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Music Synopsis

音楽に思考の補助線を引く

羊宮妃那をめぐる冒険 ──迷える羊の声をたどる

2024年11月13日に『Mygo!!!!!』もっと言えば、羊宮 妃那を「明確」に知って大体一年になる。それすなわち羊宮妃那という稀有な役者の表現について非常に考え抜いた年である。

アカウントで初めて言及したポスト

元々この最近の声優役者を軸足に数々の記事を書いてきたが、経緯としては2024年の『トラペジウム』であった。そこで、「結川あさき」「羊宮妃那」を知ることができたことが全ての主因となっている。今や、明田川 仁の音響監督の仕事に世話になっていないアニメ視聴者は存在しないであろう。何度でも想うが、『トラペジウム』は稀に見る組み合わせであることに違いない。

今や『ワンダンス』で内山昂輝と組むほどの実力者としてはたしょう二に採用されるほどの声優になったのはどう考えても実力派であることにほかならない。

 

 

最近、結川あさきの中性声についての記事を出したが、声として意識したのは実は、結川あさきの方が先なんです。どちらも素晴らしい表現者であるが、当時としては結川あさきはまだ記事にするにしても、そも役数が少なく、『逃げ上手の若君』がちょうどリアルタイムで放映されていたという時期もあり、いち早く書きたくてもそもそも書けないという状況であった。だから今になって、というよりも2025年11月1日になってようやく書ける下地が揃ったということだ。

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そして、「羊宮妃那」。正直に書けば、この役者は知っていたが、『Mygo!!!!!』を知るまでは単なる「巧い役者」という認識でしかなかった。それが尋常ではない才覚を持つ役者であることに気づくのが遅れたというのが実情である。このタイミングでごく3人しかいないDiscordにて「Mygo」「羊宮」で検索をかけたが、実に1年で「Mygo」397件、「羊宮」475件。羊宮の方が約1.20倍多く、全体の54.5%が「羊宮」言及というクラスになっていた。3人いるなら分散と考える人も多いでしょうが、9.9割型私です。

 

 

そしてこの羊宮を知って以後の一年は、まさに「羊宮妃那をめぐる冒険」であり、迷える羊として声をたどり続けた記録でもあった。

まず、当ブログでも人気記事となった『Mygo!!!!!』『Ave Mujica』の音楽の良さを体系的にまとめた記事を出しました。ここで述べたかったことは、「声優」という職能が持つ歌唱というものは、人によっては絶大な威力をがあるということだ。そんな表現者はなかなか出会えない、だからこそ対比として上田麗奈の『Empathy』を対象としていたわけだが、上田麗奈ファンが「表現特化」としてのアーティスト歌唱をすることでの効能はとても大きいが、一方で、それが軸ではないからこそ、供給としては不足気味にならざるをえないよね、という段階で、同等の声質と表現力、いまや表現者としてのバトンタッチもかなり進んでいると言って「羊宮 妃那」がIPとしての「バンドリ」で『Mygo!!!!!』で高松燈を演じられ、歌唱してというのは明確に大きなアドバンテージがあるということでもある、というのがあの記事で主張したかったポイントだ。

あと表現主義と技術主義という意味でこの二つのバンドは圧倒的であり、後者に至ってはもはや高すぎてという話だ。バンドとしての「Ave Mujica」に関しては進行形で考えいているのでいずれ出します。かなりいいところまで来ています。

SO,Diggy-MO'ソロ,ViRCAN DiMMERの『HOROSCOPE』全キャリアとMujica楽曲を融合した究極の記事になりました。ぜひ読んでください。

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そんなにも『Mygo!!!!!』はすごいのか、と想う方もいるとは思いますが、実際問題として、「アニメも」展開するバンドリという意味ではいい加減初めてのアニメ化ではなく、むしろシリーズ化していたわけだし、なんとなれば企画段階では別のIPであったことはもはやいうまでもありません。つまりのちにバンドリに統合されただけであって、実態は別物というのが「Elements Garden」ではなく「Supalove」であることはこれは、『春日影』論でも書きましたね。

あの記事では、『栞』『春日影』『人間になりたい歌』の三作だけがElements Garden体制であることを手がかりに、意図的な断絶があると読んだ。逆算的に見れば、これは制度更新のための儀式的布石に他ならない。

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この記事はそれぞれ

・天動説=CRYCHIC

・地動説=Mygo!!!!!/Ave Mujica

 

という、アナロジー1本で勝負したという、側からみれば「なじゃそりゃ」となる見立てて書いた1本なのですが、これがうまく当てはまってしまったんですよね。

Diggy-MO'の楽曲込み(『PTOLEMY』=プトレマイオス視点『GOD  SONG』=外側視点)で、なぜああならなければならなかったのか?が説明がつくという、自分でも書きながら「これ酔狂記事だろ笑」と思いながら書いていましたが、ベヘリット=春日影あたりから、「これ、物になる」と確信した記憶は鮮明にあります。そして、結果的に、この見立ては「しっかり」と成立しました。これはコンテンツ評ではありましたが、大胆な飛躍が実は嘘ではないという意味で、かなり印象的な記事になりました。おそらくこの記事ほど『春日影』がなぜ〜なのかという問いを彫ったものはないと思います。

 

さて、話を羊宮妃那に戻そう。

『MyGO!!!!!』で知った当初にまず思ったのは、冒頭のXでも書いた通り、ポエトリーリーディング的な表現の近似性と、楽曲全体が既視感を呼び起こすメロディラインだった。羊宮の歌唱が圧倒的であることは言うまでもないが、同時にamazarashi以後の文体と感情設計が流れ込んでいる感覚があった。

私自身、amazarashiを長く取り上げてきた立場からすれば、この共鳴は偶然ではない。むしろ必然だったのだと思う。

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だから物語としての『MyGO!!!!!』のギスってる感は別に音楽性として、系譜があるからこそ、そこに熱量を入れられる余地があるということだ。でもまさかそこを埋めてくるのが声優の歌唱という文脈で更新されるとは思わなかったという意味でもやはり特別。

そして今年の3月、『小市民』2期手前に私論として若山をもう一つの軸足として置いた記事を書きました。

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これは座標軸として若山、羊宮、結川とそこに関係性がある声優(安済知佳上田麗奈)を含め、それぞれを座標として現在地の基軸はこの役者群であるということ提言したかったのだ。ここで一つ、重要な発見ができたのが以下の文節である。

声優の声=音という感覚で思索すると以上のようなことが自然と点と点で結ぶことができる。

自分の文章を知っている人はいい加減既知な事実であるが、「全て」においてかなりドライブ感で書いているので、特に下書きやネタ案といったものがとくにあるわけでもなく、脳内で思ったことをリアルタイムで文字起こしで当ブログの全文章は構築されているのですが、この文節に限ってはこれがかなり大きい。ここで声=音と考えられたことが、この記事における「座標」と源でもあり、その因子でもあるからだ。そしてこの直感こそが後の「声=音=言語=演技」論の源流になったのだ。

そして約1か月半(48日)かけて「声=音」を拡張した論がこちら。

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「羊宮妃那論」と銘打ってはいるが、射程は広い。核心は発声とは何か、その差異が吹き替えと字幕にどのような不可逆の差分を生むか、さらに朗読において声はどう作品になるか、という諸相を横断しつつ、翻訳には上限があるという前提を置くことだ。そして、その上限を貫通する声こそが希少であり、その最前線に羊宮妃那がいるという結論に至ったのが本稿。だからこそ、その希少性を説明するためには、出演作やキャリアの長さといった、短絡的なものの「見立て」ではなく、声そのものが受け手にどれほど作用してしまうかという観点から見なければならない。


このとき軸足となるのが、悠木碧加藤英美里上田麗奈水橋かおり、そして「語り手」という概念の最高点に位置する櫻井孝宏である。これら一群らと比較しても十分に耐えうる声であるということが重要なのである。だからこそ冒頭で、『コロンボ』におけるピーター・フォーク小池朝雄ヒース・レジャー, ホアキン・フェニックス, V(『Vフォー・ヴェンデッタ』)といった、変換不能性を帯びた発声×演技の実例を「共有前提」として置いた。

ここで言う変換不能性とは、テキストの意味を越えて声そのものが意味の担い手になる現象である。この前提を踏まえると、中国圏でのMyGO!!!!!の根強い受容も説明がつく。中国語版のMyGO!!!!!楽曲は存在せず、日本語版のみが流通しているにもかかわらず評価が高いのは、まさに翻訳(言語)を越えて届く声の力が働いているからだ。ホアキンの声やVの仮面の「非翻訳性」が伝わるのと同型の現象として、羊宮妃那の歌唱=発声が機能している、というわけである。それが全てとは言い切れないが、歌唱が受けなければMygo!!!!!の人気は説明できないというのも確かな事実であるのはご存知の通り。

 

そしてその「希少性」ある声の正体とは何か?ということを考える時に一つの答えに行き当たる。それが「表音文字」「表意文字」そして「表義文字」という文字帯系列。

音で伝わる文字(ひらがな、カタカナ)

意で伝わる文字(漢字が典型的-「花」「死」「夢」など、形そのものに意味がある)

この二つまでは言語学的にも確立された区分だが、そこに第三の層=表義文字を置く。
それは「文字自体が感情や世界観を発生させる」段階である。

 

もちろん正式な用語では存在しない。だが、表音+表意=表義として読み替えると、声という現象が「音と意味の合成によって世界を構築する」営みであることがわかる。

この構造は、マズローの欲求五段階説における「超越的欲求」に似ている。マズローが五段階を説いたあとに第六段階として「自己超越」を提示しながら、学説としては未体系化に終わった。つまり到達されながらも理論化されなかった層。表義文字も同じく、言語体系の外側でありながら、確かに存在する「超越的な伝達」を示している。

そして、この考え方を最もよく象徴するテキストが、テッド・チャンの『あなたの人生の物語』である。あの作品で描かれるヘプタポッドの言語は、一文が同時に始まりと終わりを持つという構造をとっており、言葉が時間と因果を越えて「世界の形」そのものになる。つまり、「読むこと」と「見ること」、「音」と「意」が分離していない。
これはまさに「表義的言語」であり、声が持つ多層的な意味伝達。音と意と義が同時に働く現象を説明する上で最も近い文学的モデル。

そして、その映像化としてヴィルヌーヴの『ARRIVAL』がある。映画を見れば誰でもわかるように、ヘプタポッドの文字は「円環」そのものだ。始まりと終わりが同時に存在し、時間が折りたたまれ、意味が流動する。つまりそれは、言語が「読むこと」と「見ること」を同時に成立させる構造の可視化である。だから私は、この「ヘプタポッド文字」をそのまま「声優」に置き換えても成立すると考えた。声優の発声とは、言語を時間軸で並べる行為ではなく、瞬間において世界を全体的に生成する行為である。一音一語が過去と未来を含み、演技の「円環」を描く。まるでヘプタポッドの文字が時間を同時に記述するように、声優の声もまた感情・意味・身体・時間を同時に「描く」。その構造を最も純粋な形で体現しているのが、羊宮妃那という存在なのだ。というのがあの記事で伝えたかったのが

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この記事を出した意味で意義でもある。そして、これらの理論が正しいかどうかはともかくとして、「表音声優」「表意声優」「表義声優」という三分類を設定した瞬間、
この世に存在するあらゆる役者は分類可能になるという結論に達した。

 

  • 表音声優とは、音の抑揚やリズムで感情を立ち上げる演者。
  • 表意声優とは、言葉の意味や構文の精度で情景を紡ぐ演者。
  • 表義声優とは、声そのものが世界観を生み出す演者である。

 

この区分を適用してみると、驚くほど整合的に見えてくる。たとえば『ガンダム』シリーズの主人公像は、逆説的だが「音」が主因の声優でなければ成立しない。アムロ・レイの数々の台詞回しにしても古谷徹が発声する「言葉の配列」の美しさよりも「音」が機能しているからこそ、「親父にも殴られたことないのに」と言ったセリフが耳に馴染むし、富野由悠季の独特な言い回しもあって、結果的に「残る」台詞となる。

実際問題他のガンダムの主人公にしたって作品として情動的な面があるのと、「叫ぶ」ことが必然性としてある以上、声にかかる「音」が際立つ役者にしか務まらないという側面は確かにあるのだ。なぜならこの「叫び」こそ、音の純粋な表出であり、物語世界を支えるためには音のエネルギーを持つ声優でなければ成立しない。ガンダム=音の宇宙といえば一発で分かっていただけるだろうか。

 

もちろん声優とは本来、声に特徴があることが前提だ。しかし『ガンダム』の主人公たちが「音」を中心に選ばれてきたことは、この表音的特質を、物語構造そのものが補強し続けている証でもある。

 

一方で表意は「語り手」に属する声優という意味では、トーンが一定の帯域で発声して崩れない、それこそ川澄綾子田中敦子早見沙織といった「台詞」の一音一音が目立つ役者であることもまた、想像に難くない。ここに属する役者は基軸となる声そのものが、「言葉の意味」を精密に構築していくタイプと言える。男性なら神谷浩史がその最たる例だ。そうでなければ「阿良々木暦」は成立しえない。どんな饒舌でも崩壊しないあの異常とも言える滑舌の美しさはやはり「音」よりも「意味」を象徴する。

つまり、表意系の声は「音」よりも「意」を重視しており、一つひとつの台詞がまるで文章のように意味の文法を持っている。だからこそ、台詞や言い回しに「妙」があればそれが視聴者に伝染するのである。

 

ここで整理すると面白いのがガンダムのセリフは実際の役者の声、あるいはそれに寄せることで成立し、再現されることは多い。「声の高さ」や「リズム」、「叫び方」さえ再構成できれば、それらしい「音の再現」は成立する。

 

一方で表意系の「演技」というのはおおよそ「真似」できないのがポイントだ。それは声のトーンや抑揚の問題ではなく、「言葉の意味をどう構築しているか」という内的構文の問題だからだ。つまり、演技が「声」ではなく「言語運用」に支えられているため、模倣の対象が存在しない。だからこそ、発声を伴わない「文章」つまり文字媒体においては、むしろその表意的構造が感染的に増幅される。読み手がその語りのリズムを頭の中で再生することで、声優の文体的影響が「文字」として残存し得る。

 

そして「表義声優」である。これは「模倣不可」であり重力、磁場を揺らす軸である。

表義的声は、意味や感情を超えて存在そのものを変調させる。聞く者の認識をわずかにずらし、世界の密度を変えてしまうという意味で一種の超能力と形容していいだろう。

ここに属する声優はごく僅かだ。表音、表意は、切り替えや演技帯で切り替えがあるので、ばらつくが、ここの領域に至っては、名のある声優をどれほど列挙しても、「誰が選んでも一致する」ような数人しか該当しない。彼らは声を発するたびに、言葉の外側に世界を出現させる。声が響いた瞬間に、音ではなく「場」が生まれる。それこそが表義声優の定義である。そしてその領域にいる声優こそが一部抜粋するとして

櫻井孝宏(声質がテノールからアルトまで同じなのに全部違う演技になる)

関智一(テノールからソプラノまでスイッチのように「声」が切り替えられる)

山寺宏一(言わずと知れた七色声はもはや神域)

上田麗奈(ソプラノ調の発声と妖艶さは随一)

沢城みゆき(どの領域でも違和感なくキャラを演じられる天性の「声」)

悠木碧(人間性を一時的に解除できるキャラクター声は世界一)

そして、この列に羊宮妃那が確実に加わる。ようやく辿り着いたが、こここそが最も重要な地点である。羊宮の声は「歌唱」と「演技」という二項を容易に超越する。
というよりも、彼女にとって歌唱=演技=表現は常に同一平面上にある。通常、声優が歌うとき、発声は演技の延長線上にある。つまり早見沙織が歌っても、ああ、「早見沙織が歌を歌っている」という、ごくごく当たり前の認識の切り替わりがある。しかし羊宮妃那の場合、声が音楽の構造そのものになる。それはメロディやリズムに依存せず、声自体が世界を震わせ、聞き手の感情を空気の密度として変化させる。そうでなければ『Mygo!!!!!』の楽曲は成立しないというのがその証左。そこがあるからこそ、リスナーとしての我々は驚嘆している。そしてそれに近いものは先述の通り、上田麗奈の歌唱くらいしか、類例として挙げられるものが、そもそも存在しない。そしてここにおける共通項は両者ともに表義であり、そこ空間上にいる役者であればということも自明である。

 

そして今や、この二人は富野由悠季の世界で象徴的なキャラクターを担う。上田麗奈は『閃光のハサウェイ』にて「ギギ・アンダルシア」を、羊宮妃那は『ジークアクス』において、「ララァ・スン」を演じた。富野作品の中でもっとも人間の知覚と魂の境界を描く役柄を、この二人が引き受けたこと自体が象徴的だ。表義的声優とは、魂と構造のあいだに声を置く存在であり、この定義を、この共通項が証明している。

 

以上が、羊宮妃那という「声」の存在性を考える中で生まれた、『MyGO!!!!!』における「迷える羊」の声から始まった、一年間にわたる個人的変遷の思索である。

この一年で発表した五本の記事を通して、ようやく見えてきたのは「声」という現象そのものだった。それはやがて「羊宮妃那」という個にとどまらず、「声優」という役者帯をどのように捉えうるのか、という地点へと拡張していった。結果として論は壮大になってしまったが、それもまた一人の表現者が「声」という存在のあり方を考えさせてくれた賜物である。羊宮妃那という役者がいなければ、この思索は決して生まれなかった。

そうした意味で、「今後」の是非よりも、まずこの一年において確かに名前を刻んだ役者であり、だからこそ「文章」として冒険することができた。

今後いかなることがあろうともMygo!!!!!の『焚音打』において高松燈として、そしてそれ以上にやはり表現者:羊宮 妃那としての

大丈夫 僕たちは進もう 迷うことにもう迷わない

という言葉は、まさにその象徴である。

焚音打

焚音打

  • MyGO!!!!!
  • アニメ
  • ¥255
  • provided courtesy of iTunes

いまの時代、「sheeple(sheep+people)」という言葉がある。
情報に流される大衆を揶揄するこの語を、あえて肯定的に転用したい。すなわち「羊化」とは、羊宮妃那の声に導かれ、迷いながらも声の世界を彷徨い続ける聴衆たちのことだ。フィリップ・K・ディック的に言うなら、それは一頭の「電気的存在」が私たちを導く構図であり、「迷える羊」とは、声を求める受け手そのもののことなのだ。

 

 

Do Seiyuu Dream of Acoustic Sheep?


Yes — by Youmiya, as the Electric One.

 

 


サムネイル画像は、POSiTRONによる作品「Lucky Sheep」

(デザイン:土井宏明、出典:PressWalkerプレスリリース)より引用。
本画像は文脈における参照として使用しています。