秋元康の熱烈なオファーにより成立!!とMステで堂々と宣伝して、いざアイドルが歌う曲を聞けば「曲として全く面白くない」の一言に尽きるような感想を持ってしまった。90年代に大量生産した楽曲をどこか連想してしまう、ある時代に取り残された臭いがしてしまった。衰えというよりも現在の流行をしっかりと把握できなかったのだろうと思ったり。ともかく勝手に一人で失望したものです。
以下本題
自分でもかなり振りきったタイトルを付けたなと思うくらいにはインパクトがあると思います。当たり前のことを遠回りして説明する。そんな感じの記事になってます。
世論でいう「パクリ」に良い印象を持っている人は非常に少ないと思う。
家族もしくは友達・ファン同士の会話において
「〜って〜のパクリじゃん」というのは少なくないと思う。言い草として悪意があるかないかによって捉え方は変わるが、少なくとも言われた側はいい気分にはならない。
たしかに、既存作品の真似をするのは、一見悪行と思えてしまう節がある。しかし、どのような作品にも「何か」から影響(なぞる・真似る)受けていることは確かだし、触発・動機なくして創作というのは成立しない.(仮につくっても作品として底が抜けるか、晩年の映画監督にありがちな型ちが整ってないパラノイアの集合体でしかない)
パクリそのものはあらゆるコンテンツにおいて必要な過程です。
Q.ではオリジナル作品として評価されるものと、俗に言うパクリの焼印を押されてしまう作品での差は何か?
A.元ネタを完璧にコピーした上で、自分の印鑑を押す。そしてコピーした作品に敬意を持ち、オリジンを主張しないこと。
端的に言うと本物以上の偽札を作るとでもいいましょうか。
パクリがうまくいった例と、悪くなった例を挙げる。
・敗者復活戦自由形/完全無欠絶対的Ruler
REIGN - 完全無欠絶対的Ruler MV Full Ver.
これは悪い例です。完全無欠絶対的Rulerの方は、あまりに酷似していため、公式が一度原曲を消し(事実上、出来のわるいパクリと認めた)、リアレンジver.を投稿したので、初めてこの曲を聴く人にとってはパッとわからないかも知れませんが、イントロの不自然は誰でも抱くでしょう。そしてイェーイと叫ぶタイミングであったり、その他もろもろが敗者復活戦自由形に影響を受けていることは間違いありません。
penguin reserachの楽曲と言うより堀江晶太(penguin research)氏が作曲する曲がかっこいいのはわかりますが、そこを表層だけ真似てしまって、中身がスカスカと言う例です。作曲者の力量が足りなかった一例です。
・closer/orion,
元ネタであるcloserより魅力的ではなく、構成の面でも工夫した試しがない。日本人はサビがないと受けないという持論から「サビ」の導入はしているものの、他は全て劣化コピーといって差し支えない作品。
砂の惑星にいたっては
・
同じ作曲家でも成功したパターンもある。その際たるものがこの二曲。
bmpも121前後を取っていることで言語の違いにより語感の違和感をなくすことにし成功している。(砂の惑星の場合、日本語歌詞を当てはめるには合わないテンポ)要するに砂の惑星は曲選びに失敗しただけ。
さらに主戦の楽器をギターにすることでメロディがひたすらなるように作曲をし、原曲よりも耳に残りやすい音として昇華している。この曲は洋楽的なアングラなテンポを見事に邦楽として変換させ、元ネタよりも質が高い楽曲にした傑作だと私は思う。
これは余談だが、米津楽曲は既存の有名タイトルをそのまま、自身の作品にくっつける傾向が多い。残念なことに砂の惑星では、敬意や、元ネタ以上の良さは感じなかったが、ハチ時代の作品である「恋と秒熱」はそのまま、宮沢賢治の作品を引用し、ゴーゴー幽霊船では「春と修羅」の一節を歌詞に反映させてる上に、しっかりと敬意を払っている。パプリカも本人は言わないが、筒井康隆原作のパプリカを、今は亡き今敏が劇場アニメにした経緯でつけていると断言してもいい。そうえいばストレイシープの先陣曲も「カムパネルラ」でしたね。宮沢賢治は偉大です。
アニメの場合
『新世紀 エヴァンゲリオン』
本作は90年代後半に登場し、その後のアニメーションの雰囲気的な意味での作風とキャラクターとしての手本として王座に君臨する作品とされているわけですが、本作のアプローチ的な意味では決して新しいものではないです。特撮で有名なウルトラマンや、ナウシカでおなじみの巨神兵をモチーフの一つとして取り入れていることはあまりに有名ですし、旧劇のオチはデビルマンの漫画版に準ずるところがあります。当然ロボット物として意識したであろう機動戦士ガンダムも入っていれば、サブタイトルに代表されるように、名作SFの邦訳タイトルをそのまま引用していたりする。(そのほかにもエヴァの要素となったものは多々あるが、キリがないため割愛)
小説の場合
仮想現実内でのゲームにおける死が現実につながってしまうという設定。どうも本作以降のライトノベルで似通ったテーマで作られた作品はSAOのパクリと言われてしまう。
原作者の川原礫が2000年代はじめには本作の初稿があったことを踏まえると、日本における流行りを見据えた先見性のあった作家だし、アクセルワールドなどにも共通するが(話の出来はともかく)面白そうと思える設定を創るが上手い。だからこそ売れる。では、SAOが記念すべきオリジンかと言われるとそれは別である。1989年に刊行されたクラインの壺や、70年代から、要素として確立されていき、80年代初頭にジャンルとして確立されたサイバーパンクの文脈がある。SAOにおけるサバイバル要素はsaoのweb連載(2002年11月~)の3年前にあたる1999年に出版された高見さんの「バトルロワイヤル」
のフォロワーであることは、川原礫が1974年生まれであることを踏まえれば間違いなく影響下を通っている。当然日本の映画,とりわけ押井守の影響が強い.(ここでいう押井映画はavalonであり、実際にそれがggo=ガンゲイルオンラインにつながったことは作者も認めている)
因みに映像的な意味で言うと、アニメsaoとしてもavalonの影響はある。
しかし、AVALONは人を選ぶ作品なので容易に手を出さない方がいいです。なんせ押井守の実写映画ですから。
こうした経緯を踏まえれば、冒頭にも少し記述した通り、作品Bが作品Aのパクリであるならば作品Aだって作品A‘の真似で、A‘は~のと延々繰り返すことになり、結局最後は何も残らない。厳密な意味でのオリジナルを確立した人というのは存在しない。しかし、極端なことをいっても仕方がないし、実際にはあらゆる分野で「体系」として確立させた人がいるからこそ、様々なことが発展している。ここではオリジナル(以降、オリジン族とする)を確立した人たちについて少し述べる。
オリジン族と言っても過言ではないひとたち。それは音楽の代表例であればバッハ(1685-1750)は誰しもが納得できる人物である。万能の天才と謳われたレオナルド・ダ・ヴィンチ(1452-1519) 文豪上、もっとも優れたと言われるウィリアムシェイクスピア(1564-1616)人口論をかいたマルサス(1766-1834)キュビズムの始祖とされるパブロピカソ(1881-1973) アニメーションの元祖ウィンザー・マッケイ(1869-1934) 映画の技法を開拓したDWグリフィス(1875-1948)現在における漫画のコマ割と、テーマに悲劇性を持ち込んだ手塚治虫(1928-1989)、ベーオウルフを元にファンタジーの黄金律を指輪物語で確立したトールキン(1892-1973)など、基本的には一世紀に一人の割合でしか(少なくとも同じジャンル内で)オリジン族に属する人たちは現れないし、(上記に羅列した中でも厳しい人はいくらかいる)本当の意味で「オリジナル」という要素を掛け合わせているのは甘く見積もっても上記に書いた人たちだけである。
つまりそれ以外の人はその時代が生むテーマと、自分がそれまで見てきた数多の作品から換骨奪胎と引用を繰り返して、より新しく・革新的に見えるものを提示するほかない。学ぶという単語の語源が「真似ぶ」にある理由はおそらくそういった意味もあるはず。
新しい酒は新しい革袋に盛れ
マタイ伝に書かれている文章で、直訳すると「新しい酒をいれるなら、それに見合うだけの新しいの袋にいれろ」ということです。しかしながら、これは今の時代通用しない。なぜならば母数、基盤があまりにも拡がりすぎたせいで「新しい袋」をつくるだけの枠(置く場所)がほとんどない。
であるならば、どうするか。古い酒を新しい袋に入れるということだけである。実際にスターウォーズなんかはまさにそれで成功した。
それまでパルプマガジンに乗っていたファンタジー物を、神話の体裁を取った上で、魅力的なSFガジェットを盛り込む(c3poはメトロポリスからの引用)ことで話自体は、過去の文脈にそった内容でありながら、当時にしてみれば全く新しく感じられるコンテンツになった。
今の作り手が悩む共通として面白い物を既に上の世代が作ってしまったことにより何を発表しても目新しさがないこと。つまりコピーのコピーのコピー世代となった以上どうやっても何かしらの真似であることを指摘されてしまう。時代の流れから言って仕方のないことである。たまに、脱構築物をいじり倒した傑作は十数年に一度出ているが、それらは狙って作れる物でもない。
(40年代-80年代に生まれた人たちは手垢のない元ネタ・題材があった) しかし今では何を元にしたって誰かが過去に参照しヒットを作ってしまっている。
この現状は致し方なく、日々新しい物を作るために邁進 していくほかない。
実写映画・アニメ・音楽・絵・文体 どのカテゴリーをとっても、パクることをしなければそもそも成立しえない。それぞれの界隈で巨匠と呼ばれる人(日本を代表する意味であれば宮崎駿・手塚治虫・黒澤明の三巨人)ですら、そうした真似ごとをして自己確立をしてきたことは、ここまで真面目に読んでくださった方々ならわかるであろう。
結局、パクる過程においてどこまで完璧に学び、そのうえで自分らしさを出せるかが肝である。しっかりと学べる人は元ネタを悟られないようないい作品をつくるし、パクりに対して狭い視野でしか物事を測れない人たちが作る作品は劣化コピーの大量生産と言うことは往々にしてある。
amazarashiというアーティストが、とある一曲の中でこう綴った歌詞がある
それをいちいち悔やんだ 今更どうにもなりはしない 核心はもっと深いところ、僕が生まれた由縁にいたる 父と母の出会いから、もっと言えばその血筋から、そして最後に行き着く場所は宇宙が始まるその確率
今回オリジナル論を書いていて、ほんの少しに似通ってるなとおもったので載せておきます。
結論
パクりは悪行ではないし、寧ろやるべき。どれだけパクれるか、そのクリエイターの能力こそ是非を問うべき。
オリジナルを主張をせず、影響を受けたコンテンツへ敬意を示す。
あらゆるものを引用して創られた作品で、しかもそれを見た大衆が喜ぶという一連のサイクルが生まれたコンテンツに対してパクリだなんだとこと自体野暮であることは言うまでもない。ほとんどの作品はミクスチャーでしかないのだから。