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Music Synopsis

音楽に思考の補助線を引く Notes on sound, voice, and what remains

続・81プロデュースの個性派声優について考える─少女性、異物性、そして喪失の声

「おいおい、エイベックスや響の役者を論じたいがために、81プロデュースを持ち出すな」。そう思う人もいるだろう。

しかし、創立45周年を迎えた81プロデュースが、これまで所属・輩出してきた役者たちの演技を振り返ると、世代も声質も異なる彼らのあいだに、ある種の「81らしさ」が見えてくる。

例えば、間宮くるみや加藤英美里が得意としてきた人外・マスコットの演技には、可愛らしい声のまま、人間とは異なる身体感覚や知性を成立させる技術がある。そうした資質は、響所属の遠野ひかるにも強く感じられる。

一方、エイベックス所属の安済知佳が見せる、人物の感情が次第に崩れていく芝居には、上田麗奈の演技と比較したくなるだけの特殊性がある。そして、現在の81には永瀬アンナがいる。闊達な少女性を声に残しながら、喪失の予感を抱えた人物を演じられる彼女は、遠野とも安済とも異なる位置にいる。

こうした比較を通じて、81という事務所が長年にわたり育んできた演技巧者の特徴と、その特徴が他事務所の役者にも認められる理由を考えてみたい。

 

ちゃんとした論に入るために(ちゃんとつながります)、その前に宣伝します。

永瀬アンナが主演する劇場アニメ『どこよりも遠い場所にいる君へ』。

『サマータイムレンダ』以降、永瀬アンナの出演歴には「喪失」「少女」「夏」という組み合わせが、ある種のパターンキャスティングと呼びたくなるほど繰り返し現れている。しかも今回、その連続性を思わせるものが、映画のショットそのものにまで現れている。『呪術廻戦』「懐玉・玉折」において、夏油傑は天内理子に「帰ろう、理子ちゃん」と告げ、理子は「うん」と答える。その直後、伏黒甚爾の銃弾が彼女の未来を奪ってしまう。

ところが、劇場アニメ『どこよりも遠い場所にいる君へ』の映像を見ると、どうにも妙な既視感がある。

涙を浮かべながら微笑む少女。目元から口元に至る表情の作り方まで、驚くほどよく似ている。しかも、どちらもCV永瀬アンナである。

もはや、夏油(cv:櫻井孝宏)の「帰ろう、理子ちゃん」、理子(cv:永瀬アンナ)の「うん」という会話の直後にマッチカットで繋げても、伏黒甚爾が現れなかった世界線の劇場版として成立してしまいそうだ。

天内理子にとって「玉折」が存在しない「懐玉」。まさしく存在しない記憶案件である。

無論、これは同じ声優が演じる少女と、偶然にも似通ったショットから生まれた勝手な連想である。しかし、この冗談を成立させている永瀬アンナの声について考えてみると、興味深い特徴が浮かび上がる。

天内理子は、自分の人生を選んだ瞬間に命を奪われた少女だった。『サマータイムレンダ』の小舟潮もまた、死によって一度は日常から切り離されながら、その後の物語で驚くほど生き生きと振る舞っている。

永瀬の演技には、こうした悲劇的な境遇に置かれた少女を、なおも生命力のある人物として成立させる強さがある。声に残された闊達さや、感情が言葉へ変わるまでの反応の速さが、少女の失われた時間をかえって際立たせる。

数々の作品で異なる役柄を演じてきた永瀬だが、これまでの代表的な仕事から、その演技的資質をひとまず「闊達自在であり、同時に喪失を抱える少女の声」と捉えておきたい。

そして、この資質は、同じく少女の生命力を声に宿す遠野ひかるや、人物が感情の均衡を失っていく過程に優れた安済知佳と比較したとき、さらに興味深いものになる。

本稿が「続・81論」と題している以上、前回の81論で提示した私論を出発点としている。

世代も声質も異なる役者たちの演技を追っていくうちに、一見すると無関係に思える仕事のあいだにも、奇妙な共通性が見えてくる。その感覚をさらに発展させ、いま81プロデュースで破竹の勢いを見せる永瀬アンナの演技を改めて振り返ったとき、何が浮かび上がるのか。

そこで、ある種の因数分解のようにして現れたのが、安済知佳と遠野ひかるという2人の役者だった。

つまりどういうことか。

81プロデュースには、間宮くるみと加藤英美里という、マスコットキャラクターの演技において象徴的な仕事を残してきた2人の役者がいる。加藤は現在こそ81を離れているが、デビュー当時から長く同事務所に所属していた。

片や間宮くるみ。『とっとこハム太郎』(二〇〇〇年)のハム太郎、『いないいないばあっ!』のうーたん、そして『タコピーの原罪』(二〇二五年)のタコピーまで、小さな身体を持つキャラクターに圧倒的な実在感を与えてきた役者である。

間宮の演技には、声を聴いただけでキャラクターの身体の大きさまで想像させる力がある。舌足らずな発音や、幼い存在特有の反応の速さによって、その人物がどのような身体で言葉を発しているのかまで伝わってくる。しかも『タコピー』では、その可愛らしい発声が、人間社会の倫理を理解できない異星人の恐ろしさにも転じている。

一方、加藤英美里はどうか。

『らき☆すた』(二〇〇七年)の柊かがみ、『化物語』(二〇〇九年)の八九寺真宵、そして『魔法少女まどか☆マギカ』(二〇一一年)のキュゥべえ。これらを並べると、ここ20年の萌え文化における「ツインテール」と「マスコット」の両面で、加藤がいかに象徴的な役者だったかが見えてくる。

かがみと八九寺はツインテールを特徴とするキャラクターであり、キュゥべえは文字どおり魔法少女もののマスコットである。もちろん、かがみは普通の人間だが、「かがみん」という愛称が示すように、萌え文化のなかではマスコット的な存在としても受容されてきた。

ときおり、こうした分類をすると「いや、かがみんは人間だろう」という指摘が入りそうだが、少々甘い。

そもそも髪型の「ツインテール」という呼称には、『帰ってきたウルトラマン』(一九七一年)に登場した古代怪獣ツインテールを引っ掛けたという命名上の逸話がある。グドンの天敵、、、ではなく、グドンに捕食される側の怪獣である。そう考えると、怪獣の名前を冠した髪型の少女を「ツインテール属」と呼んでしまうのも、案外悪くない分類ではないか。

それはさておき、加藤英美里の演技に話を戻そう。

柊かがみでは、ツッコミの速さや感情の起伏によって、典型的なツンデレ少女を成立させる。八九寺真宵では、幼い少女の発声と妙に理屈っぽい言葉遣いを組み合わせ、阿良々木暦との掛け合いを成立させる。そしてキュゥべえでは、同じように愛嬌のある声を用いながら、人間の感情を理解しない知性を演じてみせた。

間宮くるみが、声から小さな生き物の身体を想像させることに優れているとすれば、加藤英美里は、可愛らしい声の内部に、外見からは予想できない人格や知性を成立させることに長けている。

そうして、この2人の仕事を振り返ったとき、現在の若手・中堅声優のなかで、どの役者が同じような資質を持っているのかを考えてみたくなる。

そこで思い浮かぶのが、響所属の遠野ひかるである。

遠野の声には、間宮に通じる小さな生き物の身体性と、加藤に通じる幼い声のまま異質な人格を成立させる技術がある。加えて、感情が動いた瞬間に声のリズムそのものが変わる、独特の運動性まで備えている。

『負けヒロインが多すぎる!』の八奈見杏菜から、『崩壊:スターレイル』のトリビーたちまでを見渡すと、その適性は一層鮮明になる。

特に、トリビー、というかトリスビアスは、遠野の声質が非常にうまく使われた一例である。

まず前提として、トリスビアスはオンパロス編全体を俯瞰しても、相当に特別な位置にいる。

オンパロスとは、「暗黒の潮」によって滅亡の危機に瀕し、黄金裔と呼ばれる英雄たちがタイタンの火種を集め、世界の再創世を目指してきた場所である。そして、その「火を追う旅」の原点に位置するのが、ほかならぬトリスビアスなのである。

もともとヤヌサポリスの聖女として生まれた彼女は、政治的な陰謀によって母親を失い、長い幽閉生活を送ることになる。やがてケファレの神託を受け、「門と道」を司るタイタン、ヤーヌスの火種を奪取。史上最初の半神となり、自らの精神と肉体を千に分け、世界各地へ旅立った。目的は、滅びゆくオンパロスの人々に神託を伝え、世界を救済する可能性を持った黄金裔を見つけ出すことである。

しかし、神託は必ずしも受け入れられず、彼女たちは疑われ、利用され、ときには迫害された。そして長きにわたる黄金戦争のなかで、千に分かれた分身たちは次々と命を落としていく。

本編の時点で生き残っているのは、使者のトリビー、門職人のトリアン、司祭のトリノンという、わずか三人だけである。しかも三人は感覚や経験を共有しており、一人が味わった苦痛や悲しみは、ほかの二人にも伝わっていく。

千に分かれたということは、千の場所へ希望を届けられると同時に、千の場所で喪失を経験する可能性を引き受けたということでもある。そのような壮絶な歴史を持つ人物が、我々の前には、あの小さな身体と、遠野ひかるの舌足らずで愛らしい声によって現れる。ここが本当に面白い。

トリスビアスはアグライアにとっては師匠にあたり、ファイノンからも先生と呼ばれる存在である。後から現れた英雄たちに道を示し、オンパロスの救済へ向けた歴史を切り開いてきた先達のポジションにあたる。

ところが、その声には威厳を誇示するような芝居がほとんどない。

「キャスちゃん(キャストリス)」

「ファイちゃん(ファイノン)」

「グレーちゃん(星)」

という具合に、周囲の人物を親しみのある愛称で呼ぶ。舌足らずな発音や、感情がそのまま表に出てくるような語調によって、ますます幼く感じられるのである。

だが、考えてみれば、この呼び方はなかなか凄まじい。声優的に見れば、アグライア(遠藤綾)にキャストリス(斎藤千和)、ファイノン/カスライナ(日野聡)、星(石川由依)という先輩役者たちとの関係が逆転しているのも笑えるポイントの一つだが、作中でもキャストリスやファイノンは、オンパロスの存亡に関わる途方もない使命を背負った英雄である。そんな彼らを、トリビーはあくまで「キャスちゃん」「ファイちゃん」と呼ぶ。

幼い少女が偉大な英雄たちを愛称で呼んでいるように見えて、その実態は、千年以上にわたって世界の滅亡と向き合ってきた先達が、後から現れた若い英雄たちに親しみを込めて語りかけている、という構図なのだ。

しかも、この幼さ自体が、長年にわたる能力行使の代償として生じている。

「百界門」を開く彼女たちの権能は、自由に道をつなぐことができる一方で、その生命や時間を消耗させていく。力を使い続けた結果、記憶や精神にも摩耗が生じ、かつての聖女は幼い姿へと変わっていった。

つまり、トリビーの幼い声は、壮絶な経歴とは無関係に付け加えられた可愛らしさではない。むしろ、世界のために自分自身を使い続けてきたことの帰結として聴くことさえできるのである。

そして、この点に遠野ひかるの起用の面白さがある。

遠野の声には、高い声域、柔らかな発音、弾むような語調による、非常に強い親しみやすさがある。八奈見杏菜のような、日常的な感情の豊かさや喜劇的な身体性を持つ人物では、それが効果的に働いていた。しかし、トリビーの場合は違う。

声の幼さと親密さはそのままに、そこへオンパロスの歴史そのものと呼んでもよいほどの歳月が重ねられている。しかも、彼女は常に達観しているわけではなく、怖がることも、悲しむこともあり、記憶や認識が曖昧になることもある。

単純に「幼い少女の姿をした老賢者」でもなく、経験してきた時間の長さと、現在の精神や言葉遣いの幼さが、矛盾したまま一人の人物のなかに存在しているのである。その結果、少女らしい可愛らしさを残したまま、他者の運命を案じる人物として成立させている。同時に、トリビーが周囲の英雄たちを「ちゃん」付けで呼ぶことの意味も、物語の進行とともに変わっていく。そして、もう一つ忘れてはならないのが、「また明日」という言葉である。千の分身のほとんどを失い、残された三人も仲間のために力を使うたび、自らに与えられた時間を消費していく。

オンパロス編そのものが、破滅と再創世、そして幾千万回もの永劫回帰という途方もない時間を扱った物語であることを考えれば、そこにおける「明日」という言葉は、決して軽いものではない。明日が来る保証も、もう一度会える保証もない。

それでも、トリビーたちは「また明日」と語る。

たとえ世界の終末を知っていても、長い歳月のなかで数えきれない別れを経験していても、他者と再び会える未来を、まるで当たり前のことのように願うことができる。

その希望を、壮大な演説や英雄的な決意表明ではなく、幼い少女の何気ない挨拶として成立させてしまうのである。

そして、その凄まじい人物を演じる声が、あの遠野ひかるなのである。

声だけを取り出せば、これほど幼く、親しみやすい役柄も珍しい。しかし、その声に背負わされているものは、オンパロス全体を見渡しても屈指の重さを持っている。

この落差こそ、トリビーという配役の最大の面白さではないだろうか。

『負けヒロインが多すぎる!』で日常的な感情を豊かに表現していた声が、『崩壊:スターレイル』では、世界の救済を始めた人物の声として響いている。

遠野ひかるの声は、幼さを表現するだけでなく、むしろその幼さを失うことなく、長い歳月や歴史、喪失、そして他者の未来を願う意志まで引き受けることができる。

トリスビアスは、その声の親しみやすさと、声に与えられる意味の多面性を考えるうえで、非常に重要な役柄なのである。

もっとも、間宮くるみや加藤英美里の演技的な資質を遠野ひかるに見いだすこと自体、私個人の連想にすぎないと思われるかもしれない。

そこで、遠野ひかるが大西沙織とともにパーソナリティを務めるラジオ番組『大西沙織・遠野ひかる 余生ですよ!』第23回の発言を引用してみたい。

だいぶ自由気ままな番組なのだが、声優についてどの程度詳しいかという話題になった際、遠野は声優を志していた当時について、次のように語っている。

絶対に声優になるって決めてたから、クレジットされている声優さんはすっごいみていたし、全員事務所調べてそこの事務所の養成所があるのかとか、どういうルートでこの事務所にはいっていたのかリサーチをしていたから詳しくはなった。

遠野は声優になることを決意した段階から、出演者の名前だけでなく、その所属事務所や養成所、さらには所属に至る経緯まで調べていたという。相当なリサーチ気質である。

そして、この話が面白くなるのはここからだ。

番組内で、イベントに招きたい理想のゲストについて話題が移り、大西沙織が石田彰や平川大輔の名前を挙げる。一方、遠野ひかるが選んだのは、次の人物だった。

間宮くるみさん。とにかくわたくしはハムタローが好き。憧れですわよ。ハムタローの声優さんなんて。お会いした時の印象は本当にハムスター。ベースはどっかどうのびてもハムタローねっていう感じで、幸せな気持ちになれた

間宮くるみである。

先ほどまで、間宮くるみと加藤英美里の演技的な資質を考えたうえで、現代の比較対象として遠野ひかるを挙げてきた。ところが、その遠野本人が、理想のゲストとして間宮の名を挙げ、明確に憧れを語っているのである。

しかも、前段の発言を踏まえれば、遠野が間宮の所属する81プロデュースについても把握していた可能性は極めて高い。声優を目指す段階から所属事務所まで調べていた人物が、自ら憧れと公言する役者の所属先を知らなかったとは考えにくいからだ。

そして、もう一つ興味深いのが、間宮本人と対面した際の印象である。

遠野は、間宮の声を実際に聴いてもなお、そこにハム太郎というキャラクターの存在を感じ取っている。役柄を離れたところにまで、その人物を思い起こさせる声の質感が残っているということだろう。先ほど間宮の演技について、小さな生き物の身体感覚を声だけで成立させる技術があると述べたが、遠野の発言からも、間宮の声そのものが持つ個性に対する強い関心がうかがえる。

声優を目指した頃から所属事務所まで調べ上げていた遠野が、81所属の間宮に憧れを抱き、実際に対面した際にもその声に感動していた。そして現在の遠野自身も、マスコットや人外のキャラクターを演じる際、非常に特徴的な声の運動性を発揮している。

こうなると、遠野を81プロデュースの個性派声優と比較したくなる理由も、幾分か具体的になってくる。演技を聴き比べるなかで見いだした共通性が、本人の語る憧れの役者と重なったのである。

何より、自分は遠野ひかるの所属事務所を知らずにその声を聴いたとき、率直に

「あ、これは81だ」と思ったことがある。

だからこそ、実際の所属先が響だったと知った際には、かなり意外に感じた。前回の記事でも論じたように、あくまで個人的な声優史観として、声を聴いただけで強く記憶に残る個性派の役者が、歴史的に81プロデュースへ集まりやすいという見立てがある。遠野の声も、その系譜にきわめて近いものとして聴こえた。

当たり前だが、所属事務所がどこであるべきかという話ではないが、視聴者の立場から思索した上にそうした経緯があったからこそ、遠野自身の口から間宮くるみへの憧れが語られたことには、思わず膝を打った。

私自身の聴取経験に沿って挙げるなら、中尾隆聖→高山みなみ→関俊彦→櫻井孝宏→上田麗奈→加藤英美里→永瀬アンナという、極めて個人的な連続性がある。

中尾隆聖には、ばいきんまんとフリーザがいる。高山みなみには江戸川コナンがいる一方で、キキとウルスラの一人二役、さらに童帝のような配役まである。関俊彦もまた、ラウ・ル・クルーゼや鬼舞辻無惨を演じながら、モモタロスのようなキャラクターを成立させてきた。

そこへ櫻井孝宏の槙島聖護、ジョン・ポール、忍野メメ、夏油傑が続く。

 

上田麗奈に至っては、御冷ミァハ、レゼ、新条アカネという、それぞれ異なる少女性と異常性を抱えた人物を演じている。加藤英美里の柊かがみ、八九寺真宵、キュゥべえという仕事も、前述したマスコット論を踏まえれば、同じ文脈に置くことができるだろう。

そして現在の永瀬アンナには、小舟潮、天内理子、桜咲朱音がいる。

こうして振り返ると、自分が81に感じてきた個性とは、ひとつの声から分身術のように異なるキャラクターを成立させ、それぞれをまったく別の人格として記憶に残してしまう演技的な資質なのだと思う。声の固有性が強いにもかかわらず、その声から生まれる人物像が一つに固定されない。しかも、そうした仕事が結果として、アニメ史に長く残る作品や、大きなIPの主要人物として積み重なってきた。

もちろん、これはアニメを観てきたなかで、繰り返し81という所属先に出会い、そのたびに印象を強めてきたという、極めて個人的な声優史観である。だからこそ、遠野ひかるの声を初めて聴いたときにも、その蓄積から81を連想したのだろう。そして、その遠野が実際には響所属でありながら、81を代表する個性派声優の一人、間宮くるみに強い憧れを抱いていた。自分の耳が感じ取った共通性と、役者本人が語った憧れの対象が思いがけず一致する。その符合は、今回あらためて「81らしさ」を考えるうえで、非常に興味深いものだった。

 

さて、話を戻そう。

永瀬アンナの演技的資質を因数分解すると、「喪失・少女・闊達」という特徴が浮かび上がる。そこから81プロデュースの歴史へ目を向けると、マスコットや人外の演技に優れた役者たちの存在があり、その代表格である間宮くるみを、遠野ひかる自身が敬愛していたという事実に行き着いた。

では、もう一人の比較対象である安済知佳は、どこから現れたのか。

こちらは比較的直球である。

私自身、永瀬アンナという役者は、上田麗奈と安済知佳の折衷点にあたるような演技的資質を備えていると考えている。上田が声の柔らかさや揺らぎによって人物の内面に潜む異質さを表現する一方、安済は他者との関係によって感情が変化し、ときに崩れていく過程を演じることに優れている。

永瀬には、上田に通じる少女性と、安済に通じる感情の振幅がある。それでいて、両者よりも声の第一印象が闊達であり、人物が悲劇的な境遇に置かれても、その生命力が簡単には失われない。

声優としてのキャリアがまだ比較的短い段階で、小舟潮、天内理子、桜咲朱音という役柄を獲得してきたことも、この見立てを支えている。とりわけ潮と理子は、喪失と少女の生命力が直接衝突する役柄であり、朱音では、その闊達さが芸を磨き続ける主人公の推進力となっている。

思い返せば、上田麗奈も『ハーモニー』(二〇一五年)の御冷ミァハで、柔らかな少女性と、その声からは容易に想像できない思想的な異質さを共存させていた。しかも沢城みゆき相手にである。

そうした演技が、後の新条アカネやレゼにも通じる資質を早くから示していたことを考えると、永瀬の現在の出演歴にも、将来的な役柄の広がりを予感させるものがある。

無論、これらの配役がいかなる選考過程を経て実現したのかは別の問題だが、そもそもそんなわかりかねないことは今、物事を整理する流れでは無縁な話なので、全く別の成り立ちであったとしても、結果的に成立している方が大切である。そういう方向に思索を向くことができるからこそ、役者の声が持つ特性と、それを求める作品やキャラクターとの関係を考えるなら、永瀬を上田と安済のあいだに置くという見立ては、十分に検討する価値があるだろう。

 

では、安済知佳の演技の特異性はどう見立てることができるのか。安済の言及は何度かしているように壊れる演技、情緒不安定、あるいは何かを抱えながらもそれを前に出さないで精一杯に、という演技体系が強いのは高坂麗奈、安楽岡花火、飛鳥川ちせ、錦木千束などのキャラクター成分を考えると見えてくるものがある。

花火の安済が演じているのは、恋愛によって壊れていく少女ですが、場面ごとに人格が入れ替わっているわけではなく、目の前の相手によって、自分のなかに存在していた異なる感情が引き出されてしまうという演技であり、それは安済自身もいずれもが花火の本当の姿だと解釈していることからも「全部本真」的な演技といえるだろう。

「クズの本懐」放送開始直前!島崎信長&安済知佳インタビュー[前編] | キャスト | レポート | WebNewtype

 

一方、錦木千束では、安済が持つ自然な会話の技術が逆方向に働いている。あれだけ最強のDAという過去を持ちながらもそれを、作劇がそうさせないというのは前提としてあるものの、そう感じさせない演技というものはやはり「暗い過去」と対比してあれだけ明るい、闊達なキャラクターマインドを出している演技力の賜物であると言える。それに加えて、千束の明るさは、台詞を綺麗に発音することによって成立しているのではなく、たきなから言葉を受け取り、その場で反応することで生まれている。またアドリブを入れたことで、作画側が千束の表情を変更した事例もある。

https://bunshun.jp/articles/-/60268?page=2

──たとえば、アドリブで変えたセリフとかで覚えているシーンはありますか?

安済 最初は1話の「リコリコへようこそー、イヒヒ!」ですね。台本には笑うとは書いていなかったんです。でも「たきなが来てくれた、うれしい!」という気持ちだったので、笑いたくなって笑いのアドリブを入れました。

(2ページ目)「リコリコへようこそー、イヒヒ!」台本になかったセリフが『リコリス・リコイル』を作るまで | 文春オンライン

こうして考えると、安済の強みは、相手との関係が変わった瞬間、声の状態を自然に変化させられることにある。その技術が『クズの本懐』では人物の感情的な崩壊へ向かい、『リコリス・リコイル』では生命力に満ちた自然な会話へ向かう。さらに飛鳥川ちせのように、孤立や不安を抱えながらも、周囲との関係によって明るさを失わずにいる少女まで演じられる。声の調子が変わっても、そこにいるのは同じ人物であり続ける。安楽岡花火における「全部本真」的な演技が、そのことをよく示している。

 

この点で、もう一人取り上げたいのが『SSSS.DYNAZENON』の飛鳥川ちせである。

ちせは学校に通わず、暦という年上の青年のもとへ入り浸っている少女だ。普段は明るく、気安い態度を見せる一方で、その境遇にはどこか不穏なものが漂っている。腕を覆うアームカバーも含め、視聴者は彼女が抱えている事情について、さまざまな想像を巡らせることになる。

ところが安済自身は、ちせについて、演技上では大きく変化させたつもりがなく、視聴者の見方や周囲の環境によって人物の受け取られ方が変わっていったと振り返っている。

それこそ「アームカバーで何かを隠しているんじゃないか」とか、いろいろな憶測を呼んだと思うんですけど、演じているほうとしては何も変えているつもりはなくて。見ている人の見方だったりまわりの環境で、ちせっていうキャラクターの受け取り方が変わるんだなって。そこがすごく面白かったです。

劇場総集編『SSSS.DYNAZENON』公開記念 南夢芽役・若山詩音&飛鳥川ちせ役・安済知佳対談② | Febri

この発言は、先ほどの「全部本真」という評価を別の角度から裏付けるものだろう。

ちせが暦と過ごす時間を楽しんでいることも、周囲から孤立していることも、彼女のなかでは矛盾していない。暦が自分の知らないところで変化していくことへの焦りさえ、普段の明るさを失わないまま表れてくる。安済は、そうした人物の事情を声の不穏さによって先回りして説明せず、その場で生じる感情を自然に演じている。

それが演技として最も鮮明に現れるのが、第9話「重なる気持ちって、なに?」で南夢芽に向けて放つ「あんた、贅沢なんだよ」という一言である。

姉の死をめぐる問題に苦しみ、戦っても何もいいことがなかったと口にする夢芽は、ちせに対して「関係ない」と言い放つ。しかし、ちせにとっては、自分も同じ時間を過ごし、一緒に戦ってきたという実感がある。その関係を一方的に切り離されたことへの怒りが、まず「関係ないとか言わないでくださいよ!」という言葉になって現れる。普段は「南さん」と気安く接しているちせが、ここでは明確に声を荒らげ、夢芽の言葉に反発するのである。

ところが、その直後に夢芽を迎えに蓬が駆けつけると、ちせの態度は再び変化する。

「みなみさん、本当にいいことなんてなにもなかったんですか?」

「あの人、真っ直ぐに突っ込んできましたよ。」

「みなみさんの近くにそんな人ほかにいますか?」

一度は感情を爆発させながらも、ここでは再び「南さん」と呼びかけ、相手に問いを重ねていく。そして最後に、これまでの敬語を捨てて「あんた、贅沢なんだよ」と言い放つのである。

この一連の台詞が重要なのは、ちせ自身が、誰かに必要とされることや、自分の居場所を見つけることに苦しんできた少女だからだ。学校に通わず、暦という年上の青年との関係に安らぎを見いだしながらも、その暦さえ少しずつ自分の知らない場所へ進んでいく。そんなちせの目の前には、自分を迎えに来てくれる人間がいるにもかかわらず、その関係を受け止めきれずにいる夢芽がいる。

だからこそ、「贅沢」という言葉には、夢芽への怒りだけでなく、羨望や寂しさ、そして相手が置かれている状況に気づいてほしいという、不器用な気遣いまでが入り込んでいるように思える。

演技上で面白いのは、その複雑な感情が、夢芽との会話を通じて段階的に表面化していくことだ。最初は「関係ないとか言わないでくださいよ!」と強く反発する。しかし、蓬が現れると、ちせは一度相手に問いかける姿勢へ戻り、夢芽の周囲にいる人間の存在を指摘していく。そして最後には、それまで保っていた「南さん」という呼びかけさえ崩れ、「あんた」という言葉が飛び出す。

そこには、単純に怒りが高まっていく芝居とは異なる、感情の細かな変化がある。相手に理解してほしいという気持ちと、自分自身のなかに蓄積していた感情とが交錯し、最後の一言に結びついていくのである。

しかし、それまでのちせの明るさが、この場面によって偽物だったと明らかになるわけではない。暦と過ごしていたときの気安さも、仲間として戦ってきた実感も、夢芽に向けた怒りや羨望も、すべて同じ少女のなかに存在していた感情である。

安済知佳の演技の巧さは、こうした複数の感情を、一人の人物としての連続性を損なわずに表現できるところにあるのではないか。

しかも、ここでちせと対峙する南夢芽を演じているのは若山詩音である。夢芽が姉の死をめぐる苦しみに囚われ、周囲との関係を見失っていく一方、ちせはその言葉に傷つき、反発し、夢芽自身が気づいていない人間関係の存在を突きつける。両者の掛け合いによって夢芽の置かれた状況が浮かび上がると同時に、普段は明るく振る舞っているちせ自身の孤独までが露わになっていく。

安済はインタビューにおいて、ちせという人物を演じるうえで、大きく変化させたつもりはなかったと振り返っている。実際、彼女が抱えている孤独や不安は、物語の進行によって突然生じたものではない。以前から存在していた感情が、夢芽との関係が揺らいだ瞬間に、これまでとは異なるかたちで声へ現れたのである。

そう考えると、「あんた、贅沢なんだよ」という一言は、安済が得意とする「崩し」の演技を考えるうえで、非常に象徴的な場面だと言えるだろう。

安楽岡花火では、相手との関係によって異なる感情が引き出され、それが人物の崩壊へと向かっていく。一方、飛鳥川ちせでは、普段の明るさを保ってきた少女が、相手との会話を通じて、それまで表に出してこなかった感情を露わにする。

いずれも、その瞬間に現れた感情だけが人物の本心というわけではない。異なる感情が同じ人物のなかに共存し、相手との関係によって表出する。その過程を自然な芝居として成立させられることこそ、安済知佳の演技における「崩し」の巧さなのだと思う。

そして『性別「モナリザ」の君へ。』の有馬ひなせ役まで獲得したことを踏まえると、安済は今後も、ひとつの人格の内部にある複雑な感情の違いを演じるうえで、非常に興味深い仕事を残していくのではないだろうか。

ひなせは、誰もが成長とともに性別を獲得する世界にあって、18歳になっても無性のままでいる主人公である。幼馴染との関係を通じて、自分が何を望んでいるのか、誰に対してどのような感情を抱いているのかという問題に向き合っていく。そうした人物を安済がどう演じるのかは、ここまで論じてきた「全部本真」や「崩し」という観点からも興味深い。

そして、ここでもう一つ、以前書いた『ワルプルギスの廻天』における若山詩音と黒沢ともよの起用について思い出しておきたい。

この二人と、それぞれ主要な作品で密接に共演してきた役者として、安済知佳がいる。

 

若山詩音と安済知佳は、『SSSS.DYNAZENON』での共演を経て、『リコリス・リコイル』では井ノ上たきなと錦木千束を演じた。黒沢ともよと安済もまた、『響け!ユーフォニアム』の黄前久美子と高坂麗奈として、長く共演を重ねている。

その『ユーフォ』で音響監督を務める鶴岡陽太のもとへ、『ワルプルギスの廻天』では黒沢と若山が新たな魔法少女役で加わった。久美子と麗奈、千束とたきなという掛け合いを聴いてきた耳には、黒沢と若山の共演にも、それぞれの過去作の記憶が重なってくる。

 

 

そして今度は、安済が主人公・有馬ひなせを演じるシャフト作品『性別「モナリザ」の君へ。』に、若山の出演が発表された。『廻天』で黒沢と若山が共演したのに続き、別のシャフト作品で安済と若山の組み合わせが現れることになる。

しかも、『モナリザ』の音響監督を務めるのは鶴岡ではなく、吉田光平である。『リコリコ』や『負けヒロインが多すぎる!』でも、安済と若山が出演する作品の音響を担ってきた人物だ。鶴岡陽太のもとで黒沢と若山が共演した『廻天』に続いて、吉田光平のもとで安済と若山が再び共演する。この配役を見たとき、私の耳には、シャフトの新作という期待とともに、千束とたきなの掛け合いを聴いてきた記憶も戻ってくる。

もちろん、新たな役でどのような関係を演じるかは、これからの楽しみである。ただ、過去作で耳に残った声の組み合わせが、次の作品へ耳を向ける理由になる。その意味でも、『モナリザ』はこの声優論の続きを聴くうえで、見逃せない一作になった。

 

さて、ここまで遠野ひかると安済知佳という、81プロデュースには所属しない二人の役者について、随分と長く論じてきた。しかし、そもそもこの二人を取り上げることになった発端は、永瀬アンナという役者の存在である。

遠野ひかるについて考えたのは、声そのものがキャラクターの身体性を形づくるような、独特の闊達さがあったからだ。間宮くるみや加藤英美里まで遡ることで、その発声がどのような系譜のなかに位置づけられるのかを検討してきた。

一方、安済知佳については、相手との関係によって感情の表れ方が変化し、それでも同じ人物としての連続性を失わない演技に注目した。安楽岡花火、錦木千束、飛鳥川ちせを辿ることで、人物の明るさと、その内側にある複雑な感情が、必ずしも矛盾するものではないことも見えてきた。

そして、この二人について考えたあとで、改めて永瀬アンナの出演歴を眺めてみたい。

『サマータイムレンダ』の小舟潮、『呪術廻戦』の天内理子、そして『あかね噺』の桜咲朱音。いずれも闊達な少女という共通項を持ちながら、その声が作中で担う役割は大きく異なっている。

遠野のような声の運動性もあれば、安済のように感情が変化する瞬間の巧さを連想させるところもある。しかし、永瀬がこの二人のどちらに近いかを決めるだけでは、永瀬の演技を説明したことにはならないだろう。ここで改めて考えたいのは、永瀬アンナという役者が、その闊達な声によって何を表現してきたのかという問題である。そして、そのような役者が現在の81プロデュースから現れたことを、私はどのように評価しているのか。

 

まず前提として、ここから述べることも、あくまで私自身の81プロデュース史観に基づく評価である。そのうえで、個人的には永瀬アンナという役者が81プロデュースから現れたこと自体を、非常に高く評価している。

もっとも、純粋に声そのものへの興味でいえば、同世代では結川あさきの方がはるかに強いだろう。「お前、声そのものへの興味なら結川の方が強いだろ」と言われれば、まあ、その通りである。

 

そもそも『続・81論』と銘打ちながら、ここまで延々と遠野ひかるや安済知佳という他事務所の役者について論じているのだから、そのあたりは察していただけると思う。

しかし、だからといって永瀬への評価が低いわけではない。今回、永瀬アンナという役者を取り上げたかった理由は、個人的な声の好みとは少し異なるところにある。

これまで81プロデュースの所属者や出身者について考えてきたなかで、この事務所が、時代ごとに異なる個性を持った役者を送り出してきたことに強い関心を抱いている。そして、その歴史の延長に、2020年代の新しい世代として永瀬アンナが現れた。このこと自体が大局的に、非常に大きいと思っている。

その現在地を考えるためにも、遠野ひかるや安済知佳という他事務所の役者との比較が必要だったのである。個人的な好みとは別に、声優文化というもう少し大きな視点から眺めたとき、「永瀬アンナが81プロデュース所属である」という事実には、妙なほど納得してしまうものがある。

 

 

では、その納得は、実際のところ何に由来しているのだろうか。

まず、永瀬アンナの声には非常に強い闊達性がある。ただし、それだけならば、例えばアーツビジョンの鈴代紗弓を説明するときにも使える言葉であり、永瀬自身の特異性を説明するには少々物足りない。

では、その闊達さをもう一段掘り下げたとき、どこに彼女の演技的な特徴を見いだせるのだろうか。これは現段階で永瀬が出演してきた作品の傾向にも依拠してしまう話ではあるが、個人的に興味深いのは、彼女が演じる少女たちには、何らかの使命や責任を背負い、それまでの日常とは異なる状況へ踏み込まざるを得なくなる人物が多いということである。

『サマータイムレンダ』の小舟潮、『呪術廻戦』の天内理子、そして『あかね噺』の桜咲朱音。この三人を並べたとき、単に明るく快活な少女を演じているというだけでは説明できない共通性が浮かび上がってくる。

例えば、小舟潮は、もともと島で暮らすごく普通の少女でありながら、自らの死と「影」という存在をめぐる異常な事態のなかで、大切な人々を守るために行動することになる。そこには、自分の日常を取り戻すという願いと、すでに取り返しのつかない状況に置かれているという残酷さが同居している。

一方、天内理子の場合は、最初から星漿体という役割を与えられている。本人の意志とは関係なく、天元との同化という使命を背負わされながらも、その内側には、友人と過ごし、学校へ通い、普通の少女として生きていたいという願いが存在する。あの「うん」という一言が強烈なのも、理子がようやく自分自身の人生を選び取ろうとした、その直後にすべてが断ち切られてしまうからだろう。

そして桜咲朱音は、さらに異なる。父親の破門という出来事をきっかけに落語家としての道を志す朱音は、理子のように使命を一方的に与えられた少女ではない。むしろ、自らの意志によって困難な世界へ踏み込んでいく人物である。しかし、その出発点には父親の挫折という、本人だけではどうにもできなかった出来事がある。彼女の闊達さや負けん気は、そうした過去を背負いながら、自分の芸によって道を切り開こうとする意志と結びついている。つまり、三者が置かれた状況はそれぞれ異なっている。

潮は失われた日常をめぐって戦い、理子は与えられた使命よりも自分自身の生を望み、朱音は父親の無念を背負いながら、自ら選んだ道を進んでいく。

それでも三人に共通しているのは、少女としてのごく自然な感情や生命力を持ちながら、個人の日常だけでは完結しない大きな問題に向き合っているという点である。

そして永瀬の闊達な声は、そうした人物が本来持っている日常性を強く印象づける。だからこそ、彼女たちが使命や喪失に直面したとき、普段の快活さとの落差が大きな意味を持つのではないだろうか。

もっとも、こうした共通性は脚本やキャラクター造形に由来する部分も大きい。これだけで永瀬自身の演技的な固有性が証明できるわけではない。ただ、少なくとも彼女の声が、こうした少女たちに繰り返し与えられてきたことは、現在の出演歴を考えるうえで興味深い。

さらに『超かぐや姫!』の酒寄彩葉になると、今度はその立ち位置が少し変わってくる。彩葉は非日常的な存在であるかぐやと出会い、その活動を支える側に回る人物である。もちろん彩葉自身にも事情や責任があり、単なる傍観者ではない。それでも、これまでの三作品に比べれば、特別な存在と向き合い、その運命に関わっていく側へと配置が変わっている。

この違いも含めて考えると、永瀬アンナという役者には、少女の闊達さを成立させるだけでなく、その声を通じて、日常と非日常の距離を感じさせる適性があるのではないかと思う。そして、この「ある種の役割」を作品で強く主張する、ということ自体がとても81的とさえいえる。

櫻井孝宏には、槙島聖護やジョン・ポールのように、独自の思想や大義を抱え、世界の秩序そのものと衝突する人物がいる。上田麗奈にも、御冷ミァハや新条アカネのように、自らの理想によって世界のあり方を変えようとする、強い異質性を帯びた役柄がある。
一方、永瀬アンナが演じる少女たちは、そうした世界の大きな構造へと巻き込まれながらも、自分自身の日常や意志を保とうとする側にいる。人物の立場も、物語の結末も異なるが、個人の願望と作品世界の構造が衝突する、その重要な役割を担っているという点には共通性がある。
こうした役柄が、時代の異なる81プロデュースの所属・出身者の出演歴に繰り返し見いだせること。それが、私にとって永瀬アンナの登場を81の歴史の延長として受け止められる理由の一つなのだと思う。

その上で、演技面で少し語調、語感を比較してみよう。『あかね噺』の桜咲朱音について、もう一つ興味深いのが、第1話で描かれる幼少期の芝居である。

父親を馬鹿にした同級生と喧嘩になった朱音は、その顛末を説明する際に、なぜか上履きを脱いで正座し、落語のような語り口で話し始める。

「え〜、ことの始まりは5時間目の国語の時間」

という前置きから、「私の尊敬する人はおっとうです」と自分の作文を読み上げ、さらに父親を侮辱した同級生の言葉まで再現していく。そして、最後には「はぁ?!」という自分自身の怒りに戻ってくる。

ここで面白いのは、永瀬アンナが桜咲朱音という少女を演じ、その朱音がさらに別の人物を演じているという、演技の入れ子構造である。

語り手としての朱音、作文を読み上げる朱音、父親を侮辱する同級生、そして怒りを露わにする朱音。ひとつの出来事を説明するだけの場面でありながら、次々と異なる立場の言葉が現れ、それを朱音自身が一席の噺として成立させてしまう。

もちろん、ここで描かれているのは、まだ本格的に落語家を志す以前の少女である。しかし、だからこそ重要なのだ。

朱音は父親が破門されたことで初めて落語を自分のものにしたわけではない。もともと父の噺を愛し、その語り口を日常のなかで吸収してきた。その経験が、誰かに事情を説明するという何でもない場面で、自然に話芸として現れているのである。

そして永瀬に求められているのは、単に複数の人物を演じ分ける技術だけではなく、あくまで、それらの人物を演じているのは朱音自身であり、彼女が父親から学んできた落語の模倣であることまで含めて成立させなければならない。

ここには、声優が落語家を演じ、その落語家がさらに他人の人格を演じるという、声による表現の面白さが凝縮されている。さらに、この時点での朱音の闊達さは、父親の名誉を取り戻すという後の目標とはまだ、直接的には結びついていない。単純に父親の芸が大好きで、その父親を馬鹿にされたから怒る。そんな少女の率直な感情が、落語という表現形式を通じて現れている。

やがて父の破門をきっかけに、落語は朱音自身が人生を懸けて向き合う芸へと変わっていく。しかし、この時点ではまだ、父親から自然に吸収してきた話芸を、純粋な楽しさや感情のままに披露している。だからこそ、この幼少期の演技には、後の朱音とは異なる面白さがある。

そう考えると、永瀬が演じる朱音の闊達性は、後に背負うことになる責任や使命によって初めて生まれたものというよりもむしろ、もともと彼女のなかにあった表現への欲求や負けん気が、ある出来事を境に、自ら選び取った生き方へと結びついていくのである。そして、こうした話芸そのものを役者の演技として成立させなければならない点に、今回の81プロデュース論へ戻るための、もう一つの重要な接点があるように思う。

例えば、高山みなみはデビュー三年前後でスタジオジブリ作品『魔女の宅急便』において、キキとウルスラを成立させた、早熟にして一人二役をものにしたという例がある。

無論、プロの役者であれば、異なる人格を演じ分ける技術自体は珍しいものではない。しかし、これまで書いてきた通り、81プロデュースの個性派声優たちに見いだしてきたのは、単純な声色の多彩さとは少し異なる性質である。それは、一人の役者が持つ固有の声を保ちながらも、台詞の緩急や間合い、抑揚、相手との関係によって、同じ声にまったく異なる意味を与えられるという、その表現力にある

高山みなみのキキとウルスラ、櫻井孝宏の槙島聖護と雛河翔、上田麗奈の御冷ミァハや新条アカネ。演じている人格も、作品のなかで背負っている役割もそれぞれ異なるが、いずれも声優本人が持つ声の固有性を失うことなく、人物の違いを成立させている。

そして、この性質を『あかね噺』という作品に重ねたとき、永瀬アンナの起用には、また別の面白さが生まれてくる。

落語自体が、語りの間合いや言葉の置き方によって、異なる人物の存在を成立させることができる。その朱音を声優としての永瀬が演じている。

こうして考えると、永瀬アンナという役者が81プロデュースから現れたことに納得する理由も、少しずつ明確になってくる。彼女が演じてきた闊達な少女たちは、同じような生命力を持ちながら、作品ごとに異なる意志や責任を背負っている。そして『あかね噺』では、そうした声の表現力そのものが、主人公の習得する芸と直接結びついているのである。

 

一方、男性声優の側からこの問題を眺めてみると、また違った特徴が見えてくる。

あくまで結果的な話ではあるが、81プロデュースは、他の大手声優事務所と比較すると、歴代『ガンダム』シリーズの男性主人公を担ってきた声優が少ない。

例えば、青二プロダクションであれば古谷徹のアムロ・レイや緑川光のヒイロ・ユイ、劇団ひまわりであれば宮野真守の刹那・F・セイエイから内山昂輝のバナージ・リンクスへと続く系譜がある。さらに直近では、個人的にもかなり驚かされた配役だが、アイムエンタープライズ所属の大塚剛央が『機動戦士ガンダムRG XARX-ZERO』で主人公アズミ・レイを演じることになった。

それに対して、81プロデュースの所属者で明確に『ガンダム』の主人公を担った代表例として挙げられるのが、『機動戦士ガンダムAGE』のアセム・アスノを演じた江口拓也である。

しかし、興味深いのは、『ガンダム』という作品群においてはむしろ、主人公の外側に視点を移すと、『機動戦士ガンダムSEED』のラウ・ル・クルーゼを演じた関俊彦や、『機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ』のマクギリス・ファリドを演じた櫻井孝宏がいる。

ラウは自らの出生と世界への憎悪を、マクギリスは自らが信じる理想と既存の秩序への反抗を、それぞれの言葉によって表現する人物である。両者とも物語を大きく動かす存在でありながら、主人公とは異なる立場から、作品世界の矛盾や思想を語る役割を担っている。この配置を考えたとき、個人的には、これまで81プロデュースの役者たちに見いだしてきた「語り手」としての性質を連想する。つまり、その人物が何を信じ、何を望み、どのような価値観で世界を眺めているのか。それを一人の役者が持つ固有の声によって成立させる、という意味において、81の役者はむしろ強いという傾向にある。ラウやマクギリスの言葉が印象的なのも、そこにそれぞれの人生や思想が刻まれているからであり、声の緩急や間合いによって、その人物が世界をどう理解しているのかまで伝わってくる。

そう考えると、『ガンダム』の男性主人公を演じた例は比較的少なくとも、その外側で物語の思想や価値観を担ってきた81プロデュースの役者たちには、また別の強い存在感がある。そして、これは先ほど述べた、一人の役者が持つ固有の声が多面的な意味を帯びるという評価ともつながってくる。

『あかね噺』で永瀬アンナが演じる桜咲朱音もまた、自分自身の声を使って、異なる人物の言葉や人生を表現する話芸を身につけていく少女である。

もちろん、ラウやマクギリスと朱音では、作品のなかで担う役割も、求められる演技も異なる。それでも、声によって一人の人物の価値観を成立させ、そこから作品世界の意味を広げていくという点において、個人的に81プロデュースの歴史から感じ取ってきたものと、永瀬の現在地は重なって見えるのである。

さて、ここまで81プロデュースという事務所を軸に、その所属者や出身者がどのような役柄を演じ、どのような表現を成立させてきたのかを考えてきた。

しかし、結局のところ、声の多面性とは何によって生まれるのだろうか。

同じ役者が異なる人物を演じることと、同じ声が異なる意味を持つことは、似ているようで少し違う。重要なのは、声色の変化それ自体ではなく、その声が発せられるまでに、人物がどのような感情や経験を積み重ねてきたのかという点にある。

そこで、もう一度永瀬アンナの演技に戻ってみたい。

『呪術廻戦』の天内理子が発した「うん」

『あかね噺』の桜咲朱音が発した「はぁ?!」。

いずれも一言に満たないほど短い応答でありながら、その言葉が成立するまでに積み重ねられた人物の感情は、まったく異なっている。

 

まず、天内理子の「うん」について考えてみたい。

この一言は、夏油傑の「帰ろう、理子ちゃん」という呼びかけに対する応答である。それまで星漿体という役割を背負い、自分自身の生を選ぶことさえ許されなかった少女が、ようやく自分の願いを肯定する。そこにあるのは、何かを強く主張する言葉ではなく、差し出された選択肢を受け入れるという、ごく短い意思表示である。

しかし、理子にとっては、その一言こそが、それまで与えられてきた使命を退け、自分自身の人生を選び取るための決定的な言葉となっている。

つまり「うん」という日常的な応答が、それまでの人物の境遇を踏まえることで、まったく異なる重みを帯びるのである。

一方、『あかね噺』の朱音が発する「はぁ?!」は、これとは対照的だ。

こちらは、自分が大切にしている父親を侮辱されたことへの、極めて直接的な反発である。理子がようやく自分の願いを言葉にできたのに対して、朱音は自分の感情を抑えるよりも先に、その怒りを外へ向けてしまう。

しかし、ここでさらに重要なのは、この「はぁ?!」が、単に父親を侮辱された瞬間の叫びとして提示しているのではなく、朱音はすでに起こった出来事を、落語という形式によって再現している。つまり、永瀬アンナが演じているのは、その場で怒りを爆発させる少女であると同時に、かつて怒りを爆発させた自分自身を、他人に向けて演じ直している少女でもある。

ここには、感情を直接表現することと、その感情を再現することの違いがある。

理子の「うん」は、まさにその瞬間に自分の未来を選び取る言葉である。一方、朱音の「はぁ?!」は、過去に起こった出来事を、自分自身の声によってもう一度成立させる言葉なのだ。

同じ永瀬アンナという役者の、ごく短い応答でありながら、一方には人物の現在の意思が、もう一方には人物の過去の感情と、それを他人に伝えるための表現行為が重なっている。

そして、これは先ほど述べた「声の多面性」という問題にも、そのままつながってくる。声そのものを大きく変えなくとも、それが誰に向けて、どのような状況で、何を伝えるために発せられた言葉なのかによって、聴き手が受け取る意味は変化する。

もちろん、ここまでの違いは脚本や演出によって用意されたものでもある。しかし、声優の仕事とは、そうした人物の背景や言葉の意味を理解したうえで、一つの発話として成立させることにある。

その意味で、永瀬アンナが演じてきた少女たちの闊達さとは、その声が、ある人物にとっては生きることへの願いとなり、別の人物にとっては大切なものを守ろうとする怒りとなる。人物の置かれた状況によって、同じ生命力が異なる意味を持つのである。

そして、このような声の働きを考えるうえで、もう一つ触れておきたい仕事がある。

実写映画『スーパーガール』における、カーラ・ゾー=エルの日本語吹替である。

本作で永瀬が声を担当するのは、ミリー・オールコックが演じるスーパーガール。これまで論じてきたアニメーションとは異なり、すでに俳優の身体や表情、動作によって成立している人物に、日本語の声を与える仕事となる。スーパーマンの日本語吹替を担当する武内駿輔による評価である。武内は『スーパーガール』の公開前日イベントにおいて、永瀬の声が加わることでカーラが遠い存在ではなく、身近にいそうな人物として感じられるようになったと述べ、その演じ分けを高く評価している。

劇場映画の主演吹替が初となる永瀬について武内は「日本語版にアンナちゃんの声が加わることによって、カーラというキャラクターが遠い存在ではなく、身近にいそうなお姉ちゃんなんだけど能力を隠している、という様子が自分事のように捉えられる。その演じ分けが本当に素晴らしかったです」と称賛した。

これはなかなか示唆的な証言だと思う。

なぜなら、スーパーガールとは、文字どおり人間を超えた能力を持つヒーローでありながら、その声を通じて、観客が身近な人間として受け止められる人物でもあるということだからだ。

つまり、永瀬の吹替が成立させているのは、単なる英雄としての威厳や力強さだけではなく、その強大な能力とは必ずしも一致しない、日常的な親密さや奔放さ、そして一人の人物としての感情の揺れである。

ここで、先ほどの天内理子と桜咲朱音の比較を思い出してみたい。

理子の「うん」も、朱音の「はぁ?!」も、台詞それ自体はごくありふれた応答である。しかし、その短い言葉が誰に向けられ、どのような感情の蓄積から発せられたのかによって、まったく異なる意味を持つ。

そしてカーラの場合は、そのような声の表現力が、実写俳優の身体と結びつくことによって、さらに異なる条件のもとで試されている。

アニメーションでは、永瀬の声が人物の身体性を構成する一要素となる。一方、実写吹替では、ミリー・オールコックによる演技が先に存在し、永瀬はその人物の身体的な表現を踏まえて、日本語の言葉を成立させなければならない。

しかし、そこで求められるのも、声を単に別人のものへ近づける技術だけではないはずだ。

永瀬アンナという役者が持つ声の固有性を生かしながら、カーラという他者の人格や感情を、日本語の発話として再構成すること。その結果として、超人的なヒーローが、観客にとって身近な一人の人間として感じられる。

武内の評価を踏まえるならば、永瀬の吹替には、少なくともそのような表現上の効果を見いだすことができるだろう。

こうして考えると、これまで81プロデュースの役者たちに見いだしてきた「一つの声が持つ意味の多面性」は、アニメーションの役柄だけに限定される話ではなくなってくる。声そのものが大きく変わらなくとも、その声が何を語り、どのような人物の身体や感情と結びつくかによって、聴き手の受け取る意味は変化する。

『スーパーガール』における永瀬アンナの仕事は、その性質を実写吹替という別の領域から考えるうえでも、興味深い実例なのである。

ちなみに、この点で対照的なのが、同じ81プロデュースの上田麗奈が『ファンタスティック4:ファースト・ステップ』で演じたシルバーサーファーである。超人的な存在に日常的な親しみやすさを与える永瀬のカーラに対して、上田のシルバーサーファーは、徹底して感情の温度を抑えた冷徹さによって、人間との距離を際立たせている。

期待通りの演技をする上田麗奈

いわば、声に温度を与える永瀬と、声から温度を奪う上田。同じ81プロデュースの役者が、ハリウッドのスーパーヒーロー映画において、声の温度をまったく異なる方向へ操作しながら、超人的な存在を成立させているというのも、なかなか興味深い対比ではないだろうか。

こうして眺めてみると、同じ81プロデュースに所属する役者であっても、その声が作品に与える意味は実に多様である。もちろん、そうした演技を81プロデュースという所属事務所だけで説明することはできない。役者それぞれに異なる経験があり、異なる資質があり、個々の作品で求められるものも違っている。

しかし、これまで81プロデュースの所属者や出身者を追ってきた身としては、その歴史のなかに、声そのものの個性を強く残しながら、人物の複雑な内面や思想を表現する役者が繰り返し現れているように見える。

高山みなみのキキとウルスラ、関俊彦のラウ・ル・クルーゼ、櫻井孝宏の槙島聖護、上田麗奈の御冷ミァハ。彼らが演じてきた人物には、それぞれ異なる人生や思想があり、その言葉を聴いたとき、声優本人の声であることを認識しながらも、同時に、そこには確かに別の人格が存在している。

そして2020年代、その延長に永瀬アンナという役者が現れた。

小舟潮、天内理子、桜咲朱音。彼女たちはそれぞれ異なる物語を生きている。しかし、その闊達な声が、あるときは失われた日常への願いとなり、あるときは自分自身の生を選ぶ意志となり、またあるときは父親から受け継いだ芸を自分のものにしようとする情熱となる。

さらに実写吹替では、カーラ・ゾー=エルという超人的な存在に、日常的な親しみやすさまで与えてみせた。

個人的な声そのものへの興味でいえば、同世代には結川あさきのように、さらに強く惹かれる役者もいる。しかし、それとは別に、永瀬アンナが81プロデュースから現れたという事実には、やはり大きな意味を感じてしまう。

なぜならば、今回考えてきたような声の多面性や、人物の言葉を通して作品世界の意味を広げていく表現力が、今度は永瀬という新しい世代の役者によって、また別のかたちで示され始めているからである。

無論、永瀬のキャリアはまだ始まったばかりだ。今後どのような人物を演じ、どのような演技を獲得していくのか、その全体像を現時点で決めつけることはできない。

しかし、だからこそ面白い。

ここまで論じてきた81プロデュースの歴史が、過去の名優たちの仕事を振り返るだけのものではなく、今まさに新しい役者によって更新されている。そのこと自体が、私にとって永瀬アンナを論じる理由になっている。

さて、最後に、冒頭の「存在しない記憶」へ戻ってみたい。

『呪術廻戦』で天内理子が発した「うん」。

あの一言のあと、彼女が望んだ未来は断ち切られてしまった。

そして今度は、『どこよりも遠い場所にいる君へ』で、永瀬アンナが秋鹿七緒という別の少女を演じる。

もちろん、理子と七緒はまったく異なる作品の登場人物であり、そこに物語上の連続性など存在しない。冒頭に持ち出した映像のつながりは、半ば大喜利のつもりで勝手に作り出した、文字どおり「存在しない記憶」でしかない。

しかし、声優という仕事を追っていると、ときにそのような連想が生まれてしまう。

ある作品で失われた少女の声が、別の作品では、まったく異なる人生を生きる少女の声として響いてくる。

それは、失われた人物が救済されたという意味ではない。すでに終わってしまった物語が、別の物語によって書き換えられるわけでもない。

ただ、一人の役者が持つ声は、ひとつの物語が終わったあとも、別の人物に、別の感情に、別の人生に与えられていく。

一つの声が、異なる意味を持ち続ける。

今回、永瀬アンナという役者を通じて考えたかったことは、結局のところ、そういう話だったのかもしれない。

と、いうことで永瀬アンナ主演、『どこよりも遠い場所にいる君へ』をよろしくお願いします。上映前に「燈」を聴きながら会場に向かうと、より面白いと思います。


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