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Music Synopsis

音楽に思考の補助線を引く

シャフト演出が音楽と交わるとき ── 物語る前衛音楽と魔法の音の成り立ちについて |シャフトが語る、劇伴≒物語

本論考は、アニメーション制作会社シャフトを特集した批評誌『もにも〜ど』Vol.1(2023年5月発行)に寄稿した文章です。そのため、編集部による校閲・調整が入っており、普段のブログ文体とは異なるトーンになっています。

当初は全面公開に積極的ではありませんでしたが、読者の母数を踏まえた結果、ごく限られた層に閉じるよりも、オープンな形で広く公開することに意味があると判断しました。発刊から一定の時間も経過しているため、読みたい方はすでに入手済みである可能性が高いとも考えています。

なお、掲載にあたっては主宰者の了承を得たうえで、本稿を公開しています。

寄稿先である『もにも〜ど』はVol.3まで刊行されており、多種多様な論考が収録されています。シャフト作品に関心がある方、あるいは作品批評を読みたい方は要チェックです。

 

また、2024年以降に公開された新たな作品群、たとえば、『続・終物語』以後の〈物語〉シリーズとして位置づけられる吉澤翠監督の『<OMS>(オフモンスターシーズン)』や、尾石達也監督による劇場版『傷物語』三部作の総集編『傷物語 -こよみヴァンプ-』などに関する音源差分の言及と、それを踏まえた一部微々たる範囲ですが改稿をしました。

 

 

◆目次
はじめに
第一部 〈物語〉シリーズ劇伴の音楽背景と映像作用性について 
第二部   映像における音楽の効能
第三部 『魔法少女まどか☆マギカ』の音楽世界について
おわりに

はじめに 

 アニメーション制作会社シャフトの作品群の中でも新房昭之監督による『化物語』(二〇〇九年)をはじめとする〈物語〉シリーズおよび、『魔法少女まどか☆マギカ』(二〇一一年)はアニメ史においてきわめて重要である。この両作品を視聴したことがある者は一度はこのように思ったはずである。他のアニメと比べて類例のない独自性と芸術性に富んだ画作りをもった作品である、と。
アニメ作品はあくまでも総合芸術である。すなわち、ストーリーのみに着目しては見えてこないものが多々存在するのだ。したがって、われわれはより映像論的な視点に立ってアニメを語り直さねばならない。
 そして映像論以上に語られにくいのが音楽論である。〈物語〉シリーズや『まどか』はアートとしての特性を持つが、音楽的な分かりやすいバックボーンも備えている。しかしその具体的な作用については、これまでほとんど語られてこなかった。本稿では、そうした現状を打破するための一助として、アニメにおける音楽に注目してその効果を論じてみたいと思う。



第一部 〈物語〉シリーズ劇伴の音楽背景と映像作用性について

〈物語〉シリーズの劇伴から音楽性を紐解く
サティ、ミニマル・ミュージック、前衛音楽としての映像視点

 第一部では、まず〈物語〉シリーズにおける劇伴の音楽性を紐解いていく。いくつか特徴的な劇伴音楽を抽出した上で、どのような音楽的アプローチが施されているか、そしてどのように映像と組み合わさっているかといった点について考察を加える。

本節で着目したいのは、〈物語〉シリーズミニマル・ミュージックの関係性である。ミニマル・ミュージックとは、簡単に言えば様々な音楽的装飾を引き算して同じフレーズやリズムを繰り返す音楽のひとつだ。特に『化物語』の劇伴においては、エリック・サティによる『ジムノペディ』(一八八八年)を参照しているものが多い。

これはミニマル・ミュージックの象徴的な作品のひとつである。

 

そもそも振り返ってみれば、〈物語〉シリーズの作り方は特異的だ。シャフトの固有のスタイルではあるが、そのスタイルが一番上手く機能した作品こそ〈物語〉シリーズである。情報量を最小限に絞り、それ以外は省略の限りを尽して構築されている。この作風の正体は何か。シャフトが〈物語〉シリーズを成立させるためにとった手法は、突き詰めて考えるといわゆる「紙芝居」に近いものである。通常のアニメでは作画の積み重ねによって動的なリズムを作るが、〈物語〉シリーズにおいてはそれらの要素は最小限に抑えられている。一枚絵ではなく一枚の紙に文章を挿入して提示する視覚的なアプローチや、極端に絵を記号化して情報を圧縮するなど、その手法は多岐にわたっている。

 

だからこそ、音楽はダイナミズム溢れるものや、その時々の心情、場面状況を音楽に変換させた一般的な音源ではなく、同じく記号的、あるいは一定のパターンで動き続ける音楽としてミニマル・ミュージックを採用しており、それ以外の音楽では成立し得ないのだ。そのような観点を踏まえた上で、〈物語〉シリーズの音楽性をミニマル・ミュージックから考えていくことは、作品全体のアプローチを紐解いていくことにもなるだろう。なお、『化物語』と『偽物語』(二〇一二年)の二作品については、楽曲がどの話数で流れるかも併せて掲載するので必要に応じて参照されたい。また、『猫物語(黒)』(二〇一二年)は、『化物語』や『偽物語』は一部劇伴の使い回しがあるため本稿では割愛する。

化物語』の場合

『深窓の令嬢』(第一話)

深窓の令嬢

深窓の令嬢

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 『化物語』において、『ジムノペディ』を参照している劇伴として最も分かりやすいのが本楽曲である。つまり、リズムやメロディなどの諸要素を徹底的に引き算することによってもたらされる「繰り返し」の魅力がベースになっているのだ。そこへ坂本龍一の『メリー・クリスマス ミスターローレンス』(一九八三年)を想起させるような、いわゆる「泣きメロディ」が挿入されるキャッチーさが本楽曲の特徴であり、哀愁を獲得していると言える。タイトルの「深窓」がサティであり、「令嬢」が泣きメロディであるという見方もできるかもしれない。

本楽曲は第一話の冒頭、螺旋階段から戦場ヶ原ひたぎが落ちてきて、阿良々木暦が彼女を受け止めるシーンにおいて使われる。もちろん、「深窓の令嬢」とは戦場ヶ原を指す。

道聴塗説』(第一話)

道徳塗説

道徳塗説

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本楽曲はミニマル・ミュージックとしての側面を強調しつつ、『ジムノペディ』の型を引用している。『深窓の令嬢』は『ジムノペディ』に泣きメロディを挿入して発展させた楽曲だったが、本楽曲はほとんど同じフレーズの繰り返しで成り立つ。
 ミニマルであり、『ジムノペディ』でありながら、伴奏はピアノ、メインメロディはグロッケンシュピールで奏でられるというありそうでなかった組み合わせの劇伴と言えるだろう。冒頭から結びまで反復して流れるピアノの音とミニマルという要素自体は、久石譲ジブリ映画や北野武映画で採用してきたものでもあるので、どこかしら「らしさ」として彷彿する人もいるだろう。ただし、久石であればグロッケンシュピールではなく、より無機質さが際立つ木琴を用いたことだろう。

本楽曲は、阿良々木と羽川翼が戦場ヶ原について語る際に流れる。ただし、羽川の視点で戦場ヶ原について語るシーンでは途切れて、ミニマルではないメロディ主体の音楽が流れ始める。その楽曲は『羽川翼の場合』というタイトルであることから、羽川視点ではスタイルの異なる楽曲を用いるという制作側の意図が読み取れる。

羽川翼の場合

羽川翼の場合

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街談巷説』(第一話、第二話、第三話、第四話、第六話、第七話、第八話、第九話、第十話、第十二話、第十四話、第十五話)

街談巷説

街談巷説

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本楽曲は『道聴塗説』を踏襲しつつ、メインメロディを奏でる楽器をグロッケンシュピールから木琴に変えている。『道聴塗説』が幻想的な楽曲であったのに対して、ひたすら打点的、さながらアントン・ヴェーベルンのような点描的な楽曲として生まれ変わり、より無機質になったことで、本来ミニマル・ミュージックにある前衛的な側面を引き出した楽曲と言える。本楽曲は、例えば第一話で戦場ヶ原が阿良々木に文房具を預ける場面で流れる。また、第二話以降においても戦場ヶ原との会話の中で使われる。その後も様々なシーンで流れることから、『化物語』におけるメインテーマといっても差し支えないだろう。

 

修験道』(第一話、第二話)

修験道

修験道

 本楽曲もまた、『街談巷説』を別の角度から再現した楽曲だ。リズム隊は太鼓に差し替えられ、木琴も単なる繰り返しではなく、メロディにいくつかのバリエーションが加わっているしかし、リズムとしては「繰り返し」が強調されていることから、この楽曲もまたミニマル楽曲とサティ楽曲の引用型としての側面が強いと言える。
 本楽曲は、「重し蟹」にまつわる話と共に流れる。また第二話で忍野メメと会話する場面でも用いられている。

『素敵減法』(第二話、第三話、第六話、第十話、第十一話、第十三話、第十四話)

 『化物語』のミニマル性の高い劇伴群において、本楽曲はジャズ調であるという異質さを持つ。しかし『街談巷説』に次ぐ頻度で用いられているという事実を踏まえれば、『化物語』という作品に調和していることが窺える。ミニマル要素とポップなジャズの要素を両立することで、親しみやすく汎用的な劇伴に仕上がっているのだ。
 本楽曲は戦場ヶ原と阿良々木のコミカルな会話シーンで用いられるほか、第十話では比較的シリアスな場面の道中にも用いられる。 

『毒舌』(第二話、第三話、第六話、第十二話)

毒舌

毒舌

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本楽曲はピアノのスタッカートが印象的なミニマル・ミュージックである。『街談巷説』など他のミニマルな劇伴と異なるのは、ピアノのみで前衛表現を実現している点にある。一定のフレーズを繰り返すミニマル性を奏でる楽器はピアノであり、そこへ重なり合う不安定なメインメロディを奏でる楽器もまたピアノなのだ。また、DTMならではのディレイも前衛表現に拍車をかけていると言えるだろう。

本楽曲が使われるシーンでは、戦場ヶ原と阿良々木との低俗な掛け合いの後、羽川について語るシーンにて用いられるが、髪を乾かすシーンに移行すると本楽曲は止まる。

『外法』(第二話、第九話)

外法

外法

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アルフレッド・ヒッチコックの傑作『サイコ』(一九六〇年)の劇伴を担当したのはバーナード・ハーマンであった。作風は幅広く、そして強烈な印象を残す劇伴という意味では、『サイコ』でジャネット・リーがモーテルの浴室で襲われるシーンで流れる”The Murder”が挙げられるだろう。その特徴的な弦の音の執拗な繰り返しは、極端なミニマル性と言えるだろう。

The Murder

The Murder

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本楽曲はまさに”The Murder”を意識した楽曲であり、極端なミニマル性が印象的である。本楽曲は神前にて儀式としてお酒を飲むシーンというごくわずかな間しか使われない。このシーンに『サイコ』さながらの弦楽器的な使用を駆使したのは、得も言われぬ恐怖感を演出させるためだろう。したがって、本編では計二話分しか使われない楽曲に収まっている。

 

『表裏』(第二話、第五話、第七話、第八話、第十話、第十一話、第十五話)

表裏

表裏

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これまで取り上げてきた楽曲は『ジムノペディ』とミニマルの発展型が多かったが、当然ミニマル・ミュージックといっても様々な音の表現手段がある。本楽曲は、映画『エクソシスト』(一九七三年)のテーマソングとして使われたマイク・オールドフィールドの”Tubular Bells”をベースとしているところが、ある種シャフトらしさとも言えるかもしれない。

”Tubular Bells”はピアノがメインとして進行するが、本楽曲は『道聴塗説』と同様にグロッケンシュピールがメインである。グロッケンシュピールの持つ小悪魔的な音を劇伴で多用することは、『まどか』をはじめとしてシャフト作品における世界観を表すための楽器として非常に重要な意味を持っていると言える。
 本楽曲は作中にて、戦場ヶ原が蟹と対話をするシーンで流れる。戦場ヶ原が自分自身と心理的に向き合う場面で流れることを考慮すると、ホラー映画の名作の劇伴であり前衛である”Tubular Bells”を参照することは必然的な作用だろう。

 

『以下、回想』(第七話、第十話、第十三話、第十五話)

以下、回想

以下、回想

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本楽曲は『表裏』の発展型である。『表裏』のグロッケンシュピールは”Tubular Bells”の無機質さと怖さを強調させる効果を持ち、”Tubular Bells”の前衛音楽としての側面を採用していたように思う。一方、本楽曲は主旋律のピアノに重厚なリズム隊やギターなどが重なり合う。”Tubular Bells”の構造を強く再現し、プログレッシブ・ロックの金字塔としての側面を採用しているのだ。これによってもたらされるのは、客観的な視点である。
 『表裏』は戦場ヶ原が自分自身と心理的に向き合う場面で流れる抽象性の高い劇伴である一方、本楽曲は例えば第七話において神原が戦場ヶ原について語る際に流れる具体性の高い劇伴である。この対比は、戦場ヶ原の持つ人間性を語り手がどう捉えるかの差異を分かりやすく示している。

 

『散歩』(第二話、第三話、第九話、第十一話)

散歩

散歩

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本楽曲もやはりミニマリズムの印象が強い。これまでと異なる点はピアノのアタックを最初だけ強くし、そこからディミニエンドを繰り返し、その裏では打楽器が鳴っているという点にある。それでいてディミニエンドですぐに音が引いていくため、打楽器が目立つような構造にもなっている。そして最後はピアノメロディだけで締めており、劇伴としての落とし所の巧さを感じられる。

本楽曲もまた、阿良々木と戦場ヶ原の会話の場面で使われている。戦場ヶ原というキャラクターのファーストインプレッションとしてのミニマルさに力点がおかれている。

 

『人畜』(第三話、第六話、第九話、第十三話)

人畜

人畜

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本楽曲はもっぱら平穏な会話劇に添えられるポップな楽曲であるため、耳馴染みのある読者も多いだろう。この楽曲は、戦場ヶ原との絡みのミニマル的な構造を明確に提示している。

例えば第三話において描かれるのは、戦場ヶ原が公園の回旋塔の上にのぼり、それを動かしている阿良々木の姿である。また、シーソーの運動、乗り物を漕ぐ動作、円状に構築されたレールなどは、まさにミニマル──「繰り返し」の魅力そのものである。 
 第三話は映像と音楽の結び付きを強めに打ち出しており、キャラクターと劇伴の繋がりを強固にしているきわめて重要な回である。また第九話で本楽曲が使われるシーンにおいても、神原と阿良々木の会話の中心が戦場ヶ原であることは見逃せない。

 

ファーストタッチ』(第五話)

ファーストタッチ

ファーストタッチ

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本楽曲はオーケストラ──とりわけピョートル・チャイコフスキーによる『くるみ割り人形』(一八九二年)の「花のワルツ」を模している。『化物語』のミニマル性の高い劇伴群において例外的な参照と言えるだろう。

本楽曲は八九寺真宵と阿良々木が互いの手を掴みながらじゃれあいのような喧嘩をする場面で用いられる。その動きはさながらバレエのようである一方、俯瞰で見ると四角形のベンチの周囲をぐるぐると回っておりミニマル的である。このようなチグハグ感を演出する上で必要なのは、ミニマル・ミュージックではなくオーケストラ調の楽曲だったのである。

 

ひとまず『化物語』における特徴的な楽曲の音楽的な特性と、それらが劇中でどのように機能しているかを述べてきた。先ほども述べたが、第三話は音楽と映像の相互作用が象徴的な話数であり、その軸になるのがミニマル・ミュージックなのである。『化物語』の音響監督を務めた鶴岡陽太は、『神前 暁 20th Anniversary Selected Works “DAWN”』のライナーノーツのインタビューで以下のように述べている。

「僕からのオーダーは「ミニマル」だったんですが、普通そんなことを劇伴作家さんにお願いすると、つまらない顔をされるんです(笑)。でも、神前さんはすごく食い付きが良くて、こちらの意図している”ミニマルな音楽を会話劇に乗せる”という手法も即座に理解してくれました」[1] 54頁。

 

つまり『化物語』の劇伴の一貫性は、神前に与えられた的確なオーダーと、それに応え得る神前の手腕によって実現されたことが窺える。そしてミニマルスタイルで劇伴を作る場合、やはりサティを参照することが望ましい帰結であるように思う。なぜならば、サティの代表曲である『ジムノペディ』は、調性、リズム、展開など音楽にあるべき要素をことごとく引き算した上に成り立っており、それをベースに必要なエッセンスを足していくことで効果的な劇伴群が形成されるからである。一方で、オールドフィールドによる”Tubular Bells”の構造を再現、前衛の延長線上の作風をもつハーマンの音楽を引用するというのは、『化物語』の世界観とキャラクター、果てにはシャフトにおけるアニメ表現に実に的確なピースとして成っており、その後展開される〈物語〉シリーズにも一部受け継がれていくことになる。

化物語』の前衛音楽と映像について

 ここであらためて『化物語』で使われるミニマル・ミュージックがどのように機能しているかを振り返りたい。前述した通り、ミニマル・ミュージックは特に戦場ヶ原がクローズ・アップされる際に強調される。『化物語』は怪異を題材としてはいるが、物語の中核はあくまでも阿良々木と戦場ヶ原をめぐるものである。この二人が出会い、お互いを理解し、特別な関係性を築く第五話までのストーリーで、物語はすでに完結していると言って良い。「はやるといいよな」、「戦場ヶ原、惚れ」という阿良々木の台詞とそれに呼応する戦場ヶ原、そしてエンディングテーマ『君の知らない物語』が流れるというドラマチックな展開で、すでにある種の終わりを迎えているのだ。

 『化物語』には怪異の要素があるものの、本質はシャフト流の表現の皮を被った青春アニメであるように思う。だからこそ、第六話以降で別のキャラクターの物語になると、急激にミニマル・ミュージックが使われる回数は減っていくし、それでいてやはり戦場ヶ原が絡むとミニマル・ミュージックが挿入されるようになる。
 記号化された世界における青春物語という特殊な組み合わせにおいて戦場ヶ原というキャラクターにミニマルという属性をつけ、阿良々木との関わり合いの中で演出から美術、動きまでの多くがミニマル化されている。畢竟、第三話における公園でのやりとりこそ、その極地的表現なのである。

そして最も象徴的なのが第十二話である。二人の初デートに当たるこの話は阿良々木と戦場ヶ原が車内という閉鎖空間で繰り広げる会話がエピソードの大半を占めている。緊張した面持ちの阿良々木は、戦場ヶ原の「私のどういうところが好き?」という問いかけに対して、明確な答えを出せない。一方、戦場ヶ原は、「お前は、僕のどういうところが好きなんだ?」という問いに対して「優しいところ。可愛いところ。私が困っているときにはいつだって助けに駆けつけてくれる王子様みたいなところ」とすかした返答をする。

この問いかけは車を降りて、二人で夜空を見上げるシーンで反復されることになる。ただし、今度は阿良々木はきちんと答えるし、戦場ヶ原もまた文言そのものは変わりないが、本心から答えている。戦場ヶ原を主軸に使われてきたミニマル作用が物語と映像の両側面において総合的に結実した瞬間である。
 そして「キスをしましょう、阿良々木くん」という戦場ヶ原の台詞の後、エンディングテーマの『君の知らない物語』がフル尺のイントロから流れ出す。本編映像にエンディングテーマが被さるという構造自体は第五話でも見られたが、第十二話では戦場ヶ原と阿良々木がより深い関係になったことが窺える。なお、ここで使われる『君の知らない物語』の歌い出しは「あれがデネブ、アルタイル、ベガ/君が指さす夏の大三角」であり、これは原作の台詞からの引用とはいえ、数ある選択肢の中でこのフレーズを採用した功績は非常に大きい。この一節だからこそ、星空を見上げる二人の会話が感動的になるのだ。
 以上のことから、繰り返しにはなるが、『化物語』におけるミニマル・ミュージックは戦場ヶ原という人物を象徴するものである。全十五話を通して、戦場ヶ原が主に登場する「ひたぎクラブ」と「まよいマイマイ」はミニマル・ミュージックが使われている頻度が高い。そのミニマル作用は第十二話においてはドラマチックな会話劇の中でも見られ、阿良々木と戦場ヶ原の関係性を深化させるものである。

 『化物語』におけるドラマ性は、第一話から第五話、そして第十二話ですべて完結していることはすでに述べた通りである。シャフトのミニマルな作劇がもっとも効果的に働いたのが、〈物語〉シリーズの原点にあたる『化物語』なのだ。

 

それではこれらの作風を前提とした上で、その後の〈物語〉シリーズの劇伴がどのように受け継がれていきながら、作品毎に変化したのかという点について考えていきたい。

偽物語』の場合

 『偽物語』における劇伴には『化物語』に通じる点と異なる点がある。その最大の理由は、忍野忍である。忍は『化物語』において登場こそしたものの、台詞はなく存在感はきわめて薄かった。しかし、その忍が『偽物語』でクロース・アップされるのである。
 それでは『偽物語』における特筆すべき四曲を挙げたい。

『鉄仮面』(第一話、第三話、第六話、第十話、第十一話)

鉄仮面

鉄仮面

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本楽曲は『化物語』の劇伴である『毒舌』の発展型である。『毒舌』と同じようにキャラクター同士の掛け合いを彩る効果を持ち、例えば第一話では八九寺と阿良々木のコミカルな会話シーンで用いられる。

『愛人関係』(第三話)

愛人関係

愛人関係

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本楽曲は、第三話にて神原と阿良々木の何気ない日常会話で使われる楽曲であり、『偽物語』の中で最も効果的に使われた劇伴のひとつでもある。曲の長さは二分であり、『化物語』第三話において戦場ヶ原とのミニマルな会話シーンを効果的に彩った『人畜』よりも短い。しかし様々な楽器を使った厚みのあるサウンドに仕上がっており、そこへししおどしを用いたケレン味あふれる演出が挿入される。『人畜』のようなミニマル性を備えながらも、映像としての総合的な情報量は非常に多いのだ。

『快楽』(第八話)

快楽

快楽

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本楽曲は、チャイコフスキーバレエ音楽を背景にしている。チャイコフスキーは親しみやすく美しい音楽を作ってきたが、この楽曲では『偽物語』における「快楽」の描写と、チャイコフスキーの楽曲的な性質としての「快楽」を混ざり合わせていると言える。ふざけたシーンで真面目なオーケストラ調の劇伴を流すのは、『化物語』の『ファーストタッチ』と共通した演出効果を狙ったものであると言えるだろう。

『怪異の王』(第四話)

怪異の王

怪異の王

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本楽曲こそ『化物語』では描かれなかった、つまりは忍のシーンで流れる。その荘厳さを演出するため、ミニマル・ミュージックではなくバロック調の音楽が参照された。
 阿良々木と忍の関係性は、これまで語られてこなかった。しかし劇伴で明確なアプローチの違いを見せて、タイトルも「怪異の王」という忍の本来の姿にあたるキスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレードを示唆するものになっている。二人の関係がどれほど重要であるかを示す楽曲である。

〈物語〉シリーズ セカンドシーズン

 セカンドシーズンは時系列上『化物語』を経た後のストーリーになるが、これまで登場した各ヒロインに焦点を当てたエピソードを描くものである。なかでも重要なのは、初めて登場する忍野扇というキャラクターの不気味さだろう。
 また作中の出来事の時系列が目まぐるしく前後するのも特徴的であり、『化物語』や『偽物語』に比べると劇伴の一貫性は低い。したがって、セカンドシーズンの音楽性については、各キャラクターの個性の表出という観点から考えていきたい。すでに確立されたミニマル性を前提として、その上で神前がセカンドシーズンの作品群においてどのようなアプローチを採っていったのかという点について簡潔に述べていく。

猫物語(白)』の場合

 『猫物語(白)』(二〇一三年)は羽川が抱えるもうひとつの怪異、嫉妬によって生じた虎を描くものである。羽川が自分自身を克服する物語であるため、盛り上がりを見せる劇伴は比較的少なく、むしろ羽川というキャラクターを音源化している側面が強い。
 『猫物語(白)』の中でミニマルとして注目すべき楽曲は、『貫徹』(第二話)、『民倉荘』(第二話、第三話)、『下心』(第三話)の三曲である。ピアノと木琴との調和というきわめてシンプルな組み合わせではあるが、毛色はすべて異なる。

貫徹

貫徹

民倉荘

民倉荘

下心

下心

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これまで『化物語』と『偽物語』におけるいくつかの劇伴の派生関係を紐解いてきたが、『以下、回想』における『表裏』の参照、あるいは『鉄仮面』における『毒舌』などは、いずれもミニマル・ミュージックとしての効能は通底していた。しかしながら、先に挙げた『猫物語(白)』の劇伴三曲は、それまでの「繰り返し」の魅力の一貫性からは少し逸れる。例えば『民倉荘』のベースはピアノのスタッカートだが、部分的にテヌートが用いられ、曲展開に明確な緩急がある。また、木琴とピアノが奏でるメロディはいずれもキャッチーかつ叙情的である。これまでに紹介してきた、例えば『街談巷説』や『人畜』といった劇伴に比べると、ミニマル性はいささか薄くなっていると言っていいだろう。

 

この差異については実際に劇伴が使われているシーンを参照すると見えてくるものがある。『民倉荘』は羽川と戦場ヶ原の会話場面で使われている。これまで戦場ヶ原が阿良々木と会話する場面や、第三者が戦場ヶ原について語るシーンにおいては一貫してミニマル性の強い劇伴が使用されてきたが、そこに羽川というキャラクター、すなわちあらゆる面において「真っ白」であるという彼女の性質が交わることによって変化が起きているのだ。キャラクター、台詞、行動すべてが記号にまみれた不思議な性質を持つ戦場ヶ原と、完全無欠なヒロインとしての性質を持つ羽川。〈物語〉シリーズにおけるヒロインでありながら、正反対な二人が混ざることでミニマルという記号性が緩和されている──そのような意図を感じさせる作りの劇伴である。


 このことを強固に感じさせる理由のひとつに、同じく第三話冒頭にて用いられる『下心』がある。これは戦場ヶ原が羽川の人間性を分析する際に使われるが、『民倉荘』とは異なり、ミニマル性の強い劇伴となっている。同じ話数においても、戦場ヶ原が主体である時の会話と、羽川との二者によるキャッチボールとしての会話とで劇伴に明確な差異を作っているのだ。
 あるいは『貫徹』の場合は第二話において羽川の家が火事に遭い、その後の方針を戦場ヶ原が問うシーンで使われる。このシーンの主体は羽川だが、ここでは戦場ヶ原における記号的なミニマル・ミュージックとは異なり、風情のあるピアノメロディとしてのミニマル・ミュージックが流れる。言い換えるならば、『貫徹』は羽川というキャラクターから想起された独自のミニマル楽曲であると言える。

囮物語』の場合

 『囮物語』(二〇一三年)は千石撫子が周りの人間から彼女の人間性の真意を突かれ、自分自身と向きあうというのが主なストーリーである。つまり『猫物語(白)』と同じ理屈で劇伴の記号性は薄れる訳だが、撫子というキャラクターを劇伴に起こすとき、羽川とは性質の異なるアプローチが必要となる。
 例えば『無理な相談』はベーラ・バルトークのピアノ楽曲『アレグロ・バルバロ』(一九一一年)の文脈を参照している節がある。

無理な相談

無理な相談

アレグロ・バルバロ Sz.49

アレグロ・バルバロ Sz.49

  • ゾルターン・コチシュ
  • クラシック
  • ¥255
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バルトークは日本における伊福部昭、つまり民謡などを起点とした作曲家であり、これを神前は参照している。クラリネットは『クチナワ』という劇伴から分かるように、この話における引き回し役である蛇の存在をクラリネット、円筒の楽器を蛇と見立てている。ゆえに、ピアノの打点的な音は撫子のキャラクターを描写しているとみることができるだろう。 『無理な相談』のピアノはミニマルな側面も持つが、バルトークのように情動的な独奏曲が主軸に据えられており、単なるミニマル・ミュージックよりこの物語を飾るのに相応しいと言える。『アレグロ・バルバロ』のテンポを落とし、そこから『組曲 Op.14 IV. ソステヌート』(一九一八年)に代表される憂鬱/億劫性のあるバルトーク楽曲における不気味さを混ぜ合わせている。

組曲 作品14 Sz.62 IV- Sostenuto

組曲 作品14 Sz.62 IV- Sostenuto

  • ゾルターン・コチシュ
  • クラシック
  • ¥255
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鬼物語』の場合

鬼物語』(二〇一三年)は怪異ではなく、ある種の法則とも言うべき正体不明の「くらやみ」をめぐって、キスショットの昔話と八九寺との別れを描く。物語としての起伏が多く、劇伴はそこまで目立たないが、一曲だけ異質な劇伴がある。それが『赤信号』である。

赤信号

赤信号

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 『赤信号』は言ってみれば、点描主義の音楽──すなわちヴェーベルンである。ヴェーベルンアルノルト・シェーンベルクアルバン・ベルクと共に新ウィーン楽派を構成する作曲家である。シェーンベルクが発明した十二音技法や無調音楽などの技法は現代音楽の礎であり、前衛音楽の首魁といって差し支えない。『赤信号』は『ピアノのための変奏曲 Op. 27』の第2楽章的であると形容すべきであろう。

ウェーベルン:ピアノのための変奏曲作品27 Ⅱ- Sher schnell

ウェーベルン:ピアノのための変奏曲作品27 Ⅱ- Sher schnell

  • コンスタンチン・リフシッツ
  • クラシック
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恋物語』の場合

 『恋物語』(二〇一三年)は神様となった撫子を貝木が詐欺師として騙すという物語である。タイトルこそ「恋物語」と銘打ってはいるが、本作を映像として読み解くのであれば、明らかに貝木の方を立てている。不気味で地味で狡猾なこのキャラクターを、神前はどのように表現したのか。

とりわけ印象深いのはファゴットを用いた『老婆心』である。

老婆心

老婆心

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『満身創痍』『適材適所』『地獄の沙汰も金次第』などチェロを主旋律に据えた劇伴では、『偽物語』における貝木の不気味さを印象づけている。

満身創痍

満身創痍

適材適所

適材適所

地獄の沙汰も金次第

地獄の沙汰も金次第

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一方、『恋物語』における貝木は単に不気味というだけではなく、むしろ地味で狡猾ながら損な役回りという印象を受ける。チェロとファゴットというふたつの楽器によって、このような不気味さと地味さを同時に表現しているのだ。

楽器として考える際、チェロとファゴットの相性は決して良いとは言えず、少なくとも主流の組み合わせではない。ミニマル・ミュージックは基本的には打楽器か木管楽器がメインで使われることが多いが、しかしクラリネットやサキソフォーン、フルートの音色は貝木というキャラクターには合わない。かといって、ダブルリードを使うオーボエでは妖艶な音となり、これもまたフィットしているとは言い難い。そう考えると、クラリネットとは似て非なる音を出し、それでいて地味さを演出できるファゴットを用いたのだろう。
 

このようにキャラクターを別のアプローチで象った楽曲を作りつつ、『腹芸』、『白けた反応』といった一貫してミニマル・ミュージックを作っている器用さは、『化物語』より一貫して劇伴を担当してきた神前だからこそできた芸当であると言える。

腹芸

腹芸

白けた反応

白けた反応

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劇場版『傷物語』三部作〈I 鉄血篇〉〈Ⅱ熱血篇〉〈Ⅱ熱血篇〉の場合

多ジャンル融合による映画的スケールと怪奇性、そして後期ロマン派の影響という意味で、『傷物語』は西尾維新による〈物語〉シリーズの一編を劇場作品としてアニメ化した三部作であり、その劇伴を担ったのはお馴染みの神前暁。もともと『化物語』以降のシリーズ音楽を担当してきた神前は、TVアニメと劇場版という違いを意識し、より映画的なスケールと多様なジャンルを取り入れている。ここでは、フランス映画音楽・後期ロマン派・ジャズ・ドラムンベース・EDM・アンビエントなどが同居しつつ、〈物語〉シリーズの特徴であるミニマル音楽的アプローチや怪奇要素を表現するための不協和音・前衛音楽も大胆に用いられている点に注目したい。

 

傷物語』の劇伴の方針は他の〈物語〉シリーズと大きく異なり、調性音楽と前衛音楽の両側面を持っている。神前は『映画「傷物語」COMPLETE GUIDE BOOK』のインタビューで以下のように述べている。

 「尾石監督からまず提案されたのが、怪奇映画とフランス映画でした。その要素としてフランス映画はスキャット、怪奇映画は不協和音などの現代音楽のアプローチが象徴的だったと思います」[2] Ⅲ 冷血篇 41頁。

結果として、『傷物語』の音楽はジャズ、フレンチポップ、ピアノコンチェルト、ドラムンベースアンビエントなど多岐にわたるジャンルが混在する興味深いつくりになっている。ここでは代表的な劇伴および主題歌をいくつか取り上げ、尾石達也監督と鶴岡音響監督のディレクションのもと、神前がどういったアプローチを採ったのかを述べていきたい。

『三月二十八日』

 本楽曲は『傷物語〈I 鉄血篇〉』(二〇一六年)のアバンタイトルで流れる。シンセサイザーを用いて無機質なハートビートが表現されており、不気味な巨木やリミナルスペースの描写と併せて怪奇映画としての側面を強く提示している。また、『傷物語〈Ⅲ冷血篇〉』(二〇一七年)のオープニングで流れる『四月六日』は本楽曲の発展形であり、全体としてエンタメ色の強かった『傷物語〈Ⅱ熱血篇〉』(二〇一六年)から本筋であるところの怪奇映画に引き戻す役割を果たしている。
 なお、『傷物語〈Ⅱ熱血篇〉』においても特にバトルシーンの劇伴では電子音の使用が目立つ。神前はEDMやドラムンベースの参照を明言しており、そういったジャンルに由来する激しいサウンドが派手なバトル演出を盛り上げているのは確かだろう。

『一陣の風』

 本楽曲は羽川と阿良々木が初めて出会う場面で使用される。三つ編みを直しながら歩いてくる羽川の姿に阿良々木は目を奪われ、落ち着いたピアノが奏でられる。そして横断歩道前で向き合うふたりの間に「一陣の風」が吹くとともに曲はテンポを増し、羽川のスカートがめくれ上がると同時に曲のテンションは最高潮に達する。阿良々木がそのスカートの中を目撃し、羽川が恥じらう姿がスローで描かれるが、曲のテンポは保たれたままハイテンションなスキャットがシーン終了まで流れるのである。
 『傷物語』には「羽川を美味しく描いてあげたい」という尾石の強い想いがあり、音楽面ではそれがジャズやフランス音楽のポップな部分の参照という形で表れている。本楽曲を始めとして、『友達』や『スパシーボ!』など羽川がクロース・アップされるシーンで用いられる劇伴にはスキャットが多用されているところに神前のこだわりが窺える。

『ハートアンダーブレード』

 本楽曲は幼い姿となったキスショットが自己紹介をする場面で流れる。さながら『2つのヴァイオリンのための協奏曲 ニ短調BWV 1043 第1楽章 Vivace』(一七三〇年)に依拠しているような、オーケストラ調の劇伴である。『偽物語』における『怪異の王』と似たアプローチでありながら、より荘厳さを強調させた楽曲であると言えるだろう。
 他方で、『火達磨』のイントロはハーマン風でありながら、一定のリズムを執拗に繰り返すオスティナートが施されている点でグスターヴ・ホルストの『組曲:惑星』より火星を参照している節も見られる。この辺りの仕草はいかにも神前らしい手付きである。

『気に障ること』

 本楽曲は吸血鬼に興味を持つ羽川に対して阿良々木が強い苛立ちを見せる場面で流れる。ジェルジ・リゲティの前衛音楽を参照していると思われ、このシーンにおける阿良々木の精神的な不安定さを不協和音で効果的に演出している。本楽曲の他にも、『傷物語』における不安定さ/不気味さを表現する劇伴の多くはリゲティを参照していると言えるだろう。
 一方で『傷物語』は名作映画の過剰なオマージュも目立つ。羽川が阿良々木にパンツを見せるシーンで流れる劇伴は、『2001年宇宙の旅』(一九六八年)で使用された『ツァラトゥストラはかく語りき』の音源を薄味にしたパスティーシュである。これはあくまでも私の所感であるが、アニメ演出における中途半端なモノマネほど不愉快なものはない。ましてや元となる演出意図を汲み取りきれていないと思わせるのはもってのほかである。キスショットと阿良々木の邂逅の物語である『傷物語』は、他の物語とは性質が異なる。『傷物語』は重厚で荘厳な物語を描く劇場作品であるし、作画や美術など様々な面から制作陣の非常に高い熱量を感じる。しかし、このシーンにおいてはその熱量がいささか空回りをしていると言わざるをえない。『2001年宇宙の旅』の監督であるスタンリー・キューブリックは『メイキング・オブ・2001年宇宙の旅』に掲載されているインタビューの中で、「視覚的体験」を重視して映画を作ったと述べている。

 「あの映画でわたしが伝えたいのは、言葉で表現できるメッセージではない。『2001年』は言葉に寄らない体験なんだ。2時間19分の映画の中で、セリフの部分は40分もない。わたしが創造しようとしたのは視覚的体験、言葉による分類整理を無視して、感情的で哲学的な内容を直接潜在意識に訴える映画だ。わたしはこの映画が観る者の意識の内側に達する、強烈な主観的体験となるように意図した。ちょうど音楽のように」[3] 313頁。

 つまり『2001年宇宙の旅』は、言語ではなく視覚体験が重視されているシネラマ映画なのである。もちろん物語そのものが存在しないというわけではないし、アーサー・C・クラークの小説を読むことでその全貌は把握できる。また部分的ではあるが、映像を丹念に鑑賞することで読み解くこともできる。しかし、キューブリックの制作意図からして土台物語から読み解くような作品ではない。だからこそ『ツァラトゥストラはかく語りき』をそのまま真似るというのは『2001年宇宙の旅』の視覚体験の本質を理解していない愚行な演出であると言える。映画の演出をアニメに引用することで生まれる作用はたしかに興味深いが、この場合対象としている映画があまりにも特異的な作品であるために成功しているとは言いがたい演出になっているのだ。本来『2001年宇宙の旅』がもつ性質、映画史におけるずば抜けた普遍性を考えるのであれば、音楽のみを引用するだけで十分だろう。さらにそこに映像も真似るとなると、該当シーンが元ネタを知っている観客にしか伝わらなくなり、ハイコンテクストになりすぎてしまう。『2001年宇宙の旅』という作品のイメージを引用したいという気概は分かるのだが、もう少し上手く演出する方法はなかったのだろうかと考えてしまう。他のシャフト作品の素晴らしい演出を思い返すたび、安易な引用に走ったように思えてならないのだ。

『噂』

 羽川が吸血鬼の「噂」を語るシーンで流れる本楽曲のメロディはキスショットがイメージされており、『傷物語』のメインモチーフである。『ハートアンダーブレード』、『私のせい』、『友達。の、つもり』など多くの劇伴でこのモチーフが引用されるほか、『傷物語〈Ⅱ熱血篇〉』のエンディングテーマである『étoile et toi』および『傷物語〈Ⅲ冷血篇〉』のエンディングテーマである『étoile et toi [édition le blanc]』といった主題歌における引用も象徴的である。この主題歌二曲はセルゲイ・ラフマニノフを踏襲しており、元を辿ればおそらく『交響曲第2番 ホ短調 Op. 27』より第三楽章Adagioあたりの作品の型真似であると考えられる。
 様々な派生と進化を辿るこのメインモチーフが行き着く果てである『etoile et toi [edition le blanc]』は壮大なピアノコンチェルトに仕上がっている。これはフランス映画音楽の大家ミシェル・ルグランが意識下にあったのだろう。歌唱を務めたクレモンティーヌは『映画「傷物語」COMPLETE GUIDE BOOK』のインタビューで以下のように述べている。

 「ミシェル・ルグランフランシス・レイが活躍していた「いい時代のフランス」らしさに溢れた曲です。詞の世界と音楽があまりにもマッチしていて感動しました」Ⅲ 冷血篇 45頁。[4]

 もとよりルグランの音楽性はラフマニノフから強い影響を受けており、『ロシュフォールの恋人たち』(一九六七年)における”Concerto Ballet”はその代表的な一例といっていいだろう。これら二曲は後期ロマン派としてのラフマニノフ調の抒情性あるメロディが主軸となっている。神前は本楽曲の制作後、「しばらくクラシックの感覚が抜けなくて、何を作ってもロマン派みたいになる時期がありましたね(笑)」とも述べている。

『前振り』

 ここまでミニマル・ミュージックから大きく逸れた楽曲を紹介してきたが、〈物語〉シリーズの劇伴の一貫性を意識する上で見過ごせないのが、吸血鬼となった直後の阿良々木が忍から「前振り」としての説明を受けるシーンで流れる本楽曲である。『化物語』の劇伴である『道聴塗説』と同じようにジムノペディの参照が認められ、数少ないミニマル・ミュージックとして機能しているのだ。また、キスショットが自身の右脚を食べるシーンで流れる『食事中』は同じく『化物語』の劇伴である『素敵滅法』の発展形である。さらにメメの語りで用いられる『敵か味方か』は『修験道』の変奏であり、これは元を辿れば『街談巷説』の発展形である。いずれも『傷物語』の劇伴の中では強いミニマル性が認められる。

このように実に様々なジャンルの音楽で『傷物語』の劇伴が構成されている中、ミニマル性を見出そうとすればやはり『化物語』に帰結するというのは興味深い事実である。

 


『三人がかり』

傷物語』において、ベースが怪奇とフランス映画で構築されている楽曲群の中で、一際「かっこいい曲」として目立つのが、忍野メメが登場するシーンに流れる当楽曲。この楽曲における異質さとは、すなわち和太鼓+高速の疾走ワルツでシリーズ中でも異質な和風アクションを提示する。劇伴として聴いた時に、まず耳を奪うのは、深い残響をまとった和太鼓系の低域パーカッションである。そしてこの楽曲の構造は明確に川井憲次の二曲を導入していると推定できる。まず入りの静寂さの中で進む構造は、『機動警察パトレイバー2』の『Unnatural City I & II』の導入。

Unnatural City I

Unnatural City I

Unnatural City II

Unnatural City II

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『三人がかり』では曲冒頭 0:00-0:22までの無調効果音/ 0:23 から明確な旋律が入る構成は『Unnatural City I』0:00-0:18まで溜めた後に、0:19〜から旋律導入していく構図と合致する。

空間を震わせるその重低音は、川井憲次が『GHOST IN THE SHELL』や『イノセンス』で確立した儀式的ビートの記憶を呼び起こす。男性コーラスこそ入っていないものの、太鼓で重量感を出すその仕草は聴覚的には「川井的重量感」の再演といってよい。そしてサビ部のタイトなタム系ビートは、川井憲次の『INNOCENCE OST』より「Attack the Wakabayashi」のパターンを想起させる。

ATTACK THE WAKABAYASHI

ATTACK THE WAKABAYASHI

  • 川井憲次
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具体的にはタイトなタム連打(0:42-0:56)が集中する構成は『三人がかり』も終盤でほぼ同じ配置で引用している。劇中ではこの連打が忍野メメの登場シーンに重なり、緊張を一気に沸点へ押し上げる。総集編PV「こよみヴァンプ」でもメメ登場カットに同フレーズが抜粋されていることから、神前暁の意図は明白だ。


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もっとも川井憲次のそれより劇伴×ダンス・ミュージックという、神前暁流の現代的エッジとポップス感覚で磨き上げられたハイブリッドに仕上がっている。川井であれば男性コーラスをいれるところがなかったり、と総合的にまとめれば、和太鼓・効果音のオスティナートという骨格が川井憲次テイストを保証し、そこへ高速BPMとEDM的処理を持ち込むことで、神前暁の色彩が重ね塗りされた楽曲といえる。よりシンプルに言い換えるのであれば、川井語法の上に神前暁流の EDM スピード感をブレンドした楽曲だ。

 

傷物語 <こよみヴァンプ>』におけるバージョンは『三人がかり -Koyomi Vamp Edition-』として収録されている。このヴァージョンでは、原曲の終盤構成に調整が加えられている。

原曲では一度盛り上がったあと、『Unnatural City I』を想起させる静寂パートが再挿入されていた。しかし本編ではこの静寂部分が省略され、「静寂 → 動的 → サビ」というより直線的な構成となっている。

この再構築により、川井的な重層性は後退しつつも、音楽としての洗練度・疾走感が強化されている点が興味深い。

ファイナルシーズンにおける羽岡佳の劇伴

 『恋物語』までは神前がすべての劇伴を担当していたが、神前の体調不良により、『花物語』(二〇一四年)以降の新規劇伴は羽岡佳が担当することになる。ファイナルシーズンは、特に阿良々木自身についての物語が中心的に描かれ、これまでのストーリーと比べてシリアスなシーンが多い。そしてそこで重要となってくるのが、セカンドシーズンから登場していた扇の存在である。扇は何者であるのか、という問いが『憑物語』(二〇一四年)以降で本格的に展開されることになる。

扇の不気味さを劇伴で演出するという点では、主にアニメ界隈で活躍をする神前よりも、『血の轍』(二〇一四年)、『悪貨』(二〇一四年)、 『スケープゴート』(二〇一五年)など社会派的な実写作品の音楽を担当してきた羽岡のほうが、結果的に良い作用をもたらしたと言えるだろう。

 

 

本節では羽岡が神前と比べてどのようなアプローチを取ったかについて考えていきたい。なお、『花物語』は神前がほとんどの劇伴を手掛けたセカンドシーズンの中のひとつであるので、ここでの言及は割愛する。


憑物語』の場合  

『出自』 

 本楽曲は第一話の冒頭で流れる。​​ファイナルシーズンの第一弾を飾る『憑物語』において、この劇伴から始まることが羽岡という作曲家を象徴している。イントロにグロッケンシュピールとチャイムがレイアウトされており、フルートや中音域のトランペットを用いることで不安感を効果的に演出している。
 こうした不気味さの表現は、例えば黒沢清監督の『リアル〜完全なる首長竜の日〜』(二〇一三年)において羽岡が手掛けた劇伴『フィロソフィカル・ゾンビ』と共通している。『フィロソフィカル・ゾンビ』ではリゲティを参照していたが、『出自』では前衛に振ることなく、金管楽器とパーカッションの音域の差異を利用して不気味さを表現しているところが見事である。『憑物語』というタイトルに相応しい一曲であることに違いない。

『終わりの始まり』

 『出自』が流れ終わった後に本楽曲に切り替わる。静寂さを持つピアノの繰り返しを弦楽器が支えるという構造はスティーヴ・ライヒ的な作り方であるとも言える。静謐なピアノのソロで始まり、同じコードを繰り返しながら、次第に弦楽器を主体とした大きな編成へと変貌していく。この構造はミニマル・ミュージックの礎を確立した作曲家の一人であるスティーヴ・ライヒを想起させ、『大アンサンブルのための音楽』や『18人の音楽家のための音楽』といった彼の代表曲には本楽曲との類似点が認められる。そしてそれらに重なりあうメロディを彩るグロッケンシュピールの味付けは絶妙である。

『とけいもうと』

 『化物語』にて意識されていた”Tubular Bells”を羽岡が参照したのが本楽曲であるが、神前に比べて不気味さが際立っている。少なくとも『表裏』ほどの分かりやすさは存在せず、そこからさらにテリー・ライリーの”A Rainbow in Curved Air, for electric piano, dumbak & tambourines”(一九六九年)のような音の重ね合いをしているという見方もできる。
 本楽曲は阿良々木が目覚まし時計に起こされるシーンで流れることからも画との調和性が取れている。

『絶望的な回答』

 本楽曲は第二話で阿良々木の吸血鬼化が深刻に進んでいる現状を告げられるシーンなどで使われ、おそらく『憑物語』のシリアスさを象徴する劇伴である。『終わりの始まり』の発展型でありながら、ピアノと弦楽器のメロディがだんだんとドラマチックになることによって感情の起伏が表現されている。

『仕上げの総仕上げ』

 本楽曲もまた『終わりの始まり』の発展型としての側面を持ちながらも、冒頭のオルガン、徐々に入れ込んでくるオーボエの色っぽさ、弦楽器の哀愁さと女声合唱が少し入ることで北欧音楽としての味を持つ。これは押井守監督の『アヴァロン』の劇伴である『Log In』と似たアプローチである。

『クレーンゲーム』

 本楽曲は第二話で阿良々木がクレーンゲームで余接をゲットするシーンで流れるほか、第三話で影縫余弦手折正弦の存在をほのめかすシーンでも流れる。
 本楽曲はピチカートとピアノの重ね合わせである。この歪曲した感覚は、先ほどの『仕上げの総仕上げ』同様に、川井憲次からの影響が見受けられる。主にハープの使い方が、『NHKスペシャル未解決事件「file.02 オウム真理教」』(二〇一二年)で川井が作曲した『オウム真理教 M4A (未解決事件 file.02 オウム真理教)』を想起させるのだ。

 

終物語』の場合

 『終物語』(二〇一六年)ではついに扇が中心的に描かれる。扇の不気味さはそのまま『終物語』の劇伴の異質さに表れていると言っていいだろう。例えば『二者択一』は、これまでのシリーズの世界観を壊さない音楽性を持ちつつも、神前とは異なるアプローチを採っている。アタックの強いピアノで始まり、同じフレーズを繰り返しながら、やがて実に様々な楽器による大きな編成へと変貌していく。この構造には、『憑物語』と同じくライヒの影響が窺える。さらに『デッドスペース』、『七月十五日』、『444号室』などもミニマル性が強く、弦楽器のピチカートの繰り返しが主軸となっている。ただしグロッケンシュピールの主張が強くないことに着目すると、羽岡劇伴としては珍しいスタイルであると言えるだろう。
 一方で阿良々木と戦場ヶ原の会話で流れる『誰かの特別』は、流動的なメロディで心境の変化を巧みに表現している。このようにミニマル性の比重が少ない劇伴も散見されるのも『終物語』の特徴である。

オイラー

 『憑物語』の劇伴『クレーンゲーム』にて『オウム真理教 M4A (未解決事件 file.02 オウム真理教)』と共通したアプローチを採ったが、『終物語』の『オイラー』でも川井憲次の影響は共通しており、羽岡の好みが十二分に出ている劇伴と言える。本楽曲には不気味さと穏やかさが同居している。前半ではヴァイオリンによって不気味さが演出され、後半では木管楽器の和音のロングトーンによって穏やかさが演出される。ここで一貫してピチカートを奏でている音に川井憲次の影響が窺えるのだ。
 本楽曲は第一話の冒頭で「オイラーの公式」について阿良々木が語る場面で使われる。そこでここまで冷えきった劇伴を出すことによって、『憑物語』にあったシリアスさが保たれている。

『水かけ論』

 本楽曲が使われるのは老倉育が阿良々木に対して積年の恨みを告白するシーンであり、老倉の心情を表す音楽としてこれ以上ないほどに合致している。

本楽曲は宮内国郎アントニオ・ヴィヴァルディの組み合わせのように思える。宮内国郎といえば、『ウルトラQ』(一九六六年)と『ウルトラマン』(一九六六年)の二作品の音楽を担当し、初期の円谷作品のサウンドを規定した人と言える。

テーマ1 (「ウルトラQ」メインテーマ)

テーマ1 (「ウルトラQ」メインテーマ)

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本楽曲は、『ウルトラQ』のオープニングに似た不協を演出させている音とヴィヴァルディの『四季』(一七二五年)における『冬』のような棘のある弦楽器の音とが融合したような劇伴だ。合間に入るピチカートが味を出していることに加え、メロディにはミニマル性も感じられる一曲である。

 

『新旧文房具女対決』
本楽曲が流れるのは、癇癪を起こした老倉が文房具で阿良々木を刺そうとする場面である。低音と高音が交差する不気味な打点のピアノに潜む感覚と音の正体はおそらくは神前同様に、バルトークのピアノ楽曲『アレグロ・バルバロ』を参照した結果だと考えられる。 『終物語』では序盤から『オイラー』、『水かけ論』、『新旧文房具女対決』など不穏な劇伴が目立ち、羽岡の辣腕さが早い段階で窺える。



『開示すべき場面』
本楽曲は、より”Tubular Bells”を直接的に踏襲した劇伴である。そしてさらにその発展形が『棒読み』である。老倉のストーリーがきわめてミステリ的であることは、最後に阿良々木へ送った手紙の内容を視聴者に明かさないという「リドルストーリー」形式、すなわち例えば芥川龍之介の『藪の中』(一九二二年)にも見られる方式をとっている点からも分かりやすい。つまりここにはミステリにおけるミニマリズムが見て取れるのである。怪異退治ではなく、推理者としての側面が強いが故に異なるアプローチを施したのであろう。さらに外せないのはやはり扇の存在である。扇は阿良々木の内なる「もう一人の自分」が人格化したという点で、デヴィッド・フィンチャー監督の『ファイト・クラブ』(一九九九年)における主人公・ぼくの内なる欲望が実体化したタイラー・ダーデンとでも形容すべきだろうか。あるいはフョードル・ドストエフスキーの『分身』(一八四六年)における「もう一人の自分」である。『分身』の主人公ゴリャートキンは「もう一人の自分」、すなわち新ゴリャートキンが本来の自分にとって代わり、本当の自分が異議を唱え続けた結果、精神病棟に入院をする羽目になってしまう。
 これらを踏まえると、阿良々木にとって都合の良い世界ばかりではなく、正さないといけない問題、嘘、誤魔化しといったテーマから生まれた「もう一人の自分」としての扇というキャラクターが、作中において自分自身と向き合う役割を果たしている。言い換えれば、人間の抱える裏の部分を表出させる役割を持つのだ。だからこそ扇はどこか掴み所がないキャラクターとして描かれるのだが、そこに逆説的に魅力を感じてしまう視聴者が多いというのもまた事実である。
 以上のことから、扇がメインとなる『終物語』において、羽岡は劇伴の趣向を変えて、これまでにないほど異色でシリアスな楽曲群を作ったのだと言える。

<OMS(オフ/モンスターシーズン)>における劇伴

愚物語/つきひアンドゥ』の場合

愚物語』の劇伴は、ここ数年〈物語〉シリーズで主流になっていた弦主体・抒情的な室内楽+ピアノ路線、つまり羽岡の路線から一転し、神前暁MONACA)によるシンセ/ミニマル中心のサウンドに回帰を果たした。制作陣は公式サントラのライナーノーツでも原点回帰と明言しており、端的に言えば 『化物語』から『傷物語』における系統をアップデートした電子音楽寄りの作法といっていいだろう。『化物語』〜『偽物語』期の電子ミニマル語法をさらに洗練させた形態と言える。神前は本作の劇伴を制作する際にインタビューで以下のように述べている

愚物語」は語り部斧乃木余接なので、式神のイメージから、電子音をベースに有機的なテンションを入れるようにしていました。

月刊ニュータイプ 2025 1月号,p18

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ここにかかるミニマル語法というものを、一度整理してみたい。元々のミニマル音楽元祖、つまりはライヒやライリーなどを軸に始まるA面としての反復ピアノ‐旋律ミニマル面 (サティ/久石譲軸)とは別軸としてのB面、すなわちブライン・イーノやイギリスのWarp Recordsなどが主体となって確立していったIDM軸、つまるところ、電子‐環境音楽面がある。この『愚物語』においては、旋律的なA面=サティ〜久石譲的語法はほとんど後退し、B面=Warp環境音楽/サブベースループグリッチ処理が、物語の進行自体と同期するように前面へと押し出されている。

ちなみに神前が初めてTVアニメ劇伴を担当した際、初期デモはゲーム音楽同様「ループ構造」で提出されたが、「これは劇伴として成立しない」と制作側から却下された、という逸話がある(Real Sound 対談より)。その封じられた作曲術が、〈愚物語〉では逆に語り手が阿良々木暦ではなく、余接になったこともあり開放され、劇伴として正式に機能するに至ったのである。

ゲーム音楽って基本的にループするように作られていて。神前さんはTVアニメ劇伴が初めてだったこともあり、最初の劇伴デモはループする形で上がってきたんですけど、一緒に作品を担当していた副社長が「ループしているじゃないか、これじゃダメだよ!」と注意していて、「そうなんだ……」と思いながら見ていた記憶があります。

realsound.jp

元々、『愚物語』は阿良々木暦の観測者視点が希薄になり、視点の断片化と再構築が主題。反復モチーフと断続的なノイズ処理は、この 語りの欠落を音で可視化する機能を果たしています。抽象的な電子音がキャラクターの内面に距離を置き、観客に外部の耳を強いる。これが従来の情緒寄り楽曲からの最も大きな転換点でもある。

この二点、すなわち「音楽的語法の転換」と「視点構造の変化」をまず押さえておきたい。つまり、『化物語』(2009年)で神前は反復を叙情化する旋律ミニマル(A面)を極め、そして『愚物語』(2024年)では反復を質感化する環境ミニマル(B面)へと回帰した。これは、まさしく語る音から語らぬ音への転調でもある。

『観察報告』から始まり、『人間の振り』〜『成長期』まではほとんど、シンセ・アルペジオと細切れループを基層に据え、アコースティック楽器はパーカッシヴに処理をしている。対照的にA型の面影があるトラックは『キャラデザ』が顕著である。このトラック木琴主体による劇伴にグリッチ処理が背面に処理されているため、AよりのB型の劇伴、つまり旋律ミニマルを残したまま、環境ミニマル的テクスチャが前景化しているトラックである。

A面(旋律ミニマル型)トラック

  • 『キャラデザ』track.8
  • 『理解できない感情』track.10

B面(環境ミニマル型)トラック

  • 『観察報告』track.3
  • 『人間の振り』track.4
  • 『ちゃかちゃか着火』track.5
  • 『格好いい台詞』track.6
  • 『成長期』track.7
  • 『怪異退治』track.9
  • 『天敵』track.11
  • 裏目』track.12
  • 『ことの原因』track.13
  • 『白紙撤回』track.14

B面の『天敵』が顕著な例ではあるが、『愚物語』において、この系統の楽曲がでるというのは逆説的に『傷物語』の段階で、ジャズやフランス映画、ロマン派がテイストが跋扈した劇伴群の中で、『記憶』『あと気分』のイントロが代表的だがB面に移行しつつあったといっていいだろう。言い換えれば、『傷物語』が A/B 等価の「実験段階」とするなら、『愚物語』はその B 面成分が主題化された解禁作である。これらのことから分かるように、『愚物語』における劇伴は「ゲーム音楽由来のループ構造」×「環境音楽の聴かせすぎない質感」という二重の必然が噛み合ったB 面特化作品というのが結論だ。

そしてこのサウンド感覚は『撫物語』もほぼ同型の設計で進みます。ただし、物語的に撫物語の方が、物語性も強いせいか、AとBが半々で使い分けされており、中には両方を兼ねるハイブリッド系も見受けられます。

撫物語』の場合

A面(旋律ミニマル型)トラック

1-3『八方美人』

1-8『キャラクターデザイン』

1-12*1『ルマ撫子』

1-13『育お姉ちゃん』

2-3『未来志向』

2-4『決戦の地』

2-5『「約束……、絶対、描き直してあげるから」』

2-6『神撫子』

2-7『答え合わせ』

2-8『千石撫子、十五歳』

2-9『レクチャー』

B面(環境ミニマル型)トラック

1-4『初対面』

1-6『自業自得』

1-7『二つ目のほう』

1-8『自画像』

1-9『四散』

1-14『人生相談』

1-15『自戒』

2-1『死体感』

2-2『敗因』

A・B両面(旋律要素はあるが質感処理が主役)

1-5『一万時間の法則』(旋律と時計音のW構造)

1-10『式神と自分』(ギター、マリンバグリッチ|シンセの三種混合)

 

業物語』の場合

映像化としては吸血鬼物語。そして劇伴作家は羽岡へとシフトしており、弦楽器メインのものとなっている。ゴシックものであり作劇的にオーケストレーションに振る必要性を踏まえても、神前暁ではなく羽岡への移行は自然なものと言える。

 

羽岡の来歴

本作の音源について触れる前に、まず羽岡の来歴を簡単に確認しておきたい。日藝CROSSのインタビューを読むと、彼自身がわざわざピエール・ブーレーズリゲティといった現代音楽家の名を挙げている。

cross.art.nihon-u.ac.jp

授業の中でも、作曲の個人レッスンは特に貴重な経験となりました。週に一度、先生と1対1で1時間ほど行われるレッスンで、自作の曲を譜面に書いて持参し、先生から理論を交えた詳細なフィードバックを受け、ブラッシュアップをしていくという実践的な形式でした。レッスンの課題は、使用楽器や特定の音楽理論(例えば、ピエール・ブーレーズリゲティといった現代音楽家の技法)に基づいており、当時はまだ出版されていない最先端の情報を直接学ぶことができました。

また、師事関係でいえば、*2綿村松輝と*3千住明を通っている。両者の系譜を通過していることを踏まえるなら、羽岡をまとめて形容するなら「戦後現代音楽(ブーレーズリゲティ)と、クラシック作曲法を背景に持つ劇伴作曲家」と位置づけるのが妥当だろう。作曲専攻という視点からカリキュラムを逆算しても、

国民楽派スメタナドヴォルザークシベリウス
ハンガリー系(バルトークコダーイ・ゾルターン)
ロシア五人組ショスタコーヴィチ
・フランス近代(ドビュッシーラヴェルメシアン
・前衛以降(シェーンベルクブーレーズリゲティ

あたりは当然触れる範囲である。とりわけ現代音楽の作曲に強い綿村松輝の門下であることを考えるなら、西洋音楽史の中でハンガリー民族主義が扱われる枠組みについても、逆算的な導きではあるが、ほぼ確実に授業として経験していると言ってよい。

そうした背景を踏まえれば、これまでの〈物語〉シリーズにおけるバルトーク楽曲的アプローチは、単なる偶然の類似ではなく、教育によって内在化された作曲語法の一つとして読むことができる。すなわち、〈物語〉シリーズに一貫して見られる弦楽器の作芸の良さは、単なるセンスではなく、現代音楽とクラシック作曲法の両側から意識的に鍛えられた書法の成果であり、それが全面的に露出したのが『業物語』である。また、アニメ劇伴の神前暁と対比させた場合、作家としての振れ幅はTVドラマ/映画サントラ仕事を長く担当している点からも、そっちの血統が太いため物語シリーズの中では基本的に「会話のリズムを回す音楽」ではなく、「物語そのものの重力を背負う音楽」として機能するという点も、『業物語』で最大化された点とも言えるだろう。

本作については鶴岡音響からこれまでと異なるものにするという方針が示されている。

最初に、音楽も「これまでの『<物語>シリーズ』とは違うものにしたい」というお話が鶴岡さんからありました。吸血鬼の作品だけど、古い映画の音楽ではなく、今のハリウッド映画みたいな音楽で

月刊ニュータイプ 2025 1月号,p18

ここで鶴岡が提案しているのは実に明瞭です。血鬼もの+古典ゴシック寄り、ではなく現代ハリウッドの「ハイブリッド・オーケストラ」ということは頭に浮かぶのはだいたい重低音/刻む弦/シンセの影が定番です。ハンス・ジマーがオルガンの上で寝落ちしたと揶揄される『インターステラー』みたいなものでありながら、非ロマンスでゴシック系ともなれば、この手の音楽性の洋物はラミン・ジャヴァディ、デヴィッド・アーノルドあたりは定番作家である。

トラックリストは以下のように構築されている。
1.『Suicidal Tendency』
2.『俺様の役目』
3.『亡国の美女』
4.『死体城』
5.『膝枕』
6.『ご容赦』
7.『利害の一致』
8.『鬼死』
9.『下抄え』
10.『線引き』
11.『事実は事実』
12.『委細承知の上』
13.『キスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレード
14.『救済』
15.『六百年ぶりに』

15曲あるうちの5〜9は、スーサイドが作中の「どうやらまた死んでしまったらしい」という台詞に対応する形で設計されている。生き返るたびにこの一言が効くよう、同じイントロを付けるという鶴岡案を採用しつつ、そこへチェロのグリッサンドを流し込むことで、スーサイドマスターが繰り返し死んでいる事実を音楽面でも強調する。そうした意図を、作劇として明確に織り込んでいる。

業物語』のサントラは全15曲あるが、その多くは「入り」をほぼ同型に揃えた、意図的な構成でまとめられている。要するに本作の劇伴は、共通の導入を土台にした変奏の束であり、その限られた枠の中で、どこまでアプローチを展開できるかに比重が置かれている。

一方で、『業物語』の音楽はハリウッド的な方向性を志向しながらも、先に挙げたような派手さを前面には出していない。では本作の「らしさ」に最も近い参照先はどこかと言えば、『岸辺露伴は動かない』のサントラが見逃せない。『業物語』はハリウッドではない。だが、弦楽器の使い方という一点に限れば、むしろこちらの系譜に寄っていると言える。

たとえば、羽岡・鶴岡が生み出した「スーサイドの台詞を象徴するチェロのグリッサンド」という発想。これ自体が珍しいわけではない。だが、本作以前に、同種の手つきで強烈な印象を残した劇伴として挙げられるのが、「大空位時代のためのレチタティーヴォ(叙唱)」だ。弦の緩急によって緊張感を立ち上げ、ドラマ版『岸辺露伴』のアバンタイトルを象徴する楽曲である。

〈物語〉シリーズと『岸辺露伴』の相性は、実際のところアプローチの次元で重なり合う部分がある。共通しているのは、ミニマルをはじめとする前衛的な音楽手法を取り込んでいる点だ。もちろん前衛性の度合いには差がある。だが、サウンドトラックが目指す方向性そのものには、同義的と言っていいレベルで重なる輪郭が見える。

その一致は、両作のサントラと映像を突き合わせて検討すると、よりはっきり立ち上がってくる。もちろん細部に目を凝らせば差分もある。〈物語〉シリーズはミニマル寄りの手法を強く前面化させる一方で、新音楽工房/菊地成孔の『岸辺露伴』は、その上にホラーやインダストリアルの質感、さらにオールAIといった方法論込みで微細に織り込み、音色と気配を緻密に書き分けていく。

そうした関係性を踏まえると、羽岡・鶴岡が参照し得た「2020年代の映像美」としてのドラマ版『岸辺露伴』は、求めるサウンドが偶発的に重なっただけでは片付かない。作者としての西尾維新荒木飛呂彦を並べて考えたとき、映像表現の設計思想が近接し、その結果として劇伴レベルでも似た解釈へ収束してしまう。その合流点こそが、『業物語』と『岸辺露伴は動かない』の呼応的な関係性だと言える。

業物語』は、新房昭之の直截的な映像美に、羽岡の重厚な劇伴、鶴岡の音響設計が重なり合うことで成立している、特殊な一作である。そもそも〈物語〉シリーズの劇伴は「会話劇ベースのアニメ音楽」として結実してきた。しかし本作の音楽群は、『傷物語』を含む従来作とは決定的に異なる位置に立っている。その断絶点こそ、見逃してはならない。

 

忍物語』の場合

忍物語』の場合、OMSの中でも語り手が阿良々木暦であることから、A面/B面の配分が比較的均一に保たれているように見える。従来の〈物語〉シリーズでは、A面――すなわちサティやライヒ的なミニマル音楽の語法と会話劇を軸にした比重が高かった。『愚物語』『業物語』と比べても、語り手が阿良々木暦である以上、これまでの方法論に照らせば、そのA面的要素が前景化するのは当然の帰結だろう。

たとえば「解決」というトラック。これは「素敵滅法」のリズミカルな要素を削ぎ落としつつ、後半に進むにつれて弦楽器によってドラマ性を付与していく。本来であれば神前暁が担当してもおかしくない作品であるにもかかわらず、『忍物語』では羽岡が、OMSにおける神前イズムのエッセンスを受け取りながら、『化物語』期の音源にまで遡る形でリアレンジを施している。

10年以上続くシリーズの中で、その「再演」が現行作として実際に鳴らされる。この点は、特筆に値すると考える。

同時に『忍物語』の劇伴は、〈物語〉シリーズの中でも、旧来の作劇、羽岡イズム、神前暁イズムが混ざり合い、複数の質感がせめぎ合う音楽になっている。全体の触感はやはりハリウッド寄りであり、イコールではないにせよ、近年のハリウッド映画で評価対象となっている潮流、たとえばジョニー・グリーンウッドやDANIEL BLUMBERGに見られる、英国ミニマルへ傾く志向性に接近しているようにも聴こえる。

しかしそれだけではない。別の局面では、マックス・リヒターやヨハン・ヨハンソンを想起させるドローン的な粘度が前に出る一方で、「そうではない」ケースではチャイコフスキー的な情緒に寄る瞬間もある。こうした振れ幅を同一作品内で抱え込んでいるという点で、『忍物語』の劇伴は、作劇にかかる要素がかなり複雑に絡み合った構造を持つと言える。

 
 

A面(旋律ミニマル型)トラック

1-11『伝説の源泉』A

1-12『なれ合い』A

1-13『かつてのあるじ』A

2-1『復元』A

2-3『カリスマ性』A

2-6『潮時』A

2-7『素人』A

2-8『赤い闇』A

2-9『「はは。まあ、乗りかかった船だからな。」』A

2-10『再会』A

 

B面(環境ミニマル型)トラック

1-2『現実逃避』B

1-3『木乃伊』B

1-4『正体不明』B

1-5『ミッシング・リンク』B

1-6『解読』B

1-7『D/V/S』B

1-8『特異な組織』B

1-9『個人情報』B

1-10『同調圧力』B

1-14『クリプトビオシス』B

1-15『幻風景』B

2-2『開眼』B

2-4『見栄』B

2-5『そうでないケース』B

 

 

神前暁羽岡佳の音楽スタンスの違い

これまで神前と羽岡の劇伴を主に取り上げてきた。すでに述べた通り、主にアニメの世界で活躍している神前と、実写映画の世界でも活躍している羽岡とでは根本的に作り方が異なる。神前の楽曲は『涼宮ハルヒの憂鬱』(二〇〇六年/二〇〇九年)や映画『涼宮ハルヒの消失』(二〇一〇年)といった代表作においても歌ものから劇伴曲にいたるすべてが基本的には明るく、分かりやすい音楽の作法である。サティやオールドフィールドといった、一般的にもよく知られた作品の型を引用した劇伴を作り、そこからさらに変化球の劇伴を作るといった側面が目立つ。実際『消失』ではアプローチ、聴かせ方の効能こそ違えど『ジムノペディ』が引用されていた。例外的にハーマンを用いた劇伴も存在するが、そうしたアプローチは邪道であり、主軸は明朗快活な側面とメロディとの兼ね合わせが強い。

 

対する羽岡の場合はマッシヴ・アタックの『Mezzanine』(一九九八年)に代表される暗鬱なビートの刻みや同世代の劇伴音楽家である菅野祐悟的な音の重ね方に、川井憲次的なオーケストラのアプローチ、そして何よりも現代音楽の素地がある作曲家である。

Mezzanine

Mezzanine

〈物語〉シリーズにおいても、ライリーやライヒなどのミニマル・ミュージックを発展させつつ、ヴェーベルンといった新ウィーン学派バルトークのピアノ作品などを再構築しながら劇伴を作っている。にもかかわらず、〈物語〉シリーズの劇伴においては作品の世界観に限りなく透明に近い形で馴染んでいるのは、いずれの作曲家も前衛とミニマル・ミュージックをバックボーンに置いた上で楽曲を制作しているからだと考えられる。『作曲家・羽岡佳 ロングインタビュー!(アニメ・ゲームの“中の人” 第34回)』で、羽岡は以下のように述べている。

 

 「「物語」シリーズでは、新房昭之監督と音響監督の鶴岡陽太さん、音楽プロデューサーの山内真治さんから「ミニマル・ミュージックで」とのお話があったので、クラシック寄りのミニマル・ミュージックから始めて、少しずつシンセを入れてエレクトロな方向に行ったりとか、オーケストラっぽくやってみたりとか、そんなことを試行錯誤しながら作りました」

 

 つまり、羽岡に与えられた大枠のオーダーは神前の場合とまるっきり同様なのである。作曲家が交代しても〈物語〉シリーズの劇伴にミニマル・ミュージックの一貫性が認められるのは、そもそもこうした明確なオーダーがあったからであろう。しかし、ミニマル・ミュージックという楽曲のオーダーを受けてサティを取り入れる神前と、より発展した音楽体系としてのミニマル・ミュージックを参照する羽岡というこのスタンスの現れ方は個性的である。

第二部 映像における音楽の効能

黒澤明スタンリー・キューブリック庵野秀明の場合  

 第一部では〈物語〉シリーズの劇伴について述べてきたが、当然ながら映像に音楽はつきものである。特に物語と映像を持ち合わせた映画という媒体における音楽の扱い方は実に多用である。とりわけ面白い技法としては、描かれている映像とは正反対の雰囲気の楽曲をあえて流すことによって、映像をよりドラマチックにする方法論──「対位法」と呼ばれるものである。この手法は、例えば以下三つの作品で用いられる。
 一つ目は黒澤明監督の『野良犬』(一九四九年)である。作中で何度か対位法が使われるが、中でも印象深いのは終盤において、拳銃の取り合いをめぐる張り詰めた展開にもかかわらず、フリードリヒ・クーラウの『3つのソナチネ ソナチネ第1番 Op.20-1』が軽快に流れる場面である。映像と音楽の不調和が、よりこのシーンをドラマチックにしているのだ。

Piano Sonatina in C Major, Op. 20 No. 1: I. Allegro

Piano Sonatina in C Major, Op. 20 No. 1: I. Allegro

  • Marie-Luise Bodendorff
  • クラシック
  • ¥204
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二つ目の例はスタンリー・キューブリック監督の『時計じかけのオレンジ』である。主人公の非行少年アレックスは劇中で様々な残忍な行為を行う。ある作家夫婦の家に押し入って暴行を加える場面で、アレックスは『雨に唄えば』を高らかに歌い上げるのである。

雨に唄えば

雨に唄えば

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これもまた実際に描かれる映像と、そぐわない音楽が流れるという点で、対位法的である。このキューブリックに影響を受けたクリエイターが庵野秀明であり、三つ目の例は『新世紀エヴァンゲリオン』(一九九五年)である。例えば、第十八話「命の選択を」では、鈴原トウジが搭乗する参号機を第13使徒バルディエルが乗っ取り、エヴァエヴァという戦闘が繰り広げられる。戦闘自体は碇シンジが搭乗する初号機が強制的にダミープラグに切り替えられることで勝利するが、しかしその後ダミープラグで動く初号機がシンジの意思に反して暴走し続け、参号機を徹底的に解体してしまうのである。
 そして新劇場版の二作目『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』(二〇〇九年)ではテレビシリーズにあった描写に様々な変更が施された。その代表例に先述した解体シーンで『今日の日はさようなら』(一九六六年)を流したことが挙げられる。

今日の日はさようなら

今日の日はさようなら

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『今日の日はさようなら』自体はフォークソング・歌謡曲に部類される温かな楽曲であり、国民的に認知されているが、それをアニメのグロテスクなシーンで流すことで、対位法としての極地と形容しても過言ではないほどのシーンに昇華させた。
アニメ作品においてクラシックの引用をすることでシーンを魅せる手法は今でこそ定番になっているが、『エヴァ』はその効能が反響を呼び評価された代表的な作品であると言えるだろう。

以上のことから対位法はクラシック楽曲を直接的に引用することが多い。次節では映像と音楽を並行させることで物語る形式について論述していきたいと思う。

物語としてのクラシック音楽

先述した対位法では直接的なクラシックの引用が主体だったが、アニメにはクラシック音楽風という体裁をとった劇伴パターンも存在する。例えば宮崎駿監督の『崖の上のポニョ』(二〇〇八年)で用いられる劇伴『波の魚のポニョ』は、冒頭節からリヒャルト・ワーグナーの『ニーベルングの指環』(一八七四年)より『ワルキューレの騎行』を意識した楽曲になっている。

波の魚のポニョ

波の魚のポニョ

ワルキューレの騎行

ワルキューレの騎行

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そしてこれは当然、作品の血筋として機能している。
 『ニーベルングの指環』におけるブリュンヒルデの役割はこうだ。ブリュンヒルデはヴォータンと大地の女神エルダとの間に生まれた九人の娘の長女である。ワルキューレの最も勇敢な戦士であり、双子の兄妹ジークムントとジークリンデの子供であるジークフリートの名付け親でもあり、後の恋仲でもあり、その後に悲劇を生む。ラストの『神々の黄昏』では「黄金の指環」をライン河の乙女たちに返す約束をして、愛馬に乗り、炎の中へと消えていく。 『崖の上のポニョ』においてポニョはブリュンヒルデと呼ばれており、稚魚のような数多の妹分の存在が何を示しているかは自明だ。フジモトがグランマンマーレに頭が上がらないというのは、ヴォータンと妻フリッカの関係性を再現したものである。なによりも宗介のポジションは、まさにジークフリートそのものである。

 

しかし『崖の上のポニョ』における物語としては最期まで報われない女性としてのブリュンヒルデという描き方をしていないし、宗介にしても『ニーベルングの指環』に沿った内容であれば劇中のどこかで退場しているはずである。補足するとジークフリートの妻はクリームヒルトであり、ジークフリートを殺められたことで血塗られた物語が待ち受けており、どのポジションだろうが『ニーベルングの指環』を参照している以上惨劇は免れない。

 

その観点から考えると、『神々の黄昏』からの人類の台頭という部分が、『崖の上のポニョ』ではランチュウがモデルとされる金魚のポニョと哺乳類の霊長目ヒト科にあたる人間の宗介という生物学的進化系統樹の立ち位置を踏まえれば、のちに新人類の誕生を示唆させるものとなっていることは明白である。
 このように極端な一例ではあるが、物語る音楽を使用することで脚本上には現れない行間表現が生まれることもある。これはロマン派という音楽の起源が「物語を音楽に転換する」という流れがあったからこそである。

 

第三部 『魔法少女まどか☆マギカ』の音楽世界について

チャイコフスキーの彼方に──チェレスタグロッケンシュピールがもたらす魔法の音

 第三部では、『まどか』の音楽性について論じるために、シャフト作品におけるグロッケンシュピールの使われ方、あるいはチェレスタの効能について考えたい。『まどか』の音の要素として挙げられるこれら楽器の音楽作用を、「魔法を演出する音の世界観」とその源流について考えることで紐解いていきたいと思う。なお本稿では、打楽器と鍵盤楽器という違いこそあれど、グロッケンシュピールチェレスタの効果は基本的には同じものとして論述を進める。
はじめに確認しておきたいのは、『まどか』では梶浦由紀が劇伴音楽を担当しており、『Conturbatio』や『Signum malum』などの劇伴に代表されるように、『まどか』の世界観における日常シーンで流れる音楽は常にグロッケンシュピールが味を出しているという点だ。

Conturbatio

Conturbatio

  • 梶浦由記
  • アニメ
  • ¥255
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Signum malum

Signum malum

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さらに、『劇場版 魔法少女まどか マギカ[新編] 叛逆の物語』(二〇一三年)の主題歌である『カラフル』のイントロにもグロッケンシュピールの音が効果的な形で挿入されている通り、その使われ方はきわめて意識的なものと思われる。

カラフル

カラフル

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このイントロに引き込まれた観客はとても多く、テレビシリーズの主題歌である『コネクト』よりも印象深いと感じる人も少なくないだろう。

 

ここで注目したいのが、テレビシリーズのリメイクである『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ [前編] 始まりの物語』(二〇一二年)および『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ [後編] 永遠の物語』(二〇一二年)のオープニング主題歌である『ルミナス』と『コネクト』の関係性、そして『カラフル』との関係性である。

ルミナス

ルミナス

  • ClariS
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コネクト

コネクト

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いずれも作詞・作曲は渡辺翔、編曲は湯浅篤が務めており、『コネクト』と『ルミナス』のイントロは、ピアノという誰でも耳馴染みのある楽器を軸に据えているという点で共通している。ここにはやはり劇場総集編で初めて『まどか』に触れる人々への配慮があったと思われ、映像面でも真っ白な空間にカラフルな水玉が浮かんでいるポップなイメージがテレビシリーズから引用されている。
 対して『カラフル』のイントロはピアノではなくグロッケンシュピールを軸に据えており、『まどか』の世界観にぐっと引き込む作用は『コネクト』や『ルミナス』より強い。何故そうなるのかを考えるとき、先に述べたように『まどか』の劇伴ではテレビシリーズの頃からグロッケンシュピールが効果的に作用していた、という事実が手掛かりになるだろう。『叛逆の物語』を見る人、つまり『まどか』の世界に一度でも触れたことのある人であればグロッケンシュピールの音色からすぐに『まどか』を想起できてしまうほどに、イメージが定着していたのである。
 そして魔法とチェレスタという組み合わせは『まどか』以前に世界的に有名な作品が存在する──それはもちろん『ハリー・ポッター』(二〇〇一年)のメインテーマだ。

 

ジョン・ウィリアムズがメインテーマにチェレスタを用いたのは、チャイコフスキーによる『くるみ割り人形』の一幕における『金平糖の精の踊り』からの影響である。
 シャフト作品では『まどか』だけでなく、『化物語』の劇伴にもチャイコフスキーの『花のワルツ』を意識した楽曲である『ファーストタッチ』があることを踏まえると、チャイコフスキーの面影、あるいはロマン派の音楽が影響していると考えられる。チャイコフスキーに留まらず、印象派音楽の大家として名高いモーリス・ラヴェルクロード・ドビュッシーをはじめ、『交響曲第五番』第四楽章「Adagietto」の作曲家として著名なグスタフ・マーラーチェレスタを愛好していた。このように、チェレスタの音のひとつとっても『まどか』からチャイコフスキー、ロマン派まで遡ることができるのだ。

以上の作品/作家が『まどか』の紡ぎ出す世界観の源流として挙げられる。制作陣が意識的に演出の一環として印象派やロマン派のクラシックの音楽を作劇に忍ばせているとみてまず間違いないはずである。
 『まどか』の世界観を表現しているのはロシア・ロマン派音楽であるが、キャラクター性や心情を表現する際にもクラシックが使用されている点は見逃せない。実際に第四話で上条が聴いている音楽はドビュッシーの『亜麻色の髪の乙女』(一九一〇年)であり、第六話では実際にヴァイオリンで演奏をしている描写まである。

亜麻色の髪の乙女

亜麻色の髪の乙女

  • ディノ・チアーニ
  • クラシック
  • ¥255
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また第五話ではポーランドの作曲家テクラ・バダジェフスカが作曲した『乙女の祈り』(一八五一年)の楽譜が、さやかの変身シーンの背景にパッケージ版で追加された。

乙女の祈り

乙女の祈り

  • イエルク・デムス
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亜麻色の髪の乙女』とは異なり、『乙女の祈り』は音としては表現されず、楽譜のみが背景に添えられている。これらは物語る音楽としても機能している。『亜麻色の髪の乙女』の「亜麻色」という色は淡い褐色をもつ黄色であり、上条と関わりがあるキャラクターのなかで亜麻色に近い髪色をしている仁美を示唆していると考えることができる。『乙女の祈り』は先述した上条への想いを示唆していることに加え、魔女化したさやかと心中する佐倉杏子が「独りぼっちは、寂しいもんな……いいよ。一緒にいてやるよ。さやか……」と言って祈りのポーズを取るシーンにも符合する。

 

このように『まどか』の魅力を織り成す要素は様々あるが、それを紐解く鍵こそがグロッケンシュピールチェレスタに代表される「魔法の音」と言えるかもしれない。この「魔法の音」は、『まどか』が描く世界観にどのような効用を与えているだろうか。そのためには、『まどか』の世界観をロマン派から象徴主義、そしてシュルレアリスムの系譜として読み解いていく必要がある。『まどか』はドイツのメルヘン型物語と耽美性、それらを音楽に転換したロシアのロマン派音楽という構造に、フランスより発祥したシュルレアリスムの手法をとった美術設定を組み合わせた芸術なのである。

ドイツ文化における魔法とメルヘンの系譜

 「魔法に翻弄される」というテーマはドイツ文学からの系譜として読み解くことができる。オトフリート・プロイスラーの『小さい魔女』(一九五七年)を読んだことのない人はおそらくいないであろう。「ファンタジー」というジャンルはケルト文化圏の歴史をもつ西ヨーロッパ諸国から生まれたものとされ、その潮流が後世の物語に大きな影響力を持つ。中でもイングランドではルイス・キャロルの『不思議な国のアリス』(一八六五年)といった寓話が、ウェールズ地域からは『アーサー王伝説』という物語が今現在も創作物を通して語り継がれている。


しかし現代における魔法/魔法使い/魔女というイメージは今ではドイツ文化圏が主流である。文学史的には、先述のプロイスラーや、E.T.A.ホフマンゲーテ、グリム兄弟が有名であるし、歴史的にはアイヒシュテットやゲルンハウゼンといった地域は魔女狩りに強い因果を持っていたり、さらに地理的にも祭としてヴァルプルギスの夜が行われる本場はハルツ山地のブロッケン山であることからも、そのイメージは根強い。
 ファウスト』の文化的影響力を踏まえると『まどか』におけるワルプルギスの由来はゲーテの作劇に依拠していることは疑いの余地がない。また、グリム兄弟が紡いだ数々の物語には様々な魔術をもつキャラクターが登場する。中でも『シンデレラ』、『ヘンゼルとグレーテル』、『いばら姫』といった作品群は魔女が登場する寓話物語の代表作として世界的に知られている。『眠れる森の美女』はフランスの詩人シャルル・ペローが原作だが、グリム兄弟による『いばら姫』によって描かれた物語の方が有名だろう。王子とのキスによって目覚めるというメルヘンチックな結末はグリム兄弟によって書かれたものであり、ペロー版では実際に百年待った上で自ら目を醒ますという点を踏まえると、現在語られている『眠れる森の美女』はグリム兄弟の想像力から生まれたものといって差し支えない。何よりも、われわれが日常的に使う「メルヘン」という言葉はドイツ語由来のものである。
 また、チャイコフスキーの『くるみ割り人形』や『白鳥の湖』の作中の舞台は共通してドイツの都市である。ホフマンの『くるみ割り人形とねずみの王様』(一八一六年)は、『叛逆の物語』にかなりの影響を与えている。例えばくるみを砕く描写や「くるみ割りの魔女」という名前はその代表例だろう。

 

加えて、くるみ割り人形が壊れた際にマリーが自身の持つ白いリボンを人形に巻く行為は、まどかのピンクのリボンに通底するテーマである。人形たちが置かれている戸棚のガラスに肘が当たり怪我をする場面は、ほむらに手を差し伸べるシーンにて傷ついたまどかの手の描写と重なる。くるみ割り人形がネズミの王様を討ち取ったことで七つの金の王冠をマリーが手にする場面は、王冠の形をしたオーブを手にしたほむらと重なる。以上のことから、相当数のイメージソースとして引用をしていることが分かる。
 

一方で『白鳥の湖』において王女オデットは悪魔のロットバルトに呪いを掛けられてしまい、白鳥に変えられてしまう。昼は白鳥、夜は人間の姿というこの呪いを解くためには「愛」の力が必要だという。そしてその呪いを解く過程で、オデットとそっくりなオディールという「黒い白鳥」が登場する。 『叛逆の物語』にて悪魔化したほむらの衣装はまさにオディールを連想させるものだ。異空間設計を担当した劇団イヌカレーのアート表現の先祖とも言える美術家ヤン・シュヴァンクマイエルチェコ共和国出身であり、ドイツ文化圏に影響を受けていることは想像に難くない。実際にシュヴァンクマイエル長編映画ファウスト』(一九九四年)を制作している。シュヴァンクマイエルの作品が劇団イヌカレーにインスピレーションを与えているのは間違いないだろう。

フランス詩学劇団イヌカレーシュルレアリスム

フランス詩学における『まどか』の流れについては、主だってシュルレアリスムの補助線を引く必要があるだろう。まずフランス詩人の流れとしては、エドガー・アラン・ポーなどから派生したデカダン派の流れを組むシャルル・ボードレールや、高踏派のシャルル=マリ=ルネ・ルコント・ド・リール、あるいはテオドール・ド・バンヴィルなどの一八五〇年代における著名なフランスの詩人が挙げられる。

 

高踏派とはロマン派という文化体系の後継のフランス詩学のジャンルの一つである。その特徴は非個性な性格を持ちながら、そこに完璧な形式美を持ち合わせたものである。そしてその反対運動として起こる象徴主義が一八七〇年代より発露し、ジャン・モレアスが一八八六年に「象徴主義宣言」を発表する。この時代を象徴する五人の詩人こそがポール・ヴェルレーヌ、ステファン・マラルメ、トリスタン・コルビエール、アルチュール・ランボーロートレアモン伯爵である。彼らは一般的に一八七〇年の五人の異端者と呼ばれている。そしてこの五人が一様に影響を受けていたのがボードレールであることから分かるように、象徴主義における作風は人間の不安や運命といった内面を切り開くものである。
 

そして一九二四年にアンドレ・ブルトンが『シュルレアリスム宣言』を発表する。これが世に言うシュルレアリスムであり、この運動からコラージュやルネ・マグリットが多用したデペイズマンといった現代のアートの手法が確立されていく。ハンス・ベルメールオッフェンバックの音楽作品『ホフマン物語』(一八八一年)や、そのモデルとなったホフマンの『砂男』(一八一七年)に影響を受けて球体関節人形を作り、受け入れられたのもこの時代である。

こういった背景を踏まえた上で劇団イヌカレーの美術を見ると、その影響関係は明白だろう。劇団イヌカレーにおける異形なアートは映像のアプローチ以上に詩からの影響がある。例えばロートレアモン伯爵の詩『マルドロオルの歌』のように素材を引用する手付き、あるいは美術家オディロン・ルドンの色彩/異形な画風を模していることも見て取れる。 『まどか』にはフランスのロマン派音楽の要素もあると述べたが、それはルイ・エクトル・ベルリオーズの『幻想交響曲』(一八三〇年)のことを指す。

 

興味深いことにベルリオーズもまた『ファウストの劫罰』(一八四六年)という楽曲を作曲しており、いわゆるゲーテに魅入られた一人である。
幻想交響曲』は『まどか』の世界観と対比すると実に似通っている。

楽章それぞれのタイトルが第一楽章『夢、情熱』、第二楽章『舞踏会』、第三楽章『野の風景』、第四楽章『断頭台への行進』、そして第五楽章の題目は二種類存在する──ひとつが『魔女の夜宴の夢』、もうひとつが『ワルプルギスへの夜の夢』である。

第一楽章、第四楽章、第五楽章のタイトルはまさしく『まどか』を連想させるタイトルである。また、ベルリオーズが『幻想交響曲』を発表する九年前にイギリスの作家トマス・ド・クインシーの『阿片常用者の告白』(一八二一年)がある。ド・クインシーといえば『サスペリア』の原作『深き淵よりの嘆息』(一八四五年)が知られているかもしれないが、これは『阿片常用者の告白』の続編である。阿片によって狂気の夢へと誘われる世界を描いているという点で、ベルリオーズはド・クインシーに影響を受けている。ド・クインシーは『阿片常用者の告白』にて多大なる影響を及ぼしたが、その一人がポーであった。そしてポーに可能性を見出した人物がボードレールである。ボードレールと同時期に生きたベルリオーズは、ゲーテやド・クインシーから影響を受け『幻想交響曲』を作ったのだ。

流れをまとめると、ド・クインシーはベルリオーズの楽曲、ボードレールをはじめとするフランス詩学ダリオ・アルジェント監督の『サスペリア』という、音楽/詩/映像すべての表現に多大なる影響を与えている。そうした意味では、ド・クインシーの散文詩がアニメーションとして生まれ変わったのが『まどか』であるという見方は十分可能である。

ロシア・ロマン派におけるチャイコフスキーメンデルスゾーンラフマニノフ

 『まどか』における世界観を表現する劇伴のアプローチとしては、ロシア・ロマン派音楽の側面が強く、その代表例としてグロッケンシュピールおよびチェレスタの使用、すなわちチャイコフスキーの影響が顕著であるということはすでに述べた通りである。『まどか』はバレエ音楽の世界観を映像に起こしていることから、三大バレエ楽曲を作り上げたチャイコフスキーの楽曲にまずは注目する必要があるだろう。

例えば、第一話の冒頭は舞台の幕開けから始まるが、この演出方法はまさにバレエにおける開幕のようである。この始まり方は、書物であれば「むかしむかしあるところに」といった前置きを彷彿させる。例えば、『スター・ウォーズ』(一九七七年)の有名な冒頭と比較してみても良いかもしれない。

 

 “A long time ago in a galaxy far, far away….”

 

日本語訳で「遠い昔 はるかかなたの銀河系で…」とされているこの原文の妙は”in the galaxy”ではなく、”in a galaxy”としているところにある。”the”を用いると「特定の惑星」という捉え方が可能になるが、 “a”を用いることで「どこかの惑星」という表現に生まれ変わる。つまり普遍性を獲得し、明確に物語の寓話性が強調されているのだ。

こうして考えてみると、『まどか』の第一話における劇場の幕が上がる演出も、『まどか』という作品自体を夢物語としての御伽噺、あるいはある種の寓話としてのメタフィクションであるという作り手側の主張という解釈が可能だ。そして単なる幕開けではなくバレエの開幕というモチーフを使っていることが後に大事な役割を持つことになる。

テレビ版においてはバレエ要素は薄いが、後に作られた『叛逆の物語』では「ピョートル」という名のねずみをモチーフにした魔女の使いが登場する。これはピョートル・チャイコフスキーの名前を引用したものであり、バレエにまつわる要素を作品に取り入れていることが分かる。MADOGATARI展で発表された新作コンセプトムービーでは、まさにバレエそのものをモチーフとして扱っており、まどかがチュチュを身に纏いながらバレエを踊っている姿が描かれている。
 

また、コンセプトムービーには音楽論として読み解いていくと見逃せないキーワードが登場する。それは「妖精」である。

 「助けてくれるの、あなたたちも、妖精さん

 『まどか』と妖精を接続するのであれば、ウィリアム・シェイクスピアの『真夏の夜の夢』(一五九五年)を参照するべきだろう。

日本語題は「真夏」であるが、原題は”Midsummer Night's Dream”であり、”Midsummer”は直訳すると「夏至」である。夏至は六月二十一日をさすものであり、真夏とはとても言い難い。夏至にあたる六月二十一日をキリスト教的観点から考えると夏至祭、つまり聖ヨハネ祭が思い浮かぶだろう。こうした角度からみると「真夏の夜」とは、聖ヨハネ祭のことを指すものと考えられる。故にヨーロッパ圏内のイギリス、スウェーデンフィンランドラトビア等では、六月二十四日は祝日と定められている。『真夏の夜の夢』はそうした文化的背景をもつ中で生まれた作品である。

 

なお、作中にてアテネの公爵シーシアスが「もうわしらは五月祭の朝のつとめもはたした」と話す場面がある。真夏の夜=六月二十四日という月日との差異が生じるが、ここで着目すべきは「五月祭」という点にある。北欧圏における五月祭こそが「ワルプルギスの夜」(四月三十日〜五月一日)である。 『まどか』におけるワルプルギスの夜、『真夏の夜の夢』にて五月祭という隠喩として示唆されるワルプルギスの夜メンデルスゾーンが『真夏の夜の夢』をベースに劇付随音楽『真夏の夜の夢 Op.61』(一八二七年)を作曲し、一方でゲーテを通して『最初のワルプルギスの夜 Op.60』(一八三三年)もまた作曲していること、これら一連は果たして偶然の事象として重なったものであるとは考えにくい。


これらが次回作に予定されている『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ 〈ワルプルギスの廻天〉』と関連しているかは不明である。しかし、コンセプトムービーにて提示した情報から構成されているのであれば、例えば妖精と呼称されるキャラクターの登場シーンなどで劇付随音楽『真夏の夜の夢 Op.61』よりスケルツォのような楽曲を隠喩として流す可能性は高いと言えるだろう。

メンデルスゾーン:真夏の夜の夢 - スケルツォ Op. 61, No. 1

メンデルスゾーン:真夏の夜の夢 - スケルツォ Op. 61, No. 1

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また、ロシア・ロマン派音楽という点について考えるならば、ラフマニノフにも注目する必要性があるだろう。『まどか』におけるラフマニノフの要素は、ヴァイオリニストの上条が病室にてさやかと一緒に聴く音源として登場する。それは歌曲『ヴォカリーズ』(一九一五年)をダヴィッド・オイストラフが演奏したものである。しかし、これは立ち止まって考えてみると実に不思議な選曲である。ラフマニノフはピアニストだ。管弦楽作品も残しているが、叙情性のあるピアノ楽曲で歴史に名を残した後期ロマン派の作曲家として知られている。そして『ヴォカリーズ』も元々はピアノ付きの歌曲であり、のちにヴァイオリンとピアノとの編曲が作られたという経緯がある。

 

本来であるならば、劇中における上条恭介の音楽的描写においては、ピアニズムの象徴であるラフマニノフではなく、悪魔に魂を売ったヴァイオリニストとして知られるニコロ・パガニーニを参照した方が、キャラクター造形としてはより主題に即していたとも考えられる。パガニーニは19世紀ヨーロッパの聴衆に人間離れした技巧と超自然的な狂気をもって迎えられ、その演奏はしばしば「悪魔的」とすら形容された。そうした文脈において彼の『ヴァイオリン協奏曲第1番』や『24のカプリース』は、才能と呪われた身体性が結びついた音楽表現の典型であり、まさに奇跡の両義性を帯びる。

パガニーニ:24のカプリース Op. 1 - No. 23 in E flat major

パガニーニ:24のカプリース Op. 1 - No. 23 in E flat major

  • イリヤ・カーラー
  • クラシック
  • ¥153
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その意味で、恭介の演奏にパガニーニの主題を仮に引用したとすれば、彼の才能が神の恩寵ではなく呪いにも等しい重荷として物語内に位置づけられただろう。だが、制作側はあえてセルゲイ・ラフマニノフを選んだ。ラフマニノフといえばロシア的憂愁と繊細な叙情性を特徴とするピアニスト作曲家であり、彼の楽曲は技巧の裏に滲む情感の深みこそが魅力とされる。しかし興味深いことに、ラフマニノフには1934年に作曲した《パガニーニの主題による狂詩曲》という代表作が存在し、ここで彼は明確にパガニーニという悪魔的ヴィルトゥオーゾを音楽的に引用・再構成している。すなわち、ラフマニノフという選択はパガニーニ的要素を内包した抑制された悪魔性の象徴とも読めるのだ。

パガニーニの主題による狂詩曲

パガニーニの主題による狂詩曲

  • ジョセフ・ブルヴァ, ブラティスラヴァ放送交響楽団 & ビストリク・レジュハ
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こうした文脈を踏まえたうえで、上条恭介というキャラクターの構造を見直すとき、もうひとつの参照点として浮かび上がるのが、実在の天才ヴァイオリニスト・渡辺茂夫(1954–1993)である。渡辺は幼少期より国内外で注目を集め、13歳にして東京交響楽団チャイコフスキーを共演するなど、早熟の天才として音楽界の未来を約束された存在だった。ヤッシャ・ハイフェッツダヴィッド・オイストラフといった巨匠たちからもその才能を高く評価されるが、異国での生活環境、指導者との関係悪化、そして精神の不調により、渡辺はそのキャリアを自ら断つ形で自殺未遂を図る。命は助かったものの、後遺症により寝たきりとなり、その後は再びヴァイオリンを演奏することなく1993年に没した。

 

渡辺の人生は、才能と引き換えに奪われる身体/運命/自由というテーマを極限まで体現しており、その陰影はフィクションの中にいる上条恭介にも不思議な照射を与える。恭介は劇中でヴァイオリンを失うことによって絶望し、やがて再び演奏できるかもしれないという希望のなかに揺れ動くが、その過程はまさに才能が呪いに変わる臨界点を描き出している。つまり、上条というキャラクターは、ラフマニノフ=感情と技巧の二重構造、パガニーニ=悪魔的天才性、渡辺=現実における才能と喪失の物語、という三者を媒介することで、単なる天才少年ではなく、才能という主題を内面化させた「運命の被造物」として読解可能になる。彼の登場時間が少ないにもかかわらず、作品全体に対して音楽的メタファーとしての深層構造を与えているのは、この複数の参照項を通じた密度の高さによるものである。

 

壮大な音楽が主流となっていったロマン派以降の時代では、ヴァイオリンはオーケストラを構成する楽器のひとつで、演奏家個人の力量に関心が向けられることはあまりない。しかしロマン派以前のモーツァルトハイドンといった古典派音楽がメインだった一八世紀後半から一九世紀初頭の人々は、演奏家個人が曲芸の技術を披露するというスタンスのコンサートに強い関心を抱いた。それまで音楽を鑑賞できたのは貴族など格式高い身分だけであったが、時代の変容により一般市民でもコンサートを主体的に観に行くことが可能となり、嗜好として音楽を楽しめることができるようになっていったのだ。パガニーニの演奏は当時の演奏家のなかでも相当の技巧であり、その唯一無二さから聴衆が感銘を受けるほどのものであったとされており、「個人の演奏」にスポットライトがあてられた時代はたしかに存在したのだ。上条のヴァイオリニストとしての才能を表現するとき、「演奏」の描写が有効であった理由はここにある。


そして、幼心にソリストとしての恭介の姿に感動したさやかだったが、これは「個人の演奏」というよりは「恭介の演奏」に感動したと捉えるのが自然だろう。クラシックの教養を持たないさやかが上条に薦める音源としてパガニーニのような技巧的な音楽ではなく、ラフマニノフを選んだのは、こうした音楽文化の変容により楽器の演奏に対する聴衆の関心が変わっていった歴史的背景が考えられる。一方で、既存のアニメのクラシック音楽の引用との差別化を図りたかったからという見方も可能である。エッセンスとしてはロマン派以前のバロック派/古典主義の音楽を取り込みたいところだが、しかし古典派の音楽をただ流すだけではありふれたアプローチに陥ってしまう。そうした基準で選んだのが、チャイコフスキーの影響を受け、ロマン派時代の作曲家でありながらロマン派以前の形態を導入したラフマニノフなのかもしれない。

標題音楽から魔法少女へ──ベルリオーズワーグナーの幻想が導く『まどか☆マギカ』音楽美学》

標題音楽そのものの概念はバロック音楽のヴィヴァルディの春夏秋冬をモチーフとした『四季』や、ベートーヴェン交響曲第6番『田園』などに代表されるように風景や情景などを主に取り扱っていた。そこにベルリオーズが個人的な体験に基づいた「物語」を入れたことによって、その後の標題音楽における定義が拡張され、後続のワーグナーに繋がる役割を果たした。そしてそのワーグナーのオペラ『ローエングリン』からの強い影響がしばしば指摘される『白鳥の湖』を作曲したのがチャイコフスキーなのである。

 

ワーグナーの楽曲はしばしば「ライトモティーフ」という技法が用いられている。ライトモティーフとは特定のフレーズと、登場人物の心情、感情や場面の変化などを表すアレンジのことを指す。ワーグナー作品で有名なライトモティーフには『ワルキューレの騎行』第三幕がある。あの特徴的なフレーズを聴くだけで、九人の戦士のワルキューレたちのメインテーマを想起することができる。

 

ライトモティーフは音楽的に象徴的な意味合いを持つため、映画音楽の分野においてもしばしば用いられる。『スター・ウォーズ』において打点的に流れるオスティナート作用が用いられたあの音楽を聴くことによって、たとえダース・ベイダーが登場していなくとも、あるいは映画そのものを観ていなくとも自然と帝国軍のイメージが浮かび上がる。

このようなライトモティーフの礎をベルリオーズは『幻想交響曲』にて作った。それはイデー・フィクス(固定観念)と呼称されるもので、楽曲内において明確にシーンを打ち出すときにより強調したメロディが流れる。これが特に顕著なのは第四楽章の『断頭台への行進』と第五楽章『ワルプルギスへの夜の夢』である。第四楽章は断頭台という言葉からギロチンによる処刑のイメージを連想できる。

 

全楽章において物語という要素を加えたことが画期的であった『幻想交響曲』は、中盤までは明るい幻想的な音楽である。それが第四楽章で一転する──聴き手はここで初めて音楽によるグロテスク描写を体験することになるのだ。前半/中盤までは壮大なオーケストレーションで進むが、終盤で緩急をつけたかのようにクラリネットのソロが入る。その後すぐ管弦楽器による強烈なワンフレーズを入れたのちに、ピチカートが挿入される。これはクラリネット=断頭される側であり、断ち切るような管弦楽器の一撃は断頭をする側を表現しており、後に聞こえるピチカートまでもが何を意味するかまで丁寧に描写している。これは『まどか』の第三話でドラマが一転することに近い感覚と言える。第四楽章の「断頭台の行進」というタイトルは、『叛逆の物語』でほむらが断頭台に引かれていく描写そのものである。第五章の『ワルプルギスへの夜の夢』は物語としては魔女たちの宴という描写の章にあたるが、それらの不気味さを表すための音として鐘の音が低音楽器の合間に流れたり、小クラリネットの高い音とピッコロとの兼ね合いのメロディが重なることで演出している。

 


このように『幻想交響曲』では物語の世界観や、ギロチンの描写を音で表現することを可能にした技法こそがイデー・フィクスであり、後にそれをワーグナーがライトモティーフ(示導動機)として置き換えたことで後の映画音楽シーンにおいても使われるようになった。こうした背景を踏まえると、『まどか』における特徴的な音というのは、ベルリオーズに端に発し、ワーグナーの血脈を受け継いだチャイコフスキーの音に見出すことができるだろう。フルートやヴァイオリン、グロッケンシュピールチェレスタが持つ幻想的な可愛らしさは、三大バレエ楽曲を通すことで聴く人に「魔法」をかける。やがてはそういった表現が『まどか』の音楽に繋がるのだ。

 

以上のことから『まどか』はドイツ文学の血を引き、フランス詩学シュルレアリスムの美学を組み合わせたものでもあり、そしてロシア・ロマン派時代の音楽を採用していると言うことができる。ゆえに、現代アニメにおける芸術表現の記念碑的作品なのである。

おわりに

本稿ではシャフト作品における音楽と映像との作用について述べてきた。〈物語〉シリーズではミニマル・ミュージックとシャフトの映像との相互性、『まどか』ではシュルレアリスム的な表現やチャイコフスキーの音楽を中心的に扱って作品論的に論じてきたが、あくまでも主軸は音楽と映像である。

 

唯一の心残りとしては、本来であれば梶浦や、ClariSの楽曲における編曲家の湯浅の音楽性についても述べるつもりではあったが。それらを読み解く部分的な要素は提示できたはずなので、より詳しく知りたいという読者は当論考を参考のひとつにしていただけると幸いである。人間の脳というのは面白いもので普段意識を巡らせていないことや考えてもみなかったことが、ほんの些細なきっかけで見えてくる。当論考の場合、それは『叛逆の物語』の主題歌であるClarisの『カラフル』のイントロにあった。

 

同じく『まどか』の主題歌である『コネクト』や『ルミナス』が同じ型であるのに対して、なぜ『カラフル』のイントロはあの音から始まるのか、という点について考えを巡らせた先に、グロッケンシュピールチェレスタの果たしている役割が同義であるという点に気が付いた。そしてそれらの音色を活用した音楽として同じく魔法がメインモチーフである『ハリー・ポッター』のメインテーマや、チャイコフスキーの『くるみ割り人形』のチェレスタ作用について考えた。そこから濁流のように文学やクラシック音楽との共通項を導き出し、それらがすべて螺旋的に『まどか』の文脈に繋がったことで、当論考を書き上げることができた。

 

また〈物語〉シリーズについてはミニマル・ミュージックに軸足を置いて、映像においてどのような効果を持っているのかという点について考えてきた。これまでそのような具体的かつ、仔細な考察がなされていなかった現状を踏まえると、このような形で寄稿文章の改稿版をブログで発信できたことが、なにかのきっかけのスタートとして機能すれば幸いです。


文章:rino

校閲・推敲 :あにもに(シャフト批評同人誌寄稿版)

サムネイル制作:otaku can change the world

*1:『SPEC』の「波のゆくさき」とほぼ同型

*2:同期言及

*3:本人言及