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Music Synopsis

音楽に思考の補助線を引く

天球と韻律の星図を描くAve Mujica ─Diggy-MO'の介在性、或いは『PTOLEMY』『GOD SONG』『DIVINE』からみる「天球」のMujica

完全無欠超無敵超絶ゴシックアニソンバンドことAve Mujica について語ります。

字数、レイアウト表示の関係上、極力タブレット〜PCでの閲覧をお勧めします。

前置き

このユニットがこの世界に存在していることの素晴らしさは、これまで何度も粒度を変えて書いてきました。そしてMyGO!!!!!(羊宮軸+全員の名前を通した)はすでに語った。CRYCHICもバンド自体はああいう感じですから楽曲を語るより『春日影』ベースにベヘリット的ポジションとして扱う形で作曲家の布陣におけるSUPALOVE/ELEMENTS GARDENの差分込みで語った。

 

であれば当然、このラインでAve Mujicaを「音楽の方向性」からきちんと論じないのは、流石に自分に対して嘘になる。そして公式にはMygo!!!!!とAve MujicaはIPとしての「BanGDream」の中のバンドの一つですが、自分の中では意識的に、企画段階初期における別IPとしての「10人の物語」としての扱いで今は考えて落ち着いており、それすなわち、「分別」して考えていたりするのでそこで距離感とかがかなりあったりするのですがとはいえ、Ave Mujicaに向き合い続ければわかりますが、このバンドとしての存在意義があまりに大きく、ちょっとやそっとの意気込みでは語りきれない。その一方で、バンド「MyGO!!!!!」を語るというのは、何を差し置いても、高松燈/羊宮妃那の歌唱がまず第一にあるという点があまりにも大きいから、正直そこを軸に進めればなんぼでもかけるし、実際に3記事以上それで書いたわけですが、体感としてはそれ以上に「書きがい」があるほど、層としての音楽成分が圧倒的に高い、という事実もある。

 

耳を完全に牛耳られてしまっている以上、真っ正面から向き合わないかぎり、このバンドについては一行たりとも書けない。

 

さらに「アニソン」という枠組みで考えるとき、2020年代における受容のされ方と、2000〜2010年代にかけての「虚構/現実バンド」の系譜がどのように変容し、どう受け止められてきたのかを踏まえると、Ave Mujica はそのどこにもちゃんと収まりきらない。良い意味で特殊であり、良い意味で異常値だ。

こんなバンドが存在していていいのか

と本気で思うレベルの「過剰さ」が、ここにはある。

sai96i.hateblo.jp

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アニソンと「音楽史」の立ち位置

ではまず、その「異常値」をきちんと認知できる足場を共有するために、「境目」の話から始めたい。

個人的には J も K も洋も、すべてはひとまず「音楽」であって、そこにラベルなんて付けなくてもいいじゃないか、と思っている。(切り分けが大事だし、性質が異なることそれ自体は了解している)。何がロックですかみたいな言説に「〜はロック、いやそうでは無い」みたいな声もあれば「英国バンド以外認めません」勢だっている。

だからそういう意味で現実には「国ごとの音楽」「ジャンルごとの音楽」という分類が存在する。J-POPの中でさらに「ポップス」「ロック」「ヒップホップ」などに分かれ、その枝の先に「アニメソング」がぶらさがっている。

問題は、この「アニソン」と「ポップス」の違いが、すでにかなり融解している、という点だ。まず前提として、今はポップスとアニソンの境目がないと言える。


アニメのタイアップ情報を見なくても、「どうせ YOASOBI が起用されているんでしょ?」という空気がある。あるいは Official髭男dism、米津玄師、King Gnu その周辺の面々が、すでにトップレベルの J-POP アーティストとしてアニメと組み、ヒットを連発してきた。アニソンバンドと言われて久しい FLOW や 凛として時雨 といった面々も今や「タイアップ」という戦略の上で J-POP と並列に売られている。そこをあえて揶揄してみせたところで、現状の構造自体はもう変わらない。

 

ここを少し整理すると、今の主流は「J-POP アーティストが戦略的にアニメ主題歌を担当している」のであって、「作品世界側に帰化した存在」になっているケースは実は多くない。極端な例として『チェンソーマン レゼ篇』を挙げるなら、作品の良し悪しとは別に、あり方としては明らかに「アーティスト側で売る」構図になっている。もし作品への帰化性を本気で追求するなら、あのラインナップを上田麗奈の歌唱で閉じる、という選択肢だってあり得たはずだ。だが現実にはそうではない。制作の段階で「宇多田ヒカルありき」で楽曲を組み立てたとパンフレットにもあるように、そこではまず「アーティスト」と作品がセットになっている。

 

作品が先にあり、その中に音楽が溶けるというより、「アーティスト×作品」のパッケージが最初から設計されている、という感触に近い。ここら辺はこの記事の終盤に書いた。もちろん、こうした状況がダメだと言いたいわけではない。ただ、こうなってしまった以上、「どこからどこまでがアニソンか」という線引きは、ほとんど意味をなさなくなりつつある。『ジョジョの奇妙な冒険』のエンディングに YES の『Roundabout』が使われたとき、それをアニソンと呼ぶのかどうか。

Roundabout

Roundabout

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元ネタの繋がりで「アニメ」側に引き込まれた楽曲は、どの時点で「アニソン」と再ラベリングされるのか。そういった思索も、この十数年でかなり共有されてきた。

現在、「これぞアニソンだ」と指名される多くの曲は、すでに名のあるアーティストによって確立された「世界」をもともと持っていて、ときにそれが作品内へと還っていくこともある。だがここ数年のヒットソングの中で、本当の意味で作品内から立ち上がり、作品の側に閉じていった楽曲は、内製スタンスで動くアニプレックス方式、みんな大好き「梶浦由記×Aimer×LiSA/澤野弘之」ラインのような一部を除けば、決して多くはない。

 

Ave Mujica×Diggy-MO' 篇

さて、こうした状況の中で、「Ave Mujica」とはどこに位置づけられる存在なのか。

BUSHIROADのコンテンツ「BanG Dream!」から生まれたバンド群のひとつ、という説明をした瞬間に、「そんな二次元コンテンツを真面目に聴いているのか」と内心で嘲笑する視線が、今でも確かに存在している。これは被害妄想ではなくて、「制作システムの出自が最初からアニソン側に属している」という事実に対する、一種の偏見の表れでもある。だが、まさにその「最初からアニソン側に属している」という点こそが、Ave Mujica の特異性の出発点になっている。BanG Dream! は、声優×キャラ×バンドをワンセットにしたメディアミックスとして設計されており、ライブもゲームもアニメも、すべてが「キャラバンド」であることを前提に動いている。

ここがまず、YOASOBI や米津玄師のような、作品の「外側」から呼び込まれる異邦人型アーティストとは、根本的に違う。むしろ今の時代においては、ここまであからさまに「アニソン側」に軸足を置いたまま成立していること自体が、逆説的に誇っていいポイントになっている。表向きには「アニソンじゃん」と切り捨てられがちなフォーマットでありながら、現実には、流行っている音楽のかなりの部分に、SME (ソニーミュジックエンターテイメント)をはじめとしたレーベルが培ってきた「アニメソング的な売り方」のロジックが浸透している。

そのなかで BanG Dream! は、最初から「アニソン側」の制作システムとして組み上げられ、その内側で Ave Mujica のような異常値を生み出してしまったコンテンツでもある。タイアップとしてアニメに「降りてくる」アーティストではなく、作品世界の中から立ち上がり、そのままポップス側を侵食しうるバンドとして存在していることが、まず何よりも重要だ。

楽曲はすべてキャラバンド=Ave Mujica 名義であり、歌っているのは声優陣で、しかも「キャラクターとして歌う」構造が徹底されている。そのモードのまま、リアルライブでも再現される。つまり IP としての BanG Dream!(ゲーム/アニメ/ライブ)の内部に、Ave Mujica は最初から「完全」に埋め込まれている。

ここだけ抜き取れば、仕組みとしては昔からある「声優コンテンツ」と何も変わらないように見えるかもしれない。キャラソン企画の延長線上にある、いつもの二次元バンドだ、と。

だが問題は、そこで動いている「アーティスト構造」がまったく昔と同じではない、という点にある。Ave Mujica は、フォーマットだけ見ると典型的な声優バンドでありながら、その中身は明らかに常軌を逸した超人たちの集結になっている。ここがまず、このバンドの特異性として押さえておくべきポイントだ。

まずは、作品に倣って役者名を振り返ってみます。

  • 三角初華(ドロリス):佐々木李子
  • 豊川祥子(オブリビオニス):高尾奏音
  • 若葉睦(モーティス):渡瀬結月
  • 八幡海鈴(ティモリス):岡田夢以
  • 祐天寺にゃむ(アモーリス):米澤茜

ここだけ見れば、「ふ〜ん」で終わってしまう。
ぱっと見は、どこにでもありそうなキャラ名とキャスト名の列でしかない。

けれど、この役者たちを「中の人の経歴」で言い換えると、話がまったく変わってくる。

  • 佐々木李子:ミュージカル*1「アニー」出身の声楽ガチ勢
  • 高尾奏音:ミラノ国際ジュニアピアノコンクール最高位 ASSOLUTO
  • 渡瀬悠宇:D4DJ 経由で鍛えられたバンド育成組
  • 岡田夢以:元アイドル/クラブ系パフォーマー
  • 米澤茜:メタル対応のドラマーとして軸が立っている

平均的なメジャーアーティスト1組と並べて見たときに、明らかに編成がおかしい。
「こういう人がひとり混じっていたら十分に強い」というレベルの人材が、全員分そろっている。演者全員が、並々ならぬバックグラウンドを持つ「超過剰な布陣」なのだ。

しかも、それぞれが担当する楽器の編成は

7弦ギター×2、5弦ベース、ツーバス・ドラム、ピアノとオルガンの同時弾き。

(しかも pf の高尾はブラインド弾きや逆さ弾きといったパフォーマンス込みでやってのける)

という有様である。この条件を前提にした時点で、「並レベル」の人間にはそもそも土俵に立てない設計になっている。とはいえ、ここまで読んでもなお、

「でも、作曲や作詞がそこまで凝ってなければ、結局ポテンシャルを活かしきれないのでは?」

と感じる人もいるかもしれない。

問題は、というより、むしろ喜ぶべきなのはAve Mujica では、その「作る側」にまで異常値が配置されていることだ。楽曲の総合統括を担当しているのが、SOUL'd OUT の元MC にして、ソロ以降も異常な言語感覚を武器にしてきた圧倒的なカリスマ性も兼ね備えたDiggy-MO' だという、この一事である。

(嘘みたいな真)

作曲のメインは SUPA LOVE という集団が請け負っているが、リリースを重ねるごとに Diggy-MO' の介在度は明らかに増し、楽曲全体の「Diggy-ism」が増し増しになっていく。そんな状況なのである。

超すごい演者に、超すごい職人が全面的についたらどうなるのか。
本来なら実験としてすら成立しないレベルの構図が、「Ave Mujica」というバンドでは、すでに現実として走ってしまっている。

 

まず「歌詞」について触れておきたい。

Ave Mujica のコンセプトは明確にゴシック性に軸足を置いていて、その内的世界を歌い上げることが前提になっている。そのため歌詞は、ラテン語フレーズや宗教モチーフ、処刑台/革命/記憶といったイメージに満ちており、ほぼすべてが「Ave Mujica」という世界のために書かれている。

ここで重要なのは、Diggy-MO' という J-POP/ヒップホップ寄りの作家を、あくまで作品世界の中へ「召喚」している、という構図だ。彼を「ゲストアーティスト」として外側に据えるのではなく、世界観のコアに据えたからこそ、曲ごとの密度がどれも異常に「濃い」。

音楽ナタリーのインタビューで Diggy は、プロデューサーからのオファー内容として、

・自身のソロ曲『PTOLEMY』や『GOD SONG』に代表されるような
・フィロソフィの強い、アーティスティックな世界観を強く打ち出したい

というコンセプトを示されたと語っている。

natalie.mu

もともとこのコンテンツには明るくなかったので、最初にオファーをいただいたときに、まずはプロデューサーさんからいろいろとお話を聞かせていただいたんです。その中で、それこそ僕のソロの作品の「PTOLEMY」(2017年に発表されたDiggy-MO'の4thアルバム「BEWITCHED」収録曲)や「GOD SONG」(2018年に発表されたDiggy-MO'のベストアルバム「DX - 10th Anniversary All This Time 2008-2018 -」収録曲)に代表されるような、「フィロソフィの強いアーティスティックな世界観を強く打ち出したい」というコンセプトがこのAve Mujicaにはあるというお話をされていて、そのうえで「作詞を担当してほしい」ということだったんですよ。そしてさらに、資料の中にあった中世ヨーロッパやゴシックという世界観も、僕がもともとすごく好きなものだったりしたので、自分の中に脈々とあるいろいろなものを投影できていくのであれば面白いかなと思ったんです。僕自身のパブリックイメージとしては、ラップやストリートカルチャーの印象が強いと思いますけど、僕の実質的な音楽のルーツはピアノやクラシックなので、ラップ系統のアーティスト像だけではない自分の側面とか、歌モノとしての作詞作曲や世界観、自分の持てるスキルなどを最大限に発揮してばっちりやっていくと、このプロジェクトにも楽しく貢献できるかなって。

PTOLEMY

PTOLEMY

GOD SONG

GOD SONG

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さらに中世ヨーロッパやゴシックを軸にした世界観も「もともと自分が好きな領域」だと明言し、そのうえで「ラップだけではない、自分の歌モノの作詞作曲や世界観、クラシック寄りのルーツも含めて、持てるスキルを全部使う場」だと位置づけている。

 

ここで挙がる『PTOLEMY』という曲名が、すでに象徴的だ。プトレマイオス=天動説。Diggy のソロにおける『PTOLEMY』は、天文学的な比喩を借りながら「世界がどう回っているか」を考える曲であり、それに対応するように『GOD SONG』では、その視点を「内側/外側」へと反転させている。

 

・天を回しているのは誰か
・世界はどこから見て回っているように見えるのか

この「天動説/観測者」の構図が、丸ごと Ave Mujica に要求されている。
要は、「『PTOLEMY』/『GOD SONG』級の哲学性と、天文学的な視点移動をバンド/キャラクターの歌に落とし込んでほしい」という注文であり、Diggy 側もそこに明確に応じている、ということだ。

前提として、Diggy-MO' のソロは「誰も歌えない唯一無二の世界」で構築されている。
その「誰にも歌えない」言語構造としてラテン、英語、日本語、造語、比喩、天体、神学を、そのまま Ave Mujica 側の器(超人バンド+キャラ+物語)に流し込んでしまっているのが、今の Ave Mujica の歌詞群だと言っていい。

「フィロソフィの強いアーティスティックな世界観を、そのままキャラバンドに移植する」というこのコンセプト自体が、すでに過剰であり、そこに Diggy の 『PTOLEMY』/『GOD SONG』系の思考回路を要求している時点で、Ave Mujica の言語領域は最初から 「普通のアニソン」ではあり得ない、足り得ない場所に立たされている。

 

そして『黒のバースデイ』(賀佐泰洋 & Diggy-MO’)である。初期の、しかもまだ比較的「抑えめ」と言っていいシングル楽曲からして、すでに色々とぶっ飛んだ音源が出てきてしまっている。

この曲は、いわゆるタイアップ用の「イメージソング」ではない。アニメ化以前、ノンタイの段階で作られた楽曲だ。つまり、アニメ側から「こういうシーン用に」とオーダーを受けた結果としての曲ではなく、まだ「Ave Mujica」という記号が今ほど固まっていなかった時期に、それでもなおこの密度で立ち上がってしまった曲だ、ということになる。ここがまずおかしい。

黒のバースデイ

黒のバースデイ

  • Ave Mujica
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Na, 生々しい艶かしい
mad day 秘密めいた ruler

Loo-la, cool, cool

"ようこそ おいでなさい" 告げる 始まりのとき

ねぇ しなやかなつま先が 'ゆらっ' 描き出すわ
輪舞曲(ロンド)

という流れで、ゴシック/官能/支配/饗宴が一息にたたき込まれる。
普通なら一曲の中で薄めて配置しそうなイメージを、冒頭数行で全部重ねてしまうこの言語圧。さすが Diggy-MO' としか言いようがない。

歌詞の妙という意味では、仕掛け自体は目新しいわけではない。表記上は「輪舞曲」で日本語だが、歌唱では「ロンド」とイタリア語読みすることで、「りんぶきょく」と発音したときには出ない跳ね方と浮遊感を作っている。このあたりはまだ理解可能な範囲のテクニックだろう。

それでも、その手前に置かれた「'ゆらっ'」の区切り方や、子音と母音の配列でニュアンスを揺らす感じは、やはりセンスの塊だと思う。意味と音価の両方を握ったうえで、足先が揺れる情景と、聴き手の知覚そのものを同時に揺らしてくる。

そしてこの「Diggy語」を、佐々木李子にきっちり歌わせてしまう。
前提を踏まえれば、「佐々木李子が歌う」という事実そのものが、とんでもない意味を持っている。クラシカルな声楽基盤を持つミュージカル出身のシンガーが、この言語の塊を、しかも「キャラクターとして」完全に咀嚼し、吐き出しているからだ。

ここで重要なのは、背景にいる Diggy-MO' という存在は、あくまで現実世界側の話であるという点だ。作劇上は、「三角初華=ドロリスが表現している歌」として、すべてが成立していなければならない。設定上は作詞も「キャラクター」が担当していることになっているのだから、現実には Diggy-MO'の言語操作と佐々木李子の声楽的テクニックがフル稼働しているにもかかわらず、表向きのレイヤーでは「ドロリスというキャラクターが歌っている」として耳に届かなければならない。この二重構造を、何事もなかったかのような顔でクリアしている時点で、すでにかなりおかしい。

 

スタートからしてこの調子なので、では、その後はどうなのかという話ではあるが、どんどんおかしくなっていく。『Choir ‘S’ Choir』のイントロなんてほぼほぼ梶浦的多層コーラス重ねである。

Choir ‘S’ Choir

Choir ‘S’ Choir

  • Ave Mujica
  • アニメ
  • ¥255
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Daa-mennus, Daa-menn, Philis-poliaa,
Taa-mennus, Taa-menn, Jealis-Moliaa

Choir Choir, Choir Choir 'S' Choir

並べ方が完全に

・母音を揃えた多声コーラス用の音節
・ラテン風の疑似単語
・意味よりも祈祷感・呪文感を優先した並び

で統一されている。つまり「疑似ラテン×多層コーラス」という意味で、梶浦曲線とほぼ同じ系譜に乗っている。子音単位でもっと分解してみましょう。

「Daa / Taa」ここは母音[a:]を揃えて、mennus / menn みたいに子音を足したり削ったりして、別パートが重ねやすいようにリズムを刻む、そしてPhilis / Jealis でぎりぎりphilia(フィリア=愛) / jealous(ジェラス=嫉妬深い)っぽい意味の残骸を匂わせつつ、poliaa / Moliaa で長母音[a:]をまた伸ばしていく。これらを統合させて意味がギリギリ崩壊しないレベルで単語をバラして、発音しやすい音節に再編成した呪文を発動させている。しかも、そのあとに「Choir Choir, Choir Choir 'S' Choir」と、今度ははっきり意味が分かる英語が乗ってくることで、前半は造語ありきのよく分からない祈祷語=謎のコーラスが、後半になって「Choir」と連呼することで、その祈祷の主体が合唱団であることをメタに宣言させるイントロという構成になっているわけである。

言語はお手のものとはいえ、これは単なる「それっぽい雰囲気」ではない。多声コーラス用の音節設計という、明らかに「そっち側の棚」の技法を持ち出してきているからこそ、「これは Ave Mujica のための書法だ」と納得させられるだけの説得力が生まれている。

 

この調子で『神様、バカ』『Mas?uerade Rhapsody Re?uest』と続いていく時点で、すでに「言語も楽器もおかしい」バンドだということは十分に伝わる。どちらもタイトルからして、神への悪態とマスカレード=仮面舞踏会をねじ曲げたような言葉遊びになっていて、ゴシックと皮肉のブレンド具合がDiggy印そのものだ。

 

神さま、バカ

神さま、バカ

  • Ave Mujica
  • アニメ
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Mas?uerade Rhapsody Re?uest

Mas?uerade Rhapsody Re?uest

  • Ave Mujica
  • アニメ
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そして、初期楽曲群の締めとして置かれているのが『Ave Mujica』である。

Ave Mujica

Ave Mujica

  • Ave Mujica
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この曲、ある意味で実はかなり「救い」になっている。というのも、タイトルが示す通り、バンド「Ave Mujica」がアニメ『MyGO!!!!!』13話において「デビュー曲」として披露する先鋒玉がこの『Ave Mujica』であり、この曲だけは作曲・編曲が Elements Garden上松範康藤永龍太郎)サイド、作詞が織田あすかという、旧来のBanG Dream! 系譜の布陣で書かれているからだ。

つまり流れとしては、ノンタイの段階で「本当の Ave Mujica 成分」をぶっ放した『黒のバースデイ』〜『神さま、バカ』〜『Mas?uerade』〜『素晴らしき世界 でも どこにもない場所』という一連の楽曲で、Diggyism全開の地獄を先に見せておいてから、

「とはいえ、これをアニメ視聴者にいきなり投げつけるのはさすがにぶっ飛ばしすぎだよね」という、どこか冷静なメタ意識が最後の一歩で介入してくる。

 

その結果として、「BanG Dream! らしい」ドラマティックなロックナンバーとして、優しさの残った『Ave Mujica』が上松ラインで書き下ろされ、それが13話で晴れて初披露されるという、わけのわからない周回をしている。

 

・ノンタイ楽曲群

Diggy×SUPA LOVEによる、本来の「技術過剰」ゴシック地獄版の Ave Mujica


・アニメ内デビュー曲『Ave Mujica』

Elements Gardenが担保する、「視聴者に提示するための入口」としての「Ave Mujica」」という二重構造になっているわけで、この時点で「どこまで本気でやるつもりなんだこのバンドは」と軽く眩暈をアニメ『Mygo!!!!!』から追っている人はこれをリアルタイムで経験しているということだ。

振り返った今思えば、あの書き方は、予兆以前に、終わっていないというか、まだ始まってすらいないのだ。この段階での『MyGO!!!!!』世界における Ave Mujica は、あくまでも「仮初め」の姿にすぎない。13話で鳴る『Ave Mujica』は、視聴者に提示するためのプロトタイプであって、本来の怪物形態はまだ封印されたままになっている。

 

では、アニメ『Ave Mujica』では何が起こるのかといきたいところだが、その前に一度だけ「段階」が挟まる。それが、2024年10月ごろに発表されたミニアルバム『ELEMENTS』である。ここで Ave Mujica は、初期シングル群と13話デビュー曲で見せた要素をいったん分解し、再構成するかたちで、さらに一段階上の「進化」を遂げる。

ELEMENTS - EP

ELEMENTS - EP

  • Ave Mujica
  • アニメ
  • ¥917

収録楽曲

・『Symbol I : △』作詞/作曲:Diggy-MO’ & 長谷川大介

・『Symbol II : Air』作詞/作曲:高橋涼 & Diggy-MO’

・『Symbol III : ▽』作詞/作曲:Diggy-MO’ & トミタカズキ

・『Symbol IV : Earth』作詞/作曲:Diggy-MO’ & 長谷川大介

・『Ether』作詞/作曲:Diggy-MO’ & 長谷川大介

タイトルからして「四元素+エーテル」で揃えてあり、作家陣もすべて Diggy-MO’ を軸にした共作で統一されている。この時点で、もはや単なる寄せ集めではなく、「Ave Mujica の世界観そのものを抽象化したコンセプトEP」として設計されていることが分かる。

ここから先のアニメタイアップ楽曲、とりわけDiggy-MO’ & 長谷川大介コンビが手がける『KiLLKiSS』は、アニメ『Ave Mujica』において新しい扉を開ける曲として機能する。ただし、その前段に『Elements』の五曲が揃っているからこそ、これは「Mujica体制」を固めるための強烈な前振りとして、より大きな意味を持つ。

流れとしては、まず初期シングル群で「やばさ」を見せつけ、次に『Ave Mujica』で視聴者向けの入口を用意し、さらに『ELEMENTS』で四元素+エーテルという形で抽象度を一段上げる。そのうえで『KiLLKiSS』へ突入する。ここまでの段階構成それ自体が、すでにバンドの設計思想を語っている。

楽曲的な接続・類似性という観点では、『Alea jacta est』から『KiLLKiSS』へ伸びるラインがいちばんしっくりくる。というのも、『黒のバースデイ』と『KiLLKiSS』はリリック面でかなり同調している一方『ELEMENTS』は Diggy-MO’の解説からも分かる通り、かなり強いコンセプトのもとで固めて作られている。曲調や歌詞世界観まで含め、制作時期の位相は明確に分かれているはずだ。

natalie.mu

 

スタンスは先述の通りで、このミニアルバムでまず構築されているのはコンセプトとしては「火・風・水・土・エーテル」という五元素を軸に、Ave Mujica的な世界観=神話/宗教/ヨーロッパ文明の層を持つ連作ストーリーとして各曲を制作されている。

各エレメントには精霊(火=サラマンドラ、風=シルフのエアリエル、水=ウンディーネ、大地=地母神シアリーズ/デメテル)が対応し、象徴と物語が相互に補強し合う構造。最終章のエーテルで「月より上の領域=真理/光」に触れ、全体を循環と回帰へ還元すると、Diggy-MO'は全体像を俯瞰して制作している。

そしてこれらの要素はどういう時代性で考えられた/練られた世界なのか、という点について思索すると、より「Ave Mujica」における世界観が明確になる。本作に含まれている要素は複雑だが同時に「Ave Mujica」歌詞に潜在する裏打ちの幅広さでもある。幸いにしてDiggy-MO'が自らが解説している記事を自分なり噛み砕いてみる。

 

基本的には西洋秘教がベース。四大元素火・風・水・土の世界観は、エンペドクレスが提唱した「四根(四元素)」が起点。古代ギリシャ(紀元前5世紀)の自然哲学であり、四元素に対応する精霊(サラマンドラ/シルフ/ウンディーネ/ノーム)はパラケルススが16世紀に体系化したルネサンス期の錬金術博物学的オカルトの創造力。

テンペスト』の引用はジャコビアン時代期のシェイクスピアであり、そのまま「風の精霊アリエル」は、テンペスト由来の精霊像+パラケルスス系のエア・エレメンタルとしての機能性が高い。

そして一番組み合わせとして象徴的だなと思うのが、『Symbol III : ▽』。

Symbol III : ▽

Symbol III : ▽

  • Ave Mujica
  • アニメ
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男性性=火(△)と、女性性=水(▽)だから、重ねて六芒星=大宇宙という歌詞はtrack1と2が繋がって3に行くという点で明確な「コンセプト」ありきでそれがバラード調で歌われるからこそまとまりとして機能している。

寄せる 寄せる 寄せる波

私の性の中で

馳せる 馳せる 馳せる夢

微かな音を抱きしめて

揺れる 揺れる 揺れる愛

あなた対極にいて その
炎と重なって

いま 大宇宙になる

つまり上下三角の重ね合わせで六芒星記号論的にも面白い収斂。

 

そして「大宇宙」という語彙は、マクロコスモスと小宇宙=ミクロコスモスと対応関係にあり、その合一や、対立物の結婚という読みはヘルメス主義/錬金術に相当する。

寄せる 寄せる 寄せる波

生の中で

馳せる 馳せる 馳せる夢

微かな音を抱きしめて

揺れる 揺れる 揺れる愛

ああ その命と重なって

いま 大空になる

前項と対極的な歌詞が重なっている。

「私の性の中で」「あなた対極にいて」「炎と重なって」「いま 大宇宙になる」

これは性の合一、対極の統合、「元素」の重なり=結婚を経て、ミクロを突き抜けてマクロ(宇宙秩序)へ跳ね上がる構図。

終盤の「生の中で」「命と重なって」「いま 大空になる」は性→生、対極→重なり→大宇宙→宇宙と関係性になっており、ここでのスケールは個の生/身体/感覚の内側に閉じたミクロよりと言える。マクロからミクロへと構図が浮かび上がる。つまり、これは「上が下に似て、下が上に似る」というマクロコスモス/ミクロコスモス対応の定番ロジックそのもので、エメラルド・タブレット由来の「As above, so below」=「上にあるものは下にあるものと同様である」と合致し、「△(火・男性性)と▽(水・女性性)が重なって六芒星=大宇宙」も同義として機能する。

だからこそ、対立物の合一/男女・火水の結婚=超越的な第三の生というのは、同じ運動を内面スケールと宇宙スケールで反復であり、エメラルドの上下同様というのものが、錬金術・ヘルメス主義そのものである、ということだ。

 

そして、『Ether』だが、これはかなり複合的。

Ether

Ether

  • Ave Mujica
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月より下

冒頭のこの歌詞は一見普通の表現に見えるが、「月下界」や「地上の世界」を意味するアリストテレスの宇宙観。でなければ歌詞として

月より下に時代を創って

月より下に それでも掲げ 闘うのね

という歌詞は打ってこない。「月より下」が地・水・風・火の四元素からなる生成消滅の世界で、「月より上」が不変で円運動する天界で、その媒質が第五元素アイテールという形式が存在する以上、、『Ether』はシリーズ全体の「四元素=月下/エーテル=月上」という設定を、比喩じゃなく用語レベルで打ち出している。

静寂の中でだけ輝く本当の光

でもね 知ってほしい 本当の光を/静寂の中でだけ輝くその光

ここにおける「光」の繰り返しは、月上=不変の真理・光という役割を、物語の語り手にしゃべらせてる部分だから、いい意味であからさま。

一葉の銀河系

これは一葉というのがいわゆる体系化のことで、それの銀河系というのは生命の樹や、セフィロト的。生命の樹は中世ユダヤ神秘主義カバラで成立し、ルネサンス以降の西洋秘教でも「宇宙全体と魂の地図」として受容された図像でアニメでも『エヴァ』とかで散々モチーフになっている、定番。「一葉=一枚の樹葉」+「銀河系=宇宙の全体像」という圧縮具合が、ミクロ(葉)とマクロ(銀河)を同時に立てる作りになってて、これも『Ether』の「総括章」らしさ。

自由になる → 調和が訪れるとき自由の概念も無くなる → 宇宙へ還る

この一連は、四元素側の闘争・生成を超えたところで概念が溶けるという、「一者」へ還元されるという終章の扱い。ここでもやっぱり、ヘルメス主義・錬金術の「対立や区別が最終的に統合され、元の全体へ帰るという意識性が強い。Mujicaの中で一番思想スケールが大きい。星図に載っていない場所=既存の運命からはみ出した領域としてのAve Mujicaみたいな楽曲ですから。

 

ここで、歌詞の解説を多分に書いたのは、世界観の基盤もそうだが、『ELEMENTS』は歌詞も楽曲も秀逸というのは前提としてあるが、歌詞が平面すぎて、含意が多面的すぎるという両義性がある。『PSYCHO-PASS PROVIDECE』(2023年)において、 雑賀譲二先生(cv山路和弘)が作劇のセリフで常守に向かって

正義も真実も多面的だ。上から見なければ理解できないこともある

と、説くシーンがありましたけど、そういった目線を地で描き切っているのが本作のコンセプトアルバムの凄さであり、同時にという意味だ。絶対現場では「万物が〜」「ハクスリーが〜」「シェイクスピアが〜」とかいってる

(まぁあの作品のED『当事者』も歌詞の文節レベルではガッツリこの系譜なんだけど。)

当事者

当事者

  • EGOIST
  • アニメ
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つまり、細かすぎないか?という視座に立てば、それこそ「波/夢/愛/光/静寂/月より下/宇宙へ還る」みたいな言葉は表層では普通に情緒的で歌と成立すが、それだけではない。という意味合いが大きすぎる。「寄せる/馳せる/揺れる」は反復として、まず聴覚的に気持ちいいリズムを作るしDiggy-MO'らしさは浮かび上がるが、でも同時に、反復って儀礼・呪文・祈りの形式でもある。こういった点から、『ELEMENTS』の歌詞は「平面の情緒」と「多面体の象徴」が同居していて、単線で読めない「難しさ」がある。雑賀のこの視点は、そのまま『ELEMENTS』の作り方に重なる。

 

その意味では『素晴らしき世界 でも どこにもない場所』(長谷川大介 & Diggy-MO’)なんかは本当、そのままハクスリー引用だなと思える「優しさ」がある。

すばらしい新世界』では市民が「ソーマ」という薬によって不快な感情を抑え、常に表面的な幸福感を享受している状態=痛みのない、明るく、無難な「偽りの白」みたいな等間隔で伊藤計劃『Harmony』も『虐殺器官』的な痛覚マスキング的な役割を持つ「Watch Me」の性質からそのシステムにおける象徴=白い表紙みたいな。

(大元はシライシユウコ氏のイラスト付きでしたが今流通しているのは真っ白い版)

だからこの楽曲のデザインも「基調が白」みたいな連想があるし、これは成立する。

歌詞でも

唯一のひかりを目指すために壊せ

と、優しい理想や安定をいったん破壊して突き抜ける運動が鳴ってるし、「破壊と創造」がテーマだとされている。

「破壊」と「創造」をテーマにした2曲は、Ave Mujica独自の世界観を存分に表現しつつ、彼女達の楽曲の幅広さを感じさせる2曲になっている。

bang-dream.com

ここで白/黒があるのって、「創造」=白と「破壊」=黒みたいな文意がある。

それは装丁文化から考えても実際言えることで、水戸部功のブックカバーデザインは現在のデザインのスタンダードにもなっているので、「デザイン」としての意識性は高い。そもそもとして白黒の基調のトーンを落ち着かせるという形式自体が、サンデル教授の『これからの「正義」の話をしよう』における水戸部装丁以後、大流行りしたという事実からも、マインド精神としてもここはむしろ正統派。

(こういう表紙を本屋やamazonの表紙でみたら大体本作の水戸部フォロワーです)

 

なによりサンデル教授、伊藤計劃、ハクスリー、オーウェルテッド・チャンは全て、水戸部装丁案件。つまり、ハクスリー/伊藤計劃テッド・チャン/(オーウェルのepi文庫新訳群)といった痛みの消去・制度化された白・反乱としての黒を主題に抱える作品群の視覚が、水戸部功のミニマル装丁へ収斂していくということ。

それを思えば完璧に筋が通る。

そう考えれば、この二種のジャケットってそのまま「水戸部」圏内
素晴らしき世界 でも どこにもない場所

素晴らしき世界 でも どこにもない場所

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音楽的には「高速メタル」と「バラード」の組み立て方と、その配置バランスで型がつく分、では「歌詞」はどこまで詰めているのか?ということが重要になってくる。

 

そういう意味では楽曲の構成は割と簡易的に表現できる。

 

『Symbol I : △』ではガチガチの高速メタルが炸裂し、『Symbol II : Air』ではジャズ要素を含んだピアノがかなり自由に暴れ回る。高尾奏音のテクニックがバチバチに剥き出しになりつつ、ベース/ギター/ドラムも「どう考えてもBanG Dream!の想定スペックを超えているだろ」という領域を何食わぬ顔で踏み越えてくる一曲になっている。

高尾奏音御本人のSNSに「演奏してみた」があがっているが、普通に超人。

淡々とこなしているがその実鍵盤のタッチレベルで芸術的な動きができなければリアクション込みで、ミスなしでこんな鮮やかには弾くのは非常に難しい。普通に高尾奏音女史のレベルの高さがXの動画で味わえるのは豪華だよなぁとか思う。そういう意味でも何度でも関心できる動画です。ASSOLUTOは伊達じゃない。

 

反面、『Symbol III : ▽』はガラリと空気を変える。
ここでは、ミュージカル出身の佐々木李子のボーカルを主軸に据えたバラードが展開され、伴奏もほとんどピアノとボーカルに徹している。「ミュージカル歌手」と「ミラノ国際ジュニアコンクール最高位」の二人だけで成立する空間は、もはやバンドサウンドというより、小規模な舞台芸術の一場面に近い。これがアニメシーンのバンドで成立するとか本当に「信じられない」し「あり得ない」が、「どっこい嘘じゃありません」と一条が突っ込む間もなく「成立」しているのだ。

 

『Symbol I〜III』だけで、Ave Mujica が「爆走メタル」と「声とピアノの芸術空間」という両極を、同じユニットの中で自然に共存させていることが、かなりはっきり見える構成になっている。

このバラード調の一曲があるからこそ、自分は「この二人なら『Cats』の『Memory』が成立してしまう」と本気で思っている。世界観的にも炸裂するやつだ。いまだ公式にカバーはないが、そうであってほしいという願望込みで、可能性としては余裕で射程に入っているし、脳内再生ではとうの昔に400回は聴いた。

もちろんライセンス関係が難しいのは既知の話だ。そこは一旦脇に置くとしても、冷静になって考えてほしい。

この「舞台芸術としてのバラード空間」がユニット内部に実装された瞬間、もう一つの射程が自動的に開く。つまり、Ave Mujica が外部の舞台曲を取り込むとき、その曲は単なるカバーではなく、バンド世界の延長として回収されうる、という地点だ。

第一にプロデュースが Diggy-MO’ であること。彼の詞世界は、ポップの表層を保ったまま西洋的な詩と神話の厚みへ降りていく構造を最初から内蔵している。

 

第二に、ユニット全体の世界観がゴシックとして設計されていること。『ELEMENTS』が提示した「五元素=ヨーロッパ文明・神話・秘教の抽象化」は、その裏打ちをすでに歌詞レベルで明確にしていた。

 

第三に、『Symbol III : ▽』で露わになった「声×ピアノ」のバラード成立性である。高速メタルと同居しながら、舞台の独白に等しい密度の空間が、同じユニットの中で破綻なく成立してしまうという事実がここで証明された。

この三点を前提にすると、グリザベラが歌い上げる『Memory』は、T・S・エリオット由来の詩世界ごと Ave Mujica に取り込める楽曲だとすら言えてしまう。夜、廃墟、過去への執着、自己回想としての独白など、こうしたモチーフは、そもそも「Ave Mujica」側の言語と親和性が高い。そこに「ミュージカル歌手」と「ミラノ最高位ピアニスト」が揃っている時点で、舞台版に肉薄するどころか、ゴシック側へ振り切った異常な『Memory』が、理論上はいくらでも組めてしまうわけである。

要するに、ここで語っているのは自分の願望という「小さい話」ではなく、『ELEMENTS』が抽象化によって作った器と、『Symbol III』が現実に開けてしまった表現モードが、そこで初めて外部の舞台曲を「内部言語として再解釈する」条件を満たしてしまった、という構造の話だ。

こうなってくると『Memory』は「もし歌われたら面白い」ではなく、「このユニットが進化の先で触れてもおかしくない形式」として、必然の側に立って見えてくる。

メモリー

メモリー

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そんな、リスナー側の想像力すら掻き立てる5曲入りミニアルバムの威力を前提として、2025年、年始早々にアニメ版『Ave Mujica』が放映された。そしてオープニングが『KiLLKiSS』である。ミニアルバム『ELEMENTS』で、

・爆走メタル
・ジャズ寄りピアノ暴れ曲
・声とピアノだけの芸術空間バラード

というレンジを一度見せたうえで、その本編開幕の一発目として置かれたのが

Diggy-MO’ & 長谷川大介コンビの『KiLLKiSS』、という流れになる。

KiLLKiSS

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つまり「ここから先が、本当に Ave Mujica が「物語ごと」暴れ出すフェーズですよ」という宣言が、アニメ版のOPそのものに仕込まれていたわけである。

本編の物語そのものも、暴れ馬ぶりはそれはそれは……なのだが、この記事はあくまで音楽の話なのが、ある程度だけ触れておくなら、内容的には原作のスティーヴン・キング的な内閉的空間をバンドものの皮で包み、映像としてはキューブリック版『シャイニング』的なノリと勢いを、『ソードマスターヤマト』ばりのラストスパートで押し切った作品、と言える。

物語の骨組みだけを抜き出せば、

・『Ave Mujica』1話で CRYCHIC 解散の予兆
・『MyGO!!!!!』3話で解散そのもの
・1〜7話で MyGO 結成と崩壊
・8話以降で Ave Mujica 結成と CRYCHIC 問題の回収
・『Ave Mujica』終盤で初華/初音の過去編とクライマックス

となる。

このあたりの整理については、

rino.《論考》音楽×青春×人間関係 ガールズバンドアニメにおける群像劇について 或いは『響け!』から『トラペジウム』に至る病.『ブラインド』vol.3, p.53.

で詳しく書いたものの抄訳である。要するに、「十人のキャラクターによる群像劇」が二つの作品をまたいで展開している構造になっている。『MyGO!!!!!』が「バンドの崩壊と再生」を描いた作品だとすれば、『Ave Mujica』は「仮面とペルソナ」を軸にした心理サスペンスとして、その裏面を引き受けている。本論そのものはすでに同人批評として寄稿済みなので、詳しい話はそちらに譲りたい。

 

さて、『KiLLKiSS』だが、これは初期シングル群と『Elements』で養った要素が、ついに一本に束ねられたアンセム級の一曲になっている。さしづめSireniaに近いというかあっちをもっと過激にしましたというゴシックメタル性分を感じられる音源である。

『Fallen Angel』『All My Dreams』『Winter Land』あたりはばっちり合うと思う。

Fallen Angel

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All My Dreams

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Winter Land

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まずイントロは、アニメ版と歩調を合わせるかたちで「ライブ披露直前の仮面劇パート」が挿入されており、弦が鳴り出すまでに一拍「タメ」がある構成だ。映像付きで観ればそこに必然性が生まれるが、音源だけで聴くと、その前段の寸劇も含めてひとつのトラックに押し込まれているぶん、どうしても説明としては不完全にならざるを得ない。正直に言えば、「track0=仮面劇、track1=KiLLKiSS」という二段構えにしたほうが、Ave Mujica というバンドの方向性まで含めて、より筋の通った提示になっていただろうと思う。1話で一番の最も豪快な見せ方をしているのはこの冒頭のオープニングをライブで披露するという点にあると言える。

BanG Dream! Ave Mujica』.2025年.第一話

この劇中会話の中で、オブリビオニス(豊川祥子)が
「大丈夫、月の光が起こしてくれますわ」
と口にする一言がある。この台詞が、そのまま後の楽曲イントロへ直結する伏線になっている。それが、第10話で紆余曲折の末に「新曲」として披露される『Crucifix X』だ。この曲のイントロが、ベートーヴェンピアノソナタ第14番『月光』第1楽章:Adagioのピアノ演奏から始まるのは、まさに先の「月の光が起こしてくれますわ」という台詞を回収するための仕込みである。

言葉としての「月の光」が、のちに楽曲としての「月光」になって、バンドそのものを叩き起こす。セリフとクラシック引用が一本のラインでつながる、このモチーフ設計がまず異常に良い。

とはいえ、これも曲としては文句なく良いのだが、クラシックメタルとして捉えると、音源面でどうしても軽さが残る。特に電子オルガン系のトーンが前に出ることで、シンフォニック系メタルが持つ本来の分厚い質量感よりも、ひと世代分ライトな手触りになっているのは否定できない。

 

同系列の音楽性でいえば、摩天楼オペラがちょうど比較対象として分かりやすい。アルバム『GILIA』収録の「Plastic cell」などは、2分前後からピアノで「月光」フレーズを解釈込みで引用しているが、あちらは作法としてきちんとピアノ主体でやり切っているぶん、クラシックメタルとしての説得力が明らかに高い。

Plastic cell

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ベートーヴェンの「月光」を呼び出すのであれば、本来はああいう(電子ピアノであったとしても)ピアノで地面ごと鳴らすアプローチの方がしっくりくるし、その比較で見たときに Ave Mujica 側の音色設計は、どうしても物足りなさが顔を出してしまうのが『Crucifix X』の惜しい一点である。イントロだからこそ余計にだ。それ以外はものすごくいいのに、導入部だけがオルガンというのは、やっぱり損をしている気がしてならない。理屈をいったん脇に置いても、正直ここは電子ピアノで弾いてくれた方がまだしっくり来る。というか、他のパートでは明確にピアノで演奏しているところもあるので、意図的な使い分けをしているからこそ、余計に気になってしまうところではある。

 

そして、EDの『Georgette Me, Georgette You』である。この楽曲は前半独唱とピチカート弦が粒に広がり、メインメロディを高尾のピアノで攻めつつ、1m20sから全体の楽器(ドラム、ベース、ギター)が乗り込みつつ、でも核は「高尾のピアノ」を失わない。

Georgette Me, Georgette You

Georgette Me, Georgette You

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以後のバラード系含め、Ave Mujicaの佐々木李子の歌声・高尾ピアノフォーカスの組み合わせは本作の組み合わせのDiggy-MO’ & 松坂康司で固定される。続く『Imprisoned XII』は、アコースティックギターとピアノで静かに幕を開ける。ここでも布陣は、佐々木李子のボーカルと高尾奏音のピアノという、先ほどの二人の組み合わせだ。サウンド面だけを見れば、Diggy-MO' が手がけた Ave Mujica の楽曲群の中でも、かなり「おとなしい」部類に入る。

Imprisoned XII

Imprisoned XII

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だが、その分だけ歌詞には重たいものが託されている。タイトルからして「Imprisoned=囚われた」であることが示す通り、この曲の中心にあるのは、解放ではなく「閉じ込め」の感情だ。

楽曲の歌詞を一部抜粋する。

 ねじれた空を描いて思うの 羽根のない君 堕ちればいい

触れてしまった神聖なもの 今夜 私の神話になって

ほら 逃げられないわ 弱っていく君 閉じ込めて

 

You know... you know... you know...
so, you know i want you to know how much i need you so

これらのフレーズを束ねて読むと、『Imprisoned XII』が歌っているのは、物理的な牢獄ではなく、情動そのものが作り出す檻だというのがよく分かる。

ねじれた空を見上げながら、「羽根のない君は堕ちればいい」と想像する視線には、守護ではなく「加害」の欲望が含まれている。そこに続く「神聖なものに触れてしまった」瞬間は、本来は侵してはいけない領域に手を伸ばしてしまったことへの自覚だが、それを「今夜、私の神話になって」と言い換えることで、相手の聖性を丸ごと私物化する方向へひっくり返している。さらに「弱っていく君を閉じ込めて」「逃げられない」と続くことで、その聖性を傷つけ、弱らせたうえで、自分の物語のなかへ監禁しようとする意志がはっきりと示される。

英語パートで繰り返される「You know...」のフレーズも、「どれだけあなたを必要としているか、あなたに知ってほしい」という「依存」の告白でありながら、その響きはむしろ「必要としているからこそ逃さない」という、一種の共依存的な執着の言い換えになっている。そして当然これらはDiggy-MO' のマインド(劇中レイヤーでは三角初華が祥子に向ける情動)として、「牢獄/縛り/解放」を一続きの感情として描こうとしているのは明らかだ。

 

タイトルの『Imprisoned XII』のうち、「Imprisoned」がこの精神的な監禁状態そのものを指しているとすれば、「XII」はその枠を数字レベルでもう一段階強調するマーカーとして働いている、と読むことができる。単に「12曲目だから」的な即物的な考えよりも

・12という数字が持つ周期性(12ヶ月、12時間、十二星座、十二使徒
・タロットで XII が「吊るされた男(The Hanged Man)」=動けないまま世界を反転して見るカードであること

といった連想を踏まえると、「終わらない周期のなかに吊されたまま動けない感情」「解放ではなく、ねじれた悟りとしての停滞」といったニュアンスがここに集約されている、と考えても不自然ではないし、むしろAve Mujicaの世界としてオープニング映像にカードにキャラを当てはめている方向性を考えるとむしろ妥当と言える。

つまりこの曲は、Ave Mujica 全体の「救われないゴシック性」の中でも、特に

・ねじれた感情による「自発的な監禁」であり
・神聖なものを自分の神話に回収してしまう暴力性であり
・それでもなお「あなたを必要としている」と告白せざるを得ない依存である

こうしたいちばんストレートなかたちで歌っている位置付けの楽曲として読むことができ、そのうえで「XII」というナンバリングが、元の世界に戻れないまま、一段ずれた位置で宙吊りになっている感情の「番号札」として機能している。本楽曲はこのような「歌詞」の解釈/考察性に富んだ楽曲として本作は受け止めることができる。

 

そして、アニメ『Ave Mujica』13話「Per aspera ad astra.」では、Ave Mujica 名義の新曲が三曲、初めて観客の前に姿を現す。

ストリーミング配信が即日解禁ではなかったことも含めて、ここで行われているのは「リリース」ではなく、あくまで物語空間での「披露」「宣言」としての初演だと言っていい。今でこそ配信で秒で聴けますけど、当時の待たせ具合のもどかしさといったら辛いわけですよ。

だって「Ave Mujica」の新曲3曲分ですよ?精神がもたない

後ろ二曲の組み合わせはそれぞれ初だが、この三曲が、ノンタイ期と『ELEMENTS』で仕込まれてきた「怪物バンド」としての Ave Mujica像を、ようやくアニメ本編の前面に引きずり出す役目を担ったことは、最終回まで見届けた視聴者なら誰しも実感したはずだ。(というか内一曲はそれ明確に打ち出している)

それぞれの楽曲は単体でも成立しているのに、13話仕様ではあえて幕間の演劇込みで「連結させて」披露されたからこそ、その破壊力はそれ以前のライブシーンとも根本から次元が違っていた。音楽的に。

 

ラウドロックな曲調に加えて歌詞が完全にDiggy-MO'のそれに近い。元々という話ではあるが、そういう意味で違和感なくAve Mujica楽曲に取り入れた楽曲はこの3本といっていいだろう。『八芒星ダンス』では

八芒星ダンス

八芒星ダンス

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make it hot アクロバティック・キスで運命の啓示に火を点けて

無い 成さない style 災い じゃ従わない

哀 嘲笑い yea’p, till i die

buddy, alright?

yes ya gonna jump
yes ya gonna jump 突き抜けてく

という具合に、日本語/英語/スラング/擬音をすべて「跳躍」のイメージに束ねてしまう書法が、そのまま炸裂している。

・「make it hot」「アクロバティック・キス」「運命の啓示」までを、一息で接続してしまう過剰さや、「無い 成さない style 災い じゃ従わない」で、否定語とスタイルをほぼ韻の塊として扱う手つき「yea’p, till i die」「buddy, alright?」のあたりで急にストリート感のある呼びかけに変調し、最後に「yes ya gonna jump」を反復させて、音節そのものをジャンプ台として扱う。

こういう組み立て方は、SOUL'd OUT 〜ソロ期の Diggy の言語感覚とほぼ地続きだ。

にもかかわらず、トータルではちゃんと「初華=ドロリス/祥子=オブリビオニス」が観客を引きずり上げるための煽りとして成立していて、Diggy 個人の楽曲ではなく、Ave Mujica のパフォーマンスに見える。ここでようやく、バンドの側が Diggy-MO' の言語を完全に自分たちの血肉にしてしまった段階に達していることが、歌詞レベルではっきり可視化される。

 

呼応性として彼のソロアルバム『Diggyism』の楽曲『FIRE WOO FOO FOO (feat. LiSA)』(ソロ作でもかなりレベル高い一曲でもあります)の歌詞を例として引き合いにする。

FIRE WOO FOO FOO (feat. LiSA)

FIRE WOO FOO FOO (feat. LiSA)

ギリギリの振り切りで
収まってねぇぜ
Drastic proportion もそう

内面すらキバツさらけ出す欲求の下 舌足らずの Baby

Hey yeah girl, stay with me

It's plain to see you know やり切りの体で

お前の Sadness ぶっちゃけりゃどうだっていいぜ

No time to waste ってもう

(Yo) Posing, posing subliminal

張本人 強靭 Mental で Go!

 

『八芒星ダンス』では「make it hot」みたいな一発の英語フレーズ+「アクロバティック・キス」「運命の啓示」みたいな過剰な名詞ブロック「yea’p, till i die」「buddy, alright?」「yes ya gonna jump」のコールアウト。

 

一方で、『FIRE WOO FOO FOO (feat. LiSA)』では「ギリギリの振り切りで」「収まってねぇぜ」の自己ブースト+「Drastic proportion」「Sadness」とかの英単語を、文法ガチガチじゃなく「パンチのある名詞」として配置+「No time to waste」「Go!」で、そのまま突っ込む。

Diggy-MO'の言語感覚は後で詳しく掘るとして、この時点で「相当」濃度が高い。「Diggy語がここまでストレートに美少女アニメバンドへ翻訳される未来なんて、いったい誰が真面目に想像していただろうか。

 

そうでありながらも『八芒星ダンス』は世界像としては、『ELEMENTS』での『Symbol III : ▽』で組んでいた元素(対立)→合一(六芒星)→循環と還元(Ether)、つまり核に到達しているからこそ、八芒星は、その秩序がもう一回転して「再生/新しい循環/次の世界」を開く鍵として機能させている。

 

合一の瞬間=完成の図形、からの完成の先で、新しく回り始める世界のエンジン。『ELEMENTS』が宇宙論の提示と統合だとすれば、八芒星ダンスは「その宇宙論を現実(アニメ/バンドのドラマ)で再起動する儀礼の歌となる。だから13話の最初の1曲目はこの楽曲となっている。構図としては天球の幾何学。Ave Mujicaの儀式性を、そのまま星図の回転していて、八芒星=星型多角形=軌道といこと。

Diggy-MO’が Elements で六芒星=大宇宙の到達点を一度描いたあと、アニメ本編の局面で「八芒星=再生と循環の更新」を掲げた曲に進むのは、作家の語彙の使い方としても、シリーズの段階構成としても、かなり筋が通った楽曲であることも、含意である。この楽曲だけ例外的に、『ELEMENTS』の続編であることを忘れてはいけない。

 

そしてMujica楽曲の中でも人気の高い楽曲『顔』。

顔

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これはベースで始まるイントロもそうですが、まず最初に佐々木李子の「舌打ち」が音へと転化されるところからはじまる。これもどう考えてもDiggy-MO'くらいしか発想として持ち得ないスタンスである事の表れだ。歌詞も、読めても歌えない現象度で言えばトップレベルの詩性を帯びている。冒頭を引用します。

事を/事を拗らせてる
の/せてるの

アルレッキーノ コルセットを調整してよ

ちょいと顎上げたりして 鏡の私

同じに見える違う顔

化粧映え 誰 double 化け charmin' チェーミン チューミン

まず/が入る時点でおかしいし、読めても楽曲に載せて歌い上げることが難しいことが音読レベルでわかる。元々楽曲と合致しているからこそなのだが、「のせてるの」を「の/せてるの」で分けるという母音/子音単位で歌詞を操作し楽曲に対して流動的に載せるのはそう簡単ではない。文字列としては同じ言葉をスラッシュで分解し、意味をずらしながら重ねる手つきそのものが、歌詞にある「同じに見える違う顔」という曲の主題とシンクロしている。

主題は、本楽曲の英題が『Alter Ego』なのからもわかるように、「もう一人の自分」である。三角初華と三角初音がいて、どっちがどちらなのか、という設定そのものを楽曲に翻訳した一曲。ボカロオタク向けにざっくり言えば、kemu の『拝啓、ドッペルゲンガー』系統の曲だと思ってもらっていい(超古い/純度90% kemu 楽曲)。
Mujica は知っているけれど kemu を知らない人も多いと思うので、この際「堀江晶太」という四文字は一度脳に書き込んでおいてほしい。


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閑話休題

 

そしてアニメ『Ave Mujica』を締めくくる楽曲こそが『天球(そら)の Música』だ。これは個人的には、Diggy-MO' の本音が最もストレートに表に出ているテーマ曲だと感じている。

前提として、そもそも三角初華というキャラクターの風貌や役割が、現実世界の Diggy-MO' をなぞっているのではないか、という指摘は、Diggy/SOUL'd OUT 周辺のファンからも相当数挙がっている。ここは正直、かなり意識していると見ていいだろう。

 

ただ、それは「見た目」だけの話ではない。マインドの側でも、この曲まで来ると「Mujica 楽曲=Diggy-MO' の精神を本当に継承した曲」と言い切ってしまっていいくらい、思想レベルで接続が見えてくる。これは以前「春日影論」の終盤でも一部触れた点だが、「天球」という単語と「Música(音楽)」という単語をわざわざ組み合わせている時点で、単純な「天文学モチーフ×音楽」という話では終わらない。ここにはもう少し深い層の文脈が折り畳まれている。

 

第一に、ボエティウスが絡んでいる。誰だそれ、という人も多いと思うので雑にまとめると、6世紀のローマ世界で活動した学者であり、アリストテレスをはじめとしたギリシア哲学をラテン世界に橋渡しした人物のひとりだ。そのボエティウスが著した『音楽教程(De institutione musica)』は、半音/全音といった概念の整理も含め、いわば「西洋音楽理論の古典的教科書」のひとつとして扱われてきた。

 

ここでボエティウスは、音楽を次の三つに分けて定義している。

・宇宙の音楽(musica mundana)
・人間の音楽(musica humana)
・道具の音楽(musica instrumentalis)

本来の意味合いをざっくり訳すなら、

・musica mundana=天体の運行や四季の循環のような「宇宙の調和としての音楽」
・musica humana=身体と魂のバランスとしての「人間そのものの調和」
・musica instrumentalis=実際に楽器や声として聴こえる「演奏される音楽」

 

といったところだろう。かなり乱暴に現代的な喩えに置き換えるなら、アーティストを聴くときに「世界観で聴く」「構造で聴く(コード・進行)」「歌詞やサウンドで聴く(共感型)」といった複数の層がある、というイメージに近い。ただし、あくまでこれはアナロジー的解釈であり、元の概念そのものとは当然ずれている。

 

いずれにせよ重要なのは、「宇宙の音楽(musica mundana)」という発想が、そもそも天文学と音楽が地続きだった6世紀の時代の産物だという点にある。ボエティウスと、のちのコペルニクス『天球の回転について(De revolutionibus orbium coelestium)』のあいだには、「天球」という共通の語彙が共有されている。そして、その土台を与えたのがプトレマイオスアルマゲスト』であり、すなわち「天動説」の宇宙像である。

 

つまり流れとしては、

プトレマイオスが『アルマゲスト』で天動説的な天球モデルを数学的に固め
ボエティウスが、その「天球の調和」を含みmusica mundana という概念を立ち上げ
・千年近く後に、コペルニクスが『天球の回転について』で、その前提ごと回転させる

この3段階を踏んでいるということだ。

 

ここで Diggy-MO' に戻ると、彼のソロ曲『PTOLEMY』は名前からしプトレマイオスそのものだし、歌詞の中で「アルマゲスト」という語を持ち出しつつ、「丸(マル)の内側から世界を見ている視点」から語っている。つまり、「天球の内側に閉じ込められた観測者」としての感覚が強い曲になっている。

 

あしたなら神 アルマゲスター

みてみたいな マルの外側から

あしたには神 アルマゲスター

してみたい 夢みたいんだ yellin'

PTOLEMY PTOLEMY
PTOLEMY PTOLEMY

PTOLEMY PTOLEMY
PTOLEMY PTOLEMY

PTOLEMY PTOLEMY
PTOLEMY PTOLEMY

PTOLEMY PTOLEMY
PTOLEMY PTOLEMY

 

ここにおける解釈はアルマゲストプトレマイオスが記述した天球モデルであり、「みていみたいな マルの外側から」というのは内側から見た側の視点=天動説である。

また、『PTOLEMY』 のMVで印象的なのは、背中に「in」と「out」とスプレーで書かれたオレンジのジャケットを着た二人の男性が、巨大な地下空間の中で延々と絡み合うように踊り続ける構図だ。歌唱もDiggy-MO'が時々映るが、基本的には、「in/out のペアが無観客の円環空間で拮抗運動を続ける」という一点だけが、異様なまでに執拗に描かれている。これは「天球の内側から世界を見ている観測者」という曲のテーマを、そのまま身体レベルの記号に落とし込んだイメージだと言えるだろう。

 

内と外、主体と世界、天球の内側に閉じ込められた視点と、その外側へ出ようとする衝動が、二人のダンサーとして分裂し、押し合い・絡み合い・ぐるぐると回転する振付として可視化されている。面白いのは、「in」と「out」の文字が同時にはほとんど画面に収まらず、カメラワークや回転のタイミングによって、視聴者は断片的にそれを読み取るしかない点である。観測者は常にどちらか片方の立場からしか世界を見られず、「内側から見ている」という天動説的な視点そのものが、すでにループ=閉じた系の一部に組み込まれている。

 

その閉じた円環を、二人の身体がぶつかり合いながらなぞり続けるMVは、『PTOLEMY』という楽曲が抱えている「天球の内/外」をめぐるテーマを、極端なまでに単純化した「図解」として機能している。

 

一方、『GOD SONG』では、「here i come as the GOD SONG」や「0 が 1 になる」といったラインを通して、明らかに「外側から世界のルールを書き換える声」として歌っている。

雷鳴 ga-ga, va-va, bang ya 轟く ya 動く

動く 新世界うごめく change ya hey ya, ya all

誰かが探していた story must be told

産声を上げる in this chaos hey, gya-gya, oh,

天 裂ける そう 聞こえる yes, yes, i can

君に聞こえない "that" and

見える i can, can 見えるよ全部 君に見えない "it"

そして "0" が "1" になる 見せてあげる

here i come

here i come as the GOD SONG

yes, here i come

here i come as the GOD SONG

『PTOLEMY』の「あしたなら神」に呼応するように「here i come as the GOD SONG(神々の歌として、ここに参る)」や「0が1になる 見せてあげる」といった歌詞からもわかるように『GOD SONG』はアンサー楽曲として成立している。

また楽曲内で何度も繰り返される歌詞群を分解すると

loopin' loopin' got this all this on it
loopin' what you want in
with it at times what you want in / keep at bay what you want in

・「loopin'~got this all this on it」=「ループがすべてを背負って回っている」
・「loopin' what you want in」=「そのループの中に、望むものを流し込め」
・「with it at times what you want in / keep at bay what you want in」=「ときに欲するものを抱え込み、ときに欲するものすら押しとどめる」

という意味合いが浮かび上がる。ここで歌われているのは、ループ構造そのものに「何を流し込むか/何を遮断するか」という権限を持つ存在のフレーズだ。

『PTOLEMY』が天動説的な「内側の眼差し」を歌っているとすれば、『GOD SONG』はその外側に立つことで、視点の転倒そのものを歌にしたアンサー曲として捉えられる。

ここでMVの振り子/ニュートンのゆりかごが決定的に効いてくる。振り子の等時性はガリレオに連なる時間・周期の発見であり、ニュートンのゆりかごは運動量保存や力学を最短距離で可視化する装置だ。球が一定の周期で往復し、外から手を加えない限り同じパターンだけを反復する姿は、「世界はまずループ=周期運動として出来ている」という科学的宇宙像そのものに重なる。その上に『GOD SONG』の「ループに何を入れるか/何を締め出すか」という言葉が乗ることで、主体はガリレオ的な「揺れの法則を見つけた観測」から、ニュートン的に「その法則を扱い再配列できる者」へとスライドする。

 

そして歌詞では「0が1になる」「ループに何を流し込むか」という歌唱に映像では、振り子(=周期運動)と球の衝突(=0→1→0→1の離散イベント)でそれを可視化するという構造もあり、これらは

・周期運動そのもの=ループ
・どの球をどの強さでぶつけるか=ループに流し込む情報
・伝わらず止まる球=「keep at bay what you want in」

として『GOD SONG』の全体像を表している。

要するに Diggy のソロワークの中ではすでに、

  • 天球の内側にいる視点(『PTOLEMY』)
  • 天球の外側から介入する視点(『GOD SONG』)

というペアが完成していて、後者は振り子=ガリレオニュートン的モチーフで「ループと規則の再設計」を身体化している。だから『天球(そら)の Música』というタイトルは、プトレマイオス的天球とボエティウス的宇宙音楽を踏まえつつ、なおかつその外側へ出る声まで含めた二重の意味を、最初から内蔵していたのである。

それがDiggy-MO'が意図的であるというのもMVに隠されている。それは『PTOLEMY』のMVカットが中盤の「loopin' loopin' got this all this on it」で一瞬だけ切り替わる。

ここの映像が「一瞬」回想みたいに侵入してくるのは、「この曲はあの曲の外側からの返答として立っている」という制作レベルの自己注釈でもある。そしてそれは映像作家からも裏打ちができる。

『PTOLEMY』を監督した映像作家、富永省吾氏は自身のサイトにて以下のようにコメントをしている。

シルク・ド・ソレイユにも出演し、海外を中心に活動するパフォーマンスチームをフィーチャーし、複雑な楽曲コンセプトと合わせたミュージックビデオを監督。

身体が複雑に絡み合う完全オリジナルの振付のもと、国籍を超えたノンバーバルな精神世界を想像させる。

shogotominaga.com

 

このコメント自体は「GOD SONG側の引用意図」まで断言するものではないが、少なくとも『PTOLEMY』が「概念を身体で図解するMV」として作られていることは制作サイドの認識と一致しており、『GOD SONG』がそこを引用するというのは、意図的であるという読みは強くなる。そして、その『GOD SONG』も富永省吾MV作品であるということ、これら全てが、噛み合う。

shogotominaga.com

つまり、映像監督サイドの認識としても『PTOLEMY』は「精神世界を身体で図解するMV」であり、そのイメージを『GOD SONG』側で再引用している、という読みは決して無理筋ではない。

 

『GOD SONG』のMVの映像の流れとしては基本的こういう形で進む。

『GOD SONG』のMVは、ニュートンのゆりかご・周期運動のミニマルな可視化としての「ループ」を、白い実験室みたいな場で「法則」として置いている。だから黒の衣装をしたDiggy-MO'と白い実験質というコントラストが効いた空間で進む。その空間がいきなり、色温度も空間も一気に暗転し『PTOLEMY』へ飛ぶ。

これは編集上、「ループという抽象を、いちど身体化されたループ(PTOLEMY)へ接地させてから、また神視点のループ制御へ戻す」ための接点として機能している。

これは、言い換えると、『GOD SONG』の語り手=Diggy-MO'が「ループの外側に立つ者」であることを誇示するその刹那に、映像は逆に「内側のループの記憶」をチラ見せして、両者が一本の円環に貫かれているということを視覚的に証明してる。だららそこに「内と外が一曲で往復する」必要性がある。

 

「外側から来た神の歌」が「内側の地下円環」を一瞬だけフラッシュバックすることで、外側は無根拠な超越じゃなく、内側のループを引き受けたうえでしか成立しないことを踏まえると、先述のように「loop」がすべてを背負って回っているというラインに、映像が「背負われる側のループ」を重ねに来てるという構造と合致する。そのため、歌詞とMVが相互注釈になってるタイプの表現であると言える。

www.billboard-japan.com

以上の条件を踏まえた上で、『DX』の本人のインタビューを振り返る

--続いて今回のベスト盤のDISC1に収録された新曲「GOD SONG」についてですが、ストリングスをおもしろく使ったアプローチなど、先ほどのサントラの話を聞いて合点がいくサウンドでした。制作はいつ頃から?

Diggy-MO’:歌詞のテーマは、「PTOLEMY」(DISC1収録)と同時期に出てきた感じだったけど、形に起こし始めたのは去年からかな。

Diggy-MO'自身が「GOD SONG の構想・核は『PTOLEMY』の時期に芽生えていた」という趣旨を語っている。つまり両曲が同一の思考圏から生まれた「対」であることが示されている。これら自体はDiggy-MO'の愛好者の中では親しまれている事実であり何も新しい発見、というわけではない。

また、『DX』の特典のメルマガ「帽子の中身」を一冊にまとめたものの中で、『GOD SONG』についてはこのようにコメントしている。

見えないものが見える、聴こえないものが聴こえる。感覚が研ぎ澄まされて過敏になることで、いいように変化するものもあるし、一方メルトダウンしていくものもあるけど、結局ループの中にいる。自分も時代もそうだよね。一つの大きなマルがあって、その中にいる目線から見たアングルが『PTOLEMY』で、マルの外側からが『GOD SONG』です。

「帽子の中身」.P152

Diggy-MO'本人の口から出た言葉と付き合わせると、

感覚が研ぎ澄まされて過敏になることで、いいように変化するものもあるし、一方メルトダウンしていくものもあるけど

この部分は、『PTOLEMY』の内側視点の身体的コストを言語化に等しい。つまり内側にいるからこそ鋭敏になり、鋭敏になるからこそ壊れもするという、ループ内部のドラマの言い回し。

結局ループの中にいる。自分も時代もそうだよね

ここは両曲の共有地点。『GOD SONG』はループ(周期運動/反復法則)そのものを「外側から扱う」歌だけど、外側に立ったから無限に自由、ではなく、扱っている対象がそもそもループだということを忘れてない。一方『PTOLEMY』は、まさに「ループの中に閉じ込められている感覚」をゼロ距離で鳴らす。内と外で距離は違うけど、「ループが世界の基本形」という認識は同じということ。

一つの大きなマルがあって、その中にいる目線から見たアングルが『PTOLEMY』で、マルの外側からが『GOD SONG』です。

『PTOLEMY』において、「マルの外側から見たい」という欲望を歌詞として歌っており、内側の観測者であることを自己規定している。

 

これらの流れを踏まえたうえで、『天球(そら)の Música』というタイトルを改めて見てみると、そこに込められた情報量の多層性が見えてくる。

 

「天球」という語でプトレマイオス的な宇宙像とボエティウスの「musica mundana」 を踏まえつつ、「Música」という語で「音楽そのもの」であると同時に、「musica instrumentalis」側も含めてしまう。さらにルビで「そら」と振ることで、天文学的な「sphere」と、物語世界としての「空/宙」を重ねている。

 

 

だからこそ、プトレマイオス〜Diggy-MO'、そして「Ave Mujica」までという思想体系が貫通しているのだ。そのうえで、ではこの曲の歌詞そのものは何を歌っているのか?

ここから先は、『天球(そら)の Música』の歌詞を、読み解いていこう。

ゆこう 明日へと / 美しい時代(とき)よ
人は忘れてく
いつかは消えてく

これの視点は完全に「musica humana」側=身体と記憶をもった人間の時間軸。
忘れる/消えていく/崩れていくのは「天球」じゃなくてあくまで、人間の方であると説いている。

想いを綴るようになったのは なぜ

ここでいたって、「なぜ書くのか?」と自問してる。有限な存在=人間が、自分の時間を「超えるもの」に接続しようとして「綴る」=書く/歌う、という行為が出ている。
これは、「人間の内なる調和(musica humana)」において、自分の外へ音として出ていこうとしてる瞬間の一節として読めるし成立する。

Let's sing along let's sing along
張り裂ける 心 奏でて

ここで、は張り裂けながら「心」を奏でて「歌う」という意味であり

巡り逢うノイズの中 魂の overdrive

ここは演奏における「ノイズ」や、そのノイズの中の overdriveディストーションかけた魂という語彙が展開されるため、「楽器の音」「ライブの音」の話である。つまりど真ん中で「musica instrumentalis」における領域の話をしている。

 

ここまではテキストと三文法を突き合わせると「そうとも読める」という解釈の最良の回答に近いにとどまるが、終盤の以下一節が破壊的に合致する。

もしもこの詩が天球(そら)に夢のつづきを描くのなら

ここにおける「詩」とは、「人間」が綴った「テキスト」と「歌」であることから、これらは、humana+instrumentalisであり、「天球に夢のつづきを描く」=その詩を、「musica mundana=宇宙の調和」側の層にまで投げてしまうということ。

つまりここで主張していることは大事で、

「有限な人間の歌(humana+instrumentalis)を、もし天球=musica mundana のに「届かせて」まで「書き込める」ならという意味

そしてここで、再度『PTOLEMY』を振り返ってみるとあの時のDiggy-MO'は歌詞煮込めていたのはアルマゲストを「丸の内側」から眺めていた観測者でした。それが本楽曲では「丸の表面(=天球)」に詩を書き込もうとしている、という転換が起きている。状態がまるっきりひっくり返っているのです。

その上で畳み掛けるように

ゆこう Ave Mujica(世界) へと

これは本当に、Diggy-MO'の「魂」と「愛」と「宣言」ですよ。字面としては「Ave Mujica」でもルビとして「世界」ってことは、「世界=Ave Mujica」って自分で言っちゃってる。つまり、プトレマイオスボエティウスが「天球」と呼んでいたものを、
この曲では「世界=Ave Mujica」として再定義するところにまで至っている。

プトレマイオスが「天球(丸)」のモデルを作り
ボエティウスがその球の調和を「musica mundana」と呼び
・Diggy が『PTOLEMY』で「丸の内側からそれを見たい」と歌い
・『GOD SONG』で「世界のルールを書き換える声」へ移行し

・「天球=世界」を「Ave Mujica」というバンド/物語/音楽圏に書き換えた楽曲

それが『天球(そら)の Música』なのだ。数世紀単位における音楽史をDiggy-MO'は「Ave Mujica」という存在に託したという構図になっているのだ。

 

Diggy 的な「内側・外側問題」と繋げるともっと多層的で、個人的な哲学生が強い部分もある

光と闇を司るその命
きっと すべてに物語がある

ここは、両面(光と闇)も命であり、そこには「物語」がある。という主張の歌詞だ。両面=命というのは視点としてはちょっと神視点に寄っている。しかし

こんなに誰かを想うのは 鳴呼 なぜ
光と闇を抱いたまま 胸焦がし

と、今度は「光と闇」を「抱いたまま」胸を焦がしている。つまり、「物語」があるという神の目線から、「光と闇」を抱えて燃えている個人へと目線がシフトしている。そしてその構図は完全に『PTOLEMY』と『GOD SONG』を一曲に落とし込んでいるということになる。つまり、天球側(大きな調和)の視点と、人間側(胸が焦げている個人)の視点を彼は何度も行き来しているということだ。

「すべてに物語がある」という一文は、musica mundanaの調和を「ストーリー」として読み替えている感じでもあるし、逆に言えば、「個々の物語が集積したものが、天球としての世界(Ave Mujica)になる」というような読解も可能だ。

 

まとめると、『天球(そら)の Música』とは「人間が忘れ、消えていくことを知りながら、詩と音楽を天球=世界(Ave Mujica)側に書き込もうとする歌」である。

系譜的に変化するならば

という縦線はかなり濃厚。

 

つまるところ、Diggy-MO'がBanGDreamのプロジェクトに参加オファーを受けたきっかけの二曲が『PTOLEMY』『GOD SONG』であり、それが「天球の内側から見たい/外から書き換える」視点という構図をすでに遂行した後にそれを全部ひっくるめて「Ave Mujica=世界」という器に継承するという再演以上のことをバンド「Ave Mujica」で描いたということ。天球=世界=Ave Mujicaであると。

 

少しだけ原初的な話になるが、ここで言う天球/musica mundana の「型」は、ボエティウスが体系化した時点で突然生まれたものではない。むしろピュタゴラス以来の調和観が、プラトン宇宙論の中で増幅され、以後くり返し呼び出されてきた反復史の産物である。

ティマイオス』が示すように、コスモスは数学的比例と調和として構成されるという発想が、宇宙と音楽を同じ秩序の二つの顔として結びつけた。今でこそ「数」と「音楽」は分離されていますが、当時の価値観としてはこのふたつは結ぶ文化圏似合った、という前提ありきであり、それで言えば『国家』『饗宴』がしっかりと現世に読まれつつけているのは当時:現在で共有されるべき価値観がどこかしらある一方で、『ティマイオス』がそれらと比べて読み継がれるという目線でみると知られいない以上に、共有知としてのあり方が変わったからこそとも言える。

こうした「今や」の思想史的状況を、ボエティウスは六世紀の時点で一度整理し直したと見る方が実態に近い。

彼の仕事とは、この巨大な伝統を「musica mundana / musica humana / musica instrumentalis」という三分法に畳み込み、それを中世ラテン世界における標準語彙として流通させたこと、その再整理の仕方そのものにこそ意味がある、ということだ。

この三分法は、のちの西洋音楽論と宇宙論の想像力を長く支配し、結果として、いま語っている「Ave Mujica」の世界観にも直結する文脈をかたちづくっている。

だからDiggy-MO’の射程の基盤にあるのは、ボエティウスという「教科書」である以前に、ピュタゴラスという「原器」そのものだと言える。

「万物は数である」が指し示すのは、世界のあり方それ自体を数として捉える視線であり、とりわけ音楽世界に対して決定的な影響を与えてきた思考のかたちである。まず、コスモス全体を「音楽的比例」で構成される秩序として理論化したプラトンらの仕事があり、それをボエティウスが一冊の教科書にまとめ上げて、中世ヨーロッパの標準宇宙観+音楽観へと引き上げる、という形に落ち着く。

 

そのうえで、最終的にグイド・ダレッツォが、musica instrumentalis のレベルで「では人間が実際に歌えるようにしよう」というかたちで、ut–re–mi–fa–sol–la という階名唱(ドレミファソラシの原型)や四線譜を提案し、それを『ミクロロゴス(音楽小論)』としてまとめる。現在の西洋音楽の基盤の多くは、おおよそこの一連の成立史に収束していく。

 

え、ではなんで今、五線譜なのか?答えは簡単。「四線譜じゃ無理」という現実があったからだ。ごく実務的な事情に突き動かされた結果である。四線譜は、単声のグレゴリオ聖歌のような、比較的狭い音域には十分対応できた。でも十三世紀以降、ヨーロッパ音楽はポリフォニー化していきます。そうすると声部が上下に大きく動くようになっていく。そこで「もう少し縦にマス目を増やさないと書けないし、読めない」という発想に至るわけですが、だからといって六線・七線まで増やすと、今度は譜面の視認性が落ちる。結果として、多声の複雑さを支えつつ、なおかつ読みやすさもぎりぎり守れる落としどころとして、五線譜が十四〜十五世紀のあいだに標準として定着し、今に至る。それこそAve Mujicaの音源考えれば五線譜じゃないとみたいなメタ読みもできる。

 

話を戻すと、「ピュタゴラス」に始まり「ボエティウス」を経て、その後のケプラーらに至るまで、一種の概念体としての「天球」を軸にした神学・音楽・科学の体系化は途切れずに続いていく。ここで問題になっているのは、「ピュタゴラス以後の天球」の解釈を、神学者・音楽家・科学者たちがいかように受け止めてきたのか、という思考の系譜そのものだ。

 

そして特徴的なのは、現代の感覚からするとほとんど信じがたいのだが、「全部をひとつの枠組みで考える」という発想があの時代には普通に稼働していた、という点である。数学・物理・音楽・宗教がバラバラに分解された時代に生きている自分たちからすると、歴史を紐解いて「ああ、こういう時代もあったんだ」と驚くしかない。音楽=数=宇宙=徳という考えが「普通」で動いていたのが、ピュタゴラスプラトンボエティウスの時代の日常感覚。

弦の長さの比が音程になる、という考え方は、数比が「聴覚的な調和」として現れることを意味する。同じ数比が天球の運動にも表れている、というのが「天球の音楽」であり、その秩序と調和をまねて音楽を作れば、人間の魂にも秩序と調和が宿る、という発想が「音楽神秘数」の背後にある。三分法ですら、現代の感覚で言い換えれば、

  • musica mundana=宇宙論
  • musica humana=人間論/心理学
  • musica instrumentalis=音楽学

と分解されてしまうだろう。「音楽は音楽でしょ?」という現代側のカテゴリ分けのほうが、むしろ西洋音楽の歴史から見れば「嘘だろ」と言いたくなるくらいの縦割りである。数は数理、音楽は芸術、宇宙は物理、神秘は宗教かオカルト。

だから授業では

歌いましょう

・鑑賞しましょう(バイアスかかりまくった『アマデウス』とか)

音楽史の「名前と年号」を覚えましょう

になる。音楽の授業が面白くないのは、分断後だけ見せられてるからとも言える。それなりの理由はある。制度的には分断後の方が効率いいし、実際そうなんだけど、補助線として「正しい/間違ってる」じゃなくて、「おもろい/つまらん」で引いて評価するなら、分断前の方が圧倒的におもろい世界。

 

数学/倫理/宇宙論/宗教が、ぜんぶ「音楽」に集約してた側ですから。

 

こうした分断された「当たり前」の側から眺めると、「天球の音楽」や「万物は数」といった言葉は、どうしても「はいはい神秘主義ね」ってなるのが当たり前なんです。

Ave Mujica は、そういう意味で「本当の意味で音楽をやっている」ユニットだと言える。ここで鳴っているのは、単なる楽曲やキャラソンではない。天球や星図といったモチーフを入口にしながら、宇宙観(musica mundana)、キャラクターの倫理と感情のドラマ(musica humana)、そして実際に耳に届くトラックと歌唱(musica instrumentalis)を、一つの枠組みの中で駆動させている。

かつて音楽=数=宇宙=徳がワンセットだった時代の感覚を、Diggy-MO’のテーマ性を持ち込んで、二十一世紀のポップカルチャーにもう一度立ち上げてしまっている、という意味で、Ave Mujica は「分断前の音楽」の再演をやっているのだ。

でも、だからこそ、そういった分断以前を一冊にまとめた書籍も存在しています。

『天球の音楽: 歴史の中の科学・音楽・神秘思想』(1998年) 

 

提案にはなるが、ここで読者の皆さんに一つ協力していただきたい。

復刊ドットコムに1票投票をお願いします。自分のアカウント名で既にコメント理由も投下済みなので、あとはMujicaファンの皆様が体系的に当記事を裏打ちとして理解するための一助としても、資料としても活用できる「声」を届けていただければと思います。

www.fukkan.com

www.hakuyo-sha.co.jp

導線として自分も復刊を望むコメントを書きました。

それはそれとして、これらの体系がある中で、忘れていけないが、これらはすべて作中の登場人物や物語の行末に置かれた楽曲であるということだ。

 

それにもかかわらず、ここまで来ると、キャラクターという媒介を通じて Diggy-MO' が己の哲学を徹底的に集約している、過剰なまでに「プロデューサーとしての集大成」的なスタンスが立ち上がってくる。

 

だからこの楽曲は最後に来るし、ぶっちゃけ「Ave Mujica」は一旦ここで終わっている。物語的にも、Diggy-MO' がプロデュースする意味としても、ここでひと区切りがついている。BanG Dream! という枠組みの中で、最大級の思想と卓越した言語魔法を持つ表現者 Diggy-MO' という一人のカリスマを用い、その超越的なスケールを「ひとつのバンドプロジェクト」に流し込んだ。

その乖離ぶりも含めて、とてもじゃないがリスナー側は生半可な受容態度では受け止めきれない。それこそこそ、musica mundanaとして響いてくる。

(『Completeness』で他曲との質感が異なっているのもこうした「面」で考えれば意図的と捉えれれる)

だからこそ、『黒のバースデイ』から『天球(そら)の Música』に至るまでの楽曲群は、サウンド、思想、歌詞、それぞれのレベルで総合芸術としての進化を遂げた成果であり、それを 2023〜2025 年というわずか二年でやりきった「大プロジェクト」であったと言える。こうして眺め直すと、1st アルバムなのにタイトルが『Completeness』なのは、単に『KiLLKiSS』の歌詞からの引用「だけ」ではないことが見えてくしなんなら、『KiLLKiSS』にも物騒ながら

You bleed, yes, bleed
その血で 天(そら)の五線譜を書き換えれば

と、天体と音楽記譜法が直結している一曲でもあったりするわけです。

 

Completeness

Completeness

  • Ave Mujica
  • アニメ
  • ¥1681

むしろ Diggy-MO' にとっては、ここまでがひとつの円環として「完璧に閉じた」と見るほうが自然である。

この項の長文で展開した核となるアイデアは5月にポストしたこれが萌芽

では、燃え尽きた後の「Ave Mujica」はどうなるのか。

ここで浮かび上がるのは、単なる商業的な継続・不継続の話ではなく、「虚構バンド」としての存在性そのものの問題だ。実はこの問いには、すでに先例が存在する。
アニメーションとキャラクターを媒介として「虚構のバンド」を立ち上げ、そのまま現実世界の音楽シーンに実在化させたプロジェクトたちだ。世界規模で言えば Gorillaz、日本のオタク文化圏で言えば EGOIST が、その代表例になる。

 

Gorillazはコンセプトバンドとして始まりながら、20年以上にわたって「キャラクターの時間」と「ミュージシャンの時間」をずらし続けてきた。EGOIST は『ギルティクラウン』『PSYCHO-PASS』という物語世界から生まれたユニットでありながら、作品が終わったあともryo(supercell)とChelly の音楽ユニットとしてしばらく現実側に残り続けた。

どちらも、「物語が終わったあと、虚構バンドはどこに居場所を見つけるのか」という問題を、一度は引き受けているプロジェクトである。

 

虚構バンドと2020年代の音楽

ではここで一度、虚構バンド(架空アーティスト)について振り返ってみる。

まずこの手のアーティストスタイルを定着させた功績としては外せない前例として、岩井俊二×小林武史という組み合わせに寄って生まれた二つの先行例が挙げられる。

スワロウテイル』(1996年)から生まれたバンド「YEN TOWN BAND

リリイ・シュシュのすべて』(2001年)から生まれた歌姫「Lily Chou-Chou

YEN TOWN BAND

YEN TOWN BANDは映画の主人公・グリコ(演:Chara)がボーカルをつとめる「架空の無国籍バンド」として設定されているが、制作側としては、小林武史プロデュース+Charaボーカルのコンセプト・プロジェクトとして成立だ。

ここで重要なのは、「物語の中のバンド」がそのまま現実の J-pop シーンに顔を出し、ヒットチャートの一角を占めてしまったという事実である。

90年代の日本のポップス史を引きで眺めると、しばしば「2TK(小室哲哉小林武史)の時代」と総括されるように、この二人がチャートの空気を大きく規定していた。YEN TOWN BAND の代表曲「Swallowtail Butterfly 〜あいのうた〜」が、オリコンチャートで31位から1位へと逆噴射するように浮上したのも、映画主題歌である以前に「小林武史がフロントに出てきたポップ・ソング」として、当時のリスナーの耳に届いていたからだろう。

つまりここで起きているのは、「物語世界の中に存在する雑多なバンド名義」が、いつのまにか日本ポップス産業の一等地にまで滑り込んでしまう、という現象である。

フィクションの側で立ち上げたはずのアーティスト像が、現実の音楽産業へと浸食していくその意味で、YEN TOWN BAND は「虚構から現実への影響の転化」を象徴する最初期のケースとして位置づけられる。ここで起きているのは物語世界の雑多なバンドとしての名義が日本ポップス産業の一等地にまで滑り込むという、虚構からの現実への影響の転化だと言える。

 

Lily Chou-Chou

そして、同じ岩井俊二×小林武史の組み合わせが、より「一人のカリスマ」に焦点を当てたかたちで結実したのが『リリイ・シュシュのすべて』だ。中学生たちが崇拝する謎めいた歌姫「Lily Chou-Chou」の存在感は、この作品全体の空気を決定づけている。

もともと Lily Chou-Chou は、岩井が立ち上げた BBS小説企画「Lilyholic」の中で形作られた架空のアーティストであり、映画公開前からネット小説の連載と楽曲リリースが並走していた、という珍しい経緯をもつ。ただし、その実態の構造は YEN TOWN BAND とほぼ同じだ。

 ・音楽プロデュース:小林武史
 ・ボーカル:当時無名だったSalyu
 ・コンセプト/歌詞の一部:岩井俊二

という布陣であり、その延長線上で作られたサウンドトラック『呼吸』も、現在では小林武史のキャリアを語るうえで欠かせない仕事として位置づけられている。映画と音楽がほぼ一体化した「カルト的名盤」としての評価に加え、Salyu、および岩井×小林ラインのその後のキャリアに与えた影響はきわめて大きい。

Kokyuu

Kokyuu

実際、このラインからはアルバム『TERMINAL』が生まれ、そこに収録された「to U(Salyu ver.)」では、作詞を Mr.Children櫻井和寿が担っている。どちらも小林武史プロデュース圏の人間であり、ある意味では『リリイ・シュシュのすべて』という組み合わせがなければ、この接続自体も起こり得なかったと言ってしまってよいだろう。

to U (Salyu ver.)

to U (Salyu ver.)

  • provided courtesy of iTunes

この楽曲は、作詞がミスチルの櫻井という迂遠の上に成立しているが、どちらも小林武史のプロデュースの側の人間であり、その意味で『リリイ・シュシュのすべて』の組み合わせがなければ成立しないとさえ言える。

何より重要なのは、映画の中ではほとんど姿を見せない「神話的な歌姫」として存在していた Lily Chou-Chou が、現実世界では Salyu の声と小林武史サウンドによって、しっかりとした実体を持つ音楽プロジェクトとして立ち上がり、そのままメインストリームでの名曲誕生を後押しする存在にまでなってしまった、という点だ。「物語の中で立ち上がった音楽が、現実の音楽史そのものを書き換えていく』というモデルが成立している。

 

そして、小林武史×岩井俊二の「歌ありき」の相乗効果は、2023年の『キリエのうた』でも同じように発揮されている。アイナ・ジ・エンドを、劇中では「Kyrie」というアーティストとして、アコースティックギター1本を背負いながら内面世界を歌い続ける存在として描き出しつつ、現実側では Björk のデビューアルバムと同じタイトル『DEBUT』を「Kyrie」名義でリリースする。

DEBUT

DEBUT

  • Kyrie
  • J-Pop
  • ¥2444

さらにサウンドトラックは別枠で『「キリエのうた」オリジナル・サウンドトラック ~路花~』として小林武史主導で制作されている。

ここまで来ると、

1996年『スワロウテイル』の YEN TOWN BAND

2001年『リリイ・シュシュのすべて』の Lily Chou-Chou

2023年『キリエのうた』の Kyrie

という流れで、「映画の中で生まれた架空アーティストが、現実の音楽史に痕跡を刻んでいく」というモデルが、日本のポップカルチャーの中で反復されてきたことがよくわかる。

この虚構アーティスト→現実侵食というモデルは、日本映画だけのものではない。たとえば21世紀ポップカルチャーで最も有名な例のひとつが Gorillazである。

 

Gorillaz

Gorillaz は、ブラーのデーモン・アルバーンと『タンク・ガール』の共同作者ジェイミー・ヒューレットが1998年に立ち上げたイギリスのバーチャルバンドである。メンバーは 2-D、Murdoc Niccals、Noodle、Russel Hobbs の4人だが、全員がアニメーションとしてのみ「実在」するキャラクターだ。一言で言えば、世界スケールで「虚構バンド」というテンプレートを定着させた象徴的存在であり、最初から最後までバンド側が虚構である点が、他の事例と決定的に異なっている。

音楽面のコアはあくまでデーモン・アルバーンであり、彼はブラーとは別名義で、ヒップホップ/ダブ/エレクトロ/ワールドミュージックなどを自在に混ぜるための「覆面プロジェクト」として Gorillaz を機能させている。すなわち、現実の作り手が自分の表現のために虚構バンドを発明したケースであり、物語作品の内部から派生したプロジェクトではない。この点こそ、日本で語られる「架空アーティスト」との大きな相違と言えるだろう。

 

それでもなお、売上スケールは世界クラスだ。1st アルバム『Gorillaz』(2001年)は全世界で700万枚以上を売り上げ、「世界で最も成功したバーチャルバンド」としてギネス世界記録に認定された。デビュー以降のアルバム総売上も1600万枚以上に達しており、「虚構バンド」に徹したプロジェクトが、そのままこの領域の象徴になったという事実こそが、この記録の意味するところだろう。

 

www.guinnessworldrecords.com

そして何より重要なのは、PV/ウェブ/インタビュー/ツアーに至るまで徹底して「キャラクターとしてふるまう」トランスメディア戦略をやりきった点にある。その成果として、のちのバーチャル/キャラクター系音楽プロジェクト、とりわけVocaloid 文化やK/DA、そしてVTuber楽曲プロジェクトに至るまで、しばしば「Gorillaz 的」と形容される土台が出来上がったと言える。

 

Kalafina

Kalafina は、作曲家・梶浦由記がプロデュースする女性ボーカルユニットであり、その出発点は奈須きのこ原作の伝奇小説『空の境界』のアニメ映画版である。劇場版7作の主題歌と挿入歌を一括して任され、「奈須きのこ的伝奇世界」をまるごと音楽として翻訳するためのプロジェクトユニットとして結成された。のちに『storia』サビでナレーションが印象的でお馴染みの『歴史秘話ヒストリア』など一般向け番組のテーマ曲でも広く知られるようになるが、原点はあくまで一つの物語世界の映像化に寄り添うための「世界観ボーカルユニット」であり、その意味で前節までに見てきた YEN TOWN BANDLily Chou-Chou から EGOIST に続く系譜ときわめて近い地点に立っている。

storia

storia

  • provided courtesy of iTunes

梶浦の現在のスタイルは、『.hack//SIGN』期の『Key of the twilight』『Fake Wings』(2002年)あたりまで遡ることができる。

key of the twilight

key of the twilight

fake wings

fake wings

  • provided courtesy of iTunes

いま我々が「これぞ梶浦」と呼んでいる成分は、Enya『Orinoco Flow』『Only Time』のようなエスニック/ケルトニューエイジの系譜を受け止めつつ、それを自前のポップス構造に統合したところから立ち上がっている。

Orinoco Flow

Orinoco Flow

Only Time

Only Time

  • エンヤ
  • ポップ
  • ¥255
  • provided courtesy of iTunes

そして『open your heart』(2003年)以後、多重コーラスと分厚いハーモニーを前景化することで、いわゆる「梶浦節」が決定的なかたちを取る。

open your heart

open your heart

この「梶浦節」がアニメ作品の中で一個の完成形として立ち上がった最初の地点が、新房昭之監督作『コゼットの肖像』(2003年)だと言える。

FictionJunction のフロントに貝田由里子を据えることで、その第一形態が最大化された楽曲が『the main theme of Petite Cossette』であり、主題歌としての雛形は同作エンディング曲『宝石』においてすでに明瞭なかたちをとっている。

さらに『魔法少女まどか☆マギカ』におけるコーラス楽曲の極致という意味では、笠原由里(現・新南田ゆり)を起用しオペラ的な聖域まで踏み込んだ楽曲群『moonflower』『in a beautiful morning of May』が存在する。個人的には『regret』あたりに、劇伴と歌曲の中間的な梶浦節がよく出ていると思う。

 

ここまでを踏まえると、『空の境界』や Kalafinaで展開されるスタンスは、その手前の段階ですでにほぼ完成しきっており、「あとはどの物語世界のために、どんなユニットという器を用意するか」というフェーズに入っていた、とすら言えてしまう。

こうした条件がすべて揃った「その後」のタイミングで、2007年に「一つの世界観のために結成されたユニット」として Kalafina が立ち上がったという事実は、結果論として見てもあまりに出来すぎた巡り合わせである。その「梶浦節」の象徴こそ、物語世界そのものを包み込むように配置された多重コーラスとメロディラインであり、Kalafina はそれを最もわかりやすいかたちで可視化したプロジェクトだったと言える。

 

こうした経緯と系譜のうえに成立しているのが Kalafina だが、『空の境界』以後も、その軌跡はじわじわと「梶浦世界」の拡張史になっていく。梶浦自身は主に ufotable 作品の準専属作曲家的なポジションを取り、『Fate/Zero』を軸に『Fate/stay night [Unlimited Blade Works]』『ソードアートオンライン』『クビキリサイクル 青色サヴァンと戯言遣い』などの主題歌・劇伴関係を立て続けに手がけていく。一方で、NHK の番組案件にも楽曲提供を行い、そのサウンドが「梶浦由記の音楽」として一般層にまで強く刻み込まれていく。

if you leave

if you leave

luminous sword

luminous sword

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その結果として、受け手側からすると「空の境界のためのユニット」という原点を必ずしも意識していなくとも、「Kalafina というアーティスト」を独立した存在として受容できる地点に到達したことは非常に大きい。世界観特化のプロジェクトとして出発したユニットが、メディア露出と作品横断のタイアップを重ねることで、「梶浦節」の看板そのものを背負う存在にまで拡大した稀有なアーティストである。その意味で Kalafina は、「一作品」の世界観専用に組まれたボーカルユニットが、そのまま現実側で自立したアーティストになるという、日本発の虚構バンド系譜のひとつの完成形だと言っていいだろう。

 

K/DA

海外の事例となったときに、先述した特にK/DAは以後の在り方として象徴的である。「League of Legends(LoL)がつくった、ゲームとK-POPVTuber文化をごちゃ混ぜにした虚構ガールズバンドという多面的メディア性の上で成立している。

歌唱もきちんと現実側のボーカリストに割り振られている。

Ahri(アーリ)= Miyeon((G)I-DLE)
Akali(アカリ)= Soyeon((G)I-DLE)
Evelynn(イブリン)= Madison Beer
Kai’Sa(カイ=サ)= Jaira Burns

 

「世界観」の面から見ると、K/DAはLoL 本編の世界の中にある「別ユニバース」で活動する架空のアイドルグループとして設定されている。つまり、各キャラクターは LoL 本編での役割と、K/DA 世界でのステージ上のポジションという、二重のアイデンティティを担っている。なによりK/DAはKills / Deaths / Assistsを想起させるアーティスト名。

2018年に公開され、一世を風靡したデビュー曲 『POP/STARS』 の MV を実際に見れば、その「ゲーム×K-POP×バーチャルアイドル」が一体化した手つきはすぐに明白になる。

 

POP/STARS (feat. Jaira Burns & League of Legends Music)

POP/STARS (feat. Jaira Burns & League of Legends Music)

  • K/DA, マディソン・ビアー & i-dle
  • K-Pop
  • ¥255
  • provided courtesy of iTunes

www.youtube.com

EGOIST/ボーカロイド文化の想像力としての『WIM』『BRS』

そして日本で「虚構バンド」を圧倒的かつ革新的に更新した存在こそ、EGOISTである。2010年代と共に生きた読者であれば説明不要かもしれないが、『ギルティクラウン』に登場する架空バンド=歌姫「楪いのり」を起点にしたユニットだ。そこから先は、とりわけノイタミナ枠のアニメ作品を軸に数多くの主題歌を担い、2010年代における「虚構性バンド」の象徴にまでなっていく。

このユニットの成り立ちは、「歌・美少女・戦闘」という三つの要素を束ねるという意味で、『マクロス』、つまりは菅野よう子以後のイメージとも地続きに見える。ただ、「虚構バンド」としての現在性という観点では、そこで一線をはっきり越えている。

原義としての「設定」/「現実」の制作体制を並べると、その構造はより明瞭になる。

フィクション世界(『ギルティクラウン』側)

楪いのり(キャラクター)がフロントに立つ人気歌手/バンド=EGOIST

制作現場(現実の側)

・ryo(supercell)と、当時新人だった chelly による制作ユニット=EGOIST

 

この二重構造によって、「キャラクターと実在の歌手が合体した存在」という形態が生まれている。ここには、Gorillaz とはまったく別方向の虚構性がある。むしろ系譜としては YEN TOWN BANDLily Chou-Chou → EGOIST と並べる方が腑に落ちる。「架空アーティストを現実に持ち出す」という日本独自のラインの延長上に、EGOIST が位置しているからだ。

つまり、日本における「架空アーティストを現実に召喚する」系譜の源流は、小林武史×岩井俊二ラインにあり、そこにアニメという虚構性の強いメディア(『マクロス』『空の境界』の系譜)が重なり、さらにネット文化=ボーカロイド以後の地平が加算されることで、ようやく EGOIST というあり方が可能になった、と言える。

実際、楽曲のほぼすべてを手がけた ryo(supercell)と、キャラクターデザイン/ジャケットを担った redjuice(shiru)は、ともに「ボーカロイド」文化から現れた作り手であり、その原点は 2008年の『ワールドイズマイン』にある。この段階で「初音ミク」というバーチャルシンガーが「お姫様」をテーマにしたアンセムとして機能し、ニコニコ動画発の「虚構歌姫」的な初期衝動がすでに形になっていた。

ブラック★ロックシューターという現象-hukeを繋いで生まれた『STEINS;GATE

そして「ボーカロイド」の世界から生まれた架空アーティスト、という意味では、同じく ryo の『ブラック★ロックシューター』も、多角的なメディア展開を遂げたプロジェクトとして象徴的だ。

 

この楽曲の制作経路はこうだ。まず、イラストレーターの huke が「ブラック★ロックシューター」という一枚絵を公開し、そのヴィジュアルに触発された ryo が楽曲『ブラック★ロックシューター』を制作、動画サイト上で話題をさらう。

www.pixiv.net

 

その後、『ブラック★ロックシューター』は 2009年のOVA化、2012年のTVアニメ化、2022年の『ブラック★★ロックシューター DAWN FALL』へと続くまで、一貫してメディアミックスの素材として拡張されていく。ここまでくると、単なる「1曲のヒット」ではなく、キャラクターと楽曲がセットになった「虚構歌姫プロジェクト」として成立していることがわかる。初音ミクがそうであるように、ブラック★ロックシューターもまた、今では公式な「設定」を与えられたキャラクターであり、その意味で「虚構歌姫」としての性質をはっきり帯びるようになる。

 

さらに、この現象に株式会社 5pb. が目をつけ、とあるゲームのキャラクターデザインとして huke に白羽の矢が立つ。インタビューではこう語られている。

──そのキャラクターデザインをされたのはイラストレーターのhukeさんですが、今回が初めての依頼ですよね

松原 最初の設定資料を見た段階で、陰謀が関わってくるタイムトラベル物ということで、これは普通のギャルゲーじゃないぞという感じを受けたんです。前作『CHAOS;HEAD』では、ホラーなんだけどあえてギャルゲーな見た目にすることでギャップを狙ったんですが、そことも差をつけたかったですし、なにより今回は絵柄を普通のギャルゲーにしちゃうとつまらないなと思いました。それで面白い絵を描く人はいないかなとネットやコミケで足を使って探していたんですが、その頃ちょうど『ブラック★ロックシューター』に火がつき始めた頃で、志倉にこの人の絵柄が面白いから頼んでみようという話をしてコンタクトしたわけです。今ではもうhukeさんの絵柄なしでは考えられないですね。  

news.mynavi.jp

そう、ご存知『STEINS;GATE』である。「『ブラック★ロックシューター』に火がつき始めた頃」とわざわざ記されているように、huke の絵柄そのもの「だけ」でなく、それをブームへと押し上げた ryo の『ブラック★ロックシューター』という楽曲と、その周辺の盛り上がりまで含めて「次の作品」の素材として見込まれていたことがわかる。

・バーチャルなキャラクター(ブラック★ロックシューター)

・ボカロ曲としての歴史的ヒット(『メルト』『WIM』『恋は戦争』の連続性)

OVA/TVアニメ/新作アニメと連なるメディアミックス

・その成功から『STEINS;GATE』という別作品のキャラデザへと繋がる回路

といった多面的な「ブラック★ロックシューター」であり、「虚構的歌姫」の典型例のひとつだ。そして、その背後には常に「動画サイトでのヒット曲としての ryo」がいる。この構図こそが、EGOISTの成り立ちと地続きにある。

そう思えばこそ、経緯はどうであれryo(supercell)×redjuiceもWIM組以上に、supercellという集団に任せてみようという意味合いがある。でなければ「ネットで人気EGOIST」という設定をわざわざ張本人立ちにオファーするはずがないのだから。

当初はあくまで「ギルクラ専用バンド」としての存在だったが、作品内での楽曲ヒットをきっかけに、EGOIST は徐々に作品の外側へ歩き出す。決定打になったのが『PSYCHO-PASS』(2012年)のタイアップ曲『名前のない怪物』だ。ここで EGOIST は、ひとつの作品内バンドではなく「一アーティスト」として扱われるようになり、その後は伊藤計劃三部作(『虐殺器官』『ハーモニー』『屍者の帝国』)をはじめとしたノイタミナProduction I.G 系列の作品群で主題歌を連発し、「複数作品を横断するアニメタイアップ専門の虚構アーティスト」というポジションを獲得していく。

 

この時点で、構造はかなり明確になる。

・名義:EGOIST(楪いのりというキャラを含むIP)
・中身:chellyの声+ryo(supercell)のサウンドデザイン

 

さらにライブでは、3D モデル化された「いのり/EGOIST」がステージ上に登場し、モーションキャプチャと生歌唱を同期させる形式で、「キャラクターが現実世界で歌っている」体験そのものを実装してみせた。これは YEN TOWN BANDLily Chou-Chou のような「映画世界の虚構バンド/歌姫」が、CDリリースやライブによって現実へ滲み出てくる手法を、アニメ産業とデジタル技術によってアップデートしたモデルだと言えるし、のちの VTuber 文化や花譜の隆盛を踏まえて振り返ると、国内ではかなり先見的なフォーマットだったとさえ言える。楪いのり(キャラ)=chelly(ボーカル)=EGOIST(プロジェクト)という三位一体の構造という構造自体は非常に奇跡的なバランスであった。2023年にEGOIST 名義は活動を終了し、ボーカルである chelly は reche 名義でソロへと移行した。結果的に

・EGOISTという虚構名義

・chellyという実在シンガー

が分離し、「EGOIST」という名前はひとつの IP としてのライフサイクルを綺麗に完走した形になっている。解散の是非や事情についてはさまざまな議論があるにせよ、「虚構的歌姫」という観点から見れば、キャラクターとシンガーを再び切り離して終わるこの着地は、構造として非常に美しいエンディングだと言っていい。

Ave Mujica

ここまで見てきた一本軸「虚構的歌姫/虚構バンドの系譜」を踏まえて、2020年代における「虚構的歌姫とは何か?」と問うのであれば、その答えはもはや Ave Mujica 以外にあり得ない。中身(Diggy-MO'×各コンポーザー×佐々木李子×高尾奏音)の話は前項で書いてきた通りだが、「虚構的歌姫」という文脈だけを取り出しても、彼女たちの立ち位置はかなり筋の通った場所にいる。

虚構バンドとは、物語と現実、作家とキャラクター、名義と人間の境目をわざとズラしてみせる装置だと言える。そしてその装置の洗練が進めば進むほど、「キャラクターが歌う音楽」は「キャラクターそのものがアーティストである」という位相へと近づいていく。この繰り返しの果てに、

・ボカロP と初音ミク
・K/DA
VTuber 楽曲プロジェクト
2.5次元アイドル

といった、「そもそも人間の境界を前提にしない」音楽プロジェクトが次々と出てきた、というのが Gorillaz〜EGOIST にいたるまでの変容の大筋だろう。

Gorillaz が世界スケールの原型となり、Kalafina が日本ローカルな「世界観ボーカルユニット」の洗練として君臨し、海外では K/DA という Gorillaz モデルをゲーム/K-POPVTuber に最適化した存在まで生まれた。

その一方で、日本の系譜に限って見れば、YEN TOWN BANDLily Chou-ChouKalafina といったラインに、「ボカロ的な声」の揺りかごが流れ込んだものが EGOIST だった、と整理できる。そう置いてから改めて Ave Mujica を見ると、その出現は驚くほど滑らかに接続されてくる。

ここまでをざっくり時系列的・構造的に並べると、Ave Mujica は次の要素を一身に集約している存在として見なせる。

Gorillaz 的な「完全虚構バンド」という概念

YEN TOWN BAND/Lily/EGOIST 的な「物語発の虚構歌姫」

Kalafina 的な「作曲家主導の世界観ユニット」

・K/DA 的な「メタなメディアミックスとキャラクターの二重性」

・ボカロ文化由来の「声の交換可能性」と「キャラに宿る歌」

・Diggy-MO' という個人の思想と言語魔法

・それらすべてを収容する枠としての BanG Dream という超商業 IP

・そのうえで「三角初華/Ave Mujica」という虚構バンドに突っ込まれたプロジェクト

つまり Ave Mujica とは、これらすべてのレイヤーが一点収束した「虚構的歌姫のフルスペック実装型プロジェクト」だと言えてしまう。

この上で『天球(そら)の Música』の天球論を読むなら、それはもはや「虚構バンドが到達し得る哲学的極北」としての Ave Mujica×Diggy-MO' である、という話にまで踏み込める。プトレマイオスからボエティウス、Diggy『PTOLEMY』『GOD SONG』を経て、『天球(そら)の Música』までたどり着いたものは何か、という問いに対しては、

「虚構バンドのフレームを借りて世界観そのものを書き換える試みだった」

と答えられる地点に達しているのだ。

ここから先は、その「極点」に到達したあと、燃え尽れきった「その後」の Mujica が、どのような位相へと移っていったのかを追うパートになる。

そして、この「燃え尽きた後」の Mujica を語るためには、現在の Mujica 音源とも重なり合うかたちで、Diggy-MO' のソロ期と SOUL'd OUT 時代のアルバム変遷を、いったん簡潔に引き直しておく必要がある。

近傍としてのガールズバンド/ソロシンガー系の存在
(「しろねこ堂」「トゲナシトゲアリ」「結束バンド」「Ado 系」)

また、「虚構バンド」という枠組みで眺め直したとき、00年代後半から現在に至るまでの「女子高生バンド」ものの音源が、構造的な必然として視界に入ってくるのも確かだ。直近の近しい系譜としては、『しろねこ堂』『トゲナシトゲアリ』『結束バンド』そして古典的存在としての『HTT』といった新旧のガールズバンド群がまず挙げられる。それこそBanGDreamとしてのMygo!!!!!も実はギリギリここ。

ただし、これらはいずれも「作品内で完結するバンド」であり、YEN TOWN BANDLily Chou-Chou、あるいは Salyu やアイナ・ジ・エンドのように「虚構名義」を足場にしつつ、現実のアーティストとして独立したキャリアへと踏み出していくところまでは到達していない。作品世界を離れた瞬間、その名義だけで音楽産業を横断していくわけではない、という意味での限界がある。

その点で Ave Mujica は、すでにブシロード内での展開にとどまらず、Yostarの『アークナイツ』との海外ゲームへのタイアップなども含め、国際的IPという意味でも「商業アーティスト」として必要な枠組みをほぼフルセットで獲得している。

碧い瞳の中に

碧い瞳の中に

  • Ave Mujica & 塞壬唱片-MSR
  • アニメ
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music.apple.com

ゆえに、上記の近傍バンド群と同列に置くのはむしろ不正確であり、「虚構的歌姫の実在性」の最新型として、一段階レイヤーの違う地点にいると言った方が状況に即している。

そして、多くの人が「虚構/匿名系アーティスト」と聞いて真っ先に思い浮かべるであろう存在が Ado だろう。ニコ動発という出自、ビジュアルを担うイラストレーターの統一感、圧倒的な歌唱力、世界規模のヒット、マスメディアでの露出と存在感。これらを並べれば、「虚構」「匿名」「キャラクター性」といったキーワードとの相性は抜群だ。

しかし、そのあり方は本質的には米津玄師らと同じく、「ネット発のアーティストが、商業の縦割りシステムを突き抜けて巨大な数字を叩き出したケース」の最大化である。名義こそ Ado というキャラクター性の強い記号になっているものの、実態としては明確な「ソロシンガー」であり、楽曲提供陣も超一線級の作曲家が案件ごとに入れ替わる、大型の Lisa 型モデルに近い。

つまり、Ado には「虚構性」のレイヤーがいくつか強度高く貫通している一方で、Gorillaz や EGOIST、そして Ave Mujica が担っているような、「キャラクター/物語/名義/実在の歌い手/プロデューサーの思想」が一つの装置として組み上がった虚構バンド的構造までは、そもそも志向していない。ここに、「虚構的歌姫」としての線引きが生じる。谷口悟朗のfilm作品『RED』のウタ状態で商業的に売り出せばという部分的な達成までは至ってはいたので(cv:名塚佳織/sing:ado)、その意味では「虚構的歌姫」を商品として演出するところまで完璧に達成はしている。メインにはなっていない理由はやはりそこが「志向」ポイントではないという真っ当な在り方である。

 

SOUL'd OUT期-Diggy-MO'ソロアルバム期の違いと重なり

まずごくシンプルな事実から確認しておきたい。
SOUL'd OUT(以下 SO)は、ベスト盤を除くフルアルバムを5枚出している。

『SOUL'd OUT』(2004年)
『To All Tha Dreamers』(2005年)
『ALIVE』(2006年)
『ATTITUDE』(2008年)
『so_mania』(2012年)

これに対して Diggy-MO' のソロ名義は4枚。

『Diggyism』(2009年)
『Diggyism II』(2010年)
『the First Night』(2015年)
『BEWITCHED』(2017年)

活動期間をざっくりタイムラインで並べると、こうなる。

  • SOUL’d OUT  1999–2009 | 2011–2014(完了)
  • Diggy solo  2009───── 2018(一区切り)

という時系列となっている。

リアルタイムでSOやDiggyソロを通っていなくても、現在地=Ave Mujicaを起点に逆走していくと、作家性とプロデュースのOSがくっきり立ち上がるということを説明してくれている時系列でもある。

結論を先に言うなら、Ave Mujica は「プロデューサー OS(Diggy)」が上流を握るモデルであり、対して MyGO!!!!! は「シンガー OS(羊宮妃那)」が楽曲の要となるモデルだ。この二軸を頭の中に置いたまま Diggy ソロと SO を聴き直すと、後期 SO が徐々に「実質 Diggy 音源」に近づいていく流れが見えてくる。

SO のアルバムを通しで聴くと、初期〜中期はまさに3人体制がフル稼働しているバンド・アルバム群だと言える。具体的には『ATTITUDE』(2008年)までがそのゾーンだろう。ここまでは「詞=Diggy+Bro.Hi/曲=Diggy+Shinnosuke/ミックスや設計=SOUL’d OUT名義」での関与という三角形が作品クオリティの中心に立っている。

『SOUL'd OUT』クレジットリスト

代表曲群のクレジットは、詞:Bro.Hi+Diggy/曲:Diggy+Shinnosukeの並走が基本であるし、デビュー期の曲でもこの分担が揺らがない。

ここで強調したいのは、「それ以降の作品の価値が落ちる」という話ではまったくない、ということだ。むしろ、次作『so_mania』(2012年)の内容を、そこまでの4枚と並べて聴いてみると、その異質さがあまりにもはっきりしていて、その違いを説明しうる要因が「Diggy-MO' の主体化」以外に見当たらない、という意味である。

so_mania

so_mania

  • SOUL'd OUT
  • ヒップホップ/ラップ
  • ¥2139

SO を多少なりとも知っている人であれば、それは『ジョジョ』繋がりでも『ソウルイーター』勢でもなんでもいいですが、楽曲を聴けば

Diggy(歌+ラップ)
Bro.Hi(掛け合い+ヒューマンビートボックス
Shinnosukeブレイクビーツ主体のトラック)

この三者が拮抗しながら回していく構図こそが「SOUL'd OUTらしさ」だという共通認識はあるはずだ。代表曲『ウェカピポ』に触れたことがあれば、肌感覚としても理解しやすいだろう。

ウェカピポ

ウェカピポ

  • SOUL'd OUT
  • ヒップホップ/ラップ
  • ¥255
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そのうえで、Diggy-MO' の主体化、つまり「バンドの中の一人」から「作品全体の OS」へと重心が移る転回点として、まずは『ATTITUDE』以後の楽曲にあたる『and 7』(2011年)を聴いてほしい、という話につながっていく。

and 7

and 7

  • SOUL'd OUT
  • ヒップホップ/ラップ
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実際に聴いてみればすぐにわかるが、音像の特徴からして Diggy-MO' のサインが濃い。テンポは約111 BPM、キーは B minor。中速帯のビートに対して、サビでは跳躍とロングトーンで空間をホールドし、英和の混ざり合いと多層韻の「Diggy語」を、メロディ先行で運ぶ構文になっている。この設計は、そのまま約一年後の『so_mania』収録曲『UnIsong』『SUPERFEEL』へと通底していく。

なにより『and 7』のクレジット自体が作詞・作曲:Diggy、編曲:Shinnosuke+Diggyと、楽曲の主導がはっきりDiggy側に寄っている。

UnIsong

UnIsong

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SUPERFEEL

SUPERFEEL

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上記二曲もクレジット上は「詞:Diggy+Bro.Hi/曲:Diggy+Shinnosuke」と、一見すると SO 初期と同じ構造に見える。しかし、とりわけ『SUPERFEEL』に顕著だが、音の設計や言語の回し方は明らかに Diggy-MO' の主体性が前面に出ている。

では、この「SO における Diggy-MO' 主導型」がなぜ起きたのか。その変動を生んだ前提として、どうしても外せないのが『Diggyism』『Diggyism II』の存在だ。ソロ二作を経由した「ソロ帰り」である、という事実が、その後のSOを決定的に変えている。

Diggyism

Diggyism

Diggyism Ⅱ

Diggyism Ⅱ

とりわけ『Arcadia』が象徴的だ。この楽曲は、そのまま『SUPERFEEL』のプロトタイプ、あるいは思想面での前提を成す一曲と言っていい。

Arcadia

Arcadia

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ラップ主体で突き抜け、サビで一気に「歌」に開き、Diggy が長母音で伸ばしていくという三段変速。そのソロ期で確立された書法が、そのまま『SUPERFEEL』にも通底している。サビ頭で跳ね上がり、ロングトーンで包み込むような歌い回しは、『Arcadia』『SUPERFEEL』で明確に共鳴しているポイントだ。

歌詞で具体的な箇所を挙げるなら、まず『Arcadia』。

Arcadia (You are my...) Arcadia (You are my...)

行こう やわらかい光よ
やさしい君よ

Arcadia (You are my...) Arcadia (You are my...)

今でも信じてる たった
ひとつの小さな夢

対して『SUPERFEEL』では、

AND I-M-R-U STOP & GO SUPERFEEL
どこより遠く遠く馳せる
I-M-R-U STOP & GO SUPERFEEL
もっと高く高く誘う
I-M-R-U STOP & GO SUPERFEEL
いつか今より強く強く
I AM – ARE YOU STOP SUPERFEEL

というふうに、「SUPERFEEL」という単語そのものをリフレインしながら、語尾まで旋律として扱う Diggy 特有の「末尾まで全部メロディ化する」書法が貫かれている。

それぞれの楽曲の締め方を抜き出すと、構図の近さはさらに明瞭になる。

今でも信じてる たった
ひとつの小さな夢

Arcadia

I AM – ARE YOU STOP SUPERFEEL

SUPERFEEL

どちらも「フレーズそのもの」を象徴句として掲げ、そのまま感情の着地地点として差し出している。要するに、『SUPERFEEL』とは、『Arcadia』で完成した Diggy 式の歌×ラップ三段変速を、SOUL'd OUT の文脈に最適化した結果として生まれた曲であり、その副産物として「Diggy-MO' 主体の SO」という逆転現象がはっきりと表面化した一例だと言える。

 

こうした状況下で生まれた SOUL'd OUT のラストアルバム『so_mania』を、Ave Mujica から逆走するかたちで聴き直すと、「あ、ここでいったん完成している」とさえ言いたくなる(もちろん、それらがあっての Mujica なのだから順序としては逆なのだが)。

何より象徴的なのは、アルバムの1曲目のタイトルが『Kopernik』であることだ。

Kopernik

Kopernik

  • SOUL'd OUT
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というよりも1本踏み込んで言えば名義こそSOだが、実質的な音源立ち位置としてはDiggy-MO'の2.5枚目としてカウントできるくらい主成分がDiggy-MO'にある。

ソロ名義で『PTOLEMY』を描き切った Diggy-MO' は、そのあとの「コペルニクス的転回」を、SOUL'd OUT 名義で『Kopernik』というタイトルにすでに落とし込んでいる。SO 側から見れば、このタイトルの思想性は三人の総意として読めるかもしれないが、Ave Mujica 側から振り返るリスナーにとっては「いやこれ、どう考えても Diggy-MO' の問題意識だろ」としか思えない。そのズレ方自体が、時系列をまたぐ意味で非常におもしろいところだ。そして逆算として聴くSO、Mujicaからのリスナーだからこそむしろ感覚として入りやすいというのも実はかなりある。というのも当然『so_mania』で突如天体に芽生えたわけでもなくSOでは通底した天体関連ワードが、よくある「天体=比喩に使いやすい」的な枠を超えた分量はあるしソロでもそれは同じこと。究極的モチーフがタイトルにまで出た二曲がむしろ例外的。部分的に楽曲を連ねるのでmujicaからSOに入る人向けという意味もかねてリンクを貼っておきます。

 

SOUL’d OUT 期の「物理宇宙」

『STARDUST』

STARDUST

STARDUST

  • SOUL'd OUT
  • ヒップホップ/ラップ
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『COZMIC TRAVEL』

COZMIC TRAVEL

COZMIC TRAVEL

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  • ヒップホップ/ラップ
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『Starlight Destiny』

Starlight Destiny

Starlight Destiny

  • SOUL'd OUT
  • ヒップホップ/ラップ
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『Flyte Tyme』

Flyte Tyme

Flyte Tyme

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『A Spacious Floor』

A Spacious Floor

A Spacious Floor

  • SOUL'd OUT
  • ヒップホップ/ラップ
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ソロ期の内面の宇宙

『Blue World』

Blue World

Blue World

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UNCHAIN

UNCHAIN

UNCHAIN

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『ASTRONAUT feat 大神:OHGA』

ASTRONAUT feat. 大神:OHGA

ASTRONAUT feat. 大神:OHGA

  • Diggy-MO'
  • J-Pop
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『GIOVANNI』(『にこにこジョバンニ』でもいいのです楽曲的にはこっちが好きなので)

GIOVANNI

GIOVANNI

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Diggy-MO'S以後のAve Mujicaの「神」視点toDiggy-MO'流ラップ導入

ここまで SO における後期 Diggy-MO' 主体化の流れを見てきたが、あれは「いちどソロを経由することで、グループ内の一人だったはずの作家性が、作品全体の前面にせり上がってくる」という現象の記録でもある。そして、この構図はそのまま Ave Mujica にも濃厚に響いている。

とりわけ象徴的なのが、やはり楽曲『Ave Mujica』が「Diggy-MO' 作詞曲ではない」という事実だ。プロジェクトの上流 OS を握っているのは Diggy でありながら、BanG Dream という大型プロジェクト全体の設計上、先述したように MyGO!!!!! 期の Ave Mujica 楽曲は、従来の Elements Garden 一式で組まれている。

このブシロード側が敷いた「意図的な差分」が成立しているのは、すでに Diggy-MO' ソロ期〜後期 SO にかけて、作家性が固まりきっているからだ。そもそもオファーの起点がソロ期の楽曲群であることを踏まえればなおさらである。

言い換えれば、現在の Mujica の稼働モデルは、まずもって「Diggy-MO' ソロ以後のモード」を出発点としている。そのうえで、「「BanG Dream」という巨大な枠組みの中に「Diggy 的 OS」をどう実装し直すかというフェーズ」に入っている、という捉え方ができる。いうなれば、Diggy-MO’+OS=「Diggy-MO’S」を思想的にいったん完成させたうえで、そのOSをバンド側にどう走らせるか、という第二段階に移行している。

 

アニメ『Mujica』で締めた3月よりもかなり後の8月に発表された『DIVINE』この楽曲は「まだ本編を引きずった、というよりもマインドとしてDiggy-MO'が「天球」を純作家成分としてもそうだしmujicaへの照射が「勝っている」部分。

あまりにも素直で、正直でそしてメタなDiggy×Ave Mujica宇宙の全部載せ。

DIVINE

DIVINE

  • Ave Mujica
  • アニメ
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仕掛けられたアレゴリーが動き出したこの宙(そら)

エレメンタル覗くのは

天球の Blue World そこに生きる者

断言していいと思う、この3行に全部に全てが詰まっています。

仕掛けられたアレゴリー

手前にAve Mujicaですという格好でこれをお出しされると、読みとして「Ave Mujica」という企画そのものを指している言い方。物語世界(アニメ+楽曲)が最初から「寓意として仕掛けられたもの」だと白状していて、その寓意が「動き出した」のがTVシリーズ完走まで、という読み筋まで「完結」後に出されるからピッタリと合う。

この宙(そら)

敢えての空じゃなくて「宙」。MyGO/Ave全体を包む舞台=宇宙としてのバンドリ世界。Diggy-MO'がずっと使ってきたライブ空間=宇宙/銀河的メタファーが、ここではもう最初から世界設定レベルにまで引き上げれいる。

エレメンタル覗くのは

露骨に『ELEMENTS』への自己引用。「四大元素=Symbolシリーズ」をこちら側から覗いている、という構図にもなり、つまりは寓意として設計されたエレメント(曲群/キャラ/構造)を覗き込んでいる存在がいる、というメタ視点の提示。だからタイトルがDIVINE=神という回収込みで美味しい一節。

天球の Blue World そこに生きる者

完全にDiggy-MO'ソロの『Blue World』とAve側の『天球のMúsica』が直結している。そして当然、天球=Musica mundana(天球の音楽)の系譜であり、その内部にある「青い世界」=地球/作品世界/現実世界と定義したうえで「そこに生きる者」で主語を広げている。

だから、いわゆるキャラクター群たちの祥子(さきこ)たちではなく、リスナーやプレイヤーまで含んだ総称になっている。やっぱり「ここまで」歌詞として入れるのはDiggy-MO'を知っている人、Mujicaを知ってる人どちらであっても「入れすぎ」と思うはずだし、その配置が、アニメ本編完走後というタイミングで提示されていることも、楽曲の「メタ性」を裏付けている。

 

本編=仕掛けられたアレゴリーを一通り走らせたあとで、

「じゃあ、その天球の青い世界に本当に生きているのは誰なのか」
「誰の「眼」が時代を捕えて創って愛していくのか」

という主軸を、物語の「外側」からもう一段階高いレイヤーで言い直している曲、という位置付け。

  • 天球を設計した知性

  • 星図として物語を組んだプランナー

  • アレゴリーを仕掛けたメタ作者

これら全てを神として立ち上がらせている。そしてこれをタイトルと突き合わせるとさらに明確になる。単語としてのDIVINEはLatin divinus=「神の・神に属する」「神託的な、予言的な」。
元の「divus / deus」は「光る・天・神」と同根で、そもそも「空の上で光ってる存在」みたいなイメージを引きずってる。

形容詞としては
・神の、神から来た
・神のように卓越した、至上の
・天上的な、天国的な

という意味合いであり動詞として

to divine = 「神託で占う・予知する」→そこから転じて「勘で見抜く・言い当てる」

という意味合いをもつ。

この三層を、DIVINEの歌詞とDiggy-MO'文脈にそのまま重ねるとかなり当てはまる。

アレゴリーを「仕掛けた」側=divine(神的な設計者)
・天球とBlue Worldを一望している「視点」=divine(神の立場)
・SymbolやEtherでばら撒いたモチーフを一曲に読み取り直す=divine(予言・解読)

これ、案外でかい問題でDiggy-MO'ソロ期あるいはSO含めて回収しているという点。

『Blue World』『PTOLEMY』、あの『GOD SONG』ですら、やってきたのは「世界=宇宙」「運命=星図」「音楽=天球の回転」という構図。

それが、Ave Mujicaでは、その宇宙の中にキャラと物語とバンドを配置して、『Ether』 や 『天球のMúsica』 や 『八芒星ダンス』で天球システムとしての「Ave=世界」を描いていた。

これらの積み上げてきて、最後に楽曲で『DIVINE』と名乗るのは、語源ど真ん中の意味で「神的なもの/神託的な読み」をやります宣言に近く、真の意味での「Ave Mujica」の思想性が出ている楽曲であり最終的な答え。その意味で内包しているものは『天球のMúsica』よりも重い。

「Ave MujicaのためにDiggyが書いた曲」ってより「Diggy-MO'史がMujicaの最終回答を通して「自分」を語り直した曲」ってくらいの密度なので、SO、ソロ、どちらか寄りのリスナーでも、『STARDUST』『COZMIC TRAVEL』 みたいな「宇宙=スケール」や、『Blue World 』みたいな「内面の宇宙=青い世界」『PTOLEMY』の「世界=星図」『GOD SONG』 の「祈り/神」など、SOUL’d OUT期まで含めた「宇宙=構造」の総決算になっており、全部ひとつのフレーズ列に畳み込んでる。だからSOUL’d OUT〜ソロ〜Mujicaまでの「天体」メタファー史が、かなり露骨に回収されているですよ。

 

そしてアニメが終わった出た楽曲という観点では外側から書かれた歌詞でもあるわけですが、じゃあその「外側」ってなんだよという話で、これまた考えれば面白いわけでSOUL’d OUT時代から宇宙比喩で世界を俯瞰してきたDiggy-MO'のという作家の人格と、バンドリという巨大IPのシステム設計に触れたうえでの「作詞家」としての俯瞰性が同居している。言い換えると、「Diggy-MO'=個人」と「SOUL’d OUT」を、そのままMujica宇宙の神目線に持ち込んでいるということ。

「SO+ソロ+Mujicaの宇宙を、ぜんぶ一回ここでまとめて味見しました」級の楽曲。

読みとして突き詰めるのであれば、作家人生の節目に近い回答曲ですよ。

なによりもこんなにも大事な楽曲を本編の導入やOPでもEDでもない、タイアップとしてのファンタジーRPG『PROGRESS ORDERS』(プログレスオーダーズ)のオープニングテーマとしてお出ししていること。思想性があまりにも強すぎてゲームから入った人は困惑するレベル。本来なら次作のAve Mujicaのアルバムのラストよりに当たる楽曲で、テーマ的には「ソロアルバムのラスト曲」とか「ベスト盤の書き下ろし」枠に置きがちなのに、よりにもよってAve Mujica側の一曲で、本編とは関係ないタイアップでひっそり出してくるのが、またDiggy-MO'っぽい。

これ以上ないほど「結」の楽曲として設計されていると言ってよい。

何回も書きますけど神視点ですから。

 

実際、この後の楽曲の「テンション」がそれを指し締めていて、『DIVNE』で突き抜けた後、導入するものは何かというと彼が持つヒップホップ文脈の技法、すなわち「Diggy 流ラップ」の挿入というスタンスが明確に出ている。

 

2025年12月10日リリース予定の『‘S/’ The Way』の TV Size 版がすでに配信されているが、この楽曲はまさしく、Diggy-MO' 流ラップのテクニカルな部分を、ついに佐々木李子に導入してしまった、というとんでもない地点に突入している。ここではそのポイントを、以前ポストした内容をベースに改めて整理しておく。

『‘S/’ The Way (TV Size)』のラップパート(0:32〜0:43)は、『Diggyism』収録の『CHALLENGER』(0:46〜)と驚くほど近い。

(丁度サンプル部分は該当箇所にあたります)

CHALLENGER

CHALLENGER

danger/messenger/stranger/challenge といった単語の配列で見られたような「母音統制+語尾ライム」の組み方や、三連符的なラインの刻み方など、Diggyism 期のラップ構文がかなり露骨に顔を出している。

‘S/’ The Way (TV Size)

‘S/’ The Way (TV Size)

  • Ave Mujica
  • アニメ
  • ¥204
  • provided courtesy of iTunes

歌唱テクニックという観点で見ると、作家締めとしての『DIVIEN』以降確認されているこのAve Mujicaとしての新楽曲は、構成、歌詞単位そのものがどんどん Diggy-MO’ 直系の作法に「変形」している。

決定的なのは、歌詞が公開されてわかった「綴り読みラップ」の部分だ。ラップパートでは「S-L-A-S-H」とアルファベットをそのまま発音しているように見えるが、実際の譜割りは、

・子音 S
・母音 A
・子音 L
・子音 SH

と、ひとつずつの音素をビート上に打ち込んでいる。見かけとしては綴り読みでありながら、中身は母音・子音の断片をリズムに再配置する手法になっていて、「ここまでやるなら、これはもう完全に Diggyだろう」と確信させられるポイントになっている。

しかもこの構造は、すでに Diggyはソロ楽曲『Lovin’ Junk』に代表されるように既に方法論として持っている。

Lovin' Junk

Lovin' Junk

  • provided courtesy of iTunes

『Lovin’ Junk』における L-O-V-I-N-J-U-N-K の綴り読みは、Ave Mujica『S/ The Way』の S-L-A-S-H と同じ構造を持っている。アルファベット列をいったん解体し、拍ごとに再配列することで、リズムと意味を二重化する Diggyの譜割り手法が、そのまま Mujica 側に移植されている、ということになる。

 

こういう「音素レベルでの解体と再構成」という作り方は、表層のジャンル感やテンポ感以上に、作家の血統を示す。Ave Mujica の側から見れば、「Diggy-MO' 的 OS」が、ついにラップテクニックのレイヤーにまで侵食してきた地点であり、Diggy 側から見れば、「自分の言語魔法が、他人の声帯で再生される」という実験がかなりの純度で実現した地点でもある。

 

そして、ここにきて豊川祥子(高尾奏音)パートにもラップが導入されるのではないか、という仮説まで浮上している。高笑いしてくださいと言わんばかりのフラグ。

高尾は2025年9月16日に『フリースタイル・ラップの教科書』の写真をポストしている。(現在は削除済み)。

Discord記録より 

自分のリアクションは「Diggy がいるバンドでこれはあからさますぎて笑える」と書いたが、実際そうで、これが

「Diggy-MO' がプロデューサーのバンド=Ave Mujica」のボーカリスト佐々木李子

が写真に投稿するのであれば、メインボーカルだし、既存楽曲へのアプローチとしての学習教材という文脈で理解ができるが、よりにもよってpf.keyを担当している高尾奏音が、フリースタイル入門書を掲げてくる時点で、99.9%の確率でバンド内の新しい表現準備と見ていい。

すでに佐々木李子側には Diggy 直伝とも言えるラップ構文が施されつつある以上、「豊川祥子パートへのラップ導入」という次の一手が視野に入ってきた、という状況証拠として機能している。

 

神学としての『Sophie』あるいは、もう一つのPTOLEMY

また、同シングルに収録予定となっている『Sophie』ですが、こっちは文脈を思えばこそ、ここまで読んだ方なら全員同じ思考に至るはずです。Sophie は言うまでもなく Sophia の各国語形であり、語源はギリシア語の「σοφία(sophia)」、意味はそのまま「知恵/英知」です。とくに東方教会では、「神の知恵(Holy Wisdom)」としてキリストあるいは聖霊と結びつけて人格化されることが多く、ビザンティン建築というゆかりある場所で有名なアギア・ソフィア大聖堂(ハギア・ソフィア大聖堂)も、「聖なる知恵/神の知恵」に捧げられた「教会」という意味でこの語と結びついている。

さらにグノーシス派まで遡ると、Sophia は「神的叡知の女性的人格」「アイオーンのひとつ」として扱われ、「神から流出した叡知が誤って落ちることで物質世界が生まれる」という物語の中心にいる存在になります。諸星大二郎みたいな世界観だ。

 

要するに「Sophie」と名付けた時点で、

・知恵
・神的/聖的なもの
宇宙論レベルの寓話

を全部一語で呼び寄せる名前になっている。『DIVINE』を出したあとに、『Sophie』(神的叡知)を B 面タイトルに据えるのは、語彙感覚的にはかなり Diggy-MO' は狙っている、と見てよい。Sophia(叡知)と読むかぎり、思考回路はどうしても

 

・PTOLEMY=天動説側から見上げる観測者
・GOD SONG/DIVINE=外側から介入する神/ルールの書き換え
・Sophie=その「神的視点」を支える叡知/設計思想そのもの

という三竦み、というより正三角形の図式に収束してくる。

さて、ここでグノーシスのアイオーン体系を俯瞰してみましょう。一体誰がこれをまとめたとされているのか。

 

ここで名前が出てくるのが、ヴァレンティノス派の中で、三十アイオーン体系とソフィア神話を代表的な形で整理した教師プトレマイオスです。彼は、最高神から流出する「アイオーン(永遠存在)」たちが幾重にも連なってプレーローマ(充満世界)を構成している、という宇宙論を体系的に整えた人物とされている。そのアイオーン配列が、またじつに特徴的である。

数は三十。内訳は八・十・十二に分かれ、それぞれ男女のペア(シュジュギア)を組むのがその最たる例だ。

 

このアイオーン列の末尾に置かれているのが、後にさまざまな伝承の中心人物となるソフィア(Sophia)であり、名前が示す通り「叡知」を体現するアイオーンである。

アイオーンを現代的に言えば、大型ショッピングモールとしての「AEON」が最も伝わりやすいでしょう。OIOI=おいおい=マルイと同じで、誰しも一度は看板のロゴを見て「AEON、、あえおん、、、、あ、イオンか!!」と脳内で読み間違えた経験があるはずで、この「あえおん」の方こそが、本来の単語としての「aeon」に近い発音である。

 

ヴァレンティノス派の宇宙論では、彼女の「父なる深淵を直接知りたい」という衝動と、その結果としての「落下」が物語の駆動力になります。ソフィアはプレーローマの秩序を乱し、その悔悟と分裂を通して、プレーローマ内に残る高次のソフィアと、外側へと滑り落ちたソフィア・アカモートという二重構造をまとわされる。

ここで「下位ソフィア」としてのアカモートは、ある種の「エーテル的」存在として描かれ、そのパトスから物質世界やデミウルゴスが派生していく。

 

このあたりに『ELEMENTS』文脈を重ねる読みも可能だろう。

この「上位のソフィア/堕ちたソフィア」という二重像から、デミウルゴスや物質世界が派生していく、というのがヴァレンティノス系神話の定番パターンである。

つまりソフィアは、プレーローマ内部では「叡知そのもの」として、プレーローマ外部では「世界生成の起点」として振る舞う、境界的な存在だと言ってよい。プレーローマの最果てで父なる深みを見上げ、なお外側へと滑り出してしまう、その「縁」の感覚を一身に引き受けている。

 

ここで面白いのは、こうしたアイオーン体系そのものを整理した人物の名が、天文学者プトレマイオスと同じ「Ptolemy」だという事実だ。グノーシスプトレマイオスは天体の運行を計算した人ではないが、「高次世界を支配する三十のアイオーン」を構造として描写した点で、ある種の「形而上学アルマゲスト」を書いた人物だとみなすことができる。

一方、歴史上の天文学者クラウディオス・プトレマイオスは、『アルマゲスト』で天動説的な天球モデルを数学的に固めた。「地球を中心とした天球の回転」を座標として描き出したその仕事は、ボエティウスが musica mundana(宇宙の音楽)という概念で再解釈し、やがてコペルニクスに至るまで長く参照され続けることになる。

こうして見ると、「PTOLEMY」という語はすでに

天文学における天球モデル(クラウディオス・プトレマイオス
グノーシスにおけるアイオーン体系の編集者(ヴァレンティノス派のプトレマイオス

という二重の顔を持っている。そのどちらもが、「世界の構造を記述しようとする叡知側の眼差し」という共通点を帯びている。

 

Diggy-MO' がソロ曲に『PTOLEMY』というタイトルを与え、「アルマゲスト」という語とともに天球の内側に閉じ込められた観測者の感覚を歌ったとき、そこには当然、前者の天文学的なプトレマイオスが直接の参照としてある。ただ、そこに Ave Mujica 側で『天球の Música』『DIVINE』が重なり、さらに「Sophie」という曲名が予告されてくると、後者のプトレマイオス=アイオーン体系の編集者と、その末尾に置かれたソフィアという組み合わせまで、うっすらと透けて見えてくる。

 

PTOLEMY が「天球の内側にいる観測者」としての位置を肩代わりし、GOD SONG/DIVINE が「外側からルールを書き換える神的な声」として振る舞う。その外側で、「Sophie=Sophia」的な叡知が、そもそもどんな世界構造を立ち上げ、どんな物語として天球を回しているのか。その三角形を思い浮かべたとき、グノーシスにおける「プトレマイオスが設計したアイオーン列の末尾に立つソフィア」の姿は、Diggy-MO' が Ave Mujica 宇宙でやっていることを照らす、もうひとつの神話的比喩として立ち上がってくる。

 

その意味で、

  • PTOLEMY=天球モデルを生きる内側の眼
  • GOD SONG/DIVINE=その天球に外側から介入し、ルールを再配列する声
  • Sophie=それらを成立させている「叡知の側」、プレーローマの設計思想

という三点は、単なる言葉遊び以上に、天文学音楽理論グノーシス神話の層をまたいで接続されている。ここに、Diggy-MO' が「天体」と「音楽」と「物語」を一つの座標系で扱っていることの、かなり根の深い証拠が潜んでいるように見えてくる。

 

つまりここで、天文学文脈にとどまらず、これまでも裏で連なっていた神学体系が、Sophie=Sophia という単語を通じて、ほとんど臆面もなく表面化したのだと言える。Sophie/Sophia、そして「神学」領域における「プトレマイオス=PTOLEMY」という対応は、冗談のような精度で体系として繋がってしまう。その上に覆い被さるように Diggy-MO' は『ELEMENTS』を仕立てているのだから、ディテールの面ではもはや、ルドルフ・シュタイナー的な神智学/アントロポゾフィーの領域に足を踏み入れていると言っても過言ではない。

 

ここで扱っているアイオーンや神学的モチーフについて、自分自身はゲーム本編は未プレイの立場だが、調べる過程で HoYoverse関連、とくに『崩壊:スターレイル』のゲーム考察記事の中に、同種の用語や構造が多く見られた。そちらに詳しい読者であれば、ゲーム内での体感を加点しながら読むことで、本稿で扱う概念も重ねて理解しやすくなるだろう。

これらを全て前提としておけばペルソナとしての

ドロリス=doloris(悲しみ)

モーティス=mortis(死)

ティモリス=timoris(恐怖)

アモーリス=amoris(愛)

というのは、プレーローマに並ぶアイオーンたちを、そのまま感情レベルへとスライドさせた「情動アイオーン列」として読み直すことができる。これからリリースされる『Sophie』が、叡知そのものとしての Sophia 原型をプレーローマの縁に立たせているのだとすれば、それぞれの登場人物たちの裏名は、悲しみ・死・恐怖・愛といった抽象概念を、ラテン語属格のかたちで一人ひとりの人格に縫い付けた印だと言ってよい。

 

中世寓意劇の『Everyman』の周囲に擬人化キャラクターを並べたように、Ave Mujica は「女子高生バンド」という舞台装置の上で、doloris/mortis/timoris/amoris という四つの情動アイオーンを配役していることになる。

kotobank.jp

道徳劇の伝統的な手法として,この作品もまた,友情,知識,美,分別等々の抽象観念を擬人化したアレゴリーとして登場させる。16世紀初頭の出版とはいえ,内容,形式ともに中世的な作品である。

要するに、抽象概念を擬人化したキャラクターたちが人間のまわりに配される、典型的な道徳劇の構造を、そのままキャラクター配置のレベルにまで引きずっているということになる。それこそ「仕掛けられたアレゴリー」というものがこの時代のものにも該当するという直接的な意味合いとしても成立する。

こうした構造レベルでの寓意化に加えて、キャラクター名という次元でも言葉の選び方そのものに同じ志向が染み込んでいる。そう考えると、コンセプトとしての「ゴシック・バンド」という呼び方にも、自然と説得力が出てくる。

 

あと、これは単語レベルでの統一性の話にすぎないが、初期から一貫して「S」に由来するタイトルがやたらと多い。

・『Choir 'S' Choir』
・『素晴らしき世界でもどこにもない場所』(Subarashiki Sekai〜)
・『Symbol』< I〜IV>
・『'S/' The Way』
・『Sophie』

と、頭文字 S で揃えられた語がここまで並んでいる。ここにも何かしらの意味論を読み込みたくなるところだが、リリース未解禁という段階では、あくまで「示唆的な配置」として留めておくのが妥当だろう。歌詞が解禁された際に、これらの語彙が交差するように現れていたら、それが答えです。

少なくとも、単語として「天球」「DIVINE」「Sophia」といった重い語彙が並ぶ中で、わざわざ 「S」で始まる記号群を Mujica 側に集中させている、という事実だけは頭の片隅に置いておきたい。

おわりに

『'S/' The Way』に至って、Diggyism を踏襲した韻の配列や展開が一気に前景化し、『CHALLENGER』『Lovin’ Junk』といったソロ期の作法にぐっと寄ってきた現在、Ave Mujica は明らかに「第二段階」に入ったと言っていい。シンプルにまとめるなら、女子高生バンドの皮を被った、天体神学ラップ付きポップ・ミュージック思想実験装置くらいのところに Ave Mujica は立っている。そしてそれは本来の音楽にかかる領分込みでエンタメ音楽としてやってるからこそ、異常な「面白さ」が生まれる。

もっと、もっと語るべき点はあるのだが、何はともあれ、今年の「アニソン」枠を象徴する楽曲が誰のものだったかと言えば、それは他でもない Ave Mujica のものであり、アンセムとして機能していたことだけは確かだ。山田勝己が「自分には SASUKE しかない」と言い、祥子も「私には Ave Mujica しかない」と劇中で言ったように、今年に限っては、自分にとっての「しかない」の部分は Ave Mujica だった、と言い切ってしまっていい。

 

山路ボイス聴きながら書いてることもあって途中で PPPより「上から見ないとわからんこともある」を途中引用しましたが、史的には

商業的には「アニソン/ガールズバンドIPの企画もの」

音楽史的には「PTOLEMY/GOD SONG 直系の天体神学ラップ」

こうしてみてまとめると、ここから先、このバンドがどこまで異常なまでの密度と技術を保ったまま活動を続けていくのかが、本当に楽しみだ。

幸運にも足を運ぶことができた MyGO!!!!!×Ave Mujica 合同ライブ「わかれ道の、その先へ」DAY2(Geosmin)の締めくくりの挨拶の場面で、高尾奏音は「Mujica でミラノに行きたい」とコメントしていたと記憶している(ついでに言えば、MyGO!!!!! 側での林鼓子の異常なトークの巧さも、今でも鮮明)。願わくは本当にそういう領域に到達してほしいし、到達すべきだとも思う。

バンドとしての高次元なレベルの高さもそうだが、縁もゆかり「しか」ないイタリアで Ave Mujica が演奏を行うことになれば、それは単に海外公演というだけでなく、「神学としてのイタリア=ミラノ」という座標の上でもひとつの達成になる。

 

少なくとも誇張抜きで言えるのは、いまの Ave Mujica が、日本のポップ・ミュージック(musica)における最前線のひとつの潮流を、確かに形作っているということだ。

music.apple.com


参考資料/派生記事

sai96i.hateblo.jp

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より具体的な思索、構造メモ、書籍系などについてはnoteに公開予定です。

note.com

 

 

 

*1:tomorrow tomorrowで有名であの曲