いていた第一章のスケールを、人間サイズの「迷宮」にまで縮小している。

へし折れるアリスの扉 降るナチスの涙 錆びた天空の城ラピュタ彼方へ

ここでは、アリス/ナチスラピュタを一気に混ぜてくる。児童文学、20世紀史、アニメ・サブカルが同一平面でコラージュされていて、「どの物語に属しているのか分からない世界」に落ちる感覚をつくっている。ここでの「ラビリンス」は、ギリシア神話のラビュリントス(ミノタウロスの迷宮)の系譜を引きつつも、Diggy の言語処理では

it's the labyrinth そのそびえ立つフェンスを越え マイペースで待つバス

みたいに、日常の「バス停でバスを待つ」というシチュエーションまで引き下ろされている。その上で重ねるように

真上に太陽と月が.. でも分厚い雲が流れ 隠れ 闇へ

と出てくる。これは第一章で神話的スケールで語られていた「太陽と月」が、第二章では「真上にあるのに雲に隠れて見えないもの」として機能し直している場面。

整理すると第一章=宇宙スケールでの「太陽と月」「四元素」ながらも、第二章は、その太陽/月が頭上にあるのに見えず、記憶も身体も重く、迷宮の中でバスを待つ人間という対比的構造になっている。この落差がついているからこそ、Ave Mujica の『Symbol II : Air』における自己喪失と虚無感のスウィングにかなり近い精神状態がある。だからこそ、ラビリンスのフック部分でかかる

君が目指す明日へ向かうバスを待つ endlessly

とループするのも、「出口の見えない近未来」「永遠に到着しない明日」を描く装置。
黙示録的ヴィジョンが、ここでは「現代都市の迷宮」「自分のセンスだけを頼りに出口を探す主観」に翻訳されているイメージです。その意味では弐瓶勉っぽいですね。要は巨大な神話的迷宮と、フェンスの向こうでバスを待つ都市生活者が、同じ「ラビリンス」の名の下に重ねられているわけです。

「黙示録 第三章」牧羊神のカーニヴァル

「黙示録 第三章」牧羊神のカーニヴァル

  • ViRCAN DiMMER
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続く第三章「牧羊神のカーニヴァル」では、ギリシア神話のパンを想起させる牧神が前景化し、自然と陶酔、カーニバル的混沌が爆発する。

clap,clap,everybody let's bounce with the clap,clap, 音と酔う葦笛

いきなり「葦笛」がキーアイテムとして提示される。ギリシア神話で牧羊神パンが恋したニンフ・シュリンクスが葦に変わり、それを束ねて作ったのがパンフルート=葦笛、という有名な神話をかなりストレートに踏襲した歌詞となっている。

半羊半人 牧羊神のカーニヴァル 名前は“pan” ヘルメスの子 山羊の蹄と二本の角を持つ

と、パン神のプロフィールをほぼ神話そのままの形でラップに落としている。
パンはアルカディアの山野と羊の守護神であり、同時に性的多産・狂喜・パニック(panic の語源)とも結びつく存在。ここでは「陽気な獣たちの神が唄う愉快な謝肉祭」というフレーズと絡めて、理性を外したカーニヴァルディオニュソス的祝祭空間として機能している。

つまり「太陽と月」=天体、「ラビリンス」=都市と精神、「牧羊神のカーニヴァル」=自然と祝祭」という三曲で、天・地・自然が黙示録という枠の中に折りたたんでいる。

パン=自然/野生/性/音楽(葦笛)の集合体であり、Ave Mujica 側で言えば

・火/水の合一=性の合一から「大宇宙になる」Symbol III

・大地と豊穣=シアリーズ/地母神を歌う Symbol IV

のあたりと、感覚的な層がよく重なる。

パンの世界は、「黙示録」という言葉が連想させるキリスト教的終末とは別系統の、もっと古い自然宗教多神教・ヘルメス主義のライン。と、いうのも、終わり方が「審判のラッパ」ではなく「牧神と葦笛とカーニバル」という時点で、タイトルとしての「黙示録」=終末という、黙示録ならとるべき想像力でありながらも、内容としての「異教/自然宗教/ヘルメス」ということ異なるベクトルへのスライドで結んでいる。

牧羊神パンという存在そのものが、多神教・自然崇拝・土地と群れと身体に強く結びついた宗教の側に属する終末感覚を体現している。どこかの「最後」はたしかに訪れるが、それは世界全体の裁きという壮絶なクライマックスではなく、収穫と飢饉、宴と崩壊が繰り返される自然サイクルの一場面としての終わりに近い。祭りがピークに達し、人も獣も入り乱れて踊り続け、そのまま夜の闇に飲み込まれていくようなカーニヴァル的終末である。一言で言えば『ミッドサマー』。白昼の光の中で進行する、花冠と生贄と共同体カルトによる祝祭的終末/更新儀礼であり、その熱が引いたあとには、なにかが死に、なにかがまた芽吹くという循環的な終幕になっている。

 

そこに「パン=ヘルメスの子」という系譜が乗ることで、さらにもう一段、ヘルメス主義の側面が立ち上がる。ヘルメスはギリシア神話の神でありながら、のちにエジプトのトート神と習合し、「ヘルメス・トリスメギストス」として中世〜ルネサンス期の魔術・錬金術テキストの源流を成す存在へと変奏されていった。そう考えるとパンは、そのヘルメス系統の周縁に位置する「野性側の象徴」であり、自然・性・音楽・恐怖・祝祭のかたまりだと言える。ヘルメス主義が世界の構造を抽象的に語るのだとすれば、パンはその構造を身体レベルで経験させる側にいる。

黙示録三部作の最後がパンに行き着くのは、キリスト教的な言語(黙示録)で始めておきながら、終わりの終わりで「もっと古い自然宗教/ヘルメス圏のカーニヴァル」に着地させるという、終末そのものの小さな「脱線」として読むことができる。

クライマックスがここに行くことで、ViRCAN DiMMER側の黙示録三部作は

キリスト教的終末(第一章のタイトル/モチーフ)

・モダン/近代の迷宮(第二章の都市と戦争イメージ)

・さらに前の牧歌的・異教的世界(第三章のパン)

という、時間的にも思想的にもずれた層を縦に貫いている。

森のざわめき

森のざわめき

  • ViRCAN DiMMER
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『森のざわめき』は、この流れで見るとパンへの導入としての「自然のざわめき」であり、森の中の微細な音、風、枝葉、動物の気配といったものを、半ば擬人化しながら描いていく非常に絵画的なトラックと歌詞で構築されている。「太陽と月」「都市のラビリンス」「牧羊神」と、宇宙〜都市〜自然の三層を一気に回したあとで、自然/大地の声をいったんクローズアップしてから、ラスト二曲の人間ドラマへ戻っていくための、世界観を維持・移行させるための楽曲だと言える。ともすれば『Symbol IV : Earth』における地母神シアリーズ性が、「牧羊神のカーニヴァル」よりも前景化しているとすら言えて、本作の中ではいちばん「自然=森」という具体的な地理と、その「ざわめき」に肉薄している楽曲でもある。

そして迎えるのが、星図と人間関係の「線が切れる瞬間」としての『別離』である。

別離

別離

  • ViRCAN DiMMER
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一緒にいた時間を、星や季節、風景の変化と結びつけて回想しながらも、別れそのものを「運命だから」とだけ諦観的に見るのではなく、「自分たちが選んだ結果」として引き受けているニュアンスが特徴的だ。ふたつの天体が、ある期間は調和していた軌道から外れ、それぞれ別の軌道へ離れていく瞬間。その「別離」を、人間関係側で描いた曲になっている。『Ether』における

自由になる

調和が訪れるとき自由という概念も無くなる

と歌っていた「概念の溶解」が、四元素側の闘争/生成を超えた地点での還元だとすれば、『別離』はもう少し地上スケールに引き寄せて、「ひとつの関係性の終わり」を、そのままのサイズで引き受ける曲として機能している。

ラストトラック『Twilight Connection』は、黄昏の中で全部をもう一度繋ぎ直す曲としてアルバムを締めくくる。

Twilight Connection

Twilight Connection

  • ViRCAN DiMMER
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  • ¥204
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タイトル通り、黄昏とコネクション=つなぎめという語から、昼と夜のあいだ/終わりと始まりのあいだに立つ曲だと分かる。街の灯りと、空に残る残光、過去に出会った人たちとの縁といった情景がやわらかく描かれていて、「ホロスコープ=上から決まった運命」というイメージではなく、自分が歩いてきた軌跡そのものが星座の線になり、出会いと別れの集合が「自分固有の星図」になっていくという感触が強い。「人は強い生き物、そして別れの果て」と『別離』で歌っていたラインの延長上に、この曲が置かれている時点で、結語ははっきりと人間側に寄っている。黄昏の街に立ちながらも、「それでも人生は続いていく」と静かに言ってしまうエンディングだ。

 

ここで初めて、『Ether』における「月より上」の真理に触れつつ最後は「宇宙へ還る」という締め方と、ViRCAN DiMMERの『HOROSCOPE』の終わり方との差がはっきり浮かぶ。Ave Mujica『ELEMENTS』が、上からの宇宙論として「HOROSCOPE=星図」「四元素=世界の構造」を描き、革命・自己喪失・性の合一を経て『Ether』 で「一者への還元」まで突き抜けていくとするなら、HOROSCOPE は、同じく星図を掲げ、ギャンブル・迷宮・別離といった月より下の人間ドラマを経由しながら、最後は「人が生きてきた軌跡そのものが星座になる」という、人間側に残る形で黄昏へ着地するアルバムになっている、ということだ。

言い換えれば、両者は

・上からの宇宙論としての HOROSCOPE=星図 と ELEMENTS=四元素
・月より下の世界での人間ドラマとしての HOROSCOPE(ギャンブル/迷宮/別離) と 『ELEMENTS』(革命/自己喪失/性の合一)

という対応関係を持ちながら、結語だけが異なる。『ELEMENTS』は最終的に「宇宙へ還る」方向へ抜けていき、『HOROSCOPE』は「それでもここで生きていく」側にとどまる。その意味で 『HOROSCOPE』は、テーマ性としてはほぼ同じ宇宙論を、より土着的に(男性二人のラップ主軸という形で)人間側の目線に寄せて描いたアルバムだと言える。だからこそ、『ELEMENTS』の四元素世界観や「大宇宙」モチーフは、どこからともなく降ってきたアイデアではなく、すでにViRCAN DiMMER名義の『HOROSCOPE』の段階で一度描かれていた Diggy 宇宙論を、Ave Mujica という枠組みの中で再構成・拡張した結果として理解できる。

 

ここまで見てから Ave Mujica『ELEMENTS』を振り返ると、その構図がほとんど「正統進化」に見えてくる。『HOROSCOPE』の黙示録三部作が、太陽と月・都市の迷宮・牧羊神の祝祭という三点セットで宇宙を切り出していたのに対して、『ELEMENTS』は四元素(火・風・水・土)とエーテルを揃え、六芒星や「大宇宙」、さらには musica mundana 的な宇宙音楽のイメージまで含めたフルセットの宇宙論として再構成されている。しかも ViRCAN DiMMER 期の時点で既に「宇宙の四元素」や「大宇宙の晩餐会」といった語彙が使われていることを考えると、Ave Mujica における「大宇宙になる」「四元素+エーテル」「六芒星→八芒星」といったモチーフは、Diggy-MO' の頭の中で長年反復されてきたイメージ群の最新版として読む方が自然だろう。『HOROSCOPE』の黙示録三部作は、まさに『ELEMENTS』の前段階として、Diggy 宇宙論のラフスケッチをすでに描き切っていた、という位置づけができる。

 

その意味では、『ELEMENTS』一本読みで考察/解説を組むより、『HOROSCOPE』と組み合わせて見るほうが、視えてくるものが明らかに多い。

『ELEMENTS』単品読みだと、どうしても

  • 四元素+エーテル
  • 六芒星/大宇宙
  • 月より下/月より上
  • musica mundana 的な宇宙音楽

といったモチーフを、「この作品内部だけで自己完結している体系」として読むことにとどまってしまう。そこに『HOROSCOPE』を並べると、一気に「作り手の時間軸」が可視化される。これは Diggy が Ave Mujica 用に急に思いついた世界観ではなく、ViRCAN DiMMER 期から回してきた

  • 宇宙の四元素
  • 大宇宙の晩餐会
  • 太陽と月/ラビリンス/牧羊神パン

といったモチーフ群の「最新版」として見えてくる。

太陽と月(宇宙)/ラビリンス(都市と精神)/牧羊神のカーニヴァル(自然と祝祭)が、そのまま『ELEMENTS』側の四元素/六芒星エーテル/musica mundana 的宇宙音楽へと正統進化しているからこそ、ここで初めて「Diggy 宇宙論」という縦軸が立つ。『HOROSCOPE』+『ELEMENTS』という通し読み=作家単位の宇宙論の追跡をしてはじめて、Ave Mujica は「Diggy-MO’ が一時的に参加しているバンドプロジェクトの一つ」という直線的な理解ではなく、「Diggy 宇宙論が、バンドリ/Ave Mujica という器を得て再構成された地点」という、もう一段深い補助線としての視座に立てる。

だからこそ、ここで歌詞の解説をここまで細かく書いてきたのは、世界観の基盤を示したいという以上に、『ELEMENTS』が「歌詞も楽曲も普通に名曲」であることを前提にしつつ、その歌詞がいかにも平面で、しかし含意があまりにも多面的、という両義性を持っているからでもある。

 

PSYCHO-PASS PROVIDENCE』(2023年)において、雑賀譲二先生(cv 山路和弘)が常守に向かって

正義も真実も多面的だ。上から見なければ理解できないこともある

と説くシーンがあるが、そういった「上から見なければ分からない多面性」の視線を、抽象理論ではなくポップスの歌詞とサウンド設計のレベルで地でやっているのが、このコンセプトアルバムの凄さであり、同時に異常さでもある。

絶対現場では「万物が〜」「ハクスリーが〜」「シェイクスピアが〜」とかいってる

(まぁあの作品のED『当事者』も歌詞の文節レベルではガッツリこの系譜なんだけど。)

当事者

当事者

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細かく読み込みすぎではないか?という視座に立つなら、「波/夢/愛/光/静寂/月より下/宇宙へ還る」といった言葉は、表層ではごく普通に情緒的な歌詞として成立しているし、それだけで十分に機能する、とも言える。けれど同時に、それだけでは終わらない、という意味合いがここではあまりにも大きい。「寄せる/馳せる/揺れる」の反復は、まず聴覚的に気持ちいいリズムを作るし、Diggy-MO' らしさを際立たせるが、一方で、反復という形式そのものが、儀礼・呪文・祈りのリズムでもある。こういった点から、『ELEMENTS』の歌詞は「平面の情緒」と「多面体の象徴」が同居していて、単線で読み切れない「扱いづらさ」=「豊かさ」を持っている。雑賀のこの視点は、そのまま『ELEMENTS』の作り方にも重なっている。そして、そこに Diggy-MO' のもうひとつ(ViRCAN DiMMER名義)の宇宙論=『HOROSCOPE』(2020年)が背後にあることを踏まえるなら、両作の歌詞と構成をここまで仔細に追うことこそが、Ave Mujica を捉えるうえで最も大きな意味を持つ。

 

その意味では『素晴らしき世界 でも どこにもない場所』(長谷川大介 & Diggy-MO’)といった楽曲は、歌詞のテキストよりも、タイトルとジャケットデザイン性が強いせいか、そのままハクスリー引用だなと思える「優しさ」がある。この、「上から見る」視線が、どう PSYCHO-PASS やハクスリー/伊藤計劃、さらには水戸部功の装丁文化と共振していると言えば、まず、作劇として『すばらしい新世界』では市民が「ソーマ」という薬によって不快な感情を抑え、常に表面的な幸福感を享受している状態=痛みのない、明るく、無難な「偽りの白」で進む。

同時に、伊藤計劃『Harmony』も『虐殺器官』的な痛覚マスキング的な役割を持つ「Watch Me」の性質からそのシステムにおける象徴=白い表紙への接続。

(大元はシライシユウコ氏のイラスト付きでしたが今流通しているのは真っ白い版)

だからこの楽曲のデザインも「基調が白」みたいな連想があるし、これは成立する。

歌詞でも

唯一のひかりを目指すために壊せ

と、優しい理想や安定をいったん破壊して突き抜ける運動が鳴ってるし、「破壊と創造」がテーマだとされている。

「破壊」と「創造」をテーマにした2曲は、Ave Mujica独自の世界観を存分に表現しつつ、彼女達の楽曲の幅広さを感じさせる2曲になっている。

bang-dream.com

ここで白/黒があるのって、「創造」=白と「破壊」=黒みたいな文意がある。

それは装丁文化から考えても実際言えることで、水戸部功のブックカバーデザインは現在のデザインのスタンダードにもなっているので、「デザイン」としての意識性は高い。そもそもとして白黒の基調のトーンを落ち着かせるという形式自体が、サンデル教授の『これからの「正義」の話をしよう』における水戸部装丁以後、大流行りしたという事実からも、マインド精神としてもここはむしろ正統派。

(こういう表紙を本屋やamazonの表紙でみたら大体本作の水戸部フォロワーです)

なによりサンデル教授、伊藤計劃、ハクスリー、オーウェルテッド・チャンは全て、水戸部装丁案件。つまり、ハクスリー/伊藤計劃テッド・チャン/(オーウェルのepi文庫新訳群)といった痛みの消去・制度化された白・反乱としての黒を主題に抱える作品群の視覚が、水戸部功のミニマル装丁へ収斂していくということ。

それを思えば完璧に筋が通る。

そう考えれば、この二種のジャケットってそのまま「水戸部」圏内
素晴らしき世界 でも どこにもない場所

素晴らしき世界 でも どこにもない場所

  • Ave Mujica
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音楽的には「高速メタル」と「バラード」の組み立て方と、その配置バランスで型がつく分、では「歌詞」はどこまで詰めているのか?ということが重要になってくる。

そういう意味では楽曲の構成は割と簡易的に表現できる。

『Symbol I : △』ではガチガチの高速メタルが炸裂し、『Symbol II : Air』ではジャズ要素を含んだピアノがかなり自由に暴れ回る。高尾奏音のテクニックがバチバチに剥き出しになりつつ、ベース/ギター/ドラムも「どう考えてもBanG Dream!の想定スペックを超えているだろ」という領域を何食わぬ顔で踏み越えてくる一曲になっている。

高尾奏音御本人のSNSに「演奏してみた」があがっているが、普通に超人。

淡々とこなしているがその実鍵盤のタッチレベルで芸術的な動きができなければリアクション込みで、ミスなしでこんな鮮やかには弾くのは非常に難しい。普通に高尾奏音女史のレベルの高さがXの動画で味わえるのは豪華だよなぁとか思う。そういう意味でも何度でも関心できる動画です。ASSOLUTOは伊達じゃない。

 

反面、『Symbol III : ▽』はガラリと空気を変える。
ここでは、ミュージカル出身の佐々木李子のボーカルを主軸に据えたバラードが展開され、伴奏もほとんどピアノとボーカルに徹している。「ミュージカル歌手」と「ミラノ国際ジュニアコンクール最高位」の二人だけで成立する空間は、もはやバンドサウンドというより、小規模な舞台芸術の一場面に近い。これがアニメシーンのバンドで成立するとか本当に「信じられない」し「あり得ない」が、「どっこい嘘じゃありません」と一条が突っ込む間もなく「成立」しているのだ。

 

『Symbol I〜III』だけで、Ave Mujica が「爆走メタル」と「声とピアノの芸術空間」という両極を、同じユニットの中で自然に共存させていることが、かなりはっきり見える構成になっている。このバラード調の一曲があるからこそ、自分は「この二人なら『Cats』の『Memory』が成立してしまう」と本気で思っている。世界観的にも炸裂するやつだ。いまだ公式にカバーはないが、そうであってほしいという願望込みで、可能性としては余裕で射程に入っているし、脳内再生ではとうの昔に400回は聴いた。もちろんライセンス関係が難しいのは既知の話だ。そこは一旦脇に置くとしても、冷静になって考えてほしい。この「舞台芸術としてのバラード空間」がユニット内部に実装された瞬間、もう一つの射程が自動的に開く。つまり、Ave Mujica が外部の舞台曲を取り込むとき、その曲は単なるカバーではなく、バンド世界の延長として回収されうる、という地点だ。

 

第一にプロデュースが Diggy-MO’ であること。彼の詞世界は、ポップの表層を保ったまま西洋的な詩と神話の厚みへ降りていく構造を最初から内蔵している。

第二に、ユニット全体の世界観がゴシックとして設計されていること。『ELEMENTS』が提示した「五元素=ヨーロッパ文明・神話・秘教の抽象化」は、その裏打ちをすでに歌詞レベルで明確にしていた。

第三に、『Symbol III : ▽』で露わになった「声×ピアノ」のバラード成立性である。高速メタルと同居しながら、舞台の独白に等しい密度の空間が、同じユニットの中で破綻なく成立してしまうという事実がここで証明された。

この三点を前提にすると、グリザベラが歌い上げる『Memory』は、T・S・エリオット由来の詩世界ごと Ave Mujica に取り込める楽曲だとすら言えてしまう。夜、廃墟、過去への執着、自己回想としての独白など、こうしたモチーフは、そもそも「Ave Mujica」側の言語と親和性が高い。そこに「ミュージカル歌手」と「ミラノ最高位ピアニスト」が揃っている時点で、舞台版に肉薄するどころか、ゴシック側へ振り切った異常な『Memory』が、理論上はいくらでも組めてしまうわけである。

要するに、ここで語っているのは自分の願望という「小さい話」ではなく、『ELEMENTS』が抽象化によって作った器と、『Symbol III』が現実に開けてしまった表現モードが、そこで初めて外部の舞台曲を「内部言語として再解釈する」条件を満たしてしまった、という構造の話だ。

こうなってくると『Memory』は「もし歌われたら面白い」ではなく、「このユニットが進化の先で触れてもおかしくない形式」として、必然の側に立って見えてくる。

メモリー

メモリー

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そんな、リスナー側の想像力すら掻き立てる5曲入りミニアルバムの威力を前提として、2025年、年始早々にアニメ版『Ave Mujica』が放映された。そしてオープニングが『KiLLKiSS』である。ミニアルバム『ELEMENTS』で、

・爆走メタル
・ジャズ寄りピアノ暴れ曲
・声とピアノだけの芸術空間バラード

というレンジを一度見せたうえで、その本編開幕の一発目として置かれたのが

Diggy-MO’ & 長谷川大介コンビの『KiLLKiSS』、という流れになる。

KiLLKiSS

KiLLKiSS

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つまり「ここから先が、本当に Ave Mujica が「物語ごと」暴れ出すフェーズですよ」という宣言が、アニメ版のOPそのものに仕込まれていたわけである。

本編の物語そのものも、暴れ馬ぶりはそれはそれは……なのだが、この記事はあくまで音楽の話なのが、ある程度だけ触れておくなら、内容的には原作のスティーヴン・キング的な内閉的空間をバンドものの皮で包み、映像としてはキューブリック版『シャイニング』的なノリと勢いを、『ソードマスターヤマト』ばりのラストスパートで押し切った作品、と言える。

物語の骨組みだけを抜き出せば、

・『Ave Mujica』1話で CRYCHIC 解散の予兆
・『MyGO!!!!!』3話で解散そのもの
・1〜7話で MyGO 結成と崩壊
・8話以降で Ave Mujica 結成と CRYCHIC 問題の回収
・『Ave Mujica』終盤で初華/初音の過去編とクライマックス

となる。

このあたりの整理については、

rino.《論考》音楽×青春×人間関係 ガールズバンドアニメにおける群像劇について 或いは『響け!』から『トラペジウム』に至る病.『ブラインド』vol.3, p.53.

で詳しく書いたものの抄訳である。要するに、「十人のキャラクターによる群像劇」が二つの作品をまたいで展開している構造になっている。『MyGO!!!!!』が「バンドの崩壊と再生」を描いた作品だとすれば、『Ave Mujica』は「仮面とペルソナ」を軸にした心理サスペンスとして、その裏面を引き受けている。本論そのものはすでに同人批評として寄稿済みなので、詳しい話はそちらに譲りたい。

さて、『KiLLKiSS』だが、これは初期シングル群と『Elements』で養った要素が、ついに一本に束ねられたアンセム級の一曲になっている。さしづめSireniaに近いというかあっちをもっと過激にしましたというゴシックメタル性分を感じられる音源である。

『Fallen Angel』『All My Dreams』『Winter Land』あたりはばっちり合うと思う。

Fallen Angel

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All My Dreams

All My Dreams

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Winter Land

Winter Land

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まずイントロは、アニメ版と歩調を合わせるかたちで「ライブ披露直前の仮面劇パート」が挿入されており、弦が鳴り出すまでに一拍「タメ」がある構成だ。映像付きで観ればそこに必然性が生まれるが、音源だけで聴くと、その前段の寸劇も含めてひとつのトラックに押し込まれているぶん、どうしても説明としては不完全にならざるを得ない。正直に言えば、「track0=仮面劇、track1=KiLLKiSS」という二段構えにしたほうが、Ave Mujica というバンドの方向性まで含めて、より筋の通った提示になっていただろうと思う。1話で一番の最も豪快な見せ方をしているのはこの冒頭のオープニングをライブで披露するという点にあると言える。

BanG Dream! Ave Mujica』.2025年.第一話

この劇中会話の中で、オブリビオニス(豊川祥子)が
「大丈夫、月の光が起こしてくれますわ」
と口にする一言がある。この台詞が、そのまま後の楽曲イントロへ直結する伏線になっている。それが、第10話で紆余曲折の末に「新曲」として披露される『Crucifix X』だ。この曲のイントロが、ベートーヴェンピアノソナタ第14番『月光』第1楽章:Adagioのピアノ演奏から始まるのは、まさに先の「月の光が起こしてくれますわ」という台詞を回収するための仕込みである。

言葉としての「月の光」が、のちに楽曲としての「月光」になって、バンドそのものを叩き起こす。セリフとクラシック引用が一本のラインでつながる、このモチーフ設計がまず異常に良い。

とはいえ、これも曲としては文句なく良いのだが、クラシックメタルとして捉えると、音源面でどうしても軽さが残る。特に電子オルガン系のトーンが前に出ることで、シンフォニック系メタルが持つ本来の分厚い質量感よりも、ひと世代分ライトな手触りになっているのは否定できない。

 

同系列の音楽性でいえば、摩天楼オペラがちょうど比較対象として分かりやすい。アルバム『GILIA』収録の「Plastic cell」などは、2分前後からピアノで「月光」フレーズを解釈込みで引用しているが、あちらは作法としてきちんとピアノ主体でやり切っているぶん、クラシックメタルとしての説得力が明らかに高い。

Plastic cell

Plastic cell

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ベートーヴェンの「月光」を呼び出すのであれば、本来はああいう(電子ピアノであったとしても)ピアノで地面ごと鳴らすアプローチの方がしっくりくるし、その比較で見たときに Ave Mujica 側の音色設計は、どうしても物足りなさが顔を出してしまうのが『Crucifix X』の惜しい一点である。イントロだからこそ余計にだ。それ以外はものすごくいいのに、導入部だけがオルガンというのは、やっぱり損をしている気がしてならない。理屈をいったん脇に置いても、正直ここは電子ピアノで弾いてくれた方がまだしっくり来る。というか、他のパートでは明確にピアノで演奏しているところもあるので、意図的な使い分けをしているからこそ、余計に気になってしまうところではある。

 

そして、EDの『Georgette Me, Georgette You』である。この楽曲は前半独唱とピチカート弦が粒に広がり、メインメロディを高尾のピアノで攻めつつ、1m20sから全体の楽器(ドラム、ベース、ギター)が乗り込みつつ、でも核は「高尾のピアノ」を失わない。

Georgette Me, Georgette You

Georgette Me, Georgette You

  • Ave Mujica
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以後のバラード系含め、Ave Mujicaの佐々木李子の歌声・高尾ピアノフォーカスの組み合わせは本作の組み合わせのDiggy-MO’ & 松坂康司で固定される。

続く『Imprisoned XII』は、アコースティックギターとピアノで静かに幕を開ける。ここでも布陣は、佐々木李子のボーカルと高尾奏音のピアノという、先ほどの二人の組み合わせだ。サウンド面だけを見れば、Diggy-MO' が手がけた Ave Mujica の楽曲群の中でも、かなり「おとなしい」部類に入る。

Imprisoned XII

Imprisoned XII

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だが、その分だけ歌詞には重たいものが託されている。タイトルからして「Imprisoned=囚われた」であることが示す通り、この曲の中心にあるのは、解放ではなく「閉じ込め」の感情だ。

楽曲の歌詞を一部抜粋する。

 ねじれた空を描いて思うの 羽根のない君 堕ちればいい

触れてしまった神聖なもの 今夜 私の神話になって

ほら 逃げられないわ 弱っていく君 閉じ込めて

 

You know... you know... you know...
so, you know i want you to know how much i need you so

これらのフレーズを束ねて読むと、『Imprisoned XII』が歌っているのは、物理的な牢獄ではなく、情動そのものが作り出す檻だというのがよく分かる。

ねじれた空を見上げながら、「羽根のない君は堕ちればいい」と想像する視線には、守護ではなく「加害」の欲望が含まれている。そこに続く「神聖なものに触れてしまった」瞬間は、本来は侵してはいけない領域に手を伸ばしてしまったことへの自覚だが、それを「今夜、私の神話になって」と言い換えることで、相手の聖性を丸ごと私物化する方向へひっくり返している。さらに「弱っていく君を閉じ込めて」「逃げられない」と続くことで、その聖性を傷つけ、弱らせたうえで、自分の物語のなかへ監禁しようとする意志がはっきりと示される。

英語パートで繰り返される「You know...」のフレーズも、「どれだけあなたを必要としているか、あなたに知ってほしい」という「依存」の告白でありながら、その響きはむしろ「必要としているからこそ逃さない」という、一種の共依存的な執着の言い換えになっている。そして当然これらはDiggy-MO' のマインド(劇中レイヤーでは三角初華が祥子に向ける情動)として、「牢獄/縛り/解放」を一続きの感情として描こうとしているのは明らかだ。

 

タイトルの『Imprisoned XII』のうち、「Imprisoned」がこの精神的な監禁状態そのものを指しているとすれば、「XII」はその枠を数字レベルでもう一段階強調するマーカーとして働いている、と読むことができる。単に「12曲目だから」的な即物的な考えよりも

・12という数字が持つ周期性(12ヶ月、12時間、十二星座、十二使徒
・タロットで XII が「吊るされた男(The Hanged Man)」=動けないまま世界を反転して見るカードであること

といった連想を踏まえると、「終わらない周期のなかに吊されたまま動けない感情」「解放ではなく、ねじれた悟りとしての停滞」といったニュアンスがここに集約されている、と考えても不自然ではないし、むしろAve Mujicaの世界としてオープニング映像にカードにキャラを当てはめている方向性を考えるとむしろ妥当と言える。

つまりこの曲は、Ave Mujica 全体の「救われないゴシック性」の中でも、特に

・ねじれた感情による「自発的な監禁」であり
・神聖なものを自分の神話に回収してしまう暴力性であり
・それでもなお「あなたを必要としている」と告白せざるを得ない依存である

こうしたいちばんストレートなかたちで歌っている位置付けの楽曲として読むことができ、そのうえで「XII」というナンバリングが、元の世界に戻れないまま、一段ずれた位置で宙吊りになっている感情の「番号札」として機能している。本楽曲はこのような「歌詞」の解釈/考察性に富んだ楽曲として本作は受け止めることができる。

 

だから、『Imprisoned XII』『Crucifix X』に付されたローマ数字は、単なる曲順の表示ではなく、Ave Mujica 全体の「芝居じみた象徴体系」をまとめて担うためのスイッチとして機能している。この曲が歌っている「終わらない監禁状態」が、数字の側からも補強されていることはすでに本文で触れた通りだ。重要なのは、ここでの XII が、単に象徴の意味を背負わされているだけでなく、「カード化された世界観」と「劇中の感情」を接続するための番号札になっている点である。オープニング映像でキャラクターたちがタロットカードに対応づけられていく構図を踏まえると、やはり『Imprisoned XII』 の「囚われ」は、カードとしての XII に吊されたまま世界を反転して眺める視線と、初華から祥子の感情が生む檻とが、互いを照射し合うレイヤーとして読める。

対になる『Crucifix X』では、X という記号自体が、十番目のカードである以前に、十字架=クロスとしての図形性を持ち込んでいる。アニメ本編では、「月の光」という台詞で予告された「月光」引用がバンドを叩き起こすように、楽曲タイトルの 「Crucifix」 と X 字形のクロスが、物語の流れの中でバンドを「磔刑のポーズ」に固定しながらも前進させる役割を担っている。X はここで、タロットやトランプ、十字架という複数の意味の層を、あえて一つに束ねた「書き割り」のようなものとして扱われている。つまり『Imprisoned XII』『Crucifix X』という二曲は、物語的には情動の監禁と磔刑という連続したステージを描きつつ、ナンバリングの側では、カード=象徴の体系と、劇中の芝居を十字にクロスさせるための支点として設計されている。

 

 

そして、アニメ『Ave Mujica』13話「Per aspera ad astra.」では、Ave Mujica 名義の新曲が三曲、初めて観客の前に姿を現す。

ストリーミング配信が即日解禁ではなかったことも含めて、ここで行われているのは「リリース」ではなく、あくまで物語空間での「披露」「宣言」としての初演だと言っていい。今でこそ配信で秒で聴けますけど、当時の待たせ具合のもどかしさといったら辛いわけですよ。

だって「Ave Mujica」の新曲3曲分ですよ?精神がもたない

後ろ二曲の組み合わせはそれぞれ初だが、この三曲が、ノンタイ期と『ELEMENTS』で仕込まれてきた「怪物バンド」としての Ave Mujica像を、ようやくアニメ本編の前面に引きずり出す役目を担ったことは、最終回まで見届けた視聴者なら誰しも実感したはずだ。(というか内一曲はそれ明確に打ち出している)

それぞれの楽曲は単体でも成立しているのに、13話仕様ではあえて幕間の演劇込みで「連結させて」披露されたからこそ、その破壊力はそれ以前のライブシーンとも根本から次元が違っていた。音楽的に。

ラウドロックな曲調に加えて歌詞が完全にDiggy-MO'のそれに近い。元々という話ではあるが、そういう意味で違和感なくAve Mujica楽曲に取り入れた楽曲はこの3本といっていいだろう。

『八芒星ダンス』では

八芒星ダンス

八芒星ダンス

  • Ave Mujica
  • アニメ
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make it hot アクロバティック・キスで運命の啓示に火を点けて

無い 成さない style 災い じゃ従わない

哀 嘲笑い yea’p, till i die

buddy, alright?

yes ya gonna jump
yes ya gonna jump 突き抜けてく

という具合に、日本語/英語/スラング/擬音をすべて「跳躍」のイメージに束ねてしまう書法が、そのまま炸裂している。

「make it hot」「アクロバティック・キス」「運命の啓示」までを一息でつなげてしまう過剰さ、「無い 成さない style 災い じゃ従わない」で否定語とスタイルをほとんど韻の塊として扱う手つき、そこから「yea’p, till i die」「buddy, alright?」で急にストリート感のある呼びかけに変調し、最後に「yes ya gonna jump」を反復して、音節そのものをジャンプ台のように扱う感覚。こうした組み立て方は、SOUL'd OUT 〜ソロ期の Diggy の言語感覚とほぼ地続きだ。

その呼応性を見るために、ソロアルバム『Diggyism』収録の『FIRE WOO FOO FOO (feat. LiSA)』(ソロ作の中でもかなりレベルの高い一曲)を引き合いに出してみる。

FIRE WOO FOO FOO (feat. LiSA)

FIRE WOO FOO FOO (feat. LiSA)

  • Diggy-MO’
  • J-Pop
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ギリギリの振り切りで
収まってねぇぜ
Drastic proportion もそう

内面すらキバツさらけ出す欲求の下 舌足らずの Baby

Hey yeah girl, stay with me

It's plain to see you know やり切りの体で

お前の Sadness ぶっちゃけりゃどうだっていいぜ

No time to waste ってもう

(Yo) Posing, posing subliminal

張本人 強靭 Mental で Go!

『八芒星ダンス』では

make it hot

みたいな一発の英語フレーズに

アクロバティック・キス 

運命の啓示

みたいな過剰な名詞ブロックに加え

yea’p, till i die

buddy, alright?

yes ya gonna jump

のコールアウト。

一方で、『FIRE WOO FOO FOO (feat. LiSA)』では

ギリギリの振り切りで

収まってねぇぜ

の連打に加え

Drastic proportion

Sadness

といった英単語を、文法でせめるのではなく「パンチのある名詞」として配置して

No time to waste

Go!

で、そのまま突っ込む。Diggy-MO'の言語感覚は後で詳しく掘るとして、この時点で「相当」濃度が高い。「Diggy語がここまでストレートに美少女アニメバンドへ翻訳される未来なんて、いったい誰が真面目に想像していただろうか。

それでいながらも、最終的には「初華=ドロリス/祥子=オブリビオニス」が観客を引きずり上げるための煽りとしてきちんと成立している。Diggy 個人の楽曲ではなく、Ave Mujica のパフォーマンスとして聴こえるところまで、言語が完全にバンド側の血肉になっている。歌詞レベルで、その同化がはっきり可視化される地点が、この曲だと言っていい。

ここで視点を「八芒星」という図像そのものに引き戻す。

『八芒星ダンス』の世界像は、『ELEMENTS』での『Symbol III : ▽』で組んでいた

元素(対立)→合一(六芒星)→循環と還元(Ether)

という流れの、きわめて正統な続篇になっている。あちらで一度、六芒星=完成の図形として「大宇宙の核」に到達しているからこそ、八芒星は、その秩序がもう一回転して「再生/新しい循環/次の世界」を開く鍵として機能する。

 

合一の瞬間=完成の図形の先で、さらに新しく回り始める世界のエンジンとして八芒星が置かれている。『ELEMENTS』が宇宙論の提示と統合だとすれば、『八芒星ダンス』はその宇宙論を現実(アニメ本編/バンドのドラマ)の側で再起動するための「儀礼の歌」になっている。だから13話の最初の1曲目がこの楽曲なのだ、という構図が見えてくる。

ここで描かれているのは、天球の幾何学としての Ave Mujica だ。

八芒星=星型多角形=軌道、という対応を前提にすると、八芒星は単なる図形モチーフではなく、「サーカス」という舞台と「生きることの奴隷」という裏テーマをつなぐ星印として立ち上がる。

サビ前で前景に出てくるのは、狂騒に満ちたサーカスのアクションであり、アクロバティックに跳ね回る肉体だが、その跳躍は

本当のlife

を忘れるための陶酔として描かれている。観客から見ればそれはイリュージョンであり芸だが、演じている側にとっては、その芸そのものが「生に縛られた奴隷としての仕事」でしかない。その二重構造を象徴的に圧縮しているのが、

Yes, 八芒星へ

という一行だ。

ここでの Yes は、単なる肯定の間投詞ではなく、ベツレヘムの星へ導くイエス・キリストの響きを、ささやかに呼び込むものとして読むことができる。ベツレヘムの星は八芒星として描かれることが多く、宗教的には救いの光であると同時に、物語のガイドとしての機能も持つ。この点については、全曲解説でも

極めて個人的なイメージの中で、サーカスの放射状の天井が見上げる者をベツレヘムの星へと誘(いざな)うような、そんな想像を一番最初に巡らせました。

というイメージが明言されている。

『八芒星ダンス』における八芒星は、その宗教的な星型と、『ELEMENTS』で描かれた六芒星=完成の宇宙図形の「一回転後」に置かれた記号とが、二重写しになっている。六芒星で一度世界が閉じられたあと、そこからさらに一歩踏み出してしまう「再生/再起動」の印が八芒星であり、その軌道上でサーカスの狂気は、現実逃避と儀式を兼ねたダンスへと変換される。

つまり Diggy-MO’ が『ELEMENTS』で六芒星=大宇宙の到達点を一度描いたあと、アニメ本編の局面で「八芒星=再生と循環の更新」を掲げた曲へと進むのは、作家としての語彙の使い方としても、シリーズ全体の段階構成としても、きわめて筋の通った展開だと言える。その意味ではこの楽曲だけは例外的に、『ELEMENTS』の純粋な続編として聴く必要がある。

Ave Mujica に共通しているのは、記号やモチーフを「答え」ではなく「暗示」として配置している点だ。ナンバリング、星型、擬似動詞化された固有名など、さまざまな語彙が飛び交うのは、単に情報量が多いからではない。多面体として読むことを前提に、Diggy-MO' が意図的に「読みを増殖させる仕掛け」として設計しているからこそ、こうしたテキストが立ち上がってくる。

 

そしてMujica楽曲の中でも人気の高い楽曲『顔』。

顔

  • Ave Mujica
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これはベースで始まるイントロもそうですが、まず最初に佐々木李子の「舌打ち」が音へと転化されるところからはじまる。これもどう考えてもDiggy-MO'くらいしか発想として持ち得ないスタンスである事の表れだ。歌詞も、読めても歌えない現象度で言えばトップレベルの詩性を帯びている。冒頭を引用します。

事を/事を拗らせてる
の/せてるの

アルレッキーノ コルセットを調整してよ

ちょいと顎上げたりして 鏡の私

同じに見える違う顔

化粧映え 誰 double 化け charmin' チェーミン チューミン

まず/が入る時点でおかしいし、読めても楽曲に載せて歌い上げることが難しいことが音読レベルでわかる。元々楽曲と合致しているからこそなのだが、「のせてるの」を「の/せてるの」で分けるという母音/子音単位で歌詞を操作し楽曲に対して流動的に載せるのはそう簡単ではない。文字列としては同じ言葉をスラッシュで分解し、意味をずらしながら重ねる手つきそのものが、歌詞にある「同じに見える違う顔」という曲の主題とシンクロしている。

主題は、本楽曲の英題が『Alter Ego』なのからもわかるように、「もう一人の自分」である。三角初華と三角初音がいて、どっちがどちらなのか、という設定そのものを楽曲に翻訳した一曲。ボカロオタク向けにざっくり言えば、kemu の『拝啓、ドッペルゲンガー』系統の曲だと思ってもらっていい(超古い/純度90% kemu 楽曲)。
Mujica は知っているけれど kemu を知らない人も多いと思うので、この際「堀江晶太」という四文字は一度脳に書き込んでおいてほしい。

 

閑話休題

そしてアニメ『Ave Mujica』を締めくくる楽曲こそが『天球(そら)の Música』だ。

天球(そら)のMúsica

天球(そら)のMúsica

  • Ave Mujica
  • アニメ
  • ¥255
  • provided courtesy of iTunes

これは個人的には、Diggy-MO' の本音が最もストレートに表に出ているテーマ曲だと感じている。

前提として、そもそも三角初華というキャラクターの風貌や役割が、現実世界の Diggy-MO' をなぞっているのではないか、という指摘は、Diggy/SOUL'd OUT 周辺のファンからも相当数挙がっている。ここは正直、かなり意識していると見ていいだろう。

ただ、それは「見た目」だけの話ではない。

マインドの側でも、この曲まで来ると「Mujica 楽曲=Diggy-MO' の精神を本当に継承した曲」と言い切ってしまっていいくらい、思想レベルで接続が見えてくる。

これは以前「春日影論」の終盤でも一部触れた点だが、「天球」という単語と「Música(音楽)」という単語をわざわざ組み合わせている時点で、単純な「天文学モチーフ×音楽」という話では終わらない。ここにはもう少し深い層の文脈が折り畳まれている。

 

第一に、ボエティウスが絡んでいる。誰だそれ、という人も多いと思うので雑にまとめると、6世紀のローマ世界で活動した学者であり、アリストテレスをはじめとしたギリシア哲学をラテン世界に橋渡しした人物のひとりだ。そのボエティウスが著した『音楽教程(De institutione musica)』は、半音/全音といった概念の整理も含め、いわば「西洋音楽理論の古典的教科書」のひとつとして扱われてきた。

ここでボエティウスは、音楽を次の三つに分けて定義している。

・宇宙の音楽(musica mundana)
・人間の音楽(musica humana)
・道具の音楽(musica instrumentalis)

本来の意味合いをざっくり訳すなら、

・musica mundana=天体の運行や四季の循環のような「宇宙の調和としての音楽」
・musica humana=身体と魂のバランスとしての「人間そのものの調和」
・musica instrumentalis=実際に楽器や声として聴こえる「演奏される音楽」

といったところだろう。かなり乱暴に現代的な喩えに置き換えるなら、アーティストを聴くときに「世界観で聴く」「構造で聴く(コード・進行)」「歌詞やサウンドで聴く(共感型)」といった複数の層がある、というイメージに近い。ただし、あくまでこれはアナロジー的解釈であり、元の概念そのものとは当然ずれている。

 

いずれにせよ重要なのは、「宇宙の音楽(musica mundana)」という発想が、そもそも天文学と音楽が地続きだった6世紀の時代の産物だという点にある。ボエティウスと、のちのコペルニクス『天球の回転について(De revolutionibus orbium coelestium)』のあいだには、「天球」という共通の語彙が共有されている。そして、その土台を与えたのがプトレマイオスアルマゲスト』であり、すなわち「天動説」の宇宙像である。

 

つまり流れとしては、

プトレマイオスが『アルマゲスト』で天動説的な天球モデルを数学的に固め
ボエティウスが、その「天球の調和」を含みmusica mundana という概念を立ち上げ
・千年近く後に、コペルニクスが『天球の回転について』で、その前提ごと回転させる

この3段階を踏んでいるということだ。

 

ここで Diggy-MO' に戻ると、彼のソロ曲『PTOLEMY』は名前からしてプトレマイオスそのものだし、歌詞の中で「アルマゲスト」という語を持ち出しつつ、「丸(マル)の内側から世界を見ている視点」から語っている。つまり、「天球の内側に閉じ込められた観測者」としての感覚が強い曲になっている。

あしたなら神 アルマゲスター

みてみたいな マルの外側から

あしたには神 アルマゲスター

してみたい 夢みたいんだ yellin'

PTOLEMY PTOLEMY
PTOLEMY PTOLEMY

PTOLEMY PTOLEMY
PTOLEMY PTOLEMY

PTOLEMY PTOLEMY
PTOLEMY PTOLEMY

PTOLEMY PTOLEMY
PTOLEMY PTOLEMY

ここにおける解釈はアルマゲストプトレマイオスが記述した天球モデルであり、「みていみたいな マルの外側から」というのは内側から見た側の視点=天動説である。

また、『PTOLEMY』 のMVで印象的なのは、背中に「in」と「out」とスプレーで書かれたオレンジのジャケットを着た二人の男性が、巨大な地下空間の中で延々と絡み合うように踊り続ける構図だ。歌唱もDiggy-MO'が時々映るが、基本的には、「in/out のペアが無観客の円環空間で拮抗運動を続ける」という一点だけが、異様なまでに執拗に描かれている。これは「天球の内側から世界を見ている観測者」という曲のテーマを、そのまま身体レベルの記号に落とし込んだイメージだと言えるだろう。

 

内と外、主体と世界、天球の内側に閉じ込められた視点と、その外側へ出ようとする衝動が、二人のダンサーとして分裂し、押し合い・絡み合い・ぐるぐると回転する振付として可視化されている。面白いのは、「in」と「out」の文字が同時にはほとんど画面に収まらず、カメラワークや回転のタイミングによって、視聴者は断片的にそれを読み取るしかない点である。観測者は常にどちらか片方の立場からしか世界を見られず、「内側から見ている」という天動説的な視点そのものが、すでにループ=閉じた系の一部に組み込まれている。

その閉じた円環を、二人の身体がぶつかり合いながらなぞり続けるMVは、『PTOLEMY』という楽曲が抱えている「天球の内/外」をめぐるテーマを、極端なまでに単純化した「図解」として機能している。

一方、『GOD SONG』では、「here i come as the GOD SONG」や「0 が 1 になる」といったラインを通して、明らかに「外側から世界のルールを書き換える声」として歌っている。

雷鳴 ga-ga, va-va, bang ya 轟く ya 動く

動く 新世界うごめく change ya hey ya, ya all

誰かが探していた story must be told

産声を上げる in this chaos hey, gya-gya, oh,

天 裂ける そう 聞こえる yes, yes, i can

君に聞こえない "that" and

見える i can, can 見えるよ全部 君に見えない "it"

そして "0" が "1" になる 見せてあげる

here i come

here i come as the GOD SONG

yes, here i come

here i come as the GOD SONG

『PTOLEMY』の「あしたなら神」に呼応するように「here i come as the GOD SONG(神々の歌として、ここに参る)」や「0が1になる 見せてあげる」といった歌詞からもわかるように『GOD SONG』はアンサー楽曲として成立している。

また楽曲内で何度も繰り返される歌詞群を分解すると

loopin' loopin' got this all this on it
loopin' what you want in
with it at times what you want in / keep at bay what you want in

・「loopin'~got this all this on it」=「ループがすべてを背負って回っている」
・「loopin' what you want in」=「そのループの中に、望むものを流し込め」
・「with it at times what you want in / keep at bay what you want in」=「ときに欲するものを抱え込み、ときに欲するものすら押しとどめる」

という意味合いが浮かび上がる。ここで歌われているのは、ループ構造そのものに「何を流し込むか/何を遮断するか」という権限を持つ存在のフレーズだ。

『PTOLEMY』が天動説的な「内側の眼差し」を歌っているとすれば、『GOD SONG』はその外側に立つことで、視点の転倒そのものを歌にしたアンサー曲として捉えられる。

ここでMVの振り子/ニュートンのゆりかごが決定的に効いてくる。振り子の等時性はガリレオに連なる時間・周期の発見であり、ニュートンのゆりかごは運動量保存や力学を最短距離で可視化する装置だ。球が一定の周期で往復し、外から手を加えない限り同じパターンだけを反復する姿は、「世界はまずループ=周期運動として出来ている」という科学的宇宙像そのものに重なる。その上に『GOD SONG』の「ループに何を入れるか/何を締め出すか」という言葉が乗ることで、主体はガリレオ的な「揺れの法則を見つけた観測」から、ニュートン的に「その法則を扱い再配列できる者」へとスライドする。

 

そして歌詞では「0が1になる」「ループに何を流し込むか」という歌唱に映像では、振り子(=周期運動)と球の衝突(=0→1→0→1の離散イベント)でそれを可視化するという構造もあり、これらは

・周期運動そのもの=ループ
・どの球をどの強さでぶつけるか=ループに流し込む情報
・伝わらず止まる球=「keep at bay what you want in」

として『GOD SONG』の全体像を表している。

要するに Diggy のソロワークの中ではすでに、

  • 天球の内側にいる視点(『PTOLEMY』)
  • 天球の外側から介入する視点(『GOD SONG』)

というペアが完成していて、後者は振り子=ガリレオニュートン的モチーフで「ループと規則の再設計」を身体化している。だから『天球(そら)の Música』というタイトルは、プトレマイオス的天球とボエティウス的宇宙音楽を踏まえつつ、なおかつその外側へ出る声まで含めた二重の意味を、最初から内蔵していたのである。

それがDiggy-MO'が意図的であるというのもMVに隠されている。それは『PTOLEMY』のMVカットが中盤の「loopin' loopin' got this all this on it」で一瞬だけ切り替わる。

ここの映像が「一瞬」回想みたいに侵入してくるのは、「この曲はあの曲の外側からの返答として立っている」という制作レベルの自己注釈でもある。そしてそれは映像作家からも裏打ちができる。

『PTOLEMY』を監督した映像作家、富永省吾氏は自身のサイトにて以下のようにコメントをしている。

シルク・ド・ソレイユにも出演し、海外を中心に活動するパフォーマンスチームをフィーチャーし、複雑な楽曲コンセプトと合わせたミュージックビデオを監督。

身体が複雑に絡み合う完全オリジナルの振付のもと、国籍を超えたノンバーバルな精神世界を想像させる。

shogotominaga.com

このコメント自体は「GOD SONG側の引用意図」まで断言するものではないが、少なくとも『PTOLEMY』が「概念を身体で図解するMV」として作られていることは制作サイドの認識と一致しており、『GOD SONG』がそこを引用するというのは、意図的であるという読みは強くなる。そして、その『GOD SONG』も富永省吾MV作品であるということ、これら全てが、噛み合う。

shogotominaga.com

つまり、映像監督サイドの認識としても『PTOLEMY』は「精神世界を身体で図解するMV」であり、そのイメージを『GOD SONG』側で再引用している、という読みは決して無理筋ではない。

『GOD SONG』のMVの映像の流れとしては基本的こういう形で進む。

『GOD SONG』のMVは、ニュートンのゆりかご・周期運動のミニマルな可視化としての「ループ」を、白い実験室みたいな場で「法則」として置いている。だから黒の衣装をしたDiggy-MO'と白い実験質というコントラストが効いた空間で進む。その空間がいきなり、色温度も空間も一気に暗転し『PTOLEMY』へ飛ぶ。

これは編集上、「ループという抽象を、いちど身体化されたループ(PTOLEMY)へ接地させてから、また神視点のループ制御へ戻す」ための接点として機能している。

これは、言い換えると、『GOD SONG』の語り手=Diggy-MO'が「ループの外側に立つ者」であることを誇示するその刹那に、映像は逆に「内側のループの記憶」をチラ見せして、両者が一本の円環に貫かれているということを視覚的に証明してる。だららそこに「内と外が一曲で往復する」必要性がある。

 

「外側から来た神の歌」が「内側の地下円環」を一瞬だけフラッシュバックすることで、外側は無根拠な超越じゃなく、内側のループを引き受けたうえでしか成立しないことを踏まえると、先述のように「loop」がすべてを背負って回っているというラインに、映像が「背負われる側のループ」を重ねに来てるという構造と合致する。そのため、歌詞とMVが相互注釈になってるタイプの表現であると言える。

www.billboard-japan.com

以上の条件を踏まえた上で、『DX』の本人のインタビューを振り返る

--続いて今回のベスト盤のDISC1に収録された新曲「GOD SONG」についてですが、ストリングスをおもしろく使ったアプローチなど、先ほどのサントラの話を聞いて合点がいくサウンドでした。制作はいつ頃から?

Diggy-MO’:歌詞のテーマは、「PTOLEMY」(DISC1収録)と同時期に出てきた感じだったけど、形に起こし始めたのは去年からかな。

Diggy-MO'自身が「GOD SONG の構想・核は『PTOLEMY』の時期に芽生えていた」という趣旨を語っている。つまり両曲が同一の思考圏から生まれた「対」であることが示されている。これら自体はDiggy-MO'の愛好者の中では親しまれている事実であり何も新しい発見、というわけではない。

また、『DX』の特典のメルマガ「帽子の中身」を一冊にまとめたものの中で、『GOD SONG』についてはこのようにコメントしている。

 

見えないものが見える、聴こえないものが聴こえる。感覚が研ぎ澄まされて過敏になることで、いいように変化するものもあるし、一方メルトダウンしていくものもあるけど、結局ループの中にいる。自分も時代もそうだよね。一つの大きなマルがあって、その中にいる目線から見たアングルが『PTOLEMY』で、マルの外側からが『GOD SONG』です。

「帽子の中身」.P152

Diggy-MO'本人の口から出た言葉と付き合わせると、

感覚が研ぎ澄まされて過敏になることで、いいように変化するものもあるし、一方メルトダウンしていくものもあるけど

この部分は、『PTOLEMY』の内側視点の身体的コストを言語化に等しい。つまり内側にいるからこそ鋭敏になり、鋭敏になるからこそ壊れもするという、ループ内部のドラマの言い回し。

 

結局ループの中にいる。自分も時代もそうだよね

 

ここは両曲の共有地点。『GOD SONG』はループ(周期運動/反復法則)そのものを「外側から扱う」歌だけど、外側に立ったから無限に自由、ではなく、扱っている対象がそもそもループだということを忘れてない。一方『PTOLEMY』は、まさに「ループの中に閉じ込められている感覚」をゼロ距離で鳴らす。内と外で距離は違うけど、「ループが世界の基本形」という認識は同じということ。

 

一つの大きなマルがあって、その中にいる目線から見たアングルが『PTOLEMY』で、マルの外側からが『GOD SONG』です。

 

『PTOLEMY』において、「マルの外側から見たい」という欲望を歌詞として歌っており、内側の観測者であることを自己規定している。

これらの流れを踏まえたうえで、『天球(そら)の Música』というタイトルを改めて見てみると、そこに込められた情報量の多層性が見えてくる。

 

「天球」という語でプトレマイオス的な宇宙像とボエティウスの「musica mundana」 を踏まえつつ、「Música」という語で「音楽そのもの」であると同時に、「musica instrumentalis」側も含めてしまう。さらにルビで「そら」と振ることで、天文学的な「sphere」と、物語世界としての「空/宙」を重ねている。

 

 

だからこそ、プトレマイオス〜Diggy-MO'、そして「Ave Mujica」までという思想体系が貫通しているのだ。そのうえで、ではこの曲の歌詞そのものは何を歌っているのか?

ここから先は、『天球(そら)の Música』の歌詞を、読み解いていこう。

ゆこう 明日へと / 美しい時代(とき)よ
人は忘れてく
いつかは消えてく

これの視点は完全に「musica humana」側=身体と記憶をもった人間の時間軸。
忘れる/消えていく/崩れていくのは「天球」じゃなくてあくまで、人間の方であると説いている。

想いを綴るようになったのは なぜ

ここでいたって、「なぜ書くのか?」と自問してる。有限な存在=人間が、自分の時間を「超えるもの」に接続しようとして「綴る」=書く/歌う、という行為が出ている。
これは、「人間の内なる調和(musica humana)」において、自分の外へ音として出ていこうとしてる瞬間の一節として読めるし成立する。

Let's sing along let's sing along
張り裂ける 心 奏でて

ここで、は張り裂けながら「心」を奏でて「歌う」という意味であり

巡り逢うノイズの中 魂の overdrive

ここは演奏における「ノイズ」や、そのノイズの中の overdriveディストーションかけた魂という語彙が展開されるため、「楽器の音」「ライブの音」の話である。つまりど真ん中で「musica instrumentalis」における領域の話をしている。

 

ここまではテキストと三文法を突き合わせると「そうとも読める」という解釈の最良の回答に近いにとどまるが、終盤の以下一節が破壊的に合致する。

もしもこの詩が天球(そら)に夢のつづきを描くのなら

ここにおける「詩」とは、「人間」が綴った「テキスト」と「歌」であることから、これらは、humana+instrumentalisであり、「天球に夢のつづきを描く」=その詩を、「musica mundana=宇宙の調和」側の層にまで投げてしまうということ。

つまりここで主張していることは大事で、

「有限な人間の歌(humana+instrumentalis)を、もし天球=musica mundana のに「届かせて」まで「書き込める」ならという意味

そしてここで、再度『PTOLEMY』を振り返ってみるとあの時のDiggy-MO'は歌詞煮込めていたのはアルマゲストを「丸の内側」から眺めていた観測者でした。それが本楽曲では「丸の表面(=天球)」に詩を書き込もうとしている、という転換が起きている。状態がまるっきりひっくり返っているのです。

その上で畳み掛けるように

ゆこう Ave Mujica(世界) へと

これは本当に、Diggy-MO'の「魂」と「愛」と「宣言」ですよ。字面としては「Ave Mujica」でもルビとして「世界」ってことは、「世界=Ave Mujica」って自分で言っちゃってる。つまり、プトレマイオスボエティウスが「天球」と呼んでいたものを、
この曲では「世界=Ave Mujica」として再定義するところにまで至っている。

プトレマイオスが「天球(丸)」のモデルを作り
ボエティウスがその球の調和を「musica mundana」と呼び
・Diggy が『PTOLEMY』で「丸の内側からそれを見たい」と歌い
・『GOD SONG』で「世界のルールを書き換える声」へ移行し

・「天球=世界」を「Ave Mujica」というバンド/物語/音楽圏に書き換えた楽曲

それが『天球(そら)の Música』なのだ。数世紀単位における音楽史をDiggy-MO'は「Ave Mujica」という存在に託したという構図になっているのだ。

 

Diggy 的な「内側・外側問題」と繋げるともっと多層的で、個人的な哲学生が強い部分もある

光と闇を司るその命
きっと すべてに物語がある

ここは、両面(光と闇)も命であり、そこには「物語」がある。という主張の歌詞だ。両面=命というのは視点としてはちょっと神視点に寄っている。しかし

こんなに誰かを想うのは 鳴呼 なぜ
光と闇を抱いたまま 胸焦がし

と、今度は「光と闇」を「抱いたまま」胸を焦がしている。つまり、「物語」があるという神の目線から、「光と闇」を抱えて燃えている個人へと目線がシフトしている。そしてその構図は完全に『PTOLEMY』と『GOD SONG』を一曲に落とし込んでいるということになる。つまり、天球側(大きな調和)の視点と、人間側(胸が焦げている個人)の視点を彼は何度も行き来しているということだ。

「すべてに物語がある」という一文は、musica mundanaの調和を「ストーリー」として読み替えている感じでもあるし、逆に言えば、「個々の物語が集積したものが、天球としての世界(Ave Mujica)になる」というような読解も可能だ。

 

まとめると、『天球(そら)の Música』とは「人間が忘れ、消えていくことを知りながら、詩と音楽を天球=世界(Ave Mujica)側に書き込もうとする歌」である。

系譜的に変化するならば

という縦線はかなり濃厚。

 

つまるところ、Diggy-MO'がBanGDreamのプロジェクトに参加オファーを受けたきっかけの二曲が『PTOLEMY』『GOD SONG』であり、それが「天球の内側から見たい/外から書き換える」視点という構図をすでに遂行した後にそれを全部ひっくるめて「Ave Mujica=世界」という器に継承するという再演以上のことをバンド「Ave Mujica」で描いたということ。天球=世界=Ave Mujicaであると。

 

少しだけ原初的な話になるが、ここで言う天球/musica mundana の「型」は、ボエティウスが体系化した時点で突然生まれたものではない。むしろピュタゴラス以来の調和観が、プラトン宇宙論の中で増幅され、以後くり返し呼び出されてきた反復史の産物である。

ティマイオス』が示すように、コスモスは数学的比例と調和として構成されるという発想が、宇宙と音楽を同じ秩序の二つの顔として結びつけた。

今でこそ「数」と「音楽」は分離されていますが、当時の価値観としてはこのふたつは結ぶ文化圏似合った、という前提ありきであり、それで言えば『国家』『饗宴』がしっかりと現世に読まれつつけているのは当時:現在で共有されるべき価値観がどこかしらある一方で、『ティマイオス』がそれらと比べて読み継がれるという目線でみると知られいない以上に、共有知としてのあり方が変わったからこそとも言える。

こうした「今や」の思想史的状況を、ボエティウスは六世紀の時点で一度整理し直したと見る方が実態に近い。

彼の仕事とは、この巨大な伝統を

「musica mundana / musica humana / musica instrumentalis」

という三分法に畳み込み、それを中世ラテン世界における標準語彙として流通させたこと、その再整理の仕方そのものにこそ意味がある、ということだ。この三分法は、のちの西洋音楽論と宇宙論の想像力を長く支配した。

結果として、「Ave Mujica」の世界観にも直結する文脈をかたちづくっている。

だからDiggy-MO’の射程の基盤にあるのは、ボエティウスという「教科書」である以前に、ピュタゴラスという「原器」そのものだと言える。

「万物は数である」が指し示すのは、世界のあり方それ自体を数として捉える視線であり、とりわけ音楽世界に対して決定的な影響を与えてきた思考のかたちである。まず、コスモス全体を「音楽的比例」で構成される秩序として理論化したプラトンらの仕事があり、それをボエティウスが一冊の教科書にまとめ上げて、中世ヨーロッパの標準宇宙観+音楽観へと引き上げる、という形に落ち着く。

そのうえで、最終的にグイド・ダレッツォが、musica instrumentalis のレベルで「では人間が実際に歌えるようにしよう」というかたちで、ut–re–mi–fa–sol–la という階名唱(ドレミファソラシの原型)や四線譜を提案し、それを『ミクロロゴス(音楽小論)』としてまとめる。現在の西洋音楽の基盤の多くは、おおよそこの一連の成立史に収束していく。

え、ではなんで今、五線譜なのか?答えは簡単。「四線譜じゃ無理」という現実があったからだ。ごく実務的な事情に突き動かされた結果である。四線譜は、単声のグレゴリオ聖歌のような、比較的狭い音域には十分対応できた。でも十三世紀以降、ヨーロッパ音楽はポリフォニー化していきます。そうすると声部が上下に大きく動くようになっていく。そこで「もう少し縦にマス目を増やさないと書けないし、読めない」という発想に至るわけですが、だからといって六線・七線まで増やすと、今度は譜面の視認性が落ちる。結果として、多声の複雑さを支えつつ、なおかつ読みやすさもぎりぎり守れる落としどころとして、五線譜が十四〜十五世紀のあいだに標準として定着し、今に至る。それこそAve Mujicaの音源考えれば五線譜じゃないとみたいなメタ読みもできる。

 

話を戻すと、「ピュタゴラス」に始まり「ボエティウス」を経て、その後のケプラーらに至るまで、一種の概念体としての「天球」を軸にした神学・音楽・科学の体系化は途切れずに続いていく。ここで問題になっているのは、「ピュタゴラス以後の天球」の解釈を、神学者・音楽家・科学者たちがいかように受け止めてきたのか、という思考の系譜そのものだ。

そして特徴的なのは、現代の感覚からするとほとんど信じがたいのだが、「全部をひとつの枠組みで考える」という発想があの時代には普通に稼働していた、という点である。数学・物理・音楽・宗教がバラバラに分解された時代に生きている自分たちからすると、歴史を紐解いて「ああ、こういう時代もあったんだ」と驚くしかない。音楽=数=宇宙=徳という考えが「普通」で動いていたのが、ピュタゴラスプラトンボエティウスの時代の日常感覚。

弦の長さの比が音程になる、という考え方は、数比が「聴覚的な調和」として現れることを意味する。同じ数比が天球の運動にも表れている、というのが「天球の音楽」であり、その秩序と調和をまねて音楽を作れば、人間の魂にも秩序と調和が宿る、という発想が「音楽神秘数」の背後にある。三分法ですら、現代の感覚で言い換えれば、

  • musica mundana=宇宙論
  • musica humana=人間論/心理学
  • musica instrumentalis=音楽学

と分解されてしまうだろう。「音楽は音楽でしょ?」という現代側のカテゴリ分けのほうが、むしろ西洋音楽の歴史から見れば「嘘だろ」と言いたくなるくらいの縦割りである。数は数理、音楽は芸術、宇宙は物理、神秘は宗教かオカルト。

だから授業では

歌いましょう

・鑑賞しましょう(バイアスかかりまくった『アマデウス』とか)

音楽史の「名前と年号」を覚えましょう

になる。音楽の授業が面白くないのは、分断後だけ見せられてるからとも言える。それなりの理由はある。制度的には分断後の方が効率いいし、実際そうなんだけど、補助線として「正しい/間違ってる」じゃなくて、「おもろい/つまらん」で引いて評価するなら、分断前の方が圧倒的におもろい世界。

 

数学/倫理/宇宙論/宗教が、ぜんぶ「音楽」に集約してた側ですから。

 

こうした分断された「当たり前」の側から眺めると、「天球の音楽」や「万物は数」といった言葉は、どうしても「はいはい神秘主義ね」ってなるのが当たり前なんです。

Ave Mujica は、そういう意味で「本当の意味で音楽をやっている」ユニットだと言える。ここで鳴っているのは、単なる楽曲やキャラソンではない。天球や星図といったモチーフを入口にしながら、宇宙観(musica mundana)、キャラクターの倫理と感情のドラマ(musica humana)、そして実際に耳に届くトラックと歌唱(musica instrumentalis)を、一つの枠組みの中で駆動させている。

かつて音楽=数=宇宙=徳がワンセットだった時代の感覚を、Diggy-MO’のテーマ性を持ち込んで、二十一世紀のポップカルチャーにもう一度立ち上げてしまっている、という意味で、Ave Mujica は「分断前の音楽」の再演をやっているのだ。

でも、だからこそ、そういった分断以前を一冊にまとめた書籍も存在しています。

『天球の音楽: 歴史の中の科学・音楽・神秘思想』(1998年) 

 

提案にはなるが、ここで読者の皆さんに一つ協力していただきたい。

復刊ドットコムに1票投票をお願いします。自分のアカウント名で既にコメント理由も投下済みなので、あとはMujicaファンの皆様が体系的に当記事を裏打ちとして理解するための一助としても、資料としても活用できる「声」を届けていただければと思います。

www.fukkan.com

www.hakuyo-sha.co.jp

導線として自分も復刊を望むコメントを書きました。

それはそれとして、これらの体系がある中で、忘れていけないが、これらはすべて作中の登場人物や物語の行末に置かれた楽曲であるということだ。

それにもかかわらず、ここまで来ると、キャラクターという媒介を通じて Diggy-MO' が己の哲学を徹底的に集約している、過剰なまでに「プロデューサーとしての集大成」的なスタンスが立ち上がってくる。

だからこの楽曲は最後に来るし、ぶっちゃけ「Ave Mujica」は一旦ここで終わっている。物語的にも、Diggy-MO' がプロデュースする意味としても、ここでひと区切りがついている。BanG Dream! という枠組みの中で、最大級の思想と卓越した言語魔法を持つ表現者 Diggy-MO' という一人のカリスマを用い、その超越的なスケールを「ひとつのバンドプロジェクト」に流し込んだ。

その乖離ぶりも含めて、とてもじゃないがリスナー側は生半可な受容態度では受け止めきれない。それこそこそ、musica mundanaとして響いてくる。

(『Completeness』で他曲との質感が異なっているのもこうした「面」で考えれば意図的と捉えれれる)

だからこそ、『黒のバースデイ』から『天球(そら)の Música』に至るまでの楽曲群は、サウンド、思想、歌詞、それぞれのレベルで総合芸術としての進化を遂げた成果であり、それを 2023〜2025 年というわずか二年でやりきった「大プロジェクト」であったと言える。こうして眺め直すと、1st アルバムなのにタイトルが『Completeness』なのは、単に『KiLLKiSS』の歌詞からの引用「だけ」ではないことが見えてくしなんなら、『KiLLKiSS』にも物騒ながら

You bleed, yes, bleed
その血で 天(そら)の五線譜を書き換えれば

と、天体と音楽記譜法が直結している一曲でもあったりするわけです。

 

Completeness

Completeness

  • Ave Mujica
  • アニメ
  • ¥1681

むしろ Diggy-MO' にとっては、ここまでがひとつの円環として「完璧に閉じた」と見るほうが自然である。

この項の長文で展開した核となるアイデアは5月にポストしたこれが萌芽

では、燃え尽きた後の「Ave Mujica」はどうなるのか。

ここで浮かび上がるのは、単なる商業的な継続・不継続の話ではなく、「虚構バンド」としての存在性そのものの問題だ。実はこの問いには、すでに先例が存在する。
アニメーションとキャラクターを媒介として「虚構のバンド」を立ち上げ、そのまま現実世界の音楽シーンに実在化させたプロジェクトたちだ。世界規模で言えば Gorillaz、日本のオタク文化圏で言えば EGOIST が、その代表例になる。

 

Gorillazはコンセプトバンドとして始まりながら、20年以上にわたって「キャラクターの時間」と「ミュージシャンの時間」をずらし続けてきた。EGOIST は『ギルティクラウン』『PSYCHO-PASS』という物語世界から生まれたユニットでありながら、作品が終わったあともryo(supercell)とChelly の音楽ユニットとしてしばらく現実側に残り続けた。

どちらも、「物語が終わったあと、虚構バンドはどこに居場所を見つけるのか」という問題を、一度は引き受けているプロジェクトである。

 

虚構バンドと2020年代の音楽

ではここで一度、虚構バンド(架空アーティスト)について振り返ってみる。

まずこの手のアーティストスタイルを定着させた功績としては外せない前例として、岩井俊二×小林武史という組み合わせに寄って生まれた二つの先行例が挙げられる。

スワロウテイル』(1996年)から生まれたバンド「YEN TOWN BAND

リリイ・シュシュのすべて』(2001年)から生まれた歌姫「Lily Chou-Chou

YEN TOWN BAND

YEN TOWN BANDは映画の主人公・グリコ(演:Chara)がボーカルをつとめる「架空の無国籍バンド」として設定されているが、制作側としては、小林武史プロデュース+Charaボーカルのコンセプト・プロジェクトとして成立だ。

ここで重要なのは、「物語の中のバンド」がそのまま現実の J-pop シーンに顔を出し、ヒットチャートの一角を占めてしまったという事実である。

90年代の日本のポップス史を引きで眺めると、しばしば「2TK(小室哲哉小林武史)の時代」と総括されるように、この二人がチャートの空気を大きく規定していた。YEN TOWN BAND の代表曲「Swallowtail Butterfly 〜あいのうた〜」が、オリコンチャートで31位から1位へと逆噴射するように浮上したのも、映画主題歌である以前に「小林武史がフロントに出てきたポップ・ソング」として、当時のリスナーの耳に届いていたからだろう。

つまりここで起きているのは、「物語世界の中に存在する雑多なバンド名義」が、いつのまにか日本ポップス産業の一等地にまで滑り込んでしまう、という現象である。

フィクションの側で立ち上げたはずのアーティスト像が、現実の音楽産業へと浸食していくその意味で、YEN TOWN BAND は「虚構から現実への影響の転化」を象徴する最初期のケースとして位置づけられる。ここで起きているのは物語世界の雑多なバンドとしての名義が日本ポップス産業の一等地にまで滑り込むという、虚構からの現実への影響の転化だと言える。

 

Lily Chou-Chou

そして、同じ岩井俊二×小林武史の組み合わせが、より「一人のカリスマ」に焦点を当てたかたちで結実したのが『リリイ・シュシュのすべて』だ。中学生たちが崇拝する謎めいた歌姫「Lily Chou-Chou」の存在感は、この作品全体の空気を決定づけている。

もともと Lily Chou-Chou は、岩井が立ち上げた BBS小説企画「Lilyholic」の中で形作られた架空のアーティストであり、映画公開前からネット小説の連載と楽曲リリースが並走していた、という珍しい経緯をもつ。ただし、その実態の構造は YEN TOWN BAND とほぼ同じだ。

 ・音楽プロデュース:小林武史
 ・ボーカル:当時無名だったSalyu
 ・コンセプト/歌詞の一部:岩井俊二

という布陣であり、その延長線上で作られたサウンドトラック『呼吸』も、現在では小林武史のキャリアを語るうえで欠かせない仕事として位置づけられている。映画と音楽がほぼ一体化した「カルト的名盤」としての評価に加え、Salyu、および岩井×小林ラインのその後のキャリアに与えた影響はきわめて大きい。

Kokyuu

Kokyuu

実際、このラインからはアルバム『TERMINAL』が生まれ、そこに収録された「to U(Salyu ver.)」では、作詞を Mr.Children櫻井和寿が担っている。どちらも小林武史プロデュース圏の人間であり、ある意味では『リリイ・シュシュのすべて』という組み合わせがなければ、この接続自体も起こり得なかったと言ってしまってよいだろう。

to U (Salyu ver.)

to U (Salyu ver.)

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この楽曲は、作詞がミスチルの櫻井という迂遠の上に成立しているが、どちらも小林武史のプロデュースの側の人間であり、その意味で『リリイ・シュシュのすべて』の組み合わせがなければ成立しないとさえ言える。

何より重要なのは、映画の中ではほとんど姿を見せない「神話的な歌姫」として存在していた Lily Chou-Chou が、現実世界では Salyu の声と小林武史サウンドによって、しっかりとした実体を持つ音楽プロジェクトとして立ち上がり、そのままメインストリームでの名曲誕生を後押しする存在にまでなってしまった、という点だ。「物語の中で立ち上がった音楽が、現実の音楽史そのものを書き換えていく』というモデルが成立している。

 

そして、小林武史×岩井俊二の「歌ありき」の相乗効果は、2023年の『キリエのうた』でも同じように発揮されている。アイナ・ジ・エンドを、劇中では「Kyrie」というアーティストとして、アコースティックギター1本を背負いながら内面世界を歌い続ける存在として描き出しつつ、現実側では Björk のデビューアルバムと同じタイトル『DEBUT』を「Kyrie」名義でリリースする。

DEBUT

DEBUT

  • Kyrie
  • J-Pop
  • ¥2444

さらにサウンドトラックは別枠で『「キリエのうた」オリジナル・サウンドトラック ~路花~』として小林武史主導で制作されている。

ここまで来ると、

1996年『スワロウテイル』の YEN TOWN BAND

2001年『リリイ・シュシュのすべて』の Lily Chou-Chou

2023年『キリエのうた』の Kyrie

という流れで、「映画の中で生まれた架空アーティストが、現実の音楽史に痕跡を刻んでいく」というモデルが、日本のポップカルチャーの中で反復されてきたことがよくわかる。

この虚構アーティスト→現実侵食というモデルは、日本映画だけのものではない。たとえば21世紀ポップカルチャーで最も有名な例のひとつが Gorillazである。

 

Gorillaz

Gorillaz は、ブラーのデーモン・アルバーンと『タンク・ガール』の共同作者ジェイミー・ヒューレットが1998年に立ち上げたイギリスのバーチャルバンドである。メンバーは 2-D、Murdoc Niccals、Noodle、Russel Hobbs の4人だが、全員がアニメーションとしてのみ「実在」するキャラクターだ。一言で言えば、世界スケールで「虚構バンド」というテンプレートを定着させた象徴的存在であり、最初から最後までバンド側が虚構である点が、他の事例と決定的に異なっている。

音楽面のコアはあくまでデーモン・アルバーンであり、彼はブラーとは別名義で、ヒップホップ/ダブ/エレクトロ/ワールドミュージックなどを自在に混ぜるための「覆面プロジェクト」として Gorillaz を機能させている。すなわち、現実の作り手が自分の表現のために虚構バンドを発明したケースであり、物語作品の内部から派生したプロジェクトではない。この点こそ、日本で語られる「架空アーティスト」との大きな相違と言えるだろう。

 

それでもなお、売上スケールは世界クラスだ。1st アルバム『Gorillaz』(2001年)は全世界で700万枚以上を売り上げ、「世界で最も成功したバーチャルバンド」としてギネス世界記録に認定された。デビュー以降のアルバム総売上も1600万枚以上に達しており、「虚構バンド」に徹したプロジェクトが、そのままこの領域の象徴になったという事実こそが、この記録の意味するところだろう。

 

www.guinnessworldrecords.com

そして何より重要なのは、PV/ウェブ/インタビュー/ツアーに至るまで徹底して「キャラクターとしてふるまう」トランスメディア戦略をやりきった点にある。その成果として、のちのバーチャル/キャラクター系音楽プロジェクト、とりわけVocaloid 文化やK/DA、そしてVTuber楽曲プロジェクトに至るまで、しばしば「Gorillaz 的」と形容される土台が出来上がったと言える。

 

Kalafina

Kalafina は、作曲家・梶浦由記がプロデュースする女性ボーカルユニットであり、その出発点は奈須きのこ原作の伝奇小説『空の境界』のアニメ映画版である。劇場版7作の主題歌と挿入歌を一括して任され、「奈須きのこ的伝奇世界」をまるごと音楽として翻訳するためのプロジェクトユニットとして結成された。のちに『storia』サビでナレーションが印象的でお馴染みの『歴史秘話ヒストリア』など一般向け番組のテーマ曲でも広く知られるようになるが、原点はあくまで一つの物語世界の映像化に寄り添うための「世界観ボーカルユニット」であり、その意味で前節までに見てきた YEN TOWN BANDLily Chou-Chou から EGOIST に続く系譜ときわめて近い地点に立っている。

storia

storia

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梶浦の現在のスタイルは、『.hack//SIGN』期の『Key of the twilight』『Fake Wings』(2002年)あたりまで遡ることができる。

key of the twilight

key of the twilight

  • 梶浦由記
  • アニメ
  • ¥255
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fake wings

fake wings

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いま我々が「これぞ梶浦」と呼んでいる成分は、Enya『Orinoco Flow』『Only Time』のようなエスニック/ケルトニューエイジの系譜を受け止めつつ、それを自前のポップス構造に統合したところから立ち上がっている。

Orinoco Flow

Orinoco Flow

Only Time

Only Time

  • エンヤ
  • ポップ
  • ¥255
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そして『open your heart』(2003年)以後、多重コーラスと分厚いハーモニーを前景化することで、いわゆる「梶浦節」が決定的なかたちを取る。

open your heart

open your heart

  • 梶浦由記
  • アニメ
  • ¥255
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この「梶浦節」がアニメ作品の中で一個の完成形として立ち上がった最初の地点が、新房昭之監督作『コゼットの肖像』(2003年)だと言える。

FictionJunction のフロントに貝田由里子を据えることで、その第一形態が最大化された楽曲が『the main theme of Petite Cossette』であり、主題歌としての雛形は同作エンディング曲『宝石』においてすでに明瞭なかたちをとっている。

さらに『魔法少女まどか☆マギカ』におけるコーラス楽曲の極致という意味では、笠原由里(現・新南田ゆり)を起用しオペラ的な聖域まで踏み込んだ楽曲群『moonflower』『in a beautiful morning of May』が存在する。個人的には『regret』あたりに、劇伴と歌曲の中間的な梶浦節がよく出ていると思う。

 

ここまでを踏まえると、『空の境界』や Kalafinaで展開されるスタンスは、その手前の段階ですでにほぼ完成しきっており、「あとはどの物語世界のために、どんなユニットという器を用意するか」というフェーズに入っていた、とすら言えてしまう。

こうした条件がすべて揃った「その後」のタイミングで、2007年に「一つの世界観のために結成されたユニット」として Kalafina が立ち上がったという事実は、結果論として見てもあまりに出来すぎた巡り合わせである。その「梶浦節」の象徴こそ、物語世界そのものを包み込むように配置された多重コーラスとメロディラインであり、Kalafina はそれを最もわかりやすいかたちで可視化したプロジェクトだったと言える。

 

こうした経緯と系譜のうえに成立しているのが Kalafina だが、『空の境界』以後も、その軌跡はじわじわと「梶浦世界」の拡張史になっていく。梶浦自身は主に ufotable 作品の準専属作曲家的なポジションを取り、『Fate/Zero』を軸に『Fate/stay night [Unlimited Blade Works]』『ソードアートオンライン』『クビキリサイクル 青色サヴァンと戯言遣い』などの主題歌・劇伴関係を立て続けに手がけていく。一方で、NHK の番組案件にも楽曲提供を行い、そのサウンドが「梶浦由記の音楽」として一般層にまで強く刻み込まれていく。

if you leave

if you leave

  • 梶浦由記
  • アニメ
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luminous sword

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その結果として、受け手側からすると「空の境界のためのユニット」という原点を必ずしも意識していなくとも、「Kalafina というアーティスト」を独立した存在として受容できる地点に到達したことは非常に大きい。世界観特化のプロジェクトとして出発したユニットが、メディア露出と作品横断のタイアップを重ねることで、「梶浦節」の看板そのものを背負う存在にまで拡大した稀有なアーティストである。その意味で Kalafina は、「一作品」の世界観専用に組まれたボーカルユニットが、そのまま現実側で自立したアーティストになるという、日本発の虚構バンド系譜のひとつの完成形だと言っていいだろう。

 

K/DA

海外の事例となったときに、先述した特にK/DAは以後の在り方として象徴的である。「League of Legends(LoL)がつくった、ゲームとK-POPVTuber文化をごちゃ混ぜにした虚構ガールズバンドという多面的メディア性の上で成立している。

歌唱もきちんと現実側のボーカリストに割り振られている。

Ahri(アーリ)= Miyeon((G)I-DLE)
Akali(アカリ)= Soyeon((G)I-DLE)
Evelynn(イブリン)= Madison Beer
Kai’Sa(カイ=サ)= Jaira Burns

 

「世界観」の面から見ると、K/DAはLoL 本編の世界の中にある「別ユニバース」で活動する架空のアイドルグループとして設定されている。つまり、各キャラクターは LoL 本編での役割と、K/DA 世界でのステージ上のポジションという、二重のアイデンティティを担っている。なによりK/DAはKills / Deaths / Assistsを想起させるアーティスト名。

2018年に公開され、一世を風靡したデビュー曲 『POP/STARS』 の MV を実際に見れば、その「ゲーム×K-POP×バーチャルアイドル」が一体化した手つきはすぐに明白になる。

 

POP/STARS (feat. Jaira Burns & League of Legends Music)

POP/STARS (feat. Jaira Burns & League of Legends Music)

  • K/DA, マディソン・ビアー & i-dle
  • K-Pop
  • ¥255
  • provided courtesy of iTunes

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EGOIST/ボーカロイド文化の想像力としての『WIM』『BRS』

そして日本で「虚構バンド」を圧倒的かつ革新的に更新した存在こそ、EGOISTである。2010年代と共に生きた読者であれば説明不要かもしれないが、『ギルティクラウン』に登場する架空バンド=歌姫「楪いのり」を起点にしたユニットだ。そこから先は、とりわけノイタミナ枠のアニメ作品を軸に数多くの主題歌を担い、2010年代における「虚構性バンド」の象徴にまでなっていく。

このユニットの成り立ちは、「歌・美少女・戦闘」という三つの要素を束ねるという意味で、『マクロス』、つまりは菅野よう子以後のイメージとも地続きに見える。ただ、「虚構バンド」としての現在性という観点では、そこで一線をはっきり越えている。

原義としての「設定」/「現実」の制作体制を並べると、その構造はより明瞭になる。

フィクション世界(『ギルティクラウン』側)

楪いのり(キャラクター)がフロントに立つ人気歌手/バンド=EGOIST

制作現場(現実の側)

・ryo(supercell)と、当時新人だった chelly による制作ユニット=EGOIST

 

この二重構造によって、「キャラクターと実在の歌手が合体した存在」という形態が生まれている。ここには、Gorillaz とはまったく別方向の虚構性がある。むしろ系譜としては YEN TOWN BANDLily Chou-Chou → EGOIST と並べる方が腑に落ちる。「架空アーティストを現実に持ち出す」という日本独自のラインの延長上に、EGOIST が位置しているからだ。

つまり、日本における「架空アーティストを現実に召喚する」系譜の源流は、小林武史×岩井俊二ラインにあり、そこにアニメという虚構性の強いメディア(『マクロス』『空の境界』の系譜)が重なり、さらにネット文化=ボーカロイド以後の地平が加算されることで、ようやく EGOIST というあり方が可能になった、と言える。

実際、楽曲のほぼすべてを手がけた ryo(supercell)と、キャラクターデザイン/ジャケットを担った redjuice(shiru)は、ともに「ボーカロイド」文化から現れた作り手であり、その原点は 2008年の『ワールドイズマイン』にある。この段階で「初音ミク」というバーチャルシンガーが「お姫様」をテーマにしたアンセムとして機能し、ニコニコ動画発の「虚構歌姫」的な初期衝動がすでに形になっていた。

ブラック★ロックシューターという現象-hukeを繋いで生まれた『STEINS;GATE

そして「ボーカロイド」の世界から生まれた架空アーティスト、という意味では、同じく ryo の『ブラック★ロックシューター』も、多角的なメディア展開を遂げたプロジェクトとして象徴的だ。

 

この楽曲の制作経路はこうだ。まず、イラストレーターの huke が「ブラック★ロックシューター」という一枚絵を公開し、そのヴィジュアルに触発された ryo が楽曲『ブラック★ロックシューター』を制作、動画サイト上で話題をさらう。

www.pixiv.net

 

その後、『ブラック★ロックシューター』は 2009年のOVA化、2012年のTVアニメ化、2022年の『ブラック★★ロックシューター DAWN FALL』へと続くまで、一貫してメディアミックスの素材として拡張されていく。ここまでくると、単なる「1曲のヒット」ではなく、キャラクターと楽曲がセットになった「虚構歌姫プロジェクト」として成立していることがわかる。初音ミクがそうであるように、ブラック★ロックシューターもまた、今では公式な「設定」を与えられたキャラクターであり、その意味で「虚構歌姫」としての性質をはっきり帯びるようになる。

 

さらに、この現象に株式会社 5pb. が目をつけ、とあるゲームのキャラクターデザインとして huke に白羽の矢が立つ。インタビューではこう語られている。

──そのキャラクターデザインをされたのはイラストレーターのhukeさんですが、今回が初めての依頼ですよね

松原 最初の設定資料を見た段階で、陰謀が関わってくるタイムトラベル物ということで、これは普通のギャルゲーじゃないぞという感じを受けたんです。前作『CHAOS;HEAD』では、ホラーなんだけどあえてギャルゲーな見た目にすることでギャップを狙ったんですが、そことも差をつけたかったですし、なにより今回は絵柄を普通のギャルゲーにしちゃうとつまらないなと思いました。それで面白い絵を描く人はいないかなとネットやコミケで足を使って探していたんですが、その頃ちょうど『ブラック★ロックシューター』に火がつき始めた頃で、志倉にこの人の絵柄が面白いから頼んでみようという話をしてコンタクトしたわけです。今ではもうhukeさんの絵柄なしでは考えられないですね。  

news.mynavi.jp

そう、ご存知『STEINS;GATE』である。「『ブラック★ロックシューター』に火がつき始めた頃」とわざわざ記されているように、huke の絵柄そのもの「だけ」でなく、それをブームへと押し上げた ryo の『ブラック★ロックシューター』という楽曲と、その周辺の盛り上がりまで含めて「次の作品」の素材として見込まれていたことがわかる。

・バーチャルなキャラクター(ブラック★ロックシューター)

・ボカロ曲としての歴史的ヒット(『メルト』『WIM』『恋は戦争』の連続性)

OVA/TVアニメ/新作アニメと連なるメディアミックス

・その成功から『STEINS;GATE』という別作品のキャラデザへと繋がる回路

といった多面的な「ブラック★ロックシューター」であり、「虚構的歌姫」の典型例のひとつだ。そして、その背後には常に「動画サイトでのヒット曲としての ryo」がいる。この構図こそが、EGOISTの成り立ちと地続きにある。

そう思えばこそ、経緯はどうであれryo(supercell)×redjuiceもWIM組以上に、supercellという集団に任せてみようという意味合いがある。でなければ「ネットで人気EGOIST」という設定をわざわざ張本人立ちにオファーするはずがないのだから。

当初はあくまで「ギルクラ専用バンド」としての存在だったが、作品内での楽曲ヒットをきっかけに、EGOIST は徐々に作品の外側へ歩き出す。決定打になったのが『PSYCHO-PASS』(2012年)のタイアップ曲『名前のない怪物』だ。ここで EGOIST は、ひとつの作品内バンドではなく「一アーティスト」として扱われるようになり、その後は伊藤計劃三部作(『虐殺器官』『ハーモニー』『屍者の帝国』)をはじめとしたノイタミナProduction I.G 系列の作品群で主題歌を連発し、「複数作品を横断するアニメタイアップ専門の虚構アーティスト」というポジションを獲得していく。

 

この時点で、構造はかなり明確になる。

・名義:EGOIST(楪いのりというキャラを含むIP)
・中身:chellyの声+ryo(supercell)のサウンドデザイン

 

さらにライブでは、3D モデル化された「いのり/EGOIST」がステージ上に登場し、モーションキャプチャと生歌唱を同期させる形式で、「キャラクターが現実世界で歌っている」体験そのものを実装してみせた。これは YEN TOWN BANDLily Chou-Chou のような「映画世界の虚構バンド/歌姫」が、CDリリースやライブによって現実へ滲み出てくる手法を、アニメ産業とデジタル技術によってアップデートしたモデルだと言えるし、のちの VTuber 文化や花譜の隆盛を踏まえて振り返ると、国内ではかなり先見的なフォーマットだったとさえ言える。楪いのり(キャラ)=chelly(ボーカル)=EGOIST(プロジェクト)という三位一体の構造という構造自体は非常に奇跡的なバランスであった。2023年にEGOIST 名義は活動を終了し、ボーカルである chelly は reche 名義でソロへと移行した。結果的に

・EGOISTという虚構名義

・chellyという実在シンガー

が分離し、「EGOIST」という名前はひとつの IP としてのライフサイクルを綺麗に完走した形になっている。解散の是非や事情についてはさまざまな議論があるにせよ、「虚構的歌姫」という観点から見れば、キャラクターとシンガーを再び切り離して終わるこの着地は、構造として非常に美しいエンディングだと言っていい。

Ave Mujica

ここまで見てきた一本軸「虚構的歌姫/虚構バンドの系譜」を踏まえて、2020年代における「虚構的歌姫とは何か?」と問うのであれば、その答えはもはや Ave Mujica 以外にあり得ない。中身(Diggy-MO'×各コンポーザー×佐々木李子×高尾奏音)の話は前項で書いてきた通りだが、「虚構的歌姫」という文脈だけを取り出しても、彼女たちの立ち位置はかなり筋の通った場所にいる。

虚構バンドとは、物語と現実、作家とキャラクター、名義と人間の境目をわざとズラしてみせる装置だと言える。そしてその装置の洗練が進めば進むほど、「キャラクターが歌う音楽」は「キャラクターそのものがアーティストである」という位相へと近づいていく。この繰り返しの果てに、

・ボカロP と初音ミク
・K/DA
VTuber 楽曲プロジェクト
2.5次元アイドル

といった、「そもそも人間の境界を前提にしない」音楽プロジェクトが次々と出てきた、というのが Gorillaz〜EGOIST にいたるまでの変容の大筋だろう。

Gorillaz が世界スケールの原型となり、Kalafina が日本ローカルな「世界観ボーカルユニット」の洗練として君臨し、海外では K/DA という Gorillaz モデルをゲーム/K-POPVTuber に最適化した存在まで生まれた。

その一方で、日本の系譜に限って見れば、YEN TOWN BANDLily Chou-ChouKalafina といったラインに、「ボカロ的な声」の揺りかごが流れ込んだものが EGOIST だった、と整理できる。そう置いてから改めて Ave Mujica を見ると、その出現は驚くほど滑らかに接続されてくる。

ここまでをざっくり時系列的・構造的に並べると、Ave Mujica は次の要素を一身に集約している存在として見なせる。

Gorillaz 的な「完全虚構バンド」という概念

YEN TOWN BAND/Lily/EGOIST 的な「物語発の虚構歌姫」

Kalafina 的な「作曲家主導の世界観ユニット」

・K/DA 的な「メタなメディアミックスとキャラクターの二重性」

・ボカロ文化由来の「声の交換可能性」と「キャラに宿る歌」

・Diggy-MO' という個人の思想と言語魔法

・それらすべてを収容する枠としての BanG Dream という超商業 IP

・そのうえで「三角初華/Ave Mujica」という虚構バンドに突っ込まれたプロジェクト

つまり Ave Mujica とは、これらすべてのレイヤーが一点収束した「虚構的歌姫のフルスペック実装型プロジェクト」だと言えてしまう。

この上で『天球(そら)の Música』の天球論を読むなら、それはもはや「虚構バンドが到達し得る哲学的極北」としての Ave Mujica×Diggy-MO' である、という話にまで踏み込める。プトレマイオスからボエティウス、Diggy『PTOLEMY』『GOD SONG』を経て、『天球(そら)の Música』までたどり着いたものは何か、という問いに対しては、

「虚構バンドのフレームを借りて世界観そのものを書き換える試みだった」

と答えられる地点に達しているのだ。

近傍としてのガールズバンド/ソロシンガー系の存在にも一応触れると、「虚構バンド」という枠組みで眺め直したとき、00年代後半から現在に至るまでの「女子高生バンド」ものの音源が、構造的な必然として視界に入ってくるのも確かだ。直近の近しい系譜としては、『しろねこ堂』『トゲナシトゲアリ』『結束バンド』そして古典的存在としての『HTT』といった新旧のガールズバンド群がまず挙げられる。それこそBanGDreamとしてのMygo!!!!!も実はギリギリここ。

ただし、これらはいずれも「作品内で完結するバンド」であり、YEN TOWN BANDLily Chou-Chou、あるいは Salyu やアイナ・ジ・エンドのように「虚構名義」を足場にしつつ、現実のアーティストとして独立したキャリアへと踏み出していくところまでは到達していない。作品世界を離れた瞬間、その名義だけで音楽産業を横断していくわけではない、という意味での限界がある。

その点で Ave Mujica は、すでにブシロード内での展開にとどまらず、Yostarの『アークナイツ』との海外ゲームへのタイアップなども含め、国際的IPという意味でも「商業アーティスト」として必要な枠組みをほぼフルセットで獲得している。

碧い瞳の中に

碧い瞳の中に

  • Ave Mujica & 塞壬唱片-MSR
  • アニメ
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music.apple.com

ゆえに、上記の近傍バンド群と同列に置くのはむしろ不正確であり、「虚構的歌姫の実在性」の最新型として、一段階レイヤーの違う地点にいると言った方が状況に即している。そして、多くの人が「虚構/匿名系アーティスト」と聞いて真っ先に思い浮かべるであろう存在が Ado だろう。ニコ動発という出自、ビジュアルを担うイラストレーターの統一感、圧倒的な歌唱力、世界規模のヒット、マスメディアでの露出と存在感。これらを並べれば、「虚構」「匿名」「キャラクター性」といったキーワードとの相性は抜群だ。

しかし、そのあり方は本質的には米津玄師らと同じく、「ネット発のアーティストが、商業の縦割りシステムを突き抜けて巨大な数字を叩き出したケース」の最大化である。名義こそ Ado というキャラクター性の強い記号になっているものの、実態としては明確な「ソロシンガー」であり、楽曲提供陣も超一線級の作曲家が案件ごとに入れ替わる、大型の Lisa 型モデルに近い。

つまり、Ado には「虚構性」のレイヤーがいくつか強度高く貫通している一方で、Gorillaz や EGOIST、そして Ave Mujica が担っているような、「キャラクター/物語/名義/実在の歌い手/プロデューサーの思想」が一つの装置として組み上がった虚構バンド的構造までは、そもそも志向していない。ここに、「虚構的歌姫」としての線引きが生じる。谷口悟朗のfilm作品『RED』のウタ状態で商業的に売り出せばという部分的な達成までは至ってはいたので(cv:名塚佳織/sing:ado)、その意味では「虚構的歌姫」を商品として演出するところまで完璧に達成はしている。メインにはなっていない理由はやはりそこが「志向」ポイントではないという真っ当な在り方である。

 

 

ここから先は、その「極点」に到達したあと、燃え尽れきった「その後」の Mujica が、どのような位相へと移っていったのかを追うパートになる。

そして、この「燃え尽きた後」の Mujica を語るためには、現在の Mujica 音源とも重なり合うかたちで、Diggy-MO' のソロ期と SOUL'd OUT 時代のアルバム変遷を、いったん簡潔に引き直しておく必要がある。

 

SOUL'd OUT期-Diggy-MO'ソロアルバム期の違いと重なり

まずごくシンプルな事実から確認しておきたい。
SOUL'd OUT(以下 SO)は、ベスト盤を除くフルアルバムを5枚出している。

『SOUL'd OUT』(2004年)
『To All Tha Dreamers』(2005年)
『ALIVE』(2006年)
『ATTITUDE』(2008年)
『so_mania』(2012年)

(※アルバム全体の意味づけで見れば、『To From』は過去楽曲と新曲を併載した構成であり、いわゆる「新曲と直近シングルのみで形作られるオリジナルAL」とは異なり、Disc1/Disc2で新作パートとセルフベスト的パートが分かれているぶん、「キャリア総まとめとしてのアルバム」という色合いが強く、その視点に立てば、純然たるオリジナル・フルアルバムとしてのラストは、『so_mania』という意味です)

これに対して Diggy-MO' のソロ名義は4枚。

『Diggyism』(2009年)
『Diggyism II』(2010年)
『the First Night』(2015年)
『BEWITCHED』(2017年)

活動期間をざっくりタイムラインで並べると、こうなる。

  • SOUL’d OUT  1999–2009 | 2011–2014(完了)
  • Diggy solo  2009───── 2018(一区切り)

という時系列となっている。

リアルタイムでSOやDiggyソロを通っていなくても、現在地=Ave Mujicaを起点に逆走していくと、作家性とプロデュースのOSがくっきり立ち上がるということを説明してくれている時系列でもある。

結論を先に言うなら、Ave Mujica は「プロデューサー OS(Diggy)」が上流を握るモデルであり、対して MyGO!!!!! は「シンガー OS(羊宮妃那)」が楽曲の要となるモデルだ。この二軸を頭の中に置いたまま Diggy ソロと SO を聴き直すと、後期 SO が徐々に「実質 Diggy 音源」に近づいていく流れが見えてくる。

SO のアルバムを通しで聴くと、初期〜中期はまさに3人体制がフル稼働しているバンド・アルバム群だと言える。具体的には『ATTITUDE』(2008年)までがそのゾーンだろう。ここまでは「詞=Diggy+Bro.Hi/曲=Diggy+Shinnosukeミックスや設計=SOUL’d OUT名義」での関与という三角形が作品クオリティの中心に立っている。

『SOUL'd OUT』クレジットリスト

代表曲群のクレジットは、詞:Bro.Hi+Diggy/曲:Diggy+Shinnosukeの並走が基本であるし、デビュー期の曲でもこの分担が揺らがない。

ここで強調したいのは、「それ以降の作品の価値が落ちる」という話ではまったくない、ということだ。むしろ、次作『so_mania』(2012年)の内容を、そこまでの4枚と並べて聴いてみると、その異質さがあまりにもはっきりしていて、その違いを説明しうる要因が「Diggy-MO' の主体化」以外に見当たらない、という意味である。

so_mania

so_mania

  • SOUL'd OUT
  • ヒップホップ/ラップ
  • ¥2139

SO を多少なりとも知っている人であれば、それは『ジョジョ』繋がりでも『ソウルイーター』勢でもなんでもいいですが、楽曲を聴けば

Diggy(歌+ラップ)
Bro.Hi(掛け合い+ヒューマンビートボックス
Shinnosukeブレイクビーツ主体のトラック)

この三者が拮抗しながら回していく構図こそが「SOUL'd OUTらしさ」だという共通認識はあるはずだ。代表曲『ウェカピポ』に触れたことがあれば、肌感覚としても理解しやすいだろう。

ウェカピポ

ウェカピポ

  • SOUL'd OUT
  • ヒップホップ/ラップ
  • ¥255
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そのうえで、Diggy-MO' の主体化、つまり「バンドの中の一人」から「作品全体の OS」へと重心が移る転回点として、まずは『ATTITUDE』以後の楽曲にあたる『and 7』(2011年)を聴いてほしい、という話につながっていく。

and 7

and 7

  • SOUL'd OUT
  • ヒップホップ/ラップ
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実際に聴いてみればすぐにわかるが、音像の特徴からして Diggy-MO' のサインが濃い。テンポは約111 BPM、キーは B minor。中速帯のビートに対して、サビでは跳躍とロングトーンで空間をホールドし、英和の混ざり合いと多層韻の「Diggy語」を、メロディ先行で運ぶ構文になっている。この設計は、そのまま約一年後の『so_mania』収録曲『UnIsong』『SUPERFEEL』へと通底していく。

なにより『and 7』のクレジット自体が作詞・作曲:Diggy、編曲:Shinnosuke+Diggyと、楽曲の主導がはっきりDiggy側に寄っている。

UnIsong

UnIsong

  • SOUL'd OUT
  • ヒップホップ/ラップ
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SUPERFEEL

SUPERFEEL

  • SOUL'd OUT
  • ヒップホップ/ラップ
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上記二曲もクレジット上は「詞:Diggy+Bro.Hi/曲:Diggy+Shinnosuke」と、一見すると SO 初期と同じ構造に見える。しかし、とりわけ『SUPERFEEL』に顕著だが、音の設計や言語の回し方は明らかに Diggy-MO' の主体性が前面に出ている。

では、この「SO における Diggy-MO' 主導型」がなぜ起きたのか。その変動を生んだ前提として、どうしても外せないのが『Diggyism』『Diggyism II』の存在だ。ソロ二作を経由した「ソロ帰り」である、という事実が、その後のSOを決定的に変えている。

Diggyism

Diggyism

Diggyism Ⅱ

Diggyism Ⅱ

とりわけ『Arcadia』が象徴的だ。この楽曲は、そのまま『SUPERFEEL』のプロトタイプ、あるいは思想面での前提を成す一曲と言っていい。

Arcadia

Arcadia

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ラップ主体で突き抜け、サビで一気に「歌」に開き、Diggy が長母音で伸ばしていくという三段変速。そのソロ期で確立された書法が、そのまま『SUPERFEEL』にも通底している。サビ頭で跳ね上がり、ロングトーンで包み込むような歌い回しは、『Arcadia』『SUPERFEEL』で明確に共鳴しているポイントだ。

歌詞で具体的な箇所を挙げるなら、まず『Arcadia』。

Arcadia (You are my...) Arcadia (You are my...)

行こう やわらかい光よ
やさしい君よ

Arcadia (You are my...) Arcadia (You are my...)

今でも信じてる たった
ひとつの小さな夢

対して『SUPERFEEL』では、

AND I-M-R-U STOP & GO SUPERFEEL
どこより遠く遠く馳せる
I-M-R-U STOP & GO SUPERFEEL
もっと高く高く誘う
I-M-R-U STOP & GO SUPERFEEL
いつか今より強く強く
I AM – ARE YOU STOP SUPERFEEL

というふうに、「SUPERFEEL」という単語そのものをリフレインしながら、語尾まで旋律として扱う Diggy 特有の「末尾まで全部メロディ化する」書法が貫かれている。

それぞれの楽曲の締め方を抜き出すと、構図の近さはさらに明瞭になる。

今でも信じてる たった
ひとつの小さな夢

Arcadia

I AM – ARE YOU STOP SUPERFEEL

SUPERFEEL

どちらも「フレーズそのもの」を象徴句として掲げ、そのまま感情の着地地点として差し出している。要するに、『SUPERFEEL』とは、『Arcadia』で完成した Diggy 式の歌×ラップ三段変速を、SOUL'd OUT の文脈に最適化した結果として生まれた曲であり、その副産物として「Diggy-MO' 主体の SO」という逆転現象がはっきりと表面化した一例だと言える。

 

こうした状況下で生まれた SOUL'd OUT のラストアルバム『so_mania』を、Ave Mujica から逆走するかたちで聴き直すと、「あ、ここでいったん完成している」とさえ言いたくなる(もちろん、それらがあっての Mujica なのだから順序としては逆なのだが)。

何より象徴的なのは、アルバムの1曲目のタイトルが『Kopernik』であることだ。

Kopernik

Kopernik

  • SOUL'd OUT
  • ヒップホップ/ラップ
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というよりも1本踏み込んで言えば名義こそSOだが、実質的な音源立ち位置としてはDiggy-MO'の2.5枚目としてカウントできるくらい主成分がDiggy-MO'にある。

ソロ名義で『PTOLEMY』を描き切った Diggy-MO' は、そのあとの「コペルニクス的転回」を、SOUL'd OUT 名義で『Kopernik』というタイトルにすでに落とし込んでいる。SO 側から見れば、このタイトルの思想性は三人の総意として読めるかもしれないが、Ave Mujica 側から振り返るリスナーにとっては「いやこれ、どう考えても Diggy-MO' の問題意識だろ」としか思えない。そのズレ方自体が、時系列をまたぐ意味で非常におもしろいところだ。そして逆算として聴くSO、Mujicaからのリスナーだからこそむしろ感覚として入りやすいというのも実はかなりある。というのも当然『so_mania』で突如天体に芽生えたわけでもなくSOでは通底した天体関連ワードが、よくある「天体=比喩に使いやすい」的な枠を超えた分量はあるしソロでもそれは同じこと。究極的モチーフがタイトルにまで出た二曲がむしろ例外的。部分的に楽曲を連ねるのでmujicaからSOに入る人向けという意味もかねてリンクを貼っておきます。

 

SOUL’d OUT 期の「物理宇宙」

『STARDUST』

STARDUST

STARDUST

  • SOUL'd OUT
  • ヒップホップ/ラップ
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『COZMIC TRAVEL』

COZMIC TRAVEL

COZMIC TRAVEL

  • SOUL'd OUT
  • ヒップホップ/ラップ
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『Starlight Destiny』

Starlight Destiny

Starlight Destiny

  • SOUL'd OUT
  • ヒップホップ/ラップ
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『Flyte Tyme』

Flyte Tyme

Flyte Tyme

  • SOUL'd OUT
  • ヒップホップ/ラップ
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『A Spacious Floor』

A Spacious Floor

A Spacious Floor

  • SOUL'd OUT
  • ヒップホップ/ラップ
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ソロ期の内面の宇宙

『Blue World』

Blue World

Blue World

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UNCHAIN

UNCHAIN

UNCHAIN

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『ASTRONAUT feat 大神:OHGA』

ASTRONAUT feat. 大神:OHGA

ASTRONAUT feat. 大神:OHGA

  • Diggy-MO'
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『GIOVANNI』(『にこにこジョバンニ』でもいいのです楽曲的にはこっちが好きなので)

GIOVANNI

GIOVANNI

Diggy-MO'S以後のAve Mujicaの「神」視点toDiggy-MO'流ラップ導入

ここまで SO における後期 Diggy-MO' 主体化の流れを見てきたが、あれは「いちどソロを経由することで、グループ内の一人だったはずの作家性が、作品全体の前面にせり上がってくる」という現象の記録でもある。そして、この構図はそのまま Ave Mujica にも濃厚に響いている。

とりわけ象徴的なのが、やはり楽曲『Ave Mujica』が「Diggy-MO' 作詞曲ではない」という事実だ。プロジェクトの上流 OS を握っているのは Diggy でありながら、BanG Dream という大型プロジェクト全体の設計上、先述したように MyGO!!!!! 期の Ave Mujica 楽曲は、従来の Elements Garden 一式で組まれている。

このブシロード側が敷いた「意図的な差分」が成立しているのは、すでに Diggy-MO' ソロ期〜後期 SO にかけて、作家性が固まりきっているからだ。そもそもオファーの起点がソロ期の楽曲群であることを踏まえればなおさらである。

言い換えれば、現在の Mujica の稼働モデルは、まずもって「Diggy-MO' ソロ以後のモード」を出発点としている。そのうえで、「「BanG Dream」という巨大な枠組みの中に「Diggy 的 OS」をどう実装し直すかというフェーズ」に入っている、という捉え方ができる。いうなれば、Diggy-MO’+OS=「Diggy-MO’S」を思想的にいったん完成させたうえで、そのOSをバンド側にどう走らせるか、という第二段階に移行している。

 

アニメ『Mujica』で締めた3月よりもかなり後の8月に発表された『DIVINE』この楽曲は「まだ本編を引きずった、というよりもマインドとしてDiggy-MO'が「天球」を純作家成分としてもそうだしmujicaへの照射が「勝っている」部分。

あまりにも素直で、正直でそしてメタなDiggy×Ave Mujica宇宙の全部載せ。

DIVINE

DIVINE

  • Ave Mujica
  • アニメ
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仕掛けられたアレゴリーが動き出したこの宙(そら)

エレメンタル覗くのは

天球の Blue World そこに生きる者

断言していいと思う、この3行に全部に全てが詰まっています。

仕掛けられたアレゴリー

手前にAve Mujicaですという格好でこれをお出しされると、読みとして「Ave Mujica」という企画そのものを指している言い方。物語世界(アニメ+楽曲)が最初から「寓意として仕掛けられたもの」だと白状していて、その寓意が「動き出した」のがTVシリーズ完走まで、という読み筋まで「完結」後に出されるからピッタリと合う。

この宙(そら)

敢えての空じゃなくて「宙」。MyGO/Ave全体を包む舞台=宇宙としてのバンドリ世界。Diggy-MO'がずっと使ってきたライブ空間=宇宙/銀河的メタファーが、ここではもう最初から世界設定レベルにまで引き上げれいる。

エレメンタル覗くのは

露骨に『ELEMENTS』への自己引用。「四大元素=Symbolシリーズ」をこちら側から覗いている、という構図にもなり、つまりは寓意として設計されたエレメント(曲群/キャラ/構造)を覗き込んでいる存在がいる、というメタ視点の提示。だからタイトルがDIVINE=神という回収込みで美味しい一節。

天球の Blue World そこに生きる者

完全にDiggy-MO'ソロの『Blue World』とAve側の『天球のMúsica』が直結している。そして当然、天球=Musica mundana(天球の音楽)の系譜であり、その内部にある「青い世界」=地球/作品世界/現実世界と定義したうえで「そこに生きる者」で主語を広げている。

だから、いわゆるキャラクター群たちの祥子(さきこ)たちではなく、リスナーやプレイヤーまで含んだ総称になっている。やっぱり「ここまで」歌詞として入れるのはDiggy-MO'を知っている人、Mujicaを知ってる人どちらであっても「入れすぎ」と思うはずだし、その配置が、アニメ本編完走後というタイミングで提示されていることも、楽曲の「メタ性」を裏付けている。

 

本編=仕掛けられたアレゴリーを一通り走らせたあとで、

「じゃあ、その天球の青い世界に本当に生きているのは誰なのか」
「誰の「眼」が時代を捕えて創って愛していくのか」

という主軸を、物語の「外側」からもう一段階高いレイヤーで言い直している曲、という位置付け。

  • 天球を設計した知性

  • 星図として物語を組んだプランナー

  • アレゴリーを仕掛けたメタ作者

これら全てを神として立ち上がらせている。そしてこれをタイトルと突き合わせるとさらに明確になる。単語としてのDIVINEはLatin divinus=「神の・神に属する」「神託的な、予言的な」。
元の「divus / deus」は「光る・天・神」と同根で、そもそも「空の上で光ってる存在」みたいなイメージを引きずってる。

形容詞としては

  • 神の、神から来た
  • 神のように卓越した、至上の
  • 天上的な、天国的な

という意味合いであり動詞としては

to divine = 「神託で占う・予知する」そこから転じて「勘で見抜く・言い当てる」という意味合いをもつ。

この三層を、DIVINEの歌詞とDiggy-MO'文脈にそのまま重ねるとかなり当てはまる。

  • アレゴリーを「仕掛けた」側=divine(神的な設計者)
  • 天球とBlue Worldを一望している「視点」=divine(神の立場)
  • SymbolやEtherでばら撒いたモチーフを一曲に読み取り直す=divine(予言・解読)

これ、案外でかい問題でDiggy-MO'ソロ期あるいはSO含めて回収しているという点。『Blue World』『PTOLEMY』、あの『GOD SONG』ですら、やってきたのは「世界=宇宙」「運命=星図」「音楽=天球の回転」という構図。それが、Ave Mujicaでは、その宇宙の中にキャラと物語とバンドを配置して、『Ether』 や 『天球のMúsica』 や 『八芒星ダンス』で天球システムとしての「Ave=世界」を描いていた。

これらの積み上げてきて、最後に楽曲で『DIVINE』と名乗るのは、語源ど真ん中の意味で「神的なもの/神託的な読み」をやります宣言に近く、真の意味での「Ave Mujica」の思想性が出ている楽曲であり最終的な答え。その意味で内包しているものは『天球のMúsica』よりも重い。

「Ave MujicaのためにDiggyが書いた曲」ってより「Diggy-MO'史がMujicaの最終回答を通して「自分」を語り直した曲」ってくらいの密度なので、SO、ソロ、どちらか寄りのリスナーでも、『STARDUST』『COZMIC TRAVEL』 みたいな「宇宙=スケール」や、『Blue World 』みたいな「内面の宇宙=青い世界」『PTOLEMY』の「世界=星図」『GOD SONG』 の「祈り/神」など、SOUL’d OUT期まで含めた「宇宙=構造」の総決算になっており、全部ひとつのフレーズ列に畳み込んでる。だからSOUL’d OUT〜ソロ〜Mujicaまでの「天体」メタファー史が、かなり露骨に回収されているですよ。

 

そしてアニメが終わった出た楽曲という観点では外側から書かれた歌詞でもあるわけですが、じゃあその「外側」ってなんだよという話で、これまた考えれば面白いわけでSOUL’d OUT時代から宇宙比喩で世界を俯瞰してきたDiggy-MO'のという作家の人格と、バンドリという巨大IPのシステム設計に触れたうえでの「作詞家」としての俯瞰性が同居している。言い換えると、「Diggy-MO'=個人」と「SOUL’d OUT」を、そのままMujica宇宙の神目線に持ち込んでいるということ。

「SO+ソロ+Mujicaの宇宙を、ぜんぶ一回ここでまとめて味見しました」級の楽曲。

読みとして突き詰めるのであれば、作家人生の節目に近い回答曲ですよ。

なによりもこんなにも大事な楽曲を本編の導入やOPでもEDでもない、タイアップとしてのファンタジーRPG『PROGRESS ORDERS』(プログレスオーダーズ)のオープニングテーマとしてお出ししていること。思想性があまりにも強すぎてゲームから入った人は困惑するレベル。本来なら次作のAve Mujicaのアルバムのラストよりに当たる楽曲で、テーマ的には「ソロアルバムのラスト曲」とか「ベスト盤の書き下ろし」枠に置きがちなのに、よりにもよってAve Mujica側の一曲で、本編とは関係ないタイアップでひっそり出してくるのが、またDiggy-MO'っぽい。これ以上ないほど「結」の楽曲として設計されていると言ってよい。何回も書きますけど神視点ですから。

実際、この後の楽曲の「テンション」がそれを指し締めていて、『DIVNE』で突き抜けた後、導入するものは何かというと彼が持つヒップホップ文脈の技法、すなわち「Diggy 流ラップ」の挿入というスタンスが明確に出ている。

 

2025年12月10日リリース予定の『‘S/’ The Way』の TV Size 版がすでに配信されているが、この楽曲はまさしく、Diggy-MO' 流ラップのテクニカルな部分を、ついに佐々木李子に導入してしまった、というとんでもない地点に突入している。ここではそのポイントを、以前ポストした内容をベースに改めて整理しておく。

『‘S/’ The Way (TV Size)』のラップパート(0:32〜0:43)は、『Diggyism』収録の『CHALLENGER』(0:46〜)と驚くほど近い。

(丁度サンプル部分は該当箇所にあたります)

CHALLENGER

CHALLENGER

  • Diggy-MO’
  • J-Pop
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danger/messenger/stranger/challenge といった単語の配列で見られたような「母音統制+語尾ライム」の組み方や、三連符的なラインの刻み方など、Diggyism 期のラップ構文がかなり露骨に顔を出している。

‘S/’ The Way (TV Size)

‘S/’ The Way (TV Size)

  • Ave Mujica
  • アニメ
  • ¥204
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歌唱テクニックという観点で見ると、作家締めとしての『DIVIEN』以降確認されているこのAve Mujicaとしての新楽曲は、構成、歌詞単位そのものがどんどん Diggy-MO’ 直系の作法に「変形」している。

決定的なのは、歌詞が公開されてわかった「綴り読みラップ」の部分だ。ラップパートでは「S-L-A-S-H」とアルファベットをそのまま発音しているように見えるが、実際の譜割りは、

・子音 S
・母音 A
・子音 L
・子音 SH

と、ひとつずつの音素をビート上に打ち込んでいる。見かけとしては綴り読みでありながら、中身は母音・子音の断片をリズムに再配置する手法になっていて、「ここまでやるなら、これはもう完全に Diggyだろう」と確信させられるポイントになっている。

しかもこの構造は、すでに Diggyはソロ楽曲『Lovin’ Junk』に代表されるように既に方法論として持っている。

Lovin' Junk

Lovin' Junk

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『Lovin’ Junk』における L-O-V-I-N-J-U-N-K の綴り読みは、Ave Mujica『S/ The Way』の S-L-A-S-H と同じ構造を持っている。アルファベット列をいったん解体し、拍ごとに再配列することで、リズムと意味を二重化する Diggyの譜割り手法が、そのまま Mujica 側に移植されている、ということになる。

 

こういう「音素レベルでの解体と再構成」という作り方は、表層のジャンル感やテンポ感以上に、作家の血統を示す。Ave Mujica の側から見れば、「Diggy-MO' 的 OS」が、ついにラップテクニックのレイヤーにまで侵食してきた地点であり、Diggy 側から見れば、「自分の言語魔法が、他人の声帯で再生される」という実験がかなりの純度で実現した地点でもある。

 

そして、ここにきて豊川祥子(高尾奏音)パートにもラップが導入されるのではないか、という仮説まで浮上している。高笑いしてくださいと言わんばかりのフラグ。

高尾は2025年9月16日に『フリースタイル・ラップの教科書』の写真をポストしている。(現在は削除済み)。

Discord記録より 

自分のリアクションは「Diggy がいるバンドでこれはあからさますぎて笑える」と書いたが、実際そうで、これが

「Diggy-MO' がプロデューサーのバンド=Ave Mujica」のボーカリスト佐々木李子

が写真に投稿するのであれば、メインボーカルだし、既存楽曲へのアプローチとしての学習教材という文脈で理解ができるが、よりにもよってpf.keyを担当している高尾奏音が、フリースタイル入門書を掲げてくる時点で、99.9%の確率でバンド内の新しい表現準備と見ていい。

すでに佐々木李子側には Diggy 直伝とも言えるラップ構文が施されつつある以上、「豊川祥子パートへのラップ導入」という次の一手が視野に入ってきた、という状況証拠として機能している。

 

神学としての『Sophie』あるいは、もう一つのPTOLEMY

また、同シングルに収録予定となっている『Sophie』ですが、こっちは文脈を思えばこそ、ここまで読んだ方なら全員同じ思考に至るはずです。Sophie は言うまでもなく Sophia の各国語形であり、語源はギリシア語の「σοφία(sophia)」、意味はそのまま「知恵/英知」です。

 

とくに東方教会では、「神の知恵(Holy Wisdom)」としてキリストあるいは聖霊と結びつけて人格化されることが多く、ビザンティン建築というゆかりある場所で有名なアギア・ソフィア大聖堂(ハギア・ソフィア大聖堂)も、「聖なる知恵/神の知恵」に捧げられた「教会」という意味でこの語と結びついている。さらにグノーシス派まで遡ると、Sophia は「神的叡知の女性的人格」「アイオーンのひとつ」として扱われ、「神から流出した叡知が誤って落ちることで物質世界が生まれる」という物語の中心にいる存在になります。諸星大二郎みたいな世界観だ。

 

要するに「Sophie」と名付けた時点で、

・知恵
・神的/聖的なもの
宇宙論レベルの寓話

を全部一語で呼び寄せる名前になっている。『DIVINE』を出したあとに、『Sophie』(神的叡知)を B 面タイトルに据えるのは、語彙感覚的にはかなり Diggy-MO' は狙っている、と見てよい。Sophia(叡知)と読むかぎり、思考回路はどうしても

 

・PTOLEMY=天動説側から見上げる観測者
・GOD SONG/DIVINE=外側から介入する神/ルールの書き換え
・Sophie=その「神的視点」を支える叡知/設計思想そのもの

という三竦み、というより正三角形の図式に収束してくる。

さて、ここでグノーシスのアイオーン体系を俯瞰してみましょう。一体誰がこれをまとめたとされているのか。

 

ここで名前が出てくるのが、ヴァレンティノス派の中で、三十アイオーン体系とソフィア神話を代表的な形で整理した教師プトレマイオスです。

彼は、最高神から流出する「アイオーン(永遠存在)」たちが幾重にも連なってプレーローマ(充満世界)を構成している、という宇宙論を体系的に整えた人物とされている。そのアイオーン配列が、またじつに特徴的である。数は三十。内訳は八・十・十二に分かれ、それぞれ男女のペア(シュジュギア)を組むのがその最たる例だ。

このアイオーン列の末尾に置かれているのが、後にさまざまな伝承の中心人物となるソフィア(Sophia)であり、名前が示す通り「叡知」を体現するアイオーンである。

アイオーンを現代的に言えば、大型ショッピングモールとしての「AEON」が最も伝わりやすいでしょう。OIOI=おいおい=マルイと同じで、誰しも一度は看板のロゴを見て「AEON、、あえおん、、、、あ、イオンか!!」と脳内で読み間違えた経験があるはずで、この「あえおん」の方こそが、本来の単語としての「AEON」に近い発音である。

 

話をソフィアに戻します。

ソフィアは、ビュトスとエンノイアから流出した諸アイオーンのうちでも最下位に位置する女性的アイオーンであり、プレーローマの縁に立つ存在として、父なる深淵を知ろうとする欲望(グノーシスへの過剰な希求)を体現している。

 

これをヴァレンティノス派の宇宙論では、彼女の「父なる深淵を直接知りたい」という衝動と、その結果としての「落下」が物語の駆動力となります。

この衝動は、プレーローマ内の他のアイオーンには見られない、ホロス(境界)を超えようとするパトス(情念)であり、プレーローマの完全性と均衡を乱す原因となったとされています。ソフィアはこうしてプレーローマの秩序を擾乱し、その悔悟と「裂け目」をめぐるドラマを通して、プレーローマ内に留まり続ける高次のソフィアと、外圏へと滑り落ちたソフィア・アカモート(下位ソフィア)という二重構造を帯びることになる。すると、高次のソフィアは、キリストと聖霊による是正と安定化によってプレーローマ内にとどまり、下位ソフィアの救済に関わる一方で、アカモートは形なき実体として外側の中間領域へ追放される。

ここで「下位ソフィア」としてのアカモートは、ある種の「エーテル的」存在として描かれ、そのパトスから物質世界やデミウルゴスが派生していく。具体的には、彼女のパトスである恐惧、悲しみ、困惑が、それぞれ質料(ヒュレー=物質)、プシュケー(魂)、デーモン的な実体へと分化し、デミウルゴスは彼女の悔悟の影から無意識のうちに生み出される。デミウルゴスは、こうして与えられた質料を用いて宇宙(コスモス)を形成していく存在として位置づけられる。

 

このあたりに『ELEMENTS』文脈を重ねる読みも十分に可能だろう。Diggy-MO' の『ELEMENTS』は、四元素とそれらを統べる第五の要素をモチーフにしながら、「自分たちが大宇宙そのものになる」ようなイメージを押し出している。

プレーローマ内部での高次ソフィアは、四元素を束ねる第五の要素=エーテルに近い役割を担い、アカモートのパトスから分化していく質料・魂・デーモン的存在は、四元素が沈殿してできた「混合物」としての物質世界と重ねて読める。

 

さらにデミウルゴスがその質料を並べ替え、秩序立てて宇宙を構成していくプロセスは、四元素+エーテルを組み合わせながら「大宇宙の設計図」を編曲していく行為としても見立てられる。そう考えるとやはり、Sophia 神話と『ELEMENTS』は、どちらも「叡知が世界を構成していく過程」を、神話とポップミュージックという別々の媒体で語っている、と読むことができる。

この「上位のソフィア/堕ちたソフィア」という二重像から、デミウルゴスや物質世界が派生していく、というのがヴァレンティノス系神話の定番パターンである。つまりソフィアは、プレーローマ内部では「叡知そのもの」として、プレーローマ外部では「世界生成の起点」として振る舞う、境界的な存在だと言ってよい。プレーローマの最果てで父なる深みを見上げ、なお外側へと滑り出してしまう、その「縁」の感覚を一身に引き受けている。

 

ここで面白いのは、こうしたアイオーン体系そのものを整理した人物の名が、天文学者プトレマイオスと同じ「Ptolemy」だという事実だ。グノーシスプトレマイオスは天体の運行を計算した人ではないが、「高次世界を支配する三十のアイオーン」を構造として描写した点で、ある種の「形而上学アルマゲスト」を書いた人物だとみなすことができる。一方、歴史上の天文学者クラウディオス・プトレマイオスは、『アルマゲスト』で天動説的な天球モデルを数学的に固めた。「地球を中心とした天球の回転」を座標として描き出したその仕事は、ボエティウスが musica mundana(宇宙の音楽)という概念で再解釈し、やがてコペルニクスに至るまで長く参照され続けることになる。

 

こうして見ると、「PTOLEMY」という語はすでに

天文学における天球モデル(クラウディオス・プトレマイオス
グノーシスにおけるアイオーン体系の編集者(ヴァレンティノス派のプトレマイオス

という二重の顔を持っている。そのどちらもが、「世界の構造を記述しようとする叡知側の眼差し」という共通点を帯びている。

 

Diggy-MO' がソロ曲に『PTOLEMY』というタイトルを与え、「アルマゲスト」という語とともに天球の内側に閉じ込められた観測者の感覚を歌ったとき、そこには当然、前者の天文学的なプトレマイオスが直接の参照としてある。

ただ、そこに Ave Mujica 側で『天球の Música』『DIVINE』が重なり、さらに「Sophie」という曲名が予告されてくると、後者のプトレマイオス=アイオーン体系の編集者と、その末尾に置かれたソフィアという組み合わせまで、うっすらと透けて見えてくる。

『PTOLEMY』が「天球の内側にいる観測者」としての位置を肩代わりし、『GOD SONG』/『DIVINE』が「外側からルールを書き換える神的な声」として振る舞う。その外側で、「Sophie=Sophia」的な叡知が、そもそもどんな世界構造を立ち上げ、どんな物語として天球を回しているのか。

その三角形を思い浮かべたとき、グノーシスにおける「プトレマイオスが設計したアイオーン列の末尾に立つソフィア」の姿は、Diggy-MO' が Ave Mujica 宇宙でやっていることを照らす、もうひとつの神話的比喩として立ち上がってくる。

 

その意味で、

  • PTOLEMY=天球モデルを生きる内側の眼
  • GOD SONG/DIVINE=その天球に外側から介入し、ルールを再配列する声
  • Sophie=それらを成立させている「叡知の側」、プレーローマの設計思想

という三点は、単なる言葉遊び以上に、天文学音楽理論グノーシス神話の層をまたいで接続されている。ここに、Diggy-MO' が「天体」と「音楽」と「物語」を一つの座標系で扱っていることの、かなり根の深い証拠が潜んでいるように見えてくる。

 

そしてここまでを振り返ると、やはりMujica楽曲(予定)として「タイトル」だけで『Sophie』というのはやはり、ただの単語で通すには裏の脈絡が多層的である。

 

つまりここで、天文学文脈にとどまらず、これまでも裏で連なっていた神学体系が、Sophie=Sophia という単語を通じて、ほとんど臆面もなく表面化したのだと言える。Sophie/Sophia、そして「神学」領域における「プトレマイオス=PTOLEMY」という対応は、冗談のような精度で体系として繋がってしまう。

 

その上に覆い被さるように Diggy-MO' は『ELEMENTS』を仕立てているのだから、ディテールの面ではもはや、ルドルフ・シュタイナー的な神智学/人智学の領域に足を踏み入れていると言っても過言ではない。

ここで扱っているアイオーンや神学的モチーフについて、自分自身はゲーム本編は未プレイの立場だが、調べる過程で HoYoverse関連、とくに『崩壊:スターレイル』のゲーム考察記事の中に、同種の用語や構造が多く見られた。そちらに詳しい読者であれば、ゲーム内での体感を加点しながら読むことで、本稿で扱う概念も重ねて理解しやすくなるだろう。

 

これらを全て前提としておけばペルソナとしての

オブリビオニス=oblivionis(忘却)

ドロリス=doloris(悲しみ)

モーティス=mortis(死)

ティモリス=timoris(恐怖)

アモーリス=amoris(愛)

というのは、プレーローマに並ぶアイオーンたちを、そのまま感情レベルへとスライドさせた「情動アイオーン列」として読み直すことができる。これからリリースされる『Sophie』が、叡知そのものとしての Sophia 原型をプレーローマの縁に立たせているのだとすれば、それぞれの登場人物たちの裏名は、悲しみ・死・恐怖・愛といった抽象概念を、ラテン語属格のかたちで一人ひとりの人格に縫い付けた印だと言ってよい。

 

中世寓意劇の『Everyman』の周囲に擬人化キャラクターを並べたように、Ave Mujica は「女子高生バンド」という舞台装置の上で、doloris/mortis/timoris/amoris という四つの情動アイオーンを配役していることになる。

kotobank.jp

道徳劇の伝統的な手法として,この作品もまた,友情,知識,美,分別等々の抽象観念を擬人化したアレゴリーとして登場させる。16世紀初頭の出版とはいえ,内容,形式ともに中世的な作品である。

要するに、抽象概念を擬人化したキャラクターたちが人間のまわりに配される、典型的な道徳劇の構造を、そのままキャラクター配置のレベルにまで引きずっているということになる。それこそ「仕掛けられたアレゴリー」というものがこの時代のものにも該当するという直接的な意味合いとしても成立する。

こうした構造レベルでの寓意化に加えて、キャラクター名という次元でも言葉の選び方そのものに同じ志向が染み込んでいる。そう考えると、コンセプトとしての「ゴシック・バンド」という呼び方にも、自然と説得力が出てくる。

 

あと、これは単語レベルでの統一性の話にすぎないが、初期から一貫して「S」に由来するタイトルがやたらと多い。

・『Choir 'S' Choir』
・『素晴らしき世界でもどこにもない場所』(Subarashiki Sekai〜)
・『Symbol』< I〜IV>
・『'S/' The Way』
・『Sophie』

と、頭文字 S で揃えられた語がここまで並んでいる。ここにも何かしらの意味論を読み込みたくなるところだが、リリース未解禁という段階では、あくまで「示唆的な配置」として留めておくのが妥当だろう。歌詞が解禁された際に、これらの語彙が交差するように現れていたら、それが答えです。

少なくとも、単語として「天球」「DIVINE」「Sophia」といった重い語彙が並ぶ中で、わざわざ 「S」で始まる記号群を Mujica 側に集中させている、という事実だけは頭の片隅に置いておきたい。

『‘S/’ The Way』『Sophie』について(追記.2025年12月10日)
‘S/’ The Way

‘S/’ The Way

  • Ave Mujica
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Sophie

Sophie

  • Ave Mujica
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『Sophie』配信されました。非常に官能性と耽美性がある楽曲であり、歌詞としてはかなりギリギリな語彙だなと思うと同時に、やはりDiggy-MO'は第二期、つまりは『DIVINE』以後のAve Mujicaは『‘S/’ The Way』路線でのラップ系と、『Sophie』路線の神学、グノーシス主義的な二面性で展開していくのが現状の筋立てとしては一番納得が行きます。

 

前者の『‘S/’ The Way』は、Diggy-MO'ソロ楽曲の構造を通底しながらも、「叡知がテロリスト=規則の破壊者として再起動した姿」を明確に書いた曲だと言える。slash や hysteric ecstasy といった語彙を通して、「言葉と身体の側から世界を書き換えるOS」としての主体が配置されている。

同じ「叡知」をめぐるイメージを、Ave Mujica 内であえて分離させている、というのが本作(第二期Mujica)のコンセプトだと考えられる。つまり『Sophie』が、堕とされ搾取される側の Sophia(叡知)の姿だとすれば、『‘S/’ The Way』はその裏面として、旧世界を slash して新しいルールで踊る Sophia の姿を描いている。

端的に言えば、『‘S/’ The Way』と『Sophie』は、同じ叡知をもつ概念の「攻め」と「被害」の二相として設計された対照構造になっている、という整理になる。

 

話題の通り、『Sophie』は特に『ELEMENTS』とViRCAN DiMMERの『HOROSCOPE』を足して、その先へと突き進んだように思えます。特に後者の『Sophie』はグノーシス主義的にアイオーンの末尾という話は事前に述べた通りではありますが、だからこそ2ndアルバムは作られると仮定する前に、そもそも『ELEMENTS』の続編としてのミニアルバム、あるいはコンセプトアルバムが制作されるというのも路線としてはあり得るかなと。そのくらい、『Sophie』は象徴的な歌詞性を帯びている。

例えば

太陽は山羊座へ向かう

いま 天(そら)は黒い海で 鳴呼 満たされて

という文節をみると山羊座というのは占星術的には、重さやカルマという試練という意味合いを持ちます。そして、「天(そら)」が「黒い海で満たされる」で暗さで満たされるという点では、プレーローマの光とは対極の「暗い外海」に世界が満ちているという世界観と考えた方が早いでしょう。

そう わたしのこころ 悲鳴は神に届かぬと憂いて

これも、ソフィアの神話における「父なる深淵との断絶」というものを自覚してしまった側としての心情であり、これはビュトスを直接知ろうとして落ちた結果、「もう上とはつながらないと感じているソフィア」という文脈が、そのまま歌詞として組み込まれたものであります。そうすると、「天(そら)は黒い海で 鳴呼 満たされて」という歌詞が対偶として指し示すのは、上の光=プレーローマということになります。だからこそ天は黒い海になる=下の暗い海=物質世界という世界観を想起することが可能です。ここまでしっかりと、占星術語彙で描かれています。なので、やはりAve Mujicaの歌詞やDiggy-MO'が意図している世界観はViRCAN DiMMERの『HOROSCOPE』がかなり軸足になっている。少なくとも宇宙の四元素を軸に『ELEMENTS』で展開したその先の楽曲としての『Sophie』という続きものとしての意識が、第二章としての所作に見えるというか、受け止めることができる。

それでいて、ちょっと異質だなと感じる点はこの楽曲だからこそ、とも言えるのだが、かなりスレスレな歌詞であるということ。

また カーテシーがあなたの欲情を掻き立てる “美徳” とこの魂 何処へ 

カーテシーというのは、調べると礼儀正しい会釈・淑女的なお辞儀を持つそうです。なので、それが「欲情」と表現するのは、良い子としての所作そのものがむしろ欲望を誘発するという倒錯構造という意味になります。そしてそのまま「美徳」と「魂」はどこへという歌詞になることで、美徳を保とうとする振る舞いが、逆に搾取・対象化を呼び寄せてしまう世界という転換になる。これは中々に直接的ですね。とはいえ、「叡知」の意味合いをもつ「ソフィア」がプレーローマ的な「善」を体現しているにもかかわらず、その善性ゆえにパトスを抱え込み、結果として落下してしまう、と解釈をすれば実にモチーフとしてはかなり響き合います。

絶望のハイライト 揺れる死神の影 

腐敗したハイエロファント 

ここはタロット要素が濃く、『Crucifix X』での応用性として見立てることができます。
ハイエロファント(教皇)とデス(死神)がセットで出てくる構図になってくる。タロット大アルカナV番こそが「The Hierophant」という教皇の意味合いを持つ。それが「腐敗」している。つまり、本来は宗教的権威・伝統・教義の象徴が、「腐敗した」という「善や美徳を規定するはずの制度」が、むしろ搾取する側に回っている世界観。

そして続く

material, material, material, how bizarre

ここはもろ、グノーシス文脈だと笑うしかないレベルで合致します。ヴァレンティノス派的には、ソフィアのパトスから分化するのが「質料(ヒュレー)=material」です。

だからこそ、

  • 腐敗した聖職者=偽の霊的権威/デミウルゴス
  • material の反復=物質世界/ヒュレーに絡め取られた状態

という整理になります。

その上で

この“不幸”を呪って

この世で “美徳” など 報いられないの 欺かれ続け 嗚咽と涙に 鳴呼 咽ぶばかりで

という歌詞が続きます。これらを統合すると、霊的なものを装う制度(ハイエロファント)が、実際には物質的・搾取の装置として働き、美徳や純潔は何の報酬も得られない。という解釈にたどり着けます。同時にこれらの歌詞の語彙は、ソフィアが外圏でパトスと悔悟に沈み、そこから質料・魂・デーモン・デミウルゴスが派生していくという神話の「感情面」としても機能すると読むことができます。Ave Mujica自体、神話構造は組み込まれているのは前提として進んでいるので、これらもその仕立てと考える方が妥当であると考えます。

プレーローマ内では叡知そのものを担いながらも、プレーローマ外では世界生成の起点(低次のソフィアとしてのアカモート)であり、その間に立つ「縁」の存在としてのというソフィア像を、そのまま「美徳を持っていたはずの少女が、腐敗した聖職者/制度に搾取される物語」ということになります。そして、この歌詞で抱いたと目される「恐怖」「悲しみ」「驚き」といった感情が凝り固まり、この物質世界を構成する四大元素(地・水・火・風)になったと考えればやはり『ELEMENTS』に直結します。以上のことからこの楽曲は

  • 上から見れば宇宙論
  • 中から見れば虐待と搾取
  • ポップミュージックとしてはS的フェティッシュをまとった被虐歌

という三層構造になっていますね。やはり多面的な楽曲であることには違いないです。その上で、この楽曲で生まれた語彙から「Ave Mujicaの語彙」をまとめて俯瞰すると全体としてどう見えるかという話をすると

ということになり、それらが語彙レベルで『ELEMENTS』『HOROSCOPE』にも繋がることは明白であり、それらを統合しているDiggy-MO'と考えると、やはり一人のOSで構築されていることがより分かりやすく導入されています。

『PTOLEMY』では観測者であり、『GOD SONG』/『DIVINE』は外側から介入する神としての象徴性の楽曲で、『Sophie』ではその「叡知」そのものという三角形はリリース前から構築することが可能でしたが、その叡智の描かれ方が、いざ公開された歌詞では、「叡知」の神話的・宇宙論的な側面と、「美徳/純潔」が搾取される現代的ジェンダー/身体の側面を両方引き受けたテキストとなっています。

占星術+ タロット(アルカナ)+ グノーシス(Sophie=Sophia)という地点まで進んだということ

『HOROSCOPE』でやってた星の配置=運命/世界の読み方

『ELEMENTS』でやった宇宙の素材=四元素+エーテルとしての運び方

『Sophie』でやっている「堕ちた叡知の一人称ドラマ」

これら全て「Diggy宇宙観」の別レイヤーとして積み上がっている証拠です。

個人的に歌詞として「太陽は山羊座へ向かう」が出てきたのが大きいと思っています。

  • 上の世界/完全な世界(プレーローマ)

  • 下の世界/混沌・物質世界

  • 星辰・運命に縛られた人間

  • それを「知る」視点(グノーシス/叡知)

というグノーシスの視座が『HOROSCOPE』だと、

  • 星図=上から与えられた設計図

  • 都市・賭場・迷宮・カーニヴァル=下の世界での人間ドラマ

  • Zipsy=星図を読んでしまう観測者

  • 黙示録三部作=終末と更新のビジョン

となっていることからも、「上の図面」と「下の人間関係/終末体験」が二層構造になっていて、これは『PTOLEMY』『Kopernik』という天球モデルから、『ELEMENTS』にいたるまで、きれいに連結する土台になっている。だからこそ『Sophie』を出しがのであれば、『AEON』なるコンセプトアルバムをだすことで『ELEMENTS2』としての展開が可能になるということです。四元素で「物質側」から宇宙を語ったアルバムにたいして、「叡知/構造側」から宇宙を語るアルバムというのは無理なく成立します。

現に今、Diggy-MO'とAve Mujicaは

『PTOLEMY』-アイオーン配列をまとめたプトレマイオス天文学者が重ねられる

『DIVINE』-上位からの介入

『Sophie』 -ソフィアの落下とパトス

まで到達しているわけです。これは言い換えるのであれば、既に三十アイオーンのうち末尾と、その編集者の存在までは暗示できているということです。だからこそ、あと数曲でいいと思います、それらがアイオーン名や、境界名またはプレーローマ名を冠した楽曲として並び立つことで、『ELEMENTS 』=素粒子編からの形而上編としての『AEON』、あるいは、四元素アルバムとしての ELEMENTS に対するアイオーン版アンサーとして成立する。

「大宇宙になる」という展開をした世界に、グノーシス的ソフィア神話を刺したスピンオフ曲を出すこと自体が、Diggy-MO'の宇宙論 第二幕=AEONということ。

なので、先日

こういったポストをしましたが、これはぶっちゃけ見立てとしてはリリースを追っているだけにすぎなくて、実はアルバムとして形態はともかく、『AEON』(仮名)編が、出るのではないかということが「『Sophie』でます」の時点で明らかになっているとも捉えられます。もちろん、このまま2ndアルバムとして、これらが一枚にまとまる可能性もありますが、もう一捻りするのであれば、あるいは踏み込むのであればその1枚こそが、Diggy-MO'の真髄になるのではないかと思います。繰り返しにはなりますが、『ELEMENTS』の続編にもなりますし。やはり今後に期待ですね。

 

おわりに

『'S/' The Way』に至って、Diggyism を踏襲した韻の配列や展開が一気に前景化し、『CHALLENGER』『Lovin’ Junk』といったソロ期の作法にぐっと寄ってきた現在、Ave Mujica は明らかに「第二段階」に入ったと言っていい。シンプルにまとめるなら、女子高生バンドの皮を被った、天体神学ラップ付きポップ・ミュージック思想実験装置くらいのところに Ave Mujica は立っている。そしてそれは本来の音楽にかかる領分込みでエンタメ音楽としてやってるからこそ、異常な「面白さ」が生まれる。

もっと、もっと語るべき点はあるのだが、何はともあれ、今年の「アニソン」枠を象徴する楽曲が誰のものだったかと言えば、それは他でもない Ave Mujica のものであり、アンセムとして機能していたことだけは確かだ。山田勝己が「自分には SASUKE しかない」と言い、祥子も「私には Ave Mujica しかない」と劇中で言ったように、今年に限っては、自分にとっての「しかない」の部分は Ave Mujica だった、と言い切ってしまっていい。

 

山路ボイス聴きながら書いてることもあって途中で PPPより「上から見ないとわからんこともある」を途中引用しましたが、史的には

商業的には「アニソン/ガールズバンドIPの企画もの」

音楽史的には「PTOLEMY/GOD SONG 直系の天体神学ラップ」

こうしてみてまとめると、ここから先、このバンドがどこまで異常なまでの密度と技術を保ったまま活動を続けていくのかが、本当に楽しみだ。

幸運にも足を運ぶことができた MyGO!!!!!×Ave Mujica 合同ライブ「わかれ道の、その先へ」DAY2(Geosmin)の締めくくりの挨拶の場面で、高尾奏音は「Mujica でミラノに行きたい」とコメントしていたと記憶している(ついでに言えば、MyGO!!!!! 側での林鼓子の異常なトークの巧さも、今でも鮮明)。願わくは本当にそういう領域に到達してほしいし、到達すべきだとも思う。

バンドとしての高次元なレベルの高さもそうだが、縁もゆかり「しか」ないイタリアで Ave Mujica が演奏を行うことになれば、それは単に海外公演というだけでなく、「神学としてのイタリア=ミラノ」という座標の上でもひとつの達成になる。

 

少なくとも誇張抜きで言えるのは、いまの Ave Mujica が、日本のポップ・ミュージック(musica)における最前線のひとつの潮流を、確かに形作っているということだ。

music.apple.com

 

<追記>2025年12月3日 

Diggy-MO'宇宙論的な部分だけを知りたいという方向けに、というかこの記事を書いた後に、この重要なテキストがこの記事の中に埋まるのはまずいと思ったのでこちらにまとめました。


サムネイルについて

本記事のサムネイルには、信澤収さんともちぷよさんがそれぞれ描かれた三角初華と豊川祥子のコラボレーションイラストを、重ね合わせた形で使用しています。
下記に元のイラストへのリンクを掲載いたします。

 

参考資料/派生記事(全て当サイトの記事ですがその中で参考になったもの)

 

より具体的な思索、構造メモ、書籍系などについてはnoteに公開しています。

有償にはなりますが、全体的にここで書ききれない、あるいは書いたら軸足がずれてしまうという土台について述べています。本論に直結している文章ではあるので、気になる人はチェックしていただければと思います。

note.com

 

 

*1:tomorrow tomorrowで有名であの曲

【宣伝】『もにも〜ど3』に寄稿|<シャフトアニメの視覚表現美学の源流-劇団イヌカレーとシュルレアリスム>

いつぶりだろうか。と思ったが、文学フリマ東京自体には、36から今回に41至るまで連続なので別に「いつぶり」ということもないのだが、今回は「もにも〜ど」のナンバリング回に帰還できたという意味でかなり嬉しい。

 

 

note.com

と、いうことで「もにも〜ど3」発刊されます、そしてそこに寄稿しました。っていうかできました。

わかる人にはわかる、この寄稿者一覧の凄さ(Kevinさんは(sakugabooruの管理人さん)

 

 

寄稿者ポスト(オープンアカウントで告知ポストが確認できる方々)一群

・mochimizさん

Sacraさん

舞風つむじさん

・anakamaさん

石岡良治さん

(『現代アニメ「超」講義』や 配信番組「石岡良治の最強伝説」などで有名な方です。)

・よしのさん

otaku can change the worldさん(自分の原稿の美術監修を担当された方です)

・土方政成さん

・土屋誠一さん(美術評論家の方です)

・sayopiaさん

・kVinさん

 

イラスト寄稿者群

 

・カシオレ中毒さん

・中原菊子さん

・勇者になれなかったライダーLIMITEDさん

・影虎さん

・波片さん

・知絵さん

 

 

非常に多種多様な寄稿者一群となっております。自分自信も完成版が楽しみです。

 

 

 

ナンバリング単位でいえば、1,1,5,2.5には参加できたものに、肝心の「2」に参加できなかった(原稿自体は用意したが結果的に流れたので余計に自分の能力の未熟さに絶望したので余計に)ことは未だに引きずっているという意味で忸怩たる思いにかられがちですので、一年ぶりに本戦に戻れて来れたという意味で個人的にはかなり達成感を感じます。その反動がそれ以後を生んだのも確かですが。そしてそれらの内容自体は、こちらの記事にも書きましたが(書くことがそれくらいしかないのが本音)

sai96i.hateblo.jp

大体は「シャフトアニメの視覚表現美学の源流」という約9万字ほどある分量を一括だとキャパシティがオーバーなので連載式でいきましょうという流れ連載稿です。その第一章が「伝承 もにも〜ど」に掲載された尾石達也モダニズム」と話でした。今回の二章でとりあげる議題は「劇団イヌカレーシュルレアリスム」となります。おおよその方がおそらくは視聴されているであろうアニメ『魔法少女まどか☆マギカ』(2011年〜)において、美術に目を奪われた方も多いでお馴染みの「劇団イヌカレー」を美術史としてのシュルレアリスムを縦軸に絡めていくという文章となっております。おそらく「面」としては大方が抱く「シャフトっぽい」の認識の一因として劇団イヌカレーはかなり牽引している(『まどか』以前以後にも関わっているという点含め)ので、読むにあたっては「尾石達也モダニズム」よりも認識と知識、視覚としての認識性は高く入りやすい原稿とになっていると思います。主宰にあたるあにもにさんが相当な時間をかけて手を入れて入れていただいたこともあり、文章としての洗練度は文句ないですし、テキストにおいても「ああ、そう読むよね」という面と、そうでない面があるので純粋に読みものとして面白いと発見がある。そんな寄稿文章となっております。

 

巻末に収録されるイベントトークレポでも「音」の回にてレポートをしたものが載りますので、こちらもよろしくお願いします。岩上案件アニメこと『ヴァージン・パンク』というアニメの良さの一助になるかと思います。(総合的な意味で)

もう一つ出番がありますが、それは敢えて伏せます。読んで探してみてください。

 

それこそ2026年、年明けアニメとしてアニプレックスの重大案件として『魔法少女まどか☆マギカ<ワルプルギスの廻天>』が2026年2月に公開予定ながら控えており、泥犬のみの参加とはなっているものの、予告編を視聴すれば視認できるように「イヌカレー空間」というものは健在であり、見どころの一つとなっているので、その前段階といいますか、果たしてイヌカレーを美術史と結びつける補助線を引くとどういう認識が可能となるのか?という意味でタイミングとしても良いのかなと思います。


www.youtube.com

 

 

ここからは先の話ですが、連載式という形式からもわかるように次回も、その次も分割量的に「作られる」場合は掲載予定となっております。その是非がどういうというのは自分の裁量ではないので、言及しませんが、すでに出来上がっている「全体像」という意味で、「シャフトアニメの視覚表現美学の源流」が面白くなるのはこっからなんです。

 

もちろん、一章、二章も力を入れて書きましたし編集によって文章としての強度はあがっていますが、三章以後における内容はより深淵に近いです。なので、個人的には前回と今回も当然読んでいただきたいですし面白さは保証できる。しかしその上でこの後に控えている原稿が一番美味しい箇所であるということを、書き手としては主張しておきたいところです。言ってみれば尾石達也モダニズム、イヌカレーとシュルレアリスムは既に言及過多な側面が大きいというのは、シャフトアニメの論評を廻った人であれば周知の事実でもあり「語り口」としての新規性はない。

その語り口の掘り方からあまり語られない側面をガッツリ探るというのが以後の展開なので、そう言った面でも楽しみに待っていただければと思います。はやくも次の話をしているのは全ては文章としては出来上がっているという側面があるから。

 

で、こっからは雑談パートですが、「もにも〜ど」関連で言えば、それこそこっちのサイトでもシャフト関係で1本音楽系で更新予定です。というよりも「もにも〜ど1」での初寄稿文をもろもろアップデートしたものを年内にアップできればと思っています。

シャフト50周年っていうのもありますし、自分もなにかしらという気持ちになったのと、完全に音楽論100%なので、そういう意味でも大元のサイトであるこちらに還元するのは十分通りとしては成立しますし、二年たつ原稿ということもあり各所にOKをいただいているので、後作業の問題なので、年内公開目指し手順を進めていますので、そちらも楽しみにしていただければと思います。新規原稿としては『岸辺露伴は動かない<密漁海岸/懺悔室>』OSTは絶対取り上げます。

shop.columbia.jp

 

特典ディスク座談会とかも全部込みで踏まえた上での所感や、菊地御大のライナーノーツもろもろ踏まえた上でどうか、ということを書き連ねるという振り返り形式にはなりますが、文章としては残します。というよりも、『岸辺露伴』のOSTとしての存在感は現行perfettoな音源なので、触れない分には行かないなという心意気です。みなさんも是非音源を購入していただければと思います。是非とも、次のシリーズも制作されてほしいものですね。

 

前回のOST周りはこちらにまとめております。

sai96i.hateblo.jp

sai96i.hateblo.jp

これに紐づいて思ったのですが、最近講談社が映像制作でクロエジャオあたりを配置してスタジオを制作しましたが、劇的に難しいとは言えこのラインまで乗ったのであれば是非講談社の読む隕石こと京極夏彦の<百鬼夜行>シリーズの映像化を!!と思わずにはいられません。というか誰もが「正当」な映像化としてのクオリティは望んでいるはずなので、この映像化スタジオ設立の意味意義大義それぞをなす形で「良い」作品を作ることは当然、「講談社」でなければ作れないIPとしても望みたいところです。ましてや『岸辺露伴は動かない』の実写がこれだけいける今、活路は0ではないと思っている人も少なくはないはずとか色々思うしだいです。

 

大体こんな感じです。宣伝プラスアルファとなりましたがなにはともあれ、「文学フリマ東京41」にて、サークル:もにも〜どにて「もにも〜ど3」をお手に取っていただければと思います。よろしくお願いします。

 

にしても、このメンツ、さしづめ『TO BE HERO X』ED「KONTINUUM」みたいな気分にしてくれる異常さで圧倒的な誌面としての強さを感じます。どういうことか知りたい人はドンファの旗手、あの李豪凌の傑作テレビアニメ『TO BE HERO X』を全話視聴してください。

(狭い世界の中でしか伝わらないという点で一抹の寂さがありますが、それはそれとして凄いのは本当なので事実として記載しておきます)

KONTINUUM

KONTINUUM

  • SennaRin
  • J-Pop
  • ¥255
  • provided courtesy of iTunes

では。

 

 

羊宮妃那をめぐる冒険 ──迷える羊の声をたどる

2024年11月13日に『Mygo!!!!!』もっと言えば、羊宮 妃那を「明確」に知って大体一年になる。それすなわち羊宮妃那という稀有な役者の表現について非常に考え抜いた年である。

アカウントで初めて言及したポスト

元々この最近の声優役者を軸足に数々の記事を書いてきたが、経緯としては2024年の『トラペジウム』であった。そこで、「結川あさき」「羊宮妃那」を知ることができたことが全ての主因となっている。今や、明田川 仁の音響監督の仕事に世話になっていないアニメ視聴者は存在しないであろう。何度でも想うが、『トラペジウム』は稀に見る組み合わせであることに違いない。

今や『ワンダンス』で内山昂輝と組むほどの実力者としてはたしょう二に採用されるほどの声優になったのはどう考えても実力派であることにほかならない。

 

 

最近、結川あさきの中性声についての記事を出したが、声として意識したのは実は、結川あさきの方が先なんです。どちらも素晴らしい表現者であるが、当時としては結川あさきはまだ記事にするにしても、そも役数が少なく、『逃げ上手の若君』がちょうどリアルタイムで放映されていたという時期もあり、いち早く書きたくてもそもそも書けないという状況であった。だから今になって、というよりも2025年11月1日になってようやく書ける下地が揃ったということだ。

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そして、「羊宮妃那」。正直に書けば、この役者は知っていたが、『Mygo!!!!!』を知るまでは単なる「巧い役者」という認識でしかなかった。それが尋常ではない才覚を持つ役者であることに気づくのが遅れたというのが実情である。このタイミングでごく3人しかいないDiscordにて「Mygo」「羊宮」で検索をかけたが、実に1年で「Mygo」397件、「羊宮」475件。羊宮の方が約1.20倍多く、全体の54.5%が「羊宮」言及というクラスになっていた。3人いるなら分散と考える人も多いでしょうが、9.9割型私です。

 

 

そしてこの羊宮を知って以後の一年は、まさに「羊宮妃那をめぐる冒険」であり、迷える羊として声をたどり続けた記録でもあった。

まず、当ブログでも人気記事となった『Mygo!!!!!』『Ave Mujica』の音楽の良さを体系的にまとめた記事を出しました。ここで述べたかったことは、「声優」という職能が持つ歌唱というものは、人によっては絶大な威力をがあるということだ。そんな表現者はなかなか出会えない、だからこそ対比として上田麗奈の『Empathy』を対象としていたわけだが、上田麗奈ファンが「表現特化」としてのアーティスト歌唱をすることでの効能はとても大きいが、一方で、それが軸ではないからこそ、供給としては不足気味にならざるをえないよね、という段階で、同等の声質と表現力、いまや表現者としてのバトンタッチもかなり進んでいると言って「羊宮 妃那」がIPとしての「バンドリ」で『Mygo!!!!!』で高松燈を演じられ、歌唱してというのは明確に大きなアドバンテージがあるということでもある、というのがあの記事で主張したかったポイントだ。

あと表現主義と技術主義という意味でこの二つのバンドは圧倒的であり、後者に至ってはもはや高すぎてという話だ。バンドとしての「Ave Mujica」に関しては進行形で考えいているのでいずれ出します。かなりいいところまで来ています。

SO,Diggy-MO'ソロ,ViRCAN DiMMERの『HOROSCOPE』全キャリアとMujica楽曲を融合した究極の記事になりました。ぜひ読んでください。

sai96i.hateblo.jp

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そんなにも『Mygo!!!!!』はすごいのか、と想う方もいるとは思いますが、実際問題として、「アニメも」展開するバンドリという意味ではいい加減初めてのアニメ化ではなく、むしろシリーズ化していたわけだし、なんとなれば企画段階では別のIPであったことはもはやいうまでもありません。つまりのちにバンドリに統合されただけであって、実態は別物というのが「Elements Garden」ではなく「Supalove」であることはこれは、『春日影』論でも書きましたね。

あの記事では、『栞』『春日影』『人間になりたい歌』の三作だけがElements Garden体制であることを手がかりに、意図的な断絶があると読んだ。逆算的に見れば、これは制度更新のための儀式的布石に他ならない。

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この記事はそれぞれ

・天動説=CRYCHIC

・地動説=Mygo!!!!!/Ave Mujica

 

という、アナロジー1本で勝負したという、側からみれば「なじゃそりゃ」となる見立てて書いた1本なのですが、これがうまく当てはまってしまったんですよね。

Diggy-MO'の楽曲込み(『PTOLEMY』=プトレマイオス視点『GOD  SONG』=外側視点)で、なぜああならなければならなかったのか?が説明がつくという、自分でも書きながら「これ酔狂記事だろ笑」と思いながら書いていましたが、ベヘリット=春日影あたりから、「これ、物になる」と確信した記憶は鮮明にあります。そして、結果的に、この見立ては「しっかり」と成立しました。これはコンテンツ評ではありましたが、大胆な飛躍が実は嘘ではないという意味で、かなり印象的な記事になりました。おそらくこの記事ほど『春日影』がなぜ〜なのかという問いを彫ったものはないと思います。

 

さて、話を羊宮妃那に戻そう。

『MyGO!!!!!』で知った当初にまず思ったのは、冒頭のXでも書いた通り、ポエトリーリーディング的な表現の近似性と、楽曲全体が既視感を呼び起こすメロディラインだった。羊宮の歌唱が圧倒的であることは言うまでもないが、同時にamazarashi以後の文体と感情設計が流れ込んでいる感覚があった。

私自身、amazarashiを長く取り上げてきた立場からすれば、この共鳴は偶然ではない。むしろ必然だったのだと思う。

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だから物語としての『MyGO!!!!!』のギスってる感は別に音楽性として、系譜があるからこそ、そこに熱量を入れられる余地があるということだ。でもまさかそこを埋めてくるのが声優の歌唱という文脈で更新されるとは思わなかったという意味でもやはり特別。

そして今年の3月、『小市民』2期手前に私論として若山をもう一つの軸足として置いた記事を書きました。

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これは座標軸として若山、羊宮、結川とそこに関係性がある声優(安済知佳上田麗奈)を含め、それぞれを座標として現在地の基軸はこの役者群であるということ提言したかったのだ。ここで一つ、重要な発見ができたのが以下の文節である。

声優の声=音という感覚で思索すると以上のようなことが自然と点と点で結ぶことができる。

自分の文章を知っている人はいい加減既知な事実であるが、「全て」においてかなりドライブ感で書いているので、特に下書きやネタ案といったものがとくにあるわけでもなく、脳内で思ったことをリアルタイムで文字起こしで当ブログの全文章は構築されているのですが、この文節に限ってはこれがかなり大きい。ここで声=音と考えられたことが、この記事における「座標」と源でもあり、その因子でもあるからだ。そしてこの直感こそが後の「声=音=言語=演技」論の源流になったのだ。

そして約1か月半(48日)かけて「声=音」を拡張した論がこちら。

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「羊宮妃那論」と銘打ってはいるが、射程は広い。核心は発声とは何か、その差異が吹き替えと字幕にどのような不可逆の差分を生むか、さらに朗読において声はどう作品になるか、という諸相を横断しつつ、翻訳には上限があるという前提を置くことだ。そして、その上限を貫通する声こそが希少であり、その最前線に羊宮妃那がいるという結論に至ったのが本稿。だからこそ、その希少性を説明するためには、出演作やキャリアの長さといった、短絡的なものの「見立て」ではなく、声そのものが受け手にどれほど作用してしまうかという観点から見なければならない。


このとき軸足となるのが、悠木碧加藤英美里上田麗奈水橋かおり、そして「語り手」という概念の最高点に位置する櫻井孝宏である。これら一群らと比較しても十分に耐えうる声であるということが重要なのである。だからこそ冒頭で、『コロンボ』におけるピーター・フォーク小池朝雄ヒース・レジャー, ホアキン・フェニックス, V(『Vフォー・ヴェンデッタ』)といった、変換不能性を帯びた発声×演技の実例を「共有前提」として置いた。

ここで言う変換不能性とは、テキストの意味を越えて声そのものが意味の担い手になる現象である。この前提を踏まえると、中国圏でのMyGO!!!!!の根強い受容も説明がつく。中国語版のMyGO!!!!!楽曲は存在せず、日本語版のみが流通しているにもかかわらず評価が高いのは、まさに翻訳(言語)を越えて届く声の力が働いているからだ。ホアキンの声やVの仮面の「非翻訳性」が伝わるのと同型の現象として、羊宮妃那の歌唱=発声が機能している、というわけである。それが全てとは言い切れないが、歌唱が受けなければMygo!!!!!の人気は説明できないというのも確かな事実であるのはご存知の通り。

 

そしてその「希少性」ある声の正体とは何か?ということを考える時に一つの答えに行き当たる。それが「表音文字」「表意文字」そして「表義文字」という文字帯系列。

音で伝わる文字(ひらがな、カタカナ)

意で伝わる文字(漢字が典型的-「花」「死」「夢」など、形そのものに意味がある)

この二つまでは言語学的にも確立された区分だが、そこに第三の層=表義文字を置く。
それは「文字自体が感情や世界観を発生させる」段階である。

 

もちろん正式な用語では存在しない。だが、表音+表意=表義として読み替えると、声という現象が「音と意味の合成によって世界を構築する」営みであることがわかる。

この構造は、マズローの欲求五段階説における「超越的欲求」に似ている。マズローが五段階を説いたあとに第六段階として「自己超越」を提示しながら、学説としては未体系化に終わった。つまり到達されながらも理論化されなかった層。表義文字も同じく、言語体系の外側でありながら、確かに存在する「超越的な伝達」を示している。

そして、この考え方を最もよく象徴するテキストが、テッド・チャンの『あなたの人生の物語』である。あの作品で描かれるヘプタポッドの言語は、一文が同時に始まりと終わりを持つという構造をとっており、言葉が時間と因果を越えて「世界の形」そのものになる。つまり、「読むこと」と「見ること」、「音」と「意」が分離していない。
これはまさに「表義的言語」であり、声が持つ多層的な意味伝達。音と意と義が同時に働く現象を説明する上で最も近い文学的モデル。

そして、その映像化としてヴィルヌーヴの『ARRIVAL』がある。映画を見れば誰でもわかるように、ヘプタポッドの文字は「円環」そのものだ。始まりと終わりが同時に存在し、時間が折りたたまれ、意味が流動する。つまりそれは、言語が「読むこと」と「見ること」を同時に成立させる構造の可視化である。だから私は、この「ヘプタポッド文字」をそのまま「声優」に置き換えても成立すると考えた。声優の発声とは、言語を時間軸で並べる行為ではなく、瞬間において世界を全体的に生成する行為である。一音一語が過去と未来を含み、演技の「円環」を描く。まるでヘプタポッドの文字が時間を同時に記述するように、声優の声もまた感情・意味・身体・時間を同時に「描く」。その構造を最も純粋な形で体現しているのが、羊宮妃那という存在なのだ。というのがあの記事で伝えたかったのが

sai96i.hateblo.jp

この記事を出した意味で意義でもある。そして、これらの理論が正しいかどうかはともかくとして、「表音声優」「表意声優」「表義声優」という三分類を設定した瞬間、
この世に存在するあらゆる役者は分類可能になるという結論に達した。

 

  • 表音声優とは、音の抑揚やリズムで感情を立ち上げる演者。
  • 表意声優とは、言葉の意味や構文の精度で情景を紡ぐ演者。
  • 表義声優とは、声そのものが世界観を生み出す演者である。

 

この区分を適用してみると、驚くほど整合的に見えてくる。たとえば『ガンダム』シリーズの主人公像は、逆説的だが「音」が主因の声優でなければ成立しない。アムロ・レイの数々の台詞回しにしても古谷徹が発声する「言葉の配列」の美しさよりも「音」が機能しているからこそ、「親父にも殴られたことないのに」と言ったセリフが耳に馴染むし、富野由悠季の独特な言い回しもあって、結果的に「残る」台詞となる。

実際問題他のガンダムの主人公にしたって作品として情動的な面があるのと、「叫ぶ」ことが必然性としてある以上、声にかかる「音」が際立つ役者にしか務まらないという側面は確かにあるのだ。なぜならこの「叫び」こそ、音の純粋な表出であり、物語世界を支えるためには音のエネルギーを持つ声優でなければ成立しない。ガンダム=音の宇宙といえば一発で分かっていただけるだろうか。

 

もちろん声優とは本来、声に特徴があることが前提だ。しかし『ガンダム』の主人公たちが「音」を中心に選ばれてきたことは、この表音的特質を、物語構造そのものが補強し続けている証でもある。

 

一方で表意は「語り手」に属する声優という意味では、トーンが一定の帯域で発声して崩れない、それこそ川澄綾子田中敦子早見沙織といった「台詞」の一音一音が目立つ役者であることもまた、想像に難くない。ここに属する役者は基軸となる声そのものが、「言葉の意味」を精密に構築していくタイプと言える。男性なら神谷浩史がその最たる例だ。そうでなければ「阿良々木暦」は成立しえない。どんな饒舌でも崩壊しないあの異常とも言える滑舌の美しさはやはり「音」よりも「意味」を象徴する。

つまり、表意系の声は「音」よりも「意」を重視しており、一つひとつの台詞がまるで文章のように意味の文法を持っている。だからこそ、台詞や言い回しに「妙」があればそれが視聴者に伝染するのである。

 

ここで整理すると面白いのがガンダムのセリフは実際の役者の声、あるいはそれに寄せることで成立し、再現されることは多い。「声の高さ」や「リズム」、「叫び方」さえ再構成できれば、それらしい「音の再現」は成立する。

 

一方で表意系の「演技」というのはおおよそ「真似」できないのがポイントだ。それは声のトーンや抑揚の問題ではなく、「言葉の意味をどう構築しているか」という内的構文の問題だからだ。つまり、演技が「声」ではなく「言語運用」に支えられているため、模倣の対象が存在しない。だからこそ、発声を伴わない「文章」つまり文字媒体においては、むしろその表意的構造が感染的に増幅される。読み手がその語りのリズムを頭の中で再生することで、声優の文体的影響が「文字」として残存し得る。

 

そして「表義声優」である。これは「模倣不可」であり重力、磁場を揺らす軸である。

表義的声は、意味や感情を超えて存在そのものを変調させる。聞く者の認識をわずかにずらし、世界の密度を変えてしまうという意味で一種の超能力と形容していいだろう。

ここに属する声優はごく僅かだ。表音、表意は、切り替えや演技帯で切り替えがあるので、ばらつくが、ここの領域に至っては、名のある声優をどれほど列挙しても、「誰が選んでも一致する」ような数人しか該当しない。彼らは声を発するたびに、言葉の外側に世界を出現させる。声が響いた瞬間に、音ではなく「場」が生まれる。それこそが表義声優の定義である。そしてその領域にいる声優こそが一部抜粋するとして

櫻井孝宏(声質がテノールからアルトまで同じなのに全部違う演技になる)

関智一(テノールからソプラノまでスイッチのように「声」が切り替えられる)

山寺宏一(言わずと知れた七色声はもはや神域)

上田麗奈(ソプラノ調の発声と妖艶さは随一)

沢城みゆき(どの領域でも違和感なくキャラを演じられる天性の「声」)

悠木碧(人間性を一時的に解除できるキャラクター声は世界一)

そして、この列に羊宮妃那が確実に加わる。ようやく辿り着いたが、こここそが最も重要な地点である。羊宮の声は「歌唱」と「演技」という二項を容易に超越する。
というよりも、彼女にとって歌唱=演技=表現は常に同一平面上にある。通常、声優が歌うとき、発声は演技の延長線上にある。つまり早見沙織が歌っても、ああ、「早見沙織が歌を歌っている」という、ごくごく当たり前の認識の切り替わりがある。しかし羊宮妃那の場合、声が音楽の構造そのものになる。それはメロディやリズムに依存せず、声自体が世界を震わせ、聞き手の感情を空気の密度として変化させる。そうでなければ『Mygo!!!!!』の楽曲は成立しないというのがその証左。そこがあるからこそ、リスナーとしての我々は驚嘆している。そしてそれに近いものは先述の通り、上田麗奈の歌唱くらいしか、類例として挙げられるものが、そもそも存在しない。そしてここにおける共通項は両者ともに表義であり、そこ空間上にいる役者であればということも自明である。

 

そして今や、この二人は富野由悠季の世界で象徴的なキャラクターを担う。上田麗奈は『閃光のハサウェイ』にて「ギギ・アンダルシア」を、羊宮妃那は『ジークアクス』において、「ララァ・スン」を演じた。富野作品の中でもっとも人間の知覚と魂の境界を描く役柄を、この二人が引き受けたこと自体が象徴的だ。表義的声優とは、魂と構造のあいだに声を置く存在であり、この定義を、この共通項が証明している。

 

以上が、羊宮妃那という「声」の存在性を考える中で生まれた、『MyGO!!!!!』における「迷える羊」の声から始まった、一年間にわたる個人的変遷の思索である。

この一年で発表した五本の記事を通して、ようやく見えてきたのは「声」という現象そのものだった。それはやがて「羊宮妃那」という個にとどまらず、「声優」という役者帯をどのように捉えうるのか、という地点へと拡張していった。結果として論は壮大になってしまったが、それもまた一人の表現者が「声」という存在のあり方を考えさせてくれた賜物である。羊宮妃那という役者がいなければ、この思索は決して生まれなかった。

そうした意味で、「今後」の是非よりも、まずこの一年において確かに名前を刻んだ役者であり、だからこそ「文章」として冒険することができた。

今後いかなることがあろうともMygo!!!!!の『焚音打』において高松燈として、そしてそれ以上にやはり表現者:羊宮 妃那としての

大丈夫 僕たちは進もう 迷うことにもう迷わない

という言葉は、まさにその象徴である。

焚音打

焚音打

  • MyGO!!!!!
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  • provided courtesy of iTunes

いまの時代、「sheeple(sheep+people)」という言葉がある。
情報に流される大衆を揶揄するこの語を、あえて肯定的に転用したい。すなわち「羊化」とは、羊宮妃那の声に導かれ、迷いながらも声の世界を彷徨い続ける聴衆たちのことだ。フィリップ・K・ディック的に言うなら、それは一頭の「電気的存在」が私たちを導く構図であり、「迷える羊」とは、声を求める受け手そのもののことなのだ。

 

 

Do Seiyuu Dream of Acoustic Sheep?


Yes — by Youmiya, as the Electric One.

 

 


サムネイル画像は、POSiTRONによる作品「Lucky Sheep」

(デザイン:土井宏明、出典:PressWalkerプレスリリース)より引用。
本画像は文脈における参照として使用しています。

結川あさきにご用心|中性声の帯域の魅力

結川あさきって、とても声の按配が面白くないか?と感じたのは『トラペジウム』で主演を張った時の演技のうまさに惹かれて気づいたポイントの一つ。

2024-07-15

つまり色々と癖ありな話と「東ゆう」というキャラを差し引いても、「可憐」とか「闊達」みたいなラベルができるような、わかりやすい「声」ではないのだ。

 

なかには、「まだデビュー2,3年目なのに」、論なんて張れるのか?と思う人もいることでしょう。それが張れるんです。前提が「デビュー数年目で既に帯域を特定できる」ほど特徴が明確だから。帯域的に説明できる人材という観点なら十分に論じる価値がある。つまり指数関数的に増えいく経験年数とか役の広さなんてものは重要だが、声を捉える時にはさしたるなんか問題ではなく、音響的座標がすでに明確に定義できる声優ということ。その観点でいえば若手も大御所も一列で扱うことができるし、実際そういう観点で進んでいるのが音響でしょうよ。

挿入歌の『なりたいじぶん』とエンディングテーマの『方位自身』どちらも聞けばわかるが、四位一体という構成といえど、東ゆうの声(結川あさき)って他の羊宮や上田、相川遥花と違って全然前景化してこないんですよね。

なりたいじぶん

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  • 東ゆう(CV:結川あさき), 大河くるみ(CV:羊宮妃那), 華鳥蘭子(CV:上田麗奈) & 亀井美嘉(CV:相川遥花)
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方位自身

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  • 東ゆう(CV:結川あさき), 大河くるみ(CV:羊宮妃那), 華鳥蘭子(CV:上田麗奈) & 亀井美嘉(CV:相川遥花)
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いい意味で。口語体と歌唱時が=ではないというか。いや=なんだけれども、中性的な声が軸にあるせいで、あまりにも分かりやすい羊宮の狙った可愛さや、聞き慣れすぎた上田の声、相川遥花の声も、結川的な低さはあるがまだ帯域としてはちょっと低い早見系だなって思える分、声としてはまだわかる

(つまりキャラとしてこういう声が当てられるという原則)。

 

でも、結川あさきって四人でハマる時でも全然前に出てこないというか、わからないんですよね。パート分けという概念的にみても。そしてそれは他三人に比べて「テノール」寄りの声だから。キャラとしてみた時に、あまりにも大河くるみ=羊宮妃那というのが、羊宮の声が前景のリリカルすぎるから余計に、対照的に可聴において差分を掴みやすい。多分こっそり結川あさきの声を差し引いても「歌」のバランスは案外崩れないなじゃないか。なぜなら女性音域におけるアルト〜ソプラノは他の三人が「声」として強いから。女性四声の中で結川が担っているのは、いわば中音域の地平線。他三人、つまり羊宮妃那(あまりもソフトでリリカル系アルトの延長線)、上田麗奈(中高域を乗せる表現型)、相川遥花(ソプラノ寄りでストレートな透明感)が、いずれも倍音の多い「可聴範囲」を形成している。

 

じゃあここにおいて、結川あさきの「声」ってどうなんだろという話です。中性テノール的アルト。テノール的音域の方が聞きやすく、それでありながら「少年」系が映える中性的表現を維持する女性声優というのは、あんまり見かけない。事実、『逃げ上手の若君』の北条時行なんかがそうですけど、ボーイッシュ的なクールさ、ではなく逆に男なんだけど声が判別が迷う、そういうキャラを演じたことからもわかるように、圧倒的に本域は「少年」か、「特殊な高音」が効くタイプの声なんですよ。そして、それは本人もインタビューにおいて以下のように認識している。

mantan-web.jp

 

「自分の声はどちらかというと中性的ではありますし、いつか少年役もやってみたいという思いがありました。まさか時行のようなキャラクターを演じさせていただけるなんて想像していませんでした。うれしかったです」

 

これはあくまでも帯域レベルでの部類だが、一番近いのは帯域の役者は、有名どころだと、大谷育江加藤英美里竹内順子新井里美、あとはオグリキャップ高柳知葉(この人も極端に高い声が合う一方で低音系がマジでいいし、その格が「オグリ」なわけですよ。だから捜査官系で低音だせば絶対合う)がそうかな。とりあえずこれらの「声」系譜です。絶対に。わからない人は上記の演者のサンプルボイスを一通り聞いてみてください。

 

数多の人が「ピカチュウのモノマネ得意」といってもただのモノマネに終わるが、結川あさきはそれが本当にそのタイプの声に該当する。結川自身もそれを言っているからこそ一回でいいのでピカチュウの鳴き声を披露して欲しいもんです。

加藤英美里はデビューの段階から『ネポスこどもCLUB』のネポから始まっていて、あれもいってみればマスコットキャラ、イマジナリーなお友達的なものから始まっているのも示唆的ですが、後の地縛霊と営業マン宇宙人の系譜が振り返れば、という意味合い。要するに一作目の印象というのは監督であっても声優であっても色付けには非常に大きく影響してくる。

 

その上で、アイムに記載されている役柄を一部引用してみます。

【アニメ】

・逃げ上手の若君(北条時行

・アオのハコ(島崎にいな)

・となりの妖怪さん(杉本睦実)

・ゲーセン少女と異文化交流(加賀花梨)

・紫雲寺家の子供たち(横山らら)

・クラスの大嫌いな女子と結婚することになった。(北条留衣)

・ATRI -My Dear Moments-(ミヨ)

・夜のクラゲは泳げない(真弓)

・WIND BREAKER(土屋美緒)

かくりよの宿飯 弐(竹千代)

【ドラマCD】

・勇者宇宙ソーグレーダー(勇之上平) 

まぁこの辺でいいでしょう。で、まず『逃げ上手』以上に実はファクターというか、結川あさきの「色」がでいてるのがドラマCDの『勇者宇宙ソーグレーダー』の勇之上平。これは、完全に明らかに少年の低域。作者の趣向が高い時行的なショタ系でもなく同時に、高音で可愛いではなく中低域で凛と立つタイプ。これです。完全に結川あさきの独占上の一つです。めっちゃいいですよ。 

ドラマCDはマイクも演技もストレートに素の帯域を聴けますし、この役の何が特筆すべきかというと中性的で無理のないピッチ感を保っている点。やはり男性声が女声を出せることはできてもそれが聴けるものとして提示できるのが少ないのと同様、女性声が男の声をだしても元々の声の構造はいいかもしれないが、情緒性でボロが出やすい。

まとめるならば

 

・男性声優が女性声を出すと「構造的に不自然」になりやすい。
・女性声優が男性声を出すと「情緒的に不自然」になりやすい。

このどちらも越えて、構造的にも情緒的にも自然な少年声を出せるのが結川。

 

いわゆる女性声が放つダウナーが近傍ではないのか?と思う人もいるでしょう。でもそれではだめなんですよ。(結川あさきがやれば完璧だしそれはラジオで証明済み)素で「少年」をだせる声というのはそれこそボーイッシュ・ダウナー系よりも少ない帯域。

ダウナーでいえば、『SSSS.ZYNAZENON』(2021年)に若山詩音が南夢芽を演じたときのあの感覚さこそがダウナーさの骨頂だと思うんです。つまり「らしさ」が気怠けに直列しているのであって、別に少年自体はない。儚さはあるけれど。

 

多くの女性声優が少年を演じる時、どうしても高域を軽くして息を混ぜ、軽さで若さを出そうとする。しかしそれではダウナー方向だけに傾き、声が立たない。結川は逆で、中低域を締めてピッチを安定させ、倍音の立ち上がりで若さを演出できる。つまり感情ではなく音響で少年を作れるのだ。地声に余裕があり、だから不自然が一切ないし、生まれない。結果、少年でありながら落ち着きと知性を感じさせる。「時行的ショタ」とも「ボーイッシュ女声」とも違う、第三の位置。逆が故に「壊れたキャラ」が上手い安済千佳の明るいバージョンというべきか、あの『クズの本懐』での演技帯域がもっと中性的になった声。それが故に生まれる演技を誇張せず、ナチュラルな中性。それがこのボイスドラマの真髄なわけです。おそらくメイン軸で将来、唯一無二の軸として活躍するのは第一にこの領域。結川あさきにオファーをする側はもっともっと低い声のキャラを当てるべき。絶対化ける。

 

それこそ同じアイムで言えば、清楚系としての声=早見沙織が少年役といってもピンとこないと思うんです。声が綺麗すぎて、「少年がいる」というより「綺麗な女性が少年の台詞を喋っている」というにならざるを得ない。逆をいえば、そういう演技が声質で可能な役者というわけです。

 

杉本睦実(『となりの妖怪さん』)とかは少女役なんだけど、そういう「らしさ」としての声が全くとまではいえないが、いわゆる「私可愛いでしょ」系の声としての帯域とはずいぶんとかけ離れている。「結川あさきのtime is funny」を聞けばわかるが、地声がそもそもという話。

結川あさき「TIME IS FUNNY」 | インターネットラジオステーション<音泉>

笑ってる時とかの意図してない無邪気さ的(人間的な意味ではなく無意識的にでる一種の発声)なところがどっちとも取れない。つまり意図的な発声とはまったく別の質感を持っている。笑っている時や、素でリアクションしている瞬間に出る声。あれが演技中の少年声や中性的発声と地続き。可愛らしさを出すキャラよりも地声で回した方が良い、というよりも「低く」発声させた方がいいという原理がでる。なんと形容すればいいか、演技を支える基盤が演じる前から中性なんだ。それが、地声→演技→歌唱の三層すべてに貫かれている。さて、ここまで行けば一つの共通点に辿り着く。そう、『名探偵コナン』の高山みなみ御大は、役柄では当然のこと、舞台にせよ、15周年のコナンラジオにせよ、NHKの「NHK +」の移行のアナウンスにせよ絶対に素が「江戸川コナン」さが残るんです。浴びるほど聴いた声なので余計過敏に反応できるという面はいなめないが、つまり、どのマイクを通しても「コナン」が聞こえる。低くなればなるほど味が出るし哲学的な声になっていくわけです。超越的な役者でありながらもその本質は声の帯域が少年向きであることに起因する。


これは「役の再現」ではなく「声質の宿命」。そして帯域で言えば結川あさきもこれと同じ素質があるということ。それこそ北条時行で、結川を知った人はかなり多いと思ううが、その層が地声を聞けば、全く同じ音響現象が発生する。

 

つまり、「コナンを演じる高山」ではなく、「高山という声がコナン帯域に存在する」
同様に、「時行を演じる結川」ではなく、「結川という声が時行帯域に存在する」

 

演技が声を作るのではなく、声が演技を定義する側。これは偶然ではなく、生理的な帯域の宿命であり、同時に音響的な必然。だからこそ、高山声はデビュー三年目で『魔女の宅急便』で一人二役ができる「構造」的な声があった。ということ。流石に超越的な例外ケースではありますが。

だから、無理に低い声を出そうして失敗するというあるあるな声真似っていうのはそれを証明している。元々帯域としてなければ再現性が不可能。例えば堀之紀の低さって男性でも真似できないほど低い。それを真似ようとすると男でもかなりきつい。だからといって、日笠陽子が低い声で威圧しても、それは支配的な「圧」の強さであり少年系にはなりにくい。そういうこと。つまり、音響的再現は「模倣」ではなく「構造の一致」が条件になる。以前に記事で述べたが、「声=音=構造」で結べるからこそ、Aを演じる役者ではなく、役者がの声がAの帯域に存在する、ということが成立するわけだ。

 

それが羊宮妃那の場合「歌と演技が=として架橋できる」という特殊性があるからこそ、論じる「声」としてはこちらも相当に大事という話が、これまでの話。そういう意味では「当たり前」なんだけど、案外見逃されがちということだ。

sai96i.hateblo.jp

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事務所のサンプルボイスでも特に核が出ているのは

「ナレーション➀」(時行調のオーディブル的素材)

「キャラクター②」(これめっちゃ大谷育江感が高い)

否定するわけではないが、それ以外のサンプルボイスはセリフと「風」なセッティングが結川あさきの幅の広さを出したいが故に、本粋の「低音」がないのが相当惜しい。キャラクター①「文化祭JK」キャラクター。例えばこれ、『アマガミ』でお出しされてもこのルートあんま人気ないだろうなっておもうくらい、「違うそうじゃない」という意識の方が強い。③は忍野忍系の老年女児系。吹き替え①は佐倉綾音系の「高圧」と「可愛さ」の同居系の音声、吹き替え②は早見沙織が合う調査隊系。もちろん、事務所のボイスサンプルは単調ではなく「色」のグラデーションを声で見せるものだからバリエーションをつけるのはいいのだが、ならばこそ「低音男子」は一本入れるべきであろうと思うのです。どこの声優の事務所サンプルは一応に「幅」を見せがち。それが機能するかどうかは演者に依拠するが、その意味では結川は幅より核が勝つタイプ。

「俺は逃げないよ。怖いのは当たり前。でも、歩くのは止めない。」

「選ぶことは、手放すことと同じだ。だからこそ、今日は静かに決める。」

などといったセリフの方が魅力は伝わる。ここを唯一押さえているのが『暗号学園のいろは』のコミックボイスだけなんですよ。前記事でも書いましたが、結川あさきの本質は自分の中では

東ゆう(高山一実)/北条時行(松井優征)/夕方多夕(西尾維新)という内容、キャラクターともに一筋縄では行かない奇才作家の軸足をすでに三本は持っている稀有な声優

なんですよね。つまり男子の方がすでに向いているし、結果出ているわけです。だから、文化祭JK・忍野系・高圧かわいいを頭出しされても、逆にそんなの適正でいえば上手い役者は他にいるわけですよ。それに対抗するなら、少年系で攻めた方が早い。個人的に思うのはサンプルに求められるのは「多彩さ」ではなく、「一発でキャスティングを想起させる核」だから、少年軸を先頭に据える方が圧倒的に戦略的なんです。端的に言えば、文化祭JKは正直、代替可能、少年核は代替性がそこまでない。

 

そんな結川あさきですが、唯一「全要素」が詰まっているものがある。

それは先ほど紹介したラジオの主題歌『ナイトワイライト』作詞作曲:結川あさき 編曲:村山シベリウス達彦という構成で組まれていることからもわかるように、自作で楽曲を構築し編曲家がそれをモノにするっていうありがちなあり方ですが、結川あさきの音楽の趣向がボカロ一点に集中しているタイプなので「どこかで聞いたことのがある展開」が結構あってそれはそれで面白いのですが、大事なのは、フレーズごとに声色を変えて歌っているところ。既聴感の中で唯一新しいのが声の構造変化

 

例えばイントロの

笑って泣いて night&day Tuesday 最終回の向こうで おやすみ まで眠らない 

今一度 息を吸い込んで 聴きなれた声を呼んでいる 不安も後悔も尽きないや今までを辿れば一瞬だ もう一度人生を回しだそうと今行こう

ねえ、まだ眠らないでいてよ 君の知らない話を 伝えにきたんだ ねえ、どうだろう? 笑ってくれたらいいな

と交互に低音(男性系)と高音(女性系)を使い分けて歌唱しているんです。最顕著は

声ひとつで明日に向かうよ 永遠の夜に魔法をかける 生涯 命懸け 周回ない 自分らしくでいいでしょう? 今はもう来ないと思うから ノータイム いつも大丈夫 ただ静かに 羽を休め 君の一瞬を 見せて大胆に

のフレーズですが、これ、要するに古くを言えばニコニコ動画の「歌ってみた」におけるタグで「両声類」というものがありましたけど、それに近い歌い方なんですよね。意識しているかどうかはさておき、高さが上がり下がりでの歌唱はその文脈にはいる。言い換えれば、「少年」帯域と「少女」帯域の統合。演技の両翼が1曲の中に折り込まれている。

 

しかもそれをご自身で骨格を作っている。これは明らかに自分の強みを活かしているんですよ。問題はまずこれは現時点で「音泉」のイベントでしか手に入らないイベントCDで、そういうのはサブスクも当然ないので(羊宮でいうところの『セレプロ』的な)、ラジオを聴くくらいしか確認方法がないこと。本当にもったいない。

ONSEN THEME SONG CD

これこそが結川あさきの現時点での表現最高傑作なのに。要するに『ナイトワイライト』は、意図性はともかくとして、結川あさきにおける音響的自己分析の完成形として言い切っていい。それに呼応する決定打がキャスティングとして出てないところ。『かくりよの宿飯 弐』では竹千代を演じられておりますが、本人が「中性的」なところを目指したとラジオで言っている通り、そういう役回り自体はきている。だからこそ、こっから「代表作」とまではすぐにいかずとも、印象づける役を「東ゆう」「北条時行」の次枠で欲しいという話です。もし男系で迷ったらアイムの「結川あさき」。これはここ5年で試せば、先行者ほど有利になる。その動線を藤田音響、明田川音響で開花させた今なのだから使わない手はないでしょう。『勇者宇宙ソーグレーダー』にとどまるだけでは味気ない。自分はこの役者にその可能性をかなり賭けているので、余計にそう思うだけなのかもしれないですけど。

 

当ブログでは羊宮 妃那の登場回数が多いですが、同じくらい注目株、というのはここにしっかりと入れているところかもわかると思いますし、結局「劇伴・声・音」の四人(上田麗奈/若山詩音/羊宮妃那/結川あさき/安済千佳)はこの記事でも登場するのは、狙ってるわけではなく、自分の中の座標であり「点」の代表者たちだからなんです。だから今や結川あさきも座標といっていいですね。

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結局、声とは再現ではなく存在の証明だ。
結川あさきという声が「少年帯域」に宿っているという事実は、演技以前に音響的な宿命であり、構造的な必然である。この帯域をどう活かすか。それは演出でもキャスティングでもなく、声そのものに問われている。「声=音=構造」という原理があるかぎり、結川あさきの未来は、すでにその声の中に書き込まれている。少年役が映えるのではなく、「少年を生む声」がある。その先陣(先鋒)として、彼女の声はこの5年の音響史を変えるかもしれない。強めに言えば、というか帯域のポテンシャルという意味に限れば、高山みなみが80〜90年代に確立した帯域を、令和以降に再定義しうる存在として結川が現れたという見立ても可能であり、個人的にはそう願うばかりです。

 

追記

<2025年12月4日>

細田守映画『果てしなきスカーレット』にクレジットがあり、心の中で「細田監督!!結川あさきをメイン側にお願いします!!」と叫びました。いや、嬉しいですね。

【データベース】TYPE-MOON(型月)作品の音響・音声史

最近、音響=声優というフレームワークで記事を出しているなかで、タイトル、スタジオ事にある種の「座組」があることは周知の事実であり、であればこそスタジオ単位や長期シリーズの音声史ってあるだろう、ということを思い当たり、音響監督とその系譜において、現在定着している「声」というものがどのタイミングにおいて規定され今なお作品の主軸として機能しているか、という視点を歴史立てても良いのではないかという意味も込めて色々なアニメ作品/スタジオ系譜を「データベース」としてまとめ上げることも、言ってみればそれはそれで重要であると思いたち様々なまとめをしています。その中ではさほど可変なく、一定の声を保ち続けているTYPE-MOON作品をまず第一弾としてまとめてみました。基本的には主軸のタイトルとそれに係るサブのドラマCDメインでいれております。型月はメディアミックスの初手がドラマCDから始まっているものもあり、そういうところを拾ってみると実は、アニメの音響監督「だけ」ではないというもなかなか面白いです。どのタイミングでどの声優が「型月組」の入ったのかというのは作品もそうですが、なかなか面白いと思います。〜の音響・音声史というのは、汎用性があるため今後も固定して流用していく予定です。

本データベースは「職能としての音響監督」を比較軸としています。そのため、劇場版 『Fate/stay night [Heaven’s Feel]』 は制作総括による音響統括であり、厳密な職能定義に照らして主年表から意図的に除外しています。ただし当三部作が初出となる演者の記録は尊重し、声優のみ掲載します。基本奈須きのこがメイン、関わりが強い作品のみに定めており、派生作はのぞいてます。

あくまでもデータベースなので、資料としての活用をお薦めします。

 

TYPE-MOON作品の音響・録音史 リスト
2003年『真月譚 月姫』 音響監督:明田川仁

鈴村健一遠野志貴

生天目仁美アルクェイド

折笠富美子(シエル)

伊藤静遠野秋葉

植田佳奈琥珀

かかずゆみ翡翠

2006年 『Fate/stay nightDEEN)』 音響監督:辻谷耕史

杉山紀彰衛宮士郎

川澄綾子(セイバー)

植田佳奈遠坂凛

諏訪部順一(アーチャー)

下屋則子間桐桜

門脇舞以イリヤスフィール

浅川悠(ライダー)

神奈延年(ランサー)

田中敦子(キャスター/メディア)

三木眞一郎(アサシン/佐々木小次郎

西前忠久(バーサーカー

関智一ギルガメッシュ

中田譲治言峰綺礼

中多和宏葛木宗一郎

伊藤美紀藤村大河

真殿光昭柳洞一成

神谷浩史間桐慎二

小山力也衛宮切嗣

水沢史絵美綴綾子

野田順子衛宮士郎〈幼少〉)

葛城政典(後藤/騎士)

阪田佳代(女生徒A

芦澤亜希子(女生徒B)

山縣里美(女生徒C/店員/アナウンサー)

小林勝也(魔術師)

辻谷耕史遠坂時臣・回想ボイス)

桑島法子(モードレット・回想)

能登麻美子(ベディヴィエール・回想)

2007年『Fate/stay night [Réalta Nua]』 録音監督 榎本 覚(WAYUTA)

杉山紀彰衛宮士郎) 

川澄綾子(セイバー) 

植田佳奈遠坂凛) 

諏訪部順一(アーチャー) 

下屋則子間桐桜) 

浅川悠(ライダー)

門脇舞以イリヤスフィール) 

西前忠久(バーサーカー) 

中多和宏葛木宗一郎) 

田中敦子(キャスター) 

三木眞一郎(アサシン/佐々木小次郎) 

稲田徹(真アサシン)

中田譲治言峰綺礼) 

神奈延年(ランサー) 

津嘉山正種(間桐臓硯) 

伊藤美紀藤村大河) 

水沢史絵美綴綾子) 

神谷浩史間桐慎二) 

真殿光昭柳洞一成) 

結本ミチル蒔寺楓) 

中尾衣里三枝由紀香) 

中川里江(氷室鐘) 

宮川美保(リーズリット) 

寺田はるひ(セラ) 

小山力也衛宮切嗣) 

野田順子(士郎〈幼少期〉) 

田村ゆかり(ルヴィアゼリッタ)

2007年–2013年 『空の境界』劇場版 音響監督:岩浪美和

坂本真綾両儀式

鈴村健一黒桐幹也

本田貴子蒼崎橙子

藤村歩黒桐鮮花

中田譲治荒耶宗蓮

田中理恵(巫条霧絵/第一章「俯瞰風景」)

能登麻美子浅上藤乃/第三章「痛覚残留」)

東地宏樹(秋巳大輔/第五章「矛盾螺旋」)

水樹奈々黄路美沙夜/第六章「忘却録音」)

置鮎龍太郎玄霧皐月/第六章「忘却録音」)

井口裕香(瀬尾静音/第六章・『未来福音』)

石田彰(瓶倉光溜/『未来福音』)

2008年–2010年 『Sound Drama Fate/Zero』 音響監督:榎本 覚/音響制作:ブレイブハーツ

小山力也衛宮切嗣

川澄綾子(セイバー)

大原さやか(アイリスフィール・フォン・アインツベルン)

速水奨遠坂時臣

関智一(アーチャー/ギルガメッシュ

中田譲治言峰綺礼

山崎たくみ(ケイネス・エルメロイ・アーチボルト)

豊口めぐみ(ソラウ・ヌァザレ・ソフィアリ)

緑川光(ランサー/ディルムッド・オディナ)

浪川大輔ウェイバー・ベルベット

大塚明夫(ライダー/イスカンダル

石田彰(雨生龍之介)

鶴岡聡(キャスター/青髭

新垣樽助(間桐雁夜)

置鮎龍太郎バーサーカーランスロット

恒松あゆみ(久宇舞弥)

広瀬正志(言峰璃正)

伊藤葉純(遠坂葵)

津嘉山正種(間桐臓硯)

門脇舞以イリヤスフィール・フォン・アインツベルン)

植田佳奈遠坂凛

下屋則子間桐桜

阿部幸恵(アサシン)

川村拓央(アサシン(ザイード))

西川幾雄(グレン・マッケンジー

藤本譲(アハト翁/ユーブスタクハイト)

2010年『Fate/stay night - UNLIMITED BLADE WORKS』(DEEN) 音響監督:辻谷耕史

杉山紀彰衛宮士郎

川澄綾子(セイバー)

植田佳奈遠坂凛

諏訪部順一(アーチャー)

下屋則子間桐桜

門脇舞以イリヤスフィール

伊藤美紀藤村大河

神谷浩史間桐慎二

浅川悠(ライダー)

小山力也衛宮切嗣

田中敦子(キャスター)

中多和宏葛木宗一郎

西前忠久(バーサーカー

中田譲治言峰綺礼

三木眞一郎(アサシン/佐々木小次郎

神奈延年(ランサー)

関智一ギルガメッシュ

早見沙織(アナウンサー)

2011年–2012年 TV『Fate/Zero』 音響監督:岩浪美和

小山力也衛宮切嗣

川澄綾子(セイバー)

大原さやか(アイリスフィール)

速水奨遠坂時臣

関智一(アーチャー/ギルガメッシュ

中田譲治言峰綺礼

山崎たくみ(ケイネス・エルメロイ・アーチボルト)

豊口めぐみ(ソラウ・ヌァザレ・ソフィアリ)

緑川光(ランサー/ディルムッド・オディナ)

浪川大輔ウェイバー・ベルベット

大塚明夫(ライダー/イスカンダル

石田彰(雨生龍之介)

鶴岡聡(キャスター/青髭

新垣樽助(間桐雁夜)

置鮎龍太郎バーサーカーランスロット

恒松あゆみ(久宇舞弥)

門脇舞以イリヤスフィール

広瀬正志(言峰璃正)

伊藤葉純(遠坂葵)

津嘉山正種(間桐臓硯)

渡辺明乃(ナタリア・カミンスキー

阿部彬名(アサシン(百の貌のハサン)※分身ボイス)

川村拓央(アサシン(百の貌のハサン)※分身ボイス)

図師晃佑(アサシン(百の貌のハサン)※分身ボイス)

島﨑信長(アサシン(百の貌のハサン)※分身ボイス)

村上裕哉(アサシン(百の貌のハサン)※分身ボイス)

山本格(アサシン(百の貌のハサン)※分身ボイス)

野坂尚也(アサシン(百の貌のハサン)※分身ボイス)

佐々木義人(アサシン(百の貌のハサン)※分身ボイス)

桑畑裕輔(アサシン(百の貌のハサン)※分身ボイス)

野間田一勝(アサシン(百の貌のハサン)※分身ボイス)

松本忍(アサシン(百の貌のハサン)※分身ボイス)

西川幾雄(グレン・マッケンジー

藤本譲(アハト翁/ユーブスタクハイト)

楠見尚己(フィン・マックール)

中川里江(グラニア)

峰あつ子(マーサ)

大木民夫(大王)

瀬戸麻沙美(コトネ)

清水秀光(職員)

岡田栄美(TV音声)

菊本平(隊長)

武田幸史(副隊長)

大原桃子・冨樫かずみ五十嵐裕美・星野早・赤﨑千夏(子ども・男女ボイス)

2013年–2016年『Sound Drama Fate/EXTRA』 音響制作:榎本 覚/音響制作:ブレイブハーツ

阿部敦(岸波白野)

丹下桜(セイバー(ネロ・クラウディウス))

植田佳奈遠坂凛

神谷浩史間桐慎二

鳥海浩輔(アーチャー)

斎藤千和(キャスター/玉藻の前)

2013年『Fate/EXTRA CCC音響監督:榎本 覚/音響制作:ブレイブハーツ

下屋則子(BB) 

早見沙織(メルトリリス) 

小倉唯(パッションリップ) 

田中理恵(殺生院キアラ)

2014年『Fate/stay night [Unlimited Blade Works]』 (ufotable)音響監督:岩浪美和

杉山紀彰衛宮士郎

植田佳奈遠坂凛

川澄綾子(セイバー)

諏訪部順一(アーチャー)

門脇舞以イリヤスフィール

下屋則子間桐桜

神谷浩史間桐慎二

中田譲治言峰綺礼

関智一ギルガメッシュ

神奈延年(ランサー)

浅川悠(ライダー)

田中敦子(キャスター)

三木眞一郎(アサシン/佐々木小次郎

2015年-『Fate/Grand Order』音響制作:ブレイブハーツ

伊丸岡篤(ゴルドルフ・ムジーク)

坂本真綾レオナルド・ダ・ヴィンチ

鈴村健一(ロマニ・アーキマン)

高橋李依(マシュ・キリエライト)

米澤円(オルガマリー・アニムスフィア)

 

2016年 TVSP『Fate/Grand Order -First Order-』音響監督:高寺たけし

島﨑信長(藤丸立香)

高橋李依(マシュ・キリエライト)

米澤円(オルガマリー)

鈴村健一(ロマニ・アーキマン)

杉田智和(レフ・ライノール)

神奈延年(クー・フーリン)

諏訪部順一(エミヤ)

浅川悠(メドゥーサ)

川澄綾子(セイバー・オルタ/フォウ)

 

2017年 TVSP『Fate/Grand Order -MOONLIGHT/LOSTROOM-』音響監督:高寺たけし

島﨑信長(藤丸立香)

高橋李依(マシュ・キリエライト)

米澤円(オルガマリー)

鈴村健一(ロマニ・アーキマン)

杉田智和(レフ・ライノール)

2017–2020年 劇場版『Fate/stay night [Heaven’s Feel](I.presage flower/II.lost butterfly/III.spring song) (職能上の音響監督クレジットなし) 

稲田徹(真アサシン)

沢木郁也(キシュア・ゼルレッチ・シュバインオーグ)

上田燿司(遠坂永人)

立花慎之介(マキリ・ゾォルケン〈若い姿〉)

茅野愛衣(クラウディア・オルテンシア)

2018年『Fate/EXTRA Last Encore』音響監督:鶴岡陽太

阿部敦(岸波白野)

丹下桜(セイバー/ネロ)

植田佳奈遠坂凛

神谷浩史間桐慎二

下屋則子間桐桜

鳥海浩輔(アーチャー)

高乃麗(ライダー)

水島大宙(ガウェイン)

真田アサミ(ラニVIII)

朴璐美(レオナルド・B・ハーウェイ)

羽多野渉(ユリウス・B・ハーウェイ)

東地宏樹(トワイス・H・ピースマン)

2021年 『月姫 -A piece of blue glass moon-』 音響監督:榎本 覚/音響制作:ブレイブハーツ

市ノ瀬加那翡翠

金本涼輔(遠野志貴

桑原由気琥珀

下地紫野遠野秋葉

長谷川育美(アルクェイド・ブリュンスタッド

本渡楓(シエル)

2019–2020年 TV『Fate/Grand Order -絶対魔獣戦線バビロニア-』音響監督:岩浪美和

島﨑信長(藤丸立香)

高橋李依(マシュ・キリエライト)

坂本真綾レオナルド・ダ・ヴィンチ

鈴村健一(ロマニ・アーキマン)

関智一ギルガメッシュ

小林ゆう(キングゥ/エルキドゥ)

櫻井孝宏(マーリン)

植田佳奈(イシュタル/エレシュキガル)

浅川悠(アナ/ゴルゴーン)

内山夕実(シドゥリ)

早見沙織(牛若丸)

稲田徹武蔵坊弁慶

三木眞一郎(レオニダス一世)

伊藤美紀ジャガーマン)

遠藤綾(ケツァル・コアトル)

2020-2021年 劇場版『Fate/Grand Order -神聖円卓領域キャメロット-』音響監督:明田川仁

宮野真守(ベディヴィエール)

島﨑信長(藤丸立香)

高橋李依(マシュ・キリエライト)

坂本真綾レオナルド・ダ・ヴィンチ

川澄綾子獅子王

水島大宙(ガウェイン)

沢城みゆき(モードレッド)

置鮎龍太郎ランスロット

内山昂輝(トリスタン)

安元洋貴(アグラヴェイン)

子安武人(オジマンディアス)

田中美海(ニトクリス)

小松未可子玄奘三蔵

鶴岡聡(アーラシュ)

稲田徹(呪腕のハサン)

千本木彩花(静謐のハサン)

鈴村健一(ロマニ・アーキマン)

2021年 劇場アニメ『Fate/Grand Order -終局特異点 冠位時間神殿ソロモン-』音響監督:岩浪美和

島﨑信長(藤丸立香)

高橋李依(マシュ・キリエライト)

川澄綾子(フォウ)

鈴村健一(ロマニ・アーキマン)

坂本真綾レオナルド・ダ・ヴィンチ

杉田智和(ソロモン)

2021年『MELTY BLOOD: TYPE LUMINA』Voice Director:榎本覚

金本涼輔(遠野志貴

長谷川育美(アルクェイド

下地紫野遠野秋葉

本渡楓(シエル)

市ノ瀬加那翡翠

桑原由気琥珀

2022年 『魔法使いの夜』ボイス版 Voice Director:榎本 覚

小林裕介(静希草十郎)

戸松遥蒼崎青子

花澤香菜久遠寺有珠)

青木瑠璃子蒼崎橙子

種﨑敦美(ルゥ=ベオウルフ)

安済知佳(久万梨金鹿)

梶川翔平(木乃実芳助)

深町寿成(槻司鳶丸)

 

2023年 TVSP『Fate/strange Fake -Whispers of Dawn-』Voice Director:土屋雅紀

花澤香菜(アヤカ・サジョウ)

小野友樹(セイバー)

諸星すみれ(ティーネ・チェルク)

関智一(アーチャー(ギルガメッシュ))

小林ゆう(ランサー(エルキドゥ))

古賀葵(繰丘椿)

羽多野渉(オーランド・リーヴ)

森久保祥太郎(キャスター)

橘龍丸(ジェスター・カルトゥーレ)

Lynn(アサシン〕

松岡禎丞(フラット・エスカルドス

堀内賢雄(バーサーカー)

内田真礼(フランチェスカ・プレラーティ)

榎木淳弥(ファルデウス・ディオランド)

梶原岳人(シグマ)

小西克幸(ハンザ・セルバンテス)

 

TV『Fate/strange Fake』全キャスト(偽/真・真名)Voice Director:土屋雅紀

人間側/その他

花澤香菜(アヤカ・サジョウ)

小野友樹(セイバー:True/リチャード1世

関智一(アーチャー:False/ギルガメッシュ

小林ゆう(ランサー:False/エルキドゥ)

森久保祥太郎(キャスター:False/アレクサンドル・デュマ・ペール

Lynn(アサシン:False/ハサン・サッバーハ

堀内賢雄バーサーカー:False/ジャック・ザ・リッパー

松岡禎丞(フラット・エスカルドス)

榎木淳弥(ファルデウス・ディオランド)

内田真礼フランチェスカ・プレラーティ)

羽多野渉(オーランド・リーヴ)

小西克幸(ハンザ・セルバンテス)

梶原岳人(シグマ)※真ランサー枠に関わるキーパーソン(ウォッチャーのマスター)。

土屋神葉(ジョン・ウィンガード)

咲野俊介(ランガル)

古賀葵(繰丘椿)

浪川大輔(ロード・エルメロイⅡ世)

サーヴァント(役者名〔偽/真・クラス/真名〕)

False(偽りの聖杯戦争)側

小野友樹(偽・真(混成)セイバー/リチャード一世※セイバーは“偽/真の混成”として扱われる特殊枠。

関智一(偽アーチャー/ギルガメッシュ

小林ゆう(偽ランサー/エルキドゥ)

【声優未公表】(偽ライダー/ペイルライダー)

森久保祥太郎(偽キャスター/アレクサンドル・デュマ・ペール

Lynn(偽アサシン/真名=“名を捨てたため無し”扱いが妥当)

堀内賢雄(偽バーサーカージャック・ザ・リッパー

True(真の聖杯戦争)側(原作既知/TV版CVは現状未公表)

小野友樹(真セイバー/リチャード1世

【声優未公表】(真アーチャー/アルケイデス〔ヘラクレス〕)

【声優未公表】(真ライダー/ヒッポリュテ)

【声優未公表】(真キャスター/フランソワ・プレラーティ)

【声優未公表】(真アサシン/幽弋のハサン〔ハサン・サッバーハ〕)

【声優未公表】(真バーサーカー/フワワ〔フンババ〕)

【声優未公表】(真ランサー/未召喚・空席。将来的にシグマが生身で真ランサー化する可能性が示唆)

【声優未公表】(ウォッチャー/真名未公開)

 

 

 

 

 

 

【アーカイブ】『傷物語〈こよみヴァンプ〉』トークイベント

『レゼ篇』の音響話の地続きで本当に申し訳ないのだが、やっぱり真面目に名倉音響を語るうえで、直系の師である鶴岡陽太の仕事線は避けて通れない。

前回は『聲の形』において山田尚子×鶴岡陽太が「is版」を円盤収録へと後押しした経緯を手がかりに、その思想性、つまり牛尾の自我音響というものを確認しました。

sai96i.hateblo.jp

今回は射程を『傷物語こよみヴァンプ〉』へ移し、鶴岡が同作でどのような音響設計に勤しんだのかを、尾石達也×小黒祐一郎トークの発言にあったことを思い出したのでこちらも、急遽アーカイブとして残すことにしました。

同時に、総集編には不参加ながら三部作本編で録音を担った名倉靖の仕事を照応として捉え、名倉音響を考える際の資料としても、活用できるかなと。作品論として面白いイベントでしたし。

こちらも逐語よりではあるが、前回同様、進行形でとるメモというのは本当に乱雑にしかなりません。それが軸なので、文章が変なところもがあります。その点はご了承ください。ただ、文章をまとめたのはイベントが終わってすぐだったので、今回のために記憶を巡らせたというわけではないので、そういう意味では熱気はそのままに近いです。


www.youtube.com

作品としての総合的な完成度やインパクトでいえば、正直言えば、山田尚子の『聲の形』や尾石達也の『傷物語』という怪物級には敵わない。

ただし音響アニメという観点に絞れば、『レゼ篇』は明らかにその継承線上に位置づけられる。良し悪しの比較ではなく、設計思想の系譜として。

「聲=保存」「傷=逸脱」「レゼ=架橋」がある感じとでも言いますか。名倉靖が録音で正反対ともいうべき二作品を経験している事実も含めて、最新作が単独で浮かぶんじゃなく、系譜と照応しながら位置づけられるはずであると。


<本編>

小黒: いつか「アニメスタイル」で開催しようと思っていた。新文芸坐の画角でないと映えない映像スタイルな作品でもある。

 

尾石: 小黒さんとの対談が感慨深い。『ぱにぽにだっしゅ』〜『絶望』に至るまで世話になってた。

 

小黒: アニスタで6回ほど取材したが、こういう形で話すのは今回が初。諸般の事情により「新千歳空港国際アニメーション映画祭」に先を越された。

 

尾石: 会った時には既に有名人だった。その上でかなりイけている時代の作品を評価・支持されたことが嬉しかった。

 

小黒: 記事にはならなかったけどね。

 

小黒: 『絶望先生』の時に脚本を描く時に原作者が顔通しする時があった。その時に「人としての軸がぶれている」の映像だけは完成しており、尾石さんも顔合わせをする時だった。すごく「目がいっちゃってる人が、達成感のある顔をしている」姿をみて。大変なことをしているなぁと。

 

小黒: 何らかの時にあった時に『傷物語』の三部作の絵コンテが上がってきた。「一本の絵コンテでこんな時間かかってしまってどうするの?」って聞いた時に「僕はこんかいのこれで映画というものがわかりました。だから次はすぐ描きます」ってことをこの前伝えたら、、

 

尾石: 大馬鹿野郎ですよね。結局今悩んでいるわけだから。でもその時は達成した気持ちだった。

 

小黒: 俺は映画の秘密を掴んだ!!って感じでしたよ。

 

尾石: 本当、その時に戻って聴きたいですよね

 

小黒: お前が掴んだのなんだったんだってw。これからやる絵コンテが3時間の絵コンテになるから、それに比類する長尺な映画を見るっていってましたよね 『涼宮ハルヒの消失』見ましたとか。

 

尾石: いっていましたね。だからやる前に研究するんですよね。まずは『吸血鬼 ノスフェラトゥ』(1922年)から見て、あの当時は『ぼくのエリ 200歳の少女』(2008年)くらいまで一通りみました。そこから考えていった。

 

尾石: 最近忘れが激しい。『傷』で羽川が両手を広げながらバタバタと風にあおられるシーンがあるがあれはフェリーニの『8 1/2』のマルチェロ・マストロヤンニが空を飛んでてバタバタっと煽られるカットにしたく、昔の印象として残っていた。あのシーンは佐藤浩一さんが描いてくれた画、打ち合わせの時にビデオをもっていってみせて「こういうふうにして」と頼んだら全然異なっていて、最終的にいいようにお願いしますという形に落ち着いた。

 

小黒: 元々2時間でまとまる脚本があがっていてそれが絵コンテで3時間オーバーという話じゃないの?

 

尾石: 違います。最初シナリオは4時間あった。『化』をボロボロになってやっている時に『傷』のシナリオ会議が行われていたらしいという情報があった(知らされてなかったが)そして終わったら「これをやりなさい」と言われた。 その時には映画であることは決まっており、シナリオも極力原作網羅をする形で、ページ数的に「これ4時間超えると思うんですけど?」って新房さんに聞いたら「じゃあ4時間の映画つくればいいじゃん」と言われた。 それで「これはちょっとまずいな」と思い自分でシナリオを再編集という作業にはいった。 だから決してコンテで長くなったわけではなく、シナリオ段階で長かった。

 

小黒: 脚本のまとめ直し→コンテ描きで結果的にコンテで時間がかかった。

 

尾石: そうですね。だから待っていただいた方には申し訳ないと思っている。ただ、やはり『化』をずっとやっていたものですから

 

小黒: 配信組はオンエア時の空気を知らないと思うが、ちょっと違って緊張感がありました。配信日1日延長しますとか

 

尾石: 自分が入った段階で『化』は時間がなかった。ただ、「やるんだったら全部自分の美意識でまとめる」と それまでは作品の余裕を考える余地があった。『化』はそのくらい大変だった。 例えば『化』ではお札に「赤瀬川」とあった。それって赤瀬川原平っていう現代芸術家がいて「偽千円札裁判」というものがありそのオマージュで描いているのだけど、それもだから思いつきでオペレーターに言っているわけだから描いている側はよくわかってない。美内が終わった後に「ちょっと美内とは違うんですけど、りんたろうの作品みたいな黄色い空みたいにしてください。」みたいな感じで思いついたことをひたすらやっていく。 戦場ヶ原に思い入れてしまい、デート回の服装などはファッション誌などを参考に、バッグは黄色いバッグであったりと、こうでああでというかたちで考えて作っていった。こういった『化』でボロボロになった後の『傷』だったので辛かった。しかし惚れた弱みっていうかさ、、ほら『機動戦士ガンダム』でアムロが命令違反で独房に入れられる時に(第19話 「ランバ・ラル特攻!」)「僕が一番ガンダムを動かせるのに!!」という気持ちで「僕が一番『傷物語』を動かせるのに!!」という気持ちに。

 

小黒: 整理すると、時間もない中やった『化』が終わった後、次は1から構築したいという思いで『傷』になるわけですね?

 

尾石: そうですね。『化』とは違うスタイルを目指しました。同じことをしたくないし(演出映像スタイル含めて)。 その時自分がイけている映像を作りたいと思っていた。その時一番自分がいいと思うイメージを元に作っていった。よく学習塾の形が違うとか暦の家が違うと、色々と言われていますが、自分の中では「『銀河鉄道999』における星野鉄郎の顔が違う!!」とか、「『ガンダム』のGアーマーコアブースターになっている!!」みたいなものが劇場版だから、そういう感覚で作っていった。

 

小黒: 背景がフォトリアルなのは?

 

尾石: エスカレーターのイメージがあった。その金属感を出したかった。そしてそれは手描きではない。 水、金属を素材として出したくてCGになりました。

 

小黒: 要するに『傷』のアヴァンギャルド感は「ほぼ実写」な世界に手描きのキャラクターがいることで生じる不思議な感覚がそれに繋がっていると思う。ガチガチなリアルにしたかったわけではない??

 

尾石: 自分の美意識の中ではそれはおかしくないこと。TVシリーズを作ってる時だって写真を貼っていたりしていた。アニメでは少ないかも知れないが、古典というか、技法としては確立されていたわけですよ。 割と子供の時から(小黒から『モンティパイソン』があがりそれも頷きながら)『トムとジェリー』がすごく好きでみていたら間にテックス・アヴェリー(カートゥーン黄金期のアニメーター)が実写と合成を当たり前に挟んでいて、幼少からそれがおかしいものとは思わなかった。一方でシャフト演出時代はそもそも時間がなかった。 『月詠』のとき、カッティングを行うのが三日後といったスケジュールで、三週間でオンエアというスケジュール 海外で動画を待つしかない。しかし中1日であがる動画って色々と絵が溶けている。生理的に許せない。であればそこは写真をはったほうがいい。『傷』をやっているときは「『恐竜大戦争アイゼンボーグ』みたいなのでいいんですよ」っていってました。あれは実写の中にアニメキャラが出てくるんです。それにしたかった。潔いし

小黒: 実写フォトリアルにセル画キャラがいることで現実を剥き出しにしてみたいというのはあるんじゃない?

 

尾石: どうなんだろう。そっちの方が面白いとおもった。もっとキャラクターを手描きにした方がいいと思った。

 

小黒: キャラもシリーズよりもリアルだしね。

 

尾石: それは守岡さん(作画監督)などの影響がありますね。そうして欲しいといったようも気もしますが。 アニメにはキャラクター表がありますが、それをみながら描かないでくれとはいったかも。どっちかっていうと絵コンテに近い感じで描いてくれという感じ。

 

小黒: アヴァンギャルドにしたいという思いはなかった?それは結果?

 

尾石: どうなんですかね。小黒さんは自分のことを「アヴァンギャルドな作家」として評価してくださっていますが、どうなんでしょう、、尖ったものを作りたい、見た人に驚いて欲しいというような思いがある。 作家には2タイプいると思っていて、自己優先型と観客に喜ばれたい型。自分は後者であり、シャフト演出時代にすケージュル時間がないなかで生み出した技法もあいまった結果。『ひだまりスケッチ』をやっていたときの話で、まず『ねぎま』のオープニングと第5話の絵コンテ・演出が終わったとき、元々作品が多数いて出席番号と名前全部を覚えた瞬間に新房さんとシャフトの社長に「今日から君は『ひだまりスケッチ』をやりなさい」と言われて、それが11月で、オンエアを聞いたら1月。その段階で美術設定がなく、、、だが当時はイケイケの時だったから、時間がないことを逆手にとって、「じゃあ全部自分よりに染めてやろう」という気概になった。美術設定が終わって2話の絵コンテが12月の頭で1月オンエア、コンテがあがり12月31日。除夜のかねを聴きながら打ち合わせなどをして二週間で作るという。逆手にとるという段階をとっているので全部止め絵、その代わり500カット内200カットを守岡くんに描いて貰えば何となるみたいな。そこで色々と試していく。 トイレの止め絵→黄色色コマ→音を流す→ということで、描写表現をするなど、色々と時間のなさを活用していました。そういった部分が「アヴァンギャルド」という評価に繋がっているのかなぁと。

 

小黒: 時間がない中で写真を使うということ自体に驚いて欲しいという思いはあるわけでしょ?

 

尾石: もちろん。実写とアニメは似ているようで方法論が違う。実写で「すごいロングのキャラがいる」→次のカットでクロースアップすると「どき!!」なるがあの感覚がアニメは決定的にだせない。 羽川が骸骨でトンと出る描写があるがあれはアニメ絵で描いてもその驚きは出ない感覚。だから実写にしている。

 

小黒: 日本の国旗などもセルではダメなんですね。

 

尾石: 無機物は手描きにしたくない。セル画は有機物という描き方という感覚。 昔のアニメって本とかがそうだけど、手書きで書いてあったりして自分としては気持ちが悪くって、間の装丁でっていうことがしたい。 全然関係ないですけど『となりのトトロ』で金田パートあるじゃないですか。コマで飛ぶシーンで、お父さんが仕事しているじゃないですか。その本棚に「著者 金田伊功」ってあって、びっくりしてそれをよく宮崎さんが許したなと。

 

小黒: それでこのパート全部金田さんってわかるわけですね。

 

尾石: そうそう、金田さんもよく自分の名前書いたなって思いますけど

小黒: ストレスたまってたんじゃない?生前に伺っただけどジブリの仕事は己を殺さないといけないから辛いといっていた。 話変わりますが、丹下健三さんの建築美術はどの段階で?

 

尾石: 絵コンテ入る前ですね。

 

小黒: そもそも順番として震災があったときは絵コンテに入る前?

 

尾石: 脚本をいじってた。

 

小黒: これまでインタビューで日本をテーマにした。生きづらい世界だけど、その中でどのように生きるかという思いがあってからの丹下美術なのか?もともとなのか?

 

尾石: 時系列っていうよりか、、自分は理論よりイメージがくる。絵コンテ描く前からエスカレーター見えてたし、最終盤シーンでああいった舞台でバトルをすることも決めていた。序盤のころに学習塾を巨木が回転するカットが浮かんだ。これは他でも言っていると思うが、それが『傷』のとっかかりになるのではないか?震災とは別にそもそもイメージで使えるものを美設の武内さんと色々と探していた。メインイメージが『未来少年コナン』の三角塔に木が生えている感じで、ある日山梨文化会館に向かってみたら、ガイドさんから「これ、『未来少年コナン』の三角塔のモデル担った建物なんです」っていわれた瞬間に必然に変わったような気がして、要するに『化』はモダン(コルビュジエとか)、今回は「日本縛り」にしよう→だから同じように『化』でヌーヴェルヴァーグのイメージだったから今回は「じゃあヌーヴェルヴァーグの影響下にあった60年代の邦画にフォーカスしようと。

 

小黒: タイトル知りたい

 

尾石: それこそ吉田喜重とか

 

小黒: 『エロス+虐殺』(1969年)

 

尾石: そうそう、、とかね、、『煉獄エロイカ』(1970年)とかさそのあたりのイメージです。だから日本縛りがあっての丹下引用という形。

 

小黒: そのあたりで順番はわからないが震災と日本縛りということと、6、70年代という景気が良かった日本だったりと、色々と合わせて「日本テーマでまとまる」とどっかで思いついたわけね

 

尾石: そうですね。『傷』に入るときにどうしても阿良々木暦の気持ちが掴めなかった。まず逃げればいいのに助けて、殺してくれって頼んでるのに、添い遂げるじゃないけど助けてしまう。その気持ちがわからなかった。 ただ、そんなときに3.11があり、福一が爆発して大変になり、活気があるころの小名浜もしっていたため、『傷』は価値観が逆転する話だと思った。そのときに不謹慎かもしれないが阿良々木暦の心境が理解できた気がします。

小黒: 何度か見ておもったが、「人間はいつ吸血鬼に晒されるかわからないという手段をとったという道を選んだ」これはメタファーとして原発との共生を重ね合わせているの?

 

尾石: うーん、キスショット自体が原発のような、こんなことになるとはっていう感じ、いわゆる制御不能な怪物というのが原発と重なることがあった。

 

小黒: そういうこともあって日の丸を引用することで「これは日本の映画です」と。だからキービジュアルでもそうすると

 

尾石: そんな感じですね。だいぶ忘れてしまいましたけどね。

 

小黒: この映画のいけているところは、いきなり赤ん坊の声が入るとか色々あるが、それも意味があると思っているがどうなんですか?

 

尾石: 全部に理由はないが、嫌なことはいれない。好きなことでまとめるという意識でやっている。ドラマツルギー戦で「野球のカットの音」が入るが、あれは『巨人の星』のオープニングのイントロ。しかしダイビングの時に田中さん(音響効果)は音のプロだからそのわけがわからなさに嫌がられて、音響監督の鶴岡さんもあんまりも揉めているから外で話してきてっと言われて話したけど「やりたいんです、、」しか言えなかった。結構そう言った衝動はある。 理屈よりもインスピレーション。迷ったらインスピレーション。 『こよみヴァンプ』では落としたが、羽川がトマトのサンドウィッチを作ってくると。あの件は西尾さんの原作にはない。(『あしたのジョー2』で林 紀子がサンドウィッチを作る描写意識) 吸血鬼でトマト繋がり、「吸血鬼は人間を捕食、人間も何かを捕食」という描写となれば、あれしかないと思った。 エピソード戦の「ははははは」も黄金バットのオリジナルの音を使いたいわけだが、、できないから入野さんに再現をしてもらった。あのカットも過去にみた怪奇映画の引き出しです。なにかはわからないけど。

 

小黒: 羽川のシーン(体育館のくだり)については?

 

尾石: 三部作を見てもらえれば。

 

小黒: 元々、尾石さんの中ではあのシーンは違和感があったんだよね?

 

尾石: 原作を読んで、なぜここでそういうふうになるのかがわからない。悩みどころだったけど しかしそこを無くすと、客はがっかりすると思ったわけです。行動原理として繋がらない。だから自分を納得させるために、『傷』はテレビ版とは異なっている。そこで分け目を描き方を変えることで納得させた。やるなら徹底的に。堀江さんには申し訳ないんですどね、、清純派のイメージがあったので。コンテ描いている時も演じてもらえるのだろうかという思いはあった。が中途半端にはいかない。だから『こよみヴァンプ』は『化』でひたぎにフォーカスしたこともあって、12話以降は羽川に意識して描いていった。 『傷』だとキスショットがメインになるわけだが、今度は坂本さんに申し訳なくなって、命乞いのシーンのお願いをしたら「やりたくない!!」といわれて、、ただそれはその時にしかでいない芝居をなさっているからで、、、 しかし都合上もう一回という形をとった。 音と動きが合わせている以上、全部切ると全部作り直しになるから切れるところと、そうでないところが明白。 再アフレコも編集したところだえ。

小黒: 今後はこういうスタイルになるか、違ってくるのか

 

尾石: 作品は作る時に気負って作る(大傑作をつくる)。一つあるのは『傷』の先をいきたい。2025年で一番いけている作品を作りたい。

 

小黒: スタイルは変わるかもしれないが、、、

尾石: とてつもなく時間はかかるかもしれないが、、自分でいっていきたいのは『傷』が恵まれていたのはスタッフ 絵コンテは孤独だが、実制作側の仕方記憶しかなく、それは関わってくれたスタッフが自分と同じ熱意で取り掛かってくれたから。だからこのフィルムがすごいというのはスタッフのおかげ。故にアニメは一人では作れない。 そういう縁を大事にしていきたいですね。作らせもらえるのであれば。

小黒: じゃあ、もう手直しをしたいシーンはないですね?

尾石: 『傷物語』はやりきりました。

 


 

<おわりに>

結局のところ、『聲の形』の〈is(inner silence)〉にせよ『傷物語』にせよ、鶴岡陽太は音の決定が交差する節点として機能している。『聲の形』では〈is〉を5.1ch特典として残す判断を後押しし、劇伴/環境音/無音の配列そのものを作品装置へと引き上げた。

一方『傷物語』では、実写的SFX(=SE)や引用SEをめぐる演出×効果の綱引きにおいて、極端な音を最終的に通す調停役かつ保証人として立つ。無機物を手描きにしない画作りが質感の断層で衝撃を立ち上げるなら、音はその衝撃を可聴化している。

実際、野球の打球音や黄金バットの笑声といった「異物」は映画的リズムとして定着しており、そこには「音を意味ではなく運動として通す」鶴岡の現場判断の連続性がある。

 

音主導としての『聲の形』is版 →鶴岡(音響)←映像主導の『傷物語

音主導の『聲の形』is版と映像主導の『傷物語』いずれのプロセスでも、最終的に音で画面の見え方を組み替え、映画の運動へ束ねたのは音響監督・鶴岡陽太である。

そのうえで、両作に録音として関わった名倉靖の存在は、性質の異なる二作品を架橋する意味でも、実務の精度としても特筆に値する。やはり冒頭にも書いたが、設計思想の系譜として「聲=保存」「傷=逸脱」「レゼ=架橋」と筋道を建てられるからだ。聲、傷それぞれの要素が『チェンソーマン レゼ篇』で名倉が音響監督として何を目指したのかを考える際、本稿の整理は有効な手がかりになるはずだ。2025年9月時点では詳細は未詳だが、いずれ公式の音響面の発信がなされたとき、その読み解きに資する下敷きとして機能すれば幸いです。