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Music Synopsis

音楽に思考の補助線を引く Notes on sound, voice, and what remains

最善と大義の声 ─ 櫻井孝宏という語りの重心

どの映像作品にも、その結末に少なからず影響を与えるがゆえに注目される人物がいる。さらに稀に、その種の人物造形を作品の枠を超えて請け負い続けることで、「キャラクター」以上に「声」が現実を浸透していく極めて稀な演者が現れる。

 

今回取り上げる櫻井孝宏は、その最たる一人である。代表作の選定が困難なほど「CV:櫻井孝宏」は多様に拡散している。しかし、主要キャラクターの行動原理や台詞を通して見えてくるのは、彼の声が一貫して、白でも黒でもない領域、すなわち善悪、光と影というような二項対立を確定させない原理性を請け負ってきた、という事実である

櫻井孝宏が演じる「かっこいいキャラクター」は、すでにある種の飽和状態に達している。だが、だからこそ改めてその声を見返すと、そこには唯一無二の思想性が宿っていることが分かる。特定の人物類型を想起させるだけでなく、ある種の発話そのものを構文化させる力が、その声にはある。たとえば、近年SNS上で流通した「いいかい悟」構文のような例は、作品内キャラクターの一部が、単なる台詞を超えて発話形式として模倣される段階に達していることを示している。もちろんこれには、作品の作者が用意したキャラクター及び設定といった背景があって初めて成立というのは大前提として。

 

現在、SNS上で櫻井孝宏の演じるキャラクターが流通する際、その特徴は端的にいえば「怪しさ」「寡黙さ」「胡散臭さ」といった語彙へ収斂しやすい。だが重要なのは、それらが単なるキャラクターの印象語ではなく、櫻井孝宏という声が担ってきた原理の別名になっている、という点である。

 

あくまで私論ではあるが、櫻井孝宏の声の強さは大きく二つに分けられる。

 

一つ目は、語り手としての諧謔と制御の巧妙さである。

この軸では諧謔やコミカルさ、あるいは一歩引いた距離感によって場の主導権を握る語りの強さが重要になるポジション役を指す。

この流れにおいては、

『モノノ怪』(二〇〇七年)-薬売り

『化物語』(二〇〇九年)/『傷物語』(二〇一六年)-忍野メメ

『しろくまカフェ』(二〇一二年)-しろくまくん

『モブサイコ100』(二〇一六年)-霊幻新隆

『岸辺露伴は動かない』(二〇二一年)-岸辺露伴

などが代表的である。

 

二つ目は、声そのものが「意味」「正義」「大義」をめぐる競合を担うことである。

櫻井孝宏が演じる主要キャラクターは、代表作においてしばしばこれらの語を台詞として発し続けてきた。そして演技論の側から言い換えるならば、それは「問い」の奪い合いであり、キャラクター同士が同じ問題に対して異なる別解を競合させる作品において、最も純度の高いかたちで現れる。

この系譜を具体的な作品群として挙げるなら、

  • 『ガン×ソード』(二〇〇五年)-レイ・ラングレン
  • 『コードギアス 反逆のルルーシュ』(二〇〇六年)-枢木スザク
  • 『PSYCHO-PASS サイコパス』(二〇一二年)-槙島聖護
  • 『ベルセルク 黄金時代篇I 覇王の卵』(二〇一二年)-グリフィス
  • 『東京喰種トーキョーグール』(二〇一四年)-ウタ
  • 『亜人』(二〇一六年)-戸崎
  • 『虐殺器官』(二〇一七年)-ジョン・ポール
  • 『呪術廻戦』(二〇二〇年)-夏油傑/羂索
  • 『羅小黒戦記』(二〇二〇年)-風息
  • 『時光代理人 -LINK CLICK-』(二〇二一年)-陸光

がそれにあたる。これらの作品群に共通しているのは、ある一つの主題をめぐって、異なる立場のキャラクター同士が台詞によって刺し合う構造にある。これらの作品系譜は、大きくは、理念を掲げて世界を割る側と、制度・管理・現実の側からその問いを引き受ける側に分かれる。

 

この第二軸では、単に敵対関係が描かれるのではなく、同じ問題に対する異なる言葉として衝突し、その応酬そのものが作品の駆動力となる。櫻井孝宏という声が担ってきた役柄は、そうした構造の中でこそ最も鮮明に立ち上がる。ここで一つ明確になるのは、櫻井孝宏の強みが「主人公の正面突破の声」にあるのではなく、価値判断が単純化できない領域を、声の質感そのもので成立させられる点にあるということである。

櫻井孝宏のキャリアに、いわゆる正面を張る主人公がそれほど多くないのは、単に主役向きではないからではない。むしろ彼の声は、多くの場合、善悪を即断できない領域、白と黒のあいだにある曖昧さや保留そのものを、響きとして作品内に存在させることに長けている。

この一点において示唆的なのが、谷口悟朗監督がロフトプラスワンで開催された『裏ネットギアス リターン』の公開トークにおいて、ルルーシュ(福山潤)とスザク(櫻井孝宏)の逆配置は成立しないという文脈の中で、「櫻井さんは人殺しの声だから」と述べていることである。

これは櫻井孝宏の声の素質、あるいは役者の凄みを表す褒め言葉として発言している点が重要となる、同発言の直後に谷口自身が「声質に人殺し的な何かがある」「殺気が仕込まれている」「それは櫻井という役者の武器だ」と続けて補足している点が重要だ。

ここで言われているのは、櫻井孝宏の声が単に冷たいとか悪役向きだということではなく、響きの段階で、倫理の揺らぎや決断の残酷さを予感させる力を持っている、という現場感覚にほかならない。

 

その上で櫻井孝宏が歴任してきた声像をキャラクターのセリフから導き出してみたい。

ジョン・ポールは「言葉になんて意味はない」と言う。
枢木スザクは「間違った方法に意味はない」と言う。
槙島聖護は「人は自らの意思に基づいて行動した時のみ、価値を持つ」と言い、
夏油傑は「意味はある、意義もね、大義ですらある」と言い切る。
そして忍野メメは、「味方なんてしないさ、中立だ。強いて言うなら、物の見方って話だ」と語る。

 

これらの台詞を並べてみると、共通して浮かび上がるのは、いずれの人物も自分なりの絶対的な規律、あるいは美学を持っているという点である。

しかも、それらがすべて櫻井孝宏の声によって担われていることを、単なる偶然として片付けるには、あまりにも「思想の純度」が高い役柄が集中しすぎている。さらに重要なのは、それほど思想の強い役でありながら、その内実がすべて異なっていることである。

ジョン・ポールは、言語と暴力の回路を知り尽くした理論家である。
だが、枢木スザクは倫理と手続きに縛られた規律遵守の頑固者であり、槙島聖護は自己決定を価値の中心に置く反体制者である。夏油傑は意義や大義を言葉にして組織化できる教祖型であり、忍野メメはどちらにも与せず、「見方」を差し出す調停者として立っている。

そして、そうした思想の純度が高い人物を立たせる声として、櫻井孝宏の語り口には一つ通底した仕草がある。情を爆発させるのではなく、むしろ淡々と、きわめてロジカルに、ときには慈悲深くすら感じられるトーンで、異常な価値観を語ってしまうことである。

その揺らぎのなさは、聴く者の倫理観を内側から静かに侵食していく。そしてその侵食そのものが、いつしか「心地よさ」として定着してしまう。善悪の彼岸に立つキャラクターへ、単なる悪役ではない「聖性」や「知性」を宿らせてしまうこと。それこそが、櫻井の声の魔力なのだ。近年だと、やはり『呪術廻戦』の夏油傑は、キャラクターのあらゆる要素が櫻井孝宏の適任と言っても良い造形である。実際に櫻井孝宏自ら、この役は指名で受けている。

『劇場版総集編 呪術廻戦 懐玉・玉折』(2025年)

言うなれば、透明感があるのに、どこか底の知れない声である。その声を聴くと、こちらはどこかで、「この声は、常人には理解できない狂気や大義を、さも正論のように語ってくれるはずだ」という期待を抱いてしまう。必ず視聴者の耳を惹きつけ、どれほど過激な思想であっても、「一理あるのかもしれない」と思わせてしまう。そうした説得力の塊のような声質が、彼を単なる声優という枠にとどめず、物語の核となる「価値観の体現者」へと押し上げているのである。

まさしく、櫻井孝宏とは「静謐な説得力」を持つ役者である。哲学として最終的に響いてくるのは、その声が余白を湛えた深さを持っているからだ。そして、その深さゆえにこそ、その純度はあらゆるキャラクターへと適応されていく。

 

こう言った例は現実を召喚すると早いであろう。

例えば、ヘーゲルがナポレオンを見て「世界精神が馬上ゆたかにイエーナの町を出ていく」と書簡に書いた。これは、ナポレオンという人物のうちに、自由を推し進める歴史の運動そのものを見た、ヘーゲルの詩的な筆致である。言ってみれば、そうした「世界精神」を受肉した担い手としてのキャラクターを成立させる媒体として、彼の声は機能している。反転して考えれば、理念を受肉するキャラクターとしての声を持つからこそ、激情的なセリフもまた、感情の噴出ではなく、むしろ信念の塊として響く。それが彼のキャリアにおいて最も鮮烈に現れているのが、枢木スザクにおける演技である。

以上のことから櫻井孝宏の役者性、役としての傾向を振り返った上で、それらを総体的に包括する方法としては櫻井孝宏の声、及び演技の一つの定義性として「引き算の演技」という点を挙げることができる。

破格のベテランを論じるのであれば素人の感性だけでなく共演者からどういった評価があるということを付加する意味で、この引き算の演技という言い回し自体は、理屈換算の果てにたどり着いたわけではなく、同業者がそのように評価しているという点から広げるものである。

その象徴的な例が、古川登志夫による櫻井孝宏評である。avex picturesの対談企画『VOICEGRAPHY』において、古川は櫻井孝宏の特質を「引き算の演技」と呼んだ。

VOICEGRAPHY #1 動画内6:20より

櫻井さんたちの年代のかた、中堅の方、演技巧者、うまい方達はたくさんいらっしゃるんだけど、櫻井さんが頭抜けてすごいなと思ったのは、一言でいってしまうと「引き算の演技」がお出来になる、ということ。

より具体的な内容は動画本編に譲るが、ここで古川が言おうとしているのは、役者は基本的にマイク前に立つと意気込みによって足し算の芝居になりやすい、という前提である。にもかかわらず櫻井孝宏はそうならず、力みなく、すっと役の中へ入ってくることができる。古川が評価しているのは、まさにその按配の技術なのである。

VOICEGRAPHYで議題として上がっている作品は意外にも『しろくまカフェ』(二〇一二年)。本作で櫻井孝宏はしろくまを演じているが、熊といえば大柄で低い声を使いたくもなる、しかし櫻井孝宏は、設定や演技の要求として穏やかに喋る、ということはあったにせよ、おおよそ「熊」というイメージに対して無理に大仰に演ずるよりかは、やはりそこで朴訥とした演技を出す、という考えで実際の作品に望んでいる。その自然体の按配こそ、古川登志夫が引き算の演技と呼んだものの、具体的な一例である。

 

同時に、この「引き算の演技」と言う概念や櫻井孝宏への賛辞という評価の初出がこの企画対談ではない。

上記の記事が指し示すように、少なくとも2020年時点で、古川登志夫はすでに『足し算の演技/引き算の演技』という演技論を明確に持っており、そのうえで櫻井孝宏に自ら学びを求めていた。したがって、『VOICEGRAPHY』における櫻井への引き算の演技という評価も、場当たり的な賛辞ではなく、古川自身の一貫した演技観に裏打ちされたものとして読むべきである。しかも古川は演者にとどまらず、青二塾塾長も務める立場にある。だからこそ、この評価は単なる称賛にとどまらず、演技を教える語彙としても接続可能な、手本的な指摘として受け取ることができる。

 

 

この古川登志夫による「引き算の演技」という評価は、櫻井孝宏本人の自己分析とも重なる。櫻井はラジオ『裏方』において、自身の演技について、何かをやる、行動するということは、どうしても「飾っていこう」「足していこう」という方向になりやすいとしたうえで、常に「これいらないんじゃないか」と考えていると語っている。そして、自分の演技について「極力、のっけない、足さない、やらない」「できるだけギリギリなところを行きたい」と述べている。

結構引き算でやるタイプなんですよ。

何かをやる、行動するって、どうしても色々考えてアクションをおくすっていう飾っていこうとか足していく方向になる。

自分が良かれと思っていても、これいらないんじゃないかっていうのはいつも思っていて極力、のっけない、足さない、やらない 

できるだけギリギリなところを行きたいなというのはありますね。

24、5年やって最近それを言葉で説明できるようになったんですけど、若いところは本当に勘でやっていたんですよね。

周りを見てあれいいなこれいいなとかって。

私が好きな役者さんは絶妙な人が多いんですよね。それがかっこいいなって。その説明をしすぎないというか。でもそこには情感とか引き算はあってギリギリのフックなんですよね。相手が来たからこうしようというか。

わかりづらいっていうのは相手を利用しているからだと思います。

この発言は、古川が外側から「引き算の演技」と呼んだものを、櫻井本人が内側から説明しているものとして読める。つまり櫻井孝宏の演技における抑制とは、単に声量を落とすことでも、感情を小さくすることでもない。台詞に過剰な説明を乗せず、役の情報が失われないぎりぎりの地点まで余計なものを削るという、きわめて精密な制御の結果と言える。

 

さらに重要なのは、櫻井がそれを「二十四、五年やって最近それを言葉で説明できるようになった」と語っている点である。若い頃は本当に勘でやっていたという。これは、『モノノ怪』の薬売りにおいて語られた「嗅覚」にも近い。

また、「薬売りを演じる際に気を付けていることや、独特なセリフの間の取り方に秘訣は?」という質問が。櫻井は「カット割りや台本からのインスピレーションです。最初は戸惑いましたが、世界観のルールが分かってからは、嗅覚でやっていました。秘訣を言葉にするのは難しいですね」と回答。

 

つまり、櫻井孝宏の引き算は、最初から完成していたのではなく、現場の空気、相手の芝居、台詞の温度に反応する感覚として始まり、長いキャリアの中でようやく言語化されたものである。

また、櫻井は自身の演技がわかりづらく見える理由について、「相手を利用しているからだと思います」とも語っている。ここで言う「相手を利用する」とは、自己完結的に感情を作り込むのではなく、相手役の声や反応を受け、その場に必要な最小限の声だけを返すということを指している。それはスザクの怒声でも、メメの説明でも、霊幻新隆の情感の上乗せなど、あらゆるシーンにおいて、自分がどこまでプラスの演技を入れるか、ではなく、相手が一定数の演技で来たから、そこに必要なだけの声を置く。そのぎりぎりのフックこそ、櫻井孝宏の演技における「引き算」の実体であり、完成された技法となっているのだ。

 

これを間接的に証明しているのが、神谷浩史から見た時の櫻井孝宏の評価である。

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暦がどうしたらいいかわからない不安や不満をメメにぶつけるあのシーンを一言でいさめられるのは、メメの力というか櫻井さんの声のニュアンスだと思います

神谷浩史が櫻井孝宏の演技を「声のニュアンス」と評したのは、単にメメが落ち着いた声であるという意味ではない。暦の不安や不満を、怒声でも説明でもなく、たった一言で制止できる声の効力そのものを指している。実際、その場面は櫻井自身によって「優しく包み込むようなニュアンス」として設計されていた。語彙表現こそ異なるが、古川登志夫が「引き算の演技」と呼び、神谷浩史が「声のニュアンス」と呼んだものは、ともに、足しすぎず、抑制されたまま相手に届く声の強さを評価している点で重なっている。

そして、なによりも神谷浩史は同期・同世代という枠組みの中で、現在だからこそ言える他者への評価として櫻井孝宏に関して、二〇二〇年のラジオ『裏方』で、以下のように発言している。

松原

神谷さんの苦労時代の時の話で、俺、櫻井孝宏にずっと嫉妬してたんだよね、って言ったんだよ。

神谷

いまだに嫉妬していますよ。ただ20代の時の嫉妬とは質が違いますけど。

(中略)

相変わらず櫻井さんにはオーディションに太刀打ちできない

強烈な作品に巡り会える機会がなかなかない中で、これいい役じゃんと思って望んで結果、自分だったらこういうふうにやろう、と自分にはない引き出しをあけて、こういうものをこの役投入したらきっと違う僕の一面が生まれるかもしれないと期待を込めて受けに行くわけですよ。でも大体、櫻井孝宏がやっていますね。

大体櫻井孝宏がやっています。

これは僕やりたいなと思えるものは一年に何作品かあるが大体櫻井さんです。

これ、神谷さん落ちました、って言われて、誰になったの、、「櫻井さんです」って言われて、、しょーがないか!!笑

それはもうしょうがないかって思います。

それはここ数年のものだったり、ずっとキャリアを重ねてきて割とそばで見る機会もあったし、そういうのをずっと見てた僕としては、まぁやっぱりあの人はちょっと違いますね。持ってるものが違いますね。

オールラウンダーだし、じゃあこれやってていったら誰よりも上手にできるし。

元々持ってるものが違うんだなって感じますね。

 

あえて生の発言を引用したうえで、改めて要約すると、神谷は、自分が「これはやりたい」と思う役に臨み、自分の中にない引き出しを開けて、新しい一面を出そうとする。しかし結果を聞くと、その役は櫻井孝宏に決まっていることが多いという。落選を知らされ、「誰になったの?」と聞くと「櫻井さんです」と返ってくる。そのとき神谷は「しょうがないか」と思うのだと語る。

重要なのは、ここで神谷浩史が櫻井孝宏を、まったく別系統の役者として語っているのではないことである。むしろ、同じ時代に、同じようなキャスティング棚で競合してきた役者として見ている。知性、抑制、語り、屈折、善悪の曖昧さ、軽やかさと不穏さを併せ持つ役柄。そうした領域において、神谷浩史自身が「自分でもやりたい」と思う役を、櫻井孝宏が持っていく。

そのうえで神谷は、櫻井孝宏について「あの人はちょっと違う」「持っているものが違う」「オールラウンダーで、誰よりも上手にできる」と評している。これは、単なる同期への羨望でも、過去の劣等感でもない。同じ土俵で競合してきた一線級の役者が、櫻井孝宏の声と演技に、技術だけでは説明しきれない何かを見ているということである。

つまり、櫻井孝宏の特殊性は、批評の側が後から抽象化したもの、というよりも現場で競い、同じ役を欲し、同じ棚に並びうる役者から見ても、櫻井孝宏は「しょうがない」と思わせる声を持っている。その声は、単にうまいのではなく、配役の最終解答として機能してしまう。

だからこそ、櫻井孝宏の声は、ただキャラクターを演じるだけではなく、その人物の立っている倫理、思想、距離、余白まで決めてしまう。神谷浩史の証言は、そのことを最も近い位置から裏づける、非常に重要な同業者評である。

 

古川登志夫と神谷浩史という、いずれも青二プロダクションに連なる演者が、異なる語彙でありながら近い観点から櫻井孝宏を評価していることは、きわめて示唆的である。というのも、冒頭で述べてきた通り、視聴者の受容はどうしても、配役や台詞、キャラクターの強度に引っぱられやすい。もちろん受け手も声の印象そのものは感じ取れるが、それを「引き算」や「ニュアンス」といった演技の技術的な水準で捉え、評価語として対象を挙げて評価するというのは、一般的ではない。

だからこそ、神谷が櫻井の価値を「声のニュアンス」として捉え、古川がそれを「引き算の演技」として捉えていることには意味がある。両者はともに、役の派手さや台詞の強さではなく、抑制されたまま相手に届く声の効力を、櫻井孝宏の本質的な強みとして見ているのである。 

 

視聴者からの視点、同業からの視点をこれまで述べてきたが、次は少し距離を離して現行におけるアニメの声優に求められているキャスティング原理と、実際にあったとある作品のヒロインがとある役者に決まるまでの迂遠を考えた上で、今一度「引き算の演技」なるものがどういうものかを考えてみたい。

 

ここで一度、概念から離れて、より具体的な話へ視座を移したい。

現行のアニメにおいて声優に求められるキャスティング原理を考える上では、実際のオーディション過程に目を向けるのが早い。現行のアニメにおけるキャスティング原理を考えるうえで、最近耳にしたあるオーディションの実例は示唆的である

 

ある作品では、テープオーディションからスタジオオーディションへ進んだのが10人であり、その段階で作品側から求められていたのは「なるべく声を作らないこと」というものだった。そのうえで最後に差がついたのは、より抑えるようディレクションを受けた9人と、すでに「抑えすぎ」の領域にいた1人との差だった。

 

この事実から何が読み取れるだろうか。

 

おそらく重要なのは、ここで配役が抑えすぎた一人になったのは、抑えたことそのものが勝因ということではないということだ。一見、「もっともっと抑えて」と「抑えすぎ」が決めてのように見えるこの采配。しかしそれ自体は評価ではなく、単純な優劣というより、微調整に近い判断であると考える。

と、いうのも声優はそもそも艶のある声質と、まとまった表現力を持つ職能者であり、最終に残るような役者からは正味、誰が選ばれてもおかしくはない段階ではあるからだ。そうである以上、ここで問われていたのは抑制の量そのものではなく、艶を前に出さない配置の技術だったと考えるべき。

役者特有の声帯の素材自体を消すのではなく、強勢の置き方、語尾、沈黙の置き方といった側面で「声優っぽさの記号」を削っていく。そうすることで、抑制の量の総量でどこまで潜れるか、ではなくその先に抑制してもどこまで情報が残るか、という点に収斂する。となれば、「声を作らないようにすること」とは、その実「役を作るな」ではなく、「役の外形で説明するな」に近い。

だからここで通った一人は、地声がキャラクターと一致したというよりも、説明を削っても配役が立ち上がる最小構成を作れた役者となる。この10人の選別におけるオーディションの話の結果から見えるもの、それは声の艶そのものの優劣ではなく、艶を含んだ素材を、作品が望む抑制様式の中で残し、隠す制御能力の選別としての結果であると読み込める。纏めるとここで見えてくるのは、引き算の演技とは単に小さく演じることではなく、作り込みを削ぎながらも役の情報を成立させる按配の技術ということである。

そして、今の音響監督の指示や、実際に選ばれた役者の発言を辿ると、「生っぽいお芝居」「キャラクターを作らない」「素のトーン」といった言葉が繰り返し現れる。

 

個人的に、こういった指示体やディレクションは語彙不足による曖昧さだなと思う点が多く、だが同時に曖昧にするしかないようなものを求めているという二つの意見を出せる。原理的に考えれば、声優という声の艶がある人に、生っぽさを要求するのはある意味で矛盾的とも思える。なので「役を作りすぎない」は、正しく言い直すなら「感情の記号の調整」に近いと思う。息・間・意図で成立させるみたいな技術要求のほうが意図としては組みやすい。スタイルが徹底してナチュラルに寄るなら、ライブアクション俳優の方が初速で合う場合がある。もちろん職能としてそう簡単ではないからこそ、あらゆる吹き替え芸能人がドツボにはまって、聞くに耐えない演技があるので、これはあくまでも半分はそう、ということなのでしょう。

 

そしてこれを究極の極論として行き着く先は、ジブリ声優問題にあたる。もちろん、大前提として作芸、作品の設計などがどのように作用するか、と言う点で大仰な演技はいらない、あるいは最初から必要とされていない。

だから起用しないと言うのはわかるし、実際にジブリ起用で本当にきつい何かがある例というのは少ない方ではある。誰もが「正気か」とおもった堀越二郎の声が庵野監督にしよう、というほぼ思いつきに近い形で採られたと思いきや、時代設定てきに堀越二郎のような人は落ち着いたトーンで話す。だから、技術的トーンでいえばブレはあるが、『風たちぬ』という世界においてはむしろ自然と自然に適合している。

その意味で鈴木敏夫が言うところの、ケ・ハレ問題がそれを指し示す。

声優さんの芝居は、ハレ(非日常)とケ(日常)で言うとハレなんです。僕らが欲しいのはケなんですよ。

この難易度が、如実に出ているのが『スーパーカブ』の音響監督を務めた矢野さとしにインタビュー。本作におけるセリフは、台本上は「え」でも、求められるのは「文字を読む」ではなく「息」で、しかも「「え」じゃなくて「へ」」と言いつつ本当は「へでもない」という、言葉にし辛い差分を詰めている。

台本には「え」とだけ書いてある。でも監督は「え、じゃない」と言うわけです。

そう考えると声のニュアンスを消した上で存在感が出せるというのはやはり、説明を削ってもなお成立させる技術ということです。

では、先ほどのオーディションの話が何の作品かと言えば、『〈小市民〉シリーズ』、より具体的には「小佐内ゆき役」の選抜過程である。

そしてこの過程の内容をもう少し掘ると、制作側曰く

「生っぽい芝居。アニメ声優はトレーニングをしているので、腹部をからハキハキしゃべるというのは得意だが、感覚として監督が求めていたのはアフレコ現場で「ここをこういうふうにしてほしい」「あ、はいわかりました」という時のこの「わかりました」のトーンを求めていたのでテープオーディションから始めて、スタジオオーディションの時もそこを重視して行った」と話している。

そしてそれを聞いた羊宮さんはその問いに質問として以下のように返したんです。

「そういった生っぽい芝居は俳優だったりの区分だが、そういった人たちも対象だったのか?」と聞き返した点がかなり良いポイントをついている。

つまり本職の人でも、前提として「生っぽい芝居」を聞かれると思い浮かべるのは基本的には体をはる役者を想起するという点である。そしてその問いに関しては「生っぽい芝居は欲しいが、同時に声優特有の艶も大事である」と答えていた。つまり艶はあった上で、制御した上で情報が残るものを求めている、という証左である。

 

この情報を当初伏せたのは、こうしたオーディションの内実が、制作側がイベントで明かさない限り、ここまで具体的に共有されることが少ないからだ。加えて、先に選ばれた役者、すなわち羊宮妃那の名前を出してしまうと、その情報によって読者の解釈の幅が狭まると考えたからです。この話自体は、新文芸坐で行われた『小市民シリーズ』オールナイトのイベントトークで明かされたものであり、当然知っている人の方が少ないですし。

一方で、現行アニメにおいて、そうした「生っぽいお芝居」で役を勝ち得た別解の例としては、『死亡遊戯で飯を食う。』の「言葉」を演じた若山詩音が「死亡遊戯、お茶会ラジオ」の第2回の役を掴んだ時の発言とも重なる。

ここであえて両者をぼかして扱った最大の理由は、個人的な好悪を前に出すためではない。若山であれ羊宮であれ、現行アニメの要求に対して、客観的に見て高い水準で応答できる役者であることを示したかったからである。

 

ここまで揃った文節をまとめると、櫻井孝宏の巧者性には一つの「形」が見えてくる。その「理」を整理する。

・古川が定義した「引き算の演技」

・神谷が放った「声のニュアンス」

・そして羊宮が艶を「抑えすぎた」上で小佐内ゆきを勝ち得たこと

これらが一つの線でつながってくる。これらを束ねる古川、神谷、羊宮の三名はいずれも当初から青二プロダクションの役者であり、古川はその養成所の長でもある。そうした系譜まで含めて見えてくる櫻井孝宏の巧者性の「真」、すなわち事の有様とは、抑制のなかでなお情報を残し、説明を削っても役を立ち上げる技術にほかならない。

そしてこの三者は世代こそ異なるが、いずれも櫻井孝宏と実際に同一作品内で芝居を交わしている。古川は『からくりサーカス』、神谷は『〈物語〉シリーズ』、羊宮においては『ワンダンス』の第七話Bパートにおいてかなりガッツリと、それぞれ櫻井と接点を持つ役者である。だからこそ、古川の「引き算の演技」神谷の「声のニュアンス」、羊宮の抑制演技という三点は、単なる比喩ではなく、世代をまたいで共有されうる演技感覚として読めるのである。

 

この「引き算の演技」はどこで櫻井孝宏は体得したのか、と言う点については櫻井のエッセイから読み解くのが早い。『47歳、まだまだボウヤ』において、櫻井孝宏は自分のことを以下のように書いている。

私が欲しいのは藤原啓治さんの心奪う生々しさや、林原めぐみさんの魔法のような表現力や、子安武人さんの異次元の想像力や、坂本真綾さんの凛とした完璧な美しさなのです。関智一さんの無限の可能性も、石田彰さんの悪魔的なリアリティも憧れる。
良いものに囲まれて育った私は目と耳が肥えてしまい、自分の表現に満足できなくなりました。
こうしよう、ああしよう。こうしたい、ああしたい。こうできたらいいな、ああできたらいいな。
作品に寄生して自分の理想を夢想する。

櫻井孝宏.『47歳、まだまだボウヤ』.P82.株式会社KADOKAWA.

このような自己分析がある一方で、大人気アニメのインタビューでは石田彰の凄みを以下のように語っている。

 櫻井が感じる、石田の声優としてのすごみとはどのようなものだろうか。「引き算がすごい」と切り出した櫻井は、「我々の職業病のようなもので、いろいろなことを表現したいあまり、『こういう可能性もある』『こういうこともやりたい』『こういう思いも乗せたい』など、どうしても過剰になってしまうことがあるんですね。でも石田さんは、どんな時でもスッと引くことができる。するとこちらは、そのキャラクターをグッと追いかけたくなる。そういった引き算のお芝居が本当にすばらしい」と惚れ惚れ。

https://www.cinematoday.jp/news/N0150543

これは先の自著の分析とも重なる。そして、櫻井自身が石田彰の演技に見ている『引き算』が、古川登志夫から客観的評価として与えられた櫻井自身の強みとも重なっている以上、引き算の演技とは櫻井にとって作品を通して自分の理想を夢想しつづけ、ああしたい、こうしたいと試行錯誤を重ねた果てに体得された表現の一つである。

 

個人的に、石田彰と櫻井孝宏の共演作のなかで最も「いいな」と思えるのは、アニメよりもむしろ実写映画の吹き替えである。マット・リーヴス版『THE BATMAN』(二〇二一年)において、ブルース・ウェイン/バットマンを櫻井孝宏が、リドラーを石田彰が担当しているのだが、この配役はかなりうまい按分だと思う。次点は『ライトハウス』(二〇二一年)が特徴的でしょうか。山路さんとの掛け合いが非常に重く、それでいて確かに表現としての静謐さは貴重な鑑賞に効きました。

 

話を戻すと、善悪の狭間に立つ人物としてのブルース・ウェインを櫻井孝宏が担い、完全なる異常者として、さながらパズルゲームを楽しむかのような狂気的人物であるリドラーを石田彰が担う。この対置がまず非常に鮮やかである。さらに終盤では、アーカムの中でバリー・コーガン演じる「見えざる囚人」役、どう考えてもジョーカー枠と推察されるキャラクターを内山昂輝が担当している。エンドロールを迎える頃には、「ああ、悪役声優のオンパレードだ」と思わざるを得ない。

だが同時に、それほどまでに印象的な声でなければ、間違ってもゴッサム・シティの住人として、あの世界には住めないのだとも感じる。そこにこそ、いわゆる「悪魔的リアリティ」を帯びた演技の魅力がある。内山昂輝はそれこそ『Devilman crybaby』(二〇一八年)で不動明を演じた役者でもあるわけで、ああした危うさや異様さの輪郭を声で立ち上げることに長けている。

 

その意味で、もし次作が『梟の法廷』を扱うのであれば、むしろ櫻井孝宏という役者が持つ吹き替え的な資質の方が、いっそう映えてくるのかもしれない。どうしてそう思うのか、と言う点についてはこのお話の構造にある。

 

 

『梟の法廷』においてバットマンが突きつけられるのは、強敵の暴力ではなく、自分こそが最も知っているはずだったゴッサムの未知という面が際立つ作品。

そして梟の法廷は、何世紀にもわたってゴッサムを陰から支配してきた秘密結社集団であり、社交界や政界の上流層が白い梟の面を被って集い、必要とあれば「タロン」と呼ばれる暗殺者を差し向ける。しかも彼らは、都市伝説や童謡としてしか語られてこなかった存在であり、ブルース自身も幼少期にその噂を追いながら、ついに証拠を掴めなかった過去を持つ。つまりこの物語で試されるのは、腕力でも怒りでもなく、「自分の信じていた都市像が崩れたときに、なお思考を保てるか」という、きわめて内面的で知的な耐久力な作芸です。

 

 

 

作中、ブルースが都市再開発の構想を打ち出した瞬間、法廷は即座に彼を排除対象と見なし、タロンを送り込み、さらに近代ゴッサムの建設者の一人、アラン・ウェイン(ブルースの曽祖父に当たる人物です)の*1建築群に無数の隠し部屋を仕込んでいたことまで暴かれると言う展開があります。

ここでは、バットマンは世界最強の探偵でありながら、都市の地図も、家系の歴史も、権力の流れも、実は見落としていたという直目にあたります。櫻井孝宏の声が合うのはまさにここで、彼の声は、正義を外へ向かって強く宣言する声というより、自分の認識のほころびを静かに引き受けながら、それでも思考を止めない人物に向いているのは周知の事実。

ともすれば、激情で押し切るヒーローではなく、陰謀を前にしてなお理性を崩さない探偵としてのバットマン。その重心を支えられるのが、櫻井孝宏の吹き替えなのである。正しさを大声で叫ぶのではなく、崩れた足場の上でなお理性を保つ。その静かな知性と不穏さこそが、『梟の法廷』という題材において最も映える。

そう考えると、櫻井孝宏の演技は単に内面的な理想として語られるだけでなく、作品世界の重心をどこに置くかという実務的な判断の中でも機能している。だから次に見たいのは、その技術を継続的に見抜き、起用し続けてきた現場の側のまなざしである。

 

ここで挙げるべき人物、それは古くは『サイボーグ009 THE CYBORG SOLDIER』から、『PSYCHO-PASS』『虐殺器官』『亜人』『シドニアの騎士』『BLAME!』『岸辺露伴は動かない』、さらには『羅小黒戦記』日本語吹替版に至るまで、櫻井孝宏という役者をアイコンとして、ミューズのように寵愛し起用している岩浪美和の存在である。

ここに見えるのは、単発の配役ではなく、ある種の演技機能に対する継続的な信頼であると言える。また、これは公開の場での発言ではないのと、論の根拠としては薄いため前面化するつもりはないが、サイン会で私的に伺った質問として

「岩浪さんの現場では櫻井孝宏の起用率が高いですが、岩浪美和さんにとって、櫻井孝宏を漢字一文字で言い表すとなんですか?」と質問を行ったところ、自分の見立てと大きく食い違っていない感触を得ることができた。

少なくとも、櫻井孝宏の声がニュアンスによって世界や思想の重心を立ち上げる技術を持つ、という理解は、現場の感覚からもそう外れてはいないはずである。

 

次に、そんな櫻井孝宏の声が善性においてどのように働いているかを見ていきたい。

特殊な例外として『コードギアス』のスザクを先に挙げたが、それ以外にも、彼が本来しばしば請け負う思想的・審級的なポジションとは別の方向で、それでもなお説得力を持って成立した役がある。

『平家物語』の平重盛と『時光代理人』の陸光(光)は、二〇二〇年代において、その典型と言える。前者は、山田尚子の演出と牛尾憲輔の劇伴が強く噛み合った、きわめてアーティスティックな歴史アニメである。琵琶法師の語りによって伝承を物語として展開する形式の中で、平重盛という板挟みの人物像に櫻井孝宏の抑制が深く活きている。人格者でありながら、重圧と気苦労を静かに抱え込むその佇まいは、善性を声高に主張するのではなく、抑制の極みのその先に重心を生む櫻井アクトの到達点の一つといえる。

最終話の最後に、有名な一節「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。驕れる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。猛き者もつひには滅びぬ、偏に風の前の塵に同じ。」で平重盛が琵琶に被せて朗読をして、最後には重盛の語りで物語が幕をとじるという構成なのですが、最後の最後で、重盛に有名な一節を朗読させる、というのは、先述の通り、抑制したトーンで、しかし清らかに語らせる必要があり、そこを櫻井孝宏が担う。この作品は様々な魅力があるが最後の落としが櫻井孝宏の語りで終わることの余韻が残せることを可能にしているという重要性はやはり見逃せない。そんなことを思っていると、そう言えば櫻井さんは出崎アニメの『源氏物語千年紀 Genji』(二〇〇九年)で光源氏を担当していたなとか色々思い出していました。これは言い換えると、光源氏で貴種性を声で成立させる櫻井孝宏のキャリアともすれば、平重盛はその貴種性に加えて、歴史と責任の重みを抑制で支える櫻井孝宏の演技なんです。だから重盛が妙にしっくりくるのは偶然ではなく、かなり長いキャリアの中で育ってきた資質の延長としてみるべき。どちらにも共通しているのは、「前に出る声量」より「気品と重心で持たせる声」ですから。

 

結局のところ、抑制の効いたあの演技自体が、王朝性や重心の系譜をずっと持ち続けていることだし、ドラマCDだけの参加にはなったが、結局のところ『薬屋のひとりごと』において、アニメ化以前の想像力として壬氏で参加していたのも、そう言った面はあるであろう。むしろそういった配役、つまり貴種性、王朝性としての重心が西洋ものに置き換えたときの櫻井孝宏の決定版の一つが、まさに『ベルセルク 黄金時代篇』のグリフィスのキャリアに当たると符合する。そして重心性、と言う意味で監督は、櫻井孝宏のひと言がアフレコ現場で強く印象に残ったと語っていると思えばこそ、やはり作品の重心を担ったキャスティングだったと言うことは間違い無いでしょう。

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田中:グリフィスの新規録音は本当に限られたセリフだったのですが、さすが櫻井さん、一発で決めてくださって。むちゃくちゃすてきでした。

佐野:櫻井さんがひと言発するだけで、本当にグッとくるんですよね。心をもっていかれました。フェムトの姿にグリフィスのセリフがかかってくる、あるシーンでの表現も素晴らしかったんですよ。グリフィスの声のリフレインなのですが、そこに一点、悪が滲んでくるようなニュアンスがあって……。せっかくだからいろいろリクエストしたいと気持ちもあったのですが、ファーストテイクから最高のものをいただけて、もう、「ありがとうございます」と言うしかなかったです。

 

そして『時光代理人』である。国産アニメではなく、动画=ドンファ(中国のアニメ作品)ということもあり、そもそも作品からして李豪凌の手触りが高く感じられる作品である。その視点でみれば『羅小黒戦記』の风息は珍しく武闘派でかなりの名演を残した櫻井さんだったりします。あれはあれで超名演です。

そんな本作における陸光が櫻井が担当することの意味は、タイムサスペンスであり、能力ものでありと、要素だけみれば櫻井孝宏が演じるとなれば、これまでの傾向からするとどちらかと言えばやはり悪性へ振れやすいと考える。

しかし、この作品は、信念としての櫻井キャラである。槙島聖護もジョン・ポールも、出来事を起こすというより、理念や言語で「世界の枠」を揺らし、相手を思想戦へ引きずり込むタイプであったのに対して、本作は感情で動く侵入者としての時と手続きで制御する管制塔としての陸光の二人で成立しているという構造上、あくまでも行動原理として動くのは豊永が演ずる時の方であり、陸光はそれを見守る側ということだ。

だからこそ、この手の「意味と手続きを握るキャラ」としての陸光もあくまでも相棒として中心にいる立場で、主役の前面に立ち切らないことが多い。そういう意味では、一期・二期はまだ相棒ものとしての立場はそこまで変わったものではない。

しかし『英都篇』になると前日譚として、実は陸光の側こそが時間軸の重みを背負い、出会いから背負い直し、運命の死に向き合う当事者として前面に出てくる。ここに、櫻井孝宏キャラとしては珍しい、善性のまま中心へ押し出される陸光の特異性がある。

以上のことから、数多くのキャラクターを歴任してきた中でも、『コードギアス』『平家物語』『時光代理人』は特筆すべき作品群である。激情の信念、抑制の重心、善性の管制塔という三方向から、櫻井孝宏という役者の固有性が最も多面的に露出した配役であり、彼でなければこの重心には届かなかったと思わせるだけの説得力がある。

 

畢竟、櫻井孝宏の声は『語り』のキャラクターを長く歴任してきたということだ。そして、抑制と統御によって信念や思想を語る人物を演じるという行為そのものが、視聴者の身体感覚にまで浸透するほど印象的だったからこそ、ある意味で「この文章を櫻井孝宏が呟いたら面白そう」という脳内再生可能性が生まれる。前半で触れた「いいかい悟bot」のような二次創作的な小話が成立するのも、その背景には、夏油傑という役において櫻井孝宏の声質と語りの適性があまりにも強く結びついていたことがある。

 

 

私の言葉を阻むことは、誰にも できない。

 

 

最後に、櫻井の声は最初から「声優的」である前に、「語り」の資質として見出されていたことを記しておきたい。

この話はインタビューをはじめ、古川との対談の『VOICEGRAPHY』(二〇二五年)でも語られているが、より重要なのは、その原点が中学時代の国語の授業にあるという点である。

つまるところ、櫻井孝宏の声が最初に「声優さんみたいだ」と言語化されたのは、役者としてではなく、教科書の音読という、テキストを声へ変換する場面においてだった。

つまり彼の原点は、アニメ声やキャラクター声ではなく、文章を読むだけで奥行きと重心を生む、朗読的・語り的資質にある。櫻井の声はまず、そのような読みの力として外部から認知され、のちに声優という職能へと接続されたという特異性が最初にある。

だからこそ、Audibleでの三浦しをん『墨のゆらめき』や、湊かなえ『暁星』のような朗読作品において櫻井孝宏の語りの資質へ、より直接的に触れることができる。

そしてその声は、時に騙り、談り、語る。

その分岐のなかで、灰色の思想を帯びた悪役から、信念を抱えた人物まで、役柄の位相を越えて思想の重心そのものを立ち上げてきた。櫻井孝宏とは、説明を削ってもなお、静かな理性、異様な格、善悪を単純化できない不気味さを、声だけで成立させ続けてきた役者なのである。

Lull(《时光代理人 英都篇》动画片尾曲)

Lull(《时光代理人 英都篇》动画片尾曲)

  • AK刘彰
  • アニメ
  • ¥204
  • provided courtesy of iTunes

自前参考資料・この記事と併せて読むと面白いかもしれないものと、櫻井さんの最新系

ちなみに最新の櫻井孝宏さんは 『パーフェクトモカ』のギゴザガバ・ボデデジド、略してギーくんという謎の小動物を演じられています。言ってみれば、フロッグマンの『鷹の爪』の吉田くん的なニュアンスの演技をされており、櫻井孝宏の演技の幅、あるいは引き出しが多分に伺えます。

隔週で更新されている作品ですし、ミニアニメなのでお手頃に閲覧できると言う意味でもおすすめです。よろしくお願いします。

ギゴザガバ・ボデデジド 略してギーくん

一話

二話

三話

四話

五話

 

*1:まぁそんなこと言い出したらあの世界自体が、そのひと昔前のソロモン・ウェインという高祖父が作ったものなので、梟の法廷以前に、ゴッサムシティ=ウェイン家の箱庭なので、基本的にヒーローものというよりも、一族が物理的に、そして社会的に作り上げてしまった巨大なゴッサムという街を修繕し続けているようなものなんですよね。そこに白蟻がいたっていうのが、梟のお話です。