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Music Synopsis

音楽に思考の補助線を引く

声=音=言語=演技の交点|羊宮妃那論

 

sai96i.hateblo.jp

以前、「声=音」という路線を提唱して色々と羊宮妃那、若山詩音、上田麗奈、結川あさきといった形で色々と書いて、公開当初から多くの好評をいただき、手応えもあった。Xでのインプレッション数も1万と、まぁ有名人の名前を借りているとはいえ、弱小アカウントにしてはかなりみられた方なんです。 

 

しかし今改めて読み返してみると、思いのほか書けていなかったという感触が残った。うまく書こうとして失敗したというより、作品群にうまくまとめさせられてしまったような感覚がある。(いつもそうじゃない?とか思われていそう)ですが、今一度、改めて「声=音」という前提をおいてこれが意味することを掘って考えてを書いていこうと思います。あのときは書き切れなかったが、いまなら書ける気がする。

声優の声=音という感覚で思索すると以上のようなことが自然と点と点で結ぶことができる。

結川あさき/羊宮 妃那/若山詩音/上田麗奈/安済知佳 - Music Synopsis

といっても1ヶ月半前なんだけど。導線としては、やはり前回同様に羊宮妃那を一つの軸足として据えるのが自然だろう。別に若山詩音でも、結川あさきでも成立はするが、読み手にとっても伝わりやすく象徴性としても成立しやすい。

随所で表現を引用しながら、個人名に還元されない普遍的構造としての「声=音」について、もう一度考えてみたい。

 

・吹き替えと字幕問題

まず取り上げたいのは、「吹き替えと字幕」という、映像作品における言語選択の問題である。これは広く知られたテーマであり、ある意味では作品を一次言語で鑑賞するのか、あるいは自国語への翻訳を通して接触するのかという話にすぎない。とりわけ、演技という観点から見たとき、それは「演者の身体性に直結した声」を取るか、それとも「俳優とは異なる声優によって再構成された音」を取るか、という問いになる。すなわちそれは、第一言語の声か、翻訳された声か、という選択であり、単なる言語変換の問題ではない。

 

この構造を端的に示す例として、しばしば語られてきたのが『刑事コロンボ』におけるピーター・フォーク小池朝雄の関係である。もはや古典的すぎて例としての鮮度は落ちているかもしれないが、今なお、みた人の記憶を定義し続けている。おそらく多くの日本人視聴者にとって、「コロンボ警部」とは小池朝雄のあのくぐもった、少し哀愁を帯びた声音で語りかけてくる人物であり、原語のピーター・フォークの声色のトーンは同様とはいえやや甲高く、やや神経質な発声を聴くと「別人ではないか」と感じるほど印象が異なる。 

 

これは、声が単なる意味の媒介(言葉)ではなく、存在の印象や人格の実在性を左右する音そのものであることを如実に示している。つまり、「声=音」であるという視点から見れば、吹き替えとは翻訳ではなく、再創造である。そして、その再創造は、ときに原語を超えてそのキャラクターを成り立たせてしまうほどの力を持つ。小池朝雄は、ただの日本語版の声ではない。あの声のトーン、間合い、語尾の柔らかさや呟くような問いかけがあってこそ、「ああ、あのコロンボだ」となる。反転、「原語のピーター・フォークの声」を聴いてもなお「これはコロンボだ」と即答できる日本人は、案外少ないのではないか。そもそもピーター・フォークは元来役者を目指していなかったという点もここでは大きいとはいえる。

小池朝雄は、もともと時代劇で悪役を演じることの多かった俳優である。それゆえに、「あの柔らかく、くぐもったコロンボの声」が彼から発されているという事実自体が、実はかなり象徴的だ。すでに固定化された声のイメージが、ある役を通して逆転・更新されるという稀有な例であり、ここにもまた「声が人格を形づくる」という命題の一側面が現れている。

そう考えると、「日本人的」には吹き替えでしか存在し得ないと思われている作品があるのも当然である。例えば『ハリーポッター』の一連の映画も、おそらく「鑑賞する」という意味で音として捉えやすいのはハリー=小野賢章/ロン=常盤祐貴/グレンジャー=須藤祐実/=ヴォルデモート=江原正士/=セブルス=土師孝也/ダンブルドア=永井一郎あたりの馴染み具合は今や外せない。(とはいえ永井一郎は例外的に圧倒的に別格なのだが)

 

しかし現象、というものは面白くこの逆も成立する。それもお互いが一流同士の環境でまた、例えば古いが象徴として挙げたいのが『The Dark Knight』(2008年)におけるヒース・レジャーが演じたジョーカー。ご存知の通り怪演でありその伝説は今も活きている。では日本語の吹き替えは誰が担当したのか?といえば藤原啓治大塚芳忠

実際にとても旨い。それはやはり大御所。流石といえるほどに。大塚芳忠藤原啓治の実力は疑いようがない。むしろ「技巧」として見れば、日本最高峰であることは間違いない。それに異議を唱える人は誰一人としていないだろう。

 

 

しかし、ヒース・レジャーの身体性を伴った演技、すなわち第一言語での発話表現、というよりも『The Dark Kight』における彼のジョーカー像は、母語に根差したリズム・抑揚・“間”の感覚が全て肉体化されている。単なる演技や発声ではなく、「生理的に染み付いた語りの構造」で組まれている。

つまり、演技が文化的にも肉体的にもオリジナルの言語構造そのものに準拠しているため、原理的に翻訳された言語では再現不可能な領域に達している。それは技術の高低ではなく、演技と言語、文化的発話感覚の本質的な差異といえる。ここにかかる第一原語と第二原語の生理的な感覚は身体性に依拠するこというのは、ジョーカー繋がりでいえばこそ『JOKER』(2019年)のホアキン版も同様である。

 

当然、平田広明はめちゃくちゃ巧い。しかしホアキン演技もまた、彼自身の神経症的テンションと発語の「反復」「どもり」「圧迫」を含んだ構造で成立しており、やはり第一言語で設計された発話様式である。あの異常なまでの痩躯さといい、身体性レベルでキャラクターとして確立しているからこそ、本質的には再現性は「難しい」ではなく「不可能」に近いと言えるだろう。だからこそ、演技と音は切り離せない。

 

あるいは『V for Vendetta』でもそれは同じ。これは元々Vであることに非常に意味が詰まった作品である。つまり日本語で訳すること自体がまず「無理」な作品。西洋文化に根ざしすぎている。本作は色々と影響力が破格だが、まず翻訳不可能性について述べるとこのVの自己紹介がvの単語で統一されている。

Voila! In view, a humble vaudevillian veteran cast vicariously as both victim and villain by the vicissitudes of fate. This visage, no mere veneer of vanity is a vestige of the vox populi, now vacant, vanished. However, this valorous visitation of a bygone vexation stands vivified and has vowed to vanquish these venal and virulent vermin vanguarding vice and vouchsafing the violently vicious and voracious violation of volition. The only verdict is vengeance, a vendetta held as a votive not in vain, for the value and veracity of such shall one day vindicate the vigilant and the virtuous. Verily, this vichyssoise of verbiage veers most verbose. So let me simply add that it's my very good honor to meet you and you may call me V.

“Voila! In view, a humble vaudevillian veteran”は、翻訳不可能性の極北に位置する英語文化・修辞美・音韻構造・歴史文脈のすべてが一文に詰め込まれた言語芸術です。

非常クリアなまでに設計されたv,v,vの連打。なんとその数55回。

つまり、内容ですらも「文字の構造」と一体化している。それを別言語に翻訳することなど、もはや不可能であり、これだけの英語の発声の快感が成立してしまう。

「音そのものが意味を超える」典型例。その上で

  • vaudevillian(ボードビル俳優)
  • vox populi(ラテン語で「人民の声」)
  • vichyssoise(ヴィシソワーズ=冷製ポタージュ)

「文学・政治・料理・ラテン語・芝居」という複層的参照が、英語圏文化資本と知的遊戯の中で機能している。

日本語で再現しようとすれば、単語の頭韻を維持できない。意味を訳すと音が死に、音を訳すと意味が壊れる。しかもこの“V”という文字が象徴である以上、日本語ではそもそもラテンアルファベットの「V」文化が成立しない。そしてなによりも、ガイ・フォークス、英国王政、オリヴァー・クロムウェル、エリック・アーサー・ブレア(オーウェル)的世界観など、全部イギリス人であれば即座に通じる文化記号であり、他言語圏の観客にとっては「説明されなければわからない象徴」。

 

これにより、「セリフが意味すること」と「Vという存在が纏う意味」が一対一対応していない=翻訳できない。その上で映画では役者ヒューゴ・ウィーヴィングが仮面を外さずに“全てを声で演じる”。

 

逆に、原語への翻訳の困難ではなく、そもそも翻訳を前提としていない/不可能であることが表現の核になっている作品もある。たとえば、ネットミームでお馴染みの『コマンドー』は、日本語吹き替えによって独自の文化的価値を獲得した例であり、もはや原語とは別作品として機能している。そして『パシフィック・リム』は、アニメ文法を実写に適用したことにより、むしろ吹き替え音声での鑑賞が原作の演出設計に近づくという特異な構造を持っている。

ここにおいても、「音の意味構造」が文化設計に組み込まれていることは明らかだ。

 

 

この構造のなかで、現代において翻訳不能な声として最も象徴的な声優の存在は誰か?

答えは明確だ。羊宮妃那である。

 

・Mygo!!!!!の人気が証明した逆説

翻訳不能な声=声優という職能の到達点をMygo!!!!!は提示し続けている。前提は取っ払って事実レベルを列挙すると、中国でMyGO!!!!!が日本以上に熱狂的に支持されている。だがそれは「作品が良い」「キャラが可愛い」だけで済む話ではない。

なぜか?、平等に考えて、それだけなら旧バンドリ(Roselia・RAS等)でも起こっていてよいはず。ここに掛かるコンテンツとしての異物性は以下の記事で書いたので参照されたし。

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では”何が"がその人気を保持しているのか?そこには様々な要素がある。

とはいえ、それまでになくて、Mygo!!!!!にあるとものという点で羊宮妃那の存在は大きい。そしてご存知の通り、MyGOは歌詞も演出も完全に日本語=第一言語限定の表現。にもかかわらず、字幕ではなく声と音そのもので届いている。つまり、吹き替えも英訳も介さずとも、ただ「声」と「演技」で刺さっている。そしてこれは以前の記事でも述べたように表現として聴衆に刺さっていると言っていいだろう。

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つまりこの時点で「歌」=声=言語=表現と置き換えることができる。もちろんその垣根を飛び越えられる人は限られる、しかし羊宮はそこを超越できているからこそ、“声”そのものがメッセージとなり、意味を超えた情動表現が成立しているのだ。これは、歌が世界を変える、ではなく、「歌を通じて声が表現になるとき、それは世界に刺さる」という逆説の証明です。勿論、「なぜ受けたのか」というQに対して絶対的なAnswerはないし、先述の文章はあくまでも、こちらの解釈の一つでしかありえないが一種の言説として、「MyGO!!!!!の中国人気は、歌詞でも設定でもなく、声が翻訳されないまま届いてしまった」ということは言えるのではないか?

 

それは言語を超えた情動伝達=声優という職能が文化的臨界に達した瞬間であり、そこにいたのが羊宮妃那という名の、翻訳不能な一人称表現を体現する存在である。勿論このような翻訳不能な音の構造は、決して一人の声優に限定されるものではない。今、それを体現しているのが羊宮妃那である。

一例として、そもそもカバーであることは承知だが、『迷星叫』(パラレルver.)は本当パラレルであってくれというほど、そもそも合ってない印象をうける。演者が下手というのではなく、やはり羊宮ではないと楽曲そのものが成り立っていないということだ。

 

また、演技レベルでも非常に面白い。再現としてものを食べながらといった手法そのものは一般的だと思うが、「実演→演技」という過程(それは羊宮 妃那が枕の中で叫ぶ演技を実際に行うする)→演技変換という点においてはある思索がある。

通常、アニメーションにおける演技とは、実写の模倣として語られる。実際の身体や感情から導き出されたリアルな所作を、声優が音声で模倣・拡張する構造が一般的だ。

しかし『パーフェクトブルー』(1997年)で、岩男潤子が演じた風呂場での絶叫シーンは、この順序を逆転させた。声の演技、それもアニメという非実体的メディアにおける発声が、後年のダーレン・アロノフスキーの実写映画『レクイエム・フォー・ドリーム』(2000年)において俳優の身体によって再現されるという逆転が起きたのである。これはもちろん今  敏の凄さが最も強く主張すべきだが、本来であれば、現実→再現→声、という順序で循環していたはずの演技が、この一例においては、声が身体の演技の雛型として機能している。この構造はまさに、羊宮妃那の演技が見せる逆転と同質のものだ。
先に身体を動かし、布団に潜り、枕に声をこぼしながら感情を演じた上で、
それを音声として作品に刻むというプロセスは、演技の順序をひっくり返している

 

むしろ、演技が演技される以前に既に発動しているという構造であり、その生理的な反応を起点として、あとから演技として再編成するというプロセスを踏んでいる。声優の演技が身体を追い越し、あるいは身体を呼び込む。その逆説がいま、再び現代の声優演技において現れているといっていいだろう。

表現が先に発動してしまった結果が演技となる生成である。多くは手段としての実演という意味での「再現」となる。役作りにおける徹底さという意味ではどのプロも意識としては同様であるはずだしそこに明確な差というものはないと思うが、あえて演技表現にかかる一例としてどういうアプローチを獲っている役者であるかという点を強調するために紹介した。

 

その意味では、どう系譜としては手前に上田麗奈もいる。

上田麗奈上田麗奈で、新条アカネを演ずる時にキャラクターに憑依するあまりに、次のようなコメントを残している

 アカネ役に入り込むあまり、飲み会で一言もしゃべらないまま帰ったこともあるそう。「SSSS.GRIDMAN」現場では毎週のように飲み会が開催されていたが、物語の中でアカネがどんどん孤立していくにつれて、上田自身も周囲と上手く話せなくなってしまったことを明かした。上田は、「何かしゃべったら嫌われるんじゃないか、みたいな。全然しゃべれない結果、『うふふ、あはは』だけ言って帰ったことが何回かあります。すごく苦しかったです」と苦笑いで振り返った。

役に入り込むあまり……上田麗奈、「SSSS.GRIDMAN」飲み会で一言もしゃべれなくなった理由明かす | アニメニュース | アニメフリークス

このように、特殊声優として特異的な場所にいるこの二人、は技術レベルも演技を行う時のアプローチも演者の目からはともかく視聴者からすると信じられないほど徹底しているのだ。

 

このように、羊宮妃那が「感情の先行発動」による身体→声という生成型演技を体現するのに対し、上田麗奈は「役が人格を侵食する」ことで内面→現実を逆流させるような憑依型の表現を成立させている。

いずれにせよ、この二人は「声優」という語では表現しきれない、構造的表現者とでも呼ぶべき存在であり、観客に届く“声”とは、単なる演技技術ではなく、人格・身体・音響が臨界で交差したときに初めて発動する現象なのである。

 

そんな、上田麗奈はその音の物語性によって「詩のように聴かせる」表現(ギギ・ミァハ・アカネ)に長けている。

御冷ミァハ-セリフ集(公式)

上田麗奈、津田健次郎が混在するあまりにも面白すぎる映画です。

 

 

羊宮妃那はそれとは異なり、「意味の手前で感情を投げる」ような即時性のある音響性を持っているからこそ、表現体としてのMygo!!!!!のポエトリーが成立する。加えて、あの声は「不思議っこ」的な感性だけでなく、妖艶さや不気味さをも包摂できる。つまり、以前なら上田麗奈的と目されていたであろう領域、たとえば『小市民シリーズ』の小佐内ゆきのようなキャラクター性すら、声の温度さえ調整すれば、羊宮妃那に変換可能である。その音域的レンジと、表現の含有率の広さこそが羊宮の役者としての凄さとして翻訳不能な声の最前線に押し上げている。

こういう時に演技集が公式ダイジェストであるのはありがたい。

 

この即時性があるからこそ、MyGO!!!!!における詩的語り=ポエトリーが、単なる朗読ではなく、演技として成り立ってしまうのである。

端的にいえば声優という職能のなかに存在する表現類型の可視化よる差異として

  • 上田麗奈=物語化する声

  • 羊宮妃那=感情を先行させる声

ということだ。「可変か固定か」「内在か外在か」とでも形容できる。

では、「なぜ羊宮妃那なのか?」という問いに答えるとしたら、どうなるか。
率直に言えば──それは“そうなるしかない”という結論に近い。

 

声優という職業は、突き詰めれば「最初から“答え”がある声に適格する者だけが残る世界」である。すなわち、作品やキャラクターの成立に必要な“声の形”がすでに存在しており、そこに声優のほうが“寄る”のではなく、“適合する声を持っている者だけが選ばれる”構造になっている。一方で、声優という職能は「キャラクターのためにあてがわれる」というキャスティング的な側面も併せ持つ。つまり、“適格性”と“割り当てられ”が常に交錯している職業なのだ。この両立ができる者だけが、長く生き残る。

ちなみに、実際にドラマCD-アニメ版という差分においても上田麗奈ー羊宮 妃那という事例はすでに存在する。それは『千歳くんはラムネ瓶のなか』における内田優空の声を、ドラマCD、Audible版では上田麗奈が担当した。一方で本放送のアニメでは羊宮が担当する。これは明らかに系譜を示すための二段構えと捉えると腑に落ちる。ただでさえ、視聴者からは声色の似合い度が指摘され、その上でギギーララァというところまで達成している。制作側がその線を意識したうえで、ドラマCDやAudibleに上田、アニメに羊宮を配したとすると、これはキャラクターの声を個人のものに閉じず、役者系譜の中で継承させている構造とであるとも言えるのだ。

Audible版『[1巻] 千歳くんはラムネ瓶のなか 』 | 裕夢 | Audible.co.jp

lifetunes-mall.jp

 

上田麗奈と羊宮妃那の関係性は「似てるから交代可能」という次元ではなく、系譜的に噛み合うからこそ「継承」として成立する。女性役が持つ「語り手性」の象徴の上田が2010年代に登場以後、特定の配役はほぼ上田麗奈にしか回らないという時代を経た後、羊宮がそれを現代的な音響環境の中で再演する。いやすでに更新している。普通は「誰が演じるか」が関の山。しかし上田麗奈から羊宮妃那へという配置だと、「役をどう繋げるか」「声質がどんな進化を遂げるか」という表現史的な読み解きができてしまう。そしてそれは類まれなる演技力と、声色の二段がしっかりと備わっているという稀有性に依拠する。上田=原器、羊宮=現器。正しさは前者、現在性は後者。ここに配役の合理があるのだ。男性声優でいえば、おそらくそれは櫻井孝宏内山昂輝という構図と置き換えればおそらく理解していただけると思う。

 

たとえば早見沙織は、あの清楚な声質で雪ノ下雪乃のような端正なキャラを演じられる一方、斧乃木余接のような変則的な存在にも適応できるし、なんなら鳩子もできるレンジの広さがある。まぁこと『やはり、俺の青春ラブコメは間違っている』は

早見沙織×東山奈央×悠木碧(ケビン・ベーコンゲームレベルで、この三人のうち二人は揃う法則どっかにあるんじゃないかっていうくらい成立した時の色味がすごい)が成立している黄金比キャスティングでもあったりするわけですが。それはともかく、だからこそキャラソンでも美しく楽曲と歌声のテンポがくずれていない。(『Bitter Bitter Sweet』は扱いこそ1期の12話の挿入歌ですけど) 

故に、アニメ化されていない原作キャラ(『ビブリア古書堂の事件手帖』栞子とか)でも「この声は早見」と想起される。これは音響設計が声優を予見するというキャスティングの逆説でもある。余談になるが──柊かがみ八九寺真宵、そしてキュゥべえ
実はこの三役はすべて加藤英美里が演じており、いずれも“ツインテール”のビジュアルを持っている。無論、これは偶然かもしれない。まず、キュゥべえツインテールなのかどうか問題もある。だが、キャスティングにおいて「髪型と声のテンポ・圧」に潜在的な連動性があるとすれば

 

  • 子供っぽさ/未熟さ(例:真宵)
  • 強気な外面と脆さの内面(例:かがみ)
  • ある種のアンドロイド的無機質性(例:キュゥべえ

 

つまり、見た目の主張さに反して、内側は別のものという構造とも言える。そしてこれをあの声のテンションや情報密度で支えられるのが、加藤英美里の演技でもあると言える。こうした“しょうもない飛躍かもしれないが意味があるかもしれない”という設計美学も、アニメ文化の文脈のなかでは立派なひとつの真実である。

 

声優は演技だけでなく音響的存在論の位相そのものを変化させる表現者である。このことを象徴的に証明したもう一人の存在として、悠木碧の名前を挙げておく必要がある。

悠木碧という役者は、可憐さや少女的イメージを超えて、人間であることそのものを超越する声を持つ。その意味で、彼女が演じたキャラクターたちは、いずれも「感情では測れない」「存在論的に異質である」という共通項を持っている。

その代表例として以下の三つの役を挙げよう

 

(どう考えてもこの三つが同じ演者ってバグだろ、、、と驚嘆を隠し切れないのだが)

いずれのキャラクターも、「感情的な演技」や「リアルな人間らしさ」で成立しているのではない。むしろ、この世界の論理から一段階浮いているということが前提条件であり、その浮遊性を担保できる声は、ごく限られた声優にしか与えられない。

ここで重要なのは、これらのキャラクターがいずれも「リメイク版」や「象徴的再演」であるという点だ。つまり、

 

「元からあった象徴的キャラに“新しい声”を与えたときに、それが違和感どころか“更新”になってしまった」

 

という事実こそが、悠木碧という声優の再創造力の証左である。『キノの旅』に関しては旧作でも出演していたという来歴があるからこそ、より「更新」という意味が強い。

この系譜を辿れば、こそれこそ林原めぐみがまさにそうで。「人間であることが保証されないキャラクターに“声”を与える」という難度の高い演技。それは綾波レイ、リナ=インバース、ある意味では灰原哀もそうであるように。

(まぁ灰原哀は原作者関連趣味で綾波レイ引用だし、その後のガンダム引用の嵐を見ればいかに、「前提」のイメージがありきで『名探偵コナン』のキャラとして落とし込んでいるかは今や定番化しているのだが。そもそもネーミングセンスの編述がうまい青山剛昌の技量に、文脈ミームが加わるという意味で基本的に『コナン』は多層なキャスティングと意味合いを持つ。)

 

感情の制限下で表現を成立させることと通じている。よって、悠木碧は単なる人気声優でも技巧派でもない。存在論的に異なるものを、あくまで声で表現することのできる演者。踏み込んで言えばすでに確立された「象徴キャラの再演」で、原作イメージすら達成。

 

ここで大事なのは、悠木碧の声はキャラ性ではなく存在の位相を変える力を持つということ。つまり、「人間性を演じる」のではなく、「人間性を一時的に解除できる」という代物である。

 

では、逆に今度はまだ映像化されていないが、「この作品でこのキャラはもうあの声優しかいないだろう」という意味を文体から探るというでは、西尾維新の〈世界〉シリーズに登場する病院坂黒猫こそ、その最たる例と言える。そしてその声は、水橋かおり以外にありえない。

なぜなら、病院坂黒猫〈物語〉シリーズにおける忍野メメ忍野扇臥煙伊豆湖阿良々木暦といった存在を一点に凝縮したような構造キャラクターであり、知的で不気味で、過剰に饒舌で、語りながら相手を呑み込んでいくような存在だからだ。

 

博識/不気味さ/饒舌/知的ユーモア/論理的強制力=病院坂黒猫

 

実際に『きみとぼくの壊れた世界』や未単行本化ながら雑誌メフィストで読める『ぼくの世界』第一問・第二問などを読めば、それが単なる萌えやヒロインといった軸ではなく、モノローグという名のキャッチボールで支配するキャラクターであることがわかる。見開き4ページ以上、二段組で延々モノローグという名の独り言が続き、それが実は相手に語りかけているキャッチボール。そうしたキャラクターに必要なのは、「可愛すぎず」「高すぎず」、落ち着いたトーンと、知性の抑制と、突発的な跳躍を両立できる声である。巴マミ的な包容と、忍野扇的な軽やかな毒を併せ持つ声──すなわち、水橋かおりなのだ。

 

 

 

というかそれ以外にまず考えられない。だってもう「忍野扇」をこれほどにまで美しく成立させてしまっているのだから、より素晴らしい原型を演じられないわけがない。

 

そしてこの「声が人格の輪郭そのものになる」構造を、アニメではなく実写において達成した象徴例が、『ライアーゲーム』における喜山茂雄の発話、つまりディーラーだ。

参考例として『ライアーゲーム -再生』『ライアーゲーム ファイナルステージ』の予告を

 

無表情で、無感情で、発話の抑揚さえ最小限。だがその抑制の中に含まれる無限の虚無、知性、ほんのり冷笑のニュアンス──これは声がキャラクターのすべてを支配していることの証明にほかならない。まさに「言葉ではなく音で支配する」演技だ。圧巻である。ディーラーという「無感情」「無個性」な役柄に、あそこまでの異質感・妖気・知性を持たせたのは完全に声の力。

 

そしてこのニュアンスを声優ーアニメの中で完膚なきまでに体現しているのが中田譲治。この声が活きるのは、以下のような“二面性”を帯びた存在、つまりは表では微笑んでいるが、内心は冷徹、「我々は静観している」と言いながら全部仕込み、仲間に見えて、次の瞬間に銃を突きつける、それなんて言峰綺礼ってというわけですが、それこそああいう静かな陰謀が最も似合う声質、つまり深い低音に潤いがある(威圧にならず、信用も可能)含意を持たせられることで「意味以上の意味」が宿らせ、語尾やブレスに“間”を残せる(一拍おいて不安を出せる技量の高さ)。それが中田譲治です。

実質こいつが主人公だろといえる一編『HF』の第三章を挙げます。

洗礼詠唱(キリエ・エレイソン)はこの声でないと意味がないというのは全員が納得できるでしょう。それです。それができる資質。

 

そしてその路線がもっとも活きた軸としては『コードギアス』のディートハルト・リートこそ、まさに中田譲治的キャラクターの真骨頂と言える存在だ。

 

あのキャラクターは基本的にイデオロギーではなく“理念”に殉じ、ルルーシュの“理想”に惚れこむが、個人には一切の忠誠心を示さない。それでいながら味方のようでいて、「理想のためなら裏切りも厭わない」という冷徹な存在。つまりゼロという存在に熱狂と同時に黒の騎士団という枠組みには冷徹を同居させる声であり、どれだけ饒舌でも「感情で動いていない」ことが音から伝わる。そして、語尾の落ち着きが狂気を包む、彼の「ですから…ゼロ」的な台詞が不穏でゾクっとするのは、“言葉”ではなく“間”と“呼吸”が含意を生んでいるから。

(マジでこのアニメそういう意味でも面白すぎるだろとか思うのだが)

 

そしてキャラクターがメディア屋という設定だが、実際に人間の皮をかぶったメディアそのもの。ディートハルトは「自分の感情ではなく、時代を記録すること」に興奮している。こうした人間味の薄い情熱は、声優が乗りすぎれば台無しになるが、中田譲治は一歩引いたところから燃焼させるという芸当ができる。

 

と、なればここに対偶的に置くのはやはり、小山力也の「人生に疲れた声」。

この声には常に「重さ」「倦怠」「哀愁」「諦念」が伴っていて、それが生々しすぎる手触りを視聴者に与えている。『Fate/Zero』衛宮切嗣はまさに「世界を救いたいのに、救えなかった男」の声。疲れ果てた使命感と、絶望の底を歩きながら立っている男のトーン。しかもそれでいて一人称が「僕」だし。

 

(これは奈須きのこの設定を前提に虚淵が書いたという奇跡的バランス)

他にも吹き替えだと『24 -TWENTY FOUR-』ジャック・バウアーもまさしく世界を救うために自分を犠牲にし続けた男の、疲労と怒りと諦めの混ざった声であり、言ってみれば2代目毛利小五郎も、時としてそういった場面が出てくるがこれもやはり元エリート刑事の落ちぶれ感。声に含まれる「栄光の残滓」と「酔いどれ中年の自嘲」という要素と噛み合っていると言える。だからこそ、小五郎がかっこいい回は異常な主人公感を発揮できるわけだ。

 

つまり、小山力也の声には常に「過去に何かあった感」が漂う。まぁそれはどこか、舞台上がりだからこその声というのも絶対あるのだが。それだけではないと思うのが、それが演技ではなく、声質の時点で染み付いている。高音でも張り上げず、低音でも抑えず、「どこか途切れそうな持続性」を持っている。絶対的に声の奥に未解決の過去を感じさせる。一言で言えば「人生で取り返しのつかない何かを経験した声」というものが稀有すべき声帯の本質的なところであろう。その意味ではベストアクトは『アカギ 〜闇に降り立った天才』の南郷さんなかもしれない。あの冒頭の負けがこんでいる感と、その上でアカギに賭けるしかないという諦念と希望の混ざりこそ、小山力也にしか出せない味だと思う。

 

小五郎を挙げたという段階で『名探偵コナン』からこの枠組みで出すべきはやはり山口勝平という探偵声優の体現者であろう。彼が声を当てたキャラクターを振り返ると、その“探偵的属性”があまりに明白といえる。

それは工藤新一を担当する一方で、黒羽 快斗も演じられる「探偵/怪盗」の二面性を実際に出せるという意味もそうだが、そのあとの『DEATH NOTE』のLを担当したのは、ことの経緯はどうであれ、絶対系譜としてのキャスティング以外のなにものでもない。

どれもが観察者/推理者/傍観と主導の交錯した人物であり、キャラクターの役割として「探偵/知的ゲームの構成者」である。そのなかで山口勝平の声が共通して持つのは、「快活さの中に宿る知的鋭さ」、もしくは「ユーモアに紛れた緊張感」といった軽やかなのに背後に何かある音響的トーンである。とりわけ工藤新一と怪盗キッドを同一人物が演じているという事実こそ、声優における「知性の二面性=探偵と怪盗の鏡像性」をそのまま演技で提示できる稀有な例であり、役の対立構造すら一つの声で包摂できる演者という意味で極めて象徴的な事例である。

 

加えて、Lというキャスティングもまた、当時からして明らかに「山口勝平でなければならない」という確定事項であり、探偵的象徴=声による演技的配置がいかに作品の本質を左右するかという証左でもある。つまり彼は「探偵役をやっている声優」なのではなく、探偵という概念の音響的体現者であり、その声の在り方そのものが、推理/観察/対話による構造的駆動を作品にもたらす演技的エンジンとして機能しているのである。

 

ではここからさらに延長させて『アカギ 〜闇に降り立った天才』のアカギを例にとってみる。萩原聖人というひたすらに「天才キャラの恩讐を請け負う俳優」が声を当てるとはどういうことなのか?福本原作の博打アニメの『アカギ』『カイジ』そして甲斐谷忍の『ONE OUTS』の渡久地東亜を全て担当しているわけですが、これを分解すると、

  • アカギ(若年時代)=孤高の天才
  • カイジ非モテの天才ギャンブラー(感情型)
  • 渡久地東亜=天才の虚無の到達点

こう考えると前述の『アカギ』における小山力也との化学反応というのは

萩原聖人:天才に選ばれたがゆえの孤独
小山力也:敗北と現実を抱えた知性の塊
この両者で構成された福本世界=才能と諦観の舞台装置と言える。

ちなみに、ここで挙げた喜山茂雄/中田譲治小山力也萩原聖人の4名はいずれも俳優出身であり、それゆえ彼らの声には「演技=身体性=音声」という、声優とは異なる演技回路が自然と内在している。このこともまた、“なぜこの声が成立するのか”という理由のひとつとして、補助的に添えておきたい。これは単に「上手い声優」とか「声がいい」ではなく、舞台や映像で培った“生身の演技”が、声に変換されたときの物質性の厚みに関係しているといえる。

 

ここまで、声優=音響=構造という文脈を軸に論を進めてきたが、実写においてもこの“声が人格を形作る”構造は確認される。象徴的なのが、かつて『耳をすませば』で天沢聖司を演じた高橋一生が、20年以上の時を経て『岸辺露伴は動かない』で岸辺露伴を演じたという“キャラクターの成長を身体ごと引き受ける”キャスティングである。高橋一生の声が、「少年声の成熟系譜」であること(=天沢聖司岸辺露伴)は声質の成長=演技の深化=人格の可視化である。高橋一生という「声と身体を長期的に保持し続けた役者」が、演技技術ではなく声がそのものが人生を内包している。

 

 

そして“声が人格の形式を先取りする”という意味で、俳優・堺雅人の名は挙げる価値がある。『戦闘妖精・雪風』にて演じた深井零(レイ)は、極度に抑制され、理知的で、生理的に人間味の乏しいキャラクターである。その声の浮きによって、逆に演技としての必然性を示した。若手時代にこれほど異質な声をアニメに投下した俳優は他に例を見ないが、その“冷たさの中の沸点”は、のちに『ジョーカー 許されざる者』で点火し、伝説のドラマ『リーガル・ハイ』半沢直樹』の2本で完全に花開く。その演技はご存知の通り。つまり、演技というのは外見でも身振りでもなく、声がすでに語っているのだという証左である。 

 

雪風』と『耳をすませば』。どちらも“声の異物性”が物語の内実と交差する極めて誠実な作品である。堺雅人の抑制された深井零、高橋一生の不器用な情熱を孕んだ天沢聖司はいずれも「声が身体を持たずに存在している」場において、その“演技の先”を予感させていた。その後の俳優キャリアを踏まえて改めて見直すと、これらは“将来、演技と声が一致する役者”のプロトタイプ的表現であり、「声が人格の輪郭になる」ことの実証例であった。

 

端的に言えば「身体性が声に宿る」ということであり、この系譜は声優界隈ではすなわち悠木碧の存在にもつながる。そしてここにかかる含意は「声が演技であるためには、身体がそこにある必要がある」というわけだ。「言語」よりも「気配」、「技術」よりも「温度」すなわち、「声でキャラを演じる」のではなく、「人間の全体として喋ってしまう声」ということだ。

 

これを反転させるとすれば、Audibleのような音声読書メディアで「朗読」という形式に乗せられるかどうかは、実はその人物が声優的資質を有しているかどうかの試金石となる。がその前に、ここで、二つ振り返ってみたい。

 

一つは「村上春樹の『騎士団長殺し』を高橋一生が2022年~2023年の間に<第1部 顕れるイデア編><第2部 遷ろうメタファー編>の朗読を担当した。ご存知NHKドラマ版『岸辺露伴は動かない』は2020年の年末に第一期が始まり、2022年の年末に第三期までが展開され、連動するかのように2022/12/28『騎士団長殺し』の朗読の配信が始まった。

www.audible.co.jp

これはどこか、岸辺露伴を演じ切った役者という路線図から生まれた展開なのではないか?

冒頭が

今日、短い午睡から目覚めたとき、〈顔のない男〉が私の前にいた。私 の眠っていたソファの向かいにある椅子に彼は腰掛け、顔を持たない一対 の架空の目で、私をまっすぐ見つめていた。 男は背が高く、前に見たときと同じかっこうをしていた。広いつばのつ いた黒い帽子をかぶって顔のない顔を半分隠し、やはり暗い色合いの丈の 長いコートを着ていた。

 

というところから始まり、「肖像を描いてもらいに来たのだ」という序章で始まる。ここにいたって、この怪異譚じみたイントロを違和感なく発話できるのは、『岸辺露伴』以後の想像力なのではないのか?

 

声の演技の本質が「表現対象を引き受けられるかどうか」にあるとするならば、高橋一生が演じた(役者・ナレーション)二つのキャラクター

岸辺露伴=「漫画家」「観察者」「具象化する者」

騎士団長殺し』の“私”=「肖像画家」「怪異との交信者」「内面を写す者」

これらはいずれも「描く者=観察者=語り手」という構造的な等式で結ばれている。これは単なる役柄の一致ではない。むしろ声という表現手段が、メタファーや怪異という“語りにくいもの”を語るに足る資質を備えているという、キャスティング美学の本質的な選定である。

 

つまり、この瞬間、音声表現の異質性 = 怪異の想起力 = 声の人格論という三位一体が成立し、演技とは何かという問いに対する一つの到達点が示されたのである。

騎士団長殺し』という語りの異質性は、NHKドラマ『岸辺露伴は動かない』によって“観察し、描き、語る声”の位相を獲得した高橋一生という演者を必要とした。これは偶然の一致ではなく、『岸辺露伴』以後において初めて成立した“声の必然”である。

 

もう一つは櫻井孝宏の生い立ちにおける「声優」という職を確立するに至った一言。

01.声優になったきっかけを教えてください。
子供のころ、テレビに出演してた声優さんの「声ひとつで色々なものになれる」という趣旨の発言に衝撃を受けたのがきっかけ。『ドラえもん』はドラえもんが喋っていると思っていたので。次に、中学一年生の国語の授業の時に「お前、声優さんみたいな声してるな」と言われ、自分に可能性を感じました。

櫻井孝宏さんに50の質問「声優の輪」【男性編・第2回】 | ダ・ヴィンチニュース

つまり、こと櫻井孝宏に関しては「国語の授業=おそらく音読の時間」において櫻井孝宏の声はあまりにも「声優的すぎると」とナチュラルに適格者であるということを国語を職にしている教員から初手で認定されているということだ。

 

声の演技は、映像やキャラクター性といった表現補助装置を持たない「朗読」という行為において、最も純化された形で問われる。ここにおいて演者は、視覚に頼らない表現力が求められ、それはすなわち「声が人格の原型であるかどうか」の試金石である。その意味で、「文字を読む=演技になる」という等式を、小学生〜中学生段階で無意識的に実装できていた存在であり、ここにかかる“読解力”ではなく“音読力”という点が特に重要で、「テキストを声にした瞬間に意味が発生する」声質を持っていたことが、教師=教育の専門職によって指摘されている。

 

 

結果、「語りの段階で“読まれるための声”を持っていた人間」が、後年フィクションの語り手(槙島聖護忍野メメ、霊幻新隆)として、その天賦を社会的な演技構造へと変換していったという事実。それを視聴者が体感するの数十年後の『PSYCHO-PASS』における槙島聖護役で思う存分発揮された「語り手」としての小説・哲学の引用作法そのものである。「紙の本を読もうよ、電子書籍じゃ味気ない」と言わせ、早川のキャンペーンコピーにもなり、ありとあらゆる視聴者を読書・本好きにしたあの「語り」を、櫻井が学生時代に「先生」から指摘されていた。つまりは、「選ばれた声」ということが、まず大前提となりそこで本人が「自分に可能性」を感じているという、他の略歴にはまぁない経歴であるということだ。身体性、キャラクター、適格者、声の位相、あらゆる点でこの二者のエピソードはこれまで書いてきたことと符合する。そして恐ろしいことに、この二人は両方とも「岸辺露伴」を演じているのだ。ゆえに、声はただの音ではなく、「その人が誰であるか」の形式を内包する。

 

高橋一生櫻井孝宏のキャリアが、“語る者”としての岸辺露伴に辿り着いたのは、偶然ではない。それは、選ばれた声が、演技と人格を一致させてしまう“語りの運命というだ。高橋一生櫻井孝宏がともに“岸辺露伴”を演じたという事実は、「語る者=描く者=観察する者=声を通じて世界を把握する者」という“語り手構造”の体現者が、二重に選抜された結果とみなせる。両者に共通するのは「内向の観察」と「発語による構築」であり、この役は“音の論理性”をもった俳優でなければ成立しなかった。

 

つまりこの音読に掛かるエピソードを逆説的に展開すると

仮にAudibleで1冊の小説を1人で朗読させたとき、物語として成立するか?

そしてこのクリア条件はおおよそ以下の3点に集約することができる。

  • 朗読で聴かせる力がある=声にドラマがある
  • 感情表現だけでなく、行間・沈黙・トーン変化を含めた構造的演技ができる
  • 言い換えれば、「ナレーションと演技の中間」を成立させられる声

この三条件を満たしている人間であり、まさに声優の原点=声で空間を支配できるかという問いに直結する。

 

だからこそ、たとえば自分が好きな声優の〇〇(ここで言えば羊宮妃那)がAudibleで一人朗読をしたとして、それが成立するか?と考えたときに、「おそらく成立するだろう」と直感できる時点で、その人物には声優としての“演技×言語×音”の三点交差が成立しているということです。

 

 

逆に言えば、声優という職能において“適格性”のない演者は、配役の段階ではバレない。だが、そのキャラクターを越えた応用、すなわち別役での変換がきかないと、主演級や多役の主軸にはなれない。よって複数のキャラを演じても成立する声”を持っているかどうかが、声優としての本質的な基準になる。

 

2000~2010年代にもまた、音が時代を象徴していた例がある。たとえば、中村悠一。その声は「最強・知性・統率・冷静」を一音で伝える力を持ち、『魔法科高校の劣等生』『呪術廻戦』『ガンダム00』『リゼロ』といった作品において、一歩引いた構造体的主役にしか許されない立ち位置を一貫して演じ続けている。

 

 

これらを可能にしているのは低音の包容力情報処理型のセリフ運び(=セリフが「情報」になる)、感情より構造で動く人物像といったものが結果として、あらゆる「知的・最強・不敗」なキャラクターを演じる音響的正当性があるからこそ、折木奉太郎という路線も可能に「なってしまう」し、このクラスになると、いい加減観客もある意味で象徴的すぎるが故に、音響現場と同じ意見が出てしまうという例外的な配役と言えるだろう。

 

その意味で櫻井孝宏との組み合わせはキャラや人物像ももちろんあるが、それ以上に、中村悠一が持つ「威厳と中庸のバランス・ 重厚で直線的、説得力のある低音」の真逆要素の対としての「陰性知性×諧謔的で抑制された毒気」のコントラストの極地的表現だと言える。演技ではなく声質の時点で完了しているのだ。

 

演者レベルと音のトーンを比喩するのであれば

櫻井が「相手を操る者」であり、中村は「自分が全てを制する者」

この一文は、彼らの代表作を一つでも知っていればすぐにわかるであろう。

 

やはり、キャスティングとは演技の上にある構造の設計である。
こと、五条×夏油における中村悠一×櫻井孝宏は、その最大瞬間風速の一例であり、声がキャラクターを支配し、ドラマを裏から支えるという声優批評の究極的事例。

それゆえこのキャスティングは構造的キャスティング美学の最高峰と断言できる。

ただ単に人気声優というカテゴライズではそもそも収まっているはずがない。

(というか、緒方恵美もその手で言えばシンジ君におさまらない象徴なんだが)

 

 

 

また、同様の例で語るのであれば松岡禎丞は、「叫び」と「テンション」でラノベ的主人公を体現し続けた時代の記号である。『SAO』『ダンまち』『ソーマ』『ノーゲーム・ノーライフ』を筆頭に、彼の声がそのままラノベ主人公という文法になっていた時代があった。今では『名探偵コナン』の劇場版のゲスト声優を務めるほど大きい存在(53-54s)を参照。だが、演じたキャラといえばやはり地続きで、この文脈を知っている人であればやはり、感情爆発+知性暴走、そして天才的でありながら情緒不安定、天衣無縫という属性のキャラであったということはすぐにわかったであろう。

つまり通底して絶対的な駆動力のある「癖強な強さ」の象徴といえる。

 

櫻井孝宏が「存在することで不穏を呼ぶ/裏切り」を想起させることとは真逆に、存在するだけで「安心」あるいは「勝利」を想起させる設計された声というわけだ。

 

つまり、声が文体を持つとき、作品が“時代の音”になるという構図がある。これは、今まさに羊宮妃那が担っている「詩的情動の即時性」=MyGO!!!!!が示している地平とも重なる。声の時代性とは、声優個人の人気ではなく、時代の構造と一致した音を持てたかどうかで決まるのである。

 

この観点で歴代の声優を見渡せば、山寺宏一高山みなみ林原めぐみ大塚明夫大塚芳忠早見沙織宮野真守上田麗奈沢城みゆき、まぁあくまでもパッと思いつく布陣だが、いずれも「この人しかいない」レベルの適格性=“声の核”を持っている。
キャラクターを“声”から立ち上げられる表現者しか、結局は表現の歴史に残っていない。そして羊宮妃那は、その系譜に確実に入ってくるタイプの“声”を持っている。

 

高松燈、大河くるみ、小佐内ゆき─いずれも「低身長/理知的/妖艶/不気味/繊細」という属性の交錯がある。

『図書館の天才少女 ~本好きの新人官吏は膨大な知識で国を救います!~』司書役も、知的さと少女性の両立という意味で、既に“羊宮妃那の声”が属性と結びついている。

つまりようやく「こういうキャラ」なら羊宮 妃那という路線がすでに開拓されている。

 

逆に、『僕の心のヤバいやつ』の山田杏奈のように、“演技そのものは良くても、属性としての適格性がズレている”と感じさせることもある。つまり2010年代における活気ある声としての東山奈央のほうがキャラクターとの合致性という領域ではあったのではないか?ということだ。これは羊宮妃那が悪いのではない。むしろ、羊宮が“声をあてるべき領域”が明確に存在し始めていることの証左である。

 

声優単位以外でも、声優の声が、作品の構造において意味を持つことは、過去のアニメ史においても繰り返し示されてきた。


特に谷口悟朗監督による二作『無限のリヴァイアス』(1999年)『スクライド』(2001年)福田監督の『ガンダムSEED』(2002年)においては、声のペアリングそのものが物語の力学と一致していた。いずれの作品でも、保志総一朗(主人公)×白鳥哲(対立者)という図式が成立し、毎回「保志が白鳥を殴る/打ち勝つ」という物語上の決着が描かれている。


これは単なる役柄の因縁ではなく、「感情的勝者=保志」「知性的敗者=白鳥」という声帯の意味の構図が繰り返された事例と言える。

 

その構図を逆転させたのが『コードギアス』(2006年)だ。福山潤が本来“スザク型”の激情性を持つにもかかわらずルルーシュを演じ、櫻井孝宏が本来“ルルーシュ型”の陰性知性に適しているにもかかわらずスザクを演じた。これは、声帯の定番を意図的に外すことによって成立した、演出美学としての逆張りキャスティングである。

 

少し脱線するが、これはある意味で現在でも有効的であり、たとえば『MyGO!!!!!』における椎名立希役・林鼓子は、本来は高音域の明るい声質を持つ役者であるにもかかわらず、意図的に“抑制された低音”で演じるという方法を取っている。低音の声はMygo!!!!!の楽曲において、コーラスで最も目立つなぜなら声が低いから相対的に目立つからだ。

『焚音打』の47s-50sあたりにおける「それでも立ち上がった君を、笑うはずなんてない」の部分多分右に定位されている(片チャンネルに振っている)のでヘッドフォンで聴くとより明確にでます。

焚音打

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その選択によって立希というキャラの感情の抑圧と表現の瞬発性”が際立ち、むしろ元の声質とのギャップがキャラクターの輪郭を浮かび上がらせている。まさに声優という職能が“意図されたズレ”によって生まれる演技的構造を成すことの現代的応用例といえるだろう。そしてこれもまた、上手い演技ができる人ではないと成立し得ない。その意味で若くして「座長」という異名をもつ林鼓子は流石と言えるだろう。

チェリーボム

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SHOW

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『ワン・ツー・スウィーツ』は台詞があるので、より輪郭としてわかりやすい。

Let`s try トライフル!!

ワン・ツー・スウィーツ

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一番いいのは『りんごの木』ですかね。立希との差分としての楽曲という意味では。

りんごの木

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というわけで、これは手法の一つとしてみていいだろう。

話を戻す。ここには、先述の保志総一朗、白鳥的なアプローチが谷口監督作品ならではの一回きりのアプローチとして出たのではないかと勝手に思っている。

だが、その後の彼らの役歴を見れば明らかだ。櫻井は『モノノ怪』の薬売りから『PSYCHO-PASS』の槙島や<物語>シリーズのメメ(『傷物語』『化物語』)、『モブサイコ』の霊幻『怪獣惑星』のメトフィエスなど、いずれも“冷静と知性の掛け合わせ”を持つ役に自然と還っていった。

いつ聴いても最高の声です。 

 

 

福山潤も象徴的な代表作として『暗殺教室』での殺せんせーに見られるような、「人格と情報を併せ持つ声」への回帰を果たしている。しかも低い声パート=人間=ルルーシュ現象もある。

 

2010年代に入ると、上田麗奈という声優が現れたことで、女性声優においても、ある一点の演技領域において支配的な表現力を確立できる存在が出てくることが証明された。それはもう、代表作のキャラがあまりにも証明しきっている。往々にして、設計された声をもつ演者は演技技術を超えて「音そのものが空間を支配する」ような力があり、上田麗奈はその象徴の一角であることは誰も疑いようがないし、『レゼ篇』『タコピーの原罪』の両方で声を当てるという現在地を踏まえてもやはり圧倒的な強さがある。

 

では今、若手〜中堅(希少な枠組みの声帯という意味では世代かかわらず成立すること自体が珍しいのだが)として櫻井孝宏的、上田麗奈的な設計された声をもつの誰かと言えば、それぞれ内山昂輝と羊宮妃那の二人であると言える。前者は冷静な演技の奥に宿す苛烈な感情を、後者は繊細な音響に宿る即時的情動を。

 

この感覚は去年書いた「MyGO!!!!!とAve Mujicaの音楽的魅力とは?声優・構成・表現から探る。 - Music Synopsis」でも明らかに手前の趣味とはいえ、羅列しただけの文章を引用してみると

 

なんというかそれは「御冷ミァハ 」「ギギ・アンダルシア」「新条アカネ」を全て演じているが上田麗奈だから、ああいうキャラクターは全部上田麗奈がcvをやると最高だぜ、みたいな(男性声優でいうところの「忍野メメ」「霊幻新隆」というラインと「槙島聖護」「ジョン・ポール」というラインを持つ櫻井孝宏とでもいうべきか、今やその可能性は内山昂輝に取られる可能性が高いが、『ダンダダン』のサンジェルマン伯爵の台詞を読むだけでこれ絶対櫻井孝宏、、みたいな妄想もできるくらい、特定のキャラクターにおける「この人しかいない」というものは多分読んでいる人の中にもあるはず。)まぁ、だから、そういった点ではわかる人はわかると思うで容赦してほしい。それこそ羊宮 妃那な作品は『小市民』のヒロインである小佐内ゆきを演じ、なんなら『トラペジウム』で結構な役回りである「大河くるみ」を演じてるし、上田麗奈と共演もしている(そして主演が結川あさきという滅茶苦茶バランスのいい布陣)ので、これは中々熱いとともうわけです。

 

同じ枠みとして上田麗奈→羊宮 妃那/櫻井→内山昂輝 というフレームを感覚的には掴んでいたことを理屈で説明するとこうなるということだ。

そしてこの二人が、2025年10月放送の『ワンダンス』で交差する。

wandance.asmik-ace.co.jp

つまり事実としてキャスティング美学として、「決められた設計声」の中でどのようにバランスを取るかというのが、数ある方法論のうちの一つであると言える。

だって『ワンダンス』って

  • 自己抑制的かつ内向的な「選ばれなかった側」のキャラクターとしての小谷花木
  • 身体で語る、天性のポエトリーダンサーとしての湾田光莉

これって 即時的身体性 vs 抑圧された知性という構図でしょう。

タイプ判断でいうところの天性の才でもっていく劇団つきかげ北島マヤ」タイプか、努力型でいく劇団オンディーヌの「姫川亜弓」タイプか、あるいは没頭型の「月島雫」タイプか、持ってるもので進む「キキ」タイプか?みたいな型をキャラクターレベルですでに確立された人物対比像的でもあり、ダンスを通じてそうした作品を映像におけるアニメで表現にするにはそれ相応の「特殊声優」が必要だということだ。

あんまり詳しくないがどうやら羊宮 妃那自身もダンスには一日の長というものがあるそうで、そう言った意味でもダンスの経験があるという側面と、今の声優業というものがかけ合わさったらそれは圧倒的に「答え」に近いはずだ。より簡単に図式化すればこう

  • 「マヤ vs 亜弓」=才能型 vs 努力型

  • 「雫 vs キキ」=抑制的内面 vs 天賦の外発

  • 「劇団つきかげ vs オンディーヌ」=地下表現 vs 正統表現

 

ということで、このアニメはその側面ではもう表現アニメとして確約されている。

「表現方法」!!いいサムネイル、まさに演者レベルの哲学。

 

そしてこれはもっと演劇的に遡ればウィリアム・シェイクスピアの『ヴェニスの商人』のシャイロックに代表される外面と内面の乖離があるキャラ類型=「知的で整っているが内側は壊れかけている」という特異な演技属性があるということだ。これを更に言い換えるならば、昔、夜神月=ラスコーリニコフ的と言われ、それは『デスノート』自体がドストエフスキーの『罪と罰』的でもあったと言われている。

 

その是非はともかくとして、そのように言われたという事実。そしてアニメで夜神月を演じた宮野真守であり、その女性的翻訳あるいは別の形でその壊れた知性を演じられる数少ない存在こそが、羊宮妃那なのではないか。そしてこれは非可逆的=翻訳不能な表現の象徴であるという意味では先の、コロンボ、ジョーカー的な第一言語と第二原語における相関している。

 

ここで、一度声優の演技構造というものを解体してみる。そのためにはまず、ある一節を。それは『HUNTER×HUNTER』の冨樫義博が、森博嗣の著作『地球儀のスライス』の解説にてこのような解説という名のコメントを残しております。

 

”私の定義では、「理系」とは「この世のすべてのもの」を指す。 そして「文系」とは、「理系」の中の特に「人と人との関わりによって生じる事柄」を指す。 殺人は「文系」だ。凶器は「理系」。トリックは「理系」で、それを使った者と見破ろうとする者との駆け引きは「文系」なのである。” 

 

まるで、クラピカが真顔でいいそうなこの文章。これは自分の中でも、冨樫という作家の論旨が非常に明快で、尚且つ置き換えが非常に可能な言い草としてとても、気に入っているからこそ、これを援用して、「声優」に当てはめると、以下のように言い換えられるのではないかと活かせると考えた。すなわち

 

声優=「音響的合理性(理系)」の上に、「人間的共感(文系)」を重ねる演者である。

 

理系的な側面は演技、文系的な側面はその役者の感情性に依拠するということになります。演技/声優という曲線ですね。つまり滑舌や、音量調整(ミキシング工程における整音等はその象徴)とか端的に絶対作業的に発生するノイズ処理は機械的でありながら、キャラとキャラとの空気感やその場の余白はやはり文系=その声優の本質が問われる。

畢竟、声優とは“音”であり、“言語”であり、“構造である”ということだ。

 

音響工学×文学的感情性」で再定義しているだけに、抽象思考で記述ではあるもの、声色が繊細でありながらも、表現が飛び抜けて強いというのは、実はここにおける一種の文系的な側面が非常に高く、それを理系的な音響がフォローしているからこそ、極限な表現が可能になっているのではないか?

この二つが天井となった時に無限のエネルギーが生まれる。そう解釈することはできないだろうか?だからこそ、いい加減しつこいが『回想浮』『栞』『過惰幻』のような楽曲が成立するのだと。以前から歌以上に表現とは書いてきた。

演者が歌以上に、表現と全面に出した作品くらい

が、今ならタイトル通り、「声=音=言語=演技」と形容できる。

回層浮

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過惰幻

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一方で、非Mygo!!!!!の歌唱では相当抑えている歌唱もある。『君へ』は比較的におとなしく、また『ふわふわ』は萌えと幼さを全面に出している。どちらにも共通しているのは、あれほどまでに強い感情発露型の高松燈としての歌を歌える演者が、こういった楽曲もまた、歌いこなせて使い分けができているという事実です。これこそ横のレンジが広い証明であり、単に歌が「上手い」ではなく広義の意味で「羊宮 妃那」は表現が格段に上手い演者であると言いきれます。

君へ

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ふわふわ (feat. ウメ CV 羊宮 妃那)

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やはり、このバランスさ。つまりは、平均的な感情の含みというものが、圧倒的に高いという珍しい声色と表現の二つを兼ね備えている、稀有な声帯を持つ一角として羊宮妃那という声優は今の時代にいるのだと。

 

それ以上に確かな理由があるのでしょうか?

 

 

 

追記<2025.6.4>

なんと『機動戦士Gundam GQuuuuuu』にてララァを担当するという跳躍!!!

これ、完全にきています。羊宮 妃那の時代が。

このキャラを担当するということは、感情ではなく“声”そのもので存在を成立させる必要がある。演技ではなく“響き”で人を惹きつける必要性。このこれらが揃ってないといけないキャラクターであるため、本論の成立の一助となります。

追記<2025.9.23追記>

ついに、ラノベ正統派も演じる可能性が出てきているのが素直に嬉しい。

追記<2025.10.10>

『ワンダンス』におけるダンスという身体性と演技という身体性を伴った演技が制作レベルで分離されたものが、同一されるという本作は本稿の原理、趣旨に結果的に近いアプローチをしており、その作品におけるメインが羊宮さんが演じられているというのはやっぱり、というべきかそうであらざるを得ないと思っている自分からすれば明らかに本領、本分が発揮される作品だと確信しております。全話を終えた時の感じ方によっては精神的続編として『ワンダンス』からみる羊宮妃那という役者について言及してみようと思い始めております。

追記<2025.10.17>

ゲームcvも多い氏ですが、様々なバリエーションの配役を担当されているなと思います。アルト系になると、ほんと闊達さがでていいですよね。不思議系からの脱却、というか元々もっと明るい声をお持ちの役者ですから、なんなら高松燈や、小佐内ゆき系の演技「も」できる役者という認識になって欲しいと思います。山田杏奈が個人的にミスキャスと思うのは、やはりMygo!!!!!,『小市民』のヒット性、象徴に依拠している自分とういう者があるからと思っているので、将来的にはカメレオン演者へとなるべきですね。

追記<2025.10.23>

フォレストマーチャント、真実の肯定者、勇気に満ちし者、そしてなによりもテノール域がでているボイス、混融の肯定者がものすごい演技力を発揮していることを発見しました。ゲームは未プレイですが、ボイスは探せばプレイ動画などでありますので、羊宮ファンは一度聴いてみてはいかがでしょうかか

 

shadowverse-wb.com

それにしても、この域を出せるってかなり衝撃的ですね。もっともっと羊宮氏の可能性が広がりました。


〈執筆後記〉

というわけで。声=音という謎概念を提唱した責任を取るみたいな形で色々書いてきました。本稿は「声優=音響=構造」という等式を軸に、個人の演技力を超えた“声の存在論”を照射してきたつもりです。

とりわけ前回の声優論的な感じで若山詩音と羊宮妃那という現在進行形の俳優を一つの起点としつつ語れなかった部分を、一度「Mygo!!!!!の歌唱表現引用で羊宮妃那に焦点」を合わせ、ほぼ趣味範囲で固めたとはいえ、古典・実写・映像・音楽をまたいで展開された思索のはずが、もはや音楽的視点での一声優論というよりも、声の文化的位相そのものとなってしましました。最初の理由からして無理があるとは思ったが、案外書けるという実感が得られたのでそこは個人的に嬉しかったです。

色々な役者をバランスよく配置できた気もします。あくまでもこの枠組みで捉えると、こうなるという話なので、もっと他の適格者はいるだろうとは思いますが、それはそれということでご容赦を。
なんか途中から文章のテンション変わったなと思ったらそれは正解。具体的な明示はしないが、(自分の趣味系統と思索系統を知ってる人は明確にチャンネル変えてるなって思ったはず)まぁ文章を書いてると、本来の意図とは違う寓意を引き寄せがちなのですがそれは別に、今に始まった事ではないのでどうか見逃してください。

 

元々温めていたネタ+、訳あって設計していた文章をある種論に展開したところから始まったのできついかなとも思ったのですが、うまいこと一つの論に落とせたのは幸いです。

 

基本的に、本論のあり方としては、「羊宮 妃那」という役者の「一生分の才能」を青田買いするという枠組みで始まり、先に提言とするという趣旨のもと、魅力などを個人的な私見で書いたものです。ですので、以後表現者として羊宮さんがご活躍なされるほど、この記事は活きると自負しております。一種の賭けではありますが、「でも」やはり2020年代は声優/役者として「羊宮 妃那」が必要であるという想いが読み手の皆様に伝われば幸いです。

次→声=音=言語=演技=意味生成装置 - Music Synopsis