2020年の年末に第一期が放映されたテレビドラマ『岸辺露伴は動かない』は大人気となり、三期まで制作された上に映画『岸辺露伴 ルーヴルへ行く』が作られるまでの大人気作品となった。しかもルーヴル美術館の撮影許可が降りるという国内映画では二つ目という偉業をさりげなく成し遂げている。(尚、本編ではそんなに映らない)
正直映画は作品の持つテイストからしてテレビドラマの尺がベストであるという認識を再確認する程度のものでしかなかったと思う。例外的にエンドロールで大空位時代を劇場の音質で聴けたという意味では1000円程度の値打ちはあった程度に収まるのだが。
それはさておき、『岸辺露伴は動かない』の原作は『ジョジョの奇妙な冒険』のスピンオフ作品として描かれた作品。短編集にも関わらず、あらゆる引き出しを使い約40分の尺で視聴者を楽しませる作品として活かされた点は製作側からすれば色々あると思うが一視聴者的にいえば、作品の良さに多いに貢献した要素といえば小林靖子の脚本と菊地成孔による劇伴音楽の二点が特に優れていたと言わざるを得ない。別個のエピソードは単体で成立しながらも全話をごく自然に連作として落とし込む作法は流石だった。まず話の面白さとして抜群に優れていることは確か。しかしそれ以上に自分が感動したのはやっぱり音楽だった。エンディングテーマ兼メインテーマといえる「大空位時代」が流れた瞬間に誰もが音源を即座に求めたはずである(この効能についてはあとで言及するとして)。しかし、現実は非情でドラマが終了しても音楽が発売されることは暫くなかった。これは全視聴者がもどかしさを感じずにはいられなかったであろう。自分がまさにそうだ。そして、つい最近になって劇伴集が世に放たれた。
つまり大凡3年待った上での待望のOSTであることを踏まえると随分と待たされたなと思います。内容については「素晴らしい」の一言しかないほど名盤というに相応しいアルバムである。
劇伴についての純粋な気持ちで制作事情や背景等は菊地さんが書かれたライナーノーツを読む方が100倍楽しいので、単純に楽しみたい方はここらへんでブラウザバックをすることをお勧めします。文筆家でもある菊地成孔さんが事細かにあらゆる点について書かれており、自分のような素人がそれらに+αで補足的な追加文章を書いても製作者が書く文章以上の面白さはないので。
第一印象の所感としては、新音楽制作工房というグループに所属するの方々一向が作曲したものも数多く、それぞれ味のある楽曲がある上で代表の菊地成孔御大が手がけているので、それはもう名盤という他なりません。
なにせアニメ劇伴では『
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では、『岸辺露伴は動かない』のOSTはどういう補助線を引いて音楽を楽しむか。音楽としては「過去の作品を聴いていれば新鮮味はない」と言えることもできるがそれはあまりにも感想として味気ないわけです。そんなことを言い出したら久石譲音楽や川井憲次音楽、平沢進音楽など映像作品に縁のある作曲家の音源だってそうだろって話になってしまう。そういう平凡さで片付けるのではなく、劇伴音楽である以上はやはり作品とをリンクして考えるべきである。
『岸辺露伴は動かない』という作品の魅力を三つの単語に集約するのであれば「怪奇」「謎」「能力」大凡このようなものだろう。これらの要素が作劇に集まっている。
その上で音楽上の作風で採用されているものを三つ挙げればそれは「ジャズ」「前衛」「電子」(+αで弦楽器の味付け)を採用しているのは間違いない。中でも作劇上の「怪異」というモチーフに対して音楽のアプローチに『前衛』が入っていることは注目すべき点である。言ってしまえば有名どころで、劇伴的にも分かりやすいところだと『エクソシスト』とかああいう映画で『Tubular Bells』
が採用されたことからも分かるように、不気味なものを演習させるための装置として前衛にまみれたテイスト音楽が使われているのである。そしてそうしたアプローチはやがてアニメにも表現技法として伝播する。具体的にいえば『デスノート』がそうであった。メインテーマの『Death Note』
はギターとピアノのメロディで気づきにくいが、やっていることは繰り返し、つまりはミニマル音楽であるし、良し悪しでいうと悪しで測られることが多いが『Lのテーマ』
が『Tubular Bells』のオマージュ作品であることは寧ろ作風を考えれば至極当然のアプローチであると言える。そして『LのテーマB』
を聴けば、もはやパロディとか下書きでなぞった作品云々以前にミニマル音楽基調していることが理解することができる。そしてこれは変奏として『黒いライト』『ニアのテーマ』という劇伴にも繋がる。
なぜなら『デスノート』の作風も『岸辺露伴は動かない』における三要素である「謎」「能力」「怪奇」という合致するものを持ち合わせているからだ。『デスノート』にこれを置き換えるのであれば「キラ事件」「デスノート」「死神」ということになる。実際に『デスノート』の劇伴の全体スタイルはやはり前衛であり電子音楽のトラック『緊張』『期待』『ヨツバグループ』
もあれば、弦が主となって情緒的なメロディでありながら展開は前衛といった作品『Low of Solipsism』もある。
そして何よりも前衛というスタンスが滲みに出ている『時計の針の音』
までいけば音楽が作劇に合わせた前衛音楽を作っているのは自明である。また、シャフトが製作した西尾維新の<物語>シリーズに対する劇伴の仕組みがそうだった。シャフト作品における<物語>シリーズと前衛音楽については山ほど語れるが、それは*1某雑誌に寄稿したのでそちらでご確認ください。気になる人はタップ
アニメという媒体でしか奇抜な表現を知らない場合、逆転現象でアプローチを真似ているという捉え方をする人も一定数いそうですが、それは大昔からある手法なのだ。確かに作家・作品的には西尾維新とその作品の方が後釜なわけですが、映像化は先んじていたし、実際映像表現としての<物語>シリーズは破格の作品である。しかし『岸辺露伴は動かない』のテレビドラマにあたって、演出的に<物語>シリーズを参考にしたからアプローチが同じであると一応に断じてしまうのも違う。実写とはいえ、題材的に先行した一連のアニメは参照リストにもしかしたら入っていたかもしれないが、そこから直接輸入するほど作り手も安直ではない。要はアプローチとしての不気味な作風をもつ作品は必然的に前衛なる音楽を捻出せざるをえないということだ。それこそリアルタイムで『エクソシスト』といった作品を見た人からすればその点の演出は前衛路線と相場が決まっていると思う人もいるが、そうしたバックボーンを理解した上で現在の映像表現を見るというのは中々手が届くようなものでもない。そのため大多数は『岸辺露伴は動かない』のドラマで描かれた世界観と音楽にある種の洗礼を受けた。そうでなければ劇伴がこれほど待望されることもない。
前衛は音楽単体だとアウトサイダーアートのような感じで一部受けしかしないが、映像との組み合わせだと化けることが多い。その最たる例であり最大の貢献者が久石譲。
本筋とズレるので詳しくはこちらの記事を参照していただきたいが
一応前衛音楽を例にとって簡易的に説明をすると北野武映画ではデビュー作『その男、凶暴につき』のころからエリック・サティの『グノシェンヌ第1番-Lent』
をいい感じに薄めにした音楽がメインテーマでした。そしてそこから、北野武監督が劇伴音楽作家に久石譲を選択したというのはこの上ないベストディレクションだった。それが『sonatine』や『HANA-BI』『菊次郎の夏』
といった作品で多いに活かされ、それらの劇伴は今でも強度のある音楽として古くならず残っている。スタジオジブリ作品の劇伴でミニマル音楽は映像的に有効ではないが、『風の谷のナウシカ』のオープニングは気づきにくいが実はミニマルであった。
『もののけ姫』『ハウルの動く城』『崖の上のポニョ』では重厚なオーケストレーション、というよりもドヴォルザークやワーグナーを思いっきり引用していたこともあり壮大、あるいは荘厳なるテーマ音楽として楽しめるし、『千と千尋の神隠し』では誰もが本編の映像がなくても「あの夏へ」
を聴くと、条件反射レベルでとても悲しくも儚くそして美しい情景が浮かび上がってしまう、そんなメロディアスな劇伴に満ち溢れているため、久石譲の音楽=ジブリ音楽と錯覚してしまうのも無理ないが、久石譲の本流はミニマルであることを考えれば、映画劇伴や作曲家としては北野武作品の音楽の方が圧倒的だ。
では実際に『岸辺露伴は動かない』における劇伴の感覚を拾ってみる。音楽は元来聴くものであり、文章で再現するのには限界があるためしっかりと劇伴を聴いてほしいのですがなるべく地の文でもわかりやすい感じで書いていくと、『大空位時代のためのレチタティーヴォ (叙唱)』では弦の緩急で世界観に引き込み『明日きっと、晴天から降り注ぎ、わたしを支配する美しい響き』『海亀が陸上を、野牛が水中を歩む』『ピアノソナタ一番』というタイトルでは、決して「ソナタ形式」を守っている作品ではないという点、そして楽曲もアントン・ウェーベルンさながらのアナーキーな前衛さを展開した思えば『電子音による空間彫刻』では電子音をメインに特有の音を展開の楽曲もあるし、タイトルがパロディ(これは菊地成孔作品に通底する一種の作法ではあるが)の「去年マリエンバートで」では、映画『去年マリエンバートで』からのイメージソースから想起させた形のオルガンの楽曲等があり、どれも昔ながらの文法に沿ったアプローチとして前衛を採用しているからこそである。このように作中の劇伴として前衛を展開した上でエンドロールが『大空位時代(TVシリーズver.)』が流れるというのは、本編的に形容するのであれば謎が解けた後の浄化としての音楽であるという見立ても可能である。というより間違いなくそうした感覚で楽曲を取られているからこそ、『大空位時代(TVシリーズver.)』『大空位時代』を聴いた視聴者は全員この楽曲を追い求めてしまうのではないか。単に曲がいいからというのも当然あるが。散々事件に対する謎が提示された後の解決パートで『知覚と快楽の螺旋』
が流れて福山雅治が所構わず無駄に数式を書く『ガリレオ』シリーズ同様に。
これまでの作品群と『岸辺露伴は動かない』を含めて、先に挙げた三要素を持ち合わせた作品群の劇伴を展望すると全て同じアプローチをとっているために、それらの楽曲にはいい意味で統一されたミームのようなものが内在されている。もう一度繰り返すが、菊地成孔音楽の過去作品を聴けば『岸辺露伴は動かない』でもアプローチそのものは変わっていないが、映像との相互作用としておそらく過去のタイアップ作品以上に型に合ったのは前衛音楽が「謎」「怪奇」「能力」といったある種説明がつかない畏怖すべき存在なるものを扱っていることが大きい。そこに大いなる感動を抱いた人も多いはずだ。昔からあるアプローチが現代版としてアップデートされた形が少なくとも2020年代の今では『岸辺露伴は動かない』が極地であろう。そういった目線を入れた上で、作品をみてその上でサウンドトラックを熟読ならぬ熟聴し、音楽と映像のあり方というのを今一度考えると新しい発見があるかもしれません。ちなみに自分は『岸辺露伴は動かない』のドラマ全体をみて思ったことは、今の時代なら京極夏彦の『京極堂シリーズ』をテレビドラマで展開することは可能なのではないかということだ。大昔に実相寺昭雄が『姑獲鳥の夏』を撮り商業・作品の両側面で着地に失敗したという前例があるが今一度、京極堂シリーズを音楽込みでしっかりとした文脈にそった形で映像化すれば原作の面白さは確約されている以上、一定の評価を勝ち取れるのではないかと勝手に推察したりしています。脚本はそれこそ小林靖子が最適ではないか。何故ならアニメ版『デスノート』でも幾つかの話数を担当し、『岸辺露伴は動かない』の『六壁坂』の中で江戸川乱歩の『芋虫』や横溝正史タッチな空気を脚本に落とし込むだけの力量があるだから寧ろ、脚本家としてのキャリアを考えれば当然と思ったりするですがいかがでしょうか?原作は鈍器本で尺は十分すぎるほどあるし料理の仕方でドラマの作り方というはいかようにもできるのではないかと思ったりするのですが。仮に実現したと仮定して重要になるのは作品イメージを支えるに足りうる音楽が要になってくるはずである。再三になるが、これまでの成功した『怪奇』『謎』といったモチーフの映像作品には必ず音楽がそれ相応の文脈を踏んだ作品を作った上で成功しているので、そこを押さえることができる音楽家にしてほしいなとか思ったりします。
誰かが講談社より映像化権を勝ち取って、見事に映像化すれば『岸辺露伴は動かない』に比類する作品になると思いますので、誰かよろしくお願いします(丸投げ)
以上、前衛音楽の有効性についてでした。『岸辺露伴は動かない』の作品および音楽が今の映像化表現のトップレベルであるということが少しでも伝われば幸いです。
12/1に開催されるイベント「「岸辺露伴は動かない/岸辺露伴 ルーヴルへ行く」オリジナル・サウンドトラック【完全生産限定盤】発売記念スペシャルトークイベント」の抽選に当たることを祈って締めたいと思います。どうか100人の中に入りますように
それでは。
P.S.
無事、100名に中に入りました。
なるべく菊地成孔音楽のトークを網羅できるよにレポート取り頑張ります。
*1:もにも〜ど