Music Synopsis

音楽に思考の補助線を引く

没・シャフト寄稿文章 

まずは、参加した方々はお疲れ様でした。また、「もにも〜ど」に関わった全ての人に感謝の意をここで表明したいです。本当にお疲れ様でした。特に主宰者であられるあにもにさんには最大限の感謝の意を示したいと思います。本稿の感想はまだ来ていませんがどのような感想が来るのかが楽しみです。

存分に咀嚼し、見て、聴いて、考えてください。

全体の俯瞰をした上でない混乱すると思うので本記事は本稿を読んだ後に閲覧することをお勧めします。


 

この記事では本原稿には載らなかった部分の一部を供養として載せます。

カットして正解だねっていうものばかりですが、一応こういう文章も当初は入っていました。というある種の補完部分を成すものです。

初稿の全てはあにもにさんしか読んだことがないですが、一種のサービス精神でそこからも幾つか出しています。そして、リライト以後に追加文章として書いたけれど採用されなかった文章も載せています。言うまでもなく文面が拙いほうが前者で、ちゃんとしているのが後者です。原稿と併せて読まないと何が何だかよく分からないと思いますが、本記事はあくまでも合同誌を買った人が補足事項として読むための記事です。その点についてはご了承下さい。

 

本稿を読んだ方であれば本来どこに入るはずであったかは分かると思うので順番はバラバラです。

以下 NG原稿集

 

・冒頭の件

共通してアダルトゲームではあるが、虚淵玄の元々の活動場所はアダルトゲーム界隈であり、その業界にて重厚な純愛ゲーム『沙耶の唄』、仮面ライダーと吸血鬼との混ぜ合わせとしての『吸血殲鬼ヴェドゴニア』、愛する西部劇を我流に落とし込んだ『続・殺戮のジャンゴ』等を発表したことで名を馳せた人物であるからこそ、そうした作品群を参照している可能性が高いと言う意見。或いは『紫色のクオリア』(著:うえお久光)との類似性、『銃夢』(著:木城ゆきと)におけるインキュベーター区画の引用、そして何よりも早川の青背の諸作品、とりわけグレゴリー・ベンフォードの『大いなる天上の河』から『輝く永遠への航海』に描かれる有機生命と機械文明の物語が影響しているといった読みがある。或いは、全体的にキリスト教のテーマ性が感じられるといった大雑把なでありながらもモチーフからそういった宗教観の考察などを多々見る。

 

・ドイツ文学とクラシック音楽

ベートーヴェンの弟子とされ、古典派に傾倒しつつ、現在では初期ロマン派を代表する作曲家フランツ・シューベルトゲーテの『魔王』(一七八二年)に触発されて書いた『魔王(一八〇五年)』のように、中期ロマン派を代表するロベルト・シューマンは大変な読書家で中でもゲーテは勿論のこと、ETAホフマンに傾倒しており、『クライスレリアーナ ピアノのための幻想曲集』(一九三八年)に発表していますがタイトルにあたるクライスレリアーナの部位はETAホフマンの音楽評論集のタイトルからの引用をしていますし、同じくETAホフマンの『牡猫ムルの人生観』に登場する宮廷楽士クライスラーとの共通性もあります。後期ロマン派のリヒャルト・ワーグナー、そしてなによりピョートル・チャイコフスキーバレエ音楽くるみ割り人形』(一八九二年)の作風に影響を与えており、そのチャイコフスキーの音楽の熱烈なファンであったのがセルゲイ・ラフマニノフという流れに繋がります。それ以外にもフランスにおけるロマン派音楽の影響なども推察できます。ラフマニノフとフランスロマン派音楽については次項の『まどか☆マギカ』におけるロマン派音楽との繋がりを述べた後に論述していきます。

 

 

・『叛逆の物語』と『くるみ割り人形』について

『叛逆の物語』の最終場面では左側に「Countory of Sweets」(原文ママ)右側に「GooD Moring」という文字が看板に書かれている場面がある。直訳すると「お菓子の国」と「おはよう」という意味になる。「お菓子の国」は人形の国を指している。『くるみ割り人形』の世界においてもお菓子という単語は幾度となく登場することからも、それは明らかである。他方「おはよう」というのが何を指しているかはバレエ版の『くるみ割り人形』と原作との差異を考えれば明らかである。原作版とバレエ版との大きな違いは主人公がマリーからクララに変わっている事と、結末にてクララが朝に目覚める事で、それまでの経験してきたことが夢であり、現実に帰るという締め方をしているのだ。つまり「おはよう」というのは朝の目覚めのことを指し、現実の世界に戻ったことを指し示している。

 原作の展開でも一度は現実に戻り、それまで体験したことが夢であったという描写がある。しかしくるみ割りの人形にある真意を伝えることで、「人形の国」へ誘われることになる。マリーの告げた真意を知ったことで、くるみ割りの人形が実は呪いをかけられた存在であり、それがマリーによって告げられた真意の言葉によってドロッセルマイヤーという青年に戻り、その感謝の恩恵としてマリーは王妃となり「人形の国」の主となるところで終わる。こうした背景を踏まえた上で『叛逆の物語』における二つの看板の意味を考えれば明確に原作とバレエ版それぞれの『くるみ割り人形』の結末を隠喩として表現していることが分かる。

 

・ドイツ文学と原作版くるみ割りの大事なエピソード(真意)について

ディズニーの『ファンタジア』(一九四〇年)の有名な一編にあたる『魔法使いの弟子』の原案もまた、ゲーテの著作である。閑話休題。ドイツ人による作品をロシア人が音楽として翻訳するという意味では、チャイコフスキーの『くるみ割り人形』や『白鳥の湖』も同様であり、作中の舞台はドイツである。『叛逆の物語』(二〇一三年)におけるくるみの砕く描写がありますがあれは、原案におけるETAホフマンの『くるみ割り人形とねずみの王様』(一八一六年)からの影響。作中内で語れる御伽噺として『かたいくるみの話』があります。この話はピルリパート姫がねずみの女王マウゼリグンスの呪いにて醜いくるみ割り人形になった王女。王女が元の姿に戻る方法は固いくるみクラカーツクを割りその中の実を食べることとされており、そのクラカーツクを割る人物は人形細工師であるドロッセルマイヤーの息子。彼のおかげで実を食べることができたピルリパート姫は元に戻るが、マウゼリングが突如現れ今度はドロッセルマイヤーの息子に呪いがかかってしまうというものです。これを踏まえると『叛逆の物語』(二〇一三年)におけるクルミを砕くという描写の演出意図が何を指し示すのかは明白であり〜

 

・ドイツ文学とデビルマンからまどマギを解く

美樹さやかの運命を再考する。『若きウェルテルの悩み』では、ウェルテルはシャルロッテに恋をするが、シャルロッテにはすでにアルベルトという婚約者がいて、ウェルテルはそれに悩み、ついにはウェルテルはアルベルトより護身用という名目で借りた銃で自殺を選択するまでの物語である。『まどか☆マギカ』では、これを男女逆転させた形で描かれている。美樹さやか、上条恭介、志筑仁美の三角関係性は決してよくあるメロドラマの構図として描かれているわけではないはずだ。本編において美樹さやかはこの関係性で絶望し、魔女になりその果てに去っていく。この美樹さやかのあまりに切なく、陰惨なドラマは『まどか☆マギカ』世界における魔法少女の論理的な設定から生まれる必然的な帰結を設定したこと。意識的に永井豪の『デビルマン』における牧村さやかの惨状を見事に踏襲させたことの他に、文芸性としてのゲーテイズムの3つが重なったからこそ演出できた物語であると言えます。魔女の名前からの読み解くとシャルロッテ、アーデベルトの由来も恐らくは『若きウェルテルの悩み』と考えられる。その他音楽作品にまつわるゲーテの作品で最も有名な作品はシューベルトの『魔王』であることは誰もが納得がいくと思います。以上の作品・作家が『まどか☆マギカ』の紡ぎ出す世界観や話の源流として数えることができる。それらは先述の通り音楽史観として『まどか☆マギカ』との繋がりを考えた時『魔法の音』と、それらに関連する人物たちが重要な役割を果たしていることは制作陣が意識的に演出の一環として取り入れているように思えます。こと、音楽として考えた時に印象派やロマン派としてのクラシックの音楽要素を作劇の音楽に忍ばせているとみてまず間違いない。シャフト作品における様々な古典ものを取り入れ、それを現代のアニメに取り入れるという実験性があらゆる要素と適合した作品こそが『まどか☆マギカ』に収束され、結果的に新規軸をもたらすエポックメイキングな作品になったことはその後数年ではあるが、後発として続いたフォロワー作品の数々が証明しています。

 

 

・レーナウのファウストとヴァイオリンの特性

そもそも上条にヴァイオリンを持たせた理由は何だろうか。なぜ他の楽器ではいけなかったのか。これは作中の世界観からヴァイオリンの持つ特殊性が関わっているのではないか。例えばポーランドには「悪魔のヴァイオリン」と称される楽器があるが、これは弦楽器ではなく打楽器であり、儀式として悪魔祓いに用いられる。また、悪魔に魂を売ったと呼称されるパガニーニの存在もまた無視できない。これらに共通しているのは「悪魔」である。パガニーニに触発された著名な音楽家としてリスト・シューベルトシューマンベルリオーズラフマニノフを挙げることができるが、先述の通り、彼らはいずれもロマン派の音楽家であると同時に文学から触発された作曲家と言う意味で共通している。中でも特筆すべきはリストが『レーナウの「ファウスト」による2つのエピソード』(一八六一年)を作曲しているという点だ。第二曲のタイトルにもなっている『村の居酒屋での踊り』ではメフィストフェレスがヴァイオリンを楽士から奪い、演奏し周囲の人々を感嘆させる。つまり、ここではヴァイオリンが人を誘惑する楽器として登場するのだ。ヴァイオリンは悪魔という属性に近い魅力を持つ楽器でありだからこそ物語の仕組みとしてファウストの文脈を持つ『まどか』の作品内において、一つの隠喩としての表現として上条の楽器としてヴァイオリンを採用したのではないかと考えることができる。

 

2001年宇宙の旅における音楽の対位法

『二〇〇一年宇宙の旅』という作品は全体的に監督が意図的に説明を省いているおり、それ故に謎が謎をよび、挙句最後にはスターチャイルドで締められ、初見だけでは全くもって解るはずもない不思議なシネラマ映画です。明朗快活とは程遠い本作にてどこに対位法が使われているかを判断するのは難しいのですが、冒頭の人類の夜明けと呼ばれるシークエンスにて猿人がモノリスを触ったことで知性を得た結果、骨を武器として使う描写があり、その後その骨を空高く投げるとそこから宇宙のシーンへとジャンプします。本来視覚的に繋がらないカットを似たような構図・被写体を映すことで時間経過の表現技法であるマッチカットが使われていますが、ここで骨に対比する構図として核爆弾衛星が映るカットがあります。一見、ただの宇宙船と見間違えそうですが、あれは核爆弾衛星です。そこで流れている音楽がヨハン・シュトラウス2世が作曲した『美しき青きドナウ』。つまりこのシーンにおける対位法というのは前のカットにて猿人がモノリスによって知性を得ることで武器を使い動物を殺めることを覚え、その骨を投げるカットから核爆弾衛星でマッチカットをし、宇宙のシーンへと移行させることで数百万年後の進化を経て、人類は核爆弾衛星を開発し、それらが宇宙を飛んでいるという構図をもった非常に恐ろしいシーンであるにも関わらず、音楽はまるで優雅な宇宙の旅をしているかの様に錯覚させる『美しき青きドナウ』が流れているということです。説明がされない上に、映画を隅から思慮しなければ分からないので不親切さではありますが、演出意図・シナリオを考えた上で映像を見ると実は雰囲気で流れていると思っていた『美しき青きドナウ』こそ、画と音における対位法の効果を持っていることがわかります。『二〇〇一年宇宙の旅』はアラン・ハチャトリアンのバレエ組曲『ガイーヌ』第一組曲アダージョ、ジェルジ・リゲティの『Ligeti : Requiem : I Introitus』『Requiem II.Kyrie』『Lux aeterna』『 Atmospheres』『Aventures』そしてなにより本作を象徴する楽曲であるリヒャルト・シュトラウスの『ツゥアトラストラはかく語りき』など、様々な意味においてその場に適合した音楽を引用しています。それらが画と混ざり合う瞬間に生まれるダイナミズムを生み出すことで受け手の心情に強烈な視覚的体験を演出させるという意図があったと推測できるため、『美しき青きドナウ』も画にあった音楽として引用という解釈もでき、本来はメンデルスゾーンの『真夏の夜の夢』(一八二七年)よりスケルツォが使用される予定であったということからも、場にあった雰囲気の音楽をつけることが想定されていたと考えると単なる偶然の一致であるが、その方向で考えても結果的には対位法としても読み取れるシーンにもなった。

 

時計仕掛けのオレンジに対する紹介文

同じキューブリック作品より『時計仕掛けのオレンジ』という作品においても対位法のアプローチが使われています。本作は『二〇〇一年宇宙の旅』よりも明快なシーンで流しています。アンソニー・バージェスが書いた原作のラストエピソードを抜いた米バージョンを映像化したものであり、お話としての過激さ・風刺さが目立つ分、『二〇〇一年宇宙の旅』と比べると幾分かは分かりやすい作品です。本作の主人公である非行少年アレックスは様々な残忍な行為をしたのちに、遂には警察に捕まるのですが、そこで更生の名の下にルドビコ療法という治療を受けることになります。

 

エヴァにおける音楽の対位法について

新世紀エヴァンゲリオン』というアニメはテレビ版の時より全体的に映像をより効果的に映える仕掛けとしてベートーヴェンの『交響曲第九番ヘンデルの『メサイア』バッハの『無伴奏チェロ組曲』を、また劇中以外にも取り入れており旧劇と呼称される二部作の作品のうち、一部目の『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 シト新生』の予告編ではヴェルディの『マンゾーニの命日を記念するためのレクイエム』より『怒りの日』の部分を流すといった大胆な手法もとっています。この演出は自体も影響下の流れとしてキューブリック作品をはじめ『二〇〇一年宇宙の旅』以後何作かそれに準じた観念的なSF映画の潮流の一つにあたるジョン・ブアマン監督作品のカルトSF映画『未来惑星ザルドス』(一九七四年)において同じベートーヴェンの『交響曲第七番』が流れているためそのような作品群から影響を受けたものと推察することができます。他の見方として、日本の特撮作品『ウルトラセブン』(一九六七〜一九六八年)の最終話『史上最大の侵略(後編)』にて諸星弾がヒロインの役割をもつアンヌ隊員にウルトラセブンであることを告白をするシーンにてロベルト・シューマンの『ピアノ協奏曲イ短調』が流れる演出からの影響を指摘することもできますが、最終回の放映時期は一九六八年九月八日。『二〇〇一年宇宙の旅』の日本公開は同年の四月十一日であることから、特撮でなおかつSF物を作っていた『ウルトラセブン』の制作陣の誰かが『二〇〇一年宇宙の旅』を見て触発されたという可能性もある。つまり順番としては『二〇〇一年宇宙の旅』を挟んだ上での『ウルトラセブン』という図式で枝葉が流れていったと考えたほうが自然ではないかと思う。閑話休題。アニメ作品においてクラシックの引用をすることでシーンを魅せるという手法は今でこそ当たり前になっていますが『新世紀エヴァンゲリオン』がその効能を初めて視聴者に提示しそれが大反響を呼び評価をされたと最初の作品であると言えます。そういった作品が劇場版のリメイクでは先の『今日の日はさようなら』や『翼をください』(作詞:山上路夫、作曲・編曲)を対位法として、最上級の使い方を用いてアニメ視聴者により衝撃を与えたという意味で『新世紀エヴァンゲリオン』は映像と音楽をそれまでの前例以上に巧みに扱ったお手本のような映像作品であると言えます。高見広春原作の『バトル・ロワイアル』(一九九七年)が深作欣二監督の手によってに映画化された『バトル・ロワイアル』(一九九九年)の予告編です。『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 シト新生』と同様にヴェルディのレイクエムを流しています。『バトル・ロワイアル』(一九九九年)の場合はモーツァルトの『レクイエム』を併せていますが4年前に『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 シト新生』が公開されていたことを考えると余波として影響を受けていたと言えることもできます。最も『バトル・ロワイアル』におけるヴェルディの引用は作中における"中学生同士の殺し合い"という内容に相応しい荘厳さを象徴するこれ以上ない楽曲であること、そして深作欣二監督が当時70歳を超えた熟練した巨匠監督であること、そして『新世紀エヴァンゲリオン』以前に岡本喜八監督の作品『ブルークリスマス』(一九七八年)の予告編にてヘンデルの『メサイア』が使われていることから実写映画における音楽の使い方をアニメに持ち込んだ時期と『バトル・ロワイアル』の時期が同時期に重なったという見方が高く、偶然の一致と考えるほうが自然ではありますが、少なくとも『バトル・ロワイアル』(一九九九年)以前にヴェルディのェルディの『マンゾーニの命日を記念するためのレクイエム』の『怒りの日』の部分を引用した予告編の映像を作っていたというのは相当なインパクトを持っていたと言えます。

 

・音楽の聴き方の変容について

このように音楽自体のジャンルの変容に加え、時代が変容し、時代とともに録音技術などの発達を通して二十世紀以降はクラシック音楽における聴衆の在り方まで変わった古くは二〇世紀後半にかけてカセットテープやレコード、そしてCDといった固形物化したものが音楽の聴き方の主流となり、なった。しかし二一世紀今では現在では、固形物化したデータとのものではなく、膨大なデータベースとデバイスとでネットワークによる同期を通じたサブスクリプションが主流となった。生演奏というものは今でも形式として存在するが、決してメジャーな在り方ではない。これらの現象はヨハネス・グーテンベルグが印刷技術を確立した以前以後とでは紙面における扱いというものが根本的に変わったのと同様である。

 

・フランス詩学からの印象派としてのドビュッシー作品について

完璧で理知的なものを目指す高踏派の文章と象徴主義の作風に傾倒した音楽家こそクロード・ドビュッシー。彼の代表作の一つにあたる『前奏曲』(一九三〇年)の八曲目にあたる『亜麻色の髪の乙女』の題目はルコント・ド・リールからの引用であるし、ドビュッシーの歌曲の大半がバンヴィルの作品と幾つかのボードレールの作品で占めている。

 

プロイスラーの紹介部分

一般的には『クラバート』で知られているオトフリート・プロイスラーの〜

 

忍野忍の魅力について言及した部分

影というテーマをメインにしたハンス・クリスチャン・アンデルセンの童話としての『影法師』。そしてこのテーマにおいて欠かせない作家としてバルザック。人間の本質、欲望、精神を緻密に描写者することに長けていた小説家であることは人間喜劇の作品群からわかるであろう。日本人として親しみのある例としてあげるのであれば水木しげるの『ゲゲゲの鬼太郎』におけるねずみ男。生々しい人間の欲求の塊のようなキャラクターであるが、作者の水木しげるが一番気に入っているキャラクターでもある。つまりヒーローとしての鬼太郎だけでは都合の良い世界でしかありえないからこそ、それを打ち消す形として存在している。そういった文脈のキャラクターである。

 

・話の流れで虚淵玄について言及した部分

虚淵玄という脚本家の作風は小説の世界では大まかには六〇〜八〇年代に代表される地球そのものが異界という捉え方をするニューウェーブからウィリアム・ギブスンが提唱したサイバーパンク以後の海外SFの流れ、やクライブ・カッスラーなどの冒険小説やスティーブン・キングクトゥルフ小説の流れを汲んでいる作家であり、ペンネームでさえもスティーブン・キングクトゥルフ作品『クラウチ・エンド』から命名されたものとも読み取れる。もう一つが海外映画の流れ、それも大作主義の映画よりも『リベリオン』(二〇〇二年)『サルート・オブ・ザ・ジャガー』(一九八九年)『ジャッジ・ドレッド』(一九九五年)『ドニー・ダーゴ』(二〇〇一年)のような癖が強いカルトタイプのSF・アクション映画を好み、路地裏にて喧嘩を始める描写や銃を使ったアクション作法は菊池秀行の書き方・描写からの転用であり、そして日本漫画の影響が強く、文学あがりと言えるタイプではないが、それが故にアニメ的に面白い作品を手がけることのできる稀有なシナリオライター

 

・クインシーの流れで書いた一種の文学の流れ

 

この九年間前に発表された小説をベルリオーズが影響を受け、やがてはそれが『魔法少女まどか☆マギカ』(二〇一一年)に直結するということを説明するために本題から一度脱線し文学潮流の相互性を確認する必要がある。ド・クインシーーは『アヘン常用者の告白』(一八二一年)にて多大なる影響を及ぼした。その一人がアメリ幻想文学の大家エドガー・アラン・ポー。現在における探偵像、いわば紳士としての像を確立したという意味での元祖となった推理小説や後のラヴクラフトスティーブン・キングへとその文脈は引き継がれていくホラー・怪奇ものを展開した。その影響下にボードレールを中心としたフランスの詩人がいることはもはや説明する必要はない。ではポー以前、つまりは上にはどういう人物がいたのかというと、先述のド・クインシーや探偵小説の原点にあたる『ケイレブ・ウィリアムズ』でお馴染みのウィリアム・ゴドウィンといった英国作家とドイツ文学、とりわけETAホフマンからの影響が濃いとされる。ド・クインシーが主に活躍した時代は一八二一年から一八五三年。一方ポーは一八三〇年〜一八四九年と時期的には被る。その中でポーが主に英国文学におけるゴシックホラーを意識したというのは『ブラックウッド風の作品の書き方』という短編を出していることからも明らかでありその中でド・クインシーの『アヘン常用者の告白』(一八二一年)についての記載がある。一八二一年から一八五三年。一方ポーは一八三〇年〜一八四九年と時期的には被る。ウィリアム・ブラックウッドという出版業者を指します。一八一七年に『エディンバラ・マンスリー・マガジン』を創刊し、これがのちに『ブラックウッズ・エディンバラ・マガジン』となります。そこにド・クインシーも『芸術の一分野として見られる殺人について』(一八二七年)などを寄稿していたことで、それらの著作にポーが感銘を受けたという流れになる。その後ポーは『大鴉』(一八四五年)を発表し、そこに熱狂し、可能性を見出した人物がボードレールであることを考えればボードレールと同時期に生きたベルリオーズゲーテからの着想で楽曲を作っているようにド・クインシーの『アヘン常用者の告白』(一八二一年)の諸要素に影響を受け幻想交響曲(一八三〇年)の一連の物語を作っていると考えてまず間違いない。簡易に纏めると『アヘン常用者の告白』(一八一二年)などの作風に影響を受けたエドガー・アラン・ポーが『大鴉』(一八四五年)などを通して広め、そこに浸透したボードレールが後のフランス詩学の運動を先駆けとなり、デカダン派、高踏派、象徴主義へと展開。

 

 

ベルリオーズ幻想交響曲に関するエピソード

『断頭台への行進』というタイトルをフランス作曲家がつけるのはマリーアントワネットの最期を思うと発想という意味では不思議ではない。クリエイターが時代背景に影響を受けるのは世の常ですし、実際フランス七月革命の十周年記念イベントの音楽を政府の依頼によってベルリオーズが手掛けて『葬送と勝利の大交響曲』(1840年)という楽曲を残した。第五章のタイトルはどちらをとっても魔女、ワルプルギスという世界から成り立つため重要な作品と考えられる。そもそも話として『ファウストの劫罰』(一八四六年)を作っていたことからベルリオーズもまたゲーテからの影響を受けていたことは間違いない。こうした標題に加え物語が実に興味深い。病的な感受性と想像力に富んだ若者の音楽家が恋の悩みによる絶望の発作にてアヘンによる自殺を図るが、致死には至らず、眠りについた若き音楽家が摩訶不思議な幻想を見ることに、それらの観念が音楽として現れるというものです。これらの物語はベルリオーズの実体験を落とし込んだとされており、ベルリオーズはある時シェイクスピアの『ハムレット』の劇を見て、その時劇中に登場するオーフィーリアの主演はリエット・スミスソンに恋焦がれるが思いが届かず、失恋を体験から生まれた物である。最も、その後は成就したものの破局という現実は無慈悲であるという一途を辿ったのだが。

 

物語シリーズの演出言及

最低の情報量にしぼり、それ以外は省略の限りを尽し徹底して最小限のカットにて構築されており、まるでクレショフ効果作用を誘うような手法であると考える。こういった手法はアメリカのディズニー映画やフランスのフライシャー兄弟の時代に遡ってもあまり例をみない。唯一それに近い作劇をしているのはロシアのアニメ作家であり、『霧野中のハリネズミ』や『話の話』などの傑作で知られており、エドワード・ゴーゴリ原作の『外套』のアニメを長きに渡り作り続けていることで知られているユーリー・ノルシュテイン。彼の作品的とも形容することは可能であるが、それも実に表層的な側面だけに類似点が見出せるだけであり、大部分の演出には大分差異が生じる。

 

・ライトモチーフについての言及

このライトモチーフは非常に音楽的に象徴的な意味合いを持つため映画音楽においてもしばしば用いられる。フランシス・フォード・コッポラ監督作品『地獄の黙示録』でヘリコプターのシーンにてワルキューレの騎行第三幕が流れるのも当然そう言った意味合いが含まれており、ヘリコプターをワルキューレの戦士のように見立てる演出的な意図がある