Music Synopsis

音楽に思考の補助線を引く

EGOIST『当事者』の歌詞の母音の流動性について

別に『Psycho-Pass Providence』(二〇二三年)における作中の常守の心情を表した歌詞の重みとか、そういった話ではない。ryo(supercell)の歌詞の母音の追求力の果てが見え、chellyの母音の発声の強さがより明確にみえたという話です。

当事者

当事者

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この時から歌詞の流動性の異常性には気づけてはいたのですが、中々切り出し方が難しく、出すのが遅れてしまった。本来であれば公開日あたりに出したかったのだが。

ryo(supercell)については記事として2回特集し、尚且つ諸事情あって、第一回のみで停滞しているものの音楽総論シリーズが進行中であるため、省く。

 

sai96i.hateblo.jp

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(一層のことryo(supercell)のことだけを語っていたいという中の人の気持ちが強い)

以前アニソン派で堀江晶太が歌詞を作るのが苦手であるという発言があった。

当記事のレポ記事より

sai96i.hateblo.jp

田淵:ベビレでは作詞の才能をやっているが才能があったのでは? 作詞はやりたかった? 
堀江:やりたくなかった。作詞は恥ずかしいし、言いたいことないな。こういう音楽がしたいという表現に歌詞というのもなかった。なんで書いたのかまぁ仕事としてで、そこから作詞というものに向き合ってなるようになった。

田淵:実際やってみてどうか
堀江:大変。一番カロリーが高い。メロディ、アレンジは「こういう感じ」というのが分かるけど作詞は一番無からの状態だから苦手。

あれだけ(どの楽曲群を指しているのかは読み手の好みに任せます)の歌詞を書いてきた堀江晶太ですら、歌詞が苦手である事実。これは歌詞そのものを作ることの難しさを表しているが、その次の段階になると恐らく歌詞と楽曲のバランスというのを一度は考えるはずである。尻切れ蜻蛉のような言葉運びだと、楽曲がださくなってしまうためどんなミュージシャンであっても絶対に一回以上、言葉選びには気を使うはずでありそれはアマチュアでも多分変わらない。

これはフォロワーのツイートだが、凄くいい点をついている。韻のバランス。

今回取り上げる『当事者』ではかなり韻を踏んでいるのだが、非常に拘りを感じられる場面がある。そしてそれはボーカルディレクションに相当気を遣われたことからも明らかであるといえる。

tower.jp

「当事者」という楽曲は、音作りやボーカルワークを含め制作の段階でたくさんの試行錯誤の上できあがった作品です。
ブレスの位置などの技術的な部分でのディレクションいつもよりだいぶ細かく入ったのですが、この歌詞を前にしてそんな理屈くさいものは不要では?と思ってしまうくらい、

基本的にどの節をとってもその細かさを感じることができるが、これが最も顕著に現れているのはこの一節であると考えられる。

あとどれだけ理性を保っていられるのだろう

歌唱では「あとどれだー/けりー せいをたも/っていられるのだろう」という区切り方をしている。一文として読む分には誰にも分かる歌詞であるが、それが歌になるとこのような異質さが現れてくる。つまり、歌詞をそのまま楽曲に載せるのではなく、単語を崩してまでも母音の流動性を意識することで、崩すことで歌詞としての違和感をもつものの、それを打ち消す形ですんなり聴けるという楽曲に仕上げている。先の歌詞をローマ字で書くと

atodoreda/keriseiwotamo/tteirarerunodarou

となる。そして更にここら母音を抽出すると

a(t)o(d)o(r)e(d)a/(k)e(r)i(s)ei(w)o(t)a(m)o/(tt)ei(r)a(r)e(r)u(n)o(d)a(r)ou

aooea/eieioao/eiaeuoaou

となる。母音すると最後のeiaeuoaouの区切りがとても目立つ。

「っていられるのだろう」という所がとてもきめ細かい。tteという小さい「っ」から始まるところからして異質である。

 

そしてchellyの歌い方が母音の発音が強めであることがわかる。それが顕著な一節が

遠くで聞こえる罵声と絶叫

人はこんなにも美しいのに

前者の場合罵声の発音がどうも自分にはbaseiとzekkyoという感覚に陥る。そのため初回オンエア時はaseitozekkyoというふうに聞こえていたせいで歌詞が掴み取れなかった。後者の場合

hitohakonnanimoutukusiinoni

という発声の中でもhitohaのaに入るタイミングがパッと<↑という感じで急に上にスライドするように発声が強めになる。

 

今回の曲調はこれまでのEGOISTの楽曲、というよりもPSYCHO-PASSとはテイストが明らかに異なっている。テンポは『名前のない怪物』や『Fallen』のような速さではなく、だからといって亀田誠治サウンドワークスの傑作椎名林檎の『ギプス』よろしくの『All Alone With You』といったボーカルの持つ歌声に力点を置かせたバラード調とも言い難い。何方かと言えば歌詞を強調させる&母音を強調させるために敢えてローリズムという感覚がある。この時点で量産型な邦楽ではないというryo(supercell)の確固たる意思を感じてならない。今更ながらだが、ryo(supercell)supercell)が洋楽厨であることはいい加減しられており、その感覚はこれまで発表されてきた楽曲からも何となく察することができる人も多いはずだ。しかし今回の『当事者』は明らかに洋楽的な作り方を意識された楽曲であると、先の母音の区切り方からして、誰もが感じるはずだ。

ラジオで最速オンエアされたものを繰り返し聴いていた時、最初の1,2回目では歌詞がわからなかった、と言うよりも歌詞をみて初めてどういう歌詞を歌っているのかを理解することができた。そういう現象は今回が初めてではない。ryo(supercell)の楽曲を聴いていると時たま歌詞が聞き取れないことがあるという体験をした人も少なからずいると思う。

ここでいつくか他のEGOIST楽曲の歌詞を挙げる。

その1.『Fallen』より

Fallen (from BEST AL“ALTER EGO”)

Fallen (from BEST AL“ALTER EGO”)

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隣でそれは歌い出す What was I  born for ねぇ私を愛して

この場合は「歌い出すWhat〜/was I born for/ねぇ私を愛して」という区切りになる。what(母音がaなので繋げやすい)の入れ方、端的に言えば「歌い出すあー」という切り方でwを少しだけ入れることで成立させている。からの「ねぇ」に至るまでの過程があまりに綺麗な流れ。しかし一回聴いただけでその区切りに気づける人は大凡いないであろう。

その2.『The Everlasting Guilty Crown』より

The Everlasting Guilty Crown (from BEST AL“ALTER EGO”)

The Everlasting Guilty Crown (from BEST AL“ALTER EGO”)

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希望を灯はやがて消えていく 「灯をよこせ」と奪い合い

実際の歌唱では

希望を灯はやがて消えていく/「灯を/よこせ」と奪い

という風に区切られている。この場合は歌詞そのものは聞き取れるが、灯という単語を先の置いた上でその先の歌詞を展開させる手腕もまた歌詞の流動性を意識しているに他ならないと考えられる。

 

『当事者』以前の例を挙げも切ないが、以前から実際の歌詞と、歌唱における歌詞とを比べると、歌う時には意識的な崩しが入っているが分かる。

ではこの区切り方は何であるかと言えば洋楽のポップスでは割とありがちだなとはおもうのですが、中でもジャスティン・ビーバーのような

Intentions (feat. Quavo)

Intentions (feat. Quavo)

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この辺りは実際にryo(supercell)にどこまで凝っているのかを聞いてみたい所だ。

英語における音(アクセント)とリズムというのはまた別途に考えたいところではある。英語といっても国によって発声の違いというものは当然ある、故にアクセントの違う人たちが歌う英語もまた、違ってくる。その感覚についてはいずれ。しかし聞くところによると北米のアクセントは面白いと言われている。そしてジャスティンビーバーもカナダ人なので、北米のアクセントならではの魅力があると考えることができる。そこら辺を起点として書くことができればいいなと思ってます。

 

本来洋楽的なアクセントを邦楽でやるような楽曲が存在するだけでも*1恐ろしいなと思ったので記録的な意味合いも兼ねて書きました。今回は歌詞の母音というどこに需要があるのかがわからない題材をテーマに書いたが目新しいものでもなんでもないというのが本音だ。ryo(supercell)のボーカルディレクションについては一般ツイートでも検索をかければ割とヒットするし、やなぎなぎを起用している麻枝准なんかはその凄さをずっと前から見抜いていたし、ツイートでもその趣旨を明かしている。ようは分かってる人には当然、というよりも何を今更という話なのです。

つまりありふれネタなのだが、『当事者』というある種決定的な楽曲が発表された以上、末端のブログで書き起こしてみるのも一興かと思い書いたまでです。

それではこれで終わりたいと思います。

※別途で気づいた点があれば、随時追記していきます。

*1:自分が知らないだけで多分前例も0ではないと思うが

没・シャフト寄稿文章 

まずは、参加した方々はお疲れ様でした。また、「もにも〜ど」に関わった全ての人に感謝の意をここで表明したいです。本当にお疲れ様でした。特に主宰者であられるあにもにさんには最大限の感謝の意を示したいと思います。本稿の感想はまだ来ていませんがどのような感想が来るのかが楽しみです。

存分に咀嚼し、見て、聴いて、考えてください。

全体の俯瞰をした上でない混乱すると思うので本記事は本稿を読んだ後に閲覧することをお勧めします。


 

この記事では本原稿には載らなかった部分の一部を供養として載せます。

カットして正解だねっていうものばかりですが、一応こういう文章も当初は入っていました。というある種の補完部分を成すものです。

初稿の全てはあにもにさんしか読んだことがないですが、一種のサービス精神でそこからも幾つか出しています。そして、リライト以後に追加文章として書いたけれど採用されなかった文章も載せています。言うまでもなく文面が拙いほうが前者で、ちゃんとしているのが後者です。原稿と併せて読まないと何が何だかよく分からないと思いますが、本記事はあくまでも合同誌を買った人が補足事項として読むための記事です。その点についてはご了承下さい。

 

本稿を読んだ方であれば本来どこに入るはずであったかは分かると思うので順番はバラバラです。

以下 NG原稿集

 

・冒頭の件

共通してアダルトゲームではあるが、虚淵玄の元々の活動場所はアダルトゲーム界隈であり、その業界にて重厚な純愛ゲーム『沙耶の唄』、仮面ライダーと吸血鬼との混ぜ合わせとしての『吸血殲鬼ヴェドゴニア』、愛する西部劇を我流に落とし込んだ『続・殺戮のジャンゴ』等を発表したことで名を馳せた人物であるからこそ、そうした作品群を参照している可能性が高いと言う意見。或いは『紫色のクオリア』(著:うえお久光)との類似性、『銃夢』(著:木城ゆきと)におけるインキュベーター区画の引用、そして何よりも早川の青背の諸作品、とりわけグレゴリー・ベンフォードの『大いなる天上の河』から『輝く永遠への航海』に描かれる有機生命と機械文明の物語が影響しているといった読みがある。或いは、全体的にキリスト教のテーマ性が感じられるといった大雑把なでありながらもモチーフからそういった宗教観の考察などを多々見る。

 

・ドイツ文学とクラシック音楽

ベートーヴェンの弟子とされ、古典派に傾倒しつつ、現在では初期ロマン派を代表する作曲家フランツ・シューベルトゲーテの『魔王』(一七八二年)に触発されて書いた『魔王(一八〇五年)』のように、中期ロマン派を代表するロベルト・シューマンは大変な読書家で中でもゲーテは勿論のこと、ETAホフマンに傾倒しており、『クライスレリアーナ ピアノのための幻想曲集』(一九三八年)に発表していますがタイトルにあたるクライスレリアーナの部位はETAホフマンの音楽評論集のタイトルからの引用をしていますし、同じくETAホフマンの『牡猫ムルの人生観』に登場する宮廷楽士クライスラーとの共通性もあります。後期ロマン派のリヒャルト・ワーグナー、そしてなによりピョートル・チャイコフスキーバレエ音楽くるみ割り人形』(一八九二年)の作風に影響を与えており、そのチャイコフスキーの音楽の熱烈なファンであったのがセルゲイ・ラフマニノフという流れに繋がります。それ以外にもフランスにおけるロマン派音楽の影響なども推察できます。ラフマニノフとフランスロマン派音楽については次項の『まどか☆マギカ』におけるロマン派音楽との繋がりを述べた後に論述していきます。

 

 

・『叛逆の物語』と『くるみ割り人形』について

『叛逆の物語』の最終場面では左側に「Countory of Sweets」(原文ママ)右側に「GooD Moring」という文字が看板に書かれている場面がある。直訳すると「お菓子の国」と「おはよう」という意味になる。「お菓子の国」は人形の国を指している。『くるみ割り人形』の世界においてもお菓子という単語は幾度となく登場することからも、それは明らかである。他方「おはよう」というのが何を指しているかはバレエ版の『くるみ割り人形』と原作との差異を考えれば明らかである。原作版とバレエ版との大きな違いは主人公がマリーからクララに変わっている事と、結末にてクララが朝に目覚める事で、それまでの経験してきたことが夢であり、現実に帰るという締め方をしているのだ。つまり「おはよう」というのは朝の目覚めのことを指し、現実の世界に戻ったことを指し示している。

 原作の展開でも一度は現実に戻り、それまで体験したことが夢であったという描写がある。しかしくるみ割りの人形にある真意を伝えることで、「人形の国」へ誘われることになる。マリーの告げた真意を知ったことで、くるみ割りの人形が実は呪いをかけられた存在であり、それがマリーによって告げられた真意の言葉によってドロッセルマイヤーという青年に戻り、その感謝の恩恵としてマリーは王妃となり「人形の国」の主となるところで終わる。こうした背景を踏まえた上で『叛逆の物語』における二つの看板の意味を考えれば明確に原作とバレエ版それぞれの『くるみ割り人形』の結末を隠喩として表現していることが分かる。

 

・ドイツ文学と原作版くるみ割りの大事なエピソード(真意)について

ディズニーの『ファンタジア』(一九四〇年)の有名な一編にあたる『魔法使いの弟子』の原案もまた、ゲーテの著作である。閑話休題。ドイツ人による作品をロシア人が音楽として翻訳するという意味では、チャイコフスキーの『くるみ割り人形』や『白鳥の湖』も同様であり、作中の舞台はドイツである。『叛逆の物語』(二〇一三年)におけるくるみの砕く描写がありますがあれは、原案におけるETAホフマンの『くるみ割り人形とねずみの王様』(一八一六年)からの影響。作中内で語れる御伽噺として『かたいくるみの話』があります。この話はピルリパート姫がねずみの女王マウゼリグンスの呪いにて醜いくるみ割り人形になった王女。王女が元の姿に戻る方法は固いくるみクラカーツクを割りその中の実を食べることとされており、そのクラカーツクを割る人物は人形細工師であるドロッセルマイヤーの息子。彼のおかげで実を食べることができたピルリパート姫は元に戻るが、マウゼリングが突如現れ今度はドロッセルマイヤーの息子に呪いがかかってしまうというものです。これを踏まえると『叛逆の物語』(二〇一三年)におけるクルミを砕くという描写の演出意図が何を指し示すのかは明白であり〜

 

・ドイツ文学とデビルマンからまどマギを解く

美樹さやかの運命を再考する。『若きウェルテルの悩み』では、ウェルテルはシャルロッテに恋をするが、シャルロッテにはすでにアルベルトという婚約者がいて、ウェルテルはそれに悩み、ついにはウェルテルはアルベルトより護身用という名目で借りた銃で自殺を選択するまでの物語である。『まどか☆マギカ』では、これを男女逆転させた形で描かれている。美樹さやか、上条恭介、志筑仁美の三角関係性は決してよくあるメロドラマの構図として描かれているわけではないはずだ。本編において美樹さやかはこの関係性で絶望し、魔女になりその果てに去っていく。この美樹さやかのあまりに切なく、陰惨なドラマは『まどか☆マギカ』世界における魔法少女の論理的な設定から生まれる必然的な帰結を設定したこと。意識的に永井豪の『デビルマン』における牧村さやかの惨状を見事に踏襲させたことの他に、文芸性としてのゲーテイズムの3つが重なったからこそ演出できた物語であると言えます。魔女の名前からの読み解くとシャルロッテ、アーデベルトの由来も恐らくは『若きウェルテルの悩み』と考えられる。その他音楽作品にまつわるゲーテの作品で最も有名な作品はシューベルトの『魔王』であることは誰もが納得がいくと思います。以上の作品・作家が『まどか☆マギカ』の紡ぎ出す世界観や話の源流として数えることができる。それらは先述の通り音楽史観として『まどか☆マギカ』との繋がりを考えた時『魔法の音』と、それらに関連する人物たちが重要な役割を果たしていることは制作陣が意識的に演出の一環として取り入れているように思えます。こと、音楽として考えた時に印象派やロマン派としてのクラシックの音楽要素を作劇の音楽に忍ばせているとみてまず間違いない。シャフト作品における様々な古典ものを取り入れ、それを現代のアニメに取り入れるという実験性があらゆる要素と適合した作品こそが『まどか☆マギカ』に収束され、結果的に新規軸をもたらすエポックメイキングな作品になったことはその後数年ではあるが、後発として続いたフォロワー作品の数々が証明しています。

 

 

・レーナウのファウストとヴァイオリンの特性

そもそも上条にヴァイオリンを持たせた理由は何だろうか。なぜ他の楽器ではいけなかったのか。これは作中の世界観からヴァイオリンの持つ特殊性が関わっているのではないか。例えばポーランドには「悪魔のヴァイオリン」と称される楽器があるが、これは弦楽器ではなく打楽器であり、儀式として悪魔祓いに用いられる。また、悪魔に魂を売ったと呼称されるパガニーニの存在もまた無視できない。これらに共通しているのは「悪魔」である。パガニーニに触発された著名な音楽家としてリスト・シューベルトシューマンベルリオーズラフマニノフを挙げることができるが、先述の通り、彼らはいずれもロマン派の音楽家であると同時に文学から触発された作曲家と言う意味で共通している。中でも特筆すべきはリストが『レーナウの「ファウスト」による2つのエピソード』(一八六一年)を作曲しているという点だ。第二曲のタイトルにもなっている『村の居酒屋での踊り』ではメフィストフェレスがヴァイオリンを楽士から奪い、演奏し周囲の人々を感嘆させる。つまり、ここではヴァイオリンが人を誘惑する楽器として登場するのだ。ヴァイオリンは悪魔という属性に近い魅力を持つ楽器でありだからこそ物語の仕組みとしてファウストの文脈を持つ『まどか』の作品内において、一つの隠喩としての表現として上条の楽器としてヴァイオリンを採用したのではないかと考えることができる。

 

2001年宇宙の旅における音楽の対位法

『二〇〇一年宇宙の旅』という作品は全体的に監督が意図的に説明を省いているおり、それ故に謎が謎をよび、挙句最後にはスターチャイルドで締められ、初見だけでは全くもって解るはずもない不思議なシネラマ映画です。明朗快活とは程遠い本作にてどこに対位法が使われているかを判断するのは難しいのですが、冒頭の人類の夜明けと呼ばれるシークエンスにて猿人がモノリスを触ったことで知性を得た結果、骨を武器として使う描写があり、その後その骨を空高く投げるとそこから宇宙のシーンへとジャンプします。本来視覚的に繋がらないカットを似たような構図・被写体を映すことで時間経過の表現技法であるマッチカットが使われていますが、ここで骨に対比する構図として核爆弾衛星が映るカットがあります。一見、ただの宇宙船と見間違えそうですが、あれは核爆弾衛星です。そこで流れている音楽がヨハン・シュトラウス2世が作曲した『美しき青きドナウ』。つまりこのシーンにおける対位法というのは前のカットにて猿人がモノリスによって知性を得ることで武器を使い動物を殺めることを覚え、その骨を投げるカットから核爆弾衛星でマッチカットをし、宇宙のシーンへと移行させることで数百万年後の進化を経て、人類は核爆弾衛星を開発し、それらが宇宙を飛んでいるという構図をもった非常に恐ろしいシーンであるにも関わらず、音楽はまるで優雅な宇宙の旅をしているかの様に錯覚させる『美しき青きドナウ』が流れているということです。説明がされない上に、映画を隅から思慮しなければ分からないので不親切さではありますが、演出意図・シナリオを考えた上で映像を見ると実は雰囲気で流れていると思っていた『美しき青きドナウ』こそ、画と音における対位法の効果を持っていることがわかります。『二〇〇一年宇宙の旅』はアラン・ハチャトリアンのバレエ組曲『ガイーヌ』第一組曲アダージョ、ジェルジ・リゲティの『Ligeti : Requiem : I Introitus』『Requiem II.Kyrie』『Lux aeterna』『 Atmospheres』『Aventures』そしてなにより本作を象徴する楽曲であるリヒャルト・シュトラウスの『ツゥアトラストラはかく語りき』など、様々な意味においてその場に適合した音楽を引用しています。それらが画と混ざり合う瞬間に生まれるダイナミズムを生み出すことで受け手の心情に強烈な視覚的体験を演出させるという意図があったと推測できるため、『美しき青きドナウ』も画にあった音楽として引用という解釈もでき、本来はメンデルスゾーンの『真夏の夜の夢』(一八二七年)よりスケルツォが使用される予定であったということからも、場にあった雰囲気の音楽をつけることが想定されていたと考えると単なる偶然の一致であるが、その方向で考えても結果的には対位法としても読み取れるシーンにもなった。

 

時計仕掛けのオレンジに対する紹介文

同じキューブリック作品より『時計仕掛けのオレンジ』という作品においても対位法のアプローチが使われています。本作は『二〇〇一年宇宙の旅』よりも明快なシーンで流しています。アンソニー・バージェスが書いた原作のラストエピソードを抜いた米バージョンを映像化したものであり、お話としての過激さ・風刺さが目立つ分、『二〇〇一年宇宙の旅』と比べると幾分かは分かりやすい作品です。本作の主人公である非行少年アレックスは様々な残忍な行為をしたのちに、遂には警察に捕まるのですが、そこで更生の名の下にルドビコ療法という治療を受けることになります。

 

エヴァにおける音楽の対位法について

新世紀エヴァンゲリオン』というアニメはテレビ版の時より全体的に映像をより効果的に映える仕掛けとしてベートーヴェンの『交響曲第九番ヘンデルの『メサイア』バッハの『無伴奏チェロ組曲』を、また劇中以外にも取り入れており旧劇と呼称される二部作の作品のうち、一部目の『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 シト新生』の予告編ではヴェルディの『マンゾーニの命日を記念するためのレクイエム』より『怒りの日』の部分を流すといった大胆な手法もとっています。この演出は自体も影響下の流れとしてキューブリック作品をはじめ『二〇〇一年宇宙の旅』以後何作かそれに準じた観念的なSF映画の潮流の一つにあたるジョン・ブアマン監督作品のカルトSF映画『未来惑星ザルドス』(一九七四年)において同じベートーヴェンの『交響曲第七番』が流れているためそのような作品群から影響を受けたものと推察することができます。他の見方として、日本の特撮作品『ウルトラセブン』(一九六七〜一九六八年)の最終話『史上最大の侵略(後編)』にて諸星弾がヒロインの役割をもつアンヌ隊員にウルトラセブンであることを告白をするシーンにてロベルト・シューマンの『ピアノ協奏曲イ短調』が流れる演出からの影響を指摘することもできますが、最終回の放映時期は一九六八年九月八日。『二〇〇一年宇宙の旅』の日本公開は同年の四月十一日であることから、特撮でなおかつSF物を作っていた『ウルトラセブン』の制作陣の誰かが『二〇〇一年宇宙の旅』を見て触発されたという可能性もある。つまり順番としては『二〇〇一年宇宙の旅』を挟んだ上での『ウルトラセブン』という図式で枝葉が流れていったと考えたほうが自然ではないかと思う。閑話休題。アニメ作品においてクラシックの引用をすることでシーンを魅せるという手法は今でこそ当たり前になっていますが『新世紀エヴァンゲリオン』がその効能を初めて視聴者に提示しそれが大反響を呼び評価をされたと最初の作品であると言えます。そういった作品が劇場版のリメイクでは先の『今日の日はさようなら』や『翼をください』(作詞:山上路夫、作曲・編曲)を対位法として、最上級の使い方を用いてアニメ視聴者により衝撃を与えたという意味で『新世紀エヴァンゲリオン』は映像と音楽をそれまでの前例以上に巧みに扱ったお手本のような映像作品であると言えます。高見広春原作の『バトル・ロワイアル』(一九九七年)が深作欣二監督の手によってに映画化された『バトル・ロワイアル』(一九九九年)の予告編です。『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 シト新生』と同様にヴェルディのレイクエムを流しています。『バトル・ロワイアル』(一九九九年)の場合はモーツァルトの『レクイエム』を併せていますが4年前に『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 シト新生』が公開されていたことを考えると余波として影響を受けていたと言えることもできます。最も『バトル・ロワイアル』におけるヴェルディの引用は作中における"中学生同士の殺し合い"という内容に相応しい荘厳さを象徴するこれ以上ない楽曲であること、そして深作欣二監督が当時70歳を超えた熟練した巨匠監督であること、そして『新世紀エヴァンゲリオン』以前に岡本喜八監督の作品『ブルークリスマス』(一九七八年)の予告編にてヘンデルの『メサイア』が使われていることから実写映画における音楽の使い方をアニメに持ち込んだ時期と『バトル・ロワイアル』の時期が同時期に重なったという見方が高く、偶然の一致と考えるほうが自然ではありますが、少なくとも『バトル・ロワイアル』(一九九九年)以前にヴェルディのェルディの『マンゾーニの命日を記念するためのレクイエム』の『怒りの日』の部分を引用した予告編の映像を作っていたというのは相当なインパクトを持っていたと言えます。

 

・音楽の聴き方の変容について

このように音楽自体のジャンルの変容に加え、時代が変容し、時代とともに録音技術などの発達を通して二十世紀以降はクラシック音楽における聴衆の在り方まで変わった古くは二〇世紀後半にかけてカセットテープやレコード、そしてCDといった固形物化したものが音楽の聴き方の主流となり、なった。しかし二一世紀今では現在では、固形物化したデータとのものではなく、膨大なデータベースとデバイスとでネットワークによる同期を通じたサブスクリプションが主流となった。生演奏というものは今でも形式として存在するが、決してメジャーな在り方ではない。これらの現象はヨハネス・グーテンベルグが印刷技術を確立した以前以後とでは紙面における扱いというものが根本的に変わったのと同様である。

 

・フランス詩学からの印象派としてのドビュッシー作品について

完璧で理知的なものを目指す高踏派の文章と象徴主義の作風に傾倒した音楽家こそクロード・ドビュッシー。彼の代表作の一つにあたる『前奏曲』(一九三〇年)の八曲目にあたる『亜麻色の髪の乙女』の題目はルコント・ド・リールからの引用であるし、ドビュッシーの歌曲の大半がバンヴィルの作品と幾つかのボードレールの作品で占めている。

 

プロイスラーの紹介部分

一般的には『クラバート』で知られているオトフリート・プロイスラーの〜

 

忍野忍の魅力について言及した部分

影というテーマをメインにしたハンス・クリスチャン・アンデルセンの童話としての『影法師』。そしてこのテーマにおいて欠かせない作家としてバルザック。人間の本質、欲望、精神を緻密に描写者することに長けていた小説家であることは人間喜劇の作品群からわかるであろう。日本人として親しみのある例としてあげるのであれば水木しげるの『ゲゲゲの鬼太郎』におけるねずみ男。生々しい人間の欲求の塊のようなキャラクターであるが、作者の水木しげるが一番気に入っているキャラクターでもある。つまりヒーローとしての鬼太郎だけでは都合の良い世界でしかありえないからこそ、それを打ち消す形として存在している。そういった文脈のキャラクターである。

 

・話の流れで虚淵玄について言及した部分

虚淵玄という脚本家の作風は小説の世界では大まかには六〇〜八〇年代に代表される地球そのものが異界という捉え方をするニューウェーブからウィリアム・ギブスンが提唱したサイバーパンク以後の海外SFの流れ、やクライブ・カッスラーなどの冒険小説やスティーブン・キングクトゥルフ小説の流れを汲んでいる作家であり、ペンネームでさえもスティーブン・キングクトゥルフ作品『クラウチ・エンド』から命名されたものとも読み取れる。もう一つが海外映画の流れ、それも大作主義の映画よりも『リベリオン』(二〇〇二年)『サルート・オブ・ザ・ジャガー』(一九八九年)『ジャッジ・ドレッド』(一九九五年)『ドニー・ダーゴ』(二〇〇一年)のような癖が強いカルトタイプのSF・アクション映画を好み、路地裏にて喧嘩を始める描写や銃を使ったアクション作法は菊池秀行の書き方・描写からの転用であり、そして日本漫画の影響が強く、文学あがりと言えるタイプではないが、それが故にアニメ的に面白い作品を手がけることのできる稀有なシナリオライター

 

・クインシーの流れで書いた一種の文学の流れ

 

この九年間前に発表された小説をベルリオーズが影響を受け、やがてはそれが『魔法少女まどか☆マギカ』(二〇一一年)に直結するということを説明するために本題から一度脱線し文学潮流の相互性を確認する必要がある。ド・クインシーーは『アヘン常用者の告白』(一八二一年)にて多大なる影響を及ぼした。その一人がアメリ幻想文学の大家エドガー・アラン・ポー。現在における探偵像、いわば紳士としての像を確立したという意味での元祖となった推理小説や後のラヴクラフトスティーブン・キングへとその文脈は引き継がれていくホラー・怪奇ものを展開した。その影響下にボードレールを中心としたフランスの詩人がいることはもはや説明する必要はない。ではポー以前、つまりは上にはどういう人物がいたのかというと、先述のド・クインシーや探偵小説の原点にあたる『ケイレブ・ウィリアムズ』でお馴染みのウィリアム・ゴドウィンといった英国作家とドイツ文学、とりわけETAホフマンからの影響が濃いとされる。ド・クインシーが主に活躍した時代は一八二一年から一八五三年。一方ポーは一八三〇年〜一八四九年と時期的には被る。その中でポーが主に英国文学におけるゴシックホラーを意識したというのは『ブラックウッド風の作品の書き方』という短編を出していることからも明らかでありその中でド・クインシーの『アヘン常用者の告白』(一八二一年)についての記載がある。一八二一年から一八五三年。一方ポーは一八三〇年〜一八四九年と時期的には被る。ウィリアム・ブラックウッドという出版業者を指します。一八一七年に『エディンバラ・マンスリー・マガジン』を創刊し、これがのちに『ブラックウッズ・エディンバラ・マガジン』となります。そこにド・クインシーも『芸術の一分野として見られる殺人について』(一八二七年)などを寄稿していたことで、それらの著作にポーが感銘を受けたという流れになる。その後ポーは『大鴉』(一八四五年)を発表し、そこに熱狂し、可能性を見出した人物がボードレールであることを考えればボードレールと同時期に生きたベルリオーズゲーテからの着想で楽曲を作っているようにド・クインシーの『アヘン常用者の告白』(一八二一年)の諸要素に影響を受け幻想交響曲(一八三〇年)の一連の物語を作っていると考えてまず間違いない。簡易に纏めると『アヘン常用者の告白』(一八一二年)などの作風に影響を受けたエドガー・アラン・ポーが『大鴉』(一八四五年)などを通して広め、そこに浸透したボードレールが後のフランス詩学の運動を先駆けとなり、デカダン派、高踏派、象徴主義へと展開。

 

 

ベルリオーズ幻想交響曲に関するエピソード

『断頭台への行進』というタイトルをフランス作曲家がつけるのはマリーアントワネットの最期を思うと発想という意味では不思議ではない。クリエイターが時代背景に影響を受けるのは世の常ですし、実際フランス七月革命の十周年記念イベントの音楽を政府の依頼によってベルリオーズが手掛けて『葬送と勝利の大交響曲』(1840年)という楽曲を残した。第五章のタイトルはどちらをとっても魔女、ワルプルギスという世界から成り立つため重要な作品と考えられる。そもそも話として『ファウストの劫罰』(一八四六年)を作っていたことからベルリオーズもまたゲーテからの影響を受けていたことは間違いない。こうした標題に加え物語が実に興味深い。病的な感受性と想像力に富んだ若者の音楽家が恋の悩みによる絶望の発作にてアヘンによる自殺を図るが、致死には至らず、眠りについた若き音楽家が摩訶不思議な幻想を見ることに、それらの観念が音楽として現れるというものです。これらの物語はベルリオーズの実体験を落とし込んだとされており、ベルリオーズはある時シェイクスピアの『ハムレット』の劇を見て、その時劇中に登場するオーフィーリアの主演はリエット・スミスソンに恋焦がれるが思いが届かず、失恋を体験から生まれた物である。最も、その後は成就したものの破局という現実は無慈悲であるという一途を辿ったのだが。

 

物語シリーズの演出言及

最低の情報量にしぼり、それ以外は省略の限りを尽し徹底して最小限のカットにて構築されており、まるでクレショフ効果作用を誘うような手法であると考える。こういった手法はアメリカのディズニー映画やフランスのフライシャー兄弟の時代に遡ってもあまり例をみない。唯一それに近い作劇をしているのはロシアのアニメ作家であり、『霧野中のハリネズミ』や『話の話』などの傑作で知られており、エドワード・ゴーゴリ原作の『外套』のアニメを長きに渡り作り続けていることで知られているユーリー・ノルシュテイン。彼の作品的とも形容することは可能であるが、それも実に表層的な側面だけに類似点が見出せるだけであり、大部分の演出には大分差異が生じる。

 

・ライトモチーフについての言及

このライトモチーフは非常に音楽的に象徴的な意味合いを持つため映画音楽においてもしばしば用いられる。フランシス・フォード・コッポラ監督作品『地獄の黙示録』でヘリコプターのシーンにてワルキューレの騎行第三幕が流れるのも当然そう言った意味合いが含まれており、ヘリコプターをワルキューレの戦士のように見立てる演出的な意図がある

構成する42枚について

シャフト批評の寄稿記事をずっと書いていたおかげで、随分と音楽ブログを蔑ろにしてしまった感じがあるので、休憩記事として本来あるべき音楽ブログのような記事を提供します。つまりはおすすめの音楽を理屈抜きにただただ良いと書くだけの記事です。

 

話題を探していたらありましたよ。Twitterで話題の#私を構成する42枚 というタグが

これが目について、面白くて色々な人の42枚を見るわけですが、その度に「この人は〜世代の人なんだな」「AとBがあって、C、Dの繋がれでE ・F ・Gがあるから〜ジャンル好きで、変化球でH・Iがあるんだな〜」と傍観者の遊びが楽しくて堪らない。単なる思いつきですが、本来音楽ブログであるMusic Synopsisとしては久々に真っ当な題目を書いている気がします。普段は音楽を"作品"として捉えた上で、その良さを理解するための補助線として色々と知っていると1000倍楽しめるよっていう記事を出していますが、今回はその趣旨から少し外れてます。

 

 

では自分の場合どうかと考えると意外と難しい。何が難しいかといえば、ジャケットだけで伝わりきれない魅力があるからそれなら記事として出した方が、結構魅力を伝えられるのではないかと思い記事にしてます。抽象度高いですがご愛嬌を。42枚全部を書いているとそれは飽きるので、42枚の中でもお薦めしたい作品にピックアップコメントを入れています。

 

では、早速本題ですが、まず枚数指定が良いですよね。100とかならよく見かけますが、42というのが絶妙すぎる数字。御託はともかくとして、早速ですが、自分の42枚をご覧ください。当然ですが暫定です。なんならこれを作った日から数日経っているので、今の自分からしたら少しだけ違ってきます。その場のノリ感も強いですが、結構主軸は押さえていると思います。偏愛すぎるのもあれなので、一応条件として1アーティスト1枚という*1縛りありです。

 

この42枚選ぶのに3時間かかりました。

リストにするとこのような並びです。

これをみてどう思うか皆さんもいろいろと頭の中で詮索してみてください。

まぁ最上段はクラシック。これは外せないですね。もともとその畑の人間というのもあり、クラシック音楽というもの自体が土台別格なのですが、その中でも好きな5枚です勿論、ベストは生演奏ですよ。この5枚は楽曲は勿論の大好きですがそれ以上に指揮者と楽団へのこだわりが強いです。

  • 1. Carlos Kleiber: Vienna Philharmonic Orchestra - Beethoven: Symphonies #5 & 7

カルロス・クライバーとウィンフィルの組み合わせでベートーヴェン交響曲第5番と第7番。カルロス・クライバーはご存知の通り、偉大な指揮者であるエーリヒ・クライバーの息子です。これ以上の至高の組み合わせがあるかって話ですよ。個人的に世界で最も美しい交響曲ベト7という思い入れがあるので、第5番も勿論圧倒的ですが、やっぱりベト7が最強であると強く主張できます。クラシック何聴いたら分からない人向けにもお薦めできる最強の音源です。

  • 2. Berliner Philharmoniker - Stravinsky: The Rite of Spring / Bartók: Concerto for Orchestra

ストラヴィンスキーの春祭ですね。春祭というよりもディズニーのファンタジアの恐竜の音楽といったほうが通じるでしょうか?恐らく幼少期に見せられた方は多いと思います。因み初期ディズニーでは『ピノキオ』(1940)がぶっちぎりだと思ってますがそれは別の話。そしてこの楽曲を指揮するのはカリスマ性で聴衆を圧倒したヘルベルト・フォン・カラヤン大先生。指揮者としての知名度ではおそらくダントツなので、名前だけでも知っている人は多いのではないでしょうか?そして、演奏をするのはベルフィル。これもまた偉大な楽団の一つです。ウィンフィルとベルフィルは世界的な管弦楽団というのは流石にご存知だとは思いますが、楽曲によってどっち派っていうのは変わるというのが自分の感想。ただ、春祭ならベルフィルがいい。他のどの演奏にもない迫力がこの演奏にはあります。バルトーク楽曲もあるので、二度美味しいみたいなアルバムでもあります。

  • 3. Richard Wagner - Wagner: Der Ring des Nibelungen

リヒャルト・ワーグナー、ロマン派オペラの神。頂点に立つ作曲家。そんな作曲家が書いた『ニーベルングの指環』はあまりにも有名。そして指揮者はゲオルク・ショルティです。確かこの人はエーリヒ・クライバーから影響を受けていたはず。sirの称号を得ているところからもわかる通り、偉大な指揮者一人です。楽曲数178曲。4時間という大作は作品が一大叙事詩であることに起因している。長いと思うか短いと思うかは人次第だが兎角素晴らしい。一回は通しで聴くべし。グラミーでも31回受賞の経験をもつ彼の腕前で、演奏はウィンフィル。そんなワーグナーで是非堪能してください。 

 

 

4. Andrea Battistoni: Tokyo Philharmonic Orchestra - Beyond the Standard 1: Dvořák Symphony No.9, etc

 

シンフォニア・タプカーラ」第三楽章:Vivaceの演奏の中でおそらく最上級。日本のクラシック音楽はここまでかっこいいぞということをバッティストーニの指揮によって身を持って感じられる。これだけでも大満足。「シンフォニア・タプカーラ」にはいろいろと面白いエピソードもあるので、詳しく知りたい方はこちらをチェック。

sai96i.hateblo.jp

 

5. Pyotr Ilyich Tchaikovsky - Tchaikovsky: The Nutcracker

チャイコフスキーの楽曲は、変に歪なところがなく、言ってみれば分かりやすく、感動しやすい楽曲が多いのですが、じゃあそれにチャイコに比類するその手の作曲家がいたかといえば、割といないというのが自分の中での結論。三大バレエが全てチャイコの功績であることからもそれは恐らく半分以上あってる。不思議さを象徴するチェレスタや、色鮮やかなホルンソロなど、作品に対するアプローチの発想がとんでもない。そんな中でもやっぱり『くるみ割り人形』は外せない。そしてこれも演奏はベルフィル。やっぱり外さないという意味ではベルフィルに若干の肩入れをしている気がしています。

 

これより下はいわゆるポップス音楽や劇伴が占めています。

6. Supercell - Today Is A Beautiful Day

全編ryo(supercell)世界を堪能できるポップスアルバムです。これについては多分別の記事で、というより進行中のryo(supercell)作家論で書きます。必聴です。

 

7. Massive Attack - Mezzanine

時代を超越するサウンドワークス。このジャンルの中では圧倒的な名盤だと思います。

 

9. Muse - Absolution

デビュー作のshowbizと迷ったけどこっちの方がダイナミズムでなおかつ、ラフマニノフを入れたクラシカルな側面をもつのでabsolution。音が洪水のように流れてくる作品です。

 

12. Keith Jarrett - The Köln Concert

ピアノアルバムの最高傑作。これを聴かずして何を聴くってレベル。

 

 

14. Emerson, Lake & Palmer - Tarcus

15. Pink Floyd - Atom Heart Mother

プログレからはこの2枚。すごく迷った。けど、やっぱりこの2枚に落ち着く。何を言っているのかが分からない人はわかるようになるまでプログレを聴き続けてください。

pink floydに関しては、難しすぎて、The Dark Side of the Moon(1973)も大好きだし、the wall(1979)も当然良いし、Wish You Were Here(1975年)も捨てがたいし、初期サウンド、というよりシド・バレットがいた時代もいい。けどatomic heart mother(1970)にしました。好みの問題ですね。elpに関していうのであれば Brain Salad Surgery (1973年)が標準だとは思うのですが、ジャケットの成田亨パロディ込みでこっちのほうが、愛せるなと。作品として愛せるなと。それをいうなら、Brain Salad Surgery (1973年)はH・R・ギーガーだろっていう話なんですが、、まぁ好みですね。これも

 

16. João Gilberto - 2003 Live In Tokyo

ボサノヴァを聴くならまずこれ。

 

19. Underworld - Beaucoup Fish

作業用BGM最強アルバムっていうのは半分くらい冗談ですが、Underworldサウンドがめちゃくちゃカッコいいと思えるアルバムは自分にとってはこれでした。

 

20. Led Zeppelin - Physical Graffiti

IVじゃないんだ。っていう心の囁きはわかります。結局zeppelinも全部いいけど、その中でどれにしようかなっていうのをその時の気分で選出しただけです。しかしPhysical Graffitiはもうちょっと評価されても(十分評価されてますが)良いのではないかという意味も込めこちらにしました。

 

23. 鷺巣詩郎 - Music from "EVANGELION: 3.0" YOU CAN (NOT) REDO.

いきなりアニメ劇伴がきたなと、作ってて思いましたけど鷺巣詩郎の劇伴傑作はこれ。

結局シン・エヴァOSTも流用みたいな流れはあるにしろ、この劇伴の流れを汲んでいるから。これがベスト。「Quatre Mains (a quatre mains) =3EM16=」が強すぎ。

24. John Williams - Star Wars: The Empire Strikes Back (Original Motion Picture Soundtrack)

まぁこれは映画音楽の基盤なので、当たり前の選出。嫌いな人はいない。

 

33. 中川幸太郎 - コードギアス 反逆のルルーシュ R2 O.S.T.

鷺巣詩郎の作品は別にエヴァとは別に、作品として好きなのですが、この場合はコードギアス大好き人間っていうのが影響している。ただ、OSTがバラバラでまとまっていないので、これではないアルバムに入っている楽曲もあって、すごく悩みましたけどGrand Freetが入ってるのでこれにしました。この楽曲が劇中で如何に重要であるかは見た人であればご存知のはず。とにかく痺れる。そして中川幸太郎はもっともっと評価されてほしい。

 

 

31. toe - the book about my idle plot on a vague anxiety

32. nuito - Unutella

ただただマスロックの中でもこれらがベストだった。

 

36. 椎名林檎 - 勝訴ストリップ

説明不要の基礎教養。椎名林檎の才能の限界値を亀田誠治が思いっきり引き出した名盤。ギブスが全てといえば大体通じる。アルバム版は全部つながってるので、その意味ではシングルのギブスのほうが美味しいです。ギブス以外にも、浴室や罪と罰があるのでその時点でもう勝ちですね。ただやっぱりギブスが強すぎるという話。菅野よう子やryo(supercell)もこれにやられてる。ギターも聴きどころの一つ。

 

37. Salyu - TERMINAL

小林武史プロデュース、女性アーティストの中では圧倒的なベスト。8mの大作「to U」が化け物みたいな楽曲。特にBメロあたりは作曲:小林武史ならではのライン

 

 

39. トーマ feat. 初音ミク - Eureka

40. Kemu - PANDORA VOXX complete

41. じん - メカクシティレコーズ

42. wowaka - World 0123456789

ボカロからはこの4枚。トーマはアザレアよりも「Eureka」の方が収録楽曲が強いし作家性という意味ではこっちの方が上。「PANDORA VOXX complete」はかっこよさの"全て"が入ってる。この中で一番すごいのは「メカクシティレコーズ」全トラックアクセル全開。ハズレなし。この話についてはいずれ詳しく取り上げます。さて最後はwowakaから同人の「World 0123456789」を選びました。こっちの方が濃度が高い。やりたい音楽の方向性が最初から決まっていたことがわかるし、それを彼は生涯追求し続けたという点が非常に偉大なところです。

 

まぁざっとこんな感じですかね。他についてもそれなり以上に好きなのですが、それについてたらたらと書くのもアレなので。今回は42枚の中でも特にこれが好きという意思表示をする回にします。

 

みなさんも今一度振り返ってみて42枚を考えてみてはいかがでしょうか?

www.neverendingchartrendering.org

で作れます。パソコンでやった方が作りやすいです。

 

それでは駆け足で大変申し訳ないですが、これでも5000字を超えているのでこのくらいで締めます。5/21の日曜日には没原稿をあげる予定です。こちらは寄稿文章で採用されなかった文章なので、まずはこちらをお買い求めいただいた上で読んだ方が面白いので、距離的な意味では行ける方はぜひ!!

sai96i.hateblo.jp

それでは日曜日にまた更新できればと思ってます。

最後に偏愛ver.を載せて締めとします。

ありがとうございました。

 

偏愛ver. サムネイルはわざとこっちで設定しました。

 

*1:ちなみに偏愛ver.は最後に載せています。

【宣伝】シャフト批評合同誌「もにも〜ど」に音楽論を寄稿しました。

2023年5月21日に開催される文学フリマ東京36の第二展示場 Fホール  |  か-67にて設営されるサークル「もにも〜ど」にて販売されるシャフト批評合同誌に音楽論を寄稿しました。初寄稿です。合同誌で332ページというのはどうも多いようで、読み応えのある冊子になっていると思いますので、きっと買いに来てくださいね♪(あにもにさん風)

 

 

 

主宰者様は「シャフトの作品が世界で一番好き!」と豪語されているあにもにさん。

この大胆な基調には嘘偽りなく、相当シャフト愛が凄い人です。週末批評というサイトにて掲載されている中で一番レビュー数が多いアニメ論考記事を書いた人でもあります。

worldend-critic.com

twitter.com

 

と、宣伝記事としてはこれだけでいいのですが、ブログを全然更新していなかったので、その分を含め少しばかり今回の寄稿に関してのエピソードを交えて雑談感覚で文章を連ねていこうと思います。つまり宣伝記事という名の雑談話回です。宣伝記事を背景とした雑談という感じでやっていきます。

 

最初にこう書くのも気が引けますが、今回の記事は書き上げた後に読み返したら真面目に書く枷が外れて、色々なネタ入れてるし、謎にテンション上がっています。が、偶にはそういう回もあってもいいなと思い、敢えてそのままで出します。恥ずかしくなったらこっそり修正します。

 

 

 

以下、本編

何故寄稿できたの?どう言う流れなの?実際書いてみてどうだったの?

という話をします。

寄稿に至るまでの流れというか経緯としては恐らく去年出した*1平沢記事

(良い意味でも悪い意味でも怪文書なので覚悟してクリックすべし)

sai96i.hateblo.jp

がきっかけだと思うのですがあの記事を公開して当ブログ史上最大の反響を呼びその余波が広まってまもない頃です。ちょうど賛賛賛賛賛賛賛賛賛否否否否否否くらいの比率で色々感想と反響がある中、賛の側に立ってくださったあにもにさんから凄いという返事をもらい

(こんなにも褒めていただいたのが兎に角嬉しかったですね)

そこから色々とメッセージでやり取りをしていたところ「今同人誌を作っているのだが、音楽論の寄稿をしてもらえないか(意訳)」という話になり、二つ返事で引き受け、去年の年末から5月9日くらいまでずっとそれに取り掛かっていました。かなり遠回しであるが、一応それっぽいことは

sai96i.hateblo.jp

の記事で

と書きながらこの記事を書いている作業BGMはなぜかカラフルだったりコネクトだったりmagiaだったり魔王だったりするわけですよ。いってみればマイブームですね。年に一度くらいはまどマギ12話分を見たくなる時ってあると思うのですがその影を引きずっているとでも書いておきます。シャフトの音楽ってなぜあんなにも魅力的なんでしょうか

と誰もわかるはずもない仄めかし文章を入れたりしていました。

ただ、今回の寄稿記事の肝はある意味この一文に集約されていたのかもしれない。物凄く察しがいい方や、自分の文章の書き方を知っている人であれば、ここからどう言う風な文章を展開したのかが分かるはず。

原稿を脱稿した後にみるとこの時点でああいう原稿になることは決まってたいたなと。

それはさておき

あにもにさんはシャフトオタクと言う意味では自分から見たらアンドロメダ星雲(M31)くらいの距離感がある(つまり相当レベルの高いシャフト愛好家)という認識であり、そんな方からの寄稿依頼だったため、これは全力で応えなければという思いで取り組まなければならない。最初にお話をいただいた時は自分なんかが書いてしまって良いのかという意味で強く困惑しました。果たして上手く書けるだろうか。ただ、一方で自分に声をかけていただけたことが嬉しく、後先考えずに快諾をして原稿を書くに至りました。今のブログのスタイルにして良かったと思うばかりです。

漸く「何か」が報われた気がしました。

とはいえ、シャフト作品の音楽論という与えられたテーマ。主題は決まっているものの、気軽に二つ返事した後の自分の心の中では

シャフトの音楽について映像と絡めて書くってどうすればいいの」という気持ちの一点張り

今回の論考にて取り扱った作品自体(まどマギ物語シリーズ)は流石に10年以上経っている作品であり、特にまどマギはオリジナルアニメとしては大変評判を集めたので、音楽に絡めたネタも考察の一部としては各所に既出しており、その意味では目新しいものはないですが、それらを纏めて「音楽論」という主軸で真面目に書き切った文章はプロアマどちらの領域でも読んだことがないのです。つまり先行者が(ほぼ)いない状態からのスタートなので、その意味では執筆難易度はこれまでで一番高い&それが寄稿案件記事というWセット。

(自分が知らないだけで、例えば外国語圏では展開されているのかもしれないが)

そこからはじゃあどうすればいいのっていう自問自答芸の毎日ですよ。ひたすらホワイトボードにドラマ*2ガリレオ』の湯川学(今は教授になってた気がする)を演じる福山雅治気分で脳内の展開図を書きまくって解法を導くという地味な作業ですよ。bgmもちゃんと『知覚と快楽の螺旋』を流しつつ「実に面白い」と心の中で言いながら。

この例え読者に通じるのかな。

(とはいえ挙げている自分も全然世代ではないのだが)

vs. ~知覚と快楽の螺旋~

vs. ~知覚と快楽の螺旋~

  • 福山 雅治
  • J-Pop
  • ¥255
  • provided courtesy of iTunes

 

ただ、それでも難航を極めた。

元々「映像・演出と音楽との関係性について語る」というのは別にシャフトというのは抜きにして一応に難しい。本来、絵と映像の相互性といのは言葉にしたくてできない言葉を、という論理ではなく、本能的にいいという感覚を共有するものだと思うのです。

自分はあまり用いないが「エモい」というのは要はそういうことだと思うのです。言葉では言い表せないけどなんか凄く刺さりましたみたいな意味合い。そう考えるのであれば土台言語化するものではない。が、今回はそこに首を突っ込んだ。それでいうと一番難しいのが鷺巣詩郎エヴァである。昔から「エヴァ」は色々な知識人によって様々な事が沢山語られてきた作品ですが、鷺巣詩郎の音楽性について真面目に語っている人っていないと思うんです。多分これを達成できたら生涯誇れるレベル。

(だからこそ誰かがそれを達成してくれることを望んでいるのですが出ないですね〜)

ならばシャフトの音楽性はそれに次ぐ難しさ。というか「まどマギ」でまさに同じ現象が起きている。

「あのスタジオのことだから独自の舵を切った方向性なんだろうな〜」

という漠然とした感覚しか分からなかった。これだけでした。それについてこれまで真剣考えたこともなかったため(というか端的に言って分からない)、どのような切り口で書けば面白い文章を提供できるのかという点についてはとても悩みました。

これまで考えたこともなかったテーマに対して、どのように活路を見出したかについては原稿にチョロっと書いてあるのでそちらを読んでいただければと思います。

本当にあの手掛かりを見つけられたことは地獄に釈迦が垂らした一本の糸であった。『蜘蛛の糸』(1918年)に沿うならば寄ってたかって罪人達が来る展開を迎え、独りよがりな自分も再度地獄に落ちるはずですが、その糸を見つけられた人物がどうやら自分しかいなかったようで見事地獄から抜け出せたそんなレベルだったので我ながら良い意味で憑いてるなと。

 

以上のように苦労こそしましたが、原稿自体はある時を境にかなり順調に進み、その辺りから書いていてずっと頭の中で「なぜこのネタを思いつけなかったのか」と物凄く後悔する程度には面白いものを書けました。まだ誰も書いていないであろう文章も幾つか書けました。

本稿には不要と判断されたので載ってませんがまだまだ書けることはあるなと。とはいえ残したい文章ほどカットされたのは結構心にきましたね。いい勉強になりました。

そのため、今回の原稿にあたってボツになった文章は没原稿集としてこのブログに全て載せることで供養します。販売される日21日の夜に出します。恐らく全員が読み終わった頃合いで、色々と読み返すタイミングになります。こういう没原稿というのは読者が寄稿文章に対して熱を入れている時に出して読んでもらうのが一番だからです。コーヒーが冷めてしまっては味は低下するのと同じ理屈です。そういえば『コーヒーが冷めない内に』という色々な意味で面白い映画がありましたね。あの作品のキャッチコピーを覚えていますか?「4回泣けます」です。

 

脱稿して一番に感じたこと

論考・寄稿文章には全く向いていない

二度とごめんだというマイナスの意味ではなく、単純に自分には圧倒的に不向きであったということです。薄々分かってはいましたが、元々論考を書けるような高度な脳みそも持ち合わせていないのです。

(PSYCHO-PASSを見るたびにシビュラシステムの200個ぐらいある内の脳みそを一個欲しいなと思います)

今回の場合はブログ記事ではなく、シャフト批評合同誌ということもあり文章・構成ともにビシッと纏まったものを書かないといけない上に、読者層もシャフトガチ勢・アニメ映像ガチ勢という人たちが主要層であり、それすなわち自分の持つ総知識量の2倍は持っている凄い人たちが読むものという印象があったので面白い文章では生ぬるいと思い、超面白い文章を書く努力をしつつ、文章に対する気遣いを相当意識して初稿を書き上げたのですが、それをあにもにさんに校正していただき、返ってきた文章を読むと全く違う文体に生まれ変わっていた時の驚き。自分では絶対書けない文章がそこには展開されていました。ブログではお馴染みの脱線も当然削られており構成も読みやすいように魔改造されていました。

脱線に関して勘違いされやすいので弁明をすると自分としては主題に対して読者が絶対納得するくらいの説得力と面白さを伝えたい熱量があの長大な文を生成するのであって無理に長くしようという気は更々ないです。なので衒学的、冗長などという感想は自由ですが書き手としては全くそういう意図はないので悪しからず。

 

分かりやすいように構成・文章力の能力値を例えるなら自分がボール(RB79)で、あにもにさんがビグ・ザム。そのくらい*3差があるわけです。あまりの変容さに唸ってしまいました。書いてある内容は紛れもなく自分が出力したものであるにも関わらず読みやすさが全く違っていました。なので、普段のブログ記事の文体を知っている人からすれば、とっても読みやすいと思います。あにもにさんが編集してくださったおかげで素晴らしい文章になりました。寄稿実績第一弾にして最高傑作になった感覚があります。デビュー作というほど大それたものではないですが、それに倣うのであればまさしく

「デビュー作が最高傑作」

「デビュー作に全てが詰まっている」

というのを*4体感した気がします。

原稿のおおまかな 変容は

*5初稿(全文rino文章)を5万字ちょいで提出

シャフト音楽論という発想を先に思い付いてればこの5万字をそのままブログに投稿していたことでしょう。どうにかしてこの文章も公開したいが、本稿の関係上で出すのは難しいでしょう。色々考えます。

幻の記事

あにもにさんの校正・修正が加わった段階の第二原稿(3万文字)

そこから更に自分のリライト・追加文章を入れた第三稿(4万文字)

そして再度あにもにさんの文章調整が入った第四稿(3万6000字程度)

脱稿

という形です。

寄稿自体が初めてということもあり、こういう場合の寄稿の文字数の加減が一切分からなかったです。普段ブログにおける平均的な字数が1万字~2万字、時たま5万、9万字という字数を書き上げた自分の感覚からするとそんなには長くない。と個人的には思っていたのですが、色々調べた結果批評寄りの寄稿文章で3万字を超えると多い部類になるそうです。小説だと体裁の関係上、そのくらい普通らしいですが。普段書いている字数長文過ぎて感覚が麻痺しています。今回の合同誌では最多の量になったそうです。つまり一番ページが刷られていると考えるとなんだか緊張しますね。

 

この流れからもわかる通り、文章を書くことは関心のあることであれば音楽に限らずそれなりに以上の量を書くことは出来るが、それらをまとめるのが絶望的に不得意なこともあり、構成力もダメダメであるということ。そして冗長。それが思いっきり現れていて、修正されていく様は自分のダメさ加減が分かって愉快であったのと同時に、だんだんと自分の文章から随分と遠ざかっていった&カットされていき、ダメだ〜と感じたことから「文章寄稿なんて向いてないな」という結論に。

 

隠すようなものでもない書いてしまうが、自分の書き方まず〇〇についてという主題となるアーティストを決めるところから始めるのですが、基本的にそこから先に何を書くのかはほぼノープラン。そこから先は自分でひたすら考え抜いて生成した文章を打ち込むだけです。

 

普通であれば、そこから書き上げる文章の順番というのは1-10という括りで例えるのであれば、順当に1、2、3という形で大項目を積み上げ、自分の考えを披露していく方法をとっている方が大多数だと思うのですが、自分の場合はどうしても先の形で書いているため思考回路がバラバラで1,9,2,5,3,4,10,7,6,8というような形で小さな項目をバラバラに文章を書いて最終的にそれらを統合するケースが大半です。

結果まとめる際に収集がつかなくなって投げやりになるというパターンが常。それでもかなりの人が記事を読んでいただけるのは非常に嬉しい限りなのですが。そんな書き方をする自分にとっては寄稿文章というのはかなりハードルが高かったです。書いている時は楽しいですけど。やっぱりブログで特段なにも気にせずタイプしてるほうが圧倒的に楽だし、自分に向いていると思いました。

 

まぁそんなわけで、そこら辺にいる音楽好きがシャフト批評合同誌に音楽記事を提供したよっていうお知らせ・宣伝記事でした。今回寄稿した文章については、どこかに転用する気は一切ないのでここで買わないと読めない文章になります。

 

内容についてはまぁ読んでくださいとしかいいようがないですが。かなりの自信作です。端的に誰でも書けることは書いてない。その意味では込み入ってます。正直な話自分のリライト・新規文章含め、一切手の入っていない初稿の方が情報量の濃度は高いし、面白いです。ただその分「もにも〜ど」に掲載されている本稿は主題に対して明確な一本線が引かれたうえで論を展開しているので論考としてとては素晴らしい出来になっている(と思います。)

 

論考となると、よくありがちな冒頭に哲学者の言葉を引用する衒学的な仕草の文章が多いせいか、難解という印象を受ける人もいるかもしれませんが、そういう感じではない(というかそんな高次元レベルな文章は書けないし書こうとも思わない)のでそこの点についてもご安心を。難解な事は何一つ書いてません。とっても親切な内容です!!

 

ただ、書かれていることを全てカバーし、なおかつ取り上げている音楽について全て理解した上で完読という意味での難易度は相当高い方だと思います。その意味での難易度の高さは過去一。もちろん読み手によりますが、自分が寄稿した論考を読む前と後では、シャフト映像の見方や劇伴音楽の聴き方が変わる人が大半だと予想しています。

そのくらいの絶対的面白さってやつはあります。それこそ今回の寄稿記事の中で一番面白い文章であると。

書き手がそのくらいの意気込みで書かなければ、読者にその面白さが伝わるはずがないので当たり前ですが。少しだけ強調し、孫子大先生のお言葉を借りるのであれば

勝兵は先ず勝ちて而る後に戦いを求め、敗兵は先ず戦いて而る後に勝を求む

まさにこれです。この場合勝ち負けではなく、面白さという意味ですが。

まず確約された面白い文章を書いてから、読者にその面白さを実感してもらう。

これが一番です。

読者にとって面白いかなぁ〜と疑いぶって書いた文章はあまり意味をなさない。いつにも増してなぜこんなにも面白さの自信を声高く主張できるかといえば、雲の上の存在であるシャフト愛好家のあにもにさんですら、初稿を読まれた際に「やられた!!」と思った箇所があったことが幾つかあったとのメッセージをもらった事が大きいです。であればこそ大半のシャフト好きも同様の感想を抱く(はず)であろう。

 

自分が出せる全体の熱力の内、約8割(9,10割の熱量で書く文章は絶対出ないのでその意味では最高値)の熱量を持って書いたのでまずもって面白いと思います。その上、あにもにさんによる魔改造が施された校閲・校正によって究極の文章になっていますので是非お買い求めください。その意味では*6コードギアス』のKMFでいう紅蓮からの紅蓮聖天八極式になった魔改造レベル。

そして読んでくださった方々には感想を頂きたいです。初寄稿ということもあり、買い手がどのように感じたのかがすごく気になるので、よろしくお願い申し上げます。

ツイートでもDM、メール、この記事のツイートのリプライ、或いはリアルで自分を知っている人は直で、とにかく伝達方法はなんでもいいので実際に読者がどのように感じたのかは知りたいので賛の意見はもちろんのこと、「つまんねー」「面白くない」といったマイナスな意見もいくらでも受け入れますので、ご購入された方は何らかの形で感想をいただければと思います。自分の中でちょっと背伸びしすぎたかなっという文章も書いたので、そこに対してどういった反応がくるかが楽しみです。

色々書きましたが、一番の想いとしては質・量云々よりも、読んだ皆様に何かしら得るものや、感じ取れるものが1mmでもあればいいということです。それだけでも自分が書き上げた文章は役割を果たせたのではないかと思います。

 

というわけで最後にもう一度告知します。

今回自分が寄稿した音楽論は

2023年5月21日に開催される文学フリマ東京36の第二展示場 Fホール  |  か-67

にて設営されるサークル「もにも〜ど」より発売される

シャフト批評合同誌に掲載されています。

是非お買い求めください。

 

moni-mode.hatenablog.com

moni-mode.booth.pm

*1:この記事も実は、少しずつ改稿しています。あと大変嬉しいことに出してからまだ200日も経っていないのですが、平沢進について書かれた一般ブログの記事ではかなり上位に入ってます。これは読んでいただいた皆様のおかげです。大変嬉しく思います。

*2:『沈黙のパレード』よりも『禁断の魔術』を映画に回した方が良かったのではないかと思うのは自分だけでしょうか?

*3:今時1stガンダムで例えるのもどうかとは思いますが、この記事を読みにくる層を考えればまぁ押さえているはずなので1stで例えました

*4:作家の場合は基本全力でないとダメだからこの論調は半分以上正しい。

*5:ちなみに募集要項では1600-20000文字で倍以上オーバー。自分以外にも既に3万字の原稿があると聞いていましたし、あにもにさんには逐一連絡を入れていたので、向こうも倍以上の原稿というのは把握した状態でしたが

*6:見た事がない人はこんな三文記事を読む前に全50話を今直ぐ見てきてください

2022年に出した記事の振り返る&雑話

いつの間にか、12月30日を迎えているわけですが去年、と一昨年12月30日に振り返り記事を出しているので、どうせなら今年もだそうというノリでお届けしようと思います

 

とはいっても、今年出した記事数はなんと8記事。せめて12本とは思ってはいたのですが色々と想定外なことが発生し、ブログなんぞに油を売ってる場合ではなかったので結果的本数として8本という形になりました。ネタと下書き自体はあるわけですが、それを仕上げるにはかなり時間がかかるわけですよ。一度この手の記事を書いたことがある人なら分かると思いますが。そう考えると去年はかなり豊作だったなと思います。

伊福部昭久石譲菅野よう子、amazarashi、VOWWOW、レミハラカミ、まふまふとちょうどいい感じに10代〜60代の老若男女がどこかしらで引っかかるであろう幅を網羅していたわけですから。この振り幅の高さは別に狙ったわけではなく単に自分が好きだからという理由で出したわけですが、結果的に色々な世代が読むような記事ばかりを出したなという印象です。ありがたいことに上に列挙したアーティストの記事は全てアクセスとしてかなり上位層です。過去に読んでくださった方やこれから読んでいただく人に対して最大の感謝をここでしたいと思います。本当にありがとうございます。

っじゃあ今年はどうかという話ですが、平沢記事を出すことが精一杯でした。相当な無茶をしたとはいえ平沢進特集の1本出せたことは個人的に大きいですね。巨大に膨れ上がった結果、文字数も9万字。たしか西尾維新終物語もそのくらいの文字数だったと思う。まぁそれはどうでもいいが、このボリュームを考えると、12ヶ月で割ったとしても7417字。1ヶ月7417字書いたと考えれば十分だと思うんですよね。実際にかかった期間は5ヶ月なので、1ヶ月18000文字という計算にはなります。

sai96i.hateblo.jp本記事を出したツイートはrtが二桁、いいね三桁という自分史上もっとも拡散されたこともあり、反響は過去一番という結果を残せたのは我ながら凄いと思いました。

これまで「これくらいの反響はあっていいだろう」という記事に限って反応が薄いというのがざらにあったため、そういう意味では初めて報われたといってもいいですね。

アクセスも順調に伸び、既に想定通りの人気常連記事になっていることからも色々な人に読まれていることを実感できなによりといった所です。ただし、この記事の面白さの演出と形容すべきか、秘技的な書き方をしているので一回限りという奥手みたいなものなので、再度このクラスの記事を出すにはちょっと時間がかかるので、この手の反響も一度きりだなと思ったり。平沢進に関しても全体構想の1/3程度しか語り尽くせなかったところを含め切り口はたくさんありますし。まぁ気が向けばって感じですかね。

 

レポートやネタがない時の雑話を除き、当ブログの本分でもある特集という意味で今年書いた記事は以下になります。

sai96i.hateblo.jp

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こう見るといかに、中途半端な記事ばかりを放出し逃げに走っているというのが丸わかり状態ですね。

・ストラヴィディリウス/プログレ発展編

この記事に関しては当たり前というか基本的なラインしか書かなかったですし、プログレ発展の記事に関しては完全に「プログレをわかった人」でないと読み応えがない記事というベルカーブの端っこにはすごい需要があるかもしれないけど真ん中ラインではないみたいなところがありますし。セレクト的には結構面白いアルバムを選出できたとおもいます。やっぱり当初の草案で書いた方が受けとアクセス的にはよかったですが、そうした場合既に色々なブログで発表されている量産型記事にしかなり得ないので敢えての邪道ラインを狙ったわけですが、案外これが好評であるのも事実で、驚くことに「隠れた名盤 プログレ」でGoogle検索をするとなんと一番上に出てくるというクリティカルヒットぶりを発揮してくれました。書き手にとってニッチすぎて受けないだろうな予想とは裏腹っぷりです。

 

・amazarashiのロストボーイ

アルバムが現時点での最高傑作であり、今の秋田ひろむの限界点を出し切った作品でもあったと一回聴いただけでわかったからこそリリース日に出せたわけですが、二ムロドのくだりをすぐに気づけたのはなんとなく嬉しかったですね。日々の読書成果というものは意外なところで思わぬ作用として効きますね。奇しくも昨年のamazarashi特集回でもamazarashiを聴くだけでは見えてこない視点が読書をしていたことで見えて、結果的に面白いことを書けたのでそういう意味で活字に触れる大切さを実感したりしなかったり。

 

・映画劇伴音楽

ヴァンゲリスが亡くなったことをうけて今一度どういった映画音楽作家であったのかを考えてみるというのが趣旨でしたが、案外上手くかけたなと思います。大作主義のアメリカ人の作る劇伴とヨーロッパ人が作る劇伴の音の性質、出し方、メロディの違いという線を引いた上で、国も国籍も違えば育った環境も違うわけで、そうなると音に対する向き合い方も当然違う。それが如実に音楽としてでていることを簡易的に説明できたとは思う。ヴァンゲリスと同様ヨーロッパ圏の映画劇伴作家のヨハンヨハンソンを持ち出すことで大作主義のアメリカ産映画音楽との違いはずいぶんと明瞭になったと思います。本来であればもっと色々な劇伴作家を持ち出して映画音楽劇伴総論みたいなところを狙ってはいたのですが、前提が説明しきりなかったところがあるのでそれらのネタは今後のために保留しました。多分そう遠くないうちに出るとは思います。多分。

 

・ryo(supercell)作家・音楽論

ここにきてようやく分作という手を使ったわけですが、そろそろryo(supercell)音楽の魅力を少しでも具体的に説明できる記事が書きたいと思ってはじめたわけです。supercellではEGOISTのことを触れられないしその逆も然り。では全体としてどうかという視点で考えてみようというのがこの特集の肝。ryo(supercell)の楽曲はなぜ量産型ではないのか、なぜ洋楽的なアプローチがあそこまでうまいのかといったところを素人ながら解明できればなと。今のところ全5回を想定しています。おそらく一番面白いパートは次回の第二回目だと思います。いつ終わるかはわからないですが、こちらも気長に待っていただければと思います。

 

雑話

振り返り記事なので記事としての面白さがないので、ちょっとした雑談的というか、中の人が壁とキャッチボールをしている感覚で書きます。ここの文章はリアルタイムで考えて打っているので随分、いつもよりも俗っぽさが増します。まず最初に、音楽ネタとして最近はルイスコールがいいなって思っています。作業BGMに多用しているので気になった人はぜひ。こういう音楽に惹かれる感覚ってなんなのだろうと思ったりします。

Failing in a Cool Way

Failing in a Cool Way

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と書きながらこの記事を書いている作業BGMはなぜかカラフルだったりコネクトだったりmagiaだったり魔王だったりするわけですよ。いってみればマイブームですね。年に一度くらいはまどマギ12話分を見たくなる時ってあると思うのですがその影を引きずっているとでも書いておきます。シャフトの音楽ってなぜあんなにも魅力的なんでしょうか。「私、気になります」と千反田えるなら言い出すだろうなと思ったり思わなかったり。でもこのブログの性質からすると福部里志的に「データベースは結論をだせないんだ」と書きたくなったり。まぁ古典部ネタはともかくとしてシャフトの音楽が最近の流行りってことです。来年はもうちょい面白い文章をお届けできればと毎年ながら思うわけですが、少し変わったアプローチのものを出せればと思っています。そのための準備も進めています。ブログネタから引っ張るとしたら今年最大の収穫は実はアニソン派vol9だったりします。堀江晶太とじん、説明不要のこの二大巨塔作家が、赤裸々に色々な想いで曲に対する哲学とまではいいませんが、スタンスを語っており、案外そこに主宰であり司会でもある田淵/田代さんも同じような経験があったというのが面白いなと。

中でも堀江晶太氏が言っていたフレーズが印象的でした

詳しくはこちらを参照してほしいですが

sai96i.hateblo.jp

引用すると

「僕らは良質なジャンクフードをつくっている」

「誰が食べても美味しいハンバーガーを作りたい」

ポップス商業作曲家の本質でもあり、アマチュアとプロの差という意味でも通じる。元々そういう感覚って当たり前のこととして持ち合わせているとは思って居ましたが。

とかく商業で、しかもお手頃の値段のものである場合は完璧な物をを目指すよりもまずは完成させろとよくいいますが、似たようなもので自分の作家性などに拘らず、ひとまず誰が聴いても「良い」と思われるような楽曲を作ることが大切というのはプロとしても非常に大事であることを再認識しました。しかもそれを堀江晶太というアニソン、ゲーム音楽ボーカロイド音楽、アイドル音楽など数多のシーンで「誰が聴いても良い」音楽を体現し続け、結果を残している人が言うからこそ余計に説得力があったわけです。こうした考え方は消費者でもある我々にとっても物事を考える思考の一つとして非常に重要だと思うんです。この視点を用いて巷のテレビ番組バラエティを考えてみましょう。ファミレスやコンビニといったお手頃の値段で買える食品、それこそジャンクフードといっていい商品に対してミシュランが〜、世界料理チャンピオンが〜系の大層偉い職人様がいちゃもんをつけ、更にそこに合格不合格を判断をするという番組がありますが、あれは非常に品性に欠ける低俗極まりない(元々テレビ番組自体がそうですが)。本来言えばあんな馬鹿みたいな番組はそもそもが企画倒れだと思うのです。元々が高級な食材をつかって料理を目指している高級料理を日々鍛錬し作り、旨味を追求しながら料理の腕を上げている職人たちの世界レベルからすればたかが数百、千円のジャンクフードなんてもれなくアウトに決まっているんですよ。味覚の洗練さも絶対違うわけですし。だからそもそも茶番でしかない。ファミレスやコンビニで並んでいる商品はある程度の差異はあれどどこでも気軽に誰もが安く手に入れることができるというサイクルが前提なわけですよ。だからこのサイクルに対しては「良くできている」というアンサーでなければならない以上合格不合格もないわけです。当たり前の話ではありますが、評価をつける側の職人側も自分たちがいるプロの視点ではなく、相手の客商売としてのスタンスとしての立場を理解し、同じ目線に立った上で評価ができればみている視聴者も「まぁバラエティだしこんなもんだろ」と思えるのですが、そこでプライドかなにかが働き、辛辣なコメントをするからこそネットで荒れる。「コンビニ食として/ファミレス食にしてはよくやっている」という考えがはいっていない状態の思考として「超高級料理を作る職人が誰でも食べられる安い商品を採点した結果」という、明らかに乖離した状態からコメントをするという愚かしさには流石に出演者の採点者も気が付いているとは思いますけど。まぁ色々書きましたが、要はどの世界であっても一概にプロといっても目指しているものや土台、スタンスが違うのだからそこを同業者というくくりで無理矢理くっつけても意味がないと言うことです。スタンス批判なんていくらやっても無意味無価値ですから。

 

・藤原聡はすごい

某坂本裕二のフォロワー脚本が書いたsilentというドラマが今年流行りました。番組自体は追えていないのですが、せめて主題歌くらいはと思って聴いたらどこからどう聴いても藤原聡の声が流れてきてしかもその楽曲がずっとトップを取り続けていると言うニュースをみると、これまでの楽曲の幅などを考え、10年代最大のポップス作曲家のスターは藤原聡なんだと再認識しましたね。すごくダースホースだとpretenderの時思って居ましたが、まさかここまで化けるとは。今後に期待ですね。

 

アバター2

13年越しの続編。面白いかったけど王道すぎた。実はyahoo movie レビューに投稿しているのでどれとは敢えてとは言いませんが、それを読んで欲しいです。多分文章の書き方的に分かると思います。因みに星5で投稿しています。どうしてもどのレビューかを知りたい方はDMまで

 

・ryo(supercell)新曲:『君よ、気高くあれ』の全体的な印象

君よ 気高くあれ

君よ 気高くあれ

  • シユイ
  • J-Pop
  • ¥255
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正直パンチとしてはそこまで強くないが、方向性としてsupercellではなくEGOISTのボーカルだったchelly寄りの歌い手を選出したのは割と面白い。なぜならMECRE賞の楽曲を歌うのもそれと同種の声質を持った人だから。これまでのryo(supercell)のボーカルにはあまりなかったタイプなので新境地かと期待を寄せることができたと言う意味では中々聴きごたえのある楽曲でした。来年こそはspclのアルバムを、、と言い続けて5年くらいたつのでそろそろ出してくださいと、薄い望みを願ってます。でも魔法使いの夜の映画が来年であるのならば多いに期待できるはずです。

 

・最後に

結局ryo(supercell)に関するコメントでで締めることになりましたが、今更といいますかいつものことです。色々無駄話を書きましたがチラシの裏なので、なんかいってる程度に受け止めてもらえればと思います。来年もわかり易く、面白くて広くて深い論考記事を出せればなと思ってますので来年も当ブログmusic synopsis(とまふまふ速報)をよろしくお願いします。

(こっちのサイトではそういう文章は記事としては出さないと思うのでこのブログで済ませます)

mafusoku.com

 

それでは。

 

 

 

平沢進楽曲の超現実的光景の源流を多角的視点で徹底解説

※当記事は文字数が9万字以上ある記事になります。

そのため、時間がある時に閲覧すること、また字数の関係上スマートフォンでの閲覧よりもパソコンやタブレット端末での閲覧を併せて強く推奨します。

 

・はじめに

これまで久石譲菅野よう子といったメジャーでありながら知名度も抜群であり多大なフォロワーがいるという、いってみれば名実ともに全員が納得できる偉大な大家について書きました。つまり大衆が愛すべき作曲家に焦点を当てました。しかし今回はすこし捻った特集を組みました。

マイナーだけど何故かメジャーアーティストとして有名という音楽版の諸星大二郎とでも形容すべき人物、つまりは平沢進です。まず音楽版の諸星大二郎とはどういう意味なのか、という点についてです。

同業者からは絶大な支持があるもののより広域的な範囲では知られていないという存在を形容するものとして「ミュージシャンズ・ミュージシャン」という単語があります。

諸星大二郎宮崎駿押井守今 敏庵野秀明といった映像クリエイターの大家としてネームバリューを持つ人たちが口を揃えて支持されており、その他のクリエイターからも支持があることから漫画家界隈における、「漫画家が褒める漫画家」という特異的な立ち位置でありある種の熱狂的な指示を集めている一方で大メジャーな作家ではない。

その意味で同様に平沢進はまさしく「ミュージシャンズ・ミュージシャン」といえる存在だ。が、そういうクリエイターというのは往々にして語りにくいし、語られないし、語れない場合が多い。日本の音楽家の中でも平沢進の三文字ほど、語ることが難しいアーティストもいないと自分は思う。インターネット音楽が発展した超情報化の中、多様な音楽が創れるようになり、ジャンルは違えど古くから一風変わった芸風の作曲家というのは存在しておりimoutoidnujabesレイ・ハラカミ最近だとserphや長谷川白紙そしてPuhyuneco等(選出がイマイチなのは勘弁)がシーンに出てくるような今でも平沢進音楽の極北感は揺らがない。海の外まで行けば、話は別になると思う。実際、スクエアプッシャーぐらいのアーティストまでいけば、聴いていて中々唸るものがある。が国内に限っては平沢音楽というのはビジュアル含め唯一無二の異端といえることはまず間違いない。

 

本題に入る前に今回、私がなぜ、平沢進を取り上げる経緯に至ったのかという経緯を端的に書きます。まず最初にこれを読んでいる人は平沢進と聞いて果たして何を連想されるだろうか?

私見ではあるが以下に当てはまる人が大体であろう。

そして、その誰もが「独特な世界を構築している」という言種だけは共通の認識だ。

だからこそ、その異様さ故にパターン化されたメゾットで生み出される大量生産される大衆ポップスの耳しか持っていない(持てない/聴かない/聴けない)人たちからは

「なぜ人気なんだろう?」

という疑念も立つし、怪しげな雰囲気から引いてしまう人も多いのも事実。

確かに側から見れば怪奇極まりない雰囲気を醸し出しているアーティストではある。

googleより、平沢進のサジェスト一覧

それもそのはず、色々なメディアやクリエイターを通しての知名度はあるが、その実一番大事な音楽性は人知れずな点がところが多い。というより体系的な意味で、どういう文脈で語るべきアーティストであるかがネット上では具体的には語られてこなかったと思った。ネット上には既に幾つか記事が上がっているが、より広域的な視野や思慮をもって書いている記事は少ない。当然、知見に富んだ文章も多々見受けられるが、平沢進を語るという題目に対して書かれたものとしてはやや物足りなさの方が上回る。

 

熱意あるファンが公式や平沢進本人が提示している影響を受けたものを記録としてまとめたサイトなどもあるが、それらも所詮ただの記録でしかなく、それがどのように反映されていて、平沢進がどういったアプローチをしているかという領域には至っていない。情報化社会の今、情報が氾濫している現在のネットの海の中には徹底解説というタイトルと名ばかりに経歴と代表作を並べ、人気楽曲の動画リンク(しかも無断転載ものを堂々と)貼っておしまいといった具合で「よくこんなものをネットにあげられるなと」いうお粗末すぎる低次元極まりなく、まるで自分が海の藻屑であることを露呈しているような記事まである始末です。

だからといって気の利いた紙媒体の書籍もなく、発達した現在のネットの大海をみても具体性なものは先述のような理由で特段存在しない。平沢進という、一部といえ界隈一つを作り上げる人気アーティストであり、その上キャリアが四十年という年月をもつ表現者であるのにも関わらず、その実態を知ろうとしても掴めない。これは非常にまずいと思うわけです。この現状があまりにも悲惨かつ、陰惨と感じたため「まだマシなものを記録として残そう」という気が立ったというわけです。つまり既存記事よりは深い思慮と広い視野をもった記事が必要であると考えました。

 

以上の理由で今回、音楽業界-アンダーグラウンドなX(旧twitter)アカウントまで魅了し、幅広い領域にフォロワー/ファンがいる平沢進の音楽と世界観について、徹底的に語ろうと思います。なぜああいう音楽性なのか、そしてどういう遍歴を経てああいう形になったのか?という点を重点的に、そしてそれらがアルバムにどう反映されているかという所も混ぜ込みながら書いていきます。

 

当記事を最後まで読んだら曖昧な表現で魅力を語るのではなく、もう一歩踏み込んだ角度・視野から余す事なく言語化できる程度にはなっていることしょう。また、過去の特集記事以上に相当数、迂遠的な視野であらゆる角度から俯瞰するため平沢進以外の事柄についても深く言及します。それらを総合的に把握できてはじめて平沢進の総体が分かる。そんな構成で書こうと思います。なお、予防線として事前に断っておきますが書き手はリアルタイムで追っている世代ではないですし、ネット記事特有の独断と偏見と思われる文章等はどうしても入ります。言語化できないゆえの平沢音楽だというのは大いに分かりますが、そこを敢えて言語化するという難題に挑戦するというのが当ブログを読むにあたっての面白さであり、楽しさですのでご勘弁を。

 

平沢作品を読み解くための補助線

前置き

どういったサウンド・音楽から始まっているか。「デビュー作に全てが詰まっている」という言葉があるように、いかなる表現者も作家・アーティスト性を出す時は最初にどれだけ出せるかが肝心である。そこでどれだけ全力投球をできるか。では平沢進の場合はどうか。まずはデビューに至るまでの音楽遍歴を考えてみる。ポイントは70年代、プログレッシブロックの二点。わかる人にとってはこの2つのワードのみで、如何に語りがいのある領域かがわかるはずです。詳しいことは後述します。

まずここで出てくるのがファンであればご存知*1MANDRAKE (マンドレイク)です。つまりは最初からプログレ音楽で始まっていることがわかる。

とはいえ、今聴くとMANDRAKEの音源は『飾り窓の出来事PART1』と『飾り窓の出来事PART2』とかまさしくそうなのですが、 プログレらしさ全開だからこそのかっこよさが全開なんですよね。和製ということもあるため本家との比較もおもしろいです。今はこういったプログレを全開にやる音楽はほぼないです。そういうミームを受け取り別ジャンルとしてカウントすれば色々いますが、大衆ポップスでやろうなんて考えている人はいない。ましてや有名アーティストは絶対に。それが普通だしそんな博打みたいなことをするはずがない。ゆえに『cry baby』は今の音楽シーン的に考えれば革命的な楽曲と言っても差し支えない。しかしそれは藤原聡のような追随を許さないセンス・才能と勇気と技術があればが『cry baby』というドリームシアターさながらの音源をこういう形で落とし込めることで

Cry Baby

Cry Baby

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を作れるが、普通に考えてポップスシーンにて、こういう楽曲をバンドが大衆に受け入れられた後に出してしまうことが異常であり、尚且つこういう構成でありながら一定のラインは守りながら作曲し、メジャーでしっかりと受け入れられるというのは誰にでもできる芸当ではないのです。つまり現代においても、中々作ることが難しい楽曲性なのですが、それを当時(70年代)のバンドでなおかつ日本にいたとは現在を主流に生きている我々からすれば想像もつかないでしょう。がしかし西洋事情(というよりイギリスプログレ事情)を考えるとMANDRAKEは遅すぎたとも言える。それを踏まえてなおこの路線で行っていればそれはそれで別の未来があったと来ない未来を夢想してしまうものです。

MANDRAKEにおけるプログレ具合はどこからきたものなのか?

この一文から平沢進の音楽、そして世界観等を紐解いていきますが、その前に平沢進が10代から20代前半までの間にどのような音楽があったかを考えていきます。

平沢進が影響を受けた音楽群とその周辺事情

平沢進の生まれは1954年。MANDRAKEでのデビューから解散までが1973-8年のためおおよそこのスパンで台頭した音楽にはリアルタイムで過ごしてきたはずであり、同時に絶対的なルーツとなっており、実質的にメジャーアーティストとしてのP-MODELのデビューが1979年と考えると、この間の25年間の間に出てきた音楽性が平沢音楽の主な源流となる。このパートでは25年の間に台頭したアーティストついて、つまり彼がどのような作品に影響を受けてきたのかという点に焦点を当てていきます。

時期的には日本映画の黄金期ですね。小津・黒澤・溝口が活躍した時代であり、この年はかの名作『七人の侍』と本多 猪四郎監督の初代「ゴジラ」の公開年です。ちなみにドラマでは君の名はという恋愛ものがありますね。偶然性がともない2016年にシン・ゴジラ君の名は。が当時に公開されるのは実に面白い現象です。

サイケデリック以後の洋楽事情

生まれ年から計算するに物心がついた時に60年代という音楽史的に濃厚な時代を過ごした後の70年代という流れをリアルタイムに生きているわけです。50年代音楽は関連してつなげて語るアーティストはいない。その時代に流行っていた音楽といえば

『Let Me Go Lover』(1956年)『Memories Are Made Of This』(1955年)

Let Me Go Lover

Let Me Go Lover

  • Joan Weber
  • ロック
  • ¥204
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Memories Are Made of This

Memories Are Made of This

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こういった楽曲が流行っていた時代ですし、なによりもエルヴィス黄金期。平沢音楽とはよほど縁がないはずです。では始まりの時期はいつ頃なのか。

きっかけこそ、The Spotnicks(1961年)というのは中々分かりやすいところ。同時期の音楽家なら普通ならそこはventuresだろとか思うのですが、この時点でthe spotnicksを選ぶ感性というのがもうその後の全てを決めている気がする。その5年後、決定的な流れに音楽シーンが生まれる。それは平沢進が12歳頃の頃に世に出たThe Beatlesの名盤『リボルバー』(1966年)から始まるサイケデリックの音楽性の潮流だ。時を同じくして米国ではアイアンバタフライが結成されていますし、前年の65年にキャプテン・ビーフハートが結成されていることも見逃せません。翌年にはロック史的には影の名盤として誉れ高いヴェルヴェット・アンダーグランド&ニコもこの時期にリリースされている。その後60年代末にキングクリムゾンが『21世紀の精神異常者』をリリースしプログレという音楽が発達するわけですがそこについては後述します。この段階でもあらゆる潮流が水面下で動いていることがわかる。そんなこんなで70年代を迎えるわけありますが、初期台頭してくるバンドとして取り上げるべきはロキシー・ミュージック(1971年)ですね。一応ニューウェーブとしての側面も持ち合わせていますがそれらの運動が出てくるのは70年代後半なので、まだヴェルヴェットアンダーグラウンド系の音楽のフォロワーとしてのバンドであった時期ではありますが、ロキシーといえば『For Your Pleasure』(1972年)や

sirenなどのアルバムに代表されるように聞き応えのあるバンドです。

アートロック、プログレからなんでもございと言った音楽性が評価されているバンドであります。それらが結実した音楽性という意味で頂点を飾る名盤『avalon』(1982年)は

誰もが認める名アルバムです。DEVOもデビューは73年と初頭ですが、最重要アルバムにあたる頽廃的美学論を出したのは1979年と丁度ニューウェーブが盛り上がっている時期です。そう考えるとDEVOニューウェーブとしての側面が結果的には高くなったものと考える。とはいえ、本作が1stアルバムということもあり、73-78年まで一体なにをしていたんだという話ではあるが。しかしこのアルバムを聴く際にはこの時期が案外関係していたりと思ったり。つまりは彼らがデビューした時期とアルバムを出した時期でパンクからニューウェーブが展開されており、ちょうど橋渡しといってもいい境界線のようなアルバムなわけですよ。

DEVOからは歌唱法をそれぞれエッセンスとして取り入れていることがわかります。2ndの『生存学未来編』(1979年)や3rdの『欲望心理学』(1980年)などのアルバムからも影響は鑑みえそうですが、やはり平沢的には頽廃的美学論が強烈なものだっと考える。

ロキシーミュージック繋がりで書くのであれば、メンバーの一人であり、環境音楽(アンビエントサウンド)の開拓者のブライアンイーノの存在も今となっては欠かせない。このロキシーと同じ枠組みの流派としては*2T.rex(1970年~の所謂T.rex期という意味です)もいますし、その後ピストルズも75年に出てきますし、ダムド、ザ・クラッシュが続いて翌年デビュー。三大トリオがでてくるこの流れはやはりすごい。こうした70年代中期のパンクバンドのムーブメントの意思を引き継ぎ、70年代後半にはポストパンクという形出てくるわけです。カウンターカルチャーの影響で生まれたパンクバンドは、60年代のプログレに代表されるように高度な技術をもった音楽の反発として生まれたジャンル形態であり、言ってみれば「バンド技術は簡易化でよく、大事な事は歌詞性・メッセージなんだ」的言わんばかりのところから生まれた形態ですが、パンクバンドほどの主張されるものではなく、そこで展開された音楽性のみを抽出してそれぞれが色々味付けをしていくという派閥ジャンルです。ここで嫌でも絶対に外せないバンドがウルトラヴォックスやポップグループに代表される存在。ポップ・グループが1978年に過激なサウンド性をもちあわせてデビューしたわけですが、実は日本音楽への独自の影響力を持っておりサウンド性がのちに向井秀徳が主宰のNUMBER GIRLZAZEN BOYSといったバンドなどでああいう曲調を展開していることから、日本音楽の一旦の潮流を生み出したバンドと言える。有名どころだとこの対比でしょうか。あんまり言われなけどピクシーズ以前よりこういう楽曲スタイルというのはあるんですよね。

NUM-AMI-DABUTZ

NUM-AMI-DABUTZ

ウルトラヴォックスは1stアルバム『ultra vox!』(1977年)で出するわけですが、ここで!をつけているのがクラウトロック(後で説明します)のNEU!のオマージュなのがポイント高い。

プログレが発達している時代にMANDRAKEをやり、パンクバンドが本場で隆盛を極めたのちの、P-MODELはパンクバンドで勝負。こうして考えるとアプローチ=工程が変に歪なだけであり、結果として生まれる音楽性から推し量るに意外と流行り乗っかるタイプなのかもしれません。

少し絡めて書くと、浦沢直樹のボブディランやT.rex等のミュージシャンに影響を受け、それ作品に還元するというのは、平沢的なアプローチに近いものがあります。言ってみれば20century  boy→20世紀少年を作るという工程の真逆で、20世紀少年というストーリーから→20century boyという曲を作るという、インスピレーション型の音楽家であることに違いはないので。閑話休題

20TH CENTURY BOY

20TH CENTURY BOY

  • T. Rex
  • ロック
  • ¥204
  • provided courtesy of iTunes

そしてT.rexなども言わば66年以降、デヴィッドボウイやサイケの流れで生まれたアート系な要素をアルバムに取り組んでくるアーティストの流れでもあります。デヴィッドボウイの最も代表的なアルバムにあたる『ジギー・スターダスト』(1972年)が近しいですかね。1969年のSpace Oddity(これは2001年宇宙の旅の現代 2001 a space oddesyモチーフ)や1974年のダイアモンドの犬(1984ベース&テキストをごた混ぜにした上で、ランダムにピックアップされた要素で構築するカットアップ形式での歌詞)にしてもそうですが、デヴィッドボウイのアルバムは真に音楽性あふれる作品ばかりです。

あのアルバムは架空のアーティストでジギースターダストを作り出し、そのジギーが歌うというコンセプトアルバム的な側面があるアルバムです。類例をだすのであればthe whoの『Tommy』(1969年)や『Who's Next』(1971年)といった作品でしょうか?、そして歌詞に物語性を打ち出すということもthe whoが陰鬱な世界観でコンセプトアルバムの形態を取り、そこでロックオペラを打ち出した原点(コンセプトアルバムという意味では1967年にThe Beatlesがsgtが発表していますが)と考えると、やっぱりthe who→平沢へのラインは当然出てくる。実際にthe whoの全盛期はこの3枚が出ている69-73年であることは疑いの余地がない。

Who's Next (Deluxe Edition)

Who's Next (Deluxe Edition)

と同時にここまで来たら察しのいい方はお分かりだと思いますがこれらはパンク・ロックからのグラムロックという流れですね。時期時代を考えればここの音源的影響も当然ある。なんとも羨ましいエピソードもお持ちですし。

プログレッシヴ・ロック

では次に源流核となっているプログレについて。平沢ソロアルバムがコンセプト形態をとっているのもおそらくはwhoの延長線上にあるここからのアプローチも引用しているからであろう。MANDRAKEの作風はここだしそのMANDRAKEのメンバーにピンクフロイドの原子心母を聴かせ音楽性を刷り込ませるというエピソードがあるくらいですから、全体的にプログレに影響を受けている&キングクリムゾンのメインフロントのロバート・フリップを中心としたメンバーで作り上げた21世紀の精神異常者という楽曲の偉大性を前提として語るのであれば、やっぱりピンク・フロイドからの影響は大きいと考える。プログレといえばで4大バンド(キングクリムゾン/ピンク・フロイド/イエス/ELP )というのが存在する(ジェネシスも加えて5大というが、個人的には上4つ)が、一般的な印象としては、この中からさらり絞り込むとキングクリムゾンとピンク・フロイドになる。さらに絞り込むとピンク・フロイドを挙げる人の方が多いと思う。なぜなら、音楽的な側面もさながら、商業的な意味合いでも『the dark side of the moon 』は

MJの『thriller』

イーグルスのベスト盤・ホテルカリフォルニア

AC/DCの『Back In Black』

Back In Black

Back In Black

  • AC/DC
  • ハードロック
  • ¥2343

ミート・ローフの『地獄のロックライダー』

等に並ぶ、世界で最も売れたアルバムの一つですし、ジャンルをプログレに絞れば一番売れたアルバムとなります。

(このクラスの売れ行きになると、抜きつ抜かれつみたいな所があるので、一番売れたアルバムというのは定義しにくい。18年まではMJのthrillerでしたけれど、それをイーグルスのベスト盤が抜いたというニュースもあるためである。ただイーグルスはベスト盤なので、その意味では数ある中の一つのアルバムで絞った方が個人的にはフェアだと思うので、そういう視点からすればイーグルスはホテルカリフォルニアを出すべきだろうと考えます。日本でいえば新潮社の太宰の人間失格漱石のこころの売れ行き競争みたいなものですね。因みにこの2作品だったら人間失格派です)

そのほかにもコンセプトアルバムの深度の濃さとそれらを強固にするヒプノシスが制作するアートワークスなどを踏まえると、より魅力的な世界を提示しているのは圧倒的にピンク・フロイドの作品群ということになる。プログレッシブ・ロックというのは、ある種魔界のようなジャンルであり、一風変わったその音楽性は人を選ぶ分、ハマるひとは大好物になるという部類のものです。どういうジャンルかという説明は難しいですが、戦闘曲を作っている人は例外なくプログレを聴いているというべきか、シンセサイザーを存分に使った技巧的な音楽と書くべきか。なぜゲーム音楽で胸が熱くなるのかという点は、楽曲の種類にもよるが、シンセサイザーを用いたケースについてはおおよそプログレの証と考えて差し支えない。その意味では日本で一番プログレを浸透させ、ゲーム音楽「らしさ」を定着させた作曲家こそFFシリーズでお馴染みの植松伸夫。ニコニコ等の動画サイトではビッグブリッジの死闘等でお馴染みですね。言ってみれば本作の演奏してみたが盛り上がるのはプログレの意思を継承させた楽曲が故なのです。

ビッグブリッヂの死闘

ビッグブリッヂの死闘

  • 植松 伸夫
  • テレビゲーム
  • ¥153
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そんな植松音楽の中でもプログレ度合いが顕著に出ている楽曲が更に闘う者達

更に闘う者達

更に闘う者達

  • 植松 伸夫
  • テレビゲーム
  • ¥153
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原曲こそ最も素晴らしいが、AC ver.も中々振り切ったハードロック編曲をしていてかっこいい。これを聞くと、一度堀江晶太の編曲ver.を夢想してしまいます。というか、おそらく作曲家的にはこっちの方がテクニカルな意味では好きなのではないかと思う。氏のお気に入りの一曲なんだしいつか実現しないかな。

更に闘う者達 (FFVII AC Version)

更に闘う者達 (FFVII AC Version)

  • 植松 伸夫
  • テレビゲーム
  • ¥153
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そしてプログレ要素のアプローチとゲーム音楽に於ける植松要素の2つの軸が頂点を極めた楽曲の一つといえるのが『the extreme』。ラスボスを飾る味付けからギターソロのイントロから始まり、Wギターになった後、哀愁あるピアノのメロディから多段式にバトル音楽になりつつも、不意をつくようにピアノメロディが奏でられていく構成の様はまさに圧巻。

The Extreme

The Extreme

  • 植松 伸夫
  • テレビゲーム
  • ¥153
  • provided courtesy of iTunes

因みに、アルティミシアは多段式な展開をするボスなので、この前に『maybe I`am a lion』という曲があるのですが

Maybe I'm a Lion

Maybe I'm a Lion

  • 植松 伸夫
  • テレビゲーム
  • ¥153
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このタイトルがディープパープル楽曲タイトルからの引用とすると植松論が広がります。

Maybe I'm a Leo

Maybe I'm a Leo

  • ディープ・パープル
  • ハードロック
  • ¥255
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なぜならばブルードラゴンで書いたボス戦のボーカルに声量お化けベーシストこと、パープルのメンバーであられるイアン・ギランがゲストで歌っているからだ。楽曲からしてもパープル節と植松との融合を果たした名曲なので、興味のある人はぜひ。植松伸夫の功績や実績、作風のポジションを考えると、平沢進が聞いていないはずもなく、なんなら主に「BlueLimbo」あたりに植松っぽさを感じる。もっと語るべきことはあるのですが本題から外れるので今回は抑えます。このように説明の切り口としては色々あります。如何にプログレが面白く異端なジャンルかという点についての初級的な話はこちらの記事に

sai96i.hateblo.jp

より面白いプログレについてはこちらが

sai96i.hateblo.jp

詳しいので、あらましはそちらで読んでいただきたいのですが、ここでも改めて平沢イズムを構築しているプログレ音楽についてはフォーカスしざっくりと紹介しようと思います。

Pink Floyd

シドバレットを発起人としてロジャーウォーターズ、デヴィッドギルモア、ニックメイスン、リチャードライトというメンツでスタートしたバンドです。バンド特有のメンバー間移動というのも当然あるのですが、最初に脱退したのがシドバレットというのが非常に惜しい点です。元々音楽活動自体が5年という短期間での活動ではありましたがそんな中でも、総合的な芸術の才能(元々は画家志望)とカリスマ型双方の魅力を持った稀有なミュージシャンであり、ピンク・フロイドとは別に一人のアーティストとして立ち位置を確立した人でもあったからです。影響を受けた人は大手にも渡り、今回紹介している数多いアーティストの中でもデヴィッドボウイやT.rexのマークポラン、その他ミックジャガー、ギタリストでお馴染みのジミンヘンドリックスまでもがいるといったまさに知る人ぞ知るミュージシャンズミュージシャンといった存在です。ピンク・フロイドのデビューアルバムの『The Piper at the Gates of Daw』(1967年)では大半のトラックを作曲を担当しており、「BIKE」という名曲もその一つです。

Bike

Bike

さてここで思い出してほしいのがP-MODELの『another game』のtrack.6。

BIKE

BIKE

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そう、ここで歌っている楽曲は作曲:シドバレット(Pink Floyd)なのです。平沢進もカバーでセレクトする点や、歌詞をある種、空耳アワー的な形で落とし込む(I`ve got a bike→合言葉はバイク)センスは最早感動するレベルであると同時に、通なプログレマニアだなぁと思います。世間的なピンク・フロイドの認識は+音楽的なファン・アーティストが影響を受ける作品というのは広く見積もったとしても『the dark side of the moon』『Atom Heart Mother』『Wish You Were Hear』+『the wall』といった大成功時期の作品ばかりで初期作品が割と見逃されがちなのです。それを敢えて、ということでもないのでしょうけれどシドバレットにアンテナが光る感性は流石です。先程、空耳アワー的な落とし込みと書きましたが、実はbikeは空耳アワーで採用されたことがある。開始より13sの部位が「豚バラです」という番組らしいしょうもなさが出てる空耳ですが。

因みに(当ブログではいい加減書いてきた話ですが)狂気やWish You Were Hearなどの作品群を一般的なポップスラインに落とし込んだアーティストいう意味では、稀代の名プロデューサーこと小林武史が趣味全開に好き勝手プロデュースしたMr.childrenのアルバムより深海に色濃く出ています。他、プログレの影響かなと思う意外な点はPEVO語(P-MODELDEVO)にもある。こういう造語の先駆者といえばMagmaのメインフロントが宇宙からきたコバイア星人の言語という設定の元に作ったコバイア語といものがあるので、そういったものをやりたかったのであろう。それらを起点としたコンセプトアルバムという点からして世界観ソースにmagmaも見え隠れする。

キングクリムゾン

『21世紀の精神異常者』という楽曲を1968年に打ち出し、プログレ元年ともいえる歴史を残した偉大なバンドですが、以降『red』(1974年)・『Starless And Bible Black』(1974年)や『Discipline』(1981年)『Three of a Perfect Pair』(1984年)など素晴らしいアルバムを出しているロックバンドの中でも輝かしいグループの1つではある。

(itunes・各種サブスクにないのでamazonリンク貼ります)

主宰はロバートフィリップ。プログレはこの人から始まったといっていいほど、偉大なアーティスト。クラシックの晩期に活躍した作家、特にバルトーク作曲の管弦楽のための協奏曲あたりに代表される辺りからの派生としての音楽をロックにもってきたことが一番の功績だなと思います。キングクリムゾンは最初こそ、クリムゾンキングの宮殿を仕上げたわけですが、その後メンバーがすぐに離れています。つまりオリジナルメンバーであった時期はほんのわずか。離れて何をしていたかと言えば、グレック・レイクは新生バンドとしてのELP(エマーソンレイクアンドパーマーであり5大プログレの一角を担う)に行き、イアン・マクドナルドは個人ソロに走った。ロバートフィリップにてどうにか回っているバンドになってしまったがゆえに、出す音源は素晴らしいけどバンドとして正直安定していないがゆえに、バンドとして落ち着いている時期というのがそんなにはない。それであっても太陽と戦慄でストラヴィンスキーのアプローチをしたり、『red』のイントロを含める全体的な楽曲のクオリティを出してくるあたり、本当底力は化け物なんですけどね。

エス

MANDRAKE時代の音源からも分かる通り、当時プログレをやる上で意識するということでは一番要となったであろう。それは『relayer』を聴けばわかる。音の連なりという意味を考えればおのずと合点がいく。

Relayer (Deluxe Edition)

Relayer (Deluxe Edition)

『relayer』のtrack.1が「the gates of delirium」という原題を日本語訳にすると錯乱の扉という意味になるので、同名の楽曲をMANDRAKEで出しているあたりからも多いに参照している。個人的な思い入れイエスで3枚あげろと言われたら『relayer』と『going for the one』と『close to the edge』になりますね。

エスディスコグラフィー上、絶対これという選別であれば、私感『close to the edge』と『Tales from Topographic Oceans』そして『relayer』の3枚ですが、『going for the one』はいってみれば全盛期を過ぎた後、どうなるかみたいな立ち位置に出てきた作品なんですよ。それにしてはあまりにもよく出来過ぎていると思う作品です。どういうことかというと、先に説明した通り、プログレの波が終わった後ニューウェーブ、テクノという流れになるのですが、そういった遍歴やメンバー交代事情をしてもしっかりと組()めているところが優等生というべきか。『going for the one』では技巧的といよりかは簡易的であることからパンク的と言えるし、トーマトではテクノっぽさが出てきて、dramaでどう聴いても、ニューウェーブの香りがすることから、ローカライズを感じられるという気概。元々イエスは米の名レーベルであるアトランティック・レコードにイギリス初のバンドとして入っている(かのled zeppeplinより先)というところからも、プログレバンドとしては異例な商業期待値としてはもっとも高く、見事その評価を勝ち得たという点からも、プログレバンド以前にバンドとしては相当優秀なわけですよ。

参考までに他の代表的なプログレバンドのデビュー作どうかというと

ピンクフロイド→ハーヴェスト(EMI傘下グループ)

ELP→アイランドレコード(米版ではアトランティックですが)

キングクリムゾン→アイランドレコード

ジェネシス→カリスマレコード

他のプログレバンドでさえ一発目からは掴めなかったものを、イエスはデビュー作からしアトランティック・レコードを掴み取るというのがいかに凄いことかはアトランティックレコードの歴史を鑑みればわかります。また加入はしなかったが同じくイエス繋がりという意味で辿っていくとシンセサイザーの大家ヴァンゲリスがいる。彼の一番なの知れた代表作はブレードランナーの劇伴音源であるのだが、ここで注目すべき根源はアフロディーテズ・チャイルドである。あまり知られていないが、ギリシャのロック・プログレバンド=ユーロプログレという神秘的な存在だと思う。

6 6 6

6 6 6

平沢進の楽器展開的に考えるとELPはキースエマーソンの超絶技巧が織りなすキーボードがメインフロントになりジャズトリオ的な側面が高いバンドとしてロックにシンセサイザーを巧みに使うかを初めて提唱したバンドなので楽器の構成上、そんなには意識していないかなぁとはおもう。まぁ知っていて損はないので紹介します。

 EmersonLake&Permer(elp)

キング・クリムゾンで色鮮やかなベースを飾ったグレック・レイクも参加しているこのバンドは、キース・エマーソンをはじめとする技巧派プログレバンドであることは疑いようもない。そういったバンドなのにその上ジャケにセンスがある。ある意味では日本的である。そういうプログレバンドであった(途中まで)。タルカスという作品のアルバムはこのジャケット。初期ウルトラ作品にて圧倒的なデザインセンスを担当した成田亨の影響を感じる。この場合は恐竜戦車をモチーフにしていることは明らかである。

成田亨デザイン:恐竜戦車

恐怖の頭脳改革ではエイリアンで世界的に有名になる前の状態のH・R・ギガーを起用しているところからも、音楽世界観に添えるアーティストに普通は思いつかない組みをしてくる。yesがロジャーディーンで幻想チックであり、ピンクフロイドヒプノシスによる視覚的な見せ方を原風景としての世界観というのは知ってる世界の見せ方の転換であるのに対して、架空のキャラクターや独特すぎるイラストレーターを持ってくるという意味で日本人はライドしやすい。それに増してジャケットからは想像できない超絶技巧が紡ぎ出されるのもいいですね。今で言うと主宰のキースエマーソンの鍵盤で魅せる技巧的な音楽は今で形容するとhzettrioとその主宰hzettmみたいな感じになるのかな。

エマーソンにしろhzettmにしろ元々が古典音楽を相当仕込まれた腕前を持ち合わせた状態でポップス音楽を作ることで聴き手がそれに魅入るという意味では共通していますし。

elpはジャケのセンスと、ジャズトリオでプログレをやるという世界観がある種魅力でもあったはずなのに、なぜ『love beach』はこうなったのか(yesも『tormato』でやらかしたけどなんとか持ち直せた)結局これの不評で実質的な解散したようなものだし。

elpはその音楽スタイルとは裏腹に活動期間も短く、ディスコグラフィーも他のプログレバンドに比べると少ないので、非常に勿体ないことをしたと思います。そんなELPサウンドを、平沢進はといえば、構造を真似してる節は見られるが元々ギターでの演奏がメインなので、そこにキーボード的な要素をMANDRAKEで入れるのはなかなか難しいと思うし。同じ理由でジェネシスにしても、あのバンドとというよりかは、ギターリストのスティーハケットやボーカルのピーターガブリエルを敬愛程度だと思います。むしろジェネシス以上にピーターガブリエルのソロを追っている可能性が高い。MANDRAKEがもっと続いていたらジェネシスを感じるような、それらしい仕草は出てきたかもしれませんが。ここまで5大プログレMANDRAKEとを照らし合わせましたがここまでだけでは一般的な考察の域を出ず、面白くないと思うので、もう少し範囲を膨らませて、角度をEuro的なプログレとして考えに焦点を当てていくとヴァン・ダー・グラフ・ジェネレーターとプレミアータ・フォルネリア・マルコーニ(PFM)の作風に近しいもの感じますね。

ヴァン・ダー・グラフ・ジェネレーターで言えば

  • 『LEAST WE CAN DO IS WAVE TO EACH OTHER』(1969年)
The Least We Can Do Is Wave To Each Other (Deluxe)

The Least We Can Do Is Wave To Each Other (Deluxe)

  • 『H TO HE WHO AM THE ONLY ONE』(1970年)
H To He, Who Am The Only One (Deluxe)

H To He, Who Am The Only One (Deluxe)

  • 『PAWN HEARTS』(1970年)
Pawn Hearts (Deluxe)

Pawn Hearts (Deluxe)

 

PFMであれば

  • 『photos of ghost』(1973年)
Photos of Ghosts

Photos of Ghosts

  • PFM Premiata Forneria Marconi
  • ワールド
  • ¥1731
  • 『storia di un minuto』(1972年)
Storia di un minuto

Storia di un minuto

  • PFM Premiata Forneria Marconi
  • ワールド
  • ¥1731

 

が有名なので、履修したい方は上記のアルバムから聴くといいです。

テクノポップ

クラフトワークとそれに追随する存在(1970)も、平沢音楽への影響度からいえば、先に紹介したアーティストほどではないものの、全世界的な音楽シーンから俯瞰した場合、とても大きな存在です。

※craft(工芸)work(作品)と思いがちですが、そうではなく、kraft(威力)werk(工場)の組み合わせたというのが押さえておくべき所。そしてこの2つの単語が組み合わさることでkraftwerkとなる。そしてこの意味はドイツ語の直訳だと発電所という意味合いになる。

それを踏まえると以下の二枚(特に二枚目)のジャケットの意味合いが分かってきます。

Autobahn (Remastered)

Autobahn (Remastered)

Radio-Activity (Remastered)

Radio-Activity (Remastered)

Alpha Centauri

Alpha Centauri

初期三部作はかなり無調的サウンドワークが目立ちます。

そういった中で、和製クラフトワークことYELLOW MAGIC ORCHESTRA(1978年、以降YMOと表記)が登場します。音楽性もそうですが、実際にルックスをみれば「なるほど」と合点がいくはずです。

こうしてみると、意識的にやっていることが丸わかりですね。

YMOははっぴぃえんど(細野晴臣/大瀧詠一/松本隆/鈴木茂)同様、一人だけでも有能な人たちの集まりです。しかし、そういったグループの中での一番の代表曲が高橋幸宏作曲のRYDEENというところに、ある種の意外性と、底知れぬ何かを高橋幸宏さんに感じます。

と同時に、さりげなくはっぴぃえんど・YMO両方のメンバーである細野晴臣の凄みと、坂本龍一の案外目立ってない感じが世間との知名度と乖離していて面白い。YMOは代表曲としての「ライディーン」以外としてのおすすめ作品のアルバムはBGM』(1981年)『テクノデリック』(1981年)2枚です。これらを聴けば大体良さというものは掴めます。

ただ、坂本龍一はソロではテクノポップの面白さを存分に出したアルバムを出していたりするので、音楽ファン的にはやっぱり有難い存在ではあります。藝大出身でありながら『未来派野郎』(1986年)といった作品を出すのは、ある種の異端とも言えるでしょう。今となっては褪せてしまった作品です。しかし『未来派野郎』の"未来派"は、近代社会の速さを現しそれらを文芸や画、音楽などの芸術に持ち込んだイタリア発の前衛運動のことでもあるので、色々重なっているなぁと思う次第です。

 

某アルバムのライナーノーツにて、「散々ポップスを研究した上で出したアルバムであるsweet revenge』(1994年)SMOOCHY』(1995年)は売れず、energy flow』(1999年)は爆発的に売れた。売れればポップスである。」という趣旨の内容を書いていたところに、坂本龍一の苦労が垣間見えます。大衆が何を求めているかを考えた時、坂本龍一本人による歌唱はそんなに需要がないわけですよ。小林武史でさえ、自分で歌うと残念になるのと同じ現象で。

sweet revenge

sweet revenge

SMOOCHY

SMOOCHY

実際、*3BTTBアルバムに代表される、ピアノソロ作品とは名ばかりの、サティ・ラヴェル系統のクラシック音楽を自己解釈したアルバムのほうが世間的需要度は高いですし、だからこそ今でも20周年anniversary版がでるのです。クラシック音楽作家:坂本龍一の方が、藝大出という意味では本流に近い訳ですし。

energy flow

energy flow

  • 坂本 龍一
  • ポップ
  • ¥255
  • provided courtesy of iTunes

そして、なによりの代表作である『戦場のメリークリスマス』(1983年)にも、その傾向は思わぬ形で出ていると思います。

この作品は映画も含め大傑作なわけですが、オリジナル音源よりヴァイオリン+ピアノ版の方がより味が出ることは皆さんお分かりいただけると思います。がしかし、私は完全ピアノソロ版が一番、楽曲に味が出ると思うのです。中盤の激情的メロディは弦楽器の領域なので合っているものの、有名フレーズのメインメロディはヴァイオリンには不向き。そこの不具合さがどうも耳に違和感をもたらしてしまうのです。

 

これは久石譲の『kids return』(1996年)のメインテーマにも同じことが言えます。和楽器とギターがメインのオリジナル(KIDS RETURN)と、弦での編曲バージョン(Kids Return)のどちらが一つの楽曲として切れ味がいいか、ぜひ聴き比べていただきたい。

KIDS RETURN

KIDS RETURN

Kids Return

Kids Return

  • 久石 譲
  • クラシック・クロスオーバー
  • ¥255
  • provided courtesy of iTunes

楽曲が際立っているのは圧倒的に後者です。

加えて一例としてあげたいのは同じく北野武監督作品『菊次郎の夏』(1999年)を代表する楽曲『Summer』。ピアノ版が原曲としてあり、それだけでも十分美味しく、「夏」というイメージを後世に残した名曲です。アニソン的に書くのであれば、『summer』⇆『you(dai)』⇆『夏影(麻枝准)』で往復ごっこができるくらいには汎用性があります。

一方で、劇伴ということもあり、メロディが常にピアノというのがどうしても引っかかってしまいますが、それに呼応するかの如く作られた一楽曲としての魅力を引き出したのが『essential』版の『summer』

・Summer

Summer

Summer

  • Joe Hisaishi
  • クラシック・クロスオーバー
  • ¥255
  • provided courtesy of iTunes

管弦楽金管木管が入り混じる編曲によって様々な楽器の主張がされ、サビ前で木管が盛り立て行った後に堂々たるピアノメロディ。加えて、一番おいしい間奏部分をピアノ他楽器ピアノという流動的な構成にしているのも美しい。編曲をすることで原曲より面白い曲が作れてしまうのが久石譲というアーティストですが、これは国立音楽大学で本格的な理論を学んだ上で弦楽器での編曲の応用を効かせることができるが故だと思います。

久石譲(1950)と坂本龍一(1952)は同じ世代であり音大出というところまで共通しているが故に、活動のスタンスは違えどどこかしか似てる。しかしそこに平沢進(1954)が参入してくると、坂本龍一平沢進の対比をした時なんだかんだ電子音楽だ何だという枠でやってきた2人なので作り出しているものが全然違うというのはポイントだと思います。

 

坂本龍一もソロアルバムでやっていることはかなり面白いので、より知りたい方は潜ってみるのも一興。まずは『B-2 Unit』でもどうぞ。結構な名盤だと思います。

B-2 Unit

B-2 Unit

  • 坂本 龍一
  • ポップ
  • ¥2037

実は、平沢音楽におけるクラフトワークの存在感は薄いです。一定レベルでの影響は受けたと思われるものの、あくまでも入り口程度レベルです。作品群を聴けば分かりますが、平沢音楽では一般的に言われる「展開に即した音楽」の方が主流であり、クラフトワーク系統ほど音を分散、無機質化させていません。

クラフトワークの音楽性はYMOによって変換・補完され、その後フリッパーズギターのメンバーであった小山田圭吾が後にコーネリアスで展開していくサウンドワークスの洋的アプローチの礎となっています。どちらかというと、この二組の方がクラフトワーク系統の音楽と言えるでしょう。

Musique Non Stop

Musique Non Stop

(audio check musicは最近の作品だが、アプローチのらしさは変わっていない)

日本においては、その先に石野卓球等がいます。

DOVE LOVES DUB

DOVE LOVES DUB

  • 石野 卓球
  • J-Pop
  • ¥2139

ドイツではMIJK VAN DIJKHardfloorの存在は見逃せないですね。そしてなんとこれら3人がとあるアルバムで集結している神盤があります。それがPS版攻殻機動隊OSTDerrick Mayも参加していたりと、1ゲームのOSTとしてはあり得ないほど豪華さに満ち溢れています。

これらと同時に、90年代にブリープテクノの代名詞であり、UKテクノ界の大巨匠であるマークベルが主宰するLFOによって、「インテリジェント・ダンス・ミュージック(IDM)」が打ち出されます。(あまり知られていませんが、かなり濃いのでこういった楽曲が好きな人は人は是非履修してください。)

Intro

Intro

  • LFO
  • エレクトロニック
  • ¥153
  • provided courtesy of iTunes
Freak

Freak

  • LFO
  • エレクトロニック
  • ¥153
  • provided courtesy of iTunes

今で言うとフライング・ロータスあたりに落ち着いたという感じでしょうか?

Cosmogramma

Cosmogramma

  • フライング・ロータス
  • エレクトロニック
  • ¥1528
Computer Face: Pure Being

Computer Face: Pure Being

  • フライング・ロータス
  • エレクトロニック
  • ¥153
  • provided courtesy of iTunes

因みに、LFOデペッシュモードのプロデュースやビョークとのコラボでも有名です。

最高のLFO presentsの楽曲をあげるのであれば、やはり『Pluto』(1997年)でしょう。かのビョークさえも食ってるレベルの楽曲です。

Pluto

Pluto

  • provided courtesy of iTunes

逸れましたので、主題に戻ります。

平沢音楽においてどうかという話なのですが、推察するに、ウォルター・カルロス(今はウェンディ・カルロスで通っている)1968年前後に発表した『Switched-On Bach*4からシンセに可能性を感じたことから始まっています。

劇伴作家としてのウォルター・カルロスが作った*5有名作品、キューブリック時計じかけのオレンジOSTも挙げられます。

また、同じテクノといっても、YMOならぬYMGyoung marble giants(1978)が唯一だした傑作アルバム『Colossal Youth(1980年)の方が好みではないかなと。

テクノでありながらコテコテではなくどこかソフト。無機質さが非常に目立ちます。

また、本作を作ったYMGが批評精神をもって作ったという点も注目すべき点です。

turntokyo.com

 

ちなみに、先ほどデヴィッド・ボウイについて少しだけ言及しましたが、ボウイもここの流れを受けています。所謂1977年に出されたベルリン三部作の『Low』『Heroes』『Lodger』。特に『Low』『Heroes』はクラフトワーク色を反映した作品群です。

面白いことに、クラフトワークタンジェリン・ドリームを参照してアルバムを作ることになって呼ぶ共同アーティストにブライアンイーノがいるという、この一連に出てくるアーティスト全員平沢進が影響を公言している点からしても見逃せない作品。

Low』なんかは、そもそも話として超のつくほど名盤ですが、前半がニューウェーブ的でありながら、後半に連れてポストパンク的なアプローチへと展開されていくところが最大の聴きどころです。ドラムサウンドに加工を施すスタイルは1977年にしては新しい部類なので、後世への影響は多大とみて間違い無いでしょう。恐らくインダストリアルロック当たりのサウンド性の種のような部分があります。

ベルリン三部作とイーノに関する小ネタですが、実はMicrosoft Windows 95を一度でも起動をしたことがある人は彼の作品を知らぬ間に聴いています。というのも、Microsoft Windows 95の起動音を作ったのはブライアン・イーノであり、Microsoft Windows Vistaの起動音はロバートフィリップが作った音源です。コンピュータの起動音という媒体を通して知らず知らずに彼らの作品を聴いていたというのは中々興味深いことだと思います。

その他の平沢ソロで目立つ傾向としては、やはりXTC.デビュー作のホワイト・ミュージックを相当聴き込んでいる印象を受ける点でしょうか。P-MODELとしてXTCの前座を担当したことからも分かりやすい線です。本人曰く、もっとパンクっぽい形を目指していたせいかXTCからの影響ではなく、Metal Urbain(メタルボーイズと書いた方がいいのか)999との発言がある。実際に聞くとMetal Urbainの影響は大きいですし。

Hystérie Connective

Hystérie Connective

  • Metal Urbain
  • パンク
  • ¥204
  • provided courtesy of iTunes

999からもそれなりにP-MODEL的な要素を感じるのですが、どの道似せてるという意味では外せないでしょう。MANDRAKEのライブで飾り窓の出来事の前にxctの『I`m Bugged』を流していることからも、明確にそこに影響された事実は残っています。

I'm Bugged

I'm Bugged

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以後、ポストパンク、テクノ、電子音楽等が全て融合したジャンルとしてニューウェーブが生まれるわけで、P-MODELの音楽性というのは基本的にパンクから始まって、以後そこから色々なものが加わったごちゃ混ぜニューウェーブということになります。本来、プログレなどの反抗体制としてのジャンルがパンクなのに、平沢進はどちらも音楽遍歴として主軸としてやっていた時期があるというのはミュージシャン的に考えればすごく異端な気がします。

クラシック音楽~無調・具体/電子音楽史観

ここまで60年代以後の音楽シーンについて、ざっくりと見渡したわけだが、平沢進音楽性を理解するためにはそもそも話に立ち戻る必要性がある。つまりは電子音楽の成り立ちをざっくりと説明しなければならずそのためにはクラシックまで遡る必要がある。

一次ソースはともかくとして、wikiによると平沢進が影響を受けた古典作家は

と記載されている。さてこの5人だが、面白い事に全員=で繋げることができる、ある系譜にまとまっている作家たちだ。そこについて説明するために、ここにエリック・サティという人物についての補助線を加える必要がある。ドビュッシーラヴェルはともに印象派音楽の大家であり彼らの印象派音楽の先鋒となった作家こそがエリックサティ。その彼はフランス六人組という集団を率いて、新古典主義音楽を主軸とした音楽を展開していく。

なぜ六人組という名前なのか?それは19世紀後期にいたロシア五人組の存在の影響を受けているからだ。

新古典主義音楽は芸術運動の一つでありロマン派・印象派表現主義音楽を否定した新しい音楽というのがおおまかな概要だが、その結果起きたのは原点回帰ならぬバロック古典派音楽への回帰であった。言ってみれば当たり前の結果ではありますが。

モーツァルトベートーヴェン・バッハといった三大巨頭以後の作家は彼らを踏襲しつつも、独自のジャンルを追求していったからこそより技巧的で壮大なロマン派と理論よりか外の景観や内なる感情等のそれぞれを表現した形態(外面の景観を音源化していくフランス流の印象派と内面を音源化していくドイツ・オーストリア流の表現主義音楽)の二分に分かれた。現代風にいえば、同じハリウッド資本の映画でも、アメリカ型劇伴音楽家とヨーロッパの映画音楽作家の対比みたいなものと考えてください。

ヨーロッパ出身の音楽家が映画音楽を書くとどういう仕上がりになるかは一個前の記事で書いたので、知りたい方は是非。

sai96i.hateblo.jp

 

極端に言えば、それら全てを否定したわけですから。

表現主義音楽の派生に前衛音楽の血脈がある(ジョンケージはシェーンベルクに教えを受けた作家でもある)ことを考えると、その後の音楽はより極端化していくことがわかります。そしてのその極端さが極まったのが4分33分。そしてシェーンベルクは調性音楽から無調への展開に大きく貢献し(12音技法の祖となったことから言えば)特筆すべき作曲家である。無調音楽はリストの『調性のないバガテル』(1885年)が前夜とそれらを多いに展開させたのは、所謂ウィーン学派であり、シェーンベルクアルバン・ベルクウェーベルンの三人を指します。各人の有名な楽曲を挙げると

シェーベルグの『月に憑かれたピエロ』(1912年)

シェーンベルク:月に憑かれたピエロ Op. 21 - Part I: No. 1. Moondrunk

シェーンベルク:月に憑かれたピエロ Op. 21 - Part I: No. 1. Moondrunk

  • アニヤ・シーリヤ, Robert Craft & Twentieth Century Classics Ensemble
  • クラシック
  • ¥153
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ウェーベルン「ピアノのための変奏曲」

Piano Variations, Op. 27: I. Sehr mässig

Piano Variations, Op. 27: I. Sehr mässig

  • マウリッツィオ・ポリーニ
  • クラシック
  • ¥255
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ベルグ「抒情組曲

等があります。シェーンベルクの音楽性について補足すると、無調性、十二音技法、新古典主義の展開に貢献したことで音楽史的に大きな役割を持ったといえます。楽曲に於いてそれぞれの楽曲の音がどのような機能・主張をしているかがそれまでの音楽との最大の違いだ。初期作の『弦楽四重奏曲第4番』を取ろうと思う。

String Quartet No. 4, Op. 37: I. Allegro molto, energico

String Quartet No. 4, Op. 37: I. Allegro molto, energico

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イントロが代表的ではあるが、これを聴けば分かる通り、どう考えても進行・展開が普通じゃない。こういうあらゆる働き(不協和音・十二音技法等)をもつ楽曲の総体こそが実は重要といえる。もう一曲ご紹介します。楽曲は『弦楽四重奏曲第3番』

String Quartet No. 3, Op. 30: I. Moderato

String Quartet No. 3, Op. 30: I. Moderato

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存分にオスティナートをまぶしているこの作品ですが、音調もあいまって無機質でありながらどこか硬化的である。このように、シェーンベルクがもってきた要素と必要な繰り返しという要素がかさなり合うことで人によっては嫌になってくるような音楽なわけですがこういう流れも実は後に近代・現代音楽にて大きな意味を持っていきます。ストラヴィンスキーを絡めた話をするとシェーンベルクの違いってなんだろうと思っていたのですが絵画的に形容するのではればストラヴィンスキーフォーヴィズムで、シェーンベルクキュビズムというところが一番の落とし所だなと思います。フォーヴィズム写実主義決別した派であり、見るものではなく心が主体となって感じる美術表現なのですが、ストラヴィンスキーコルサコフ譲りのオーケストレーションの躍動的な管弦楽を用いているので、あながちフォーヴィズムとの繋がりが0とも言い切れない。マティスのダンスなんて春の祭典のバレエの動きの感覚や世界観に通じますし。

作:アンリ・マティス  作品名:ダンス(1910年)

どうでもいい駄話が続いたので本線に戻るとして、シェーベルクが展開した無調は今現在では勢いのあるものではないですが、そこから展開していく流れで現代音楽とそれらを構成するテクノポップ(先述したタンジェエリンドリーム等)の先駆け、つまりはドイツ派のヘルベルト・アイメルトが50年代半ば世界初の電子音楽スタジオにあたるケルン電子音楽スタジオにて音高・音色・強度を発振器や増幅器で制御することで、電子的に音を合成する手法をとるという電子音楽というものが生まれ、その一派にいるシュトックハウゼンリゲティの潮流やフランスのピエール・シェフェールより生まれた音楽体系であり、鳥の音や人間の声、騒音などを録音し電気的・機械的に変質させ組み合わせることで作成される音楽、具体音楽(ミュージックコンクレート)の流れの因子がその後生まれたと言う意味では果たした役割というのは大きいと思います。ドイツのケルン電子音楽スタジオにて生まれた電子音楽、フランスのシェフェールの具体音楽はほぼ同時期に生まれたというのも面白い。先のアイメイトからの流れでシュトックハウゼンのこの作品からより本格的な電子音楽がはじまり、習作シリーズを作るわけです。

Studie No. 1

Studie No. 1

 

その後、これらに影響を受け、クラウトロックという前衛音楽ものが60~70年代初頭まで西ドイツで流行ったこと、そしてなによりそこの末裔がクラフトワークであることを考えるとテクノ・の本場であると同時に、現在の音楽シーンの盛り立てた凄い所だなと思います。クラウトロックが流行最中している間に生まれたアーティストはカンやファウストNEU!(先述のウルトラヴォックス!の!はここから)に代表されます。シュトックハウゼン電子音楽を生み出したタイミングの一方、同時期の50年代アメリカではノイマンなどの活躍によりコンピュータが大量に作られる時代になるのですが、1951年にイリノイ大学がORDVACを、1953年にIBMが701を、翌年に世界初の量産型コンピュータとなるIBM 704(1954)を発表。IBM704は1961年にマックス・ヴァーノン・マシューズ(世界で初めてデジタルオーディオを構築するプログラミング言語を書いた人でもある)がデイジーベルの伴奏のプログラムを入れ、デイジーベルを704に歌わせるという歴史的事実があります。


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もっと面白いのがそのデモンストレーションにアーサー.C.クラークが居合わせたことで、7年後の1968年公開されるキューブリックSF映画2001年宇宙の旅人工知能HAL9000(Heuristically programmed ALgorithmic、つまり試行錯誤的な、推測に基づいたアルゴリズムに基づいたコンピュータ)が終盤に主人公デヴィッドボーマンによりユニットを抜かれ、どんどん調子狂ってく時に歌うのですが、その時に流れるのがデイジーベルというのが良いですよね。704が歌った43年後にイギリスが音声合成ソフトとしてLEONとLOLAを発売し、初めてとなるVOCALOIDソフトウェアとなり、その3年後日本にて初音ミク(開発当時のプロジェクト名はDAISY PROJECT)が生まれたという歴史へと繋がり、それらが今の音楽シーンの一つとなり得ていること自体が非常に感慨深いですね。以前NHKプロフェッショナルで初音ミクを特集していましたが、本来はドイツ電子サウンドから遡ってそこから成り立ちを懇切丁寧に構築していったほうが、番組的にもテーマ的も面白いのに、そういう要素は冒頭5分ぐらいだったのが非常にもったいなかったですね。実際面白くなかったし。あの尺以上使ってやるべきだった。あんな内容であれば一層のこと自分が電子音楽史てきなものを書いてしまった方が早いし面白いもの書けます。番組の愚痴はともかく、影響力という意味では、ことドイツの音楽関連メーカーの影響は、今で言えばオーディオの老舗ゼンハイザーがあったり、Native Instrumentsやスタインバーグであったりと現代人が電子的な音楽を作る時に常に使われているメーカー元であることを考えると、やはりドイツによる音楽は重要なものだと考えられます。

 

他の電子音楽サウンドの歴史に欠かせない人物/作品にどういうものがあるのか好事家的な掘り下げるのであれば、コロンビア・プリンストン電子音楽センターの存在ついても触れなければならない。コロンビア・プリンストン電子音楽センターはオットールーニングとウラジミール・ウサチェフスキー、ミルトンバビットを起点して作られたもので、ウェンディカルロスはコロンビア大学出身ということで、ここを通っているし、シンセサイザーの生みの親にあたるロバート・モーグが関わっていたりと、とかく重要な役割を持ち、電子音楽における重要な作家群が数多くの作曲家が通っています。その他電子音楽の流れで重要な作曲家といえば

などがいます。ここについては今回は深掘りする必要はないので飛ばします。

 

この項目の最後として抑えるのは電子音楽とクラシックの点と点が線で繋がったセリー音楽(セリエリズム)について触れます。セリー音楽というのは音列主義というもので、音高にて12音技法で展開されたものを音価・音色・強度にも当てはめた体系というのがおもだった意味です。別の簡素な言い方をするのであれば数字の連なりです。

4-3-2-1でもいいし、1-2-3-4-なんでもです。その数字がどういう役割を果たすのか。例えばコードや強弱記号を数字に置き換える、翻訳するというものです。先の羅列でいくのであれば、ppp-pp-mp-p / c-d-e-f-gという配列を数字するというものです。情報を数値化する。より説明的に言うのであれば音高・音価・音色・音強の主だった音楽の4要素の機械的なまで=セリー的に翻訳し組み合わせる前衛の一つ。それが故にらしいと言う意味では点描的なというよりもウェーベルンっぽい。

分かりやすい代表曲として挙げられるのはストラヴィンスキーの『ピアノと管弦楽のためのムーヴメンツ』(1958-9)。

Movements for Piano & Orchestra: I. I

Movements for Piano & Orchestra: I. I

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これを聴けば大体どういう楽曲体系的な音楽かというのが耳感覚でも理解できます。こういう機械的な構成を電子音楽の世界にもってきたのがシュトックハウゼン。この人は元々もクロイシュピールからも分かる通り音一音そのものを点としたような音楽性からスタートしており、そこからセリー音楽へと移ったと言う流れです。いい加減お分かりだと思いますが、シェーンベルグのドデカフォニーからのウェーベルンの点描音楽からの流れとしてのシュトックハウゼンという系譜です。その意味では、まぁシェーンベルグの音楽は作品としてはまだ聞ける方で、実の所ウェーベルンあたりから抽象概念的になったとも考えられます。

閑話休題

その後電子音楽や具体音楽はジャズなどの流れと並行しつつ、シンセサイザーあたりで合流した果てに生まれるのがで技巧、『Five Pieces for Orchestra』に代表されるシェーンベルク的要素、バルトーク弦楽四重奏曲ジャズ的素養などあらゆるものが交差するプログレッシブロックであることは言うまでもない。プログレの源流の一端が知りたい方は、まずはシェーンベルクバルトークから攻めた方がいいです。悲しいことにプログレという音楽ジャンルはジャズほど普及せず、短命であったが。

具体音楽などは個々でみると、意外なところで採用されている。ここでもまた伊福部昭の登場。具体的にはゴジラの声の作り方で、ほぼ近いような手法をとっている。

  • 松脂をつけた革手袋にコントラバスの弦をこすった音色をテープに録音これを手動で速度を調整しながらゆっくり逆回転再生した音である

このように、意識的か否かはさておき、アプローチ自体は伊福部昭に影響を与えますし。伊福部昭の直径の弟子に当たる黛敏もは1953年に先に記述したミュージックコンクレートの影響を受けた上で、『ミュージックコンクレートのための作品X・Y・Z』という作品で相当前衛的な音楽を作っているし、これまた無調でしかないような音源である。ほぼ同じ時期に武満徹が『

ストラヴィンスキーも元々、カメレオンと称されるほど色々な音楽形態を作っていたものの、無調的なスタンス自体はご存知、『春の祭典』にて採られているし、『アゴン』になると、途中から明らかに無調的な音楽になっていくし、セリー音楽等もやってる。そしてご存知春祭からG・ホルストの『組曲:惑星』(1918年)の「木星」を経て、ここでラヴェルが『ボレロ』(1928年)を発表する点を含め、やはり相互的であるし、バルトークストラヴィンスキーと無調の流れを汲んだ楽曲を作曲。それこそが『中国の不思議な役人』(1926年)

中国の不思議な役人

冒頭のワルキューレの騎行的進行はさておき、不気味な音の感覚がいかにもストラヴィンスキーっぽいですよね。バルトークは民族的な音楽を取り入れることで有名です。

そして民謡の音楽を取り入れると言う意味ではバルトーク伊福部昭は共通の作家思考(というか日本版バルトーク=伊福部でもいい)、その伊福部はやっぱりラヴェルの音楽に強く影響するし、サティの音楽性を強めに評価している。世間一般ではゴジラの音楽がストラヴィンスキー型の音楽だのと誤った認識をされがちだが、ことゴジラ音楽は遺伝子的な流れで言えばラヴェル型を引用しオスティナータをかけたものと形容したほうがいい。もともと、あのメロディ自体ゴジラのためにつくられたものでもないですし。伊福部・ラヴェルストラヴィンスキー→グスタフ・ホルストの惑星:組曲スターウォーズ楽曲、そしてジョンウィリアムズの音楽性等についてはこれらの記事を

sai96i.hateblo.jp

sai96i.hateblo.jp

サブテキストとして併用して読んでいただけると随分見え方が明確になると思います。伊福部史観の見方が変わることは保証します。ここまでくれば、平沢進があげた5人が如何に一直線で繋がっている作家かが分かる。意識的にこの5人をあげたのか、それとも偶然なのかは分からないが、いずれにせよそこまで年数のたっていないクラシックという見方として着目するポイントは高い。ただ、平沢音楽を考えればドビュッシーが意外。ドビュッシーに代表される印象派の音楽は日本的にいえば、平沢音楽のアングラ加減よりも、久石譲小林武史などといった作家が明るい楽曲のイメージとして変換しているためである。久石譲はポピュラーな音楽を作るものの、音楽作家としてはミニマルを軸とした前衛派なのが面白いですよね。その点についてはこちらに詳しいです。

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ここでひとつ、思うことがある。新ウィーン楽派が作る弦楽器の楽曲とバルトークの音楽を聴くと、どうも脳裏をよぎってしかたがないのが鷺巣詩郎。彼の楽曲性というのはあまり語られてこない。せめて、ルグランの引用程度でしょう。この手のピアノ楽曲は基本的にラフマニノフが元ネタですが。

ロシュフォールの恋人より Concerto Ballet

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を『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』で『thème du concerto 494』

thème du concerto 494

thème du concerto 494

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や007のロシアより愛を込めてより、『Takes the Lektor』と

From Russia With Love (007 Takes the Lektor)

From Russia With Love (007 Takes the Lektor)

  • シティ・オブ・プラハ・フィルハーモニック・オーケストラ
  • ポップ
  • ¥153
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謎の円盤UFOの『謎の円盤UFO メイン・タイトル』の楽曲を組み合わせた

謎の円盤UFO メイン・タイトル

謎の円盤UFO メイン・タイトル

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ことでバラエティや『シン・ゴジラ』でもお馴染みになり、最早興奮剤のように扱われるようになった『EM』シリーズの原型『DECISIVE BATTLE』を作曲しており、そのオマージュをするその手際は見事すぎるという仕事ぶりを出しています。

『The Ultimate Soldier =3EM05=』のイントロをまず聴いてほしい。

(試し聴きでも裏でなっている弦の動きでも分かるが)

The Ultimate Soldier =3EM05=

The Ultimate Soldier =3EM05=

バルトーク: バレエ音楽「中国の不思議な役人」 - 序奏

バルトーク: バレエ音楽「中国の不思議な役人」 - 序奏

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完全にバルトークの意味合いを持った引用である。つまりエヴァの音楽性の一端を担っている要素として無調以後のクラシック音楽性がとりわけ強い影響があると感じる。元々無調音楽を使った映画系の音楽が合う作品という点が『新世紀エヴァンゲリオン』という作品にはあるので、作品のラインとしてシェーベルグ以後のクラシック音楽の方向性が入っているのは違いないです。因みに同じく劇伴作家の久石譲がポニョにて、ワルキューレの騎行を意識的に真似た楽曲を聴いてみるとこの具合だ。

波の魚のポニョ

波の魚のポニョ

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どう聴いても

という図式が明快に浮かびあがってくる。ここら辺は後期ロマン派〜無調前後のあたりで攻めていくと色々面白そうですね。ここまでのネタである程度の鷺巣音楽論としてはものになる記事は書けると思うので誰か書いてください。

平沢進の世界観

平沢進の音楽世界観を構築している要素として大まかに3つに区分できる。

このパートではそれぞれの要素についてのおおまかな説明と、平沢進がどのような引用をしているかという点について書きます。

SF的世界観の源流について

いつの時代にもSFの世界というのは実に面白い世界を見せてくれるものです。日本では海外SFを漫画・アニメに置き換えられてさまざまな作品が生まれました。

以上の例に代表されるように、60年代~10年代に至るまであらゆる世代でSFエンタメが提供されているのがその証です。平沢進の音楽世界観もSFの世界観をより強く踏襲している。では数ある作風の中でもどういうタイプのSFへ傾倒しているのかというのが気になる点です。これが意外と大事だったりする。音楽に尽くし難い体系があるのと同様、SFといっても色々な定義の仕方があります。SWという人もいれば、サイバーパンクを連想する人もいれば、星新一的なものなど、思う史観はばらばらであり、必ずしも一致することはないと思います。

色々な枝葉・流派があります。なのでそこからざっくりと説明いたします。

SFのジャンルの多様性

ざっと知られているジャンルを書くとこうなると思う。ではそもそも話から始めよう。誰が元祖かというのを厳密に考えると視点の違いによって神話という人もいれば167年にルキアノスが書いた『イカロメニッポス』、シェイクスピアの『テンペスト(1611年)』という人もいればシラノドベルジュラックの『別世界または日月両世界の諸国諸帝国』(1657年)、ガルヴァーニの実験を元にメアリーシェリーが書き上げた『フランケンシュタインの怪物、あるは現代のプロメテウス』(1818年)、あるいは文学を知的行為という考えを生み出した=推理小説の始祖ポーが書いた『ハンスパファアルの無類の冒険(1835年)』リラダンがアンドロイドという名を創造した『未来のイヴ』(1886年)などバラバラです。ただ、一般的な知名度や後世作家や科学者への影響等を考えると、大体の人が考える元祖SF作家はヴェルヌ及びウェルズとされています。

これらの作品群は児童向けに編集されたものとして今の尚読み継がれていますね。この二人は作品はのちにロケットの科学技術者の流れも担っています。

その後ドイルの『ロストワールド』(1912年)やエドガー・ライス・バローズの『火星のプリンセス』(1917年)といった作品群が発表されます。前者はヴェルヌ的流れを汲むものであり、後者は所謂スペースオペラの開祖的な作品になります。1920年代の時点でカレルチャペックが書いた*6『RUR』(1920年)という作品にてロボットという単語が確立しています。その後この流れで『宇宙のスカイラーク』(1928年)を書いたE.Eスミスが30-40年代までに『レンズマン』(一九三四年)や、エドモンドハミルトンの『キャプテンフューチャー』(1940年)などによって拡張され、最終形態としてスターウォーズ(1977年)に繋がります。

 

そして50年代に突入するわけですが、我々が想像するSFの諸要素というのはこの時点で存在しており、それらの想像力をより強固にしたのが黄金期と呼ばれている50年代SFです。なぜ黄金期なのか。それは歴史に名を残すSF大家と歴史的な作品群の登場が50年代(さらに明確に書くと1950-54年)に集中しているからです。ジョン・W・キャンベルが編集率いたアスタウンディング誌を中心としたSF雑誌群、例をあげるのであればプラネットストーリーズ/スタートリングストーリー/ギャラクシー/F&SF等があり、大手米国SF作家ほぼここの流れで台頭してきたものです。

(三大雑誌といわれているのはアスタウンディング,ギャラクシー,F&SF)

卓越した作家たちが跋扈するこの時代に一線で特出して活躍し、知られた作家が3人います。三大巨頭と呼ばれているのでご存じの方も多いであろう。代表作と作家性について簡易的に書いてみる。

 

 

アイザックアシモフ

ミステリー作家でもあるアシモフはロボット工学三原則というルールを編集者などの意見を経て発案。この三原則の盲点をつき、ロボット物のミステリー小説などで知られている他、『銀河帝国興亡史』(最近だと『ファウンデーション』の方が通俗的)などで有名です。因みにアシモフは晩年sf小説の殆どを全てこのファウンデーションシリーズに統合し、シェアワールドなども展開しました。そして実はその過程でロボット工学三原則に第零法則が加わっていたりします。読みやすい文章、小難しさがないロボットミステリー小説という側面だけで言えば、恐らく日本人に最も相性が良いsf作家であるといえます。また、ミステリー作家としての面を全面的に書いた作品もあります。主だって有名なものは『黒後家蜘蛛の会』です。こちらは短編小説なのですが、形式などが非常に面白いのです。学者や作家、画家等の6人が議題に上がる謎について考え、行き詰まったところを探偵役としての給仕ヘンリーが解決するというもの。アシモフの博覧強記とも言える知識量が所々につまっており楽しく読める作品です。私が一番好きな回はシャーロキアン的エピソードの『終局的犯罪』です。今の時勢に合わせて読むなら、はだかの太陽ですかね。古いですけれど、そういう時代に現在を描写させるだけのアシモフの考え方、想像力にはとても驚かされます。

・ロバート.A.ハインライン

ジュブナイル性のある作品を大の得意とする作家。その中で骨太かつ大胆な物語を展開し、過激な作品が多いが、その振り切り方は誰にも真似できない。まさしくSFの長老。日本では夏への扉が非常に人気を保っていますが、実はあれは国内のみの隆盛であり世界的にみれば以下の作品群が代表作とされています。

異星の客』(Stanger in a Strange Land)

最も知られた作品という意味ではまずこれ。ラディカルな内容という意味では頂点となる作品であり火星で育った人間が地球に火星の価値観を持ち込むのですが、フィクションでありながらも、異なる価値観をこうも提唱できるものなのかと驚かされます。実際に最大の問題作であり、ヒッピーカルチャー周辺事情に影響を与えたとされています。ある種奇書といっていいほど読み手にダメージを与える作品です。世界的にどれだけ浸透しているかという点については、本作の造語であるgrok(何を意味するかはぜひ本編を)がオックスフォード辞書に載る程度には当たり前の教養になっていますし、ビリージョエルのwe didn't stop the fireの歌詞の一文に出てくるほどです。

Hemingway, Eichmann, Stranger in a Strange Land
Dylan, Berlin, Bay of Pigs invasion

楽曲もアップテンポですし、歌詞は歴史の流れをバッと振り返ったようなものなので、ちょっとした雑学お勉強にもなります。

We Didn't Start the Fire

We Didn't Start the Fire

『宇宙の戦士』(Starship Troopers)

軍国主義による暴力的な側面がある一方で戦争にパワードスーツで参加するという、日本のロボットアニメを基底を提示した作品、つまりガンダムのMSの始祖的作品でもあります。まぁ、こっちのパワードスーツは人が『着る』もので、MSは人がガンダムに乗る『機乗型』ですので、本当に参考程度だと思うのですが。そういった売り文句もあり、今でも新刊で購入できますが、本作の一番の見どころといってもいいスタジオぬえが描いたパワードスーツの設計書などもろもろの絵が掲載されていないのです。正直魅力半減なので、早いところ早川書房はスタジオぬの絵が入ったver.を出すべき。

月は無慈悲な夜の女王』(The Moon Is a Harsh Mistress)

21世紀型の革命が描かれた作品。月面植民地が地球に対して独立戦争に挑むというお話、プロット的に「それなんてガンダム話なんだ」と思う人もいるでしょう。よくMS(モビルスーツ)のとっかかりが、同じくハインラインの『宇宙の戦士』からの引用のため、どうもガンダムのルーツとしては版元の早川書房も『宇宙の戦士』を強く宣伝しており、安彦さんに帯まで書かせていますが実際の内容は明らかにこちらが元なので、今からでも富野監督のコメント帯付きでこちらを売ったほうが、ルーツを知るという意味では効果的だとおもったり。

人工知能のマイクというコンピュータが出てきたりと求める要素が入っています。ここは完全にシャーロックホームズとその兄、マイクロフト・ホームズの対比をコンピュータとして描写させています。ここも、シャーロックではなく敢えてのマイクロフトをチョイスをしいるのがポイントだ。マイクロフトが初登場する『ギリシャ語通訳』において、シャーロックをして、こと観察力・推理力の2点においては自分よりもマイクロフトの方が優れた頭脳を持っているという台詞がある。マイクロフトは作中上、イギリス政府の重要役人という立場。それが故に探偵というのは趣味の一環にすぎないが故に、野心と活力というものがないため行動さえしない。ただ、ひたすらに安楽椅子に座り意見を述べるだけ。これは推理小説の中では安楽椅子探偵、いわゆるアームチェア・ディテクティブというもので隅の老人やミス・マープルに代表されるキャラクターの先駆けである。そしてこの安楽椅子探偵の機能性はまさしく計算機の具現している。

(より、分かりやすい言い方をすればデスノートにおけるMとN的とでもいうべきか)

卓越した頭脳と行動的なシャーロックと、それ以上の頭脳を持ちながら非協調性のマイクロフトという図式を思えば、コンピュータの名前として「マイクロフト」を選択するのは必然だなとハインライン*7料理のうまさを感じれます。

2076年を舞台とした作中においても重要なポジションを占めており、勝ち目のないと思われた革命においても多いに活躍をします。到底1960年代に書かれたことが信じられないと思えるほどあまりに面白い小説なので、マイクの活躍ぶりとその行く末をぜひその目で読んでみてください。少し分厚い手ですがそれを思わせないレベルで面白いです。

今、破天荒な行動で世界を賑わせている実業家イーロン・マスク氏も面白い本としてこちらを挙げています。別に高明な著名人が面白いと言ったから「読め」と薦めるわけではありません。向こうでは当たり前のSF (というよりもSF小説の定番である)というのはさておき、あれだけの実業家ですら「面白い」ということが重要。所詮は赤の他人の感性が感じ取ったものでしかないため、実際に手にとる読み手が同じ面白さを感じられるか否かはそれこそN人N色の感性があるので感想は違ってくるとは思うため無理強いはしませんが、SF作品として、そしてハインラインの数ある著作の中でも面白さ度でいえば『月は無慈悲な夜の女王』はピカイチです。なにより、現在も書店において定価で販売されている数少ない古典SFでもあるため今のうちに買って読んでおいた方が得です。

ハインラインの入門書と聞かれれば場合、中編程度のボリュームの銀河市民ですが絶版ということもあり中々読むのに、というより入手苦労する。もう少し海外の古典SFが読める環境が整ってほしいものです。

・アーサー.C.クラーク

長大であり壮大なスケールのでかい、宇宙のお話といえば代名詞のような作家です。一般的に有名な作品はスタンリーキューブリックと共同で製作した*82001年宇宙の旅』が最も有名です。

クラーク単体の作品としては『幼年期の終わり』(1953年)(上の世代だと『地球幼年期の終わり』の方がしっくりくるのかな)が有名ですね。本作はエヴァまどマギに通底するSFマインド(人類の進化と終末論)を打ち出した作品です。オーバーロードと呼ばれる宇宙人が人類にもたらす壮大なお話です。今読んでも面白い。流石の諸星大二郎の生物都市(1974)も、本作の影響を受けている。とにかく無機質さと精神の拡張や長大なスケールの大きさのお話を書けば一品級のSF作家です。最初に読むであれば『幼年期の終わりか『宇宙のランデヴー』あたりが丁度良いかと思います。

 

以上、がいわゆるSF三大巨塔と称される三大作家です。これにもう一人加えるとしたら日本における知名度的にはレイ・ブラッドベリあたりですかね。この作家は科学進化で何かが変わるという目線ではなく、それによって生まれる美しい情景などを詩的で魅せる作家です。、一般的にはファイアマンでお馴染みの『華氏451度』や『火星年代記』などで著名ですが、この人のストーリーテリングの面白さは*9万華鏡』と『ロケットの夏の2つの中編・短編にこそ、文章表現の面白さが詰まっていると思います。

 

そして60年代のシルバーエイジになり、代表作を連発する作家として台頭するのがみなさんご存知フィリップ・K・ディックです。62年『高い城の男』64年『火星のタイムスリップ』68年『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』等を発表と立て続けに傑作を出します。65年にはフランク・ハーバートがSFの大著『DUNE』シリーズを開始しその後の文化圏にかなりの影響力を持つ。女流SF作家のアーシュラ・K・ルグィンはハイニッシュ・サイクル群の作品を発表。この中で一番有名なのは両性具有の異星人をテーマにした『闇の左手』(1969年)ですね。ルグィンはその一年前にファンタジー作家としての最高傑作、といっていいearthsea(日本ではゲド戦記)の第一巻『影との戦い』を出しているところです。これらの小説からもわかる通り、50年代の空気とはまた別の世界観が提示されます。つまりは主に米英作家がゴールデンエイジ(黄金期)に書かれた物語というのは、現実世界に科学技術の論理外挿法(エクストラポレーション)を適応させ、世界観を宇宙レベルで展開することにより、どのような社会になるのかという視点ものが多い。それらに対して、60年代になると、地球自体が異界・異星という見方で構築されている作品群が台頭という流れになります。異星の客が61年に発表された作品というのが大きいのかもしれません。70年代になるとニューウェーブという運動が起こります。代表的な作家はJ・Gバラードとブライアン・オールディス。ここのニューウェーブが何を指すかは一概に言い切れないが、バラードはどういう小説を書いているかというと、自動車事故で興奮する男の話を書いたり(『クラッシュ』)、水分が蒸発することで雨が降らなくなる世界(旱魃世界)、自然物や人間までもが結晶となる世界(『結晶世界』)、気温が上がり水に沈んでいく世界の様の中、人々を描く(『沈んだ世界』)など、外(科学アイディア)の問題ではなく、内向的(人間真理や社会状況へ)な作品ということがわかります。こうした世界観をもつ小説をバラード本人は濃縮小説(コンデンスト・ノヴェル)と形容しています。(終末三部作=『旱魃世界』『結晶世界』『沈んだ世界』)

メフィスト賞界隈作家的に言えば、清涼院 流水が大説家といってしまうあの感じ。

ブライアン・オールディスは、「地球の長い午後」という作品が非常に有名です。

遠未来の自転が停止したことで昼と夜のみが訪れる地球にて人間は退化、巨大な昆虫や肉食動物こそが跋扈し、支配しているという大胆な設定で有名な作品があります。本作の何よりの魅力は、想像力を限界まで引き出すか如く生態系の名前がたくさん出てくることです。実際にある植物名と創作された名前とが混合しているので、いい意味で作品内における説得力があり、読んでいて楽しいです。地上を制した最強の生物のベンガルボダイジュ、空中生物のツナワタリ、寄生した生物の知能となりその生物を操ることで生き延びているキノコのアミガサダケ、そして茎を利用し、海をも渡ることができる植物アシタカ等が代表的な例です。他にもあらゆる植物や登場しますが、どういうのがあるのかという話ではありますが、物語として体感した方がお得なので、ぜひ読んでください。貴志祐介の『新世界より』のギミック的な意味でのネタ元であり、またこれとDUNEを足して2で割ると風の谷のナウシカの世界観が生まれます。アシタカはここからとったのかと思えますが、ゲド戦記の主人公の名前ハイタカを変換させたものとも考えられますし、なんとも言えませんね。

閑話休題

他のブライアン・オールディスの作品ですと『スーパートイズ』がオススメです。これはスピルバーグ監督(元々キューブリック作品のはずが逝去したため引き継ぎでスピルバーグとなった)のA.Iの原作小説でもあるので、映画との相違点などを楽しむ視点で読むと言ったこともできます。どちらの作品においても、外の方向ではなくやはり内に向かっていく作風であり、ニューウェーブ的であります。そして時は80年代に入るとウィリアムギブスンが84年にスプロール三部作の一弾ニューロマンサーを発表し、その後は続編『カウントゼロ』『モナリザ・オーバードライブ』を出し、以降ブルース・スターリング(1988年に発表した『ネットの中の島々』では近未来ポリティカル小説を展開。飛来してくる無人機による銃殺など現在でいうドローンによる攻撃などを描写するなど、かなり腕のある作家)やルーディラッカー等がサイバーパンクの盛り上げをみせ、我々が想起するような電脳空間等のイメージソースが出来上がってきます。

どちらかと言うと日本における電脳世界だなんだというのは、翻訳家の黒丸尚という方が翻訳をするときに、漢字にルビを振ったことでより、作品としてのイメージを掴めるようになった影響が物凄く大きいのですが。恐らく、現代SF的イメージというのはここに集中している。現実にネットというものが発達したこともあり、この世界のイメージから未だに抜けきれていない。

 

90年代以降はテッド・チャングレッグ・イーガンの二大巨頭が本格的な小説を出してきます。テッドチャンはこだわりのせいか、20年以上作家をしているのにもかかわらず、短編集と中編集がそれぞれ一作しか出されないほどの相当な寡作作家(2冊で履修完了)ではありますが生まれる作品は『あなたの人生の物語』や『理解』、『息吹』などの卓越した作品を残しました、イーガンは幼少の頃から学術に才覚を発揮していたタイプの作家であり、量子力学認知科学宇宙論といったものをテーマに万物理論ディアスポラ順列都市などといった作品群を発表しています。そんなこんなで00年代、10年代と時間が経つわけですが、今でもこの二人がSFの到達点といえるような作品を出しているおかげで、SF入門といえばチャンとイーガンを読んでおけば良いという風潮もあったりします。

チャン→『あなたの人生の物語』・『息吹』

イーガン→『しあわせの理由』・『順列都市』『ディアスポラ

 

チャンのあなたの人生の物語という素晴らしい邦題、はてなブログのキャッチフレーズにも引用されています。

「書き残そう、あなたの人生の物語

運営自体が2011年なので間違いなくチャンの作品から取られたものです。

 

では国産はどうかという話ですが、国内作家だと伊藤計劃的な物語自体はマンハント(犯人追跡)物でありながら、核となる面白さ味を外挿法的なアプローチを組み合わせ、近未来・サイバネティクス的なガジェットなどを出てくる作品(『ハーモニー』『虐殺器官』)。或いは、冲方丁的なバトルのギミックとしてsfを飾り、キャラを立たせることでドラマが出るタイプ(『マルドゥック・スクランブル』)の作家や神林長平といった現実の認識に歪みをもたらす作家(『戦闘妖精 雪風』『猶予の月』『言壺』)などがいますが、基本的に海外SFは研究者や科学者が本業職業の方が書いているケースが多く、日本的な職業作家でSFというのはそんなにいない。故に先述した、論理外挿法がより強固なものになるのに加え、海外ではSFを読むことが日本よりかは基礎教養の部類にはいるため、結果的にシリコンバレーで活躍するような実業家たちにヒントを与える作品になりやすい。科学の発達によってどのような世界が生まれるか、という考え方は時代の影響もあり、主に50年代のSF小説で提示されていることが多く、考え方自体は今読んでも多角的な視野の一つとして噛んでおくのも一興かと思われる。いわゆるサイバーパンク以後のSF小説も、それらの考え方・見方統合されているからこその世界であることからアイデアそのものにそこまで変化というのはない。

 

日本SFは単なる物語として書いている作家or日本人的に共感できるなリアリズムを想定して書いた作品が大半を占める気がする。例外はあれど単にSFといってもその内訳には海外SFと日本SFとで明確に作り方からして枝分かれしており、その時点で作り方や、物語そして読了における効能は全くの別ものだと感じる。

 

ではSF史を軽くさらったところで平沢進が影響を受けた作家について紹介していく

カート・ヴォネガット

どうか 愛をちょっぴり少なめに、ありふれた親切をちょっぴり多めに

(『スラップスティック』の一文より)

荒唐無稽なSF的要素を展開し、シニカルでありながらユーモアのセンスを兼ね備えた作品や莫大なお金を手にした人間を焦点に描かれる文学的な作品などを発表し、アメリカSFのみならず、米文学作家として評価されたカート・ヴォネガットという作家がいます。訳者の浅倉久志文体含め、日本の作家にも影響を与え続けている作家です。

主な代表作は

あたりだろうか。一般的に言われるのは上3つだと思ってください。

ではそれぞれ代表作3作品がどういう作品・世界観か紹介をします。

・『タイタンの妖女

主人公のウィンストンナイルズラムファードとその飼い犬が時間等曲率漏斗(クロノシンクラスティックインファンディブラム)に飛び込んだ結果、未来を見通す存在になり、以来時空の波動現象として存在し、波動と地球が交差するタイミングで実体化できるようになり、世界中どの場所にもどんな時間軸にも行ける存在になる。人類を導くためにそれらの力を利用し、地球から火星、水星等に大冒険するというお話です。

時間等曲率漏斗(クロノシンクラスティックインファンディブラム)

  • 過去に存在したもの未来でも存在を保ち続け、未来にあるものも、これまでも常に存在する

というものです。かといって未来や将来の運命というのは変えられないというのが本作が提示した決定論/自由意志の考え方。言い換えれば自分が死ぬところまで全部見えるが、だからといってそれらの運命を変えることはできず不変であるということ説いている。類例として挙げるのであればベルセルクでいう因果律的に近い考え方なのかな。作中のゴッドハンドであるボイドの台詞の中に「全ては因果律の流れの中に」というものがあるが、その因果律が見える状態になると思えばわかりやすいでしょうか?

さて、往年のファンであればここでP-MODELのbig bodyのtrack5.のタイトルを想像したでしょう。『時間等曲率漏斗館へようこそ』。つまり、過去⇄未来にそれぞれ存在するものがある館へようこそというコンセプトが貼られた作品ということになる。

・『スローターハウス5

旧来は『5屠殺場』というタイトルのものだったが、今ではスローターハウス5で通っているこの作品は作者がドレスデンで捕虜であった時の経験を元に発表された作品である。2章〜9章にわたって描かれる痙攣的時間旅行者 ビリー・ビルグリムの生涯は、痙攣的というところからもわかる通り、通常の時間軸では語られず転々と場面が変わっていくように進むというのが本作の特徴的な点です。時間旅行やトラルファマード星人という過去現在未来を一望できる存在であり、それらは既に既定路線であり、変えることができないと主張(=自由意志の否定)を持つ異星人に誘拐されるといった要素も本書の醍醐味です。本書を形容する台詞として「そういうものだ」という一文がある。これが何を意味しているかは是非その目で確かめてみてください。

・『猫のゆりかご』

本作は終末ものと言っていい作品です。

物語は語り手でもあり、キリスト教に傾倒していた「ジョン」が世界が終末をむかえた日についてという、広島に原爆が落ちた時にアメリカの重要な人物が何をしていたかの記録本になるはずであった。それらの執筆するために、取材を重ねていくうちに、カリブ海の孤島にてサン・ロレンゾ共和国にてボコノン教に出会い、そこで改宗をし、かの有名なフレーズ「嘘の上にも有益な宗教は築ける。それがわからない人間には、この本はわからない。 わからなければ、それでよい。」と語りかけた上で、改宗までのお話を展開する。というお話です。本作には、ボコノン教といった架空宗教やフェリックス・ハニカーという作中で原爆の父と呼ばれる人物が開発したアイスナイン(架空物質)が出てきます。最近、ゴジラSPという作品にて引用されていたので、名前だけでもご存知の方は多いのではないでしょうか?これは常温で水を結晶にして氷に変えてしまうという物であり作中で非常に大きな役割を持ちます。タイトルの猫のゆりかごが何を意味しているのか、という点を含め大変面白い小説です。内容についてはぜひ、読んでみてください。架空宗教云々という意味では本作はハインライン異星の客的であり、ディックでいうヴァリス的と言えることができます。

・『プレイヤーピアノ』

本作は1952年に刊行された小説であり舞台は架空都市イリアム第三次世界大戦後の世界を描いており、その実テーマ性で言えばハクスリーのすばらしい新世界や、オーウェル1984のテーマを受け継いでいる作品(=機械文明の成れの果て)でもあり、読み応えのある作品。生産工程が全て自動化され、人間の行く末をパンチカードが決めているという世界観、つまりタイトルのプレイヤーピアノもプログラム構成された自動演奏ピアノという意味である。をもちつながら、登場人物の複数のエピソードが最後に集約されていく様はデビュー作でありながら既に確立されたものである。

・『ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを』

大富豪ローズウォーター家の跡取りであるエリオット・ローズウォーターは、財産を使い、慈悲文化団体のローズウォーター財団をたちあげ

ローズウォーター財団です。なにかお力になれることは?

というキャッチフレーズの元人々を救済する事業に取り組んでいる。しかし妻であるシルヴィアはエリオットと同様に振る舞うことができず、ついには2度の神経衰弱まで起こしてしまい、それをしったエリオットは、自身が良かれと思っていた行為によってシルヴィアがどれだけ傷ついたかを知った結果、エリオットは自己喪失をしてしまいます。この物語には、ノーマンムシャリというキャラクターが財団の転覆を狙うのだがそこのお話自体は割とどうでもよく、エリオットが抱く「生まれついた環境で貧富の差が決まる」事による不満不平から生まれる博愛主義的な慈善事業行為に対して、読者に提示しているであろう、「有り余る大金をもっていたら」というというに対して、自己利益に費やすことが果たして正しいのであろうか?と問いただされるような気持ちにさせてしまう。この本の読者はエリオットのような利他的行動をすることは難しいからこそ、本作に感動できるという、少しばかり文芸的な小説です。

 

カートヴォネガットは架空の作家を自分の分身として劇中に登場させるといったこともやってのける。SF作家キルゴア・トラウトという名前で、ヴォネガット作品では彼の名前と作品が度々登場する。ここでキルゴア・トラウトの作品名を一部列挙してみる。

  • 『貝殻の上のヴィーナス』
  • 『ジミーヴァレンタインの息子』
  • 『車輪の災厄』
  • 『スマート・バニイ』
  • 『宇宙からの福音書
  • 『全銀河記憶旅行』
  • 『快楽の口』
  • B-36の三姉妹』
  • 『第四次元からの狂気』
  • 『株式取引惑星』
  • 『転轍手の居眠り』

こういったタイトルなのだが、いかにも平沢進が好きそうなタイトルだなぁと思うのは私だけでしょうか?。因みに劇中に架空の作家を用意するという手法、某作家がデビュー期に思いっきり真似をしています(後述あり)

しかし架空でありながらもキルゴア・トラウトの貝殻の上のヴィーナスは*10実際に出版されている。そして表向きはトラウトとしつつも、実際に執筆したのは<リバーワールド>シリーズでお馴染みのフィリップ・ホセ・ファーマーヴォネガットスタージョンの名前を元に自身の分身キルゴア・トラウトを生み出し、その彼の作品をファーマーを通して出版するという点においてここを平沢進が通っていないはずがない。

絶対本棚のどこかに貝殻の上のヴィーナス置いてあるぞ。

シオドア・スタージョン

人間以上という小説は超能力をもった少年少女、そして赤ん坊含む5人(ホモゲシュタルト)のお話。ここだけ聞くと、終始バトルものと思いがちですがそうではなく、5人がそれぞれが群生精神として合体することで集団超存在=1つの個として成っていくという、どちらかというと共生的なタッチの作品です。過程としてのバトルはありますが。

  • 人の意や記憶・心を読むることができ、瞳で他人を意のままに操れるアローン
  • アローンと同じ能力をもつジェリイ
  • 少女ジャニイはテレキネシスの使い手
  • 瞬間移動できる黒人姉妹
  • *11モウコ病を患いながらも人間コンピュータの脳を持つ赤ん坊

この作品、某キャラクターが暴走してしまうのですが、そのキャラクターにかける道徳という言葉をかけることによって解決させる場面があり、ここが文学的と表現するには大袈裟かもしれないが、スタージョンのイズムを感じる上手い所。

フィリップ・K・ディック

米SF作家きっての鬼才、フィリップ・K・ディック。代表作の『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?(1968)』は日本語独特の和訳性を持つタイトルの響きもあり、本作を読んだことがない人ですら、器だけを借りた全くの別の世界を描いた映画『ブレードランナー』や、パロディを通して作品名は知っているという人も多いであろう。ディックの作風というのは確かな世界は裏にあり(パラレルワールド)、実世界は偽物であるという世界観が主な作家性であり、その一方でアンドロイドという物の存在について語るといった作品が多い。今ではすっかりSF作家の代名詞的な存在となったディックですが、実はオーディス同様、自身の小説を純粋小説と名付けているほど、本来は純文学を志向していた作家でもあります。市に虎声あらん という小説はルサンチマンが爆発している本であり、一部ではディック版ライ麦と形容されるほどの内容ですし、ティモシーアーチャーの転生になるとどこがSFなんだと言いたくなるほどです。ただそういう作品のほうが力作的な筆力を感じられたりするものです。

ディックの作品群にはひとつの雛形があり、その後にそれらを流用した間接的な続編ものもあります。例えば、電気羊のプリスという人物は、それ以前に書かれた『あなたを合成します』(1962)という小説に登場します。この作品はモーリィとローゼンの二人が元々は電子オルガンを作ってる会社が売上が乏しかったことから、南北戦争ブームに合わせて、リンカーンとスタントン将軍の擬似体(シュミラクラと呼称されるがようはロボット)を抱き合わせで企画を売ろうとしたら、相手に一枚とられ、それらのデザイナーやエンジニアを引き抜かれその技術を用いて、人間のシュミラクラを量産し火星移住民にしよう、、というのがおおまかなあらすじなのですが、ここにプリスという荒々しい女性キャラクターが登場します。プリスといえば、電気羊にも雌型のアンドロイドとして登場するキャラクターですが、電気羊にて、登場するのは決して偶然ではなくテーマ的な流用があったと考えることもできる。その間に本作で機械人形を指す、『シュミラクラ』という単語のタイトルで1つの作品を挟んでいるため、それを含めて姉妹作三部作といっていい。内容的にも作品的にもあまりにも電気羊が有名なので、軽視されがち(というよりも『あなたを合成します』/『シュミラクラ』)のスピンオフ作品を読んでいる人は中々いないと思いますが、より楽しみたいのであれば是非読むべきです。面白いかどうかは別。

ヴァリス三部作(『聖なる侵入』『ティモシー・アーチャーの転生』『ヴァリス』)は面白いですが、ディック入門には厳しすぎるので、何作かよんで、ディックがどういう作家なのかということをわかってから読んだ方がいいです。それを前提に個人的なディックのおすすめをあげるのであれば

  • 『ユービック』
  • 『スキャナーダークリー』
  • 『火星へのタイムスリップ』

ディックは今でこそ全世界的に支持され、有名映画の原作として知られたり、ネタ元として引用されたり、独特の世界観から映像クリエイターに好かれているが、実はそれらは死後評価であり生前、作品のレベルに対しての対価は薄く、ハインラインからお金を借りるという経済状況であった。世の中不思議だなと思うのが、こと海外出版事情は存じないが、日本においてはディックの作品はほぼ翻訳され、売れ続けており絶版したものが少ないという点にある。海外SFに馴染みのない日本でなおかつ、出版元が絶版度の高い早川書房において一人の作家でこれほど支持されているSF作家は他にいない。ミステリー枠でのクリスティ文庫でクリスティ作品がいつでも読めるが、あれは世界で20億部を売り、最も売れた作家だからこそであろう。日本ではそのくらい特別な作家になったといえる。先にかいたSF三大作家にしろ、代表作の数本こそ売れているが、翻訳全作品という視点に立ってみると圧倒的に絶版が多い

(これは早川が翻訳権を独占するわりに出さないからという見方もできますが、日本でSFは売れないので致し方ないのかな)

1984の世界

作品名のほうが知られているので例外的に作品タイトルにした。エリック・アーサー・ブレア(オーウェルの本名)の『1984』ほど、現代に染み付いた物語や設定もそうそうないであろう。出版から100年も経たずして全世界的に知名度をたらしめた小説というのは特出した何かがあるのだ。島田清次郎の『地上』のような末路を辿ることもないであろう(『地上』のような末路の意味がわからない人は個々で調べてください。ある意味、島田清次郎という作者及び著作を分からないというのがこの場における答えでもありますが)。では、何故そこまで支持され続けるのか。そもそも『1984』がよく出来た小説であり、それが読み手にとって爆発的な広域で絶大な影響をもったことと、作中で登場する設定のシンプルかつ魅力的な単語が第1にある。

まずは1984というタイトル。これは完成したのが1948年だったことから48を逆にして生まれたタイトル。そしてもう一つ、あり得たかもしれないタイトルが『ヨーロッパ最後の人間』という仮題であった。後者もそこまで悪くはないし、オーウェル自身も1984の方が「やや」気に入っていると書いた記録が残っているので前者になった可能性もあるが、総合的に見てやはり『1984』が正解であった。それにかこつけて実際の1984年と重ね合わせて、世界がどうのこうのという、鬱陶しい識者がいたりするが。

シンプルかつ魅力的な単語と書いたがざっと挙げるだけでも

  • ビックブラザー
  • 二重思考
  • 二分間憎悪
  • オールドスピーク(oldspeak)
  • ニュースピーク(newspeak)
  • 四部局(愛情省/真実省/平和省/潤沢省)
  • 101号室
  • 思考警察

がある。

そして第2に、読み方の変容があると考える。つまり、最初は全体主義の恐ろしさをフィクションに落とし込むことで文学的な成功を制し(ご存知の通り、オーウェルは出版後まもなく亡くなったので、今日に至るまでの評価というは明らかに死後評価なのだが)そのラインで読者を魅了していたのがいつしか読み方が変わり、ある種一つの寓話的なポジションになった(登場人物は動物ではないが)。そしてそういう形で古典として今尚読み継がれている本が存在する。それはスフィストの『ガリバー旅行記』だ。あの本は18世紀の風刺した内容であったのが、今では、基本的には子供が読む童話として読み継がれているにポジションに落ち着いた。まぁお話内に、普遍的な物語が組み込まれていたということだ。

謄本と抄本の両方で成立しうる作品と書くべきか。

  • 謄本=フル尺で読む=社会人的に分かりやすい言い換えをするなら登記簿謄本
  • 一部分編を切り取った物語=岩波少年文庫版=抄本

つまりは旅行記四篇として

があるが、おそらく大半の頭の中にあるお話はリリパット止まりであろう。そう言う人は是非、全編を読んでください。本作も『1984』と同様に言葉の妙といった単語や設定がある。

少しだけ紹介すると第三編にはラピュタも地名として登場しますし、*12バルニバービの医者の話は二人の脳をつなぎ合わせることで政党の争いを止めようとしますし、グラブダブドリッブ国は人間の堕落を描き方はフィクションならではですし、第四編フウイヌムでは野蛮種族として*13Yahooというものが出てきます。『1984』でもnewspeakをnews picksというもじりに変えたメディアが存在するので、こういう点も含め非常に似た何かを感じます。オーウェルガリバー旅行記を『1984』を書く時に意識をしていたかどうかは別として、『ガリバー旅行記』を通してスフィスト論を書いていることからして、マインドと意味では当然あったと言える。同じ出身国という意味でも殆ど同郷に近いため、作家としての尊敬はあったはず。

1984』はディストピア物の傑作と謳われ続け、あらゆるメディア、ウェブサイトにそのような記述がるが、面白いことに実はディストピアという単語は当時には存在しない。

ユートピア自体がトマス・モアが1516年にギリシャ語の善き場所をさすeu-toposと存在しない場所を指すou-toposを合体させた単語としてのユートピアディストピアの初出は記録上では1868年のジョン・スチュアート・ミルでの演説とされているが、その場限りの単語としての機能性が高かったと思う。また、オーウェル自身がディストピアという単語を知っていたとも限らない。オーウェルは出版直前に書かれた手紙において、1984のことをこう書いている

George Orwell: A Life in Letters (googleブックより引用)

My new book is a Utopia in the form of a novel

意訳すると私の新しい本は、小説の形をとったユートピア小説だ。となる

仮に、ディストピアという単語が1949年時点で定着していたのであれば

My new book is a dystopia in the form of a novel

と書いていても変ではないのにutopiaということはその当時、一般的な単語として知れ渡っていないことがわかる。いまもどちらかというと俗語の類だが。

そして、一見相反するディストピアユートピアに違いはないということが分かる。行き過ぎた高度社会になった世界は窮屈であるというのは伊藤計劃の『ハーモニー』で書かれたように自由と健康を天秤にかけ、健康が優先されてしまった世界では不健康な自由というものが統制されている。なので本質的には理想郷の成れの果てがディストピアという考えでいいのではないかとも思うである。言葉としての響きなどが美しいため、今ではディストピアという単語が跋扈していますが、元々そういうディストピアを目指して書かれた小説ではないということだけは書いておきます。

もう少し、補足をすると、同じくディストピアものの小説だとオーウェル以前にハクスリーやザミャーチンがそれぞれすばらしい新世界』(1932年)『われら』(1922年)を執筆。『1984』と合わせて代表的な三部作という括られ方もします。すばらしい新世界とわれら共に幸福のために自由を犠牲にしているタイプの本です。ハクスリーに至っては、オーウェルと同じイートン校出身である所が運命的だなぁと思う。1908年にハクスリーが入学、1917年にはフランス語で1年間教鞭をとるわけだが、時を同じくして17年にオーウェルが入学。教師と教え子の関係でもあったわけである。そしてフォロワーとして1917年に生まれたアンソニーバージェスが1962年に『時計じかけのオレンジ』を発表。本作も今や基礎教養の部類として位置づけられているが、明らかに1984をベースにしていることは誰にでも分かる。

 (顕著に出ているのがルドビコ療法と101号室の拷問)

それを裏付けていることを示す書籍もある。バージェスは『1985』という本を出しており、バージェスの1984論を架空インタビュー形式で書き、その後自作としての1985という作品を書いている。そういわけで1984について書いてきた訳だが、本作の凄い所は作品自体を読んだことがない人であっても1984的なものを見聞きすることで潜在的に「こういうもの」というイメージソースができていることだ。そして今後も未来永劫元ネタにされ続けることで永遠に愛される作品になるであろう。

 

平沢進が影響を受けたSF小説作品群

ではこれらの作品群+、海外SFの中でどういった作品群に影響を受けたのか。ご本人が公言しているものと書き手が思う作品を列挙してみた。

『DUNE』・『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』・『1984』・『銀河鉄道の夜あたりはどんなアーティストであっても絶対的な影響を与えている四傑といっても過言ではないほどモチーフにされ続けているのでそこまでの発見はないし、作家として見た時のディックも、彼の世界観を意識した作品は先に書いた通り。次点として、夢見る機械もわりとパロディされやすい。随分前に世にも奇妙な物語にて、窪田正孝主演で映像化されましたし、一般的知名度はそこそこありますね。ここまでは平沢進でなくてもありふれた光景ではあります。音楽で取り上げるにしては中々独特だなと思うのが、ファーマー・ヴォネガットスタージョン。この一風あたりが文芸作家や評論家への影響ならともかくアーティストとしてのイメージソースに使っている人は珍しい。

 

平沢SF世界観はどういう形容をすればいいかという話ではあるのだが、ふと思ったのが虚淵玄が脚本を執筆した『psycho-pass』というアニメが放映された時、作中のラスボスに槙島というキャラクターがいるのだが、これがかなりクセのある人物で、SF小説哲学書のほかシェイクスピアものを暗唱するため中々奇抜なセリフが多く、(その上CV:櫻井孝宏という完璧なキャスティング)、当時あらゆる人が衝撃を受け、*14引用文献を読み漁る人が大量に出たのですが、手下との人物との会話でこういう台詞がある。

槙島:普通でない街か。なんだろうな。昔読んだ小説のパロディみたいだ。この街は

手下:例えば、、ウィリアム・ギブスンですか?

槙島:ジョージ・オーウェルが描く社会ほど支配的でなく、ギブスンが描くほどワイルドでもない

台詞自体はあくまで、PSYCHO-PASS内世界を比喩的に説明しているシーンですが捻りをきかせた上で言い換えてみたらこの一文は平沢進の世界観を説明するに実は有効ではないのかと思う。(引用文献を相手が読んでいることは前提として)

アニメPSYCHO-PASSも未見の方は是非。1期だけ見てくださいそれなりに面白いです。

平沢進の世界観より読み解く映画群

このパートは完全に公言している作品以外は書き手の推測でしかないのですが、考えてみるのもまた一興です。これはビジュアル的に影響を受けているのではないか?と視点がメインになります。基本的にはその世界ではSF映画です。

基本的に、どの映画がどうというよりもSF的教養と感性からしてこれは絶対みて、どこかで影響を受けているであろう。と言ったところ。本来ならそれぞれについて個別に語り出すところですが、そうすると別の特集になり、文字数が9万字を超えているため省きます。

ロケット開発興亡史

主に、平沢ソロ作品に顕著に出ている(始まりのバンドがthe sputniksという点を含め)が、明らかに主軸として昔のロケット開発の流れを汲んでいる。ロケット開発の歴史における主な重要人物はざっとこんな感じ。

せっかくなので、上記の人々がそれぞれどのような流れかをさらってみる。

ヴェルヌに影響を受けたのがツィオルコフスキー、反作用利用装置による宇宙探検(1903年)を発表。あまり知られていないが、多段式ロケットや宇宙エレベーターなど、われわれの宇宙に抱くイメージソースというのは、ほぼツィオルコフスキーが提唱した。一方、ウェルズに影響を受けたのがゴダード、彼は液体燃料ロケットを打ち上げに成功(1926年)しその後、ロズウェルに研究所を立てるのだが、ロズウェルということからも分かる通り、後の1947年、ロズウェル事件(UFO墜落)があることを考えると、なんとも面白い偶然であると思ってしまいます。ヘルマンオーベルトもまた、ヴェルヌに影響を受け、惑星間宇宙のロケットという論文を発表(1923年)、オーベルトは宇宙旅行協会(ドイツ宇宙旅行協会)に属しており(創立に一役かった人でもあります)若きヴェルナーフォンブラウンもここの愛好家団体の一人であった。そのフォンブラウンV2ロケットを創ったのちに、戦争の影響にて、アメリカに亡命。歴史の面白さがここで発生。そこで合流するのがウォルトディズニー。ウォルトディズニーは当時、ディズニーランド建設のためにアメリカン・ブロードキャスティング・カンパニー(通称ABC)にて、番組名としてディズニーランドというものを放映。4つのテーマランドを展開していた

そしてトゥモローランドにて、そこにフォンブラウンを起用、まだ宇宙が夢の時代出会った時代であり、そこでいかにしてロケットを飛ばすかというプレゼンすることでアメリカ人を熱狂させ、その後アポロ計画、スカイラブ計画時にサターンV型に貢献。

色々な計画名で知られているので、どの時代か分かるように年代順に並び替えるとこう

今でもサターンV型は全高や推進力などあらゆる点において、最大の数字を誇りギネスまでにも登録されている。

ウォルトディズニーとフォンブラウン

一方でコロリョフはドイツから亡命したフォンブラウンソ連が用意した科学者です。当時は時代の情勢もあり、暗殺が懸念されていたため、主任設計士として呼称されていなかったわけだが、この人はご存じスプートニクの開発に加え、世界初の大陸間弾頭ミサイル、R-7ロケットやソユーズの打ち上げに成功とこれまた偉大な人物である。なぜロケット文化なのかと思う人もいるが、これは単に、そういう世代だかと考えるのが自然でしょう。一時期の怪獣ブーム(『ウルトラQ』およびそれ以降の円谷特撮)にハマった人たちが60年代生まれのクリエイターに特撮の洗礼を浴びた人たちが(俗に言えばオタク第一世代)に爆発的に多いのと同様に。単純にそういうものが好きだったという可能性もあるが、ソ連vs米のロケット競争は先に書いた通り、史実として面白い。69年の人類が月に着陸するという偉業さえもリアルタイムで経験していると、並々ならぬ影響を受けるものだと考えた方がいいでしょう。全世界的に宇宙ブームというのは間違いなく発生していて、そう言う事象は例えテレビやラジオを通しても、いやむしろラジオなどの媒体を通すからこそと書くべきか、その世代に絶対的なものとして刻まれる。と同時に、60年代初頭には怪奇・SFテレビシリーズとしての『アウターリミッツ』」や『トワイライトゾーン』といったドラマ作品があります。生まれ年から逆算すると間違いなくそういったものに影響を受けている。実際に、それに即したタイトルを想起させる楽曲やアルバム名があります。

以下、4タイトルは『アウターリミッツ』のエピソードのタイトルの一部です。

これを見た後に

  • 「ホログラムを登る男」
  • 「ナーシサス次元から来た人」

といったアルバムのタイトルや楽曲を見ると顕著にアウターリミッツ味が出ていることが解ります。

 

ここまで、平沢進の世界観を構築するSFやそれに関する事象や人物について書いてきたわけだが、要するに平沢進はSF素地が物凄く高い。明かしていないだけで相当読み込んでいると思う。その上で、あらゆるネタを音楽に仕込んでいる。平沢進だからこそという意味で、変なタイトルを担う要素はSFに集中していています。

平沢進はあくまで媒体が音楽であっただけで半歩ずれていればSF作家であっただろうしだからこそ、こういったツイートが出てくるのだと思う。ここまでの流れを考えれば当然の流れだと思います。

大御所クリエイターにありがちなSF教養の高さのある傾向というのが平沢進にも当てはまると言えます。雑話だが、この流れで平沢進とほぼ同じものに影響を受けている国民的な作家がいる。もやは説明するまでもないが、それは村上春樹だ(1949~)。彼と通底する所が見受けられる。第一にカートヴォネガットの強いフォロワーであること。デビュー作にあたる「風の歌を聞け」に登場する架空作家はキルゴア・トラウトのような存在(モデルはシオドア・スタージョン)、つまりは*15デレク・ハートフィールドという架空の作家を用意し、アフォリズムを用いた文体などから推察するにヴォネガットのコピーといって差し支えない。そして文体は役者の浅倉氏のものを引用し続けている。ユング研究者の第一人者である河合隼雄とも複数回に渡り対談していることからも、カール・グスタフユングのイメージを創作ソースとする点も共通。第二に1984の影響。09年に「1Q84」という本を出すところからも共通項。村上ワールドにも所々、ロケット開発の歴史の中で生まれた事象を通っているところが見え隠れする。とりわけコロリョフが飛ばしたスプートニク=世界初の人工衛星です。これらの影響で『スプートニクの恋人という作品を出していることからもそれは明白であります。たしかに作品そのものにスプートニク、というか宇宙系の要素は一つも登場しない。1-6章の国立編/7-14章のギリシャ編+15章のにんじんくん編という異様なチャプターを挟んだのち、16章エピローグというどれをとっても、それらしい話すら出てこない怪奇なラブストーリー。そんな小説にスプートニクを使ってくるのは60年代のロケット開発の背景を程度の差異はあれど、なにかを意識していたからではないかと思う。もう一つそれらしい補助線を引くのであれば言うまでもなくビートジェネレーションとその様式に影響を受けた所謂”ビートニクス”にかけているといったところでしょう。ケルアックやサリンジャーあたりに影響を受けていることはもはや教養のある人からしたら当然でしょうし、多くは語りませんがその路線としてみたほうが”村上春樹”としては語りやすい気もします。単に響きがかっこいいからというパターンもあるがそこまで安直な作家ではない。

そのため、平沢進の作風のどこかに村上春樹の雰囲気を感じるという人をよく見かけますが、あれは正しい感性と言える。影響元が同じと言う点では、創るもの媒体が異なれど似てくるものである。

閑話休題

ニコラ・テスラ

ニコラテスラはエジソンと同じく高明な科学者だが、今ではテスラというとイーロンマスク氏の会社名で通っているのであろうか。どのみちニコラ・テスラから来ていることは間違い無いのだが。高圧の蒸気エネルギーを羽根車に吹き付け軸とを介して回転する外熱機関のテスラタービン、共振変圧器のテスラコイルをはじめ、身近な物だと無線、ラジオ、電子レンジ、蛍光灯、リモコン等があり、学術的な面であっても磁束密度を指す1テスラという国際単位系にもなっており、病院に設置されているMRI(Magnetic Resonance Imaging)などで1.5Tや3.0Tという表記にも使われています。このようにどこかしらでテスラの功績を享受している我々にとっては偉大な人であるのにもかかわらず、知名度の点でいえばそこまでではないのが不思議ですね。ニコラ・テスラ本人の知名度の低さに反してコロラド州コロラドスプリングスで撮られた以下の写真は非常に有名ですね。

 

実現しなかったものとして挙げられるのが世界システムというもの。

テスラコイルによって発生した電磁波を用いて、無線で送電を行うというもの。これが成立していれば、地球上のどこにいようと、信号・文字、メッセージなどが、瞬時に送電できるとテスラは考えていたわけです。この計画が成功にしていた場合、世界システムによって発生した電気的活動が世界中の設備とで相互連結ができるという代物になるはずであった。建設場所はアメリカのロングアイランドにかつて存在した、ウォーデンクリフ・タワーを予定していた。

ウォーデンクリフ・タワー

計画そのものは大西洋横断無線通信において、グリエルモ・マルコーニが先に成功させたことで、今では*16五大財閥の一角の創始者で知られているジョン・モルガンがテスラの資金繰りから撤退したことなどが原因で頓挫したが故に、未完に終わったものである。がしかし、現代においても、その都度言及されるという意味ではやはり魅力的なものなのであろう。

ちなみにC.ノーランのプレステージというクリストファー・プリーストSF小説が原作の映画にてテスラが登場するのですがそれを演じているのがデヴィッドボウイというのは平沢進音楽史を振りかえって考えれば出来過ぎな気もします。米音楽バンドでもアメリカでは名前をそのまま引用したテスラというバンドがいます。『Mechanical Resonance』や「The Great Radio Controversy」といったアルバム名含め、すごく薫陶している感があります。ニコラ・テスラといえば、彼を支えた人物にヒューゴー・ガーンズバッグという人物がいる。この人は20年代(1926年)に世界初のSF雑誌『アメージング・ストーリー』を創刊、創刊した発明小説を中心で載せたことでも知られ、あるいは、ギブスンのガーンズバッグ連続体等での引用、そして今現在翻訳SFが売り出される時にヒューゴー賞受賞といった文面があるが、あれも彼の名前からもじられた賞タイトルであることからして、SFの文化の一角を作った人であることはお分かりであろう。作家としても活動し、『ラルフ124C41+』(1911年)という作品を発表していたりします。こういった人物がテスラとつながっていたことで、SF的なイメージソースにテスラの開発品などが土壌の一つを担ったことは間違いないであろうし、それすなわち、SF世界観とテスラを引用する平沢がこの延長線上にいるということでもある。このことを考えると外せない人物であることが分かります。

 

ホフマン・フロイトユング・超現実主義

ユングについては語るにはまずジークムントフロイトがいて、そのフロイト精神分析はのちに、芸術運動としてシュールレアリズム(超現実主義)を迎える。それらの思想体系の元になったのはフロイト*17不気味なものとして挙げた作品がETAホフマンの『砂男』がある。というわけで、まずホフマンの幻想文学から紹介する必要があるであろう。ホフマン作品で最も有名なものは、『くるみ割り人形とネズミの王様』。バレエでお馴染みチャイコフスキーくるみ割り人形は、実はホフマンの作品を脚色したものである。クリスマスに人形に命が宿り〜という展開から始まるメルヘンチックなお話です。では次席としての『牡猫ムルの人生観』、猫、人生観この2フレーズからも分かる通り、漱石吾輩は猫であるの先駆的作品であり(というよりも元ネタ)最期に猫が11月に亡くなる所の構造を含め、影響を受けている作品である。例えばホフマンの猫:ムル漱石猫はどちらも、インテリ猫だ。漱石が発表した時点でインテリ猫であるムルがいたのに、偶然そこが似るというのまず考えられない。車屋の黒と呼称される乱暴猫といった別の猫を出す構成や雌猫(ミースミースと三毛子)が登場することも同じであるし、描写の見せ方として、

そして劇中にそれらを仄めかす文章もある。

(現代人からすれば連載中にパクリだと言われて最終回でネタ元を明かしました的な)

「先達ってカーテル・ムルと云う見ず知らずの同族が突然大気炎を揚げたので、ちょっと吃驚した。よくよく聞いて見たら、実は百年前に死んだのだが、ふとした好奇心からわざと幽霊になって吾輩を驚かせるために、遠い冥土から出張したのだそうだ。」

夏目漱石 吾輩は猫であるより引用(新潮文庫p540)

知らなかった〜と言わんばかりの漱石のしらばっくれた開き直りは最高ですね。別に真似ても元ネタより面白けばいいと思うし、それは時代を超えて証明されている。実際にホフマンの『牡猫ムルの人生観』と『吾輩は猫である』を比べたときに、大半の人が後者しか知らない現状を思うに、ホフマンの『牡猫ムルの人生観』を器として、より上質な文学作品にしたてあげたというのが最終的な結論だと思います。余談ではありますが、ホフマンに影響を受けた作家としてポーがいるわけですが、そのポーが恐怖小説の舞台装置として用意したのもタイトルからして『黒猫』なわけですが、猫そのものは『牡猫ムルの人生観』からの影響と言っていいでしょう。

 

中身は全然違いますが、文学史上、書き手によって色々な猫がいるなと思います。それ組むと、1819年に書いているのはすごいと思いますね。そして、先ほど書いた『砂男』である。この作品は主人公ナタナエルが幼少より恐れていた砂男にまつわる話、目玉を奪っていくという言い伝えを聞くあまり、実在するように思ってしまいナタナエルは砂男は弁護士のコッペリウスではないかと思いながらも、父が焼死したり、色々あるわけだが結局最後は理性を蝕まれ発狂し「まわれ、まわれ」と言いながら塔空落ち、亡くなる。その人混みの中にコッペリウスはいたという悲劇的なラストを迎える話なのだが、この作品で目玉が失われる恐怖について着目したのがジークムントフロイト。神話でいう去勢的なおぞましさを出していると論考している。

 

フロイト精神分析的な考え方がよく出ているなと思うのですが、そういう考え方が後にアンドレブルトンへと合流し、シュールレアリズムの礎を築いていくと考えると、ホフマンの幻想文学というのは、着火剤の一つと言えるでしょう。

 

ホフマンからの繋がりで番外的なことを書くと、2010年代前半のアニメに陰鬱な日常系という潮流を流したまどマギの脚本家、虚淵玄の祖父に大坪砂男という小説家がいるが砂男はホフマンの作品から取られたものである。彼は江戸川乱歩戦後派五人男として紹介した(香山滋、島田一男、山田風太郎高木彬光大坪砂男)の一人とであることの凄さは他の面々からも伝わる。香山滋は1954年に公開された世界初の怪獣映画『ゴジラ』の原案者であり『怪物ジオラ』といった傑作を書いたことでも有名です。山田風太郎は言わずと知れた『忍法帖シリーズ』や『魔界転生』を書いた伝奇作家の大家。高木彬光は日本三大探偵(明智小五郎金田一耕助につぐ)のうちの一人『神津恭介シリーズ』の生みの親。島田一男は『部長刑事』や『鉄道公安』で有名な作家です。そんな作家たちに並び、乱歩の目に適ったという点で、相当な文筆家であることが分かります。そんな一流の家系の血筋(サラブレッド)に生まれているからこそ、虚淵玄は優れた脚本家・シナリオライターになれたという考え方もできます。

 

 

 

閑話休題

砂男で描かれた物語と、そこにおけるテーマ性というのはシュールレアリズム的な思想の先駆者でもある。砂男という存在によって目を刈り取られるというのは道徳も理性もかけらもない、完全に心象世界における恐怖心から生まれているものだ。フロイトがこれを去勢されるおぞましさという風に解釈したという事実も面白い。

シュールレアリズム=超現実主義を展開したのはアンドレ・ブルトン。超現実主義宣言でブルトンはこのように定義しています。

心の純粋な自動現象で、それを通じて口頭、記述、その他あらゆる方法を用いて思考の真の働きを表現する方向を目指す。理性による一切の統御を取り除き、審美的また道徳的な一切の配慮の埒外でおこなわれる思考の口述筆記。

要は道徳的な視点における先入観などを全て外して表現するというものです。文章では提唱したブルトンをはじめ、同じく詩人のルネ・クルヴェル、バンジャマン・ペレが、画家でこの考え方で作品を出したアーティストとしてはサルバードル・ダリやルネマグリット、バロン・ルヌアール、イヴ・タンギー等が有名ですね。ブルトンが面白いのは宣言の中で過去の大作家はある部分に限れば超現実主義的であるが、それは全体的にはそうではなく、常識や先入観に囚われており完全なる超現実主義とは言えないと説いている。数多の作家を例にあげるが、一般的に有名ではない人もいるので、誰もが知る有名な作家のみを引用してとりあげるならば

スウィフトは意地の悪さの中で超現実主義者である。

ポーは冒険の中で超現実主義者である。

スウィフトはガリバー旅行記なので、たしかにそういう側面があるというはお分かり頂けると思うのですが、エドガー・アラン・ポーはどこにそういう要素が?と思われるかもしれません。実はポーは推理小説開祖でありながら、SF・怪奇幻想のジャンルへも影響を与えている作家でもあります。『アーサー・ゴードン・ピムの冒険』や『ハンスパファアルの無類の冒険』、『メイルシュトロム』等を発表しており(個人的に一番好きなポーの作品はヴァルドマアル氏の病症の真相)、これらの作品群がヴェルヌやH・P・ラヴクラフトに影響を与えているわけですが、ここにおける冒険的な要素が非常に超現実主義であるということだ。『アーサー・ゴードン・ピムの物語』では白い名状し難いものに、船員は全滅する描写はまさしく超現実的なものだしそこからラヴクラフトがこれを元にした傑作小説『狂気の山脈』(1931年)でも同じく「名状し難い」もののミームは引き継がれている。そして、それらをH・P・ラヴクラフトはそれらをある種実体化し、太古に栄えたモンスターとして置き換えそれらの総称を「クトゥルフ神話」としたわけですがここの創造力も、その意味では超現実的である。少しばかり捕捉をすると『アーサー・ゴードン・ピムの物語』の世界観は脈々と受け継がれていき、『狂気の山脈』にてmemeが受け継がれて、そこから数年後ジョン・W・キャンベルという先述した名SF編集者が書いた『影が行く』までたどり着く。『影が行く』は映画化が2回(1951年・1982年(最近制作された前日譚ものも入れれば3回)のされており、そのタイトルの名は『遊星からの物体X』特に1982年版はその手の映画の傑作として名高い評価を受けており、岩明均の漫画『寄生獣』の仕掛けとしての元ネタとして流用しています。あれは物凄くクオリティの高い漫画であり、筆者も大好きな漫画の一つ。

超現実主義の考え方の元となっているものの一つにフロイト精神分析があります、その方向で説明するのに一番わかりやすいのは氷山の一角の図ですね。色々なものに応用されているので見たことがある人も多いかと思います。

氷山の一角

この図式でいけば、超現実主義の定義である無意識の領域内で表現されるものは超自我やイドに振り切ったものとなる。これを芸術思想の領域に取り入れたからこそ、ここで活躍する画家の絵というのはああいった心象世界の具現化ということになるわけです。言ってみれば、アウトサイダーアート(正規の美術教育を受けてない人が創ったものがアートとみなされるケース)的とも取れる。平沢進アンドレ・ブルトンの超現実主義宣言から何を受け取ったかまでは分からないが、結果的に発表されてきたこれまでの表現物はどこかしら超現実主義的な側面があると思います。同じ絵画という意味では時代はかなり遡りますが、この手の絵画は快楽の園でお馴染みのヒエロニムス・ボッシュ(初期フランドル派、中世のゴシックの影響を受けたルネサンス期の西洋美術期の巨匠)あたりも発火剤の一つになってそうですね。古来よりあったパラノイア的な創作を、巡り巡って意識的に定義したのがシュールレアリズムに落ち着いた感じがします。

ユング 元型論と集合的無意識に関する要素

最初に断っておくと書き手もずぶな素人レベルの知識しか持ち合わせていないのでちゃんと知りたい人は学術書を買うなりしてください。

という予防線を張った上ででは次にユングについて、ユングと言えば真っ先に出てくるものとして個人的無意識と集合的無意識とという言葉があります。前者の発露としては個人的無意識は主に個人のうちなる強い感情を伴ったコンプレックスから生まれると言われています。では後者の集合的無意識何から発露するか。個人的無意識との大きな違いそれは個人的な獲得ではないこと。では何から発露されるかという所で出てくるのが元型論

色々あるのですが代表的なものを挙げると

これらを提唱したユングの元型論(archetype)はその特質より物語に好んで用いられており、これらは『指輪物語』、『SW』、『the earthsea』(日本では『ゲド戦記』)、『ハリーポッター』等といった世界的な作品に引用されているため、ここのキャラクターを分別していくとその性質はおのずと理解でき作品考察も捗ったりします。では、これら元型論と集合的無意識平沢進とをつなげて考えてみる。まず、最初に連想できるのはこの元型論にそった楽曲がある。

  • 太母としての楽曲が『救済の技法』におけるmother
  • 老賢者のイメージアップとして作られたのが『BLUELIMBO』の祖父なる風
  • 元型論そのものを連想させる『sim cityアーキタイプエンジン

このようにディスコグラフィーを辿っていくと、らしき要素が明確に現れていることが分かる。そして恐らくユング的なアプローチを最も意識したであろうアルバムとしてのSCUBA。本作は全き人格の回復というテーマが掲げられている。全き人格の回復とはなにかって話は正直、知るかと蹴りを入れたくなるくらいどうでもいいというか、あくまでもアーティストが考える世界観コンセプトの一環でしかないと思っている。

少しだけここのネタ元を考えるのであれば、恐らく人間性回復運動であろう。現在ではヒューマン・ポテンシャル運動という呼称のほうが伝わりやすいですが、これも1960年代にアメリカの心理学で提唱されたものであり、主体である人間の「人間性」「潜在能力」を回復させようという趣旨の運動のことをさします。another gameでの方向性を踏まえるのであれば、人間性回復運動という言葉自体は大凡知っていると考えて間違い無いので、そこが全き人格の回復の元と考えることは可能です。もしそうだとしたら、その考え方自体が面白いと思うわけです。P-MODEL時代のディスコグラフィーとして、カウントはされないとはいえscubaが1984年に出されている。本作は『another game』以後に出された番外編的な立ち位置なわけですが、その時間軸で考えると音楽自体はポップスなアルバムだが、ここで提唱したユング的なものは周知の通りの通りのちのソロにおいても引きずっていることは確かである。その証左として、ソロ12枚目で出した『現象の花の秘密』。これもユングが影響を受けた(というよりもヴィルヘルムとの共著(というか真の作者が別にいるが、本作の概念を広めたと言う意味でヴィエルヘルム&ユングという体をしている))思想本、黄金の華の理由という著作からの引用されている。アルバム自体はどうしようもない駄作だと思いますが、ここにユングの思想につながるなにかがあるからこそ引用したのにも何かしらの理由があるはずです。そもそも黄金の華の理由がどういう書籍かという話ですが、タイトルの黄金の華というのは瞑想の中からひらけてくる黄金の華という意味であり、ユング的に解釈はマンダラの象徴ということになっている。そしてこのマンダラが先の元型論と繋がりをもってくることは最早言うまでもない。その曼荼羅は一つの幻想像であり、それが元型=archetypeの経験の典型となっている。その元型は先述の通り、自発的な経験ではなく集合的無意識の中で発露する。言い換えるのであれば、人類共通のパターンがあり、誰しもがそれを無意識的に従っているという事になる。そしてそのパータンこそが、先のグレートマザーや賢人、アニムスとアニマと言った諸要素になっていきます。こうして挙げてみると『scuba』以後、どうもユング要素が随所にでていることがわかる。クリエイターはみんなユング大好きなところがありますがよりその影響力の度合いが高いと感じる。

アルバム群について

MANDRAKE

実際にはライブ盤とunrelease盤しかなく、アルバムの体裁を保てているのは後者のunrelease盤しかなく、そこに収録されているのが以下の楽曲。

・『飾り窓の出来事』

・『終末の果実』

・『犯された宮殿』 

 ・『錯乱の扉』

・『Mandragora』

・『Tales from pornographic ocean』(ポルノグラフィーの海からの物語)

・『流れの果てに』

・『いりよう蜂の誘惑』

『飾り窓の出来事』はMANDRAKEの代表曲と言って良い作品。『犯された宮殿』では、後年P-MODELの楽曲となる『美術館で会った人だろ』のメロディの片鱗が出ている。宮殿というワードはキングクリムゾンの『クリムゾンキングの宮殿』から触発されたもの。錯乱の扉は先述の通りイエスの『the gates of delirium(錯乱の扉)』より引用.『Tales from porngraphic oxean』も同じくイエスのアルバムTales from Topographic Oceans(海洋地形学の物語)のパロディ。『流れの果てに』は、タイトルは小松左京の、『果てしきなき流れの果て』を引用。 因みにジャケットにバイロスの絵を引用しています。これを提案したのが平沢進かどうかはさておき、デカダン派の画家つまりは退廃主義、頽廃派といったアートを引用するあたり、とことん異端な方向性をもったバンドであったことが伺えます。当然DEVOの『頽廃的美学論』に惹かれた事との親和性があることは最早言うまでもない。

 

この手の楽曲に馴染みのない人はうっかりして「こんな音楽を70年代に作ってたなんて凄い」という感想を抱くかもしれませんが、実際には当時の時点で、イエスやキングクリムゾンといった代表的なプログレ作品が世界を占めている影響と先述したPFMといったイタリア製のプログレを日本人的に解釈したものなので、楽曲的な観点からすれば目新しいということは一切ない、むしろ遅い。ただ、それらの洗礼を受けて自分たちもプログレを作ろうとなるその心意気はアーティストしては偉大だと思います。

P-MODEL作品

・『IN A MODEL ROOM』

初期は(時代を考えれば当たり前だが)すごいパンクだなという印象。もう少し具体的に書くのであれば、999でありレッドノイズ、その他パンクバンド。美術館であった人だろの次のトラックがヘルスエンジェルという並びも良い。そしてヘルスエンジェルは田中靖美作曲というのもポイント。それはタイトルからもなんとなく、察せることができる。恐らくネタもとはアメリカの暴走族グループ名の「ヘルズエンジェルズ」なのではないかと思います。P-MODELには幾つか非平沢楽曲がありますが、むしろそっちの方が魅惑的と思えたりします。それまでプログレやってた人間とは思えないほどの振り切りっぷりもいいですね。名残はあり、『偉大なる頭脳』はMandrakeで発表した『錯乱の扉』の名残がある。そして偉大なる頭脳というタイトルのネーミングはELPからの転用でしょうね。『恐怖の頭脳改革』に似ています。楽曲の冒頭が若干『tarkus』っぽいところ含めまだMANDRAKEのかけらが残っていることがわかります。

・『LANDSALE』

先述の通り、オハヨウはウルトラヴォックス!の楽曲メロディの引用という大胆なことをしている楽曲なわけですが、まだMANDRAKEの香りはありますよね。随分払拭した感じですが。MANDRAKE時代のライブでは観客に対して「よそ見すんな長髪!!」と罵倒をしたでお馴染みの異邦人は楽曲的な荒々しさをなくした以外は音調はそのままですし、

・『Potpourri』

パンクっぽさが消え始めた作品。この作品で重要なトラックは「another smell」。聴けば分かるが、これは先述したミュージック・コンクレートのアプローチを出している。地声と裏声が混ざったりする感じ、つまりはスイス民謡のコヨーテ的な歌唱も含めソロ平沢前夜を思わせる。

・『Perspective』

パースペクティブの時代になるとニューウェーブさとエレクトリックが融合しはじめる。その意味では過去2枚に比べて随分と仕上がった作品ということもあり、P-MODELにおいてこれが最高傑作という評価をする人がいるのもよくわかる。全体の空気感を纏うパーカッションのリズムの感覚。そこに歌物として歌詞がつく歪さ。今でこそ、リメイクアルバムで聴き慣れているであろうsolid airは本作がオリジナル楽曲として収録されているわけだが、全く違う。時代っぽさがあるというよりも、無機質なビートに、単調なメロディというこの組み合わせがP-MODELというバンドの真髄なんだと思わせる感覚。

・『ANOTHER GAME』

『ANOTHER GAME』は非常に形容しづらい作品です。ベース色がかなり増され、ハードロック的な側面を持っていながら、トラック1が「another game step1」で始まり、ラストトラックが「awakening  sleep αclick」というアンビエントなのか、イージーリスニングなのか判別しがたい楽曲もある。恐らく、イーノの要素を入れたかったのだと思うが。

・『scuba』

廃盤になっているのが理解し難いくらいに名盤。なぜ入手困難であるのかが不明。ほぼソロと同じようなものと考えて良い。本作のコンセプトをのちのアルバムでも引き継いでいる点を含め、本作のアルバムについてはユングパートで尺を割いたので飛ばします

・『KARKADOR』

とにかく非平沢楽曲を平沢進が歌うとどれだけ化学変化が起こるかが楽しめるという意味でのは凄く価値がある楽曲群が揃っていると思う。単曲や共作で横川理彦が入っているがこれが実にいい味を出している。例えば、「HOURGLASS」のビートは絶対に平沢オンリーでは紡ぎ出せないものだし(ギターは平沢を思わせるメロディが多いが)ダンス素凡夫なんかはクレジットを見れば分かる通り、非平沢楽曲なのだが、こういうコテコテのポップスタイプの楽曲を歌う平沢も割と珍しいと思う。このアルバムはここでしか聴けない音楽性や試みというのがあるように思えます。その意味ではデビューから『another game』や『scuba』にまでのどのアルバムよりも、聴きやすいポピュラーな側面を持ち合わせたながらもサイボーグなどの楽曲があるように、P-MODELだと思えるところはちゃんとあります。つまりは聴きやすさ50、アーティスト的な面白さ50のアルバムなので、入門としては最適です。

・『ONE PATTERN』

前作よりも、ポップスさは増えた。「LICORICE LEA」、「メビウスの帯」、「サンパリーツ」の3曲は中野照夫が作曲の作品だが、「ハーモニウム」はヴォネガットタイタンの妖女より水星の生物名から引用というのも、相変わらずといったところでしょうか。過去のP-MODELと比較すると若干のプログレらしさが残るロックテイストのアルバムと思います。おやすみDOGとかはまさに。この曲のアンバランスさでありながら、楽器の平坦さぐあいは平沢進ならではなの楽曲だと思います。「anotherday」の流暢な詰め込み具合とメロディも骨頂ですね。

P-MODEL  

P-MODELディスコグラフィーの中では一番分かりやすいアルバム。the テクノ。 「2D or not 2D」のタイトルは、普通に考えればシェイクスピアハムレット超有名な台詞であるto be or not to be that is the questionのもじりと考えるのは余りにも容易で簡単だが、ここを敢えてSF的に考えれば、ヴォネガットの『2BRO2B』という短編をからの引用と考察することができます。作曲は共同ですが、タイトルをつけたのは紛れもなく平沢進だと考えることができる作品。the テクノで統一された音楽群などからして、入門P-MODELとしては実の所最適かも知れません。ジャケットはルネマグリットピレネーの城がよぎるが意識しているかは不明。ただシュールレアリズムに傾倒しているならピレネーは当然知っているので、もしそうなら面白い。

・『big body』

コンセプトがスタージョンの『人間以上』という点はやはり見逃せない。それもネットワークにより、ホモゲシュタルトへの統一というのはコンセプトアルバムのテイストとしては抜群の発想。そんな中でありながらも、ヴォネガットの『タイタンの妖女』から時間等曲率漏斗をネタにしている。スタージョンの作品にヴォネガットまで入れてくるという方向性という意味では一番平沢進がSF的なテーマを推し進めた一枚であります。

・『舟』

 「Fune」にnujabesサムライチャンプルー的音楽イズムを感じる。このlofi感はまぁ偶然でしょうけど。電子楽器の比率がどうしてもメンバー云々で平沢の独走感的な(良い意味)がでている分、その前にあったP-MODELの総体としての面白みは全くない。「Julia Bird」や「tide」あたりはのちの核Pの因子と捉えることだってできます。小西健司もクレジットされているが、正直目立たないという。

・『電子悲劇〜ENOLA』

まずタイトルの電子悲劇っていうこの四文字にも何かしらの意味合い・含みがあると考察してしまう。SF的に解釈するとSWでお馴染みのジョージルーカスがインディーズに1984世界をオリジナルに落とし込んだ作品「電子的迷宮 THX-1138 4EB」の感覚でしょうか?それがネタ元というよりかは漢字四文字の語感が非常に合う。1984をベースにIn a room modelやビストロンといったアルバムを作っている傾倒具合からして見ていないはずがない。先にも書いた、映画的な視点でいうのであれば不思議惑星キンザザを見るような人が知らないはずがないし。(そもそもthx-1138はSF者の間では有名というのもある)最もキンザザでいくのであれば作風的に寄っているジョン・ブアマンの『未来惑星ザルドス』の方がお好みだろう。次にENOLAってなんだよと最初は思ってましたけどこれは逆読みでALONEなので、そこから読み取れる情報はスタージョンの人間以上の主人公の名前はアローンであることの同一性でしょうか。

・『音楽産業廃棄物〜P-MODEL OR DIE』

タイトルはそもそもP-MODELの由来を考えれば一貫してますね。商品だからこそ〜モデルという名前がいい、という視点からアルファベットを当てはめた先にP-MODELというバンド名に落ち着いたわけですが、そういうマインドが音楽産業廃棄物という字面に出ている気がする。論理空軍のイントロはいい。パッと流して、気づいたら終わってるくらい楽曲にハズレがなく、締めの楽曲が、「DUSToidよ歩行は快適か?」というのも、中々妙である。タイトルは紛れもなく、ディックの影響。平沢進にしては随分と分かりやすい引用ではあるが。

私的P-MODEL総括

P-MODELの総合的な話をすると、メンバー移動に伴う音楽性の変化というのがディスコグラフィーをみていくとよく分かる。初期はパンク、中期は脱パンク〜模索、後期テクノ音楽という図面が浮かび上がる。今となってはパンクはそんなには面白い音楽でもないので、個人的には中期~後期になればなるほど聴いてるアルバムになる。歌詞がちょっと過激で、音楽は簡易的というスタイルからするに、正直そんなに聞かなくてもいいやとなってしまうんですよ。だからアルバムの感想も書こうと思っても、あんまり印象がないので、初期~中期は書きにくい。テクノやシンセ等を多用したほうが面白いと思うがゆえに楽曲的な魅力でいえば、後期になればなるほど聞き応えのあるアルバムになっていきます。

では次にソロアルバムについて

平沢進ソロ作品

時空の水』

平沢ソロの初期からロケット・宇宙開発関係やSF系の単語が目立つ。時空の水の時点においても、曲名には「ソーラレイ」「 DUNE」という単語ある。これらのことから分かるように、平沢音楽のエッセイ・ビジョン性はSFとロケットという二つの軸でなっているのは違いないと考えられる。「ソーラレイ」は太陽帆、ソーラーパネルのことを関係から生まれているタイトルであろう。楽曲性という意味ではやはりXTCの影がチラつく。DUNEでやりたいことは結局「1000 Umbrellas」だったと思うし。

1000 Umbrellas

1000 Umbrellas

ソーラレイは多分、yesの『90125』より、「Owner Of A Lonely Heart」あたりを引用している気がします。ソロデビュー作ということもあり平沢イズム(影響を受けたもの)度がより目立っている作品です。冒頭にデビュー作が肝心であるということを書いたがMANDRAKE以後、現平沢音楽の礎やどういった方向性なのかという点については時空の水がそれにあたる。P-MODELは時代の影響が強く、真に音楽性が面白いかと聞かれれば微妙なのところだ。MANDRAKEからP-MODELというのはプログレからパンクという一つの曲線上でしかなく、独自性がない。が、いざソロになってみると聴き応えがでてくる。大多数よりも、一人のほうがビジョン・方向性というものが提示しやすいから当たり前と言えばそれまでだが。

・『サイエンスの幽霊』

『世界タービン』の謎のMVの正体は、平沢進の世界観丸出しというよりもテスラだなと今にして思えば分かります。その方向性を規定した時期が早すぎたので今や電波MVとして知られていますが、それだけでも面白いキテレツなミュージシャンと思えます。説明不要ですがニコラ・テスラの影響が最も出ているのは世界タービンですね。PVで使われている物の中にテスラコイルなどが登場するのは言わずもがな。それ以上にテスラが考えていた世界(無線)システムというものとタービンをくっつけた物でしょう。コロラドスプリングスでの一枚の写真のイメージが与えた影響も相当なものでしょう。本作でもやっぱりロケットというタイトルの曲が収録されている。また、夢みる機械というタイトルは諸星大二郎からの引用。カーボーイとインディアンは何を意味するのか、カーボーイというものがそもそもインディアンとヨーロッパ文化とを統合して発展した成り立ちをもっていることが関係している気がするが、なんとなく難しい話になりそうなのでここは飛ばします。タイトルのサイエンスの幽霊はどこから来たものでしょうか?アーサーケストナーの本に*18『機械の中の幽霊』(ghost in the machine)があるので、こういうところからの引用ではないかと考える。楽曲的という意味で語るという側面よりも、作風のエッセンスとしての黎明期と捉えた方が聴きやすい。

・『Virtual Rabbit』

本作も、直接的なタイトルはないのですが、どうも語感が翻訳SFタイトルを想起させます。「我が心の鷲よ 月を奪うな」というトラック名なんてファーマーのリバーワールドシリーズ第1作の『果てしなき河よ、我を誘え』の語感と似たものを感じる。というより意識していると言っていい。この語感は翻訳SFの名残を知らなければ絶対に思いつけない。ということを考える以外にこのアルバムには面白みがない。というよりも絶対的に詰め込んだデビュー作、それをより展開することができる2ndアルバムというのは形式上、どうしても名盤あるいは意欲作として評価できることが大半で、3rdから次期の音楽性の確立にはいるので、その意味では本作も無理くりで評価できなくもないが。おざなりという印象。

・『AURORA』

というわけで、模索期第一弾と『AURORA』なわけだが、意外なことに本作で平沢進は転換期を迎えていると思う。いや、それまでの作品をへて自分のあるべき路線を掴み始めたというべきか。それまでの音楽の経験があったからこその、舵を取れという、のちにベルセルクBERSERK -Forcesに代表されるような「これぞ平沢進」というイメージがソロだからこそ、より明確なものになった。それが結実するのは3枚先。なので、端的に分類をするのであれば『aurora』『sim city』『救済の技法』まで一セット。

Sim City

「月の裏側」というのはつまり『dark side of the moon』本作はピンクフロイドの狂気をモチーフに作りたかったという経緯があるため、その残り香であろう。狂気を作るはずだったという発言からするに、「echos」もピンクフロイドネタかなと思わなくもない。あとこの作品はモチーフがジャケからもわかるように、タイの影響が意外に功を奏している。

入ってる楽曲がユングを想起させているものもあると点も着眼のすべき点のひとつ。コンセプトよし、方向性よし、音楽性あと少しという上目な穿った見方ではあるが、確実に前作よりかは進化しているということが分かるアルバムです。

・『SIREN

「nurse cafe」を作った時点で楽曲的には既に勝っているアルバムなのに、「On Line Malaysia」といった楽曲があることが、よりこのアルバムの傑作感を漂わせる。因みにジェミニというトラックがあるが、これも間違いなくジェミニ計画のことを指す。冒頭ロケットの発射シーンのアナウンスが入っていることからもそれは明らかでありやはりここでも、宇宙開発と関わりのある単語が込められていることも意外に見逃せなかったりする。理由は言うまでもないでしょう。

・『救済の技法』

本作が最高傑作と謳う人も多い。麻枝准なんかも本作を最高傑作と評価しているしおそらく米津玄師もこれに相当影響を受けた(といいつつ『飛燕』の程度のクオリティをもって世に出されてきても結果的に呆れるほどの楽曲でしかないため、米津よもう少しばかりクオリティを上げてからリリースしてくれという話は後に回して)と言うのは分かる。またアーティスティックな側面ではなく、殊に一般層的なTwitterでサーチすると大体本作をあげる人が多い。成熟したという意味での初めての作品といっていい。が、しかし、自分の中ではAURORA→Sirenという流れから連なる壮大さあふれる楽曲がここにて「mother」という楽曲で結実しただけであり、本作が出た当時なら最高傑作というのであればまだしも、今は本作以降のアルバムの存在があるわけで、それを考えると今思えば「mother」で勝っているだけであり、アルバム全体としてはそこまで威力はないと思う。推察の域をでないが、熱心なファンはともかくとして本作を最高傑作と謳う人のミュージックにおける本作のトラック回数はmotherだけが異常突出しており、他のトラックはそんなには再生していないと思う。当然、全トラックの集約感は圧倒的でありますが、「mother」意外に面白い曲があるかと言われるとそこまでな気がして。アルバムとしては若干の間延び感もある。その意味では、sirenのほうがまだ良作ないし、傑作と呼ぶにに近いというのが私の意見です。

・『賢者のプロペラ』

一度、傑作と言われたアルバムを作ると、再度模索に走るのはアーティストの常ですが、相変わらず捉え所がない作品を出す平沢進。今で言うパプリカ的なOSTっぽさが顕著といえるので、その点、この時期はご存命であったアニメ監督今 敏の劇伴担い手として映像音楽的な作り方も勉強していたのかなぁと思ったり。ちょうど、千年女優の音源もあるし。『課題が見出される庭園』のミニマルとサイケデリックな感じの音源は高評価できる。『ルベド(赤化)』、『ニグレド(黒化)』、『アルベド(白化)』の三曲は意識式なシリーズ的なものにしている構成自体は好き。というか、この三曲だけを救済の技法明けに作ってところが、腕の高さを物語ってます。ただ、個人的にはあまり好みではない。

・『BLUE LIMBO』

自分は本作、BLUE LOMBOこそが平沢ソロの最高傑作と思えるほどのアルバムだと感じる。「Ride The Blue Limbo」「帆船108」「狙撃手」の楽曲群がトントン拍子万歳名曲っていうこの三曲の絶妙なバランス。このアルバムが素晴らしいのは、アルバムの世界観はSF度が高くその上で先の三曲が音楽的にバランスが取れているからだ。「Ride the blue limbo」はキャッチーなギターリフから展開していき、基本的にはその繰り返しが全体的に掛かっている。聴きやすく、それでありながら平沢進的な音楽イズムをしっかりと感じ取ることができる。「帆船108」「狙撃手」はシンセサイザーの使い方・鳴らし方がいかにも平沢的でありつつも楽曲自体に歪さがない。そして付け加えるのであれば狙撃手はギターとシンセの調和が抜群に優れているが故に流動的に聴ける。こういった聴きやすさのバランスが取れている楽曲は本作以前にはあまりない。圧倒的な楽曲か、否かの二分化が目立っていた。これらに加え、track.5に「ツオルコフスキー・クレーターの無口な門」という曲がある。一見これはツィオルコフスキーの名前を借りた創作的な単語に見えるが、ツィオルコフスキーのクレーターまでは実際に存在する。スプートニクが打ち上がったのち、ルナ3号が月の裏側を撮影したことはよく知られているが、表側とは全く異なった形相をしており、その中でも最も目立つクレーターに命名されたのがツィオルコフスキーの名前である。

アポロ15号が撮ったカラー版 ツィオルコフスキークレーター

つまり平沢進はこういったネタに無口な門という文言を加え楽曲に命名しているその仕草が自分にとってはコンセプトアルバムとして、そして当初からツィオルコフスキーといった宇宙に纏わるネタを入れているという点で具体性に富んでいる感じがしてより評価できる。

・『白虎野』

表題作や「パレード」が入っていることから、半分パプリカのイメージが付き纏ってしまう作品なので、アルバムというよりもパプリカのタイアップアルバムという印象がつきまとう。「確率の丘」が収録されているので、まだ、オリジナルアルバムという感があるが平沢進今 敏共作感がして、実際半分くらいはそういえるくらい密接性があるのですが。ただ、「白虎野」の完成度はいつ聴いてもレベルが高いのでまぁいいかなぁと思えるそんなアルバムです。

・『点呼する惑星』

全くといっていいほどダメ。失敗作といってもいいのではないか。作る必要性があったことすら疑問に思います。本当に書くことがないくらい薄い。これはイメージアルバムというか、空虚な妄想が先にきているせいか楽曲に全く圧がないといっていいでしょう。ファンの中では非常に評価が高いアルバムではありますが、何が良いのかと言う点について、具体的な論拠をもって書かれたものを読んだことがないのでもし、この文章を読んで、「いや、このアルバムは素晴らしい、何故ならば〜であるからだ。」という文章を7000字以上で(アルバムレビューを真面目に書けば大体その字数はかかるため)本作の魅力を書ける人は是非自分のX(旧twitter)に一報をいただければと思います。

・『現象の花の秘密』

前作同様、垢まみれのオーケストレーション劇伴みたいなアルバム。オーケストレーション的な音楽を前面に出しすぎて歌が目立たないで、ポップスものとしてイマイチな楽曲ばかりに思える。壮大さを醸し出すのに夢中になって、ポップスとして最低限必要な要素が底抜けしているし、音楽的に何を表現したいかもいまいち見えてこない。こういう作品は言い方を変えてそれらをも込みの新規軸を目指した作品という時点で察せることができる。どう考えてもこれは開拓アルバムというポジション。というかそれ以外に言い表しようがない。

・『ホログラムを登る男』

オペラ座の怪人みたいなメロディの「クオリア塔」。「火事場のサリー」はちと、優しすぎる音源の気がする。ホログラムを登る男は全体的にmuse感がすごい。ピアノアルペジオの展開の仕方が『origin of symmetry』や『absolution』時代の音源を想起させる。

Bliss

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Apocalypse Please

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・『BEACON』

一周回っていい意味でセルフパロディのようなアルバムという感覚がします。どうも『点呼する惑星』『現象の花の秘密』『ホログラムを登る男』の3枚は私的には全く面白みのない作品だったので、平沢進は大丈夫かって思っていたんですよね。誇大妄想の果てに、という意味ではまだましかな程度のアルバム白虎野が限界かと思っていて、それからの駄々下りだったので次作が心配であった。そういうこともあり14枚目のオリジナルアルバムということもあって、聴く側としてもそこまで新しいものを求めても仕方ないわけですよ。なぜならアーティストは基本的に初期作にこそ、表現したいものが詰まっており、それらが実を結ぶのも早くて3-6枚目、遅くとも10枚目まで大体完結してしまうから。その意味では8枚目あたりからはいかに音楽性が統一されているかよりもどこまで頑張って作品を作り上げられたかという視点に立つべき。いつまでも「最新作が最高傑作」だという世迷言を言っても仕方ない。どこか諦念した姿勢で聞かないと「なんだこれ、流石に平沢進といえどネタ切れか」と感想も持ってしまう。「論理的同人の認知別世界」は「仕事はタブー」の進化系のような作品だし。安心して聴ける作品だが、これぞ平沢進というような独自性は正直失われている。が、白虎野以降のアルバムでは楽曲としてなにがやりたかったかという意味では一番出来がいいと思う。というよりかは、これが出たことで点呼する惑星〜ホログラムを上る男で模索していたものがBEACONにて結実したという印象を受ける。(ホログラムでも若干掴んだ感じもするが)そういう意味ではまとまったアルバムでありながらも、「燃える花の隊列」、「timelineの終わり」、「記憶のBEACON」の3曲が入っている分、アルバムとしては十二分に良いクオリティだと思います。入門アルバムとしてもベストといえるでしょう。

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P-MODEL 作品群

『ビストロン』

1984』をモチーフにした作品群ではありますが、「崇めよ我はTVなり」って割と古い気もするのです。現実問題として今やTVが主流の世界ではないですし崇める対象でもない。2004年なので随分とギャップというか違和感が残る。あくまでも作品内としての設定にしても色褪せている感じがする。「big brother」と「巡航プシクラオン」あたりは今聴いても十分通用する。やっぱりシンセと他楽器、そしてボーカルといった要素が結果的にはいい形で集約されていくのは平沢進の凄みだなぁと思います。どこも喧嘩してない。タイトルのビストロンはウイルス消毒液という意味合いですが、どういう意図での消毒液かっていうのは割と考えものではあります。

 

『гипноза』(ギプノーザ)

ロシア語でギプノーザ、英語で言うとヒプノシス=催眠。まずなぜこのタイトルをつけたのかというチョイスの問題。ナノマシンがどうのこうのという表向きの設定はともかく、なぜギプノーザなのか。あくまで推測の域を出ないがギプノーザは英語でいうとヒプノシスという単語になる。そしてヒプノシスといえば有名なプログレ盤・ロック盤のジャケットを手がけたアーティスト集団の名前でもある。hypnosisのロシア語にあたるгипнозаにするという奇抜なタイトルした理由がこれ以外に特段思いつかない。平沢進であればなんとなく仕掛けてそうな感じがします。元々プログレバンドをやっていた人間なので、アーティスト:ヒプノシスというのは絶対知っているし。楽曲的には核P-MODELの2ndということもあり、ソロよりも好き勝手に制作している印象が残りながらも、P-MODELの残像もちゃんと残っている。alarmで冒頭から効果音として鳴らしてくるのはピンクフロイドっぽいですよね。「money」や「time」などに代表される楽曲の実験性を意識していると思います。そして本作は「timelineの東」という特異的な楽曲がある。この楽曲性こそ、核Pでこそのメロディだなぁと思う。1m38~1m54sの展開の仕方などが顕著。

 

『回=回』

なんだかんだ、最初に平沢音楽を聴くのであれば核P-MODELがいいと思える親切極まりないアルバム。今の時代の音源で聴く平沢感という意味では本当に純に推せる作品です。決めてくるトラックはちゃんと手堅く出来上がっているし、今となってはめっきり続報がなくたった漫画家:今 敏  OPUSアニメ化関連の楽曲(恐らく供養的な感じもあるだろう)を聴くと、どうも一ファンとしては今 敏というクリエイターという存在があり今なお作品を発表し、その作品に平沢が音楽を当てるというどういう風景が見ることができたのであろうか夢想してしまうものです。それはそうとしてアルバム的には私的いうのであればここ最近の中でも最もと言ってもくらいいい。「亜呼吸ユリア」や「幽霊飛行機」そしてなにより、「echo-233」に代表される平沢進ならではのトリッキーな作品は聴きごたえはある。

旬・番外アルバム

旬の作品はマイクオールドフィードや、イーノ的なアンビエント系を思いっきりやっているというまさに商業主義的な側面を一切気にしないで趣味に走ったであろう楽曲が多い。そのほかにも、『ICE-9』といったアルバムがあります。

ここまでただの一度もスクロールバーを使わずに読んだ方であればタイトルがどこからの引用であるかは既知でしょう。こういう隠れアルバムで小ネタ的に使うところが平沢進のクリエイター的に上手い所だし、本当にやりたいことを存分にやってる。そんな気もする。アンビエント民族音楽、そしてミニマル・ワールドといったこれでもか前衛といった音源が聴けるのはおそらくここだけではないか。旬とは違った前衛の残り香のある作品ばかりで、こういうのをソロ活動の片手間で作ってたのか感がすごいですね。恐らく、本来やはりのはこっちなんだろなってという謎の意思を感じました。

 

ここまで読んだ上で改めて平沢音楽を聴けば、一周回って分かりやすく聴こえてくると思う。巷で言われている難解な楽曲性というのも、無調の世界に比べたらあらゆる点でポップス(おそらく大半の方が思っている気難しい音楽性というのは、大衆のそれもよりわかりやすいポップスにしか耳の焦点がなく、プログレや現代音楽等の音楽に慣れていないから発生するものでしょう)ですし影響をうけた世界観も、SF小説からの転用と考えればそこへの理解は造作もないと思う。

ここまで平沢音楽を構築する要素を書いてきた。では次に以上の要素をもった平沢進に影響を受けたというフォロワーについて紹介。

考察:作家/クリエイターほどハマる理由(わけ)

今 敏平沢進

平沢進を語るならば絶対に外せないアニメーション作家「今 敏」。名誉平沢ファンでもあります。残念ながら日本では死後評価という形になってしまったのがもったいないくらい、46歳で夭折された事が彼を知るアニメファンにとっては辛いことなのは言うまでもありません。

大衆エンタメ性と作家性、両方のテイストを落とし込むことができ、大人が見ても面白い丁寧な作品作り。加えて、アニメという映像媒体ならでは演出法を最大限に活かしたその技法は、海外のクリエイターから特段に高い評価を勝ち得ていました。存命であれば、細田守新海誠湯浅政明等と同様、間違いなく日本アニメを背負っていく存在であったでしょうし、それこそ宮崎駿に次ぐ二人目のアニメ部門のアカデミーの長編アニメ部門賞だって狙えたかもしれません。

(少なくとも獲れる可能性が最も高い人物であったことには違いない。)

亡くなってもなお、ウィンザー・マッケイ賞の受賞の功績やカナダ・ファンタジア映画祭という、海外の映画祭の賞を名前に『今 敏賞』を冠しており、ハリウッド資本で大作を作るような監督(ノーラン/アロノフスキー)が演出を真似たことは周知の事実です。*19(ノーラン/アロノフスキー)なにより海外では、近年においても、スパイダーバースという現時点のアニメーション映画の到達点のような作品の監督をしたトップクリエイターをはじめ、所謂海外の文化人が日本文化/アニメを語る時にで今 敏の名前を見ないことのほうが少ないほど語られている。

それほどまでに海外への影響力が絶大な今 敏が、事あるごとに影響を受けた人物として平沢進を挙げていたことは注目すべきポイントです。これから、今 敏平沢進のどういうところに惹かれたのかを考えてみます。

 

その前に、今 敏についてまずは軽い紹介を

大友克洋以後を象徴する画風でありながら、武蔵美の視覚デザイン科を卒業という、レベルの高い武蔵野美術大学にて、学術的にも芸術を勉強しているという、アニメ界隈からすればかなり異色且つ、本格的に「美術」というものを学んだという経歴を持つ人物です。本人曰く、当時から現場での手伝いをし、(後に漫画版AKIRA(5巻ぐらい)の中盤以降の作画アシスタントを担当し、6巻の巻末ではspecial thanksと明記されるほど、当時より画力にものをいわせていた存在であった)の方が楽しかったと思い返していることからも、クリエイター気質が窺えます。

本当、超絶画力お化け。絵としての巧さは国内屈指レベルです。

セラフィムという漫画においてもこの画力は発揮されています。

復刊ドットコムより

復刊ドットコムより

復刊ドットコムより

彼の絵コンテの緻密さはよく知られていますが、加えてレイアウト等もこのレベルで上げられるという意味では、アニメーターとして見ても誇張抜きに業界随一の逸材ではないかと素人ながら思います。実際、彼の作品に関わったベテランアニメーターからも相当高い評価を受けていますし、それだけアニメーター・クリエイターとして礼賛されていた今 敏だからこそ生前に唯一残したTVシリーズ妄想代理人』に参加していたアニメーターのレベルの高い人材が集結していたのだと思う。

彼は「虜」という作品で大学在学中にデビューし漫画家時代を過ごしたのち、アニメの世界に入り色々な仕事をするようになります。ジョジョOVAの演出回は特出して素晴らしいですし、そしてなんといっても押井守監督(とは後に仲違いをするのだが)作品である「機動警察パトレイバー2 the movie」という映画で圧巻のレイアウトを描いたことはある種の伝説といって差し支えない偉業。元々レベルの高い人しかいない現場デアはあったとは思うが、それを差し置いてもあの映画における画として映えるシーンは大抵今 敏がレイアウトを担当しているといっても差し支えない。

 

そんな今 敏ですが、90年代にPERFECT BLUEという作品でアニメ監督デビューを果たします。

・『PERFECT BLUE』(1997年)

低予算ながらも初監督作品にしてはレベルの高い本作は、ジャンルとしてはサイコスリラーに分類されます。日本アニメには中々同ジャンルの作品というのがないため、今なおクオリティの高さも合間って評価されています。広告・ジャケットの構図も秀逸であり、さすがは視覚デザイン科卒だけのことはあるなと思わされるます。右のパズルの発送も美大卒という感じがします。

 

物語に関しては、「意図せずアイドルから女優に転身した主人公。現実と虚構の区別がつかなくなる中、ストーカーに付きまとわれ、関係者が陰惨に始末されていくという事件が重なり…」というお話となっています。「アイドルとストーカー」というテーマは今現在を考えるとある種予知的でもありますがそんなことは大した話ではない、というかどうでもいい。このアニメがすごいのは、ヒッチコックを意識した演出をものの見事に消化しながら、主人公の心境を女優としての役柄や演技などを通して精神的に追い詰めていくその様が、あまりに秀逸なのです。今 敏本人は「どこがヒッチコックなんだよ、まったく。泣くよ、ヒッチコックが。」と否定的ですが、あるシーンにおける演出はヒッチコック作品の海外特派員の演出をそのまま真似ているので、こればっかりクリエイターあるあるのオリジナルを隠したい病だなぁと思います。

細かいネタはともかく確かな演出力をもってして描いた本作『PERFECT BLUE』は今見ても理屈抜きで面白いため、未見の方はぜひ。ただしちょっと勇気が必要です。

 

・『千年女優』(2001年)

 

往年の大女優(元が誰かはわかりませんが、察するに原節子とか高峰秀子あたり)である主人公が、インタビューをされていくなかで、過去の出演作のシーンとインタビューのシーンが交互に描かれていきます。これぞアニメでしか表現できない。というシーンばかりですし、注意してみないとどのタイミングで画面が変わったのかがわからないほどテクニカルな入れ子構造が施されています。それでいて山寺宏一ボイスの謎の男に鍵を返す云々という話が差しこまれ…最後には色々ひっくり返す結論が待っています。

ラストに帰結するまでの物語の持っていき方に癖があるので、そこで一歩引いてしまいがちな本作ですが、絵柄的/脚本的には今 敏フィルム史上最も一般的なアニメーション映画です。

このタッチですから子供〜大人まで楽しめると思います。

誰も構えなくても見れるという意味では今 敏作品の中では一番推薦できます。文化メディア芸術祭大賞をスタジオジブリの『千と千尋の神隠し』(2001年)と同時受賞していることからも、本作の評価はお分かりいただけるでしょう。

因みに劇中の映画シーンは過去の名作日本映画を模したもので、そこの知見もある人はより一層楽しめます。

 

・『東京ゴッドファーザーズ』(2003年)

まず、この映画の魅力を説明する前に今 敏が自身の映画的な作劇について語っていたことから紐解きます。今 敏は、本人自ら「アメリカ映画に学んだ」と公言しているとおり、映画の作り方を基本的にアメリカ式のもので研究していました。他方で、日本映画については主に黒澤明からの影響を語っていましたが、では一体彼は黒澤明の何に影響されたのでしょうか。私が思うにそれは「良質なパクり方の手腕」であり、その色が濃く反映されているのが本作『東京ゴッドファーザーズ』のある種魅力でもあるのです。

黒澤明と主に西部劇を得意としたジョンフォード

黒澤明は、影響を受けた映画監督の1人としてアメリカの巨匠ジョン・フォードを挙げています(どういう作家かまでは省きます)。この人のフィルモグラフィーに『三悪人』(1926)という、簡易に書くと3人の不成者が活躍するという内容の映画があります。

察しの良い方はお分かりの通り、黒澤明の『隠し砦の三悪人(1958) *20はこの作品に影響を受けて作られたものです。

今 敏はこの構造を実に見事に再現しました。本作『東京ゴッドファーザーズ』は、「さまざまな事情をもつ3(自称元レーサー・家出女子高生・ドラッグクイーン)が、捨てられた赤ん坊を拾った事で始まるクリスマス大冒険」といったお話ですが、これは明らかにジョン・フォードの『三人の名付け親』(1948)の「3人の不成者がある時、赤ん坊を預かることになり名付け親になる」という物語を参考にしたものでしょう。さらに、"ゴッドファーザー"の意訳は洗礼時の代父、つまりは名付け親を指します。

こうして比較するとアメリカ映画→日本式の踏襲とも言えなくはないですが、構造的な真似方自体は説明した通り、黒澤明と同じやり方をしているのを考えると、そこは黒澤明の影響だったのかなぁと思う次第です。元々黒澤明自体はハリウッドを研究していたというのは言うまでもないですが。

本作は、さまざまな登場人物が二転、三転と交差し、最後はみんな幸せになるハッピーエンドなのですが、とにかく脚本としての完成度が高い。また、面白さを作品の主軸においているため、『PERFECT BLUE』より過激でもなく、『千年女優』ほど映像的な入子構造の主張が抑えられていることもあり、誰にでもおすすめできる作品となっています。なにより、日本アニメでは取り扱われないであろうホームレスが主人公という視点も、今監督ならではのとらわれないアニメ表現の賜物だと感じます。

(シュミラクラ(類像現象)効果を意識したポスター)もセンスの塊


・『パプリカ』(2006年)

2006年、筒井康隆原作のアニメーションが2本公開されました。一つは細田守監督版の『時をかける少女』。そしてもう一つが今監督の『パプリカ』です。ここで同時期に公開というところで、一方的でも接点がないのかと疑問だったのですが、フランスで制作された今 敏のドキュメンタリー映像に細田守の「今監督ならどう料理するかを意識して作った」という発言があるので、細田今 敏へ作家的な意味で何かしらを与えていたのは違いないです。

内容としては、「夢に潜入できるDCミニという装置が盗まれた事件をめぐり、主人公・千葉敦子(=夢の世界での探偵パプリカ)が夢と現実を行き来しているうちに色々な目にあっていく」というものです。小説をアニメへと落とし込む上で当然さまざまな脚色が施されていますが、1本の映画として収まるところに入れ込んだ完成度になっています。当然のことではありますが、物語として表現している幅の広さなどの関係上、どうしても小説の方が面白いというのは拭いきれません(今監督もそれは理解していた)。ただ、『パプリカ』という作品をアニメにするという意味では、今 敏の脚色や映像表現は大成功していると言えるでしょう。

 

明らかに黒澤明をモチーフにした登場人物による世界で一番わかりやすいイマジナリーラインの説明や、クラシックな洋画をオマージュしたシーンからパプリカが誰もが知ってるキャラに変身していく様を楽しむこともできます。はやりどこか、ミクスチャー的な側面をもった映像派監督です。

とはいえ、元々パプリカ的な作品を映像化したいが故にそれまでのフィルモグラフィー(PERFECT BLUE/千年女優)があるため、作家性や面白さでいえば本作に至るまでの劇場作品の方が面白かったりします。当然、作画や声優の演技のレベル、そしてなによりも平沢進の音楽との一体感は良いのですが。

個人的な意見ですが映像的に面白いのは実は冒頭のオープニングだったりします。

米津玄師の凡作楽曲『パプリカ』はまず間違いなくここから来ています。というか彼が今 敏を通ってないはずがない(と断言できる理由は彼の特集時にでも)。

今 敏の命日の翌日追悼のツイートをした事が窺える。

今 敏の命日の翌日追悼のツイートをした事が窺える。私が知る限りではインタビュー等の内容で今 敏 or 筒井康隆の言及は一切していないが、他者リプなので、どう対処すればいう話にもなるが、脇の甘さが出てる。当時は今 敏の死を追悼し、今は何食わぬ顔でパプリカというタイトルだけを拝借して、という態度が気に入らない。無論、パプリカは食べ物の名前であるこから誰がどう使おうと自由だが。発表以前に著名な作品があることを知っていてつけるのが卑劣だと思う。ツイート内容は不明ですが、リプライでこのようなツイートがくるということは、100%今 敏の死を受けてのツイートだったのでしょう。知らないはあり得ないのだから。


・『夢みる機械』(制作中止)

 

今 敏全仕事」という資料に載ってるイメージボードを除き、具体的な話は自分も分かりませんが、既出の資料から読み取れる情報を整理して読み解くと

  • オズの魔法使いがシナリオ上の参考資料
  • 遠未来物でロボットしかいない
  • リリコ/ロビン/キングの三人で"電気の国"へと向かう冒険譚
  • ロボットもので、子供から大人までどの層でも楽しめるエンタメを目指した作品
  • デザインや名前元は『レインボー戦隊ロビン』のキャラクターを意識したもの
  • 『帆船108』が流れ、ロボットたちがダンス(リバーダンス)を踊る
  • 最後のシーンでは『Ride The Blue Limbo』が流れる

特に下二つを思うとちゃんとした完成品を見てみたかったと切に思う。

(:ベンケイ 中央:ロビン 右:リリ)

レインボー戦隊ロビンからの影響を書くと

  • リリ→リリコ 
  • ロビンはそのまま流用
  • キングはベンケイのイラストを改良したもの

あたりかなぁ。

 

(:キング 黄:ロビン 赤:リリコ)

おそらくこの2枚は同じ場所であろうと考えられますが、水の中にも建築物があることからもわかる通り、何かがあった後の世界なのでしょう。津波により都市が壊滅し、主人公のロボットは電気を求めて旅に出るのようなシナリオだったのかもしれませんが、この作品が制作されていたのは3.112年前です。結果的に、今 敏監督のビジョンに現実が追いてしまったので、存命だったとしても、配慮的なスタンスにて若干の路線変更がされる可能性はあったとも思います。しかしこれは関係者が明かしたプロットの一部でありそこまで深く考えることもなく、あくまでもそういう世界で進む物語と考えていいでしょう。

その他にも、世界観が伺い知れるイラストはある

ロビンのイラストにはコンセントが尻尾のように付いているものもあります。以下のイラストや「電気を求めて旅をする」というコンセプトからも、ロビンには(同じロボットとして)リリコを充電する役割があると考えていいでしょう。

 

そして、ここまでの諸要素から本作には『オズ』の要素(知恵・心・勇気)が取り入れられていることが分かります。

キャラクター像としては、以下の三つに割り振りをしている事が推測できます。

  • 頭のないロビン→わらの詰まった頭に脳みそが欲しい案山子の役割
  • リリコ→(ハート型でチャージしているような描写をみるに)ブリキのきこり
  • キング強い勇気が欲しいライオン

まぁ、リリコには「漂流して〜」という要素からドロシー的な役割もあるのでしょうが、『レインボー戦隊ロビン』のベンケイも心優しいロボットであり「力だけが〜」系のキャラなので、おそらくそこの設定も流用されていたことでしょう。

なぜ、オズの魔法使いをベースにしたのか。

という考えを広げてみると3つほど考えられる。

  • 第一に寓話性が高いため物語に強度、普遍性がある。

これについては長く愛された物語をベースにやると一定以上の面白さが自動でついていくるので、上手く仕上げることができればロボット版のオズとしての面白さが生まれる

  • 第二に舞台の奥深さとドロシーというキャラの傍観者的な不思議さ
  1. 東のマンチキン
  2. 西のウィンキー
  3. 南のカドリング
  4. 北のグリキン

の4つに分かれ首都がエメラルドという世界観。最初に家で潰されるのがマンチキンの東の魔女で、オズの命令で倒すのがウィンキーの西の魔女。いい魔女として描かれるのが首都エメラルドにいけと伝えた北の国グリキンの魔女と、最終的にドロシーをカンサスへと戻し、ライオンを森へ、カカシをエメラルド、ブリキはウィンキーへと銀の靴を使ってそれぞれが行きたい場所に行かせてくれる南の国カドリングにいる魔女。

忠実になぞった脚本であれば各国にいって様々な冒険をしたであろう。そしてドロシーというキャラ。例えば赤毛のアンを例にとってみる。あの物語は端的言えば、誰もが知る有名な出だしから始まり最後はギルバートと結婚までして素晴らしいハッピーエンドを迎えるという、言わば成長譚として描かれる。がしかし、オズの魔法使いのドロシーというのは最初から一貫して「家に帰りたい」という動機のみ。

物語の性質からして当たり前だが、ここでひねりを効かせて村上春樹*21著作的な「世界の終わり」と「ハードボイルドワンダーランド」の2つの世界を彷徨う「影を切り落とされた僕」と「生きながら消滅を待つ私」という展開からどう話を締めるかと思ったら最終的に「世界の終わり」の中の森の図書館で女子と隠居という変な結論(セカイ系的な路線)にも当然なるはずもない。

ドロシーはオズの国においては、条件付けとしての行動以外に、異界において何かをしようとも特段思わない。そこが今考えるとすごく慣れ親しんだ数多の同系列の作品と比較すると変な気がする。

話自体は家が飛ばされて漂流した挙句、ブリキ、カカシ、ライオンという何かが不足している者たちと冒険をするというものだが主人公の望みが現実的な考えで実直。

ドロシーの主張をいれた4者の望みは

  • 優しい心が欲しいブリキ
  • 知恵が欲しいカカシ
  • 勇気が欲しいライオン
  • 家に帰りたいドロシー

遂にはその3者は不足していたものを*22手に入れるし、結末としてドロシーも家には帰ることができるのだが、わざわざ丁寧い「最後にうちに帰れてよかった」というような台詞で終わる。ここまで一貫しているタイプの寓話の主人公というのは寡聞にして知らないため、そこまで詳しくないが感覚的に珍しいタイプだと思う。

故に夢見る機械にドロシー的な要素というのは部分的にしかいれずに上手くこと今 敏ワールドに仕立てるつもりであったのだろう。単にカカシ、ライオン、ブリキを機械に置き換えた話だけのなのかもしれないが。

  • 第三にブリキとカカシの対話が本質的なテーマとしてやりたかった

ブリキは心を所望し、カカシは知恵=頭脳を所望している。何故なのか。実は作中にてこの2者の会話で見解の相違ながら結論が出せないことを会話で言っている

カカシ→心があってもどう使うか分からない奴がいるから知恵のほうがいい

ブリキ→知恵だけあっても幸せになるとは限らない、幸せであることが一番。

こんな会話ができるのはカカシに知恵というものがあり、ブリキが既に心というものの切れ端をもっているということに読者もわかる場面でもあるのですが、何が幸せかというテーマが提示されている気がして、もしかしたらこういうタッチをロボットで描きたかったのかなとも思える。

話を世界観的考察に戻すと

次の2枚のイラストに関しては、おそらく線画が残ってる1枚目が下地、それを清書したのが2枚目であると考えられますが、やはり資料が少ないため、ここがどういう場所かまでは分かりません。

 

これまでの要素から察するに、今監督はPixerの『ウォーリー』的な絵面でオズ的な物語を目指していたのでしょう。そうすると、ダンスシーンは場所的な意味で公開されている画像ではこの辺りかな.

.

とまぁ、ここまで公式が公開している情報を照らしてみたのですが、本当のところは今 敏の頭の中にしか正解がない(故に代打の監督でも今 敏監督作品になり得ないので凍結している作品でもある)ので、我々が真相を知る余地は、作られた600枚のカットをみる事以外にないわけです。ということで、この話はここら辺でおしまい。

 

では、先述した今 敏作品と平沢進の音楽から何を読み取り、それらをどのように消化したのかを考えてみましょう。

(大半は本人の感性によるところが大きいので言語化できる範囲内で)

まずは分かりやすいところから挙げていきます。今 敏の1分程度の短編アニメに『オハヨウ』という作品がありますが、P-MODELのアルバム『LANDSALE』にも1曲目に同じ題の曲があります。実は平沢進の『オハヨウ』もultravoxの楽曲『my sex』のメロディをそのまま流用しているので、真似っこの真似っこという感じがしますね。

そして少しばかり飛躍した話をすると

今 敏アニメを見るたびに推測してしまうのですが、おそらく今監督の中には

というクレジットで一作作りたいという思いがあったのではないかと思います。村上春樹平沢進、そして今 敏は、入り口こそ異なるものの、アプローチしていたものは同じであったので、もし彼らが揃っていたとしてもなんら不思議ではありませんでした。この3人が一作品として結実した時こそ、今 敏ワールドが頂点に達する瞬間となっていたことでしょう。アニメーション技法において、村上春樹ねじまき鳥クロニクルに代表される『井戸の底』を映像化できる作家は今 敏以外絶対にあり得なかったでしょうし。

直接的な言及からたどると、インタビューでは必ず影響を受けてきたものとして大友克洋童夢(劇画史上の最高傑作とまで評価している)、そして平沢進の2つを挙げており、前者については絵柄への影響を、後者については創作の源が引き出されるような存在であると語っていました。平沢進から得たものとしては、やはりカートヴォネガットを知れたことが一番大きいと思います。千年女優やパプリカに代表される、マジックのような入子構造の映像技法の着想元は、映画版のスローターハウス5の場面転換の演出が起因の一つであったのでしょう(『ラストアクションヒーロー』あたりもありますが)。

童夢について加えるのであれば、唯一のTVシリーズである妄想代理人今 敏解釈版童夢といって差し支えないでしょう。参加しているスタッフが全員超一流しかいない中で生まれた、奇抜のストーリーをもつ今 敏ならではの奇跡のような作品ですので、是非一度ご覧になってください。

 

三浦建太郎平沢進

ベルセルク』(1989~)は日本のダークファンタジーの系譜の中で生まれた作品です。

数多く存在する日本漫画におけるダークファンタジーを確立し、進行形で礎・血脈となった『デビルマン』フォロワーによる作品の中でも頭ひとつ抜けており、世界中でファンを獲得しています。圧倒的な画力で描かれる精緻なキャラクターやモンスター等、そして黄金時代編〜蝕を頂点する濃厚なストーリー展開。総合的なレベルの高さといい、たった一人の日本人が生みだしているとはとても思えません(当然ネタ元はあるのだがそれはどの作品も同じ)。まさしく金字塔と言える作品だ。

悲しいことに、作者の三浦建太郎2021年に大動脈解離で亡くなってしまいました。熱心な平沢ファンだという文章は見られるのですが、メディアに出ない人だったこともあり、具体的にどういう経緯で魅力的に感じたのかは分かりません。しかし、少しではあるものの、共通の項は導き出せます。ではここで一枚の絵を。

画:ベクシンスキー/タイトル不明 (1973年)

元々、『ベルセルク』に出てくるデザインやモンスターの類はHRギーガーとベクシンスキーという二人の画家に大いに影響を受けているのですが、中でも"The ベルセルク"なのがこの一枚絵。グリフィスがシャルロットとの下りの後に受ける拷問のシーンと対比すると近いものがあります。

 

そして平沢進6枚目のアルバム『SIREN』のジャケットがこちら。

SIREN ジャケット

MANDRAKE時代からバイロスの絵をそのまま使うあたり、平沢進もまたベクシンスキーから大いに影響を受けています。というかデカダン派の絵を使うような人間がベクシンスキーの絵を知らないはずがないので。どちらが先という話ではなく同じようなものを好むって話です。

その他(代表的な平沢/P-MODELフォロワー)

平沢進フォロワーとしては今 敏閾値に達してしまっているので、それ以外は正直そこまで目立ちません。とは言え一例を挙げると、『けいおん』作者のかきふらいが主要キャラにP-MODELメンバーの苗字をつける(その他のキャラの名前もミュージシャン由来)ことで変な爆発力を起こし、そこを媒介して『亜人2巻以降の作者である桜井画門がキャラにP-MODELのメンバーの名前をつけるという間接的な潮流が生まれたことがありました。『亜人』に関しては、平沢は強い人間キャラとして作品内でもかなりキャラが立っており、作品に対して引用が面白く作用しているので、意味のある引用の仕方でした。しかし、こういった意味のある効果的な使い方も出来ずに、ファッション感覚で平沢進に影響を受けたという、なんとも安易なアーティストがいるのも事実です。

知名度的にわかりやすい例を出すのであれば星野源米津玄師星野源は、好きと言うのであれば平沢タッチの楽曲を出してもいいのに中々その手の曲を出さない(出せないという見立てが正しいのだろうけど)。正直な話、シンガーソングライターとしては全くといっていいほど面白味のかけらもない。世界タービンをただラジオで流しただけだなぁという印象しかありません。そこから進展されていない。本当につまらないアーティストの極地みたいな感じがします。

 

米津玄師に関しては、『救済の技法』に収録されている『MOTHER』に人生を変えるくらい影響を受けたと公言し、『BOOTLEG』という何とも言えない収録楽曲しかない迷盤アルバム(なぜ迷盤なのかは別の機会に)Track.1『飛燕』で歌い方と楽曲のスタイルを真似ているのですが、平沢要素を乗せて米津楽曲を作るという意味では平沢要素を全然活かしきれていません。

MOTHER

MOTHER

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それもそのはず、平沢進の音楽性(これまで述べてきた音楽史の流れから生まれたサウンド)だからああいう歌い方が成立するのであって、大衆作家が創る音楽レベル(音楽性がBUMPRADアジカンなどの流れを引き継いでいるという意味で)が主流になっている米津楽曲では機能するはずがありません。まさかそれを理解しないで作ったわけでもないでしょうし。非難というよりもそういう本質的な所をわかっていないはずがないであろうと思うが故に、疑問になり変わる。

まぁ無茶だろと思うのは、原作のナウシカをイメージアップして創った楽曲という別の要素もあるため、詰め込んだ結果調理しきれていないというところもあります。結果的にできたものは表面的なものでしかないというわけです。似合わないことをすると、才覚のある人でも失敗をするという良い例な気がします。

恐らく本人もあれは失敗作と思っているはずで、だからこそ『飛燕』の失敗点を学び『STRAY SHEEP』の『迷える羊』を発表できたのでしょう。あれはきちんと落とし込めていた。こういう器量は流石(その実ネタ元を『白虎野』に収録されている『確率の丘』あたりに定めただけなんだろうけど)。そういうこともあり安心したのですが、思い返せば電気羊的なテーマってハチのデビュー作からの系譜ですよね*23

あんなにもクリエイター的に面白いところなのにファンが爆発した今現在でもあまり多く語られていないので、それもまた別の機会に、いずれ出すかもしれません。

そういうわけで、平沢進の音楽は独自性が強い(というよりも色々なジャンルが重なった上に存在するものである)がために、才能やセンスの良し悪しにかかわらず、他のアーティストが楽曲的に真似たり意識したところで、そんなに巧く機能しない。結局のところ、音ではなくその世界観を他業種の人がインスピレーションとして受け取るのが一番良いというところに落ち着きます。現に、平沢進からの影響を上手く作品に反映させた今 敏三浦建太郎、桜井我門は漫画家です。これからも平沢進音楽に影響を受けた楽曲を作るミュージシャンは出てくると思いますが、真に平沢的な音楽イズムを継承した作品を創り上げられるかどうかといえば微妙です。

 

最後に(本題ではないので目次から外しています)

あとがき・小咄メイキング

語りきれなかった部分もあるが、大凡は書けた。長すぎで不要な部分が多いと思った方が大半でしょうけれども。がしかし、ここまで語り切ることでしか平沢進の世界観は見えてこない。それに加えて彼の音楽性の流れを汲むことで冒頭に書いたこの文章の意味

最後まで読んだら曖昧な表現で魅力を語るのではなく、もう一歩踏み込んだ角度・視野から余す事なく言語化できる程度にはなっていることしょう。また、過去の特集記事以上に相当数、迂遠的な視野であらゆる角度から俯瞰するため平沢進以外の事柄についても深く言及します。それらを総合的に把握できてはじめて平沢進の総体が分かる。

が最後まで読んだ方には分かって頂けたかと思います。つまり

  • 音楽だけでは平沢音楽は語れない

これに尽きる。音楽という媒体を通しているだけで、その実、奥底にあるのはその実SFネタとそれらを通して組み上がったコンセプトアルバムの世界である。それらを理解していない状態で聴くからこそ、感想が宗教的だなの、意味がわからないけど惹かれる世界観といった曖昧で、ある種の無知蒙昧な形容の感想が目立つことが多くなるのだ。

 

手段としての音楽、目的としてのSFの世界とそこにテスラ的な物が加わることで余計にヘンテコさがというのが出てしまっている。だからこそこの両点を深く述べる必要性があった。そのため本編でも一度書きましたが、半歩ずれていたらもしかしたらSF作家:平沢進もあり得た世界(可能世界的な意味で)も十分ありえたと思います。それらの考察がある意味でいえば、今回の本質的なテーマであり、それに比べれば、アルバムでなにがおすすめ・名盤だといったことは重要ではない。なので、そこについては普段よりテンションを抑えたが、一応Music Synopsisは音楽ブログなので、念を押してそれっぽく書きました。参考になればと思います。読んでいてやっつけ感は否めないところもあるとおもいますがその点はご容赦をください。

mandrakeP-MODEL、代表的なソロアルバムどれをとっても、世代ではないひよっこの自分が書く題材が40年というキャリアをもつ平沢進というのはリアルタイムで活動を追い、知っている往年のファンの方からすれば満足のいくものではないかもしれません。廃盤関係の音源については精緻に捉えきれていないところもあります。馴れ合いのためのファン名称といった、問答無用で度外視できるどうでもいい部分を除き、雑誌インタビューや本人による解説本に近い書籍などを参照すればより具体的なことが書けて良かった気がするのですがその努力するほど今の自分には余力・気力・体力がないため自分が文章として表現できうる最大限の力を振り絞り、精一杯考え抜いて書いたのがこの記事です。

以上を持って平沢記事とします。以下は好事家向けの文章です。

 

感想戦という名の雑話、或いは続・後書き 

書き終えてまず最初に感じたことは、読み手のことは全く考えないで相当好き勝手に書いたなぁという事。いちいち気を使っていたら何も書けないというところが本音だが。

だから平気でn万字になってしまう。当ブログ常連読者であれば今更な話で、いい加減慣れているとは思いますが。普通の人はそんな字数のブログ誰が進んで読むんだよと書きながら自問自答芸をしていて尚、枝葉を広げるという作業を繰り返していました。結果、自力で限界だと思っていた菅野よう子特集の時に自分が書いた分量の5万字を軽く超えました。

一般的なブログの文字数からあまりにも逸脱をしているからこの記事で初めましての方は分作にしろと思ったかもしれませんが書き手からすれば、とても性に合わないので統合しました。それがわかっていたからこそ冒頭に注意書きも柄にもなく書きましたし。当然平沢進の音楽を説明するために書いていくとどうしても枝葉になってしまうのは今更、というよりも当たり前ではあるのですが、今回は度合いがすぎましたね。自覚してるなら削れよと思わわるであろう一方で、読む手にはどれだけ長文であっても失うものは基本的には時間と体力以外ないですし。がしかし一方で、そもそも話このような記事のリンクをtwitterから見つけ出し、進んでクリックしてアクセスするような方は往々にしてマニアック人か、好事家、物好きばかりでしょうからその意味では受け身として莫大な情報が脳に流れてそれを読み解き解釈し、咀嚼するというのは楽しいことこの上ないことでしょう。そういった発信者が考える第三者・読者視点の考えがあったからこそ平沢進の音楽性を自分なりの意見としてまとめることができたのも事実。

当然、全てを語り切れたわけでもないのです。歌詞の観点や映画からの影響の具体的な話、ライブにおける演出など色々と用意していたものはあるのですがが、はてなブログの文字数的な都合上それらを語り始めると限界値となる655,360バイトをオーバーする。文字だけならともかく、画像を更に挿入すると絶対に。

この点については菅野よう子特集で学んだため、省きました。

自分なりに意見をまとめてかけた。これは嬉しいのですが同時に、あれのネタ元はこれだあれだ的な流れを説明をしてしまうと、解釈の余地が悪い意味で狭まるので実はあまり良くないなと思いました。ここまで書いておいて何を言ってんだという話ですが。これはスタンリー・キューブリックの受け寄りだが、美術・映画等は敢えて説明しないことで受けてに解釈の余地を委ねたほうが正解を提示しない分、様々な解釈ができる。故に作品が愛され続けるという考え方がある。そういった考え=説明しないことで解釈を広める面白さをわかっていたからこそキューブリックの『2001年 宇宙の旅』はああいう映画になったわけだが、なんというかあの作品はキューブリックが観客の特性を理解した上で意図的に「分からないように」編集されたものが公開されているので(本来は冒頭に専門家の説明が入り劇中の出来事を仄めかす単語を語るというパートがあったのをバッサリ切ったり、宇宙人クリンダーを登場させようとしたけど当時の映像技術では難を極めたのでモノリスという物体に成り代わったり、その他諸々の要素を削った)その結果なんとも言えない映画が出来上がったわけですが、仮にあの作品に説明的な要素があり、誰もがあの作品の意図することことが伝われる作品画であったのなら、今現在まで語られるSF映画の金字塔と謳われたり、記念碑的な作品にはなり得なかったことでしょう。実際にダヴィンチのモナリザを例に取っていたが、あの絵画も多様な解釈ができるこそ、価値が生まれるのでありそこに絶対的な説明をしていたら今日我々が名画として拝むこともなかったかもしれない。まぁ、何が言いたいのかというと、どんなエンタメであれ、経緯などを気にせず、知らない状態で見て、聴いている内が実は色々夢想できるが故に案外受け手・消費者的には楽しいということ、対象にたいして無知であるが故の捉え方というのも時として有効な時もありますし。

中には「それは書き手の勝手の主観じゃん」というような記述もしましたが、どんなメディア形態であれ、人が書く・良い表す物言い・表現物はどんなパターン/ケースであっても主観なき情報などあり得えません。目を瞑っていただければと思います。

ああだろうこうだなと頭の中でこういう感じというイメージ展開(夢想)するだけであれば誰でもできることだが、それらをまとまった文章として書き出すだけの文章力や説明力もそこまであるわけでもないので、より良い文章と考え方を絞りながら苦難苦闘した末にようやくできあがったという意味ではこれまでのどの記事よりも時間というよりも、考える体力がかかりました。今回は音楽以外の視点も深く広く入れた、ある種奥の手を使った変わった書き方をしました。具体的には文中にも色々なネタや引用を入れたりしてなるべく読んでい楽しさが失われないようにしたつもりなのですが、当の書き手が毎回このテンポでやると流石にきついため、このような解説は当記事限りです。

書いていて自分でも面白いなと感じたのはジャンルの発展模様がどこも似ていること。今回は主だって音楽・美術・映画・SFについて書いてきたわけだが、必ずどこかのタイミングで閾値に達し、内世界に入っていく歴史というのを書いていて感じました。

音楽・美術ではある地点で原風景のムーブメントとしての印象主義ドイツ表現主義が生まれている。美術界隈で言えばピカソが首魁となったキュビズムもやはり歴史的に考えれば最近生まれた新しい美術ジャンルという括りである。

美術史にはそこまで詳しくないのであまり語れないため、推測となるが、所謂誰がみても上手い平均化された絵というものからの脱却を図った末のジャンル形態と考える。ピカソは幼少の頃こそ写実的な絵を描いていますしその完成度はもはや超人なわけですが、そういった絵を残しても既に確立されたものであるため、恐らくピカソ的にはつまらないものであったからこそ様々な遍歴を経てキュビズムに辿り着き、ジャンルを開拓することで、芸術家としても歴史に名を残すまでに至ったと考える方が自然である。

ポップスとしての音楽であっても60年〜始まり、70年代におけるプログレ等に代表される技術的な側面が極まったら技術簡易で魂で表現をするパンクが生まれその後それらにポストパンクとして楽曲がより進化を解け、そこになものを加えニューウェーブという時代を迎える。SF小説の歴史を紐解いた場合も元々が純粋な空想科学小説から生まれ、50年代を境により本格的な科学礼賛的な小説が生まれ、その反動としてやっぱり内なる世界を描き出す作家が登場し、彼らはニューウェーブSFと呼ばれ、その中から派生しサイバーパンクというものが生まれている。

映画だと、戦後の米国は1950年代に大作主義で突き抜け、『クレオパトラ』を頂点として大作主義が極まった後にフランスでおきたヌーベルバーグ(新しい波)という運動が発生しそれがアメリカではニューシネマとしてSWが登場する1977年まで続きました。

 

これまで挙げてきた全てのジャンルにおいてどこかでターニングポイントを迎え、そこからまた色々な潮流が出てくるというのはやはり共通している。

 

これらの考え方が、今回自分の中で一番の発見だったので、以後どこかのタイミングで出すであろうこれのリメイクあたりで使えそうです。前回の草稿を書いたとき以上に新しい知見などを蓄えているので、今度手をつけるときこそ、しっかりと書き上げたいです。草案段階には既に移っているので来年あたりにはと思ったり。私自身、大した学がなく、そのせいでこれまでの記事にしても抽象的な記事が多いので、一度くらいはより学術的なっぽい記事を書きたいという発想から書き始めた記事なのでこちらもそれなり以上の面白さと学びと実りがある記事を書ければという感じです。

草案までは終わっています。

sai96i.hateblo.jp

あと、無調パートあたりで鷺巣詩郎の音楽論の記事誰か書いてくれという趣旨を記載しましたが鷺巣さんは本当に難しいところで、だからこそ今に至るまでまともな論考記事ってこれまでに一度も出ていないため我こそはという人がいたら全力で書いて発表してほしいことを再度書いておきます。私自身、全く手がつかないというわけでなく、出そうと思えば出せますがちゃんとした記事を出せるかどうかという点からみると相当難しい気がして。そのハードルを超えられる人にちゃんと書いて欲しいなと思ったり。

 

 

 

ここまでただの一度のスクロールという逃げの道を選択せずに総体としての記事を長々と当記事読んでいただきありがとうございます。当記事が全ての読み手の方々へのなんらかの効果・効能・知見・発見・見識・知識へ1mmでも貢献したのであればなによりです。 

 

この記事で当ブログが初めましての方は多方面からの圧倒的な情報量で疲れたと思いますが、このくらいの文章を読むのも一興と思っていただければ嬉しいですし、浅学ながら持ちうる術ある程度を出力できた書き手としてはこの上ない幸せです。

それでは次の記事でお会いしましょう。

Credit

サムネイルにつきましてはナタリー様の以下の記事の写真を引用しています。

natalie.mu

 

Special thanks to All readers of this article.

 

 

*1:まんだらけと読んでしまう気持ちはわかります

*2:20世紀少年で一躍有名になったギターイントロでお馴染み曲の作曲者

*3:energy flowウラBTTBに収録されてます

*4:同時期に冨田勲が同じく感銘を受け、その後シンセサイザーの大家となります。

*5:tronOSTも担当

*6:rossam university robot

*7:シャーロックとマイクロフトについて知りたい人は先に紹介した『ギリシャ語通訳』と『ブルースパーティントン設計書』の2篇を読めば大体掴めます。

*8:あの映画がわからないという人は小説版を読むと理解できます。

*9:万華鏡のネタはその後あらゆる漫画に引用され続けているのでそういった文脈で知った人も多いのではないでしょうか?

*10:この点だけは真似できていない

*11:某サイボーグな1号とかを連想してしまいますね

*12:PSYCHO-PASSで引用されて以降ファンの中では有名なエピソードになった。

*13:検索エンジンサイトのヤフーは十中八九もじられたものです

*14:自分がその一人であることは言うまでもない

*15:ハートフィールドはJBLのスピーカーであるハーツフィールドの名前からでしょう

*16:ロックフェラー・モルガン・メロン・デュポン・カーネギー

*17:フロイトが書いた論文題名

*18:攻殻のネタ本の一つ

*19:ノーランはインセプションでパプリカの演出を、アロノフスキーはレクイエムフォードリームでperfectblueの演出をそのまま真似た

*20:その隠し砦がスターウォーズに続くというのは洋の東西でいい循環があるなと思います

*21:世界の終わりとハードボイルドワンダーランド

*22:結果的には最初からもっていたという結論で逃げるオズは最後まで口の巧いおっさんだなぁと思う

*23:米津玄師の場合はどちらかといえば村上春樹からの影響が強いが

アニソン派 Vol.9 現地レポート ゲスト:じん・堀江晶太

anisonha.com

ゲスト的な意味では倍率が過去一高いと思っていたので、まさか当たるとは想像だにせずって感じだったのですが、普通に当選したので行ってきました。特定の世代、というよりVOCALOID楽曲史を知っている人であれば、じん・kemuという2人が、個人だけの力ではないにせよ如何にシーンを盛り立てたかは既知のはず。そんな歴史を作った2人がくるってことで期待値マックスで臨みました。

 

結論から言うと超面白いクリエイタートークを聞けた神イベントでした。

ツイキャスなどの配信でも同一の内容で楽しめたと思いますが、今回こそは現地の熱量がとんでもなかったです。vol5のような惰性さもなくイベント的にも改善されていた。

といわけで、面白さの一実を伝えられればと思い、会場にてメモよりどれだけ面白かったかを伝えたいと思います。現地で聞きながらリアルタイムでタイピングをしてはいたのですが、流石に一言一句全てをメモできているわけでないのでどこか文脈が変な所があるかもしれないのと、一部要点は残しつつ脚色をしています。また、同業者のメッセージ系はそこまで重要ではないので短文に省略しています。そこらあたりをご了承ください。登壇者の名前は敬称略で出します。

 

今回は堀江、じんというネット音楽に変革をもたらした二人のため、開場19時から会場の熱気がすごく、バックでなっているbgmも失想ワアド/消えろ/少年ブレイヴなどお馴染みの楽曲などが流れていました。

失想ワアド

失想ワアド

  • じん
  • J-Pop
  • ¥255
  • provided courtesy of iTunes
消えろ

消えろ

  • じん
  • J-Pop
  • ¥255
  • provided courtesy of iTunes
少年ブレイヴ

少年ブレイヴ

  • じん
  • アニメ
  • ¥255
  • provided courtesy of iTunes

その度に横にいる人が大騒ぎしていたりとまぁ、現地ならではの「コア」な人が多いであることを再確認しました。少々度が過ぎてる人もいましたが。

イベント19:55ごろに司会主催者である田淵登場 挨拶、コロナについての注意喚起などをし、田代さんとの打ち合わせなどを行なっていました。前座から作曲者としての耳の良さがひかり、bgmのハードロックパラダイスのギターソロが B`zのギリギリchopであることを看過していました。そしてこれが結果的にイベントに活きてきたのも流石。

プロは違うなっと思いました。ハードロックパラダイスとギリギリchopとの共通点を出せた人ファンはそんなにはいないはず。

 

 

田淵)堀江晶太、ギリギリchop大好きすぎるでしょ

(会場爆笑に包まれる)

本編開始

アニソンvo9開幕

司会の二人が登場。田淵、田代がそれぞれ挨拶。

こんにちは。youtubeや、ツイキャスでも流しています。

新しい新譜の紹介。10月のvo8から2ヶ月9回目。田淵、田代自己紹介。
12月7日新epがでる。買ってください。(2022年12月7日(水)発売 小林愛香「syzygy」)

 

なぜレジェンドが2人呼んだのか?

という問いに関しては田淵さん曰く「どうしてもと思った。二人とも仲がいいし」

ということを喋ってました。

そしてアニソン派の目的3つを発表。

・大量消費時代に入ったアニソンのキュレーションを目指しシーンの活性化を目指す。
・クリエイターのコアな話を共有し、音楽家の職業の認知向上を目指す
・アニソンはソング、声優ソング、二次元コンテンツなどを指す

そして、アニソンにまつわる業界の濃い話をするという主軸を定めたたのち、投げ銭プレゼントの説明パート。クリエイターの貴重なデータがもらえる。

デネブとスピカ、田淵、堀江デモ
じん 作曲手順とらの巻
実際に入れたパワポなどをプレゼント。

クリエイター記帳セットとアニソン派セット。

サイン入りで写真がなどがある。

いい番組だとおもったらいくらでも投げ銭してくれ。振るって応募しろ。
流出は不可。しないように気をつけろ。

そして「いつものようにクリエイターの飲み会を覗き見する感じで楽しめ」という感じで乾杯と田淵さんは言うんですが、観客は言えないという微妙な空気になりつつ本番が始まりました。


まず最初に本日のゲストの1人、堀江晶太が登場
mirage in augestが流れたのがわかっているなぁと言う印象です。

堀江:作曲の堀江ですよろしくお願いします。

田淵:外に出ないからあんまり会えない

田代:自分も久しぶり。若返っている印象

田淵:意気込みはどう?

堀江:意気込み、わからない。いつも話している延長戦でいこうと思う。


企画1
クリエイターにききました 堀江晶太はこんな人

Akkiさん ベースもピアノ、ギターもできる
瀬名航 ボカロっぽい感じで高クオリティなメロディで殴り込む
大和 メディアミックスなどがすごい。リリックビデオを見たときに目を引く

堀江:恥ずかしい。

田淵:マルチプレイヤーだけれど、最初の楽器のきっかけは何かあったの?

堀江:最初はピアノ。小学校 中学の時バンドブーム お前ベースだとなった。しかし一週間後、一生懸命練習したらバンドブーム終わっており、皆ゲームなどをし、その延長で使われなくなったギターなどが堀江晶太に回ってきて、、という経緯。

田淵:演奏してみたの動画投稿で(名前は出さなかったが中村イネ)で有名になったけど、作曲者として有名になったのはkemuだと思うんだけど。作曲をするきっかけなんだったの?

堀江:音楽家になるきっかけ小学校。ゲームを作る友達がいて、面白く自分がをつくった音源を入れる。っていう流れで音楽家の道が開かれた。ドとファを打ち込みで〜と言う感じ。音源は外に出していた。音源BGMを載せていた。きっかけはそこ。

田淵:ネットになったいきさつは?

堀江:おのずと音楽がわかるのがネット友達だった。その流れで、ボカロになった。田舎だったので、そういうことを言うと「お前は、、、」みたいな空気だった。

田淵:今でこそ陽キャもアニメ見ますけどね。

堀江:僕の頃はアニメ好きというのは嫌われる風潮で、アニメが好きという「ああ」という空気になった。だからこそ、ネットに結果的に行き着いた。

 

ここで、堀江晶太を振り返る企画が発表。

田淵:堀江晶太の10年ということで、三つに分類Feng(最初にフェングと言っていたが、フォンであることを知らなかったのだろう)ベビレ、アニソンなどに代表されるがどう言う経緯で作曲者になっていたのか?

堀江晶太・発掘(パワポスライド)

堀江:19.20歳の頃、知り合った事務所の掃除で当番を全部をする代わりに一部屋住んでいいよという流れ。その中の流れでボカロもやるようになった。仕事のアシ、仕事をもらった。ゲームメイカーに話かけてもらった。プロデューサーなどに声をかけてもらい、仕事をやるようになった。

田淵:エロゲ、アイドル、Lisa 組み分けをした時、どこかでやる(この作風で行く)というのはあったのか?

 

堀江:なかった。元々ゲーム音楽作家希望だった。小中高のころはずっと漠然とインスト志望だった。高校から作曲家になるという夢だったそして、ジャンルではなく音楽で飯を食うことに変わった。

 

田淵:ベビレでは作詞の才能をやっているが才能があったのでは? 作詞はやりたかった? 
堀江:やりたくなかった。作詞は恥ずかしいし、言いたいことないな。こういう音楽がしたいという表現に歌詞というのもなかった。なんで書いたのかまぁ仕事としてで、そこから作詞というものに向き合ってなるようになった。

田淵:実際やってみてどうか
堀江:大変。一番カロリーが高い。メロディ、アレンジは「こういう感じ」というのが分かるけど作詞は一番無からの状態だから苦手。

 

Lisaについて、アニソンシーンとしての印象
田淵:アニソンに踏み込んだ気持ちはどうだったのか?

堀江:現場にはいったときLisaの関係者が自分をしっていた。制作序盤の頃にLisaの現場から言われたことが印象的であった。
「僕らは良質なジャンクフードをつくっている」

「誰が食べても美味しいハンバーガーを作りたい」

と言うふうに言われた。

当時の自分(堀江晶太)の中にはなかった感覚。当時の自分は最上のもの、かっこいいものを目指していたが、上の意見を聞いた時にアマチュアと商業の違いに気づけた。

そこにネガティブな気持ちは?
堀江:なかった、よこしまな作家性とかが無駄だった。ほぐしてくれた言葉。自身ラーメン大好きだからその感覚でやればいいと思った。

田淵:初期のLisaアレンジが中心だった。それは堀江的にはどうだったのか?
堀江:作曲もしたかったけど、最初は楽器が大好きだったからずっと楽器を弾いた。だからこの業界に入ったようなものだし。ハッピーだった。アレンジだけだから、、というな感覚はなく、アレンジも作曲という感覚で行っていた。


田淵:田代さん視点ではどう見えていたか?

田代:動画コンテンツで指ドラムをする、編曲をめちゃ早い人という印象。

アサインしてやっていてすごい。あれはいつ?

田淵:簡易的に解説 普通一つずつやるけど、それを一斉にこなしてしまう。凄い力技。

堀江:時短になるぜって思った。当然練習はした。ちょっとずつやっているうちに、、と言う感じ。ドラムは他と比べ、時間かかる楽器だったけど好きでやっていたらっという経緯。

田代:わざわざ通してやる必要性もないのにやっちゃう。

堀江:ずっと指ドラムやっていた。休憩の時とかもずっと。ただ、仕事で会う最近の若手作曲家はみんなやっているし、上手い。

田淵:それ、堀江晶太の影響。

田代:これからの当然のスキルになってきている感じがある。

堀江:最近の人は、あれできているんだという感覚になった。

田淵:それの源流は間違いなく堀江晶太。以前にもいなくはないだろうけど広めたい意味では間違いなく源流の一つになってる。

 

無料放送ではここでおしまい。じん未登場。

デネブとスピカのデモ堀江、田淵データを紹介。
生状態、堀江晶太ラフ状態。

開始30分にて一旦、堀江晶太が退場。

田淵:どうですかここまで

田代:既に面白い、ここから有料はもっとすごい内容が待っているとおもうと楽しみ

 

休憩明け

じん登場

じん:作曲のじんです。アー写は普段画面だしていないので新鮮。他意はない。

こっちの方がきもいと思って今のアー写にした。

田淵:なぜ出た?

じん:いや呼ばれたから(笑 )

田淵:経緯としては去年、アニソン派のベスト楽曲の中のエンターテイナーの評の影響でその流れで呼ぶことになった。そこでいいという感じになって実現。

じん:堀江晶太がでるなら。


じんに聞いた どんな人

堀江と同時に多大に界隈に影響を与えた人。

akki:人間能力の拡張みたいなメロディ。
瀬名:シングルコイルサウンドの組み合わせ。鉄板をつくった。
大和:初めてメディアミックスを完璧な形をしたパイオニア

田淵:ボカロと人間楽曲の違い。書き分けは?

じん:大暴れするメロディが好き。きもいメロディが好き。ウワーっと行くタイプ。高い声でもボカロなら文句を言わないし、自分の中ではルールはない。結果として歌としてできた。

田淵:ボカロとバンド歌手どっちが先?

じん:バンド。専門卒です。さきのようなシングルコイルバンドサウンドではなく、変なバンドやっていた。アングラなプログレシューゲイザーをやっていた。

(カゲプロやりたいな表現の布石だなぁと筆者はこの時見抜きました。)

田淵:いわばじんというのはニコ動においては神のような存在。音楽にストーリーをつけて、エンタメで成し遂げたのがじんであり、カゲプロ。ああいうのは狙ってつくったのか?また、そもそもの音楽をやり出した理由はなにか?

じん:北海道出身であり、その流れでバンドやろうとするが、全然うれない。他の人たちはみな就職にいった。その時東京に行こうと漠然と考えた。ライブハウスで人に話しかけるの無理だし、そう言う意味では向いてなかったかも。うじうじしていた。まだ下半身は東京、上半身北海道という状態だった。東京の専門学校の時の友人の兄がボカロ、dtmについて教えてもらった。結果的にそれがカゲロウプロジェクトなどになる。ただ、最初、ボカロって初音ミク?アニメなの?と言う感覚だった。北海道はネットが通ってない。全然ないので情報網としてそもそも知り用がなかった。

(因みに生み会社のクリプトンの本社は北海道だろっと心の中で思いました。)

親からもアニメやろってツッコミがあったくらい。とにかくVOCALOIDというものがなんなのかが、色々な地理的、そして環境的な意味で知りようがなかった。

そこで目指した方向性は、バンドでやっていたシューゲイザーの感覚を伝われという欲求があった。歌ものであるからこそ、メロディ歌詞がないとと考えていた。読書家でもあったので、物語を構築するというのは苦でなかったしイギリスのロックバンドがそれを昔やっていた。イギリスのプログレに影響を受けた。the whoピンクフロイドなどそこらへんが1970年。あの時代、所謂コンセプトアルバムというものが受けた時代であった。過去の事例として、そういったコンセプト形式でいけたのであれば、それをボカロに落とし込めんでみようとおもった。自分の武器としては色々できるから。

 

ロックバンド最高(パワポのスライド)

田淵:どのくらい傾倒していた?
じん:中・高校生のころは所謂不登校だった。バンドを聞いて泣いているみたいな人だった。一回拗れた。どこまでも頭よくなったほうがいいみたいな感じになった。ボカロをやる時に影響を受けたの当時流行していたwowakaが参考になった。

wowakaの方向性でいい。メルトをやらなくていいんだ!!

田淵:音楽と物語、どちらを先に作るの?

じん:ストーリーが先。音楽は後。どうせなら自分が言いたいこと、中学校のジレンマなどそう言うテーマ性を重視したものになった。Sasakureみたいなパターンもあったけどwowakaを選んだ。

 

田淵:mvが凄いし多い。今見返してもこんなに高いものがあったのかと思うくらいクオリティが高いけどなぜ?

じん:それは動画師・イラレを担当したしづわんにゃんぷーの影響が多い。凄腕クリエイターのおかげ。こればかりはそういった巡り合わせた偶発性が多い。
田淵:ロックバンドでボカロ。これは基本的な音楽性?

じん:はい
じん:そういうこともあって、メジャーでリリースするっていうことになってスタジオでレコーディングすることになった。

田淵:当時はすごく新鮮。wowakaもやってない生バンドサウンドならではの魅力が今聞いても残っている。ロックバンド→ボカロになった時、「じんっぽいってこれだよな」の魅力、作風。自分の中での自覚は?じんの中でどう言う感覚?
じん:カゲロウデイズをつくって再生されるようになったので、そこからはポップなものをつくった。2ndの時に好きなものを作ったらいいのではないか?っとなった。そして一曲自由になる曲を作った。それが最後のサマータイムレコード。

サマータイムレコード

サマータイムレコード

  • じん
  • アニメ
  • ¥255
  • provided courtesy of iTunes

何にも考えてないに近い。中学の思いなどを入れた謂わば私小説てきな側面の入れ込みが強かったため、人気出ると思ってなかった。

田淵:田代さんはニコ動のシーンをどうみたか?

田代:面白いコミュニティ。ジャンルというコミュニティ。ネット全体の中の一つのムーブメントのなかで目立っている人がじんさんだった。再生数が跳ねた人で結果を出している人たち。めちゃくちゃに盛り上がってる。加えて、メディア露出もなかったので、こいつは誰?っという感覚で、顔も人柄もわからない。ただ、楽曲が刺激的で面白い。
かなり恐怖を感じた。周到に準備されたものが用意されてる。あの流れは凄かった。場所は違えど今の主流のyoutubeがあの時代の熱力は今にない。

じん:とってのニコニコは?ユーザーとしてニコニコは享受していないという?

じん:めちゃくちゃ性格が悪い人が多いっていう印象。曲をだしても「くそ、くそ」といコメントが流れまくった。
田代:同業の嫉妬なんじゃない?

じん:自分にとって、ネット自体がはじめて。2chもしらなかった。断絶されていた村だから。頑張って作ったのに、汚される。理不尽な場所だった。

田淵:なのに、そこで活動することにした理由は?

じん:結局はそこにいたるまでの経緯。作曲家にもなろうと頑張った。ゲーム会社にポートフォリオ送るとかもやっていた。全部落ちた。ここでダメだったらもうダメだっていうところだった。行き着いた場所がニコニコ動画での活動であった。

 

ここでじんさんの投げ銭プレゼント。

作曲技法とらの巻。同じ曲が作れるhow toが〜という紹介

ここで10分の休憩

第二部
堀江晶太、じんが楽屋で大盛り上がり。

じん・堀江晶太 ダブルで登場 bgm は mirage in augest

じんへの質問
・ギターマニアからの質問(質問内容は忘れました)
以前はルビーストーンを使っていて、今はシゲモリミューズを多用する。7年くらい使っている。楽曲でいうと、オントロジーなどに出ている。あれを使わないと夏気配でない。あれが廃盤になったら廃業するわww

田淵:そういうのあるよね。自分も使っているエフェクター、後続機がでたけどそれまでのちょっと違うので違和感がある。堀江晶太エフェクターにこだわりはある?

堀江:エフェクターには関心はそこまでない。チューナーが大事。精度が違う。ライブで使う。楽器演奏中とライブ中でわける。どっちもやる 

田淵:自分はどっちか一つ。

堀江:主に使うチューナーはポリチューンを使っている。しっかりする時ようの。

(因みにじんさんも同じくポリチューンを使っているそうです)

 

ゲストが選ぶ、俺が選ぶアニソンプレイリスト10選(スライド)

影響などを受けた曲、後世に残したい楽曲をそれぞれピックアップ。
堀江
・君の神話 

イントロの「畏れ」で盛り上がる会場。堀江晶太も菅野チルドレンということです。

・A whole new wolrd 音数が少ないのにメロディの秀逸さ。素晴らしい。

(mirage in augestをフル尺できくとw whole new worldの影響がよくわかります)

ブルーウォーター 
・Odd taxi 
・Alive  

reonaっていうアーティストがすごい
・ギリギリchop

(本編開始前に田淵氏がハードロックパラダイスのギターを影響を見切っていた答え合わせでした)
・wild folwers

時には昔の話を
・にんげんっていいな
lost my music

 

じん10選
・ビバナミダ
・林檎もぎれビーム
・幸せの王子
・ハミングがきこえる 

じん:小山田圭吾すげえって思った。これは自分には作れない。

田淵:ちびまる子ちゃんで一番印象に残っているのこれだわ。

(ネタ元にあたるThe Man Who Invented Jazzの影響を指摘してくれるかなって思いましたけどなかった)

・永遠という場所
・Hustle muscle 
・ねない ねない ねない
空耳ケーキ
・不完全燃焼

・繭色

幼少期に得たものと、サブカル=商業的なものとで感覚が違う。大槻ケンジに影響。リアルタイムに聞いたものが多い。最近の曲をあげる理由、線引きは意図的ではない。繭色なんかは映像を飛び超えて、出てくる感じがすごい。 渡邊翔さすが。世代が被っているから、俺もかけたはずっていう面がある。


堀江晶太10年その2
堀江晶太繁忙

作りすぎて休養。2019年の時。そのあたりまで凄く仕事をもらっており嬉しいけど時間がたりなくなった。実験する時間がなくなった。その頃ちょうど、体を壊していたので休んでいた。半年ほど仕事はやりながら、新規を受けない期間が1年あった。毎日ゲームをしていた。じんと堀江は割と電話している。じんに休みなって言われた。

じん:堀江晶太は真面目。人に求められた瞬間に盛り上げる。。堀江晶太くらいすごいと色々な人に頼られるんだろうな〜っていう感覚はある。これまで作ったことない楽曲を作ったみようと思った結実がエンターテイナー。共作としての面白さ。

エンターテイナー

エンターテイナー

  • provided courtesy of iTunes

ルーティーンとしての堀江晶太はどういうこと?やってもやっても達成感ない?っていう気持ちはない?
堀江:なんて答えようかな。やっていることに対しては全然思わない。自分みたいなのに仕事に振ってくることが自体がまず嬉しい。クリエイターとしてアーティスト、リスナーが喜ぶだけでいい。今思うと、飽きたなっていう思う側面性が出てきた。ずっとやることには限度があることに気づいた。

田淵:お金はもらえるけどなにをもって自己肯定するか?大体30代でわかるけど

堀江:自分もそうだった。

田淵:下手したら音楽自体を嫌いになる人もいるのではないか?好きだけどそれだと達成感はないのではないか?自分にも身に覚えがある。

堀江:それがあって、復帰後は絶対仕事の仕方をガラって変えていこう

田代:一回依頼を断られたことがあったけどあれはそういう時期だったのね。

田淵:スーパープレイヤーがゆえにというところがある。

堀江:なんとかしてくれるだろっていうものに答えられた感はある。

 

じんの10年その2

曲書いていない!!

じん:カゲプロの後。提供の後。疲れた。曲を書かない時期があった。

昔は誰にも求められなかったからこそかいたけど、求められるがわになるとある種喜ばせるために作ってる自分に悩む。
そもそも、自分の音楽のはじまりは他者の喜ばせばでなく、自分が好きな音楽をつくることになる。自分の中にあるものを他の人に感じてほしい。

LisaのRally Go Roundはカゲプロとちょい同時期でありながら、今までの作り方、考えかたが違っていた。

田淵:これ一番好き。全部これでいい。イントロ?でた。衝撃だった。マジですごい。

じん:姉っぽい曲をつくる。カゲロウデイズみたいな曲作ってって言われてもなんで?ってなる。あなたのためにはならないという感覚。今に至る発見。当時は使命感としてカゲロウデイズをつくっていたけどそれが嫌だということに気づいた。同時期の堀江晶太はその時期どんどん色々な楽曲だしてすごいのに俺はどうしたらいいのかという時期があった。その時に楽曲提供を受けた時の注文として「聞いた人が一息つけられるような楽曲」という依頼で悩んで書いた。それ以降は、依頼人の裏を読むようになった

 

田淵:2人の交流はどうだったのか?

 

じん・堀江:カゲプロ・kemu全盛の時代には名前は知っているけど交流はなかった。
堀江:東京の楽器屋の工房がマンションの一室にあって、たまたますれ違った。pgrの関係で言ったらたまたまじんにあった。こんなところで??みたいな。それ以降も実はそんなにはあってない

じん・堀江:よく会うようになったのは休養後。

田淵:自分の参考曲だされると嬉しい人そうでない人がいる。じんは好まない。悩む

田代:自分もハレ晴レユカイみたいな曲つくれっていわれた。コンペでもすこしでも越えようと思った。しかし結果的にパクリにしたような楽曲になった。越えようとするのがいいのか悪いのかがわからなかった。

 

堀江晶太:気にしない。rinsing hopeみたいなのでもいいよ。どっちでも大丈夫。リファはなんでもいい。周囲と反差しなければいい。プロデューサーと話ができない案件とかそういうのは受けない。ないけど。

 

田代:クライアントは作家に気を遣って、打ち合わせにこないときがおおい。あったほうがいい。そういえばコロナが流行り始めた時、Q-mhzが行った時、コロナの人数制限で全員は会議室に入れなかったことがある。

 

田淵:打ち合わせの後の話が一番作り上げることができる。話を聞いてみないとわからないので。そこに関してリファとどう付き合うのか? 今の自分だとは話すしかない。相手もそうだし。話してみると狙ってみることがわかる。リファだけでは受けてもどういうものが求められているのかが分からない。

 

じん・田淵:1stの人間プログラム大好き。

田淵:the back hornコピーバンドをusg以前にやっていた。そういう果てに出た作曲論が今回プレゼントする作曲虎の巻というデータ。すごい分量。曲をつくりはじめよう、作ってる人どちらが読んでも面白い。a4 pdf2枚上、とにかくじんは文章が綺麗。欲しい人は投げ銭で。

 

休憩中 質問を拾い上げるコーナー

じんさんへの質問

カゲプロで大人なのは誰?   

じん:作曲話でこれを話すのww

田淵:まぁまぁカゲプロのファンも見てるからさ。

じん:マリーかな。言われた始めた考えた感がある。人物設定の時には考えていない。

田淵:ストーリーを立てる時は、こいつがいなければっていう論理で作っていくと思うけれどなぜ増えた?
じん:ジレンマの数を増やしたいという考えがあった。aとbがあって、初めて成立するドラマ性が大事であった。相手の言ってることと、受け取り方との見解に似たものを感じる。ジレンマとジレンマのドラマ

 

ポケモン

じん:スカーレット ホゲータ

堀江:バイオレット ホゲータ

じん・堀江:この世の汚れを知らない感じがいい。

 

じん:全クリした。ストーリー最高だった。映画みたいだった。おすすめゲーム。今更すする必要性ないけどww。始めてからの人でも入門としてすごくいい。

じんさんトイレに行く。

田淵:じん君の「僕トイレいっていいですか?」って印象的なセリフ 。昔、wowaka、じんなどで飲んでいた時、周囲が年上のため立てていた時、申し訳なさそうに手をあげて「トレイいっていいですか?」という印象がある。どこからかがハラスメントかを考えている自分がいる。
田代:もじもじしている人に気を配るのは大切だよね。


じんがトイレから戻り。

田淵:いま、じんくんのトレイ話をしていたところ。

(wowaka時のエピソードを思い出す)
じん:あの時、切り出しづらく、落ち着いたところで「あの」っていったらみんながシリアスな顔になって、「こいつ大事なこと言うぞ」みたいな雰囲気の中で。「トイレいっていいですか?」って言った記憶がある。

堀江:豆乳ください。結構がぶ飲みする スーパーの豆乳を飲む。

以下、堀江田淵で豆乳話が続く

じん:糖尿のこと思った、豆乳のことねwww

田代:リードしないほうがいいのか。じん、堀江はいい味が出てる。


再開

俺の曲もっと評価されろサミット(作曲した作品やクレジットで関わった作品から選ぶ)

クレジット作品の中でも受けが少なかった曲

じんさん選出

1.はじまる。編曲歌詞メロディ全部一気にきめた。
2.パラレルロード ゲームのed    

堀江:この曲最高

田淵:こんなにいい曲が、、っていう印象
じん:大手元からではないが初心に戻った時に書いた。曲を書いていない時期をへて、足掻いている時の楽曲
3.プルメリア 奥井亜紀さん presents
じん:爆裂に大好きなボーカリスト

魔法陣グルグルポケモンの心のファンファーレで好きだった。

(因みに心のファンファーレの作曲は田代さん)
歌い手をお願いしてもいいという依頼だったので奥井亜紀さんに依頼してできた曲。

三曲ともメロディが主軸となっている。

田淵:ワンチャンあるぞっていう売れちゃったらどう?やったーなのか、うーんなのか。
じん:案外ない。もっと聞いていい。色々な人に聞いてもらいた。カゲロウに縛られずに聞いて欲しい。

田淵:どの案件でも作り手は全部等しく好きだからね。


堀江さん選出

1.T.a.o (じんさん作曲、堀江晶太はベースで参加)

田淵:クレジット的に相当金がかかってる。最高の楽曲。じんの楽曲の中で一番好き。凄さを改めておもった。

堀江:曲として好き。
じん:中国のボカロ提供。billbillからの提供。オファー時は存在はしっていた?→いいえ。楽曲のテーマ→おまかせ(時期的に曲書かないラスト時期)。自分でもこの曲はいいと気に入っている。

田淵:もっと知られていい。アニソン派の*1テーマ性にもあってる。元々もっていた冷えついた所と、暖かいじん(脱却)が交わった一曲。いつの間にかじんは綺麗なメロディが書いている時期があった。

堀江晶太は個人作品を出さなかったのでじんが思う、知られて欲しい堀江楽曲を選出。

2.乙女ハ強ク麗シク(じんさん選出)
じん→堀江氏が大好き楽曲。パチスロ楽しいと思っていた時に聞いた楽曲。メダルいっぱい出てくるやべえっていう時期。どっかできいたことがある匂い、こんなギターメロディ引く人そんなにいないぞと思って調べたらやっぱり堀江晶太だった。一時期どこでも本楽曲が流れていた。時期的には交流ないけど、一般メジャーで多角的に流れている堀江曲no1だと思う。

堀江:パチスロとはみたいな話。大当たりの演出。暴れてくれっていう感じだった。

じん:それは受け取った。どこのパチスロいっても流れてた。多角的にながれていたのはこれだけだった。これを聞いた時、ある意味ジャンク性が、どんな場所でも突き抜けてくる個性を感じられた。相当悔しかった。

(ギターのフレーズがよほど気に入ったせいか、なんでも口にして素晴らしさを語ってました)

 

堀江晶太 伝承(スライド)

新しい後輩と新しい種を蒔くという意思(繁忙期の後)誰かと一緒に音楽をやることが大切だった。悪い意味で自分の限界を感じていた。人間はセンス、キャパ全部に限界がある。しかしそれが悪いことではない。自分1人では見れないものを大切にしたい。

後輩に教えたことで、自分のDNAを遺せた気がする。
堀江晶太の弟子について
堀江:ネットで知り合った。休業中に友達からオンラインで楽器をひくアプリにいったら野良でいったらお互い名前も顔もしない人たちが、、、っていうことになった。
教えるし、遊んだりもするし。いずれまたっというのはある。

田淵:人とやる達成感は?プラスに転じること

堀江:まず、自分ではない自分の領域で近く話せるので、自分が発見できる。how toをするとき、俺はどういうするんだっけ?っという振り返りをする。

 

田淵:人の振り見て我が振り直せだね。

 

堀江:新鮮な情熱で向き合ってくれるのが嬉しい。情熱が加わることが面白い。自分にはないものをいれられる。喜んでいる時期の嬉しさをみてるときは嬉しい。ドキドキしている無事来な姿勢が励み。その感覚が好きだと思ってきた。音楽で仕事というのはサービス業と思っていたが、バンドにしたって、どう思ってもらえれればいいか、プロデューサー、アーティストが「堀江」にどれだけ頼んでよかったかなと思われることが大事

 

田淵:人間全て、誰もが、社会の役に立っているかという問う時がある。金のためか、名声か、名誉か以上に、知識、ミームとして社会全体に貢献した感がいいのではないかという。自分がやったことで世の中、社会に何かになっている。豊かになるための一番いい人生の選び方。そのおかげで音楽が嫌いにならなくて済んだ。

堀江:元々は小学校の幼馴染をびっくりさせたかったという動機で今がある。それは景色が変わった今でも同じこと。

田淵:クライアントが全俺の場合はどうつける?自己流があるのか?線引きの

堀江:そうならないようにしていた。実はフリーランス。色々やってるけど。理由は発注者とより、近いところで話せる。いずれこういうふうになりたいという自分の考えとしていたから。この人だったら分かってくれてるっていうターンになってる。堀江じゃくてもいいよってなってくる人選を選んでくれるようになった。田淵さんもそうだと思うけど

田淵:年代的にそういうミドルエイジクライスの時期だった。

堀江:はい、そうです。昔、田淵さんと会った頃、自分が20中盤ごろ、田淵さんが30代面白いと言われた。そうだった。

田淵:田代さん言われたことで今もそうだけど、20代は30代を楽しむためのツールである。本当に楽しくなった。理想な自分でこうなるのであろうってなったら本当にそうなった。

(話の感じとしては田代さん→田淵→堀江という流れでミドルエイジクライシスの脱却)
田淵:堀江晶太はこの後上り調子そのためには我々も頑張る必要がある。

じんの10年 第3期

ちゃんとした曲が作りたい。(パワポスライド)

ここ最近の話。同い年だから共有、リンクすることがある。じんは堀江とは違い感覚
どっかで1人でやらなければっという感覚がある。これまで色々な人がいたからこそ、そういう自我が生まれた。これを言わなくちゃっていう気持ちになったのが話。ここ数年、歌詞重要ではないと最近いわれるが、超重要である。口だけでいうのは簡単。だからこそ曲としての歌詞になる。

田淵:作詞も自分がしたいという欲がでてきたのでは?

じん:何で音楽をやっているか? まともな生活ができないからだろうという感覚があった。社会でたら死ぬという感覚を。堀江晶太の後で暗い話で申し訳ない。
音楽しかない、音楽だったら、普通の人よりも伝えたいことが伝えられる。それを痛感したのが最近。20代でいい思いをしすぎた。30代から地獄がみたい。

田淵:今回じんを呼んだ最大の理由。歌詞の書き方、メロディがある時変わったところがある。巧妙な楽曲になってきた。それはカゲプロにはなかった。Life is tasteyのとき、あれ、こういう人だっけ?という感覚があった。変化あった?

じん:一曲に使うカロリーが増えた。朝9時、17時に終わる。定時で終われるっていう。でもそれではダメだっていう感覚が必要で。今はずっと曲のことしか考えない。遊ぶ時は別だけど。脳内に、その曲のことから考えを離すことができない。楽曲と歌詞のマッチング性を聞いたら、理屈ではない情動になる。それが大事。

田淵:サブスクできくと、じん君に少しばかりお金が来るので、是非

じん:助かります

田淵:メロディの丁寧さ、書道的なやりかたか、一発目に手中するのか?

じん:何回もやり直すやり直し。堀江氏はどうおもうか?いい曲はわからない

堀江:俺もわからない。

じん:でも判断しないといけないところで、バオウザケルガ的な感覚が、、

堀江:好き嫌い、いい悪いは別。その場で最も相応しいものを選ぶ。

田淵:最初のロックバンドということに繋がっている

じん:30代は人生を犠牲にしていきたい。

田淵:もう一曲っていうのはvtuberの中ではむずかしいとおもうけど

じん:難しい

田淵:それでファインになるのは珍しい。何が相応しいっていうことと自分でないとできないものについて。系譜をたどり着くか、自分の原点かの折り合いの付け方は難しい。自分ができるものはこれしかないと開き直るフレーがある。

じん:好き嫌いでもなく音楽の良し悪しは聞く人だと思っている。楽曲を書いた時には「今一番なにをききたい」を意識する。飲み会とか全然行かない。断る

田淵:偶にライン帰ってこない時ある。が、それゆえにクリエイターでいられる。

じん:堀江晶太とは違う道を、、と思う。でありながら、似たようなエモーショナルを求めている感覚がある。

田淵:より音楽楽しめそうな感覚、音楽やってる自分が好きってことでもない??

じん:ちがう。難しい。生きたいからこそ、、、という欲求がある。

 

アニソン派 ゴーデンワード
田淵:じん、堀江にそれぞれ今日一番残ったワードを。

堀江:健康
小中の頃は意識しなかったが、最近そう思う。皆さんも大事に。

じん:心
感謝する。これまでの全てに。
スマホでの情報でなんでも入る時代、自分は心に住んでいる。自分一人なんだまずは。というところを大事にしたい。ノイズの多い世の中だけど自分の心を大事にする。

田代:やりたいことまでやる勇気
紆余曲折あって、辿り着いたこと、やめない限りその次がある

田淵:Tao生演奏ライブやりたい
堀江:一時期全部一人でやれるくらい盛り上がっていた。

_______________________________________________________________________
クリエイターからのスペシャルメッセージ じんと堀江への同業者から。
代読は吉田尚記(日本放送アナ)

堀江晶太様へのスペシャルメッセージ
大和
ボカロっぽいを完全に決めつけたのはkemu。
堀江の楽曲でギターを弾かせていただきた時に、何度も「このでも超えられない」と驚いた。天才レジェンドの堀江晶太い今後を期待


星 銀乃丈

堀江晶太の音楽は自分にとっての交差点。発見、もの、出会いを考えるきっかけ。
とたんに世界を変わる瞬間だった。自分では知り得なかった可能性に堀江晶太に気付かされた。新しい楽曲に取り組む様に勇気をもらった。音楽哲学がすごい。


栁舘周平

音楽の新しい歴史を生み出した。堀江晶太の影響で作曲を始めた。そういう人が自分の周りにもいっぱいる天才性と等身大の魅力を感じるシャンクスのような天才、カリスマ性がありつつ目指せる思考性が好き。みんな堀江楽曲が好き。

 

ゆうまお
ボカロ、エロゲ、アニソンのそれぞれで盛り上げをみせる堀江晶太堀江晶太の音楽は共感できる瞬間が多くある。仕事で関わるようになってから、一番ふってくれるようになった。感謝じんともそうだが、自分とのサウンド性が生み出せたことがよかった。
オタク的な会話もできる。楽しい。

 

じんへ

・瀬名 航
ボカロものとしてプロジェクトものが出やすくなったのはカゲプロの存在が大きい。
7th 9thの響きがおおい。参考している。高校時代は血肉になるほどじんサウンドが好き。

・星 銀乃丈

知ったのは中学生のころだった。当時はファンmvやアニメイトにいっていた。原体験として組み混まれている

・ゆーまお
ネットの文化の10年代以後、1人のメディア作家のパイオニア、wowakaにも共通するが、当時からしても異常な速さを提案をしていた。創作するパワーも大事だが、引き出す能力も長けている。表面的で薄っぺらい下ネタが好き。また食事とかに誘ってください。

堀江:下ネタの表現がすごいんですよね。
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上を受けてどうか

じん:盲目的にやってきたこと。返事があることが嬉しい。
田淵:2人がいることで、音楽家になる人がなった人がいるからいなかったことを考えると本当に偉大。

田代:ピュアを感じた。売れたクリエイターは高層マンションに住んでいる感じだったが、根本的に音楽をやる理由がピュアで勉強になった

 

次回のアニソン派10 
2022の2023年2月17日金曜日

堀江感想

すごい偉そうに話したが、音楽好きで音楽やり続けていたらこうなっていただけの話。健康でいさえすればなんとかなる。なるべき音楽を好きでいられるようにお互い頑張っていきましょう

じん感想
普段、スタジオで一人でもくもく。このように話を聞いてもらって嬉しかった。今後どういうふうに生きていくのかっていうのはこれからの楽曲で感じていってほしい。お互いいい人生を過ごせるようにいきましょう

 

感想

という感じでvol9のイベントは終わりました。実際に行けてよかったと思えるほど、まずイベントとして面白かった。堀江、じんという二大クリエイターの苦労話や意外な話などを聞けてとても満足でした。新しい発見という意味では堀江晶太が whole new worldについて言及したことと、じんが1970年代のプログレの影響を公言したこと。まさかにアニソン派でピンクフロイドやthe  whoの名前が出るとは思わなかったです。多分この2点においてあの瞬間、客席の中で堀江晶太がwhole new worldを挙げた事と、じんがプログレの影響を話した重要性や文脈を誰よりも理解できたのは自分だと思えましたね。mirage in augest(1m35s)にwhole new worldのメロディのそれが出ているといのは前々から感じていたし、じんのプログレにしてもコンセプトアルバムというのはネット時代以後カゲプロが流行らせたというのはありますが、元を辿れば英国で1970年代に流行ったプログレッシブロックというのがあるというのは前々から思っていたこともあって面白かったですね。やっぱりじん世代のクリエイターでもそういった古典からの影響はあるものだとしみじみ思いました。点と点を、作った本人が線として結んでくれた感じがしてそれはもう最高でした。じんさんに関しては自分が知らないだけというのもあるかもしれませんが、作家になるまでの経緯として十分に面白い話が聞けてその意味でも実りあるイベントだなぁと思いました。

 

最後の最後で堀江晶太御大から、ピックをもらいました。普通のピックかと思いきやよく見たら表面がkemuvoxxのロゴでサイン入りという豪華なもので一ファンとしてはとても良いものをもらったなぁという気分になりました。ベース弾くときに使いまくろうと思います。

堀江晶太(kemu)より頂いたピック

 

*1:いい曲だからこそ埋もれないで欲しい

ryo(supercell)の音楽性と作曲家論を考える part1

 これまでにsupercellで1本、EGOISTで1本

sai96i.hateblo.jp

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それぞれで特集というか総論した記事を出してきましたがそれぞれの枠組みの中でか音楽論を語れず、ryo(supercell)という大枠の総論には触れられずに大事なところを語り切れていなかったため、今回は作曲家ryo一点に絞ってあらゆる所から音楽性にふれる本当の意味での総括・総集編の記事になります。そのため枷なしであらゆる視点や考えを駆使して構築してきます。最推し作家でまたアクセスを稼ぐためのネタと思われるからもしませんが、そうではなくやり残した課題です。推し作家ではなくとも、作曲家を総合的に論じるのは非常に難しく普通なら絶対に手を出さない領域ではありますが、この記事を出さないと私の中での語り尽くした感といいますか、supercell、EGOISTの記事に加え、本作を合わせて初めてryo(supercell)がなぜあそこまで凄い作家なのかという源流に手が届くとおもっているためこの記事を書かないとラストピースが埋まらないのです。狂信者度が高いので偏見や媚びが沢山あります、別の作曲家を盲信されている方はご注意を。ryo(supercell)総論にして初めて分割という手段を取るので、全体図が見えるまでには多少の時間はかかってしまうと思いますがあらかじめご了承。

 

というわけで早速本編に移ります。一応、今回の趣旨を一発で理解するため範囲図をつくりました。今回は作曲家ryo(supercell)が誕生するまでの経緯を紹介する枠です。

今回は中核の作家性についてです。

 

ryo(supercell)の音楽の魅力・独自性というのは、大抵が量産型の邦楽的な典型的な「型」に当てはまらない楽曲を作曲する=洋楽の枠組みと言う点が非常に大きいし、そこが何よりの強みだと思う。なにしろryo(supercell)的な楽曲を作れる人がそもそも存在しない。その意味では私感、ここ20年の中の総合的な枠組みとしてもryo(supercell)の音楽を作るセンスは別格であり、唯一無二である。

(その過程で初音ミク電子音楽の発達というのも密接に関わってくるがその点については後述します。)

総合的な作曲家として大別した時でさえ、おそらく、ryo(supercell)の音楽性の性質を持っている日本人作曲家はほぼいない。ではなぜryo(supercell)がここまで特異的な作曲家であるのか。大体の人は(どんな大御所であれ)典型的なヒットソングの日本ポップスソングに影響をうけ、そこから作曲家になるため、そこから派生する人はいつまでたっても大枠のありきたりさからは抜け出せられない。当然意識的に日本のポップスを想起させるような曲もsupercell内ではいくつかありますが、主流ではないし、それらのネタ元も掘っていけば実は、、ということに行き渡る。

ではまず、ryo(supercell)の音楽的な特徴の大方を占めている洋楽チックという点について。そもそもryo(supercell)は洋楽を傾倒していた。ここまでそこらのアーティストでもざらにいるタイプです。それらと違う点は音へのディティールの研究。異常なまでの執着的なまでの拘りなどといった点にある。なぜか。ryo(supercell)が敬愛するミュージシャンにブンサテ(boom boom satellites)の中野さんがいる。この二人がインタビューにこのような節がある。

ryo:最初のシングルからずっと追いかけてきたし、自分の青春でした。もともとバンドでドラムをやっていたので、まずドラムが格好よくて好きになったんです。あの頃The ProdigyThe Chemical Brothersのようなブレイクビーツのブームがあったんですけれど、BOOM BOOM SATELLITESのほうがもっと格好いいと思った。特に、キックの強靭さとシンセベースのうねりは、それまで聴いたことがなくて、とにかくすごいと思ったんです。バンドでこういうのをやりたかったんですけれど、どうやっても無理でしたね。

ryo:確かに、ビッグビートとか、他のブレイクビーツのアーティストと全然違いましたね。それからようやく5、6年経って、日本だとNumbさんやRiow Araiさんを聴いて、ようやくデビュー当時のBOOM BOOM SATELLITESに近いビート感や音のニュアンスを持ったアーティストが出てきたと思ったんです。当時のRadioheadも、ビートの強靭さという意味ではBOOM BOOM SATELLITESの域まで達していなかった。時代の10年先くらいを走っていたんじゃないかと思います。

色々なアーティストの成り立ちというの見てきましたが、ここまで明確に分析をすることができて、当時のブンサテの音楽性をレディオヘッドよりも上とまで言い放ち、なおかつ、自分でも再現を試みるところまで行っている。後々、この凝り性のおかげで我々になかなか楽曲が届かないみたいなところも、もしかしたらあるかもしれませんがそれは別の話。

 

日本のミュージシャンの大半は歌詞に救われましたとか、楽曲が良いとおもって、自分でも作ってみようと思った。といういわゆる曲に感動し、それが起点となっていくというパターンが多い。ryo(supercell)さんも、いってみれば幼少の頃色々な音楽に救われているわけだが、これが公言している限り全て洋楽。主に70年代ハードロック系が多かった記憶。これも今にしてはのちの伏線みたいなものではあるが、しかしryoは仕事という意味では、メルトを投稿するまでは家電製品の店員をやっていたのであって全くもって音楽に関わる職にはついていなかった。本人が転職のタイミングでサウンドディレクターを志望、そのサンプルの一つとして作られたのがメルトであった。結果的にニコニコであのような形で受けてしまったが故に、今は総合的な意味での作曲家をこなしているという経緯。

ryo大学を出て、電気関係の営業の仕事を派遣で6年くらいやってたんです。それが本当にヘビーな職場だったんですよ。タチの悪いお客さんがすごく多くて、クレームがしょっちゅう入って、ときには土下座をすることもあって。それにうんざりしてたんです。そういう仕事が終わった後に、BOOM BOOM SATELLITESを聴くと、染みるんですよ。キックがとにかく強靭で、低音がたくさん入っていて。ヌルい音楽は聴きたくなくて、日々の感覚を忘れられさせてくれる音楽がないとやっていけなかった。横浜で働いていたんですけれど、娯楽といえば、カラオケと飲み屋とパチンコしかない環境で、そういう中で、初音ミクを手にして、モノが作れたというのが大きなきっかけでした。

BOOM BOOM SATELLITES × supercell対談 | CINRA (ソース元)

その意味では、純な作曲家を最初から志望しているわけでもなく、裏方の裏方であるサウンドディレクションであったことも、今のryo(supercell)サウンドを紐解く一因となっているとも考えられます。

 

 

次回は、ryo(supercell)さんが公言している影響元からそれぞれどのような形で熟していったかを簡易的に紐解いていこうと思います。恐らく、次回から5000〜1万字コース担っていくと思うのでご期待ください。

 

P.S

平沢進特集は絶賛書き起こし中です。こちらも乞うご期待。

出しました。

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さらに追記

いつか、じんとkemu・堀江晶太ver.も書きます。じんのほうはもう少し資料が揃えばいけます。kemuはまだ掴めていないことが多すぎるので当分は出せません。まぁちゃんとした堀江晶太論なんてこれまでに誰1人として書いた人なんていませんが。

 

更にさらに追伸(part2前半出てます)

 

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映画音楽駄話

生存報告的な意味も兼ねて。

 

最近はもっぱら、映画・ドラマの劇伴を聴く。元々、音楽の入り口と言う意味ではクラシック畑出身の人間なので、クラシック音楽の延長戦上にあるインスト型の楽曲によりハマりやすいということであろう。以前、ドラマ劇伴の魅力というタイトルで色々な人気楽曲の良さを素人なりに書いたが

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映画音楽の劇伴はもっと格別なもの、というより作曲者の敷居が必然的に高いのでよりレベルの高い音楽だなぁと改めて感じた。そして先月かなしいニュースが入った。

シンセサイザー作家の旗手であり、名作曲家ヴァンゲリスが亡くなった。自分のTLでは全くといっていいほど騒がれていなかったので、温度差を感じたがそれは別の話。

が、ともかくヴァンゲリスというクレジットを知らない映画好きはいないと断言できるほどこの人が作曲したものは素晴らしいのだ。オタクにカルト的な人気をほこり、日本の文化(特にアニメ)に絶大な影響を与えた、名作『ブレードランナー』の劇伴も彼。

One More Kiss, Dear

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Love Theme from Blade Runner

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Tears In Rain

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Blade Runner Blues

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この映画を説明するのはあらゆる意味で難しいので(このブログが映画ブログであればいくらでも語れるが、生憎音楽ブログなので)、あまり多くは書かないが、とにかくフィルムノワール、ハードボイルド路線を近未来のタッチで描いた、元祖、礎となった作品であるのだが、映画は音楽:映像で50:50の役割をもつと言われるように、ヴァンゲリスの音楽なくしてブレードランナーという映画が描いている世界観というのは絶対にない。

他にもヴァンゲリスの映画音楽は炎のランナーであったり1492 コロンブスがあったりする。個人的なおすすめはConquest of Paradise

Conquest of Paradise

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そして、面白いことに、この音楽性はブレードランナー以外にはあまり、踏襲されている音楽作品というのがそんなにはない(あまり映画音楽には詳しくないので全くないというところまで断言はできない)。その意味ではブレードランナーの劇伴であると同時にヴァンゲリスでしか表現できない世界がたしかに広がっているということになる。それを真似しようと菅野よう子がそれっぽい曲作ったりしましたが。まぁ本人にしか出せないと言うことが分かってしまう程度にはフォロワーレベルでしたね。

SPACE LION

SPACE LION

アメリカ産の映画は特にそうだが、感情の起伏をまるで数値化したような計算されたオーケストラ的壮大な楽曲もいいが、浸り方のOSTも有りであることを、聴いたことのない人におすすめをしたい。なぜないのかと言う点は生まれた所がギリシャだからというのは大きいであろう。ヨーロッパ圏の作家はアメリカ作家では表せない独特な魅力を持っている。

(逆もまた然りだが、米映画音楽はありふれている故に、当たり前の音楽になりすぎた)

これもまた既に亡くなっている作家であるが、ヨハンヨハンソンという作曲家がいた。

ドゥニ・ヴィルヌーヴという、最高峰の映像作家と手を組み、ボーダーライン・メッセージ・プリズナーズといった作品の音楽を担当した。両方とも名盤

音楽が好きなら絶対に聴け

Decyphering

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Kangaru

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The Beast

The Beast

Desert Music

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Prisoners

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The Candlelight Vigil

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Prisoners

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そしていわゆる他にはない音楽性というのをここにも感じた。それに近い記事を例外的に書いたものがあるのでよろしければ。

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そしてヨハンヨハンソンはアイスランド出身。やはり生まれた地によって音楽性というのは決定的なまでに違うと言うことがわかる。ある種の音楽ミームの見地でいえば、ヴィルヌーヴが監督したブレードランナーの続編(本来、続編を作っていいような映画ではないのだが)2049で、彼が劇伴を担当すべきだった(実際に作品作りまで行っていたのに、途中降板と言う結果になり、とりあえずこいつなら間違いないだろうという成り行きでハンスジマー(パイレーツのメインテーマの人(クラウス・バデルトとの共作))が

彼こそが海賊

彼こそが海賊

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担当するわけがだ、ここはヨハンヨハンソンで突っ走るべきだろうと今で思う。非映画音楽作品を聞いても、アイスランド出身者でしかかけない卓越した音楽力というのがある。

フライト・フロム・ザ・シティ

フライト・フロム・ザ・シティ

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オルフェ賛歌

オルフェ賛歌

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  • クラシック
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塵の山

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結局DUNEのOSTも一流作家が擬態:ヨハンヨハンソンしてみました。という形でしたし。いや素晴らしかったが(それはそうとpart2たのしみですね )

(ハンスジマー個人が小説duneの大ファンだからということもある)

Ripples in the Sand

Ripples in the Sand

Armada

Armada

Armada

Armada

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My Road Leads into the Desert

My Road Leads into the Desert

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この記事で伝えたいのは、映画音楽といっても一辺倒ではないということを是非知っていただきたい。ラミンジャワディ的なサウンドや、ジョンウィリアムズの壮大な音楽もいいですが、他にも素晴らしい映画音楽作家はたくさんいるバーナード・ハーマンとか、知られてないけど凄い作曲家ですし、コルンゴルトの嵐の青春はいわずもがなSWのメインテーマの元ネタ(この手の曲はロマン派の影響が大きのですが)それはこっちの記事へ。

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今回書ききれなかった点はいずれ映画音楽の魅力的な記事にてより深く広く書いてきます。では今回はこの辺りで。

 

 

七号線ロストボーイズ (amazarashi)感想・レビュー

さて、私がamazarashiというアーティストをそこそこ好きだということは以前の特集記事を読んでいただければわかると思う。

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ここではかなりの熱気をもって何が良いのか、何に惹かれるのかという、ある種一つの動機付けを力点にして書いた。そのフック、というよりかは装置としてアルバムの遍歴を追っていった。各ディスコグラフィー上、どういうテーマ性があるのか、そして歌詞にどういった"仕組み”や"ネタ元"が入れ込まれていてそれを昇華しているかなどを中心に書いていった。その中でこう感じた。ボイコットの時点で「秋田ひろむはこんなものか」という感情と、「まだいけるはず」という期待の二点が混じった。初期のエネルギッシュさが莫大なminiアルバム通して夕日信仰を生み出し、社会性・音楽性という意味で頂点を極め、次作では視点誘導的なポジションで方向性は違うが、前作に劣らないというなんとも絶妙な作品を残してくれた。その後、地方都市のメメントモリ、ボイコットとなるわけだがどちらもいまいちであった。というより一長一短に差があったのだ。一長を挙げると音楽性と歌詞の総和の濃度が高いメメントモリと、amazarashiが扱うテーマにしてはこれ以上ないほどぴったりなボイコット。一短は一長をやりきれていないという反側的。聴いたことがない人のために分かりやすい例えをすると村上春樹の『ダンス・ダンス・ダンス』と『国境の南、太陽の西』を連続して読んだ感覚とでも書くべきか。それが故に、私はamazarashiは次のアルバムでここを乗り越えれば夕日信仰クラスのものが来るのではないかという予感があった。だから事前に出ている曲なども一切聴かないようにしていた。アルバムを通した総体としての感動を損いたくなかったからだ。

 

そして待ちに待った新作アルバム『七号線ロストボーイズ』が世に放たれた。

七号線ロストボーイズ

七号線ロストボーイズ

  • amazarashi
  • ロック
  • ¥2139

 

では本作はどうであったかというと

暫定位最高傑作

ここにきて秋田ひろむはやってくれました。久々の名盤を出してくれた。

理由はいくつかあるのだが、長々と書くには時間が足りないので端的な要約とこのアルババムがどうなのかを書く。

その1.ハズレ楽曲がない。

  • どの曲も良曲~名曲の域を保っている

その2.アルバムテーマに対して一貫

  • 前作、ボイコットの時に空気のような存在として収録されていた夕日旅立ちの様なこのトラック必要か?という謎の構成ではなく一貫している。

その3. 11曲という比較的コンパクトなトラック数でアルバム世界観に無駄がない

  • 名盤の中にも1-10で終わっておけよ、もう完結しているという状態から2~4曲続けられると蛇足になるのでそこまでの感動が薄れるという、クリエイターのやりすぎ感が本作にはなく、きっぱりとアルバムの世界観を1~11のトラック線で描き切っている

その4.過去楽曲を彷彿とさせながら、それらを通った上での進化形として昇華

  • 過去曲の焼き直しという見方もできるが、どんなアーティストであれ10年も続けていれば『型』という〜節が出て当たり前なので、それをいかにアップグレードしているかという視点で聴いた時、本作は過去曲ほ彷彿とさせつつも、今だから作れる楽曲群になっている

大まかに書くと以上の通り。

 

ではそれぞれ1曲単位で所感を書いていく。先述の通り、リリースから日もたっていないいないため、生煮ではあるがそこは容赦していただきたい。

トラックリスト(収録順)は以下の通り

 

  • 感情道路七号線

感情道路七号線

感情道路七号線

  • amazarashi
  • ロック
  • ¥255
  • provided courtesy of iTunes

これまでにもアバンタイトル的な役割を冒頭に入れてきたが、いまいち乗り切れない曲だった。がしかし、今作では思いっきり重低音メインで歌詞も重々しい単語をどんどん組み立てていっている。これは初期のリリックの鋭さに通底する。

生きるために死んで、享楽にえずいて欲しいのは機関銃 恐れと己の顔面を撃ち抜いて

the・秋田ひろむリリック。こういう歌詞をamazarashiというアーティストの曲で聴くことがどれだけ気持ちのいいことか。そして最後に近い歌詞

大切なものは変わらず手の中、毎夜確かめる変わらず今日も手の中

こじつけかもしれないが、「手の中」というフレーズは意識的に使っている。なぜかといえば、この表現はというと、どうしてもブルーハーツの『未来は僕等の手の中』という楽曲を想起してしまうのだ。

未来は僕等の手の中

未来は僕等の手の中

  • provided courtesy of iTunes

そしてブルーハーツと秋田ひろむとの関係はもはや言うまでもない。このようにアバンでしかない1曲目からエッセンスが大爆発しているのだ。環状と感情もミュージシャンのセンスとして抜群。

  • 火種

火種

火種

  • amazarashi
  • ロック
  • ¥255
  • provided courtesy of iTunes

イントロはピアノとビート掛け合い、そしてAメロで存分にギターをならしてメインのプロットはリビングデッドで進行。しかし、あれ以上に優れている構成をしていて、つまりは総和として色々な楽器が重なり合い、最終的にポップスソングとしてバランスが取れている。いってみればポップロックとこれまでのamazarashiの音楽との融合体。そしてサビメロディも秀逸。2m35s以降の間奏の入り方からラストサビにいくまでの過程もこれまたamazarashiでしか聴けない節が炸裂。編曲と作曲が見事に調和しあった圧巻の1曲。

  • 境界線

境界線

境界線

  • amazarashi
  • ロック
  • ¥255
  • provided courtesy of iTunes

実は全トラックの中でも最もアップテンポであり秋田ひろむが書く楽曲として明るくも切なさが残るトラックだと思う。過去にはフィロソフィーなどの習作を経ての本作。

存在意義はいつだって自分以外

こういうアフォリズム的でありながら、歌ものとしての表現にとどめるフレーズが久しぶりに秋田ひろむの歌詞で感じられた。

ロストボーイズ

ロストボーイズ

  • amazarashi
  • ロック
  • ¥255
  • provided courtesy of iTunes

景観的な、そして「あんたへ」的な応援歌でありながら「雨男」的、歌詞の単語が重々しい。そして生々しい過去の描写。

少年は闇の中、金属バットやカッター、ナイフとハサミでは切り裂けない闇がある

少年は闇の中、10年経っても闇の中 襲われる「あの頃はよかったよな」

1番、2番歌詞を抽出してみたが、伊達に歌詞重視の作家ではないことがわかる。

テーマ性というか、秋田ひろむが如何に言葉としての表現者の使い手であるか、という点について尽くした作家性あふれる一曲。タイトルのロストボーイズという絶妙なラインも含め全てが良い。単曲の一推しベストは間違いなくこれ。

  • 間抜けなニムロド

間抜けなニムロド

間抜けなニムロド

  • amazarashi
  • ロック
  • ¥255
  • provided courtesy of iTunes

ニムロドというと、旧約聖書のキャラクターの一人ではあり、神に挑戦し、天にまで到達しうるバベルの塔を建造した人としても名は定着しているが、私の中でこのキャラはダンテの神曲の地獄編の9圏で裁かれるニムロドだ。ここまで書けばある一枚の挿絵を想起する人も多いだろう。裁きの内容も中々で

奴の言葉が他人にまったく不可解なように、奴には他人の言葉はいっさい不可解なのだ

f:id:sai96i:20220413214858j:plain

角笛の巻きついたニムロデ 挿絵画家: G・ドレ

まぁここら辺は実際に読んでください。どこにでもおいてある名著ですし。

まぁニムロドといえばこのようなイメージがあったので「間抜けなニムロド」というタイトルでどういう曲を書いたのかという思いで聴いたのですが、やはりというか神曲におけるテーマを引っ張っていると感じました。それが顕著だなと思ったのがこの部分。

背丈は語彙を飛び越して 分からずともなお喋れ

ニムロドという素材を持ってくるところや、それを用いて書かれるamazarashiワールド

愚かさも時には強くなる、もしかしたらだけど

が展開されるという不思議な一曲です。

  • かつて焼け落ちた町

 

かつて焼け落ちた町

かつて焼け落ちた町

  • amazarashi
  • ロック
  • ¥255
  • provided courtesy of iTunes

つじつま合わせに生まれた僕等の歌詞を後継している、今のamazarashiだからこその一曲でしょう。歌詞がつばつばとリスナーの耳を切り刻んできます。

花芽吹いて森が茂って、人が増えて集落となってそれを戦火が全部さらって

それに泣いてまた立ち上がって

という大きな視点でみる歴史観的なもの歌詞にしているというのはまさにつじつま合わせの全体に仕掛けられたあの歌詞的であることがわかる。

歴史は繰り返し、土だけがそれを見ている

ここも、通じる部分だし

人と人とが家庭になってそこで僕ら産声を上げて

という言い回しもやはり秋田ひろむ的である。全ての歌詞が良い。とにかく聴けとしか言いようのない楽曲。ロストボーイズに並んで本作における名曲です。

  • アダプテッド

アダプテッド

アダプテッド

  • amazarashi
  • ロック
  • ¥255
  • provided courtesy of iTunes

こういうキャッチャーなフレーズをミニマル的に展開する曲もアバン楽曲同様、これまでにも多々ありました。それらの中でも優れているところはコーラスの差し込み具合。ここまでの決まり合いが決まっている楽曲も久々なのではないか。ベースの動きからも分かる、楽曲自体は手堅いポップソングではあるのにもかかわらず、やっぱり歌詞と展開の仕方をコントロールしきっている。タイトルは直訳で改造、改作。リピートしがちな一曲です。

戸山団地のレインボー

戸山団地のレインボー

  • amazarashi
  • ロック
  • ¥255
  • provided courtesy of iTunes

全体的に「もう一度」だか、これも楽曲的にはこちら圧倒的に良い。

失敗や困難だらけの僕らだから、僕らだけの景色を描けるはずだよな

という歌詞はあんたへにおける

あなたらしい人生ってのはあんたらしい失敗の積み重ね、一つ一つ積み上げては僕等積み木で遊ぶ子供みたい

の変化球と言える歌詞であろう。

虹が架かった。道は繋がった

これはスターライトにおける涙=通り過ぎ駅と同じ効能ですね。

ちなみに戸山団地ってなんじゃろかということでgooglemapで検索をかけたところここの範囲をさすそうです。ちゃんと青森環状線野内線があるのが、地産地消な感じで良いですよね。この曲が作られたのはかなり前だそうですが、それを今になってあらゆる編曲を重ねてだしたことがプラスの作用になったなぁと思います。過去に作っていた曲だからといっても、往々にしてタイミングと編曲で化けるものですし、実際我々が聴いている人気amazarashi楽曲はリリースよりかなり前の段階で書かれているものが多い。

スターライトや隅田川などはその典型だと思う。無編曲版も味があって良いですよ。

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googlemapよりスクリーンショット
アオモリオルタナティブ

アオモリオルタナティブ

  • amazarashi
  • ロック
  • ¥255
  • provided courtesy of iTunes

こんなにチルい音楽をamazarashiで聴くことになるとは思わなかった。しかもそれを青森オルタナティブを敢えてのカタカナというのはダサさもありますが、ラブソングの時代からあるタイトルネーミングだと思えばまぁいいでしょう。本作もまた力強いフレーズがある。

生きている限り何かの途中

であったり

人生変える何かにも始まりはある。それが今日じゃ駄目な理由は一つじゃない

象徴的なのはラストの

僕らはずっと途中

という歌詞でしょうか。

  • 1.0

新たに刻まれたamazarashiの名曲

1.0

1.0

  • amazarashi
  • ロック
  • ¥255
  • provided courtesy of iTunes

もともと、タイトルからして絶対気合いの一曲でしょというのは感じられるわけですが期待にちゃんと応えたくれた。1という数字を「あなた」という言葉と組み合わせるところや、歌詞の語尾を↓で締めてくるのも粋だなぁと思ったり。前回も気合の入った曲でいうと「未来になれなかったあの夜に」とかはまさにそうだと思うのですけど、個人的にこれはタイトルにテーマを出しすぎだと思うんですよね。あの言葉を楽曲の中の歌詞として初めて聴けたらまだよかったが。何がやりたいかをタイトルでバーンと出されては、「仕掛けられた楽曲」でしかない。そういうもどかしさが1.0には一切ない。そしてクオリティもやっぱり抜群。

寄せては返す過去と未来

今作における歌詞の威力ってこれまでにないほど強力だと思うんですよね。

刺さる刺さらないの有無というより「秋田ひろむ」だからこその表現力の集大成という意味で。考察の領域を外した、別概念との突き合わせの感想なんですけど、

友達も学校も家族も社会も恋人も世界との通な狩りが煩わしかった 僕らを縛りつけていた無数の糸は繋ぎ止めるものだった。この世界へと

これ、バックミンスターフラーテンセグリティ構造を音楽の歌詞で表現しましたみたいな感じで好きです。ライブとか行ったことないですけど、そういうタイプの曲ですね。

 

メッセージ性と秋田氏の歌唱の力強さが顕著な楽曲の分、生で聴いたら迫力が凄そう。

  • 空白の車窓から

空白の車窓から

空白の車窓から

  • amazarashi
  • ロック
  • ¥255
  • provided courtesy of iTunes

これって散々言われてることだと思うけど全体的にchameleon lifeまで戻ってない?と考えたのは私だけか。4m20s~なんて15とかでも聴いたぞみたいな。「長い夜超えて〜」のところを彷彿とさせる。何が感動的ってそういう時代の音源をamazarashiの、それもアルバムの締めに持ってくるような立ち位置の楽曲として落とし込んだこと。

楽曲的なところだと、15的なギターメインの楽曲でありながら、気がついたら

またな、またな また会えるよな、もう無理かもな もう無理だよな

をあの曲調で聴いているところ。これ秒数てきなところで言うとちょうど半々なんですよね。前半アップテンポで後半がローテンポで、最後またアップテンポに戻るという絶対計算して作られた構造。そして後ろになればなるほど「あ〜これは過去曲でいうあれだ」みたいな一種の歌詞の走馬灯的なものがファンであればあるほど巡ることができると思う。

僕にとって彼は景色で、彼にとって僕は景色で

というのは無題でいう「変わっていくのはいつも風景」というフレーズを想起させる。こういったファンであれば誰でも感じ取れる「この歌詞はあの曲との対比で考えられる」余地を残した歌詞を書いている秋田ひろむの言葉の表現力は凄い。言い換えてみたらこう、という見方としても本楽曲の歌詞として成立しているからだ。

そしてそんな余韻に浸らせてくれた状態でアウトローを締めてくれる。なんて引き際の良い楽曲でしょうか。

 

 

 

総括&その他雑語り

 

以上、七号線ロストボーイズを生煮えな感じの状態であるにもかかわらず書きました。

なぜ中途半端な状態で書いたのかというと、それほど本作が素晴らしかったから。それを共有したいがためにまずは自分の中でのファーストインプレッションを共有したかったためです。そして本作を知らない人はぜひ聴いてください。絶対に損しません。

 

正直な話、このクラスのアルバムを出されては次のハードルがかなり上がります。おそらく本作以上のアルバムは10thアルバム以降にならないと越えられないでしょう。特別視するわけではないがamazarashiは歌詞を重んじるという意味合いのアーティストであるがために、求められる領域というのが少し特異である。しかもそれをメジャーの場でやっているのだから、より高度な作品を出さないとファンもそこまで満足しきれない。初期の棘がありまくりのミニアルバムを出された後ではいかに秋田ひろむといえど厳しいものがあるなかで、これまで今作含め6枚分アルバムを出してきているわけだが、内,3枚は疑いようのない名盤と考えるとやはり7.8.9枚目が中途半端になる可能性のほうが高いように思える。まぁマイナスなことを書いてもしかたないので総括はこの辺で。

 

雑語り

このアルバムの完成度を考えるとあからさまなamazarashi派のフォロワーバンド君であるである某、神様〇〇はどう出るだろうかと考える。意外にもデビューしてから今年で6年という事実あっちはあっちで独自の世界を出して青春脱出速度などの名曲を出しているが、このアルバムをNeruが聴いて(1ファンという視点で考えれば、初日に買って(あるいはストリーミングで聞いて)エッセンスをちょっとでも汲み取ろうとしているに違いないので)どういうアルバムを出してくるかが(1stから今年で3年目なので2ndがそろそろといった時期)楽しみである。まぁバンドフロントマンである彼の作曲がメインになる場合、ちょっと事情は変わってくるが、作曲能力的にはまふまふ<Neruというのは疑う余地がないのでそれはないでしょう。

 

 

 

※本記事は公開以降、自分の中で考えがまとまり次第、記事の体裁をたもつための随時補足・追加します。