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Music Synopsis

音楽に思考の補助線を引く

『春日影』という音楽の蝕─MyGO!!!!!とCRYCHICの断絶構造

訳あって(というか、まぁ色々な理由があって現地へと)『分かれ道、その先へ』DAY2に参加できたこともあり、その感想を交えつつ、『春日影』という楽曲と、MyGO!!!!!/CRYCHICにまつわる構造的違和感について、あらためてまとめてみたい。

春日影 (MyGO!!!!! ver.)

春日影 (MyGO!!!!! ver.)

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春日影 - From THE FIRST TAKE

春日影 - From THE FIRST TAKE

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すでに、『MyGO!!!!!』という作品を象徴するセリフとして、「なんで春日影やったの!!」はあまりにも広く流通してしまった。いまやあの泣きの名シーンは、コミックシーモアのCM素材として映像・音声ごと流用されるほどで、公式自らがネタ化を推し進めているようにすら見える。

 

「感情の爆発」だったはずのシーンが、いつの間にか「使い勝手のいい泣き素材」にまで還元されていることに、静かな不快感が残る。あの涙は、小日向美香の芝居でもあり、長崎そよの人格でもあり、作品の痛みとして描かれていたのに。それを素材化した時点で、すでに何かが壊れている。

 

『Ave Mujica』はAbemaで全話リアルタイムで視聴していたが、第9話の幕間CMでコミックシーモア版が流れたとき、羊宮妃那による劇中アナウンスのシーンが差し込まれていた。それを知っていたからこそ、ライブ会場で無惨にも使われるブシロードのそのcmを見ながら、「どうせ使うなら、小日向という役者を起用して、作品の外側として当ててくれればよかったのに」と思うわけです。公式のパロディ化と、以前からそもそも『春日影』という楽曲の存在が、何かおかしい、異物なのではないかという違和感はあったのだが、考え続けた末にたどり着いた結論は、この曲が制度的にも音楽的にも作品構造を引き裂く異物であるということだった。


以下、その異物性の正体と、CRYCHICという壊されるために存在したバンドの意味について、あらためて述べていきたい。どちらかと言えばメタ視点で見た時にどうかという話です。

 

まず前提として、Mygo!!!!!の楽曲をメイン主軸で制作しているのどこか?という話です。それはSUPA LOVEです。本編に係る楽曲群(『迷星叫』『壱雫空』『碧天伴走』『潜在表明』『音一会』『詩超絆』) がそうであるように、ゲストライター楽曲はあれど基本的にはSUPA LOVEです。

しかし振り返ると例外が二曲存在する。それが『春日影』と『人間になりたい歌』がElements Gardenの手によるものだ。

ここまでは既存の記事でも言及されているポイントだが、ここに一つレイヤーを弾いてみたい。つまり、本来の「なんで春日影やったの!!」は、別バンドなのに、CRYCHICの曲をやるなっていう感傷的な台詞、であるのと以下の図式が成立する。

「なんで春日影やったの!!!」=『なんで旧バンドリ(=CRYCHIC=Elements Garden)の音楽を“今”の私たちがやるの!!!」

  • そよ視点では「春日影=思い出」であり、「再現=過去の焼き直し」。

  • しかし、要楽奈がそれをMyGO!!!!!でやってしまった。それも「旧時代の曲」を。

  • → そよの叫びは「個人の感情」と「音楽性の断絶」に対する二重の悲鳴

と読むことができる。

そしてここにおける旧バンドリ:今という図式は、元々『Mygo!!!!!』『Ave Mujica』かバンドリ!とは別の企画からスタートした企画であることが公式側から言及されていることがさらに補強される。そのことは実際に、制作陣の発言によって明かされてもいる。

 

もともとMyGO!!!!!とAve Mujicaは、2つのバンド、10人のドラマの企画として始まりました。その後『バンドリ!』シリーズに合流することが決まり、1クール目がTVアニメ『BanG Dream! It's MyGO!!!!!』(以下、『It's MyGO!!!!!』)、2クール目が『Ave Mujica』として展開する形が決まって、そこから改めて物語の構成を固めていきました。

BanG Dream! Ave Mujica:柿本監督が明かす、第9話までの制作秘話【インタビュー】 | アニメイトタイムズ

つまり、最初はバンドリではなかったものがバンドリに組み込まれたという歪曲した構図がそもそもの前提としてあり、組み込んだ後に話が形成されていったということ。すなわちCRYCHICの存在といい、『春日影』といい、これは「本来バンドリ枠ではないバンド」が「バンドリ枠」であるがために強制的に仕組まれたバンドとも言える訳だ。そして旧バンドリのメイン作曲家層はといえは、Elements Gardenがほぼ全面担当であることはご存知の通り。

elementsgarden-matome.blog.jp

だから、新しいブシロードのバンドリとしてのMyGO!!!!!というシリーズは、BanG Dream!の“アップデート”であり、ガワ(キャラ)を売るコンテンツから、音楽的・物語的リアリティを追求する方向へ舵を切ったプロジェクトであることは明白であり、 旧バンドリ(EG主導)とは明確に違うサウンドディレクションがある。それなのに「象徴的旧楽曲」をやった=企画の背骨を揺るがす行為にもなる。

もう少し詰めて整理するなら、これは「Elements Garden vs SUPALOVE」=「CRYCHIC vs MyGO!!!!!」というメタ構造の対立である。という制作メタ視点を重ねることで、単に昔のバンド曲再現された悲しいですという単一な視点から

Elements Gardenの曲を今のバンドリがやることの重さって、キャラが一番感じてた」ことでもあり、春日影=旧バンドリ=そよの居場所という読みが成立する。と、なればこれは逆説的に言えばあの「なんで春日影やったの!!!」っていう叫びは、音楽的にも物語的にも、そよにとっての中間破壊点だったわけです。

それ以前(というか本質的には)

  • CRYCHICに戻りたい

  • 自分の居場所は“あの音楽”にある

  • MyGO!!!!!は仮の姿

という立場だったそよが、その旧時代(EG/CRYCHIC)に自ら涙し、それでもMyGO!!!!!に帰ってきた=新時代を肯定したという構造になる。

これは「音楽の血筋の断絶」を受け入れたってことでもあり、自分が過去の象徴であることを認めたうえで、未来に歩み出すってこと。

つまり、「なんで春日影やったの!!!」のもう一つの真の意味は「もう春日影じゃない。私たちはMyGO!!!!!なんだ」という、裏返しの宣言だったんですよね。10話での『音一会』を先駆けていた訳です。

要するに、涙することで、MyGO!!!!!サウンドに向かう道が開けていたのである。「物語上はまだ否定していない」なのに「音楽制作構造ではもう否定済み」というとんでもないメタ発言であるのだ。

 

この線を引くことによって『春日影』は三つの視点における異物であると言える。

1. 音楽的に異物

  • 作曲:Elements Garden(バンドリ旧主流)

  • 現MyGO!!!!!楽曲群はSUPA LOVE製:全く違う音響美学・感性・構造

  • MyGO!!!!!のサウンドの文脈からは浮いている

2. 物語的にも異物

  • CRYCHIC時代の唯一のオリジナル曲

  • そよ・燈・祥子・睦・立希がかつて共有し、「壊れた」過去の象徴

  • MyGO!!!!!再始動後、明確に「その曲をやること」が忌避されている

3. 制度的にも異物

  • MyGO!!!!!はもともと「バンドリではなかった」構想

  • その中で唯一、「バンドリ文法(EGサウンド)」を含んだ遺物として居残っているのが「春日影」

  • 「組み込まれたバンドリ的なもの」=異物としての核心

しかし厄介なのは「異物」であるがゆえに、中心にある。だから、『春日影』は排除されるためにある曲ではなく、むしろ「MyGO!!!!!という存在の矛盾・断裂・過去と現在の交差点」そのもの。MyGO!!!!!は、バンドリじゃなかったという根源的な異質さを『春日影』という形で内部に飼っている。『春日影』はMyGO!!!!!という存在が成立するうえで、唯一不可避だった過去のトラウマであることが物語上の機能でありながらも、音楽的な内在する矛盾である。

 

だからCRYCHICはどうあがいても解散せざるを得ない。それは表層的な理由はアニメでも描かれたように、168億の負債がどうこう、みたいな流れで→解散。と同時に深層的な理由(メタ構造)としては、Elements Gardenによって作られた「バンドリらしさの極点」 → すでに時代遅れになりつつある音楽性の象徴と、そよの「春日影」への執着=EG的感情性への固着、そして、燈がMyGO!!!!!で「別の詩」を書きはじめる&SUPA LOVEの楽曲=音楽の世代交代という暗示を指している。

ここも実は変なんですよね。他のメンバーの、というか実際にはメンバー誰1人として亀裂はない 祥子は168億の損失を負ったけどそれは別に他のメンバーのせいではなく家の話だし実際は続けたい、 睦はコミュニケーションが不足しているだけ(自分のギターに満足が言っていないということが言い出せないだけ)で辞めたいとは思ってない そよ、立希、燈→続けるものだと思ってる。つまり、物語上「解散した」とされているCRYCHICは、実は誰も解散を望んでいなかったバンドであることの重みがより活きる。

つまるところ「バンドリじゃない」ところから始まった作品が「バンドリ」に組み込まれたことで生まれた「制度上」の問題であると

  • バンドは続けたい

  • そよや燈と離れたくない

  • 168億の損失は彼女の父が出したものであって、彼女の意志ではない

だから別に解散とまではいかなくても、一時停止くらいでもよかったはず

 

 

その上でMygo!!!!!が成立しているのだから本編における長崎そよにおけるあの暗躍というのはこの目線上だと「CRYCHICの再結成=バンドリの退化」もしCRYCHICが復活していたら、それはElements Gardenによるバンドリ文法の延命になっていた。でも、MyGO!!!!!という別の方法が生まれてしまった以上、CRYCHICは物語的にも制度的にも死ぬしかなかった=長崎そよの「春日影をやるな」は、「私はまだCRYCHICにいたい!」という叫びであると同時に、「もうそれじゃ駄目なんだ」という自己認識の断末魔でもあるわけです。この文脈に乗ると、『春日影』は葬送曲でもあるわけです。

 

長崎そよさん聞こえますか?俺たちからあなたへの鎮魂曲(レクイエム)です

 

大元を振り返ると祥子がCRYCHICを組み立てたのも、ポイントでつまるところ、「CRYCHICの始まり=モルフォニカに触発された」時点で、彼女たちは旧バンドリの申し子。

CRYCHICのルーツ=旧バンドリの正統継承者説

1.モルフォニカに触発されてバンドを始める

意訳:しかし、モルフォニカ=Elements Garden的感性の体現バンド

2.結成のきっかけも、音楽的志向

意訳:完全に前バンドリ的

3.『春日影』もElements Garden制作

意訳:文法・サウンド・動機、すべてが旧時代

Q.上記3点これらは何を指しますか?

A.つまりCRYCHICは、物語の外側から見れば前バンドリの精神を継ぐ者たちだった。

 

ここら辺はバンドリとしてみている方々からすれば何を今更、という感じなんでしょうが、大元として別企画であることを考えれば、実際のところこういう書き方の方がむしろ正しい。

CRYCHICの「終わり」は旧バンドリの終焉

だからこそ、CRYCHICを解体しないと、新しいサウンド文法(=MyGO!!!!!)が立ち上がらないでも、キャラはそんなこと知らない。(メタ視点故に)

なぜなら彼女たちはモルフォニカに憧れてバンド始めただけ→ その純粋な動機が、「次の時代には不要」と切り捨てられる。ともすれば、

・最初の動機=旧バンドリ
・最初の曲=EG制作
・最初の涙=制度の更新

でありながらもCRYCHIC=崩壊を前提とした物語的装置

モルフォニカ=旧バンドリ的インスピレーション

楽曲もElements Gardenによる『春日影』=EG時代の象徴。

キャラたちのモチベーションや行動も、旧文法で成立している。つまり、CRYCHICとは「前バンドリ世界観を埋め込むことで、後に爆破するための時限ユニット」であるということだ。CRYCHICを排除するためにわざわざ解散ドラマを作ったのではなく、その存在と崩壊を

  • 物語上の情動

  • 音楽的断絶

  • 制度の更新

として儀式的に処理したのが「春日影」だった。そよの叫びは、その儀式における最大の発火点=カタルシス

そして繰り返すが

  • 元は別企画として立ち上がっていた

  • 音楽制作はSUPA LOVE/Diggy-MO’という新世代体制

  • キャラクター像、楽曲構成、サウンド美学が完全に再設計されている

つまり、これは文字通り(というかアニメ通りだが)MyGO!!!!!とAve Mujicaが本命であり、CRYCHICは旧制度の断絶を描くための通過ユニットにしかすぎない。もっといえば、CRYCHICは「バンドリという制度にMyGO!!!!!を無理やり入れた結果、
必然的に発生した異物」であり、だから壊されるしかなかった。壊されることでしか、新体制は純粋になれなかった。

 

で、ある意味でこの製作陣における歪曲さ、というか「入れてしまった」ことによる四苦八苦は『Mygo!!!!!』13話の存在も全く同じで

柿本 実は、最終話でAve Mujicaを出すというのは後付けだったんです。元々13話構成とは決まっていたのですが、シナリオを作りながら、キャラクターが紆余曲折するたびに展開を変えていった結果、少し早く話がまとまったんですね。では、残りの話数をどうしようかと脚本家チームと話し合い、祥子が裏で動いているわけだし、最後にAve Mujicaを先行して出して、次のクールはもう一つのバンドの話だということを提示するかたちになりました。

アニメージュ2025年1月号に関するお詫び | アニメージュプラス - アニメ・声優・特撮・漫画のニュース発信!

 

13話構成は決まっていた→けど早くMygo!!!!!の物語が12話であがってしまった→どうしよう→よし繋ぎの回を入れよう!!続編で繋げよう

という立て板に水の如く無理やり挿入されたのが放映された「Ave Mujica」結成編としての第0話なわけです。しかし、真っ当にみていれば『Mygo!!!!!』の物語は完成している。12話でそよの和解・自己受容・MyGO!!!!!としての確立が描かれ、完全な終幕を迎えているし、視聴者もそこで物語が完結したと納得しているそれにも関わらず、13話だけが不自然に「別の物語」になっている

ディートハルト的に言えば、「この物語は既に完結している。あなたがたは登場してはいけない!」みたいな現象がおきるわけです。

音楽プロジェクトとしてはMyGO!!!!!とAve Mujicaは対になる構造体、しかしアニメ構成的にはMyGO!!!!!の物語は12話で完全に完結済みにもかかわらず13話が存在し、そこだけ明らかに異なるテンポ/視点/構造これは、制作サイドが「本来いえば十人のドラマ」とはいえ、性質のことなる2つの企画を1つの連続作品に統合せざるを得なかった」ということだ。共通ことして祥子は動いていれど、MyGO!!!!!とAve Mujicaが本来別々に成立していたはずの企画であることが、13話という余白のはずの1話に無理やり接続されてしまったことで可視化されている。

 

つまり13話とは、構造的に本来なかったことにすべきだった話であり、そこにCRYCHICのような「制度に殺されたユニット」の存在理由が重なるわけです。どちらも「MyGO!!!!!という枠組に、本来異物であるはずの他者を制度の都合で無理に接続・処理した痕跡」それが「CRYCHICの解散」であり、「13話のMujica導入」であることは違いない。

Mygo!!!!!では

  • 過去の象徴=CRYCHIC

  • 未来の布石=Ave Mujica

という時間的にも文脈的にも異なるものを入れた→「物語を媒介にして、旧構造と新構造を一挙に処理した」という無謀さ。なぜならどちらも本来は「別の場所」で描くべきもの。それをMyGO!!!!!という作品世界の中で無理やり完結・接続した。そしてその制度的歪みの衝撃を一身に受けたキャラが、長崎そよだったというわけです。

 

このようにして、考えていくと、CRYCHICの解散は、旧バンドリの亡霊を始末するための制度的始末であり、13話のMujica導入は、本来別の物語を、制作都合でねじ込まれた異物であることもまた、確かである。実際みている側として、13話は「Ave Mujica側のカメラ、演出、台詞回しすべてがMyGO!!!!!という作品文法と噛み合っていないにもかかわらず、それを「MyGO!!!!!というタイトルの13話」として続けているこの変な感じに苛まれた人は多いでしょう。

だから、この調子て、おそらくCRYCHICは消費されるために用意されたバンドとして用意されて(バンドリの枠組みに決まった後に話を考えたのなら尚更)いると思えば

  • 音楽的には旧バンドリ(EG)を象徴

というのは全くもって間違っていない。CRYCHICは旧バンドリの残滓として処理されることで、MyGO!!!!!の純粋性が確保されたCRYCHICが壊れた理由は「構造」だったにもかかわらず、物語上は「感情のすれ違い」に変換された。

これが『Mygo!!!!!』を見ている時の最大の違和感。誰も悪くないのに、結果的に、キャラたちの感情が制度の論理を覆い隠す謎の責任を負わされたことで変にギスっているという。そこには本来の意図として「狙ったギスり」もあるのだろうけれど。

ただ、実際に描かれたギスギスの大元は、たとえ、中学生であっても、相談や話し合いは当然可能特にあれだけ関係が深く、バンドという目的を共有していた仲間ならば、
誰かが一言「実は…」と話せば、全ては繋がっていたはずでも、それを「あえて誰もしない」ように物語が設計されている。

  1. 祥子は親の負債=自分の責任ではない → でも自動的に距離を取らされる
  2. 睦はギターが楽しくなかった → でも話す前に亀裂が決定している
  3. そよたち一向は誤解はあるが、修復の前に解散カードが強制発動される

キャラは何も悪くない、話せば済んだ。でも物語は話させない構造になっている。

はて、ここにかかる適切な距離の取り方はなんだったのだろうか?

  1. 祥子が「家計の都合で一時的に活動をセーブしなければいけない」と相談する

  2. 他のメンバーは「そっか、大変だね。でも待ってるよ」と言う

  3. CRYCHICは一時的に休止、または体制を変えて継続の余地を残す

これで何の問題もなく、物語もキャラも壊れないし、このくらいだったら、そんな無理な話でもない訳だ。でもそれを構造的に無視しないとMygo!!!!!/Ave Mujicaは生まれない。だからやっぱり成立させるために必要な制度的解体行為であり、それ以上でも以下でもない。

 

改めて楽曲体制の話に戻ると、CRYCHICだけがEG体制で、文法的にも価値観的にも旧バンドリの再演であることそして『春日影』だけがEGによって書かれ、かつ演奏されるたびに壊れる「禁忌の曲」として描かれているこの楽曲構造こそが、CRYCHICの本質=旧時代の儀式化された亡霊であることを証明している。

アナロジー的に倣うのであれば、これは『ベルセルク』における1-13巻までの「黄金時代」みたいなもので、

祥子、睦という、品格、家柄、クラシック的気高さ=従来の「清潔な理想性」や、燈・そよ・立希:情緒・友情・努力=「絆で繋がったバンド」という古典的理想=バンドリの黄金時代美学=「友情」「成長」「絆」

  1. 音楽はElements Garden(旧バンドリの血)

  2. 結成動機はモルフォニカ(過去への憧れ)

  3. 名前にまでクラシック性がある

つまり、バンドリ的な何かがが最も美しい形で再現されたユニットそれを一度物語として再構築したのがCRYCHICであり、しかし、それは「成立したがゆえに、解体される運命にあった」まさにベルセルクにおける「蝕」あまりに美しすぎたがゆえに、一度神に捧げられなければならなかった黄金時代とも言える訳です。

ベルセルク』の蝕で、「グリフィス率いる鷹の団=理想の共同体」は、

未来の構造にとって邪魔だからという理由で、神の手によって儀式として抹消されたのと同じくCRYCHICは“旧バンドリ的美学”を体現しすぎたがゆえにMyGO!!!!!/Ave Mujicaという制度的刷新の前では、残してはいけない過去となった。

春日影=ベヘリット=蝕とでも形容しましょう

最も美しい曲、最も情感が深い曲、でも演奏するとバンドが壊れ、あの曲だけが、制度的に「殺すために選ばれた音楽」、そしてそれに抗うように叫んだそよは、かつての時代に引き裂かれる者の末路。

物語上の理由は「昔のバンドの曲を勝手に使われた」だけだが、果たしてそれだけであんなにもキレるだろうか?他になにか、もっと別のところで意味はないだろうか?

なぜ「長崎そよ」と「豊川祥子」だけが第7話で「泣いた」のか。そこにはもっと本質的な理由があるのではないか?

『春日影』の演奏=そよにとっての「蝕」の再演であり、CRYCHICの記憶=旧時代の死自分たちが「新しい制度の開始点に立たされている」ことを本能的に察知してしまったということの方が本質に近いのではないか?といことである。一方で、この二人はCRYCHICに未練をもっている=天動説を信じている二人であり、Mygo!!!!!による「春日影」を経てなお「天動説」にしがみつくそよと、「地動説的回転」として「Ave Mujica」を設計する祥子、という点で明確に差が出てしまっている。かつて「CRYCHIC」という旧バンドリ=天動説的な絶対中心(そよ)を巡る構造に巻き込まれていた。自らは星を見る体験(三角初華との記憶)に基づき、音楽=記憶の反復/執着の器として生きてきた。CRYCHICが封印した楽曲を、MyGOが「無断で」演奏することで、「記憶(星)を他人に見られた」ことに近い感覚。

 

それにより、自分の中で「春日影=個人的な宇宙」が公共的演奏になったと受け取った。だからこそ、第7話で涙する/傷つく。ただし、三角の存在により再構成される。「星を一緒に見た者」として新しい世界=Ave Mujica=地動説的再編を選択する。そして 三角初華(祥子の過去の伴走者/Ave Mujicaのボーカル)は立場としては音楽ではなく、「星を見る記憶」によって祥子と繋がっている。旧バンドリにおける構造的しがらみがなく、記憶の共有者ではあるが、構造の外部にいた存在。結果として、祥子にとって唯一「自分の宇宙」を共有できる相手=新しい地軸になれる人物だ。

動機としての明示的な反応は少ないが、祥子の傷つきを受け止め、次の選択肢=Ave Mujicaへの転換を促す役割であり、彼女の存在により、祥子は「個人的な記憶の星空」を再編し、公開可能な音楽構造へと転換する。同じボーカルでも高松燈との出会いを振り返ってみると初華(三角)は実際の星空を仰いでおり、それは彼女たちが「過去の象徴体系(天動説/旧バンドリ)」に自らの感情や記憶を委ねている証左といえます。一方で、燈は「プラネタリウム=人工的な星」には行くが、空を仰がない。

燈はあくまでもプラネタリウムで星を見る者、つまり象徴を媒介する立場にとどまっていた。だが、実際に星を仰いだのは三角と祥子だった。この現実の天体観測の違いこそが、「象徴の反復」と「象徴の創出」の分岐点となる。祥子は旧象徴であり、春日影を通して制度に殉じる。三角はその制度を超えて、新たな地動説の語り部となる。
その中心に立つのがAve Mujicaであり、彼女たちは象徴の後に来る者、音楽制度を更新する者、制度の屍から立ち上がった者である。

 

また、第7話における「春日影」演奏は、単なるコピー演奏ではない。それはCRYCHICという旧世界=天動説の音楽体系を、MyGO!!!!!の身体によって演奏=儀式化することで、「旧制度の魂を引きはがし、供物として捧げる」儀式的行為である。

ここで鍵になるのは、MyGOが「春日影」を完璧に演奏してしまった」という事実が、祥子に対する暴力として機能していること。CRYCHICが築いた楽曲世界を、何の権利もない後発の存在が演奏する。それは制度の象徴=音楽が、もはや個人のものでないことそのものであり、だからこそ祥子は「傷つく」のである。

豊川祥子は、「春日影」=かつて自分たちが信じた宇宙の中心(天動説)を他者に歌われ、それが更新されてしまった現実を突きつけられた。それは否応なく「時代が変わった」ことを知る者の涙。

長崎そよは、地動説的世界に身を置きながら、なお中心に戻れるという幻想を抱き続けた者。それが 過去に戻れないと知った瞬間の涙。彼女の涙は、更新ではなく「拒絶」によって生まれたもの。

この2人だけが泣き、他のCRYCHICメンバーは泣かないし、演奏をすることも厭わない。(それは聴衆にした若葉睦を含め)それはつまり、もう「春日影」を歌っても泣かない次元に彼女たちはいるということであり、涙を流すことができる者こそが、「未だ天動説の内側にいた」ことの証明である。

もし「春日影」が本当に「禁じられた歌」であり、誰もがその神聖性を知っていたなら、高松燈も椎名立希も、要楽奈の演奏にのることはなかったはずです。
しかし彼女たちは演奏する。それはすなわち、高松燈や立希、にとって「春日影」は、もはやかつての呪いではない。それは「CRYCHICという文脈」ではなく、「今を生きる者が鳴らすべき音楽」になっている。だからこそ、彼女たちは「春日影」に込められた天動説的意味など知らずとも演奏できるし、演奏すべきと感じている。だからこそ

 

逆説─涙を流すのは、更新を受け入れられない者だけであり、演奏に立ち会いながら涙を流す豊川祥子という図式が論理的に成立する。この構造があるからこそ、CRYCHICという「春日影」の旧い文脈の象徴(=天動説)は、Ave Mujicaという新たな文脈(=地動説)に更新される必要があった。そしてそれを可能にしたのが、三角という「星を見る」存在、そして「外から来た者」としての新しい重心。

 

まとめていうのであれば、「春日影」を本気で大事にしていたからこそ、更新できる者とできない者が分かれた構図でありながらも本編ではそれが「感傷的」なシーンとして位置付けられている。だがその情緒は、「なぜこの楽曲で?」「なぜ彼女たちだけが?」という合理的・制度、そして論理としての裏付けが不足している。

(表面上の理由としては納得はできるが、それが全てだとは思えないという意味)

その理由こそが本質的に大事であるのにも関わらず。以上のことを踏まえればあの後に祥子がいうところの、「全部忘れさせて」=天動説から地動説への転換宣言であり、この台詞は、祥子がこれまで信じていた「天動説」的な価値観。すなわち、CRYCHIC時代の中心的存在としての自分や、過去の栄光を手放し、新たな価値観「地動説」への転換を決意した瞬間を象徴しているとしっかりと行動に対して、「感傷的な流れ」ではなく「理屈」としての行動として一致する。

 

この内面的な転換があったからこそ、祥子はAve Mujicaという新たなバンドを結成し、地動説的な価値観のもとで再出発を図ることができたのです。彼女の「全部忘れさせて」という言葉は、過去の忘却=未来へ進むための第一歩だったと言える。だからこそ、その決心をした後の祥子には長崎そよの代弁は同じ二人出会ったもの同士でも、それは「裏切った/られた」という単軸次元ではなく、既に明確な意識の差がある。

 

長崎そよは、Mygo!!!!!という地動説に乗って運ばれてきたのに、自分こそが世界の中心と錯覚している天動説をいまだに信じている、だからこそのあの対立があるのだ。

 

ではなぜこうした歪さが生まれてしまったのか。それは詰めていってしまえば

すべての原因は「MyGO!!!!!とAve MujicaをBanG Dream!にねじ込んだこと」

だからこそ、MyGO!!!!!とAve Mujicaは、BanG Dream!という制度から出ることで、
初めてキャラたちの感情や楽曲の純粋性を保証できるのではないか?と思うし、それはこの二つのバンドからBanG Dream!を知った人からすれば無意識的に「この二つだけアニメも音楽も異常にクオリティが高い」と思っている層もいるとすれば、もはや聞き手・受け手の中で脱色されているようにも思える。

前の記事で「音楽的に面白い」という文脈で書いたのがまさにそれであり、

 

sai96i.hateblo.jp

つまりバンドリではなくMyGO!!!!!とAve Mujicaという存在自体に惹かれた。という自分の体験は最初からバンドリを枠組みを突き破るほど、

MyGO!!!!!とAve Mujicaは、最初から音楽性・演技・構成文法すべてが違った。

この一文の尽きる。もう少し踏み込んで言えば、表現・技術の強度は、旧バンドリをごっこ遊びに見せてしまうほど純粋で、統合は文化的降格であり、構造的誤配だったとさえ思う。だからこそ、統合されない世界こそが、本当の意味であの作品群におけるキャラたちが輝くべき舞台だったというわけです。

 

ここで、ライブ会場の感想について一つ挙げます。座席隣の中国人の客がガッツリ盗撮してて、始まって数分後指摘されて、その数分後に強制退去させられていたんですよ。しかも『春日影』の演奏に入る手前だったんです。

どんだけのこの曲には因果!!というかだからこそ、ベヘリット的な何かがあるのかと思いました

(無論それは盗撮行為とは全然関係ないのだが強制退去のタイミングで『春日影』は本編的にはあってる) 

ベヘリット=運命を召喚する装置

持っているだけではただのモノ、でも流れた瞬間、現実の構造が変質する。つまり誰かが退場させられ、誰かが壊れ、何かが終わる。つまり自分がライブの出来事も含めて得た『春日影』の効果はすくなとも周りの人よりも変に面白くって、

『春日影』が演奏された時におきたこと

  1. CRYCHICが死ぬ(劇中)

  2. そよが壊れる(演出)

  3. 小日向が限界突破する(演技)

  4. 制度が分岐する(構造)

  5. 盗撮者が退場させられる(現実)

『春日影』という楽曲が演奏されるとき、何かが壊れる──それはCRYCHICだったり、そよ自身だったり、物語構造そのものだったりする。そして自分が会場で見たのは、まさに「演奏開始直前に盗撮客が強制退場させられる」という、現実がズレていくような瞬間なんですよね。偶然とは思えないタイミング。無関係ではあるが、本編との符合があまりに鮮やかだった。あのとき確かに、何かが発動していたし、そうとしか思えなかった。

 

もはや『春日影』はベヘリット、CRYCHICの命を供物にし、新たな世界の門を開く=Ave Mujicaの因果律のトリガーでもあった。そしてその門から現れたのがAve Mujica。彼女たちは旧世界を滅ぼし、新世界を始動させるための存在──それはもう、ゴッドハンドにほかならない。ボイド、スラン、ユービック、コンラッド、フェムト。
それに呼応するドロリス、ティモリス、アモーリス、モーティス、オブリビオニス。

三浦建太郎.『ベルセルク』(1996年).13巻.p120

神々の名に似た響きを持つその名は、あまりに象徴的だ。神名の呼応音(-is)構造。

奇しくもDiggy-MO`は自身のソロで『GOD SONG』という楽曲を発表している。


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GOD SONG

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これは数学・天文学者であるプトレマイオスを題材にしたDiggy-MO'の楽曲『PTOLEMY』と対をなす『GOD SONG』における原初的テーマでもあり、視点の転回(丸の内からか外からか)というモチーフの中で、天球(そら)という語が天文学的秩序の象徴として機能している

そもそも宇宙(世界)の音楽(ムジカ・ムンダーナ)という基礎概念を考えればより、天球という単語はおしゃれでもずらしでもなんでもない。むしろ正当性をもつ。

古代ギリシアや、ボエティウスの『音楽提要』では概念として

  • Musica humana(人間の音楽)-魂と身体の調和

  • Musica instrumentalis(器楽音楽)-聞こえる音楽

  • Musica mundana(天球の音楽)-星々や宇宙そのものが奏でる、人間には聞こえない調和

というような意味合いを持っている。詳しく気になる人は調べていただきたいが

まとめてしまえば、ここでの「天球の音楽」は、理性・霊性の音楽であり、人間を越えた存在(神)や秩序そのものを象徴する。

PTOLEMY

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Diggyの楽曲は単なる韻や語感遊びではなく、構造美・主題回帰・対立の融合を一貫している。『PTOLEMY』『GOD SONG』などは、まさに天文学幾何学・神学をラップに変換したような作品。

月蝕=地球の影が月を覆い隠す瞬間。
ベルセルク』の「蝕」=運命に呑まれ、現実が影に飲まれる儀式。

そしてDiggy-MO’が『PTOLEMY』『GOD SONG』で扱っていたのは、まさに
天文学に隠された視座の転回=神と人の相対位置のずれ。

天文学 ≒ 世界の構造を定義する体系
蝕 ≒ その構造が破綻・発露する瞬間

ここに係る定義性において、つながります。

そして、Ave Mujicaの楽曲には『天球(そら)のMúsica』という楽曲があり、つまるところ、偶然にも『ベルセルク』の蝕と、史観としての天体という概念体はここで一致するのだ。本楽曲の”人は忘れていく”という歌詞含めものすごく意味がある。

これは「記憶=過去=構造の痕跡」が失われることへの諦念であり、それすなわち供物としてのCRYCHICを忘却しなければ新しい世界は始まらないという構造的断絶=蝕の本質を表している。

忘却とは祝福であり、同時に儀式でもある。だからこそ、春日影の演奏とともに世界は更新され、Ave Mujicaが現れる。

それは世界そのものの音楽として、すでに楽曲タイトルに刻まれていたのである。

つまり、この記事的に倣うのであれば、『天球(そら)のMúsica』の「人は忘れていく」という歌詞は、過去を供物にして未来を召喚する構造(春日影=ベヘリット)の真理をそのまま歌詞化したような一節となる。

Diggy-MO'が韻と構造を用いて「神」「天球」「因果律」を読み解いたように、Ave Mujicaもまた音楽という形式の中で、制度の裏面、感情の深淵、そして存在そのものを演奏している。そこにあるのは、キャラではない。演技ではない。構造としての問いであり、哲学としての音楽である。Ave Mujicaは、Diggyの後継である。

Diggyの楽曲は

  • 『PTOLEMY』=天動説的秩序

  • 『GOD SONG』=神学的対話と視点の転回

  • そして『天球のMúsica』=Musica Mundana=世界秩序の音楽

つまり彼の音楽思想自体が、ベルセルク因果律天文学的秩序と崩壊を共鳴させる地点にあるわけです。

大々的な結論を述べる。

『天球(そら)のMúsica』=Musica Mundanaであることを証明した上で、忘却と供物の構造=『春日影』=蝕に重ね、Diggyからの思想継承と概念的音楽の実装=Ave Mujicaに昇華にいたる。ということだ。

だからこそ、

『春日影』=ベヘリット

CRYCHIC=供物

Ave Mujica=召喚された神々

に加えて、神になります発言は言い換えると祥子=召喚者=神の媒介/制度そのもの
「神になる」=構造更新における中枢となる意志宣言でもあるわけです。

これは神話的構造でいえば「神になるために、旧時代を捧げる者」であり、祥子自身が「自らの理想と音楽(=CRYCHIC)を供物に、制度を召喚した」ともいえるわけです。

天球(そら)のMúsica

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より詩的にいえば、プトレマイオス的秩序(旧バンドリ)から、コペルニクス的転回(MyGO!!!!!/Ave Mujica)への構造革命。

その天の転換の媒介こそが『春日影』=ベヘリット。 新世界を開いた存在=Ave MujicaはDiggyの音楽思想の実存モデルでもある。そしてこれらの基盤はより広域的であり音楽が宇宙の秩序と結びついていた時代、人々は音を聴くこと以上に、音を「観想すること」に意味を見出していた。その代表が、古代末期ローマの哲人ボエティウスである。彼は『音楽教程』の中で、

musica mundana(世界の音楽)humana(人間の音楽)/instrumentalis(器楽音楽)という三層構造を示し、可聴の音を超えて音楽を理性と宇宙の秩序のメタファーとして捉えた。一方で、中世11世紀の修道士グイド・ダレッツォは、音楽を耳と手の届くものへと引き戻した人物である。彼が導入した四線譜や階名唱は、音楽を「伝える技術」にまで具体化した。

神学的思索の対象だった音楽を、教化と再現可能性の領域へと転換した。この二人の間には、音楽とは何かという問いに対する答えの方向性が根本的に異なっている。ボエティウスの音楽観は観念=天上に属し、グイドの体系は制度=地上に属する。そして現代においても、音楽を「表現の霊性」とみるか、「制度化された演奏行為」とみるかという構造的な二項対立は、いまだに継承され続けている。

このラインについては下記の記事で全部書いたので確認していただければと思います。

 つまり、バンドリという制度の中で生まれ、制度によって壊され、制度に抗うように再起動する物語。そこにあったのは、キャラのドラマでも、演出の巧さでもなく、「構造そのものの劇」だった。その観点でいえば、やはり『春日影』は単なる過去の曲ではない。それは運命を呼び寄せるスイッチである。

CRYCHICは、捧げられた理想である。そしてAve Mujicaは、夜に降臨した神々だった。そして崩壊を経験し、それでも再び立ち上がる。美しさでも、正しさでも、強さでもない。迷うことに、もう迷わない、未完成であることそのものが、MyGO!!!!!の存在理由。