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Music Synopsis

音楽に思考の補助線を引く

『岸辺露伴は動かない』の新音楽制作工房劇伴から前衛音楽の有効性を考える

2020年の年末に第一期が放映されたテレビドラマ『岸辺露伴は動かない』は大人気となり、三期まで制作された上に映画『岸辺露伴 ルーヴルへ行く』が作られるまでの大人気作品となった。しかもルーヴル美術館の撮影許可が降りるという国内映画では二つ目という偉業をさりげなく成し遂げている。(尚、本編ではそんなに映らない)

正直映画は作品の持つテイストからしてテレビドラマの尺がベストであるという認識を再確認する程度のものでしかなかったと思う。例外的にエンドロールで大空位時代を劇場の音質で聴けたという意味では1000円程度の値打ちはあった程度に収まるのだが。

それはさておき、『岸辺露伴は動かない』の原作は『ジョジョの奇妙な冒険』のスピンオフ作品として描かれた作品。短編集にも関わらず、あらゆる引き出しを使い約40分の尺で視聴者を楽しませる作品として活かされた点は製作側からすれば色々あると思うが一視聴者的にいえば、作品の良さに多いに貢献した要素といえば小林靖子の脚本と菊地成孔による劇伴音楽の二点が特に優れていたと言わざるを得ない。別個のエピソードは単体で成立しながらも全話をごく自然に連作として落とし込む作法は流石だった。まず話の面白さとして抜群に優れていることは確か。しかしそれ以上に自分が感動したのはやっぱり音楽だった。エンディングテーマ兼メインテーマといえる「大空位時代」が流れた瞬間に誰もが音源を即座に求めたはずである(この効能についてはあとで言及するとして)。しかし、現実は非情でドラマが終了しても音楽が発売されることは暫くなかった。これは全視聴者がもどかしさを感じずにはいられなかったであろう。自分がまさにそうだ。そして、つい最近になって劇伴集が世に放たれた。

つまり大凡3年待った上での待望のOSTであることを踏まえると随分と待たされたなと思います。内容については「素晴らしい」の一言しかないほど名盤というに相応しいアルバムである。

 

劇伴についての純粋な気持ちで制作事情や背景等は菊地さんが書かれたライナーノーツを読む方が100倍楽しいので、単純に楽しみたい方はここらへんでブラウザバックをすることをお勧めします。文筆家でもある菊地成孔さんが事細かにあらゆる点について書かれており、自分のような素人がそれらに+αで補足的な追加文章を書いても製作者が書く文章以上の面白さはないので。

 

 

第一印象の所感としては、新音楽制作工房というグループに所属するの方々一向が作曲したものも数多く、それぞれ味のある楽曲がある上で代表の菊地成孔御大が手がけているので、それはもう名盤という他なりません。

なにせアニメ劇伴では『

野生の思考

野生の思考

(

 

では、『岸辺露伴は動かない』のOSTはどういう補助線を引いて音楽を楽しむか。音楽としては「過去の作品を聴いていれば新鮮味はない」と言えることもできるがそれはあまりにも感想として味気ないわけです。そんなことを言い出したら久石譲音楽や川井憲次音楽、平沢進音楽など映像作品に縁のある作曲家の音源だってそうだろって話になってしまう。そういう平凡さで片付けるのではなく、劇伴音楽である以上はやはり作品とをリンクして考えるべきである。

 

岸辺露伴は動かない』という作品の魅力を三つの単語に集約するのであれば「怪奇」「謎」「能力」大凡このようなものだろう。これらの要素が作劇に集まっている。

その上で音楽上の作風で採用されているものを三つ挙げればそれは「ジャズ」「前衛」「電子」(+αで弦楽器の味付け)を採用しているのは間違いない。中でも作劇上の「怪異」というモチーフに対して音楽のアプローチに『前衛』が入っていることは注目すべき点である。言ってしまえば有名どころで、劇伴的にも分かりやすいところだと『エクソシスト』とかああいう映画で『Tubular  Bells』

が採用されたことからも分かるように、不気味なものを演習させるための装置として前衛にまみれたテイスト音楽が使われているのである。そしてそうしたアプローチはやがてアニメにも表現技法として伝播する。具体的にいえば『デスノート』がそうであった。メインテーマの『Death Note

Death Note

Death Note

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はギターとピアノのメロディで気づきにくいが、やっていることは繰り返し、つまりはミニマル音楽であるし、良し悪しでいうと悪しで測られることが多いが『Lのテーマ』

Lのテーマ

Lのテーマ

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が『Tubular  Bells』のオマージュ作品であることは寧ろ作風を考えれば至極当然のアプローチであると言える。そして『LのテーマB』

LのテーマB

LのテーマB

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を聴けば、もはやパロディとか下書きでなぞった作品云々以前にミニマル音楽基調していることが理解することができる。そしてこれは変奏として『黒いライト』『ニアのテーマ』という劇伴にも繋がる。

黒いライト

黒いライト

ニアのテーマ

ニアのテーマ

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なぜなら『デスノート』の作風も『岸辺露伴は動かない』における三要素である「謎」「能力」「怪奇」という合致するものを持ち合わせているからだ。『デスノート』にこれを置き換えるのであれば「キラ事件」「デスノート」「死神」ということになる。実際に『デスノート』の劇伴の全体スタイルはやはり前衛であり電子音楽のトラック『緊張』『期待』『ヨツバグループ』

緊張

緊張

期待

期待

ヨツバグループ

ヨツバグループ

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もあれば、弦が主となって情緒的なメロディでありながら展開は前衛といった作品『Low of Solipsism』もある。

Low of Solipsism

Low of Solipsism

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そして何よりも前衛というスタンスが滲みに出ている『時計の針の音』

時計の針の音

時計の針の音

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までいけば音楽が作劇に合わせた前衛音楽を作っているのは自明である。また、シャフトが製作した西尾維新の<物語>シリーズに対する劇伴の仕組みがそうだった。シャフト作品における<物語>シリーズと前衛音楽については山ほど語れるが、それは*1某雑誌に寄稿したのでそちらでご確認ください。気になる人はタップ

アニメという媒体でしか奇抜な表現を知らない場合、逆転現象でアプローチを真似ているという捉え方をする人も一定数いそうですが、それは大昔からある手法なのだ。確かに作家・作品的には西尾維新とその作品の方が後釜なわけですが、映像化は先んじていたし、実際映像表現としての<物語>シリーズは破格の作品である。しかし『岸辺露伴は動かない』のテレビドラマにあたって、演出的に<物語>シリーズを参考にしたからアプローチが同じであると一応に断じてしまうのも違う。実写とはいえ、題材的に先行した一連のアニメは参照リストにもしかしたら入っていたかもしれないが、そこから直接輸入するほど作り手も安直ではない。要はアプローチとしての不気味な作風をもつ作品は必然的に前衛なる音楽を捻出せざるをえないということだ。それこそリアルタイムで『エクソシスト』といった作品を見た人からすればその点の演出は前衛路線と相場が決まっていると思う人もいるが、そうしたバックボーンを理解した上で現在の映像表現を見るというのは中々手が届くようなものでもない。そのため大多数は『岸辺露伴は動かない』のドラマで描かれた世界観と音楽にある種の洗礼を受けた。そうでなければ劇伴がこれほど待望されることもない。

 

前衛は音楽単体だとアウトサイダーアートのような感じで一部受けしかしないが、映像との組み合わせだと化けることが多い。その最たる例であり最大の貢献者が久石譲

本筋とズレるので詳しくはこちらの記事を参照していただきたいが

sai96i.hateblo.jp

一応前衛音楽を例にとって簡易的に説明をすると北野武映画ではデビュー作『その男、凶暴につき』のころからエリック・サティの『グノシェンヌ第1番-Lent』

グノシェンヌ 第1番 - Lent

グノシェンヌ 第1番 - Lent

  • ジャン=イヴ・ティボーデ
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をいい感じに薄めにした音楽がメインテーマでした。そしてそこから、北野武監督が劇伴音楽作家に久石譲を選択したというのはこの上ないベストディレクションだった。それが『sonatine』や『HANA-BI』『菊次郎の夏

といった作品で多いに活かされ、それらの劇伴は今でも強度のある音楽として古くならず残っている。スタジオジブリ作品の劇伴でミニマル音楽は映像的に有効ではないが、『風の谷のナウシカ』のオープニングは気づきにくいが実はミニマルであった。

風の伝説

風の伝説

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もののけ姫』『ハウルの動く城』『崖の上のポニョ』では重厚なオーケストレーション、というよりもドヴォルザークワーグナーを思いっきり引用していたこともあり壮大、あるいは荘厳なるテーマ音楽として楽しめるし、『千と千尋の神隠し』では誰もが本編の映像がなくても「あの夏へ」

あの夏へ

あの夏へ

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を聴くと、条件反射レベルでとても悲しくも儚くそして美しい情景が浮かび上がってしまう、そんなメロディアスな劇伴に満ち溢れているため、久石譲の音楽=ジブリ音楽と錯覚してしまうのも無理ないが、久石譲の本流はミニマルであることを考えれば、映画劇伴や作曲家としては北野武作品の音楽の方が圧倒的だ。

閑話休題

 

では実際に『岸辺露伴は動かない』における劇伴の感覚を拾ってみる。音楽は元来聴くものであり、文章で再現するのには限界があるためしっかりと劇伴を聴いてほしいのですがなるべく地の文でもわかりやすい感じで書いていくと、『大空位時代のためのレチタティーヴォ (叙唱)』では弦の緩急で世界観に引き込み『明日きっと、晴天から降り注ぎ、わたしを支配する美しい響き』『海亀が陸上を、野牛が水中を歩む』『ピアノソナタ一番』というタイトルでは、決して「ソナタ形式」を守っている作品ではないという点、そして楽曲もアントン・ウェーベルンさながらのアナーキーな前衛さを展開した思えば『電子音による空間彫刻』では電子音をメインに特有の音を展開の楽曲もあるし、タイトルがパロディ(これは菊地成孔作品に通底する一種の作法ではあるが)の「去年マリエンバートで」では、映画『去年マリエンバートで』からのイメージソースから想起させた形のオルガンの楽曲等があり、どれも昔ながらの文法に沿ったアプローチとして前衛を採用しているからこそである。このように作中の劇伴として前衛を展開した上でエンドロールが『大空位時代(TVシリーズver.)』が流れるというのは、本編的に形容するのであれば謎が解けた後の浄化としての音楽であるという見立ても可能である。というより間違いなくそうした感覚で楽曲を取られているからこそ、『大空位時代(TVシリーズver.)』『大空位時代』を聴いた視聴者は全員この楽曲を追い求めてしまうのではないか。単に曲がいいからというのも当然あるが。散々事件に対する謎が提示された後の解決パートで『知覚と快楽の螺旋』

vs. ~知覚と快楽の螺旋~

vs. ~知覚と快楽の螺旋~

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が流れて福山雅治が所構わず無駄に数式を書く『ガリレオ』シリーズ同様に。

 

これまでの作品群と『岸辺露伴は動かない』を含めて、先に挙げた三要素を持ち合わせた作品群の劇伴を展望すると全て同じアプローチをとっているために、それらの楽曲にはいい意味で統一されたミームのようなものが内在されている。もう一度繰り返すが、菊地成孔音楽の過去作品を聴けば『岸辺露伴は動かない』でもアプローチそのものは変わっていないが、映像との相互作用としておそらく過去のタイアップ作品以上に型に合ったのは前衛音楽が「謎」「怪奇」「能力」といったある種説明がつかない畏怖すべき存在なるものを扱っていることが大きい。そこに大いなる感動を抱いた人も多いはずだ。昔からあるアプローチが現代版としてアップデートされた形が少なくとも2020年代の今では『岸辺露伴は動かない』が極地であろう。そういった目線を入れた上で、作品をみてその上でサウンドトラックを熟読ならぬ熟聴し、音楽と映像のあり方というのを今一度考えると新しい発見があるかもしれません。ちなみに自分は『岸辺露伴は動かない』のドラマ全体をみて思ったことは、今の時代なら京極夏彦の『京極堂シリーズ』をテレビドラマで展開することは可能なのではないかということだ。大昔に実相寺昭雄が『姑獲鳥の夏』を撮り商業・作品の両側面で着地に失敗したという前例があるが今一度、京極堂シリーズを音楽込みでしっかりとした文脈にそった形で映像化すれば原作の面白さは確約されている以上、一定の評価を勝ち取れるのではないかと勝手に推察したりしています。脚本はそれこそ小林靖子が最適ではないか。何故ならアニメ版『デスノート』でも幾つかの話数を担当し、『岸辺露伴は動かない』の『六壁坂』の中で江戸川乱歩の『芋虫』や横溝正史タッチな空気を脚本に落とし込むだけの力量があるだから寧ろ、脚本家としてのキャリアを考えれば当然と思ったりするですがいかがでしょうか?原作は鈍器本で尺は十分すぎるほどあるし料理の仕方でドラマの作り方というはいかようにもできるのではないかと思ったりするのですが。仮に実現したと仮定して重要になるのは作品イメージを支えるに足りうる音楽が要になってくるはずである。再三になるが、これまでの成功した『怪奇』『謎』といったモチーフの映像作品には必ず音楽がそれ相応の文脈を踏んだ作品を作った上で成功しているので、そこを押さえることができる音楽家にしてほしいなとか思ったりします。

誰かが講談社より映像化権を勝ち取って、見事に映像化すれば『岸辺露伴は動かない』に比類する作品になると思いますので、誰かよろしくお願いします(丸投げ)

以上、前衛音楽の有効性についてでした。『岸辺露伴は動かない』の作品および音楽が今の映像化表現のトップレベルであるということが少しでも伝われば幸いです。

 

 

12/1に開催されるイベント「岸辺露伴は動かない岸辺露伴 ルーヴルへ行く」オリジナル・サウンドトラック【完全生産限定盤】発売記念スペシャトークイベント」の抽選に当たることを祈って締めたいと思います。どうか100人の中に入りますように

それでは。

 

P.S.
無事、100名に中に入りました。

なるべく菊地成孔音楽のトークを網羅できるよにレポート取り頑張ります。

 

 

*1:もにも〜ど

【宣伝】『ボーカロイド文化の現在地』・『外伝もにも〜ど』に寄稿

懲りずにまた批評同人誌に寄稿をしました。

2023年11月11日に開催される文学フリマ東京37に出店する二つサークルに寄稿しました

highlandさん主宰のサークル「Async Voice」と、

あにもにさん主宰のサークル「もにも〜ど」

 

 

 

にそれぞれ一本ずつ寄稿しました。

 

「Async Voice」ではタイトルから分かるようにボカロ論に関する事を。

「外伝もにも〜ど」では『アサルトリリィ BOUQUET』に関する論考を書きました。

 

 

ボカロ論の方はhighlandさん直々の依頼もので、実は4月の段階でお話をいただいていました。この頃は丁度シャフト音楽論の佳境真っ最中に転がり込んだもので、あまりに間としてのタイミングが悪すぎたのですが、あと先考えず二つ返事で引き受けたという経緯があります。

話をいただいた時にいろいろと考えた挙句、いくら同人とはいえやはり来場者に買ってもらう品物なわけですから、いくらでも調べれば出てくるような当たり前のこと・普段インターネットで散々書かれているような話をはじめ、安直な題材をテーマにするのは流石につまらないし、面白がってもらえないと思ったため少し変わった視点から切り込むスタンスで草稿を書きました。

 

その結果ボカロ論なのにボカロのボの字が殆ど出てこない、人物史・コンテンツ論的な方向性に発展してしまい、これを処理(=文章としてまとめる)していたらいつの間にか7万字くらいになっていて、どう考えても寄稿者が書いて良い分量ではない領域に来たので、*1前回の失敗に倣いそこから引き算で色々と削って1/4に絞った最小限にしたものをhighlandさんに確認していただきながら、付け足し・再構築をするという形にした文章になっています。

 

 

ボーカロイド文化の現在地』目次

批評文章の巧さでいえば学のない自分よりも、他の人たちの方が圧倒的に優れているので、せめて切り口だけは、一風変わったものにしようという意識のもと、色々と試行錯誤をしたのですが、目次を見る限りは自分と同じ切り方をしている人恐らくはいないので載る論考の点の斬新さといいますか、275度くらいの角度から書いたと言う意味では結構自信あります。前述のこともありかなり、ダイジェスト感がありますがそれでも楽しんでいただける文章にはなっていると思います。読む人が読めば、空きの行間も埋まり本来の原稿がどういうものかも見えてくるとは思う程度には諸要素は蒔いてあるので興味がある人は是非探索しください。

この目次改めて見ると色々な意味で面白い人選だなと思います。

個人的にフガクラさんと柊余白さん原稿はタイトルからしてただならぬ面白さを感じました。他にも40p以上MV論を書いている才華さんの論考も、それだけの尺を使って何が書かれているのかという点では非常に面白そうな原稿だなと思います。

 

では、次にシャフト批評誌の「もにも〜ど」についてです。

主題は『アサルトリリィ』についてですが、最初に白状すると別に作品に思い入れがあるわけではないです。前回の「もにも〜ど」の目次が公開された時に「〇〇がない」というようなポスト(当時はツイート)を幾つか目にしまして、「そんなに読みたいのであれば自分で書いて寄稿しろ」とか思いましたが、一層のこと「じゃあ書いてやるよ」っていう反動的で書いたところがあります。

前回論考の対象にはならなかったシャフト作品群の中で自分が一番書きやすい作品は『アサルトリリィ』か『連盟空軍航空魔法音楽隊ルミナスウィッチーズ』の二択だなと思って一応二つ分用意はしていたのですが、『アサルトリリィ』に詰めるのに時間がかかってしまって後者はお蔵入り・あるいは以降の「もにも〜ど」送りみたいな状態です。書いた動機である方々に面白いと思っていただける論考になっていればいいなと思いながら、こっちも感覚的には「気分はもう相当ピーキー」的な方向に舵を取った感があるので、どう作用するやらと言うような感じです。

 

今回2本、前回1本で計3本寄稿をしたわけですが相変わらず批評的なものを書くセンスが絶望的だなと。再認識しました。

このブログは批評ものではないのか?と思われる方も多いかもしれませんが、違います。基本的に「Music Synopsis」は音楽の面白さにちょっとした意味づけを込めた感想文や、好き嫌いを冗長に連ねていることで、普通に聴く以上の体感ができるということを伝えたいだけであって、批評的な側面なんて1mmもないです。難しいこと考えないで、単に好き嫌いにちょっとした意味付けや理由を書いているだけのブログでしかありません。少なくとも音楽批評をするぞというテンションでは書いていないため、同じ文章であっても、批評に慣れていない自分が原稿書くって難しいなと思いました。

 

以上、色々と紆余曲折を経て2本分の寄稿をしたよと言う話でした。是非お買い求めください。

 

最後にもう一度だけ宣伝します。

 

イベント:文学フリマ東京37

日時:2023年11月11日(土) 12:00~17:00

会場:東京流通センター 第一展示場・第二展示場

「Async Voice」-「ち-18」

「もにも〜ど」-「た-11 」

上記の場所でそれぞれ販売されます。よろしくお願いします。

*1:前回は寄稿自体が初めてだったこということもあって加減が分からずに相当あにもにさんに負荷をかけてしまい色々と苦労をかけてしまったという裏話があり流石に2連続でそれをやるのは愚かしいとと思った

amazarashi 7thAL『永遠市』感想

amazarashiもそうだろといえばそうだが、基本的に自分の中で、アニソン系統以外で普通に好きっていうだけで過去にデカい記事1本とアルバムレビュー1本を出していて、そこまで音楽家として飽きも来ていない日本ミュージシャンという括りの中でamazarashiはかなり頑張ってる方でなので、普段ALレビューとかは率先して書かないのですが、今回は『永遠市』の音源を聴く前から書こうと決めていたので書きます。どんなに守備範囲が広い人でも、結局は収まるところってあると思います。その意味では自分の中ではamazarashiは収まっている側のアーティストなのかもしれません。そこまでの熱狂さするほどではないが、新作が出ると聴かずにはいられない。という意味ではある種の税金みたいなものですね。良作であろうと、駄作であろうと「amazarashi税」みたいな。

 

 

ということで、新作レビュー記事になるわけですが前作の『ロストボーイズ』は例外で、気軽に聴いていたら最高傑作が来てしまったので急いでこの凄さを伝搬せねばならないと思ったのでわりと偶発的です。sai96i.hateblo.jp

sai96i.hateblo.jp

 

 

・枕詞/前置き&本作にタイトルについての考察と答え合わせ

七枚目にしてモチーフがSF。これは正直驚きました。amazarashiというと、今やかなりその色は晴れているとは思いますが、初期こそは厭世感を太宰や宮沢賢治寺山修司の言葉を引用して音楽に合わせて詩的な歌詞を歌うというアーティストだったので、そこから考えると随分とテーマ性がSF寄りになったなと。勿論オーウェルの『1984』(一九四七年)や『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』(一九六八年)及びその映画『ブレードランナー』(一九八四年)やをモチーフにした傾向はもとよりありました。しかし上記二作は最早文芸やアート、カルチャー全域に渡り、普通の作品としては考えられないほどの広がりをみせている作品であるため、媒体は何であれ、むしろその手の作品を出さない方が難しいところまで来ていいます。この点に関しては、最早文脈は一切無視して、かっこいい・響きがいいとかそれだけの理由で、邦訳SFネタを使う人が増えたせいで安直に使う人とかも結構いたりします。

Music Synopsisの読者的にローカライズして書くならMarprilの作品だったり

(キミエモーションおすすめ)

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長谷川白紙楽曲提供で、随一の狂い具合を誇る楽曲『光る地図』が収録されているALはこれだし

光る地図

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まぁ今なお、こういう領域ですら、(あるいはこういう領域だらこそ)血気盛んなにSFネタをあて擦るって使われます。そう考えていくと、表現者という人たちがこういう行為をすることはある種の通過儀礼的なものでしかないのです。勿論、その中にはしっかり意義がある作品と、そうではないただの借り物でしかない愚作の両方があるわけですがそれは別の話として。

秋田ひろむ今回、アレクサンドル・コルバコフという、旧ソ連のSF作家の作品『宇宙の漂泊者』という大昔の作品を提示してきました。普通ならストルガツキー兄弟あたりの引用で想像力が止まってしまう人も多いなら、アレクサンドル・コルバコフを引用したのは中々面白いと思います。

作劇における「永遠市」というのは端的に書くのであればホールドマンの『終わりなき戦い』が一番分かりやすい例だと思うのですが、ああ言った形で、宇宙空間生活が長すぎて、地上時間軸と乖離差が出てしまった人を「相対性人」と呼び、そういう人たちがクラス空間を「永遠市」と呼ばれている。というのが単語の由来です。しかしここまできても、SF的なものをアプローチしていると、断言してしまうのもまた疑問。恐らく秋田ひろむは「永遠市」と呼ばれる概念そのものに着目したのであって、SF的な世界観で作品を出すというのはどうも想像しきれない。SFにはタイトルの響きで決めるタイプの作品があって、これも分かりやすい例で書けば故・伊藤計劃の『ハーモニー』(二〇〇八年)とかがまさにそうなのですが、単語の持つ響きはいいけどそれが意味するものが凄い怖いというような、タイトルにおける映画的対位法とでも形容すべきでしょうか。つまり「民族浄化」という言葉がもつ響きと、それが意味するもの。というのを考えた時の差異みたいなものに秋田ひろむも惹かれたのではないかなと思ったりします。もっとも安直に言って仕舞えば、秋田ひろむは村上春樹も当然通ってはいると思うのですが、それでいうと、『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』における、「世界の終わり」or「ハードボイルドワンダーランド」の世界・空間を作品内テーマとして取り上げたい。そんな気がするのです。むしろそういうある種の内閉的異空間に焦点を当てて作品を紡いでいく。そういったアプローチのほうが強いのかなと思ったりします。完全にSF調でいくにはamazarashiの音楽性ではちょっと厳しいものもあります(ベクトルが違うという意)

 

なんて書いたんですけど、HPみたらしっかりと基調されていました。

音楽で生きてゆくと腹を括った瞬間があった。それは、そのころの僕にとっては、世間一般でいうところの”幸福”や”安定”との決別と同義だった。
社会的に生きてゆく術も持たず、属する場所もない僕は、この星の人間ではないのだろうと感じていた。そんな僕が生きてゆくにはこの地球とは別の価値観を持つ他の世界を探す必要があると思われた。そしてそれを実現できる可能性があるとすれば、唯一音楽だけがその方法たり得ると考えた。僕にとっての探査機になり得ると。

僕にできることは限られていた。というより、僕ができることで人の心を動かすことができるものは限られていた。孤独や疎外感、怒りを音楽にした。僕が望んでそうした部分もあるが、大半は人が褒めてくれる方へ、認めてくれる方へと導かれた気がする。少なくない共感者が僕らを見つけてくれた結果、僕の世間外れで独りよがりな音楽は不思議と社会性を帯びてきた。以前は居場所がなく疎外感を感じていたこの地球に「居場所がないと歌う」という居場所が与えられた。それはときに滑稽に思えたが、嬉しくもあった。戸惑いももちろんあった。その居場所に抗ってみたこともあったし迎合したこともあった。新しく出会うこの世界の住人と、相容れない思考と言葉をなんとか駆使し、この社会とコミュニケーションを図った。その過程がこのアルバムだ。

この秋田ひろむのお言葉は長いので、いい感じにを要約すると

  • 現実に適応が難しい≠地球の生物ではない。ゆえに別の価値観をもつ世界を探す必要があり、移動手段的を可能にしてくれるロケットみたいな装置が音楽である。
  • 限られた手法で手練手管で自分なりの厭世観をもった音楽をやっていたら案外受け入られたので、そういう場所で出会う住人=相対性人が暮らす社会=地球とのコミュニケーションを音楽的に録ってみました。

 

みたいな感じなるので、やはり、異なる場所というモチーフとして引用したことみるほうが正解に近いと思えます。それにしても、しっかりと引用元を提示した上で作品を作るというスタンスは本当に素晴らしいですね。全ミュージシャン様はこうあるべきだと思います。コラージュの時代だからこそ引用元を提示すること自体は当たり前であって欲しい。どうせ隠してもバレるのだから。

 

永遠市

永遠市

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・本編

では早速作品内世界について入っていきます。

その前に一言加えるならトラックリストの順でタイトルを読むと『超新星』からの『クレプトマニア』=盗人マニア、『ディザスター』=大惨事がおきて、更地ならぬ、『まっさら』というのがいい感じに終末的な世界へ向かっているなと思います。

amazarashiは基本風景として夜が多いけれど、今回はあくまでもイメージとしての感覚だけれど、朝っぽい感じします。それ加えてトラック名に色々隠されている感がすごいですがそれは各トラックの感想で書きます。あらかじめ書くと割と厳しめです。

 

01.『インヒューマンエンパシー』

冒頭トラックとしては正直弱い。だって『ボイコット』のno.1は『拒否オロジー』だし、『七号線ロストボーイズ』では『感情道路七号線』で

生きるために死んで 享楽にえずいて 欲しいのは機関銃

という感じで始まる強烈さというものが前作と前前作ではしっかりと積み込まれていたのに、今回はトラック1から引き込まれる感覚がない。どっちかというと3トラックあたりに入っている感が強いなと。

インヒューマンエンパシー

インヒューマンエンパシー

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02.『下を向いて歩こう』

ご存知、タイトルは『上を向いて歩こう』のパロディではあるものの、こういうアプローチものって思いつきそうで思いつけない微妙なラインではありますが、このタイトルで出してくるのが如何にもamazarashiという感じがして流石だなと思います。

下を向いて歩こう

下を向いて歩こう

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03.『アンチノミー

アンチノミー、二律背反。

・感情を持つな→先が辛くなる 

・人を愛するな→弱さにつながる

・自ら選択するな→安寧がゆがる

・情けはかけるな→白黒の間のさまざまな色彩(グレーみたいな)に戸惑ってしまう

・知性はもつな→真実を知ってしまう

というまず否定から始まってなぜなら、、という歌詞を語る作品です。

歌詞は過去作『古いSF映画』からの発展系みたいな作品だなと思ったりした。『古いSF映画』では

人が人である理由が

人の中にしかないのなら

明け渡してはいけない場所

それを心と呼ぶんでしょ

と説いていた。ここでは、創りものの世界だとしても人であるという規定に達するもとして受け入れないといけないものが心であるという歌詞になっている。

今作では、

機械仕掛けの涙 それに震える心は誰のもの

という歌詞が象徴的な一文になっている。全体として見た時に、あらゆるものが最初から全て設計されている。そうした造り物の中で発生する心情は誰のものだという展開が待っている。歌詞の中で展開されるいくつかのキーワードの中でも最もamazarashi的にキレのある歌詞は

世界は数多の問、繰り返す 返答だけならば機械にだってできる

僕だけの迷いこそが 人の証左となるなら

意味を捨て 意思をとれ

でしょう。応答だけなら機械でいいじゃん。そこで迷うことが人の証明という一文はいかにも秋田ひろむっぽい歌詞だなと思います。

 

アンチノミー

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04.『ごめんねオデッセイ』

冲方丁における『バイバイ、アース』みたいなネーミング。そしてお馴染みのポエトリーリーディング。この曲は独白がメインで曲というよりかはメッセージ性を高いタイプの楽曲だと思います。過去作でいうところの『メーデーメーデー』にあたります。

だからその具合は流石です。今回のコンセプト性を上げるために小ネタとして挙げられるのが

後に分かるメッセージ、

次元を超えるクーパーとマーフ

これは『インターステラー』ですね。この歌詞はあの映画におけるホルヘ・ルイス・ボルヘスの『バベルの図書館』を彷彿とさせる本棚と次元が繋がっているみたいな展開や主人公とその娘の名前の引用をしていることからも明らかです。今回の世界観はSFだからこその採用だとは思いますが、一映画ファン的には『メッセージ』(原題:arrival)を採ってほしかったなという謎の願望が生まれたりしました。他にも、秋田ひろむは今後、ボルヘス的な世界観を採用して欲しいなと思ったり。

ごめんねオデッセイ

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05.『君はまだ夏を知らない』

純粋にいい曲というのが感想としてあります。夏というとそれこそ『夏、消息不明』や

夏、消息不明

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名曲『夏を待っていました』

夏を待っていました

夏を待っていました

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とかをやっていた時代からすれば、こんなにも明るい詩で夏を書けるようになったのかとか色々と感慨深いものがあります。amazarashi大特集の時書けなかった小ネタを披露すると、一度ツイートはしているのですが

『夏を待っていました』はステレオフェニックスの『100MPH』が元ネタです。

100 MPH

100 MPH

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なので、某ボカロPの作品と併せて比較してみると面白いです。

君はまだ夏を知らない

君はまだ夏を知らない

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06.『自由に向かって逃げろ』

『明日にむかって撃て』とか『俺たちに明日はない』を彷彿とさせるネーミングセンスは流石。これは多分意識的ですね。理由:「自由」と「逃げる」が同居しているのはそういうタイトルは往々にしてアメリカンニューシネマにかぶれている人だから。あるいあ

『自由からの逃走』でも読んだか。まぁ真偽はどうでもいいのですが、タイトルはそういう意味合いが強いなという意味です。

冒頭から間奏みたいなメロディから始まるこの楽曲は、

自由に向かって逃げろ

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07.『スワイプ』

amazarashi初期からある、昔〇〇だけど今じゃ××という芸風の作品ですね。ただ、コンセプトを考えるとちょっと弱いかなと。『ボイコット』における『夕立旅立ち』みたいなポジションを感じずにはいられない。

スワイプ

スワイプ

  • amazarashi
  • ロック
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08.『俯きヶ丘』

lofi的なbgmに惹かれ過ぎて歌詞なしで、インスト楽曲でもいいのではないかと思ったりした。少ない楽曲で色々詰め込んだ感はありますが、それこそこのテーマで5mくらいで作ってくれたら最高だなと思ったり。

俯きヶ丘

俯きヶ丘

  • amazarashi
  • ロック
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09.『カシオピア係留所』

宮沢賢治の影響〜というのは最早誰もが理解するところではある。そしてこの手の楽曲で秋田ひろむが仕掛けてくるのであればそれは絶対外してくるわけがない。イントロが結構amazarashi的には『スターライト』的な味を残しつつ、新しいタイプだなぁと思いました。そしてあのイントロんがら、『スターライト』的な感じには繋げないのもいいですね。多分アルバムの中で一番完成度が高い楽曲になっていると思う。応援歌的な側面もありながら物語的な視点、そして体系的な目線が入っている歌詞という真骨頂を感じました。

その痛みは共通言語だ

あらゆる詩を歌い、最終的に「それでも」痛みだけは共通というテーマは雨晒し的な側面も感じました。

カシオピア係留所

カシオピア係留所

  • amazarashi
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10.『超新星

韻を踏む、tha blue herb的な感じでラップを連ねていく曲で、単純にいい曲としか感じない一方、小ネタの方にむしろ反応してしまいます。

幸福は過ぎた願い 目を背けた青空  虚飾も卑下も脱いでなお残る我がアートマン

多分これって『暗黒神話』におけるヤマトタケルの転生した山門 武がブラフマンからのアートマンに選ばれるっていうあそこから来ていると思います。というよりも日本においてアートマンの認識は諸星大二郎の影響が強すぎるので。

超新星

超新星

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11.『クレプトマニア』

セルフパロというべきか

書き下ろした数千行と等価

最後につじつま合わせる僕等

あたりでちょっと笑ったことと、イントロがnujabesの『ordinary joe (feat. Terry Callier)』

ordinary joe (feat. Terry Callier)

ordinary joe (feat. Terry Callier)

  • Nujabes
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みたいな感じで、8もそうですけど、どこかlofiの匂いがするなという感じ。多分これは編曲者の趣味かなと思ったり。秋田ひろむの指示ならそれはそれで色々と可能性を感じますが、正直そういうタイプの音源を作るタイプの作家かどうかといえばNOだと思います。作れって言われたら作れるのでしょうけれど笑。

クレプトマニア

クレプトマニア

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12.『ディザスター』

秋田ひろむの表現者としての心情性が強い所はいいです

延々待っても来ない順番は 不名誉が僕らの名誉で

が、タイトル負けしてるという印象が強い。十分歌詞としての強さは感じるが、それでもタイトルの『ディザスター』という言葉の持つ力と同程度の強度を持っているかどうかといえば、もう少し踏み込んでほしかった感があります。

ディザスター

ディザスター

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13.『まっさら』

ギター一本という秋田ひろむの歌唱が一番光るタイプの曲だなと思うのですが、このトラックリストから想像する「まっさら」とは違い、上書き保存の積み重ねで、ゼロの状態=白紙には戻れない僕らというモチーフで進む楽曲だったので、SF的な意味でディザスターが降ってきた終末です。はいおしまい。という空気を勝手に感じていた身としては、このアルバムでこのテイストを入れるんだっていう感じですね。いい曲だけど『永遠市』のビジュアルや世界観からはあんまり想像できないタイプの曲なので、全体的にクオリティに文句はないが、別のアルバムで聴きたかった感がすごくあるという意味では惜しい楽曲だなと思います。

まっさら

まっさら

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総評

10点満点中6.5点くらい。前作のあまりにも出来が良すぎたアルバムに比べたら本作は印象に残る曲も少ない。歌詞の一文で面白いところや共感する部分は多少なりともありますが、全体的なアルバムとしての統一感もない。特に8,11の3分にも見たいな系の曲は、アルバムでは聴きたくないと思うわけです。あと「こういう世界でアルバムを作りたい」という心意気はわかりますしそれは各楽曲にもしっかりと込められているのですが、上手く落とし込めていられているかといえば正直微妙ですね。イメージだけが先行していて楽曲が追いつけていない気がします。まだ一周しただけのファーストインプレッションなので、断定までしきれないが、過去作の傑作を考えればもっと作り込めることはできるはずなので、今後に期待したいです。けれどこれらは実力云々では片付けるのは少しもったいなく、最高傑作を更新してしまった前作『七号線ロストボーイズ』と比べたらという評価軸でありこれまでの全てのアルバムの中ではそこそこ頑張ってる作品だと感じましました。前回からさらに進化していく過程で恐らく9枚目か10枚目で今開拓している方向性でまた傑作が生まれてくると信じていますので、そのための第一歩として捉えるのであればかなりいい方向進んでいることは提示できていると思えるだけのアルバムとしては意義を果たしている。

個人的には歴代アルバムで傑作度順に並べるのであれば

  1. 『七号線ロストボーイズ』
  2. 『夕日信仰ヒガシズム』
  3. 『千年幸福論』
  4. 『世界収束二一一六」
  5. 『永遠市』
  6. 『ボイコット』
  7. 『地方都市のメメント・モリ

という感じですね。あくまでもアルバム全体の完成度であって、個々の楽曲をあげればまた変わってきますが。初日ということもあり時間が経てばまた『永遠市』における印象も変わるかもしれませんが、暫定的には「いまいち」という感じです。部分的にいい曲があるのはプロの仕事である以上、当たり前なのでそこに関しては一々触れる必要はないですね。全部書いた後に結構批判的だなとか、曲よりもイメージ感想が多いなと思ったのですが、それって、本作がしっかりとコンセプトと楽曲を美しく接続仕切れていないからなのかなと思ったり。『ボイコット』を考えた時のあのトラックリストと、『永遠市』というSFコンセプトでの今回のトラックリストを考えた時にどっちがより充実しているかと言えば間違いなく、『ボイコット』だと思います。まぁ好きなアーティストだからといって、好意的な文章だけ書くのも違うな、間違っていると思うところがあるので、こんな感じになりましたが、まぁ前作の非の打ち所がない傑作の後というのが良くも悪くも今作を微妙にしてしまった感は否めません。

というあたりで締めようと思います。では。

 

 

『キリエのうた』を鑑賞した感想

音楽ブログなので、映画の感想を投げるのも中々気がひけるのですが、本作は音楽映画とカテゴライズしてもおかしくはないので、「音楽映画」的な感じ感想を書くのは別に音楽ブログ的には全然ありだなと思ったので、雑多ではありますが、色々書きます。単純に今年は全くブログ記事を出せていないので、せめて小難しくなく誰でも気軽に読める程度の記事は出しておこうと思ったという理由もあります。

 

 

岩井俊二監督、音楽小林武史という絶妙な組み合わせの新作『キリエのうた』を最近見ました。タイトルからして、「はいはいミサ曲ね」って感じではあるのですが、これは『リリイ・シュシュのすべて』におけるドビュッシーの最初の奥さんの名前の愛称と二番目の奥さんとの間に生まれた娘の名前の愛称を繋ぎ合わせたものである、みたいな遠回しすぎるほどの文脈に比べればまだマシだとか、色々夢想したわけですが、映画そのものは、若干過去現在の描写の切り替え編集が個人的には微妙で、過去パートに少し冗長さを感じたこと以外は普通に面白い映画でした。そして本作には2017-2019くらいにヒットした曲がカバーするという形で流れてきます。タイトルを挙げなくてもこの年代にヒットした曲といえば皆さん大体察しがつくと思います。そして、出てる演者繋がりがちょっとしたヒントにもなってる。まぁそこはどうでもよくて、個人的になんでこれを見に行ったのかといえば、音楽が小林武史だから。『リリイ・シュシュのすべて』における『呼吸』

Kokyuu

Kokyuu

や、『スワロウテイル』におけるYEN TWON BANDの『Montage』

よろしくのKyrieのアルバム*1『DEBUT』

DEBUT

DEBUT

  • Kyrie
  • J-Pop
  • ¥2444

もあり、個人的には小林武史が紡ぎ出す音楽そのものに興味があったものですから、映画を見に行くというよりも「小林武史の音楽を劇場で聴きにこう」というテンションで臨んだのですが、まぁその意味では今回の『キリエのうた』の楽曲はそこまで刺さるものがなかった。時間が経てばこの感想も変わるかもしれないのだが。要因としてはこの手の暗鬱かつ、ハスキーな女性シンガーを軸としたものって、それこそ『呼吸』や『Montage』で散々やったからもういいよというのが大きい。無論、小林武史だからこそクオリティは非常に高いですが、申し訳ないけどこれくらいなら過去にリリースされた楽曲の方が完成度の具合には及ばない。これは大昔に出した拙作の小林武史プロデュースベスト盤記事でも書いたように、かなりクオリティの高い作品として自分は評価しています。

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あともう一つ、通常のギターver.のものを弦を使ったアレンジという手法もいい加減、聴き飽きた。これって、『小林武史-work I』における『to U』をpianoバージョンにした『to U (Piano Version)』でも見られた傾向。本作では『キリエ~序曲』が最終的に『キリエ・憐れみの讃歌』になるわけですけど、ここでやってることって完全にラヴェルの『ボレロ』だし、なんならMr.Childrenにおける『bolero』なわけですよ。アプローチが全くもって同じ。たしかに『bolero』のトラック1の編曲は中西俊博ですが、あのアルバム全体のプロデュースは当然小林武史なわけですから、意図としては小林武史が提示したものだと考えるのが普通ですし、それを裏付けるように今回の『キリエのうた』で歌曲と『ボレロ』を組み合わせている。しかし、これらは音楽だけを聴いた場合のみにおける感想であり、作劇との組み合わせでみればなるほどねとなることもある。

 

ラストにおいて、主人公キリエがストリートミュージシャンと路上ライブで、オーケストレーションのアレンジver.の曲を歌うのですが、そこで騒音だ、っていう苦情が入って、許可どり云々で主催者の責任者ともめ、結果的に許可書がなくて警官が制止しようとするも、それに気にせず周囲の楽器隊がメロディを奏でる中央で歌い続けるっていう構図があるのですが、ここで『ボレロ』を彷彿とされるものを流して、中心に主人公のキリエは構わず歌い続け、観客もいい感じに盛り上がるっていい感じの雰囲気が出るわけです。作中、主人公は幼少から現在にいたるまでキツイ環境と、面倒臭い人間関係の中で生き続けているわけで、基本的に喋れない、が歌は歌える。基本この設定で押し切ってるわけですが、踊りが得意で、幼少期自体はバレエを習っていたという設定もあるから、バレエにおける「ボレロ」文脈も当然あるわけです。これがラストに結実していると考えると中々巧妙で色々と効いてくるわけです。つまり、「ボレロ」的な感じで演出したかったのねと、ここで観客は初めてあの楽曲の意図するところを理解するわけです。あと側から見たら主人公の意思で色々な面倒なもの(本編では警官の制止を気にしないでという事が)吹っ飛んで歌を続けるという構図は、サブカル的に形容すると、主人公の意思=世界そのもの、みたいなというある種のセカイ系と称される感じもしなくはないが、その手の話は面倒なので、別の人に回すとしましょう。

アルバム『DEBUT』の中のトラックで一番よかったのは、『ずるいよな』と『虹色クジラ』『宙彩(ソライロ)になって』の3曲です。『宙彩(ソライロ)になって』とかは、それこそプロデューサーである小林武史感の色合いが十二分に味わえます。メイン曲として結構流れるの『キリエ・憐れみの讃歌』とか『名前のない街』も普通に良い曲ですが、ボーカルの癖の強さが楽曲の感覚を超越していて、正直そこが合わない。というよりもこれらの曲は映画における物語を通して初めて機能するタイプの曲なので、一楽曲として聞いた場合、他の収録曲と比べると少しだけ魅力が半減しているような気がする。ryo(supercell)と小林武史が組んだ唯一の楽曲『言葉にしたくてできない言葉を』も同様に癖の強い歌手の楽曲だったのですが、そこには癖が強いなりの説得力のある楽曲だったので、普通に聴けたのですが、あれは小林武史ではなく、ryo(supercell)のボーカルディレクションの賜物なのかなと。色々書きましたけど、小林武史音楽が聴ける映画としては普通に面白い作品です。作品の筋書きも変にこねくりました感じもない真っ当で分かりやすい物語です。

 

最後に

この映画を見て、斜に構えてでも面白い論評はないかと思って色々と探したら、鈴木敏夫Pが非常に的確な一文を出していてこれが案外面白い視点でした。

アイナは藤圭子に似ている。
ふたりとも世界を恨んでる。

藤圭子についての説明はもはや説明不要なので飛ばします。実際映画を思い出すと「言うほど恨んでいるか?」とか思わなくないのですが、感覚としてそういう風に鈴木敏夫Pには映ったというだけの話なので、そこに対する是非はともかくとして、そういう風に表現する視点自体は結構大事であると。映画プロデューサー以前に、鈴木敏夫Pは作品を良い感じに読み取る力は本当に面白いなと思います。

 

この記事を読んで少しでも気になった方は是非ご覧になってください。3hありますけどあんまり気にならない長さです。

 

 

 

 

 

*1:『DEBUT』というアルバム名も、小林武史のことですから、ビョークの1stのタイトル『début』とかけてたりするのでしょう。あと単純にデビュー作という意味合いも持つでしょうから、ダブルミーニング

ryo(supercell)の音楽性と作曲家論を考える part2(前編)

おおよそ一年前に投稿した

 

sai96i.hateblo.jp

 

続物記事を出すのはどうなのか、と自分でも思う所はあるが、まぁ当ブログにおいて間が開くというは当然なので気にしている読者の方が少ないと思いますので、そこに対する弁明はありません。というか、記事を出していないだけで別で4万字以上の文章を寄稿という形で世に送り出しているのでセーフです(謎)。

前回の記事は前座でしかなく、本番はこっからです。

今回からおもっきりアクセルを踏んでいく感じになります。極力誰が読んでも面白く、分かりやすい記事にしているつもりですが、偏愛が過ぎるところがあるかもしれませんが、それはそれ。あと、あくまでも素人目線記事ですから〜という予防線を。

 

この記事を開いたからには是非読んでいっていただきたいです。

それでは本編へ移りましょう。

 

・本編

ryo(supercell)は相当前ではあるが、自分を構成した10枚というのを挙げていた。

このブログではいい加減書いてきたわけだが改めてここで紹介します。

アーティスト/アルバム名という見方です。

さて、これらのラインナップを見てどう考えるかという話なんですが、最早全員が”なるほど”と手を打った状態であろう。

これを認識していると、そらこういうラインナップになるなわって話なんです。

そして、ryo(supercell)の作曲家としての略歴が見えてくるのですが、その前に軽くそもそも論を展開して、補助線を引いていこうと思います。

ryo(supercell)の*1生年月日は恐らく1979年10月21日です。

 

そう考えると、10代後半〜20代前期にリリースされたものが”ryoを作った10枚”の中で8枚もあるわけです。単にこのラインナップを”ryoを作った10枚”でみたら、「ああなんだ洋楽好きか」と片付けてしまいがちですが(4年前まで自分もそういった短絡的な落とし込みだった)、生年月日を踏まえると、"一番影響を受けやすい時期にリリースされた作品でryoが感動した10枚"と言い換えることができ、かなり含みがある意味になります。こうなると当然意味合いも変わってきます。先の10枚からは恐らく世代的な洗練という意味も込みで、絶対的な影響を受けているとみて間違いない。なぜそう思うか、という論旨展開をすると長話になりますが、まぁ端的にまとめるとセンスオブワンダー的に一番グッとくるタイミングだからです。ryo(supercell)の生年月日がわかったところで、ryo(supercell)の年齢別作曲家略歴について話を戻します。なお、実際に出来上がった時期とリリース日が違うことくらいはお分かりだと思います。流石にどれだけの信者といえど、実制作内部の事情は分からないので、その意味では数ヶ月〜年単位で差異があります。

あくまでもリリースされた日・発表日・一般公告された日を基準にしています。

※マイナーすぎるものはカットしています

・2007年

『きみをわすれない』/『メルト』(2007)-28歳

・2008年

『恋は戦争』-28歳(投稿日:2月22日)

『ワールドイズマイン』-28歳(投稿日:5月31日)

ブラック★ロックシューター』-28歳(投稿日:6月13日)

『初めての恋が終わる時』-29歳(投稿日:12月12日)

・2009年

1stAL『suprecell』-29歳(発売日:3月4日)

『午前六時』-29歳(発売日:4月29日)

君の知らない物語』-29歳(発売日:8月12日)

・2010年

さよならメモリーズ』-30歳(発売日:2月10日)

『こっち向いて Baby/Yellow』 -30歳(発売日:7月14日)

うたかた花火』-30歳(発売日:8月25日)

・2011年

2nd AL『Today Is A Beautiful Day』-31歳(発売日:3月15日)

Light My Fire』-32歳(発売日:11月16日)

My Dearest』-32歳(発売日:11月23日)

『Departures~あなたにおくるアイの歌~』-32歳(発売日:11月30日)

・2012年

ナイショの話』-32歳(発売日:2月1日)

僕らのあしあと』-32歳(発売日:3月7日)

The Everlasting Guilty Crown』-32歳(発売日:3月7日)

EGOIST 1stAL『Extra terrestrial Biological Entities』-32歳(発売日:9月19日)

名前のない怪物』-33歳(発売日:12月5日)

銀色飛行船』-33歳(発売日:12月19日)

ラブミーギミー』-33歳(発売日:12月19日)

・2013年

The Bravery』-33歳(発売日:3月13日)

All Alone With You』-33歳(発売日:3月6日)

拍手喝采歌合』-33歳(発売日:6月12日)

『好きと言われた日』-34歳(発売日:11月06日)

suprecell3rd AL『ZIGAEXPERIENTIA』-34歳(発売日:11月27日)

・2014年

ハートリアライズ』-34歳(発売日:3月12日)

The Glory Days』-34歳(発売日:10月15日)

『Fallen』-35歳(発売日:11月19日)

・2015年

『Great Distance』-35歳(発売日:5月20日)

BRAVELY SECOND END LAYER Original Soundtrack』-35歳(発売日:5月20日)

『リローデッド』-36歳(発売日:11月11日)

ニルバナ』-36歳(発売日:11月25日)

・2016年

KABANERI OF THE IRON FORTRESS』-36歳(発売日:5月25日)

『Welcome to the *fam』-37歳(発売日:11月23日)

・2017年

Deal with the devil』-37歳(発売日:8月23日)

『英雄 運命の詩』-38歳(発売日:11月1日)

『言葉にしたくてできない言葉を』-38歳(発売日:11月27日)

『メルト 10th ANNIVERSARY MIX』-38歳(発売日:12月24日)

EGOIST BEST『GREATEST HITS 2011-2017 “ALTER EGO"』-38歳(発売日:12月27日)

・2018年

リリースなし!!

・2019年

『咲かせや咲かせ』-39歳(発売日:5月16日)

センコロール オリジナルサウンドトラック』-39歳(発売日:6月29日)

『#Love』-39歳(発売日:9月11日)

・2020年

リリースなし 年齢:40,41

・2021年

『タクト』-41歳(発売日:10月5日)

・2022年

『君よ、気高くあれ』-42歳(発売日:10月9日)

・2023年

『当事者』-43歳(発売日:5月10日)

『笑ウ二重人格』-43歳(配信日:8月23日)

『運命と Struggle』-43歳(ゲーム配信:8月28日)

『I promise you』-43歳(ゲーム配信:8月28日)

・2024年

リリースなし

・2025年

リリースなし

・2026年

『Ex-Otogibanashi (月見ヤチヨ ver.)』-46歳

 

2007-2026年までの年齢別の作曲歴はこうなります。これをみると一見遅咲きでは?と考える人0.01220703125%くらいはいると思いますが、そうではなく単に巡り合わせの問題ですね。時代の適合性とでも形容すべきなのか。

 

いい加減わかっていた話ではありますが,2011-2013年の時期は最強の敵なし状態なのが凄いですね。全体的にみても佳作レベルがほぼなく、傑作揃いなのが作曲・作詞・編曲ryo(supercell)というクレジットブランドの凄さを物語っています。それはさておき「ryoを作った10枚」にあたらめて話を戻しましょう。

 

特徴的な2枚を起点にそれぞれ広げて、まず考えてみよう。

『Mezzanine』と『UMBRA』はアルバム的にもジャケ的にも恐らくジャンルとしては同じ組み分けとして考えいい。ここでミスチルのベスト盤のジャケを想起する人もまぁ若干数いるとは思いますが、あれは軽率なオマージュとしかいいようながないので此処に並べる必要性はないです。

右:Mezzanine 左:UMBRA

『Mezzanine』とが98で『UMBRA』が01年なので、当然『Mezzanine』の方がはやいのですが。massive attackの音楽性は暗鬱なエレクトロニカのクオリティって今聴いても信じられないくらい太く、それこそ時代を感じさせない圧倒的な名盤。ベース音やドラムの音の作り込み等が異端でトリップホップと言われる、ソウル、ジャズ、アンビエントを掛け合わせたようなジャンル体の開祖とも呼ばれているmassive attackの真髄ここにあり。という形のアルバム。対してブンサテの『UMBRA』は当然、『Mezzanine』とは意識していることは当然として

さきのryo(supercell)がいう当時のRadioheadよりも先鋭的というのは、当然リアルタイムで経験していないため、そこの意図は明確にはわかるはずはないのですが2001年当時のRadioheadディスコグラフィーを考えると丁度『kid A』(2000年)を出し『amneasic』(2001年)を出しているその時期のサウンド性を比べると、たしかにブンサテのほうがより鋭利的ではある節もあると思う。音楽好きが聴いて解る感性ではないからこそあの一言の異才というか、何言ってんだこいつ感がわかって面白いというのがわかるものなので、勘弁。その意味では、系統的トリップホップイズムに同じ『Portishead』はサウンド性よりもアルバム全体を構築する世界観強化型なので、こっちの方が、作品的には聴きやすいようにも思える。それに、ryo(supercell)視点だとRadioheadよりMuse推しということなんでしょうけれど、同じ英国バンドでも視野が違えば聴き方も違うものだと感じます。かくいう私もMuse派ではありますが。

 

また、英ロックバンドという意味ではMuseNirvanaが目立つわけですがここでMuseで『Sunburn』を選んでいるというのが相当歪と思いがち。なぜならアルバムの完成度でいうのであれば大方の名盤系では程度の差はあれ、『Origin of Symmetry』(2001年)『Absolution』(2003年)『Black Holes and Revelations』(2006年)の黎明から全盛期にあたるどれかで確立しているものだと思うし、自分なら当然『Absolution』を問答無用で選出しますけどその中でまさかのデビュー作。こういう選出ほど面白いのもない。確かに、『Sunburn』とそれ以降でMuseってなんか変わっている。よりクラシカルメタルといいいますか、ラフマニノフ系のメロディをつかったピアノロックサウンドに以降していた時期が丁度『Absolution』みたいなところがある(実際に引用しているトラックもありますし)。なので、その加減具合というべきか。よりダークというか先述したmassive attackPortishead的な香りが唯一あるアルバムとも言えるのです。リリースが丁度2000年ですし、そういう時代の雰囲気的なこともあるのでしょうけれど。

と思う、一方で、完成されすぎた作品よりもデビュー作における鋭い感覚の方が単純に好みなのではないか?という考え方もあります。これは所謂、全表現媒体に「デビュー作に全てが詰まっている」というものです。完成されすぎたものは美しいが、そこに至るまでの原点として一番最初の作品を好む人というのは決して少なくないと思います。

 

映画で例えてみましょう。スティーヴン・スピルバーグの監督作で観客が「完璧に仕上がった」と思える瞬間の一つとして『E.T.』(1982年)は必ず上がってくると思います。

本作の素晴らしさはやはりラストシーンの演出です。E.T.が宇宙船に乗って帰る際に、エリオットとその周辺の人たちとお別れをします。このシーンにおいて、エリオット意外の役者の演技は「良かったね。やっと帰れるね」というような微笑ましさを浮かべながら見送ることに対して、エリオット少年の表情は終始不安顔です。この対比をすることでE.T.が帰れることに対して、家族たちは良いものとして、悪意のない意味で「家に帰れるね。良かったね」という心象を映し出すことに対して、エリオットは自分が心を通わせることができる唯一無二の友人と形容しても過言ではないほどの存在が、自分の前から消えてしまうことに「悲しさ」という心象を写している。という空間があの短いシーンに発生しています。そして最後のカットは宇宙船が飛び立つ影響で風が舞い、カメラがエリオットの顔をアップして映画が終わるわけです。

 

正直自分は、あのクリーチャーのデザインがかなり苦手ではあるのですが、そういった好みの問題はともかくとして、このように演出的には文句のつけようのない作品はとても面白いし、だからこそ今でも映画史に残る傑作として世界中の人々の記憶に残っているわけですが、中にはその素晴らしさを認めた上で「でも俺は『激突』(1971年)が好き」「やっぱり『JAWS』(1975年)「いやいや『未知との遭遇』(1977年)でしょう』」

という人たちもまた多いわけです。話を元に戻しますと、これと同じ理屈で考えれば初期作を挙げる気持ちも全然分からないわけではないです。間違いなく先の3作も聴いているはずなんですよね。絶対に。それなのにどうして『Sunburn』なのかというのは本当に考え所。その理由で考えられる絶対的な一因は何か。どうも核心的なところまでは掴みきれない。

 

NirvanaからNevermindを選んでいる理由はryo(supercell)的にはこっちの方向ありでいいんだという意思の現れだと思います。

その意味では、世界で散々流行った(とされる)『あの音楽性がryo(supercell)の感性にも適合したと考えるのが普通です。まぁグランジのを記念碑的な作品であることを考えれば、のちにSmashing Pumpkinsが出てくるわけですが、そこから『Mellon Collie And The Infinite Sadness』を1枚チョイスしているあたり点から思えるのはこの2枚(『Nevermind』『Mellon Collie And The Infinite Sadness』を選んだのは(1979年を軸とした場合)1970年代後半~1980年代前半に生まれたryo(supercell)さんの10代、20代前半期に丁度合致するのでここはいわゆる世代的な流れとしては大いに納得がいくと思います。

 

part2前半はここまでです。最初は後半含めてって思ったのですが、分割方式をとった方が面白いものが書けるという安定性を取りたいので当ブログにしては全くもって珍しい分割記事の中ですら前後編を分けます。

 

では、後編をお待ちください。恐らくそのうち上がると思います。

 

*1:生年はあくまで推定であるが差異はあっても1-2.5年が限界

EGOIST『当事者』の歌詞の母音の流動性について

別に『Psycho-Pass Providence』(二〇二三年)における作中の常守の心情を表した歌詞の重みとか、そういった話ではない。ryo(supercell)の歌詞の母音の追求力の果てが見え、chellyの母音の発声の強さがより明確にみえたという話です。

当事者

当事者

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この時から歌詞の流動性の異常性には気づけてはいたのですが、中々切り出し方が難しく、出すのが遅れてしまった。本来であれば公開日あたりに出したかったのだが。

ryo(supercell)については記事として2回特集し、尚且つ諸事情あって、第一回のみで停滞しているものの音楽総論シリーズが進行中であるため、省く。

 

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(一層のことryo(supercell)のことだけを語っていたいという中の人の気持ちが強い)

以前アニソン派で堀江晶太が歌詞を作るのが苦手であるという発言があった。

当記事のレポ記事より

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田淵:ベビレでは作詞の才能をやっているが才能があったのでは? 作詞はやりたかった? 
堀江:やりたくなかった。作詞は恥ずかしいし、言いたいことないな。こういう音楽がしたいという表現に歌詞というのもなかった。なんで書いたのかまぁ仕事としてで、そこから作詞というものに向き合ってなるようになった。

田淵:実際やってみてどうか
堀江:大変。一番カロリーが高い。メロディ、アレンジは「こういう感じ」というのが分かるけど作詞は一番無からの状態だから苦手。

あれだけ(どの楽曲群を指しているのかは読み手の好みに任せます)の歌詞を書いてきた堀江晶太ですら、歌詞が苦手である事実。これは歌詞そのものを作ることの難しさを表しているが、その次の段階になると恐らく歌詞と楽曲のバランスというのを一度は考えるはずである。尻切れ蜻蛉のような言葉運びだと、楽曲がださくなってしまうためどんなミュージシャンであっても絶対に一回以上、言葉選びには気を使うはずでありそれはアマチュアでも多分変わらない。

これはフォロワーのツイートだが、凄くいい点をついている。韻のバランス。

今回取り上げる『当事者』ではかなり韻を踏んでいるのだが、非常に拘りを感じられる場面がある。そしてそれはボーカルディレクションに相当気を遣われたことからも明らかであるといえる。

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「当事者」という楽曲は、音作りやボーカルワークを含め制作の段階でたくさんの試行錯誤の上できあがった作品です。
ブレスの位置などの技術的な部分でのディレクションいつもよりだいぶ細かく入ったのですが、この歌詞を前にしてそんな理屈くさいものは不要では?と思ってしまうくらい、

基本的にどの節をとってもその細かさを感じることができるが、これが最も顕著に現れているのはこの一節であると考えられる。

あとどれだけ理性を保っていられるのだろう

歌唱では「あとどれだー/けりー せいをたも/っていられるのだろう」という区切り方をしている。一文として読む分には誰にも分かる歌詞であるが、それが歌になるとこのような異質さが現れてくる。つまり、歌詞をそのまま楽曲に載せるのではなく、単語を崩してまでも母音の流動性を意識することで、崩すことで歌詞としての違和感をもつものの、それを打ち消す形ですんなり聴けるという楽曲に仕上げている。先の歌詞をローマ字で書くと

atodoreda/keriseiwotamo/tteirarerunodarou

となる。そして更にここら母音を抽出すると

a(t)o(d)o(r)e(d)a/(k)e(r)i(s)ei(w)o(t)a(m)o/(tt)ei(r)a(r)e(r)u(n)o(d)a(r)ou

aooea/eieioao/eiaeuoaou

となる。母音すると最後のeiaeuoaouの区切りがとても目立つ。

「っていられるのだろう」という所がとてもきめ細かい。tteという小さい「っ」から始まるところからして異質である。

 

そしてchellyの歌い方が母音の発音が強めであることがわかる。それが顕著な一節が

遠くで聞こえる罵声と絶叫

人はこんなにも美しいのに

前者の場合罵声の発音がどうも自分にはbaseiとzekkyoという感覚に陥る。そのため初回オンエア時はaseitozekkyoというふうに聞こえていたせいで歌詞が掴み取れなかった。後者の場合

hitohakonnanimoutukusiinoni

という発声の中でもhitohaのaに入るタイミングがパッと<↑という感じで急に上にスライドするように発声が強めになる。

 

今回の曲調はこれまでのEGOISTの楽曲、というよりもPSYCHO-PASSとはテイストが明らかに異なっている。テンポは『名前のない怪物』や『Fallen』のような速さではなく、だからといって亀田誠治サウンドワークスの傑作椎名林檎の『ギプス』よろしくの『All Alone With You』といったボーカルの持つ歌声に力点を置かせたバラード調とも言い難い。何方かと言えば歌詞を強調させる&母音を強調させるために敢えてローリズムという感覚がある。この時点で量産型な邦楽ではないというryo(supercell)の確固たる意思を感じてならない。今更ながらだが、ryo(supercell)supercell)が洋楽厨であることはいい加減しられており、その感覚はこれまで発表されてきた楽曲からも何となく察することができる人も多いはずだ。しかし今回の『当事者』は明らかに洋楽的な作り方を意識された楽曲であると、先の母音の区切り方からして、誰もが感じるはずだ。

ラジオで最速オンエアされたものを繰り返し聴いていた時、最初の1,2回目では歌詞がわからなかった、と言うよりも歌詞をみて初めてどういう歌詞を歌っているのかを理解することができた。そういう現象は今回が初めてではない。ryo(supercell)の楽曲を聴いていると時たま歌詞が聞き取れないことがあるという体験をした人も少なからずいると思う。

ここでいつくか他のEGOIST楽曲の歌詞を挙げる。

その1.『Fallen』より

Fallen (from BEST AL“ALTER EGO”)

Fallen (from BEST AL“ALTER EGO”)

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隣でそれは歌い出す What was I  born for ねぇ私を愛して

この場合は「歌い出すWhat〜/was I born for/ねぇ私を愛して」という区切りになる。what(母音がaなので繋げやすい)の入れ方、端的に言えば「歌い出すあー」という切り方でwを少しだけ入れることで成立させている。からの「ねぇ」に至るまでの過程があまりに綺麗な流れ。しかし一回聴いただけでその区切りに気づける人は大凡いないであろう。

その2.『The Everlasting Guilty Crown』より

The Everlasting Guilty Crown (from BEST AL“ALTER EGO”)

The Everlasting Guilty Crown (from BEST AL“ALTER EGO”)

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希望を灯はやがて消えていく 「灯をよこせ」と奪い合い

実際の歌唱では

希望を灯はやがて消えていく/「灯を/よこせ」と奪い

という風に区切られている。この場合は歌詞そのものは聞き取れるが、灯という単語を先の置いた上でその先の歌詞を展開させる手腕もまた歌詞の流動性を意識しているに他ならないと考えられる。

 

『当事者』以前の例を挙げも切ないが、以前から実際の歌詞と、歌唱における歌詞とを比べると、歌う時には意識的な崩しが入っているが分かる。

ではこの区切り方は何であるかと言えば洋楽のポップスでは割とありがちだなとはおもうのですが、中でもジャスティン・ビーバーのような

Intentions (feat. Quavo)

Intentions (feat. Quavo)

  • provided courtesy of iTunes

この辺りは実際にryo(supercell)にどこまで凝っているのかを聞いてみたい所だ。

英語における音(アクセント)とリズムというのはまた別途に考えたいところではある。英語といっても国によって発声の違いというものは当然ある、故にアクセントの違う人たちが歌う英語もまた、違ってくる。その感覚についてはいずれ。しかし聞くところによると北米のアクセントは面白いと言われている。そしてジャスティンビーバーもカナダ人なので、北米のアクセントならではの魅力があると考えることができる。そこら辺を起点として書くことができればいいなと思ってます。

 

本来洋楽的なアクセントを邦楽でやるような楽曲が存在するだけでも*1恐ろしいなと思ったので記録的な意味合いも兼ねて書きました。今回は歌詞の母音というどこに需要があるのかがわからない題材をテーマに書いたが目新しいものでもなんでもないというのが本音だ。ryo(supercell)のボーカルディレクションについては一般ツイートでも検索をかければ割とヒットするし、やなぎなぎを起用している麻枝准なんかはその凄さをずっと前から見抜いていたし、ツイートでもその趣旨を明かしている。ようは分かってる人には当然、というよりも何を今更という話なのです。

つまりありふれネタなのだが、『当事者』というある種決定的な楽曲が発表された以上、末端のブログで書き起こしてみるのも一興かと思い書いたまでです。

それではこれで終わりたいと思います。

※別途で気づいた点があれば、随時追記していきます。

*1:自分が知らないだけで多分前例も0ではないと思うが

没・シャフト寄稿文章 

まずは、参加した方々はお疲れ様でした。また、「もにも〜ど」に関わった全ての人に感謝の意をここで表明したいです。本当にお疲れ様でした。特に主宰者であられるあにもにさんには最大限の感謝の意を示したいと思います。本稿の感想はまだ来ていませんがどのような感想が来るのかが楽しみです。

存分に咀嚼し、見て、聴いて、考えてください。

全体の俯瞰をした上でない混乱すると思うので本記事は本稿を読んだ後に閲覧することをお勧めします。


 

この記事では本原稿には載らなかった部分の一部を供養として載せます。

カットして正解だねっていうものばかりですが、一応こういう文章も当初は入っていました。というある種の補完部分を成すものです。

初稿の全てはあにもにさんしか読んだことがないですが、一種のサービス精神でそこからも幾つか出しています。そして、リライト以後に追加文章として書いたけれど採用されなかった文章も載せています。言うまでもなく文面が拙いほうが前者で、ちゃんとしているのが後者です。原稿と併せて読まないと何が何だかよく分からないと思いますが、本記事はあくまでも合同誌を買った人が補足事項として読むための記事です。その点についてはご了承下さい。

 

本稿を読んだ方であれば本来どこに入るはずであったかは分かると思うので順番はバラバラです。

以下 NG原稿集

 

・冒頭の件

共通してアダルトゲームではあるが、虚淵玄の元々の活動場所はアダルトゲーム界隈であり、その業界にて重厚な純愛ゲーム『沙耶の唄』、仮面ライダーと吸血鬼との混ぜ合わせとしての『吸血殲鬼ヴェドゴニア』、愛する西部劇を我流に落とし込んだ『続・殺戮のジャンゴ』等を発表したことで名を馳せた人物であるからこそ、そうした作品群を参照している可能性が高いと言う意見。或いは『紫色のクオリア』(著:うえお久光)との類似性、『銃夢』(著:木城ゆきと)におけるインキュベーター区画の引用、そして何よりも早川の青背の諸作品、とりわけグレゴリー・ベンフォードの『大いなる天上の河』から『輝く永遠への航海』に描かれる有機生命と機械文明の物語が影響しているといった読みがある。或いは、全体的にキリスト教のテーマ性が感じられるといった大雑把なでありながらもモチーフからそういった宗教観の考察などを多々見る。

 

・ドイツ文学とクラシック音楽

ベートーヴェンの弟子とされ、古典派に傾倒しつつ、現在では初期ロマン派を代表する作曲家フランツ・シューベルトゲーテの『魔王』(一七八二年)に触発されて書いた『魔王(一八〇五年)』のように、中期ロマン派を代表するロベルト・シューマンは大変な読書家で中でもゲーテは勿論のこと、ETAホフマンに傾倒しており、『クライスレリアーナ ピアノのための幻想曲集』(一九三八年)に発表していますがタイトルにあたるクライスレリアーナの部位はETAホフマンの音楽評論集のタイトルからの引用をしていますし、同じくETAホフマンの『牡猫ムルの人生観』に登場する宮廷楽士クライスラーとの共通性もあります。後期ロマン派のリヒャルト・ワーグナー、そしてなによりピョートル・チャイコフスキーバレエ音楽くるみ割り人形』(一八九二年)の作風に影響を与えており、そのチャイコフスキーの音楽の熱烈なファンであったのがセルゲイ・ラフマニノフという流れに繋がります。それ以外にもフランスにおけるロマン派音楽の影響なども推察できます。ラフマニノフとフランスロマン派音楽については次項の『まどか☆マギカ』におけるロマン派音楽との繋がりを述べた後に論述していきます。

 

 

・『叛逆の物語』と『くるみ割り人形』について

『叛逆の物語』の最終場面では左側に「Countory of Sweets」(原文ママ)右側に「GooD Moring」という文字が看板に書かれている場面がある。直訳すると「お菓子の国」と「おはよう」という意味になる。「お菓子の国」は人形の国を指している。『くるみ割り人形』の世界においてもお菓子という単語は幾度となく登場することからも、それは明らかである。他方「おはよう」というのが何を指しているかはバレエ版の『くるみ割り人形』と原作との差異を考えれば明らかである。原作版とバレエ版との大きな違いは主人公がマリーからクララに変わっている事と、結末にてクララが朝に目覚める事で、それまでの経験してきたことが夢であり、現実に帰るという締め方をしているのだ。つまり「おはよう」というのは朝の目覚めのことを指し、現実の世界に戻ったことを指し示している。

 原作の展開でも一度は現実に戻り、それまで体験したことが夢であったという描写がある。しかしくるみ割りの人形にある真意を伝えることで、「人形の国」へ誘われることになる。マリーの告げた真意を知ったことで、くるみ割りの人形が実は呪いをかけられた存在であり、それがマリーによって告げられた真意の言葉によってドロッセルマイヤーという青年に戻り、その感謝の恩恵としてマリーは王妃となり「人形の国」の主となるところで終わる。こうした背景を踏まえた上で『叛逆の物語』における二つの看板の意味を考えれば明確に原作とバレエ版それぞれの『くるみ割り人形』の結末を隠喩として表現していることが分かる。

 

・ドイツ文学と原作版くるみ割りの大事なエピソード(真意)について

ディズニーの『ファンタジア』(一九四〇年)の有名な一編にあたる『魔法使いの弟子』の原案もまた、ゲーテの著作である。閑話休題。ドイツ人による作品をロシア人が音楽として翻訳するという意味では、チャイコフスキーの『くるみ割り人形』や『白鳥の湖』も同様であり、作中の舞台はドイツである。『叛逆の物語』(二〇一三年)におけるくるみの砕く描写がありますがあれは、原案におけるETAホフマンの『くるみ割り人形とねずみの王様』(一八一六年)からの影響。作中内で語れる御伽噺として『かたいくるみの話』があります。この話はピルリパート姫がねずみの女王マウゼリグンスの呪いにて醜いくるみ割り人形になった王女。王女が元の姿に戻る方法は固いくるみクラカーツクを割りその中の実を食べることとされており、そのクラカーツクを割る人物は人形細工師であるドロッセルマイヤーの息子。彼のおかげで実を食べることができたピルリパート姫は元に戻るが、マウゼリングが突如現れ今度はドロッセルマイヤーの息子に呪いがかかってしまうというものです。これを踏まえると『叛逆の物語』(二〇一三年)におけるクルミを砕くという描写の演出意図が何を指し示すのかは明白であり〜

 

・ドイツ文学とデビルマンからまどマギを解く

美樹さやかの運命を再考する。『若きウェルテルの悩み』では、ウェルテルはシャルロッテに恋をするが、シャルロッテにはすでにアルベルトという婚約者がいて、ウェルテルはそれに悩み、ついにはウェルテルはアルベルトより護身用という名目で借りた銃で自殺を選択するまでの物語である。『まどか☆マギカ』では、これを男女逆転させた形で描かれている。美樹さやか、上条恭介、志筑仁美の三角関係性は決してよくあるメロドラマの構図として描かれているわけではないはずだ。本編において美樹さやかはこの関係性で絶望し、魔女になりその果てに去っていく。この美樹さやかのあまりに切なく、陰惨なドラマは『まどか☆マギカ』世界における魔法少女の論理的な設定から生まれる必然的な帰結を設定したこと。意識的に永井豪の『デビルマン』における牧村さやかの惨状を見事に踏襲させたことの他に、文芸性としてのゲーテイズムの3つが重なったからこそ演出できた物語であると言えます。魔女の名前からの読み解くとシャルロッテ、アーデベルトの由来も恐らくは『若きウェルテルの悩み』と考えられる。その他音楽作品にまつわるゲーテの作品で最も有名な作品はシューベルトの『魔王』であることは誰もが納得がいくと思います。以上の作品・作家が『まどか☆マギカ』の紡ぎ出す世界観や話の源流として数えることができる。それらは先述の通り音楽史観として『まどか☆マギカ』との繋がりを考えた時『魔法の音』と、それらに関連する人物たちが重要な役割を果たしていることは制作陣が意識的に演出の一環として取り入れているように思えます。こと、音楽として考えた時に印象派やロマン派としてのクラシックの音楽要素を作劇の音楽に忍ばせているとみてまず間違いない。シャフト作品における様々な古典ものを取り入れ、それを現代のアニメに取り入れるという実験性があらゆる要素と適合した作品こそが『まどか☆マギカ』に収束され、結果的に新規軸をもたらすエポックメイキングな作品になったことはその後数年ではあるが、後発として続いたフォロワー作品の数々が証明しています。

 

 

・レーナウのファウストとヴァイオリンの特性

そもそも上条にヴァイオリンを持たせた理由は何だろうか。なぜ他の楽器ではいけなかったのか。これは作中の世界観からヴァイオリンの持つ特殊性が関わっているのではないか。例えばポーランドには「悪魔のヴァイオリン」と称される楽器があるが、これは弦楽器ではなく打楽器であり、儀式として悪魔祓いに用いられる。また、悪魔に魂を売ったと呼称されるパガニーニの存在もまた無視できない。これらに共通しているのは「悪魔」である。パガニーニに触発された著名な音楽家としてリスト・シューベルトシューマンベルリオーズラフマニノフを挙げることができるが、先述の通り、彼らはいずれもロマン派の音楽家であると同時に文学から触発された作曲家と言う意味で共通している。中でも特筆すべきはリストが『レーナウの「ファウスト」による2つのエピソード』(一八六一年)を作曲しているという点だ。第二曲のタイトルにもなっている『村の居酒屋での踊り』ではメフィストフェレスがヴァイオリンを楽士から奪い、演奏し周囲の人々を感嘆させる。つまり、ここではヴァイオリンが人を誘惑する楽器として登場するのだ。ヴァイオリンは悪魔という属性に近い魅力を持つ楽器でありだからこそ物語の仕組みとしてファウストの文脈を持つ『まどか』の作品内において、一つの隠喩としての表現として上条の楽器としてヴァイオリンを採用したのではないかと考えることができる。

 

2001年宇宙の旅における音楽の対位法

『二〇〇一年宇宙の旅』という作品は全体的に監督が意図的に説明を省いているおり、それ故に謎が謎をよび、挙句最後にはスターチャイルドで締められ、初見だけでは全くもって解るはずもない不思議なシネラマ映画です。明朗快活とは程遠い本作にてどこに対位法が使われているかを判断するのは難しいのですが、冒頭の人類の夜明けと呼ばれるシークエンスにて猿人がモノリスを触ったことで知性を得た結果、骨を武器として使う描写があり、その後その骨を空高く投げるとそこから宇宙のシーンへとジャンプします。本来視覚的に繋がらないカットを似たような構図・被写体を映すことで時間経過の表現技法であるマッチカットが使われていますが、ここで骨に対比する構図として核爆弾衛星が映るカットがあります。一見、ただの宇宙船と見間違えそうですが、あれは核爆弾衛星です。そこで流れている音楽がヨハン・シュトラウス2世が作曲した『美しき青きドナウ』。つまりこのシーンにおける対位法というのは前のカットにて猿人がモノリスによって知性を得ることで武器を使い動物を殺めることを覚え、その骨を投げるカットから核爆弾衛星でマッチカットをし、宇宙のシーンへと移行させることで数百万年後の進化を経て、人類は核爆弾衛星を開発し、それらが宇宙を飛んでいるという構図をもった非常に恐ろしいシーンであるにも関わらず、音楽はまるで優雅な宇宙の旅をしているかの様に錯覚させる『美しき青きドナウ』が流れているということです。説明がされない上に、映画を隅から思慮しなければ分からないので不親切さではありますが、演出意図・シナリオを考えた上で映像を見ると実は雰囲気で流れていると思っていた『美しき青きドナウ』こそ、画と音における対位法の効果を持っていることがわかります。『二〇〇一年宇宙の旅』はアラン・ハチャトリアンのバレエ組曲『ガイーヌ』第一組曲アダージョ、ジェルジ・リゲティの『Ligeti : Requiem : I Introitus』『Requiem II.Kyrie』『Lux aeterna』『 Atmospheres』『Aventures』そしてなにより本作を象徴する楽曲であるリヒャルト・シュトラウスの『ツゥアトラストラはかく語りき』など、様々な意味においてその場に適合した音楽を引用しています。それらが画と混ざり合う瞬間に生まれるダイナミズムを生み出すことで受け手の心情に強烈な視覚的体験を演出させるという意図があったと推測できるため、『美しき青きドナウ』も画にあった音楽として引用という解釈もでき、本来はメンデルスゾーンの『真夏の夜の夢』(一八二七年)よりスケルツォが使用される予定であったということからも、場にあった雰囲気の音楽をつけることが想定されていたと考えると単なる偶然の一致であるが、その方向で考えても結果的には対位法としても読み取れるシーンにもなった。

 

時計仕掛けのオレンジに対する紹介文

同じキューブリック作品より『時計仕掛けのオレンジ』という作品においても対位法のアプローチが使われています。本作は『二〇〇一年宇宙の旅』よりも明快なシーンで流しています。アンソニー・バージェスが書いた原作のラストエピソードを抜いた米バージョンを映像化したものであり、お話としての過激さ・風刺さが目立つ分、『二〇〇一年宇宙の旅』と比べると幾分かは分かりやすい作品です。本作の主人公である非行少年アレックスは様々な残忍な行為をしたのちに、遂には警察に捕まるのですが、そこで更生の名の下にルドビコ療法という治療を受けることになります。

 

エヴァにおける音楽の対位法について

新世紀エヴァンゲリオン』というアニメはテレビ版の時より全体的に映像をより効果的に映える仕掛けとしてベートーヴェンの『交響曲第九番ヘンデルの『メサイア』バッハの『無伴奏チェロ組曲』を、また劇中以外にも取り入れており旧劇と呼称される二部作の作品のうち、一部目の『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 シト新生』の予告編ではヴェルディの『マンゾーニの命日を記念するためのレクイエム』より『怒りの日』の部分を流すといった大胆な手法もとっています。この演出は自体も影響下の流れとしてキューブリック作品をはじめ『二〇〇一年宇宙の旅』以後何作かそれに準じた観念的なSF映画の潮流の一つにあたるジョン・ブアマン監督作品のカルトSF映画『未来惑星ザルドス』(一九七四年)において同じベートーヴェンの『交響曲第七番』が流れているためそのような作品群から影響を受けたものと推察することができます。他の見方として、日本の特撮作品『ウルトラセブン』(一九六七〜一九六八年)の最終話『史上最大の侵略(後編)』にて諸星弾がヒロインの役割をもつアンヌ隊員にウルトラセブンであることを告白をするシーンにてロベルト・シューマンの『ピアノ協奏曲イ短調』が流れる演出からの影響を指摘することもできますが、最終回の放映時期は一九六八年九月八日。『二〇〇一年宇宙の旅』の日本公開は同年の四月十一日であることから、特撮でなおかつSF物を作っていた『ウルトラセブン』の制作陣の誰かが『二〇〇一年宇宙の旅』を見て触発されたという可能性もある。つまり順番としては『二〇〇一年宇宙の旅』を挟んだ上での『ウルトラセブン』という図式で枝葉が流れていったと考えたほうが自然ではないかと思う。閑話休題。アニメ作品においてクラシックの引用をすることでシーンを魅せるという手法は今でこそ当たり前になっていますが『新世紀エヴァンゲリオン』がその効能を初めて視聴者に提示しそれが大反響を呼び評価をされたと最初の作品であると言えます。そういった作品が劇場版のリメイクでは先の『今日の日はさようなら』や『翼をください』(作詞:山上路夫、作曲・編曲)を対位法として、最上級の使い方を用いてアニメ視聴者により衝撃を与えたという意味で『新世紀エヴァンゲリオン』は映像と音楽をそれまでの前例以上に巧みに扱ったお手本のような映像作品であると言えます。高見広春原作の『バトル・ロワイアル』(一九九七年)が深作欣二監督の手によってに映画化された『バトル・ロワイアル』(一九九九年)の予告編です。『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 シト新生』と同様にヴェルディのレイクエムを流しています。『バトル・ロワイアル』(一九九九年)の場合はモーツァルトの『レクイエム』を併せていますが4年前に『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 シト新生』が公開されていたことを考えると余波として影響を受けていたと言えることもできます。最も『バトル・ロワイアル』におけるヴェルディの引用は作中における"中学生同士の殺し合い"という内容に相応しい荘厳さを象徴するこれ以上ない楽曲であること、そして深作欣二監督が当時70歳を超えた熟練した巨匠監督であること、そして『新世紀エヴァンゲリオン』以前に岡本喜八監督の作品『ブルークリスマス』(一九七八年)の予告編にてヘンデルの『メサイア』が使われていることから実写映画における音楽の使い方をアニメに持ち込んだ時期と『バトル・ロワイアル』の時期が同時期に重なったという見方が高く、偶然の一致と考えるほうが自然ではありますが、少なくとも『バトル・ロワイアル』(一九九九年)以前にヴェルディのェルディの『マンゾーニの命日を記念するためのレクイエム』の『怒りの日』の部分を引用した予告編の映像を作っていたというのは相当なインパクトを持っていたと言えます。

 

・音楽の聴き方の変容について

このように音楽自体のジャンルの変容に加え、時代が変容し、時代とともに録音技術などの発達を通して二十世紀以降はクラシック音楽における聴衆の在り方まで変わった古くは二〇世紀後半にかけてカセットテープやレコード、そしてCDといった固形物化したものが音楽の聴き方の主流となり、なった。しかし二一世紀今では現在では、固形物化したデータとのものではなく、膨大なデータベースとデバイスとでネットワークによる同期を通じたサブスクリプションが主流となった。生演奏というものは今でも形式として存在するが、決してメジャーな在り方ではない。これらの現象はヨハネス・グーテンベルグが印刷技術を確立した以前以後とでは紙面における扱いというものが根本的に変わったのと同様である。

 

・フランス詩学からの印象派としてのドビュッシー作品について

完璧で理知的なものを目指す高踏派の文章と象徴主義の作風に傾倒した音楽家こそクロード・ドビュッシー。彼の代表作の一つにあたる『前奏曲』(一九三〇年)の八曲目にあたる『亜麻色の髪の乙女』の題目はルコント・ド・リールからの引用であるし、ドビュッシーの歌曲の大半がバンヴィルの作品と幾つかのボードレールの作品で占めている。

 

プロイスラーの紹介部分

一般的には『クラバート』で知られているオトフリート・プロイスラーの〜

 

忍野忍の魅力について言及した部分

影というテーマをメインにしたハンス・クリスチャン・アンデルセンの童話としての『影法師』。そしてこのテーマにおいて欠かせない作家としてバルザック。人間の本質、欲望、精神を緻密に描写者することに長けていた小説家であることは人間喜劇の作品群からわかるであろう。日本人として親しみのある例としてあげるのであれば水木しげるの『ゲゲゲの鬼太郎』におけるねずみ男。生々しい人間の欲求の塊のようなキャラクターであるが、作者の水木しげるが一番気に入っているキャラクターでもある。つまりヒーローとしての鬼太郎だけでは都合の良い世界でしかありえないからこそ、それを打ち消す形として存在している。そういった文脈のキャラクターである。

 

・話の流れで虚淵玄について言及した部分

虚淵玄という脚本家の作風は小説の世界では大まかには六〇〜八〇年代に代表される地球そのものが異界という捉え方をするニューウェーブからウィリアム・ギブスンが提唱したサイバーパンク以後の海外SFの流れ、やクライブ・カッスラーなどの冒険小説やスティーブン・キングクトゥルフ小説の流れを汲んでいる作家であり、ペンネームでさえもスティーブン・キングクトゥルフ作品『クラウチ・エンド』から命名されたものとも読み取れる。もう一つが海外映画の流れ、それも大作主義の映画よりも『リベリオン』(二〇〇二年)『サルート・オブ・ザ・ジャガー』(一九八九年)『ジャッジ・ドレッド』(一九九五年)『ドニー・ダーゴ』(二〇〇一年)のような癖が強いカルトタイプのSF・アクション映画を好み、路地裏にて喧嘩を始める描写や銃を使ったアクション作法は菊池秀行の書き方・描写からの転用であり、そして日本漫画の影響が強く、文学あがりと言えるタイプではないが、それが故にアニメ的に面白い作品を手がけることのできる稀有なシナリオライター

 

・クインシーの流れで書いた一種の文学の流れ

 

この九年間前に発表された小説をベルリオーズが影響を受け、やがてはそれが『魔法少女まどか☆マギカ』(二〇一一年)に直結するということを説明するために本題から一度脱線し文学潮流の相互性を確認する必要がある。ド・クインシーーは『アヘン常用者の告白』(一八二一年)にて多大なる影響を及ぼした。その一人がアメリ幻想文学の大家エドガー・アラン・ポー。現在における探偵像、いわば紳士としての像を確立したという意味での元祖となった推理小説や後のラヴクラフトスティーブン・キングへとその文脈は引き継がれていくホラー・怪奇ものを展開した。その影響下にボードレールを中心としたフランスの詩人がいることはもはや説明する必要はない。ではポー以前、つまりは上にはどういう人物がいたのかというと、先述のド・クインシーや探偵小説の原点にあたる『ケイレブ・ウィリアムズ』でお馴染みのウィリアム・ゴドウィンといった英国作家とドイツ文学、とりわけETAホフマンからの影響が濃いとされる。ド・クインシーが主に活躍した時代は一八二一年から一八五三年。一方ポーは一八三〇年〜一八四九年と時期的には被る。その中でポーが主に英国文学におけるゴシックホラーを意識したというのは『ブラックウッド風の作品の書き方』という短編を出していることからも明らかでありその中でド・クインシーの『アヘン常用者の告白』(一八二一年)についての記載がある。一八二一年から一八五三年。一方ポーは一八三〇年〜一八四九年と時期的には被る。ウィリアム・ブラックウッドという出版業者を指します。一八一七年に『エディンバラ・マンスリー・マガジン』を創刊し、これがのちに『ブラックウッズ・エディンバラ・マガジン』となります。そこにド・クインシーも『芸術の一分野として見られる殺人について』(一八二七年)などを寄稿していたことで、それらの著作にポーが感銘を受けたという流れになる。その後ポーは『大鴉』(一八四五年)を発表し、そこに熱狂し、可能性を見出した人物がボードレールであることを考えればボードレールと同時期に生きたベルリオーズゲーテからの着想で楽曲を作っているようにド・クインシーの『アヘン常用者の告白』(一八二一年)の諸要素に影響を受け幻想交響曲(一八三〇年)の一連の物語を作っていると考えてまず間違いない。簡易に纏めると『アヘン常用者の告白』(一八一二年)などの作風に影響を受けたエドガー・アラン・ポーが『大鴉』(一八四五年)などを通して広め、そこに浸透したボードレールが後のフランス詩学の運動を先駆けとなり、デカダン派、高踏派、象徴主義へと展開。

 

 

ベルリオーズ幻想交響曲に関するエピソード

『断頭台への行進』というタイトルをフランス作曲家がつけるのはマリーアントワネットの最期を思うと発想という意味では不思議ではない。クリエイターが時代背景に影響を受けるのは世の常ですし、実際フランス七月革命の十周年記念イベントの音楽を政府の依頼によってベルリオーズが手掛けて『葬送と勝利の大交響曲』(1840年)という楽曲を残した。第五章のタイトルはどちらをとっても魔女、ワルプルギスという世界から成り立つため重要な作品と考えられる。そもそも話として『ファウストの劫罰』(一八四六年)を作っていたことからベルリオーズもまたゲーテからの影響を受けていたことは間違いない。こうした標題に加え物語が実に興味深い。病的な感受性と想像力に富んだ若者の音楽家が恋の悩みによる絶望の発作にてアヘンによる自殺を図るが、致死には至らず、眠りについた若き音楽家が摩訶不思議な幻想を見ることに、それらの観念が音楽として現れるというものです。これらの物語はベルリオーズの実体験を落とし込んだとされており、ベルリオーズはある時シェイクスピアの『ハムレット』の劇を見て、その時劇中に登場するオーフィーリアの主演はリエット・スミスソンに恋焦がれるが思いが届かず、失恋を体験から生まれた物である。最も、その後は成就したものの破局という現実は無慈悲であるという一途を辿ったのだが。

 

物語シリーズの演出言及

最低の情報量にしぼり、それ以外は省略の限りを尽し徹底して最小限のカットにて構築されており、まるでクレショフ効果作用を誘うような手法であると考える。こういった手法はアメリカのディズニー映画やフランスのフライシャー兄弟の時代に遡ってもあまり例をみない。唯一それに近い作劇をしているのはロシアのアニメ作家であり、『霧野中のハリネズミ』や『話の話』などの傑作で知られており、エドワード・ゴーゴリ原作の『外套』のアニメを長きに渡り作り続けていることで知られているユーリー・ノルシュテイン。彼の作品的とも形容することは可能であるが、それも実に表層的な側面だけに類似点が見出せるだけであり、大部分の演出には大分差異が生じる。

 

・ライトモチーフについての言及

このライトモチーフは非常に音楽的に象徴的な意味合いを持つため映画音楽においてもしばしば用いられる。フランシス・フォード・コッポラ監督作品『地獄の黙示録』でヘリコプターのシーンにてワルキューレの騎行第三幕が流れるのも当然そう言った意味合いが含まれており、ヘリコプターをワルキューレの戦士のように見立てる演出的な意図がある

構成する42枚について

シャフト批評の寄稿記事をずっと書いていたおかげで、随分と音楽ブログを蔑ろにしてしまった感じがあるので、休憩記事として本来あるべき音楽ブログのような記事を提供します。つまりはおすすめの音楽を理屈抜きにただただ良いと書くだけの記事です。

 

話題を探していたらありましたよ。Twitterで話題の#私を構成する42枚 というタグが

これが目について、面白くて色々な人の42枚を見るわけですが、その度に「この人は〜世代の人なんだな」「AとBがあって、C、Dの繋がれでE ・F ・Gがあるから〜ジャンル好きで、変化球でH・Iがあるんだな〜」と傍観者の遊びが楽しくて堪らない。単なる思いつきですが、本来音楽ブログであるMusic Synopsisとしては久々に真っ当な題目を書いている気がします。普段は音楽を"作品"として捉えた上で、その良さを理解するための補助線として色々と知っていると1000倍楽しめるよっていう記事を出していますが、今回はその趣旨から少し外れてます。

 

 

では自分の場合どうかと考えると意外と難しい。何が難しいかといえば、ジャケットだけで伝わりきれない魅力があるからそれなら記事として出した方が、結構魅力を伝えられるのではないかと思い記事にしてます。抽象度高いですがご愛嬌を。42枚全部を書いているとそれは飽きるので、42枚の中でもお薦めしたい作品にピックアップコメントを入れています。

 

では、早速本題ですが、まず枚数指定が良いですよね。100とかならよく見かけますが、42というのが絶妙すぎる数字。御託はともかくとして、早速ですが、自分の42枚をご覧ください。当然ですが暫定です。なんならこれを作った日から数日経っているので、今の自分からしたら少しだけ違ってきます。その場のノリ感も強いですが、結構主軸は押さえていると思います。偏愛すぎるのもあれなので、一応条件として1アーティスト1枚という*1縛りありです。

 

この42枚選ぶのに3時間かかりました。

リストにするとこのような並びです。

これをみてどう思うか皆さんもいろいろと頭の中で詮索してみてください。

まぁ最上段はクラシック。これは外せないですね。もともとその畑の人間というのもあり、クラシック音楽というもの自体が土台別格なのですが、その中でも好きな5枚です勿論、ベストは生演奏ですよ。この5枚は楽曲は勿論の大好きですがそれ以上に指揮者と楽団へのこだわりが強いです。

  • 1. Carlos Kleiber: Vienna Philharmonic Orchestra - Beethoven: Symphonies #5 & 7

カルロス・クライバーとウィンフィルの組み合わせでベートーヴェン交響曲第5番と第7番。カルロス・クライバーはご存知の通り、偉大な指揮者であるエーリヒ・クライバーの息子です。これ以上の至高の組み合わせがあるかって話ですよ。個人的に世界で最も美しい交響曲ベト7という思い入れがあるので、第5番も勿論圧倒的ですが、やっぱりベト7が最強であると強く主張できます。クラシック何聴いたら分からない人向けにもお薦めできる最強の音源です。

  • 2. Berliner Philharmoniker - Stravinsky: The Rite of Spring / Bartók: Concerto for Orchestra

ストラヴィンスキーの春祭ですね。春祭というよりもディズニーのファンタジアの恐竜の音楽といったほうが通じるでしょうか?恐らく幼少期に見せられた方は多いと思います。因み初期ディズニーでは『ピノキオ』(1940)がぶっちぎりだと思ってますがそれは別の話。そしてこの楽曲を指揮するのはカリスマ性で聴衆を圧倒したヘルベルト・フォン・カラヤン大先生。指揮者としての知名度ではおそらくダントツなので、名前だけでも知っている人は多いのではないでしょうか?そして、演奏をするのはベルフィル。これもまた偉大な楽団の一つです。ウィンフィルとベルフィルは世界的な管弦楽団というのは流石にご存知だとは思いますが、楽曲によってどっち派っていうのは変わるというのが自分の感想。ただ、春祭ならベルフィルがいい。他のどの演奏にもない迫力がこの演奏にはあります。バルトーク楽曲もあるので、二度美味しいみたいなアルバムでもあります。

  • 3. Richard Wagner - Wagner: Der Ring des Nibelungen

リヒャルト・ワーグナー、ロマン派オペラの神。頂点に立つ作曲家。そんな作曲家が書いた『ニーベルングの指環』はあまりにも有名。そして指揮者はゲオルク・ショルティです。確かこの人はエーリヒ・クライバーから影響を受けていたはず。sirの称号を得ているところからもわかる通り、偉大な指揮者一人です。楽曲数178曲。4時間という大作は作品が一大叙事詩であることに起因している。長いと思うか短いと思うかは人次第だが兎角素晴らしい。一回は通しで聴くべし。グラミーでも31回受賞の経験をもつ彼の腕前で、演奏はウィンフィル。そんなワーグナーで是非堪能してください。 

 

 

4. Andrea Battistoni: Tokyo Philharmonic Orchestra - Beyond the Standard 1: Dvořák Symphony No.9, etc

 

シンフォニア・タプカーラ」第三楽章:Vivaceの演奏の中でおそらく最上級。日本のクラシック音楽はここまでかっこいいぞということをバッティストーニの指揮によって身を持って感じられる。これだけでも大満足。「シンフォニア・タプカーラ」にはいろいろと面白いエピソードもあるので、詳しく知りたい方はこちらをチェック。

sai96i.hateblo.jp

 

5. Pyotr Ilyich Tchaikovsky - Tchaikovsky: The Nutcracker

チャイコフスキーの楽曲は、変に歪なところがなく、言ってみれば分かりやすく、感動しやすい楽曲が多いのですが、じゃあそれにチャイコに比類するその手の作曲家がいたかといえば、割といないというのが自分の中での結論。三大バレエが全てチャイコの功績であることからもそれは恐らく半分以上あってる。不思議さを象徴するチェレスタや、色鮮やかなホルンソロなど、作品に対するアプローチの発想がとんでもない。そんな中でもやっぱり『くるみ割り人形』は外せない。そしてこれも演奏はベルフィル。やっぱり外さないという意味ではベルフィルに若干の肩入れをしている気がしています。

 

これより下はいわゆるポップス音楽や劇伴が占めています。

6. Supercell - Today Is A Beautiful Day

全編ryo(supercell)世界を堪能できるポップスアルバムです。これについては多分別の記事で、というより進行中のryo(supercell)作家論で書きます。必聴です。

 

7. Massive Attack - Mezzanine

時代を超越するサウンドワークス。このジャンルの中では圧倒的な名盤だと思います。

 

9. Muse - Absolution

デビュー作のshowbizと迷ったけどこっちの方がダイナミズムでなおかつ、ラフマニノフを入れたクラシカルな側面をもつのでabsolution。音が洪水のように流れてくる作品です。

 

12. Keith Jarrett - The Köln Concert

ピアノアルバムの最高傑作。これを聴かずして何を聴くってレベル。

 

 

14. Emerson, Lake & Palmer - Tarcus

15. Pink Floyd - Atom Heart Mother

プログレからはこの2枚。すごく迷った。けど、やっぱりこの2枚に落ち着く。何を言っているのかが分からない人はわかるようになるまでプログレを聴き続けてください。

pink floydに関しては、難しすぎて、The Dark Side of the Moon(1973)も大好きだし、the wall(1979)も当然良いし、Wish You Were Here(1975年)も捨てがたいし、初期サウンド、というよりシド・バレットがいた時代もいい。けどatomic heart mother(1970)にしました。好みの問題ですね。elpに関していうのであれば Brain Salad Surgery (1973年)が標準だとは思うのですが、ジャケットの成田亨パロディ込みでこっちのほうが、愛せるなと。作品として愛せるなと。それをいうなら、Brain Salad Surgery (1973年)はH・R・ギーガーだろっていう話なんですが、、まぁ好みですね。これも

 

16. João Gilberto - 2003 Live In Tokyo

ボサノヴァを聴くならまずこれ。

 

19. Underworld - Beaucoup Fish

作業用BGM最強アルバムっていうのは半分くらい冗談ですが、Underworldサウンドがめちゃくちゃカッコいいと思えるアルバムは自分にとってはこれでした。

 

20. Led Zeppelin - Physical Graffiti

IVじゃないんだ。っていう心の囁きはわかります。結局zeppelinも全部いいけど、その中でどれにしようかなっていうのをその時の気分で選出しただけです。しかしPhysical Graffitiはもうちょっと評価されても(十分評価されてますが)良いのではないかという意味も込めこちらにしました。

 

23. 鷺巣詩郎 - Music from "EVANGELION: 3.0" YOU CAN (NOT) REDO.

いきなりアニメ劇伴がきたなと、作ってて思いましたけど鷺巣詩郎の劇伴傑作はこれ。

結局シン・エヴァOSTも流用みたいな流れはあるにしろ、この劇伴の流れを汲んでいるから。これがベスト。「Quatre Mains (a quatre mains) =3EM16=」が強すぎ。

24. John Williams - Star Wars: The Empire Strikes Back (Original Motion Picture Soundtrack)

まぁこれは映画音楽の基盤なので、当たり前の選出。嫌いな人はいない。

 

33. 中川幸太郎 - コードギアス 反逆のルルーシュ R2 O.S.T.

鷺巣詩郎の作品は別にエヴァとは別に、作品として好きなのですが、この場合はコードギアス大好き人間っていうのが影響している。ただ、OSTがバラバラでまとまっていないので、これではないアルバムに入っている楽曲もあって、すごく悩みましたけどGrand Freetが入ってるのでこれにしました。この楽曲が劇中で如何に重要であるかは見た人であればご存知のはず。とにかく痺れる。そして中川幸太郎はもっともっと評価されてほしい。

 

 

31. toe - the book about my idle plot on a vague anxiety

32. nuito - Unutella

ただただマスロックの中でもこれらがベストだった。

 

36. 椎名林檎 - 勝訴ストリップ

説明不要の基礎教養。椎名林檎の才能の限界値を亀田誠治が思いっきり引き出した名盤。ギブスが全てといえば大体通じる。アルバム版は全部つながってるので、その意味ではシングルのギブスのほうが美味しいです。ギブス以外にも、浴室や罪と罰があるのでその時点でもう勝ちですね。ただやっぱりギブスが強すぎるという話。菅野よう子やryo(supercell)もこれにやられてる。ギターも聴きどころの一つ。

 

37. Salyu - TERMINAL

小林武史プロデュース、女性アーティストの中では圧倒的なベスト。8mの大作「to U」が化け物みたいな楽曲。特にBメロあたりは作曲:小林武史ならではのライン

 

 

39. トーマ feat. 初音ミク - Eureka

40. Kemu - PANDORA VOXX complete

41. じん - メカクシティレコーズ

42. wowaka - World 0123456789

ボカロからはこの4枚。トーマはアザレアよりも「Eureka」の方が収録楽曲が強いし作家性という意味ではこっちの方が上。「PANDORA VOXX complete」はかっこよさの"全て"が入ってる。この中で一番すごいのは「メカクシティレコーズ」全トラックアクセル全開。ハズレなし。この話についてはいずれ詳しく取り上げます。さて最後はwowakaから同人の「World 0123456789」を選びました。こっちの方が濃度が高い。やりたい音楽の方向性が最初から決まっていたことがわかるし、それを彼は生涯追求し続けたという点が非常に偉大なところです。

 

まぁざっとこんな感じですかね。他についてもそれなり以上に好きなのですが、それについてたらたらと書くのもアレなので。今回は42枚の中でも特にこれが好きという意思表示をする回にします。

 

みなさんも今一度振り返ってみて42枚を考えてみてはいかがでしょうか?

www.neverendingchartrendering.org

で作れます。パソコンでやった方が作りやすいです。

 

それでは駆け足で大変申し訳ないですが、これでも5000字を超えているのでこのくらいで締めます。5/21の日曜日には没原稿をあげる予定です。こちらは寄稿文章で採用されなかった文章なので、まずはこちらをお買い求めいただいた上で読んだ方が面白いので、距離的な意味では行ける方はぜひ!!

sai96i.hateblo.jp

それでは日曜日にまた更新できればと思ってます。

最後に偏愛ver.を載せて締めとします。

ありがとうございました。

 

偏愛ver. サムネイルはわざとこっちで設定しました。

 

*1:ちなみに偏愛ver.は最後に載せています。

【宣伝】シャフト批評合同誌「もにも〜ど」に音楽論を寄稿しました。

2023年5月21日に開催される文学フリマ東京36の第二展示場 Fホール  |  か-67にて設営されるサークル「もにも〜ど」にて販売されるシャフト批評合同誌に音楽論を寄稿しました。初寄稿です。合同誌で332ページというのはどうも多いようで、読み応えのある冊子になっていると思いますので、きっと買いに来てくださいね♪(あにもにさん風)

 

 

 

主宰者様は「シャフトの作品が世界で一番好き!」と豪語されているあにもにさん。

この大胆な基調には嘘偽りなく、相当シャフト愛が凄い人です。週末批評というサイトにて掲載されている中で一番レビュー数が多いアニメ論考記事を書いた人でもあります。

worldend-critic.com

twitter.com

 

と、宣伝記事としてはこれだけでいいのですが、ブログを全然更新していなかったので、その分を含め少しばかり今回の寄稿に関してのエピソードを交えて雑談感覚で文章を連ねていこうと思います。つまり宣伝記事という名の雑談話回です。宣伝記事を背景とした雑談という感じでやっていきます。

 

最初にこう書くのも気が引けますが、今回の記事は書き上げた後に読み返したら真面目に書く枷が外れて、色々なネタ入れてるし、謎にテンション上がっています。が、偶にはそういう回もあってもいいなと思い、敢えてそのままで出します。恥ずかしくなったらこっそり修正します。

 

 

 

以下、本編

何故寄稿できたの?どう言う流れなの?実際書いてみてどうだったの?

という話をします。

寄稿に至るまでの流れというか経緯としては恐らく去年出した*1平沢記事

(良い意味でも悪い意味でも怪文書なので覚悟してクリックすべし)

sai96i.hateblo.jp

がきっかけだと思うのですがあの記事を公開して当ブログ史上最大の反響を呼びその余波が広まってまもない頃です。ちょうど賛賛賛賛賛賛賛賛賛否否否否否否くらいの比率で色々感想と反響がある中、賛の側に立ってくださったあにもにさんから凄いという返事をもらい

(こんなにも褒めていただいたのが兎に角嬉しかったですね)

そこから色々とメッセージでやり取りをしていたところ「今同人誌を作っているのだが、音楽論の寄稿をしてもらえないか(意訳)」という話になり、二つ返事で引き受け、去年の年末から5月9日くらいまでずっとそれに取り掛かっていました。かなり遠回しであるが、一応それっぽいことは

sai96i.hateblo.jp

の記事で

と書きながらこの記事を書いている作業BGMはなぜかカラフルだったりコネクトだったりmagiaだったり魔王だったりするわけですよ。いってみればマイブームですね。年に一度くらいはまどマギ12話分を見たくなる時ってあると思うのですがその影を引きずっているとでも書いておきます。シャフトの音楽ってなぜあんなにも魅力的なんでしょうか

と誰もわかるはずもない仄めかし文章を入れたりしていました。

ただ、今回の寄稿記事の肝はある意味この一文に集約されていたのかもしれない。物凄く察しがいい方や、自分の文章の書き方を知っている人であれば、ここからどう言う風な文章を展開したのかが分かるはず。

原稿を脱稿した後にみるとこの時点でああいう原稿になることは決まってたいたなと。

それはさておき

あにもにさんはシャフトオタクと言う意味では自分から見たらアンドロメダ星雲(M31)くらいの距離感がある(つまり相当レベルの高いシャフト愛好家)という認識であり、そんな方からの寄稿依頼だったため、これは全力で応えなければという思いで取り組まなければならない。最初にお話をいただいた時は自分なんかが書いてしまって良いのかという意味で強く困惑しました。果たして上手く書けるだろうか。ただ、一方で自分に声をかけていただけたことが嬉しく、後先考えずに快諾をして原稿を書くに至りました。今のブログのスタイルにして良かったと思うばかりです。

漸く「何か」が報われた気がしました。

とはいえ、シャフト作品の音楽論という与えられたテーマ。主題は決まっているものの、気軽に二つ返事した後の自分の心の中では

シャフトの音楽について映像と絡めて書くってどうすればいいの」という気持ちの一点張り

今回の論考にて取り扱った作品自体(まどマギ物語シリーズ)は流石に10年以上経っている作品であり、特にまどマギはオリジナルアニメとしては大変評判を集めたので、音楽に絡めたネタも考察の一部としては各所に既出しており、その意味では目新しいものはないですが、それらを纏めて「音楽論」という主軸で真面目に書き切った文章はプロアマどちらの領域でも読んだことがないのです。つまり先行者が(ほぼ)いない状態からのスタートなので、その意味では執筆難易度はこれまでで一番高い&それが寄稿案件記事というWセット。

(自分が知らないだけで、例えば外国語圏では展開されているのかもしれないが)

そこからはじゃあどうすればいいのっていう自問自答芸の毎日ですよ。ひたすらホワイトボードにドラマ*2ガリレオ』の湯川学(今は教授になってた気がする)を演じる福山雅治気分で脳内の展開図を書きまくって解法を導くという地味な作業ですよ。bgmもちゃんと『知覚と快楽の螺旋』を流しつつ「実に面白い」と心の中で言いながら。

この例え読者に通じるのかな。

(とはいえ挙げている自分も全然世代ではないのだが)

vs. ~知覚と快楽の螺旋~

vs. ~知覚と快楽の螺旋~

  • 福山 雅治
  • J-Pop
  • ¥255
  • provided courtesy of iTunes

 

ただ、それでも難航を極めた。

元々「映像・演出と音楽との関係性について語る」というのは別にシャフトというのは抜きにして一応に難しい。本来、絵と映像の相互性といのは言葉にしたくてできない言葉を、という論理ではなく、本能的にいいという感覚を共有するものだと思うのです。

自分はあまり用いないが「エモい」というのは要はそういうことだと思うのです。言葉では言い表せないけどなんか凄く刺さりましたみたいな意味合い。そう考えるのであれば土台言語化するものではない。が、今回はそこに首を突っ込んだ。それでいうと一番難しいのが鷺巣詩郎エヴァである。昔から「エヴァ」は色々な知識人によって様々な事が沢山語られてきた作品ですが、鷺巣詩郎の音楽性について真面目に語っている人っていないと思うんです。多分これを達成できたら生涯誇れるレベル。

(だからこそ誰かがそれを達成してくれることを望んでいるのですが出ないですね〜)

ならばシャフトの音楽性はそれに次ぐ難しさ。というか「まどマギ」でまさに同じ現象が起きている。

「あのスタジオのことだから独自の舵を切った方向性なんだろうな〜」

という漠然とした感覚しか分からなかった。これだけでした。それについてこれまで真剣考えたこともなかったため(というか端的に言って分からない)、どのような切り口で書けば面白い文章を提供できるのかという点についてはとても悩みました。

これまで考えたこともなかったテーマに対して、どのように活路を見出したかについては原稿にチョロっと書いてあるのでそちらを読んでいただければと思います。

本当にあの手掛かりを見つけられたことは地獄に釈迦が垂らした一本の糸であった。『蜘蛛の糸』(1918年)に沿うならば寄ってたかって罪人達が来る展開を迎え、独りよがりな自分も再度地獄に落ちるはずですが、その糸を見つけられた人物がどうやら自分しかいなかったようで見事地獄から抜け出せたそんなレベルだったので我ながら良い意味で憑いてるなと。

 

以上のように苦労こそしましたが、原稿自体はある時を境にかなり順調に進み、その辺りから書いていてずっと頭の中で「なぜこのネタを思いつけなかったのか」と物凄く後悔する程度には面白いものを書けました。まだ誰も書いていないであろう文章も幾つか書けました。

本稿には不要と判断されたので載ってませんがまだまだ書けることはあるなと。とはいえ残したい文章ほどカットされたのは結構心にきましたね。いい勉強になりました。

そのため、今回の原稿にあたってボツになった文章は没原稿集としてこのブログに全て載せることで供養します。販売される日21日の夜に出します。恐らく全員が読み終わった頃合いで、色々と読み返すタイミングになります。こういう没原稿というのは読者が寄稿文章に対して熱を入れている時に出して読んでもらうのが一番だからです。コーヒーが冷めてしまっては味は低下するのと同じ理屈です。そういえば『コーヒーが冷めない内に』という色々な意味で面白い映画がありましたね。あの作品のキャッチコピーを覚えていますか?「4回泣けます」です。

 

脱稿して一番に感じたこと

論考・寄稿文章には全く向いていない

二度とごめんだというマイナスの意味ではなく、単純に自分には圧倒的に不向きであったということです。薄々分かってはいましたが、元々論考を書けるような高度な脳みそも持ち合わせていないのです。

(PSYCHO-PASSを見るたびにシビュラシステムの200個ぐらいある内の脳みそを一個欲しいなと思います)

今回の場合はブログ記事ではなく、シャフト批評合同誌ということもあり文章・構成ともにビシッと纏まったものを書かないといけない上に、読者層もシャフトガチ勢・アニメ映像ガチ勢という人たちが主要層であり、それすなわち自分の持つ総知識量の2倍は持っている凄い人たちが読むものという印象があったので面白い文章では生ぬるいと思い、超面白い文章を書く努力をしつつ、文章に対する気遣いを相当意識して初稿を書き上げたのですが、それをあにもにさんに校正していただき、返ってきた文章を読むと全く違う文体に生まれ変わっていた時の驚き。自分では絶対書けない文章がそこには展開されていました。ブログではお馴染みの脱線も当然削られており構成も読みやすいように魔改造されていました。

脱線に関して勘違いされやすいので弁明をすると自分としては主題に対して読者が絶対納得するくらいの説得力と面白さを伝えたい熱量があの長大な文を生成するのであって無理に長くしようという気は更々ないです。なので衒学的、冗長などという感想は自由ですが書き手としては全くそういう意図はないので悪しからず。

 

分かりやすいように構成・文章力の能力値を例えるなら自分がボール(RB79)で、あにもにさんがビグ・ザム。そのくらい*3差があるわけです。あまりの変容さに唸ってしまいました。書いてある内容は紛れもなく自分が出力したものであるにも関わらず読みやすさが全く違っていました。なので、普段のブログ記事の文体を知っている人からすれば、とっても読みやすいと思います。あにもにさんが編集してくださったおかげで素晴らしい文章になりました。寄稿実績第一弾にして最高傑作になった感覚があります。デビュー作というほど大それたものではないですが、それに倣うのであればまさしく

「デビュー作が最高傑作」

「デビュー作に全てが詰まっている」

というのを*4体感した気がします。

原稿のおおまかな 変容は

*5初稿(全文rino文章)を5万字ちょいで提出

シャフト音楽論という発想を先に思い付いてればこの5万字をそのままブログに投稿していたことでしょう。どうにかしてこの文章も公開したいが、本稿の関係上で出すのは難しいでしょう。色々考えます。

幻の記事

あにもにさんの校正・修正が加わった段階の第二原稿(3万文字)

そこから更に自分のリライト・追加文章を入れた第三稿(4万文字)

そして再度あにもにさんの文章調整が入った第四稿(3万6000字程度)

脱稿

という形です。

寄稿自体が初めてということもあり、こういう場合の寄稿の文字数の加減が一切分からなかったです。普段ブログにおける平均的な字数が1万字~2万字、時たま5万、9万字という字数を書き上げた自分の感覚からするとそんなには長くない。と個人的には思っていたのですが、色々調べた結果批評寄りの寄稿文章で3万字を超えると多い部類になるそうです。小説だと体裁の関係上、そのくらい普通らしいですが。普段書いている字数長文過ぎて感覚が麻痺しています。今回の合同誌では最多の量になったそうです。つまり一番ページが刷られていると考えるとなんだか緊張しますね。

 

この流れからもわかる通り、文章を書くことは関心のあることであれば音楽に限らずそれなりに以上の量を書くことは出来るが、それらをまとめるのが絶望的に不得意なこともあり、構成力もダメダメであるということ。そして冗長。それが思いっきり現れていて、修正されていく様は自分のダメさ加減が分かって愉快であったのと同時に、だんだんと自分の文章から随分と遠ざかっていった&カットされていき、ダメだ〜と感じたことから「文章寄稿なんて向いてないな」という結論に。

 

隠すようなものでもない書いてしまうが、自分の書き方まず〇〇についてという主題となるアーティストを決めるところから始めるのですが、基本的にそこから先に何を書くのかはほぼノープラン。そこから先は自分でひたすら考え抜いて生成した文章を打ち込むだけです。

 

普通であれば、そこから書き上げる文章の順番というのは1-10という括りで例えるのであれば、順当に1、2、3という形で大項目を積み上げ、自分の考えを披露していく方法をとっている方が大多数だと思うのですが、自分の場合はどうしても先の形で書いているため思考回路がバラバラで1,9,2,5,3,4,10,7,6,8というような形で小さな項目をバラバラに文章を書いて最終的にそれらを統合するケースが大半です。

結果まとめる際に収集がつかなくなって投げやりになるというパターンが常。それでもかなりの人が記事を読んでいただけるのは非常に嬉しい限りなのですが。そんな書き方をする自分にとっては寄稿文章というのはかなりハードルが高かったです。書いている時は楽しいですけど。やっぱりブログで特段なにも気にせずタイプしてるほうが圧倒的に楽だし、自分に向いていると思いました。

 

まぁそんなわけで、そこら辺にいる音楽好きがシャフト批評合同誌に音楽記事を提供したよっていうお知らせ・宣伝記事でした。今回寄稿した文章については、どこかに転用する気は一切ないのでここで買わないと読めない文章になります。

 

内容についてはまぁ読んでくださいとしかいいようがないですが。かなりの自信作です。端的に誰でも書けることは書いてない。その意味では込み入ってます。正直な話自分のリライト・新規文章含め、一切手の入っていない初稿の方が情報量の濃度は高いし、面白いです。ただその分「もにも〜ど」に掲載されている本稿は主題に対して明確な一本線が引かれたうえで論を展開しているので論考としてとては素晴らしい出来になっている(と思います。)

 

論考となると、よくありがちな冒頭に哲学者の言葉を引用する衒学的な仕草の文章が多いせいか、難解という印象を受ける人もいるかもしれませんが、そういう感じではない(というかそんな高次元レベルな文章は書けないし書こうとも思わない)のでそこの点についてもご安心を。難解な事は何一つ書いてません。とっても親切な内容です!!

 

ただ、書かれていることを全てカバーし、なおかつ取り上げている音楽について全て理解した上で完読という意味での難易度は相当高い方だと思います。その意味での難易度の高さは過去一。もちろん読み手によりますが、自分が寄稿した論考を読む前と後では、シャフト映像の見方や劇伴音楽の聴き方が変わる人が大半だと予想しています。

そのくらいの絶対的面白さってやつはあります。それこそ今回の寄稿記事の中で一番面白い文章であると。

書き手がそのくらいの意気込みで書かなければ、読者にその面白さが伝わるはずがないので当たり前ですが。少しだけ強調し、孫子大先生のお言葉を借りるのであれば

勝兵は先ず勝ちて而る後に戦いを求め、敗兵は先ず戦いて而る後に勝を求む

まさにこれです。この場合勝ち負けではなく、面白さという意味ですが。

まず確約された面白い文章を書いてから、読者にその面白さを実感してもらう。

これが一番です。

読者にとって面白いかなぁ〜と疑いぶって書いた文章はあまり意味をなさない。いつにも増してなぜこんなにも面白さの自信を声高く主張できるかといえば、雲の上の存在であるシャフト愛好家のあにもにさんですら、初稿を読まれた際に「やられた!!」と思った箇所があったことが幾つかあったとのメッセージをもらった事が大きいです。であればこそ大半のシャフト好きも同様の感想を抱く(はず)であろう。

 

自分が出せる全体の熱力の内、約8割(9,10割の熱量で書く文章は絶対出ないのでその意味では最高値)の熱量を持って書いたのでまずもって面白いと思います。その上、あにもにさんによる魔改造が施された校閲・校正によって究極の文章になっていますので是非お買い求めください。その意味では*6コードギアス』のKMFでいう紅蓮からの紅蓮聖天八極式になった魔改造レベル。

そして読んでくださった方々には感想を頂きたいです。初寄稿ということもあり、買い手がどのように感じたのかがすごく気になるので、よろしくお願い申し上げます。

ツイートでもDM、メール、この記事のツイートのリプライ、或いはリアルで自分を知っている人は直で、とにかく伝達方法はなんでもいいので実際に読者がどのように感じたのかは知りたいので賛の意見はもちろんのこと、「つまんねー」「面白くない」といったマイナスな意見もいくらでも受け入れますので、ご購入された方は何らかの形で感想をいただければと思います。自分の中でちょっと背伸びしすぎたかなっという文章も書いたので、そこに対してどういった反応がくるかが楽しみです。

色々書きましたが、一番の想いとしては質・量云々よりも、読んだ皆様に何かしら得るものや、感じ取れるものが1mmでもあればいいということです。それだけでも自分が書き上げた文章は役割を果たせたのではないかと思います。

 

というわけで最後にもう一度告知します。

今回自分が寄稿した音楽論は

2023年5月21日に開催される文学フリマ東京36の第二展示場 Fホール  |  か-67

にて設営されるサークル「もにも〜ど」より発売される

シャフト批評合同誌に掲載されています。

是非お買い求めください。

 

moni-mode.hatenablog.com

moni-mode.booth.pm

*1:この記事も実は、少しずつ改稿しています。あと大変嬉しいことに出してからまだ200日も経っていないのですが、平沢進について書かれた一般ブログの記事ではかなり上位に入ってます。これは読んでいただいた皆様のおかげです。大変嬉しく思います。

*2:『沈黙のパレード』よりも『禁断の魔術』を映画に回した方が良かったのではないかと思うのは自分だけでしょうか?

*3:今時1stガンダムで例えるのもどうかとは思いますが、この記事を読みにくる層を考えればまぁ押さえているはずなので1stで例えました

*4:作家の場合は基本全力でないとダメだからこの論調は半分以上正しい。

*5:ちなみに募集要項では1600-20000文字で倍以上オーバー。自分以外にも既に3万字の原稿があると聞いていましたし、あにもにさんには逐一連絡を入れていたので、向こうも倍以上の原稿というのは把握した状態でしたが

*6:見た事がない人はこんな三文記事を読む前に全50話を今直ぐ見てきてください

2022年に出した記事の振り返る&雑話

いつの間にか、12月30日を迎えているわけですが去年、と一昨年12月30日に振り返り記事を出しているので、どうせなら今年もだそうというノリでお届けしようと思います

 

とはいっても、今年出した記事数はなんと8記事。せめて12本とは思ってはいたのですが色々と想定外なことが発生し、ブログなんぞに油を売ってる場合ではなかったので結果的本数として8本という形になりました。ネタと下書き自体はあるわけですが、それを仕上げるにはかなり時間がかかるわけですよ。一度この手の記事を書いたことがある人なら分かると思いますが。そう考えると去年はかなり豊作だったなと思います。

伊福部昭久石譲菅野よう子、amazarashi、VOWWOW、レミハラカミ、まふまふとちょうどいい感じに10代〜60代の老若男女がどこかしらで引っかかるであろう幅を網羅していたわけですから。この振り幅の高さは別に狙ったわけではなく単に自分が好きだからという理由で出したわけですが、結果的に色々な世代が読むような記事ばかりを出したなという印象です。ありがたいことに上に列挙したアーティストの記事は全てアクセスとしてかなり上位層です。過去に読んでくださった方やこれから読んでいただく人に対して最大の感謝をここでしたいと思います。本当にありがとうございます。

っじゃあ今年はどうかという話ですが、平沢記事を出すことが精一杯でした。相当な無茶をしたとはいえ平沢進特集の1本出せたことは個人的に大きいですね。巨大に膨れ上がった結果、文字数も9万字。たしか西尾維新終物語もそのくらいの文字数だったと思う。まぁそれはどうでもいいが、このボリュームを考えると、12ヶ月で割ったとしても7417字。1ヶ月7417字書いたと考えれば十分だと思うんですよね。実際にかかった期間は5ヶ月なので、1ヶ月18000文字という計算にはなります。

sai96i.hateblo.jp本記事を出したツイートはrtが二桁、いいね三桁という自分史上もっとも拡散されたこともあり、反響は過去一番という結果を残せたのは我ながら凄いと思いました。

これまで「これくらいの反響はあっていいだろう」という記事に限って反応が薄いというのがざらにあったため、そういう意味では初めて報われたといってもいいですね。

アクセスも順調に伸び、既に想定通りの人気常連記事になっていることからも色々な人に読まれていることを実感できなによりといった所です。ただし、この記事の面白さの演出と形容すべきか、秘技的な書き方をしているので一回限りという奥手みたいなものなので、再度このクラスの記事を出すにはちょっと時間がかかるので、この手の反響も一度きりだなと思ったり。平沢進に関しても全体構想の1/3程度しか語り尽くせなかったところを含め切り口はたくさんありますし。まぁ気が向けばって感じですかね。

 

レポートやネタがない時の雑話を除き、当ブログの本分でもある特集という意味で今年書いた記事は以下になります。

sai96i.hateblo.jp

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sai96i.hateblo.jp

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こう見るといかに、中途半端な記事ばかりを放出し逃げに走っているというのが丸わかり状態ですね。

・ストラヴィディリウス/プログレ発展編

この記事に関しては当たり前というか基本的なラインしか書かなかったですし、プログレ発展の記事に関しては完全に「プログレをわかった人」でないと読み応えがない記事というベルカーブの端っこにはすごい需要があるかもしれないけど真ん中ラインではないみたいなところがありますし。セレクト的には結構面白いアルバムを選出できたとおもいます。やっぱり当初の草案で書いた方が受けとアクセス的にはよかったですが、そうした場合既に色々なブログで発表されている量産型記事にしかなり得ないので敢えての邪道ラインを狙ったわけですが、案外これが好評であるのも事実で、驚くことに「隠れた名盤 プログレ」でGoogle検索をするとなんと一番上に出てくるというクリティカルヒットぶりを発揮してくれました。書き手にとってニッチすぎて受けないだろうな予想とは裏腹っぷりです。

 

・amazarashiのロストボーイ

アルバムが現時点での最高傑作であり、今の秋田ひろむの限界点を出し切った作品でもあったと一回聴いただけでわかったからこそリリース日に出せたわけですが、二ムロドのくだりをすぐに気づけたのはなんとなく嬉しかったですね。日々の読書成果というものは意外なところで思わぬ作用として効きますね。奇しくも昨年のamazarashi特集回でもamazarashiを聴くだけでは見えてこない視点が読書をしていたことで見えて、結果的に面白いことを書けたのでそういう意味で活字に触れる大切さを実感したりしなかったり。

 

・映画劇伴音楽

ヴァンゲリスが亡くなったことをうけて今一度どういった映画音楽作家であったのかを考えてみるというのが趣旨でしたが、案外上手くかけたなと思います。大作主義のアメリカ人の作る劇伴とヨーロッパ人が作る劇伴の音の性質、出し方、メロディの違いという線を引いた上で、国も国籍も違えば育った環境も違うわけで、そうなると音に対する向き合い方も当然違う。それが如実に音楽としてでていることを簡易的に説明できたとは思う。ヴァンゲリスと同様ヨーロッパ圏の映画劇伴作家のヨハンヨハンソンを持ち出すことで大作主義のアメリカ産映画音楽との違いはずいぶんと明瞭になったと思います。本来であればもっと色々な劇伴作家を持ち出して映画音楽劇伴総論みたいなところを狙ってはいたのですが、前提が説明しきりなかったところがあるのでそれらのネタは今後のために保留しました。多分そう遠くないうちに出るとは思います。多分。

 

・ryo(supercell)作家・音楽論

ここにきてようやく分作という手を使ったわけですが、そろそろryo(supercell)音楽の魅力を少しでも具体的に説明できる記事が書きたいと思ってはじめたわけです。supercellではEGOISTのことを触れられないしその逆も然り。では全体としてどうかという視点で考えてみようというのがこの特集の肝。ryo(supercell)の楽曲はなぜ量産型ではないのか、なぜ洋楽的なアプローチがあそこまでうまいのかといったところを素人ながら解明できればなと。今のところ全5回を想定しています。おそらく一番面白いパートは次回の第二回目だと思います。いつ終わるかはわからないですが、こちらも気長に待っていただければと思います。

 

雑話

振り返り記事なので記事としての面白さがないので、ちょっとした雑談的というか、中の人が壁とキャッチボールをしている感覚で書きます。ここの文章はリアルタイムで考えて打っているので随分、いつもよりも俗っぽさが増します。まず最初に、音楽ネタとして最近はルイスコールがいいなって思っています。作業BGMに多用しているので気になった人はぜひ。こういう音楽に惹かれる感覚ってなんなのだろうと思ったりします。

Failing in a Cool Way

Failing in a Cool Way

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と書きながらこの記事を書いている作業BGMはなぜかカラフルだったりコネクトだったりmagiaだったり魔王だったりするわけですよ。いってみればマイブームですね。年に一度くらいはまどマギ12話分を見たくなる時ってあると思うのですがその影を引きずっているとでも書いておきます。シャフトの音楽ってなぜあんなにも魅力的なんでしょうか。「私、気になります」と千反田えるなら言い出すだろうなと思ったり思わなかったり。でもこのブログの性質からすると福部里志的に「データベースは結論をだせないんだ」と書きたくなったり。まぁ古典部ネタはともかくとしてシャフトの音楽が最近の流行りってことです。来年はもうちょい面白い文章をお届けできればと毎年ながら思うわけですが、少し変わったアプローチのものを出せればと思っています。そのための準備も進めています。ブログネタから引っ張るとしたら今年最大の収穫は実はアニソン派vol9だったりします。堀江晶太とじん、説明不要のこの二大巨塔作家が、赤裸々に色々な想いで曲に対する哲学とまではいいませんが、スタンスを語っており、案外そこに主宰であり司会でもある田淵/田代さんも同じような経験があったというのが面白いなと。

中でも堀江晶太氏が言っていたフレーズが印象的でした

詳しくはこちらを参照してほしいですが

sai96i.hateblo.jp

引用すると

「僕らは良質なジャンクフードをつくっている」

「誰が食べても美味しいハンバーガーを作りたい」

ポップス商業作曲家の本質でもあり、アマチュアとプロの差という意味でも通じる。元々そういう感覚って当たり前のこととして持ち合わせているとは思って居ましたが。

とかく商業で、しかもお手頃の値段のものである場合は完璧な物をを目指すよりもまずは完成させろとよくいいますが、似たようなもので自分の作家性などに拘らず、ひとまず誰が聴いても「良い」と思われるような楽曲を作ることが大切というのはプロとしても非常に大事であることを再認識しました。しかもそれを堀江晶太というアニソン、ゲーム音楽ボーカロイド音楽、アイドル音楽など数多のシーンで「誰が聴いても良い」音楽を体現し続け、結果を残している人が言うからこそ余計に説得力があったわけです。こうした考え方は消費者でもある我々にとっても物事を考える思考の一つとして非常に重要だと思うんです。この視点を用いて巷のテレビ番組バラエティを考えてみましょう。ファミレスやコンビニといったお手頃の値段で買える食品、それこそジャンクフードといっていい商品に対してミシュランが〜、世界料理チャンピオンが〜系の大層偉い職人様がいちゃもんをつけ、更にそこに合格不合格を判断をするという番組がありますが、あれは非常に品性に欠ける低俗極まりない(元々テレビ番組自体がそうですが)。本来言えばあんな馬鹿みたいな番組はそもそもが企画倒れだと思うのです。元々が高級な食材をつかって料理を目指している高級料理を日々鍛錬し作り、旨味を追求しながら料理の腕を上げている職人たちの世界レベルからすればたかが数百、千円のジャンクフードなんてもれなくアウトに決まっているんですよ。味覚の洗練さも絶対違うわけですし。だからそもそも茶番でしかない。ファミレスやコンビニで並んでいる商品はある程度の差異はあれどどこでも気軽に誰もが安く手に入れることができるというサイクルが前提なわけですよ。だからこのサイクルに対しては「良くできている」というアンサーでなければならない以上合格不合格もないわけです。当たり前の話ではありますが、評価をつける側の職人側も自分たちがいるプロの視点ではなく、相手の客商売としてのスタンスとしての立場を理解し、同じ目線に立った上で評価ができればみている視聴者も「まぁバラエティだしこんなもんだろ」と思えるのですが、そこでプライドかなにかが働き、辛辣なコメントをするからこそネットで荒れる。「コンビニ食として/ファミレス食にしてはよくやっている」という考えがはいっていない状態の思考として「超高級料理を作る職人が誰でも食べられる安い商品を採点した結果」という、明らかに乖離した状態からコメントをするという愚かしさには流石に出演者の採点者も気が付いているとは思いますけど。まぁ色々書きましたが、要はどの世界であっても一概にプロといっても目指しているものや土台、スタンスが違うのだからそこを同業者というくくりで無理矢理くっつけても意味がないと言うことです。スタンス批判なんていくらやっても無意味無価値ですから。

 

・藤原聡はすごい

某坂本裕二のフォロワー脚本が書いたsilentというドラマが今年流行りました。番組自体は追えていないのですが、せめて主題歌くらいはと思って聴いたらどこからどう聴いても藤原聡の声が流れてきてしかもその楽曲がずっとトップを取り続けていると言うニュースをみると、これまでの楽曲の幅などを考え、10年代最大のポップス作曲家のスターは藤原聡なんだと再認識しましたね。すごくダースホースだとpretenderの時思って居ましたが、まさかここまで化けるとは。今後に期待ですね。

 

アバター2

13年越しの続編。面白いかったけど王道すぎた。実はyahoo movie レビューに投稿しているのでどれとは敢えてとは言いませんが、それを読んで欲しいです。多分文章の書き方的に分かると思います。因みに星5で投稿しています。どうしてもどのレビューかを知りたい方はDMまで

 

・ryo(supercell)新曲:『君よ、気高くあれ』の全体的な印象

君よ 気高くあれ

君よ 気高くあれ

  • シユイ
  • J-Pop
  • ¥255
  • provided courtesy of iTunes

正直パンチとしてはそこまで強くないが、方向性としてsupercellではなくEGOISTのボーカルだったchelly寄りの歌い手を選出したのは割と面白い。なぜならMECRE賞の楽曲を歌うのもそれと同種の声質を持った人だから。これまでのryo(supercell)のボーカルにはあまりなかったタイプなので新境地かと期待を寄せることができたと言う意味では中々聴きごたえのある楽曲でした。来年こそはspclのアルバムを、、と言い続けて5年くらいたつのでそろそろ出してくださいと、薄い望みを願ってます。でも魔法使いの夜の映画が来年であるのならば多いに期待できるはずです。

 

・最後に

結局ryo(supercell)に関するコメントでで締めることになりましたが、今更といいますかいつものことです。色々無駄話を書きましたがチラシの裏なので、なんかいってる程度に受け止めてもらえればと思います。来年もわかり易く、面白くて広くて深い論考記事を出せればなと思ってますので来年も当ブログmusic synopsis(とまふまふ速報)をよろしくお願いします。

(こっちのサイトではそういう文章は記事としては出さないと思うのでこのブログで済ませます)

mafusoku.com

 

それでは。