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Music Synopsis

音楽に思考の補助線を引く

櫻井孝宏vs石田彰|宮野真守vs早見沙織| 演技思想戦を構文で

今、世間で流行っている予算も時間も声優も潤沢に使えるANIPLEXの最終兵器、鬼のアニメがあるじゃないですか。まぁ世の中にはそこに依拠しなくても色んなコンテンツがあるのと、自分自身、「暑苦しい作品」=ジャンプ作品という偏見を根に持っており、そもそも肌に合わないから正直、どんな話なのかも1mmも知らないんですよね。

(まともに読んだことのあるジャンプ作品は『デスノート』と松井優征作品くらい)

だから、これがもしもですね

ゴルゴダの丘で釈迦とキリストがリニアカタパルトをつけて闘技場で殴り合う!!」

みたいな思想戦だったら大手を奮って喜んで鑑賞するのですが、そういう話ではないことは誌面がジャンプである以上、やっぱり自明であるし、そう言うのが読みたいのであれば光瀬龍の『百億の昼と千億の夜』を読めばいいだけであって、それで終わりなわけですよ。

 

ただ、色々とそういうを好む人たちからこういう声(感想)が聞こえてくるわけです。

早見沙織vs宮野真守」「石田彰vs櫻井孝宏・花江」

 

なんだ!!声優レベルでは光瀬龍みたいなことが起きてんじゃん!!って。

 

だって、これ「声優」の人たちとその背景、つまり演じたキャラクターを考えれば対比的になぜここに配置されているのか、というのが蓄積としてあるため、その意味ではもうキャスティング配置だけでその異様さに興味を惹かれるわけです。声優構文として。

 

どう考えても、石田彰櫻井孝宏はvsで戦わせるってなにそれ!!って思うわけです。

 

鬼のアニメを例外として、普段アニメをみない人に向けて補足をすると、この作品にでている演者は味方敵どちらの役者においても、勿論前提として「実力」があり「人気」ですが、その上でもやっぱり普段の30分の尺アニメにおいて、一人いればそれだけで場をもつ人たちなんですよね。つまり上澄なわけです。

そしてそんな人たちを大量に雁首を揃えて演技バトルさせることができるのは母体がANIPLEXという配給の超大手であり、その現社長様がいろんな作品に関与している超人だからです。(ここを詳しく知りたい人は「岩上敦宏」で調べましょう)

閑話休題

ただの「人気声優」には依拠しない、むしろそれ以上に各々が「文脈」を持っている。全領域においてカバーされているなんとも異常な配列。そんな上澄の声優が各々積み上げてきたキャリアと、この作品との対比を考えるとものすごく不思議なんです。

 

石田彰VS櫻井孝宏

まず、石田彰櫻井孝宏です。この二人について、声優をあまり知らない人向けに簡単に言えば、「喋る=裏切る」「語る=欺く」という記号性を、声だけで成立させられる圧倒的に稀有な声優です。アニメに詳しい層であればもはや常識レベルですが、これは単に「悪役が似合う」などという単純な話ではありません。

 

この作品では櫻井孝宏はいい奴、石田彰は悪い奴、でキャスティングされている。ここまでならまだわかる。

石田彰は常に「精神的悪役」を演じるのが上手い。

今回の、顔面がオプアートみたいな感じでデコレーションされた猗窩座っていうキャラにしても、多分、『NARUTO』において我愛羅と言うキャラを演じていた来歴というのは一致する。調べてみたらキャラトーンも大体構造的には同じっぽいし。つまりここから導き出せるのは石田彰の声がもたらすのは常に「内面にねじれた倫理を持つ存在」であるということ。だから『エヴァQ』でも自分から提案しておいて「やっぱやめておこう」って言いながら最後はBRですっかりお馴染みの首チョーカーの運命を主体的に受け入れるて退場するわけです。

 

表面は静か、あるいは饒舌ですらある、でもその言葉の奥には、空洞や欠損がある。

この倫理と感情の非対称性を「声だけで表現できる」その特異性こそ=「精神的悪役」

にふさわしい声なわけです。

決して、『アカギ 〜闇に降り立った天才〜』における平山 幸雄(偽アカギ)みたいな「ナー、ヤメロ、シニタクナイー」みたいな去り際において、生の感情を出すような悪役は「最初から」演じるはずがない。

 

同時に櫻井孝宏バリトンからアルトまでカバーできるそのカメレオン性はすでに『コードギアス』における枢木スザクというキャラクターですでに実証済みです。

(このスザク役も、本来は声色的には合わないものを監督の意向で成立している)

スザクは「キャラの声色的」に合っていないが、だからこそ成立した例外的な一例。

正義キャラにしては抑圧的で息苦しい。勿論演技レベルは非常に上手いですよ。ただその前提段階として、「そう言う役」なら別に「櫻井孝宏」でなくてもいい。なんならルルーシュを演じた福山潤の方に回った方が構文的には自然。それを逆にした谷口悟朗の采配。キャラとして正義キャラの側に置いてはいけないような声でありながら、それを逆に「正義キャラに使う」ことで、声とキャラの間に発生するズレがキャラクターの病理を露呈させるということです。そしてこのキャスティングが例外であるということは後のキャリアが証明している。

つまり櫻井孝宏が武器持って戦う勝負師として「善」を演じることもわかる。

ただ、とはいえ櫻井孝宏の声がある以上「喋ったらだめだろ」ってなるわけですよ。

 

語り出せば、観客の認識が「裏」「二重構造」「諧謔」に引っ張られる圧倒的な「声」

 

その声は、声がついた時点で世界にひずみが入るような作用を持つ。常に人を諧謔させるようなあのトーンは発するだけで空気さえ歪ませることできるし、これは個人の感想ではなく実際に彼の来歴キャラがそういうキャストはほぼ専売特許になっています。

そしてこれに係る作用は石田彰と同じで「精神型悪役」の本質に最も近い声。

だからこそ中立的な立場で、善悪どちらにも傾きそうな演技位置の声当てが最善になる

 

つまりいい奴で決して裏切らないという物語の構造があったとてそれを、声に変換したとき「櫻井孝宏」の4文字が出ると「こいつは裏で第3の道でも開拓してる」「実はラスボスと通じている」という「誤解」さえ生まれるくらい、声の力学的な歪みが「喋る」だけで起こせる声優なわけです。たとえ、それが物語的に「裏切らない」キャラクターであっても声がついた瞬間にそう思わずにはいられない、その象徴みたいな声を持っているから。

 

もっと簡単に形容しましょうか。

 

裏切らない設定・構造×最も裏切りを想起させる声=強烈な意味の対位法

 

だから、何も知らない自分からすればこれどう統御するんだろうと思うわけです。

そしたら、このキャラは「寡黙」だけど「だからこそ台詞」が立つキャラらしいんですよね。

ああ、なるほど。つまり逆手なんだこれ。

ここで、一度、櫻井孝宏の代表作を振り返ってみましょう

これ、全部こなせるこの声域を持つのが櫻井孝宏

このような圧倒的に思想性でキャラクターが成立しているような声が、ジャンプのアニメでは物理的な武器を持った強いキャラクターに配置しているわけです。

 

つまりキャスティング文法でいえばほぼ谷口悟朗が採用した「敢えて」感は非常に強い。しかし決定的な差異として歴然としてあるのは「寡黙キャラ」にしたこと。敢えて採用することは谷口悟朗が既に実証ずみ、しかし最低限「喋れない」キャラクターとして成立させたわけです。

 

これ、一周回って櫻井孝宏だからこそその空気が出せると言う意味でも、非常に高度ないい意味での「逆張り」型だと思うんです。寡黙キャラとしての統御に見えるが、実は「声の暴力性」「語りの潜在性」をあえて沈黙に封じ込めておくという高度に制御された物語の地雷としての機能している。あるいは、そうでもしないと櫻井孝宏を「善」としてのキャラクターとして配置するのは難しいということだと、個人的に思うわけです。

 

さて、それを踏まえた上で「石田彰vs櫻井孝宏」を踏まえると、これは以前自分が作った144分類における第一定義における「表音・表意・表義」に置き換えてみましょう。

 

sai96i.hateblo.jp

石田彰(表意型)・櫻井孝宏(表義型→寡黙キャラにおいて表意に統一されている)

その上でより詳細に分類分けをすると

石田彰

そもそも表意型特化声優であることが明確.

役的にもこれは純粋に表意32番型「固定・内在・アルト・disorganize」

櫻井孝宏

本来は –「表義・全音域・organize+disorganize」型(=hybrid offender)だが、善キャラで沈黙制御で表意の28番「固定・内在・テナー・organize」

こう考えると「本来」で言えば「合わない」というか主張が強すぎる二人の声が

「固定・内在・アルト・disorganize」vs「固定・内在・テナー・organize」

と言う構図に。

こうすれば表意・表意で音域と悪役か善役かの違いしかなくなる。

 

櫻井孝宏が声を当てるキャラの性質上、統御されていることで効いてくることは構文的にも正しい。そしてそれは統御しないと収まらないくらいレベルの高い演者でないと出せない空気感でもある=櫻井孝宏が起用された最大の理由としても得心となる。

構文的に沈黙させられることで初めて表意・固定・内在・テナー・organize(28番) に保留、あるいは偽装させることで

  • 石田は内から崩れる混沌(disorganize)

  • 櫻井は抑え込まれた正義の寡黙(organize)

という本来のWキャスト型的な均衡を活かした敵味方にするという基本形に落ち着く。音響上も破壊する側とそれを黙って受ける側という演劇構造が構文として成立する。

ま、実際にみてみるとシリーズ自体がすでに後半戦っていうのもあってすでに善側な空気しかなかったわけですが、それでも口数が少ない櫻井孝宏だけでもあれくらい味がでるのは逆説的な演出だと、自分は思いますね。

 

つまり「裏切り象徴」としてのこの二人を対峙させるにはそのままでは主張がお互い強すぎて別物になってしまう。『PSYCHO-PASS』の時のように敵が槙島で、それを捕まえる一捜査員としての縢 秀星との関係であれば、メインが花澤香菜関智一であるからその意味では直接的な対立軸にはなり得ないからお互いそのままの構文を発信できる。

言い換えるのであれば両者は「主音響軸にいない限り」、石田も櫻井もそのままの構文で暴れてよい。だからこそ今回のケースにおいては櫻井孝宏は構文的に統御され、そししてそれゆえに他の音響と接続することができる。解決できる。

圧倒的表意の石田彰戦を成立するためには櫻井は統御が前提でなければならない。

逆にそれがないと櫻井が主導権を握り始めてしまう。キャラクター関係なしに声の主張がそのまま相手の構文を破壊しうる。このため、統御状態の仮構こそが、声の関係性を制度的に成立させている。

 

以上が今回、石田彰櫻井孝宏がバトれる構文として導き出したのは櫻井声を寡黙にさせることで成立するという結論です。

 

ちょっと横道にはそれますが、櫻井孝宏のエッセイ本『47歳、まだまだボウヤ』を読むとこういう一節があります。

私が欲しいのは藤原啓治さんの心奪う生々しさや、林原めぐみさんの魔法のような表現力や、子安武人さんの異次元の想像力や、坂本真綾さんの凛とした完璧な美しさなのです。関智一さんの無限の可能性も、石田彰さんの悪魔的なリアリティも憧れる。
良いものに囲まれて育った私は目と耳が肥えてしまい、自分の表現に満足できなくなりました。
こうしよう、ああしよう。こうしたい、ああしたい。こうできたらいいな、ああできたらいいな。
作品に寄生して自分の理想を夢想する。

櫻井孝宏.『47歳、まだまだボウヤ』.P82.株式会社KADOKAWA.

もちろん、自身で書いたエッセイゆえに、自己評価という意味ではそれはそうなんだろうと思うと同時に、自分がそうだし多分ほぼ99%の人がこの文章を読んだとしても、「いや、お前が一番すげぇだろ」っていう事実

は感じると思うんですよね。

全部、もってるじゃないかと。そしてなによりも「作品に寄生して理想を夢想する」
それを20年以上、誰よりも的確に演じ続けた存在こそ櫻井孝宏なんだと思うと、本人が謙虚して書くのは妥当だとしても、ガヤからすれば、「理想に憧れる自分」という構造を借りて、読者にこの人が理想そのものでは?と思わせるための、逆構造的自己紹介とすら思えるんです。

櫻井孝宏という存在は、どこまでも「自己に回帰しない語り」が徹底されている気がしていて、自分を語ると見せて、実は誰かへの憧れを語る。それは、自己神格化の否定であり、才能の神秘性の保持でもあるなと感じました。しつこい様だけれども、実際、もう櫻井孝宏のキャリアが全てを物語っているんですよ。

 

というわけで、次は早見沙織宮野真守についてに移りましょう。

 

 

早見沙織vs宮野真守が成立する面白さ

正直、作品で一番演技的に面白いぶつかり合いをしているのはここでしょう。大凡どうやったらアニメ作品で演技として戦わせるというのは「理想」でありながらもシチュエーションとしてはなかなか難しい。なぜならそれぞれが「極地」を演ずることができる声優であるが故に、早見沙織宮野真守の二人を投入しようものならバランスが絶対変動する。

 

早見沙織

高嶺愛花(『ラブプラス+』)

斧乃木余接(<物語>シリーズ)

鳩子(『異能バトルは日常系のなかで』)

蛇喰(『賭ケグルイ

西宮硝子(『聲の形』)

雪ノ下雪乃(『やはり俺の青春ラブコメは間違っている』)

司波 深雪(『魔法科高校の劣等生』)

など式神からハンディキャップ持ちのキャラクター、博打キャラといった多様なキャラクターを演じ分けながらも、何よりも圧倒的なヒロインというなのお嬢様属性をこなす2010年代における代表的な声優の一人です。

「極北のお嬢様系ヒロイン」「制約や呪いを抱える繊細キャラ」の模範解答声であり、理性と美学に守られたヒロイン像を演じさせたらダントツで正解の演技を繰り広げる、そう言う存在です。特に今回と接続する役所で言えばまず<物語>シリーズにおける人間ではなく式神としての斧乃木余接、これは最近のインタビューでも「演じるのが難しい」というほど「人じゃない」からこその演技における制約というものが、これほどの実力者になっても難しいということ、そして聲の形』の聴覚障害を持つ西宮硝子では、言葉にならない感情、つまり「伝えたいのに伝わらない」「好きなのに痛い」「声にならない声」を、早見は声の輪郭で演じることで「届かないことを前提に語る」という演技を通して、倫理的痛みを可視化する術を獲得したといえるでしょう。声を用いずに声優が演じる極地と言っていいキャラを演じたことはシンプルに格が違う。言い換えれば、「伝わらない言葉」の奥にある情動を、演技として成立させる力量ということなのだから。

 

そしてそれは今回の演技に近しいものがあります。と、いうよりも早見沙織という演者の凄みは個人的には「行動でなく、抑制によって倫理が可視化される演技」

にあると思います。発すると空間には品位が宿るあの声にはそうした魔法もある。

 

他方、宮野真守

夜神月(『デスノート』)

永井圭(『亜人』)

月山 習(『東京喰種』)

岡部倫太郎(『STEINS;GATE』)

吹雪士郎(『イナズマイレブン)』

など、人間だけど非人間的なキャラクターを演じさせたら並ぶものなし、唯一無二の声域を持ちながらも、いわゆるイケメンキャラもコミカルなキャラもこなすという難しい領域において演技における機動力というものが非常に高い声優です。その意味では櫻井孝宏が中間の黄金口の声に対して宮野真守は圧倒的に「悪」と「倫理観」が狂ったキャラクターがお家芸レベルに上手い。特段すべきはやはり夜神月であろう。これを演じられたからこそ、地続きとしての永井圭があり、それでいながら声のかっこよさで他のキャリアもこなしていく。

役が鬼であれ人であれ、宮野真守の演技が持ち込まれた瞬間、その存在は社会的逸脱者、すなわちソシオパス的性質を帯び始める。
だが彼の声は、それすらも逸脱としてではなく、当然そこにある現実として再構成してしまう。異常性を異常として響かせず、日常の地続きとして鳴らすことができる希有な声優である。だから、強敵とかそういう枠組みよりも通常の理屈が通じない「厄介」さを包括する。

鬼のアニメにおいても、そのキャラクターが異常だから宮野が担当するのではなくむしろ宮野が声を発した瞬間にキャラクターの異常性が強化されるとみた方が早いのだ。
つまり彼が演じる時、鬼であることはもはや副次的であり、その前に「人として壊れている」という前提が先に立ってしまう。実際そういう演技だったでしょ。

他の悪役がいかにもな「悪い奴」に対して「悪い以前に根源的に異物」であるというキャラがあの童磨であるわけです。

(今回の劇場版しか知らないけど多分枠組みとしてはそういうキャラなんだろう)

つまり、怒りも悲しみも共感もない。あるのは「笑顔」と「理解したフリ」だけ。ここで重要なのは、彼が意図的に「悪を演じている」わけではないこと。童磨は、他者の痛みに対しての理解が構造的に欠如している。そしてそれを「楽しそうに」「親切そうに」振る舞うことで覆い隠している。

そこに宮野真守の演技が重なると、「隠している」というよりも最初から隠す必要すらない存在という枠組みが強くなる。つまり、共感できないこと自体が無罪であり自然であるという倫理の蒸発したキャラクターになる。普通の声優なら「悪意の演技」になるところを、宮野は「愛想のいい無理解」で塗り潰してくる。これがまさに、「倫理観の崩壊」をナチュラルに響かせられる演技の本質です。

そして、石田の鬼のキャラは退場手前で「過去」が描かれて要は「辛い人間時代があってなぁ、、」みたいな苦労話を延々と聞かさせるわけですが、宮野が請け負っているキャラは最初から壊れている、つまり鬼になろうがなるまいが関係ない不気味さなんですよ。「壊れた後に回想で補完される」のではなく「最初から壊れている」

そしてそう言うキャラは「夜神月」という正気が残る大ダークヒーローを演じ切った宮野真守にしか演じられない。「正気の狂気」を演じられた者だけが、完全なる「無感覚の怪物」を演じられるといっていい。その演技に倫理的な偽装も一切ない。

 

つまり「理念、信念を絶対に曲げない女性」「お嬢様系ヒロイン」の代表格と「倫理観が当然のように崩れているキャラ」の代表格が交えるということになります。

 

姉とか諸々倒されたその憎しみを、やっぱり「身長」とか「手」の大きさといったハンディじゃないけど、戦う人間としてて物理的な「足りなさ」というのもやっぱり『聲の形』における西宮のようなキャラクターでさえも完璧に演じ切った早見沙織だからこそのの説得力のある演技だったと思うんです。

 

映画を見る限り、という前提になりますが、あの演技が説得力を持つのは、純粋な強さではなく、「倫理を守ったまま怒りを表現する」という演技上の難度を突破しているからです。そしてその根底には、「体格」「声量」「怒鳴れなさ」などの欠けがあり、それを「品位」として昇華している。これは先述したように『聲の形』におけるハンディを持ったキャラクターを輪郭で演じ切ったり、式神であるが故に無感情で喋り続けることを続けている早見沙織にしか絶対出せない演技であったと言える。

つまり、できないのに、それでも立っている。(実際にそう言う描写ありました)

これこそが、早見キャラの説得力であり、その 倫理に殉じた怒り を、体現したのです。倫理観がない宮野真守キャラ相手に。そう考えればあの役柄は、この「感情がうまく届かない」西宮と、「感情を外に出せない」余接のハイブリッドだなとも思います。

だから、まぁ作品自体には興味がない。しかし「早見沙織vs宮野真守」というこの組み合わせによる演技バトルというのはそれぞれ演じられてきたキャラクターが真逆だからこそ生まれるドラマがあると踏んだわけです。言ってみれば、キャラはフィクションなんだけれどもそんな存在しないキャラクターに息を吹き込む声優が宿した倫理観そのものが物語の駆動力になっているというわけです。

この組み合わせの本質は「早見沙織の倫理性 」vs「 宮野真守の倫理なき魅力」です。

これは「物語の中で倫理を戦わせている」のではなく演技そのものが倫理を語ってしまっているような気がしてならないのです。この境地に到達しているからこそ、「作品」に興味がなくても「演技」としては圧倒的に見る価値がある。尺は相対的に短いですけど、圧巻です。欲を言えばもうちょっと宮野真守は狂える。まだまだ序の口で抑えていますので、もっともっと気が狂った演技がみたいですね。

 

構文上で言えば

宮野真守表音可変内在型アルトhybrid

早見沙織表意可変外在型ソプラノorganize  

こっちは石田彰vs櫻井孝宏と違ってそれぞれは本来の領域を全力でぶつけ合っているので、どちらかが構文単位では抑えていない分、より迫力というものがあります。

 

(それはそうと、宮野真守が歌う楽曲では『HOW CLOSE YOU ARE』がお気に入りです)

『シャイン』とか『オルフェ』みたいな明らかにイケメンボイスの楽曲もいいんですけど、こういう抑揚と発声の切り替えがちゃんとわかる方が個人的には納得できる。

興味ある人はぜひ。やっぱ宮野真守宮野真守で「夜神月」「永井圭」の二役をはじめ本当にフィクションにおける理想値を体現していている最高値の役者なのでやっぱりいい役者だよなぁ〜という補正は否めせん。

HOW CLOSE YOU ARE

HOW CLOSE YOU ARE

  • provided courtesy of iTunes

 

 

そして、これは石田彰櫻井孝宏もそうではあるが、そもそも声優と言う職能は虚構(フィクションキャラの声)を通じて素で出てしまからだというのがあります。

だからメタな言い方をすれば「キャラを通して生まれ持った声質でセリフを放つ」というのはあらゆる生き様というのが反映される。演技の巧い声優は無数にいますが、「世界そのものの基調を作ってしまう声」は極めて限られます。だからこそ彼らのような声優は、キャラを演じるという次元を超えて演技による物語再構築が可能になっている。声が思想を持ち、倫理を持ち、文脈を支配する。この領域にまで到達した声優というのは、単に「演じている」のではなく、作品の倫理と構造を声によって支配しています。

 

メインではないけど、サブでめちゃくちゃうまかったのは悠木碧。ちょっとどういうキャラかがよくわかんないのですが、主役に食われない演技という意味では一人だけ異常に上手い、というか、まるで世界の運命構造を告げる声を担っている様な気がしてならないの様な気がしました。あの声は本当に不思議なもので、どの役にしても違和感ゼロな凄みというのが今回も遺憾無く発揮されていました。感情を排したトーンでありながら、なぜか裏に思慮や葛藤を感じさせてしまう。という説明してないけど声だけで観客を納得させるというのは、これは、もう悠木碧ならではの演技だなと。あと後半ちょっとだけ喋ってた置鮎龍太郎も流石の存在感。

やはり青二所属は優秀な役者が多いですね。さすが最大手。

 

という感じで鬼の作品を「作品」ではなく「声優」の演技バトルとして観にいった所感でした。やっぱり金かけている分、見どころはなによりも、自分は音にあり、それすなわち声優の演技もその中の最大値だと思います。

逆に惜しいなぁ〜と思ったのは劇伴。耳に残る楽曲が、終盤にちょっと流れた明らかに梶浦色がする音源一つだけで、ゲーム出身の椎名豪の音源は「こういうのが作りたい!!」という意図はものすごくわかったのですが、シーンとの一致するいわゆる「このシーンにこの楽曲あり!!」みたいな象徴はなかったのでそこは少し残念でした。

これは推測ですがほぼ梶浦由記はノータッチだと思う、そのくらい節がなかった。

おそらく『廻天』の劇伴で忙しいからだと思われる。同時に梶浦でこんなに印象が残らないのは音楽の性質的にありえないので、そこは明瞭に差が出てしまっている。