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Music Synopsis

音楽に思考の補助線を引く

『響け!ユーフォニアム』という音楽劇──吹奏楽の二大作家・福島弘和と樽屋雅徳の不在

これね、吹奏楽を学生時代にかじった人──あるいは今まさにホール練とか部室練で汗かきながら、ロングトーン地獄に耐え、全体で何度も自由曲をさらい、顧問の抽象的なニュアンス支持に翻弄される。大体いつも話題になるのは「アーティキュレーション」「倍音」「リズム合わせ」の三点セット。気づけば声で旋律を歌わされ、最終的には合唱部みたいな空気になっていく。

吹く前に自分の声で歌えないと吹けないという根本に至り(それはそれで正しいんだけどね)、続くあの時間、そしてようやく演奏できると思った矢先、木管金管、パーカス、どっか一つの集中攻撃の間、「自分たちなにすりゃいいんだ」ってなるあの空気、極め付けは時計を見た時に気付けば「早く終わらないかなぁ」と思いつつ、それでも楽器と向き合い続けている現役の学生なら、神経質なほどわかる名前4文字作家だと思うんですよ。


むしろ、「吹奏楽やっててこの二人知らないってにわかだろ?」ってくらいのレベルで。

島弘和と樽屋雅徳とかいう大正義
自由曲選びで先生がファイル持ってきた瞬間に「来たな…」とわかる。
というか、なんなら『マードック』を演奏したいと学生側が希望しているまである。
あのイントロを演奏したい!! とか秒でしか出番のない、あの「ピアノの一音」で決めたい。大サビのペットで決めたいとかさ、とにかくそんな感情の集合体みたいな楽曲を、樽屋は量産し続ける。


あるいは、「和風!!」みたいな雰囲気で作らせたら、もう、技術的に難しくても、
ウィンズスコアのグレードが高くても演奏するしかない──圧倒的なまでの「決め」な福島楽曲。わかる、わかるよ、大いにわかる。

そしてそれは、どちらかというと逃げじゃない。勝ち筋。

 

 

そしてなによりに自由曲って、選べるようで選べない

常連全国をいくようなバケモン校は、大体、高尚さと技術を見せるためにクラシックに走る。
(特に例の埼玉三強とか、西の京あたりのあそこらへん)

でも、全部が全部そんなレベルの高い楽曲を再現できるわけではないし、
そもそも人がいないからAコンなんて出られません。
あるいは、多すぎてDコンに流される。(Aコン落ちの末路というのは、悪い風潮)

でも、それすらも──いってみれば贅沢なんですよね。
どんなに下手でも、人数が多ければその分選べる自由がある。

本当の地方なんて、人が少なすぎてBを選ぶんだから。

 

そんな少人数制でも演奏できる楽曲があって、しかも共通言語として広く浸透している
それが、この二人の楽曲なんですよね。

つまり、福島弘和と樽屋雅徳というのは、ただの人気作曲家ではないんです。

これ、いっても正直「通った」人以外には肌感覚としては伝わりづらいと思う。
でも彼らの楽曲って、吹奏楽という制度そのものを支えるレベルで、演奏現場に共有されてるんです。

 

指導者・審査員・演奏者、すべての視点から見て「成り立つ」作品。地方の少人数編成から、全国金賞常連校まで全員が知っている王道なんです。

だから、演奏動画にも困らない。逆に複数校が同じ曲を演奏するなんてザラにある。
でもそうなると、どこが良かったか/何が足りなかったかまで、比較で見えてしまう。
ある意味、教材としてすら機能しているんですよ、彼らの曲は。

響け!ユーフォニアム』は、部活の現場的リアリティと、アニメ的ドラマの両立を試みた。作者が経験者ってのもあってそれは半分は成功したといえるでしょう。指導描写や練習風景は共感を得るためのリアルを選んだ。でも自由曲は福島弘和でも樽屋雅徳でもない。劇伴が松田彬人なのに、そこだけ制度的な共感の中核から外れている。

たとえば自由曲だけは「《マードックからの最後の手紙》か《ラッキードラゴン 第五福竜丸の記憶》か」みたいな選択にしてたら、経験者ウケとしてはありな選択。

知らん人は聴いてください。これが「水準」であり「圧倒的自由曲」の存在感です。

ラッキードラゴン~第五福竜丸の記憶

ラッキードラゴン~第五福竜丸の記憶

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マードック》(2004年)も《ラッキードラゴン》(2005年)も、20年近く選ばれ続けている時点で「自由曲としての殿堂入りクラス」な存在なんですよ。

 

 

しかし物語として「キャラが背負って鳴らす」視点を優先した結果、ペット(麗奈)が映える『三日月の舞』になった。

三日月の舞 (全国大会銅賞 Ver.)

三日月の舞 (全国大会銅賞 Ver.)

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そういうバランス感覚だったのかもしれない。とはいえ、結果的には──その『三日月の舞』が逆輸入されて現場で演奏されるようになった。そういう意味では、制度と物語が相互に補完し合う活性化が成立したとも言えるでしょう。ただ、一方で「高坂麗奈=トランペットのための音楽」という存在感というのもまた否めない。

 

やっぱり吹奏楽で「こだわる」なら現場で共通言語として扱われている既存の自由曲を選んだ方が、もっと面白くなった可能性もあるんじゃないか、って思うんですよね。

それ、既存の自由曲でも達成できるし、現実の吹奏楽楽曲の制度と共鳴させたまま、物語も描けたよねって話なんですよ。

それこそ、ペットが主役でいいなら《マードックからの最後の手紙》なんてまさに一撃がある。中盤のペットソロは、吹奏楽経験者なら誰もが演奏してみたいと憧れる瞬間だし、何より音楽そのものに物語性が内在している。しかも《マードック》はオーボエにも大きな見せ場がある。フルートだって誰しもが演奏したソロがある。アニメファン向けに翻訳するとですね、これは高坂麗奈(ペット)と鎧塚みぞれ(オーボエ)の一種のダブルソリスト的な構成として完璧に成立してしまうし、傘木希実(フルート)だって参入できる。

そしてなによりも自由曲の象徴たる一曲です。

つまり、制度的リアリティと物語的演出の両立が、既存曲でも可能だったのでは?
そう思わせる説得力が、樽屋楽曲には確かにあるし、力強い感じで行くなら例えば、福島の《走れメロス》なんかを採用して盛り上げのところでパーカスが鎖をジャンジャンならすとか、そういうパートをアニメーションで描写したほうが面白くないとか思っちゃうわけですよね。

交響的詩曲「走れメロス」

交響的詩曲「走れメロス」

  • 航空自衛隊西部航空音楽隊 & 加養浩幸
  • クラシック
  • ¥204
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ディティールとしての演奏映えとして。地味だけど、そういうところが楽曲の総和をなしているわけです。そしてこっちでもやっぱりペットは映えるし。

ピッコロが活躍するという意味でも、《走れメロス》は傘木希美の描写にも応用できる。つまり、ソロを背負うキャラクターだけでなく、アンサンブルの中で輝くキャラクターに対しても、既存曲を媒介とした演出は十分可能だったということだ。

特に『リズと青い鳥』では、みぞれとの対比のなかで、圧倒的な実力に苦悩する、内向的で繊細な側面が強調されていた。だからこそ、せめて演奏中の時間だけでも音によって自分を主張できる瞬間があってもよかったのではないか。そう感じさせる余地が、制度的な自由曲には大いにある。

同じ意味でアニメ映画『リズと青い鳥』のように、みぞれと希美という二人の対比関係を中心に据えた構成であれば、自由曲として『リズと青い鳥』(第一章〜最終章、コンクール版)を新たに書き下ろしたのも、選択としては納得がいく。

 

リズと青い鳥 第一楽章「ありふれた日々」

リズと青い鳥 第一楽章「ありふれた日々」

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リズと青い鳥 第二楽章「新しい家族」

リズと青い鳥 第二楽章「新しい家族」

リズと青い鳥 第三楽章「愛ゆえの決断」

リズと青い鳥 第三楽章「愛ゆえの決断」

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リズと青い鳥 第四楽章「遠き空へ」

リズと青い鳥 第四楽章「遠き空へ」

リズと青い鳥 (コンクール用編曲Ver.)

リズと青い鳥 (コンクール用編曲Ver.)

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というのも、これほど長尺でオーボエが主役となる既存の吹奏楽曲は、ほとんど存在しないからだ。みぞれの内面や成長を「音楽そのもの」で語らせるためには、むしろ物語に合わせて曲を創るしかなかった。そうした制作的判断は、山田尚子監督作品であればなおさら自然な選択だったのだろう。

振り返れば、『響け!ユーフォニアム』シリーズは一貫して、「物語のために曲を書く」というスタイルを貫いてきた。だが、もし本気で演奏パートの音楽性そのものを描くことを主眼に置くのであれば、むしろ樽屋や福島の既存楽曲の方がふさわしかった可能性が高い。特に、木上益治による音楽と演技をシンクロさせる繊細な作画演出とは、既存曲であってもより高次元での連動が可能だったのではないか。

自由曲という制度的リアリティを最大限に活かしながら、キャラクターの感情と演奏描写を融合させる──そうしたアプローチも、映像としては充分成立し得たはずだ。だからこそ、こう考えるべきではないか。
響け!ユーフォニアム』は、現実の吹奏楽部を再現する作品ではなく、「創作された物語世界」を貫くために、あえて実在の名曲群を外した。その判断自体が、制度的現実を知ったうえでの「意図的な逸脱」であるという見方である。

──だが、それでも思ってしまうのだ。

京アニで、あれだけ緻密に世界を仕立て上げるのであれば、いっそ福島弘和と樽屋雅徳を召喚し、2年生編・3年生編それぞれで新曲を書き下ろしてもらえばよかったのではないか。彼らの楽曲はすでに現場で繰り返し演奏されており、制度内でもっとも信頼されている作曲家の筆頭である。だからこそ、作品世界の中で発表された新曲が、逆輸入されて現場で演奏されるという循環も、十分に現実的だったはずだ。

それをなぜしなかったのか──そこに、最大の疑問を感じざるを得ない。

なにも、ストラヴィンスキーのような高度なクラシック音楽を編曲し、高難度の演奏を披露せよ、とかプッチーニの『トゥーランドット』を〜などという極端な要求をしているわけではない。それに比べれば、福島弘和や樽屋雅徳といった作曲家の楽曲を選ぶことなど、遥かに現実的であり、平均的かつ妥当な水準の話にすぎない。

なぜなら、そもそもクラシック編曲ものは、Aコン常連校のように限られたリソースと高水準の人員が揃った環境でなければ成立しない。技術の誇示には適しているかもしれないが、それはあくまで一部の頂点の話であり、北宇治のような平均的な部活を描くうえでは、むしろ非現実的な選択にあたる。だからこそ、現場で繰り返し演奏され、審査にも教育にも耐えうる構成を持った作曲家福島弘和や樽屋雅徳の作品を選ぶことこそが、制度内でのもっとも自然なリアリティだったはずなのだ。視聴者の共感という意味でもね。というか、それくらい定着しているが故に、そうでないと相当「片手落ち」。

 

音楽を現実の模倣としてではなく、物語のための言語として扱う──だからこそ、『響け!ユーフォニアム』は「吹奏楽アニメ」というよりも、「音楽劇としてのアニメ」なのだ。たとえば課題曲にしても、足立正の『じゅげむ』のような、実在する楽曲を用いることは十分に可能だったはずだ。実際、劇中で演奏される課題曲I『マーチ・ブルースカイドリーム』は、現実に存在する作品である。

(サンプル例が伊奈学なのはまぁいいじゃん)

マーチ・スカイブルー・ドリーム

マーチ・スカイブルー・ドリーム

  • 埼玉県立伊奈学園総合高等学校
  • クラシック
  • ¥255
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だが一方で、より高難度かつコンクール上位校で好まれる課題曲IVやV、あるいは平均的なIIIの楽曲はまったく登場しない。

この選択は偶然ではなく、制作側が意識的に「制度的リアリティの線引き」を行っていることの表れである。つまり、課題曲Iを用いることで一定の現実味を担保しつつも、それ以上は物語としての整合性を優先させる──それが『響け』という作品の立ち位置なのだと思う。言い換えれば、『響け』はあくまで「創作された物語世界」における音楽劇であり、現実の吹奏楽部をそのまま再現することには重きを置いていないということだ。

 

そもそも、課題曲IVやVを扱える水準のバンドにおいては、演奏技術の向上や選曲そのものに時間を割かれるため、部内の人間関係の衝突といった構造にはなりにくい。

だが、それも含めて「描かないことを選ぶ」演出は、むしろ創作的な線引き=演出意図の表明に他ならない。その上でやはり注目すべきは、「自由曲」という最も創造的個性が出る場面において、樽屋雅徳や福島弘和といった現場の定番作曲家をあえて採用しなかったことだ。これは、リアリズムの観点から見れば意図的なずれである。

 

もし『響け!ユーフォニアム』が「吹奏楽という演奏そのもの」にフォーカスした作品であるならば、演奏効果も高く、知名度もあり、楽曲の物語性も豊かなこの二人の作家を選んだ方が、視聴者にも現場感覚が伝わったのではないかと思う。それは単なる嗜好や経験からくる願望ではない。中高生という限られた期間しか吹奏楽が主題になりえないからこそ、吹奏楽曲そのもののバリエーションを一般層に提示するという意味でも、樽屋・福島という作家の存在は強い。

 

たとえば『斐伊川に流るるクシナダ姫の涙』のような楽曲は、演奏効果・ストーリー性・映像化適性のすべてを備えている。

斐伊川に流るるクシナダ姫の涙

斐伊川に流るるクシナダ姫の涙

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にもかかわらず、選ばない。それは、キャラクターの感情や物語の設計を優先するためである。

 

だから演奏という意味では、どうしても「これはアニメとして設計された演奏描写なのだな」という感覚が、最後までどこかに残る。もちろんそれは、創作としての完成度の高さと引き換えに選ばれた線引きであり、『響け!ユーフォニアム』が徹底して守り抜いた美学でもある。

だからこそ、その「視点」で考えれば、ソロを誰が吹くか、というのは結局キャラクターものという文脈が否めない。その意味では黒江真由が演奏しようが、久美子が演奏しようが、それは「物語上の役割」であって、実際の吹奏楽部におけるパートの割り振りや音楽的適性とは切り離されている。もちろん、ドラマとしての意味付けがある以上、その演出が悪いわけではない。

だが裏を返せば、その時点で『響け!ユーフォニアム』は「吹奏楽部のリアルな内部」ではなく、「キャラクターが生きる音楽劇」としての道を選び取っているということでもある。

ただ、その上で再三述べておきたいのは──『響け!ユーフォニアム』の成功によって、吹奏楽の未来が本質的に変わり得た可能性が、確かに存在していたということだ。

それは単に「部員が増えた」といった表層的な現象ではなく、もっと本質的で創造的な変化──すなわち、「アニメから新曲が生まれ、現場にフィードバックされる」という回路の成立である。

そして、その構想を現実のものとし得た存在は、「全国の吹奏楽部が頼る作曲家」の代表格である島弘和か樽屋雅徳この二人しかいなかった。

 

響け!ユーフォニアム』は、吹奏楽部の人間関係や成長を描きながら、それを音楽劇として昇華させた稀有な作品である。だが、だからこそ、「吹奏楽部の現場」と「物語の演出」との微細なズレは、最後まで拭いきれなかった。

島弘和や樽屋雅徳という、制度的リアリティと創造性を両立できる数少ない作曲家を迎えることで、その隙間はもう一段階、美しく接合されたのではないか──そう思えてならない。