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Music Synopsis

音楽に思考の補助線を引く

劇場版『チェンソーマン レゼ篇』に見るアニメ作品における音響監督の重要性─名倉靖音響が持つ系譜

かなり真面目に思うんだけど、『チェンソーマン』の音響がなかなかしっくりこない。それなりにはアニメ作品はみてる中で、こんなにも耳の居心地が歪なのはかなり稀。
つい先日、原作未読の状態で総集編を見たという最中。これが「初めまして」である。
巧拙の類というよりも、キャラと役者が両立していないorアタックが弱いという声/音響の力学的な話である。平たくいえば天秤において均一であるところがどちらかに偏り「すぎている」という話。これが結論。そう感じた理由をこの記事で述べていきたい。

初めましての方は先にこちらを読んでおくと色々話早いです。

sai96i.hateblo.jp

 

いわゆる近年における三大ジャンプ作品にあたる某鬼のアニメ、『呪術廻戦』『チェンソーマン』の中では一番若手起用を積極的に採用しているタイプで、それすなわち大御所に頼らない演技で決めると言う意味では心意気は買うし、ある側面においてはわかる。
 
でもそれはビッグタイトル/巨大IP作品の主軸に添えていい理由にはならない。
 
そして仮に、若年軸で進めるのであれば、それ相応の「バランス」が求められるし、それがないと「破綻」するに決まってる。ソロで上手いやつが一人入れば成立するという作品の類であればまだ、片方をベテランにすることでバランス維持と言うの可能だが、往々にして漫画というのは複数人/多人数で組まれるものである。組織ものでも学校ものでも。だからこそ、もし添えるなら「若手、若手、若手、大手、大手」のようなくくり方をしないそれができないなら、最初から絶対に外さない大手で固めるか。メジャーな作品であればあるほど、この二択しかない。
 
例えばそれなりに注目度の高い、直近の作品で言えば『千歳くんはラムネ瓶のなか』のキャスティングを確認してみよう。

アニメ『千歳くんはラムネ瓶のなか』メインキャスト

まぁそれこそ、早川アキ役の坂田氏がメインを演じている作品なわけですが主人公、ヒロインズというラノベ構築ではあるものの、やっぱり立てているヒロインは石見舞菜香・羊宮妃那・長谷川育美の三人というのは年代的にも明らかだ。この三人は現在最も勢いのある役者群であり、これからの主役を担っていく真っ只中の方々である。ただそれだと演技帯でバランスが取れないからこそ、大久保と安済知佳という2010年代に主に活躍された中堅どころを入れている。これは青春ラブコメ系とはいえ、全員が新人かそれに近い若手だと崩れる。だからバランサーとして石見・羊宮・長谷川を支える配役としてみるべきだ。音響はてっきり青春ラノベアニメで『はがない』『俺ガイル』『俺妹』『弱キャラ友崎くん』を歴任されてきた本山哲さんがご担当されると思ったのだがそうはならず、ということで案外驚いているのですが、まぁ構築の仕方がそういった作品群に寄らざるをえないというのは誰もがわかるラインである。人気声優トライアングル+中堅バランサーで、若手の伸びを殺さず会話の重心を安定させることはどう考えても最低条件なのだ。

 
要するに、人気声優と中堅の二段構え石見・羊宮・長谷川の三叉に大久保・安済を噛ませ、坂田の低中域で芯を通す設計。そして制作はfeel.の地に足の着いた芝居に今組める最高の2025年型ラブコメの王道キャスティングだ。安済の出身でもある、福井ローカルも絡めて、地域性と普遍性の両取りを狙っていると言う意味では本作もかなりデカく見積もっている作品と言える。なによりも初回拡大・分割2クールという投資配分からも、盤石の推し出し体制である。つまり、売り出したい作品はこのように、設計思想が明確にならないといけない。
 
ましてや冒頭に述べた通り、日本アニメとして全部の工程が最高峰で出さざるを得ないという、超大規模IPであるなら、生半可な組み方というのは目立つ。『チェンソーマン』は、本当その典型だと、自分はものすごく感じた。
 
TV版『チェンソーマン』の主役四人は、戸谷菊之介(デンジ)、楠木ともり(マキマ)、坂田将吾(早川アキ)、ファイルーズあい(パワー)。いずれも20年代の新主役層。
重鎮は津田健次郎(岸辺)だけで、中堅としては伊瀬茉莉也(姫野)などサポート側に回る配置。しかも作品がラディカルな作品であるからこそ、役者感における演技の掛け合いにおいて地盤が硬くないと現場の役者が若すぎてキャラ負けするんですよ。前提として役者は一切悪くない。ここで問題したいのは音響の均等割についてであることをは前提として述べておきたい。
 
で、まぁ主人公デンジが戸谷菊之介はいいとしましょう。早川アキも、主人公が若手なら同じ若手の坂田将吾を添えるのもいいし、なにより「こん」の2文字の発話で個人的には「あ、うまい」と感じ取れた(鑑賞後、青二所属で流石に納得)。こういう新鮮な感覚を味わえるという意味でも新規気鋭の役者で主人公と相棒を構築する感覚は、まだわかる。もっと強いアタックができる役者を持ってきたらそれはそれで安定感というものが得ることはできたと思うが、活力と素朴な演技の掛け合いさはおそらく生まれないから。パワーには奇天烈の推進力が必須で、ファイルーズあいの積み上げがそこを担保(ノーベル賞のくだりや、明らかに変なことを発話しているのに、言っている本人は大マジと思えるところに味が出るという演技は間違いなく成立している)。
 
つまりどう聴くかという意味合いにおいて「演技」軸と「声」軸の二つでそれぞれ「うまい」と「あっている」が両立すればそれすなわちキャスティング原理として文句なしということだ。
 
姫野の伊瀬茉莉也は、キルアを担った歴が示すとおり中低域の支えが堅く、早川—姫野帯の会話は彼女の存在で息の幅が確保される。キャラクターもしっかりと妖艶とかっこよさの中に、普通人感としての演技というのは流石だったし、役内でも姫野が早川を指導するが、演者の力学でも伊瀬が梁となって場の重心を安定させ、新規主役層が思い切り踏み込めるクリアランスさ。対位法で言えば、最も均整が取れているのはこのライン。キャラクターと役者のバランスが等分されている。ここまではキャラに、実態が伴っている比重よりの若手起用であるとすれば納得がいく。当然、ベテランと中堅で構築された呪術、鬼と比べると相対的に弱い、でも大手に頼らないなりに組むデッキとしては良い方向性には向かっているというのは確かにある。そういった意味での新鮮さは明らかに効果としては生まれている。
 

が、しかし統括者=マキマという「場を支配する声」を、楠木ともりに据えた必然は他と異なり、見いだしにくい。これは巧拙の問題ではない。楠木の美点である明度の高い芯と滑らかな運びはものすごくよく分かるし、そういった演技でGGOのレンといった役柄をこなしてきたというのも、来歴としては人気作を請け負うと言う点においては十分わかる。しかし、マキマという造形はアニメを見る限りだが、生来低域の支配力と語尾で空気を止める停止力を要求するタイプ。中盤に襲撃返しとして「手動型生贄方式版デスノート暗唱全身スキャナーズ爆破」的な能力を発動する時に名前を要求させるしぐさ、公安に属する社会性集団として、いってみれば課員をまとめる上長感っていうのがそういう意味では本来求められるリアリティがまずあって然るべき。記号性だけとはいえ、公安という組織の統括者としての声。これはキャラ解像度以前の職能要件で、経験者ほど有利な領域。それを、いまの楠木のキャリアと声の設計では、その威圧を持続的に提示するのは酷だ。

 

結果、台詞の意味は強いのに音のトーンが相対的に軽く、画面上では優しい管理者に収まってしまう。それが味であり後半に効くという意見も知り合いの既読勢から指摘を受けたが、そんなのはただの甘えなんですよ。それはアニメ視聴において、N話までみないと面白さがアニメでは伝わらないというのと同じで、それは作法としてあんまり自信がないのと同じ。

 

いい加減、呪詛のような言説ではあるが、いわゆる『まどか』三話以後の三話中心説っていうのも、あれはそもそもの認識がおかしくって「転換点」でしかない。三話を「面白さ」の駆動と勘違いしている。『まどか』は1話から面白い。じゃないと当時十話の構造美には繋がらないし楽しめないでしょう。虚淵玄は最初から面白い本を提示していて、その「面白い」のベクトルが変わるのが三話であって、話の骨格は一話からある。骨格そのものではなくベクトルの転換。言い換えれば、「この物語は可愛い魔法少女の冒険ではなく、死と交換契約の物語として走る」という方向指示。だからあれは構造を変えたのではなく、面白さの軸を切り替えたにすぎないだから、たとえ三話の出来事(巴マミの退場)がなかったとしても、観客はすでに「この世界、何かおかしい」という磁場に、イヌカレーの美術を通して引きずり込まれていたわけあり、それすなわち三話は「方向を変えた」だけで、「面白さを起動した」のではない。

 

この原則はキャスティングにも等しく当てはまる。アニメはアニメで、その時点の情報だけで説得力が完結する設計にするべきだし、「終わりありき」で芝居の意味付けを遡及させるのは作り手の甘えになりやすい。なによりも「役」以上に「キャラが弱そう」「声が軽い」「なんか違う」と思わせてしまう時点で、それは破綻なんですよ。対極的にいえば五条悟=中村悠一に文句をつける人は絶対いないと思うんです。そのくらい強度ある設計にするべし、ということだ。その線でいえば、中村悠一キャラにしては珍しく最強、と思いきや諏訪部順一演ずる両面宿儺には負けるというじゃないですか。

もし、「終わり逆算で考えればあれはあれであり」という世迷言が通じるのであれば、それは五条は最終的に負けるから中村悠一ではなくてもいいというのと理屈は同じ。

でも、たとえそうであってもやはりグラハム・エーカー司波達也折木奉太郎、ラインハルト・ヴァン・アストレアなど「最強/優秀」を歴任してきた声に託するのが本来のあり方で、そのキャスティングで皆が納得している。あの配役が批判不能なほど納得を得たのは、物語の結末に関わらず初見で強度が保証されていたから。

 

その象徴が「大丈夫、ぼく最強だから」になるわけです。

五条悟が出てきて「大丈夫、僕最強だから」と言った瞬間、誰もが「うん、この人最強だわ」って納得する。そして、そこに本来理屈なんて要らない。

あれを中村悠一に配置することで、先に強度を提示し、後で奥行きを増す。この順序を守る限りは既読にも未読にも誠実な体験になるし損はしない。最初から均等に「良い」という設計であれば話が進むにつれ、「ああ終盤はこういうキャラなんだ、じゃあ序盤の演技もいいか」という己が一度言葉にだしたことに対して、手のひら返して評価するのという事象も発生しない。

そして『チェンソーマン』でいえばそこを一番徹底させるべきキャラクターこそ、マキマである。中村の五条悟というキャスティングを認めるなら、「ああなる、こうなる」という後知恵免罪で楠木マキマを擁護するのは一貫性がない。大体「終わりで意味が出る」。それを認めるなら、『仮面ライダーアギト』終盤の賛否も同じ理屈で丸呑みができるはずだ。だから、基本的なあり方としては、全くの初見でも通じる設計であるべき。ましてや声であり明らかに強いキャラクターというのは立場と力関係的に聴覚的にも視覚的にもわかるのだから、後から通しても「ああ、たしかに初期から強い演技だったしな」といえるだけの想像力は先に提示すべきである。

 

初見強度は、いってみれば既知の勝ち筋。同時にこれはスター声優の起用礼賛ではない。役柄には「初見で威信を確保してから奥行きを掘るタイプ」と「過程で強度を自作するタイプ」があり、前者に属する役(顕示的強者/制度的支配者)は前貸しを要求する、という機能論にすぎない。中村=五条を肯定する瞬間に、その評価の仕方はマキマにも連帯責任で及ぶ。ここを曖昧にして「終盤でわかるから大丈夫」と言い換えるのは、評価の時間軸を都合よく移し替えるだけで、基準の透明性を損なうということだ。

その意味では先述の通り、伊瀬茉莉也の姫野は、役とキャリアが一致した重心で奥行きが鳴って響いている。早川—姫野の会話帯が崩れないのは、伊瀬が梁として中低域を張り、坂田との会話の場の呼吸を作っているからだ。このペアによって余計に際立つ。さらにややこしいのは、キャスティングにおける監督とその処理に関わったであろう音響監督・小泉紀介氏が「アニメ感を抜いて、普通に喋る」方向=写実・映画寄りの方針を打ち出した点だ。

shueisha.online

“こういう声”という既存作品のキャラクターのイメージから仕上げるのではなく、「デンジはデンジの声」「マキマはマキマの声」として考え抜き、キャスト陣を決めていきました。

そのため、オーディションにはきちんと時間をかけており、声優さんたちにはテープオーディションや立ち合いオーディションなどいくつかの選考を踏んでいただきました。その上でデンジの戸谷さん、マキマの楠木(ともり)さん、パワーのファイルーズ(あい)さん、アキの坂田(将吾)さんに決まったんです。 

また、このインタビュー、とっても面白いことを述べている。

プロデューサー陣はどんな作品でも等しく「この作品を映像化するにはどのような形が1番いいか」を考えます。その上で演出や表現のイメージを膨らませ、そういった演出や表現を実現できる、あるいは得意とする人にディレクションの依頼をします。

チェンソーマン』でも同様のことを考えたのですが、原作が今までのジャンプ作品とは異なる色を持っていたため、演出や表現の決まった型を持つ人より、“型を持たない新しい人”にディレクションしていただくことでおもしろくなるのではないかと考えたんです。

 前半で「どの作品でも最適な映像化を等しく考える」と言っておきながら、後半では「チェンソーマンは型を持たない新しい人に任せるべきだ」と方向を決めている。
これは「検討プロセスがあった」というより「最初から答えが見えていた」ように読める。「等しく考える=中立性をアピールする言葉」と「新しい人に任せる=方向性を決め打つ言葉」が同じ段落に共存することで、矛盾が強調されている。本来、この手の記事は意図的に言葉を選んでいるはずなのに、かえって論理的な不整合が際立っている。

特に「ジャンプ×MAPPA×チェンソーマン」という大型座組では、「最初から演出家の方向性が決まっていました」とは大手をふっては言えない。だから「等しく考えた結果、今回はこうなりました」という建前をつけざるを得ない。しかしその結果、かえって言葉の整合性の破綻が目立ってしまっている。その意味では同じMAPPAが制作した『呪術廻戦』とは逆にアプローチでいくということを、構造レベルで証言しているのも同義。『チェンソーマン』は型を外れた人材を配して新奇・異色へと転がしていっている。そうした仕草は演技指導でも表れている。あえてマキマは「ミステリアス」感を脱色させている。

www.tvlife.jp

 楠木:最初はマキマのミステリアスさを含ませようとしたんですけど、監督にはそのニュアンスは入れなくて良いとディレクションがありました。これは私の解釈ですけど、特に序盤はデンジ君から見たマキマが多く描かれているので、そうする必要はないのかなと。ですので、基本的にフラットなテンションで、つかみどころがないけど、たまにかわいさがちょっと見えればベストかなと思って演じています。

これは思想として一貫しているが、子音のエッジや語尾の跳ねを抑える処方自体が、マキマの無言の威圧を演じようとさせない。故に、役の造形に求められる圧を音色側で出し切るに難しいことと、演出側がアタックを穏やかに処理する設計であることが二重に重なり、マキマが「公安の統括者」ではなく「そこらへんにいる感じのよい年上の女性」どまりになってしまっている。比喩的にいえば役職持ちの「部長」という権威ではなく、せいぜい入社5年先の先輩程度の距離感に沈む。聴感上矮小化されている。

メタな話でみれば、デビュー年で見れば楠木は2017年、戸谷は2020年で約3年差。初主演ベースでも約4年差にとどまる。なので実測は3〜4年だが、受け手のメタ認知では「先輩/後輩」の印象が体感5年に拡張され、先に述べた「入社5年先の先輩説」像を逆説的に強めてしまう。このズレが、可聴の威圧を欠いたときの「良い先輩」読解へ拍車をかける。確かに、物語上、デンジに与える感覚はその程度で足りるとしても、観客には先を見越せる可聴の伏線が必要だ。

でなければ、新幹線の銃撃で「あーマキマ、死んじまったかぁ」というふうにしかならない。声の強度としてはマキマ登場で色々となにかを言っても声から中村的な「覇気」に相当する可聴の威圧が立ち上がってこない。そしてそれはある意味で、『ウルトラマン』第一話におけるハヤタ隊員の死に対する「作劇上そこに時間かけられないから発生するあっけらかんな反応」が正当化されてしまうのと同義。

なぜなら、「気前のいいそこら辺にいる女性」なら銃で撃たれたら「まあしゃーない」という退場のやむなしと印象としての残り香しかそこにはないから。ゆえに、どれだけ構造上は生存するキャラであったとしても、音としての説得力がなければ生きている≠立っている。立つのは音。ゆえに、アニメである。そして、大原則として元々声がないキャラクターに音を当てる、その所業、料理の仕方は担当する演者に依拠する。

ラピュタ』で言えば

「いいぞ!!」→「繋がりました!!」→「私はムスカ大佐だ」

この一連こそが演技音響の最高峰。こう言われたら確かにムスカは終盤バルスであっけなく退場するけどちゃんと難敵である存在感があるからこそ、キャラが立つわけです。

 

これも「頑張れムスカ」のネタにはなってるけどなるだけの強度があるということ。

作品の美学(写実)自体は理解可能。問題は、その思想が機能的に正しかったかです。

マキマの演技指導にしても、コンセプトとしての「ミステリアス脱色」はやっても、支配性の輪郭は別ルートで立て直すべきだった。『呪術廻戦』は型で守る設計、『チェンソーマン』は型を捨てる設計で突き進んだわけですが、後者でも臨時の処理というのは必要なはず。その単一の設計で押し切った結果、全体軸のバランスが崩れている。

統治者の声は沈黙を支配しなければならない以上、ここだけは「素の喋り/映画的」よりも機能を優先させるべき領域だ。他のキャラクターは役と演者が1対1の対偶でおおむね納得がいくが、マキマだけは写実主義より統治の機能美を先に立てないと、キャラクターが演者に押される。また、監督に統括性があるのは事実として、大型IPのキャスティングや演技帯に深く口を出すべきではない場面がある。そのための音響だからだ。しかも本作の場合、その音響も“自然体”を支持しており、話をややこしくしている。

監督が音響(キャスティング/演技設計/ミックス方針)に深く介入すると、作品の背骨よりも個人の美学が前景化しやすい。極端に言えば自我が出る。これが歴戦の監督であれば、その経験値が作品と合致し、活きてくるのであり、そうでない人が出すとから回る、ということだ。

 

この歪みは、メディアミックス型(例:BanG Dream! の演じる×歌う×演奏する×顔出しの複合プロジェクト)ではさらに増幅される。羊宮妃那/林鼓子/高尾奏音のような中核の声だけが突出し、他は特定IPに限定的なフランチャイズ声優的に見えやすい現象が起き、結果的にアニメのキャスティングが歪に進む。『MyGO!!!!!』『Ave Mujica』を観た人なら体感しているはずだ。目的が異なる以上、それはそれで成立するが、チェンソーマン級の巨大IPで監督のこだわりが音響領域へ強く割り込むのは、適切な所作ではない。

まぁ小日向美香は倍音が強すぎるからこそ、一ノ瀬そよ時代の演技の方が映えているあたり、子供役を演じる方が上手いタイプの声質。等身大の女学生よりも、辿々しさや未成熟を音色自体で演出できるためだ。言い換えればかなり強い表音タイプで、音色の設計が意味の運搬を先導する。その意味では年少役・幼いニュアンスに非常に相性が良い。そもそも声が辿々しい生来の子供の声のあり方、という性質と、倍音が大きすぎるという点が、幼少期を演じるには最良。であれば、その点を統御できれば全然他の可能性だ。『MyGO!!!!!』における跳ねる抑揚で走るのではなく、そこに発声として滑走性へと変えていけば、繋ぎ目がわからないように音と音との移動させる演奏のような発声アプローチをすれば当然、地声でも活きてくる。

要は、声が強すぎる=幼さという声の輪郭が強いだから、今の声に、年齢の根を足せばいいだけの話。具体例は『MyGO!!!!!』第9話を参照。

 

まぁそれはそれとして、結論として、美学は尊重するが、統治者の声だけは機能を先に。音響監督が帯域設計(低域の支配/語尾の停止/倍音の立ち上がり)を握り、監督の美学は背骨を折らない範囲で流し込む。これが本作の規模で求められる正しい力のかけ方である。

 

そんな中で、唯一それを達成して、「場」として聞けるのが師匠役の津田健次郎彼が喋ってるところは当たり前だけどすごく音響として低音が響いて歴戦のキャラクターという投射ができている。でもこの『チェンソーマン』という作品においてメインにおけるキャラクターで大手型が津田健次郎一人しかいないというのも、やはりバランスがおかしい。もう少しあの世界には声の度合いが強い声優がいないと、世界や起きる事象に対して、声がどうしても弱っちい感覚になるのは若手故に存在する磁場。だからこそ、津田健次郎の岸辺や伊瀬茉莉也の姫野が場を鳴らすのは、演技だけでなく音響的な重量があるからであり、ここを音響監督の設計で補うのが筋。

 

万事がこの調子なので、内容はシリアスかつハードなのに、声だけが軽い。東山コベニ(高橋花林)も、「躁鬱の振れ幅」と「芯の強さ」という二極を、経験の浅い役者に背負わせた結果、聴感上は弱々しいのにキャラクター設定だけが強いという逆転が起きている。本来は「躁鬱の振れ幅 × 音の粒立ち」で声色の強度を初手から担保すべき。作品や役者の良し悪しではかる、という意味合いはないが、トーン(作品世界の音色)と声のブランド管理という観点でいえば『アサルトリリィ BOUQUET』に出演している高橋花林が『チェンソーマン』の殺伐世界の配役を当てる、というのは無理な話ではない。しかし、成立においては、なかなか高度な声優でもない限り、技術的にもかなり高い故に、基本的には考えにくいというのが実際だと考える。

作品×声の位相合わせがキャスティングの第一原理なのは確実なのだから。それでもそのトーンを採るならその点はベテランに一任するべきで、それ以外にはそもそも「音響」としては得てして成立しない。だからアニメでコベニの演技をみていても、声域帯は「可視の可憐さ」を「可聴の芯」で打ち消す設計が要るのに、それが欠けた結果、世界観の硬度に対して声だけが軽く見えてしまう。あの地獄みたいな世界で戦う以上、可憐さに寄ったビジュアルを声のトーンで中和し、可愛さとブレを抱えつつも縦芯が通っていることを最初に提示しなければならない。だから、ここは外へ出過ぎず内部で温度差を作れるタイプのベテランとして、悠木碧付近の役者帯をできる人が演じた方が、コベニというキャラクターは決して軽くは見られないし、ああいう世界でデビルハンターを行うだけの理由が声だけで説明できる。感情の上下を制御でき、人間性を一段解除する声帯として機能するという意味でも、そういったベテランでないからこそ、逆にキャラクターが軽く見えた。

象徴としてあげるのであれば、それこそ「佐倉綾音」のような、『ごちうさ』で可憐さ『艦隊これくしょん』では声域劇場をこなし『PSYCHO-PASS2』ではおおよそ全視聴者から反感を得たくらい、「嫌悪さ」の演技まで確立した多芸さ。あくまでもわかりやすさという意味を優先したが、要はそういった巧い役者が本来は添えられるべき。これは直感でも推しという図りでもなく、「起点」に誰の音響があり、「進化」に岩浪音響がいたかどうかの有無。

そう、*1明田川仁の仕事群は、歴代の大手を支える可聴の基盤を量産してきた系譜。

ToHeart』『ゼーガペイン』『とらドラ!』『超電磁砲』から『ごちうさ』『GGO』『空の青さを知る人よ』『トラペジウム』に至るまで、台詞の旋律と語尾の設計で新人の初速と、若手-中堅の集合体の音響座組を上げてきた。

 

もっと馴染みのある実例を出す。ネットミームの文脈で言えば、「オルガ・イツカ細谷佳正」という起用。あのキャラクターでネット民が散々遊べたのは、明田川仁ラインの音響設計が極太だったからだ。本来はお笑いの場面ではないのに、無音→一撃の台詞→低域の余韻という設計があまりに強力で、音が想像力に火を点け、断片だけで引用可能な出来事に変わった(『鉄血のオルフェンズ』の音響監督は明田川仁)。

ここから導ける命題は逆説的だが明快だ。MAD化のしやすさは良い音響アニメの相関指標になり得る(絶対ではない)。相補的に言えば、音響が弱い台詞はMAD素材になりにくい。ゆえに、グレーな存在であるMADであっても、自然発生的に成立して拡がるなら、その作品は多くの場合、音響設計に優れていると言い切れる。

実例はほかにもある。『デスノート』『コードギアス』の「キメ構文」系はもちろん、可愛い声のワンセンテンス耐久(『ご注文はうさぎですか?』のココア、『Re:ゼロ』のレム等)も、音が単体で立つ証拠として機能する。いずれも明田川仁が音響監督として台詞の前傾・粒立ちを徹底しており、ミーム化の「土台」を整えている。

(『ごちうさ』、『Re:ゼロ』ともに音響監督は明田川仁)。

結論として、「世界の硬度に対し、声の硬度を先に立てる」という本稿の原理は、オルガのケースにもっとも分かりやすく実証され、ココアやレムの切り出し耐性にも連続して確認できる。ミームは偶発に見えて、音響の職人芸が支える必然でもある。

 

それ以外に、明田川仁ラインのチルドレンとして代表的な新人/初主演格がハッキリしている例を挙げる。

『トラペジウム』→結川あさき/羊宮妃那〔TV先行ブレイク(『僕ヤバ』『MyGO!!!!!』→劇場主演で〈明田川ライン〉合流〕。

 

そして、若山詩音(第17回・2023)→羊宮妃那(第18回・2024)→結川あさき(第19回・2025)は「新人声優賞」の3年連続ラインである。つまり若山は『空の青さを知る人よ』、結川は『トラペジウム』でいずれも初期段階において、音響監督:明田川仁の案件に参加しており、完璧に明田川チルドレン。

だからこそ、この二人は受賞年の「新人代表」の中に明田川ライン直結が含まれるという構図も成立している。故に明田川系譜は今も現役の育成インフラとして機能しているのだ。その意味で、マキマ役の楠木ともりは『SAO オルタナティブ ガンゲイル・オンライン(GGO)』での抜擢を起点に表舞台へ跳ねた明確な明田川仁チルドレンであり、『チェンソーマン』での大手ポジション起用も、明田川の「耳」が拓いた評価軸の延長線にある。

 

一方で、岩浪音響が得意とするのは低域の支配と無音の張り。この二つを同一個体で両立できる声は、コベニの正解に直結する。だからこそ、明田川×岩浪の交差点に立てるベテランとしての佐倉綾音を添えるのが、設計としての最短距離だ。広義の意味で明田川仁チルドレンの一人ながら、岩浪音響まで接合できるという声の稀有さはまさに、『チェンソーマン』の世界にコベニをおくために必要なものだと思うし、ぶっちゃけそれはマキマも同じ理屈で声を通した方が安定する。その点でいえば、楠木ともり明田川チルドレンとしての資質に加えて岩浪ラインの経験がもう一段あれば、耳で統括者へ届くはずだ。

 

結局、発掘チルドレン × 運用チルドレンを両立できる=表義声優性という存在の圧が隊列に不在なのが最大の問題だ。

 

心的に何かを背負っているor闇を抱えたさを演出するのであれば安済知佳がコベニという線もそれはそれで超怖いし何をしでかわからさの演技がずば抜けるという判断もあり。安済知佳は恐ろしい役者、というよりも多面音響性という意味では本当に輝かしい。『棺姫のチャイカ』(2014年)で「三間雅文の耳に見出された」線からスタートしている。

という、どの音響監督でも完璧にこなし切れる多系統に耐える声なわけです。

発掘=三間、運用=鶴岡/明田川/APU系=安済知佳という逸材。これは反論は少ないはず。だからこそ、怖さ・可憐さ・芯を同一回路で鳴らせるので、安済コベニはifのキャスティングとして優良解だと断言できる。こうした音響のグラデーションと、得意領域における演技の拡張性の観点を差し引いてでも、その可憐さボイスでで突き進むであれば、ポっとでだけでもいいから、さらに味方陣営(公安サイド)には即時に声のプレゼンスを立てる安定声を最低一枚の楔として、重ねておきたい。それだけで隊列の強度は保たれる。

 

その意味ではその象徴としては松岡禎丞はそのライン軸には最適で、『ソードアートオンライン』において岩浪音響チルドレンで時代を確立(桐谷和人=キリト)し、そこに明田川仁音響が変奏がはいりノーゲーム・ノーライフ』(空)/『Re:ゼロから始める異世界生活』(ペテルギウス・ロマネコンティ)といういいズレの配役を経験した上で、小沼則義音響において回帰した「かっこよさ」「ちゃらさ」「つよさ」「悪役味」を同時に出すリコリス・リコイル』(真島)のような多面役者になり今に至る。「リコリコラジオ」第25回でも「真島は役者歴総じてみても、この役はこんな感じ、というものすら度外視してたからこそ、一番自由(フラット)に演じた役だった。本当にそのままで演った」という発言している点からも、自然体でああいう演技ができるという能力。そういう存在感が『チェンソーマン』に最低限必要だった設計図なのではないかとは個人的には思う。

 

でも、この作品は最初からそういう採用をしていない。

 

だから色々とおかしなバランスになっているんです。この作品には明らかに萌え要員は不要だし、いても生存しない世界観なのだから、可愛げだけを前に出す演技は設計上そもそも意味をなさない。ちょい役に高木渉を使うとか、そういうMADHOUSEで『アカギ』における怖い人たちの使い方を本作で援用するのは、少なくも悪手ではない。その上で、『デスノート』でこなしたスタジオがある種MAD HOUSEはMAPPAの精神的前スタジオなわけですし。丸山 正雄さん軸になって設立されたスタジオという意味でもね。

「恐怖のカメオ」で世界観の硬度を底上げするのは有効。古いアニメだが、モブの音響の使い方として古びない作法として挙げたいのが『スクライド』。この谷口悟朗アニメでの採用されているのはそういう使い方だったりするし。というか谷口悟朗アニメにおける「力学」はちゃんと音響に浦上靖夫を置いていたからこそ、あれだけ作品としても受けた一端をになっていたというのは当然の帰結であり、そういう意味では高木渉の使い方、というのは音響の浦上靖夫という天下のレジェンドの作法なのだから、そこは遠慮しないで模倣していいところ。作品内のあり方をねじ曲げずに、どころか世界観を増量できる手筋なのだから。だから、可憐を維持するなら、高木渉のモブに一瞬引けをとる、くらいが、この作品の設計思想のあり方からすればそれ以外にない。つまり、可憐さを守るために、一度壊される必要がある。でも実際のアニメではたただた「キャラ」がヒステリックに叫んでいるだけ。原作からしてそういうキャラなのかもわからないが、少なくとも音が付与された時の印象はそうでしかない。

 

 以上のように、何度も書いているが、「役者の巧拙」ではなく設計論的に読んだ時に新人を起用するのは音響や制作が目指したリアリティ(何を持ってリアリティなのかが明確に定義されていないが)や方向性として冒険した結果、デンジ↔︎パワー/早川アキ↔︎姫野 においてはどちらも女性側の役者の方が歴を積んでいることもあり、バランサーとして機能しているため、それこそ中村/早見というコンビほどの重厚というものはないが、聴けなくはないキャスティングとして落とし込めることができる。が一方でマキマはかなり厳しい。というのが正直なところだ。

この違和感を抱えたまま「なぜ『レゼ篇』では上田麗奈を起用できたのか」を辿ると、音響監督がTV版の小泉紀介から名倉靖に交代している事実に突き当たる。

チェンソーマン 総集篇 エンドロールクレジット

これ、明らかにミスを自覚しているか、あるいは劇場だからそうなのか?って思ったけど、総集編の段階で名倉靖に変わっているあたり、取り直し含め、名倉センスと理解しても、それは解釈としては成立するはず。最初に報道がでたのは2024年12月22日の初報です。しかし変なんですよ。なぜか音響監督の開示がない。おかしいですね。他は細部にいたるまでに明確に提示されているのに。

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記事内のスタッフリスト一覧

その後、本予告解禁から、スタッフ欄に「音響監督:名倉靖」が明記されるようになりました。

2025年7月4日に公開された記事のスタッフリスト

つまり、これらの条件が指し示すものそれは初報段階で「音響監督に小泉氏の名前は公式に示されていない」そして「最終的なクレジットは名倉靖」ということになります。

 

普通、この規模の作品であればどの役職にもそうですが、一様に変わるということは普通はないはず。テレビ版の音響思想を本当に継続するなら初報で小泉名が出て然るべきでありそれが道理というもの。しかしそうではない。つまり名が出なかった時点で「音の基準を更新する可能性」が制作内部で出てきたことは明白。そして、後日の名倉氏が正式発表となった。この事象により、このその読みは確証に近づいた。総集編で耳を作り直し、その結果を携えて本予告期に名義を確定というのは、この手順は、写実基調から機能主義(倍音/低域/無音)へと背骨を差し替える段階的な回頭だったことを示している。

 

その上で、総集編に見られる再編集・再録の気配と、劇場『レゼ篇』の音響を担う名倉氏の経歴『HELLSING OVA』(録音)/『傷物語』三部作(録音)/『ハーモニー』(録音演出)を重ねて見れば、『チェンソーマン レゼ篇』が要請する作劇に近い仕事を既に仕上げてきた人物であることがわかる。上田麗奈の起用は、音響名義が名倉に切り替わる前から既定だった。だからこそ、最初に誰が決めたかは別としても、レゼ=上田麗奈の指名を含め、倍音の立ち上がりと無音の張りを機能で組み直した印象が強い。TV版の理念(写実)を残しつつ、音で物語の重心を戻す方向への回頭である。

 

その意味では匿名性という意味で新人起用を軸にしていたのにレゼは上田というのは、どういうことなのかという疑問も残る。その基準で言えばレゼも若手で羊宮に落ち着くのが「路線」として正しいはず。レゼ枠で「初見で刃が出る声」を要請して機能主義に舵を切ったのなら、マキマも同じ規準で最初からそういう役者にすべきだった。レゼ=機能、マキマ=匿名という割り振りは、制作の考えが「役ごと」に変動している証拠。レゼで機能を選ぶ判断が正しいなら、なおのことマキマは可聴の威信をだせる役者を踏まえたキャスティングでなければならない。方向性そのものが一貫していない。

結果的に「楠木ともりvs上田麗奈」になったときに、明らかに観客の期待は後者にしかよらない。

名倉靖 - allcinema

繰り返しになるが、もしTV版が最適解だったなら、総集編の段階で音響思想を弄る合理性は薄い。それでも変更が先行したという事実そのものが、制作側が「音の基準」を更新する必要を認識していたことの間接証拠になっている。

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チェンソーマン レゼ篇 スタッフリストより

でも当然、決まっている役者さんを変えるわけにはいかないから、テレビシリーズよりかは演技力が向上した現在の力量で、セリフ周りを加えることでなんとか整えたのが自分が初めて見た『チェンソーマン 総集篇』と言うのが実情と踏んでいる。

 

再編集・新録・音響調整というのは、2022年テレビ版を視聴している人の中で噂が広く出回っているあたり、総集編時点で台詞の再録・音響の再調整が入った=映画版の音響思想に寄せるハーモナイズと受け取れる。まぁ、申し訳なさ込みで書くと初見体験が「再編集後の音・芝居」だったわけでで、それでも「アタックが弱い」と感じた自分の耳を信じているので、そういう意味では、初期方針(写実・抑制)の色や舵取りが依然として強いのは実際問題として残っている。マシにはなった(のだろうけど)もっと統一すべきということ。でなければ、こう言った記事を書くはずもないわけだから。

 

そもそも論ではあるが、ジャンプ作品ながら、ダークファンタジーで、という作品の場合、本来はこう言う作品は、昔で言えば『東京喰種』で花江を開花させ、今で言えば『鬼人幻燈抄』を担当して、早見、上田、羊宮を然るべきキャラに配置している切り込み方をしている原口昇といった、すでにダークファンタジーで実績のある音響に当てるべきだと思う。 なぜ音響監督をその人にするのか?という突き詰めの果てに、理屈、実績として初手から鳴らすのが最も合理的。

 

あるいは、一層のこと「公安系」と「ダークファンタジー」の世界観という比重性に重きを置くのであれば岩浪美和の音響設計に一任するのが、最も正しい回答を出してくれる音響座組。それに弐瓶勉ラインに影響を受けた作家であるならば、そのまま音響的にも等式の組み方としては、藤本→弐瓶(『ABARA』)ラインに寄せる→岩浪美和の音響設計(『亜人』『BLAME!』系)」は、ダーク寄りの非ジャンプ的緊張を音で立てる別解の王道でありながら、『PSYCHO-PASS』イズムの公安ラインでも声優を立てることは可能。そしてその場合、劇伴も統一性の観点から菅野祐悟になる。外れる組ではない。

まぁさすがに岩浪さんにかかれば誰も文句はいえない配列音響になると言う意味で、この選択肢はちょっと特別すぎるので、その意味では若林和弘さんを起用して、『攻殻機動隊 SAC』『東のエデン』的な思想ラインの軸足で声優を固めるでも良い。

 

この両者に愛用されている声優群で固められたら、それこそ強度としては鬼のアニメくらいの威力でありながら異色なキャストにもなる。ちなみにラノベ構築の上手い本山 哲は若林系譜の音響。

 

そして、若林音響→本山音響という系譜の最高到達点としての役者が早見沙織だ。
若林和弘は『攻殻機動隊』で公安系=制度の声を鍛える現場を作り、そこに早見は『東のエデン』で合流した。のちに本山哲の『俺ガイル』で雪ノ下雪乃というラノベ系ヒロイン像を確立し、その延長で『魔法科高校の劣等生』が厚みを増す。例外的運用としては、鶴岡陽太による「斧乃木余接」や、藤田亜紀子による「蛇喰夢子」の異形の凄みがあるが、総体として早見は若林系の声の制度性を整える〈透明×芯〉を核に、「公安・司令塔に強い声」と、本山音響の会話劇でヒロイン像を定着「ヒロイン/お嬢様」という等式を黄金比で体現する主が表意主体寄りの表義声優となった。

 

実際問題として、この作品が「なぜこの音響とキャスティングでなければならなかったのか」を設計論で捉えるなら、小泉紀介氏は長年の現場経験と、若手中心の座組を機能させる手腕で一定の成果を示している。戸谷菊之介とファイルーズあいを軸に若年層で「押し切り」つつ、聴けるラインに落とした点は、まさしく氏の技量の賜物だ。

一方で、近年の主要クレジット(『ぼくらのよあけ』『らくだい魔女』『囀る鳥は羽ばたかない』など)はダーク寄りの大型旗艦とは性格を異にする領域が中心で、「ダークファンタジーで一本看板を打ち立てた」実績は相対的に少ない。ゆえに、『チェンソーマン』のようなジャンプ発かつダークファンタジーの大看板では、場数以上に低域の支配や無音の緊張を初手から鳴らす設計が求められ、そこは原口昇氏の系譜(『東京喰種』『鬼人幻燈抄』等)のようなジャンル適性の蓄積が有利に働く場面があったというのが自分の見立てである。
だからこそ、ジャンル特性に対する最適化という一点で、より低域に長けたアプローチを初手から選ぶ余地はあった、という話である。
 
ダークファンタジーの路線に限らず、近年の人気TVアニメからの逆算=適材適所という視座で選ぶなら、『チェンソーマン』における最適解は自ずと導ける。
HALF H·P STUDIOの藤田亜紀子氏が音響監督を務めるのが、最も早く、最も合理的だ。
 
藤田は『呪術廻戦』S1で五条・夏油を中村悠一櫻井孝宏に据えつつ、若手~中堅を絡めて全帯域、つまり榎木淳弥(虎杖)・内田雄馬(伏黒)・瀬戸麻沙美(釘崎)という中堅〜若手の帯域を鳴らす座組を確立し、S2では『NARUTO』のえびなやすのり氏へとバトンタッチさせることで「長期シリーズ」の基礎を築いたし、CloverWorksでは『ぼっち・ざ・ろっく!』『その着せ替え人形は恋をする』『WONDER EGG PRIORITY』と、人気作‐異形作どちらの交通整理も請け負ってきた耳だ。倍音の立ち上がり/低域の支配/無音の張りを作品ごとに最適化しつつ、キャスティングとミックスの両輪で音で物語の重心を返す。

個人的にかなり興味深い、というよりも意表をつかれたキャスティング業としては先述の通り、早見沙織に『賭ケグルイ』で蛇喰夢子をセッティングしたこと。正直、早見沙織に蛇喰夢子は全く思いつけなかった。そういう点からも、人気声優の変奏的に扱えると言う意味でも非常に強い実績がある。また、先述のダークファンタジーと言う意味では藤本タツキが愛好する『ドロヘドロ』のアニメの音響も担当していると言う意味でもやはり最適。
 
では、今度はいい意味で狂ってる作家として見た時に、松井優征/藤本タツキという非ジャンプ的な想像力をジャンプの作品で幅の差とかIPの高低さはあれど、音響のバランスで言えば『逃げ若』の方が映像作品として圧倒的に整っている。
 
あれは、本当に最近デビューした結川あさきが、中村悠一と対比的に組み合わせてる設計でしっかりと受けている。これにはいくつかのポイントがある。
第一に、結川あさきが、中性的な声を持つ演者であること。『トラペジウム』の東ゆうを演じても、性格もあいまって、可愛らしさが目立つという声でもない。むしろ中性的ながら、男性を演じるという性質が似合うタイプの声であり、その声を使い演技をして羊宮妃那や上田麗奈と共演しても、ぶれないどころか、しっかりと主演としてこなせている実力。だからこそ、現在は未定ながらも西尾維新の『暗号学園のいろは』における夕方多夕をボイスコミックで声あてをしていることからもおそらく西尾イズムの造形をこなせるラインにもしっかりかかる。その上で、あの松井優征が描くもろもろ要素が満載の北条時行をテレビアニメのスケールでこなすその多芸さ。東ゆう(高山一実)/北条時行(松井優征)/夕方多夕(西尾維新)という内容、キャラクターともに一筋縄では行かない奇才作家の軸足をすでに三本は持っている稀有な声優であること。絶対に輝ける役者。
藤田亜紀子音響『逃げ若』/明田川仁音響『トラペジウム』音響不明:ボイスコミック『暗号学園のいろは』)

『トラペジウム』東ゆう

『逃げ上手の若君』北条時行

『暗号学園のいろは』夕方多夕
(これも断言していいけど、『暗号学園のいろは』がアニメ化されるなら、音響監督は飯田里樹が最適解、というか実質一択。理由は単純で、「学園/教室×群像×心理戦」という要件を実務と実績で長年回してきたから。『暗殺教室』『ダンガンロンパ』『ようこそ実力至上主義の教室へ』『ペルソナ5』とおおよそ『暗号学園のいろは』に必要な軸足のアニメに関わり続けている音響監督を、西尾の学園もので外すとはなかなかに考えにくい。アニプレックス×講談社×シャフトではなく、アニプレックス×集英社×CloverWoksでどこまで行けるかが楽しみですね。というか、その一歩こそが『逃げ上手の若君』という打ち手とさえ思える。ギリギリの振り切りという意味でも、シャフトを例外的に西尾作劇との差分で魅力を分け合う、という意味でも、この座組以外では多分『暗号学園のいろは』のベストはないと思う。正直、この座組以外で同等の再現度を出すのは難しいと思う。少なくとも「学園×群像×心理戦」の三拍子については、飯田里樹=既に勝ちパターンを持つ音響監督なので、どうか「座組」思考のアニプレックスさん、よろしくお願いします。アニプレックス案件であれば長尺のラジオも聞けますし、音泉ラジオも盛り上がると思います。当然、結川あさきは外すべきではない)
 
そうした声優だからこそ、いい意味で転がすことができる。第二にそこにしっかりと中村悠一という低音が強い役者を当てることで、本編同様に、強い的に立ち向かえるための支援者的存在がしっかりといること。つまり、結川あさき(北条時行)×中村悠一諏訪頼重)の対比設計がしっかりと意図的に配置されているから。その上で他のキャラクターにおける若手と中堅、大手の配置も絶妙。
 
若手枠としては雫=矢野妃菜喜/亜也子=鈴代紗弓/吹雪=戸谷菊之介という配列だし、中堅枠は弧次郎=日野まり/風間玄蕃=悠木碧と、若手〜中堅の明度が並ぶ。
その上で、要所に小西克幸足利尊氏)のような心役が入り、明暗のアンカーが常に存在する。だから物語は常に
というように、バランスが取れるし、それでいて鈴代、戸谷、矢野たちのキャラの群像になっても帯域が団子にならない。
 
そして何を隠そう、この『逃げ上手』の音響もまた、藤田亜紀子である。
 
では、なぜこうした近くに実績を出している音響や別解やアプローチごとの音響の起用にいたらなかったのか?といえば、あくまでも推測だが、MAPPA全額出資で自由にできる、という一種の内製化(社内のリソース完遂型)スタイルの解釈を、「できる」を「やる理由」にすり替え、主語が「俺たち」へ肥大化した結果、「本職に任せる」回路が外れたと言うのが実際でしょう。大体、エンディング・テーマは12組のアーティストが週替わりってなんでそんな「逆エンドレスエイト」みたいなことをするのかも不明瞭。
主題歌運用からキャスティング、音響思想まで一貫してその兆候が出ている。
 
そういう遊びと冒険のはてにある想像力としての多種EDは本編ではなくコンピでやる方が手っ取り早い。作品の豪華さは曲数ではなく、世界の響きの統一で決まる。だから米津と常田のOP一本と章EDだけで本編の主旋律を固定したほうがいい。それが『チェンソーマン』のような非ジャンプ的緊張を守りながら、音楽もリーチも最大化する最適解、というか普通のアニメの作り方でも十分通じるわけです。その意味では全体的にBest & BrightestじゃなくBetter & Bitterestで手堅く苦く落ちた
 
大型IPは「やってみた味」ではない。最も屈強で勇敢な奴らを揃えて、バシっときめないといけない。その意味では劇伴の牛尾も全然音楽として前景化してこないあたり、プロとしての最低限の音源は出している、以外の印象がゼロ。山田尚子との組み合わせが一番効果効能を発揮するからこそ、別の意味でカルト性の高い作品い器用すること自体がわけがわからない。もしかしたら『DEVILMAN crybaby』からの触発があって、マガジンでの漫画におけるダークファンタジーの起点としての劇伴という発想からの起用だとしたら、だいぶズレている。
 
アンビエント・ミニマルだから牛尾なのか、それとも牛尾だからアンビエント・ミニマルなのか、あるいはその両方なのか、意味と意義は、大義は果たして明確に劇伴という音楽ライン上にあったのか?というのがどうにも腑に落ちない。仮に、『呪術廻戦』で照井を召喚したような作法でいくのであれば、そこは牛尾ではなく蓮沼執太を連れてくるべき。
実際にアニメで蓮沼を連れてきたのは『SEKIRO: NO DEFEAT』という津田健次郎アニメでありながら、音響が名倉さんという意味では本当にタイトル違いだし、圧倒的にセンスある。これが指し示すもの、それは最初から名倉さんなら、音楽はbetterではなくbestであり得たという可能性。

『SEKIRO: NO DEFEAT』スタッフリスト
作品に地に足がついた音楽カードは牛尾ではなく、蓮沼だった。もっと儲けたいと欲張るからこういう平凡な結果になるんですよ。目先の話題性に欲をかいたせいで落とした。他の劇伴作家と普通に勝負していれば、少なくとも「照井ライン」としての音楽性での評価は勝ち得たはず。

sekiro-anime.jp

村田千恵子のセンスを岩上敦宏が承認することで『国宝』で劇伴作家が原摩利彦だったように、求められる音楽は精密に考えるべき。間違ってもソニー系列の作家だからといって、『国宝』に牛尾を添えるというのはおそらく考えになかったはず。そういうことです。

 

つまりシーズン2、つまり二期において、MAPPAが名倉音響を選んだ時点で「音の制度=設計思想」を名倉系に寄せる意思決定は済んでいる。ゆえに作曲家は可換。

ここからbetterからbestにするには、作曲家を牛尾から、蓮沼に変更させること。実際問題として他作品ではそういった座組が存在する、そして名倉は音響「監督」である。その因果としてMAPPAは名倉を選んだのだから、劇伴の人選を変える程度の判断は当然に織り込み済みだ。設計思想を再定義するのはむしろ自然な帰結。となれば、音響監督が設計思想を通すのは職責ということになります。名倉音響においてベストを目指すとなれば、蓮沼執太へとバトンタッチ、あるいは牛尾との二人体制。このくらいはむしろ座組の変遷として変えないと、名倉音響にした意味がなくなる。既存の音楽スタッフは前任のイメージであって、なにもそこを継承する必要性はない。作品性をあげるなら変えてまでベストに仕上げた方がいいのだから。

アニプレックスは人材単位で設計する人が圧倒的にうまいからこう出れる)

Emergence

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  • 蓮沼執太
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  • ¥255
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Lunar Mare

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あるいは大手での渋谷慶一郎とか、海外ならBen Frostとか、あるいは一層のこと、ベアー・マクレアリーを劇伴に呼ぶとか、そういうところに根が回らるために「内製化」という帰結でなければ、意味がないんですよね。東宝の縁でゴジラの海外作品として、KOTMでスコアを担当したベアー・マクレアリーという線で温度の高い打診が組めるという考えは実際に現実的。ベアーは Kraft-Engel Management。なら、ここに東宝経由の紹介として正式打診でもすればいい。

Theme from Assassin's Creed Syndicate Jack the Ripper

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  • ベアー・マクレアリー
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Theme from da Vinci’s Demons (Extended Version)

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NHK大河のやり方が、こう言う音楽という背骨を先に決めて、世界観を鳴らせる作家をトップに据えるという技法があります。だからジョン・グラムとかをメインテーマに起用しているわけです。それをアニメに移植すればいいだけ。もしくは、ダニエル・ペンバートンにリドリースコットの映画『悪の法則』(原題『The Counselor』)の音楽、特にブラッド・ピットの首にボリートがつけられて、それが発動されるその刹那を狙った「Wire To The Head」系の冷ややかなミニマルを発注するとか。(これ、普通に歩きながら聞いていても怖い劇伴です。)全曲、ではなく壮大なテーマをベアーに一曲、決めの楽曲を複数ペンバートンにとか、そういう映画劇伴のクオリティを執拗に求めるスタンスはむしろシネフィルネタを引用しまくる『チェンソーマン』にしっかり呼応するならそれくらい徹底するべきで、仮に呼べないしても、そう言う音楽をかき集めたベースを作って、その上でアニメ劇伴としての運用と可変は牛尾が統括こういう「映画級の音楽監督制」に寄せるのが合理的だ。無理難題ではない。難度は高いが、内製で出資まで担うなら、その自由度を最大限に作品の面白さへ投下すべき。

Wire to the Head

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で、なぜにこんなに大掛かりなことを言えるかといえば、MAPPA内製化でありつつも、実際問題としてアニプレックス子会社の親元であるSMEが音楽周りを仕切っているから。偶然かもしれないが、SMAの2人声優起用と、牛尾含め、音楽ではOP/一部EDのSME勢というソニーの重力圏が確かにある。

それが所以で、やれSONYの悪魔」だの「チェンソニーマン」などと揶揄されるのであれば、それを突き返すくらい大盤振る舞いをしないと、視聴者は黙れないと思うんですよね。物故した盛田さんや井深さんにも申し訳が立たないと思うんです。世界のど真ん中で新しい標準をつくる技術と美学を一体で売るがソニーの本懐なんだから。

アニプレ案件でもSONY重力が出てくることを、いい悪いではないという目線で語るのではなく、商業主義の権化で手札を切るならもっと派手に切るべきという話。

出資=MAPPA/流通=ソニー系が太いという二層構造をもつ『チェンソーマン』であれば、Milan Records( Sony Music Masterworks 傘下)と、配給会社の東宝とで手を組むことで、ベアー・マクレアリーを出すことだって夢物語ではない。現実の話で切るのであれば、渡辺信一郎の『LAZARUS』は制作MAPPASOLA体制でありながらも音楽体制は、Kamasi Washington/Bonobo/Floating Pointsのスコアで走り、だからこそ、サントラは国際規格のMilan Recordsからリリースしているじゃないですか。これは「日本制作アニメ × 海外作家 × SME配給」の実働モデルそのものなんですよ。SMESony Music Entertainment)まわりの国際と配給パイプを活かして海外作家の劇伴まで振り抜く設計は十分に描けるし、実際に例も存在する。それが『チェンソーマン』でできなかったのは監督が渡辺監督ほど音楽に対して目配りをせずに外縁としてエンディングテーマ十二曲で盛り上げることに徹したから。もし「海外作家版チェンソー」をやるなら、音楽プロデューサーの常設だったはずだけど。でもそのくらいあれだけ盛り上げるなら、考えるべきだと主張します。配信単位でもCrunchyrollをもっていることを考慮すると、配給=東宝 × 配信=Crunchyroll × サントラ=Milanを三縦串こそ理・真・形であり、これを束ねて「音楽も映画の作法で勝ちに行く」。これこそが「チェンソニーの呪いを解く、最も商業的で、最も美学的な回答。直球的にいえばアニメ『チェンソーマン』がシネフィル文脈を背負う作品なら、音楽も映画の作法で勝ちに行く。それ以外にない。

 

 閑話休題

 

故にジャンプ的大看板×暗色世界×若手主役という難題では、「倍音/低域/無音」の三点を自在に運用できる音響監督が先に立つべきだ。藤田亜紀子は近年の正解分布から導かれるほぼ自動解に等しい。『逃げ上手の若君』で示された帯域設計は、そのまま『チェンソーマン』の弱点補正にも転用できる。加えて、戸谷菊之介が『チェンソーマン』でデンジを、のちに『逃げ上手の若君』で吹雪を演じた履歴は、逃若党サイドから尊氏サイドへと立ち位置が反転しても、演技の帯域/アタックを明確に使い分けられる声優だという証左でもある。そういう意味で小泉体制の戸谷起用は、作品以上に当人のキャリアにとっても欠かせない一手になってはいる。
 
だから、当たり前ではあるが意味がないわけではないのだ。そこは好み以前の問題でプロの仕事として仕上げているという最低限のクオリティは確約されている。
 
じゃあ、ここで問うている「マキマ」は「楠木ともり」が担当している以上、その配役は当然尊重すると言う前提の上で、誰であれば「マキマ」として完璧に視聴者が受け入れることができたのか?と言う話をしてみたい。
 
案1:マキマ=上田麗奈
つまり既存のレゼを演じるのではなく、そのままマキマ路線ならどうか?と言う点だ。
キャリアや演者の特筆性からして、カバーはできるし、楠木版よりもいわゆる統率者、支配者的な側面は間違いなく出る。いかんせんレゼで起用されている手前、自分もマキマは上田麗奈のほうが、音響的にも、演者のバランス帯の跳躍としても成立する。そして、じゃあその場合、いかにもな「レゼ」はどうするのか?と言う点においては、圧倒的にこう答えたい。羊宮妃那。キャリアのタイミングとして、「羊宮妃那」は2020年デビュー組で、勢いの立ち上がりが速い。その上で、主演格の掴みは2022年『僕の心のヤバイやつ』ヒロイン・山田杏奈役。つまり『チェンソーマン』放映後に『レゼ篇』を映画で描きます、と言った時に候補としてあがる声優としてはむしろ筆頭なんです。ここにおける必然性というのは、いわゆる、そもそもとして「マキマ」でさえ楠木という若年の布陣であればこそ、レゼも同年代で組めば、演技バトルとしてそこまで大きな差異はでない。少なくとも上田麗奈が圧勝する未来しか見えない正史としての『レゼ篇』よりも演者のバランスはかなり取れる。
 
レゼを羊宮妃那に置く最大の効能は、軽さ→虚無の落差を成立させるための可逆の声であり、それすなわち、軽さで誘い、母音を冷やして堕とすということ。予告編的な、デンジとのリビドー会話が軽やかに始まり、底が見えた瞬間に怖くなる軌道を描ける素質も『小市民』における小佐内ゆきの演技を浴びた人は全員わかっている。その手の演技の最先端は今や羊宮妃那であることに。
なにをいったところで「ララァ」を演じている事実は、ギギを演じてる上田と張れることの証明である。少なくとも「選ばれている」時点で明白だ。

sai96i.hateblo.jp

もっと言えば、『千歳くんはラムネ瓶のなか』におけるヒロインの声の関係性という意味ではドラマCD→アニメ版とで、上田麗奈→羊宮妃那という交代がそれを象徴している最も良い例だ。音響制作が81PRODUCEのドラマCDだからこそ、81プロデュースという声優事務所に所属する上田麗奈が構造的に選ばれたというのも、実務上の理由の一環としてはあるのでしょう。そのうえで、アニメ側の座組(音響制作・委員会・監督の美学・音楽方針)が変われば、拡張側=羊宮妃那へとバトンが渡るというのは当然である。なぜなら横断的な世代継承なのだから。

lifetunes-mall.jp

ドラマ版キャスト

そしてこうした関係性を踏まえれば現時点でのこの両者の関係性は

 

  • 絶対値としてのベスト=上田麗奈
  • 時代最適(現在地のベスト)=羊宮妃那

とまとめることができる。上田=原型であり、羊宮は現型。正しさは前者、現在性は後者ということでまとめられる。そしてここには明確な配役の合理性がある。設計思想でいけばこの二人の系譜性は視聴者はわかっているし、直接的なメイン同士ではなくとも、上田・羊宮の組み合わせが多い作品という視点からも絡みとしては合うわけだ。

 

そしてこうした入れ替えは「若手で固める→一柱だけ音の芯を置く」という設計においては優良な別解であることは間違いない。いまの編成は若手×若手×若手+(強キャラも若手)で、台詞の意味は強いのに音の重さが足りず、画面の場に負けている。だからその若手連打を維持しつつ、若手中心の座組に一本「芯」を通す重心役として上田がいれば完璧に現行よりもバランスは取れるし、レゼ=羊宮妃那とすることで、声優的にも戸谷菊之介は乗り越えないといけない壁として成立する。ただ一方で声の性質が強すぎるが故に、マキマと言うキャラ以上に上田麗奈の声が勝ち、御冷ミァハや新条アカネ、ギギ・アンダルシアイズムを逆に負いかねないという危険性もたしかにある。まぁ切り替えはできるだろうけど、視聴者がと言う意味で。

 

 
ちなみに、放映前予想ではほとんどが全布陣においてベテラン組としての予想が多く、当然マキマ、レゼで上田麗奈を候補にあげている人は多数。
 

音響監督との接点から見ても、これはきわめて筋の通った話だ。
決定的ブレイクとしての上田麗奈は、2014年『ハナヤマタ』関谷なる(主演)で音響監督・藤田亜紀子。ゆえに「ハナヤマタで花が開いた上田=藤田チルドレン」と位置づけるのは妥当である。

 

一方、羊宮妃那のブレイクは『僕の心のヤバイやつ』(2023)。APU(AUDIO PLANNING U)育ちの小沼則義が、APU譲りの前傾・微細設計で山田杏奈に抜擢し、台詞を“単体で立つ”ところまで仕上げた。発掘そのものは『その着せ替え人形は恋をする』(2022)で藤田が乾心寿に起用して示している。すなわち「羊宮妃那=藤田チルドレン〔発掘〕/小沼チルドレン〔運用〕」という二重構成であり、老舗スタジオ系の美学で鍛えられた「耳」に支えられている。

以上から、『呪術』と同様に藤田が音響を担っていた場合、この二人をマキマ/レゼに据える確率は高かったと言える。両者とも、藤田の耳が最初に見出した資質だからだ。

 
 
案2:マキマ=平野綾
これは、実は舞台版のマキマの演者が平野綾なんですよね。
こちらからゲネプロの映像を見ていただければその演技の様子はわかります。
これは、いわゆる羊宮案で若手重視というよりも、本当に上田麗奈と対等に、尚且つ文句なしに演技バトルしたら「めちゃくちゃに面白い」布陣という版です。
メタ目線では俯瞰すればこの演技バトルは
涼宮ハルヒ+弥 海砂+ミギー+森川由綺vs御冷ミァハ+新条アカネ+ギギ+関谷なる
みたいな、歴戦キャラの応酬になりますから。面白くならないはずがないんです。
言わずと知れた2000年代中期を代表する役者と、2010年代に台頭してきた上田麗奈という意味合いでも非常に面白いですし。平野マキマ×上田レゼは支配(固定重心)×反転(軽さ→虚無)の二段で非常に映えると言う意味では音響的にもかなり輪郭が明瞭。
上田レゼと本気の真剣勝負の声優力学で殴り合うという意味では多分これが最上。
 
 
案3:マキマ=日笠陽子
案外これが一番しっくりくるかなと。低音の胴鳴りと愛嬌、そしてなによりもカメレオン性。上田・平野ほど象徴役のイメージで固定されていないぶん、聴き手の遅延認知(「あ、日笠だったんだ」)を狙えるのが強い。つまり掴ませない統治者。『けいおん!』澪系の柔らかい接近から、母音を冷やして即停止へ切り替えれば、笑っているのに誰も逆らえない。あるいは『乱歩奇譚』黒蜥蜴の冷たい線で入っても成立する。多面的であること自体が要件のマキマ像なら、日笠は役の可変域を音で提示できる。正体を遅らせる支配者を写実の範囲内で成立させる堅牢としてはおそらく随一。
 
まぁ他にも中原 麻衣だったりと色々と挙げられるが、その中でベストアクターを絞り込むなら自分の中ではこの三人でしかない。そして三人あげたとて、最初から制作の方向が「既存スタイル踏襲」ではない
原作が今までのジャンプ作品とは異なる色を持っていたため、演出や表現の決まった型を持つ人より、“型を持たない新しい人”にディレクションしていただくことでおもしろくなるのではないかと考えたんです。
とある以上、最初から「既存スタイル踏襲」=上田・平野・日笠・中原的な硬度を保証できる配役は選択肢にすら入っていないから徒労ではあるのだが。制作が決めたのだから仕方ない。断言しよう、藤田亜紀子さんであれば、この布陣になるかどうかはさておき、少なくとも選択肢としてもっとこういった選び方をしていたはず。なぜなら中村と櫻井を立てるという使い方がこの既存スタイル型でしかないから。
 
だからこそ劇場版『チェンソーマン レゼ篇』において、名倉靖へバトンタッチしたことが音響力学として大きく付与してくるんです。改めてこの意義について音響監督軸として展開していくと名倉は楽音舎出身であり、鶴岡陽太の現場で録音設計を担ってきた。録音はひらたく言えば、音響の技術的責任を追う職務である。その延長線上で『チェンソーマン レゼ篇』では音響監督を務めるに至る。
 
鶴岡陽太は、おおよ認識範囲としてわかりやすいタイトルとしては古くは『涼宮ハルヒ』、『けいおん!』そして今や音響の教科書となりつつある<物語>シリーズ、『まどか』『氷菓』『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』『響け!ユーフォニアム』など、一般的にはシャフト/京アニ声優の布陣を構築してきた大御所の一人です。派閥としては
その鶴岡音響の録音として支えてきたのが名倉氏、だから実際の経歴としては鶴岡キャリアに名倉の録音が付随している。-名倉靖不参加 以外は録音参加。
 
京アニライン》
《シャフトライン》

主旋律として知られている<物語>シリーズ

 

ちなみにシャフト黄金期の00年代の中枢作品/および物語・まどか以外はほぼ*2亀山俊樹が目立つ。

 

この二枚音響看板が同時期に走っていたから、同じシャフトでも『絶望先生』『電波女』『それ町』系と、『荒川』『ef』『夏あらし』系で音の肌触りが妙に違う。

 

《その他鶴岡*名倉案件》

こうして振り返ると、鶴岡×名倉の実戦歴(京アニ/〈物語〉/HELLSINGブギーポップ)で積んだ「台詞の芯を立てつつ空気を混ぜる」流儀を、録音設計の域を超えて全体演出へ引き上げたのが20年代の今、劇場版『チェンソーマン レゼ篇』において実装されるということです。鶴岡陽太ではなく今度は名倉氏が主体となり、楽音舎(スタジオごんぐ)で鍛えられた鶴岡系譜の録音アーキテクトが、2020年代に「音響監督」として前面に立った象徴例としておそらくアンセム的な作品になるのが『チェンソーマン レゼ篇』となる。

 
そしてその主演は数多の難役をこなしてきた上田麗奈であり音響監督の名倉と上田麗奈の組み合わせは『ハーモニー』における録音演出で一度邂逅済み。と、いうことは、御冷ミァハの録音に携わった方が、レゼで総合的に音響を扱う。こんなにも信頼のおける組み合わせは多分ない。その意味でテレビ版におけるレギュラーの役者含め、明らかに音響の使い方は異なる、というか映画的に趣向になるのは映画『傷物語』を経ているという歴からしても自明。シャフト作品を通じて鶴岡系譜で地続き、肩書でアップデートこの二段重ねが面白い。そして多分上田麗奈が要する微細な息づかいなんて、多分一番向いている人。
 
<以下、本編を見た感想>
以上の系譜と設計を前提に、劇場版『レゼ篇』が実際にどんな音で立ち上がったかを、スクリーンに鳴った事実で確かめていくと、やっぱり上田麗奈はさすがでした。戸谷との組み合わせで当然「上田麗奈劇場」であったことは言うまでもない。その上で戸谷サイドには「花江夏樹」がサメ役で輝いていました。つまり、これなんですよ。上田と真っ向から演技勝負なんて、そりゃキャラクターも相まって決まる。そこで『喰種』で輝きをみせた花江がああいう役をすることで戸谷との掛け合わせで「一段」上にのるわけです。中盤以後の戦闘シーンにおいて演技体として自然に掛け合いとして聞こえたのはどう考えても音響的には「花江」がいたから。『レゼ篇』になって急に配役におけるバランスが取れ始めていたのは正直、総集編の段階で名倉氏が関わっていたとはいえ、ここまで化けるものかと思いました。シャフトで研がれた額縁と京アニで鍛えられた透明が、名倉のもとで一本化されたその確かさが声優の演技や環境音すべてにおいて、圧倒的に「映画」でありバランスの取れた作品であった。そして、やっぱり上田麗奈のキャラはこの映画の回で退場する。だからこそ出番が少ないマキマは、存在感として「あ、やっぱりマキマは別格だな」と思わせるだけの演技は必要であったが、そこは残念ながら感じられず、「そこらへんの年上の女性感」がひたすら残り、キャラとしてマキマ<レゼであり続けること自体は映画の設計である。だから仕方ない、と思いきや、それを言ったらおそらく後半にその真価を発揮するであろうマキマなら、やっぱり声で上田麗奈をも倒すくらいの輝きは必要なのは、レゼ=上田麗奈最高、と言うなら余計にそうあるべき。そして、劇伴の牛尾もテレビシリーズよりも劇場だからか、かなり牛尾色は残りながらも、やはりそれなりに面白い劇伴に仕上げてきていたとは思う。だからテレビシリーズよりかはちゃんと仕事していると言える。とはいえ、音楽性自体が、山田尚子との相性という、真に輝く組み合わせがあるからこそ、純粋に『レゼ篇』で牛尾だからこそ、というのはやっぱり感じられなかった。ここまでくると設計思想の話なので、どうしようもないですけどね。
 
前半の散歩シーンに『リズと青い鳥』由来の既視感が差し込み、戦闘で弦が立ち上がる手際は面白いのに、逃走パートで再び他作で見た構図へ回収される印象が残る。要は設計思想の差で、ここは致し方ない領域だ。その上で戦闘で盛り上げて弦楽器まで入ってくるのが意外に面白さはあったが、その後の逃げる時の音楽において、ここもやっぱり別作品で見たことがあることを繰り返して予算とテレビ版ではトライしていていなかった点をマシマシという印象が強く残る。
 
チェンソーマン』の元アシスタントで現在『ダンダダン』を描いており、こちらもアニメも3期が決まりとかなり好調なのだが、それこそ花江が出ているという意味も含めて、『チェンソーマン』で背景を支えた人(龍幸伸)がかいた漫画とそのアニメの方が牛尾である必然性があった。そしてそれが今度は『レゼ篇』で活かされたのではないか?と少し思ってしまった。でなければ最初からテレビシリーズの段階で今回のような劇伴を作ってれば音楽としての側面は今よりは確実にあがっていた。とはいえ、やはり劇伴作家としてベストではない。今一度その原理原則について。
 
まず出発点。鶴岡・名倉・山田尚子+牛尾の長い系譜は「山田作品」側に限れば、牛尾が必要条件に近い。『平家物語』『きみの色。』では音響が*3木村絵理子に代わっても木村×山田×牛尾が二連続で成立した。これは、音響座組が変わっても山田×牛尾が完成した言語として自立している証左だ。結論は明快、牛尾=山田のラストピースは真である。
だからこそ『聲の形』-inner silence版は音響剥き出し(台詞、劇伴なし)の、言ってみれば牛尾の本髄とも言える音響が全面にもってきた作品として足り得たし、そんな作品がBlu-rayに収録できるくらい、「牛尾音楽」というものが山田尚子作品と適合し、その上で鶴岡陽太もそれを後押ししているのだ。
 
一方、『チェンソーマン』の主語は金属/路地ノイズ/血であり、ここで日常の親密ミニマルを基調に据えると、音源としては聴けるかもしれないが、同じ牛尾でも、山田語法のままではベストに届かないし、それをそのままくっつけても当然うまくいくはずはない。届くためには、楽器情緒を封印し、別作家の環境音を主語に据える文体が不可欠になる。
 
そして、先述した『ダンダダン』が牛尾音源とハマったのは、SARU系の絵作り×牛尾の身体内リズムが同一言語圏にあり、木村音響の運用と合成したからだ。つまり若山詩音と花江夏樹との掛け合いと怪異とラブコメと、という絵作りが、湯浅政明由来のSARU映像との一種のドラッキーイズム前景の作品だからこそEDM系で決めることが逆に「正解」になる。だから合う。それすなわち、ラブコメ的近接と怪異の混ぜ合わせには親密ミニマルが効く。だからこそ、これは例外ではなく必然の適合。ゆえに前年の『チェンソーマン』(2022年)がベストではなかったという逆証明にもなる。実際に統計を取ったわけでもないし、取れるわけではない。
 
では一般人が測れる方法として行動消費型としての音楽サブスクで考えみえればいい。
 
前提として配信されたばかりの公開直後のレゼ篇は最大瞬間風速で上位を占有していたとしてもそれは、いい音源であることに加えて作品公開直後の熱気があるので、均等に見切れにくい。フェアとして考えるなら、それ以外の音楽で考えるべきである。そうなると少なくともApple Musicではこのような並びとなっている。
(画像は2025年9月21日 23時40分時点)

『レゼ篇』の劇伴を除く牛尾音源の人気ランキング(Apple Music)

ご覧のとおり、行動消費の指標では『ダンダダン』のほうがハマっていると主張できる。配信直後のレゼ篇は瞬間最大風速で上位を席巻しているが、Apple Musicの並びを作家名横断で見ると様子が違う。

先頭は『チ。—地球の運動について—』のメインテーマ、次いで『チェンソーマン』の楽曲が1曲。その後は『ダンダダン』と『聲の形』の楽曲が食い込み、末尾側になると『チェンソーマン』の劇伴がまとまって並ぶ。
要するに、単発で上位に2曲置けているのはチェンソーだが、安定して6曲が上位帯に居座っているのはダンダダンという結果で、リスナーの反復再生/日常ループはダンダダン側に寄っていると読める。この差は前段における「合う/合わない」とも符合する。ラブコメ的近接×親密ミニマル=日常BGMに馴染みやすくループが伸びるからだ。このランキングの並びは、そのまま作品と音楽適合が聴かれ方に反映していることの行動的な証拠になっている。ではここで他の大手サービスとも並べることで母数を安定させることで統計的にもそれがどうかを検証してみたい。もう一翼としてのSpotifyの画面で比較してます。

なお、Spotifyアルゴリズムの基本は、再生回数順のため配信直後の『レゼ篇』OSTはそういう意味で反映されないため、より、『レゼ篇』バイアス抜きの結果となるということは今回でいうとより素直な結果として現れるということを留意したい。

Spotify|牛尾アーティストページ

Spotifyの「人気曲」を作家名横断で見ると、トップ10はダンダダン5/チェンソーマン2/聲の形3という配分具合。『レゼ篇』の新譜が同条件で並んでいるにもかかわらず、上位帯に安定して食い込んでいるのはダンダダンの楽曲群である。

(※重要なので再度強調しておくとSpotifyの人気曲は累積+直近再生寄りのため、新譜バイアスが相対的に弱い)。

 

ゆえに、行動消費の観点から明確に言えるのは、テレビ版『チェンソーマン』の劇伴は翌年の『ダンダダン』と比べて「合っていない」という事実である。対して『レゼ篇』はロマンスと哀愁を踏まえた劇場設計と「指示書」によるアプローチの違いがあり、将来的にはこの上位帯をレゼ篇OSTが奪う可能性もある。そうなるなら、制作の仕様に忠実に作ったテレビ版『チェンソーマン』の劇伴は、レゼ篇という更新版の前ではアプローチ自体が劣後していたことになる。言い換えれば、『レゼ篇』がなければ牛尾起用の意味・意義・大義は最低限の保証すら得られないということだ。

以上のことを踏まえ、パンフレットの寄稿文を読むと以下のように文章を寄せている。

TVシリーズのときから「『チェンソーマン』ではまだ出していないアイデアがいっぱいあります」とずっと言っていたんです。この作品に長く関わらせていただけるのなら、「このタイミングではこういうことがやりたい」というものがありました。その一つが「レゼ篇」でオーケストラを使うということです。映画館という優れた環境で鳴らすのは大編成のオーケストラの音適しているだろし、「レゼ篇」は本作の中でも際立って叙情的なパートなので、そういう意味でもオーケストラの音が合うだろうなと。また、大編成のオーケストラとはまったく逆のピアノとバイオリンだけの小さな音の曲も作ることができるなと思いました。映画館では大きな音がよく鳴りますが、小さくて微細な音も聞かせることができるんですよ。そうした曲も「レゼ篇」に適していると思いました。

(中略)

音楽を映像に合わせると合わせないところのメリハリが重要なんです。

MAPPA 東宝.劇場版『チェンソーマン レゼ篇』パンフレット.P30-31.株式会社美松堂

つまり、『レゼ篇』のOSTが良いと思うということは、テレビ版にはない想像力ということの証左であり、ならばなおのこと、テレビ版では様々な理由で牛尾は自分の音楽を全開で見せることは作芸、スタイルの方向性という意味で厳しかったことが伺える。「レゼ篇」だからと書いてあるが、つまり起伏がる物語ではないと、アプローチからして難しいということの表れである。「叙情的」とまさしく述べている通り、「感情」の起伏がある物語であれば、牛尾サウンドは効能として効くというのが見立てとして最低限見積もれる。つまりそれが物語としてない『チェンソーマン』テレビ版は、結局、牛尾である必要はないということを、本人が『レゼ篇』で証明しているとも言える。

もっと踏み込んで言うなら、叙情性=感情の起伏×視点の近接×時間的持続の三点が立っている時、牛尾音楽語法が最大効率で噛むということだ。その意味では逆算だが『レゼ篇』こそ牛尾が輝ける物語であったことはもはや振り返る必要もない。

「映画館でしか聴こえないような小さく繊細な音も楽しんでいただきたいです」という主張は、TV版よりもダイナミックレンジと微細音を設計軸に置いた宣言であり、TVシリーズとは別相で、劇場=音で物語をかける設計に舵を切っていることが可視化されている。だから、プールのシーンで爆発的なメロディが流れて観客は「名シーン」と思えるのです。そういう設計をしているから。もちろん悪意的な「ここで感動しろ!!」っていうのではなく、純粋にこういうシーンではこういうサウンド性が合うからそうするという意味でね。

この『in the pool』は言ってみれば『エヴァQ』の『Quatre Mains (a quatre mains) =3EM16=』に近い。本編の中でもこのシーンが一番「合う」というその映像とのダイナミズムとしてね。

in the pool

in the pool

Quatre Mains (a quatre mains) =3EM16=

Quatre Mains (a quatre mains) =3EM16=

  • provided courtesy of iTunes

そして、これらを取り巻く時系列、つまりはテレビシリーズからできなかったこと、「レゼ篇」になってできた、そして劇伴の受けとしては明らかに『レゼ篇』に評価軸が高くついているが、テレビシリーズではそうではないことが可視化されていることはサブスクのデータも、一例でしかなく、全てであるとは言わないし言えない。が、おおよその傾向としてApple Music、Spotifyでの傾向というのは大手サブスク元の数字として嘘ではない。テレビ版『ダンダダン』の方が劇伴としていいし、『聲の形』の安定性を取れない時点で劇伴としては弱いんですよね。テレビ版は。作家の優劣ではなくテレビシリーズで、合わない題材という環境から発生した非対称によるダメージということだ。

だから、TV版は他作(『ダンダダン』等)と比べても劇伴単体の立ちが弱かった。でも、劇場ではフィルムスコアリング広いダイナミックレンジによって牛尾性が「上がった」。だからこそ、TV期の牛尾アプローチは『チェンソーマン』の要件に適合しなかったということです。それがサブスクにおける「再生回数」としても、多作の方が聴かれている結果も出ていのだ。

 

これらを「ミスマッチ」、感覚として「采配ミス」と捉えたのであれば(あるいはそれに近い感情を抱いたのであれば)、それは「名倉音響×場の作曲」と「山田語法×親密ミニマル」を分離できていないことを自ら認めたということになる。その意味で、劇場版『レゼ篇』をもってしても「名倉音響」にかかる「場の作曲」は依然として不在である。だから本論考では、その「場」を担うアーティストとして蓮沼執太という案を提示している。

 

以上の観点も踏まえると、総じて「最初からこの処方で臨めていれば」を映画が提示してしまった、が妥当だ。もっとも劇伴は半分の達成に留まる。

理由は明快単純で、音響監督は名倉に替わったのに、設計思想は旧来の音響を前提に走り続けたから。細かい理屈をこねなくても説明がつく因果である。

わかりやすく置き換えるなら『シン・エヴァンゲリオン』で、総作監が歴代の骨子を組んできた本田雄ではなく錦織敦史へと交代したことで生じた現象と同型だ。「作監が替われば絵の顔つきが変わる」のと同じく、音響監督が替われば作品の耳の顔つきが変わる。言ってみればただそれだけの話である。

 

MVPは上田麗奈花江夏樹。声優という職能をしっかりと「記憶にのこる演技」としてこなせていたから。上田麗奈はこの後にも『機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ キルケーの魔女』で引き続きギギ・アンダルシアを演じる。これは原作既読勢にはピンとくると思うが、つまりその手前でレゼを演じたのはある種の準備ともいえる。はて、富野御大が作り出したあのキャラを、第二章ではどのようにして演じられるかが楽しみである。
御冷ミァハ(『Harmony』)/新条アカネ(『SSSS.GRIDMAN』)/ギギ・アンダルシア(『閃光のハサウェイ』という破格のキャリアにレゼ(『チェンソーマン レゼ篇』)が加わったこと自体が本当にこの声優の凄さというのを象徴する、その意味ではこの映画は本当に上田ありきの作品だ。
その点でいえば、やはりMAPPAは音響的には圧倒的に『呪術廻戦』のほうが成功している。放映前の予告編の「渋谷事変 特別編集版 × 死滅回游 先行上映」で、乙骨=緒方恵美の低域の「いくよ、リカ」、五条=中村悠一の一言「領域展開」、偽夏油(羂索)=櫻井孝宏の宣告。これらはいずれも台詞が一行で立つ。これこそが「音響」の妙である。対して『チェンソーマン レゼ篇』本編で、この水準に届いたのはレゼ=上田麗奈ビーム=花江夏樹だけ。ここに新人主体の座組が生む音響的ハンデを感じた。声優という職能の本懐は記憶に残る一行で観客の耳を掴むことにあり、キャリア差は言い訳にならない。そして「なぜ比較する?」と聞かれれば、それはジャンプ大型IPの標準に照らせば、比較は当然。『呪術』は主役=量/主権者=音の質を両立し、一行で立つ声を量産できている。『レゼ篇』は名倉の設計で映画的バランスに到達し、上田×花江がその規格線へ肉薄しているから。だからこそ他のキャスティングが相対的に浮く。
 
主題歌においても、オープニングを作曲・作詞・編曲を米津に統一したことはかなりスイッチが入っていた楽曲にもなっており、坂東や常田が不在の分、原液たっぷりの楽曲が味わえて、それこそ作品にあるべき楽曲のオープニングにしあがっていた。ここまではいい。しかしエンディングは正直いかがなものかと思う。
 
曲がいいのは、もはや米津*宇多田ヒカルというライン軸でいえばクオリティが高いのは当たり前。しかし、その組み合わせは本当に『レゼ篇』に必要であったかといえば、そこまでの必然性はない。悪く言えばただの客寄せパンダでしかない。なんと比喩すればいいか、、そう例えばジブリ映画における『風立ちぬ』(2013年)と『君たちはどう生きるか。』(2023年)がまさにいい例で、「良し悪し」ではなく必然性の問題として、本当にそうでなければいけなかったのか?という意味合いにおいて考えると、どう考えても、『風立ちぬ』×「ひこうき雲」は内在的必然(作品にその歌がつく意味)がある。それは、歌詞テーマに「若い死」があり、空・上昇・消失というモチーフが映画の死生観と直結する。つまり作品の主語にかかる。「生きねば」というコピーに。結果、EDで物語の主語を回収する内輪として機能する。でも一方で、『君たちはどう生きるか』×「地球儀」は外接的なんですよね。本編スコアは久石譲が担い世界観の内側を支える。しかもガッツリミニマル音源というかなり実験色なテイストで。だからこそ、余計に設計上は外側の看板に近い振る舞いでしかない。EDで主語を回収する内輪まで降りていない。
要は、内側が硬いかどうかです。『風立ちぬ』はユーミン曲の既存意味と映画の死生観が最初から噛み、EDが物語の主語を回収する設計。
『君どう』は書き下ろしの新しい旗、米津新曲書き下ろしとして機能しつつも、内側(久石スコア)との役割分担が外輪寄りで、観客体験として「中和」まではしても「必然」まで踏み込まない。だから後者は必ず、あるいは絶対的に「そうである」必要性がないということだ。
 
その点でいえば『エヴァ』は一環して鷺巣詩郎であることに作品足しめる効果効能が常に「存在」していた。鷺巣詩郎がTV版から新劇場版まで一貫してスコアを担い、シリーズ横断の動機(今では同じみのBGM含め)やクラシック引用(バッハ、ベートーヴェン等)を再配置して「エヴァの音」を固定してきた。これが土台。硬すぎるほど内輪の音楽が常に偏在する。だからこそ見た人にしか通じないとは思うのだが、それこそ、鶴巻監督の短編『EVANGELION:3.0(-46h)』で「庵野以外のエヴァだと物足りない」と思ってもエンドロールで「mirror mirror: orchestra and choir」が流れると一気にあの世界に引き込まれるわけです。
mirror mirror: orchestra and choir

mirror mirror: orchestra and choir

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この、内側=連続するスコア/外側=継続する主題歌の二重構造があるから、宇多田を起用しても観客は「まあエヴァだし」(作品強度=いくら本が滅茶苦茶でも世界観の軸が鷺巣音楽とカメラワークにおいては絶対「良い」と固定できるに対する信頼感)と腑に落ちるし、作品トーンの変化を音楽が中和して受け止められる。結果的に、音楽が世界観の最低限の連続性を保証する装置になっているからこそ宇多田ヒカルで締めても、作品がぶれないからこそ、逆に成立するのです。「Beautiful World」「桜流し」「One Last Kiss」はそういう意味でのバランスがあったからであり、アニメ映画に宇多田ヒカルをとりあえず起用しておこうっていうのは、その実とても安直なんですよね。

 
たしかにMAPPAは音楽にこだわる節がある、だから思想としてはわからなくはないが、であれば『レゼ篇』で立たせるべきは、上田麗奈の声で楽曲を歌わせることが真の意味での作品性に直結するはずだ。明らか「誰の作品」といえばレゼフォーカスなのは明らかなのだから。
 
実際に上田麗奈は、自身のアーティスト活動においても自分が演じてきたキャラクターの自己的解釈として歌詞へと落として歌唱するというスタイルで、特に『Empathy』はそういったスタンスで構築されたアルバムであった。だからこそ上田麗奈を立てるキャラとして御冷ミァハには『旋律の糸』があり新条アカネには『いつか、また。』がある。新条アカネなんて、こんなエピソードがあるくらい、魂削って演じられていたわけです。
旋律の糸

旋律の糸

いつか、また。

いつか、また。

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そういうスタイルでアーティスト活動をしているのだから、その文脈をついて牛尾に作曲でもさせてfeat.上田麗奈で締めた方が、圧倒的に締まる。そうしないのはやっぱりソニー重力と作品を広めたいという商業的解釈が強いからだ。それはそれで間違っていないが、重圧にするべきところの解釈として数歩、ずれているなという点はいなめない。それこそ『きみの色。』でエンディングテーマが「しろねこ堂」ではなくミスチルの櫻井楽曲で締めたように、それはそれでいいけど「アニメ」としては、「しろねこ堂」のバンドのアニメ作品なのだからそうあるべき、この理屈と同じ。山田尚子×牛尾のラインでは、本編に劇中バンド「しろねこ堂」の楽曲(作曲・編曲:牛尾、作詞:山田)を内在化させつつ、主題歌はMr.Childrenという外輪で締めた。結果として「映画内の声(しろねこ堂)」と「外部の看板」が分立した構図になり、ここに賛否が生まれたのは事実。 ソニーの重力があるのは、半ば致し方ない。

 

その上で、外部スターを使うなら、OP=外輪(米津)/ED=内輪(上田)で主語分担をはっきりさせる手がどっちも納得できる。今作はOPもEDも外輪なので、どうしても規模の見せ筋に「商業主義」の匂いを感じ取って劇場をでないといけないということなってしまったのが個人的には残念なところ。OPは規模、EDは物語。この規模感を保ってこそ、本当の意味で作品というのはあがられると感じます。

それでいえば『私を喰べたい、ひとでなし』はしっかりと「作品性」をとっている。

www.crank-in.net

――カテゴライズしないからこそ、そのキャラクター個々の魅力がより引き立つのですね。また、本作ではエンディング主題歌「リリィ」を比名子役として担当されていますが、彼女が歌うというのは少し意外でした。

上田:そうですよね。でも、実際に比名子として歌ってみると、意外と違和感はなかったんです。完成した音源を聴いてみると、歌詞には彼女の今の状況が色濃く反映されていて、その危うさや儚さ、脆さが自然に香ってくる。

そして最後には、ほんの少しですが“希望”を感じさせる流れになっていて、本編のもどかしい展開の中で、エンディングの彼女の声が一筋の光を見せてくれる。それだけでも救われるような感覚がありました。「本編でこの歌を歌っている比名子を見てみたい」と思わせるエンディングになっていると思います。

主人公=八百歳比名子(cv.上田麗奈)を物語の主語に据え、ED「リリィ」も比名子として上田麗奈が歌う設計。主演とエンディングが同一の声に収束するので、作品は最終的に上田の声で「閉じる」構図になっています。それこそOPは吉乃「贄-nie-」で、外側から世界観を提示し、EDで内側=比名子の一人称へ回収する二重輪。OP=外輪/ED=内輪の綺麗な実例です。内容面でも、上田麗奈自身が「歌詞に比名子の今が色濃く反映され、EDの彼女の声が一筋の光になる」と語っていることからも、EDがキャラクターの心理を担う「内声」として機能していることがわかる。ここまで整って、ようやく観客の情動の着地点がキャラの呼吸と一致する。まさに「作品として上田麗奈で閉じる」体験となるのだ。

 

同じ主演上田麗奈アニメでもこうもアプローチで差がつくのは、劇場であり、IPの差といい、レーベル/権利の力学ゆえにCVによるEDが難しくなる場合があるからというのは理解はできる。でもその上でやはり、CVエンディングの方が効果効能の幅で言えば大きいんですよね。キャラソンをつけろといっているのではない、上田麗奈のような高度な役者を添える演技がメイン軸でありながら、エンディングテーマはそこに全く関係、接点のない宇多田ヒカルをもってくることで「何を聞かされているんだ」感が増す。つまり作品は良かったのに、エンディングで観客の心がずれる。こういうは悪手であるということを主張しております。少なくとも、そこには「本編」に何もかかってないんですよね。わざわざ起用する意味としては。だって一切関係ないじゃないですか。

 

だから『レゼ篇』はあの二人でいい、でも「ufo×アニプレ」系のアニメはLisa、Aimerでなければ締まらない、だからスター主題歌はダメ。こんなの理屈としては通らないんですよ。しかも実際に前者の例で成功しているビジネス世界のなか、いちいち、ある意味ではスター音楽家起用という方式は、つまりアニソンであろうが興行収入ヒット作につながるこのご時世、別にマストで取るべき手法でもない。フランチャイズ作品ごとに好き嫌いで考えていたら何がフェアで、何が目的かというのが絶対ブレる。

だからこそ、音楽起用は「誰を使うか」ではなく「どう機能させるか」で評価すべき。人選は方法、機能が目的。簡単な話です。

 

まぁ、とはいえ、この『チェンソーマン レゼ篇』が何を作品として意図していたかといえば、間違いなく高度な引用ネタとして尾石達也の『傷物語』構成を援用しているという裏設計図という図式でみれば、「Étoile Et Toi」-「JANE DOE」の掛け合いは、つまりは物語の二極を掛け合いを重ねで描くという意味ではかなり似ているし、寄せたと言えば納得はできなくもない。

とくにED=恋の残響という構図の継承は滅茶苦茶強い。『傷物語』が阿良々木暦とキスショットの関係性を甘美的にフランス語で表現というアプローチに対して、『レゼ篇』デンジ/レゼ的な刹那を米津と宇多田のデュエットで閉じる。楽曲自体が、そのままフレンチ直輸入ではないにせよ、シャンソン的な語りのデュエットという構図はも重なる。

簡単にいえば、二人称ロマンスという手つき。

そして、レゼとの戦いにおいて、最後のデンジの腕から直線的にチェンソーを出す構図もまぁ、傷といえば傷。

etoile et toi

etoile et toi

傷物語』<熱血篇>

傷物語』<熱血篇>

傷物語』<熱血篇>

 

だから尾石達也の『傷物語』を知っている人なら構図といい、エンディングの掛け合いといい「なにがしたいのか」という点おいては理解は可能。名倉音響はその意味ではど真ん中で録音を担当をした人。というあたり『傷』自体を意識していないはずもない。

傷物語』の総集編のトークイベントにおいて「鶴岡陽太」言及があったのを思い出したのでこちらに起こしました。3行ですけれど。三部作で録音を担当した名倉劇場という意味でもいかに映像主体の作品に音を当てるということが大変であり、それを通したかという一端が、垣間見えます。

sai96i.hateblo.jp

 

そういう意味では『チェンソーマン レゼ篇』は鶴岡陽太に長年、録音を担当した実績と、楽音舎出身という点からしても鶴岡音響に密接であり、シャフト作品にも多数録音として参加しており、中でも『傷物語』三部作にいることなどから、シャフト作品に縁のあるスタッフといえる。故に、本作は少なくとも、音響アニメという意味では「近傍シャフト」と言える。

スタジオこそMAPPAだが、音響監督=名倉靖(=シャフト作品群で録音を担ってきた中核人材)が音響監督として、メインスタッフに入っているからだ。音響監督の系譜がシャフト直系。ゆえに音響面の系譜で「近傍シャフト」認定で整合が取れる。

でも知らん人からしたらオシャレエンディングテーマにしかならないという二重苦。まぁそれはそれで、別に気にならないければそれまで。でもその場合、この「JANE DOE」の評価軸は「曲が良い/スターがすごい」という、言ってみれば当たり前の職能礼賛だけに収束する。 

アニメーターに絵が上手いとか、作曲家に曲作れるのすごい系の1=1系の入力=出力の同語反復である。1=1はただの点呼です。本来は1+1= でなければならない。

そしてそれは在り方としては作品に「かかっている」実感というものが底抜けしていることの証左であり、「作品」と「エンディングテーマ」は分離していてもいいと言っているようなもの。スタンスとしてそれもあり方はあり。でも全作品にそれを適応するのは、鑑賞者という立場からすれば絶対に「特別な作品」というものが生まれるので、いずれはこう言った問題に直面するはず。じゃあ直面しない方法は一つしかない。

OP=外輪/ED=内輪。

 

総合的に言えば『チェンソーマン レゼ篇』という作品は名倉靖の音響設計が映画に必要なバランスを与え、上田と花江が一行で記憶に残るを達成した。OPは規模で正解、EDは主語を取り違えた。ただしここは物語閉じをキャラクターの時間を止める(内在的エピローグ)か、映画閉じ=物語を観客の時間に返す(外在的エピローグ)という選択制であり、後者をMAPPAが選択したということ。

美点は明確、課題も明白。

 

ここから先の答えは、音で示せばいい。

 

そしてそれにかかる一番重要なポジションこそが「音響監督」なのだ。

 

 

追記.2025年10月8日

natalie.mu

やはりというべきか、牛尾自体はオファーのファーストインプレッションからして否定的。だがMAPPAの熱量によって快諾するという手順で起用されている。ここが問題だ。

初手の段階で担当する作家が「自分でいいの」と思うほど牛尾の中ではオファーされること自体が、予想外であったということが証明されました。

普段やってる自分の音楽性を鑑みても「私でいいんですか……」と。実際できるかどうか迷ったんですけど、大塚学社長をはじめMAPPAの皆さんがとても熱意を持って口説いてくださったので「一緒にがんばりたい」と思いましたし、原作を読んだときに「これめちゃくちゃだな」と感じたんですけど、それがすごくよくて。この印象を楽曲のコンセプトに据えたら楽しそうだなと思ったのがお受けした理由です。

結局、原作の面白さをコンセプトにできればな、という推進力こそ自ら生み出しているが、音楽的には「説得」された以上、原作に寄り添うこと。そしてその結果原作をコンセプチュアルに還元できれば「楽しそうだ」と発言しているからもお察しできるように楽曲との相性、必然性ではない。そしてそれは設計ではなく「牛尾」という名前のブランド性に依拠しているだけ。一体、何を思ってMAPPAの社長様と推した社員は「牛尾」に拘ったのか。ここが最終的な謎なのですが、これが「ネームバリュー」「ブランド」以外にあるのであれば、是非とも公開していただければと思います。『レゼ編』のサントラの功績は、牛尾が生み出したもの。なぜならば、牛尾が叙情的ストーリーにオケを導入したいという作家からの提案にによって生まれているからこそ、ようやくここで前景化してサントラとして極まったというわけです。だからこそテレビ版での意義というものは牛尾本人よりもMAPPAが握っているのでその点さえ明らかになれば問題は解決します。「名札で安心」ではなく「大義を先に立てる思想の深さ」。『国宝』はそれを実装し、『チェンソーマン』は欠いた。どちらもトップが推していても、設計思想の有無が力量差を露呈させ、結果の質を分けたわけです。原摩利彦は、現代音楽・環境音楽・コンテンポラリーのフィールドでは評価も実績もあるし、専門領域では十分に知られた存在。ただし 大衆的なヒットメーカーではない、つまり「名前で数字を保証できるタイプの作曲家」ではない。でも、だからこそ『国宝』での起用は重要で、大衆的な知名度に頼らず、作品の審美と音楽の必然性で選んだことにより、その結果として「100億規模の評価と興行」に繋がり、作曲家の知名度を逆に押し上げた。これがアニプレックスの村田千恵子とそれを繋いだ岩上敦宏の連携プレーの設計・座組の勝ち方である。一方『チェンソーマン』の牛尾は、逆に名札先行で選ばれた印象が強く、必然性の言語化が最後まで不十分。記号として通じる範囲にいたけれど、その意味と作品の意義が噛み合わなかったということが、このインタビューをして、余計に露呈しています。その上で、『レゼ篇』。ここになると、もはや制作の熱意ではなく、牛尾本人が「叙情的ストーリーにオーケストラを導入したい」と作家側からの提案を出したことがポイント。つまり外から押し付けられた枠組みではなく、作曲家自身が能動的に「音でどう物語を拡張するか」を提示した。結果、初めて音楽が前景化し、サントラとして極まった。だからこそここまでサントラの評価もテレビ版より高いんです。そこに名倉音響イズムが過去作との呼応で一致したのもあって。

たまたまですけど、今回の音響監督の名倉さんは「映画 聲の形」(2016年)と「リズと青い鳥」(2018年)のときのミキサーさんなんです。もちろん全体の方向性については名倉さんの統制下で進めるわけですけど、僕は“名倉音響組”のスタッフで、名倉さんは僕のことをすごくわかってくれているので、ある程度の裁量を渡してくださいました。ライブセットの場合、どこに何をどういうふうに当てるかってすごく大事じゃないですか? それって一般的には劇場作曲家の領分を超えていて、本来は音響監督さんとか選曲さんの仕事なんです。「ピンポン THE ANIMATION」「DEVILMAN crybaby」のダンスミュージックとしての音楽的側面は自分の今まで培ってきたものだし、名倉さんの信頼のもとそれをやらせてもらったことも、全体を構造的に作れたことの要因の1つかもしれない。あまり集大成という言葉は使いたくないですけど、これまでのいろんな経験則が結び付いて今回結実したことはよかったなと思います。

ここも象徴的ですね。当然ですが、設計の主語は名倉、牛尾は「理解され・裁量を委ねられた」立場。ライブセット的アサイン(どこに何を当てるか)の作業自体は、本来は音響監督/選曲の領域を牛尾が担えたのは、名倉の統制と過去作品における信頼「ゆえ」に成立しているのです。『ピンポン』『DEVILMAN crybaby』からのダンスミュージック的知見=作家の蓄積が今回「構造的に作れた」要因に直結。正直、ここには『チェンソーマン』以後の『ダンダダン』も含まれます。要は、制作が意味を設計したのではなく、名倉の設計×牛尾の能動が噛み合って初めて前景化したことが全てなんですよ。そしてこれらのことから分かるように、名倉の設計×信頼による裁量移譲×牛尾の能動の三点で成立していて、MAPPAの関与は実質ゼロ。『レゼ篇』は名倉がそれをよって上げたからできた。ゆえに、テレビ版の弱点(MAPPA主導の名札先行)は、ここで完全に露出した。これらが全ての真相です。

でも、だったら最初から蓮沼の方が名倉は妥協せずにいられたと思うし、好きな楽曲を本来の意味でアサインできた、という意味で『チェンソーマン』には適合であるという主張が妥当性を増します。果たして二期以後どうなるかはわかりませんが、この『レゼ編』で見えた諸々の課題は重要なので、それらを早いところ、全てクリアしてほしいものです。それに先のインタビューのこの部分からしても牛尾はしっかりと考えいる作家なので、その意味では仮に「交代」と言われてもすんなり受け入れる可能性が高い。

、「トロン:アレス」の音楽を手がけたトレント・レズナーアッティカス・ロスのコンビなんて非常にシンパシーを感じるチームではないでしょうか。

だいぶ恐れ多いですけど(笑)、勇気付けられます。僕はオーケストラの譜面を1人で書けるわけじゃありません。アカデミズムを経ない、アンダーグラウンド出身者でありつつ、劇伴作曲家をやらせてもらっていますけど、トレント・レズナー、ジャンキーXL、惜しくも亡くなられましたがヨハン・ヨハンソンの活躍を見るともう少しがんばれるかな、と思います。さらに僕の世代のルドウィグ・ゴランソン(1984年生まれ)は、最初からそこに垣根がない。すごくいい時代ですよね。

 全部が『MADMAX』『Socialnetwork』『Tron ares』など文脈を請け負う彼らが担当することで意義をもつ劇伴作家でもあり、その極致としてヴィルヌーヴという、現在における美と商業性と物語の三位一体を成立できてるハリウッド監督の「下地」を支えたヨハン・ヨハンソンをこのように評価するというのは、作品はそれに沿った作家であれ、という主張にほかなりません。大体そうじゃなければラゴンソンまで言及できませんよ。ヒドゥル・グドナドッティルまで言及すれば完璧だけど、これは枝葉的な意見ですが、そこも含めて多分組めている。

 

本記事の主張は『レゼ篇』のサントラ賛美、音響賛美。このどちらか、あるいは両方を支持することによって、名倉音響であることの必然性と、後から、「牛尾」が能動的に動きアプローチをしたことで生まれた設計思想に基づいた基準での図式を認めたことになり、それすなわち現状ベストであるということを認めるということになります。

つまり、しつこいようですが『レゼ篇』においてようやく「ベストに近いベター」になった。つまりこれはスタッフ功績であり、MAPPAは「助かってもらっている」「助けられている」という立場を自覚した方がいいと思います。実際の作品の出来、鑑賞者の反応、作り手のアプローチの違いといい全てがそれを証明しているので、本当に二期でこれらを解消しないと、スタジオとして成長できないと主張します。


 
《シャフトライン》

ef - a tale of memories. - アニメスタッフデータベース

夏のあらし! 〜春夏冬中〜 - アニメスタッフデータベース (不参加) 録音:蝦名恭範

 荒川アンダー ザ ブリッジ - アニメスタッフデータベース (不参加)録音:蝦名恭範

ダンス イン ザ ヴァンパイアバンド - アニメスタッフデータベース

ささみさん@がんばらない - アニメスタッフデータベース (不参加)録音:椎原操志

メカクシティアクターズ - アニメスタッフデータベース (不参加) 録音:矢野さとし

 

 〈物語〉シリーズ(主旋律)

化物語 - アニメスタッフデータベース

偽物語 - アニメスタッフデータベース

<物語>シリーズ セカンドシーズン - アニメスタッフデータベース

 

 

*1:因みに、仁氏の父親である明田川進は日本アニメ創世から音響周りを支えたマジックカプセル創業者でもあり、浦上靖夫に並ぶレジェンドである。担当作は『鉄腕アトム』『リボンの騎士』から『AKIRA』『銀河英雄伝説OVA

*2:月詠 -MOON PHASE-』(2004–05)、『ぱにぽにだっしゅ!』(2005)、『ひだまりスケッチ』(2007〜)、『さよなら絶望先生』(2007–09)、『まりあ†ほりっく』(2009)、『それでも町は廻っている』(2010)、『電波女と青春男』(2011)、『ニセコイ』(2014–16)、『幸腹グラフィティ』(2015)、『3月のライオン』(2016–18)、『美少年探偵団』(2019)

*3:主に吹き替えメインの音響監督。一番有名な仕事は『ハリーポッター』シリーズの吹き替え