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・はじめに
これまで久石譲・菅野よう子といったメジャーでありながら知名度も抜群であり多大なフォロワーがいる、いってみれば名実ともに全員が納得できる偉大な大家について書きました。つまり大衆が愛すべき作曲家に焦点を当てました。しかし今回はすこし捻った特集を組みました。
マイナーだけど何故かメジャーアーティストとして有名という音楽版の諸星大二郎とでも形容すべき人物、つまりは平沢進です。まず音楽版の諸星大二郎とはどういう意味なのか、という点についてです。
同業者からは絶大な支持があるもののより広域的な範囲では知られていないという存在を形容するものとして「ミュージシャンズ・ミュージシャン」という単語があります。
諸星大二郎は宮崎駿・押井守・今 敏・庵野秀明といった映像クリエイターの大家としてネームバリューを持つ人たちが口を揃えて支持されており、その他のクリエイターからも支持があることから漫画家界隈における、「漫画家が褒める漫画家」という特異的な立ち位置でありある種の熱狂的な指示を集めている一方で大メジャーな作家ではない。
その意味で同様に平沢進はまさしく「ミュージシャンズ・ミュージシャン」といえる存在だ。が、そういうクリエイターというのは往々にして語りにくいし、語られないし、語れない場合が多い。日本の音楽家の中でも平沢進の三文字ほど、語ることが難しいアーティストもいないと自分は思う。インターネット音楽が発展した超情報化の中、多様な音楽が創れるようになり、ジャンルは違えど古くから一風変わった芸風の作曲家というのは存在しておりimoutoidやnujabes、レイ・ハラカミ最近だとserphや長谷川白紙そしてPuhyuneco等(選出がイマイチなのは勘弁)がシーンに出てくるような今でも平沢進音楽の極北感は揺らがない。海の外まで行けば、話は別になると思う。実際、スクエアプッシャーぐらいのアーティストまでいけば、聴いていて中々唸るものがある。が国内に限っては平沢音楽というのはビジュアル含め唯一無二の異端といえることはまず間違いない。
本題に入る前に今回、私がなぜ、平沢進を取り上げる経緯に至ったのかという経緯を端的に書きます。まず最初にこれを読んでいる人は平沢進と聞いて果たして何を連想されるだろうか?
私見ではあるが以下に当てはまる人が大体であろう。
そして、その誰もが「独特な世界を構築している」という言種だけは共通の認識だ。
だからこそ、その異様さ故にパターン化されたメゾットで生み出される大量生産される大衆ポップスの耳しか持っていない(持てない/聴かない/聴けない)人たちからは
「なぜ人気なんだろう?」
という疑念も立つし、怪しげな雰囲気から引いてしまう人も多いのも事実。
確かに側から見れば怪奇極まりない雰囲気を醸し出しているアーティストではある。
それもそのはず、色々なメディアやクリエイターを通しての知名度はあるが、その実一番大事な音楽性は人知れずな点がところが多い。というより体系的な意味で、どういう文脈で語るべきアーティストであるかがネット上では具体的には語られてこなかったと思った。ネット上には既に幾つか記事が上がっているが、より広域的な視野や思慮をもって書いている記事は少ない。当然、知見に富んだ文章も多々見受けられるが、平沢進を語るという題目に対して書かれたものとしてはやや物足りなさの方が上回る。熱意あるファンが公式や平沢進本人が提示している影響を受けたものを記録としてまとめたサイトなどもあるが、それらも所詮ただの記録でしかなく、それがどのように反映されていて、平沢進がどういったアプローチをしているかという領域には至っていない。情報化社会の今、情報が氾濫している現在のネットの海の中には徹底解説というタイトルと名ばかりに経歴と代表作を並べ、人気楽曲の動画リンク(しかも無断転載ものを堂々と)貼っておしまいといった具合で「よくこんなものをネットにあげられるなと」いうお粗末すぎる低次元極まりなく、まるで自分が海の藻屑であることを露呈しているような記事まである始末です。
だからといって気の利いた紙媒体の書籍もなく、発達した現在のネットの大海をみても具体性なものは先述のような理由で特段存在しない。平沢進という、一部といえ界隈一つを作り上げる人気アーティストであり、その上キャリアが40年という年月をもつ表現者であるのにも関わらず、その実態を知ろうとしても掴めない。これは非常にまずいと思うわけです。この現状があまりにも悲惨かつ、陰惨と感じたため「まだマシなものを記録として残そう」という気が立ったというわけです。つまり既存記事よりは深い思慮と広い視野をもった記事が必要であると考えました。
以上の理由で今回、音楽業界-アンダーグラウンドなtwitterアカウントまで魅了し、幅広い領域にフォロワー/ファンがいる平沢進の音楽と世界観について、徹底的に語ろうと思います。なぜああいう音楽性なのか、そしてどういう遍歴を経てああいう形になったのか?という点を重点的に、そしてそれらがアルバムにどう反映されているかという所も混ぜ込みながら書いていきます。
当記事を最後まで読んだら曖昧な表現で魅力を語るのではなく、もう一歩踏み込んだ角度・視野から余す事なく言語化できる程度にはなっていることしょう。また、過去の特集記事以上に相当数、迂遠的な視野であらゆる角度から俯瞰するため平沢進以外の事柄についても深く言及します。それらを総合的に把握できてはじめて平沢進の総体が分かる。そんな構成で書こうと思います。なお、予防線として事前に断っておきますが書き手は世代ではないですし、ネット記事特有の独断と偏見と思われる文章等はどうしても入ります。言語化できないゆえの平沢音楽だというのは大いに分かりますが、そこを敢えて言語化するという難題に挑戦するというのが当ブログを読むにあたっての面白さであり、楽しさですのでご勘弁を。
平沢作品を読み解くための補助線
前置き
どういったサウンド・音楽から始まっているか。「デビュー作に全てが詰まっている」という言葉があるように、いかなる表現者も作家・アーティスト性を出す時は最初にどれだけ出せるかが肝心である。そこでどれだけ全力投球をできるか。では平沢進の場合はどうか。まずはデビューに至るまでの音楽遍歴を考えてみる。ポイントは70年代、プログレッシブロックの二点。わかる人にとってはこの2つのワードのみで、如何に語りがいのある領域かがわかるはずです。詳しいことは後述します。
まずここで出てくるのがファンであればご存知*1MANDRAKE (マンドレイク)です。つまりは最初からプログレ音楽で始まっていることがわかる。
とはいえ、今聴くとMANDRAKEの音源は『飾り窓の出来事PART1』と『飾り窓の出来事PART2』とかまさしくそうなのですが、 プログレらしさ全開だからこそのかっこよさが全開なんですよね。和製ということもあるため本家との比較もおもしろいです。今はこういったプログレを全開にやる音楽はほぼないです。そういうミームを受け取り別ジャンルとしてカウントすれば色々いますが、大衆ポップスでやろうなんて考えている人はいない。ましてや有名アーティストは絶対に。それが普通だしそんな博打みたいなことをするはずがない。ゆえに『cry baby』は今の音楽シーン的に考えれば革命的な楽曲と言っても差し支えない。しかしそれは藤原聡のような追随を許さないセンス・才能と勇気と技術があればが『cry baby』というドリームシアターさながらの音源をこういう形で落とし込めることで
を作れるが、普通に考えてポップスシーンにて、こういう楽曲をバンドが大衆に受け入れられた後に出してしまうことが異常であり、尚且つこういう構成でありながら一定のラインは守りながら作曲し、メジャーでしっかりと受け入れられるというのは誰にでもできる芸当ではないのです。つまり現代においても、中々作ることが難しい楽曲性なのですが、それを当時(70年代)のバンドでなおかつ日本にいたとは現在を主流に生きている我々からすれば想像もつかないでしょう。がしかし西洋事情(というよりイギリスプログレ事情)を考えるとMANDRAKEは遅すぎたとも言える。それを踏まえてなおこの路線で行っていればそれはそれで別の未来があったと来ない未来を夢想してしまうものです。
MANDRAKEにおけるプログレ具合はどこからきたものなのか?
この一文から平沢進の音楽、そして世界観等を紐解いていきますが、その前に平沢進が10代から20代前半までの間にどのような音楽があったかを考えていきます。
平沢進が影響を受けた音楽群とその周辺事情
平沢進の生まれは1954年。MANDRAKEでのデビューから解散までが1973-8年のためおおよそこのスパンで台頭した音楽にはリアルタイムで過ごしてきたはずであり、同時に絶対的なルーツとなっており、実質的にメジャーアーティストとしてのP-MODELのデビューが1979年と考えると、この間の25年間の間に出てきた音楽性が平沢音楽の主な源流となる。このパートでは25年の間に台頭したアーティストついて、つまり彼がどのような作品に影響を受けてきたのかという点に焦点を当てていきます。
時期的には日本映画の黄金期ですね。小津・黒澤・溝口が活躍した時代であり、この年はかの名作『七人の侍』と本多 猪四郎監督の初代「ゴジラ」の公開年です。ちなみにドラマでは君の名はという恋愛ものがありますね。偶然性がともない2016年にシン・ゴジラと君の名は。が当時に公開されるのは実に面白い現象です。
サイケデリック以後の洋楽事情
生まれ年から計算するに物心がついた時に60年代という音楽史的に濃厚な時代を過ごした後の70年代という流れをリアルタイムに生きているわけです。50年代音楽は関連してつなげて語るアーティストはいない。その時代に流行っていた音楽といえば
こういった楽曲が流行っていた時代ですし、なによりもエルヴィス黄金期。平沢音楽とはよほど縁がないはずです。では始まりの時期はいつ頃なのか。
きっかけこそ、The Spotnicks(1961年)というのは中々分かりやすいところ。同時期の音楽家なら普通ならそこはventuresだろとか思うのですが、この時点でthe spotnicksを選ぶ感性というのがもうその後の全てを決めている気がする。その5年後、決定的な流れに音楽シーンが生まれる。それは平沢進が12歳頃の頃に世に出たThe Beatlesの名盤『リボルバー』(1966年)から始まるサイケデリックの音楽性の潮流だ。時を同じくして米国ではアイアンバタフライが結成されていますし、前年の65年にキャプテン・ビーフハートが結成されていることも見逃せません。翌年にはロック史的には影の名盤として誉れ高いヴェルヴェット・アンダーグランド&ニコもこの時期にリリースされている。その後60年代末にキングクリムゾンが『21世紀の精神異常者』をリリースしプログレという音楽が発達するわけですがそこについては後述します。この段階でもあらゆる潮流が水面下で動いていることがわかる。そんなこんなで70年代を迎えるわけありますが、初期台頭してくるバンドとして取り上げるべきはロキシー・ミュージック(1971年)ですね。一応ニューウェーブとしての側面も持ち合わせていますがそれらの運動が出てくるのは70年代後半なので、まだヴェルヴェットアンダーグラウンド系の音楽のフォロワーとしてのバンドであった時期ではありますが、ロキシーといえば『For Your Pleasure』(1972年)や
sirenなどのアルバムに代表されるように聞き応えのあるバンドです。
アートロック、プログレからなんでもございと言った音楽性が評価されているバンドであります。それらが結実した音楽性という意味で頂点を飾る名盤『avalon』(1982年)は
誰もが認める名アルバムです。DEVOもデビューは73年と初頭ですが、最重要アルバムにあたる頽廃的美学論を出したのは1979年と丁度ニューウェーブが盛り上がっている時期です。そう考えるとDEVOはニューウェーブとしての側面が結果的には高くなったものと考える。とはいえ、本作が1stアルバムということもあり、73-78年まで一体なにをしていたんだという話ではあるが。しかしこのアルバムを聴く際にはこの時期が案外関係していたりと思ったり。つまりは彼らがデビューした時期とアルバムを出した時期でパンクからニューウェーブが展開されており、ちょうど橋渡しといってもいい境界線のようなアルバムなわけですよ。
DEVOからは歌唱法をそれぞれエッセンスとして取り入れていることがわかります。2ndの『生存学未来編』(1979年)や3rdの『欲望心理学』(1980年)などのアルバムからも影響は鑑みえそうですが、やはり平沢的には頽廃的美学論が強烈なものだっと考える。
ロキシーミュージック繋がりで書くのであれば、メンバーの一人であり、環境音楽(アンビエントサウンド)の開拓者のブライアンイーノの存在も今となっては欠かせない。このロキシーと同じ枠組みの流派としては*2T.rex(1970年~の所謂T.rex期という意味です)もいますし、その後ピストルズも75年に出てきますし、ダムド、ザ・クラッシュが続いて翌年デビュー。三大トリオがでてくるこの流れはやはりすごい。こうした70年代中期のパンクバンドのムーブメントの意思を引き継ぎ、70年代後半にはポストパンクという形出てくるわけです。カウンターカルチャーの影響で生まれたパンクバンドは、60年代のプログレに代表されるように高度な技術をもった音楽の反発として生まれたジャンル形態であり、言ってみれば「バンド技術は簡易化でよく、大事な事は歌詞性・メッセージなんだ」的言わんばかりのところから生まれた形態ですが、パンクバンドほどの主張されるものではなく、そこで展開された音楽性のみを抽出してそれぞれが色々味付けをしていくという派閥ジャンルです。ここで嫌でも絶対に外せないバンドがウルトラヴォックスやポップグループに代表される存在。ポップ・グループが1978年に過激なサウンド性をもちあわせてデビューしたわけですが、実は日本音楽への独自の影響力を持っておりサウンド性がのちに向井秀徳が主宰のNUMBER GIRLやZAZEN BOYSといったバンドなどでああいう曲調を展開していることから、日本音楽の一旦の潮流を生み出したバンドと言える。有名どころだとこの対比でしょうか。あんまり言われなけどピクシーズ以前よりこういう楽曲スタイルというのはあるんですよね。
ウルトラヴォックスは1stアルバム『ultra vox!』(1977年)で出するわけですが、ここで!をつけているのがクラウトロック(後で説明します)のNEU!のオマージュなのがポイント高い。
プログレが発達している時代にMANDRAKEをやり、パンクバンドが本場で隆盛を極めたのちの、P-MODELはパンクバンドで勝負。こうして考えるとアプローチ=工程が変に歪なだけであり、結果として生まれる音楽性から推し量るに意外と流行り乗っかるタイプなのかもしれません。
少し絡めて書くと、浦沢直樹のボブディランやT.rex等のミュージシャンに影響を受け、それ作品に還元するというのは、平沢的なアプローチに近いものがあります。言ってみれば20century boy→20世紀少年を作るという工程の真逆で、20世紀少年というストーリーから→20century boyという曲を作るという、インスピレーション型の音楽家であることに違いはないので。閑話休題
そしてT.rexなども言わば66年以降、デヴィッドボウイやサイケの流れで生まれたアート系な要素をアルバムに取り組んでくるアーティストの流れでもあります。デヴィッドボウイの最も代表的なアルバムにあたる『ジギー・スターダスト』(1972年)が近しいですかね。1969年のSpace Oddity(これは2001年宇宙の旅の現代 2001 a space oddesyモチーフ)や1974年のダイアモンドの犬(1984ベース&テキストをごた混ぜにした上で、ランダムにピックアップされた要素で構築するカットアップ形式での歌詞)にしてもそうですが、デヴィッドボウイのアルバムは真に音楽性あふれる作品ばかりです。
あのアルバムは架空のアーティストでジギースターダストを作り出し、そのジギーが歌うというコンセプトアルバム的な側面があるアルバムです。類例をだすのであればthe whoの『Tommy』(1969年)や『Who's Next』(1971年)といった作品でしょうか?、そして歌詞に物語性を打ち出すということもthe whoが陰鬱な世界観でコンセプトアルバムの形態を取り、そこでロックオペラを打ち出した原点(コンセプトアルバムという意味では1967年にThe Beatlesがsgtが発表していますが)と考えると、やっぱりthe who→平沢へのラインは当然出てくる。実際にthe whoの全盛期はこの3枚が出ている69-73年であることは疑いの余地がない。
と同時にここまで来たら察しのいい方はお分かりだと思いますがこれらはパンク・ロックからのグラムロックという流れですね。時期時代を考えればここの音源的影響も当然ある。なんとも羨ましいエピソードもお持ちですし。
プログレッシヴ・ロック
では次に源流核となっているプログレについて。平沢ソロアルバムがコンセプト形態をとっているのもおそらくはwhoの延長線上にあるここからのアプローチも引用しているからであろう。MANDRAKEの作風はここだしそのMANDRAKEのメンバーにピンクフロイドの原子心母を聴かせ音楽性を刷り込ませるというエピソードがあるくらいですから、全体的にプログレに影響を受けている&キングクリムゾンのメインフロントのロバート・フリップを中心としたメンバーで作り上げた21世紀の精神異常者という楽曲の偉大性を前提として語るのであれば、やっぱりピンク・フロイドからの影響は大きいと考える。プログレといえばで4大バンド(キングクリムゾン/ピンク・フロイド/イエス/ELP )というのが存在する(ジェネシスも加えて5大というが、個人的には上4つ)が、一般的な印象としては、この中からさらり絞り込むとキングクリムゾンとピンク・フロイドになる。さらに絞り込むとピンク・フロイドを挙げる人の方が多いと思う。なぜなら、音楽的な側面もさながら、商業的な意味合いでも『the dark side of the moon 』は
MJのthriller
イーグルスのベスト盤・ホテルカリフォルニア
AC/DCのback in black
ミート・ローフの地獄のロックライダー
等に並ぶ、世界で最も売れたアルバムの一つですし、ジャンルをプログレに絞れば一番売れたアルバムとなります。
(このクラスの売れ行きになると、抜きつ抜かれつみたいな所があるので、一番売れたアルバムというのは定義しにくい。18年まではMJのthrillerでしたけれど、それをイーグルスのベスト盤が抜いたというニュースもあるためである。ただイーグルスはベスト盤なので、その意味では数ある中の一つのアルバムで絞った方が個人的にはフェアだと思うので、そういう視点からすればイーグルスはホテルカリフォルニアを出すべきだろうと考えます。日本でいえば新潮社の太宰の人間失格と漱石のこころの売れ行き競争みたいなものですね。因みにこの2作品だったら人間失格派です)
そのほかにもコンセプトアルバムの深度の濃さとそれらを強固にするヒプノシスが制作するアートワークスなどを踏まえると、より魅力的な世界を提示しているのは圧倒的にピンク・フロイドの作品群ということになる。プログレッシブ・ロックというのは、ある種魔界のようなジャンルであり、一風変わったその音楽性は人を選ぶ分、ハマるひとは大好物になるという部類のものです。どういうジャンルかという説明は難しいですが、戦闘曲を作っている人は例外なくプログレを聴いているというべきか、シンセサイザーを存分に使った技巧的な音楽と書くべきか。なぜゲーム音楽で胸が熱くなるのかという点は、楽曲の種類にもよるが、シンセサイザーを用いたケースについてはおおよそプログレの証と考えて差し支えない。その意味では日本で一番プログレを浸透させ、ゲーム音楽「らしさ」を定着させた作曲家こそFFシリーズでお馴染みの植松伸夫。ニコニコ等の動画サイトではビッグブリッジの死闘等でお馴染みですね。言ってみれば本作の演奏してみたが盛り上がるのはプログレの意思を継承させた楽曲が故なのです。
そんな植松音楽の中でもプログレ度合いが顕著に出ている楽曲が更に闘う者達
原曲こそ最も素晴らしいが、AC ver.も中々振り切ったハードロック編曲をしていてかっこいい。これを聞くと、一度堀江晶太の編曲ver.を夢想してしまいます。というか、おそらく作曲家的にはこっちの方がテクニカルな意味では好きなのではないかと思う。氏のお気に入りの一曲なんだしいつか実現しないかな。
そしてプログレ要素のアプローチとゲーム音楽に於ける植松要素の2つの軸が頂点を極めた楽曲の一つといえるのが『the extreme』。ラスボスを飾る味付けからギターソロのイントロから始まり、Wギターになった後、哀愁あるピアノのメロディから多段式にバトル音楽になりつつも、不意をつくようにピアノメロディが奏でられていく構成の様はまさに圧巻。
因みに、アルティミシアは多段式な展開をするボスなので、この前に『maybe I`am a lion』という曲があるのですが
このタイトルがディープパープル楽曲タイトルからの引用とすると植松論が広がります。
なぜならばブルードラゴンで書いたボス戦のボーカルに声量お化けベーシストこと、パープルのメンバーであられるイアン・ギランがゲストで歌っているからだ。楽曲からしてもパープル節と植松との融合を果たした名曲なので、興味のある人はぜひ。植松伸夫の功績や実績、作風のポジションを考えると、平沢進が聞いていないはずもなく、なんなら主に「BlueLimbo」あたりに植松っぽさを感じる。もっと語るべきことはあるのですが本題から外れるので今回は抑えます。このように説明の切り口としては色々あります。如何にプログレが面白く異端なジャンルかという点についての初級的な話はこちらの記事に
より面白いプログレについてはこちらが
詳しいので、あらましはそちらで読んでいただきたいのですが、ここでも改めて平沢イズムを構築しているプログレ音楽についてはフォーカスしざっくりと紹介しようと思います。
Pink Floyd
シドバレットを発起人としてロジャーウォーターズ、デヴィッドギルモア、ニックメイスン、リチャードライトというメンツでスタートしたバンドです。バンド特有のメンバー間移動というのも当然あるのですが、最初に脱退したのがシドバレットというのが非常に惜しい点です。元々音楽活動自体が5年という短期間での活動ではありましたがそんな中でも、総合的な芸術の才能(元々は画家志望)とカリスマ型双方の魅力を持った稀有なミュージシャンであり、ピンク・フロイドとは別に一人のアーティストとして立ち位置を確立した人でもあったからです。影響を受けた人は大手にも渡り、今回紹介している数多いアーティストの中でもデヴィッドボウイやT.rexのマークポラン、その他ミックジャガー、ギタリストでお馴染みのジミンヘンドリックスまでもがいるといったまさに知る人ぞ知るミュージシャンズミュージシャンといった存在です。ピンク・フロイドのデビューアルバムの『The Piper at the Gates of Daw』(1967年)では大半のトラックを作曲を担当しており、「BIKE」という名曲もその一つです。
さてここで思い出してほしいのがP-MODELの『another game』のtrack.6。
そう、ここで歌っている楽曲は作曲:シドバレット(Pink Floyd)なのです。平沢進もカバーでセレクトする点や、歌詞をある種、空耳アワー的な形で落とし込む(I`ve got a bike→合言葉はバイク)センスは最早感動するレベルであると同時に、通なプログレマニアだなぁと思います。世間的なピンク・フロイドの認識は+音楽的なファン・アーティストが影響を受ける作品というのは広く見積もったとしても『the dark side of the moon』『Atom Heart Mother』『Wish You Were Hear』+『the wall』といった大成功時期の作品ばかりで初期作品が割と見逃されがちなのです。それを敢えて、ということでもないのでしょうけれどシドバレットにアンテナが光る感性は流石です。先程、空耳アワー的な落とし込みと書きましたが、実はbikeは空耳アワーで採用されたことがある。開始より13sの部位が「豚バラです」という番組らしいしょうもなさが出てる空耳ですが。
因みに(当ブログではいい加減書いてきた話ですが)狂気やWish You Were Hearなどの作品群を一般的なポップスラインに落とし込んだアーティストいう意味では、稀代の名プロデューサーこと小林武史が趣味全開に好き勝手プロデュースしたMr.childrenのアルバムより深海に色濃く出ています。他、プログレの影響かなと思う意外な点はPEVO語(P-MODEL+DEVO)にもある。こういう造語の先駆者といえばMagmaのメインフロントが宇宙からきたコバイア星人の言語という設定の元に作ったコバイア語といものがあるので、そういったものをやりたかったのであろう。それらを起点としたコンセプトアルバムという点からして世界観ソースにmagmaも見え隠れする。
キングクリムゾン
『21世紀の精神異常者』という楽曲を1968年に打ち出し、プログレ元年ともいえる歴史を残した偉大なバンドですが、以降『red』(1974年)・『Starless And Bible Black』(1974年)や『Discipline』(1981年)『Three of a Perfect Pair』(1984年)など素晴らしいアルバムを出しているロックバンドの中でも輝かしいグループの1つではある。
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主宰はロバートフィリップ。プログレはこの人から始まったといっていいほど、偉大なアーティスト。クラシックの晩期に活躍した作家、特にバルトーク作曲の管弦楽のための協奏曲あたりに代表される辺りからの派生としての音楽をロックにもってきたことが一番の功績だなと思います。キングクリムゾンは最初こそ、クリムゾンキングの宮殿を仕上げたわけですが、その後メンバーがすぐに離れています。つまりオリジナルメンバーであった時期はほんのわずか。離れて何をしていたかと言えば、グレック・レイクは新生バンドとしてのELP(エマーソンレイクアンドパーマーであり5大プログレの一角を担う)に行き、イアン・マクドナルドは個人ソロに走った。ロバートフィリップにてどうにか回っているバンドになってしまったがゆえに、出す音源は素晴らしいけどバンドとして正直安定していないがゆえに、バンドとして落ち着いている時期というのがそんなにはない。それであっても太陽と戦慄でストラヴィンスキーのアプローチをしたり、『red』のイントロを含める全体的な楽曲のクオリティを出してくるあたり、本当底力は化け物なんですけどね。
イエス
MANDRAKE時代の音源からも分かる通り、当時プログレをやる上で意識するということでは一番要となったであろう。それは『relayer』を聴けばわかる。音の連なりという意味を考えればおのずと合点がいく。
『relayer』のtrack.1が「the gates of delirium」という原題を日本語訳にすると錯乱の扉という意味になるので、同名の楽曲をMANDRAKEで出しているあたりからも多いに参照している。個人的な思い入れイエスで3枚あげろと言われたら『relayer』と『going for the one』と『close to the edge』になりますね。
イエスのディスコグラフィー上、絶対これという選別であれば、私感『close to the edge』と『Tales from Topographic Oceans』そして『relayer』の3枚ですが、『going for the one』はいってみれば全盛期を過ぎた後、どうなるかみたいな立ち位置に出てきた作品なんですよ。それにしてはあまりにもよく出来過ぎていると思う作品です。どういうことかというと、先に説明した通り、プログレの波が終わった後ニューウェーブ、テクノという流れになるのですが、そういった遍歴やメンバー交代事情をしてもしっかりと組(汲)めているところが優等生というべきか。『going for the one』では技巧的といよりかは簡易的であることからパンク的と言えるし、トーマトではテクノっぽさが出てきて、dramaでどう聴いても、ニューウェーブの香りがすることから、ローカライズを感じられるという気概。元々イエスは米の名レーベルであるアトランティック・レコードにイギリス初のバンドとして入っている(かのled zeppeplinより先)というところからも、プログレバンドとしては異例な商業期待値としてはもっとも高く、見事その評価を勝ち得たという点からも、プログレバンド以前にバンドとしては相当優秀なわけですよ。
参考までに他の代表的なプログレバンドのデビュー作どうかというと
ピンクフロイド→ハーヴェスト(EMI傘下グループ)
ELP→アイランドレコード(米版ではアトランティックですが)
キングクリムゾン→アイランドレコード
ジェネシス→カリスマレコード
他のプログレバンドでさえ一発目からは掴めなかったものを、イエスはデビュー作からしてアトランティック・レコードを掴み取るというのがいかに凄いことかはアトランティックレコードの歴史を鑑みればわかります。また加入はしなかったが同じくイエス繋がりという意味で辿っていくとシンセサイザーの大家ヴァンゲリスがいる。彼の一番なの知れた代表作はブレードランナーの劇伴音源であるのだが、ここで注目すべき根源はアフロディーテズ・チャイルドである。あまり知られていないが、ギリシャのロック・プログレバンド=ユーロプログレという神秘的な存在だと思う。
平沢進の楽器展開的に考えるとELPはキースエマーソンの超絶技巧が織りなすキーボードがメインフロントになりジャズトリオ的な側面が高いバンドとしてロックにシンセサイザーを巧みに使うかを初めて提唱したバンドなので楽器の構成上、そんなには意識していないかなぁとはおもう。まぁ知っていて損はないので紹介します。
EmersonLake&Permer(elp)
キング・クリムゾンで色鮮やかなベースを飾ったグレック・レイクも参加しているこのバンドは、キース・エマーソンをはじめとする技巧派プログレバンドであることは疑いようもない。そういったバンドなのにその上ジャケにセンスがある。ある意味では日本的である。そういうプログレバンドであった(途中まで)。タルカスという作品のアルバムはこのジャケット。初期ウルトラ作品にて圧倒的なデザインセンスを担当した成田亨の影響を感じる。この場合は恐竜戦車をモチーフにしていることは明らかである。
恐怖の頭脳改革ではエイリアンで世界的に有名になる前の状態のH・R・ギガーを起用しているところからも、音楽世界観に添えるアーティストに普通は思いつかない組みをしてくる。yesがロジャーディーンで幻想チックであり、ピンクフロイドのヒプノシスによる視覚的な見せ方を原風景としての世界観というのは知ってる世界の見せ方の転換であるのに対して、架空のキャラクターや独特すぎるイラストレーターを持ってくるという意味で日本人はライドしやすい。それに増してジャケットからは想像できない超絶技巧が紡ぎ出されるのもいいですね。今で言うと主宰のキースエマーソンの鍵盤で魅せる技巧的な音楽は今で形容するとhzettrioとその主宰hzettmみたいな感じになるのかな。
エマーソンにしろhzettmにしろ元々が古典音楽を相当仕込まれた腕前を持ち合わせた状態でポップス音楽を作ることで聴き手がそれに魅入るという意味では共通していますし。
elpはジャケのセンスと、ジャズトリオでプログレをやるという世界観がある種魅力でもあったはずなのに、なぜ『love beach』はこうなったのか(yesも『tormato』でやらかしたけどなんとか持ち直せた)結局これの不評で実質的な解散したようなものだし。
elpはその音楽スタイルとは裏腹に活動期間も短く、ディスコグラフィーも他のプログレバンドに比べると少ないので、非常に勿体ないことをしたと思います。そんなELPサウンドを、平沢進はといえば、構造を真似してる節は見られるが元々ギターでの演奏がメインなので、そこにキーボード的な要素をMANDRAKEで入れるのはなかなか難しいと思うし。同じ理由でジェネシスにしても、あのバンドとというよりかは、ギターリストのスティーヴハケットやボーカルのピーターガブリエルを敬愛程度だと思います。むしろジェネシス以上にピーターガブリエルのソロを追っている可能性が高い。MANDRAKEがもっと続いていたらジェネシスを感じるような、それらしい仕草は出てきたかもしれませんが。ここまで5大プログレとMANDRAKEとを照らし合わせましたがここまでだけでは一般的な考察の域を出ず、面白くないと思うので、もう少し範囲を膨らませて、角度をEuro的なプログレとして考えに焦点を当てていくとヴァン・ダー・グラフ・ジェネレーターとプレミアータ・フォルネリア・マルコーニ(PFM)の作風に近しいもの感じますね。
ヴァン・ダー・グラフ・ジェネレーターで言えば
- 『LEAST WE CAN DO IS WAVE TO EACH OTHER』(1969年)
- 『H TO HE WHO AM THE ONLY ONE』(1970年)
- 『PAWN HEARTS』(1970年)
PFMであれば
- 『photos of ghost』(1973年)
- 『storia di un minuto』(1972年)
が有名なので、履修したい方は上記のアルバムから聴くといいです。
テクノポップ
クラフトワークとそれに追随する存在(1970年)も、平沢音楽への影響度からいえば、先に紹介したアーティストほどではないものの、全世界的な音楽シーンから俯瞰した場合、とても大きな存在です。
※craft(工芸)work(作品)と思いがちですが、そうではなく、kraft(威力)werk(工場)の組み合わせたというのが押さえておくべき所。そしてこの2つの単語が組み合わさることでkraftwerkとなる。そしてこの意味はドイツ語の直訳だと発電所という意味合いになる。
それを踏まえると以下の二枚(特に二枚目)のジャケットの意味合いが分かってきます。
初期三部作はかなり無調的なサウンドワークが目立ちます。
そういった中で、和製クラフトワークことYELLOW MAGIC ORCHESTRA(1978年、以降YMOと表記)が登場します。音楽性もそうですが、実際にルックスをみれば「なるほど」と合点がいくはずです。
こうしてみると、意識的にやっていることが丸わかりですね。
YMOははっぴぃえんど(細野晴臣/大瀧詠一/松本隆/鈴木茂)同様、一人だけでも有能な人たちの集まりです。しかし、そういったグループの中での一番の代表曲が高橋幸宏作曲のRYDEENというところに、ある種の意外性と、底知れぬ何かを高橋幸宏さんに感じます。
と同時に、さりげなくはっぴぃえんど・YMO両方のメンバーである細野晴臣の凄みと、坂本龍一の案外目立ってない感じが世間との知名度と乖離していて面白い。YMOは代表曲としての「ライディーン」以外としてのおすすめ作品のアルバムは『BGM』(1981年)と『テクノデリック』(1981年)の2枚です。これらを聴けば大体良さというものは掴めます。
ただ、坂本龍一はソロではテクノポップの面白さを存分に出したアルバムを出していたりするので、音楽ファン的にはやっぱり有難い存在ではあります。藝大出身でありながら『未来派野郎』(1986年)といった作品を出すのは、ある種の異端とも言えるでしょう。今となっては褪せてしまった作品です。しかし『未来派野郎』の"未来派"は、近代社会の速さを現しそれらを文芸や画、音楽などの芸術に持ち込んだイタリア発の前衛運動のことでもあるので、色々重なっているなぁと思う次第です。
某アルバムのライナーノーツにて、「散々ポップスを研究した上で出したアルバムである『sweet revenge』(1994年)や『SMOOCHY』(1995年)は売れず、『energy flow』(1999年)は爆発的に売れた。売れればポップスである。」という趣旨の内容を書いていたところに、坂本龍一の苦労が垣間見えます。大衆が何を求めているかを考えた時、坂本龍一本人による歌唱はそんなに需要がないわけですよ。小林武史でさえ、自分で歌うと残念になるのと同じ現象で。
実際、*3BTTBアルバムに代表される、ピアノソロ作品とは名ばかりの、サティ・ラヴェル系統のクラシック音楽を自己解釈したアルバムのほうが世間的需要度は高いですし、だからこそ今でも20周年anniversary版がでるのです。クラシック音楽作家:坂本龍一の方が、藝大出という意味では本流に近い訳ですし。
そして、なによりの代表作である『戦場のメリークリスマス』(1983年)にも、その傾向は思わぬ形で出ていると思います。
この作品は映画も含め大傑作なわけですが、オリジナル音源よりヴァイオリン+ピアノ版の方がより味が出ることは皆さんお分かりいただけると思います。がしかし、私は完全ピアノソロ版が一番、楽曲に味が出ると思うのです。中盤の激情的メロディは弦楽器の領域なので合っているものの、有名フレーズのメインメロディはヴァイオリンには不向き。そこの不具合さがどうも耳に違和感をもたらしてしまうのです。
これは久石譲の『kids return』(1996年)のメインテーマにも同じことが言えます。和楽器とギターがメインのオリジナル(KIDS RETURN)と、弦での編曲バージョン(Kids Return)のどちらが一つの楽曲として切れ味がいいか、ぜひ聴き比べていただきたい。
楽曲が際立っているのは圧倒的に後者です。
加えて一例としてあげたいのは同じく北野武監督作品『菊次郎の夏』(1999年)を代表する楽曲『Summer』。ピアノ版が原曲としてあり、それだけでも十分美味しく、「夏」というイメージを後世に残した名曲です。アニソン的に書くのであれば、『summer』⇆『you(dai)』⇆『夏影(麻枝准)』で往復ごっこができるくらいには汎用性があります。
一方で、劇伴ということもあり、メロディが常にピアノというのがどうしても引っかかってしまいますが、それに呼応するかの如く作られた一楽曲としての魅力を引き出したのが『essential』版のsummer
・Summer
管弦楽や金管木管が入り混じる編曲によって様々な楽器の主張がされ、サビ前で木管が盛り立て行った後に堂々たるピアノメロディ。加えて、一番おいしい間奏部分をピアノ→他楽器→ピアノという流動的な構成にしているのも美しい。編曲をすることで原曲より面白い曲が作れてしまうのが久石譲というアーティストですが、これは国立音楽大学で本格的な理論を学んだ上で弦楽器での編曲の応用を効かせることができるが故だと思います。
久石譲(1950)と坂本龍一(1952)は同じ世代であり音大出というところまで共通しているが故に、活動のスタンスは違えどどこかしか似てる。しかしそこに平沢進(1954)が参入してくると、坂本龍一と平沢進の対比をした時なんだかんだ電子音楽だ何だという枠でやってきた2人なので作り出しているものが全然違うというのはポイントだと思います。
坂本龍一もソロアルバムでやっていることはかなり面白いので、より知りたい方は潜ってみるのも一興。まずは『B-2 Unit』でもどうぞ。結構な名盤だと思います。
実は、平沢音楽におけるクラフトワークの存在感は薄いです。一定レベルでの影響は受けたと思われるものの、あくまでも入り口程度レベルです。作品群を聴けば分かりますが、平沢音楽では一般的に言われる「展開に即した音楽」の方が主流であり、クラフトワーク系統ほど音を分散、無機質化させていません。
クラフトワークの音楽性はYMOによって変換・補完され、その後フリッパーズギターのメンバーであった小山田圭吾が後にコーネリアスで展開していくサウンドワークスの洋的アプローチの礎となっています。どちらかというと、この二組の方がクラフトワーク系統の音楽と言えるでしょう。
(audio check musicは最近の作品だが、アプローチのらしさは変わっていない)
日本においては、その先に石野卓球等がいます。
ドイツではMIJK VAN DIJK、Hardfloorの存在は見逃せないですね。そしてなんとこれら3人がとあるアルバムで集結している神盤があります。それがPS版攻殻機動隊OST。Derrick Mayも参加していたりと、1ゲームのOSTとしてはあり得ないほど豪華さに満ち溢れています。
これらと同時に、90年代にブリープテクノの代名詞であり、UKテクノ界の大巨匠であるマークベルが主宰するLFOによって、「インテリジェント・ダンス・ミュージック(IDM)」が打ち出されます。(あまり知られていませんが、かなり濃いのでこういった楽曲が好きな人は人は是非履修してください。)
今で言うとフライング・ロータスあたりに落ち着いたという感じでしょうか?
因みに、LFOはデペッシュモードのプロデュースやビョークとのコラボでも有名です。
最高のLFO presentsの楽曲をあげるのであれば、やはり『Pluto』(1997年)でしょう。かのビョークさえも食ってるレベルの楽曲です。
逸れましたので、主題に戻ります。
平沢音楽においてどうかという話なのですが、推察するに、ウォルター・カルロス(今はウェンディ・カルロスで通っている)が1968年前後に発表した『Switched-On Bach』*4からシンセに可能性を感じたことから始まっています。
劇伴作家としてのウォルター・カルロスが作った*5有名作品、キューブリックの時計じかけのオレンジのOSTも挙げられます。
また、同じテクノといっても、YMOならぬYMG、young marble giants(1978年)が唯一だした傑作アルバム『Colossal Youth』(1980年)の方が好みではないかなと。
テクノでありながらコテコテではなくどこかソフト。無機質さが非常に目立ちます。
また、本作を作ったYMGが批評精神をもって作ったという点も注目すべき点です。
ちなみに、先ほどデヴィッド・ボウイについて少しだけ言及しましたが、ボウイもここの流れを受けています。所謂1977年に出されたベルリン三部作の『Low』『Heroes』『Lodger』。特に『Low』『Heroes』はクラフトワーク色を反映した作品群です。
面白いことに、クラフトワーク・タンジェリン・ドリームを参照してアルバムを作ることになって呼ぶ共同アーティストにブライアンイーノがいるという、この一連に出てくるアーティスト全員平沢進が影響を公言している点からしても見逃せない作品。
『Low』なんかは、そもそも話として超のつくほど名盤ですが、前半がニューウェーブ的でありながら、後半に連れてポストパンク的なアプローチへと展開されていくところが最大の聴きどころです。ドラムサウンドに加工を施すスタイルは1977年にしては新しい部類なので、後世への影響は多大とみて間違い無いでしょう。恐らくインダストリアルロック当たりのサウンド性の種のような部分があります。
ベルリン三部作とイーノに関する小ネタですが、実はMicrosoft Windows 95を一度でも起動をしたことがある人は彼の作品を知らぬ間に聴いています。というのも、Microsoft Windows 95の起動音を作ったのはブライアン・イーノであり、Microsoft Windows Vistaの起動音はロバートフィリップが作った音源です。コンピュータの起動音という媒体を通して知らず知らずに彼らの作品を聴いていたというのは中々興味深いことだと思います。
その他の平沢ソロで目立つ傾向としては、やはりXTC.デビュー作のホワイト・ミュージックを相当聴き込んでいる印象を受ける点でしょうか。P-MODELとしてXTCの前座を担当したことからも分かりやすい線です。本人曰く、もっとパンクっぽい形を目指していたせいかXTCからの影響ではなく、Metal Urbain(メタルボーイズと書いた方がいいのか)や999との発言がある。実際に聞くとMetal Urbainの影響は大きいですし。
999からもそれなりにP-MODEL的な要素を感じるのですが、どの道似せてるという意味では外せないでしょう。MANDRAKEのライブで飾り窓の出来事の前にxctの『I`m Bugged』を流していることからも、明確にそこに影響された事実は残っています。
以後、ポストパンク、テクノ、電子音楽等が全て融合したジャンルとしてニューウェーブが生まれるわけで、P-MODELの音楽性というのは基本的にパンクから始まって、以後そこから色々なものが加わったごちゃ混ぜニューウェーブということになります。本来、プログレなどの反抗体制としてのジャンルがパンクなのに、平沢進はどちらも音楽遍歴として主軸としてやっていた時期があるというのはミュージシャン的に考えればすごく異端な気がします。
クラシック音楽~無調・具体/電子音楽史観
ここまで60年代以後の音楽シーンについて、ざっくりと見渡したわけだが、平沢進の音楽性を理解するためにはそもそも話に立ち戻る必要性がある。つまりは電子音楽の成り立ちをざっくりと説明しなければならずそのためにはクラシックまで遡る必要がある。
一次ソースはともかくとして、wikiによると平沢進が影響を受けた古典作家は
- 伊福部昭
- クロード・ドビュッシー
- モーリス・ラヴェル
- イーゴリー・ストラヴィンスキー
- バルトーク・ベーラ
と記載されている。さてこの5人だが、面白い事に全員=で繋げることができる、ある系譜にまとまっている作家たちだ。そこについて説明するために、ここにエリック・サティという人物についての補助線を加える必要がある。ドビュッシーとラヴェルはともに印象派音楽の大家であり彼らの印象派音楽の先鋒となった作家こそがエリックサティ。その彼はフランス六人組という集団を率いて、新古典主義音楽を主軸とした音楽を展開していく。
- ルイ・デュレ
- アルテュール・オネゲル
- ダリウス・ミヨー
- ジェルメーヌ・タイユフェール
- フランシス・プーランク
- ジョルジュ・オーリック
なぜ六人組という名前なのか?それは19世紀後期にいたロシア五人組の存在の影響を受けているからだ。
新古典主義音楽は芸術運動の一つでありロマン派・印象派・表現主義音楽を否定した新しい音楽というのがおおまかな概要だが、その結果起きたのは原点回帰ならぬバロック・古典派音楽への回帰であった。言ってみれば当たり前の結果ではありますが。
モーツァルト・ベートーヴェン・バッハといった三大巨頭以後の作家は彼らを踏襲しつつも、独自のジャンルを追求していったからこそより技巧的で壮大なロマン派と理論よりか外の景観や内なる感情等のそれぞれを表現した形態(外面の景観を音源化していくフランス流の印象派と内面を音源化していくドイツ・オーストリア流の表現主義音楽)の二分に分かれた。現代風にいえば、同じハリウッド資本の映画でも、アメリカ型劇伴音楽家とヨーロッパの映画音楽作家の対比みたいなものと考えてください。
ヨーロッパ出身の音楽家が映画音楽を書くとどういう仕上がりになるかは一個前の記事で書いたので、知りたい方は是非。
極端に言えば、それら全てを否定したわけですから。
表現主義音楽の派生に前衛音楽の血脈がある(ジョンケージはシェーンベルクに教えを受けた作家でもある)ことを考えると、その後の音楽はより極端化していくことがわかります。そしてのその極端さが極まったのが4分33分。そしてシェーンベルクは調性音楽から無調への展開に大きく貢献し(12音技法の祖となったことから言えば)特筆すべき作曲家である。無調音楽はリストの『調性のないバガテル』(1885年)が前夜とそれらを多いに展開させたのは、所謂新ウィーン学派であり、シェーンベルク、アルバン・ベルク、ウェーベルンの三人を指します。各人の有名な楽曲を挙げると
ウェーベルンの「ピアノのための変奏曲」
等があります。シェーンベルクの音楽性について補足すると、無調性、十二音技法、新古典主義の展開に貢献したことで音楽史的に大きな役割を持ったといえます。楽曲に於いてそれぞれの楽曲の音がどのような機能・主張をしているかがそれまでの音楽との最大の違いだ。初期作の『
イントロが代表的ではあるが、これを聴けば分かる通り、どう考えても進行・展開が普通じゃない。こういうあらゆる働き(不協和音・十二音技法等)をもつ楽曲の総体こそが実は重要といえる。もう一曲ご紹介します。楽曲は『弦楽四重奏曲第3番』
存分にオスティナートをまぶしているこの作品ですが、音調もあいまって無機質でありながらどこか硬化的である。このように、シェーンベルクがもってきた要素と必要な繰り返しという要素がかさなり合うことで人によっては嫌になってくるような音楽なわけですがこういう流れも実は後に近代・現代音楽にて大きな意味を持っていきます。ストラヴィンスキーを絡めた話をするとシェーンベルクの違いってなんだろうと思っていたのですが絵画的に形容するのではればストラヴィンスキーがフォーヴィズムで、シェーンベルクがキュビズムというところが一番の落とし所だなと思います。フォーヴィズムは写実主義決別した派であり、見るものではなく心が主体となって感じる美術表現なのですが、ストラヴィンスキーはコルサコフ譲りのオーケストレーションの躍動的な管弦楽を用いているので、あながちフォーヴィズムとの繋がりが0とも言い切れない。マティスのダンスなんて春の祭典のバレエの動きの感覚や世界観に通じますし。
どうでもいい駄話が続いたので本線に戻るとして、シェーベルクが展開した無調は今現在では勢いのあるものではないですが、そこから展開していく流れで現代音楽とそれらを構成するテクノポップ(先述したタンジェエリンドリーム等)の先駆け、つまりはドイツ派のヘルベルト・アイメルトが50年代半ば世界初の電子音楽スタジオにあたるケルン電子音楽スタジオにて音高・音色・強度を発振器や増幅器で制御することで、電子的に音を合成する手法をとるという電子音楽というものが生まれ、その一派にいるシュトックハウゼン〜リゲティの潮流やフランスのピエール・シェフェールより生まれた音楽体系であり、鳥の音や人間の声、騒音などを録音し電気的・機械的に変質させ組み合わせることで作成される音楽、具体音楽(ミュージックコンクレート)の流れの因子がその後生まれたと言う意味では果たした役割というのは大きいと思います。ドイツのケルン電子音楽スタジオにて生まれた電子音楽、フランスのシェフェールの具体音楽はほぼ同時期に生まれたというのも面白い。先のアイメイトからの流れでシュトックハウゼンのこの作品からより本格的な電子音楽がはじまり、習作シリーズを作るわけです。
その後、これらに影響を受け、クラウトロックという前衛音楽ものが60~70年代初頭まで西ドイツで流行ったこと、そしてなによりそこの末裔がクラフトワークであることを考えるとテクノ・の本場であると同時に、現在の音楽シーンの盛り立てた凄い所だなと思います。クラウトロックが流行最中している間に生まれたアーティストはカンやファウスト、NEU!(先述のウルトラヴォックス!の!はここから)に代表されます。シュトックハウゼンが電子音楽を生み出したタイミングの一方、同時期の50年代アメリカではノイマンなどの活躍によりコンピュータが大量に作られる時代になるのですが、1951年にイリノイ大学がORDVACを、1953年にIBMが701を、翌年に世界初の量産型コンピュータとなるIBM 704(1954)を発表。IBM704は1961年にマックス・ヴァーノン・マシューズ(世界で初めてデジタルオーディオを構築するプログラミング言語を書いた人でもある)がデイジーベルの伴奏のプログラムを入れ、デイジーベルを704に歌わせるという歴史的事実があります。
もっと面白いのがそのデモンストレーションにアーサー.C.クラークが居合わせたことで、7年後の1968年公開されるキューブリックのSF映画2001年宇宙の旅で人工知能のHAL9000(Heuristically programmed ALgorithmic、つまり試行錯誤的な、推測に基づいたアルゴリズムに基づいたコンピュータ)が終盤に主人公デヴィッドボーマンによりユニットを抜かれ、どんどん調子狂ってく時に歌うのですが、その時に流れるのがデイジーベルというのが良いですよね。704が歌った43年後にイギリスが音声合成ソフトとしてLEONとLOLAを発売し、初めてとなるVOCALOIDソフトウェアとなり、その3年後日本にて初音ミク(開発当時のプロジェクト名はDAISY PROJECT)が生まれたという歴史へと繋がり、それらが今の音楽シーンの一つとなり得ていること自体が非常に感慨深いですね。以前NHKプロフェッショナルで初音ミクを特集していましたが、本来はドイツ電子サウンドから遡ってそこから成り立ちを懇切丁寧に構築していったほうが、番組的にもテーマ的も面白いのに、そういう要素は冒頭5分ぐらいだったのが非常にもったいなかったですね。実際面白くなかったし。あの尺以上使ってやるべきだった。あんな内容であれば一層のこと自分が電子音楽史てきなものを書いてしまった方が早いし面白いもの書けます。番組の愚痴はともかく、影響力という意味では、ことドイツの音楽関連メーカーの影響は、今で言えばオーディオの老舗ゼンハイザーがあったり、Native Instrumentsやスタインバーグであったりと現代人が電子的な音楽を作る時に常に使われているメーカー元であることを考えると、やはりドイツによる音楽は重要なものだと考えられます。
他の電子音楽のサウンドの歴史に欠かせない人物/作品にどういうものがあるのか好事家的な掘り下げるのであれば、コロンビア・プリンストン電子音楽センターの存在ついても触れなければならない。コロンビア・プリンストン電子音楽センターはオットールーニングとウラジミール・ウサチェフスキー、ミルトンバビットを起点して作られたもので、ウェンディカルロスはコロンビア大学出身ということで、ここを通っているし、シンセサイザーの生みの親にあたるロバート・モーグが関わっていたりと、とかく重要な役割を持ち、電子音楽における重要な作家群が数多くの作曲家が通っています。その他電子音楽の流れで重要な作曲家といえば
などがいます。ここについては今回は深掘りする必要はないので飛ばします。
この項目の最後として抑えるのは電子音楽とクラシックの点と点が線で繋がったセリー音楽(セリエリズム)について触れます。セリー音楽というのは音列主義というもので、音高にて12音技法で展開されたものを音価・音色・強度にも当てはめた体系というのがおもだった意味です。別の簡素な言い方をするのであれば数字の連なりです。
4-3-2-1でもいいし、1-2-3-4-なんでもです。その数字がどういう役割を果たすのか。例えばコードや強弱記号を数字に置き換える、翻訳するというものです。先の羅列でいくのであれば、ppp-pp-mp-p / c-d-e-f-gという配列を数字するというものです。情報を数値化する。より説明的に言うのであれば音高・音価・音色・音強の主だった音楽の4要素の機械的なまで=セリー的に翻訳し組み合わせる前衛の一つ。それが故にらしいと言う意味では点描的なというよりもウェーベルンっぽい。
分かりやすい代表曲として挙げられるのはストラヴィンスキーの『ピアノと管弦楽のためのムーヴメンツ』(1958-9)。
これを聴けば大体どういう楽曲体系的な音楽かというのが耳感覚でも理解できます。こういう機械的な構成を電子音楽の世界にもってきたのがシュトックハウゼン。この人は元々もクロイシュピールからも分かる通り音一音そのものを点としたような音楽性からスタートしており、そこからセリー音楽へと移ったと言う流れです。いい加減お分かりだと思いますが、シェーンベルグのドデカフォニーからのウェーベルンの点描音楽からの流れとしてのシュトックハウゼンという系譜です。その意味では、まぁシェーンベルグの音楽は作品としてはまだ聞ける方で、実の所ウェーベルンあたりから抽象概念的になったとも考えられます。
その後電子音楽や具体音楽はジャズなどの流れと並行しつつ、シンセサイザーあたりで合流した果てに生まれるのがで技巧、「Five Pieces for Orchestra」に代表されるシェーンベルク的要素、バルトークの弦楽四重奏曲、ジャズ的素養などあらゆるものが交差するプログレッシブロックであることは言うまでもない。プログレの源流の一端が知りたい方は、まずはシェーンベルクとバルトークから攻めた方がいいです。悲しいことにプログレという音楽ジャンルはジャズほど普及せず、短命であったが。
具体音楽などは個々でみると、意外なところで採用されている。ここでもまた伊福部昭の登場。具体的にはゴジラの声の作り方で、ほぼ近いような手法をとっている。
- 松脂をつけた革手袋にコントラバスの弦をこすった音色をテープに録音これを手動で速度を調整しながらゆっくり逆回転再生した音である
このように、意識的か否かはさておき、アプローチ自体は伊福部昭に影響を与えますし。伊福部昭の直径の弟子に当たる黛敏もは1953年に先に記述したミュージックコンクレートの影響を受けた上で、『ミュージックコンクレートのための作品X・Y・Z』という作品で相当前衛的な音楽を作っているし、これまた無調でしかないような音源である。ほぼ同じ時期に武満徹が『
冒頭のワルキューレの騎行的進行はさておき、不気味な音の感覚がいかにもストラヴィンスキーっぽいですよね。バルトークは民族的な音楽を取り入れることで有名です。
そして民謡の音楽を取り入れると言う意味ではバルトークと伊福部昭は共通の作家思考(というか日本版バルトーク=伊福部でもいい)、その伊福部はやっぱりラヴェルの音楽に強く影響するし、サティの音楽性を強めに評価している。世間一般ではゴジラの音楽がストラヴィンスキー型の音楽だのと誤った認識をされがちだが、ことゴジラ音楽は遺伝子的な流れで言えばラヴェル型を引用しオスティナータをかけたものと形容したほうがいい。もともと、あのメロディ自体ゴジラのためにつくられたものでもないですし。伊福部・ラヴェル・ストラヴィンスキー→グスタフ・ホルストの惑星:組曲→スターウォーズ楽曲、そしてジョンウィリアムズの音楽性等についてはこれらの記事を
サブテキストとして併用して読んでいただけると随分見え方が明確になると思います。伊福部史観の見方が変わることは保証します。ここまでくれば、平沢進があげた5人が如何に一直線で繋がっている作家かが分かる。意識的にこの5人をあげたのか、それとも偶然なのかは分からないが、いずれにせよそこまで年数のたっていないクラシックという見方として着目するポイントは高い。ただ、平沢音楽を考えればドビュッシーが意外。ドビュッシーに代表される印象派の音楽は日本的にいえば、平沢音楽のアングラ加減よりも、久石譲や小林武史などといった作家が明るい楽曲のイメージとして変換しているためである。久石譲はポピュラーな音楽を作るものの、音楽作家としてはミニマルを軸とした前衛派なのが面白いですよね。その点についてはこちらに詳しいです。
ここでひとつ、思うことがある。新ウィーン楽派が作る弦楽器の楽曲とバルトークの音楽を聴くと、どうも脳裏をよぎってしかたがないのが鷺巣詩郎。彼の楽曲性というのはあまり語られてこない。せめて、ルグランの引用程度でしょう。この手のピアノ楽曲は基本的にラフマニノフが元ネタですが。
ロシュフォールの恋人より Concerto Ballet
を『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』で『thème du concerto 494』
や007のロシアより愛を込めてより、『Takes the Lektor』と
謎の円盤UFOの『謎の円盤UFO メイン・タイトル』の楽曲を組み合わせた
ことでバラエティや『シン・ゴジラ』でもお馴染みになり、最早興奮剤のように扱われるようになった『EM』シリーズの原型『DECISIVE BATTLE』を作曲しており、そのオマージュをするその手際は見事すぎるという仕事ぶりを出しています。
『The Ultimate Soldier =3EM05=』のイントロをまず聴いてほしい。
(試し聴きでも裏でなっている弦の動きでも分かるが)
完全にバルトークの意味合いを持った引用である。つまりエヴァの音楽性の一端を担っている要素として無調以後のクラシック音楽性がとりわけ強い影響があると感じる。元々無調音楽を使った映画系の音楽が合う作品という点が『新世紀エヴァンゲリオン』という作品にはあるので、作品のラインとしてシェーベルグ以後のクラシック音楽の方向性が入っているのは違いないです。因みに同じく劇伴作家の久石譲がポニョにて、ワルキューレの騎行を意識的に真似た楽曲を聴いてみるとこの具合だ。
どう聴いても
という図式が明快に浮かびあがってくる。ここら辺は後期ロマン派〜無調前後のあたりで攻めていくと色々面白そうですね。ここまでのネタである程度の鷺巣音楽論としてはものになる記事は書けると思うので誰か書いてください。
平沢進の世界観
平沢進の音楽世界観を構築している要素として大まかに3つに区分できる。
- SF
- ロケット
- シュールレアリズム
このパートではそれぞれの要素についてのおおまかな説明と、平沢進がどのような引用をしているかという点について書きます。
SF的世界観の源流について
いつの時代にもSFの世界というのは実に面白い世界を見せてくれるものです。日本では海外SFを漫画・アニメに置き換えられてさまざまな作品が生まれました。
- 『サイボーグ009』(1964年)
- 『機動戦士ガンダム』(1979年)
- 『機動警察パトレイバー』(1988年)
- 『攻殻機動隊』(1991年)
- 『電脳都市OEDO808』(1991年)
- 『新世紀エヴァンゲリオン』(1995年)
- 『serial experiments lain』(1998年)
- 『電脳コイル』(2007年)
- 『PSYCHO-PASS』(2012年)
以上の例に代表されるように、60年代~10年代に至るまであらゆる世代でSFエンタメが提供されているのがその証です。平沢進の音楽世界観もSFの世界観をより強く踏襲している。では数ある作風の中でもどういうタイプのSFへ傾倒しているのかというのが気になる点です。これが意外と大事だったりする。音楽に尽くし難い体系があるのと同様、SFといっても色々な定義の仕方があります。SWという人もいれば、サイバーパンクを連想する人もいれば、星新一的なものなど、思う史観はばらばらであり、必ずしも一致することはないと思います。
色々な枝葉・流派があります。なのでそこからざっくりと説明いたします。
SFのジャンルの多様性
ざっと知られているジャンルを書くとこうなると思う。ではそもそも話から始めよう。誰が元祖かというのを厳密に考えると視点の違いによって神話という人もいれば167年にルキアノスが書いた『イカロメニッポス』、シェイクスピアの『テンペスト(1611年)』という人もいればシラノドベルジュラックの『別世界または日月両世界の諸国諸帝国』(1657年)、ガルヴァーニの実験を元にメアリーシェリーが書き上げた『フランケンシュタインの怪物、あるは現代のプロメテウス』(1818年)、あるいは文学を知的行為という考えを生み出した=推理小説の始祖ポーが書いた『ハンスパファアルの無類の冒険(1835年)』リラダンがアンドロイドという名を創造した『未来のイヴ』(1886年)などバラバラです。ただ、一般的な知名度や後世作家や科学者への影響等を考えると、大体の人が考える元祖SF作家はヴェルヌ及びウェルズとされています。
これらの作品群は児童向けに編集されたものとして今の尚読み継がれていますね。この二人は作品はのちにロケットの科学技術者の流れも担っています。
その後ドイルの「ロストワールド」(1912年)やエドガー・ライス・バローズの「火星のプリンセス」(1917年)といった作品群が発表されます。前者はヴェルヌ的流れを汲むものであり、後者は所謂スペースオペラの開祖的な作品になります。1920年代の時点でカレルチャペックが書いた*6「RUR」(1920年)という作品にてロボットという単語が確立しています。その後この流れ30-40年代までにE.Eスミスがレンズマンや宇宙のスカイラークやエドモンドハミルトンのキャプテンフューチャーなどによって拡張され、最終形態としてスターウォーズ(1977年)に繋がります。
そして50年代に突入するわけですが、我々が想像するSFの諸要素というのはこの時点で存在しており、それらの想像力をより強固にしたのが黄金期と呼ばれている50年代SFです。なぜ黄金期なのか。それは歴史に名を残すSF大家と歴史的な作品群の登場が50年代(さらに明確に書くと1950-54年)に集中しているからです。ジョン・W・キャンベルが編集率いたアスタウンディング誌を中心としたSF雑誌群、例をあげるのであればプラネットストーリーズ/スタートリングストーリー/ギャラクシー/F&SF等があり、大手米国SF作家ほぼここの流れで台頭してきたものです。
(三大雑誌といわれているのはアスタウンディング,ギャラクシー,F&SF)
卓越した作家たちが跋扈するこの時代に一線で特出して活躍し、知られた作家が3人います。三大巨頭と呼ばれているのでご存じの方も多いであろう。代表作と作家性について簡易的に書いてみる。
ミステリー作家でもあるアシモフはロボット工学三原則というルールを編集者などの意見を経て発案。この三原則の盲点をつき、ロボット物のミステリー小説などで知られている他、『銀河帝国興亡史』(最近だと『ファウンデーション』の方が通俗的)などで有名です。因みにアシモフは晩年sf小説の殆どを全てこのファウンデーションシリーズに統合し、シェアワールドなども展開しました。そして実はその過程でロボット工学三原則に第零法則が加わっていたりします。読みやすい文章、小難しさがないロボットミステリー小説という側面だけで言えば、恐らく日本人に最も相性が良いsf作家であるといえます。また、ミステリー作家としての面を全面的に書いた作品もあります。主だって有名なものは『黒後家蜘蛛の会』です。こちらは短編小説なのですが、形式などが非常に面白いのです。学者や作家、画家等の6人が議題に上がる謎について考え、行き詰まったところを探偵役としての給仕ヘンリーが解決するというもの。アシモフの博覧強記とも言える知識量が所々につまっており楽しく読める作品です。私が一番好きな回はシャーロキアン的エピソードの『終局的犯罪』です。今の時勢に合わせて読むなら、はだかの太陽ですかね。古いですけれど、そういう時代に現在を描写させるだけのアシモフの考え方、想像力にはとても驚かされます。
・ロバート.A.ハインライン
ジュブナイル性のある作品を大の得意とする作家。その中で骨太かつ大胆な物語を展開し、過激な作品が多いが、その振り切り方は誰にも真似できない。まさしくSFの長老。日本では夏への扉が非常に人気を保っていますが、実はあれは国内のみの隆盛であり世界的にみれば以下の作品群が代表作とされています。
『異星の客』(Stanger in a Strange Land)
最も知られた作品という意味ではまずこれ。ラディカルな内容という意味では頂点となる作品であり火星で育った人間が地球に火星の価値観を持ち込むのですが、フィクションでありながらも、異なる価値観をこうも提唱できるものなのかと驚かされます。実際に最大の問題作であり、ヒッピーカルチャー周辺事情に影響を与えたとされています。ある種奇書といっていいほど読み手にダメージを与える作品です。世界的にどれだけ浸透しているかという点については、本作の造語であるgrok(何を意味するかはぜひ本編を)がオックスフォード辞書に載る程度には当たり前の教養になっていますし、ビリージョエルのwe didn't stop the fireの歌詞の一文に出てくるほどです。
Hemingway, Eichmann, Stranger in a Strange Land
Dylan, Berlin, Bay of Pigs invasion
楽曲もアップテンポですし、歌詞は歴史の流れをバッと振り返ったようなものなので、ちょっとした雑学お勉強にもなります。
『宇宙の戦士』(Starship Troopers)
軍国主義による暴力的な側面がある一方で戦争にパワードスーツで参加するという、日本のロボットアニメを基底を提示した作品、つまりガンダムのMSの始祖的作品でもあります。まぁ、こっちのパワードスーツは人が『着る』もので、MSは人がガンダムに乗る『機乗型』ですので、本当に参考程度だと思うのですが。そういった売り文句もあり、今でも新刊で購入できますが、本作の一番の見どころといってもいいスタジオぬえが描いたパワードスーツの設計書などもろもろの絵が掲載されていないのです。正直魅力半減なので、早いところ早川書房はスタジオぬの絵が入ったver.を出すべき。
『月は無慈悲な夜の女王』(The Moon Is a Harsh Mistress)
21世紀型の革命が描かれた作品。月面植民地が地球に対して独立戦争に挑むというお話、プロット的に「それなんてガンダム話なんだ」と思う人もいるでしょう。よくMS(モビルスーツ)のとっかかりが、同じくハインラインの『宇宙の戦士』からの引用のため、どうもガンダムのルーツとしては版元の早川書房も『宇宙の戦士』を強く宣伝しており、安彦さんに帯まで書かせていますが実際の内容は明らかにこちらが元なので、今からでも富野監督のコメント帯付きでこちらを売ったほうが、ルーツを知るという意味では効果的だとおもったり。
人工知能のマイクというコンピュータが出てきたりと求める要素が入っています。ここは完全にシャーロックホームズとその兄、マイクロフト・ホームズの対比をコンピュータとして描写させています。ここも、シャーロックではなく敢えてのマイクロフトをチョイスをしいるのがポイントだ。マイクロフトが初登場する『ギリシャ語通訳』において、シャーロックをして、こと観察力・推理力の2点においては自分よりもマイクロフトの方が優れた頭脳を持っているという台詞がある。マイクロフトは作中上、イギリス政府の重要役人という立場。それが故に探偵というのは趣味の一環にすぎないが故に、野心と活力というものがないため行動さえしない。ただ、ひたすらに安楽椅子に座り意見を述べるだけ。これは推理小説の中では安楽椅子探偵、いわゆるアームチェア・ディテクティブというもので隅の老人やミス・マープルに代表されるキャラクターの先駆けである。そしてこの安楽椅子探偵の機能性はまさしく計算機の具現している。
(より、分かりやすい言い方をすればデスノートにおけるMとN的とでもいうべきか)
卓越した頭脳と行動的なシャーロックと、それ以上の頭脳を持ちながら非協調性のマイクロフトという図式を思えば、コンピュータの名前として「マイクロフト」を選択するのは必然だなとハインラインの*7料理のうまさを感じれます。
2076年を舞台とした作中においても重要なポジションを占めており、勝ち目のないと思われた革命においても多いに活躍をします。到底1960年代に書かれたことが信じられないと思えるほどあまりに面白い小説なので、マイクの活躍ぶりとその行く末をぜひその目で読んでみてください。少し分厚い手ですがそれを思わせないレベルで面白いです。
今、破天荒な行動で世界を賑わせている実業家イーロン・マスク氏も面白い本としてこちらを挙げています。別に高明な著名人が面白いと言ったから「読め」と薦めるわけではありません。向こうでは当たり前のSF (というよりもSF小説の定番である)というのはさておき、あれだけの実業家ですら「面白い」ということが重要。所詮は赤の他人の感性が感じ取ったものでしかないため、実際に手にとる読み手が同じ面白さを感じられるか否かはそれこそN人N色の感性があるので感想は違ってくるとは思うため無理強いはしませんが、SF作品として、そしてハインラインの数ある著作の中でも面白さ度でいえば『月は無慈悲な夜の女王』はピカイチです。なにより、現在も書店において定価で販売されている数少ない古典SFでもあるため今のうちに買って読んでおいた方が得です。
ハインラインの入門書と聞かれれば場合、中編程度のボリュームの銀河市民ですが絶版ということもあり中々読むのに、というより入手苦労する。もう少し海外の古典SFが読める環境が整ってほしいものです。
・アーサー.C.クラーク
長大であり壮大なスケールのでかい、宇宙のお話といえば代名詞のような作家です。一般的に有名な作品はスタンリーキューブリックと共同で製作した*8『2001年宇宙の旅』が最も有名です。
クラーク単体の作品としては『幼年期の終わり』(1953年)(上の世代だと『地球幼年期の終わり』の方がしっくりくるのかな)が有名ですね。本作はエヴァやまどマギに通底するSFマインド(人類の進化と終末論)を打ち出した作品です。オーバーロードと呼ばれる宇宙人が人類にもたらす壮大なお話です。今読んでも面白い。流石の諸星大二郎の生物都市(1974)も、本作の影響を受けている。とにかく無機質さと精神の拡張や長大なスケールの大きさのお話を書けば一品級のSF作家です。最初に読むであれば『幼年期の終わり』か『宇宙のランデヴー』あたりが丁度良いかと思います。
以上、がいわゆるSF三大巨塔と称される三大作家です。これにもう一人加えるとしたら日本における知名度的にはレイ・ブラッドベリあたりですかね。この作家は科学進化で何かが変わるという目線ではなく、それによって生まれる美しい情景などを詩的で魅せる作家です。、一般的にはファイアマンでお馴染みの『華氏451度』や『火星年代記』などで著名ですが、この人のストーリーテリングの面白さは*9『万華鏡』と『ロケットの夏』の2つの中編・短編にこそ、文章表現の面白さが詰まっていると思います。
そして60年代のシルバーエイジになり、代表作を連発する作家として台頭するのがみなさんご存知フィリップ・K・ディックです。62年『高い城の男』64年『火星のタイムスリップ』68年『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』等を発表と立て続けに傑作を出します。65年にはフランク・ハーバートがSFの大著『DUNE』シリーズを開始しその後の文化圏にかなりの影響力を持つ。女流SF作家のアーシュラ・K・ルグィンはハイニッシュ・サイクル群の作品を発表。この中で一番有名なのは両性具有の異星人をテーマにした『闇の左手』(1969年)ですね。ルグィンはその一年前にファンタジー作家としての最高傑作、といっていいearthsea(日本ではゲド戦記)の第一巻『影との戦い』を出しているところです。これらの小説からもわかる通り、50年代の空気とはまた別の世界観が提示されます。つまりは主に米英作家がゴールデンエイジ(黄金期)に書かれた物語というのは、現実世界に科学技術の論理外挿法(エクストラポレーション)を適応させ、世界観を宇宙レベルで展開することにより、どのような社会になるのかという視点ものが多い。それらに対して、60年代になると、地球自体が異界・異星という見方で構築されている作品群が台頭という流れになります。異星の客が61年に発表された作品というのが大きいのかもしれません。70年代になるとニューウェーブという運動が起こります。代表的な作家はJ・Gバラードとブライアン・オールディス。ここのニューウェーブが何を指すかは一概に言い切れないが、バラードはどういう小説を書いているかというと、自動車事故で興奮する男の話を書いたり(『クラッシュ』)、水分が蒸発することで雨が降らなくなる世界(旱魃世界)、自然物や人間までもが結晶となる世界(『結晶世界』)、気温が上がり水に沈んでいく世界の様の中、人々を描く(『沈んだ世界』)など、外(科学アイディア)の問題ではなく、内向的(人間真理や社会状況へ)な作品ということがわかります。こうした世界観をもつ小説をバラード本人は濃縮小説(コンデンスト・ノヴェル)と形容しています。(終末三部作=『旱魃世界』『結晶世界』『沈んだ世界』)
メフィスト賞界隈作家的に言えば、清涼院 流水が大説家といってしまうあの感じ。
ブライアン・オールディスは、「地球の長い午後」という作品が非常に有名です。
遠未来の自転が停止したことで昼と夜のみが訪れる地球にて人間は退化、巨大な昆虫や肉食動物こそが跋扈し、支配しているという大胆な設定で有名な作品があります。本作の何よりの魅力は、想像力を限界まで引き出すか如く生態系の名前がたくさん出てくることです。実際にある植物名と創作された名前とが混合しているので、いい意味で作品内における説得力があり、読んでいて楽しいです。地上を制した最強の生物のベンガルボダイジュ、空中生物のツナワタリ、寄生した生物の知能となりその生物を操ることで生き延びているキノコのアミガサダケ、そして茎を利用し、海をも渡ることができる植物アシタカ等が代表的な例です。他にもあらゆる植物や登場しますが、どういうのがあるのかという話ではありますが、物語として体感した方がお得なので、ぜひ読んでください。貴志祐介の『新世界より』のギミック的な意味でのネタ元であり、またこれとDUNEを足して2で割ると風の谷のナウシカの世界観が生まれます。アシタカはここからとったのかと思えますが、ゲド戦記の主人公の名前ハイタカを変換させたものとも考えられますし、なんとも言えませんね。
他のブライアン・オールディスの作品ですと『スーパートイズ』がオススメです。これはスピルバーグ監督(元々キューブリック作品のはずが逝去したため引き継ぎでスピルバーグとなった)のA.Iの原作小説でもあるので、映画との相違点などを楽しむ視点で読むと言ったこともできます。どちらの作品においても、外の方向ではなくやはり内に向かっていく作風であり、ニューウェーブ的であります。そして時は80年代に入るとウィリアムギブスンが84年にスプロール三部作の一弾ニューロマンサーを発表し、その後は続編『カウントゼロ』『モナリザ・オーバードライブ』を出し、以降ブルース・スターリング(1988年に発表した『ネットの中の島々』では近未来ポリティカル小説を展開。飛来してくる無人機による銃殺など現在でいうドローンによる攻撃などを描写するなど、かなり腕のある作家)やルーディラッカー等がサイバーパンクの盛り上げをみせ、我々が想起するような電脳空間等のイメージソースが出来上がってきます。
どちらかと言うと日本における電脳世界だなんだというのは、翻訳家の黒丸尚という方が翻訳をするときに、漢字にルビを振ったことでより、作品としてのイメージを掴めるようになった影響が物凄く大きいのですが。恐らく、現代SF的イメージというのはここに集中している。現実にネットというものが発達したこともあり、この世界のイメージから未だに抜けきれていない。
90年代以降はテッド・チャンとグレッグ・イーガンの二大巨頭が本格的な小説を出してきます。テッドチャンはこだわりのせいか、20年以上作家をしているのにもかかわらず、短編集と中編集がそれぞれ一作しか出されないほどの相当な寡作作家(2冊で履修完了)ではありますが生まれる作品は『あなたの人生の物語』や『理解』、『息吹』などの卓越した作品を残しました、イーガンは幼少の頃から学術に才覚を発揮していたタイプの作家であり、量子力学や認知科学、宇宙論といったものをテーマに万物理論、ディアスポラ、順列都市などといった作品群を発表しています。そんなこんなで00年代、10年代と時間が経つわけですが、今でもこの二人がSFの到達点といえるような作品を出しているおかげで、SF入門といえばチャンとイーガンを読んでおけば良いという風潮もあったりします。
チャン→『あなたの人生の物語』・『息吹』
チャンのあなたの人生の物語という素晴らしい邦題、はてなブログのキャッチフレーズにも引用されています。
「書き残そう、あなたの人生の物語」
運営自体が2011年なので間違いなくチャンの作品から取られたものです。
では国産はどうかという話ですが、国内作家だと伊藤計劃的な物語自体はマンハント(犯人追跡)物でありながら、核となる面白さ味を外挿法的なアプローチを組み合わせ、近未来・サイバネティクス的なガジェットなどを出てくる作品(『ハーモニー』『虐殺器官』)。或いは、冲方丁的なバトルのギミックとしてsfを飾り、キャラを立たせることでドラマが出るタイプ(『マルドゥック・スクランブル』)の作家や神林長平といった現実の認識に歪みをもたらす作家(『戦闘妖精 雪風』『猶予の月』『言壺』)などがいますが、基本的に海外SFは研究者や科学者が本業職業の方が書いているケースが多く、日本的な職業作家でSFというのはそんなにいない。故に先述した、論理外挿法がより強固なものになるのに加え、海外ではSFを読むことが日本よりかは基礎教養の部類にはいるため、結果的にシリコンバレーで活躍するような実業家たちにヒントを与える作品になりやすい。科学の発達によってどのような世界が生まれるか、という考え方は時代の影響もあり、主に50年代のSF小説で提示されていることが多く、考え方自体は今読んでも多角的な視野の一つとして噛んでおくのも一興かと思われる。いわゆるサイバーパンク以後のSF小説も、それらの考え方・見方統合されているからこその世界であることからアイデアそのものにそこまで変化というのはない。
日本SFは単なる物語として書いている作家or日本人的に共感できるなリアリズムを想定して書いた作品が大半を占める気がする。例外はあれど単にSFといってもその内訳には海外SFと日本SFとで明確に作り方からして枝分かれしており、その時点で作り方や、物語そして読了における効能は全くの別ものだと感じる。
ではSF史を軽くさらったところで平沢進が影響を受けた作家について紹介していく
カート・ヴォネガット
どうか 愛をちょっぴり少なめに、ありふれた親切をちょっぴり多めに
(『スラップスティック』の一文より)
荒唐無稽なSF的要素を展開し、シニカルでありながらユーモアのセンスを兼ね備えた作品や莫大なお金を手にした人間を焦点に描かれる文学的な作品などを発表し、アメリカSFのみならず、米文学作家として評価されたカート・ヴォネガットという作家がいます。訳者の浅倉久志文体含め、日本の作家にも影響を与え続けている作家です。
主な代表作は
あたりだろうか。一般的に言われるのは上3つだと思ってください。
ではそれぞれ代表作3作品がどういう作品・世界観か紹介をします。
主人公のウィンストンナイルズラムファードとその飼い犬が時間等曲率漏斗(クロノシンクラスティックインファンディブラム)に飛び込んだ結果、未来を見通す存在になり、以来時空の波動現象として存在し、波動と地球が交差するタイミングで実体化できるようになり、世界中どの場所にもどんな時間軸にも行ける存在になる。人類を導くためにそれらの力を利用し、地球から火星、水星等に大冒険するというお話です。
時間等曲率漏斗(クロノシンクラスティックインファンディブラム)
- 過去に存在したもの未来でも存在を保ち続け、未来にあるものも、これまでも常に存在する
というものです。かといって未来や将来の運命というのは変えられないというのが本作が提示した決定論/自由意志の考え方。言い換えれば自分が死ぬところまで全部見えるが、だからといってそれらの運命を変えることはできず不変であるということ説いている。類例として挙げるのであればベルセルクでいう因果律的に近い考え方なのかな。作中のゴッドハンドであるボイドの台詞の中に「全ては因果律の流れの中に」というものがあるが、その因果律が見える状態になると思えばわかりやすいでしょうか?
さて、往年のファンであればここでP-MODELのbig bodyのtrack5.のタイトルを想像したでしょう。「時間等曲率漏斗館へようこそ」。つまり、過去⇄未来にそれぞれ存在するものがある館へようこそというコンセプトが貼られた作品ということになる。
旧来は5屠殺場というタイトルのものだったが、今ではスローターハウス5で通っているこの作品は作者がドレスデンで捕虜であった時の経験を元に発表された作品である。2章〜9章にわたって描かれる痙攣的時間旅行者 ビリー・ビルグリムの生涯は、痙攣的というところからもわかる通り、通常の時間軸では語られず転々と場面が変わっていくように進むというのが本作の特徴的な点です。時間旅行やトラルファマード星人という過去現在未来を一望できる存在であり、それらは既に既定路線であり、変えることができないと主張(=自由意志の否定)を持つ異星人に誘拐されるといった要素も本書の醍醐味です。本書を形容する台詞として「そういうものだ」という一文がある。これが何を意味しているかは是非その目で確かめてみてください。
・猫のゆりかご
本作は終末ものと言っていい作品です。
物語は語り手でもあり、キリスト教に傾倒していた「ジョン」が世界が終末をむかえた日についてという、広島に原爆が落ちた時にアメリカの重要な人物が何をしていたかの記録本になるはずであった。それらの執筆するために、取材を重ねていくうちに、カリブ海の孤島にてサン・ロレンゾ共和国にてボコノン教に出会い、そこで改宗をし、かの有名なフレーズ「嘘の上にも有益な宗教は築ける。それがわからない人間には、この本はわからない。 わからなければ、それでよい。」と語りかけた上で、改宗までのお話を展開する。というお話です。本作には、ボコノン教といった架空宗教やフェリックス・ハニカーという作中で原爆の父と呼ばれる人物が開発したアイスナイン(架空物質)が出てきます。最近、ゴジラSPという作品にて引用されていたので、名前だけでもご存知の方は多いのではないでしょうか?これは常温で水を結晶にして氷に変えてしまうという物であり作中で非常に大きな役割を持ちます。タイトルの猫のゆりかごが何を意味しているのか、という点を含め大変面白い小説です。内容についてはぜひ、読んでみてください。架空宗教云々という意味では本作はハインラインの異星の客的であり、ディックでいうヴァリス的と言えることができます。
・プレイヤーピアノ
本作は1952年に刊行された小説であり舞台は架空都市イリアム。第三次世界大戦後の世界を描いており、その実テーマ性で言えばハクスリーのすばらしい新世界や、オーウェルの1984のテーマを受け継いでいる作品(=機械文明の成れの果て)でもあり、読み応えのある作品。生産工程が全て自動化され、人間の行く末をパンチカードが決めているという世界観、つまりタイトルのプレイヤーピアノもプログラム構成された自動演奏ピアノという意味である。をもちつながら、登場人物の複数のエピソードが最後に集約されていく様はデビュー作でありながら既に確立されたものである。
・ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを
大富豪ローズウォーター家の跡取りであるエリオット・ローズウォーターは、財産を使い、慈悲文化団体のローズウォーター財団をたちあげ
ローズウォーター財団です。なにかお力になれることは?
というキャッチフレーズの元人々を救済する事業に取り組んでいる。しかし妻であるシルヴィアはエリオットと同様に振る舞うことができず、ついには2度の神経衰弱まで起こしてしまい、それをしったエリオットは、自身が良かれと思っていた行為によってシルヴィアがどれだけ傷ついたかを知った結果、エリオットは自己喪失をしてしまいます。この物語には、ノーマンムシャリというキャラクターが財団の転覆を狙うのだがそこのお話自体は割とどうでもよく、エリオットが抱く「生まれついた環境で貧富の差が決まる」事による不満不平から生まれる博愛主義的な慈善事業行為に対して、読者に提示しているであろう、「有り余る大金をもっていたら」というというに対して、自己利益に費やすことが果たして正しいのであろうか?と問いただされるような気持ちにさせてしまう。この本の読者はエリオットのような利他的行動をすることは難しいからこそ、本作に感動できるという、少しばかり文芸的な小説です。
カートヴォネガットは架空の作家を自分の分身として劇中に登場させるといったこともやってのける。SF作家キルゴア・トラウトという名前で、ヴォネガット作品では彼の名前と作品が度々登場する。ここでキルゴア・トラウトの作品名を一部列挙してみる。
こういったタイトルなのだが、いかにも平沢進が好きそうなタイトルだなぁと思うのは私だけでしょうか?。因みに劇中に架空の作家を用意するという手法、某作家がデビュー期に思いっきり真似をしています(後述あり)
しかし架空でありながらもキルゴア・トラウトの貝殻の上のヴィーナスは*10実際に出版されている。そして表向きはトラウトとしつつも、実際に執筆したのがフィリップ・ホセ・ファーマー。ヴォネガットがスタージョンの名前を元に自身の分身キルゴア・トラウトを生み出し、その彼の作品をファーマーを通して出版するという点においてここを平沢進が通っていないはずがない。
絶対本棚のどこかに貝殻の上のヴィーナス置いてあるぞ。
シオドア・スタージョン
人間以上という小説は超能力をもった少年少女、そして赤ん坊含む5人(ホモゲシュタルト)のお話。ここだけ聞くと、終始バトルものと思いがちですがそうではなく、5人がそれぞれが群生精神として合体することで集団超存在=1つの個として成っていくという、どちらかというと共生的なタッチの作品です。過程としてのバトルはありますが。
- 人の意や記憶・心を読むることができ、瞳で他人を意のままに操れるアローン
- アローンと同じ能力をもつジェリイ
- 少女ジャニイはテレキネシスの使い手
- 瞬間移動できる黒人姉妹
- *11モウコ病を患いながらも人間コンピュータの脳を持つ赤ん坊
この作品、某キャラクターが暴走してしまうのですが、そのキャラクターにかける道徳という言葉をかけることによって解決させる場面があり、ここが文学的と表現するには大袈裟かもしれないが、スタージョンのイズムを感じる上手い所。
フィリップ・K・ディック
米SF作家きっての鬼才、フィリップ・K・ディック。代表作の『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?(1968)』は日本語独特の和訳性を持つタイトルの響きもあり、本作を読んだことがない人ですら、器だけを借りた全くの別の世界を描いた映画『ブレードランナー』や、パロディを通して作品名は知っているという人も多いであろう。ディックの作風というのは確かな世界は裏にあり(パラレルワールド)、実世界は偽物であるという世界観が主な作家性であり、その一方でアンドロイドという物の存在について語るといった作品が多い。今ではすっかりSF作家の代名詞的な存在となったディックですが、実はオーディス同様、自身の小説を純粋小説と名付けているほど、本来は純文学を志向していた作家でもあります。市に虎声あらん という小説はルサンチマンが爆発している本であり、一部ではディック版ライ麦と形容されるほどの内容ですし、ティモシーアーチャーの転生になるとどこがSFなんだと言いたくなるほどです。ただそういう作品のほうが力作的な筆力を感じられたりするものです。
ディックの作品群にはひとつの雛形があり、その後にそれらを流用した間接的な続編ものもあります。例えば、電気羊のプリスという人物は、それ以前に書かれたあなたを合成します(1962)という小説に登場します。この作品はモーリィとローゼンの二人が元々は電子オルガンを作ってる会社が売上が乏しかったことから、南北戦争ブームに合わせて、リンカーンとスタントン将軍の擬似体(シュミラクラと呼称されるがようはロボット)を抱き合わせで企画を売ろうとしたら、相手に一枚とられ、それらのデザイナーやエンジニアを引き抜かれその技術を用いて、人間のシュミラクラを量産し火星移住民にしよう、、というのがおおまかなあらすじなのですが、ここにプリスという荒々しい女性キャラクターが登場します。プリスといえば、電気羊にも雌型のアンドロイドとして登場するキャラクターですが、電気羊にて、登場するのは決して偶然ではなくテーマ的な流用があったと考えることもできる。その間に本作で機械人形を指す、シュミラクラという単語のタイトルで1つの作品を挟んでいるため、それを含めて姉妹作三部作といっていい。内容的にも作品的にもあまりにも電気羊が有名なので、軽視されがち(というよりもあなたを合成します/シュミラクラ)のスピンオフ作品を読んでいる人は中々いないと思いますが、より楽しみたいのであれば是非読むべきです。面白いかどうかは別。
ヴァリス三部作(『聖なる侵入』『ティモシー・アーチャーの転生』『ヴァリス』)は面白いですが、ディック入門には厳しすぎるので、何作かよんで、ディックがどういう作家なのかということをわかってから読んだ方がいいです。それを前提に個人的なディックのおすすめをあげるのであれば
- 『ユービック』
- 『スキャナーダークリー』
- 『火星へのタイムスリップ』
ディックは今でこそ全世界的に支持され、有名映画の原作として知られたり、ネタ元として引用されたり、独特の世界観から映像クリエイターに好かれているが、実はそれらは死後評価であり生前、作品のレベルに対しての対価は薄く、ハインラインからお金を借りるという経済状況であった。世の中不思議だなと思うのが、こと海外出版事情は存じないが、日本においてはディックの作品はほぼ翻訳され、売れ続けており絶版したものが少ないという点にある。海外SFに馴染みのない日本でなおかつ、出版元が絶版度の高い早川書房において一人の作家でこれほど支持されているSF作家は他にいない。ミステリー枠でのクリスティ文庫でクリスティ作品がいつでも読めるが、あれは世界で20億部を売り、最も売れた作家だからこそであろう。日本ではそのくらい特別な作家になったといえる。先にかいたSF三大作家にしろ、代表作の数本こそ売れているが、翻訳全作品という視点に立ってみると圧倒的に絶版が多い
(これは早川が翻訳権を独占するわりに出さないからという見方もできますが、日本でSFは売れないので致し方ないのかな)
1984の世界
作品名のほうが知られているので例外的に作品タイトルにした。エリック・アーサー・ブレア(オーウェルの本名)の『1984』ほど、現代に染み付いた物語や設定もそうそうないであろう。出版から100年も経たずして全世界的に知名度をたらしめた小説というのは特出した何かがあるのだ。島田清次郎の『地上』のような末路を辿ることもないであろう(『地上』のような末路の意味がわからない人は個々で調べてください。ある意味、島田清次郎という作者及び著作を分からないというのがこの場における答えでもありますが)。では、何故そこまで支持され続けるのか。そもそも『1984』がよく出来た小説であり、それが読み手にとって爆発的な広域で絶大な影響をもったことと、作中で登場する設定のシンプルかつ魅力的な単語が第1にある。
まずは1984というタイトル。これは完成したのが1948年だったことから48を逆にして生まれたタイトル。そしてもう一つ、あり得たかもしれないタイトルがヨーロッパ最後の人間という仮題であった。後者もそこまで悪くはないし、オーウェル自身も1984の方が「やや」気に入っていると書いた記録が残っているので前者になった可能性もあるが、総合的に見てやはり1984が正解であった。それにかこつけて実際の1984年と重ね合わせて、世界がどうのこうのという、鬱陶しい識者がいたりするが。
シンプルかつ魅力的な単語と書いたがざっと挙げるだけでも
がある。
そして第2に、読み方の変容があると考える。つまり、最初は全体主義の恐ろしさをフィクションに落とし込むことで文学的な成功を制し(ご存知の通り、オーウェルは出版後まもなく亡くなったので、今日に至るまでの評価というは明らかに死後評価なのだが)そのラインで読者を魅了していたのがいつしか読み方が変わり、ある種一つの寓話的なポジションになった(登場人物は動物ではないが)。そしてそういう形で古典として今尚読み継がれている本が存在する。それはスフィストの『ガリバー旅行記』だ。あの本は18世紀の風刺した内容であったのが、今では、基本的には子供が読む童話として読み継がれているにポジションに落ち着いた。まぁお話内に、普遍的な物語が組み込まれていたということだ。
謄本と抄本の両方で成立しうる作品と書くべきか。
- 謄本=フル尺で読む=社会人的に分かりやすい言い換えをするなら登記簿謄本
- 一部分編を切り取った物語=岩波少年文庫版=抄本
つまりは旅行記四篇として
があるが、おそらく大半の頭の中にあるお話はリリパット止まりであろう。そう言う人は是非、全編を読んでください。本作も『1984』と同様に言葉の妙といった単語や設定がある。
少しだけ紹介すると第三編にはラピュタも地名として登場しますし、*12バルニバービの医者の話は二人の脳をつなぎ合わせることで政党の争いを止めようとしますし、グラブダブドリッブ国は人間の堕落を描き方はフィクションならではですし、第四編フウイヌムでは野蛮種族として*13Yahooというものが出てきます。『1984』でもnewspeakをnews picksというもじりに変えたメディアが存在するので、こういう点も含め非常に似た何かを感じます。オーウェルがガリバー旅行記を『1984』を書く時に意識をしていたかどうかは別として、『ガリバー旅行記』を通してスフィスト論を書いていることからして、マインドと意味では当然あったと言える。同じ出身国という意味でも殆ど同郷に近いため、作家としての尊敬はあったはず。
『1984』はディストピア物の傑作と謳われ続け、あらゆるメディア、ウェブサイトにそのような記述がるが、面白いことに実はディストピアという単語は当時には存在しない。
ユートピア自体がトマス・モアが1516年にギリシャ語の善き場所をさすeu-toposと存在しない場所を指すou-toposを合体させた単語としてのユートピア。ディストピアの初出は記録上では1868年のジョン・スチュアート・ミルでの演説とされているが、その場限りの単語としての機能性が高かったと思う。また、オーウェル自身がディストピアという単語を知っていたとも限らない。オーウェルは出版直前に書かれた手紙において、1984のことをこう書いている
My new book is a Utopia in the form of a novel
意訳すると私の新しい本は、小説の形をとったユートピア小説だ。となる
仮に、ディストピアという単語が1949年時点で定着していたのであれば
My new book is a dystopia in the form of a novel
と書いていても変ではないのにutopiaということはその当時、一般的な単語として知れ渡っていないことがわかる。いまもどちらかというと俗語の類だが。
そして、一見相反するディストピアとユートピアに違いはないということが分かる。行き過ぎた高度社会になった世界は窮屈であるというのは伊藤計劃の『ハーモニー』で書かれたように自由と健康を天秤にかけ、健康が優先されてしまった世界では不健康な自由というものが統制されている。なので本質的には理想郷の成れの果てがディストピアという考えでいいのではないかとも思うである。言葉としての響きなどが美しいため、今ではディストピアという単語が跋扈していますが、元々そういうディストピアを目指して書かれた小説ではないということだけは書いておきます。
もう少し、補足をすると、同じくディストピアものの小説だとオーウェル以前にハクスリーやザミャーチンがそれぞれ『すばらしい新世界』(1932年)『われら』(1922年)を執筆。『1984』と合わせて代表的な三部作という括られ方もします。すばらしい新世界とわれら共に幸福のために自由を犠牲にしているタイプの本です。ハクスリーに至っては、オーウェルと同じイートン校出身である所が運命的だなぁと思う。1908年にハクスリーが入学、1917年にはフランス語で1年間教鞭をとるわけだが、時を同じくして17年にオーウェルが入学。教師と教え子の関係でもあったわけである。そしてフォロワーとして1917年に生まれたアンソニーバージェスが1962年に『時計じかけのオレンジ』を発表。本作も今や基礎教養の部類として位置づけられているが、明らかに1984をベースにしていることは誰にでも分かる。
(顕著に出ているのがルドビコ療法と101号室の拷問)
それを裏付けていることを示す書籍もある。バージェスは『1985』という本を出しており、バージェスの1984論を架空インタビュー形式で書き、その後自作としての1985という作品を書いている。そういわけで1984について書いてきた訳だが、本作の凄い所は作品自体を読んだことがない人であっても1984的なものを見聞きすることで潜在的に「こういうもの」というイメージソースができていることだ。そして今後も未来永劫元ネタにされ続けることで永遠に愛される作品になるであろう。
平沢進が影響を受けたSF小説作品群
ではこれらの作品群+、海外SFの中でどういった作品群に影響を受けたのか。ご本人が公言しているものと書き手が思う作品を列挙してみた。
- 『タイタンの妖女』(カート・ヴォネガット)
- 『スローターハウス5』(カート・ヴォネガット)
- 『猫のゆりかご』(カート・ヴォネガット)
- 『プレイヤーピアノ』(カートヴォネガット)
- 『ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを』(カートヴォネガット)
- 『人間以上』(シオドア・スタージョン)
- 『DUNE』(フランク・ハーバート)
- 『ヴァリス』(フィリップ・K・ディック)
- 『高い城の男』(フィリップ・K・ディック)
- 『ユービック』(フィリップ・K・ディック)
- 『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』(フィリップ・K・ディック)
- 『言の葉の樹』(アーシュラ・K・ルグィン)
- 『闇の左手』(アーシュラ・K・ルグィン)
- 『1984』(ジョージ・オーウェル)
- 『われら』(ザミャーチン)
- 『果てしなき河よ、我を誘え』(フィリップ・ホセ・ファーマー)
- 『夢みる機械』(諸星大二郎)
- 『銀河鉄道の夜』(宮沢賢治)
- 『ソラリス』(スタニスワフ・レム)
- 『しあわせの理由』(グレッグイーガン)
- 『原人・人類・新種』(ロバート・J・ソウヤー)
- 『SLAN』(A・E・ヴァン・ヴォークト)
- 『宇宙船ピーグル号』(A・E・ヴァン・ヴォークト)
『DUNE』・『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』・『1984』・『銀河鉄道の夜』あたりはどんなアーティストであっても絶対的な影響を与えている四傑といっても過言ではないほどモチーフにされ続けているのでそこまでの発見はないし、作家として見た時のディックも、彼の世界観を意識した作品は先に書いた通り。次点として、夢見る機械もわりとパロディされやすい。随分前に世にも奇妙な物語にて、窪田正孝主演で映像化されましたし、一般的知名度はそこそこありますね。ここまでは平沢進でなくてもありふれた光景ではあります。音楽で取り上げるにしては中々独特だなと思うのが、ファーマー・ヴォネガット・スタージョン。この一風あたりが文芸作家や評論家への影響ならともかくアーティストとしてのイメージソースに使っている人は珍しい。
平沢SF世界観はどういう形容をすればいいかという話ではあるのだが、ふと思ったのが虚淵玄が脚本を執筆した『psycho-pass』というアニメが放映された時、作中のラスボスに槙島というキャラクターがいるのだが、これがかなりクセのある人物で、SF小説や哲学書のほかシェイクスピアものを暗唱するため中々奇抜なセリフが多く、(その上CV:櫻井孝宏という完璧なキャスティング)、当時あらゆる人が衝撃を受け、*14引用文献を読み漁る人が大量に出たのですが、手下との人物との会話でこういう台詞がある。
槙島:普通でない街か。なんだろうな。昔読んだ小説のパロディみたいだ。この街は
手下:例えば、、ウィリアム・ギブスンですか?
槙島:ジョージ・オーウェルが描く社会ほど支配的でなく、ギブスンが描くほどワイルドでもない
台詞自体はあくまで、PSYCHO-PASS内世界を比喩的に説明しているシーンですが捻りをきかせた上で言い換えてみたらこの一文は平沢進の世界観を説明するに実は有効ではないのかと思う。(引用文献を相手が読んでいることは前提として)
アニメPSYCHO-PASSも未見の方は是非。1期だけ見てくださいそれなりに面白いです。
平沢進の世界観より読み解く映画群
このパートは完全に公言している作品以外は書き手の推測でしかないのですが、考えてみるのもまた一興です。これはビジュアル的に影響を受けているのではないか?と視点がメインになります。基本的にはその世界ではSF映画です。
基本的に、どの映画がどうというよりもSF的教養と感性からしてこれは絶対みて、どこかで影響を受けているであろう。と言ったところ。本来ならそれぞれについて個別に語り出すところですが、そうすると別の特集になり、文字数が9万字を超えているため省きます。
ロケット開発興亡史
せっかくなので、上記の人々がそれぞれどのような流れかをさらってみる。
ヴェルヌに影響を受けたのがツィオルコフスキー、反作用利用装置による宇宙探検(1903年)を発表。あまり知られていないが、多段式ロケットや宇宙エレベーターなど、われわれの宇宙に抱くイメージソースというのは、ほぼツィオルコフスキーが提唱した。一方、ウェルズに影響を受けたのがゴダード、彼は液体燃料ロケットを打ち上げに成功(1926年)しその後、ロズウェルに研究所を立てるのだが、ロズウェルということからも分かる通り、後の1947年、ロズウェル事件(UFO墜落)があることを考えると、なんとも面白い偶然であると思ってしまいます。ヘルマンオーベルトもまた、ヴェルヌに影響を受け、惑星間宇宙のロケットという論文を発表(1923年)、オーベルトは宇宙旅行協会(ドイツ宇宙旅行協会)に属しており(創立に一役かった人でもあります)若きヴェルナーフォンブラウンもここの愛好家団体の一人であった。そのフォンブラウンはV2ロケットを創ったのちに、戦争の影響にて、アメリカに亡命。歴史の面白さがここで発生。そこで合流するのがウォルトディズニー。ウォルトディズニーは当時、ディズニーランド建設のためにアメリカン・ブロードキャスティング・カンパニー(通称ABC)にて、番組名としてディズニーランドというものを放映。4つのテーマランドを展開していた
- アドベンチャーランド
- フロンティアランド
- ファンタジーランド
- トゥモローランド
そしてトゥモローランドにて、そこにフォンブラウンを起用、まだ宇宙が夢の時代出会った時代であり、そこでいかにしてロケットを飛ばすかというプレゼンすることでアメリカ人を熱狂させ、その後アポロ計画、スカイラブ計画時にサターンV型に貢献。
色々な計画名で知られているので、どの時代か分かるように年代順に並び替えるとこう
- マーキュリー計画(1953-1963)
- ジェミニ計画(1964-1966)
- アポロ計画(1961-1972)
- スカイラブ計画(1973)
- アポロ・ソユーズ テスト計画(1975)
- スペースシャトル計画(1981-2011)
今でもサターンV型は全高や推進力などあらゆる点において、最大の数字を誇りギネスまでにも登録されている。
一方でコロリョフはドイツから亡命したフォンブラウンにソ連が用意した科学者です。当時は時代の情勢もあり、暗殺が懸念されていたため、主任設計士として呼称されていなかったわけだが、この人はご存じスプートニクの開発に加え、世界初の大陸間弾頭ミサイル、R-7ロケットやソユーズの打ち上げに成功とこれまた偉大な人物である。なぜロケット文化なのかと思う人もいるが、これは単に、そういう世代だかと考えるのが自然でしょう。一時期の怪獣ブーム(『ウルトラQ』およびそれ以降の円谷特撮)にハマった人たちが60年代生まれのクリエイターに特撮の洗礼を浴びた人たちが(俗に言えばオタク第一世代)に爆発的に多いのと同様に。単純にそういうものが好きだったという可能性もあるが、ソ連vs米のロケット競争は先に書いた通り、史実として面白い。69年の人類が月に着陸するという偉業さえもリアルタイムで経験していると、並々ならぬ影響を受けるものだと考えた方がいいでしょう。全世界的に宇宙ブームというのは間違いなく発生していて、そう言う事象は例えテレビやラジオを通しても、いやむしろラジオなどの媒体を通すからこそと書くべきか、その世代に絶対的なものとして刻まれる。と同時に、60年代初頭には怪奇・SFテレビシリーズとしての『アウターリミッツ』」や『トワイライトゾーン』といったドラマ作品があります。生まれ年から逆算すると間違いなくそういったものに影響を受けている。実際に、それに即したタイトルを想起させる楽曲やアルバム名があります。
以下、4タイトルは『アウターリミッツ』のエピソードのタイトルの一部です。
- 「生まれてこなかった男」
- 「ガラスの手を持つ男」
- 「異次元からの来訪者」
- 「38世紀から来た兵士」
これを見た後に
- 「ホログラムを登る男」
- 「ナーシサス次元から来た人」
といったアルバムのタイトルや楽曲を見ると顕著にアウターリミッツ味が出ていることが解ります。
ここまで、平沢進の世界観を構築するSFやそれに関する事象や人物について書いてきたわけだが、要するに平沢進はSF素地が物凄く高い。明かしていないだけで相当読み込んでいると思う。その上で、あらゆるネタを音楽に仕込んでいる。平沢進だからこそという意味で、変なタイトルを担う要素はSFに集中していています。
平沢進はあくまで媒体が音楽であっただけで半歩ずれていればSF作家であっただろうしだからこそ、こういったツイートが出てくるのだと思う。ここまでの流れを考えれば当然の流れだと思います。
私に1年間の暇を与えて長編SFを書かせるのはどうだ?
— Susumu Hirasawa (@hirasawa) 2021年11月14日
2~3年音楽活動しなくてもよいなら、SF小説を書きます。
— Susumu Hirasawa (@hirasawa) 2017年9月19日
大御所クリエイターにありがちなSF教養の高さのある傾向というのが平沢進にも当てはまると言えます。雑話だが、この流れで平沢進とほぼ同じものに影響を受けている国民的な作家がいる。もやは説明するまでもないが、それは村上春樹だ(1949~)。彼と通底する所が見受けられる。第一にカートヴォネガットの強いフォロワーであること。デビュー作にあたる「風の歌を聞け」に登場する架空作家はキルゴア・トラウトのような存在(モデルはシオドア・スタージョン)、つまりは*15デレク・ハートフィールドという架空の作家を用意し、アフォリズムを用いた文体などから推察するにヴォネガットのコピーといって差し支えない。そして文体は役者の浅倉氏のものを引用し続けている。ユング研究者の第一人者である河合隼雄とも複数回に渡り対談していることからも、カール・グスタフ・ユングのイメージを創作ソースとする点も共通。第二に1984の影響。09年に「1Q84」という本を出すところからも共通項。村上ワールドにも所々、ロケット開発の歴史の中で生まれた事象を通っているところが見え隠れする。とりわけコロリョフが飛ばしたスプートニク=世界初の人工衛星です。これらの影響で『スプートニクの恋人』という作品を出していることからもそれは明白であります。たしかに作品そのものにスプートニク、というか宇宙系の要素は一つも登場しない。1-6章の国立編/7-14章のギリシャ編+15章のにんじんくん編という異様なチャプターを挟んだのち、16章エピローグというどれをとっても、それらしい話すら出てこない怪奇なラブストーリー。そんな小説にスプートニクを使ってくるのは60年代のロケット開発の背景を程度の差異はあれど、なにかを意識していたからではないかと思う。もう一つそれらしい補助線を引くのであれば言うまでもなくビートジェネレーションとその様式に影響を受けた所謂”ビートニクス”にかけているといったところでしょう。ケルアックやサリンジャーあたりに影響を受けていることはもはや教養のある人からしたら当然でしょうし、多くは語りませんがその路線としてみたほうが”村上春樹”としては語りやすい気もします。単に響きがかっこいいからというパターンもあるがそこまで安直な作家ではない。
そのため、平沢進の作風のどこかに村上春樹の雰囲気を感じるという人をよく見かけますが、あれは正しい感性と言える。影響元が同じと言う点では、創るもの媒体が異なれど似てくるものである。
ニコラ・テスラ
ニコラテスラはエジソンと同じく高明な科学者だが、今ではテスラというとイーロンマスク氏の会社名で通っているのであろうか。どのみちニコラ・テスラから来ていることは間違い無いのだが。高圧の蒸気エネルギーを羽根車に吹き付け軸とを介して回転する外熱機関のテスラタービン、共振変圧器のテスラコイルをはじめ、身近な物だと無線、ラジオ、電子レンジ、蛍光灯、リモコン等があり、学術的な面であっても磁束密度を指す1テスラという国際単位系にもなっており、病院に設置されているMRI(Magnetic Resonance Imaging)などで1.5Tや3.0Tという表記にも使われています。このようにどこかしらでテスラの功績を享受している我々にとっては偉大な人であるのにもかかわらず、知名度の点でいえばそこまでではないのが不思議ですね。ニコラ・テスラ本人の知名度の低さに反してコロラド州のコロラドスプリングスで撮られた以下の写真は非常に有名ですね。
実現しなかったものとして挙げられるのが世界システムというもの。
テスラコイルによって発生した電磁波を用いて、無線で送電を行うというもの。これが成立していれば、地球上のどこにいようと、信号・文字、メッセージなどが、瞬時に送電できるとテスラは考えていたわけです。この計画が成功にしていた場合、世界システムによって発生した電気的活動が世界中の設備とで相互連結ができるという代物になるはずであった。建設場所はアメリカのロングアイランドにかつて存在した、ウォーデンクリフ・タワーを予定していた。
計画そのものは大西洋横断無線通信において、グリエルモ・マルコーニが先に成功させたことで、今では*16五大財閥の一角の創始者で知られているジョン・モルガンがテスラの資金繰りから撤退したことなどが原因で頓挫したが故に、未完に終わったものである。がしかし、現代においても、その都度言及されるという意味ではやはり魅力的なものなのであろう。
ちなみにC.ノーランのプレステージというクリストファー・プリーストのSF小説が原作の映画にてテスラが登場するのですがそれを演じているのがデヴィッドボウイというのは平沢進の音楽史を振りかえって考えれば出来過ぎな気もします。米音楽バンドでもアメリカでは名前をそのまま引用したテスラというバンドがいます。『Mechanical Resonance』や「The Great Radio Controversy」といったアルバム名含め、すごく薫陶している感があります。ニコラ・テスラといえば、彼を支えた人物にヒューゴー・ガーンズバッグという人物がいる。この人は20年代(1926年)に世界初のSF雑誌『アメージング・ストーリー』を創刊、創刊した発明小説を中心で載せたことでも知られ、あるいは、ギブスンのガーンズバッグ連続体等での引用、そして今現在翻訳SFが売り出される時にヒューゴー賞受賞といった文面があるが、あれも彼の名前からもじられた賞タイトルであることからして、SFの文化の一角を作った人であることはお分かりであろう。作家としても活動し、『ラルフ124C41+』(1911年)という作品を発表していたりします。こういった人物がテスラとつながっていたことで、SF的なイメージソースにテスラの開発品などが土壌の一つを担ったことは間違いないであろうし、それすなわち、SF世界観とテスラを引用する平沢がこの延長線上にいるということでもある。このことを考えると外せない人物であることが分かります。
ホフマン・フロイト・ユング・超現実主義
ユングについては語るにはまずジークムントフロイトがいて、そのフロイトの精神分析はのちに、芸術運動としてシュールレアリズム(超現実主義)を迎える。それらの思想体系の元になったのはフロイトが*17不気味なものとして挙げた作品がETAホフマンの『砂男』がある。というわけで、まずホフマンの幻想文学から紹介する必要があるであろう。ホフマン作品で最も有名なものは、『くるみ割り人形とネズミの王様』。バレエでお馴染みチャイコフスキーのくるみ割り人形は、実はホフマンの作品を脚色したものである。クリスマスに人形に命が宿り〜という展開から始まるメルヘンチックなお話です。では次席としての『牡猫ムルの人生観』、猫、人生観この2フレーズからも分かる通り、漱石の『吾輩は猫である』の先駆的作品であり(というよりも元ネタ)最期に猫が11月に亡くなる所の構造を含め、影響を受けている作品である。例えばホフマンの猫:ムルと漱石猫はどちらも、インテリ猫だ。漱石が発表した時点でインテリ猫であるムルがいたのに、偶然そこが似るというのまず考えられない。車屋の黒と呼称される乱暴猫といった別の猫を出す構成や雌猫(ミースミースと三毛子)が登場することも同じであるし、描写の見せ方として、
そして劇中にそれらを仄めかす文章もある。
(現代人からすれば連載中にパクリだと言われて最終回でネタ元を明かしました的な)
「先達ってカーテル・ムルと云う見ず知らずの同族が突然大気炎を揚げたので、ちょっと吃驚した。よくよく聞いて見たら、実は百年前に死んだのだが、ふとした好奇心からわざと幽霊になって吾輩を驚かせるために、遠い冥土から出張したのだそうだ。」
知らなかった〜と言わんばかりの漱石のしらばっくれた開き直りは最高ですね。別に真似ても元ネタより面白けばいいと思うし、それは時代を超えて証明されている。実際にホフマンの『牡猫ムルの人生観』と『吾輩は猫である』を比べたときに、大半の人が後者しか知らない現状を思うに、ホフマンの『牡猫ムルの人生観』を器として、より上質な文学作品にしたてあげたというのが最終的な結論だと思います。余談ではありますが、ホフマンに影響を受けた作家としてポーがいるわけですが、そのポーが恐怖小説の舞台装置として用意したのもタイトルからして『黒猫』なわけですが、猫そのものは『牡猫ムルの人生観』からの影響と言っていいでしょう。
中身は全然違いますが、文学史上、書き手によって色々な猫がいるなと思います。それ組むと、1819年に書いているのはすごいと思いますね。そして、先ほど書いた『砂男』である。この作品は主人公ナタナエルが幼少より恐れていた砂男にまつわる話、目玉を奪っていくという言い伝えを聞くあまり、実在するように思ってしまいナタナエルは砂男は弁護士のコッペリウスではないかと思いながらも、父が焼死したり、色々あるわけだが結局最後は理性を蝕まれ発狂し「まわれ、まわれ」と言いながら塔空落ち、亡くなる。その人混みの中にコッペリウスはいたという悲劇的なラストを迎える話なのだが、この作品で目玉が失われる恐怖について着目したのがジークムントフロイト。神話でいう去勢的なおぞましさを出していると論考している。
フロイトの精神分析的な考え方がよく出ているなと思うのですが、そういう考え方が後にアンドレブルトンへと合流し、シュールレアリズムの礎を築いていくと考えると、ホフマンの幻想文学というのは、着火剤の一つと言えるでしょう。
ホフマンからの繋がりで番外的なことを書くと、2010年代前半のアニメに陰鬱な日常系という潮流を流したまどマギの脚本家、虚淵玄の祖父に大坪砂男という小説家がいるが砂男はホフマンの作品から取られたものである。彼は江戸川乱歩が戦後派五人男として紹介した(香山滋、島田一男、山田風太郎、高木彬光、大坪砂男)の一人とであることの凄さは他の面々からも伝わる。香山滋は1954年に公開された世界初の怪獣映画『ゴジラ』の原案者であり『怪物ジオラ』といった傑作を書いたことでも有名です。山田風太郎は言わずと知れた『忍法帖シリーズ』や『魔界転生』を書いた伝奇作家の大家。高木彬光は日本三大探偵(明智小五郎・金田一耕助につぐ)のうちの一人『神津恭介シリーズ』の生みの親。島田一男は『部長刑事』や『鉄道公安』で有名な作家です。そんな作家たちに並び、乱歩の目に適ったという点で、相当な文筆家であることが分かります。そんな一流の家系の血筋(サラブレッド)に生まれているからこそ、虚淵玄は優れた脚本家・シナリオライターになれたという考え方もできます。
砂男で描かれた物語と、そこにおけるテーマ性というのはシュールレアリズム的な思想の先駆者でもある。砂男という存在によって目を刈り取られるというのは道徳も理性もかけらもない、完全に心象世界における恐怖心から生まれているものだ。フロイトがこれを去勢されるおぞましさという風に解釈したという事実も面白い。
シュールレアリズム=超現実主義を展開したのはアンドレ・ブルトン。超現実主義宣言でブルトンはこのように定義しています。
心の純粋な自動現象で、それを通じて口頭、記述、その他あらゆる方法を用いて思考の真の働きを表現する方向を目指す。理性による一切の統御を取り除き、審美的また道徳的な一切の配慮の埒外でおこなわれる思考の口述筆記。
要は道徳的な視点における先入観などを全て外して表現するというものです。文章では提唱したブルトンをはじめ、同じく詩人のルネ・クルヴェル、バンジャマン・ペレが、画家でこの考え方で作品を出したアーティストとしてはサルバードル・ダリやルネマグリット、バロン・ルヌアール、イヴ・タンギー等が有名ですね。ブルトンが面白いのは宣言の中で過去の大作家はある部分に限れば超現実主義的であるが、それは全体的にはそうではなく、常識や先入観に囚われており完全なる超現実主義とは言えないと説いている。数多の作家を例にあげるが、一般的に有名ではない人もいるので、誰もが知る有名な作家のみを引用してとりあげるならば
スウィフトは意地の悪さの中で超現実主義者である。
ポーは冒険の中で超現実主義者である。
スウィフトはガリバー旅行記なので、たしかにそういう側面があるというはお分かり頂けると思うのですが、エドガー・アラン・ポーはどこにそういう要素が?と思われるかもしれません。実はポーは推理小説開祖でありながら、SF・怪奇幻想のジャンルへも影響を与えている作家でもあります。『アーサー・ゴードン・ピムの冒険』や『ハンスパファアルの無類の冒険』、『メイルシュトロム』等を発表しており(個人的に一番好きなポーの作品はヴァルドマアル氏の病症の真相)、これらの作品群がヴェルヌやH・P・ラヴクラフトに影響を与えているわけですが、ここにおける冒険的な要素が非常に超現実主義であるということだ。『アーサー・ゴードン・ピムの物語』では白い名状し難いものに、船員は全滅する描写はまさしく超現実的なものだしそこからラヴクラフトがこれを元にした傑作小説『狂気の山脈』(1931年)でも同じく「名状し難い」もののミームは引き継がれている。そして、それらをH・P・ラヴクラフトはそれらをある種実体化し、太古に栄えたモンスターとして置き換えそれらの総称を「クトゥルフ神話」としたわけですがここの創造力も、その意味では超現実的である。少しばかり捕捉をすると『アーサー・ゴードン・ピムの物語』の世界観は脈々と受け継がれていき、『狂気の山脈』にてmemeが受け継がれて、そこから数年後ジョン・W・キャンベルという先述した名SF編集者が書いた『影が行く』までたどり着く。『影が行く』は映画化が2回(1951年・1982年(最近制作された前日譚ものも入れれば3回)のされており、そのタイトルの名は『遊星からの物体X』特に1982年版はその手の映画の傑作として名高い評価を受けており、岩明均の漫画『寄生獣』の仕掛けとしての元ネタとして流用しています。あれは物凄くクオリティの高い漫画であり、筆者も大好きな漫画の一つ。
超現実主義の考え方の元となっているものの一つにフロイトの精神分析があります、その方向で説明するのに一番わかりやすいのは氷山の一角の図ですね。色々なものに応用されているので見たことがある人も多いかと思います。
この図式でいけば、超現実主義の定義である無意識の領域内で表現されるものは超自我やイドに振り切ったものとなる。これを芸術思想の領域に取り入れたからこそ、ここで活躍する画家の絵というのはああいった心象世界の具現化ということになるわけです。言ってみれば、アウトサイダーアート(正規の美術教育を受けてない人が創ったものがアートとみなされるケース)的とも取れる。平沢進がアンドレ・ブルトンの超現実主義宣言から何を受け取ったかまでは分からないが、結果的に発表されてきたこれまでの表現物はどこかしら超現実主義的な側面があると思います。同じ絵画という意味では時代はかなり遡りますが、この手の絵画は快楽の園でお馴染みのヒエロニムス・ボッシュ(初期フランドル派、中世のゴシックの影響を受けたルネサンス期の西洋美術期の巨匠)あたりも発火剤の一つになってそうですね。古来よりあったパラノイア的な創作を、巡り巡って意識的に定義したのがシュールレアリズムに落ち着いた感じがします。
最初に断っておくと書き手もずぶな素人レベルの知識しか持ち合わせていないのでちゃんと知りたい人は学術書を買うなりしてください。
という予防線を張った上ででは次にユングについて、ユングと言えば真っ先に出てくるものとして個人的無意識と集合的無意識とという言葉があります。前者の発露としては個人的無意識は主に個人のうちなる強い感情を伴ったコンプレックスから生まれると言われています。では後者の集合的無意識は何から発露するか。個人的無意識との大きな違いそれは個人的な獲得ではないこと。では何から発露されるかという所で出てくるのが元型論
色々あるのですが代表的なものを挙げると
- 太母
- 自我
- ペルソナ
- 影
- アニマ・アニムス
- トリックスター
- 老賢者
これらを提唱したユングの元型論(archetype)はその特質より物語に好んで用いられており、これらは『指輪物語』、『SW』、『the earthsea』(日本では『ゲド戦記』)、『ハリーポッター』等といった世界的な作品に引用されているため、ここのキャラクターを分別していくとその性質はおのずと理解でき作品考察も捗ったりします。では、これら元型論と集合的無意識と平沢進とをつなげて考えてみる。まず、最初に連想できるのはこの元型論にそった楽曲がある。
このようにディスコグラフィーを辿っていくと、らしき要素が明確に現れていることが分かる。そして恐らくユング的なアプローチを最も意識したであろうアルバムとしてのSCUBA。本作は全き人格の回復というテーマが掲げられている。全き人格の回復とはなにかって話は正直、知るかと蹴りを入れたくなるくらいどうでもいいというか、あくまでもアーティストが考える世界観コンセプトの一環でしかないと思っている。
少しだけここのネタ元を考えるのであれば、恐らく人間性回復運動であろう。現在ではヒューマン・ポテンシャル運動という呼称のほうが伝わりやすいですが、これも1960年代にアメリカの心理学で提唱されたものであり、主体である人間の「人間性」「潜在能力」を回復させようという趣旨の運動のことをさします。another gameでの方向性を踏まえるのであれば、人間性回復運動という言葉自体は大凡知っていると考えて間違い無いので、そこが全き人格の回復の元と考えることは可能です。もしそうだとしたら、その考え方自体が面白いと思うわけです。P-MODEL時代のディスコグラフィーとして、カウントはされないとはいえscubaが1984年に出されている。本作は『another game』以後に出された番外編的な立ち位置なわけですが、その時間軸で考えると音楽自体はポップスなアルバムだが、ここで提唱したユング的なものは周知の通りの通りのちのソロにおいても引きずっていることは確かである。その証左として、ソロ12枚目で出した現象の花の秘密。これもユングが影響を受けた(というよりもヴィルヘルムとの共著(というか真の作者が別にいるが、本作の概念を広めたと言う意味でヴィエルヘルム&ユングという体をしている))思想本、黄金の華の理由という著作からの引用されている。アルバム自体はどうしようもない駄作だと思いますが、ここにユングの思想につながるなにかがあるからこそ引用したのにも何かしらの理由があるはずです。そもそも黄金の華の理由がどういう書籍かという話ですが、タイトルの黄金の華というのは瞑想の中からひらけてくる黄金の華という意味であり、ユング的に解釈はマンダラの象徴ということになっている。そしてこのマンダラが先の元型論と繋がりをもってくることは最早言うまでもない。その曼荼羅は一つの幻想像であり、それが元型=archetypeの経験の典型となっている。その元型は先述の通り、自発的な経験ではなく集合的無意識の中で発露する。言い換えるのであれば、人類共通のパターンがあり、誰しもがそれを無意識的に従っているという事になる。そしてそのパータンこそが、先のグレートマザーや賢人、アニムスとアニマと言った諸要素になっていきます。こうして挙げてみると『scuba』以後、どうもユング要素が随所にでていることがわかる。クリエイターはみんなユング大好きなところがありますがよりその影響力の度合いが高いと感じる。
アルバム群について
MANDRAKE
実際にはライブ盤とunrelease盤しかなく、アルバムの体裁を保てているのは後者のunrelease盤しかなく、そこに収録されているのが以下の楽曲。
・『飾り窓の出来事』
・『終末の果実』
・『犯された宮殿』
・『錯乱の扉』
・『Mandragora』
・『Tales from pornographic ocean』(ポルノグラフィーの海からの物語)
・『流れの果てに』
・『いりよう蜂の誘惑』
『飾り窓の出来事』はMANDRAKEの代表曲と言って良い作品。『犯された宮殿』では、後年P-MODELの楽曲となる『美術館で会った人だろ』のメロディの片鱗が出ている。宮殿というワードはキングクリムゾンの『クリムゾンキングの宮殿』から触発されたもの。錯乱の扉は先述の通りイエスの『the gates of delirium(錯乱の扉)』より引用.『Tales from porngraphic oxean』も同じくイエスのアルバムTales from Topographic Oceans(海洋地形学の物語)のパロディ。『流れの果てに』は、タイトルは小松左京の、果てしきなき流れの果てを引用。 因みにジャケットにバイロスの絵を引用しています。これを提案したのが平沢進かどうかはさておき、デカダン派の画家つまりは退廃主義、頽廃派といったアートを引用するあたり、とことん異端な方向性をもったバンドであったことが伺えます。当然DEVOの『頽廃的美学論』に惹かれた事との親和性があることは最早言うまでもない。
この手の楽曲に馴染みのない人はうっかりして「こんな音楽を70年代に作ってたなんて凄い」という感想を抱くかもしれませんが、実際には当時の時点で、イエスやキングクリムゾンといった代表的なプログレ作品が世界を占めている影響と先述したPFMといったイタリア製のプログレを日本人的に解釈したものなので、楽曲的な観点からすれば目新しいということは一切ない、むしろ遅い。ただ、それらの洗礼を受けて自分たちもプログレを作ろうとなるその心意気はアーティストしては偉大だと思います。
P-MODEL作品
・『IN A MODEL ROOM』
初期は(時代を考えれば当たり前だが)すごいパンクだなという印象。もう少し具体的に書くのであれば、999でありレッドノイズ、その他パンクバンド。美術館であった人だろの次のトラックがヘルスエンジェルという並びも良い。そしてヘルスエンジェルは田中靖美作曲というのもポイント。それはタイトルからもなんとなく、察せることができる。恐らくネタもとはアメリカの暴走族グループ名のヘルズエンジェルズなのではないかと思います。P-MODELには幾つか非平沢楽曲がありますが、むしろそっちの方が魅惑的と思えたりします。それまでプログレやってた人間とは思えないほどの振り切りっぷりもいいですね。名残はあり、『偉大なる頭脳』はMandrakeで発表した『錯乱の扉』の名残がある。そして偉大なる頭脳というタイトルのネーミングはELPからの転用でしょうね。『恐怖の頭脳改革』に似ています。楽曲の冒頭が若干『tarkus』っぽいところ含めまだMANDRAKEのかけらが残っていることがわかります。
・『LANDSALE』
先述の通り、オハヨウはウルトラヴォックス!の楽曲メロディの引用という大胆なことをしている楽曲なわけですが、まだMANDRAKEの香りはありますよね。随分払拭した感じですが。MANDRAKE時代のライブでは観客に対して「よそ見すんな長髪!!」と罵倒をしたでお馴染みの異邦人は楽曲的な荒々しさをなくした以外は音調はそのままですし、
・『Potpourri』
パンクっぽさが消え始めた作品。この作品で重要なトラックは「another smell」。聴けば分かるが、これは先述したミュージック・コンクレートのアプローチを出している。地声と裏声が混ざったりする感じ、つまりはスイス民謡のコヨーテ的な歌唱も含めソロ平沢前夜を思わせる。
・『Perspective』
パースペクティブの時代になるとニューウェーブさとエレクトリックが融合しはじめる。その意味では過去2枚に比べて随分と仕上がった作品ということもあり、P-MODELにおいてこれが最高傑作という評価をする人がいるのもよくわかる。全体の空気感を纏うパーカッションのリズムの感覚。そこに歌物として歌詞がつく歪さ。今でこそ、リメイクアルバムで聴き慣れているであろうsolid airは本作がオリジナル楽曲として収録されているわけだが、全く違う。時代っぽさがあるというよりも、無機質なビートに、単調なメロディというこの組み合わせがP-MODELというバンドの真髄なんだと思わせる感覚。
・『ANOTHER GAME』
『ANOTHER GAME』は非常に形容しづらい作品です。ベース色がかなり増され、ハードロック的な側面を持っていながら、トラック1が「another game step1」で始まり、ラストトラックが「awakening sleep αclick」というアンビエントなのか、イージーリスニングなのか判別しがたい楽曲もある。恐らく、イーノの要素を入れたかったのだと思うが。
・『scuba』
廃盤になっているのが理解し難いくらいに名盤。なぜ入手困難であるのかが不明。ほぼソロと同じようなものと考えて良い。本作のコンセプトをのちのアルバムでも引き継いでいる点を含め、本作のアルバムについてはユングパートで尺を割いたので飛ばします
・『KARKADOR』
とにかく非平沢楽曲を平沢進が歌うとどれだけ化学変化が起こるかが楽しめるという意味でのは凄く価値がある楽曲群が揃っていると思う。単曲や共作で横川理彦が入っているがこれが実にいい味を出している。例えば、「HOURGLASS」のビートは絶対に平沢オンリーでは紡ぎ出せないものだし(ギターは平沢を思わせるメロディが多いが)ダンス素凡夫なんかはクレジットを見れば分かる通り、非平沢楽曲なのだが、こういうコテコテのポップスタイプの楽曲を歌う平沢も割と珍しいと思う。このアルバムはここでしか聴けない音楽性や試みというのがあるように思えます。その意味ではデビューから『another game』や『scuba』にまでのどのアルバムよりも、聴きやすいポピュラーな側面を持ち合わせたながらもサイボーグなどの楽曲があるように、P-MODELだと思えるところはちゃんとあります。つまりは聴きやすさ50、アーティスト的な面白さ50のアルバムなので、入門としては最適です。
・『ONE PATTERN』
前作よりも、ポップスさは増えた。「LICORICE LEA」、「メビウスの帯」、「サンパリーツ」の3曲は中野照夫が作曲の作品だが、「ハーモニウム」はヴォネガットのタイタンの妖女より水星の生物名から引用というのも、相変わらずといったところでしょうか。過去のP-MODELと比較すると若干のプログレらしさが残るロックテイストのアルバムと思います。おやすみDOGとかはまさに。この曲のアンバランスさでありながら、楽器の平坦さぐあいは平沢進ならではなの楽曲だと思います。「anotherday」の流暢な詰め込み具合とメロディも骨頂ですね。
P-MODELのディスコグラフィーの中では一番分かりやすいアルバム。the テクノ。 「2D or not 2D」のタイトルは、普通に考えればシェイクスピアのハムレット超有名な台詞であるto be or not to be that is the questionのもじりと考えるのは余りにも容易で簡単だが、ここを敢えてSF的に考えれば、ヴォネガットの『2BRO2B』という短編をからの引用と考察することができます。作曲は共同ですが、タイトルをつけたのは紛れもなく平沢進だと考えることができる作品。the テクノで統一された音楽群などからして、入門P-MODELとしては実の所最適かも知れません。ジャケットはルネマグリットのピレネーの城がよぎるが意識しているかは不明。ただシュールレアリズムに傾倒しているならピレネーは当然知っているので、もしそうなら面白い。
・『big body』
コンセプトがスタージョンの『人間以上』という点はやはり見逃せない。それもネットワークにより、ホモゲシュタルトへの統一というのはコンセプトアルバムのテイストとしては抜群の発想。そんな中でありながらも、ヴォネガットの『タイタンの妖女』から時間等曲率漏斗をネタにしている。スタージョンの作品にヴォネガットまで入れてくるという方向性という意味では一番平沢進がSF的なテーマを推し進めた一枚であります。
・『舟』
「Fune」にnujabesのサムライチャンプルー的音楽イズムを感じる。このlofi感はまぁ偶然でしょうけど。電子楽器の比率がどうしてもメンバー云々で平沢の独走感的な(良い意味)がでている分、その前にあったP-MODELの総体としての面白みは全くない。「Julia Bird」や「tide」あたりはのちの核Pの因子と捉えることだってできます。小西健司もクレジットされているが、正直目立たないという。
・『電子悲劇〜ENOLA』
まずタイトルの電子悲劇っていうこの四文字にも何かしらの意味合い・含みがあると考察してしまう。SF的に解釈するとSWでお馴染みのジョージルーカスがインディーズに1984世界をオリジナルに落とし込んだ作品「電子的迷宮 THX-1138 4EB」の感覚でしょうか?それがネタ元というよりかは漢字四文字の語感が非常に合う。1984をベースにIn a room modelやビストロンといったアルバムを作っている傾倒具合からして見ていないはずがない。先にも書いた、映画的な視点でいうのであれば不思議惑星キンザザを見るような人が知らないはずがないし。(そもそもthx-1138はSF者の間では有名というのもある)最もキンザザでいくのであれば作風的に寄っているジョン・ブアマンの『未来惑星ザルドス』の方がお好みだろう。次にENOLAってなんだよと最初は思ってましたけどこれは逆読みでALONEなので、そこから読み取れる情報はスタージョンの人間以上の主人公の名前はアローンであることの同一性でしょうか。
・『音楽産業廃棄物〜P-MODEL OR DIE』
タイトルはそもそもP-MODELの由来を考えれば一貫してますね。商品だからこそ〜モデルという名前がいい、という視点からアルファベットを当てはめた先にP-MODELというバンド名に落ち着いたわけですが、そういうマインドが音楽産業廃棄物という字面に出ている気がする。論理空軍のイントロはいい。パッと流して、気づいたら終わってるくらい楽曲にハズレがなく、締めの楽曲が、「DUSToidよ歩行は快適か?」というのも、中々妙である。タイトルは紛れもなく、ディックの影響。平沢進にしては随分と分かりやすい引用ではあるが。
私的P-MODEL総括
P-MODELの総合的な話をすると、メンバー移動に伴う音楽性の変化というのがディスコグラフィーをみていくとよく分かる。初期はパンク、中期は脱パンク〜模索、後期テクノ音楽という図面が浮かび上がる。今となってはパンクはそんなには面白い音楽でもないので、個人的には中期~後期になればなるほど聴いてるアルバムになる。歌詞がちょっと過激で、音楽は簡易的というスタイルからするに、正直そんなに聞かなくてもいいやとなってしまうんですよ。だからアルバムの感想も書こうと思っても、あんまり印象がないので、初期~中期は書きにくい。テクノやシンセ等を多用したほうが面白いと思うがゆえに楽曲的な魅力でいえば、後期になればなるほど聞き応えのあるアルバムになっていきます。
では次にソロアルバムについて
平沢進ソロ作品
・『時空の水』
平沢ソロの初期からロケット・宇宙開発関係やSF系の単語が目立つ。時空の水の時点においても、曲名には「ソーラレイ」「 DUNE」という単語ある。これらのことから分かるように、平沢音楽のエッセイ・ビジョン性はSFとロケットという二つの軸でなっているのは違いないと考えられる。「ソーラレイ」は太陽帆、ソーラーパネルのことを関係から生まれているタイトルであろう。楽曲性という意味ではやはりXTCの影がチラつく。DUNEでやりたいことは結局「1000 Umbrellas」だったと思うし。
ソーラレイは多分、yesの『90125』より、「Owner Of A Lonely Heart」あたりを引用している気がします。ソロデビュー作ということもあり平沢イズム(影響を受けたもの)度がより目立っている作品です。冒頭にデビュー作が肝心であるということを書いたがMANDRAKE以後、現平沢音楽の礎やどういった方向性なのかという点については時空の水がそれにあたる。P-MODELは時代の影響が強く、真に音楽性が面白いかと聞かれれば微妙なのところだ。MANDRAKEからP-MODELというのはプログレからパンクという一つの曲線上でしかなく、独自性がない。が、いざソロになってみると聴き応えがでてくる。大多数よりも、一人のほうがビジョン・方向性というものが提示しやすいから当たり前と言えばそれまでだが。
・『サイエンスの幽霊』
『世界タービン』の謎のMVの正体は、平沢進の世界観丸出しというよりもテスラだなと今にして思えば分かります。その方向性を規定した時期が早すぎたので今や電波MVとして知られていますが、それだけでも面白いキテレツなミュージシャンと思えます。説明不要ですがニコラ・テスラの影響が最も出ているのは世界タービンですね。PVで使われている物の中にテスラコイルなどが登場するのは言わずもがな。それ以上にテスラが考えていた世界(無線)システムというものとタービンをくっつけた物でしょう。コロラドスプリングスでの一枚の写真のイメージが与えた影響も相当なものでしょう。本作でもやっぱりロケットというタイトルの曲が収録されている。また、夢みる機械というタイトルは諸星大二郎からの引用。カーボーイとインディアンは何を意味するのか、カーボーイというものがそもそもインディアンとヨーロッパ文化とを統合して発展した成り立ちをもっていることが関係している気がするが、なんとなく難しい話になりそうなのでここは飛ばします。タイトルのサイエンスの幽霊はどこから来たものでしょうか?アーサーケストナーの本に*18『機械の中の幽霊』(ghost in the machine)があるので、こういうところからの引用ではないかと考える。楽曲的という意味で語るという側面よりも、作風のエッセンスとしての黎明期と捉えた方が聴きやすい。
・『Virtual Rabbit』
本作も、直接的なタイトルはないのですが、どうも語感が翻訳SFタイトルを想起させます。「我が心の鷲よ 月を奪うな」というトラック名なんてファーマーのリバーワールドシリーズ第1作の『果てしなき河よ、我を誘え』の語感と似たものを感じる。というより意識していると言っていい。この語感は翻訳SFの名残を知らなければ絶対に思いつけない。ということを考える以外にこのアルバムには面白みがない。というよりも絶対的に詰め込んだデビュー作、それをより展開することができる2ndアルバムというのは形式上、どうしても名盤あるいは意欲作として評価できることが大半で、3rdから次期の音楽性の確立にはいるので、その意味では本作も無理くりで評価できなくもないが。おざなりという印象。
・『AURORA』
というわけで、模索期第一弾と『AURORA』なわけだが、意外なことに本作で平沢進は転換期を迎えていると思う。いや、それまでの作品をへて自分のあるべき路線を掴み始めたというべきか。それまでの音楽の経験があったからこその、舵を取れという、のちにベルセルクのBERSERK -Forcesに代表されるような「これぞ平沢進」というイメージがソロだからこそ、より明確なものになった。それが結実するのは3枚先。なので、端的に分類をするのであれば『aurora』『sim city』『救済の技法』まで一セット。
「月の裏側」というのはつまり『dark side of the moon』本作はピンクフロイドの狂気をモチーフに作りたかったという経緯があるため、その残り香であろう。狂気を作るはずだったという発言からするに、「echos」もピンクフロイドネタかなと思わなくもない。あとこの作品はモチーフがジャケからもわかるように、タイの影響が意外に功を奏している。
入ってる楽曲がユングを想起させているものもあると点も着眼のすべき点のひとつ。コンセプトよし、方向性よし、音楽性あと少しという上目な穿った見方ではあるが、確実に前作よりかは進化しているということが分かるアルバムです。
・『SIREN』
「nurse cafe」を作った時点で楽曲的には既に勝っているアルバムなのに、「On Line Malaysia」といった楽曲があることが、よりこのアルバムの傑作感を漂わせる。因みにジェミニというトラックがあるが、これも間違いなくジェミニ計画のことを指す。冒頭ロケットの発射シーンのアナウンスが入っていることからもそれは明らかでありやはりここでも、宇宙開発と関わりのある単語が込められていることも意外に見逃せなかったりする。理由は言うまでもないでしょう。
・『救済の技法』
本作が最高傑作と謳う人も多い。麻枝准なんかも本作を最高傑作と評価しているしおそらく米津玄師もこれに相当影響を受けた(といいつつ「飛燕」の程度のクオリティをもって世に出されてきても結果的に呆れるほどの楽曲でしかないため、米津よもう少しばかりクオリティを上げてからリリースしてくれという話は後に回して)と言うのは分かる。またアーティスティックな側面ではなく、殊に一般層的なTwitterでサーチすると大体本作をあげる人が多い。成熟したという意味での初めての作品といっていい。が、しかし、自分の中ではAURORA→Sirenという流れから連なる壮大さあふれる楽曲がここにて「mother」という楽曲で結実しただけであり、本作が出た当時なら最高傑作というのであればまだしも、今は本作以降のアルバムの存在があるわけで、それを考えると今思えば「mother」で勝っているだけであり、アルバム全体としてはそこまで威力はないと思う。推察の域をでないが、熱心なファンはともかくとして本作を最高傑作と謳う人のミュージックにおける本作のトラック回数はmotherだけが異常突出しており、他のトラックはそんなには再生していないと思う。当然、全トラックの集約感は圧倒的でありますが、「mother」意外に面白い曲があるかと言われるとそこまでな気がして。アルバムとしては若干の間延び感もある。その意味では、sirenのほうがまだ良作ないし、傑作と呼ぶにに近いというのが私の意見です。
・『賢者のプロペラ』
一度、傑作と言われたアルバムを作ると、再度模索に走るのはアーティストの常ですが、相変わらず捉え所がない作品を出す平沢進。今で言うパプリカ的なOSTっぽさが顕著といえるので、その点、この時期はご存命であったアニメ監督今 敏の劇伴担い手として映像音楽的な作り方も勉強していたのかなぁと思ったり。ちょうど、千年女優の音源もあるし。『課題が見出される庭園』のミニマルとサイケデリックな感じの音源は高評価できる。『ルベド(赤化)』、『ニグレド(黒化)』、『アルベド(白化)』の三曲は意識式なシリーズ的なものにしている構成自体は好き。というか、この三曲だけを救済の技法明けに作ってところが、腕の高さを物語ってます。ただ、個人的にはあまり好みではない。
・『BLUE LIMBO』
自分は本作、BLUE LOMBOこそが平沢ソロの最高傑作と思えるほどのアルバムだと感じる。「Ride The Blue Limbo」「帆船108」「狙撃手」の楽曲群がトントン拍子万歳名曲っていうこの三曲の絶妙なバランス。このアルバムが素晴らしいのは、アルバムの世界観はSF度が高くその上で先の三曲が音楽的にバランスが取れているからだ。「Ride the blue limbo」はキャッチーなギターリフから展開していき、基本的にはその繰り返しが全体的に掛かっている。聴きやすく、それでありながら平沢進的な音楽イズムをしっかりと感じ取ることができる。「帆船108」「狙撃手」はシンセサイザーの使い方・鳴らし方がいかにも平沢的でありつつも楽曲自体に歪さがない。そして付け加えるのであれば狙撃手はギターとシンセの調和が抜群に優れているが故に流動的に聴ける。こういった聴きやすさのバランスが取れている楽曲は本作以前にはあまりない。圧倒的な楽曲か、否かの二分化が目立っていた。これらに加え、track.5に「ツオルコフスキー・クレーターの無口な門」という曲がある。一見これはツィオルコフスキーの名前を借りた創作的な単語に見えるが、ツィオルコフスキーのクレーターまでは実際に存在する。スプートニクが打ち上がったのち、ルナ3号が月の裏側を撮影したことはよく知られているが、表側とは全く異なった形相をしており、その中でも最も目立つクレーターに命名されたのがツィオルコフスキーの名前である。
つまり平沢進はこういったネタに無口な門という文言を加え楽曲に命名しているその仕草が自分にとってはコンセプトアルバムとして、そして当初からツィオルコフスキーといった宇宙に纏わるネタを入れているという点で具体性に富んでいる感じがしてより評価できる。
・『白虎野』
表題作や「パレード」が入っていることから、半分パプリカのイメージが付き纏ってしまう作品なので、アルバムというよりもパプリカのタイアップアルバムという印象がつきまとう。「確率の丘」が収録されているので、まだ、オリジナルアルバムという感があるが平沢進と今 敏共作感がして、実際半分くらいはそういえるくらい密接性があるのですが。ただ、「白虎野」の完成度はいつ聴いてもレベルが高いのでまぁいいかなぁと思えるそんなアルバムです。
・『点呼する惑星』
全くといっていいほどダメ。失敗作といってもいいのではないか。作る必要性があったことすら疑問に思います。本当に書くことがないくらい薄い。これはイメージアルバムというか、空虚な妄想が先にきているせいか楽曲に全く圧がないといっていいでしょう。ファンの中では非常に評価が高いアルバムではありますが、何が良いのかと言う点について、具体的な論拠をもって書かれたものを読んだことがないのでもし、この文章を読んで、「いや、このアルバムは素晴らしい、何故ならば〜であるからだ。」という文章を7000字以上で本作の魅力を書ける人は是非自分のX(旧twitter)に一報をいただければと思います。
・『現象の花の秘密』
前作同様、垢まみれのオーケストレーション劇伴みたいなアルバム。オーケストレーション的な音楽を前面に出しすぎて歌が目立たないで、ポップスものとしてイマイチな楽曲ばかりに思える。壮大さを醸し出すのに夢中になって、ポップスとして最低限必要な要素が底抜けしているし、音楽的に何を表現したいかもいまいち見えてこない。こういう作品は言い方を変えてそれらをも込みの新規軸を目指した作品という時点で察せることができる。どう考えてもこれは開拓アルバムというポジション。というかそれ以外に言い表しようがない。
・『ホログラムを登る男』
オペラ座の怪人みたいなメロディの「クオリア塔」。「火事場のサリー」はちと、優しすぎる音源の気がする。ホログラムを登る男は全体的にmuse感がすごい。ピアノアルペジオの展開の仕方が『origin of symmetry』や『absolution』時代の音源を想起させる。
・『BEACON』
一周回っていい意味でセルフパロディのようなアルバムという感覚がします。どうも『点呼する惑星』『現象の花の秘密』『ホログラムを登る男』の3枚は私的には全く面白みのない作品だったので、平沢進は大丈夫かって思っていたんですよね。誇大妄想の果てに、という意味ではまだましかな程度のアルバム白虎野が限界かと思っていて、それからの駄々下りだったので次作が心配であった。そういうこともあり14枚目のオリジナルアルバムということもあって、聴く側としてもそこまで新しいものを求めても仕方ないわけですよ。なぜならアーティストは基本的に初期作にこそ、表現したいものが詰まっており、それらが実を結ぶのも早くて3-6枚目、遅くとも10枚目まで大体完結してしまうから。その意味では8枚目あたりからはいかに音楽性が統一されているかよりもどこまで頑張って作品を作り上げられたかという視点に立つべき。いつまでも「最新作が最高傑作」だという世迷言を言っても仕方ない。どこか諦念した姿勢で聞かないと「なんだこれ、流石に平沢進といえどネタ切れか」と感想も持ってしまう。「論理的同人の認知別世界」は「仕事はタブー」の進化系のような作品だし。安心して聴ける作品だが、これぞ平沢進というような独自性は正直失われている。が、白虎野以降のアルバムでは楽曲としてなにがやりたかったかという意味では一番出来がいいと思う。というよりかは、これが出たことで点呼する惑星〜ホログラムを上る男で模索していたものがBEACONにて結実したという印象を受ける。(ホログラムでも若干掴んだ感じもするが)そういう意味ではまとまったアルバムでありながらも、「燃える花の隊列」、「timelineの終わり」、「記憶のBEACON」の3曲が入っている分、アルバムとしては十二分に良いクオリティだと思います。入門アルバムとしてもベストといえるでしょう。
核P-MODEL 作品群
『ビストロン』
『1984』をモチーフにした作品群ではありますが、「崇めよ我はTVなり」って割と古い気もするのです。現実問題として今やTVが主流の世界ではないですし崇める対象でもない。2004年なので随分とギャップというか違和感が残る。あくまでも作品内としての設定にしても色褪せている感じがする。「big brother」と「巡航プシクラオン」あたりは今聴いても十分通用する。やっぱりシンセと他楽器、そしてボーカルといった要素が結果的にはいい形で集約されていくのは平沢進の凄みだなぁと思います。どこも喧嘩してない。タイトルのビストロンはウイルス消毒液という意味合いですが、どういう意図での消毒液かっていうのは割と考えものではあります。
『гипноза』(ギプノーザ)
ロシア語でギプノーザ、英語で言うとヒプノシス=催眠。まずなぜこのタイトルをつけたのかというチョイスの問題。ナノマシンがどうのこうのという表向きの設定はともかく、なぜギプノーザなのか。あくまで推測の域を出ないがギプノーザは英語でいうとヒプノシスという単語になる。そしてヒプノシスといえば有名なプログレ盤・ロック盤のジャケットを手がけたアーティスト集団の名前でもある。hypnosisのロシア語にあたるгипнозаにするという奇抜なタイトルした理由がこれ以外に特段思いつかない。平沢進であればなんとなく仕掛けてそうな感じがします。元々プログレバンドをやっていた人間なので、アーティスト:ヒプノシスというのは絶対知っているし。楽曲的には核P-MODELの2ndということもあり、ソロよりも好き勝手に制作している印象が残りながらも、P-MODELの残像もちゃんと残っている。alarmで冒頭から効果音として鳴らしてくるのはピンクフロイドっぽいですよね。「money」や「time」などに代表される楽曲の実験性を意識していると思います。そして本作は「timelineの東」という特異的な楽曲がある。この楽曲性こそ、核Pでこそのメロディだなぁと思う。1m38~1m54sの展開の仕方などが顕著。
『回=回』
なんだかんだ、最初に平沢音楽を聴くのであれば核P-MODELがいいと思える親切極まりないアルバム。今の時代の音源で聴く平沢感という意味では本当に純に推せる作品です。決めてくるトラックはちゃんと手堅く出来上がっているし、今となってはめっきり続報がなくたった漫画家:今 敏 OPUSアニメ化関連の楽曲(恐らく供養的な感じもあるだろう)を聴くと、どうも一ファンとしては今 敏というクリエイターという存在があり今なお作品を発表し、その作品に平沢が音楽を当てるというどういう風景が見ることができたのであろうか夢想してしまうものです。それはそうとしてアルバム的には私的いうのであればここ最近の中でも最もと言ってもくらいいい。「亜呼吸ユリア」や「幽霊飛行機」そしてなにより、「echo-233」に代表される平沢進ならではのトリッキーな作品は聴きごたえはある。
旬・番外アルバム
旬の作品はマイクオールドフィードや、イーノ的なアンビエント系を思いっきりやっているというまさに商業主義的な側面を一切気にしないで趣味に走ったであろう楽曲が多い。そのほかにも、『ICE-9』といったアルバムがあります。
ここまでただの一度もスクロールバーを使わずに読んだ方であればタイトルがどこからの引用であるかは既知でしょう。こういう隠れアルバムで小ネタ的に使うところが平沢進のクリエイター的に上手い所だし、本当にやりたいことを存分にやってる。そんな気もする。アンビエントと民族音楽、そしてミニマル・ワールドといったこれでもか前衛といった音源が聴けるのはおそらくここだけではないか。旬とは違った前衛の残り香のある作品ばかりで、こういうのをソロ活動の片手間で作ってたのか感がすごいですね。恐らく、本来やはりのはこっちなんだろなってという謎の意思を感じました。
ここまで読んだ上で改めて平沢音楽を聴けば、一周回って分かりやすく聴こえてくると思う。巷で言われている難解な楽曲性というのも、無調の世界に比べたらあらゆる点でポップス(おそらく大半の方が思っている気難しい音楽性というのは、大衆のそれもよりわかりやすいポップスにしか耳の焦点がなく、プログレや現代音楽等の音楽に慣れていないから発生するものでしょう)ですし影響をうけた世界観も、SF小説からの転用と考えればそこへの理解は造作もないと思う。
ここまで平沢音楽を構築する要素を書いてきた。では次に以上の要素をもった平沢進に影響を受けたというフォロワーについて紹介。
考察:作家/クリエイターほどハマる理由(わけ)
今 敏と平沢進
平沢進を語るならば絶対に外せないアニメーション作家「今 敏」。名誉平沢ファンでもあります。残念ながら日本では死後評価という形になってしまったのがもったいないくらい、46歳で夭折された事が彼を知るアニメファンにとっては辛いことなのは言うまでもありません。
大衆エンタメ性と作家性、両方のテイストを落とし込むことができ、大人が見ても面白い丁寧な作品作り。加えて、アニメという映像媒体ならでは演出法を最大限に活かしたその技法は、海外のクリエイターから特段に高い評価を勝ち得ていました。存命であれば、細田守や新海誠、湯浅政明等と同様、間違いなく日本アニメを背負っていく存在であったでしょうし、それこそ宮崎駿に次ぐ二人目のアニメ部門のアカデミーの長編アニメ部門賞だって狙えたかもしれません。
(少なくとも獲れる可能性が最も高い人物であったことには違いない。)
亡くなってもなお、ウィンザー・マッケイ賞の受賞の功績やカナダ・ファンタジア映画祭という、海外の映画祭の賞を名前に『今 敏賞』を冠しており、ハリウッド資本で大作を作るような監督(ノーラン/アロノフスキー)が演出を真似たことは周知の事実です。*19(ノーラン/アロノフスキー)なにより海外では、近年においても、スパイダーバースという現時点のアニメーション映画の到達点のような作品の監督をしたトップクリエイターをはじめ、所謂海外の文化人が日本文化/アニメを語る時にで今 敏の名前を見ないことのほうが少ないほど語られている。
それほどまでに海外への影響力が絶大な今 敏が、事あるごとに影響を受けた人物として平沢進を挙げていたことは注目すべきポイントです。これから、今 敏が平沢進のどういうところに惹かれたのかを考えてみます。
その前に、今 敏についてまずは軽い紹介を
大友克洋以後を象徴する画風でありながら、武蔵美の視覚デザイン科を卒業という、レベルの高い武蔵野美術大学にて、学術的にも芸術を勉強しているという、アニメ界隈からすればかなり異色且つ、本格的に「美術」というものを学んだという経歴を持つ人物です。本人曰く、当時から現場での手伝いをし、(後に漫画版AKIRA(5巻ぐらい)の中盤以降の作画アシスタントを担当し、6巻の巻末ではspecial thanksと明記されるほど、当時より画力にものをいわせていた存在であった)の方が楽しかったと思い返していることからも、クリエイター気質が窺えます。
本当、超絶画力お化け。絵としての巧さは国内屈指レベルです。
セラフィムという漫画においてもこの画力は発揮されています。
彼の絵コンテの緻密さはよく知られていますが、加えてレイアウト等もこのレベルで上げられるという意味では、アニメーターとして見ても誇張抜きに業界随一の逸材ではないかと素人ながら思います。実際、彼の作品に関わったベテランアニメーターからも相当高い評価を受けていますし、それだけアニメーター・クリエイターとして礼賛されていた今 敏だからこそ生前に唯一残したTVシリーズ『妄想代理人』に参加していたアニメーターのレベルの高い人材が集結していたのだと思う。
彼は「虜」という作品で大学在学中にデビューし漫画家時代を過ごしたのち、アニメの世界に入り色々な仕事をするようになります。ジョジョのOVAの演出回は特出して素晴らしいですし、そしてなんといっても押井守監督(とは後に仲違いをするのだが)作品である「機動警察パトレイバー2 the movie」という映画で圧巻のレイアウトを描いたことはある種の伝説といって差し支えない偉業。元々レベルの高い人しかいない現場デアはあったとは思うが、それを差し置いてもあの映画における画として映えるシーンは大抵今 敏がレイアウトを担当しているといっても差し支えない。
そんな今 敏ですが、90年代に「PERFECT BLUE」という作品でアニメ監督デビューを果たします。
・『PERFECT BLUE』(1997年)
低予算ながらも初監督作品にしてはレベルの高い本作は、ジャンルとしてはサイコスリラーに分類されます。日本アニメには中々同ジャンルの作品というのがないため、今なおクオリティの高さも合間って評価されています。広告・ジャケットの構図も秀逸であり、さすがは視覚デザイン科卒だけのことはあるなと思わされるます。右のパズルの発送も美大卒という感じがします。
物語に関しては、「意図せずアイドルから女優に転身した主人公。現実と虚構の区別がつかなくなる中、ストーカーに付きまとわれ、関係者が陰惨に始末されていくという事件が重なり…」というお話となっています。「アイドルとストーカー」というテーマは今現在を考えるとある種予知的でもありますがそんなことは大した話ではない、というかどうでもいい。このアニメがすごいのは、ヒッチコックを意識した演出をものの見事に消化しながら、主人公の心境を女優としての役柄や演技などを通して精神的に追い詰めていくその様が、あまりに秀逸なのです。今 敏本人は「どこがヒッチコックなんだよ、まったく。泣くよ、ヒッチコックが。」と否定的ですが、あるシーンにおける演出はヒッチコック作品の海外特派員の演出をそのまま真似ているので、こればっかりクリエイターあるあるのオリジナルを隠したい病だなぁと思います。
細かいネタはともかく確かな演出力をもってして描いた本作「PERFECT BLUE」は今見ても理屈抜きで面白いため、未見の方はぜひ。ただしちょっと勇気が必要です。
・千年女優(2001年)
往年の大女優(元が誰かはわかりませんが、察するに原節子とか高峰秀子あたり)である主人公が、インタビューをされていくなかで、過去の出演作のシーンとインタビューのシーンが交互に描かれていきます。これぞアニメでしか表現できない。というシーンばかりですし、注意してみないとどのタイミングで画面が変わったのかがわからないほどテクニカルな入れ子構造が施されています。それでいて山寺宏一ボイスの謎の男に鍵を返す云々という話が差しこまれ…最後には色々ひっくり返す結論が待っています。
ラストに帰結するまでの物語の持っていき方に癖があるので、そこで一歩引いてしまいがちな本作ですが、絵柄的/脚本的には今 敏フィルム史上最も一般的なアニメーション映画です。
誰も構えなくても見れるという意味では今 敏作品の中では一番推薦できます。文化メディア芸術祭大賞をスタジオジブリの『千と千尋の神隠し』(2001年)と同時受賞していることからも、本作の評価はお分かりいただけるでしょう。
因みに劇中の映画シーンは過去の名作日本映画を模したもので、そこの知見もある人はより一層楽しめます。
・東京ゴッドファーザーズ(2003年)
まず、この映画の魅力を説明する前に今 敏が自身の映画的な作劇について語っていたことから紐解きます。今 敏は、本人自ら「アメリカ映画に学んだ」と公言しているとおり、映画の作り方を基本的にアメリカ式のもので研究していました。他方で、日本映画については主に黒澤明からの影響を語っていましたが、では一体彼は黒澤明の何に影響されたのでしょうか。私が思うにそれは「良質なパクり方の手腕」であり、その色が濃く反映されているのが本作『東京ゴッドファーザーズ』のある種魅力でもあるのです。
黒澤明は、影響を受けた映画監督の1人としてアメリカの巨匠ジョン・フォードを挙げています(どういう作家かまでは省きます)。この人のフィルモグラフィーに『三悪人』(1926年)という、簡易に書くと3人の不成者が活躍するという内容の映画があります。
察しの良い方はお分かりの通り、黒澤明の『隠し砦の三悪人』(1958年) *20はこの作品に影響を受けて作られたものです。
今 敏はこの構造を実に見事に再現しました。本作『東京ゴッドファーザーズ』は、「さまざまな事情をもつ3人(自称元レーサー・家出女子高生・ドラッグクイーン)が、捨てられた赤ん坊を拾った事で始まるクリスマス大冒険」といったお話ですが、これは明らかにジョン・フォードの『三人の名付け親』(1948年)の「3人の不成者がある時、赤ん坊を預かることになり名付け親になる」という物語を参考にしたものでしょう。さらに、"ゴッドファーザー"の意訳は洗礼時の代父、つまりは名付け親を指します。
こうして比較するとアメリカ映画→日本式の踏襲とも言えなくはないですが、構造的な真似方自体は説明した通り、黒澤明と同じやり方をしているのを考えると、そこは黒澤明の影響だったのかなぁと思う次第です。元々黒澤明自体はハリウッドを研究していたというのは言うまでもないですが。
本作は、さまざまな登場人物が二転、三転と交差し、最後はみんな幸せになるハッピーエンドなのですが、とにかく脚本としての完成度が高い。また、面白さを作品の主軸においているため、『PERFECT BLUE』より過激でもなく、『千年女優』ほど映像的な入子構造の主張が抑えられていることもあり、誰にでもおすすめできる作品となっています。なにより、日本アニメでは取り扱われないであろうホームレスが主人公という視点も、今監督ならではのとらわれないアニメ表現の賜物だと感じます。
・パプリカ(2006年)
2006年、筒井康隆原作のアニメーションが2本公開されました。一つは細田守監督版の『時をかける少女』。そしてもう一つが今監督の『パプリカ』です。ここで同時期に公開というところで、一方的でも接点がないのかと疑問だったのですが、フランスで制作された今 敏のドキュメンタリー映像に細田守の「今監督ならどう料理するかを意識して作った」という発言があるので、細田→今 敏へ作家的な意味で何かしらを与えていたのは違いないです。
内容としては、「夢に潜入できるDCミニという装置が盗まれた事件をめぐり、主人公・千葉敦子(=夢の世界での探偵パプリカ)が夢と現実を行き来しているうちに色々な目にあっていく」というものです。小説をアニメへと落とし込む上で当然さまざまな脚色が施されていますが、1本の映画として収まるところに入れ込んだ完成度になっています。当然のことではありますが、物語として表現している幅の広さなどの関係上、どうしても小説の方が面白いというのは拭いきれません(今監督もそれは理解していた)。ただ、『パプリカ』という作品をアニメにするという意味では、今 敏の脚色や映像表現は大成功していると言えるでしょう。
明らかに黒澤明をモチーフにした登場人物による世界で一番わかりやすいイマジナリーラインの説明や、クラシックな洋画をオマージュしたシーンからパプリカが誰もが知ってるキャラに変身していく様を楽しむこともできます。はやりどこか、ミクスチャー的な側面をもった映像派監督です。
とはいえ、元々パプリカ的な作品を映像化したいが故にそれまでのフィルモグラフィー(PERFECT BLUE/千年女優)があるため、作家性や面白さでいえば本作に至るまでの劇場作品の方が面白かったりします。当然、作画や声優の演技のレベル、そしてなによりも平沢進の音楽との一体感は良いのですが。
個人的な意見ですが映像的に面白いのは実は冒頭のオープニングだったりします。
米津玄師の凡作楽曲『パプリカ』はまず間違いなくここから来ています。というか彼が今 敏を通ってないはずがない(と断言できる理由は彼の特集時にでも)。
今 敏の命日の翌日追悼のツイートをした事が窺える。私が知る限りではインタビュー等の内容で今 敏 or 筒井康隆の言及は一切していないが、他者リプなので、どう対処すればいう話にもなるが、脇の甘さが出てる。当時は今 敏の死を追悼し、今は何食わぬ顔でパプリカというタイトルだけを拝借して、という態度が気に入らない。無論、パプリカは食べ物の名前であるこから誰がどう使おうと自由だが。発表以前に著名な作品があることを知っていてつけるのが卑劣だと思う。ツイート内容は不明ですが、リプライでこのようなツイートがくるということは、100%今 敏の死を受けてのツイートだったのでしょう。知らないはあり得ないのだから。
・夢みる機械(制作中止)
「今 敏全仕事」という資料に載ってるイメージボードを除き、具体的な話は自分も分かりませんが、既出の資料から読み取れる情報を整理して読み解くと
- オズの魔法使いがシナリオ上の参考資料
- 遠未来物でロボットしかいない
- リリコ/ロビン/キングの三人で"電気の国"へと向かう冒険譚
- ロボットもので、子供から大人までどの層でも楽しめるエンタメを目指した作品
- デザインや名前元は『レインボー戦隊ロビン』のキャラクターを意識したもの
- 『帆船108』が流れ、ロボットたちがダンス(リバーダンス)を踊る
- 最後のシーンでは『Ride The Blue Limbo』が流れる
特に下二つを思うとちゃんとした完成品を見てみたかったと切に思う。
レインボー戦隊ロビンからの影響を書くと
- リリ→リリコ
- ロビンはそのまま流用
- キングはベンケイのイラストを改良したもの
あたりかなぁ。
おそらくこの2枚は同じ場所であろうと考えられますが、水の中にも建築物があることからもわかる通り、何かがあった後の世界なのでしょう。津波により都市が壊滅し、主人公のロボットは電気を求めて旅に出る…のようなシナリオだったのかもしれませんが、この作品が制作されていたのは3.11の2年前です。結果的に、今 敏監督のビジョンに現実が追いてしまったので、存命だったとしても、配慮的なスタンスにて若干の路線変更がされる可能性はあったとも思います。しかしこれは関係者が明かしたプロットの一部でありそこまで深く考えることもなく、あくまでもそういう世界で進む物語と考えていいでしょう。
その他にも、世界観が伺い知れるイラストはある
ロビンのイラストにはコンセントが尻尾のように付いているものもあります。以下のイラストや「電気を求めて旅をする」というコンセプトからも、ロビンには(同じロボットとして)リリコを充電する役割があると考えていいでしょう。
そして、ここまでの諸要素から本作には『オズ』の要素(知恵・心・勇気)が取り入れられていることが分かります。
キャラクター像としては、以下の三つに割り振りをしている事が推測できます。
- 頭のないロビン→わらの詰まった頭に脳みそが欲しい案山子の役割
- リリコ→(ハート型でチャージしているような描写をみるに)ブリキのきこり
- キング→強い勇気が欲しいライオン
まぁ、リリコには「漂流して〜」という要素からドロシー的な役割もあるのでしょうが、『レインボー戦隊ロビン』のベンケイも心優しいロボットであり「力だけが〜」系のキャラなので、おそらくそこの設定も流用されていたことでしょう。
なぜ、オズの魔法使いをベースにしたのか。
という考えを広げてみると3つほど考えられる。
- 第一に寓話性が高いため物語に強度、普遍性がある。
これについては長く愛された物語をベースにやると一定以上の面白さが自動でついていくるので、上手く仕上げることができればロボット版のオズとしての面白さが生まれる
- 第二に舞台の奥深さとドロシーというキャラの傍観者的な不思議さ
- 東のマンチキン
- 西のウィンキー
- 南のカドリング
- 北のグリキン
の4つに分かれ首都がエメラルドという世界観。最初に家で潰されるのがマンチキンの東の魔女で、オズの命令で倒すのがウィンキーの西の魔女。いい魔女として描かれるのが首都エメラルドにいけと伝えた北の国グリキンの魔女と、最終的にドロシーをカンサスへと戻し、ライオンを森へ、カカシをエメラルド、ブリキはウィンキーへと銀の靴を使ってそれぞれが行きたい場所に行かせてくれる南の国カドリングにいる魔女。
忠実になぞった脚本であれば各国にいって様々な冒険をしたであろう。そしてドロシーというキャラ。例えば赤毛のアンを例にとってみる。あの物語は端的言えば、誰もが知る有名な出だしから始まり最後はギルバートと結婚までして素晴らしいハッピーエンドを迎えるという、言わば成長譚として描かれる。がしかし、オズの魔法使いのドロシーというのは最初から一貫して「家に帰りたい」という動機のみ。
物語の性質からして当たり前だが、ここでひねりを効かせて村上春樹の*21著作的な「世界の終わり」と「ハードボイルドワンダーランド」の2つの世界を彷徨う「影を切り落とされた僕」と「生きながら消滅を待つ私」という展開からどう話を締めるかと思ったら最終的に「世界の終わり」の中の森の図書館で女子と隠居という変な結論(セカイ系的な路線)にも当然なるはずもない。
ドロシーはオズの国においては、条件付けとしての行動以外に、異界において何かをしようとも特段思わない。そこが今考えるとすごく慣れ親しんだ数多の同系列の作品と比較すると変な気がする。
話自体は家が飛ばされて漂流した挙句、ブリキ、カカシ、ライオンという何かが不足している者たちと冒険をするというものだが主人公の望みが現実的な考えで実直。
ドロシーの主張をいれた4者の望みは
- 優しい心が欲しいブリキ
- 知恵が欲しいカカシ
- 勇気が欲しいライオン
- 家に帰りたいドロシー
遂にはその3者は不足していたものを*22手に入れるし、結末としてドロシーも家には帰ることができるのだが、わざわざ丁寧い「最後にうちに帰れてよかった」というような台詞で終わる。ここまで一貫しているタイプの寓話の主人公というのは寡聞にして知らないため、そこまで詳しくないが感覚的に珍しいタイプだと思う。
故に夢見る機械にドロシー的な要素というのは部分的にしかいれずに上手くこと今 敏ワールドに仕立てるつもりであったのだろう。単にカカシ、ライオン、ブリキを機械に置き換えた話だけのなのかもしれないが。
- 第三にブリキとカカシの対話が本質的なテーマとしてやりたかった
ブリキは心を所望し、カカシは知恵=頭脳を所望している。何故なのか。実は作中にてこの2者の会話で見解の相違ながら結論が出せないことを会話で言っている
カカシ→心があってもどう使うか分からない奴がいるから知恵のほうがいい
ブリキ→知恵だけあっても幸せになるとは限らない、幸せであることが一番。
こんな会話ができるのはカカシに知恵というものがあり、ブリキが既に心というものの切れ端をもっているということに読者もわかる場面でもあるのですが、何が幸せかというテーマが提示されている気がして、もしかしたらこういうタッチをロボットで描きたかったのかなとも思える。
話を世界観的考察に戻すと
次の2枚のイラストに関しては、おそらく線画が残ってる1枚目が下地、それを清書したのが2枚目であると考えられますが、やはり資料が少ないため、ここがどういう場所かまでは分かりません。
これまでの要素から察するに、今監督はPixerの『ウォーリー』的な絵面でオズ的な物語を目指していたのでしょう。そうすると、ダンスシーンは場所的な意味で公開されている画像ではこの辺りかな.
.
とまぁ、ここまで公式が公開している情報を照らしてみたのですが、本当のところは今 敏の頭の中にしか正解がない(故に代打の監督でも今 敏監督作品になり得ないので凍結している作品でもある)ので、我々が真相を知る余地は、作られた600枚のカットをみる事以外にないわけです。ということで、この話はここら辺でおしまい。
では、先述した今 敏作品と平沢進の音楽から何を読み取り、それらをどのように消化したのかを考えてみましょう。
(大半は本人の感性によるところが大きいので言語化できる範囲内で)
まずは分かりやすいところから挙げていきます。今 敏の1分程度の短編アニメに『オハヨウ』という作品がありますが、P-MODELのアルバム『LANDSALE』にも1曲目に同じ題の曲があります。実は平沢進の『オハヨウ』もultravoxの楽曲『my sex』のメロディをそのまま流用しているので、真似っこの真似っこという感じがしますね。
そして少しばかり飛躍した話をすると
今 敏アニメを見るたびに推測してしまうのですが、おそらく今監督の中には
というクレジットで一作作りたいという思いがあったのではないかと思います。村上春樹、平沢進、そして今 敏は、入り口こそ異なるものの、アプローチしていたものは同じであったので、もし彼らが揃っていたとしてもなんら不思議ではありませんでした。この3人が一作品として結実した時こそ、今 敏ワールドが頂点に達する瞬間となっていたことでしょう。アニメーション技法において、村上春樹のねじまき鳥クロニクルに代表される『井戸の底』を映像化できる作家は今 敏以外絶対にあり得なかったでしょうし。
直接的な言及からたどると、インタビューでは必ず影響を受けてきたものとして大友克洋の童夢(劇画史上の最高傑作とまで評価している)、そして平沢進の2つを挙げており、前者については絵柄への影響を、後者については創作の源が引き出されるような存在であると語っていました。平沢進から得たものとしては、やはりカートヴォネガットを知れたことが一番大きいと思います。千年女優やパプリカに代表される、マジックのような入子構造の映像技法の着想元は、映画版のスローターハウス5の場面転換の演出が起因の一つであったのでしょう(『ラストアクションヒーロー』あたりもありますが)。
童夢について加えるのであれば、唯一のTVシリーズである妄想代理人は今 敏解釈版童夢といって差し支えないでしょう。参加しているスタッフが全員超一流しかいない中で生まれた、奇抜のストーリーをもつ今 敏ならではの奇跡のような作品ですので、是非一度ご覧になってください。
三浦建太郎と平沢進
『ベルセルク』(1989~)は日本のダークファンタジーの系譜の中で生まれた作品です。
数多く存在する日本漫画におけるダークファンタジーを確立し、進行形で礎・血脈となった『デビルマン』フォロワーによる作品の中でも頭ひとつ抜けており、世界中でファンを獲得しています。圧倒的な画力で描かれる精緻なキャラクターやモンスター等、そして黄金時代編〜蝕を頂点する濃厚なストーリー展開。総合的なレベルの高さといい、たった一人の日本人が生みだしているとはとても思えません(当然ネタ元はあるのだがそれはどの作品も同じ)。まさしく金字塔と言える作品だ。
悲しいことに、作者の三浦建太郎は2021年に大動脈解離で亡くなってしまいました。熱心な平沢ファンだという文章は見られるのですが、メディアに出ない人だったこともあり、具体的にどういう経緯で魅力的に感じたのかは分かりません。しかし、少しではあるものの、共通の項は導き出せます。ではここで一枚の絵を。
元々、『ベルセルク』に出てくるデザインやモンスターの類はHRギーガーとベクシンスキーという二人の画家に大いに影響を受けているのですが、中でも"The ベルセルク"なのがこの一枚絵。グリフィスがシャルロットとの下りの後に受ける拷問のシーンと対比すると近いものがあります。
そして平沢進の6枚目のアルバム『SIREN』のジャケットがこちら。
MANDRAKEの時代からバイロスの絵をそのまま使うあたり、平沢進もまたベクシンスキーから大いに影響を受けています。というかデカダン派の絵を使うような人間がベクシンスキーの絵を知らないはずがないので。どちらが先という話ではなく同じようなものを好むって話です。
その他(代表的な平沢/P-MODELフォロワー)
平沢進フォロワーとしては今 敏が閾値に達してしまっているので、それ以外は正直そこまで目立ちません。とは言え一例を挙げると、『けいおん』作者のかきふらいが主要キャラにP-MODELメンバーの苗字をつける(その他のキャラの名前もミュージシャン由来)ことで変な爆発力を起こし、そこを媒介して『亜人』2巻以降の作者である桜井画門がキャラにP-MODELのメンバーの名前をつけるという間接的な潮流が生まれたことがありました。『亜人』に関しては、平沢は強い人間キャラとして作品内でもかなりキャラが立っており、作品に対して引用が面白く作用しているので、意味のある引用の仕方でした。しかし、こういった意味のある効果的な使い方も出来ずに、ファッション感覚で平沢進に影響を受けたという、なんとも安易なアーティストがいるのも事実です。
知名度的にわかりやすい例を出すのであれば星野源や米津玄師。星野源は、好きと言うのであれば平沢タッチの楽曲を出してもいいのに中々その手の曲を出さない(出せないという見立てが正しいのだろうけど)。正直な話、シンガーソングライターとしては全くといっていいほど面白味のかけらもない。世界タービンをただラジオで流しただけだなぁという印象しかありません。そこから進展されていない。本当につまらないアーティストの極地みたいな感じがします。
米津玄師に関しては、『救済の技法』に収録されている『MOTHER』に人生を変えるくらい影響を受けたと公言し、『BOOTLEG』という何とも言えない収録楽曲しかない迷盤アルバム(なぜ迷盤なのかは別の機会に)のTrack.1『飛燕』で歌い方と楽曲のスタイルを真似ているのですが、平沢要素を乗せて米津楽曲を作るという意味では平沢要素を全然活かしきれていません。
それもそのはず、平沢進の音楽性(これまで述べてきた音楽史の流れから生まれたサウンド)だからああいう歌い方が成立するのであって、大衆作家が創る音楽レベル(音楽性がBUMP・RAD・ アジカンなどの流れを引き継いでいるという意味で)が主流になっている米津楽曲では機能するはずがありません。まさかそれを理解しないで作ったわけでもないでしょうし。非難というよりもそういう本質的な所をわかっていないはずがないであろうと思うが故に、疑問になり変わる。
まぁ無茶だろと思うのは、原作のナウシカをイメージアップして創った楽曲という別の要素もあるため、詰め込んだ結果調理しきれていないというところもあります。結果的にできたものは表面的なものでしかないというわけです。似合わないことをすると、才覚のある人でも失敗をするという良い例な気がします。
恐らく本人もあれは失敗作と思っているはずで、だからこそ『飛燕』の失敗点を学び『STRAY SHEEP』の『迷える羊』を発表できたのでしょう。あれはきちんと落とし込めていた。こういう器量は流石(その実ネタ元を『白虎野』に収録されている『確率の丘』あたりに定めただけなんだろうけど)。そういうこともあり安心したのですが、思い返せば電気羊的なテーマってハチのデビュー作からの系譜ですよね*23
あんなにもクリエイター的に面白いところなのにファンが爆発した今現在でもあまり多く語られていないので、それもまた別の機会に、いずれ出すかもしれません。
そういうわけで、平沢進の音楽は独自性が強い(というよりも色々なジャンルが重なった上に存在するものである)がために、才能やセンスの良し悪しにかかわらず、他のアーティストが楽曲的に真似たり意識したところで、そんなに巧く機能しない。結局のところ、音ではなくその世界観を他業種の人がインスピレーションとして受け取るのが一番良いというところに落ち着きます。現に、平沢進からの影響を上手く作品に反映させた今 敏や三浦建太郎、桜井我門は漫画家です。これからも平沢進音楽に影響を受けた楽曲を作るミュージシャンは出てくると思いますが、真に平沢的な音楽イズムを継承した作品を創り上げられるかどうかといえば微妙です。
最後に(本題ではないので目次から外しています)
あとがき・小咄メイキング
語りきれなかった部分もあるが、大凡は書けた。長すぎで不要な部分が多いと思った方が大半でしょうけれども。がしかし、ここまで語り切ることでしか平沢進の世界観は見えてこない。それに加えて彼の音楽性の流れを汲むことで冒頭に書いたこの文章の意味
最後まで読んだら曖昧な表現で魅力を語るのではなく、もう一歩踏み込んだ角度・視野から余す事なく言語化できる程度にはなっていることしょう。また、過去の特集記事以上に相当数、迂遠的な視野であらゆる角度から俯瞰するため平沢進以外の事柄についても深く言及します。それらを総合的に把握できてはじめて平沢進の総体が分かる。
が最後まで読んだ方には分かって頂けたかと思います。つまり
- 音楽だけでは平沢音楽は語れない
これに尽きる。音楽という媒体を通しているだけで、その実、奥底にあるのはその実SFネタとそれらを通して組み上がったコンセプトアルバムの世界である。それらを理解していない状態で聴くからこそ、感想が宗教的だなの、意味がわからないけど惹かれる世界観といった曖昧で、ある種の無知蒙昧な形容の感想が目立つことが多くなるのだ。
手段としての音楽、目的としてのSFの世界とそこにテスラ的な物が加わることで余計にヘンテコさがというのが出てしまっている。だからこそこの両点を深く述べる必要性があった。そのため本編でも一度書きましたが、半歩ずれていたらもしかしたらSF作家:平沢進もあり得た世界(可能世界的な意味で)も十分ありえたと思います。それらの考察がある意味でいえば、今回の本質的なテーマであり、それに比べれば、アルバムでなにがおすすめ・名盤だといったことは重要ではない。なので、そこについては普段よりテンションを抑えたが、一応Music Synopsisは音楽ブログなので、念を押してそれっぽく書きました。参考になればと思います。読んでいてやっつけ感は否めないところもあるとおもいますがその点はご容赦をください。
mandrake、P-MODEL、代表的なソロアルバムどれをとっても、世代ではないひよっこの自分が書く題材が40年というキャリアをもつ平沢進というのはリアルタイムで活動を追い、知っている往年のファンの方からすれば満足のいくものではないかもしれません。廃盤関係の音源については精緻に捉えきれていないところもあります。馴れ合いのためのファン名称といった、問答無用で度外視できるどうでもいい部分を除き、雑誌インタビューや本人による解説本に近い書籍などを参照すればより具体的なことが書けて良かった気がするのですがその努力するほど今の自分には余力・気力・体力がないため自分が文章として表現できうる最大限の力を振り絞り、精一杯考え抜いて書いたのがこの記事です。
以上を持って平沢記事とします。以下は好事家向けの文章です。
感想戦という名の雑話、或いは続・後書き
書き終えてまず最初に感じたことは、読み手のことは全く考えないで相当好き勝手に書いたなぁという事。いちいち気を使っていたら何も書けないというところが本音だが。
だから平気でn万字になってしまう。当ブログ常連読者であれば今更な話で、いい加減慣れているとは思いますが。普通の人はそんな字数のブログ誰が進んで読むんだよと書きながら自問自答芸をしていて尚、枝葉を広げるという作業を繰り返していました。結果、自力で限界だと思っていた菅野よう子特集の時に自分が書いた分量の5万字を軽く超えました。
一般的なブログの文字数からあまりにも逸脱をしているからこの記事で初めましての方は分作にしろと思ったかもしれませんが書き手からすれば、とても性に合わないので統合しました。それがわかっていたからこそ冒頭に注意書きも柄にもなく書きましたし。当然平沢進の音楽を説明するために書いていくとどうしても枝葉になってしまうのは今更、というよりも当たり前ではあるのですが、今回は度合いがすぎましたね。自覚してるなら削れよと思わわるであろう一方で、読む手にはどれだけ長文であっても失うものは基本的には時間と体力以外ないですし。がしかし一方で、そもそも話このような記事のリンクをtwitterから見つけ出し、進んでクリックしてアクセスするような方は往々にしてマニアック人か、好事家、物好きばかりでしょうからその意味では受け身として莫大な情報が脳に流れてそれを読み解き解釈し、咀嚼するというのは楽しいことこの上ないことでしょう。そういった発信者が考える第三者・読者視点の考えがあったからこそ平沢進の音楽性を自分なりの意見としてまとめることができたのも事実。
当然、全てを語り切れたわけでもないのです。歌詞の観点や映画からの影響の具体的な話、ライブにおける演出など色々と用意していたものはあるのですがが、はてなブログの文字数的な都合上それらを語り始めると限界値となる655,360バイトをオーバーする。文字だけならともかく、画像を更に挿入すると絶対に。
この点については菅野よう子特集で学んだため、省きました。
自分なりに意見をまとめてかけた。これは嬉しいのですが同時に、あれのネタ元はこれだあれだ的な流れを説明をしてしまうと、解釈の余地が悪い意味で狭まるので実はあまり良くないなと思いました。ここまで書いておいて何を言ってんだという話ですが。これはスタンリー・キューブリックの受け寄りだが、美術・映画等は敢えて説明しないことで受けてに解釈の余地を委ねたほうが正解を提示しない分、様々な解釈ができる。故に作品が愛され続けるという考え方がある。そういった考え=説明しないことで解釈を広める面白さをわかっていたからこそキューブリックの『2001年 宇宙の旅』はああいう映画になったわけだが、なんというかあの作品はキューブリックが観客の特性を理解した上で意図的に「分からないように」編集されたものが公開されているので(本来は冒頭に専門家の説明が入り劇中の出来事を仄めかす単語を語るというパートがあったのをバッサリ切ったり、宇宙人クリンダーを登場させようとしたけど当時の映像技術では難を極めたのでモノリスという物体に成り代わったり、その他諸々の要素を削った)その結果なんとも言えない映画が出来上がったわけですが、仮にあの作品に説明的な要素があり、誰もがあの作品の意図することことが伝われる作品画であったのなら、今現在まで語られるSF映画の金字塔と謳われたり、記念碑的な作品にはなり得なかったことでしょう。実際にダヴィンチのモナリザを例に取っていたが、あの絵画も多様な解釈ができるこそ、価値が生まれるのでありそこに絶対的な説明をしていたら今日我々が名画として拝むこともなかったかもしれない。まぁ、何が言いたいのかというと、どんなエンタメであれ、経緯などを気にせず、知らない状態で見て、聴いている内が実は色々夢想できるが故に案外受け手・消費者的には楽しいということ、対象にたいして無知であるが故の捉え方というのも時として有効な時もありますし。
中には「それは書き手の勝手の主観じゃん」というような記述もしましたが、どんなメディア形態であれ、人が書く・良い表す物言い・表現物はどんなパターン/ケースであっても主観なき情報などあり得えません。目を瞑っていただければと思います。
ああだろうこうだなと頭の中でこういう感じというイメージ展開(夢想)するだけであれば誰でもできることだが、それらをまとまった文章として書き出すだけの文章力や説明力もそこまであるわけでもないので、より良い文章と考え方を絞りながら苦難苦闘した末にようやくできあがったという意味ではこれまでのどの記事よりも時間というよりも、考える体力がかかりました。今回は音楽以外の視点も深く広く入れた、ある種奥の手を使った変わった書き方をしました。具体的には文中にも色々なネタや引用を入れたりしてなるべく読んでい楽しさが失われないようにしたつもりなのですが、当の書き手が毎回このテンポでやると流石にきついため、このような解説は当記事限りです。
書いていて自分でも面白いなと感じたのはジャンルの発展模様がどこも似ていること。今回は主だって音楽・美術・映画・SFについて書いてきたわけだが、必ずどこかのタイミングで閾値に達し、内世界に入っていく歴史というのを書いていて感じました。
音楽・美術ではある地点で原風景のムーブメントとしての印象主義とドイツ表現主義が生まれている。美術界隈で言えばピカソが首魁となったキュビズムもやはり歴史的に考えれば最近生まれた新しい美術ジャンルという括りである。
美術史にはそこまで詳しくないのであまり語れないため、推測となるが、所謂誰がみても上手い平均化された絵というものからの脱却を図った末のジャンル形態と考える。ピカソは幼少の頃こそ写実的な絵を描いていますしその完成度はもはや超人なわけですが、そういった絵を残しても既に確立されたものであるため、恐らくピカソ的にはつまらないものであったからこそ様々な遍歴を経てキュビズムに辿り着き、ジャンルを開拓することで、芸術家としても歴史に名を残すまでに至ったと考える方が自然である。
ポップスとしての音楽であっても60年〜始まり、70年代におけるプログレ等に代表される技術的な側面が極まったら技術簡易で魂で表現をするパンクが生まれその後それらにポストパンクとして楽曲がより進化を解け、そこになものを加えニューウェーブという時代を迎える。SF小説の歴史を紐解いた場合も元々が純粋な空想科学小説から生まれ、50年代を境により本格的な科学礼賛的な小説が生まれ、その反動としてやっぱり内なる世界を描き出す作家が登場し、彼らはニューウェーブSFと呼ばれ、その中から派生しサイバーパンクというものが生まれている。
映画だと、戦後の米国は1950年代に大作主義で突き抜け、クレオパトラを頂点として大作主義が極まった後にフランスでおきたヌーベルバーグ(新しい波)という運動が発生しそれがアメリカではニューシネマとしてSWが登場する1977年まで続きました。
これまで挙げてきた全てのジャンルにおいてどこかでターニングポイントを迎え、そこからまた色々な潮流が出てくるというのはやはり共通している。
これらの考え方が、今回自分の中で一番の発見だったので、以後どこかのタイミングで出すであろうこれのリメイクあたりで使えそうです。前回の草稿を書いたとき以上に新しい知見などを蓄えているので、今度手をつけるときこそ、しっかりと書き上げたいです。草案段階には既に移っているので来年あたりにはと思ったり。私自身、大した学がなく、そのせいでこれまでの記事にしても抽象的な記事が多いので、一度くらいはより学術的なっぽい記事を書きたいという発想から書き始めた記事なのでこちらもそれなり以上の面白さと学びと実りがある記事を書ければという感じです。
草案までは終わっています。
あと、無調パートあたりで鷺巣詩郎の音楽論の記事誰か書いてくれという趣旨を記載しましたが鷺巣さんは本当に難しいところで、だからこそ今に至るまでまともな論考記事ってこれまでに一度も出ていないため我こそはという人がいたら全力で書いて発表してほしいことを再度書いておきます。私自身、全く手がつかないというわけでなく、出そうと思えば出せますがちゃんとした記事を出せるかどうかという点からみると相当難しい気がして。そのハードルを超えられる人にちゃんと書いて欲しいなと思ったり。
ここまでただの一度のスクロールという逃げの道を選択せずに総体としての記事を長々と当記事読んでいただきありがとうございます。当記事が全ての読み手の方々へのなんらかの効果・効能・知見・発見・見識・知識へ1mmでも貢献したのであればなによりです。
この記事で当ブログが初めましての方は多方面からの圧倒的な情報量で疲れたと思いますが、このくらいの文章を読むのも一興と思っていただければ嬉しいですし、浅学ながら持ちうる術ある程度を出力できた書き手としてはこの上ない幸せです。
それでは次の記事でお会いしましょう。
Credit
サムネイルにつきましてはナタリー様の以下の記事の写真を引用しています。
Special thanks to All readers of this article.
*2:20世紀少年で一躍有名になったギターイントロでお馴染み曲の作曲者
*3:energy flowウラBTTBに収録されてます
*4:同時期に冨田勲が同じく感銘を受け、その後シンセサイザーの大家となります。
*6:rossam university robot
*7:シャーロックとマイクロフトについて知りたい人は先に紹介した『ギリシャ語通訳』と『ブルースパーティントン設計書』の2篇を読めば大体掴めます。
*8:あの映画がわからないという人は小説版を読むと理解できます。
*9:万華鏡のネタはその後あらゆる漫画に引用され続けているのでそういった文脈で知った人も多いのではないでしょうか?
*10:この点だけは真似できていない
*11:某サイボーグな1号とかを連想してしまいますね
*12:PSYCHO-PASSで引用されて以降ファンの中では有名なエピソードになった。
*13:検索エンジンサイトのヤフーは十中八九もじられたものです
*14:自分がその一人であることは言うまでもない
*15:ハートフィールドはJBLのスピーカーであるハーツフィールドの名前からでしょう
*16:ロックフェラー・モルガン・メロン・デュポン・カーネギー
*19:ノーランはインセプションでパプリカの演出を、アロノフスキーはレクイエムフォードリームでperfectblueの演出をそのまま真似た
*20:その隠し砦がスターウォーズに続くというのは洋の東西でいい循環があるなと思います
*21:世界の終わりとハードボイルドワンダーランド
*22:結果的には最初からもっていたという結論で逃げるオズは最後まで口の巧いおっさんだなぁと思う