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Music Synopsis

音楽に思考の補助線を引く

About&Works/資料庫について

Music Synopsisは、音楽を背景から読み解く批評系ブログです。 単なる感想ではなく、楽曲が生まれた文脈、作り手の思想、文化的潮流までを掘り下げ、作品の意味と構造を分析する記事を発信しています。   取り上げるテーマは、ポップス/ロック/ボカロ/劇伴/サブカル音楽から現代声優・アニメ音響まで多岐にわたります。  特に「音楽×演出」「音楽×演技」といった音楽と他ジャンルの交差点を扱う点に特色があります。   現在は複数の同人批評誌に寄稿し、作品論・音響表現・文化的背景の分析などをテーマに継続的に執筆しています。文学フリマ東京を中心に発表を続けており、寄稿実績については下記にまとめています。

寄稿原稿/記事の執筆依頼についてはserialmusicrecord○gmail.com (○→@)まで

お問い合わせ・記事に対する意見等も上記のメールアドレスまでお願いします。

※旧livedoorブログからの移行記事があります。リンクや文体に差異がある場合がありますが、順次見直し予定です。

 

また、当ブログにおける長文問題解消のため、資料庫をnoteの方にも設けました。

具体的な基調はこちらに発表しておりますので、気になる方はご一読のほど宜しくお願いします。

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寄稿実績

2023年

・初出:文学フリマ 東京36

サークル:「もにも〜ど 」

寄稿本:『もにも〜ど』

『シャフト演出が音楽と交わる時ー物語る前衛音楽と魔法の音の成り立ちについて』

・初出:文学フリマ 東京37

サークル:「Async Voice」

寄稿本:『ボーカロイド文化の現在地』

『インターネット文化の源流からボーカロイド文化まで』

・初出:文学フリマ 東京37

サークル:「もにも〜ど 」

寄稿本:『外伝 もにも〜ど』

『アサルトリリィBOUQUET』のノートーSF、少女小説シェイクスピア 

 

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2024年

・初出:文学フリマ 東京38

サークル:「ブラインド」

寄稿本:『ブラインドvol.2』

グリッドマンユニバース』に至るまで-『電光超人グリッドマン』から『SSSS.』シリーズに至るまでの想像力

・初出:文学フリマ 東京38

サークル:「試作派」

寄稿本『試作派』

成田亨デザインの源流について』

・初出:文学フリマ 東京39

サークル:「もにも〜ど」

寄稿本:『伝承 もにも〜ど2.5』

『シャフトアニメの視覚表現美学の源流──尾石達也モダニズム』(第一章)

サークル「Binder.」

寄稿本:『Binder.vol3』第三号 巻頭特集=奈須きのこクロニクル

『影の幾何学──真アサシンが描く無名性の多面体』

サークル:「試作派」

寄稿本『試作派』

成田亨デザインの源流について』(製本版)

 

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2025年

・初出:文学フリマ 東京40

サークル:「ブラインド」

寄稿本:『ブラインドvol.3』

『音楽×青春×人間関係ガールズバンドアニメにおける群像劇について

──或いは『響け!』から『トラペジウム』に至る病』

・初出:文学フリマ 東京40

サークル:「Binder.」

寄稿本:『型月研通信 vol.3』

蒼崎青子(学生時代)のギターはなぜS-S-S型なのか?』

・初出:文学フリマ 東京41

サークル:「もにも〜ど」

寄稿本:『もにも〜ど3』

『シャフトアニメの視覚表現美学の源流─劇団イヌカレーシュルレアリスムについて』(第二章)

 

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2026年

・初出:文学フリマ 東京42

サークル:「もにも〜ど」

寄稿本:『もにも〜ど4』

『シャフトアニメの視覚表現美学の源流』(第三章)(予定)/新規論考

 

 

寄稿書籍に関してはBoothを中心とした各サイトでお買い求めいただけます。

 

以下のサイトよりお買い求めください。

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『Binder.Vol3 奈須きのこクロニクル』

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紹介記事

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以下のリンクはこれまでの記事の中から筆者視点のおすすめとしてご紹介します。

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この記事は菅野楽曲識者λさん(@infinity_drums)さんとの共作記事です。全体文字数が7万文字ですがその中の2万字ほど提供していただきました。非常に有意義な記事になったと思います。

 

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この平沢進記事は当ブログの最大級のスケールとなっております。いずれ改稿はしたいと思っています。第二部も書く予定ではあります。あくまでも導入部としての平沢記事です。

 

 

 

Mygo!!!!!/CRYCHIC/Ave Mujica三部作

アニメ『BanG Dream! It's MyGO!!!!!』および『Ave Mujica』を、音楽・演技・制度という三層から横断的に読み解いた三部作。バンドリという枠を超えて展開される音響・物語・構造の更新を、音楽文化・声優表現・神話・西洋音楽など視座から照射しています。


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羊宮 妃那さんの演技言及 四部作

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これら全ての通した一年のまとめ

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声優論三部作

 

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天球と韻律の星図を描くAve Mujica ─Diggy-MO'の介在性、或いは『PTOLEMY』『GOD SONG』『DIVINE』からみる「天球」のMujica

完全無欠超無敵超絶ゴシックアニソンバンドことAve Mujica について語ります。

字数、レイアウト表示の関係上、極力タブレット〜PCでの閲覧をお勧めします。

前置き

このユニットがこの世界に存在していることの素晴らしさは、これまで何度も粒度を変えて書いてきました。そしてMyGO!!!!!(羊宮軸+全員の名前を通した)はすでに語った。CRYCHICもバンド自体はああいう感じですから楽曲を語るより『春日影』ベースにベヘリット的ポジションとして扱う形で作曲家の布陣におけるSUPALOVE/ELEMENTS GARDENの差分込みで語った。

 

であれば当然、このラインでAve Mujicaを「音楽の方向性」からきちんと論じないのは、流石に自分に対して嘘になる。そして公式にはMygo!!!!!とAve MujicaはIPとしての「BanGDream」の中のバンドの一つですが、自分の中では意識的に、企画段階初期における別IPとしての「10人の物語」としての扱いで今は考えて落ち着いており、それすなわち、「分別」して考えていたりするのでそこで距離感とかがかなりあったりするのですがとはいえ、Ave Mujicaに向き合い続ければわかりますが、このバンドとしての存在意義があまりに大きく、ちょっとやそっとの意気込みでは語りきれない。その一方で、バンド「MyGO!!!!!」を語るというのは、何を差し置いても、高松燈/羊宮妃那の歌唱がまず第一にあるという点があまりにも大きいから、正直そこを軸に進めればなんぼでもかけるし、実際に3記事以上それで書いたわけですが、体感としてはそれ以上に「書きがい」があるほど、層としての音楽成分が圧倒的に高い、という事実もある。

 

耳を完全に牛耳られてしまっている以上、真っ正面から向き合わないかぎり、このバンドについては一行たりとも書けない。

 

さらに「アニソン」という枠組みで考えるとき、2020年代における受容のされ方と、2000〜2010年代にかけての「虚構/現実バンド」の系譜がどのように変容し、どう受け止められてきたのかを踏まえると、Ave Mujica はそのどこにもちゃんと収まりきらない。良い意味で特殊であり、良い意味で異常値だ。

こんなバンドが存在していていいのか

と本気で思うレベルの「過剰さ」が、ここにはある。

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アニソンと「音楽史」の立ち位置

ではまず、その「異常値」をきちんと認知できる足場を共有するために、「境目」の話から始めたい。

個人的には J も K も洋も、すべてはひとまず「音楽」であって、そこにラベルなんて付けなくてもいいじゃないか、と思っている。(切り分けが大事だし、性質が異なることそれ自体は了解している)。何がロックですかみたいな言説に「〜はロック、いやそうでは無い」みたいな声もあれば「英国バンド以外認めません」勢だっている。

だからそういう意味で現実には「国ごとの音楽」「ジャンルごとの音楽」という分類が存在する。J-POPの中でさらに「ポップス」「ロック」「ヒップホップ」などに分かれ、その枝の先に「アニメソング」がぶらさがっている。

問題は、この「アニソン」と「ポップス」の違いが、すでにかなり融解している、という点だ。まず前提として、今はポップスとアニソンの境目がないと言える。


アニメのタイアップ情報を見なくても、「どうせ YOASOBI が起用されているんでしょ?」という空気がある。あるいは Official髭男dism、米津玄師、King Gnu その周辺の面々が、すでにトップレベルの J-POP アーティストとしてアニメと組み、ヒットを連発してきた。アニソンバンドと言われて久しい FLOW や 凛として時雨 といった面々も今や「タイアップ」という戦略の上で J-POP と並列に売られている。そこをあえて揶揄してみせたところで、現状の構造自体はもう変わらない。

 

ここを少し整理すると、今の主流は「J-POP アーティストが戦略的にアニメ主題歌を担当している」のであって、「作品世界側に帰化した存在」になっているケースは実は多くない。極端な例として『チェンソーマン レゼ篇』を挙げるなら、作品の良し悪しとは別に、あり方としては明らかに「アーティスト側で売る」構図になっている。もし作品への帰化性を本気で追求するなら、あのラインナップを上田麗奈の歌唱で閉じる、という選択肢だってあり得たはずだ。だが現実にはそうではない。制作の段階で「宇多田ヒカルありき」で楽曲を組み立てたとパンフレットにもあるように、そこではまず「アーティスト」と作品がセットになっている。

 

作品が先にあり、その中に音楽が溶けるというより、「アーティスト×作品」のパッケージが最初から設計されている、という感触に近い。ここら辺はこの記事の終盤に書いた。もちろん、こうした状況がダメだと言いたいわけではない。ただ、こうなってしまった以上、「どこからどこまでがアニソンか」という線引きは、ほとんど意味をなさなくなりつつある。『ジョジョの奇妙な冒険』のエンディングに YES の『Roundabout』が使われたとき、それをアニソンと呼ぶのかどうか。

Roundabout

Roundabout

  • provided courtesy of iTunes

元ネタの繋がりで「アニメ」側に引き込まれた楽曲は、どの時点で「アニソン」と再ラベリングされるのか。そういった思索も、この十数年でかなり共有されてきた。

現在、「これぞアニソンだ」と指名される多くの曲は、すでに名のあるアーティストによって確立された「世界」をもともと持っていて、ときにそれが作品内へと還っていくこともある。だがここ数年のヒットソングの中で、本当の意味で作品内から立ち上がり、作品の側に閉じていった楽曲は、内製スタンスで動くアニプレックス方式、みんな大好き「梶浦由記×Aimer×LiSA/澤野弘之」ラインのような一部を除けば、決して多くはない。

 

Ave Mujica×Diggy-MO' 篇

さて、こうした状況の中で、「Ave Mujica」とはどこに位置づけられる存在なのか。

BUSHIROADのコンテンツ「BanG Dream!」から生まれたバンド群のひとつ、という説明をした瞬間に、「そんな二次元コンテンツを真面目に聴いているのか」と内心で嘲笑する視線が、今でも確かに存在している。これは被害妄想ではなくて、「制作システムの出自が最初からアニソン側に属している」という事実に対する、一種の偏見の表れでもある。だが、まさにその「最初からアニソン側に属している」という点こそが、Ave Mujica の特異性の出発点になっている。BanG Dream! は、声優×キャラ×バンドをワンセットにしたメディアミックスとして設計されており、ライブもゲームもアニメも、すべてが「キャラバンド」であることを前提に動いている。

ここがまず、YOASOBI や米津玄師のような、作品の「外側」から呼び込まれる異邦人型アーティストとは、根本的に違う。むしろ今の時代においては、ここまであからさまに「アニソン側」に軸足を置いたまま成立していること自体が、逆説的に誇っていいポイントになっている。表向きには「アニソンじゃん」と切り捨てられがちなフォーマットでありながら、現実には、流行っている音楽のかなりの部分に、SME (ソニーミュジックエンターテイメント)をはじめとしたレーベルが培ってきた「アニメソング的な売り方」のロジックが浸透している。

そのなかで BanG Dream! は、最初から「アニソン側」の制作システムとして組み上げられ、その内側で Ave Mujica のような異常値を生み出してしまったコンテンツでもある。タイアップとしてアニメに「降りてくる」アーティストではなく、作品世界の中から立ち上がり、そのままポップス側を侵食しうるバンドとして存在していることが、まず何よりも重要だ。

楽曲はすべてキャラバンド=Ave Mujica 名義であり、歌っているのは声優陣で、しかも「キャラクターとして歌う」構造が徹底されている。そのモードのまま、リアルライブでも再現される。つまり IP としての BanG Dream!(ゲーム/アニメ/ライブ)の内部に、Ave Mujica は最初から「完全」に埋め込まれている。

ここだけ抜き取れば、仕組みとしては昔からある「声優コンテンツ」と何も変わらないように見えるかもしれない。キャラソン企画の延長線上にある、いつもの二次元バンドだ、と。

だが問題は、そこで動いている「アーティスト構造」がまったく昔と同じではない、という点にある。Ave Mujica は、フォーマットだけ見ると典型的な声優バンドでありながら、その中身は明らかに常軌を逸した超人たちの集結になっている。ここがまず、このバンドの特異性として押さえておくべきポイントだ。

まずは、作品に倣って役者名を振り返ってみます。

  • 三角初華(ドロリス):佐々木李子
  • 豊川祥子(オブリビオニス):高尾奏音
  • 若葉睦(モーティス):渡瀬結月
  • 八幡海鈴(ティモリス):岡田夢以
  • 祐天寺にゃむ(アモーリス):米澤茜

ここだけ見れば、「ふ〜ん」で終わってしまう。
ぱっと見は、どこにでもありそうなキャラ名とキャスト名の列でしかない。

けれど、この役者たちを「中の人の経歴」で言い換えると、話がまったく変わってくる。

  • 佐々木李子:ミュージカル*1「アニー」出身の声楽ガチ勢
  • 高尾奏音:ミラノ国際ジュニアピアノコンクール最高位 ASSOLUTO
  • 渡瀬悠宇:D4DJ 経由で鍛えられたバンド育成組
  • 岡田夢以:元アイドル/クラブ系パフォーマー
  • 米澤茜:メタル対応のドラマーとして軸が立っている

平均的なメジャーアーティスト1組と並べて見たときに、明らかに編成がおかしい。
「こういう人がひとり混じっていたら十分に強い」というレベルの人材が、全員分そろっている。演者全員が、並々ならぬバックグラウンドを持つ「超過剰な布陣」なのだ。

しかも、それぞれが担当する楽器の編成は

7弦ギター×2、5弦ベース、ツーバス・ドラム、ピアノとオルガンの同時弾き。

(しかも pf の高尾はブラインド弾きや逆さ弾きといったパフォーマンス込みでやってのける)

という有様である。この条件を前提にした時点で、「並レベル」の人間にはそもそも土俵に立てない設計になっている。とはいえ、ここまで読んでもなお、

「でも、作曲や作詞がそこまで凝ってなければ、結局ポテンシャルを活かしきれないのでは?」

と感じる人もいるかもしれない。

問題は、というより、むしろ喜ぶべきなのはAve Mujica では、その「作る側」にまで異常値が配置されていることだ。楽曲の総合統括を担当しているのが、SOUL'd OUT の元MC にして、ソロ以降も異常な言語感覚を武器にしてきた圧倒的なカリスマ性も兼ね備えたDiggy-MO' だという、この一事である。

(嘘みたいな真)

作曲のメインは SUPA LOVE という集団が請け負っているが、リリースを重ねるごとに Diggy-MO' の介在度は明らかに増し、楽曲全体の「Diggy-ism」が増し増しになっていく。そんな状況なのである。

超すごい演者に、超すごい職人が全面的についたらどうなるのか。
本来なら実験としてすら成立しないレベルの構図が、「Ave Mujica」というバンドでは、すでに現実として走ってしまっている。

 

まず「歌詞」について触れておきたい。

Ave Mujica のコンセプトは明確にゴシック性に軸足を置いていて、その内的世界を歌い上げることが前提になっている。そのため歌詞は、ラテン語フレーズや宗教モチーフ、処刑台/革命/記憶といったイメージに満ちており、ほぼすべてが「Ave Mujica」という世界のために書かれている。

ここで重要なのは、Diggy-MO' という J-POP/ヒップホップ寄りの作家を、あくまで作品世界の中へ「召喚」している、という構図だ。彼を「ゲストアーティスト」として外側に据えるのではなく、世界観のコアに据えたからこそ、曲ごとの密度がどれも異常に「濃い」。

音楽ナタリーのインタビューで Diggy は、プロデューサーからのオファー内容として、

・自身のソロ曲『PTOLEMY』や『GOD SONG』に代表されるような
・フィロソフィの強い、アーティスティックな世界観を強く打ち出したい

というコンセプトを示されたと語っている。

natalie.mu

もともとこのコンテンツには明るくなかったので、最初にオファーをいただいたときに、まずはプロデューサーさんからいろいろとお話を聞かせていただいたんです。その中で、それこそ僕のソロの作品の「PTOLEMY」(2017年に発表されたDiggy-MO'の4thアルバム「BEWITCHED」収録曲)や「GOD SONG」(2018年に発表されたDiggy-MO'のベストアルバム「DX - 10th Anniversary All This Time 2008-2018 -」収録曲)に代表されるような、「フィロソフィの強いアーティスティックな世界観を強く打ち出したい」というコンセプトがこのAve Mujicaにはあるというお話をされていて、そのうえで「作詞を担当してほしい」ということだったんですよ。そしてさらに、資料の中にあった中世ヨーロッパやゴシックという世界観も、僕がもともとすごく好きなものだったりしたので、自分の中に脈々とあるいろいろなものを投影できていくのであれば面白いかなと思ったんです。僕自身のパブリックイメージとしては、ラップやストリートカルチャーの印象が強いと思いますけど、僕の実質的な音楽のルーツはピアノやクラシックなので、ラップ系統のアーティスト像だけではない自分の側面とか、歌モノとしての作詞作曲や世界観、自分の持てるスキルなどを最大限に発揮してばっちりやっていくと、このプロジェクトにも楽しく貢献できるかなって。

PTOLEMY

PTOLEMY

GOD SONG

GOD SONG

  • provided courtesy of iTunes

さらに中世ヨーロッパやゴシックを軸にした世界観も「もともと自分が好きな領域」だと明言し、そのうえで「ラップだけではない、自分の歌モノの作詞作曲や世界観、クラシック寄りのルーツも含めて、持てるスキルを全部使う場」だと位置づけている。

 

ここで挙がる『PTOLEMY』という曲名が、すでに象徴的だ。プトレマイオス=天動説。Diggy のソロにおける『PTOLEMY』は、天文学的な比喩を借りながら「世界がどう回っているか」を考える曲であり、それに対応するように『GOD SONG』では、その視点を「内側/外側」へと反転させている。

 

・天を回しているのは誰か
・世界はどこから見て回っているように見えるのか

この「天動説/観測者」の構図が、丸ごと Ave Mujica に要求されている。
要は、「『PTOLEMY』/『GOD SONG』級の哲学性と、天文学的な視点移動をバンド/キャラクターの歌に落とし込んでほしい」という注文であり、Diggy 側もそこに明確に応じている、ということだ。

前提として、Diggy-MO' のソロは「誰も歌えない唯一無二の世界」で構築されている。
その「誰にも歌えない」言語構造としてラテン、英語、日本語、造語、比喩、天体、神学を、そのまま Ave Mujica 側の器(超人バンド+キャラ+物語)に流し込んでしまっているのが、今の Ave Mujica の歌詞群だと言っていい。

「フィロソフィの強いアーティスティックな世界観を、そのままキャラバンドに移植する」というこのコンセプト自体が、すでに過剰であり、そこに Diggy の 『PTOLEMY』/『GOD SONG』系の思考回路を要求している時点で、Ave Mujica の言語領域は最初から 「普通のアニソン」ではあり得ない、足り得ない場所に立たされている。

 

そして『黒のバースデイ』(賀佐泰洋 & Diggy-MO’)である。初期の、しかもまだ比較的「抑えめ」と言っていいシングル楽曲からして、すでに色々とぶっ飛んだ音源が出てきてしまっている。

この曲は、いわゆるタイアップ用の「イメージソング」ではない。アニメ化以前、ノンタイの段階で作られた楽曲だ。つまり、アニメ側から「こういうシーン用に」とオーダーを受けた結果としての曲ではなく、まだ「Ave Mujica」という記号が今ほど固まっていなかった時期に、それでもなおこの密度で立ち上がってしまった曲だ、ということになる。ここがまずおかしい。

黒のバースデイ

黒のバースデイ

  • Ave Mujica
  • アニメ
  • ¥255
  • provided courtesy of iTunes

Na, 生々しい艶かしい
mad day 秘密めいた ruler

Loo-la, cool, cool

"ようこそ おいでなさい" 告げる 始まりのとき

ねぇ しなやかなつま先が 'ゆらっ' 描き出すわ
輪舞曲(ロンド)

という流れで、ゴシック/官能/支配/饗宴が一息にたたき込まれる。
普通なら一曲の中で薄めて配置しそうなイメージを、冒頭数行で全部重ねてしまうこの言語圧。さすが Diggy-MO' としか言いようがない。

歌詞の妙という意味では、仕掛け自体は目新しいわけではない。表記上は「輪舞曲」で日本語だが、歌唱では「ロンド」とイタリア語読みすることで、「りんぶきょく」と発音したときには出ない跳ね方と浮遊感を作っている。このあたりはまだ理解可能な範囲のテクニックだろう。

それでも、その手前に置かれた「'ゆらっ'」の区切り方や、子音と母音の配列でニュアンスを揺らす感じは、やはりセンスの塊だと思う。意味と音価の両方を握ったうえで、足先が揺れる情景と、聴き手の知覚そのものを同時に揺らしてくる。

そしてこの「Diggy語」を、佐々木李子にきっちり歌わせてしまう。
前提を踏まえれば、「佐々木李子が歌う」という事実そのものが、とんでもない意味を持っている。クラシカルな声楽基盤を持つミュージカル出身のシンガーが、この言語の塊を、しかも「キャラクターとして」完全に咀嚼し、吐き出しているからだ。

ここで重要なのは、背景にいる Diggy-MO' という存在は、あくまで現実世界側の話であるという点だ。作劇上は、「三角初華=ドロリスが表現している歌」として、すべてが成立していなければならない。設定上は作詞も「キャラクター」が担当していることになっているのだから、現実には Diggy-MO'の言語操作と佐々木李子の声楽的テクニックがフル稼働しているにもかかわらず、表向きのレイヤーでは「ドロリスというキャラクターが歌っている」として耳に届かなければならない。この二重構造を、何事もなかったかのような顔でクリアしている時点で、すでにかなりおかしい。

 

スタートからしてこの調子なので、では、その後はどうなのかという話ではあるが、どんどんおかしくなっていく。『Choir ‘S’ Choir』のイントロなんてほぼほぼ梶浦的多層コーラス重ねである。

Choir ‘S’ Choir

Choir ‘S’ Choir

  • Ave Mujica
  • アニメ
  • ¥255
  • provided courtesy of iTunes

Daa-mennus, Daa-menn, Philis-poliaa,
Taa-mennus, Taa-menn, Jealis-Moliaa

Choir Choir, Choir Choir 'S' Choir

並べ方が完全に

・母音を揃えた多声コーラス用の音節
・ラテン風の疑似単語
・意味よりも祈祷感・呪文感を優先した並び

で統一されている。つまり「疑似ラテン×多層コーラス」という意味で、梶浦曲線とほぼ同じ系譜に乗っている。子音単位でもっと分解してみましょう。

「Daa / Taa」ここは母音[a:]を揃えて、mennus / menn みたいに子音を足したり削ったりして、別パートが重ねやすいようにリズムを刻む、そしてPhilis / Jealis でぎりぎりphilia(フィリア=愛) / jealous(ジェラス=嫉妬深い)っぽい意味の残骸を匂わせつつ、poliaa / Moliaa で長母音[a:]をまた伸ばしていく。これらを統合させて意味がギリギリ崩壊しないレベルで単語をバラして、発音しやすい音節に再編成した呪文を発動させている。しかも、そのあとに「Choir Choir, Choir Choir 'S' Choir」と、今度ははっきり意味が分かる英語が乗ってくることで、前半は造語ありきのよく分からない祈祷語=謎のコーラスが、後半になって「Choir」と連呼することで、その祈祷の主体が合唱団であることをメタに宣言させるイントロという構成になっているわけである。

言語はお手のものとはいえ、これは単なる「それっぽい雰囲気」ではない。多声コーラス用の音節設計という、明らかに「そっち側の棚」の技法を持ち出してきているからこそ、「これは Ave Mujica のための書法だ」と納得させられるだけの説得力が生まれている。

 

この調子で『神様、バカ』『Mas?uerade Rhapsody Re?uest』と続いていく時点で、すでに「言語も楽器もおかしい」バンドだということは十分に伝わる。どちらもタイトルからして、神への悪態とマスカレード=仮面舞踏会をねじ曲げたような言葉遊びになっていて、ゴシックと皮肉のブレンド具合がDiggy印そのものだ。

 

神さま、バカ

神さま、バカ

  • Ave Mujica
  • アニメ
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Mas?uerade Rhapsody Re?uest

Mas?uerade Rhapsody Re?uest

  • Ave Mujica
  • アニメ
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そして、初期楽曲群の締めとして置かれているのが『Ave Mujica』である。

Ave Mujica

Ave Mujica

  • Ave Mujica
  • アニメ
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この曲、ある意味で実はかなり「救い」になっている。というのも、タイトルが示す通り、バンド「Ave Mujica」がアニメ『MyGO!!!!!』13話において「デビュー曲」として披露する先鋒玉がこの『Ave Mujica』であり、この曲だけは作曲・編曲が Elements Garden上松範康藤永龍太郎)サイド、作詞が織田あすかという、旧来のBanG Dream! 系譜の布陣で書かれているからだ。

つまり流れとしては、ノンタイの段階で「本当の Ave Mujica 成分」をぶっ放した『黒のバースデイ』〜『神さま、バカ』〜『Mas?uerade』〜『素晴らしき世界 でも どこにもない場所』という一連の楽曲で、Diggyism全開の地獄を先に見せておいてから、

「とはいえ、これをアニメ視聴者にいきなり投げつけるのはさすがにぶっ飛ばしすぎだよね」という、どこか冷静なメタ意識が最後の一歩で介入してくる。

 

その結果として、「BanG Dream! らしい」ドラマティックなロックナンバーとして、優しさの残った『Ave Mujica』が上松ラインで書き下ろされ、それが13話で晴れて初披露されるという、わけのわからない周回をしている。

 

・ノンタイ楽曲群

Diggy×SUPA LOVEによる、本来の「技術過剰」ゴシック地獄版の Ave Mujica


・アニメ内デビュー曲『Ave Mujica』

Elements Gardenが担保する、「視聴者に提示するための入口」としての「Ave Mujica」」という二重構造になっているわけで、この時点で「どこまで本気でやるつもりなんだこのバンドは」と軽く眩暈をアニメ『Mygo!!!!!』から追っている人はこれをリアルタイムで経験しているということだ。

振り返った今思えば、あの書き方は、予兆以前に、終わっていないというか、まだ始まってすらいないのだ。この段階での『MyGO!!!!!』世界における Ave Mujica は、あくまでも「仮初め」の姿にすぎない。13話で鳴る『Ave Mujica』は、視聴者に提示するためのプロトタイプであって、本来の怪物形態はまだ封印されたままになっている。

 

では、アニメ『Ave Mujica』では何が起こるのかといきたいところだが、その前に一度だけ「段階」が挟まる。それが、2024年10月ごろに発表されたミニアルバム『ELEMENTS』である。ここで Ave Mujica は、初期シングル群と13話デビュー曲で見せた要素をいったん分解し、再構成するかたちで、さらに一段階上の「進化」を遂げる。

ELEMENTS - EP

ELEMENTS - EP

  • Ave Mujica
  • アニメ
  • ¥917

収録楽曲

・『Symbol I : △』作詞/作曲:Diggy-MO’ & 長谷川大介

・『Symbol II : Air』作詞/作曲:高橋涼 & Diggy-MO’

・『Symbol III : ▽』作詞/作曲:Diggy-MO’ & トミタカズキ

・『Symbol IV : Earth』作詞/作曲:Diggy-MO’ & 長谷川大介

・『Ether』作詞/作曲:Diggy-MO’ & 長谷川大介

タイトルからして「四元素+エーテル」で揃えてあり、作家陣もすべて Diggy-MO’ を軸にした共作で統一されている。この時点で、もはや単なる寄せ集めではなく、「Ave Mujica の世界観そのものを抽象化したコンセプトEP」として設計されていることが分かる。

ここから先のアニメタイアップ楽曲、とりわけDiggy-MO’ & 長谷川大介コンビが手がける『KiLLKiSS』は、アニメ『Ave Mujica』において新しい扉を開ける曲として機能する。ただし、その前段に『Elements』の五曲が揃っているからこそ、これは「Mujica体制」を固めるための強烈な前振りとして、より大きな意味を持つ。

流れとしては、まず初期シングル群で「やばさ」を見せつけ、次に『Ave Mujica』で視聴者向けの入口を用意し、さらに『ELEMENTS』で四元素+エーテルという形で抽象度を一段上げる。そのうえで『KiLLKiSS』へ突入する。ここまでの段階構成それ自体が、すでにバンドの設計思想を語っている。

楽曲的な接続・類似性という観点では、『Alea jacta est』から『KiLLKiSS』へ伸びるラインがいちばんしっくりくる。というのも、『黒のバースデイ』と『KiLLKiSS』はリリック面でかなり同調している一方『ELEMENTS』は Diggy-MO’の解説からも分かる通り、かなり強いコンセプトのもとで固めて作られている。曲調や歌詞世界観まで含め、制作時期の位相は明確に分かれているはずだ。

natalie.mu

 

スタンスは先述の通りで、このミニアルバムでまず構築されているのはコンセプトとしては「火・風・水・土・エーテル」という五元素を軸に、Ave Mujica的な世界観=神話/宗教/ヨーロッパ文明の層を持つ連作ストーリーとして各曲を制作されている。

各エレメントには精霊(火=サラマンドラ、風=シルフのエアリエル、水=ウンディーネ、大地=地母神シアリーズ/デメテル)が対応し、象徴と物語が相互に補強し合う構造。最終章のエーテルで「月より上の領域=真理/光」に触れ、全体を循環と回帰へ還元すると、Diggy-MO'は全体像を俯瞰して制作している。

そしてこれらの要素はどういう時代性で考えられた/練られた世界なのか、という点について思索すると、より「Ave Mujica」における世界観が明確になる。本作に含まれている要素は複雑だが同時に「Ave Mujica」歌詞に潜在する裏打ちの幅広さでもある。幸いにしてDiggy-MO'が自らが解説している記事を自分なり噛み砕いてみる。

 

基本的には西洋秘教がベース。四大元素火・風・水・土の世界観は、エンペドクレスが提唱した「四根(四元素)」が起点。古代ギリシャ(紀元前5世紀)の自然哲学であり、四元素に対応する精霊(サラマンドラ/シルフ/ウンディーネ/ノーム)はパラケルススが16世紀に体系化したルネサンス期の錬金術博物学的オカルトの創造力。

テンペスト』の引用はジャコビアン時代期のシェイクスピアであり、そのまま「風の精霊アリエル」は、テンペスト由来の精霊像+パラケルスス系のエア・エレメンタルとしての機能性が高い。

そして一番組み合わせとして象徴的だなと思うのが、『Symbol III : ▽』。

Symbol III : ▽

Symbol III : ▽

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男性性=火(△)と、女性性=水(▽)だから、重ねて六芒星=大宇宙という歌詞はtrack1と2が繋がって3に行くという点で明確な「コンセプト」ありきでそれがバラード調で歌われるからこそまとまりとして機能している。

寄せる 寄せる 寄せる波

私の性の中で

馳せる 馳せる 馳せる夢

微かな音を抱きしめて

揺れる 揺れる 揺れる愛

あなた対極にいて その
炎と重なって

いま 大宇宙になる

つまり上下三角の重ね合わせで六芒星記号論的にも面白い収斂。

 

そして「大宇宙」という語彙は、マクロコスモスと小宇宙=ミクロコスモスと対応関係にあり、その合一や、対立物の結婚という読みはヘルメス主義/錬金術に相当する。

寄せる 寄せる 寄せる波

生の中で

馳せる 馳せる 馳せる夢

微かな音を抱きしめて

揺れる 揺れる 揺れる愛

ああ その命と重なって

いま 大空になる

前項と対極的な歌詞が重なっている。

「私の性の中で」「あなた対極にいて」「炎と重なって」「いま 大宇宙になる」

これは性の合一、対極の統合、「元素」の重なり=結婚を経て、ミクロを突き抜けてマクロ(宇宙秩序)へ跳ね上がる構図。

終盤の「生の中で」「命と重なって」「いま 大空になる」は性→生、対極→重なり→大宇宙→宇宙と関係性になっており、ここでのスケールは個の生/身体/感覚の内側に閉じたミクロよりと言える。マクロからミクロへと構図が浮かび上がる。つまり、これは「上が下に似て、下が上に似る」というマクロコスモス/ミクロコスモス対応の定番ロジックそのもので、エメラルド・タブレット由来の「As above, so below」=「上にあるものは下にあるものと同様である」と合致し、「△(火・男性性)と▽(水・女性性)が重なって六芒星=大宇宙」も同義として機能する。

だからこそ、対立物の合一/男女・火水の結婚=超越的な第三の生というのは、同じ運動を内面スケールと宇宙スケールで反復であり、エメラルドの上下同様というのものが、錬金術・ヘルメス主義そのものである、ということだ。

 

そして、『Ether』だが、これはかなり複合的。

Ether

Ether

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月より下

冒頭のこの歌詞は一見普通の表現に見えるが、「月下界」や「地上の世界」を意味するアリストテレスの宇宙観。でなければ歌詞として

月より下に時代を創って

月より下に それでも掲げ 闘うのね

という歌詞は打ってこない。「月より下」が地・水・風・火の四元素からなる生成消滅の世界で、「月より上」が不変で円運動する天界で、その媒質が第五元素アイテールという形式が存在する以上、、『Ether』はシリーズ全体の「四元素=月下/エーテル=月上」という設定を、比喩じゃなく用語レベルで打ち出している。

静寂の中でだけ輝く本当の光

でもね 知ってほしい 本当の光を/静寂の中でだけ輝くその光

ここにおける「光」の繰り返しは、月上=不変の真理・光という役割を、物語の語り手にしゃべらせてる部分だから、いい意味であからさま。

一葉の銀河系

これは一葉というのがいわゆる体系化のことで、それの銀河系というのは生命の樹や、セフィロト的。生命の樹は中世ユダヤ神秘主義カバラで成立し、ルネサンス以降の西洋秘教でも「宇宙全体と魂の地図」として受容された図像でアニメでも『エヴァ』とかで散々モチーフになっている、定番。「一葉=一枚の樹葉」+「銀河系=宇宙の全体像」という圧縮具合が、ミクロ(葉)とマクロ(銀河)を同時に立てる作りになってて、これも『Ether』の「総括章」らしさ。

自由になる → 調和が訪れるとき自由の概念も無くなる → 宇宙へ還る

この一連は、四元素側の闘争・生成を超えたところで概念が溶けるという、「一者」へ還元されるという終章の扱い。ここでもやっぱり、ヘルメス主義・錬金術の「対立や区別が最終的に統合され、元の全体へ帰るという意識性が強い。Mujicaの中で一番思想スケールが大きい。星図に載っていない場所=既存の運命からはみ出した領域としてのAve Mujicaみたいな楽曲ですから。

 

ここで、歌詞の解説を多分に書いたのは、世界観の基盤もそうだが、『ELEMENTS』は歌詞も楽曲も秀逸というのは前提としてあるが、歌詞が平面すぎて、含意が多面的すぎるという両義性がある。『PSYCHO-PASS PROVIDECE』(2023年)において、 雑賀譲二先生(cv山路和弘)が作劇のセリフで常守に向かって

正義も真実も多面的だ。上から見なければ理解できないこともある

と、説くシーンがありましたけど、そういった目線を地で描き切っているのが本作のコンセプトアルバムの凄さであり、同時にという意味だ。絶対現場では「万物が〜」「ハクスリーが〜」「シェイクスピアが〜」とかいってる

(まぁあの作品のED『当事者』も歌詞の文節レベルではガッツリこの系譜なんだけど。)

当事者

当事者

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つまり、細かすぎないか?という視座に立てば、それこそ「波/夢/愛/光/静寂/月より下/宇宙へ還る」みたいな言葉は表層では普通に情緒的で歌と成立すが、それだけではない。という意味合いが大きすぎる。「寄せる/馳せる/揺れる」は反復として、まず聴覚的に気持ちいいリズムを作るしDiggy-MO'らしさは浮かび上がるが、でも同時に、反復って儀礼・呪文・祈りの形式でもある。こういった点から、『ELEMENTS』の歌詞は「平面の情緒」と「多面体の象徴」が同居していて、単線で読めない「難しさ」がある。雑賀のこの視点は、そのまま『ELEMENTS』の作り方に重なる。

 

その意味では『素晴らしき世界 でも どこにもない場所』(長谷川大介 & Diggy-MO’)なんかは本当、そのままハクスリー引用だなと思える「優しさ」がある。

すばらしい新世界』では市民が「ソーマ」という薬によって不快な感情を抑え、常に表面的な幸福感を享受している状態=痛みのない、明るく、無難な「偽りの白」みたいな等間隔で伊藤計劃『Harmony』も『虐殺器官』的な痛覚マスキング的な役割を持つ「Watch Me」の性質からそのシステムにおける象徴=白い表紙みたいな。

(大元はシライシユウコ氏のイラスト付きでしたが今流通しているのは真っ白い版)

だからこの楽曲のデザインも「基調が白」みたいな連想があるし、これは成立する。

歌詞でも

唯一のひかりを目指すために壊せ

と、優しい理想や安定をいったん破壊して突き抜ける運動が鳴ってるし、「破壊と創造」がテーマだとされている。

「破壊」と「創造」をテーマにした2曲は、Ave Mujica独自の世界観を存分に表現しつつ、彼女達の楽曲の幅広さを感じさせる2曲になっている。

bang-dream.com

ここで白/黒があるのって、「創造」=白と「破壊」=黒みたいな文意がある。

それは装丁文化から考えても実際言えることで、水戸部功のブックカバーデザインは現在のデザインのスタンダードにもなっているので、「デザイン」としての意識性は高い。そもそもとして白黒の基調のトーンを落ち着かせるという形式自体が、サンデル教授の『これからの「正義」の話をしよう』における水戸部装丁以後、大流行りしたという事実からも、マインド精神としてもここはむしろ正統派。

(こういう表紙を本屋やamazonの表紙でみたら大体本作の水戸部フォロワーです)

 

なによりサンデル教授、伊藤計劃、ハクスリー、オーウェルテッド・チャンは全て、水戸部装丁案件。つまり、ハクスリー/伊藤計劃テッド・チャン/(オーウェルのepi文庫新訳群)といった痛みの消去・制度化された白・反乱としての黒を主題に抱える作品群の視覚が、水戸部功のミニマル装丁へ収斂していくということ。

それを思えば完璧に筋が通る。

そう考えれば、この二種のジャケットってそのまま「水戸部」圏内
素晴らしき世界 でも どこにもない場所

素晴らしき世界 でも どこにもない場所

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音楽的には「高速メタル」と「バラード」の組み立て方と、その配置バランスで型がつく分、では「歌詞」はどこまで詰めているのか?ということが重要になってくる。

 

そういう意味では楽曲の構成は割と簡易的に表現できる。

 

『Symbol I : △』ではガチガチの高速メタルが炸裂し、『Symbol II : Air』ではジャズ要素を含んだピアノがかなり自由に暴れ回る。高尾奏音のテクニックがバチバチに剥き出しになりつつ、ベース/ギター/ドラムも「どう考えてもBanG Dream!の想定スペックを超えているだろ」という領域を何食わぬ顔で踏み越えてくる一曲になっている。

高尾奏音御本人のSNSに「演奏してみた」があがっているが、普通に超人。

淡々とこなしているがその実鍵盤のタッチレベルで芸術的な動きができなければリアクション込みで、ミスなしでこんな鮮やかには弾くのは非常に難しい。普通に高尾奏音女史のレベルの高さがXの動画で味わえるのは豪華だよなぁとか思う。そういう意味でも何度でも関心できる動画です。ASSOLUTOは伊達じゃない。

 

反面、『Symbol III : ▽』はガラリと空気を変える。
ここでは、ミュージカル出身の佐々木李子のボーカルを主軸に据えたバラードが展開され、伴奏もほとんどピアノとボーカルに徹している。「ミュージカル歌手」と「ミラノ国際ジュニアコンクール最高位」の二人だけで成立する空間は、もはやバンドサウンドというより、小規模な舞台芸術の一場面に近い。これがアニメシーンのバンドで成立するとか本当に「信じられない」し「あり得ない」が、「どっこい嘘じゃありません」と一条が突っ込む間もなく「成立」しているのだ。

 

『Symbol I〜III』だけで、Ave Mujica が「爆走メタル」と「声とピアノの芸術空間」という両極を、同じユニットの中で自然に共存させていることが、かなりはっきり見える構成になっている。

このバラード調の一曲があるからこそ、自分は「この二人なら『Cats』の『Memory』が成立してしまう」と本気で思っている。世界観的にも炸裂するやつだ。いまだ公式にカバーはないが、そうであってほしいという願望込みで、可能性としては余裕で射程に入っているし、脳内再生ではとうの昔に400回は聴いた。

もちろんライセンス関係が難しいのは既知の話だ。そこは一旦脇に置くとしても、冷静になって考えてほしい。

この「舞台芸術としてのバラード空間」がユニット内部に実装された瞬間、もう一つの射程が自動的に開く。つまり、Ave Mujica が外部の舞台曲を取り込むとき、その曲は単なるカバーではなく、バンド世界の延長として回収されうる、という地点だ。

第一にプロデュースが Diggy-MO’ であること。彼の詞世界は、ポップの表層を保ったまま西洋的な詩と神話の厚みへ降りていく構造を最初から内蔵している。

 

第二に、ユニット全体の世界観がゴシックとして設計されていること。『ELEMENTS』が提示した「五元素=ヨーロッパ文明・神話・秘教の抽象化」は、その裏打ちをすでに歌詞レベルで明確にしていた。

 

第三に、『Symbol III : ▽』で露わになった「声×ピアノ」のバラード成立性である。高速メタルと同居しながら、舞台の独白に等しい密度の空間が、同じユニットの中で破綻なく成立してしまうという事実がここで証明された。

この三点を前提にすると、グリザベラが歌い上げる『Memory』は、T・S・エリオット由来の詩世界ごと Ave Mujica に取り込める楽曲だとすら言えてしまう。夜、廃墟、過去への執着、自己回想としての独白など、こうしたモチーフは、そもそも「Ave Mujica」側の言語と親和性が高い。そこに「ミュージカル歌手」と「ミラノ最高位ピアニスト」が揃っている時点で、舞台版に肉薄するどころか、ゴシック側へ振り切った異常な『Memory』が、理論上はいくらでも組めてしまうわけである。

要するに、ここで語っているのは自分の願望という「小さい話」ではなく、『ELEMENTS』が抽象化によって作った器と、『Symbol III』が現実に開けてしまった表現モードが、そこで初めて外部の舞台曲を「内部言語として再解釈する」条件を満たしてしまった、という構造の話だ。

こうなってくると『Memory』は「もし歌われたら面白い」ではなく、「このユニットが進化の先で触れてもおかしくない形式」として、必然の側に立って見えてくる。

メモリー

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そんな、リスナー側の想像力すら掻き立てる5曲入りミニアルバムの威力を前提として、2025年、年始早々にアニメ版『Ave Mujica』が放映された。そしてオープニングが『KiLLKiSS』である。ミニアルバム『ELEMENTS』で、

・爆走メタル
・ジャズ寄りピアノ暴れ曲
・声とピアノだけの芸術空間バラード

というレンジを一度見せたうえで、その本編開幕の一発目として置かれたのが

Diggy-MO’ & 長谷川大介コンビの『KiLLKiSS』、という流れになる。

KiLLKiSS

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つまり「ここから先が、本当に Ave Mujica が「物語ごと」暴れ出すフェーズですよ」という宣言が、アニメ版のOPそのものに仕込まれていたわけである。

本編の物語そのものも、暴れ馬ぶりはそれはそれは……なのだが、この記事はあくまで音楽の話なのが、ある程度だけ触れておくなら、内容的には原作のスティーヴン・キング的な内閉的空間をバンドものの皮で包み、映像としてはキューブリック版『シャイニング』的なノリと勢いを、『ソードマスターヤマト』ばりのラストスパートで押し切った作品、と言える。

物語の骨組みだけを抜き出せば、

・『Ave Mujica』1話で CRYCHIC 解散の予兆
・『MyGO!!!!!』3話で解散そのもの
・1〜7話で MyGO 結成と崩壊
・8話以降で Ave Mujica 結成と CRYCHIC 問題の回収
・『Ave Mujica』終盤で初華/初音の過去編とクライマックス

となる。

このあたりの整理については、

rino.《論考》音楽×青春×人間関係 ガールズバンドアニメにおける群像劇について 或いは『響け!』から『トラペジウム』に至る病.『ブラインド』vol.3, p.53.

で詳しく書いたものの抄訳である。要するに、「十人のキャラクターによる群像劇」が二つの作品をまたいで展開している構造になっている。『MyGO!!!!!』が「バンドの崩壊と再生」を描いた作品だとすれば、『Ave Mujica』は「仮面とペルソナ」を軸にした心理サスペンスとして、その裏面を引き受けている。本論そのものはすでに同人批評として寄稿済みなので、詳しい話はそちらに譲りたい。

 

さて、『KiLLKiSS』だが、これは初期シングル群と『Elements』で養った要素が、ついに一本に束ねられたアンセム級の一曲になっている。さしづめSireniaに近いというかあっちをもっと過激にしましたというゴシックメタル性分を感じられる音源である。

『Fallen Angel』『All My Dreams』『Winter Land』あたりはばっちり合うと思う。

Fallen Angel

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All My Dreams

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Winter Land

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まずイントロは、アニメ版と歩調を合わせるかたちで「ライブ披露直前の仮面劇パート」が挿入されており、弦が鳴り出すまでに一拍「タメ」がある構成だ。映像付きで観ればそこに必然性が生まれるが、音源だけで聴くと、その前段の寸劇も含めてひとつのトラックに押し込まれているぶん、どうしても説明としては不完全にならざるを得ない。正直に言えば、「track0=仮面劇、track1=KiLLKiSS」という二段構えにしたほうが、Ave Mujica というバンドの方向性まで含めて、より筋の通った提示になっていただろうと思う。1話で一番の最も豪快な見せ方をしているのはこの冒頭のオープニングをライブで披露するという点にあると言える。

BanG Dream! Ave Mujica』.2025年.第一話

この劇中会話の中で、オブリビオニス(豊川祥子)が
「大丈夫、月の光が起こしてくれますわ」
と口にする一言がある。この台詞が、そのまま後の楽曲イントロへ直結する伏線になっている。それが、第10話で紆余曲折の末に「新曲」として披露される『Crucifix X』だ。この曲のイントロが、ベートーヴェンピアノソナタ第14番『月光』第1楽章:Adagioのピアノ演奏から始まるのは、まさに先の「月の光が起こしてくれますわ」という台詞を回収するための仕込みである。

言葉としての「月の光」が、のちに楽曲としての「月光」になって、バンドそのものを叩き起こす。セリフとクラシック引用が一本のラインでつながる、このモチーフ設計がまず異常に良い。

とはいえ、これも曲としては文句なく良いのだが、クラシックメタルとして捉えると、音源面でどうしても軽さが残る。特に電子オルガン系のトーンが前に出ることで、シンフォニック系メタルが持つ本来の分厚い質量感よりも、ひと世代分ライトな手触りになっているのは否定できない。

 

同系列の音楽性でいえば、摩天楼オペラがちょうど比較対象として分かりやすい。アルバム『GILIA』収録の「Plastic cell」などは、2分前後からピアノで「月光」フレーズを解釈込みで引用しているが、あちらは作法としてきちんとピアノ主体でやり切っているぶん、クラシックメタルとしての説得力が明らかに高い。

Plastic cell

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ベートーヴェンの「月光」を呼び出すのであれば、本来はああいう(電子ピアノであったとしても)ピアノで地面ごと鳴らすアプローチの方がしっくりくるし、その比較で見たときに Ave Mujica 側の音色設計は、どうしても物足りなさが顔を出してしまうのが『Crucifix X』の惜しい一点である。イントロだからこそ余計にだ。それ以外はものすごくいいのに、導入部だけがオルガンというのは、やっぱり損をしている気がしてならない。理屈をいったん脇に置いても、正直ここは電子ピアノで弾いてくれた方がまだしっくり来る。というか、他のパートでは明確にピアノで演奏しているところもあるので、意図的な使い分けをしているからこそ、余計に気になってしまうところではある。

 

そして、EDの『Georgette Me, Georgette You』である。この楽曲は前半独唱とピチカート弦が粒に広がり、メインメロディを高尾のピアノで攻めつつ、1m20sから全体の楽器(ドラム、ベース、ギター)が乗り込みつつ、でも核は「高尾のピアノ」を失わない。

Georgette Me, Georgette You

Georgette Me, Georgette You

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以後のバラード系含め、Ave Mujicaの佐々木李子の歌声・高尾ピアノフォーカスの組み合わせは本作の組み合わせのDiggy-MO’ & 松坂康司で固定される。続く『Imprisoned XII』は、アコースティックギターとピアノで静かに幕を開ける。ここでも布陣は、佐々木李子のボーカルと高尾奏音のピアノという、先ほどの二人の組み合わせだ。サウンド面だけを見れば、Diggy-MO' が手がけた Ave Mujica の楽曲群の中でも、かなり「おとなしい」部類に入る。

Imprisoned XII

Imprisoned XII

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だが、その分だけ歌詞には重たいものが託されている。タイトルからして「Imprisoned=囚われた」であることが示す通り、この曲の中心にあるのは、解放ではなく「閉じ込め」の感情だ。

楽曲の歌詞を一部抜粋する。

 ねじれた空を描いて思うの 羽根のない君 堕ちればいい

触れてしまった神聖なもの 今夜 私の神話になって

ほら 逃げられないわ 弱っていく君 閉じ込めて

 

You know... you know... you know...
so, you know i want you to know how much i need you so

これらのフレーズを束ねて読むと、『Imprisoned XII』が歌っているのは、物理的な牢獄ではなく、情動そのものが作り出す檻だというのがよく分かる。

ねじれた空を見上げながら、「羽根のない君は堕ちればいい」と想像する視線には、守護ではなく「加害」の欲望が含まれている。そこに続く「神聖なものに触れてしまった」瞬間は、本来は侵してはいけない領域に手を伸ばしてしまったことへの自覚だが、それを「今夜、私の神話になって」と言い換えることで、相手の聖性を丸ごと私物化する方向へひっくり返している。さらに「弱っていく君を閉じ込めて」「逃げられない」と続くことで、その聖性を傷つけ、弱らせたうえで、自分の物語のなかへ監禁しようとする意志がはっきりと示される。

英語パートで繰り返される「You know...」のフレーズも、「どれだけあなたを必要としているか、あなたに知ってほしい」という「依存」の告白でありながら、その響きはむしろ「必要としているからこそ逃さない」という、一種の共依存的な執着の言い換えになっている。そして当然これらはDiggy-MO' のマインド(劇中レイヤーでは三角初華が祥子に向ける情動)として、「牢獄/縛り/解放」を一続きの感情として描こうとしているのは明らかだ。

 

タイトルの『Imprisoned XII』のうち、「Imprisoned」がこの精神的な監禁状態そのものを指しているとすれば、「XII」はその枠を数字レベルでもう一段階強調するマーカーとして働いている、と読むことができる。単に「12曲目だから」的な即物的な考えよりも

・12という数字が持つ周期性(12ヶ月、12時間、十二星座、十二使徒
・タロットで XII が「吊るされた男(The Hanged Man)」=動けないまま世界を反転して見るカードであること

といった連想を踏まえると、「終わらない周期のなかに吊されたまま動けない感情」「解放ではなく、ねじれた悟りとしての停滞」といったニュアンスがここに集約されている、と考えても不自然ではないし、むしろAve Mujicaの世界としてオープニング映像にカードにキャラを当てはめている方向性を考えるとむしろ妥当と言える。

つまりこの曲は、Ave Mujica 全体の「救われないゴシック性」の中でも、特に

・ねじれた感情による「自発的な監禁」であり
・神聖なものを自分の神話に回収してしまう暴力性であり
・それでもなお「あなたを必要としている」と告白せざるを得ない依存である

こうしたいちばんストレートなかたちで歌っている位置付けの楽曲として読むことができ、そのうえで「XII」というナンバリングが、元の世界に戻れないまま、一段ずれた位置で宙吊りになっている感情の「番号札」として機能している。本楽曲はこのような「歌詞」の解釈/考察性に富んだ楽曲として本作は受け止めることができる。

 

そして、アニメ『Ave Mujica』13話「Per aspera ad astra.」では、Ave Mujica 名義の新曲が三曲、初めて観客の前に姿を現す。

ストリーミング配信が即日解禁ではなかったことも含めて、ここで行われているのは「リリース」ではなく、あくまで物語空間での「披露」「宣言」としての初演だと言っていい。今でこそ配信で秒で聴けますけど、当時の待たせ具合のもどかしさといったら辛いわけですよ。

だって「Ave Mujica」の新曲3曲分ですよ?精神がもたない

後ろ二曲の組み合わせはそれぞれ初だが、この三曲が、ノンタイ期と『ELEMENTS』で仕込まれてきた「怪物バンド」としての Ave Mujica像を、ようやくアニメ本編の前面に引きずり出す役目を担ったことは、最終回まで見届けた視聴者なら誰しも実感したはずだ。(というか内一曲はそれ明確に打ち出している)

それぞれの楽曲は単体でも成立しているのに、13話仕様ではあえて幕間の演劇込みで「連結させて」披露されたからこそ、その破壊力はそれ以前のライブシーンとも根本から次元が違っていた。音楽的に。

 

ラウドロックな曲調に加えて歌詞が完全にDiggy-MO'のそれに近い。元々という話ではあるが、そういう意味で違和感なくAve Mujica楽曲に取り入れた楽曲はこの3本といっていいだろう。『八芒星ダンス』では

八芒星ダンス

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make it hot アクロバティック・キスで運命の啓示に火を点けて

無い 成さない style 災い じゃ従わない

哀 嘲笑い yea’p, till i die

buddy, alright?

yes ya gonna jump
yes ya gonna jump 突き抜けてく

という具合に、日本語/英語/スラング/擬音をすべて「跳躍」のイメージに束ねてしまう書法が、そのまま炸裂している。

・「make it hot」「アクロバティック・キス」「運命の啓示」までを、一息で接続してしまう過剰さや、「無い 成さない style 災い じゃ従わない」で、否定語とスタイルをほぼ韻の塊として扱う手つき「yea’p, till i die」「buddy, alright?」のあたりで急にストリート感のある呼びかけに変調し、最後に「yes ya gonna jump」を反復させて、音節そのものをジャンプ台として扱う。

こういう組み立て方は、SOUL'd OUT 〜ソロ期の Diggy の言語感覚とほぼ地続きだ。

にもかかわらず、トータルではちゃんと「初華=ドロリス/祥子=オブリビオニス」が観客を引きずり上げるための煽りとして成立していて、Diggy 個人の楽曲ではなく、Ave Mujica のパフォーマンスに見える。ここでようやく、バンドの側が Diggy-MO' の言語を完全に自分たちの血肉にしてしまった段階に達していることが、歌詞レベルではっきり可視化される。

 

呼応性として彼のソロアルバム『Diggyism』の楽曲『FIRE WOO FOO FOO (feat. LiSA)』(ソロ作でもかなりレベル高い一曲でもあります)の歌詞を例として引き合いにする。

FIRE WOO FOO FOO (feat. LiSA)

FIRE WOO FOO FOO (feat. LiSA)

ギリギリの振り切りで
収まってねぇぜ
Drastic proportion もそう

内面すらキバツさらけ出す欲求の下 舌足らずの Baby

Hey yeah girl, stay with me

It's plain to see you know やり切りの体で

お前の Sadness ぶっちゃけりゃどうだっていいぜ

No time to waste ってもう

(Yo) Posing, posing subliminal

張本人 強靭 Mental で Go!

 

『八芒星ダンス』では「make it hot」みたいな一発の英語フレーズ+「アクロバティック・キス」「運命の啓示」みたいな過剰な名詞ブロック「yea’p, till i die」「buddy, alright?」「yes ya gonna jump」のコールアウト。

 

一方で、『FIRE WOO FOO FOO (feat. LiSA)』では「ギリギリの振り切りで」「収まってねぇぜ」の自己ブースト+「Drastic proportion」「Sadness」とかの英単語を、文法ガチガチじゃなく「パンチのある名詞」として配置+「No time to waste」「Go!」で、そのまま突っ込む。

Diggy-MO'の言語感覚は後で詳しく掘るとして、この時点で「相当」濃度が高い。「Diggy語がここまでストレートに美少女アニメバンドへ翻訳される未来なんて、いったい誰が真面目に想像していただろうか。

 

そうでありながらも『八芒星ダンス』は世界像としては、『ELEMENTS』での『Symbol III : ▽』で組んでいた元素(対立)→合一(六芒星)→循環と還元(Ether)、つまり核に到達しているからこそ、八芒星は、その秩序がもう一回転して「再生/新しい循環/次の世界」を開く鍵として機能させている。

 

合一の瞬間=完成の図形、からの完成の先で、新しく回り始める世界のエンジン。『ELEMENTS』が宇宙論の提示と統合だとすれば、八芒星ダンスは「その宇宙論を現実(アニメ/バンドのドラマ)で再起動する儀礼の歌となる。だから13話の最初の1曲目はこの楽曲となっている。構図としては天球の幾何学。Ave Mujicaの儀式性を、そのまま星図の回転していて、八芒星=星型多角形=軌道といこと。

Diggy-MO’が Elements で六芒星=大宇宙の到達点を一度描いたあと、アニメ本編の局面で「八芒星=再生と循環の更新」を掲げた曲に進むのは、作家の語彙の使い方としても、シリーズの段階構成としても、かなり筋が通った楽曲であることも、含意である。この楽曲だけ例外的に、『ELEMENTS』の続編であることを忘れてはいけない。

 

そしてMujica楽曲の中でも人気の高い楽曲『顔』。

顔

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これはベースで始まるイントロもそうですが、まず最初に佐々木李子の「舌打ち」が音へと転化されるところからはじまる。これもどう考えてもDiggy-MO'くらいしか発想として持ち得ないスタンスである事の表れだ。歌詞も、読めても歌えない現象度で言えばトップレベルの詩性を帯びている。冒頭を引用します。

事を/事を拗らせてる
の/せてるの

アルレッキーノ コルセットを調整してよ

ちょいと顎上げたりして 鏡の私

同じに見える違う顔

化粧映え 誰 double 化け charmin' チェーミン チューミン

まず/が入る時点でおかしいし、読めても楽曲に載せて歌い上げることが難しいことが音読レベルでわかる。元々楽曲と合致しているからこそなのだが、「のせてるの」を「の/せてるの」で分けるという母音/子音単位で歌詞を操作し楽曲に対して流動的に載せるのはそう簡単ではない。文字列としては同じ言葉をスラッシュで分解し、意味をずらしながら重ねる手つきそのものが、歌詞にある「同じに見える違う顔」という曲の主題とシンクロしている。

主題は、本楽曲の英題が『Alter Ego』なのからもわかるように、「もう一人の自分」である。三角初華と三角初音がいて、どっちがどちらなのか、という設定そのものを楽曲に翻訳した一曲。ボカロオタク向けにざっくり言えば、kemu の『拝啓、ドッペルゲンガー』系統の曲だと思ってもらっていい(超古い/純度90% kemu 楽曲)。
Mujica は知っているけれど kemu を知らない人も多いと思うので、この際「堀江晶太」という四文字は一度脳に書き込んでおいてほしい。


www.youtube.com

 

閑話休題

 

そしてアニメ『Ave Mujica』を締めくくる楽曲こそが『天球(そら)の Música』だ。これは個人的には、Diggy-MO' の本音が最もストレートに表に出ているテーマ曲だと感じている。

前提として、そもそも三角初華というキャラクターの風貌や役割が、現実世界の Diggy-MO' をなぞっているのではないか、という指摘は、Diggy/SOUL'd OUT 周辺のファンからも相当数挙がっている。ここは正直、かなり意識していると見ていいだろう。

 

ただ、それは「見た目」だけの話ではない。マインドの側でも、この曲まで来ると「Mujica 楽曲=Diggy-MO' の精神を本当に継承した曲」と言い切ってしまっていいくらい、思想レベルで接続が見えてくる。これは以前「春日影論」の終盤でも一部触れた点だが、「天球」という単語と「Música(音楽)」という単語をわざわざ組み合わせている時点で、単純な「天文学モチーフ×音楽」という話では終わらない。ここにはもう少し深い層の文脈が折り畳まれている。

 

第一に、ボエティウスが絡んでいる。誰だそれ、という人も多いと思うので雑にまとめると、6世紀のローマ世界で活動した学者であり、アリストテレスをはじめとしたギリシア哲学をラテン世界に橋渡しした人物のひとりだ。そのボエティウスが著した『音楽教程(De institutione musica)』は、半音/全音といった概念の整理も含め、いわば「西洋音楽理論の古典的教科書」のひとつとして扱われてきた。

 

ここでボエティウスは、音楽を次の三つに分けて定義している。

・宇宙の音楽(musica mundana)
・人間の音楽(musica humana)
・道具の音楽(musica instrumentalis)

本来の意味合いをざっくり訳すなら、

・musica mundana=天体の運行や四季の循環のような「宇宙の調和としての音楽」
・musica humana=身体と魂のバランスとしての「人間そのものの調和」
・musica instrumentalis=実際に楽器や声として聴こえる「演奏される音楽」

 

といったところだろう。かなり乱暴に現代的な喩えに置き換えるなら、アーティストを聴くときに「世界観で聴く」「構造で聴く(コード・進行)」「歌詞やサウンドで聴く(共感型)」といった複数の層がある、というイメージに近い。ただし、あくまでこれはアナロジー的解釈であり、元の概念そのものとは当然ずれている。

 

いずれにせよ重要なのは、「宇宙の音楽(musica mundana)」という発想が、そもそも天文学と音楽が地続きだった6世紀の時代の産物だという点にある。ボエティウスと、のちのコペルニクス『天球の回転について(De revolutionibus orbium coelestium)』のあいだには、「天球」という共通の語彙が共有されている。そして、その土台を与えたのがプトレマイオスアルマゲスト』であり、すなわち「天動説」の宇宙像である。

 

つまり流れとしては、

プトレマイオスが『アルマゲスト』で天動説的な天球モデルを数学的に固め
ボエティウスが、その「天球の調和」を含みmusica mundana という概念を立ち上げ
・千年近く後に、コペルニクスが『天球の回転について』で、その前提ごと回転させる

この3段階を踏んでいるということだ。

 

ここで Diggy-MO' に戻ると、彼のソロ曲『PTOLEMY』は名前からしプトレマイオスそのものだし、歌詞の中で「アルマゲスト」という語を持ち出しつつ、「丸(マル)の内側から世界を見ている視点」から語っている。つまり、「天球の内側に閉じ込められた観測者」としての感覚が強い曲になっている。

 

あしたなら神 アルマゲスター

みてみたいな マルの外側から

あしたには神 アルマゲスター

してみたい 夢みたいんだ yellin'

PTOLEMY PTOLEMY
PTOLEMY PTOLEMY

PTOLEMY PTOLEMY
PTOLEMY PTOLEMY

PTOLEMY PTOLEMY
PTOLEMY PTOLEMY

PTOLEMY PTOLEMY
PTOLEMY PTOLEMY

 

ここにおける解釈はアルマゲストプトレマイオスが記述した天球モデルであり、「みていみたいな マルの外側から」というのは内側から見た側の視点=天動説である。

また、『PTOLEMY』 のMVで印象的なのは、背中に「in」と「out」とスプレーで書かれたオレンジのジャケットを着た二人の男性が、巨大な地下空間の中で延々と絡み合うように踊り続ける構図だ。歌唱もDiggy-MO'が時々映るが、基本的には、「in/out のペアが無観客の円環空間で拮抗運動を続ける」という一点だけが、異様なまでに執拗に描かれている。これは「天球の内側から世界を見ている観測者」という曲のテーマを、そのまま身体レベルの記号に落とし込んだイメージだと言えるだろう。

 

内と外、主体と世界、天球の内側に閉じ込められた視点と、その外側へ出ようとする衝動が、二人のダンサーとして分裂し、押し合い・絡み合い・ぐるぐると回転する振付として可視化されている。面白いのは、「in」と「out」の文字が同時にはほとんど画面に収まらず、カメラワークや回転のタイミングによって、視聴者は断片的にそれを読み取るしかない点である。観測者は常にどちらか片方の立場からしか世界を見られず、「内側から見ている」という天動説的な視点そのものが、すでにループ=閉じた系の一部に組み込まれている。

 

その閉じた円環を、二人の身体がぶつかり合いながらなぞり続けるMVは、『PTOLEMY』という楽曲が抱えている「天球の内/外」をめぐるテーマを、極端なまでに単純化した「図解」として機能している。

 

一方、『GOD SONG』では、「here i come as the GOD SONG」や「0 が 1 になる」といったラインを通して、明らかに「外側から世界のルールを書き換える声」として歌っている。

雷鳴 ga-ga, va-va, bang ya 轟く ya 動く

動く 新世界うごめく change ya hey ya, ya all

誰かが探していた story must be told

産声を上げる in this chaos hey, gya-gya, oh,

天 裂ける そう 聞こえる yes, yes, i can

君に聞こえない "that" and

見える i can, can 見えるよ全部 君に見えない "it"

そして "0" が "1" になる 見せてあげる

here i come

here i come as the GOD SONG

yes, here i come

here i come as the GOD SONG

『PTOLEMY』の「あしたなら神」に呼応するように「here i come as the GOD SONG(神々の歌として、ここに参る)」や「0が1になる 見せてあげる」といった歌詞からもわかるように『GOD SONG』はアンサー楽曲として成立している。

また楽曲内で何度も繰り返される歌詞群を分解すると

loopin' loopin' got this all this on it
loopin' what you want in
with it at times what you want in / keep at bay what you want in

・「loopin'~got this all this on it」=「ループがすべてを背負って回っている」
・「loopin' what you want in」=「そのループの中に、望むものを流し込め」
・「with it at times what you want in / keep at bay what you want in」=「ときに欲するものを抱え込み、ときに欲するものすら押しとどめる」

という意味合いが浮かび上がる。ここで歌われているのは、ループ構造そのものに「何を流し込むか/何を遮断するか」という権限を持つ存在のフレーズだ。

『PTOLEMY』が天動説的な「内側の眼差し」を歌っているとすれば、『GOD SONG』はその外側に立つことで、視点の転倒そのものを歌にしたアンサー曲として捉えられる。

ここでMVの振り子/ニュートンのゆりかごが決定的に効いてくる。振り子の等時性はガリレオに連なる時間・周期の発見であり、ニュートンのゆりかごは運動量保存や力学を最短距離で可視化する装置だ。球が一定の周期で往復し、外から手を加えない限り同じパターンだけを反復する姿は、「世界はまずループ=周期運動として出来ている」という科学的宇宙像そのものに重なる。その上に『GOD SONG』の「ループに何を入れるか/何を締め出すか」という言葉が乗ることで、主体はガリレオ的な「揺れの法則を見つけた観測」から、ニュートン的に「その法則を扱い再配列できる者」へとスライドする。

 

そして歌詞では「0が1になる」「ループに何を流し込むか」という歌唱に映像では、振り子(=周期運動)と球の衝突(=0→1→0→1の離散イベント)でそれを可視化するという構造もあり、これらは

・周期運動そのもの=ループ
・どの球をどの強さでぶつけるか=ループに流し込む情報
・伝わらず止まる球=「keep at bay what you want in」

として『GOD SONG』の全体像を表している。

要するに Diggy のソロワークの中ではすでに、

  • 天球の内側にいる視点(『PTOLEMY』)
  • 天球の外側から介入する視点(『GOD SONG』)

というペアが完成していて、後者は振り子=ガリレオニュートン的モチーフで「ループと規則の再設計」を身体化している。だから『天球(そら)の Música』というタイトルは、プトレマイオス的天球とボエティウス的宇宙音楽を踏まえつつ、なおかつその外側へ出る声まで含めた二重の意味を、最初から内蔵していたのである。

それがDiggy-MO'が意図的であるというのもMVに隠されている。それは『PTOLEMY』のMVカットが中盤の「loopin' loopin' got this all this on it」で一瞬だけ切り替わる。

ここの映像が「一瞬」回想みたいに侵入してくるのは、「この曲はあの曲の外側からの返答として立っている」という制作レベルの自己注釈でもある。そしてそれは映像作家からも裏打ちができる。

『PTOLEMY』を監督した映像作家、富永省吾氏は自身のサイトにて以下のようにコメントをしている。

シルク・ド・ソレイユにも出演し、海外を中心に活動するパフォーマンスチームをフィーチャーし、複雑な楽曲コンセプトと合わせたミュージックビデオを監督。

身体が複雑に絡み合う完全オリジナルの振付のもと、国籍を超えたノンバーバルな精神世界を想像させる。

shogotominaga.com

 

このコメント自体は「GOD SONG側の引用意図」まで断言するものではないが、少なくとも『PTOLEMY』が「概念を身体で図解するMV」として作られていることは制作サイドの認識と一致しており、『GOD SONG』がそこを引用するというのは、意図的であるという読みは強くなる。そして、その『GOD SONG』も富永省吾MV作品であるということ、これら全てが、噛み合う。

shogotominaga.com

つまり、映像監督サイドの認識としても『PTOLEMY』は「精神世界を身体で図解するMV」であり、そのイメージを『GOD SONG』側で再引用している、という読みは決して無理筋ではない。

 

『GOD SONG』のMVの映像の流れとしては基本的こういう形で進む。

『GOD SONG』のMVは、ニュートンのゆりかご・周期運動のミニマルな可視化としての「ループ」を、白い実験室みたいな場で「法則」として置いている。だから黒の衣装をしたDiggy-MO'と白い実験質というコントラストが効いた空間で進む。その空間がいきなり、色温度も空間も一気に暗転し『PTOLEMY』へ飛ぶ。

これは編集上、「ループという抽象を、いちど身体化されたループ(PTOLEMY)へ接地させてから、また神視点のループ制御へ戻す」ための接点として機能している。

これは、言い換えると、『GOD SONG』の語り手=Diggy-MO'が「ループの外側に立つ者」であることを誇示するその刹那に、映像は逆に「内側のループの記憶」をチラ見せして、両者が一本の円環に貫かれているということを視覚的に証明してる。だららそこに「内と外が一曲で往復する」必要性がある。

 

「外側から来た神の歌」が「内側の地下円環」を一瞬だけフラッシュバックすることで、外側は無根拠な超越じゃなく、内側のループを引き受けたうえでしか成立しないことを踏まえると、先述のように「loop」がすべてを背負って回っているというラインに、映像が「背負われる側のループ」を重ねに来てるという構造と合致する。そのため、歌詞とMVが相互注釈になってるタイプの表現であると言える。

www.billboard-japan.com

以上の条件を踏まえた上で、『DX』の本人のインタビューを振り返る

--続いて今回のベスト盤のDISC1に収録された新曲「GOD SONG」についてですが、ストリングスをおもしろく使ったアプローチなど、先ほどのサントラの話を聞いて合点がいくサウンドでした。制作はいつ頃から?

Diggy-MO’:歌詞のテーマは、「PTOLEMY」(DISC1収録)と同時期に出てきた感じだったけど、形に起こし始めたのは去年からかな。

Diggy-MO'自身が「GOD SONG の構想・核は『PTOLEMY』の時期に芽生えていた」という趣旨を語っている。つまり両曲が同一の思考圏から生まれた「対」であることが示されている。これら自体はDiggy-MO'の愛好者の中では親しまれている事実であり何も新しい発見、というわけではない。

また、『DX』の特典のメルマガ「帽子の中身」を一冊にまとめたものの中で、『GOD SONG』についてはこのようにコメントしている。

見えないものが見える、聴こえないものが聴こえる。感覚が研ぎ澄まされて過敏になることで、いいように変化するものもあるし、一方メルトダウンしていくものもあるけど、結局ループの中にいる。自分も時代もそうだよね。一つの大きなマルがあって、その中にいる目線から見たアングルが『PTOLEMY』で、マルの外側からが『GOD SONG』です。

「帽子の中身」.P152

Diggy-MO'本人の口から出た言葉と付き合わせると、

感覚が研ぎ澄まされて過敏になることで、いいように変化するものもあるし、一方メルトダウンしていくものもあるけど

この部分は、『PTOLEMY』の内側視点の身体的コストを言語化に等しい。つまり内側にいるからこそ鋭敏になり、鋭敏になるからこそ壊れもするという、ループ内部のドラマの言い回し。

結局ループの中にいる。自分も時代もそうだよね

ここは両曲の共有地点。『GOD SONG』はループ(周期運動/反復法則)そのものを「外側から扱う」歌だけど、外側に立ったから無限に自由、ではなく、扱っている対象がそもそもループだということを忘れてない。一方『PTOLEMY』は、まさに「ループの中に閉じ込められている感覚」をゼロ距離で鳴らす。内と外で距離は違うけど、「ループが世界の基本形」という認識は同じということ。

一つの大きなマルがあって、その中にいる目線から見たアングルが『PTOLEMY』で、マルの外側からが『GOD SONG』です。

『PTOLEMY』において、「マルの外側から見たい」という欲望を歌詞として歌っており、内側の観測者であることを自己規定している。

 

これらの流れを踏まえたうえで、『天球(そら)の Música』というタイトルを改めて見てみると、そこに込められた情報量の多層性が見えてくる。

 

「天球」という語でプトレマイオス的な宇宙像とボエティウスの「musica mundana」 を踏まえつつ、「Música」という語で「音楽そのもの」であると同時に、「musica instrumentalis」側も含めてしまう。さらにルビで「そら」と振ることで、天文学的な「sphere」と、物語世界としての「空/宙」を重ねている。

 

 

だからこそ、プトレマイオス〜Diggy-MO'、そして「Ave Mujica」までという思想体系が貫通しているのだ。そのうえで、ではこの曲の歌詞そのものは何を歌っているのか?

ここから先は、『天球(そら)の Música』の歌詞を、読み解いていこう。

ゆこう 明日へと / 美しい時代(とき)よ
人は忘れてく
いつかは消えてく

これの視点は完全に「musica humana」側=身体と記憶をもった人間の時間軸。
忘れる/消えていく/崩れていくのは「天球」じゃなくてあくまで、人間の方であると説いている。

想いを綴るようになったのは なぜ

ここでいたって、「なぜ書くのか?」と自問してる。有限な存在=人間が、自分の時間を「超えるもの」に接続しようとして「綴る」=書く/歌う、という行為が出ている。
これは、「人間の内なる調和(musica humana)」において、自分の外へ音として出ていこうとしてる瞬間の一節として読めるし成立する。

Let's sing along let's sing along
張り裂ける 心 奏でて

ここで、は張り裂けながら「心」を奏でて「歌う」という意味であり

巡り逢うノイズの中 魂の overdrive

ここは演奏における「ノイズ」や、そのノイズの中の overdriveディストーションかけた魂という語彙が展開されるため、「楽器の音」「ライブの音」の話である。つまりど真ん中で「musica instrumentalis」における領域の話をしている。

 

ここまではテキストと三文法を突き合わせると「そうとも読める」という解釈の最良の回答に近いにとどまるが、終盤の以下一節が破壊的に合致する。

もしもこの詩が天球(そら)に夢のつづきを描くのなら

ここにおける「詩」とは、「人間」が綴った「テキスト」と「歌」であることから、これらは、humana+instrumentalisであり、「天球に夢のつづきを描く」=その詩を、「musica mundana=宇宙の調和」側の層にまで投げてしまうということ。

つまりここで主張していることは大事で、

「有限な人間の歌(humana+instrumentalis)を、もし天球=musica mundana のに「届かせて」まで「書き込める」ならという意味

そしてここで、再度『PTOLEMY』を振り返ってみるとあの時のDiggy-MO'は歌詞煮込めていたのはアルマゲストを「丸の内側」から眺めていた観測者でした。それが本楽曲では「丸の表面(=天球)」に詩を書き込もうとしている、という転換が起きている。状態がまるっきりひっくり返っているのです。

その上で畳み掛けるように

ゆこう Ave Mujica(世界) へと

これは本当に、Diggy-MO'の「魂」と「愛」と「宣言」ですよ。字面としては「Ave Mujica」でもルビとして「世界」ってことは、「世界=Ave Mujica」って自分で言っちゃってる。つまり、プトレマイオスボエティウスが「天球」と呼んでいたものを、
この曲では「世界=Ave Mujica」として再定義するところにまで至っている。

プトレマイオスが「天球(丸)」のモデルを作り
ボエティウスがその球の調和を「musica mundana」と呼び
・Diggy が『PTOLEMY』で「丸の内側からそれを見たい」と歌い
・『GOD SONG』で「世界のルールを書き換える声」へ移行し

・「天球=世界」を「Ave Mujica」というバンド/物語/音楽圏に書き換えた楽曲

それが『天球(そら)の Música』なのだ。数世紀単位における音楽史をDiggy-MO'は「Ave Mujica」という存在に託したという構図になっているのだ。

 

Diggy 的な「内側・外側問題」と繋げるともっと多層的で、個人的な哲学生が強い部分もある

光と闇を司るその命
きっと すべてに物語がある

ここは、両面(光と闇)も命であり、そこには「物語」がある。という主張の歌詞だ。両面=命というのは視点としてはちょっと神視点に寄っている。しかし

こんなに誰かを想うのは 鳴呼 なぜ
光と闇を抱いたまま 胸焦がし

と、今度は「光と闇」を「抱いたまま」胸を焦がしている。つまり、「物語」があるという神の目線から、「光と闇」を抱えて燃えている個人へと目線がシフトしている。そしてその構図は完全に『PTOLEMY』と『GOD SONG』を一曲に落とし込んでいるということになる。つまり、天球側(大きな調和)の視点と、人間側(胸が焦げている個人)の視点を彼は何度も行き来しているということだ。

「すべてに物語がある」という一文は、musica mundanaの調和を「ストーリー」として読み替えている感じでもあるし、逆に言えば、「個々の物語が集積したものが、天球としての世界(Ave Mujica)になる」というような読解も可能だ。

 

まとめると、『天球(そら)の Música』とは「人間が忘れ、消えていくことを知りながら、詩と音楽を天球=世界(Ave Mujica)側に書き込もうとする歌」である。

系譜的に変化するならば

という縦線はかなり濃厚。

 

つまるところ、Diggy-MO'がBanGDreamのプロジェクトに参加オファーを受けたきっかけの二曲が『PTOLEMY』『GOD SONG』であり、それが「天球の内側から見たい/外から書き換える」視点という構図をすでに遂行した後にそれを全部ひっくるめて「Ave Mujica=世界」という器に継承するという再演以上のことをバンド「Ave Mujica」で描いたということ。天球=世界=Ave Mujicaであると。

 

少しだけ原初的な話になるが、ここで言う天球/musica mundana の「型」は、ボエティウスが体系化した時点で突然生まれたものではない。むしろピュタゴラス以来の調和観が、プラトン宇宙論の中で増幅され、以後くり返し呼び出されてきた反復史の産物である。

ティマイオス』が示すように、コスモスは数学的比例と調和として構成されるという発想が、宇宙と音楽を同じ秩序の二つの顔として結びつけた。今でこそ「数」と「音楽」は分離されていますが、当時の価値観としてはこのふたつは結ぶ文化圏似合った、という前提ありきであり、それで言えば『国家』『饗宴』がしっかりと現世に読まれつつけているのは当時:現在で共有されるべき価値観がどこかしらある一方で、『ティマイオス』がそれらと比べて読み継がれるという目線でみると知られいない以上に、共有知としてのあり方が変わったからこそとも言える。

こうした「今や」の思想史的状況を、ボエティウスは六世紀の時点で一度整理し直したと見る方が実態に近い。

彼の仕事とは、この巨大な伝統を「musica mundana / musica humana / musica instrumentalis」という三分法に畳み込み、それを中世ラテン世界における標準語彙として流通させたこと、その再整理の仕方そのものにこそ意味がある、ということだ。

この三分法は、のちの西洋音楽論と宇宙論の想像力を長く支配し、結果として、いま語っている「Ave Mujica」の世界観にも直結する文脈をかたちづくっている。

だからDiggy-MO’の射程の基盤にあるのは、ボエティウスという「教科書」である以前に、ピュタゴラスという「原器」そのものだと言える。

「万物は数である」が指し示すのは、世界のあり方それ自体を数として捉える視線であり、とりわけ音楽世界に対して決定的な影響を与えてきた思考のかたちである。まず、コスモス全体を「音楽的比例」で構成される秩序として理論化したプラトンらの仕事があり、それをボエティウスが一冊の教科書にまとめ上げて、中世ヨーロッパの標準宇宙観+音楽観へと引き上げる、という形に落ち着く。

 

そのうえで、最終的にグイド・ダレッツォが、musica instrumentalis のレベルで「では人間が実際に歌えるようにしよう」というかたちで、ut–re–mi–fa–sol–la という階名唱(ドレミファソラシの原型)や四線譜を提案し、それを『ミクロロゴス(音楽小論)』としてまとめる。現在の西洋音楽の基盤の多くは、おおよそこの一連の成立史に収束していく。

 

え、ではなんで今、五線譜なのか?答えは簡単。「四線譜じゃ無理」という現実があったからだ。ごく実務的な事情に突き動かされた結果である。四線譜は、単声のグレゴリオ聖歌のような、比較的狭い音域には十分対応できた。でも十三世紀以降、ヨーロッパ音楽はポリフォニー化していきます。そうすると声部が上下に大きく動くようになっていく。そこで「もう少し縦にマス目を増やさないと書けないし、読めない」という発想に至るわけですが、だからといって六線・七線まで増やすと、今度は譜面の視認性が落ちる。結果として、多声の複雑さを支えつつ、なおかつ読みやすさもぎりぎり守れる落としどころとして、五線譜が十四〜十五世紀のあいだに標準として定着し、今に至る。それこそAve Mujicaの音源考えれば五線譜じゃないとみたいなメタ読みもできる。

 

話を戻すと、「ピュタゴラス」に始まり「ボエティウス」を経て、その後のケプラーらに至るまで、一種の概念体としての「天球」を軸にした神学・音楽・科学の体系化は途切れずに続いていく。ここで問題になっているのは、「ピュタゴラス以後の天球」の解釈を、神学者・音楽家・科学者たちがいかように受け止めてきたのか、という思考の系譜そのものだ。

 

そして特徴的なのは、現代の感覚からするとほとんど信じがたいのだが、「全部をひとつの枠組みで考える」という発想があの時代には普通に稼働していた、という点である。数学・物理・音楽・宗教がバラバラに分解された時代に生きている自分たちからすると、歴史を紐解いて「ああ、こういう時代もあったんだ」と驚くしかない。音楽=数=宇宙=徳という考えが「普通」で動いていたのが、ピュタゴラスプラトンボエティウスの時代の日常感覚。

弦の長さの比が音程になる、という考え方は、数比が「聴覚的な調和」として現れることを意味する。同じ数比が天球の運動にも表れている、というのが「天球の音楽」であり、その秩序と調和をまねて音楽を作れば、人間の魂にも秩序と調和が宿る、という発想が「音楽神秘数」の背後にある。三分法ですら、現代の感覚で言い換えれば、

  • musica mundana=宇宙論
  • musica humana=人間論/心理学
  • musica instrumentalis=音楽学

と分解されてしまうだろう。「音楽は音楽でしょ?」という現代側のカテゴリ分けのほうが、むしろ西洋音楽の歴史から見れば「嘘だろ」と言いたくなるくらいの縦割りである。数は数理、音楽は芸術、宇宙は物理、神秘は宗教かオカルト。

だから授業では

歌いましょう

・鑑賞しましょう(バイアスかかりまくった『アマデウス』とか)

音楽史の「名前と年号」を覚えましょう

になる。音楽の授業が面白くないのは、分断後だけ見せられてるからとも言える。それなりの理由はある。制度的には分断後の方が効率いいし、実際そうなんだけど、補助線として「正しい/間違ってる」じゃなくて、「おもろい/つまらん」で引いて評価するなら、分断前の方が圧倒的におもろい世界。

 

数学/倫理/宇宙論/宗教が、ぜんぶ「音楽」に集約してた側ですから。

 

こうした分断された「当たり前」の側から眺めると、「天球の音楽」や「万物は数」といった言葉は、どうしても「はいはい神秘主義ね」ってなるのが当たり前なんです。

Ave Mujica は、そういう意味で「本当の意味で音楽をやっている」ユニットだと言える。ここで鳴っているのは、単なる楽曲やキャラソンではない。天球や星図といったモチーフを入口にしながら、宇宙観(musica mundana)、キャラクターの倫理と感情のドラマ(musica humana)、そして実際に耳に届くトラックと歌唱(musica instrumentalis)を、一つの枠組みの中で駆動させている。

かつて音楽=数=宇宙=徳がワンセットだった時代の感覚を、Diggy-MO’のテーマ性を持ち込んで、二十一世紀のポップカルチャーにもう一度立ち上げてしまっている、という意味で、Ave Mujica は「分断前の音楽」の再演をやっているのだ。

でも、だからこそ、そういった分断以前を一冊にまとめた書籍も存在しています。

『天球の音楽: 歴史の中の科学・音楽・神秘思想』(1998年) 

 

提案にはなるが、ここで読者の皆さんに一つ協力していただきたい。

復刊ドットコムに1票投票をお願いします。自分のアカウント名で既にコメント理由も投下済みなので、あとはMujicaファンの皆様が体系的に当記事を裏打ちとして理解するための一助としても、資料としても活用できる「声」を届けていただければと思います。

www.fukkan.com

www.hakuyo-sha.co.jp

導線として自分も復刊を望むコメントを書きました。

それはそれとして、これらの体系がある中で、忘れていけないが、これらはすべて作中の登場人物や物語の行末に置かれた楽曲であるということだ。

 

それにもかかわらず、ここまで来ると、キャラクターという媒介を通じて Diggy-MO' が己の哲学を徹底的に集約している、過剰なまでに「プロデューサーとしての集大成」的なスタンスが立ち上がってくる。

 

だからこの楽曲は最後に来るし、ぶっちゃけ「Ave Mujica」は一旦ここで終わっている。物語的にも、Diggy-MO' がプロデュースする意味としても、ここでひと区切りがついている。BanG Dream! という枠組みの中で、最大級の思想と卓越した言語魔法を持つ表現者 Diggy-MO' という一人のカリスマを用い、その超越的なスケールを「ひとつのバンドプロジェクト」に流し込んだ。

その乖離ぶりも含めて、とてもじゃないがリスナー側は生半可な受容態度では受け止めきれない。それこそこそ、musica mundanaとして響いてくる。

(『Completeness』で他曲との質感が異なっているのもこうした「面」で考えれば意図的と捉えれれる)

だからこそ、『黒のバースデイ』から『天球(そら)の Música』に至るまでの楽曲群は、サウンド、思想、歌詞、それぞれのレベルで総合芸術としての進化を遂げた成果であり、それを 2023〜2025 年というわずか二年でやりきった「大プロジェクト」であったと言える。こうして眺め直すと、1st アルバムなのにタイトルが『Completeness』なのは、単に『KiLLKiSS』の歌詞からの引用「だけ」ではないことが見えてくしなんなら、『KiLLKiSS』にも物騒ながら

You bleed, yes, bleed
その血で 天(そら)の五線譜を書き換えれば

と、天体と音楽記譜法が直結している一曲でもあったりするわけです。

 

Completeness

Completeness

  • Ave Mujica
  • アニメ
  • ¥1681

むしろ Diggy-MO' にとっては、ここまでがひとつの円環として「完璧に閉じた」と見るほうが自然である。

この項の長文で展開した核となるアイデアは5月にポストしたこれが萌芽

では、燃え尽きた後の「Ave Mujica」はどうなるのか。

ここで浮かび上がるのは、単なる商業的な継続・不継続の話ではなく、「虚構バンド」としての存在性そのものの問題だ。実はこの問いには、すでに先例が存在する。
アニメーションとキャラクターを媒介として「虚構のバンド」を立ち上げ、そのまま現実世界の音楽シーンに実在化させたプロジェクトたちだ。世界規模で言えば Gorillaz、日本のオタク文化圏で言えば EGOIST が、その代表例になる。

 

Gorillazはコンセプトバンドとして始まりながら、20年以上にわたって「キャラクターの時間」と「ミュージシャンの時間」をずらし続けてきた。EGOIST は『ギルティクラウン』『PSYCHO-PASS』という物語世界から生まれたユニットでありながら、作品が終わったあともryo(supercell)とChelly の音楽ユニットとしてしばらく現実側に残り続けた。

どちらも、「物語が終わったあと、虚構バンドはどこに居場所を見つけるのか」という問題を、一度は引き受けているプロジェクトである。

 

虚構バンドと2020年代の音楽

ではここで一度、虚構バンド(架空アーティスト)について振り返ってみる。

まずこの手のアーティストスタイルを定着させた功績としては外せない前例として、岩井俊二×小林武史という組み合わせに寄って生まれた二つの先行例が挙げられる。

スワロウテイル』(1996年)から生まれたバンド「YEN TOWN BAND

リリイ・シュシュのすべて』(2001年)から生まれた歌姫「Lily Chou-Chou

YEN TOWN BAND

YEN TOWN BANDは映画の主人公・グリコ(演:Chara)がボーカルをつとめる「架空の無国籍バンド」として設定されているが、制作側としては、小林武史プロデュース+Charaボーカルのコンセプト・プロジェクトとして成立だ。

ここで重要なのは、「物語の中のバンド」がそのまま現実の J-pop シーンに顔を出し、ヒットチャートの一角を占めてしまったという事実である。

90年代の日本のポップス史を引きで眺めると、しばしば「2TK(小室哲哉小林武史)の時代」と総括されるように、この二人がチャートの空気を大きく規定していた。YEN TOWN BAND の代表曲「Swallowtail Butterfly 〜あいのうた〜」が、オリコンチャートで31位から1位へと逆噴射するように浮上したのも、映画主題歌である以前に「小林武史がフロントに出てきたポップ・ソング」として、当時のリスナーの耳に届いていたからだろう。

つまりここで起きているのは、「物語世界の中に存在する雑多なバンド名義」が、いつのまにか日本ポップス産業の一等地にまで滑り込んでしまう、という現象である。

フィクションの側で立ち上げたはずのアーティスト像が、現実の音楽産業へと浸食していくその意味で、YEN TOWN BAND は「虚構から現実への影響の転化」を象徴する最初期のケースとして位置づけられる。ここで起きているのは物語世界の雑多なバンドとしての名義が日本ポップス産業の一等地にまで滑り込むという、虚構からの現実への影響の転化だと言える。

 

Lily Chou-Chou

そして、同じ岩井俊二×小林武史の組み合わせが、より「一人のカリスマ」に焦点を当てたかたちで結実したのが『リリイ・シュシュのすべて』だ。中学生たちが崇拝する謎めいた歌姫「Lily Chou-Chou」の存在感は、この作品全体の空気を決定づけている。

もともと Lily Chou-Chou は、岩井が立ち上げた BBS小説企画「Lilyholic」の中で形作られた架空のアーティストであり、映画公開前からネット小説の連載と楽曲リリースが並走していた、という珍しい経緯をもつ。ただし、その実態の構造は YEN TOWN BAND とほぼ同じだ。

 ・音楽プロデュース:小林武史
 ・ボーカル:当時無名だったSalyu
 ・コンセプト/歌詞の一部:岩井俊二

という布陣であり、その延長線上で作られたサウンドトラック『呼吸』も、現在では小林武史のキャリアを語るうえで欠かせない仕事として位置づけられている。映画と音楽がほぼ一体化した「カルト的名盤」としての評価に加え、Salyu、および岩井×小林ラインのその後のキャリアに与えた影響はきわめて大きい。

Kokyuu

Kokyuu

実際、このラインからはアルバム『TERMINAL』が生まれ、そこに収録された「to U(Salyu ver.)」では、作詞を Mr.Children櫻井和寿が担っている。どちらも小林武史プロデュース圏の人間であり、ある意味では『リリイ・シュシュのすべて』という組み合わせがなければ、この接続自体も起こり得なかったと言ってしまってよいだろう。

to U (Salyu ver.)

to U (Salyu ver.)

  • provided courtesy of iTunes

この楽曲は、作詞がミスチルの櫻井という迂遠の上に成立しているが、どちらも小林武史のプロデュースの側の人間であり、その意味で『リリイ・シュシュのすべて』の組み合わせがなければ成立しないとさえ言える。

何より重要なのは、映画の中ではほとんど姿を見せない「神話的な歌姫」として存在していた Lily Chou-Chou が、現実世界では Salyu の声と小林武史サウンドによって、しっかりとした実体を持つ音楽プロジェクトとして立ち上がり、そのままメインストリームでの名曲誕生を後押しする存在にまでなってしまった、という点だ。「物語の中で立ち上がった音楽が、現実の音楽史そのものを書き換えていく』というモデルが成立している。

 

そして、小林武史×岩井俊二の「歌ありき」の相乗効果は、2023年の『キリエのうた』でも同じように発揮されている。アイナ・ジ・エンドを、劇中では「Kyrie」というアーティストとして、アコースティックギター1本を背負いながら内面世界を歌い続ける存在として描き出しつつ、現実側では Björk のデビューアルバムと同じタイトル『DEBUT』を「Kyrie」名義でリリースする。

DEBUT

DEBUT

  • Kyrie
  • J-Pop
  • ¥2444

さらにサウンドトラックは別枠で『「キリエのうた」オリジナル・サウンドトラック ~路花~』として小林武史主導で制作されている。

ここまで来ると、

1996年『スワロウテイル』の YEN TOWN BAND

2001年『リリイ・シュシュのすべて』の Lily Chou-Chou

2023年『キリエのうた』の Kyrie

という流れで、「映画の中で生まれた架空アーティストが、現実の音楽史に痕跡を刻んでいく」というモデルが、日本のポップカルチャーの中で反復されてきたことがよくわかる。

この虚構アーティスト→現実侵食というモデルは、日本映画だけのものではない。たとえば21世紀ポップカルチャーで最も有名な例のひとつが Gorillazである。

 

Gorillaz

Gorillaz は、ブラーのデーモン・アルバーンと『タンク・ガール』の共同作者ジェイミー・ヒューレットが1998年に立ち上げたイギリスのバーチャルバンドである。メンバーは 2-D、Murdoc Niccals、Noodle、Russel Hobbs の4人だが、全員がアニメーションとしてのみ「実在」するキャラクターだ。一言で言えば、世界スケールで「虚構バンド」というテンプレートを定着させた象徴的存在であり、最初から最後までバンド側が虚構である点が、他の事例と決定的に異なっている。

音楽面のコアはあくまでデーモン・アルバーンであり、彼はブラーとは別名義で、ヒップホップ/ダブ/エレクトロ/ワールドミュージックなどを自在に混ぜるための「覆面プロジェクト」として Gorillaz を機能させている。すなわち、現実の作り手が自分の表現のために虚構バンドを発明したケースであり、物語作品の内部から派生したプロジェクトではない。この点こそ、日本で語られる「架空アーティスト」との大きな相違と言えるだろう。

 

それでもなお、売上スケールは世界クラスだ。1st アルバム『Gorillaz』(2001年)は全世界で700万枚以上を売り上げ、「世界で最も成功したバーチャルバンド」としてギネス世界記録に認定された。デビュー以降のアルバム総売上も1600万枚以上に達しており、「虚構バンド」に徹したプロジェクトが、そのままこの領域の象徴になったという事実こそが、この記録の意味するところだろう。

 

www.guinnessworldrecords.com

そして何より重要なのは、PV/ウェブ/インタビュー/ツアーに至るまで徹底して「キャラクターとしてふるまう」トランスメディア戦略をやりきった点にある。その成果として、のちのバーチャル/キャラクター系音楽プロジェクト、とりわけVocaloid 文化やK/DA、そしてVTuber楽曲プロジェクトに至るまで、しばしば「Gorillaz 的」と形容される土台が出来上がったと言える。

 

Kalafina

Kalafina は、作曲家・梶浦由記がプロデュースする女性ボーカルユニットであり、その出発点は奈須きのこ原作の伝奇小説『空の境界』のアニメ映画版である。劇場版7作の主題歌と挿入歌を一括して任され、「奈須きのこ的伝奇世界」をまるごと音楽として翻訳するためのプロジェクトユニットとして結成された。のちに『storia』サビでナレーションが印象的でお馴染みの『歴史秘話ヒストリア』など一般向け番組のテーマ曲でも広く知られるようになるが、原点はあくまで一つの物語世界の映像化に寄り添うための「世界観ボーカルユニット」であり、その意味で前節までに見てきた YEN TOWN BANDLily Chou-Chou から EGOIST に続く系譜ときわめて近い地点に立っている。

storia

storia

  • provided courtesy of iTunes

梶浦の現在のスタイルは、『.hack//SIGN』期の『Key of the twilight』『Fake Wings』(2002年)あたりまで遡ることができる。

key of the twilight

key of the twilight

fake wings

fake wings

  • provided courtesy of iTunes

いま我々が「これぞ梶浦」と呼んでいる成分は、Enya『Orinoco Flow』『Only Time』のようなエスニック/ケルトニューエイジの系譜を受け止めつつ、それを自前のポップス構造に統合したところから立ち上がっている。

Orinoco Flow

Orinoco Flow

Only Time

Only Time

  • エンヤ
  • ポップ
  • ¥255
  • provided courtesy of iTunes

そして『open your heart』(2003年)以後、多重コーラスと分厚いハーモニーを前景化することで、いわゆる「梶浦節」が決定的なかたちを取る。

open your heart

open your heart

この「梶浦節」がアニメ作品の中で一個の完成形として立ち上がった最初の地点が、新房昭之監督作『コゼットの肖像』(2003年)だと言える。

FictionJunction のフロントに貝田由里子を据えることで、その第一形態が最大化された楽曲が『the main theme of Petite Cossette』であり、主題歌としての雛形は同作エンディング曲『宝石』においてすでに明瞭なかたちをとっている。

さらに『魔法少女まどか☆マギカ』におけるコーラス楽曲の極致という意味では、笠原由里(現・新南田ゆり)を起用しオペラ的な聖域まで踏み込んだ楽曲群『moonflower』『in a beautiful morning of May』が存在する。個人的には『regret』あたりに、劇伴と歌曲の中間的な梶浦節がよく出ていると思う。

 

ここまでを踏まえると、『空の境界』や Kalafinaで展開されるスタンスは、その手前の段階ですでにほぼ完成しきっており、「あとはどの物語世界のために、どんなユニットという器を用意するか」というフェーズに入っていた、とすら言えてしまう。

こうした条件がすべて揃った「その後」のタイミングで、2007年に「一つの世界観のために結成されたユニット」として Kalafina が立ち上がったという事実は、結果論として見てもあまりに出来すぎた巡り合わせである。その「梶浦節」の象徴こそ、物語世界そのものを包み込むように配置された多重コーラスとメロディラインであり、Kalafina はそれを最もわかりやすいかたちで可視化したプロジェクトだったと言える。

 

こうした経緯と系譜のうえに成立しているのが Kalafina だが、『空の境界』以後も、その軌跡はじわじわと「梶浦世界」の拡張史になっていく。梶浦自身は主に ufotable 作品の準専属作曲家的なポジションを取り、『Fate/Zero』を軸に『Fate/stay night [Unlimited Blade Works]』『ソードアートオンライン』『クビキリサイクル 青色サヴァンと戯言遣い』などの主題歌・劇伴関係を立て続けに手がけていく。一方で、NHK の番組案件にも楽曲提供を行い、そのサウンドが「梶浦由記の音楽」として一般層にまで強く刻み込まれていく。

if you leave

if you leave

luminous sword

luminous sword

  • provided courtesy of iTunes

その結果として、受け手側からすると「空の境界のためのユニット」という原点を必ずしも意識していなくとも、「Kalafina というアーティスト」を独立した存在として受容できる地点に到達したことは非常に大きい。世界観特化のプロジェクトとして出発したユニットが、メディア露出と作品横断のタイアップを重ねることで、「梶浦節」の看板そのものを背負う存在にまで拡大した稀有なアーティストである。その意味で Kalafina は、「一作品」の世界観専用に組まれたボーカルユニットが、そのまま現実側で自立したアーティストになるという、日本発の虚構バンド系譜のひとつの完成形だと言っていいだろう。

 

K/DA

海外の事例となったときに、先述した特にK/DAは以後の在り方として象徴的である。「League of Legends(LoL)がつくった、ゲームとK-POPVTuber文化をごちゃ混ぜにした虚構ガールズバンドという多面的メディア性の上で成立している。

歌唱もきちんと現実側のボーカリストに割り振られている。

Ahri(アーリ)= Miyeon((G)I-DLE)
Akali(アカリ)= Soyeon((G)I-DLE)
Evelynn(イブリン)= Madison Beer
Kai’Sa(カイ=サ)= Jaira Burns

 

「世界観」の面から見ると、K/DAはLoL 本編の世界の中にある「別ユニバース」で活動する架空のアイドルグループとして設定されている。つまり、各キャラクターは LoL 本編での役割と、K/DA 世界でのステージ上のポジションという、二重のアイデンティティを担っている。なによりK/DAはKills / Deaths / Assistsを想起させるアーティスト名。

2018年に公開され、一世を風靡したデビュー曲 『POP/STARS』 の MV を実際に見れば、その「ゲーム×K-POP×バーチャルアイドル」が一体化した手つきはすぐに明白になる。

 

POP/STARS (feat. Jaira Burns & League of Legends Music)

POP/STARS (feat. Jaira Burns & League of Legends Music)

  • K/DA, マディソン・ビアー & i-dle
  • K-Pop
  • ¥255
  • provided courtesy of iTunes

www.youtube.com

EGOIST/ボーカロイド文化の想像力としての『WIM』『BRS』

そして日本で「虚構バンド」を圧倒的かつ革新的に更新した存在こそ、EGOISTである。2010年代と共に生きた読者であれば説明不要かもしれないが、『ギルティクラウン』に登場する架空バンド=歌姫「楪いのり」を起点にしたユニットだ。そこから先は、とりわけノイタミナ枠のアニメ作品を軸に数多くの主題歌を担い、2010年代における「虚構性バンド」の象徴にまでなっていく。

このユニットの成り立ちは、「歌・美少女・戦闘」という三つの要素を束ねるという意味で、『マクロス』、つまりは菅野よう子以後のイメージとも地続きに見える。ただ、「虚構バンド」としての現在性という観点では、そこで一線をはっきり越えている。

原義としての「設定」/「現実」の制作体制を並べると、その構造はより明瞭になる。

フィクション世界(『ギルティクラウン』側)

楪いのり(キャラクター)がフロントに立つ人気歌手/バンド=EGOIST

制作現場(現実の側)

・ryo(supercell)と、当時新人だった chelly による制作ユニット=EGOIST

 

この二重構造によって、「キャラクターと実在の歌手が合体した存在」という形態が生まれている。ここには、Gorillaz とはまったく別方向の虚構性がある。むしろ系譜としては YEN TOWN BANDLily Chou-Chou → EGOIST と並べる方が腑に落ちる。「架空アーティストを現実に持ち出す」という日本独自のラインの延長上に、EGOIST が位置しているからだ。

つまり、日本における「架空アーティストを現実に召喚する」系譜の源流は、小林武史×岩井俊二ラインにあり、そこにアニメという虚構性の強いメディア(『マクロス』『空の境界』の系譜)が重なり、さらにネット文化=ボーカロイド以後の地平が加算されることで、ようやく EGOIST というあり方が可能になった、と言える。

実際、楽曲のほぼすべてを手がけた ryo(supercell)と、キャラクターデザイン/ジャケットを担った redjuice(shiru)は、ともに「ボーカロイド」文化から現れた作り手であり、その原点は 2008年の『ワールドイズマイン』にある。この段階で「初音ミク」というバーチャルシンガーが「お姫様」をテーマにしたアンセムとして機能し、ニコニコ動画発の「虚構歌姫」的な初期衝動がすでに形になっていた。

ブラック★ロックシューターという現象-hukeを繋いで生まれた『STEINS;GATE

そして「ボーカロイド」の世界から生まれた架空アーティスト、という意味では、同じく ryo の『ブラック★ロックシューター』も、多角的なメディア展開を遂げたプロジェクトとして象徴的だ。

 

この楽曲の制作経路はこうだ。まず、イラストレーターの huke が「ブラック★ロックシューター」という一枚絵を公開し、そのヴィジュアルに触発された ryo が楽曲『ブラック★ロックシューター』を制作、動画サイト上で話題をさらう。

www.pixiv.net

 

その後、『ブラック★ロックシューター』は 2009年のOVA化、2012年のTVアニメ化、2022年の『ブラック★★ロックシューター DAWN FALL』へと続くまで、一貫してメディアミックスの素材として拡張されていく。ここまでくると、単なる「1曲のヒット」ではなく、キャラクターと楽曲がセットになった「虚構歌姫プロジェクト」として成立していることがわかる。初音ミクがそうであるように、ブラック★ロックシューターもまた、今では公式な「設定」を与えられたキャラクターであり、その意味で「虚構歌姫」としての性質をはっきり帯びるようになる。

 

さらに、この現象に株式会社 5pb. が目をつけ、とあるゲームのキャラクターデザインとして huke に白羽の矢が立つ。インタビューではこう語られている。

──そのキャラクターデザインをされたのはイラストレーターのhukeさんですが、今回が初めての依頼ですよね

松原 最初の設定資料を見た段階で、陰謀が関わってくるタイムトラベル物ということで、これは普通のギャルゲーじゃないぞという感じを受けたんです。前作『CHAOS;HEAD』では、ホラーなんだけどあえてギャルゲーな見た目にすることでギャップを狙ったんですが、そことも差をつけたかったですし、なにより今回は絵柄を普通のギャルゲーにしちゃうとつまらないなと思いました。それで面白い絵を描く人はいないかなとネットやコミケで足を使って探していたんですが、その頃ちょうど『ブラック★ロックシューター』に火がつき始めた頃で、志倉にこの人の絵柄が面白いから頼んでみようという話をしてコンタクトしたわけです。今ではもうhukeさんの絵柄なしでは考えられないですね。  

news.mynavi.jp

そう、ご存知『STEINS;GATE』である。「『ブラック★ロックシューター』に火がつき始めた頃」とわざわざ記されているように、huke の絵柄そのもの「だけ」でなく、それをブームへと押し上げた ryo の『ブラック★ロックシューター』という楽曲と、その周辺の盛り上がりまで含めて「次の作品」の素材として見込まれていたことがわかる。

・バーチャルなキャラクター(ブラック★ロックシューター)

・ボカロ曲としての歴史的ヒット(『メルト』『WIM』『恋は戦争』の連続性)

OVA/TVアニメ/新作アニメと連なるメディアミックス

・その成功から『STEINS;GATE』という別作品のキャラデザへと繋がる回路

といった多面的な「ブラック★ロックシューター」であり、「虚構的歌姫」の典型例のひとつだ。そして、その背後には常に「動画サイトでのヒット曲としての ryo」がいる。この構図こそが、EGOISTの成り立ちと地続きにある。

そう思えばこそ、経緯はどうであれryo(supercell)×redjuiceもWIM組以上に、supercellという集団に任せてみようという意味合いがある。でなければ「ネットで人気EGOIST」という設定をわざわざ張本人立ちにオファーするはずがないのだから。

当初はあくまで「ギルクラ専用バンド」としての存在だったが、作品内での楽曲ヒットをきっかけに、EGOIST は徐々に作品の外側へ歩き出す。決定打になったのが『PSYCHO-PASS』(2012年)のタイアップ曲『名前のない怪物』だ。ここで EGOIST は、ひとつの作品内バンドではなく「一アーティスト」として扱われるようになり、その後は伊藤計劃三部作(『虐殺器官』『ハーモニー』『屍者の帝国』)をはじめとしたノイタミナProduction I.G 系列の作品群で主題歌を連発し、「複数作品を横断するアニメタイアップ専門の虚構アーティスト」というポジションを獲得していく。

 

この時点で、構造はかなり明確になる。

・名義:EGOIST(楪いのりというキャラを含むIP)
・中身:chellyの声+ryo(supercell)のサウンドデザイン

 

さらにライブでは、3D モデル化された「いのり/EGOIST」がステージ上に登場し、モーションキャプチャと生歌唱を同期させる形式で、「キャラクターが現実世界で歌っている」体験そのものを実装してみせた。これは YEN TOWN BANDLily Chou-Chou のような「映画世界の虚構バンド/歌姫」が、CDリリースやライブによって現実へ滲み出てくる手法を、アニメ産業とデジタル技術によってアップデートしたモデルだと言えるし、のちの VTuber 文化や花譜の隆盛を踏まえて振り返ると、国内ではかなり先見的なフォーマットだったとさえ言える。楪いのり(キャラ)=chelly(ボーカル)=EGOIST(プロジェクト)という三位一体の構造という構造自体は非常に奇跡的なバランスであった。2023年にEGOIST 名義は活動を終了し、ボーカルである chelly は reche 名義でソロへと移行した。結果的に

・EGOISTという虚構名義

・chellyという実在シンガー

が分離し、「EGOIST」という名前はひとつの IP としてのライフサイクルを綺麗に完走した形になっている。解散の是非や事情についてはさまざまな議論があるにせよ、「虚構的歌姫」という観点から見れば、キャラクターとシンガーを再び切り離して終わるこの着地は、構造として非常に美しいエンディングだと言っていい。

Ave Mujica

ここまで見てきた一本軸「虚構的歌姫/虚構バンドの系譜」を踏まえて、2020年代における「虚構的歌姫とは何か?」と問うのであれば、その答えはもはや Ave Mujica 以外にあり得ない。中身(Diggy-MO'×各コンポーザー×佐々木李子×高尾奏音)の話は前項で書いてきた通りだが、「虚構的歌姫」という文脈だけを取り出しても、彼女たちの立ち位置はかなり筋の通った場所にいる。

虚構バンドとは、物語と現実、作家とキャラクター、名義と人間の境目をわざとズラしてみせる装置だと言える。そしてその装置の洗練が進めば進むほど、「キャラクターが歌う音楽」は「キャラクターそのものがアーティストである」という位相へと近づいていく。この繰り返しの果てに、

・ボカロP と初音ミク
・K/DA
VTuber 楽曲プロジェクト
2.5次元アイドル

といった、「そもそも人間の境界を前提にしない」音楽プロジェクトが次々と出てきた、というのが Gorillaz〜EGOIST にいたるまでの変容の大筋だろう。

Gorillaz が世界スケールの原型となり、Kalafina が日本ローカルな「世界観ボーカルユニット」の洗練として君臨し、海外では K/DA という Gorillaz モデルをゲーム/K-POPVTuber に最適化した存在まで生まれた。

その一方で、日本の系譜に限って見れば、YEN TOWN BANDLily Chou-ChouKalafina といったラインに、「ボカロ的な声」の揺りかごが流れ込んだものが EGOIST だった、と整理できる。そう置いてから改めて Ave Mujica を見ると、その出現は驚くほど滑らかに接続されてくる。

ここまでをざっくり時系列的・構造的に並べると、Ave Mujica は次の要素を一身に集約している存在として見なせる。

Gorillaz 的な「完全虚構バンド」という概念

YEN TOWN BAND/Lily/EGOIST 的な「物語発の虚構歌姫」

Kalafina 的な「作曲家主導の世界観ユニット」

・K/DA 的な「メタなメディアミックスとキャラクターの二重性」

・ボカロ文化由来の「声の交換可能性」と「キャラに宿る歌」

・Diggy-MO' という個人の思想と言語魔法

・それらすべてを収容する枠としての BanG Dream という超商業 IP

・そのうえで「三角初華/Ave Mujica」という虚構バンドに突っ込まれたプロジェクト

つまり Ave Mujica とは、これらすべてのレイヤーが一点収束した「虚構的歌姫のフルスペック実装型プロジェクト」だと言えてしまう。

この上で『天球(そら)の Música』の天球論を読むなら、それはもはや「虚構バンドが到達し得る哲学的極北」としての Ave Mujica×Diggy-MO' である、という話にまで踏み込める。プトレマイオスからボエティウス、Diggy『PTOLEMY』『GOD SONG』を経て、『天球(そら)の Música』までたどり着いたものは何か、という問いに対しては、

「虚構バンドのフレームを借りて世界観そのものを書き換える試みだった」

と答えられる地点に達しているのだ。

ここから先は、その「極点」に到達したあと、燃え尽れきった「その後」の Mujica が、どのような位相へと移っていったのかを追うパートになる。

そして、この「燃え尽きた後」の Mujica を語るためには、現在の Mujica 音源とも重なり合うかたちで、Diggy-MO' のソロ期と SOUL'd OUT 時代のアルバム変遷を、いったん簡潔に引き直しておく必要がある。

近傍としてのガールズバンド/ソロシンガー系の存在
(「しろねこ堂」「トゲナシトゲアリ」「結束バンド」「Ado 系」)

また、「虚構バンド」という枠組みで眺め直したとき、00年代後半から現在に至るまでの「女子高生バンド」ものの音源が、構造的な必然として視界に入ってくるのも確かだ。直近の近しい系譜としては、『しろねこ堂』『トゲナシトゲアリ』『結束バンド』そして古典的存在としての『HTT』といった新旧のガールズバンド群がまず挙げられる。それこそBanGDreamとしてのMygo!!!!!も実はギリギリここ。

ただし、これらはいずれも「作品内で完結するバンド」であり、YEN TOWN BANDLily Chou-Chou、あるいは Salyu やアイナ・ジ・エンドのように「虚構名義」を足場にしつつ、現実のアーティストとして独立したキャリアへと踏み出していくところまでは到達していない。作品世界を離れた瞬間、その名義だけで音楽産業を横断していくわけではない、という意味での限界がある。

その点で Ave Mujica は、すでにブシロード内での展開にとどまらず、Yostarの『アークナイツ』との海外ゲームへのタイアップなども含め、国際的IPという意味でも「商業アーティスト」として必要な枠組みをほぼフルセットで獲得している。

碧い瞳の中に

碧い瞳の中に

  • Ave Mujica & 塞壬唱片-MSR
  • アニメ
  • ¥255
  • provided courtesy of iTunes

music.apple.com

ゆえに、上記の近傍バンド群と同列に置くのはむしろ不正確であり、「虚構的歌姫の実在性」の最新型として、一段階レイヤーの違う地点にいると言った方が状況に即している。

そして、多くの人が「虚構/匿名系アーティスト」と聞いて真っ先に思い浮かべるであろう存在が Ado だろう。ニコ動発という出自、ビジュアルを担うイラストレーターの統一感、圧倒的な歌唱力、世界規模のヒット、マスメディアでの露出と存在感。これらを並べれば、「虚構」「匿名」「キャラクター性」といったキーワードとの相性は抜群だ。

しかし、そのあり方は本質的には米津玄師らと同じく、「ネット発のアーティストが、商業の縦割りシステムを突き抜けて巨大な数字を叩き出したケース」の最大化である。名義こそ Ado というキャラクター性の強い記号になっているものの、実態としては明確な「ソロシンガー」であり、楽曲提供陣も超一線級の作曲家が案件ごとに入れ替わる、大型の Lisa 型モデルに近い。

つまり、Ado には「虚構性」のレイヤーがいくつか強度高く貫通している一方で、Gorillaz や EGOIST、そして Ave Mujica が担っているような、「キャラクター/物語/名義/実在の歌い手/プロデューサーの思想」が一つの装置として組み上がった虚構バンド的構造までは、そもそも志向していない。ここに、「虚構的歌姫」としての線引きが生じる。谷口悟朗のfilm作品『RED』のウタ状態で商業的に売り出せばという部分的な達成までは至ってはいたので(cv:名塚佳織/sing:ado)、その意味では「虚構的歌姫」を商品として演出するところまで完璧に達成はしている。メインにはなっていない理由はやはりそこが「志向」ポイントではないという真っ当な在り方である。

 

SOUL'd OUT期-Diggy-MO'ソロアルバム期の違いと重なり

まずごくシンプルな事実から確認しておきたい。
SOUL'd OUT(以下 SO)は、ベスト盤を除くフルアルバムを5枚出している。

『SOUL'd OUT』(2004年)
『To All Tha Dreamers』(2005年)
『ALIVE』(2006年)
『ATTITUDE』(2008年)
『so_mania』(2012年)

これに対して Diggy-MO' のソロ名義は4枚。

『Diggyism』(2009年)
『Diggyism II』(2010年)
『the First Night』(2015年)
『BEWITCHED』(2017年)

活動期間をざっくりタイムラインで並べると、こうなる。

  • SOUL’d OUT  1999–2009 | 2011–2014(完了)
  • Diggy solo  2009───── 2018(一区切り)

という時系列となっている。

リアルタイムでSOやDiggyソロを通っていなくても、現在地=Ave Mujicaを起点に逆走していくと、作家性とプロデュースのOSがくっきり立ち上がるということを説明してくれている時系列でもある。

結論を先に言うなら、Ave Mujica は「プロデューサー OS(Diggy)」が上流を握るモデルであり、対して MyGO!!!!! は「シンガー OS(羊宮妃那)」が楽曲の要となるモデルだ。この二軸を頭の中に置いたまま Diggy ソロと SO を聴き直すと、後期 SO が徐々に「実質 Diggy 音源」に近づいていく流れが見えてくる。

SO のアルバムを通しで聴くと、初期〜中期はまさに3人体制がフル稼働しているバンド・アルバム群だと言える。具体的には『ATTITUDE』(2008年)までがそのゾーンだろう。ここまでは「詞=Diggy+Bro.Hi/曲=Diggy+Shinnosuke/ミックスや設計=SOUL’d OUT名義」での関与という三角形が作品クオリティの中心に立っている。

『SOUL'd OUT』クレジットリスト

代表曲群のクレジットは、詞:Bro.Hi+Diggy/曲:Diggy+Shinnosukeの並走が基本であるし、デビュー期の曲でもこの分担が揺らがない。

ここで強調したいのは、「それ以降の作品の価値が落ちる」という話ではまったくない、ということだ。むしろ、次作『so_mania』(2012年)の内容を、そこまでの4枚と並べて聴いてみると、その異質さがあまりにもはっきりしていて、その違いを説明しうる要因が「Diggy-MO' の主体化」以外に見当たらない、という意味である。

so_mania

so_mania

  • SOUL'd OUT
  • ヒップホップ/ラップ
  • ¥2139

SO を多少なりとも知っている人であれば、それは『ジョジョ』繋がりでも『ソウルイーター』勢でもなんでもいいですが、楽曲を聴けば

Diggy(歌+ラップ)
Bro.Hi(掛け合い+ヒューマンビートボックス
Shinnosukeブレイクビーツ主体のトラック)

この三者が拮抗しながら回していく構図こそが「SOUL'd OUTらしさ」だという共通認識はあるはずだ。代表曲『ウェカピポ』に触れたことがあれば、肌感覚としても理解しやすいだろう。

ウェカピポ

ウェカピポ

  • SOUL'd OUT
  • ヒップホップ/ラップ
  • ¥255
  • provided courtesy of iTunes

そのうえで、Diggy-MO' の主体化、つまり「バンドの中の一人」から「作品全体の OS」へと重心が移る転回点として、まずは『ATTITUDE』以後の楽曲にあたる『and 7』(2011年)を聴いてほしい、という話につながっていく。

and 7

and 7

  • SOUL'd OUT
  • ヒップホップ/ラップ
  • ¥255
  • provided courtesy of iTunes

実際に聴いてみればすぐにわかるが、音像の特徴からして Diggy-MO' のサインが濃い。テンポは約111 BPM、キーは B minor。中速帯のビートに対して、サビでは跳躍とロングトーンで空間をホールドし、英和の混ざり合いと多層韻の「Diggy語」を、メロディ先行で運ぶ構文になっている。この設計は、そのまま約一年後の『so_mania』収録曲『UnIsong』『SUPERFEEL』へと通底していく。

なにより『and 7』のクレジット自体が作詞・作曲:Diggy、編曲:Shinnosuke+Diggyと、楽曲の主導がはっきりDiggy側に寄っている。

UnIsong

UnIsong

  • SOUL'd OUT
  • ヒップホップ/ラップ
  • ¥255
  • provided courtesy of iTunes
SUPERFEEL

SUPERFEEL

  • SOUL'd OUT
  • ヒップホップ/ラップ
  • ¥255
  • provided courtesy of iTunes

上記二曲もクレジット上は「詞:Diggy+Bro.Hi/曲:Diggy+Shinnosuke」と、一見すると SO 初期と同じ構造に見える。しかし、とりわけ『SUPERFEEL』に顕著だが、音の設計や言語の回し方は明らかに Diggy-MO' の主体性が前面に出ている。

では、この「SO における Diggy-MO' 主導型」がなぜ起きたのか。その変動を生んだ前提として、どうしても外せないのが『Diggyism』『Diggyism II』の存在だ。ソロ二作を経由した「ソロ帰り」である、という事実が、その後のSOを決定的に変えている。

Diggyism

Diggyism

Diggyism Ⅱ

Diggyism Ⅱ

とりわけ『Arcadia』が象徴的だ。この楽曲は、そのまま『SUPERFEEL』のプロトタイプ、あるいは思想面での前提を成す一曲と言っていい。

Arcadia

Arcadia

  • provided courtesy of iTunes

ラップ主体で突き抜け、サビで一気に「歌」に開き、Diggy が長母音で伸ばしていくという三段変速。そのソロ期で確立された書法が、そのまま『SUPERFEEL』にも通底している。サビ頭で跳ね上がり、ロングトーンで包み込むような歌い回しは、『Arcadia』『SUPERFEEL』で明確に共鳴しているポイントだ。

歌詞で具体的な箇所を挙げるなら、まず『Arcadia』。

Arcadia (You are my...) Arcadia (You are my...)

行こう やわらかい光よ
やさしい君よ

Arcadia (You are my...) Arcadia (You are my...)

今でも信じてる たった
ひとつの小さな夢

対して『SUPERFEEL』では、

AND I-M-R-U STOP & GO SUPERFEEL
どこより遠く遠く馳せる
I-M-R-U STOP & GO SUPERFEEL
もっと高く高く誘う
I-M-R-U STOP & GO SUPERFEEL
いつか今より強く強く
I AM – ARE YOU STOP SUPERFEEL

というふうに、「SUPERFEEL」という単語そのものをリフレインしながら、語尾まで旋律として扱う Diggy 特有の「末尾まで全部メロディ化する」書法が貫かれている。

それぞれの楽曲の締め方を抜き出すと、構図の近さはさらに明瞭になる。

今でも信じてる たった
ひとつの小さな夢

Arcadia

I AM – ARE YOU STOP SUPERFEEL

SUPERFEEL

どちらも「フレーズそのもの」を象徴句として掲げ、そのまま感情の着地地点として差し出している。要するに、『SUPERFEEL』とは、『Arcadia』で完成した Diggy 式の歌×ラップ三段変速を、SOUL'd OUT の文脈に最適化した結果として生まれた曲であり、その副産物として「Diggy-MO' 主体の SO」という逆転現象がはっきりと表面化した一例だと言える。

 

こうした状況下で生まれた SOUL'd OUT のラストアルバム『so_mania』を、Ave Mujica から逆走するかたちで聴き直すと、「あ、ここでいったん完成している」とさえ言いたくなる(もちろん、それらがあっての Mujica なのだから順序としては逆なのだが)。

何より象徴的なのは、アルバムの1曲目のタイトルが『Kopernik』であることだ。

Kopernik

Kopernik

  • SOUL'd OUT
  • ヒップホップ/ラップ
  • ¥255
  • provided courtesy of iTunes

というよりも1本踏み込んで言えば名義こそSOだが、実質的な音源立ち位置としてはDiggy-MO'の2.5枚目としてカウントできるくらい主成分がDiggy-MO'にある。

ソロ名義で『PTOLEMY』を描き切った Diggy-MO' は、そのあとの「コペルニクス的転回」を、SOUL'd OUT 名義で『Kopernik』というタイトルにすでに落とし込んでいる。SO 側から見れば、このタイトルの思想性は三人の総意として読めるかもしれないが、Ave Mujica 側から振り返るリスナーにとっては「いやこれ、どう考えても Diggy-MO' の問題意識だろ」としか思えない。そのズレ方自体が、時系列をまたぐ意味で非常におもしろいところだ。そして逆算として聴くSO、Mujicaからのリスナーだからこそむしろ感覚として入りやすいというのも実はかなりある。というのも当然『so_mania』で突如天体に芽生えたわけでもなくSOでは通底した天体関連ワードが、よくある「天体=比喩に使いやすい」的な枠を超えた分量はあるしソロでもそれは同じこと。究極的モチーフがタイトルにまで出た二曲がむしろ例外的。部分的に楽曲を連ねるのでmujicaからSOに入る人向けという意味もかねてリンクを貼っておきます。

 

SOUL’d OUT 期の「物理宇宙」

『STARDUST』

STARDUST

STARDUST

  • SOUL'd OUT
  • ヒップホップ/ラップ
  • ¥255
  • provided courtesy of iTunes

『COZMIC TRAVEL』

COZMIC TRAVEL

COZMIC TRAVEL

  • SOUL'd OUT
  • ヒップホップ/ラップ
  • ¥255
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『Starlight Destiny』

Starlight Destiny

Starlight Destiny

  • SOUL'd OUT
  • ヒップホップ/ラップ
  • ¥255
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『Flyte Tyme』

Flyte Tyme

Flyte Tyme

  • SOUL'd OUT
  • ヒップホップ/ラップ
  • ¥255
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『A Spacious Floor』

A Spacious Floor

A Spacious Floor

  • SOUL'd OUT
  • ヒップホップ/ラップ
  • ¥255
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ソロ期の内面の宇宙

『Blue World』

Blue World

Blue World

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UNCHAIN

UNCHAIN

UNCHAIN

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『ASTRONAUT feat 大神:OHGA』

ASTRONAUT feat. 大神:OHGA

ASTRONAUT feat. 大神:OHGA

  • Diggy-MO'
  • J-Pop
  • ¥255
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『GIOVANNI』(『にこにこジョバンニ』でもいいのです楽曲的にはこっちが好きなので)

GIOVANNI

GIOVANNI

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Diggy-MO'S以後のAve Mujicaの「神」視点toDiggy-MO'流ラップ導入

ここまで SO における後期 Diggy-MO' 主体化の流れを見てきたが、あれは「いちどソロを経由することで、グループ内の一人だったはずの作家性が、作品全体の前面にせり上がってくる」という現象の記録でもある。そして、この構図はそのまま Ave Mujica にも濃厚に響いている。

とりわけ象徴的なのが、やはり楽曲『Ave Mujica』が「Diggy-MO' 作詞曲ではない」という事実だ。プロジェクトの上流 OS を握っているのは Diggy でありながら、BanG Dream という大型プロジェクト全体の設計上、先述したように MyGO!!!!! 期の Ave Mujica 楽曲は、従来の Elements Garden 一式で組まれている。

このブシロード側が敷いた「意図的な差分」が成立しているのは、すでに Diggy-MO' ソロ期〜後期 SO にかけて、作家性が固まりきっているからだ。そもそもオファーの起点がソロ期の楽曲群であることを踏まえればなおさらである。

言い換えれば、現在の Mujica の稼働モデルは、まずもって「Diggy-MO' ソロ以後のモード」を出発点としている。そのうえで、「「BanG Dream」という巨大な枠組みの中に「Diggy 的 OS」をどう実装し直すかというフェーズ」に入っている、という捉え方ができる。いうなれば、Diggy-MO’+OS=「Diggy-MO’S」を思想的にいったん完成させたうえで、そのOSをバンド側にどう走らせるか、という第二段階に移行している。

 

アニメ『Mujica』で締めた3月よりもかなり後の8月に発表された『DIVINE』この楽曲は「まだ本編を引きずった、というよりもマインドとしてDiggy-MO'が「天球」を純作家成分としてもそうだしmujicaへの照射が「勝っている」部分。

あまりにも素直で、正直でそしてメタなDiggy×Ave Mujica宇宙の全部載せ。

DIVINE

DIVINE

  • Ave Mujica
  • アニメ
  • ¥255
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仕掛けられたアレゴリーが動き出したこの宙(そら)

エレメンタル覗くのは

天球の Blue World そこに生きる者

断言していいと思う、この3行に全部に全てが詰まっています。

仕掛けられたアレゴリー

手前にAve Mujicaですという格好でこれをお出しされると、読みとして「Ave Mujica」という企画そのものを指している言い方。物語世界(アニメ+楽曲)が最初から「寓意として仕掛けられたもの」だと白状していて、その寓意が「動き出した」のがTVシリーズ完走まで、という読み筋まで「完結」後に出されるからピッタリと合う。

この宙(そら)

敢えての空じゃなくて「宙」。MyGO/Ave全体を包む舞台=宇宙としてのバンドリ世界。Diggy-MO'がずっと使ってきたライブ空間=宇宙/銀河的メタファーが、ここではもう最初から世界設定レベルにまで引き上げれいる。

エレメンタル覗くのは

露骨に『ELEMENTS』への自己引用。「四大元素=Symbolシリーズ」をこちら側から覗いている、という構図にもなり、つまりは寓意として設計されたエレメント(曲群/キャラ/構造)を覗き込んでいる存在がいる、というメタ視点の提示。だからタイトルがDIVINE=神という回収込みで美味しい一節。

天球の Blue World そこに生きる者

完全にDiggy-MO'ソロの『Blue World』とAve側の『天球のMúsica』が直結している。そして当然、天球=Musica mundana(天球の音楽)の系譜であり、その内部にある「青い世界」=地球/作品世界/現実世界と定義したうえで「そこに生きる者」で主語を広げている。

だから、いわゆるキャラクター群たちの祥子(さきこ)たちではなく、リスナーやプレイヤーまで含んだ総称になっている。やっぱり「ここまで」歌詞として入れるのはDiggy-MO'を知っている人、Mujicaを知ってる人どちらであっても「入れすぎ」と思うはずだし、その配置が、アニメ本編完走後というタイミングで提示されていることも、楽曲の「メタ性」を裏付けている。

 

本編=仕掛けられたアレゴリーを一通り走らせたあとで、

「じゃあ、その天球の青い世界に本当に生きているのは誰なのか」
「誰の「眼」が時代を捕えて創って愛していくのか」

という主軸を、物語の「外側」からもう一段階高いレイヤーで言い直している曲、という位置付け。

  • 天球を設計した知性

  • 星図として物語を組んだプランナー

  • アレゴリーを仕掛けたメタ作者

これら全てを神として立ち上がらせている。そしてこれをタイトルと突き合わせるとさらに明確になる。単語としてのDIVINEはLatin divinus=「神の・神に属する」「神託的な、予言的な」。
元の「divus / deus」は「光る・天・神」と同根で、そもそも「空の上で光ってる存在」みたいなイメージを引きずってる。

形容詞としては
・神の、神から来た
・神のように卓越した、至上の
・天上的な、天国的な

という意味合いであり動詞として

to divine = 「神託で占う・予知する」→そこから転じて「勘で見抜く・言い当てる」

という意味合いをもつ。

この三層を、DIVINEの歌詞とDiggy-MO'文脈にそのまま重ねるとかなり当てはまる。

アレゴリーを「仕掛けた」側=divine(神的な設計者)
・天球とBlue Worldを一望している「視点」=divine(神の立場)
・SymbolやEtherでばら撒いたモチーフを一曲に読み取り直す=divine(予言・解読)

これ、案外でかい問題でDiggy-MO'ソロ期あるいはSO含めて回収しているという点。

『Blue World』『PTOLEMY』、あの『GOD SONG』ですら、やってきたのは「世界=宇宙」「運命=星図」「音楽=天球の回転」という構図。

それが、Ave Mujicaでは、その宇宙の中にキャラと物語とバンドを配置して、『Ether』 や 『天球のMúsica』 や 『八芒星ダンス』で天球システムとしての「Ave=世界」を描いていた。

これらの積み上げてきて、最後に楽曲で『DIVINE』と名乗るのは、語源ど真ん中の意味で「神的なもの/神託的な読み」をやります宣言に近く、真の意味での「Ave Mujica」の思想性が出ている楽曲であり最終的な答え。その意味で内包しているものは『天球のMúsica』よりも重い。

「Ave MujicaのためにDiggyが書いた曲」ってより「Diggy-MO'史がMujicaの最終回答を通して「自分」を語り直した曲」ってくらいの密度なので、SO、ソロ、どちらか寄りのリスナーでも、『STARDUST』『COZMIC TRAVEL』 みたいな「宇宙=スケール」や、『Blue World 』みたいな「内面の宇宙=青い世界」『PTOLEMY』の「世界=星図」『GOD SONG』 の「祈り/神」など、SOUL’d OUT期まで含めた「宇宙=構造」の総決算になっており、全部ひとつのフレーズ列に畳み込んでる。だからSOUL’d OUT〜ソロ〜Mujicaまでの「天体」メタファー史が、かなり露骨に回収されているですよ。

 

そしてアニメが終わった出た楽曲という観点では外側から書かれた歌詞でもあるわけですが、じゃあその「外側」ってなんだよという話で、これまた考えれば面白いわけでSOUL’d OUT時代から宇宙比喩で世界を俯瞰してきたDiggy-MO'のという作家の人格と、バンドリという巨大IPのシステム設計に触れたうえでの「作詞家」としての俯瞰性が同居している。言い換えると、「Diggy-MO'=個人」と「SOUL’d OUT」を、そのままMujica宇宙の神目線に持ち込んでいるということ。

「SO+ソロ+Mujicaの宇宙を、ぜんぶ一回ここでまとめて味見しました」級の楽曲。

読みとして突き詰めるのであれば、作家人生の節目に近い回答曲ですよ。

なによりもこんなにも大事な楽曲を本編の導入やOPでもEDでもない、タイアップとしてのファンタジーRPG『PROGRESS ORDERS』(プログレスオーダーズ)のオープニングテーマとしてお出ししていること。思想性があまりにも強すぎてゲームから入った人は困惑するレベル。本来なら次作のAve Mujicaのアルバムのラストよりに当たる楽曲で、テーマ的には「ソロアルバムのラスト曲」とか「ベスト盤の書き下ろし」枠に置きがちなのに、よりにもよってAve Mujica側の一曲で、本編とは関係ないタイアップでひっそり出してくるのが、またDiggy-MO'っぽい。

これ以上ないほど「結」の楽曲として設計されていると言ってよい。

何回も書きますけど神視点ですから。

 

実際、この後の楽曲の「テンション」がそれを指し締めていて、『DIVNE』で突き抜けた後、導入するものは何かというと彼が持つヒップホップ文脈の技法、すなわち「Diggy 流ラップ」の挿入というスタンスが明確に出ている。

 

2025年12月10日リリース予定の『‘S/’ The Way』の TV Size 版がすでに配信されているが、この楽曲はまさしく、Diggy-MO' 流ラップのテクニカルな部分を、ついに佐々木李子に導入してしまった、というとんでもない地点に突入している。ここではそのポイントを、以前ポストした内容をベースに改めて整理しておく。

『‘S/’ The Way (TV Size)』のラップパート(0:32〜0:43)は、『Diggyism』収録の『CHALLENGER』(0:46〜)と驚くほど近い。

(丁度サンプル部分は該当箇所にあたります)

CHALLENGER

CHALLENGER

danger/messenger/stranger/challenge といった単語の配列で見られたような「母音統制+語尾ライム」の組み方や、三連符的なラインの刻み方など、Diggyism 期のラップ構文がかなり露骨に顔を出している。

‘S/’ The Way (TV Size)

‘S/’ The Way (TV Size)

  • Ave Mujica
  • アニメ
  • ¥204
  • provided courtesy of iTunes

歌唱テクニックという観点で見ると、作家締めとしての『DIVIEN』以降確認されているこのAve Mujicaとしての新楽曲は、構成、歌詞単位そのものがどんどん Diggy-MO’ 直系の作法に「変形」している。

決定的なのは、歌詞が公開されてわかった「綴り読みラップ」の部分だ。ラップパートでは「S-L-A-S-H」とアルファベットをそのまま発音しているように見えるが、実際の譜割りは、

・子音 S
・母音 A
・子音 L
・子音 SH

と、ひとつずつの音素をビート上に打ち込んでいる。見かけとしては綴り読みでありながら、中身は母音・子音の断片をリズムに再配置する手法になっていて、「ここまでやるなら、これはもう完全に Diggyだろう」と確信させられるポイントになっている。

しかもこの構造は、すでに Diggyはソロ楽曲『Lovin’ Junk』に代表されるように既に方法論として持っている。

Lovin' Junk

Lovin' Junk

  • provided courtesy of iTunes

『Lovin’ Junk』における L-O-V-I-N-J-U-N-K の綴り読みは、Ave Mujica『S/ The Way』の S-L-A-S-H と同じ構造を持っている。アルファベット列をいったん解体し、拍ごとに再配列することで、リズムと意味を二重化する Diggyの譜割り手法が、そのまま Mujica 側に移植されている、ということになる。

 

こういう「音素レベルでの解体と再構成」という作り方は、表層のジャンル感やテンポ感以上に、作家の血統を示す。Ave Mujica の側から見れば、「Diggy-MO' 的 OS」が、ついにラップテクニックのレイヤーにまで侵食してきた地点であり、Diggy 側から見れば、「自分の言語魔法が、他人の声帯で再生される」という実験がかなりの純度で実現した地点でもある。

 

そして、ここにきて豊川祥子(高尾奏音)パートにもラップが導入されるのではないか、という仮説まで浮上している。高笑いしてくださいと言わんばかりのフラグ。

高尾は2025年9月16日に『フリースタイル・ラップの教科書』の写真をポストしている。(現在は削除済み)。

Discord記録より 

自分のリアクションは「Diggy がいるバンドでこれはあからさますぎて笑える」と書いたが、実際そうで、これが

「Diggy-MO' がプロデューサーのバンド=Ave Mujica」のボーカリスト佐々木李子

が写真に投稿するのであれば、メインボーカルだし、既存楽曲へのアプローチとしての学習教材という文脈で理解ができるが、よりにもよってpf.keyを担当している高尾奏音が、フリースタイル入門書を掲げてくる時点で、99.9%の確率でバンド内の新しい表現準備と見ていい。

すでに佐々木李子側には Diggy 直伝とも言えるラップ構文が施されつつある以上、「豊川祥子パートへのラップ導入」という次の一手が視野に入ってきた、という状況証拠として機能している。

 

神学としての『Sophie』あるいは、もう一つのPTOLEMY

また、同シングルに収録予定となっている『Sophie』ですが、こっちは文脈を思えばこそ、ここまで読んだ方なら全員同じ思考に至るはずです。Sophie は言うまでもなく Sophia の各国語形であり、語源はギリシア語の「σοφία(sophia)」、意味はそのまま「知恵/英知」です。とくに東方教会では、「神の知恵(Holy Wisdom)」としてキリストあるいは聖霊と結びつけて人格化されることが多く、ビザンティン建築というゆかりある場所で有名なアギア・ソフィア大聖堂(ハギア・ソフィア大聖堂)も、「聖なる知恵/神の知恵」に捧げられた「教会」という意味でこの語と結びついている。

さらにグノーシス派まで遡ると、Sophia は「神的叡知の女性的人格」「アイオーンのひとつ」として扱われ、「神から流出した叡知が誤って落ちることで物質世界が生まれる」という物語の中心にいる存在になります。諸星大二郎みたいな世界観だ。

 

要するに「Sophie」と名付けた時点で、

・知恵
・神的/聖的なもの
宇宙論レベルの寓話

を全部一語で呼び寄せる名前になっている。『DIVINE』を出したあとに、『Sophie』(神的叡知)を B 面タイトルに据えるのは、語彙感覚的にはかなり Diggy-MO' は狙っている、と見てよい。Sophia(叡知)と読むかぎり、思考回路はどうしても

 

・PTOLEMY=天動説側から見上げる観測者
・GOD SONG/DIVINE=外側から介入する神/ルールの書き換え
・Sophie=その「神的視点」を支える叡知/設計思想そのもの

という三竦み、というより正三角形の図式に収束してくる。

さて、ここでグノーシスのアイオーン体系を俯瞰してみましょう。一体誰がこれをまとめたとされているのか。

 

ここで名前が出てくるのが、ヴァレンティノス派の中で、三十アイオーン体系とソフィア神話を代表的な形で整理した教師プトレマイオスです。彼は、最高神から流出する「アイオーン(永遠存在)」たちが幾重にも連なってプレーローマ(充満世界)を構成している、という宇宙論を体系的に整えた人物とされている。そのアイオーン配列が、またじつに特徴的である。

数は三十。内訳は八・十・十二に分かれ、それぞれ男女のペア(シュジュギア)を組むのがその最たる例だ。

 

このアイオーン列の末尾に置かれているのが、後にさまざまな伝承の中心人物となるソフィア(Sophia)であり、名前が示す通り「叡知」を体現するアイオーンである。

アイオーンを現代的に言えば、大型ショッピングモールとしての「AEON」が最も伝わりやすいでしょう。OIOI=おいおい=マルイと同じで、誰しも一度は看板のロゴを見て「AEON、、あえおん、、、、あ、イオンか!!」と脳内で読み間違えた経験があるはずで、この「あえおん」の方こそが、本来の単語としての「aeon」に近い発音である。

 

ヴァレンティノス派の宇宙論では、彼女の「父なる深淵を直接知りたい」という衝動と、その結果としての「落下」が物語の駆動力になります。ソフィアはプレーローマの秩序を乱し、その悔悟と分裂を通して、プレーローマ内に残る高次のソフィアと、外側へと滑り落ちたソフィア・アカモートという二重構造をまとわされる。

ここで「下位ソフィア」としてのアカモートは、ある種の「エーテル的」存在として描かれ、そのパトスから物質世界やデミウルゴスが派生していく。

 

このあたりに『ELEMENTS』文脈を重ねる読みも可能だろう。

この「上位のソフィア/堕ちたソフィア」という二重像から、デミウルゴスや物質世界が派生していく、というのがヴァレンティノス系神話の定番パターンである。

つまりソフィアは、プレーローマ内部では「叡知そのもの」として、プレーローマ外部では「世界生成の起点」として振る舞う、境界的な存在だと言ってよい。プレーローマの最果てで父なる深みを見上げ、なお外側へと滑り出してしまう、その「縁」の感覚を一身に引き受けている。

 

ここで面白いのは、こうしたアイオーン体系そのものを整理した人物の名が、天文学者プトレマイオスと同じ「Ptolemy」だという事実だ。グノーシスプトレマイオスは天体の運行を計算した人ではないが、「高次世界を支配する三十のアイオーン」を構造として描写した点で、ある種の「形而上学アルマゲスト」を書いた人物だとみなすことができる。

一方、歴史上の天文学者クラウディオス・プトレマイオスは、『アルマゲスト』で天動説的な天球モデルを数学的に固めた。「地球を中心とした天球の回転」を座標として描き出したその仕事は、ボエティウスが musica mundana(宇宙の音楽)という概念で再解釈し、やがてコペルニクスに至るまで長く参照され続けることになる。

こうして見ると、「PTOLEMY」という語はすでに

天文学における天球モデル(クラウディオス・プトレマイオス
グノーシスにおけるアイオーン体系の編集者(ヴァレンティノス派のプトレマイオス

という二重の顔を持っている。そのどちらもが、「世界の構造を記述しようとする叡知側の眼差し」という共通点を帯びている。

 

Diggy-MO' がソロ曲に『PTOLEMY』というタイトルを与え、「アルマゲスト」という語とともに天球の内側に閉じ込められた観測者の感覚を歌ったとき、そこには当然、前者の天文学的なプトレマイオスが直接の参照としてある。ただ、そこに Ave Mujica 側で『天球の Música』『DIVINE』が重なり、さらに「Sophie」という曲名が予告されてくると、後者のプトレマイオス=アイオーン体系の編集者と、その末尾に置かれたソフィアという組み合わせまで、うっすらと透けて見えてくる。

 

PTOLEMY が「天球の内側にいる観測者」としての位置を肩代わりし、GOD SONG/DIVINE が「外側からルールを書き換える神的な声」として振る舞う。その外側で、「Sophie=Sophia」的な叡知が、そもそもどんな世界構造を立ち上げ、どんな物語として天球を回しているのか。その三角形を思い浮かべたとき、グノーシスにおける「プトレマイオスが設計したアイオーン列の末尾に立つソフィア」の姿は、Diggy-MO' が Ave Mujica 宇宙でやっていることを照らす、もうひとつの神話的比喩として立ち上がってくる。

 

その意味で、

  • PTOLEMY=天球モデルを生きる内側の眼
  • GOD SONG/DIVINE=その天球に外側から介入し、ルールを再配列する声
  • Sophie=それらを成立させている「叡知の側」、プレーローマの設計思想

という三点は、単なる言葉遊び以上に、天文学音楽理論グノーシス神話の層をまたいで接続されている。ここに、Diggy-MO' が「天体」と「音楽」と「物語」を一つの座標系で扱っていることの、かなり根の深い証拠が潜んでいるように見えてくる。

 

つまりここで、天文学文脈にとどまらず、これまでも裏で連なっていた神学体系が、Sophie=Sophia という単語を通じて、ほとんど臆面もなく表面化したのだと言える。Sophie/Sophia、そして「神学」領域における「プトレマイオス=PTOLEMY」という対応は、冗談のような精度で体系として繋がってしまう。その上に覆い被さるように Diggy-MO' は『ELEMENTS』を仕立てているのだから、ディテールの面ではもはや、ルドルフ・シュタイナー的な神智学/アントロポゾフィーの領域に足を踏み入れていると言っても過言ではない。

 

ここで扱っているアイオーンや神学的モチーフについて、自分自身はゲーム本編は未プレイの立場だが、調べる過程で HoYoverse関連、とくに『崩壊:スターレイル』のゲーム考察記事の中に、同種の用語や構造が多く見られた。そちらに詳しい読者であれば、ゲーム内での体感を加点しながら読むことで、本稿で扱う概念も重ねて理解しやすくなるだろう。

これらを全て前提としておけばペルソナとしての

ドロリス=doloris(悲しみ)

モーティス=mortis(死)

ティモリス=timoris(恐怖)

アモーリス=amoris(愛)

というのは、プレーローマに並ぶアイオーンたちを、そのまま感情レベルへとスライドさせた「情動アイオーン列」として読み直すことができる。これからリリースされる『Sophie』が、叡知そのものとしての Sophia 原型をプレーローマの縁に立たせているのだとすれば、それぞれの登場人物たちの裏名は、悲しみ・死・恐怖・愛といった抽象概念を、ラテン語属格のかたちで一人ひとりの人格に縫い付けた印だと言ってよい。

 

中世寓意劇の『Everyman』の周囲に擬人化キャラクターを並べたように、Ave Mujica は「女子高生バンド」という舞台装置の上で、doloris/mortis/timoris/amoris という四つの情動アイオーンを配役していることになる。

kotobank.jp

道徳劇の伝統的な手法として,この作品もまた,友情,知識,美,分別等々の抽象観念を擬人化したアレゴリーとして登場させる。16世紀初頭の出版とはいえ,内容,形式ともに中世的な作品である。

要するに、抽象概念を擬人化したキャラクターたちが人間のまわりに配される、典型的な道徳劇の構造を、そのままキャラクター配置のレベルにまで引きずっているということになる。それこそ「仕掛けられたアレゴリー」というものがこの時代のものにも該当するという直接的な意味合いとしても成立する。

こうした構造レベルでの寓意化に加えて、キャラクター名という次元でも言葉の選び方そのものに同じ志向が染み込んでいる。そう考えると、コンセプトとしての「ゴシック・バンド」という呼び方にも、自然と説得力が出てくる。

 

あと、これは単語レベルでの統一性の話にすぎないが、初期から一貫して「S」に由来するタイトルがやたらと多い。

・『Choir 'S' Choir』
・『素晴らしき世界でもどこにもない場所』(Subarashiki Sekai〜)
・『Symbol』< I〜IV>
・『'S/' The Way』
・『Sophie』

と、頭文字 S で揃えられた語がここまで並んでいる。ここにも何かしらの意味論を読み込みたくなるところだが、リリース未解禁という段階では、あくまで「示唆的な配置」として留めておくのが妥当だろう。歌詞が解禁された際に、これらの語彙が交差するように現れていたら、それが答えです。

少なくとも、単語として「天球」「DIVINE」「Sophia」といった重い語彙が並ぶ中で、わざわざ 「S」で始まる記号群を Mujica 側に集中させている、という事実だけは頭の片隅に置いておきたい。

おわりに

『'S/' The Way』に至って、Diggyism を踏襲した韻の配列や展開が一気に前景化し、『CHALLENGER』『Lovin’ Junk』といったソロ期の作法にぐっと寄ってきた現在、Ave Mujica は明らかに「第二段階」に入ったと言っていい。シンプルにまとめるなら、女子高生バンドの皮を被った、天体神学ラップ付きポップ・ミュージック思想実験装置くらいのところに Ave Mujica は立っている。そしてそれは本来の音楽にかかる領分込みでエンタメ音楽としてやってるからこそ、異常な「面白さ」が生まれる。

もっと、もっと語るべき点はあるのだが、何はともあれ、今年の「アニソン」枠を象徴する楽曲が誰のものだったかと言えば、それは他でもない Ave Mujica のものであり、アンセムとして機能していたことだけは確かだ。山田勝己が「自分には SASUKE しかない」と言い、祥子も「私には Ave Mujica しかない」と劇中で言ったように、今年に限っては、自分にとっての「しかない」の部分は Ave Mujica だった、と言い切ってしまっていい。

 

山路ボイス聴きながら書いてることもあって途中で PPPより「上から見ないとわからんこともある」を途中引用しましたが、史的には

商業的には「アニソン/ガールズバンドIPの企画もの」

音楽史的には「PTOLEMY/GOD SONG 直系の天体神学ラップ」

こうしてみてまとめると、ここから先、このバンドがどこまで異常なまでの密度と技術を保ったまま活動を続けていくのかが、本当に楽しみだ。

幸運にも足を運ぶことができた MyGO!!!!!×Ave Mujica 合同ライブ「わかれ道の、その先へ」DAY2(Geosmin)の締めくくりの挨拶の場面で、高尾奏音は「Mujica でミラノに行きたい」とコメントしていたと記憶している(ついでに言えば、MyGO!!!!! 側での林鼓子の異常なトークの巧さも、今でも鮮明)。願わくは本当にそういう領域に到達してほしいし、到達すべきだとも思う。

バンドとしての高次元なレベルの高さもそうだが、縁もゆかり「しか」ないイタリアで Ave Mujica が演奏を行うことになれば、それは単に海外公演というだけでなく、「神学としてのイタリア=ミラノ」という座標の上でもひとつの達成になる。

 

少なくとも誇張抜きで言えるのは、いまの Ave Mujica が、日本のポップ・ミュージック(musica)における最前線のひとつの潮流を、確かに形作っているということだ。

music.apple.com


参考資料/派生記事

sai96i.hateblo.jp

sai96i.hateblo.jp

sai96i.hateblo.jp

sai96i.hateblo.jp

sai96i.hateblo.jp

sai96i.hateblo.jp

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sai96i.hateblo.jp

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より具体的な思索、構造メモ、書籍系などについてはnoteに公開予定です。

note.com

 

 

 

*1:tomorrow tomorrowで有名であの曲

【宣伝】『もにも〜ど3』に寄稿|<シャフトアニメの視覚表現美学の源流-劇団イヌカレーとシュルレアリスム>

いつぶりだろうか。と思ったが、文学フリマ東京自体には、36から今回に41至るまで連続なので別に「いつぶり」ということもないのだが、今回は「もにも〜ど」のナンバリング回に帰還できたという意味でかなり嬉しい。

 

 

note.com

と、いうことで「もにも〜ど3」発刊されます、そしてそこに寄稿しました。っていうかできました。

わかる人にはわかる、この寄稿者一覧の凄さ(Kevinさんは(sakugabooruの管理人さん)

 

 

寄稿者ポスト(オープンアカウントで告知ポストが確認できる方々)一群

・mochimizさん

Sacraさん

舞風つむじさん

・anakamaさん

石岡良治さん

(『現代アニメ「超」講義』や 配信番組「石岡良治の最強伝説」などで有名な方です。)

・よしのさん

otaku can change the worldさん(自分の原稿の美術監修を担当された方です)

・土方政成さん

・土屋誠一さん(美術評論家の方です)

・sayopiaさん

・kVinさん

 

イラスト寄稿者群

 

・カシオレ中毒さん

・中原菊子さん

・勇者になれなかったライダーLIMITEDさん

・影虎さん

・波片さん

・知絵さん

 

 

非常に多種多様な寄稿者一群となっております。自分自信も完成版が楽しみです。

 

 

 

ナンバリング単位でいえば、1,1,5,2.5には参加できたものに、肝心の「2」に参加できなかった(原稿自体は用意したが結果的に流れたので余計に自分の能力の未熟さに絶望したので余計に)ことは未だに引きずっているという意味で忸怩たる思いにかられがちですので、一年ぶりに本戦に戻れて来れたという意味で個人的にはかなり達成感を感じます。その反動がそれ以後を生んだのも確かですが。そしてそれらの内容自体は、こちらの記事にも書きましたが(書くことがそれくらいしかないのが本音)

sai96i.hateblo.jp

大体は「シャフトアニメの視覚表現美学の源流」という約9万字ほどある分量を一括だとキャパシティがオーバーなので連載式でいきましょうという流れ連載稿です。その第一章が「伝承 もにも〜ど」に掲載された尾石達也モダニズム」と話でした。今回の二章でとりあげる議題は「劇団イヌカレーシュルレアリスム」となります。おおよその方がおそらくは視聴されているであろうアニメ『魔法少女まどか☆マギカ』(2011年〜)において、美術に目を奪われた方も多いでお馴染みの「劇団イヌカレー」を美術史としてのシュルレアリスムを縦軸に絡めていくという文章となっております。おそらく「面」としては大方が抱く「シャフトっぽい」の認識の一因として劇団イヌカレーはかなり牽引している(『まどか』以前以後にも関わっているという点含め)ので、読むにあたっては「尾石達也モダニズム」よりも認識と知識、視覚としての認識性は高く入りやすい原稿とになっていると思います。主宰にあたるあにもにさんが相当な時間をかけて手を入れて入れていただいたこともあり、文章としての洗練度は文句ないですし、テキストにおいても「ああ、そう読むよね」という面と、そうでない面があるので純粋に読みものとして面白いと発見がある。そんな寄稿文章となっております。

 

巻末に収録されるイベントトークレポでも「音」の回にてレポートをしたものが載りますので、こちらもよろしくお願いします。岩上案件アニメこと『ヴァージン・パンク』というアニメの良さの一助になるかと思います。(総合的な意味で)

もう一つ出番がありますが、それは敢えて伏せます。読んで探してみてください。

 

それこそ2026年、年明けアニメとしてアニプレックスの重大案件として『魔法少女まどか☆マギカ<ワルプルギスの廻天>』が2026年2月に公開予定ながら控えており、泥犬のみの参加とはなっているものの、予告編を視聴すれば視認できるように「イヌカレー空間」というものは健在であり、見どころの一つとなっているので、その前段階といいますか、果たしてイヌカレーを美術史と結びつける補助線を引くとどういう認識が可能となるのか?という意味でタイミングとしても良いのかなと思います。


www.youtube.com

 

 

ここからは先の話ですが、連載式という形式からもわかるように次回も、その次も分割量的に「作られる」場合は掲載予定となっております。その是非がどういうというのは自分の裁量ではないので、言及しませんが、すでに出来上がっている「全体像」という意味で、「シャフトアニメの視覚表現美学の源流」が面白くなるのはこっからなんです。

 

もちろん、一章、二章も力を入れて書きましたし編集によって文章としての強度はあがっていますが、三章以後における内容はより深淵に近いです。なので、個人的には前回と今回も当然読んでいただきたいですし面白さは保証できる。しかしその上でこの後に控えている原稿が一番美味しい箇所であるということを、書き手としては主張しておきたいところです。言ってみれば尾石達也モダニズム、イヌカレーとシュルレアリスムは既に言及過多な側面が大きいというのは、シャフトアニメの論評を廻った人であれば周知の事実でもあり「語り口」としての新規性はない。

その語り口の掘り方からあまり語られない側面をガッツリ探るというのが以後の展開なので、そう言った面でも楽しみに待っていただければと思います。はやくも次の話をしているのは全ては文章としては出来上がっているという側面があるから。

 

で、こっからは雑談パートですが、「もにも〜ど」関連で言えば、それこそこっちのサイトでもシャフト関係で1本音楽系で更新予定です。というよりも「もにも〜ど1」での初寄稿文をもろもろアップデートしたものを年内にアップできればと思っています。

シャフト50周年っていうのもありますし、自分もなにかしらという気持ちになったのと、完全に音楽論100%なので、そういう意味でも大元のサイトであるこちらに還元するのは十分通りとしては成立しますし、二年たつ原稿ということもあり各所にOKをいただいているので、後作業の問題なので、年内公開目指し手順を進めていますので、そちらも楽しみにしていただければと思います。新規原稿としては『岸辺露伴は動かない<密漁海岸/懺悔室>』OSTは絶対取り上げます。

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特典ディスク座談会とかも全部込みで踏まえた上での所感や、菊地御大のライナーノーツもろもろ踏まえた上でどうか、ということを書き連ねるという振り返り形式にはなりますが、文章としては残します。というよりも、『岸辺露伴』のOSTとしての存在感は現行perfettoな音源なので、触れない分には行かないなという心意気です。みなさんも是非音源を購入していただければと思います。是非とも、次のシリーズも制作されてほしいものですね。

 

前回のOST周りはこちらにまとめております。

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これに紐づいて思ったのですが、最近講談社が映像制作でクロエジャオあたりを配置してスタジオを制作しましたが、劇的に難しいとは言えこのラインまで乗ったのであれば是非講談社の読む隕石こと京極夏彦の<百鬼夜行>シリーズの映像化を!!と思わずにはいられません。というか誰もが「正当」な映像化としてのクオリティは望んでいるはずなので、この映像化スタジオ設立の意味意義大義それぞをなす形で「良い」作品を作ることは当然、「講談社」でなければ作れないIPとしても望みたいところです。ましてや『岸辺露伴は動かない』の実写がこれだけいける今、活路は0ではないと思っている人も少なくはないはずとか色々思うしだいです。

 

大体こんな感じです。宣伝プラスアルファとなりましたがなにはともあれ、「文学フリマ東京41」にて、サークル:もにも〜どにて「もにも〜ど3」をお手に取っていただければと思います。よろしくお願いします。

 

にしても、このメンツ、さしづめ『TO BE HERO X』ED「KONTINUUM」みたいな気分にしてくれる異常さで圧倒的な誌面としての強さを感じます。どういうことか知りたい人はドンファの旗手、あの李豪凌の傑作テレビアニメ『TO BE HERO X』を全話視聴してください。

(狭い世界の中でしか伝わらないという点で一抹の寂さがありますが、それはそれとして凄いのは本当なので事実として記載しておきます)

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では。

 

 

羊宮妃那をめぐる冒険 ──迷える羊の声をたどる

2024年11月13日に『Mygo!!!!!』もっと言えば、羊宮 妃那を「明確」に知って大体一年になる。それすなわち羊宮妃那という稀有な役者の表現について非常に考え抜いた年である。

アカウントで初めて言及したポスト

元々この最近の声優役者を軸足に数々の記事を書いてきたが、経緯としては2024年の『トラペジウム』であった。そこで、「結川あさき」「羊宮妃那」を知ることができたことが全ての主因となっている。今や、明田川 仁の音響監督の仕事に世話になっていないアニメ視聴者は存在しないであろう。何度でも想うが、『トラペジウム』は稀に見る組み合わせであることに違いない。

今や『ワンダンス』で内山昂輝と組むほどの実力者としてはたしょう二に採用されるほどの声優になったのはどう考えても実力派であることにほかならない。

 

 

最近、結川あさきの中性声についての記事を出したが、声として意識したのは実は、結川あさきの方が先なんです。どちらも素晴らしい表現者であるが、当時としては結川あさきはまだ記事にするにしても、そも役数が少なく、『逃げ上手の若君』がちょうどリアルタイムで放映されていたという時期もあり、いち早く書きたくてもそもそも書けないという状況であった。だから今になって、というよりも2025年11月1日になってようやく書ける下地が揃ったということだ。

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そして、「羊宮妃那」。正直に書けば、この役者は知っていたが、『Mygo!!!!!』を知るまでは単なる「巧い役者」という認識でしかなかった。それが尋常ではない才覚を持つ役者であることに気づくのが遅れたというのが実情である。このタイミングでごく3人しかいないDiscordにて「Mygo」「羊宮」で検索をかけたが、実に1年で「Mygo」397件、「羊宮」475件。羊宮の方が約1.20倍多く、全体の54.5%が「羊宮」言及というクラスになっていた。3人いるなら分散と考える人も多いでしょうが、9.9割型私です。

 

 

そしてこの羊宮を知って以後の一年は、まさに「羊宮妃那をめぐる冒険」であり、迷える羊として声をたどり続けた記録でもあった。

まず、当ブログでも人気記事となった『Mygo!!!!!』『Ave Mujica』の音楽の良さを体系的にまとめた記事を出しました。ここで述べたかったことは、「声優」という職能が持つ歌唱というものは、人によっては絶大な威力をがあるということだ。そんな表現者はなかなか出会えない、だからこそ対比として上田麗奈の『Empathy』を対象としていたわけだが、上田麗奈ファンが「表現特化」としてのアーティスト歌唱をすることでの効能はとても大きいが、一方で、それが軸ではないからこそ、供給としては不足気味にならざるをえないよね、という段階で、同等の声質と表現力、いまや表現者としてのバトンタッチもかなり進んでいると言って「羊宮 妃那」がIPとしての「バンドリ」で『Mygo!!!!!』で高松燈を演じられ、歌唱してというのは明確に大きなアドバンテージがあるということでもある、というのがあの記事で主張したかったポイントだ。

あと表現主義と技術主義という意味でこの二つのバンドは圧倒的であり、後者に至ってはもはや高すぎてという話だ。バンドとしての「Ave Mujica」に関しては進行形で考えいているのでいずれ出します。かなりいいところまで来ています。

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そんなにも『Mygo!!!!!』はすごいのか、と想う方もいるとは思いますが、実際問題として、「アニメも」展開するバンドリという意味ではいい加減初めてのアニメ化ではなく、むしろシリーズ化していたわけだし、なんとなれば企画段階では別のIPであったことはもはやいうまでもありません。つまりのちにバンドリに統合されただけであって、実態は別物というのが「Elements Garden」ではなく「Supalove」であることはこれは、『春日影』論でも書きましたね。

あの記事では、『栞』『春日影』『人間になりたい歌』の三作だけがElements Garden体制であることを手がかりに、意図的な断絶があると読んだ。逆算的に見れば、これは制度更新のための儀式的布石に他ならない。

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この記事はそれぞれ

・天動説=CRYCHIC

・地動説=Mygo!!!!!/Ave Mujica

 

という、アナロジー1本で勝負したという、側からみれば「なじゃそりゃ」となる見立てて書いた1本なのですが、これがうまく当てはまってしまったんですよね。

Diggy-MO'の楽曲込み(『PTOLEMY』=プトレマイオス視点『GOD  SONG』=外側視点)で、なぜああならなければならなかったのか?が説明がつくという、自分でも書きながら「これ酔狂記事だろ笑」と思いながら書いていましたが、ベヘリット=春日影あたりから、「これ、物になる」と確信した記憶は鮮明にあります。そして、結果的に、この見立ては「しっかり」と成立しました。これはコンテンツ評ではありましたが、大胆な飛躍が実は嘘ではないという意味で、かなり印象的な記事になりました。おそらくこの記事ほど『春日影』がなぜ〜なのかという問いを彫ったものはないと思います。

 

さて、話を羊宮妃那に戻そう。

『MyGO!!!!!』で知った当初にまず思ったのは、冒頭のXでも書いた通り、ポエトリーリーディング的な表現の近似性と、楽曲全体が既視感を呼び起こすメロディラインだった。羊宮の歌唱が圧倒的であることは言うまでもないが、同時にamazarashi以後の文体と感情設計が流れ込んでいる感覚があった。

私自身、amazarashiを長く取り上げてきた立場からすれば、この共鳴は偶然ではない。むしろ必然だったのだと思う。

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だから物語としての『MyGO!!!!!』のギスってる感は別に音楽性として、系譜があるからこそ、そこに熱量を入れられる余地があるということだ。でもまさかそこを埋めてくるのが声優の歌唱という文脈で更新されるとは思わなかったという意味でもやはり特別。

そして今年の3月、『小市民』2期手前に私論として若山をもう一つの軸足として置いた記事を書きました。

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これは座標軸として若山、羊宮、結川とそこに関係性がある声優(安済知佳上田麗奈)を含め、それぞれを座標として現在地の基軸はこの役者群であるということ提言したかったのだ。ここで一つ、重要な発見ができたのが以下の文節である。

声優の声=音という感覚で思索すると以上のようなことが自然と点と点で結ぶことができる。

自分の文章を知っている人はいい加減既知な事実であるが、「全て」においてかなりドライブ感で書いているので、特に下書きやネタ案といったものがとくにあるわけでもなく、脳内で思ったことをリアルタイムで文字起こしで当ブログの全文章は構築されているのですが、この文節に限ってはこれがかなり大きい。ここで声=音と考えられたことが、この記事における「座標」と源でもあり、その因子でもあるからだ。そしてこの直感こそが後の「声=音=言語=演技」論の源流になったのだ。

そして約1か月半(48日)かけて「声=音」を拡張した論がこちら。

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「羊宮妃那論」と銘打ってはいるが、射程は広い。核心は発声とは何か、その差異が吹き替えと字幕にどのような不可逆の差分を生むか、さらに朗読において声はどう作品になるか、という諸相を横断しつつ、翻訳には上限があるという前提を置くことだ。そして、その上限を貫通する声こそが希少であり、その最前線に羊宮妃那がいるという結論に至ったのが本稿。だからこそ、その希少性を説明するためには、出演作やキャリアの長さといった、短絡的なものの「見立て」ではなく、声そのものが受け手にどれほど作用してしまうかという観点から見なければならない。


このとき軸足となるのが、悠木碧加藤英美里上田麗奈水橋かおり、そして「語り手」という概念の最高点に位置する櫻井孝宏である。これら一群らと比較しても十分に耐えうる声であるということが重要なのである。だからこそ冒頭で、『コロンボ』におけるピーター・フォーク小池朝雄ヒース・レジャー, ホアキン・フェニックス, V(『Vフォー・ヴェンデッタ』)といった、変換不能性を帯びた発声×演技の実例を「共有前提」として置いた。

ここで言う変換不能性とは、テキストの意味を越えて声そのものが意味の担い手になる現象である。この前提を踏まえると、中国圏でのMyGO!!!!!の根強い受容も説明がつく。中国語版のMyGO!!!!!楽曲は存在せず、日本語版のみが流通しているにもかかわらず評価が高いのは、まさに翻訳(言語)を越えて届く声の力が働いているからだ。ホアキンの声やVの仮面の「非翻訳性」が伝わるのと同型の現象として、羊宮妃那の歌唱=発声が機能している、というわけである。それが全てとは言い切れないが、歌唱が受けなければMygo!!!!!の人気は説明できないというのも確かな事実であるのはご存知の通り。

 

そしてその「希少性」ある声の正体とは何か?ということを考える時に一つの答えに行き当たる。それが「表音文字」「表意文字」そして「表義文字」という文字帯系列。

音で伝わる文字(ひらがな、カタカナ)

意で伝わる文字(漢字が典型的-「花」「死」「夢」など、形そのものに意味がある)

この二つまでは言語学的にも確立された区分だが、そこに第三の層=表義文字を置く。
それは「文字自体が感情や世界観を発生させる」段階である。

 

もちろん正式な用語では存在しない。だが、表音+表意=表義として読み替えると、声という現象が「音と意味の合成によって世界を構築する」営みであることがわかる。

この構造は、マズローの欲求五段階説における「超越的欲求」に似ている。マズローが五段階を説いたあとに第六段階として「自己超越」を提示しながら、学説としては未体系化に終わった。つまり到達されながらも理論化されなかった層。表義文字も同じく、言語体系の外側でありながら、確かに存在する「超越的な伝達」を示している。

そして、この考え方を最もよく象徴するテキストが、テッド・チャンの『あなたの人生の物語』である。あの作品で描かれるヘプタポッドの言語は、一文が同時に始まりと終わりを持つという構造をとっており、言葉が時間と因果を越えて「世界の形」そのものになる。つまり、「読むこと」と「見ること」、「音」と「意」が分離していない。
これはまさに「表義的言語」であり、声が持つ多層的な意味伝達。音と意と義が同時に働く現象を説明する上で最も近い文学的モデル。

そして、その映像化としてヴィルヌーヴの『ARRIVAL』がある。映画を見れば誰でもわかるように、ヘプタポッドの文字は「円環」そのものだ。始まりと終わりが同時に存在し、時間が折りたたまれ、意味が流動する。つまりそれは、言語が「読むこと」と「見ること」を同時に成立させる構造の可視化である。だから私は、この「ヘプタポッド文字」をそのまま「声優」に置き換えても成立すると考えた。声優の発声とは、言語を時間軸で並べる行為ではなく、瞬間において世界を全体的に生成する行為である。一音一語が過去と未来を含み、演技の「円環」を描く。まるでヘプタポッドの文字が時間を同時に記述するように、声優の声もまた感情・意味・身体・時間を同時に「描く」。その構造を最も純粋な形で体現しているのが、羊宮妃那という存在なのだ。というのがあの記事で伝えたかったのが

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この記事を出した意味で意義でもある。そして、これらの理論が正しいかどうかはともかくとして、「表音声優」「表意声優」「表義声優」という三分類を設定した瞬間、
この世に存在するあらゆる役者は分類可能になるという結論に達した。

 

  • 表音声優とは、音の抑揚やリズムで感情を立ち上げる演者。
  • 表意声優とは、言葉の意味や構文の精度で情景を紡ぐ演者。
  • 表義声優とは、声そのものが世界観を生み出す演者である。

 

この区分を適用してみると、驚くほど整合的に見えてくる。たとえば『ガンダム』シリーズの主人公像は、逆説的だが「音」が主因の声優でなければ成立しない。アムロ・レイの数々の台詞回しにしても古谷徹が発声する「言葉の配列」の美しさよりも「音」が機能しているからこそ、「親父にも殴られたことないのに」と言ったセリフが耳に馴染むし、富野由悠季の独特な言い回しもあって、結果的に「残る」台詞となる。

実際問題他のガンダムの主人公にしたって作品として情動的な面があるのと、「叫ぶ」ことが必然性としてある以上、声にかかる「音」が際立つ役者にしか務まらないという側面は確かにあるのだ。なぜならこの「叫び」こそ、音の純粋な表出であり、物語世界を支えるためには音のエネルギーを持つ声優でなければ成立しない。ガンダム=音の宇宙といえば一発で分かっていただけるだろうか。

 

もちろん声優とは本来、声に特徴があることが前提だ。しかし『ガンダム』の主人公たちが「音」を中心に選ばれてきたことは、この表音的特質を、物語構造そのものが補強し続けている証でもある。

 

一方で表意は「語り手」に属する声優という意味では、トーンが一定の帯域で発声して崩れない、それこそ川澄綾子田中敦子早見沙織といった「台詞」の一音一音が目立つ役者であることもまた、想像に難くない。ここに属する役者は基軸となる声そのものが、「言葉の意味」を精密に構築していくタイプと言える。男性なら神谷浩史がその最たる例だ。そうでなければ「阿良々木暦」は成立しえない。どんな饒舌でも崩壊しないあの異常とも言える滑舌の美しさはやはり「音」よりも「意味」を象徴する。

つまり、表意系の声は「音」よりも「意」を重視しており、一つひとつの台詞がまるで文章のように意味の文法を持っている。だからこそ、台詞や言い回しに「妙」があればそれが視聴者に伝染するのである。

 

ここで整理すると面白いのがガンダムのセリフは実際の役者の声、あるいはそれに寄せることで成立し、再現されることは多い。「声の高さ」や「リズム」、「叫び方」さえ再構成できれば、それらしい「音の再現」は成立する。

 

一方で表意系の「演技」というのはおおよそ「真似」できないのがポイントだ。それは声のトーンや抑揚の問題ではなく、「言葉の意味をどう構築しているか」という内的構文の問題だからだ。つまり、演技が「声」ではなく「言語運用」に支えられているため、模倣の対象が存在しない。だからこそ、発声を伴わない「文章」つまり文字媒体においては、むしろその表意的構造が感染的に増幅される。読み手がその語りのリズムを頭の中で再生することで、声優の文体的影響が「文字」として残存し得る。

 

そして「表義声優」である。これは「模倣不可」であり重力、磁場を揺らす軸である。

表義的声は、意味や感情を超えて存在そのものを変調させる。聞く者の認識をわずかにずらし、世界の密度を変えてしまうという意味で一種の超能力と形容していいだろう。

ここに属する声優はごく僅かだ。表音、表意は、切り替えや演技帯で切り替えがあるので、ばらつくが、ここの領域に至っては、名のある声優をどれほど列挙しても、「誰が選んでも一致する」ような数人しか該当しない。彼らは声を発するたびに、言葉の外側に世界を出現させる。声が響いた瞬間に、音ではなく「場」が生まれる。それこそが表義声優の定義である。そしてその領域にいる声優こそが一部抜粋するとして

櫻井孝宏(声質がテノールからアルトまで同じなのに全部違う演技になる)

関智一(テノールからソプラノまでスイッチのように「声」が切り替えられる)

山寺宏一(言わずと知れた七色声はもはや神域)

上田麗奈(ソプラノ調の発声と妖艶さは随一)

沢城みゆき(どの領域でも違和感なくキャラを演じられる天性の「声」)

悠木碧(人間性を一時的に解除できるキャラクター声は世界一)

そして、この列に羊宮妃那が確実に加わる。ようやく辿り着いたが、こここそが最も重要な地点である。羊宮の声は「歌唱」と「演技」という二項を容易に超越する。
というよりも、彼女にとって歌唱=演技=表現は常に同一平面上にある。通常、声優が歌うとき、発声は演技の延長線上にある。つまり早見沙織が歌っても、ああ、「早見沙織が歌を歌っている」という、ごくごく当たり前の認識の切り替わりがある。しかし羊宮妃那の場合、声が音楽の構造そのものになる。それはメロディやリズムに依存せず、声自体が世界を震わせ、聞き手の感情を空気の密度として変化させる。そうでなければ『Mygo!!!!!』の楽曲は成立しないというのがその証左。そこがあるからこそ、リスナーとしての我々は驚嘆している。そしてそれに近いものは先述の通り、上田麗奈の歌唱くらいしか、類例として挙げられるものが、そもそも存在しない。そしてここにおける共通項は両者ともに表義であり、そこ空間上にいる役者であればということも自明である。

 

そして今や、この二人は富野由悠季の世界で象徴的なキャラクターを担う。上田麗奈は『閃光のハサウェイ』にて「ギギ・アンダルシア」を、羊宮妃那は『ジークアクス』において、「ララァ・スン」を演じた。富野作品の中でもっとも人間の知覚と魂の境界を描く役柄を、この二人が引き受けたこと自体が象徴的だ。表義的声優とは、魂と構造のあいだに声を置く存在であり、この定義を、この共通項が証明している。

 

以上が、羊宮妃那という「声」の存在性を考える中で生まれた、『MyGO!!!!!』における「迷える羊」の声から始まった、一年間にわたる個人的変遷の思索である。

この一年で発表した五本の記事を通して、ようやく見えてきたのは「声」という現象そのものだった。それはやがて「羊宮妃那」という個にとどまらず、「声優」という役者帯をどのように捉えうるのか、という地点へと拡張していった。結果として論は壮大になってしまったが、それもまた一人の表現者が「声」という存在のあり方を考えさせてくれた賜物である。羊宮妃那という役者がいなければ、この思索は決して生まれなかった。

そうした意味で、「今後」の是非よりも、まずこの一年において確かに名前を刻んだ役者であり、だからこそ「文章」として冒険することができた。

今後いかなることがあろうともMygo!!!!!の『焚音打』において高松燈として、そしてそれ以上にやはり表現者:羊宮 妃那としての

大丈夫 僕たちは進もう 迷うことにもう迷わない

という言葉は、まさにその象徴である。

焚音打

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いまの時代、「sheeple(sheep+people)」という言葉がある。
情報に流される大衆を揶揄するこの語を、あえて肯定的に転用したい。すなわち「羊化」とは、羊宮妃那の声に導かれ、迷いながらも声の世界を彷徨い続ける聴衆たちのことだ。フィリップ・K・ディック的に言うなら、それは一頭の「電気的存在」が私たちを導く構図であり、「迷える羊」とは、声を求める受け手そのもののことなのだ。

 

 

Do Seiyuu Dream of Acoustic Sheep?


Yes — by Youmiya, as the Electric One.

 

 


サムネイル画像は、POSiTRONによる作品「Lucky Sheep」

(デザイン:土井宏明、出典:PressWalkerプレスリリース)より引用。
本画像は文脈における参照として使用しています。

結川あさきにご用心|中性声の帯域の魅力

結川あさきって、とても声の按配が面白くないか?と感じたのは『トラペジウム』で主演を張った時の演技のうまさに惹かれて気づいたポイントの一つ。

2024-07-15

つまり色々と癖ありな話と「東ゆう」というキャラを差し引いても、「可憐」とか「闊達」みたいなラベルができるような、わかりやすい「声」ではないのだ。

 

なかには、「まだデビュー2,3年目なのに」、論なんて張れるのか?と思う人もいることでしょう。それが張れるんです。前提が「デビュー数年目で既に帯域を特定できる」ほど特徴が明確だから。帯域的に説明できる人材という観点なら十分に論じる価値がある。つまり指数関数的に増えいく経験年数とか役の広さなんてものは重要だが、声を捉える時にはさしたるなんか問題ではなく、音響的座標がすでに明確に定義できる声優ということ。その観点でいえば若手も大御所も一列で扱うことができるし、実際そういう観点で進んでいるのが音響でしょうよ。

挿入歌の『なりたいじぶん』とエンディングテーマの『方位自身』どちらも聞けばわかるが、四位一体という構成といえど、東ゆうの声(結川あさき)って他の羊宮や上田、相川遥花と違って全然前景化してこないんですよね。

なりたいじぶん

なりたいじぶん

  • 東ゆう(CV:結川あさき), 大河くるみ(CV:羊宮妃那), 華鳥蘭子(CV:上田麗奈) & 亀井美嘉(CV:相川遥花)
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方位自身

方位自身

  • 東ゆう(CV:結川あさき), 大河くるみ(CV:羊宮妃那), 華鳥蘭子(CV:上田麗奈) & 亀井美嘉(CV:相川遥花)
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いい意味で。口語体と歌唱時が=ではないというか。いや=なんだけれども、中性的な声が軸にあるせいで、あまりにも分かりやすい羊宮の狙った可愛さや、聞き慣れすぎた上田の声、相川遥花の声も、結川的な低さはあるがまだ帯域としてはちょっと低い早見系だなって思える分、声としてはまだわかる

(つまりキャラとしてこういう声が当てられるという原則)。

 

でも、結川あさきって四人でハマる時でも全然前に出てこないというか、わからないんですよね。パート分けという概念的にみても。そしてそれは他三人に比べて「テノール」寄りの声だから。キャラとしてみた時に、あまりにも大河くるみ=羊宮妃那というのが、羊宮の声が前景のリリカルすぎるから余計に、対照的に可聴において差分を掴みやすい。多分こっそり結川あさきの声を差し引いても「歌」のバランスは案外崩れないなじゃないか。なぜなら女性音域におけるアルト〜ソプラノは他の三人が「声」として強いから。女性四声の中で結川が担っているのは、いわば中音域の地平線。他三人、つまり羊宮妃那(あまりもソフトでリリカル系アルトの延長線)、上田麗奈(中高域を乗せる表現型)、相川遥花(ソプラノ寄りでストレートな透明感)が、いずれも倍音の多い「可聴範囲」を形成している。

 

じゃあここにおいて、結川あさきの「声」ってどうなんだろという話です。中性テノール的アルト。テノール的音域の方が聞きやすく、それでありながら「少年」系が映える中性的表現を維持する女性声優というのは、あんまり見かけない。事実、『逃げ上手の若君』の北条時行なんかがそうですけど、ボーイッシュ的なクールさ、ではなく逆に男なんだけど声が判別が迷う、そういうキャラを演じたことからもわかるように、圧倒的に本域は「少年」か、「特殊な高音」が効くタイプの声なんですよ。そして、それは本人もインタビューにおいて以下のように認識している。

mantan-web.jp

 

「自分の声はどちらかというと中性的ではありますし、いつか少年役もやってみたいという思いがありました。まさか時行のようなキャラクターを演じさせていただけるなんて想像していませんでした。うれしかったです」

 

これはあくまでも帯域レベルでの部類だが、一番近いのは帯域の役者は、有名どころだと、大谷育江加藤英美里竹内順子新井里美、あとはオグリキャップ高柳知葉(この人も極端に高い声が合う一方で低音系がマジでいいし、その格が「オグリ」なわけですよ。だから捜査官系で低音だせば絶対合う)がそうかな。とりあえずこれらの「声」系譜です。絶対に。わからない人は上記の演者のサンプルボイスを一通り聞いてみてください。

 

数多の人が「ピカチュウのモノマネ得意」といってもただのモノマネに終わるが、結川あさきはそれが本当にそのタイプの声に該当する。結川自身もそれを言っているからこそ一回でいいのでピカチュウの鳴き声を披露して欲しいもんです。

加藤英美里はデビューの段階から『ネポスこどもCLUB』のネポから始まっていて、あれもいってみればマスコットキャラ、イマジナリーなお友達的なものから始まっているのも示唆的ですが、後の地縛霊と営業マン宇宙人の系譜が振り返れば、という意味合い。要するに一作目の印象というのは監督であっても声優であっても色付けには非常に大きく影響してくる。

 

その上で、アイムに記載されている役柄を一部引用してみます。

【アニメ】

・逃げ上手の若君(北条時行

・アオのハコ(島崎にいな)

・となりの妖怪さん(杉本睦実)

・ゲーセン少女と異文化交流(加賀花梨)

・紫雲寺家の子供たち(横山らら)

・クラスの大嫌いな女子と結婚することになった。(北条留衣)

・ATRI -My Dear Moments-(ミヨ)

・夜のクラゲは泳げない(真弓)

・WIND BREAKER(土屋美緒)

かくりよの宿飯 弐(竹千代)

【ドラマCD】

・勇者宇宙ソーグレーダー(勇之上平) 

まぁこの辺でいいでしょう。で、まず『逃げ上手』以上に実はファクターというか、結川あさきの「色」がでいてるのがドラマCDの『勇者宇宙ソーグレーダー』の勇之上平。これは、完全に明らかに少年の低域。作者の趣向が高い時行的なショタ系でもなく同時に、高音で可愛いではなく中低域で凛と立つタイプ。これです。完全に結川あさきの独占上の一つです。めっちゃいいですよ。 

ドラマCDはマイクも演技もストレートに素の帯域を聴けますし、この役の何が特筆すべきかというと中性的で無理のないピッチ感を保っている点。やはり男性声が女声を出せることはできてもそれが聴けるものとして提示できるのが少ないのと同様、女性声が男の声をだしても元々の声の構造はいいかもしれないが、情緒性でボロが出やすい。

まとめるならば

 

・男性声優が女性声を出すと「構造的に不自然」になりやすい。
・女性声優が男性声を出すと「情緒的に不自然」になりやすい。

このどちらも越えて、構造的にも情緒的にも自然な少年声を出せるのが結川。

 

いわゆる女性声が放つダウナーが近傍ではないのか?と思う人もいるでしょう。でもそれではだめなんですよ。(結川あさきがやれば完璧だしそれはラジオで証明済み)素で「少年」をだせる声というのはそれこそボーイッシュ・ダウナー系よりも少ない帯域。

ダウナーでいえば、『SSSS.ZYNAZENON』(2021年)に若山詩音が南夢芽を演じたときのあの感覚さこそがダウナーさの骨頂だと思うんです。つまり「らしさ」が気怠けに直列しているのであって、別に少年自体はない。儚さはあるけれど。

 

多くの女性声優が少年を演じる時、どうしても高域を軽くして息を混ぜ、軽さで若さを出そうとする。しかしそれではダウナー方向だけに傾き、声が立たない。結川は逆で、中低域を締めてピッチを安定させ、倍音の立ち上がりで若さを演出できる。つまり感情ではなく音響で少年を作れるのだ。地声に余裕があり、だから不自然が一切ないし、生まれない。結果、少年でありながら落ち着きと知性を感じさせる。「時行的ショタ」とも「ボーイッシュ女声」とも違う、第三の位置。逆が故に「壊れたキャラ」が上手い安済千佳の明るいバージョンというべきか、あの『クズの本懐』での演技帯域がもっと中性的になった声。それが故に生まれる演技を誇張せず、ナチュラルな中性。それがこのボイスドラマの真髄なわけです。おそらくメイン軸で将来、唯一無二の軸として活躍するのは第一にこの領域。結川あさきにオファーをする側はもっともっと低い声のキャラを当てるべき。絶対化ける。

 

それこそ同じアイムで言えば、清楚系としての声=早見沙織が少年役といってもピンとこないと思うんです。声が綺麗すぎて、「少年がいる」というより「綺麗な女性が少年の台詞を喋っている」というにならざるを得ない。逆をいえば、そういう演技が声質で可能な役者というわけです。

 

杉本睦実(『となりの妖怪さん』)とかは少女役なんだけど、そういう「らしさ」としての声が全くとまではいえないが、いわゆる「私可愛いでしょ」系の声としての帯域とはずいぶんとかけ離れている。「結川あさきのtime is funny」を聞けばわかるが、地声がそもそもという話。

結川あさき「TIME IS FUNNY」 | インターネットラジオステーション<音泉>

笑ってる時とかの意図してない無邪気さ的(人間的な意味ではなく無意識的にでる一種の発声)なところがどっちとも取れない。つまり意図的な発声とはまったく別の質感を持っている。笑っている時や、素でリアクションしている瞬間に出る声。あれが演技中の少年声や中性的発声と地続き。可愛らしさを出すキャラよりも地声で回した方が良い、というよりも「低く」発声させた方がいいという原理がでる。なんと形容すればいいか、演技を支える基盤が演じる前から中性なんだ。それが、地声→演技→歌唱の三層すべてに貫かれている。さて、ここまで行けば一つの共通点に辿り着く。そう、『名探偵コナン』の高山みなみ御大は、役柄では当然のこと、舞台にせよ、15周年のコナンラジオにせよ、NHKの「NHK +」の移行のアナウンスにせよ絶対に素が「江戸川コナン」さが残るんです。浴びるほど聴いた声なので余計過敏に反応できるという面はいなめないが、つまり、どのマイクを通しても「コナン」が聞こえる。低くなればなるほど味が出るし哲学的な声になっていくわけです。超越的な役者でありながらもその本質は声の帯域が少年向きであることに起因する。


これは「役の再現」ではなく「声質の宿命」。そして帯域で言えば結川あさきもこれと同じ素質があるということ。それこそ北条時行で、結川を知った人はかなり多いと思ううが、その層が地声を聞けば、全く同じ音響現象が発生する。

 

つまり、「コナンを演じる高山」ではなく、「高山という声がコナン帯域に存在する」
同様に、「時行を演じる結川」ではなく、「結川という声が時行帯域に存在する」

 

演技が声を作るのではなく、声が演技を定義する側。これは偶然ではなく、生理的な帯域の宿命であり、同時に音響的な必然。だからこそ、高山声はデビュー三年目で『魔女の宅急便』で一人二役ができる「構造」的な声があった。ということ。流石に超越的な例外ケースではありますが。

だから、無理に低い声を出そうして失敗するというあるあるな声真似っていうのはそれを証明している。元々帯域としてなければ再現性が不可能。例えば堀之紀の低さって男性でも真似できないほど低い。それを真似ようとすると男でもかなりきつい。だからといって、日笠陽子が低い声で威圧しても、それは支配的な「圧」の強さであり少年系にはなりにくい。そういうこと。つまり、音響的再現は「模倣」ではなく「構造の一致」が条件になる。以前に記事で述べたが、「声=音=構造」で結べるからこそ、Aを演じる役者ではなく、役者がの声がAの帯域に存在する、ということが成立するわけだ。

 

それが羊宮妃那の場合「歌と演技が=として架橋できる」という特殊性があるからこそ、論じる「声」としてはこちらも相当に大事という話が、これまでの話。そういう意味では「当たり前」なんだけど、案外見逃されがちということだ。

sai96i.hateblo.jp

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事務所のサンプルボイスでも特に核が出ているのは

「ナレーション➀」(時行調のオーディブル的素材)

「キャラクター②」(これめっちゃ大谷育江感が高い)

否定するわけではないが、それ以外のサンプルボイスはセリフと「風」なセッティングが結川あさきの幅の広さを出したいが故に、本粋の「低音」がないのが相当惜しい。キャラクター①「文化祭JK」キャラクター。例えばこれ、『アマガミ』でお出しされてもこのルートあんま人気ないだろうなっておもうくらい、「違うそうじゃない」という意識の方が強い。③は忍野忍系の老年女児系。吹き替え①は佐倉綾音系の「高圧」と「可愛さ」の同居系の音声、吹き替え②は早見沙織が合う調査隊系。もちろん、事務所のボイスサンプルは単調ではなく「色」のグラデーションを声で見せるものだからバリエーションをつけるのはいいのだが、ならばこそ「低音男子」は一本入れるべきであろうと思うのです。どこの声優の事務所サンプルは一応に「幅」を見せがち。それが機能するかどうかは演者に依拠するが、その意味では結川は幅より核が勝つタイプ。

「俺は逃げないよ。怖いのは当たり前。でも、歩くのは止めない。」

「選ぶことは、手放すことと同じだ。だからこそ、今日は静かに決める。」

などといったセリフの方が魅力は伝わる。ここを唯一押さえているのが『暗号学園のいろは』のコミックボイスだけなんですよ。前記事でも書いましたが、結川あさきの本質は自分の中では

東ゆう(高山一実)/北条時行(松井優征)/夕方多夕(西尾維新)という内容、キャラクターともに一筋縄では行かない奇才作家の軸足をすでに三本は持っている稀有な声優

なんですよね。つまり男子の方がすでに向いているし、結果出ているわけです。だから、文化祭JK・忍野系・高圧かわいいを頭出しされても、逆にそんなの適正でいえば上手い役者は他にいるわけですよ。それに対抗するなら、少年系で攻めた方が早い。個人的に思うのはサンプルに求められるのは「多彩さ」ではなく、「一発でキャスティングを想起させる核」だから、少年軸を先頭に据える方が圧倒的に戦略的なんです。端的に言えば、文化祭JKは正直、代替可能、少年核は代替性がそこまでない。

 

そんな結川あさきですが、唯一「全要素」が詰まっているものがある。

それは先ほど紹介したラジオの主題歌『ナイトワイライト』作詞作曲:結川あさき 編曲:村山シベリウス達彦という構成で組まれていることからもわかるように、自作で楽曲を構築し編曲家がそれをモノにするっていうありがちなあり方ですが、結川あさきの音楽の趣向がボカロ一点に集中しているタイプなので「どこかで聞いたことのがある展開」が結構あってそれはそれで面白いのですが、大事なのは、フレーズごとに声色を変えて歌っているところ。既聴感の中で唯一新しいのが声の構造変化

 

例えばイントロの

笑って泣いて night&day Tuesday 最終回の向こうで おやすみ まで眠らない 

今一度 息を吸い込んで 聴きなれた声を呼んでいる 不安も後悔も尽きないや今までを辿れば一瞬だ もう一度人生を回しだそうと今行こう

ねえ、まだ眠らないでいてよ 君の知らない話を 伝えにきたんだ ねえ、どうだろう? 笑ってくれたらいいな

と交互に低音(男性系)と高音(女性系)を使い分けて歌唱しているんです。最顕著は

声ひとつで明日に向かうよ 永遠の夜に魔法をかける 生涯 命懸け 周回ない 自分らしくでいいでしょう? 今はもう来ないと思うから ノータイム いつも大丈夫 ただ静かに 羽を休め 君の一瞬を 見せて大胆に

のフレーズですが、これ、要するに古くを言えばニコニコ動画の「歌ってみた」におけるタグで「両声類」というものがありましたけど、それに近い歌い方なんですよね。意識しているかどうかはさておき、高さが上がり下がりでの歌唱はその文脈にはいる。言い換えれば、「少年」帯域と「少女」帯域の統合。演技の両翼が1曲の中に折り込まれている。

 

しかもそれをご自身で骨格を作っている。これは明らかに自分の強みを活かしているんですよ。問題はまずこれは現時点で「音泉」のイベントでしか手に入らないイベントCDで、そういうのはサブスクも当然ないので(羊宮でいうところの『セレプロ』的な)、ラジオを聴くくらいしか確認方法がないこと。本当にもったいない。

ONSEN THEME SONG CD

これこそが結川あさきの現時点での表現最高傑作なのに。要するに『ナイトワイライト』は、意図性はともかくとして、結川あさきにおける音響的自己分析の完成形として言い切っていい。それに呼応する決定打がキャスティングとして出てないところ。『かくりよの宿飯 弐』では竹千代を演じられておりますが、本人が「中性的」なところを目指したとラジオで言っている通り、そういう役回り自体はきている。だからこそ、こっから「代表作」とまではすぐにいかずとも、印象づける役を「東ゆう」「北条時行」の次枠で欲しいという話です。もし男系で迷ったらアイムの「結川あさき」。これはここ5年で試せば、先行者ほど有利になる。その動線を藤田音響、明田川音響で開花させた今なのだから使わない手はないでしょう。『勇者宇宙ソーグレーダー』にとどまるだけでは味気ない。自分はこの役者にその可能性をかなり賭けているので、余計にそう思うだけなのかもしれないですけど。

 

当ブログでは羊宮 妃那の登場回数が多いですが、同じくらい注目株、というのはここにしっかりと入れているところかもわかると思いますし、結局「劇伴・声・音」の四人(上田麗奈/若山詩音/羊宮妃那/結川あさき/安済千佳)はこの記事でも登場するのは、狙ってるわけではなく、自分の中の座標であり「点」の代表者たちだからなんです。だから今や結川あさきも座標といっていいですね。

sai96i.hateblo.jp

 

結局、声とは再現ではなく存在の証明だ。
結川あさきという声が「少年帯域」に宿っているという事実は、演技以前に音響的な宿命であり、構造的な必然である。この帯域をどう活かすか。それは演出でもキャスティングでもなく、声そのものに問われている。「声=音=構造」という原理があるかぎり、結川あさきの未来は、すでにその声の中に書き込まれている。少年役が映えるのではなく、「少年を生む声」がある。その先陣(先鋒)として、彼女の声はこの5年の音響史を変えるかもしれない。強めに言えば、というか帯域のポテンシャルという意味に限れば、高山みなみが80〜90年代に確立した帯域を、令和以降に再定義しうる存在として結川が現れたという見立ても可能であり、個人的にはそう願うばかりです。

【データベース】TYPE-MOON(型月)作品の音響・音声史

最近、音響=声優というフレームワークで記事を出しているなかで、タイトル、スタジオ事にある種の「座組」があることは周知の事実であり、であればこそスタジオ単位や長期シリーズの音声史ってあるだろう、ということを思い当たり、音響監督とその系譜において、現在定着している「声」というものがどのタイミングにおいて規定され今なお作品の主軸として機能しているか、という視点を歴史立てても良いのではないかという意味も込めて色々なアニメ作品/スタジオ系譜を「データベース」としてまとめ上げることも、言ってみればそれはそれで重要であると思いたち様々なまとめをしています。その中ではさほど可変なく、一定の声を保ち続けているTYPE-MOON作品をまず第一弾としてまとめてみました。基本的には主軸のタイトルとそれに係るサブのドラマCDメインでいれております。型月はメディアミックスの初手がドラマCDから始まっているものもあり、そういうところを拾ってみると実は、アニメの音響監督「だけ」ではないというもなかなか面白いです。どのタイミングでどの声優が「型月組」の入ったのかというのは作品もそうですが、なかなか面白いと思います。〜の音響・音声史というのは、汎用性があるため今後も固定して流用していく予定です。

本データベースは「職能としての音響監督」を比較軸としています。そのため、劇場版 『Fate/stay night [Heaven’s Feel]』 は制作総括による音響統括であり、厳密な職能定義に照らして主年表から意図的に除外しています。ただし当三部作が初出となる演者の記録は尊重し、声優のみ掲載します。基本奈須きのこがメイン、関わりが強い作品のみに定めており、派生作はのぞいてます。

あくまでもデータベースなので、資料としての活用をお薦めします。

TYPE-MOON作品の音響・録音史 リスト
2003年『真月譚 月姫』 音響監督:明田川仁

鈴村健一遠野志貴

生天目仁美アルクェイド

折笠富美子(シエル)

伊藤静遠野秋葉

植田佳奈琥珀

かかずゆみ翡翠

2006年 『Fate/stay nightDEEN)』 音響監督:辻谷耕史

杉山紀彰衛宮士郎

川澄綾子(セイバー)

植田佳奈遠坂凛

諏訪部順一(アーチャー)

下屋則子間桐桜

門脇舞以イリヤスフィール

浅川悠(ライダー)

神奈延年(ランサー)

田中敦子(キャスター/メディア)

三木眞一郎(アサシン/佐々木小次郎

西前忠久(バーサーカー

関智一ギルガメッシュ

中田譲治言峰綺礼

中多和宏葛木宗一郎

伊藤美紀藤村大河

真殿光昭柳洞一成

神谷浩史間桐慎二

小山力也衛宮切嗣

水沢史絵美綴綾子

野田順子衛宮士郎〈幼少〉)

葛城政典(後藤/騎士)

阪田佳代(女生徒A

芦澤亜希子(女生徒B)

山縣里美(女生徒C/店員/アナウンサー)

小林勝也(魔術師)

辻谷耕史遠坂時臣・回想ボイス)

桑島法子(モードレット・回想)

能登麻美子(ベディヴィエール・回想)

2007年『Fate/stay night [Réalta Nua]』 録音監督 榎本 覚(WAYUTA)

杉山紀彰衛宮士郎) 

川澄綾子(セイバー) 

植田佳奈遠坂凛) 

諏訪部順一(アーチャー) 

下屋則子間桐桜) 

浅川悠(ライダー)

門脇舞以イリヤスフィール) 

西前忠久(バーサーカー) 

中多和宏葛木宗一郎) 

田中敦子(キャスター) 

三木眞一郎(アサシン/佐々木小次郎) 

稲田徹(真アサシン)

中田譲治言峰綺礼) 

神奈延年(ランサー) 

津嘉山正種(間桐臓硯) 

伊藤美紀藤村大河) 

水沢史絵美綴綾子) 

神谷浩史間桐慎二) 

真殿光昭柳洞一成) 

結本ミチル蒔寺楓) 

中尾衣里三枝由紀香) 

中川里江(氷室鐘) 

宮川美保(リーズリット) 

寺田はるひ(セラ) 

小山力也衛宮切嗣) 

野田順子(士郎〈幼少期〉) 

田村ゆかり(ルヴィアゼリッタ)

2007年–2013年 『空の境界』劇場版 音響監督:岩浪美和

坂本真綾両儀式

鈴村健一黒桐幹也

本田貴子蒼崎橙子

藤村歩黒桐鮮花

中田譲治荒耶宗蓮

田中理恵(巫条霧絵/第一章「俯瞰風景」)

能登麻美子浅上藤乃/第三章「痛覚残留」)

東地宏樹(秋巳大輔/第五章「矛盾螺旋」)

水樹奈々黄路美沙夜/第六章「忘却録音」)

置鮎龍太郎玄霧皐月/第六章「忘却録音」)

井口裕香(瀬尾静音/第六章・『未来福音』)

石田彰(瓶倉光溜/『未来福音』)

2008年–2010年 『Sound Drama Fate/Zero』 音響監督:榎本 覚/音響制作:ブレイブハーツ

小山力也衛宮切嗣

川澄綾子(セイバー)

大原さやか(アイリスフィール・フォン・アインツベルン)

速水奨遠坂時臣

関智一(アーチャー/ギルガメッシュ

中田譲治言峰綺礼

山崎たくみ(ケイネス・エルメロイ・アーチボルト)

豊口めぐみ(ソラウ・ヌァザレ・ソフィアリ)

緑川光(ランサー/ディルムッド・オディナ)

浪川大輔ウェイバー・ベルベット

大塚明夫(ライダー/イスカンダル

石田彰(雨生龍之介)

鶴岡聡(キャスター/青髭

新垣樽助(間桐雁夜)

置鮎龍太郎バーサーカーランスロット

恒松あゆみ(久宇舞弥)

広瀬正志(言峰璃正)

伊藤葉純(遠坂葵)

津嘉山正種(間桐臓硯)

門脇舞以イリヤスフィール・フォン・アインツベルン)

植田佳奈遠坂凛

下屋則子間桐桜

阿部幸恵(アサシン)

川村拓央(アサシン(ザイード))

西川幾雄(グレン・マッケンジー

藤本譲(アハト翁/ユーブスタクハイト)

2010年『Fate/stay night - UNLIMITED BLADE WORKS』(DEEN) 音響監督:辻谷耕史

杉山紀彰衛宮士郎

川澄綾子(セイバー)

植田佳奈遠坂凛

諏訪部順一(アーチャー)

下屋則子間桐桜

門脇舞以イリヤスフィール

伊藤美紀藤村大河

神谷浩史間桐慎二

浅川悠(ライダー)

小山力也衛宮切嗣

田中敦子(キャスター)

中多和宏葛木宗一郎

西前忠久(バーサーカー

中田譲治言峰綺礼

三木眞一郎(アサシン/佐々木小次郎

神奈延年(ランサー)

関智一ギルガメッシュ

早見沙織(アナウンサー)

2011年–2012年 TV『Fate/Zero』 音響監督:岩浪美和

小山力也衛宮切嗣

川澄綾子(セイバー)

大原さやか(アイリスフィール)

速水奨遠坂時臣

関智一(アーチャー/ギルガメッシュ

中田譲治言峰綺礼

山崎たくみ(ケイネス・エルメロイ・アーチボルト)

豊口めぐみ(ソラウ・ヌァザレ・ソフィアリ)

緑川光(ランサー/ディルムッド・オディナ)

浪川大輔ウェイバー・ベルベット

大塚明夫(ライダー/イスカンダル

石田彰(雨生龍之介)

鶴岡聡(キャスター/青髭

新垣樽助(間桐雁夜)

置鮎龍太郎バーサーカーランスロット

恒松あゆみ(久宇舞弥)

門脇舞以イリヤスフィール

広瀬正志(言峰璃正)

伊藤葉純(遠坂葵)

津嘉山正種(間桐臓硯)

渡辺明乃(ナタリア・カミンスキー

阿部彬名(アサシン(百の貌のハサン)※分身ボイス)

川村拓央(アサシン(百の貌のハサン)※分身ボイス)

図師晃佑(アサシン(百の貌のハサン)※分身ボイス)

島﨑信長(アサシン(百の貌のハサン)※分身ボイス)

村上裕哉(アサシン(百の貌のハサン)※分身ボイス)

山本格(アサシン(百の貌のハサン)※分身ボイス)

野坂尚也(アサシン(百の貌のハサン)※分身ボイス)

佐々木義人(アサシン(百の貌のハサン)※分身ボイス)

桑畑裕輔(アサシン(百の貌のハサン)※分身ボイス)

野間田一勝(アサシン(百の貌のハサン)※分身ボイス)

松本忍(アサシン(百の貌のハサン)※分身ボイス)

西川幾雄(グレン・マッケンジー

藤本譲(アハト翁/ユーブスタクハイト)

楠見尚己(フィン・マックール)

中川里江(グラニア)

峰あつ子(マーサ)

大木民夫(大王)

瀬戸麻沙美(コトネ)

清水秀光(職員)

岡田栄美(TV音声)

菊本平(隊長)

武田幸史(副隊長)

大原桃子・冨樫かずみ五十嵐裕美・星野早・赤﨑千夏(子ども・男女ボイス)

2013年–2016年『Sound Drama Fate/EXTRA』 音響制作:榎本 覚/音響制作:ブレイブハーツ

阿部敦(岸波白野)

丹下桜(セイバー(ネロ・クラウディウス))

植田佳奈遠坂凛

神谷浩史間桐慎二

鳥海浩輔(アーチャー)

斎藤千和(キャスター/玉藻の前)

2013年『Fate/EXTRA CCC音響監督:榎本 覚/音響制作:ブレイブハーツ

下屋則子(BB) 

早見沙織(メルトリリス) 

小倉唯(パッションリップ) 

田中理恵(殺生院キアラ)

2014年『Fate/stay night [Unlimited Blade Works]』 (ufotable)音響監督:岩浪美和

杉山紀彰衛宮士郎

植田佳奈遠坂凛

川澄綾子(セイバー)

諏訪部順一(アーチャー)

門脇舞以イリヤスフィール

下屋則子間桐桜

神谷浩史間桐慎二

中田譲治言峰綺礼

関智一ギルガメッシュ

神奈延年(ランサー)

浅川悠(ライダー)

田中敦子(キャスター)

三木眞一郎(アサシン/佐々木小次郎

2015年-『Fate/Grand Order』音響制作:ブレイブハーツ

伊丸岡篤(ゴルドルフ・ムジーク)

坂本真綾レオナルド・ダ・ヴィンチ

鈴村健一(ロマニ・アーキマン)

高橋李依(マシュ・キリエライト)

米澤円(オルガマリー・アニムスフィア)

 

2016年 TVSP『Fate/Grand Order -First Order-』音響監督:高寺たけし

島﨑信長(藤丸立香)

高橋李依(マシュ・キリエライト)

米澤円(オルガマリー)

鈴村健一(ロマニ・アーキマン)

杉田智和(レフ・ライノール)

神奈延年(クー・フーリン)

諏訪部順一(エミヤ)

浅川悠(メドゥーサ)

川澄綾子(セイバー・オルタ/フォウ)

 

2017年 TVSP『Fate/Grand Order -MOONLIGHT/LOSTROOM-』音響監督:高寺たけし

島﨑信長(藤丸立香)

高橋李依(マシュ・キリエライト)

米澤円(オルガマリー)

鈴村健一(ロマニ・アーキマン)

杉田智和(レフ・ライノール)

2017–2020年 劇場版『Fate/stay night [Heaven’s Feel](I.presage flower/II.lost butterfly/III.spring song) (職能上の音響監督クレジットなし) 

稲田徹(真アサシン)

沢木郁也(キシュア・ゼルレッチ・シュバインオーグ)

上田燿司(遠坂永人)

立花慎之介(マキリ・ゾォルケン〈若い姿〉)

茅野愛衣(クラウディア・オルテンシア)

2018年『Fate/EXTRA Last Encore』音響監督:鶴岡陽太

阿部敦(岸波白野)

丹下桜(セイバー/ネロ)

植田佳奈遠坂凛

神谷浩史間桐慎二

下屋則子間桐桜

鳥海浩輔(アーチャー)

高乃麗(ライダー)

水島大宙(ガウェイン)

真田アサミラニVIII)

朴璐美(レオナルド・B・ハーウェイ)

羽多野渉(ユリウス・B・ハーウェイ)

東地宏樹(トワイス・H・ピースマン)

2021年 『月姫 -A piece of blue glass moon-』 音響監督:榎本 覚/音響制作:ブレイブハーツ

市ノ瀬加那翡翠

金本涼輔(遠野志貴

桑原由気琥珀

下地紫野遠野秋葉

長谷川育美(アルクェイド・ブリュンスタッド

本渡楓(シエル)

2019–2020年 TV『Fate/Grand Order -絶対魔獣戦線バビロニア-』音響監督:岩浪美和

島﨑信長(藤丸立香)

高橋李依(マシュ・キリエライト)

坂本真綾レオナルド・ダ・ヴィンチ

鈴村健一(ロマニ・アーキマン)

関智一ギルガメッシュ

小林ゆう(キングゥ/エルキドゥ)

櫻井孝宏(マーリン)

植田佳奈(イシュタル/エレシュキガル)

浅川悠(アナ/ゴルゴーン)

内山夕実(シドゥリ)

早見沙織(牛若丸)

稲田徹武蔵坊弁慶

三木眞一郎(レオニダス一世)

伊藤美紀ジャガーマン)

遠藤綾(ケツァル・コアトル)

2020-2021年 劇場版『Fate/Grand Order -神聖円卓領域キャメロット-』音響監督:明田川仁

宮野真守(ベディヴィエール)

島﨑信長(藤丸立香)

高橋李依(マシュ・キリエライト)

坂本真綾レオナルド・ダ・ヴィンチ

川澄綾子獅子王

水島大宙(ガウェイン)

沢城みゆき(モードレッド)

置鮎龍太郎ランスロット

内山昂輝(トリスタン)

安元洋貴(アグラヴェイン)

子安武人(オジマンディアス)

田中美海(ニトクリス)

小松未可子玄奘三蔵

鶴岡聡(アーラシュ)

稲田徹(呪腕のハサン)

千本木彩花(静謐のハサン)

鈴村健一(ロマニ・アーキマン)

2021年 劇場アニメ『Fate/Grand Order -終局特異点 冠位時間神殿ソロモン-』音響監督:岩浪美和

島﨑信長(藤丸立香)

高橋李依(マシュ・キリエライト)

川澄綾子(フォウ)

鈴村健一(ロマニ・アーキマン)

坂本真綾レオナルド・ダ・ヴィンチ

杉田智和(ソロモン)

2021年『MELTY BLOOD: TYPE LUMINA』Voice Director:榎本覚

金本涼輔(遠野志貴

長谷川育美(アルクェイド

下地紫野遠野秋葉

本渡楓(シエル)

市ノ瀬加那翡翠

桑原由気琥珀

2022年 『魔法使いの夜』ボイス版 Voice Director:榎本 覚

小林裕介(静希草十郎)

戸松遥蒼崎青子

花澤香菜久遠寺有珠)

青木瑠璃子蒼崎橙子

種﨑敦美(ルゥ=ベオウルフ)

安済知佳(久万梨金鹿)

梶川翔平(木乃実芳助)

深町寿成(槻司鳶丸)

 

 

 

 

【アーカイブ】『傷物語〈こよみヴァンプ〉』トークイベント

『レゼ篇』の音響話の地続きで本当に申し訳ないのだが、やっぱり真面目に名倉音響を語るうえで、直系の師である鶴岡陽太の仕事線は避けて通れない。

前回は『聲の形』において山田尚子×鶴岡陽太が「is版」を円盤収録へと後押しした経緯を手がかりに、その思想性、つまり牛尾の自我音響というものを確認しました。

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今回は射程を『傷物語こよみヴァンプ〉』へ移し、鶴岡が同作でどのような音響設計に勤しんだのかを、尾石達也×小黒祐一郎トークの発言にあったことを思い出したのでこちらも、急遽アーカイブとして残すことにしました。

同時に、総集編には不参加ながら三部作本編で録音を担った名倉靖の仕事を照応として捉え、名倉音響を考える際の資料としても、活用できるかなと。作品論として面白いイベントでしたし。

こちらも逐語よりではあるが、前回同様、進行形でとるメモというのは本当に乱雑にしかなりません。それが軸なので、文章が変なところもがあります。その点はご了承ください。ただ、文章をまとめたのはイベントが終わってすぐだったので、今回のために記憶を巡らせたというわけではないので、そういう意味では熱気はそのままに近いです。


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作品としての総合的な完成度やインパクトでいえば、正直言えば、山田尚子の『聲の形』や尾石達也の『傷物語』という怪物級には敵わない。

ただし音響アニメという観点に絞れば、『レゼ篇』は明らかにその継承線上に位置づけられる。良し悪しの比較ではなく、設計思想の系譜として。

「聲=保存」「傷=逸脱」「レゼ=架橋」がある感じとでも言いますか。名倉靖が録音で正反対ともいうべき二作品を経験している事実も含めて、最新作が単独で浮かぶんじゃなく、系譜と照応しながら位置づけられるはずであると。


<本編>

小黒: いつか「アニメスタイル」で開催しようと思っていた。新文芸坐の画角でないと映えない映像スタイルな作品でもある。

 

尾石: 小黒さんとの対談が感慨深い。『ぱにぽにだっしゅ』〜『絶望』に至るまで世話になってた。

 

小黒: アニスタで6回ほど取材したが、こういう形で話すのは今回が初。諸般の事情により「新千歳空港国際アニメーション映画祭」に先を越された。

 

尾石: 会った時には既に有名人だった。その上でかなりイけている時代の作品を評価・支持されたことが嬉しかった。

 

小黒: 記事にはならなかったけどね。

 

小黒: 『絶望先生』の時に脚本を描く時に原作者が顔通しする時があった。その時に「人としての軸がぶれている」の映像だけは完成しており、尾石さんも顔合わせをする時だった。すごく「目がいっちゃってる人が、達成感のある顔をしている」姿をみて。大変なことをしているなぁと。

 

小黒: 何らかの時にあった時に『傷物語』の三部作の絵コンテが上がってきた。「一本の絵コンテでこんな時間かかってしまってどうするの?」って聞いた時に「僕はこんかいのこれで映画というものがわかりました。だから次はすぐ描きます」ってことをこの前伝えたら、、

 

尾石: 大馬鹿野郎ですよね。結局今悩んでいるわけだから。でもその時は達成した気持ちだった。

 

小黒: 俺は映画の秘密を掴んだ!!って感じでしたよ。

 

尾石: 本当、その時に戻って聴きたいですよね

 

小黒: お前が掴んだのなんだったんだってw。これからやる絵コンテが3時間の絵コンテになるから、それに比類する長尺な映画を見るっていってましたよね 『涼宮ハルヒの消失』見ましたとか。

 

尾石: いっていましたね。だからやる前に研究するんですよね。まずは『吸血鬼 ノスフェラトゥ』(1922年)から見て、あの当時は『ぼくのエリ 200歳の少女』(2008年)くらいまで一通りみました。そこから考えていった。

 

尾石: 最近忘れが激しい。『傷』で羽川が両手を広げながらバタバタと風にあおられるシーンがあるがあれはフェリーニの『8 1/2』のマルチェロ・マストロヤンニが空を飛んでてバタバタっと煽られるカットにしたく、昔の印象として残っていた。あのシーンは佐藤浩一さんが描いてくれた画、打ち合わせの時にビデオをもっていってみせて「こういうふうにして」と頼んだら全然異なっていて、最終的にいいようにお願いしますという形に落ち着いた。

 

小黒: 元々2時間でまとまる脚本があがっていてそれが絵コンテで3時間オーバーという話じゃないの?

 

尾石: 違います。最初シナリオは4時間あった。『化』をボロボロになってやっている時に『傷』のシナリオ会議が行われていたらしいという情報があった(知らされてなかったが)そして終わったら「これをやりなさい」と言われた。 その時には映画であることは決まっており、シナリオも極力原作網羅をする形で、ページ数的に「これ4時間超えると思うんですけど?」って新房さんに聞いたら「じゃあ4時間の映画つくればいいじゃん」と言われた。 それで「これはちょっとまずいな」と思い自分でシナリオを再編集という作業にはいった。 だから決してコンテで長くなったわけではなく、シナリオ段階で長かった。

 

小黒: 脚本のまとめ直し→コンテ描きで結果的にコンテで時間がかかった。

 

尾石: そうですね。だから待っていただいた方には申し訳ないと思っている。ただ、やはり『化』をずっとやっていたものですから

 

小黒: 配信組はオンエア時の空気を知らないと思うが、ちょっと違って緊張感がありました。配信日1日延長しますとか

 

尾石: 自分が入った段階で『化』は時間がなかった。ただ、「やるんだったら全部自分の美意識でまとめる」と それまでは作品の余裕を考える余地があった。『化』はそのくらい大変だった。 例えば『化』ではお札に「赤瀬川」とあった。それって赤瀬川原平っていう現代芸術家がいて「偽千円札裁判」というものがありそのオマージュで描いているのだけど、それもだから思いつきでオペレーターに言っているわけだから描いている側はよくわかってない。美内が終わった後に「ちょっと美内とは違うんですけど、りんたろうの作品みたいな黄色い空みたいにしてください。」みたいな感じで思いついたことをひたすらやっていく。 戦場ヶ原に思い入れてしまい、デート回の服装などはファッション誌などを参考に、バッグは黄色いバッグであったりと、こうでああでというかたちで考えて作っていった。こういった『化』でボロボロになった後の『傷』だったので辛かった。しかし惚れた弱みっていうかさ、、ほら『機動戦士ガンダム』でアムロが命令違反で独房に入れられる時に(第19話 「ランバ・ラル特攻!」)「僕が一番ガンダムを動かせるのに!!」という気持ちで「僕が一番『傷物語』を動かせるのに!!」という気持ちに。

 

小黒: 整理すると、時間もない中やった『化』が終わった後、次は1から構築したいという思いで『傷』になるわけですね?

 

尾石: そうですね。『化』とは違うスタイルを目指しました。同じことをしたくないし(演出映像スタイル含めて)。 その時自分がイけている映像を作りたいと思っていた。その時一番自分がいいと思うイメージを元に作っていった。よく学習塾の形が違うとか暦の家が違うと、色々と言われていますが、自分の中では「『銀河鉄道999』における星野鉄郎の顔が違う!!」とか、「『ガンダム』のGアーマーコアブースターになっている!!」みたいなものが劇場版だから、そういう感覚で作っていった。

 

小黒: 背景がフォトリアルなのは?

 

尾石: エスカレーターのイメージがあった。その金属感を出したかった。そしてそれは手描きではない。 水、金属を素材として出したくてCGになりました。

 

小黒: 要するに『傷』のアヴァンギャルド感は「ほぼ実写」な世界に手描きのキャラクターがいることで生じる不思議な感覚がそれに繋がっていると思う。ガチガチなリアルにしたかったわけではない??

 

尾石: 自分の美意識の中ではそれはおかしくないこと。TVシリーズを作ってる時だって写真を貼っていたりしていた。アニメでは少ないかも知れないが、古典というか、技法としては確立されていたわけですよ。 割と子供の時から(小黒から『モンティパイソン』があがりそれも頷きながら)『トムとジェリー』がすごく好きでみていたら間にテックス・アヴェリー(カートゥーン黄金期のアニメーター)が実写と合成を当たり前に挟んでいて、幼少からそれがおかしいものとは思わなかった。一方でシャフト演出時代はそもそも時間がなかった。 『月詠』のとき、カッティングを行うのが三日後といったスケジュールで、三週間でオンエアというスケジュール 海外で動画を待つしかない。しかし中1日であがる動画って色々と絵が溶けている。生理的に許せない。であればそこは写真をはったほうがいい。『傷』をやっているときは「『恐竜大戦争アイゼンボーグ』みたいなのでいいんですよ」っていってました。あれは実写の中にアニメキャラが出てくるんです。それにしたかった。潔いし

小黒: 実写フォトリアルにセル画キャラがいることで現実を剥き出しにしてみたいというのはあるんじゃない?

 

尾石: どうなんだろう。そっちの方が面白いとおもった。もっとキャラクターを手描きにした方がいいと思った。

 

小黒: キャラもシリーズよりもリアルだしね。

 

尾石: それは守岡さん(作画監督)などの影響がありますね。そうして欲しいといったようも気もしますが。 アニメにはキャラクター表がありますが、それをみながら描かないでくれとはいったかも。どっちかっていうと絵コンテに近い感じで描いてくれという感じ。

 

小黒: アヴァンギャルドにしたいという思いはなかった?それは結果?

 

尾石: どうなんですかね。小黒さんは自分のことを「アヴァンギャルドな作家」として評価してくださっていますが、どうなんでしょう、、尖ったものを作りたい、見た人に驚いて欲しいというような思いがある。 作家には2タイプいると思っていて、自己優先型と観客に喜ばれたい型。自分は後者であり、シャフト演出時代にすケージュル時間がないなかで生み出した技法もあいまった結果。『ひだまりスケッチ』をやっていたときの話で、まず『ねぎま』のオープニングと第5話の絵コンテ・演出が終わったとき、元々作品が多数いて出席番号と名前全部を覚えた瞬間に新房さんとシャフトの社長に「今日から君は『ひだまりスケッチ』をやりなさい」と言われて、それが11月で、オンエアを聞いたら1月。その段階で美術設定がなく、、、だが当時はイケイケの時だったから、時間がないことを逆手にとって、「じゃあ全部自分よりに染めてやろう」という気概になった。美術設定が終わって2話の絵コンテが12月の頭で1月オンエア、コンテがあがり12月31日。除夜のかねを聴きながら打ち合わせなどをして二週間で作るという。逆手にとるという段階をとっているので全部止め絵、その代わり500カット内200カットを守岡くんに描いて貰えば何となるみたいな。そこで色々と試していく。 トイレの止め絵→黄色色コマ→音を流す→ということで、描写表現をするなど、色々と時間のなさを活用していました。そういった部分が「アヴァンギャルド」という評価に繋がっているのかなぁと。

 

小黒: 時間がない中で写真を使うということ自体に驚いて欲しいという思いはあるわけでしょ?

 

尾石: もちろん。実写とアニメは似ているようで方法論が違う。実写で「すごいロングのキャラがいる」→次のカットでクロースアップすると「どき!!」なるがあの感覚がアニメは決定的にだせない。 羽川が骸骨でトンと出る描写があるがあれはアニメ絵で描いてもその驚きは出ない感覚。だから実写にしている。

 

小黒: 日本の国旗などもセルではダメなんですね。

 

尾石: 無機物は手描きにしたくない。セル画は有機物という描き方という感覚。 昔のアニメって本とかがそうだけど、手書きで書いてあったりして自分としては気持ちが悪くって、間の装丁でっていうことがしたい。 全然関係ないですけど『となりのトトロ』で金田パートあるじゃないですか。コマで飛ぶシーンで、お父さんが仕事しているじゃないですか。その本棚に「著者 金田伊功」ってあって、びっくりしてそれをよく宮崎さんが許したなと。

 

小黒: それでこのパート全部金田さんってわかるわけですね。

 

尾石: そうそう、金田さんもよく自分の名前書いたなって思いますけど

小黒: ストレスたまってたんじゃない?生前に伺っただけどジブリの仕事は己を殺さないといけないから辛いといっていた。 話変わりますが、丹下健三さんの建築美術はどの段階で?

 

尾石: 絵コンテ入る前ですね。

 

小黒: そもそも順番として震災があったときは絵コンテに入る前?

 

尾石: 脚本をいじってた。

 

小黒: これまでインタビューで日本をテーマにした。生きづらい世界だけど、その中でどのように生きるかという思いがあってからの丹下美術なのか?もともとなのか?

 

尾石: 時系列っていうよりか、、自分は理論よりイメージがくる。絵コンテ描く前からエスカレーター見えてたし、最終盤シーンでああいった舞台でバトルをすることも決めていた。序盤のころに学習塾を巨木が回転するカットが浮かんだ。これは他でも言っていると思うが、それが『傷』のとっかかりになるのではないか?震災とは別にそもそもイメージで使えるものを美設の武内さんと色々と探していた。メインイメージが『未来少年コナン』の三角塔に木が生えている感じで、ある日山梨文化会館に向かってみたら、ガイドさんから「これ、『未来少年コナン』の三角塔のモデル担った建物なんです」っていわれた瞬間に必然に変わったような気がして、要するに『化』はモダン(コルビュジエとか)、今回は「日本縛り」にしよう→だから同じように『化』でヌーヴェルヴァーグのイメージだったから今回は「じゃあヌーヴェルヴァーグの影響下にあった60年代の邦画にフォーカスしようと。

 

小黒: タイトル知りたい

 

尾石: それこそ吉田喜重とか

 

小黒: 『エロス+虐殺』(1969年)

 

尾石: そうそう、、とかね、、『煉獄エロイカ』(1970年)とかさそのあたりのイメージです。だから日本縛りがあっての丹下引用という形。

 

小黒: そのあたりで順番はわからないが震災と日本縛りということと、6、70年代という景気が良かった日本だったりと、色々と合わせて「日本テーマでまとまる」とどっかで思いついたわけね

 

尾石: そうですね。『傷』に入るときにどうしても阿良々木暦の気持ちが掴めなかった。まず逃げればいいのに助けて、殺してくれって頼んでるのに、添い遂げるじゃないけど助けてしまう。その気持ちがわからなかった。 ただ、そんなときに3.11があり、福一が爆発して大変になり、活気があるころの小名浜もしっていたため、『傷』は価値観が逆転する話だと思った。そのときに不謹慎かもしれないが阿良々木暦の心境が理解できた気がします。

小黒: 何度か見ておもったが、「人間はいつ吸血鬼に晒されるかわからないという手段をとったという道を選んだ」これはメタファーとして原発との共生を重ね合わせているの?

 

尾石: うーん、キスショット自体が原発のような、こんなことになるとはっていう感じ、いわゆる制御不能な怪物というのが原発と重なることがあった。

 

小黒: そういうこともあって日の丸を引用することで「これは日本の映画です」と。だからキービジュアルでもそうすると

 

尾石: そんな感じですね。だいぶ忘れてしまいましたけどね。

 

小黒: この映画のいけているところは、いきなり赤ん坊の声が入るとか色々あるが、それも意味があると思っているがどうなんですか?

 

尾石: 全部に理由はないが、嫌なことはいれない。好きなことでまとめるという意識でやっている。ドラマツルギー戦で「野球のカットの音」が入るが、あれは『巨人の星』のオープニングのイントロ。しかしダイビングの時に田中さん(音響効果)は音のプロだからそのわけがわからなさに嫌がられて、音響監督の鶴岡さんもあんまりも揉めているから外で話してきてっと言われて話したけど「やりたいんです、、」しか言えなかった。結構そう言った衝動はある。 理屈よりもインスピレーション。迷ったらインスピレーション。 『こよみヴァンプ』では落としたが、羽川がトマトのサンドウィッチを作ってくると。あの件は西尾さんの原作にはない。(『あしたのジョー2』で林 紀子がサンドウィッチを作る描写意識) 吸血鬼でトマト繋がり、「吸血鬼は人間を捕食、人間も何かを捕食」という描写となれば、あれしかないと思った。 エピソード戦の「ははははは」も黄金バットのオリジナルの音を使いたいわけだが、、できないから入野さんに再現をしてもらった。あのカットも過去にみた怪奇映画の引き出しです。なにかはわからないけど。

 

小黒: 羽川のシーン(体育館のくだり)については?

 

尾石: 三部作を見てもらえれば。

 

小黒: 元々、尾石さんの中ではあのシーンは違和感があったんだよね?

 

尾石: 原作を読んで、なぜここでそういうふうになるのかがわからない。悩みどころだったけど しかしそこを無くすと、客はがっかりすると思ったわけです。行動原理として繋がらない。だから自分を納得させるために、『傷』はテレビ版とは異なっている。そこで分け目を描き方を変えることで納得させた。やるなら徹底的に。堀江さんには申し訳ないんですどね、、清純派のイメージがあったので。コンテ描いている時も演じてもらえるのだろうかという思いはあった。が中途半端にはいかない。だから『こよみヴァンプ』は『化』でひたぎにフォーカスしたこともあって、12話以降は羽川に意識して描いていった。 『傷』だとキスショットがメインになるわけだが、今度は坂本さんに申し訳なくなって、命乞いのシーンのお願いをしたら「やりたくない!!」といわれて、、ただそれはその時にしかでいない芝居をなさっているからで、、、 しかし都合上もう一回という形をとった。 音と動きが合わせている以上、全部切ると全部作り直しになるから切れるところと、そうでないところが明白。 再アフレコも編集したところだえ。

小黒: 今後はこういうスタイルになるか、違ってくるのか

 

尾石: 作品は作る時に気負って作る(大傑作をつくる)。一つあるのは『傷』の先をいきたい。2025年で一番いけている作品を作りたい。

 

小黒: スタイルは変わるかもしれないが、、、

尾石: とてつもなく時間はかかるかもしれないが、、自分でいっていきたいのは『傷』が恵まれていたのはスタッフ 絵コンテは孤独だが、実制作側の仕方記憶しかなく、それは関わってくれたスタッフが自分と同じ熱意で取り掛かってくれたから。だからこのフィルムがすごいというのはスタッフのおかげ。故にアニメは一人では作れない。 そういう縁を大事にしていきたいですね。作らせもらえるのであれば。

小黒: じゃあ、もう手直しをしたいシーンはないですね?

尾石: 『傷物語』はやりきりました。

 


 

<おわりに>

結局のところ、『聲の形』の〈is(inner silence)〉にせよ『傷物語』にせよ、鶴岡陽太は音の決定が交差する節点として機能している。『聲の形』では〈is〉を5.1ch特典として残す判断を後押しし、劇伴/環境音/無音の配列そのものを作品装置へと引き上げた。

一方『傷物語』では、実写的SFX(=SE)や引用SEをめぐる演出×効果の綱引きにおいて、極端な音を最終的に通す調停役かつ保証人として立つ。無機物を手描きにしない画作りが質感の断層で衝撃を立ち上げるなら、音はその衝撃を可聴化している。

実際、野球の打球音や黄金バットの笑声といった「異物」は映画的リズムとして定着しており、そこには「音を意味ではなく運動として通す」鶴岡の現場判断の連続性がある。

 

音主導としての『聲の形』is版 →鶴岡(音響)←映像主導の『傷物語

音主導の『聲の形』is版と映像主導の『傷物語』いずれのプロセスでも、最終的に音で画面の見え方を組み替え、映画の運動へ束ねたのは音響監督・鶴岡陽太である。

そのうえで、両作に録音として関わった名倉靖の存在は、性質の異なる二作品を架橋する意味でも、実務の精度としても特筆に値する。やはり冒頭にも書いたが、設計思想の系譜として「聲=保存」「傷=逸脱」「レゼ=架橋」と筋道を建てられるからだ。聲、傷それぞれの要素が『チェンソーマン レゼ篇』で名倉が音響監督として何を目指したのかを考える際、本稿の整理は有効な手がかりになるはずだ。2025年9月時点では詳細は未詳だが、いずれ公式の音響面の発信がなされたとき、その読み解きに資する下敷きとして機能すれば幸いです。

【アーカイブ】『聲の形』「inner silence」上映会 トークイベント

本記事は、拙稿「劇場版『チェンソーマン レゼ篇』に見るアニメ作品における音響監督の重要性」の補助線として公開する資料篇です。

sai96i.hateblo.jp

2016年公開『聲の形』のBlu-ray特典音源「inner silence(以下、is)」をSAION仕様の音響環境で鳴らしたイベントにおける、中村伸一(当時音楽P)×牛尾憲輔(作曲)のトークを、検証可能性を優先してメモを頼りに、極力逐語寄りで記録したものです。

 


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イベント自体は少し前のものです。一部知り合いには全文を寄与していていたのですが、そもそも需要性の問題で当初Music Synopsisで出すかどうかも含めかなり迷っていたが、『レゼ篇』の音響監督における差分に至るサブテキストとして有効と判断し公開します。

本稿自体は評価や解釈を極力排し、一次情報の提示に徹します。方法論に関する私見・仮説(単位系と制作体制のミスマッチ)は本編に集約しています。


<本編>

中村
聲の形の公開が2016年 その翌年のBlu-rayの音声特典に収録されているのがinner silenceの初出。改めて時間がたって、坂本龍一のSAION音響でinner silenceが流れるというのはどうなんでしょうか?

牛尾
実は僕がやりたいといって開催させてもらった。こんなの(inner silence)ないじゃないですか?みたことも聞いたこともないじゃないですか
それを、おそらく日本一の音響で流せるというのは、素晴らしい体験になるだろうなと思いまして、イベント前の音響チェックをしたけど、とにかく凄い。
冒頭とか、スクリーンの奥に巨大なピアノのハンマーが動いているような。そのくらい素晴らしい音響体験になると思います。

中村
Inner silenceの話になる前に、牛尾さんにとって『聲の形』とは?

牛尾
最初にやった映画音楽作品。同時に、山田尚子監督と一緒に二人三脚で作って行ったが、商業映画で、大きな配給があってという作品にもかかわらず、すごくコンセプティヴでアーティスティックに作らせてもらえた。
これがあってののちの自分の10年だった。この作品で自分のやり方を見つけることができた。

中村
今、それから10年経って、ずっと山田監督とお仕事をされているわけですが、結局やっぱり『聲の形』がベースになっていますよね?

牛尾
そうですね。これが一つの単位系。その単位の前にある数字は変わるけど、やり方は一つこれが確立している。そしてこの単位自体も更新はされるけど基準になっているというのはその通り。

中村
あの時にこのような作り方をするというのは珍しいと思うのですが、どういった経緯で?

牛尾
逆に、初めてだったので、山田さん自体も『けいおん!』『たまこラブストーリー』をやってという時代。そしてシリーズに結びつかないという作品という意味では初めての作品であったため、お互いが無我夢中だった。
メタ的なことを狙ったのではなく、クリエイティヴの果てにこうなっている。大きな規模で公開される作品で、中村さんが僕のマネジメント会社に声をかけた時「2016年最大の話題作です」といってくれた。
それくらいの大きな期待を持った作品で、アーティストに根差した作り方をさせてくれたので、それがいいきっかけだった。初期衝動にあふれていた。作りたいから作っているというべきか。
やり方は稚拙かもしれないが、「これが作りたい」というのが自分と山田監督にはあった作品だったので。
いわゆる一般的な作り方としてメニュー表での指示表が一切なかった。例外的な「ゲーム音楽」などにおけるシーンの付け加えはあったが、基本的にはない。
山田監督が絵コンテ、自分が音楽、で色々作っていく間で五十〜八十曲になった。そしてそこにオーダーはない。書きたい曲を書いていた。
山田コンテと牛尾音楽が先にあった。自分は劇伴出身ではない。ソロの方向性でいけたのは珍しい。

中村
山田さんにとっても、音楽家と音楽スタジオで詰めて作るというのは初めてだったと思う。

牛尾
中村さんも、数多の作品を手掛けているが、こういった作り方は?

中村
一切ない。お二人のおオリジナルな作り方。

牛尾
楽家ってアニメの制作から映画に至るまで結構とざま。オーダー表があって作って納品するだけ。そういうのがなかったのもよかった。

中村
最初の一作としても密接な作り方をしたと。isというものが出てきた経緯、
まずはisについて

牛尾
isっていうのは効果音、セリフが一切ないもの。なので、始めてみるとストーリー分からないもしれないという意味ではハードコア。
じゃあ何がどういう、っていう感じって話になるんだけど、さっき言った、コンセプティヴで作った時の話で、パイロット音源を作っていた。
その時にバッハ《インヴェンション第1番 ハ長調 BWV 772》(以下、インヴェンション1番)に紐づいていたので、これを二時間分に解体して再構築して引き伸ばしたりして音響合成で1番をつくり、二時間分の音源をつくった。
そして「こうしたい」プレゼンをした。音響の鶴岡さんや山田監督も気に入ってくれてはいた。しかし流石に二時間ドローンなりっぱなしはないだろうということでなしになった。
流石にもう少しポップにしようという形でできたのが今公開している『聲の形』。そして円盤を出す時に自分はそんなつもりはなかったが、鶴岡さんや山田監督が「あのパイロット版はだすべきだ」と推していただけた。
そこまでやっていいのかなぁと思っていたら、まさかの収録という形になった。しかも5.1chのリニアPCM(音声をデジタル化する方式の一つで、圧縮せずに元の音声をそのまま記録する方式)では収録されている。ディスク容量をたくさん使うため、あれで使ったことで入らなかったものは結構あると思う笑。普通はMP3とかだから。だからis自体は、『聲の形』の剥き出しの部分と僕は捉えていますね。

中村
今日はちょっと珍しいものを見させてもらえると。

牛尾
今日来る人たちは猛者だと思うので。そんな珍しいものではないですけどね。ちょっとこれ見てみてください
これがInner silenceです(実物のプロジェクトファイル提示)

ちょっとオリジナルのisのコンセプトですが、バッハの「インヴェンション1番」を軸にしている。そしてこの曲は時間方向に3の展開に分けられる。アナリズムといいます。
この映画自体も3分割して、「インヴェンション1番」の音だけを使う曲がありました。それもサントラにinvで入っています。

inv(I.i)

inv(I.i)

  • provided courtesy of iTunes

実はisも三部構造になっています。pt1,pt2,pt3これがそれぞれ三部構成を表しています。これはプロダクションのレンダリングでまとまってしまっているんですけど、ノイズとしてピアノの音を貼っていたりしています。赤いところ緑のところ、青のところは絵に合わせてどういうことかっというのを作っています。絵をみて演奏して再構築して、と言った感じです。

 

ラスト、一番最後、文化祭に入るシーンですね。「インヴェンション1番」自体は主人公が校門に入るところで終わらせないといけない。だから、その後はライトバリーションがなっています。というのがこのisの全体像。おおよそ3500小節ですね。これを今日、面白かなと思って持ってきました。昔新千歳でライブでやったけど終わった後死ぬかと思いました。

 

中村
ちなみにis自体がドローンということで、他の作品の中ではきけない音楽かなと思いますけど作曲論としてはどういった?

牛尾
ドローンというのは通奏低音とは違うけど、ずっと持続音が続くことを指します。自分の楽しみで作っていたものとか、アーティストとしての音楽性にあることはあったけど、二時間というのはない。


実はこうしたドローンアンビエントなものは、今でこそ猫も杓子もやっていますけれど、あの時代には、メディアに縛られていたから、長くても八十分だった。その構造自体は新鮮でした。でも映画がそれを求めるなら必ず作らないといけない。

中村
メディアという部分で、時代によって出来ことが変わるわけですが、環境かわってどうなんでしょうか?

牛尾
でも、結構人っていう意味ではアンビエントとドローンというオーダーを受けることもある。その意味ではハードコアすぎるというの時代でもない。

中村
当時としては画期的だったと思います。個人史的にも。

牛尾
おっしゃる通りです。この規模の映画でできたことが得難いし、アンビエントというかドローンみたいなものが示唆するものって、前走的、目眩的。つまり瞑想的なもの。
でも『聲の形』はそうではない。明確に物語に紐づいている。

これが「誰」の「何の」ことなのかを意味している。お話に連動したドローンというのはものすごくレアケース。京アニの作画で感じるという意味では余計に。

中村
今日これからみる観客の見どころについて

牛尾
普段、ご覧になるアニメというのは効果音もセリフも全部あると思います。それに比べてはとても低刺激です。爆発音もないし、喋っている人から声がないからアテンションもいかない。

だからそれ話者以外のことに注意を向けることができます。だから第一にはめちゃくちゃ「作画」をみることです。あの、京アニが細かいことを描いているということがよくわかります。山田監督が、なぜこの世界で雲を絵が描かなかったのか?というのはヒントの一つではあるけど、全部なっていると気づけなかったりする。じゃあ硝子の涙は何色なんだろうとか、そういうものを見るという意味ではisはいい状態です。

 

二つ目は寝てしまうですね。いうて、映画一作なので、二時間九分、素晴らしい音響でこの空間、この座席で爆音でドローンを聞くなんてないと思うんです笑。僕もね、最初作っている時に、寝ちゃったりするんです。すごく気持ちいいので。それはそれでいい音響体験だと思います。

 

三つ目は、こっから129分を人生で一番考える時間にしてください。効果音もセリフもない。アニメという人が手を使って使うメディアにドローンがなるということはどういうことなのか?声が音が聞こえない女の子が出てくる作品に効果音も声もない。ドローンのみがなるってどういうことなんだろっていうのを思考する人生最大の129分にしてくれればいいと思います。『複製技術時代の芸術』という、ベンヤミンの名著がありますけれども、今、こうオーラと映画みたいなのあるじゃないですか?果たしてこれにオーラはないのでしょうか?ちょっと考えてみてください。

僕も答えはわからないですけど。ただ、これはすごく疲れるのでおすすめですけど頑張ってください。途中で寝てもいいと思います。

 

おわりに

セリフと効果音を徹底的に退け、バッハ《インヴェンション第1番》を約3,500小節規模に解体・再構築した inner silence は、いわゆるアート映画やカルト映画の様式に寄りかからず、純映像と音響の結合そのものをBlu-ray特典という器で、しかも5.1chというフォーマットで実現した点に決定的な意味がある。これを後押ししたのが音響監督・鶴岡陽太と監督・山田尚子であった事実をふまえるなら、自分の主張にあたる「鶴岡/名倉/山田尚子+牛尾」の黄金比は、少なくとも〈山田作品〉においては牛尾が必要条件に近く、むしろ完成された言語に近接しているというのは一段と補強される。

 

牛尾憲輔の言葉を借りれば「正解はない」。ただ、is が実在し成立してしまったこと、そして音が自我として前景化する牛尾の作曲言語の在り方を確かめたうえで、『チェンソーマン』における「最適」を語るべきである。inner silence 版『聲の形』という生の参照点を経由して各自の判断を更新する。本稿と資料篇は、そのための補助線である。

 

is収録版ー『聲の形Blu-ray

 

 

こぼれ話

因みに、完全にドジを踏んだ身として二次災害を防ぐため記載しますが、Blu-rayの特典で本編の音、台詞なしのinner silence版は収録されています。問題はそのis版の劇伴についてですが、これは「きゃにめ」を通して買うと特典として付属します。この話はこのイベントの最後に販促として謳われたものですが、会話の流れで、きゃにめ→ポニーキャニオンという文節を誤って誤読したけっか、「きゃにめ」はポニーキャニオンが直営している公式通販サイトで、ここ経由で買った人にだけ付く「きゃにめ限定特典(=inner silenceのCD2枚組)」が設定されています。なので、間違っても一般の流通でポニーキャニオン版を買っても、その特典CDは付きません。

 

Blu-rayディスクに収録されている音声トラック版の「inner silence」はどこで買っても入ってますが、外付けのCDセットが欲しいなら「きゃにめ」で注文するしかないという仕組みという二枚舌みたいな売り方なので決してドジを踏まないように。

というか別に自分が悪いというよりも伝達の仕方が悪いだけ。

普通に「きゃにめ」で買えばついてきます→あれ、「きゃにめ」ってポニーキャニオンでしたっけ?→ポニキャニだね、、って言われたら脳内の論理図式的には

(A=きゃにめ、A⊂C=ポニーキャニオン → 誤って「Cでも特典が付く」と一般化)

ってなるじゃないですか。こういうのを包含の誤投影っていうんです。

論理って難しい。

一般流通版のポニーキャニオンで買った私 vs 「きゃにめ」で買った友人。イベントの販促トークで耳に入った「ポニーキャニオン」の一語に安心して議論が迷子になり、正解は後者(きゃにめ限定)だと判明。悲しいです。

この記事を書きながら「きゃにめ=ポニーキャニオン直営」だと理解し、すべてを悟って三枚目の円盤を「きゃにめ」で無事購入

無事「きゃにめ」で再度『聲の形』の円盤を購入しました。これで3枚目です。

木漏れ日の一つでも欲しいものです。

canime.jp

映画『聲の形』Blu-ray 初回限定版 | きゃにめ

一石二鳥で手に入れたい人がここから購入してください。

 

劇場版『チェンソーマン レゼ篇』に見るアニメ作品における音響監督の重要性─名倉靖音響が持つ系譜

かなり真面目に思うんだけど、『チェンソーマン』の音響がなかなかしっくりこない。それなりにはアニメ作品はみてる中で、こんなにも耳の居心地が歪なのはかなり稀。
つい先日、原作未読の状態で総集編を見たという最中。これが「初めまして」である。
巧拙の類というよりも、キャラと役者が両立していないorアタックが弱いという声/音響の力学的な話である。平たくいえば天秤において均一であるところがどちらかに偏り「すぎている」という話。これが結論。そう感じた理由をこの記事で述べていきたい。

初めましての方は先にこちらを読んでおくと色々話早いです。

sai96i.hateblo.jp

 

いわゆる近年における三大ジャンプ作品にあたる某鬼のアニメ、『呪術廻戦』『チェンソーマン』の中では一番若手起用を積極的に採用しているタイプで、それすなわち大御所に頼らない演技で決めると言う意味では心意気は買うし、ある側面においてはわかる。
 
でもそれはビッグタイトル/巨大IP作品の主軸に添えていい理由にはならない。
 
そして仮に、若年軸で進めるのであれば、それ相応の「バランス」が求められるし、それがないと「破綻」するに決まってる。ソロで上手いやつが一人入れば成立するという作品の類であればまだ、片方をベテランにすることでバランス維持と言うの可能だが、往々にして漫画というのは複数人/多人数で組まれるものである。組織ものでも学校ものでも。だからこそ、もし添えるなら「若手、若手、若手、大手、大手」のようなくくり方をしないそれができないなら、最初から絶対に外さない大手で固めるか。メジャーな作品であればあるほど、この二択しかない。
 
例えばそれなりに注目度の高い、直近の作品で言えば『千歳くんはラムネ瓶のなか』のキャスティングを確認してみよう。

アニメ『千歳くんはラムネ瓶のなか』メインキャスト

まぁそれこそ、早川アキ役の坂田氏がメインを演じている作品なわけですが主人公、ヒロインズというラノベ構築ではあるものの、やっぱり立てているヒロインは石見舞菜香・羊宮妃那・長谷川育美の三人というのは年代的にも明らかだ。この三人は現在最も勢いのある役者群であり、これからの主役を担っていく真っ只中の方々である。ただそれだと演技帯でバランスが取れないからこそ、大久保と安済知佳という2010年代に主に活躍された中堅どころを入れている。これは青春ラブコメ系とはいえ、全員が新人かそれに近い若手だと崩れる。だからバランサーとして石見・羊宮・長谷川を支える配役としてみるべきだ。音響はてっきり青春ラノベアニメで『はがない』『俺ガイル』『俺妹』『弱キャラ友崎くん』を歴任されてきた本山哲さんがご担当されると思ったのだがそうはならず、ということで案外驚いているのですが、まぁ構築の仕方がそういった作品群に寄らざるをえないというのは誰もがわかるラインである。人気声優トライアングル+中堅バランサーで、若手の伸びを殺さず会話の重心を安定させることはどう考えても最低条件なのだ。

 
要するに、人気声優と中堅の二段構え石見・羊宮・長谷川の三叉に大久保・安済を噛ませ、坂田の低中域で芯を通す設計。そして制作はfeel.の地に足の着いた芝居に今組める最高の2025年型ラブコメの王道キャスティングだ。安済の出身でもある、福井ローカルも絡めて、地域性と普遍性の両取りを狙っていると言う意味では本作もかなりデカく見積もっている作品と言える。なによりも初回拡大・分割2クールという投資配分からも、盤石の推し出し体制である。つまり、売り出したい作品はこのように、設計思想が明確にならないといけない。
 
ましてや冒頭に述べた通り、日本アニメとして全部の工程が最高峰で出さざるを得ないという、超大規模IPであるなら、生半可な組み方というのは目立つ。『チェンソーマン』は、本当その典型だと、自分はものすごく感じた。
 
TV版『チェンソーマン』の主役四人は、戸谷菊之介(デンジ)、楠木ともり(マキマ)、坂田将吾(早川アキ)、ファイルーズあい(パワー)。いずれも20年代の新主役層。
重鎮は津田健次郎(岸辺)だけで、中堅としては伊瀬茉莉也(姫野)などサポート側に回る配置。しかも作品がラディカルな作品であるからこそ、役者感における演技の掛け合いにおいて地盤が硬くないと現場の役者が若すぎてキャラ負けするんですよ。前提として役者は一切悪くない。ここで問題したいのは音響の均等割についてであることをは前提として述べておきたい。
 
で、まぁ主人公デンジが戸谷菊之介はいいとしましょう。早川アキも、主人公が若手なら同じ若手の坂田将吾を添えるのもいいし、なにより「こん」の2文字の発話で個人的には「あ、うまい」と感じ取れた(鑑賞後、青二所属で流石に納得)。こういう新鮮な感覚を味わえるという意味でも新規気鋭の役者で主人公と相棒を構築する感覚は、まだわかる。もっと強いアタックができる役者を持ってきたらそれはそれで安定感というものが得ることはできたと思うが、活力と素朴な演技の掛け合いさはおそらく生まれないから。パワーには奇天烈の推進力が必須で、ファイルーズあいの積み上げがそこを担保(ノーベル賞のくだりや、明らかに変なことを発話しているのに、言っている本人は大マジと思えるところに味が出るという演技は間違いなく成立している)。
 
つまりどう聴くかという意味合いにおいて「演技」軸と「声」軸の二つでそれぞれ「うまい」と「あっている」が両立すればそれすなわちキャスティング原理として文句なしということだ。
 
姫野の伊瀬茉莉也は、キルアを担った歴が示すとおり中低域の支えが堅く、早川—姫野帯の会話は彼女の存在で息の幅が確保される。キャラクターもしっかりと妖艶とかっこよさの中に、普通人感としての演技というのは流石だったし、役内でも姫野が早川を指導するが、演者の力学でも伊瀬が梁となって場の重心を安定させ、新規主役層が思い切り踏み込めるクリアランスさ。対位法で言えば、最も均整が取れているのはこのライン。キャラクターと役者のバランスが等分されている。ここまではキャラに、実態が伴っている比重よりの若手起用であるとすれば納得がいく。当然、ベテランと中堅で構築された呪術、鬼と比べると相対的に弱い、でも大手に頼らないなりに組むデッキとしては良い方向性には向かっているというのは確かにある。そういった意味での新鮮さは明らかに効果としては生まれている。
 

が、しかし統括者=マキマという「場を支配する声」を、楠木ともりに据えた必然は他と異なり、見いだしにくい。これは巧拙の問題ではない。楠木の美点である明度の高い芯と滑らかな運びはものすごくよく分かるし、そういった演技でGGOのレンといった役柄をこなしてきたというのも、来歴としては人気作を請け負うと言う点においては十分わかる。しかし、マキマという造形はアニメを見る限りだが、生来低域の支配力と語尾で空気を止める停止力を要求するタイプ。中盤に襲撃返しとして「手動型生贄方式版デスノート暗唱全身スキャナーズ爆破」的な能力を発動する時に名前を要求させるしぐさ、公安に属する社会性集団として、いってみれば課員をまとめる上長感っていうのがそういう意味では本来求められるリアリティがまずあって然るべき。記号性だけとはいえ、公安という組織の統括者としての声。これはキャラ解像度以前の職能要件で、経験者ほど有利な領域。それを、いまの楠木のキャリアと声の設計では、その威圧を持続的に提示するのは酷だ。

 

結果、台詞の意味は強いのに音のトーンが相対的に軽く、画面上では優しい管理者に収まってしまう。それが味であり後半に効くという意見も知り合いの既読勢から指摘を受けたが、そんなのはただの甘えなんですよ。それはアニメ視聴において、N話までみないと面白さがアニメでは伝わらないというのと同じで、それは作法としてあんまり自信がないのと同じ。

 

いい加減、呪詛のような言説ではあるが、いわゆる『まどか』三話以後の三話中心説っていうのも、あれはそもそもの認識がおかしくって「転換点」でしかない。三話を「面白さ」の駆動と勘違いしている。『まどか』は1話から面白い。じゃないと当時十話の構造美には繋がらないし楽しめないでしょう。虚淵玄は最初から面白い本を提示していて、その「面白い」のベクトルが変わるのが三話であって、話の骨格は一話からある。骨格そのものではなくベクトルの転換。言い換えれば、「この物語は可愛い魔法少女の冒険ではなく、死と交換契約の物語として走る」という方向指示。だからあれは構造を変えたのではなく、面白さの軸を切り替えたにすぎないだから、たとえ三話の出来事(巴マミの退場)がなかったとしても、観客はすでに「この世界、何かおかしい」という磁場に、イヌカレーの美術を通して引きずり込まれていたわけあり、それすなわち三話は「方向を変えた」だけで、「面白さを起動した」のではない。

 

この原則はキャスティングにも等しく当てはまる。アニメはアニメで、その時点の情報だけで説得力が完結する設計にするべきだし、「終わりありき」で芝居の意味付けを遡及させるのは作り手の甘えになりやすい。なによりも「役」以上に「キャラが弱そう」「声が軽い」「なんか違う」と思わせてしまう時点で、それは破綻なんですよ。対極的にいえば五条悟=中村悠一に文句をつける人は絶対いないと思うんです。そのくらい強度ある設計にするべし、ということだ。その線でいえば、中村悠一キャラにしては珍しく最強、と思いきや諏訪部順一演ずる両面宿儺には負けるというじゃないですか。

もし、「終わり逆算で考えればあれはあれであり」という世迷言が通じるのであれば、それは五条は最終的に負けるから中村悠一ではなくてもいいというのと理屈は同じ。

でも、たとえそうであってもやはりグラハム・エーカー司波達也折木奉太郎、ラインハルト・ヴァン・アストレアなど「最強/優秀」を歴任してきた声に託するのが本来のあり方で、そのキャスティングで皆が納得している。あの配役が批判不能なほど納得を得たのは、物語の結末に関わらず初見で強度が保証されていたから。

 

その象徴が「大丈夫、ぼく最強だから」になるわけです。

五条悟が出てきて「大丈夫、僕最強だから」と言った瞬間、誰もが「うん、この人最強だわ」って納得する。そして、そこに本来理屈なんて要らない。

あれを中村悠一に配置することで、先に強度を提示し、後で奥行きを増す。この順序を守る限りは既読にも未読にも誠実な体験になるし損はしない。最初から均等に「良い」という設計であれば話が進むにつれ、「ああ終盤はこういうキャラなんだ、じゃあ序盤の演技もいいか」という己が一度言葉にだしたことに対して、手のひら返して評価するのという事象も発生しない。

そして『チェンソーマン』でいえばそこを一番徹底させるべきキャラクターこそ、マキマである。中村の五条悟というキャスティングを認めるなら、「ああなる、こうなる」という後知恵免罪で楠木マキマを擁護するのは一貫性がない。大体「終わりで意味が出る」。それを認めるなら、『仮面ライダーアギト』終盤の賛否も同じ理屈で丸呑みができるはずだ。だから、基本的なあり方としては、全くの初見でも通じる設計であるべき。ましてや声であり明らかに強いキャラクターというのは立場と力関係的に聴覚的にも視覚的にもわかるのだから、後から通しても「ああ、たしかに初期から強い演技だったしな」といえるだけの想像力は先に提示すべきである。

 

初見強度は、いってみれば既知の勝ち筋。同時にこれはスター声優の起用礼賛ではない。役柄には「初見で威信を確保してから奥行きを掘るタイプ」と「過程で強度を自作するタイプ」があり、前者に属する役(顕示的強者/制度的支配者)は前貸しを要求する、という機能論にすぎない。中村=五条を肯定する瞬間に、その評価の仕方はマキマにも連帯責任で及ぶ。ここを曖昧にして「終盤でわかるから大丈夫」と言い換えるのは、評価の時間軸を都合よく移し替えるだけで、基準の透明性を損なうということだ。

その意味では先述の通り、伊瀬茉莉也の姫野は、役とキャリアが一致した重心で奥行きが鳴って響いている。早川—姫野の会話帯が崩れないのは、伊瀬が梁として中低域を張り、坂田との会話の場の呼吸を作っているからだ。このペアによって余計に際立つ。さらにややこしいのは、キャスティングにおける監督とその処理に関わったであろう音響監督・小泉紀介氏が「アニメ感を抜いて、普通に喋る」方向=写実・映画寄りの方針を打ち出した点だ。

shueisha.online

“こういう声”という既存作品のキャラクターのイメージから仕上げるのではなく、「デンジはデンジの声」「マキマはマキマの声」として考え抜き、キャスト陣を決めていきました。

そのため、オーディションにはきちんと時間をかけており、声優さんたちにはテープオーディションや立ち合いオーディションなどいくつかの選考を踏んでいただきました。その上でデンジの戸谷さん、マキマの楠木(ともり)さん、パワーのファイルーズ(あい)さん、アキの坂田(将吾)さんに決まったんです。 

また、このインタビュー、とっても面白いことを述べている。

プロデューサー陣はどんな作品でも等しく「この作品を映像化するにはどのような形が1番いいか」を考えます。その上で演出や表現のイメージを膨らませ、そういった演出や表現を実現できる、あるいは得意とする人にディレクションの依頼をします。

チェンソーマン』でも同様のことを考えたのですが、原作が今までのジャンプ作品とは異なる色を持っていたため、演出や表現の決まった型を持つ人より、“型を持たない新しい人”にディレクションしていただくことでおもしろくなるのではないかと考えたんです。

 前半で「どの作品でも最適な映像化を等しく考える」と言っておきながら、後半では「チェンソーマンは型を持たない新しい人に任せるべきだ」と方向を決めている。
これは「検討プロセスがあった」というより「最初から答えが見えていた」ように読める。「等しく考える=中立性をアピールする言葉」と「新しい人に任せる=方向性を決め打つ言葉」が同じ段落に共存することで、矛盾が強調されている。本来、この手の記事は意図的に言葉を選んでいるはずなのに、かえって論理的な不整合が際立っている。

特に「ジャンプ×MAPPA×チェンソーマン」という大型座組では、「最初から演出家の方向性が決まっていました」とは大手をふっては言えない。だから「等しく考えた結果、今回はこうなりました」という建前をつけざるを得ない。しかしその結果、かえって言葉の整合性の破綻が目立ってしまっている。その意味では同じMAPPAが制作した『呪術廻戦』とは逆にアプローチでいくということを、構造レベルで証言しているのも同義。『チェンソーマン』は型を外れた人材を配して新奇・異色へと転がしていっている。そうした仕草は演技指導でも表れている。あえてマキマは「ミステリアス」感を脱色させている。

www.tvlife.jp

 楠木:最初はマキマのミステリアスさを含ませようとしたんですけど、監督にはそのニュアンスは入れなくて良いとディレクションがありました。これは私の解釈ですけど、特に序盤はデンジ君から見たマキマが多く描かれているので、そうする必要はないのかなと。ですので、基本的にフラットなテンションで、つかみどころがないけど、たまにかわいさがちょっと見えればベストかなと思って演じています。

これは思想として一貫しているが、子音のエッジや語尾の跳ねを抑える処方自体が、マキマの無言の威圧を演じようとさせない。故に、役の造形に求められる圧を音色側で出し切るに難しいことと、演出側がアタックを穏やかに処理する設計であることが二重に重なり、マキマが「公安の統括者」ではなく「そこらへんにいる感じのよい年上の女性」どまりになってしまっている。比喩的にいえば役職持ちの「部長」という権威ではなく、せいぜい入社5年先の先輩程度の距離感に沈む。聴感上矮小化されている。

メタな話でみれば、デビュー年で見れば楠木は2017年、戸谷は2020年で約3年差。初主演ベースでも約4年差にとどまる。なので実測は3〜4年だが、受け手のメタ認知では「先輩/後輩」の印象が体感5年に拡張され、先に述べた「入社5年先の先輩説」像を逆説的に強めてしまう。このズレが、可聴の威圧を欠いたときの「良い先輩」読解へ拍車をかける。確かに、物語上、デンジに与える感覚はその程度で足りるとしても、観客には先を見越せる可聴の伏線が必要だ。

でなければ、新幹線の銃撃で「あーマキマ、死んじまったかぁ」というふうにしかならない。声の強度としてはマキマ登場で色々となにかを言っても声から中村的な「覇気」に相当する可聴の威圧が立ち上がってこない。そしてそれはある意味で、『ウルトラマン』第一話におけるハヤタ隊員の死に対する「作劇上そこに時間かけられないから発生するあっけらかんな反応」が正当化されてしまうのと同義。

なぜなら、「気前のいいそこら辺にいる女性」なら銃で撃たれたら「まあしゃーない」という退場のやむなしと印象としての残り香しかそこにはないから。ゆえに、どれだけ構造上は生存するキャラであったとしても、音としての説得力がなければ生きている≠立っている。立つのは音。ゆえに、アニメである。そして、大原則として元々声がないキャラクターに音を当てる、その所業、料理の仕方は担当する演者に依拠する。

ラピュタ』で言えば

「いいぞ!!」→「繋がりました!!」→「私はムスカ大佐だ」

この一連こそが演技音響の最高峰。こう言われたら確かにムスカは終盤バルスであっけなく退場するけどちゃんと難敵である存在感があるからこそ、キャラが立つわけです。

 

これも「頑張れムスカ」のネタにはなってるけどなるだけの強度があるということ。

作品の美学(写実)自体は理解可能。問題は、その思想が機能的に正しかったかです。

マキマの演技指導にしても、コンセプトとしての「ミステリアス脱色」はやっても、支配性の輪郭は別ルートで立て直すべきだった。『呪術廻戦』は型で守る設計、『チェンソーマン』は型を捨てる設計で突き進んだわけですが、後者でも臨時の処理というのは必要なはず。その単一の設計で押し切った結果、全体軸のバランスが崩れている。

統治者の声は沈黙を支配しなければならない以上、ここだけは「素の喋り/映画的」よりも機能を優先させるべき領域だ。他のキャラクターは役と演者が1対1の対偶でおおむね納得がいくが、マキマだけは写実主義より統治の機能美を先に立てないと、キャラクターが演者に押される。また、監督に統括性があるのは事実として、大型IPのキャスティングや演技帯に深く口を出すべきではない場面がある。そのための音響だからだ。しかも本作の場合、その音響も“自然体”を支持しており、話をややこしくしている。

監督が音響(キャスティング/演技設計/ミックス方針)に深く介入すると、作品の背骨よりも個人の美学が前景化しやすい。極端に言えば自我が出る。これが歴戦の監督であれば、その経験値が作品と合致し、活きてくるのであり、そうでない人が出すとから回る、ということだ。

 

この歪みは、メディアミックス型(例:BanG Dream! の演じる×歌う×演奏する×顔出しの複合プロジェクト)ではさらに増幅される。羊宮妃那/林鼓子/高尾奏音のような中核の声だけが突出し、他は特定IPに限定的なフランチャイズ声優的に見えやすい現象が起き、結果的にアニメのキャスティングが歪に進む。『MyGO!!!!!』『Ave Mujica』を観た人なら体感しているはずだ。目的が異なる以上、それはそれで成立するが、チェンソーマン級の巨大IPで監督のこだわりが音響領域へ強く割り込むのは、適切な所作ではない。

まぁ小日向美香は倍音が強すぎるからこそ、一ノ瀬そよ時代の演技の方が映えているあたり、子供役を演じる方が上手いタイプの声質。等身大の女学生よりも、辿々しさや未成熟を音色自体で演出できるためだ。言い換えればかなり強い表音タイプで、音色の設計が意味の運搬を先導する。その意味では年少役・幼いニュアンスに非常に相性が良い。そもそも声が辿々しい生来の子供の声のあり方、という性質と、倍音が大きすぎるという点が、幼少期を演じるには最良。であれば、その点を統御できれば全然他の可能性だ。『MyGO!!!!!』における跳ねる抑揚で走るのではなく、そこに発声として滑走性へと変えていけば、繋ぎ目がわからないように音と音との移動させる演奏のような発声アプローチをすれば当然、地声でも活きてくる。

要は、声が強すぎる=幼さという声の輪郭が強いだから、今の声に、年齢の根を足せばいいだけの話。具体例は『MyGO!!!!!』第9話を参照。

 

まぁそれはそれとして、結論として、美学は尊重するが、統治者の声だけは機能を先に。音響監督が帯域設計(低域の支配/語尾の停止/倍音の立ち上がり)を握り、監督の美学は背骨を折らない範囲で流し込む。これが本作の規模で求められる正しい力のかけ方である。

 

そんな中で、唯一それを達成して、「場」として聞けるのが師匠役の津田健次郎彼が喋ってるところは当たり前だけどすごく音響として低音が響いて歴戦のキャラクターという投射ができている。でもこの『チェンソーマン』という作品においてメインにおけるキャラクターで大手型が津田健次郎一人しかいないというのも、やはりバランスがおかしい。もう少しあの世界には声の度合いが強い声優がいないと、世界や起きる事象に対して、声がどうしても弱っちい感覚になるのは若手故に存在する磁場。だからこそ、津田健次郎の岸辺や伊瀬茉莉也の姫野が場を鳴らすのは、演技だけでなく音響的な重量があるからであり、ここを音響監督の設計で補うのが筋。

 

万事がこの調子なので、内容はシリアスかつハードなのに、声だけが軽い。東山コベニ(高橋花林)も、「躁鬱の振れ幅」と「芯の強さ」という二極を、経験の浅い役者に背負わせた結果、聴感上は弱々しいのにキャラクター設定だけが強いという逆転が起きている。本来は「躁鬱の振れ幅 × 音の粒立ち」で声色の強度を初手から担保すべき。作品や役者の良し悪しではかる、という意味合いはないが、トーン(作品世界の音色)と声のブランド管理という観点でいえば『アサルトリリィ BOUQUET』に出演している高橋花林が『チェンソーマン』の殺伐世界の配役を当てる、というのは無理な話ではない。しかし、成立においては、なかなか高度な声優でもない限り、技術的にもかなり高い故に、基本的には考えにくいというのが実際だと考える。

作品×声の位相合わせがキャスティングの第一原理なのは確実なのだから。それでもそのトーンを採るならその点はベテランに一任するべきで、それ以外にはそもそも「音響」としては得てして成立しない。だからアニメでコベニの演技をみていても、声域帯は「可視の可憐さ」を「可聴の芯」で打ち消す設計が要るのに、それが欠けた結果、世界観の硬度に対して声だけが軽く見えてしまう。あの地獄みたいな世界で戦う以上、可憐さに寄ったビジュアルを声のトーンで中和し、可愛さとブレを抱えつつも縦芯が通っていることを最初に提示しなければならない。だから、ここは外へ出過ぎず内部で温度差を作れるタイプのベテランとして、悠木碧付近の役者帯をできる人が演じた方が、コベニというキャラクターは決して軽くは見られないし、ああいう世界でデビルハンターを行うだけの理由が声だけで説明できる。感情の上下を制御でき、人間性を一段解除する声帯として機能するという意味でも、そういったベテランでないからこそ、逆にキャラクターが軽く見えた。

象徴としてあげるのであれば、それこそ「佐倉綾音」のような、『ごちうさ』で可憐さ『艦隊これくしょん』では声域劇場をこなし『PSYCHO-PASS2』ではおおよそ全視聴者から反感を得たくらい、「嫌悪さ」の演技まで確立した多芸さ。あくまでもわかりやすさという意味を優先したが、要はそういった巧い役者が本来は添えられるべき。これは直感でも推しという図りでもなく、「起点」に誰の音響があり、「進化」に岩浪音響がいたかどうかの有無。

そう、*1明田川仁の仕事群は、歴代の大手を支える可聴の基盤を量産してきた系譜。

ToHeart』『ゼーガペイン』『とらドラ!』『超電磁砲』から『ごちうさ』『GGO』『空の青さを知る人よ』『トラペジウム』に至るまで、台詞の旋律と語尾の設計で新人の初速と、若手-中堅の集合体の音響座組を上げてきた。

 

もっと馴染みのある実例を出す。ネットミームの文脈で言えば、「オルガ・イツカ細谷佳正」という起用。あのキャラクターでネット民が散々遊べたのは、明田川仁ラインの音響設計が極太だったからだ。本来はお笑いの場面ではないのに、無音→一撃の台詞→低域の余韻という設計があまりに強力で、音が想像力に火を点け、断片だけで引用可能な出来事に変わった(『鉄血のオルフェンズ』の音響監督は明田川仁)。

ここから導ける命題は逆説的だが明快だ。MAD化のしやすさは良い音響アニメの相関指標になり得る(絶対ではない)。相補的に言えば、音響が弱い台詞はMAD素材になりにくい。ゆえに、グレーな存在であるMADであっても、自然発生的に成立して拡がるなら、その作品は多くの場合、音響設計に優れていると言い切れる。

実例はほかにもある。『デスノート』『コードギアス』の「キメ構文」系はもちろん、可愛い声のワンセンテンス耐久(『ご注文はうさぎですか?』のココア、『Re:ゼロ』のレム等)も、音が単体で立つ証拠として機能する。いずれも明田川仁が音響監督として台詞の前傾・粒立ちを徹底しており、ミーム化の「土台」を整えている。

(『ごちうさ』、『Re:ゼロ』ともに音響監督は明田川仁)。

結論として、「世界の硬度に対し、声の硬度を先に立てる」という本稿の原理は、オルガのケースにもっとも分かりやすく実証され、ココアやレムの切り出し耐性にも連続して確認できる。ミームは偶発に見えて、音響の職人芸が支える必然でもある。

 

それ以外に、明田川仁ラインのチルドレンとして代表的な新人/初主演格がハッキリしている例を挙げる。

『トラペジウム』→結川あさき/羊宮妃那〔TV先行ブレイク(『僕ヤバ』『MyGO!!!!!』→劇場主演で〈明田川ライン〉合流〕。

 

そして、若山詩音(第17回・2023)→羊宮妃那(第18回・2024)→結川あさき(第19回・2025)は「新人声優賞」の3年連続ラインである。つまり若山は『空の青さを知る人よ』、結川は『トラペジウム』でいずれも初期段階において、音響監督:明田川仁の案件に参加しており、完璧に明田川チルドレン。

だからこそ、この二人は受賞年の「新人代表」の中に明田川ライン直結が含まれるという構図も成立している。故に明田川系譜は今も現役の育成インフラとして機能しているのだ。その意味で、マキマ役の楠木ともりは『SAO オルタナティブ ガンゲイル・オンライン(GGO)』での抜擢を起点に表舞台へ跳ねた明確な明田川仁チルドレンであり、『チェンソーマン』での大手ポジション起用も、明田川の「耳」が拓いた評価軸の延長線にある。

 

一方で、岩浪音響が得意とするのは低域の支配と無音の張り。この二つを同一個体で両立できる声は、コベニの正解に直結する。だからこそ、明田川×岩浪の交差点に立てるベテランとしての佐倉綾音を添えるのが、設計としての最短距離だ。広義の意味で明田川仁チルドレンの一人ながら、岩浪音響まで接合できるという声の稀有さはまさに、『チェンソーマン』の世界にコベニをおくために必要なものだと思うし、ぶっちゃけそれはマキマも同じ理屈で声を通した方が安定する。その点でいえば、楠木ともり明田川チルドレンとしての資質に加えて岩浪ラインの経験がもう一段あれば、耳で統括者へ届くはずだ。

 

結局、発掘チルドレン × 運用チルドレンを両立できる=表義声優性という存在の圧が隊列に不在なのが最大の問題だ。

 

心的に何かを背負っているor闇を抱えたさを演出するのであれば安済知佳がコベニという線もそれはそれで超怖いし何をしでかわからさの演技がずば抜けるという判断もあり。安済知佳は恐ろしい役者、というよりも多面音響性という意味では本当に輝かしい。『棺姫のチャイカ』(2014年)で「三間雅文の耳に見出された」線からスタートしている。

という、どの音響監督でも完璧にこなし切れる多系統に耐える声なわけです。

発掘=三間、運用=鶴岡/明田川/APU系=安済知佳という逸材。これは反論は少ないはず。だからこそ、怖さ・可憐さ・芯を同一回路で鳴らせるので、安済コベニはifのキャスティングとして優良解だと断言できる。こうした音響のグラデーションと、得意領域における演技の拡張性の観点を差し引いてでも、その可憐さボイスでで突き進むであれば、ポっとでだけでもいいから、さらに味方陣営(公安サイド)には即時に声のプレゼンスを立てる安定声を最低一枚の楔として、重ねておきたい。それだけで隊列の強度は保たれる。

 

その意味ではその象徴としては松岡禎丞はそのライン軸には最適で、『ソードアートオンライン』において岩浪音響チルドレンで時代を確立(桐谷和人=キリト)し、そこに明田川仁音響が変奏がはいりノーゲーム・ノーライフ』(空)/『Re:ゼロから始める異世界生活』(ペテルギウス・ロマネコンティ)といういいズレの配役を経験した上で、小沼則義音響において回帰した「かっこよさ」「ちゃらさ」「つよさ」「悪役味」を同時に出すリコリス・リコイル』(真島)のような多面役者になり今に至る。「リコリコラジオ」第25回でも「真島は役者歴総じてみても、この役はこんな感じ、というものすら度外視してたからこそ、一番自由(フラット)に演じた役だった。本当にそのままで演った」という発言している点からも、自然体でああいう演技ができるという能力。そういう存在感が『チェンソーマン』に最低限必要だった設計図なのではないかとは個人的には思う。

 

でも、この作品は最初からそういう採用をしていない。

 

だから色々とおかしなバランスになっているんです。この作品には明らかに萌え要員は不要だし、いても生存しない世界観なのだから、可愛げだけを前に出す演技は設計上そもそも意味をなさない。ちょい役に高木渉を使うとか、そういうMADHOUSEで『アカギ』における怖い人たちの使い方を本作で援用するのは、少なくも悪手ではない。その上で、『デスノート』でこなしたスタジオがある種MAD HOUSEはMAPPAの精神的前スタジオなわけですし。丸山 正雄さん軸になって設立されたスタジオという意味でもね。

「恐怖のカメオ」で世界観の硬度を底上げするのは有効。古いアニメだが、モブの音響の使い方として古びない作法として挙げたいのが『スクライド』。この谷口悟朗アニメでの採用されているのはそういう使い方だったりするし。というか谷口悟朗アニメにおける「力学」はちゃんと音響に浦上靖夫を置いていたからこそ、あれだけ作品としても受けた一端をになっていたというのは当然の帰結であり、そういう意味では高木渉の使い方、というのは音響の浦上靖夫という天下のレジェンドの作法なのだから、そこは遠慮しないで模倣していいところ。作品内のあり方をねじ曲げずに、どころか世界観を増量できる手筋なのだから。だから、可憐を維持するなら、高木渉のモブに一瞬引けをとる、くらいが、この作品の設計思想のあり方からすればそれ以外にない。つまり、可憐さを守るために、一度壊される必要がある。でも実際のアニメではたただた「キャラ」がヒステリックに叫んでいるだけ。原作からしてそういうキャラなのかもわからないが、少なくとも音が付与された時の印象はそうでしかない。

 

 以上のように、何度も書いているが、「役者の巧拙」ではなく設計論的に読んだ時に新人を起用するのは音響や制作が目指したリアリティ(何を持ってリアリティなのかが明確に定義されていないが)や方向性として冒険した結果、デンジ↔︎パワー/早川アキ↔︎姫野 においてはどちらも女性側の役者の方が歴を積んでいることもあり、バランサーとして機能しているため、それこそ中村/早見というコンビほどの重厚というものはないが、聴けなくはないキャスティングとして落とし込めることができる。が一方でマキマはかなり厳しい。というのが正直なところだ。

この違和感を抱えたまま「なぜ『レゼ篇』では上田麗奈を起用できたのか」を辿ると、音響監督がTV版の小泉紀介から名倉靖に交代している事実に突き当たる。

チェンソーマン 総集篇 エンドロールクレジット

これ、明らかにミスを自覚しているか、あるいは劇場だからそうなのか?って思ったけど、総集編の段階で名倉靖に変わっているあたり、取り直し含め、名倉センスと理解しても、それは解釈としては成立するはず。最初に報道がでたのは2024年12月22日の初報です。しかし変なんですよ。なぜか音響監督の開示がない。おかしいですね。他は細部にいたるまでに明確に提示されているのに。

www.animatetimes.com

記事内のスタッフリスト一覧

その後、本予告解禁から、スタッフ欄に「音響監督:名倉靖」が明記されるようになりました。

2025年7月4日に公開された記事のスタッフリスト

つまり、これらの条件が指し示すものそれは初報段階で「音響監督に小泉氏の名前は公式に示されていない」そして「最終的なクレジットは名倉靖」ということになります。

 

普通、この規模の作品であればどの役職にもそうですが、一様に変わるということは普通はないはず。テレビ版の音響思想を本当に継続するなら初報で小泉名が出て然るべきでありそれが道理というもの。しかしそうではない。つまり名が出なかった時点で「音の基準を更新する可能性」が制作内部で出てきたことは明白。そして、後日の名倉氏が正式発表となった。この事象により、このその読みは確証に近づいた。総集編で耳を作り直し、その結果を携えて本予告期に名義を確定というのは、この手順は、写実基調から機能主義(倍音/低域/無音)へと背骨を差し替える段階的な回頭だったことを示している。

 

その上で、総集編に見られる再編集・再録の気配と、劇場『レゼ篇』の音響を担う名倉氏の経歴『HELLSING OVA』(録音)/『傷物語』三部作(録音)/『ハーモニー』(録音演出)を重ねて見れば、『チェンソーマン レゼ篇』が要請する作劇に近い仕事を既に仕上げてきた人物であることがわかる。上田麗奈の起用は、音響名義が名倉に切り替わる前から既定だった。だからこそ、最初に誰が決めたかは別としても、レゼ=上田麗奈の指名を含め、倍音の立ち上がりと無音の張りを機能で組み直した印象が強い。TV版の理念(写実)を残しつつ、音で物語の重心を戻す方向への回頭である。

 

その意味では匿名性という意味で新人起用を軸にしていたのにレゼは上田というのは、どういうことなのかという疑問も残る。その基準で言えばレゼも若手で羊宮に落ち着くのが「路線」として正しいはず。レゼ枠で「初見で刃が出る声」を要請して機能主義に舵を切ったのなら、マキマも同じ規準で最初からそういう役者にすべきだった。レゼ=機能、マキマ=匿名という割り振りは、制作の考えが「役ごと」に変動している証拠。レゼで機能を選ぶ判断が正しいなら、なおのことマキマは可聴の威信をだせる役者を踏まえたキャスティングでなければならない。方向性そのものが一貫していない。

結果的に「楠木ともりvs上田麗奈」になったときに、明らかに観客の期待は後者にしかよらない。

名倉靖 - allcinema

繰り返しになるが、もしTV版が最適解だったなら、総集編の段階で音響思想を弄る合理性は薄い。それでも変更が先行したという事実そのものが、制作側が「音の基準」を更新する必要を認識していたことの間接証拠になっている。

eiga.com

チェンソーマン レゼ篇 スタッフリストより

でも当然、決まっている役者さんを変えるわけにはいかないから、テレビシリーズよりかは演技力が向上した現在の力量で、セリフ周りを加えることでなんとか整えたのが自分が初めて見た『チェンソーマン 総集篇』と言うのが実情と踏んでいる。

 

再編集・新録・音響調整というのは、2022年テレビ版を視聴している人の中で噂が広く出回っているあたり、総集編時点で台詞の再録・音響の再調整が入った=映画版の音響思想に寄せるハーモナイズと受け取れる。まぁ、申し訳なさ込みで書くと初見体験が「再編集後の音・芝居」だったわけでで、それでも「アタックが弱い」と感じた自分の耳を信じているので、そういう意味では、初期方針(写実・抑制)の色や舵取りが依然として強いのは実際問題として残っている。マシにはなった(のだろうけど)もっと統一すべきということ。でなければ、こう言った記事を書くはずもないわけだから。

 

そもそも論ではあるが、ジャンプ作品ながら、ダークファンタジーで、という作品の場合、本来はこう言う作品は、昔で言えば『東京喰種』で花江を開花させ、今で言えば『鬼人幻燈抄』を担当して、早見、上田、羊宮を然るべきキャラに配置している切り込み方をしている原口昇といった、すでにダークファンタジーで実績のある音響に当てるべきだと思う。 なぜ音響監督をその人にするのか?という突き詰めの果てに、理屈、実績として初手から鳴らすのが最も合理的。

 

あるいは、一層のこと「公安系」と「ダークファンタジー」の世界観という比重性に重きを置くのであれば岩浪美和の音響設計に一任するのが、最も正しい回答を出してくれる音響座組。それに弐瓶勉ラインに影響を受けた作家であるならば、そのまま音響的にも等式の組み方としては、藤本→弐瓶(『ABARA』)ラインに寄せる→岩浪美和の音響設計(『亜人』『BLAME!』系)」は、ダーク寄りの非ジャンプ的緊張を音で立てる別解の王道でありながら、『PSYCHO-PASS』イズムの公安ラインでも声優を立てることは可能。そしてその場合、劇伴も統一性の観点から菅野祐悟になる。外れる組ではない。

まぁさすがに岩浪さんにかかれば誰も文句はいえない配列音響になると言う意味で、この選択肢はちょっと特別すぎるので、その意味では若林和弘さんを起用して、『攻殻機動隊 SAC』『東のエデン』的な思想ラインの軸足で声優を固めるでも良い。

 

この両者に愛用されている声優群で固められたら、それこそ強度としては鬼のアニメくらいの威力でありながら異色なキャストにもなる。ちなみにラノベ構築の上手い本山 哲は若林系譜の音響。

 

そして、若林音響→本山音響という系譜の最高到達点としての役者が早見沙織だ。
若林和弘は『攻殻機動隊』で公安系=制度の声を鍛える現場を作り、そこに早見は『東のエデン』で合流した。のちに本山哲の『俺ガイル』で雪ノ下雪乃というラノベ系ヒロイン像を確立し、その延長で『魔法科高校の劣等生』が厚みを増す。例外的運用としては、鶴岡陽太による「斧乃木余接」や、藤田亜紀子による「蛇喰夢子」の異形の凄みがあるが、総体として早見は若林系の声の制度性を整える〈透明×芯〉を核に、「公安・司令塔に強い声」と、本山音響の会話劇でヒロイン像を定着「ヒロイン/お嬢様」という等式を黄金比で体現する主が表意主体寄りの表義声優となった。

 

実際問題として、この作品が「なぜこの音響とキャスティングでなければならなかったのか」を設計論で捉えるなら、小泉紀介氏は長年の現場経験と、若手中心の座組を機能させる手腕で一定の成果を示している。戸谷菊之介とファイルーズあいを軸に若年層で「押し切り」つつ、聴けるラインに落とした点は、まさしく氏の技量の賜物だ。

一方で、近年の主要クレジット(『ぼくらのよあけ』『らくだい魔女』『囀る鳥は羽ばたかない』など)はダーク寄りの大型旗艦とは性格を異にする領域が中心で、「ダークファンタジーで一本看板を打ち立てた」実績は相対的に少ない。ゆえに、『チェンソーマン』のようなジャンプ発かつダークファンタジーの大看板では、場数以上に低域の支配や無音の緊張を初手から鳴らす設計が求められ、そこは原口昇氏の系譜(『東京喰種』『鬼人幻燈抄』等)のようなジャンル適性の蓄積が有利に働く場面があったというのが自分の見立てである。
だからこそ、ジャンル特性に対する最適化という一点で、より低域に長けたアプローチを初手から選ぶ余地はあった、という話である。
 
ダークファンタジーの路線に限らず、近年の人気TVアニメからの逆算=適材適所という視座で選ぶなら、『チェンソーマン』における最適解は自ずと導ける。
HALF H·P STUDIOの藤田亜紀子氏が音響監督を務めるのが、最も早く、最も合理的だ。
 
藤田は『呪術廻戦』S1で五条・夏油を中村悠一櫻井孝宏に据えつつ、若手~中堅を絡めて全帯域、つまり榎木淳弥(虎杖)・内田雄馬(伏黒)・瀬戸麻沙美(釘崎)という中堅〜若手の帯域を鳴らす座組を確立し、S2では『NARUTO』のえびなやすのり氏へとバトンタッチさせることで「長期シリーズ」の基礎を築いたし、CloverWorksでは『ぼっち・ざ・ろっく!』『その着せ替え人形は恋をする』『WONDER EGG PRIORITY』と、人気作‐異形作どちらの交通整理も請け負ってきた耳だ。倍音の立ち上がり/低域の支配/無音の張りを作品ごとに最適化しつつ、キャスティングとミックスの両輪で音で物語の重心を返す。

個人的にかなり興味深い、というよりも意表をつかれたキャスティング業としては先述の通り、早見沙織に『賭ケグルイ』で蛇喰夢子をセッティングしたこと。正直、早見沙織に蛇喰夢子は全く思いつけなかった。そういう点からも、人気声優の変奏的に扱えると言う意味でも非常に強い実績がある。また、先述のダークファンタジーと言う意味では藤本タツキが愛好する『ドロヘドロ』のアニメの音響も担当していると言う意味でもやはり最適。
 
では、今度はいい意味で狂ってる作家として見た時に、松井優征/藤本タツキという非ジャンプ的な想像力をジャンプの作品で幅の差とかIPの高低さはあれど、音響のバランスで言えば『逃げ若』の方が映像作品として圧倒的に整っている。
 
あれは、本当に最近デビューした結川あさきが、中村悠一と対比的に組み合わせてる設計でしっかりと受けている。これにはいくつかのポイントがある。
第一に、結川あさきが、中性的な声を持つ演者であること。『トラペジウム』の東ゆうを演じても、性格もあいまって、可愛らしさが目立つという声でもない。むしろ中性的ながら、男性を演じるという性質が似合うタイプの声であり、その声を使い演技をして羊宮妃那や上田麗奈と共演しても、ぶれないどころか、しっかりと主演としてこなせている実力。だからこそ、現在は未定ながらも西尾維新の『暗号学園のいろは』における夕方多夕をボイスコミックで声あてをしていることからもおそらく西尾イズムの造形をこなせるラインにもしっかりかかる。その上で、あの松井優征が描くもろもろ要素が満載の北条時行をテレビアニメのスケールでこなすその多芸さ。東ゆう(高山一実)/北条時行(松井優征)/夕方多夕(西尾維新)という内容、キャラクターともに一筋縄では行かない奇才作家の軸足をすでに三本は持っている稀有な声優であること。絶対に輝ける役者。
藤田亜紀子音響『逃げ若』/明田川仁音響『トラペジウム』音響不明:ボイスコミック『暗号学園のいろは』)

『トラペジウム』東ゆう

『逃げ上手の若君』北条時行

『暗号学園のいろは』夕方多夕
(これも断言していいけど、『暗号学園のいろは』がアニメ化されるなら、音響監督は飯田里樹が最適解、というか実質一択。理由は単純で、「学園/教室×群像×心理戦」という要件を実務と実績で長年回してきたから。『暗殺教室』『ダンガンロンパ』『ようこそ実力至上主義の教室へ』『ペルソナ5』とおおよそ『暗号学園のいろは』に必要な軸足のアニメに関わり続けている音響監督を、西尾の学園もので外すとはなかなかに考えにくい。アニプレックス×講談社×シャフトではなく、アニプレックス×集英社×CloverWoksでどこまで行けるかが楽しみですね。というか、その一歩こそが『逃げ上手の若君』という打ち手とさえ思える。ギリギリの振り切りという意味でも、シャフトを例外的に西尾作劇との差分で魅力を分け合う、という意味でも、この座組以外では多分『暗号学園のいろは』のベストはないと思う。正直、この座組以外で同等の再現度を出すのは難しいと思う。少なくとも「学園×群像×心理戦」の三拍子については、飯田里樹=既に勝ちパターンを持つ音響監督なので、どうか「座組」思考のアニプレックスさん、よろしくお願いします。アニプレックス案件であれば長尺のラジオも聞けますし、音泉ラジオも盛り上がると思います。当然、結川あさきは外すべきではない)
 
そうした声優だからこそ、いい意味で転がすことができる。第二にそこにしっかりと中村悠一という低音が強い役者を当てることで、本編同様に、強い的に立ち向かえるための支援者的存在がしっかりといること。つまり、結川あさき(北条時行)×中村悠一諏訪頼重)の対比設計がしっかりと意図的に配置されているから。その上で他のキャラクターにおける若手と中堅、大手の配置も絶妙。
 
若手枠としては雫=矢野妃菜喜/亜也子=鈴代紗弓/吹雪=戸谷菊之介という配列だし、中堅枠は弧次郎=日野まり/風間玄蕃=悠木碧と、若手〜中堅の明度が並ぶ。
その上で、要所に小西克幸足利尊氏)のような心役が入り、明暗のアンカーが常に存在する。だから物語は常に
というように、バランスが取れるし、それでいて鈴代、戸谷、矢野たちのキャラの群像になっても帯域が団子にならない。
 
そして何を隠そう、この『逃げ上手』の音響もまた、藤田亜紀子である。
 
では、なぜこうした近くに実績を出している音響や別解やアプローチごとの音響の起用にいたらなかったのか?といえば、あくまでも推測だが、MAPPA全額出資で自由にできる、という一種の内製化(社内のリソース完遂型)スタイルの解釈を、「できる」を「やる理由」にすり替え、主語が「俺たち」へ肥大化した結果、「本職に任せる」回路が外れたと言うのが実際でしょう。大体、エンディング・テーマは12組のアーティストが週替わりってなんでそんな「逆エンドレスエイト」みたいなことをするのかも不明瞭。
主題歌運用からキャスティング、音響思想まで一貫してその兆候が出ている。
 
そういう遊びと冒険のはてにある想像力としての多種EDは本編ではなくコンピでやる方が手っ取り早い。作品の豪華さは曲数ではなく、世界の響きの統一で決まる。だから米津と常田のOP一本と章EDだけで本編の主旋律を固定したほうがいい。それが『チェンソーマン』のような非ジャンプ的緊張を守りながら、音楽もリーチも最大化する最適解、というか普通のアニメの作り方でも十分通じるわけです。その意味では全体的にBest & BrightestじゃなくBetter & Bitterestで手堅く苦く落ちた
 
大型IPは「やってみた味」ではない。最も屈強で勇敢な奴らを揃えて、バシっときめないといけない。その意味では劇伴の牛尾も全然音楽として前景化してこないあたり、プロとしての最低限の音源は出している、以外の印象がゼロ。山田尚子との組み合わせが一番効果効能を発揮するからこそ、別の意味でカルト性の高い作品い器用すること自体がわけがわからない。もしかしたら『DEVILMAN crybaby』からの触発があって、マガジンでの漫画におけるダークファンタジーの起点としての劇伴という発想からの起用だとしたら、だいぶズレている。
 
アンビエント・ミニマルだから牛尾なのか、それとも牛尾だからアンビエント・ミニマルなのか、あるいはその両方なのか、意味と意義は、大義は果たして明確に劇伴という音楽ライン上にあったのか?というのがどうにも腑に落ちない。仮に、『呪術廻戦』で照井を召喚したような作法でいくのであれば、そこは牛尾ではなく蓮沼執太を連れてくるべき。
実際にアニメで蓮沼を連れてきたのは『SEKIRO: NO DEFEAT』という津田健次郎アニメでありながら、音響が名倉さんという意味では本当にタイトル違いだし、圧倒的にセンスある。これが指し示すもの、それは最初から名倉さんなら、音楽はbetterではなくbestであり得たという可能性。

『SEKIRO: NO DEFEAT』スタッフリスト
作品に地に足がついた音楽カードは牛尾ではなく、蓮沼だった。もっと儲けたいと欲張るからこういう平凡な結果になるんですよ。目先の話題性に欲をかいたせいで落とした。他の劇伴作家と普通に勝負していれば、少なくとも「照井ライン」としての音楽性での評価は勝ち得たはず。

sekiro-anime.jp

村田千恵子のセンスを岩上敦宏が承認することで『国宝』で劇伴作家が原摩利彦だったように、求められる音楽は精密に考えるべき。間違ってもソニー系列の作家だからといって、『国宝』に牛尾を添えるというのはおそらく考えになかったはず。そういうことです。

 

つまりシーズン2、つまり二期において、MAPPAが名倉音響を選んだ時点で「音の制度=設計思想」を名倉系に寄せる意思決定は済んでいる。ゆえに作曲家は可換。

ここからbetterからbestにするには、作曲家を牛尾から、蓮沼に変更させること。実際問題として他作品ではそういった座組が存在する、そして名倉は音響「監督」である。その因果としてMAPPAは名倉を選んだのだから、劇伴の人選を変える程度の判断は当然に織り込み済みだ。設計思想を再定義するのはむしろ自然な帰結。となれば、音響監督が設計思想を通すのは職責ということになります。名倉音響においてベストを目指すとなれば、蓮沼執太へとバトンタッチ、あるいは牛尾との二人体制。このくらいはむしろ座組の変遷として変えないと、名倉音響にした意味がなくなる。既存の音楽スタッフは前任のイメージであって、なにもそこを継承する必要性はない。作品性をあげるなら変えてまでベストに仕上げた方がいいのだから。

アニプレックスは人材単位で設計する人が圧倒的にうまいからこう出れる)

Emergence

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Lunar Mare

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あるいは大手での渋谷慶一郎とか、海外ならBen Frostとか、あるいは一層のこと、ベアー・マクレアリーを劇伴に呼ぶとか、そういうところに根が回らるために「内製化」という帰結でなければ、意味がないんですよね。東宝の縁でゴジラの海外作品として、KOTMでスコアを担当したベアー・マクレアリーという線で温度の高い打診が組めるという考えは実際に現実的。ベアーは Kraft-Engel Management。なら、ここに東宝経由の紹介として正式打診でもすればいい。

Theme from Assassin's Creed Syndicate Jack the Ripper

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Theme from da Vinci’s Demons (Extended Version)

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NHK大河のやり方が、こう言う音楽という背骨を先に決めて、世界観を鳴らせる作家をトップに据えるという技法があります。だからジョン・グラムとかをメインテーマに起用しているわけです。それをアニメに移植すればいいだけ。もしくは、ダニエル・ペンバートンにリドリースコットの映画『悪の法則』(原題『The Counselor』)の音楽、特にブラッド・ピットの首にボリートがつけられて、それが発動されるその刹那を狙った「Wire To The Head」系の冷ややかなミニマルを発注するとか。(これ、普通に歩きながら聞いていても怖い劇伴です。)全曲、ではなく壮大なテーマをベアーに一曲、決めの楽曲を複数ペンバートンにとか、そういう映画劇伴のクオリティを執拗に求めるスタンスはむしろシネフィルネタを引用しまくる『チェンソーマン』にしっかり呼応するならそれくらい徹底するべきで、仮に呼べないしても、そう言う音楽をかき集めたベースを作って、その上でアニメ劇伴としての運用と可変は牛尾が統括こういう「映画級の音楽監督制」に寄せるのが合理的だ。無理難題ではない。難度は高いが、内製で出資まで担うなら、その自由度を最大限に作品の面白さへ投下すべき。

Wire to the Head

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で、なぜにこんなに大掛かりなことを言えるかといえば、MAPPA内製化でありつつも、実際問題としてアニプレックス子会社の親元であるSMEが音楽周りを仕切っているから。偶然かもしれないが、SMAの2人声優起用と、牛尾含め、音楽ではOP/一部EDのSME勢というソニーの重力圏が確かにある。

それが所以で、やれSONYの悪魔」だの「チェンソニーマン」などと揶揄されるのであれば、それを突き返すくらい大盤振る舞いをしないと、視聴者は黙れないと思うんですよね。物故した盛田さんや井深さんにも申し訳が立たないと思うんです。世界のど真ん中で新しい標準をつくる技術と美学を一体で売るがソニーの本懐なんだから。

アニプレ案件でもSONY重力が出てくることを、いい悪いではないという目線で語るのではなく、商業主義の権化で手札を切るならもっと派手に切るべきという話。

出資=MAPPA/流通=ソニー系が太いという二層構造をもつ『チェンソーマン』であれば、Milan Records( Sony Music Masterworks 傘下)と、配給会社の東宝とで手を組むことで、ベアー・マクレアリーを出すことだって夢物語ではない。現実の話で切るのであれば、渡辺信一郎の『LAZARUS』は制作MAPPASOLA体制でありながらも音楽体制は、Kamasi Washington/Bonobo/Floating Pointsのスコアで走り、だからこそ、サントラは国際規格のMilan Recordsからリリースしているじゃないですか。これは「日本制作アニメ × 海外作家 × SME配給」の実働モデルそのものなんですよ。SMESony Music Entertainment)まわりの国際と配給パイプを活かして海外作家の劇伴まで振り抜く設計は十分に描けるし、実際に例も存在する。それが『チェンソーマン』でできなかったのは監督が渡辺監督ほど音楽に対して目配りをせずに外縁としてエンディングテーマ十二曲で盛り上げることに徹したから。もし「海外作家版チェンソー」をやるなら、音楽プロデューサーの常設だったはずだけど。でもそのくらいあれだけ盛り上げるなら、考えるべきだと主張します。配信単位でもCrunchyrollをもっていることを考慮すると、配給=東宝 × 配信=Crunchyroll × サントラ=Milanを三縦串こそ理・真・形であり、これを束ねて「音楽も映画の作法で勝ちに行く」。これこそが「チェンソニーの呪いを解く、最も商業的で、最も美学的な回答。直球的にいえばアニメ『チェンソーマン』がシネフィル文脈を背負う作品なら、音楽も映画の作法で勝ちに行く。それ以外にない。

 

 閑話休題

 

故にジャンプ的大看板×暗色世界×若手主役という難題では、「倍音/低域/無音」の三点を自在に運用できる音響監督が先に立つべきだ。藤田亜紀子は近年の正解分布から導かれるほぼ自動解に等しい。『逃げ上手の若君』で示された帯域設計は、そのまま『チェンソーマン』の弱点補正にも転用できる。加えて、戸谷菊之介が『チェンソーマン』でデンジを、のちに『逃げ上手の若君』で吹雪を演じた履歴は、逃若党サイドから尊氏サイドへと立ち位置が反転しても、演技の帯域/アタックを明確に使い分けられる声優だという証左でもある。そういう意味で小泉体制の戸谷起用は、作品以上に当人のキャリアにとっても欠かせない一手になってはいる。
 
だから、当たり前ではあるが意味がないわけではないのだ。そこは好み以前の問題でプロの仕事として仕上げているという最低限のクオリティは確約されている。
 
じゃあ、ここで問うている「マキマ」は「楠木ともり」が担当している以上、その配役は当然尊重すると言う前提の上で、誰であれば「マキマ」として完璧に視聴者が受け入れることができたのか?と言う話をしてみたい。
 
案1:マキマ=上田麗奈
つまり既存のレゼを演じるのではなく、そのままマキマ路線ならどうか?と言う点だ。
キャリアや演者の特筆性からして、カバーはできるし、楠木版よりもいわゆる統率者、支配者的な側面は間違いなく出る。いかんせんレゼで起用されている手前、自分もマキマは上田麗奈のほうが、音響的にも、演者のバランス帯の跳躍としても成立する。そして、じゃあその場合、いかにもな「レゼ」はどうするのか?と言う点においては、圧倒的にこう答えたい。羊宮妃那。キャリアのタイミングとして、「羊宮妃那」は2020年デビュー組で、勢いの立ち上がりが速い。その上で、主演格の掴みは2022年『僕の心のヤバイやつ』ヒロイン・山田杏奈役。つまり『チェンソーマン』放映後に『レゼ篇』を映画で描きます、と言った時に候補としてあがる声優としてはむしろ筆頭なんです。ここにおける必然性というのは、いわゆる、そもそもとして「マキマ」でさえ楠木という若年の布陣であればこそ、レゼも同年代で組めば、演技バトルとしてそこまで大きな差異はでない。少なくとも上田麗奈が圧勝する未来しか見えない正史としての『レゼ篇』よりも演者のバランスはかなり取れる。
 
レゼを羊宮妃那に置く最大の効能は、軽さ→虚無の落差を成立させるための可逆の声であり、それすなわち、軽さで誘い、母音を冷やして堕とすということ。予告編的な、デンジとのリビドー会話が軽やかに始まり、底が見えた瞬間に怖くなる軌道を描ける素質も『小市民』における小佐内ゆきの演技を浴びた人は全員わかっている。その手の演技の最先端は今や羊宮妃那であることに。
なにをいったところで「ララァ」を演じている事実は、ギギを演じてる上田と張れることの証明である。少なくとも「選ばれている」時点で明白だ。

sai96i.hateblo.jp

もっと言えば、『千歳くんはラムネ瓶のなか』におけるヒロインの声の関係性という意味ではドラマCD→アニメ版とで、上田麗奈→羊宮妃那という交代がそれを象徴している最も良い例だ。音響制作が81PRODUCEのドラマCDだからこそ、81プロデュースという声優事務所に所属する上田麗奈が構造的に選ばれたというのも、実務上の理由の一環としてはあるのでしょう。そのうえで、アニメ側の座組(音響制作・委員会・監督の美学・音楽方針)が変われば、拡張側=羊宮妃那へとバトンが渡るというのは当然である。なぜなら横断的な世代継承なのだから。

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ドラマ版キャスト

そしてこうした関係性を踏まえれば現時点でのこの両者の関係性は

 

  • 絶対値としてのベスト=上田麗奈
  • 時代最適(現在地のベスト)=羊宮妃那

とまとめることができる。上田=原型であり、羊宮は現型。正しさは前者、現在性は後者ということでまとめられる。そしてここには明確な配役の合理性がある。設計思想でいけばこの二人の系譜性は視聴者はわかっているし、直接的なメイン同士ではなくとも、上田・羊宮の組み合わせが多い作品という視点からも絡みとしては合うわけだ。

 

そしてこうした入れ替えは「若手で固める→一柱だけ音の芯を置く」という設計においては優良な別解であることは間違いない。いまの編成は若手×若手×若手+(強キャラも若手)で、台詞の意味は強いのに音の重さが足りず、画面の場に負けている。だからその若手連打を維持しつつ、若手中心の座組に一本「芯」を通す重心役として上田がいれば完璧に現行よりもバランスは取れるし、レゼ=羊宮妃那とすることで、声優的にも戸谷菊之介は乗り越えないといけない壁として成立する。ただ一方で声の性質が強すぎるが故に、マキマと言うキャラ以上に上田麗奈の声が勝ち、御冷ミァハや新条アカネ、ギギ・アンダルシアイズムを逆に負いかねないという危険性もたしかにある。まぁ切り替えはできるだろうけど、視聴者がと言う意味で。

 

 
ちなみに、放映前予想ではほとんどが全布陣においてベテラン組としての予想が多く、当然マキマ、レゼで上田麗奈を候補にあげている人は多数。
 

音響監督との接点から見ても、これはきわめて筋の通った話だ。
決定的ブレイクとしての上田麗奈は、2014年『ハナヤマタ』関谷なる(主演)で音響監督・藤田亜紀子。ゆえに「ハナヤマタで花が開いた上田=藤田チルドレン」と位置づけるのは妥当である。

 

一方、羊宮妃那のブレイクは『僕の心のヤバイやつ』(2023)。APU(AUDIO PLANNING U)育ちの小沼則義が、APU譲りの前傾・微細設計で山田杏奈に抜擢し、台詞を“単体で立つ”ところまで仕上げた。発掘そのものは『その着せ替え人形は恋をする』(2022)で藤田が乾心寿に起用して示している。すなわち「羊宮妃那=藤田チルドレン〔発掘〕/小沼チルドレン〔運用〕」という二重構成であり、老舗スタジオ系の美学で鍛えられた「耳」に支えられている。

以上から、『呪術』と同様に藤田が音響を担っていた場合、この二人をマキマ/レゼに据える確率は高かったと言える。両者とも、藤田の耳が最初に見出した資質だからだ。

 
 
案2:マキマ=平野綾
これは、実は舞台版のマキマの演者が平野綾なんですよね。
こちらからゲネプロの映像を見ていただければその演技の様子はわかります。
これは、いわゆる羊宮案で若手重視というよりも、本当に上田麗奈と対等に、尚且つ文句なしに演技バトルしたら「めちゃくちゃに面白い」布陣という版です。
メタ目線では俯瞰すればこの演技バトルは
涼宮ハルヒ+弥 海砂+ミギー+森川由綺vs御冷ミァハ+新条アカネ+ギギ+関谷なる
みたいな、歴戦キャラの応酬になりますから。面白くならないはずがないんです。
言わずと知れた2000年代中期を代表する役者と、2010年代に台頭してきた上田麗奈という意味合いでも非常に面白いですし。平野マキマ×上田レゼは支配(固定重心)×反転(軽さ→虚無)の二段で非常に映えると言う意味では音響的にもかなり輪郭が明瞭。
上田レゼと本気の真剣勝負の声優力学で殴り合うという意味では多分これが最上。
 
 
案3:マキマ=日笠陽子
案外これが一番しっくりくるかなと。低音の胴鳴りと愛嬌、そしてなによりもカメレオン性。上田・平野ほど象徴役のイメージで固定されていないぶん、聴き手の遅延認知(「あ、日笠だったんだ」)を狙えるのが強い。つまり掴ませない統治者。『けいおん!』澪系の柔らかい接近から、母音を冷やして即停止へ切り替えれば、笑っているのに誰も逆らえない。あるいは『乱歩奇譚』黒蜥蜴の冷たい線で入っても成立する。多面的であること自体が要件のマキマ像なら、日笠は役の可変域を音で提示できる。正体を遅らせる支配者を写実の範囲内で成立させる堅牢としてはおそらく随一。
 
まぁ他にも中原 麻衣だったりと色々と挙げられるが、その中でベストアクターを絞り込むなら自分の中ではこの三人でしかない。そして三人あげたとて、最初から制作の方向が「既存スタイル踏襲」ではない
原作が今までのジャンプ作品とは異なる色を持っていたため、演出や表現の決まった型を持つ人より、“型を持たない新しい人”にディレクションしていただくことでおもしろくなるのではないかと考えたんです。
とある以上、最初から「既存スタイル踏襲」=上田・平野・日笠・中原的な硬度を保証できる配役は選択肢にすら入っていないから徒労ではあるのだが。制作が決めたのだから仕方ない。断言しよう、藤田亜紀子さんであれば、この布陣になるかどうかはさておき、少なくとも選択肢としてもっとこういった選び方をしていたはず。なぜなら中村と櫻井を立てるという使い方がこの既存スタイル型でしかないから。
 
だからこそ劇場版『チェンソーマン レゼ篇』において、名倉靖へバトンタッチしたことが音響力学として大きく付与してくるんです。改めてこの意義について音響監督軸として展開していくと名倉は楽音舎出身であり、鶴岡陽太の現場で録音設計を担ってきた。録音はひらたく言えば、音響の技術的責任を追う職務である。その延長線上で『チェンソーマン レゼ篇』では音響監督を務めるに至る。
 
鶴岡陽太は、おおよ認識範囲としてわかりやすいタイトルとしては古くは『涼宮ハルヒ』、『けいおん!』そして今や音響の教科書となりつつある<物語>シリーズ、『まどか』『氷菓』『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』『響け!ユーフォニアム』など、一般的にはシャフト/京アニ声優の布陣を構築してきた大御所の一人です。派閥としては
その鶴岡音響の録音として支えてきたのが名倉氏、だから実際の経歴としては鶴岡キャリアに名倉の録音が付随している。-名倉靖不参加 以外は録音参加。
 
京アニライン》
《シャフトライン》

主旋律として知られている<物語>シリーズ

 

ちなみにシャフト黄金期の00年代の中枢作品/および物語・まどか以外はほぼ*2亀山俊樹が目立つ。

 

この二枚音響看板が同時期に走っていたから、同じシャフトでも『絶望先生』『電波女』『それ町』系と、『荒川』『ef』『夏あらし』系で音の肌触りが妙に違う。

 

《その他鶴岡*名倉案件》

こうして振り返ると、鶴岡×名倉の実戦歴(京アニ/〈物語〉/HELLSINGブギーポップ)で積んだ「台詞の芯を立てつつ空気を混ぜる」流儀を、録音設計の域を超えて全体演出へ引き上げたのが20年代の今、劇場版『チェンソーマン レゼ篇』において実装されるということです。鶴岡陽太ではなく今度は名倉氏が主体となり、楽音舎(スタジオごんぐ)で鍛えられた鶴岡系譜の録音アーキテクトが、2020年代に「音響監督」として前面に立った象徴例としておそらくアンセム的な作品になるのが『チェンソーマン レゼ篇』となる。

 
そしてその主演は数多の難役をこなしてきた上田麗奈であり音響監督の名倉と上田麗奈の組み合わせは『ハーモニー』における録音演出で一度邂逅済み。と、いうことは、御冷ミァハの録音に携わった方が、レゼで総合的に音響を扱う。こんなにも信頼のおける組み合わせは多分ない。その意味でテレビ版におけるレギュラーの役者含め、明らかに音響の使い方は異なる、というか映画的に趣向になるのは映画『傷物語』を経ているという歴からしても自明。シャフト作品を通じて鶴岡系譜で地続き、肩書でアップデートこの二段重ねが面白い。そして多分上田麗奈が要する微細な息づかいなんて、多分一番向いている人。
 
<以下、本編を見た感想>
以上の系譜と設計を前提に、劇場版『レゼ篇』が実際にどんな音で立ち上がったかを、スクリーンに鳴った事実で確かめていくと、やっぱり上田麗奈はさすがでした。戸谷との組み合わせで当然「上田麗奈劇場」であったことは言うまでもない。その上で戸谷サイドには「花江夏樹」がサメ役で輝いていました。つまり、これなんですよ。上田と真っ向から演技勝負なんて、そりゃキャラクターも相まって決まる。そこで『喰種』で輝きをみせた花江がああいう役をすることで戸谷との掛け合わせで「一段」上にのるわけです。中盤以後の戦闘シーンにおいて演技体として自然に掛け合いとして聞こえたのはどう考えても音響的には「花江」がいたから。『レゼ篇』になって急に配役におけるバランスが取れ始めていたのは正直、総集編の段階で名倉氏が関わっていたとはいえ、ここまで化けるものかと思いました。シャフトで研がれた額縁と京アニで鍛えられた透明が、名倉のもとで一本化されたその確かさが声優の演技や環境音すべてにおいて、圧倒的に「映画」でありバランスの取れた作品であった。そして、やっぱり上田麗奈のキャラはこの映画の回で退場する。だからこそ出番が少ないマキマは、存在感として「あ、やっぱりマキマは別格だな」と思わせるだけの演技は必要であったが、そこは残念ながら感じられず、「そこらへんの年上の女性感」がひたすら残り、キャラとしてマキマ<レゼであり続けること自体は映画の設計である。だから仕方ない、と思いきや、それを言ったらおそらく後半にその真価を発揮するであろうマキマなら、やっぱり声で上田麗奈をも倒すくらいの輝きは必要なのは、レゼ=上田麗奈最高、と言うなら余計にそうあるべき。そして、劇伴の牛尾もテレビシリーズよりも劇場だからか、かなり牛尾色は残りながらも、やはりそれなりに面白い劇伴に仕上げてきていたとは思う。だからテレビシリーズよりかはちゃんと仕事していると言える。とはいえ、音楽性自体が、山田尚子との相性という、真に輝く組み合わせがあるからこそ、純粋に『レゼ篇』で牛尾だからこそ、というのはやっぱり感じられなかった。ここまでくると設計思想の話なので、どうしようもないですけどね。
 
前半の散歩シーンに『リズと青い鳥』由来の既視感が差し込み、戦闘で弦が立ち上がる手際は面白いのに、逃走パートで再び他作で見た構図へ回収される印象が残る。要は設計思想の差で、ここは致し方ない領域だ。その上で戦闘で盛り上げて弦楽器まで入ってくるのが意外に面白さはあったが、その後の逃げる時の音楽において、ここもやっぱり別作品で見たことがあることを繰り返して予算とテレビ版ではトライしていていなかった点をマシマシという印象が強く残る。
 
チェンソーマン』の元アシスタントで現在『ダンダダン』を描いており、こちらもアニメも3期が決まりとかなり好調なのだが、それこそ花江が出ているという意味も含めて、『チェンソーマン』で背景を支えた人(龍幸伸)がかいた漫画とそのアニメの方が牛尾である必然性があった。そしてそれが今度は『レゼ篇』で活かされたのではないか?と少し思ってしまった。でなければ最初からテレビシリーズの段階で今回のような劇伴を作ってれば音楽としての側面は今よりは確実にあがっていた。とはいえ、やはり劇伴作家としてベストではない。今一度その原理原則について。
 
まず出発点。鶴岡・名倉・山田尚子+牛尾の長い系譜は「山田作品」側に限れば、牛尾が必要条件に近い。『平家物語』『きみの色。』では音響が*3木村絵理子に代わっても木村×山田×牛尾が二連続で成立した。これは、音響座組が変わっても山田×牛尾が完成した言語として自立している証左だ。結論は明快、牛尾=山田のラストピースは真である。
だからこそ『聲の形』-inner silence版は音響剥き出し(台詞、劇伴なし)の、言ってみれば牛尾の本髄とも言える音響が全面にもってきた作品として足り得たし、そんな作品がBlu-rayに収録できるくらい、「牛尾音楽」というものが山田尚子作品と適合し、その上で鶴岡陽太もそれを後押ししているのだ。
 
一方、『チェンソーマン』の主語は金属/路地ノイズ/血であり、ここで日常の親密ミニマルを基調に据えると、音源としては聴けるかもしれないが、同じ牛尾でも、山田語法のままではベストに届かないし、それをそのままくっつけても当然うまくいくはずはない。届くためには、楽器情緒を封印し、別作家の環境音を主語に据える文体が不可欠になる。
 
そして、先述した『ダンダダン』が牛尾音源とハマったのは、SARU系の絵作り×牛尾の身体内リズムが同一言語圏にあり、木村音響の運用と合成したからだ。つまり若山詩音と花江夏樹との掛け合いと怪異とラブコメと、という絵作りが、湯浅政明由来のSARU映像との一種のドラッキーイズム前景の作品だからこそEDM系で決めることが逆に「正解」になる。だから合う。それすなわち、ラブコメ的近接と怪異の混ぜ合わせには親密ミニマルが効く。だからこそ、これは例外ではなく必然の適合。ゆえに前年の『チェンソーマン』(2022年)がベストではなかったという逆証明にもなる。実際に統計を取ったわけでもないし、取れるわけではない。
 
では一般人が測れる方法として行動消費型としての音楽サブスクで考えみえればいい。
 
前提として配信されたばかりの公開直後のレゼ篇は最大瞬間風速で上位を占有していたとしてもそれは、いい音源であることに加えて作品公開直後の熱気があるので、均等に見切れにくい。フェアとして考えるなら、それ以外の音楽で考えるべきである。そうなると少なくともApple Musicではこのような並びとなっている。
(画像は2025年9月21日 23時40分時点)

『レゼ篇』の劇伴を除く牛尾音源の人気ランキング(Apple Music)

ご覧のとおり、行動消費の指標では『ダンダダン』のほうがハマっていると主張できる。配信直後のレゼ篇は瞬間最大風速で上位を席巻しているが、Apple Musicの並びを作家名横断で見ると様子が違う。

先頭は『チ。—地球の運動について—』のメインテーマ、次いで『チェンソーマン』の楽曲が1曲。その後は『ダンダダン』と『聲の形』の楽曲が食い込み、末尾側になると『チェンソーマン』の劇伴がまとまって並ぶ。
要するに、単発で上位に2曲置けているのはチェンソーだが、安定して6曲が上位帯に居座っているのはダンダダンという結果で、リスナーの反復再生/日常ループはダンダダン側に寄っていると読める。この差は前段における「合う/合わない」とも符合する。ラブコメ的近接×親密ミニマル=日常BGMに馴染みやすくループが伸びるからだ。このランキングの並びは、そのまま作品と音楽適合が聴かれ方に反映していることの行動的な証拠になっている。ではここで他の大手サービスとも並べることで母数を安定させることで統計的にもそれがどうかを検証してみたい。もう一翼としてのSpotifyの画面で比較してます。

なお、Spotifyアルゴリズムの基本は、再生回数順のため配信直後の『レゼ篇』OSTはそういう意味で反映されないため、より、『レゼ篇』バイアス抜きの結果となるということは今回でいうとより素直な結果として現れるということを留意したい。

Spotify|牛尾アーティストページ

Spotifyの「人気曲」を作家名横断で見ると、トップ10はダンダダン5/チェンソーマン2/聲の形3という配分具合。『レゼ篇』の新譜が同条件で並んでいるにもかかわらず、上位帯に安定して食い込んでいるのはダンダダンの楽曲群である。

(※重要なので再度強調しておくとSpotifyの人気曲は累積+直近再生寄りのため、新譜バイアスが相対的に弱い)。

 

ゆえに、行動消費の観点から明確に言えるのは、テレビ版『チェンソーマン』の劇伴は翌年の『ダンダダン』と比べて「合っていない」という事実である。対して『レゼ篇』はロマンスと哀愁を踏まえた劇場設計と「指示書」によるアプローチの違いがあり、将来的にはこの上位帯をレゼ篇OSTが奪う可能性もある。そうなるなら、制作の仕様に忠実に作ったテレビ版『チェンソーマン』の劇伴は、レゼ篇という更新版の前ではアプローチ自体が劣後していたことになる。言い換えれば、『レゼ篇』がなければ牛尾起用の意味・意義・大義は最低限の保証すら得られないということだ。

以上のことを踏まえ、パンフレットの寄稿文を読むと以下のように文章を寄せている。

TVシリーズのときから「『チェンソーマン』ではまだ出していないアイデアがいっぱいあります」とずっと言っていたんです。この作品に長く関わらせていただけるのなら、「このタイミングではこういうことがやりたい」というものがありました。その一つが「レゼ篇」でオーケストラを使うということです。映画館という優れた環境で鳴らすのは大編成のオーケストラの音適しているだろし、「レゼ篇」は本作の中でも際立って叙情的なパートなので、そういう意味でもオーケストラの音が合うだろうなと。また、大編成のオーケストラとはまったく逆のピアノとバイオリンだけの小さな音の曲も作ることができるなと思いました。映画館では大きな音がよく鳴りますが、小さくて微細な音も聞かせることができるんですよ。そうした曲も「レゼ篇」に適していると思いました。

(中略)

音楽を映像に合わせると合わせないところのメリハリが重要なんです。

MAPPA 東宝.劇場版『チェンソーマン レゼ篇』パンフレット.P30-31.株式会社美松堂

つまり、『レゼ篇』のOSTが良いと思うということは、テレビ版にはない想像力ということの証左であり、ならばなおのこと、テレビ版では様々な理由で牛尾は自分の音楽を全開で見せることは作芸、スタイルの方向性という意味で厳しかったことが伺える。「レゼ篇」だからと書いてあるが、つまり起伏がる物語ではないと、アプローチからして難しいということの表れである。「叙情的」とまさしく述べている通り、「感情」の起伏がある物語であれば、牛尾サウンドは効能として効くというのが見立てとして最低限見積もれる。つまりそれが物語としてない『チェンソーマン』テレビ版は、結局、牛尾である必要はないということを、本人が『レゼ篇』で証明しているとも言える。

もっと踏み込んで言うなら、叙情性=感情の起伏×視点の近接×時間的持続の三点が立っている時、牛尾音楽語法が最大効率で噛むということだ。その意味では逆算だが『レゼ篇』こそ牛尾が輝ける物語であったことはもはや振り返る必要もない。

「映画館でしか聴こえないような小さく繊細な音も楽しんでいただきたいです」という主張は、TV版よりもダイナミックレンジと微細音を設計軸に置いた宣言であり、TVシリーズとは別相で、劇場=音で物語をかける設計に舵を切っていることが可視化されている。だから、プールのシーンで爆発的なメロディが流れて観客は「名シーン」と思えるのです。そういう設計をしているから。もちろん悪意的な「ここで感動しろ!!」っていうのではなく、純粋にこういうシーンではこういうサウンド性が合うからそうするという意味でね。

この『in the pool』は言ってみれば『エヴァQ』の『Quatre Mains (a quatre mains) =3EM16=』に近い。本編の中でもこのシーンが一番「合う」というその映像とのダイナミズムとしてね。

in the pool

in the pool

Quatre Mains (a quatre mains) =3EM16=

Quatre Mains (a quatre mains) =3EM16=

  • provided courtesy of iTunes

そして、これらを取り巻く時系列、つまりはテレビシリーズからできなかったこと、「レゼ篇」になってできた、そして劇伴の受けとしては明らかに『レゼ篇』に評価軸が高くついているが、テレビシリーズではそうではないことが可視化されていることはサブスクのデータも、一例でしかなく、全てであるとは言わないし言えない。が、おおよその傾向としてApple Music、Spotifyでの傾向というのは大手サブスク元の数字として嘘ではない。テレビ版『ダンダダン』の方が劇伴としていいし、『聲の形』の安定性を取れない時点で劇伴としては弱いんですよね。テレビ版は。作家の優劣ではなくテレビシリーズで、合わない題材という環境から発生した非対称によるダメージということだ。

だから、TV版は他作(『ダンダダン』等)と比べても劇伴単体の立ちが弱かった。でも、劇場ではフィルムスコアリング広いダイナミックレンジによって牛尾性が「上がった」。だからこそ、TV期の牛尾アプローチは『チェンソーマン』の要件に適合しなかったということです。それがサブスクにおける「再生回数」としても、多作の方が聴かれている結果も出ていのだ。

 

これらを「ミスマッチ」、感覚として「采配ミス」と捉えたのであれば(あるいはそれに近い感情を抱いたのであれば)、それは「名倉音響×場の作曲」と「山田語法×親密ミニマル」を分離できていないことを自ら認めたということになる。その意味で、劇場版『レゼ篇』をもってしても「名倉音響」にかかる「場の作曲」は依然として不在である。だから本論考では、その「場」を担うアーティストとして蓮沼執太という案を提示している。

 

以上の観点も踏まえると、総じて「最初からこの処方で臨めていれば」を映画が提示してしまった、が妥当だ。もっとも劇伴は半分の達成に留まる。

理由は明快単純で、音響監督は名倉に替わったのに、設計思想は旧来の音響を前提に走り続けたから。細かい理屈をこねなくても説明がつく因果である。

わかりやすく置き換えるなら『シン・エヴァンゲリオン』で、総作監が歴代の骨子を組んできた本田雄ではなく錦織敦史へと交代したことで生じた現象と同型だ。「作監が替われば絵の顔つきが変わる」のと同じく、音響監督が替われば作品の耳の顔つきが変わる。言ってみればただそれだけの話である。

 

MVPは上田麗奈花江夏樹。声優という職能をしっかりと「記憶にのこる演技」としてこなせていたから。上田麗奈はこの後にも『機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ キルケーの魔女』で引き続きギギ・アンダルシアを演じる。これは原作既読勢にはピンとくると思うが、つまりその手前でレゼを演じたのはある種の準備ともいえる。はて、富野御大が作り出したあのキャラを、第二章ではどのようにして演じられるかが楽しみである。
御冷ミァハ(『Harmony』)/新条アカネ(『SSSS.GRIDMAN』)/ギギ・アンダルシア(『閃光のハサウェイ』という破格のキャリアにレゼ(『チェンソーマン レゼ篇』)が加わったこと自体が本当にこの声優の凄さというのを象徴する、その意味ではこの映画は本当に上田ありきの作品だ。
その点でいえば、やはりMAPPAは音響的には圧倒的に『呪術廻戦』のほうが成功している。放映前の予告編の「渋谷事変 特別編集版 × 死滅回游 先行上映」で、乙骨=緒方恵美の低域の「いくよ、リカ」、五条=中村悠一の一言「領域展開」、偽夏油(羂索)=櫻井孝宏の宣告。これらはいずれも台詞が一行で立つ。これこそが「音響」の妙である。対して『チェンソーマン レゼ篇』本編で、この水準に届いたのはレゼ=上田麗奈ビーム=花江夏樹だけ。ここに新人主体の座組が生む音響的ハンデを感じた。声優という職能の本懐は記憶に残る一行で観客の耳を掴むことにあり、キャリア差は言い訳にならない。そして「なぜ比較する?」と聞かれれば、それはジャンプ大型IPの標準に照らせば、比較は当然。『呪術』は主役=量/主権者=音の質を両立し、一行で立つ声を量産できている。『レゼ篇』は名倉の設計で映画的バランスに到達し、上田×花江がその規格線へ肉薄しているから。だからこそ他のキャスティングが相対的に浮く。
 
主題歌においても、オープニングを作曲・作詞・編曲を米津に統一したことはかなりスイッチが入っていた楽曲にもなっており、坂東や常田が不在の分、原液たっぷりの楽曲が味わえて、それこそ作品にあるべき楽曲のオープニングにしあがっていた。ここまではいい。しかしエンディングは正直いかがなものかと思う。
 
曲がいいのは、もはや米津*宇多田ヒカルというライン軸でいえばクオリティが高いのは当たり前。しかし、その組み合わせは本当に『レゼ篇』に必要であったかといえば、そこまでの必然性はない。悪く言えばただの客寄せパンダでしかない。なんと比喩すればいいか、、そう例えばジブリ映画における『風立ちぬ』(2013年)と『君たちはどう生きるか。』(2023年)がまさにいい例で、「良し悪し」ではなく必然性の問題として、本当にそうでなければいけなかったのか?という意味合いにおいて考えると、どう考えても、『風立ちぬ』×「ひこうき雲」は内在的必然(作品にその歌がつく意味)がある。それは、歌詞テーマに「若い死」があり、空・上昇・消失というモチーフが映画の死生観と直結する。つまり作品の主語にかかる。「生きねば」というコピーに。結果、EDで物語の主語を回収する内輪として機能する。でも一方で、『君たちはどう生きるか』×「地球儀」は外接的なんですよね。本編スコアは久石譲が担い世界観の内側を支える。しかもガッツリミニマル音源というかなり実験色なテイストで。だからこそ、余計に設計上は外側の看板に近い振る舞いでしかない。EDで主語を回収する内輪まで降りていない。
要は、内側が硬いかどうかです。『風立ちぬ』はユーミン曲の既存意味と映画の死生観が最初から噛み、EDが物語の主語を回収する設計。
『君どう』は書き下ろしの新しい旗、米津新曲書き下ろしとして機能しつつも、内側(久石スコア)との役割分担が外輪寄りで、観客体験として「中和」まではしても「必然」まで踏み込まない。だから後者は必ず、あるいは絶対的に「そうである」必要性がないということだ。
 
その点でいえば『エヴァ』は一環して鷺巣詩郎であることに作品足しめる効果効能が常に「存在」していた。鷺巣詩郎がTV版から新劇場版まで一貫してスコアを担い、シリーズ横断の動機(今では同じみのBGM含め)やクラシック引用(バッハ、ベートーヴェン等)を再配置して「エヴァの音」を固定してきた。これが土台。硬すぎるほど内輪の音楽が常に偏在する。だからこそ見た人にしか通じないとは思うのだが、それこそ、鶴巻監督の短編『EVANGELION:3.0(-46h)』で「庵野以外のエヴァだと物足りない」と思ってもエンドロールで「mirror mirror: orchestra and choir」が流れると一気にあの世界に引き込まれるわけです。
mirror mirror: orchestra and choir

mirror mirror: orchestra and choir

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この、内側=連続するスコア/外側=継続する主題歌の二重構造があるから、宇多田を起用しても観客は「まあエヴァだし」(作品強度=いくら本が滅茶苦茶でも世界観の軸が鷺巣音楽とカメラワークにおいては絶対「良い」と固定できるに対する信頼感)と腑に落ちるし、作品トーンの変化を音楽が中和して受け止められる。結果的に、音楽が世界観の最低限の連続性を保証する装置になっているからこそ宇多田ヒカルで締めても、作品がぶれないからこそ、逆に成立するのです。「Beautiful World」「桜流し」「One Last Kiss」はそういう意味でのバランスがあったからであり、アニメ映画に宇多田ヒカルをとりあえず起用しておこうっていうのは、その実とても安直なんですよね。

 
たしかにMAPPAは音楽にこだわる節がある、だから思想としてはわからなくはないが、であれば『レゼ篇』で立たせるべきは、上田麗奈の声で楽曲を歌わせることが真の意味での作品性に直結するはずだ。明らか「誰の作品」といえばレゼフォーカスなのは明らかなのだから。
 
実際に上田麗奈は、自身のアーティスト活動においても自分が演じてきたキャラクターの自己的解釈として歌詞へと落として歌唱するというスタイルで、特に『Empathy』はそういったスタンスで構築されたアルバムであった。だからこそ上田麗奈を立てるキャラとして御冷ミァハには『旋律の糸』があり新条アカネには『いつか、また。』がある。新条アカネなんて、こんなエピソードがあるくらい、魂削って演じられていたわけです。
旋律の糸

旋律の糸

いつか、また。

いつか、また。

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そういうスタイルでアーティスト活動をしているのだから、その文脈をついて牛尾に作曲でもさせてfeat.上田麗奈で締めた方が、圧倒的に締まる。そうしないのはやっぱりソニー重力と作品を広めたいという商業的解釈が強いからだ。それはそれで間違っていないが、重圧にするべきところの解釈として数歩、ずれているなという点はいなめない。それこそ『きみの色。』でエンディングテーマが「しろねこ堂」ではなくミスチルの櫻井楽曲で締めたように、それはそれでいいけど「アニメ」としては、「しろねこ堂」のバンドのアニメ作品なのだからそうあるべき、この理屈と同じ。山田尚子×牛尾のラインでは、本編に劇中バンド「しろねこ堂」の楽曲(作曲・編曲:牛尾、作詞:山田)を内在化させつつ、主題歌はMr.Childrenという外輪で締めた。結果として「映画内の声(しろねこ堂)」と「外部の看板」が分立した構図になり、ここに賛否が生まれたのは事実。 ソニーの重力があるのは、半ば致し方ない。

 

その上で、外部スターを使うなら、OP=外輪(米津)/ED=内輪(上田)で主語分担をはっきりさせる手がどっちも納得できる。今作はOPもEDも外輪なので、どうしても規模の見せ筋に「商業主義」の匂いを感じ取って劇場をでないといけないということなってしまったのが個人的には残念なところ。OPは規模、EDは物語。この規模感を保ってこそ、本当の意味で作品というのはあがられると感じます。

それでいえば『私を喰べたい、ひとでなし』はしっかりと「作品性」をとっている。

www.crank-in.net

――カテゴライズしないからこそ、そのキャラクター個々の魅力がより引き立つのですね。また、本作ではエンディング主題歌「リリィ」を比名子役として担当されていますが、彼女が歌うというのは少し意外でした。

上田:そうですよね。でも、実際に比名子として歌ってみると、意外と違和感はなかったんです。完成した音源を聴いてみると、歌詞には彼女の今の状況が色濃く反映されていて、その危うさや儚さ、脆さが自然に香ってくる。

そして最後には、ほんの少しですが“希望”を感じさせる流れになっていて、本編のもどかしい展開の中で、エンディングの彼女の声が一筋の光を見せてくれる。それだけでも救われるような感覚がありました。「本編でこの歌を歌っている比名子を見てみたい」と思わせるエンディングになっていると思います。

主人公=八百歳比名子(cv.上田麗奈)を物語の主語に据え、ED「リリィ」も比名子として上田麗奈が歌う設計。主演とエンディングが同一の声に収束するので、作品は最終的に上田の声で「閉じる」構図になっています。それこそOPは吉乃「贄-nie-」で、外側から世界観を提示し、EDで内側=比名子の一人称へ回収する二重輪。OP=外輪/ED=内輪の綺麗な実例です。内容面でも、上田麗奈自身が「歌詞に比名子の今が色濃く反映され、EDの彼女の声が一筋の光になる」と語っていることからも、EDがキャラクターの心理を担う「内声」として機能していることがわかる。ここまで整って、ようやく観客の情動の着地点がキャラの呼吸と一致する。まさに「作品として上田麗奈で閉じる」体験となるのだ。

 

同じ主演上田麗奈アニメでもこうもアプローチで差がつくのは、劇場であり、IPの差といい、レーベル/権利の力学ゆえにCVによるEDが難しくなる場合があるからというのは理解はできる。でもその上でやはり、CVエンディングの方が効果効能の幅で言えば大きいんですよね。キャラソンをつけろといっているのではない、上田麗奈のような高度な役者を添える演技がメイン軸でありながら、エンディングテーマはそこに全く関係、接点のない宇多田ヒカルをもってくることで「何を聞かされているんだ」感が増す。つまり作品は良かったのに、エンディングで観客の心がずれる。こういうは悪手であるということを主張しております。少なくとも、そこには「本編」に何もかかってないんですよね。わざわざ起用する意味としては。だって一切関係ないじゃないですか。

 

だから『レゼ篇』はあの二人でいい、でも「ufo×アニプレ」系のアニメはLisa、Aimerでなければ締まらない、だからスター主題歌はダメ。こんなの理屈としては通らないんですよ。しかも実際に前者の例で成功しているビジネス世界のなか、いちいち、ある意味ではスター音楽家起用という方式は、つまりアニソンであろうが興行収入ヒット作につながるこのご時世、別にマストで取るべき手法でもない。フランチャイズ作品ごとに好き嫌いで考えていたら何がフェアで、何が目的かというのが絶対ブレる。

だからこそ、音楽起用は「誰を使うか」ではなく「どう機能させるか」で評価すべき。人選は方法、機能が目的。簡単な話です。

 

まぁ、とはいえ、この『チェンソーマン レゼ篇』が何を作品として意図していたかといえば、間違いなく高度な引用ネタとして尾石達也の『傷物語』構成を援用しているという裏設計図という図式でみれば、「Étoile Et Toi」-「JANE DOE」の掛け合いは、つまりは物語の二極を掛け合いを重ねで描くという意味ではかなり似ているし、寄せたと言えば納得はできなくもない。

とくにED=恋の残響という構図の継承は滅茶苦茶強い。『傷物語』が阿良々木暦とキスショットの関係性を甘美的にフランス語で表現というアプローチに対して、『レゼ篇』デンジ/レゼ的な刹那を米津と宇多田のデュエットで閉じる。楽曲自体が、そのままフレンチ直輸入ではないにせよ、シャンソン的な語りのデュエットという構図はも重なる。

簡単にいえば、二人称ロマンスという手つき。

そして、レゼとの戦いにおいて、最後のデンジの腕から直線的にチェンソーを出す構図もまぁ、傷といえば傷。

etoile et toi

etoile et toi

傷物語』<熱血篇>

傷物語』<熱血篇>

傷物語』<熱血篇>

 

だから尾石達也の『傷物語』を知っている人なら構図といい、エンディングの掛け合いといい「なにがしたいのか」という点おいては理解は可能。名倉音響はその意味ではど真ん中で録音を担当をした人。というあたり『傷』自体を意識していないはずもない。

傷物語』の総集編のトークイベントにおいて「鶴岡陽太」言及があったのを思い出したのでこちらに起こしました。3行ですけれど。三部作で録音を担当した名倉劇場という意味でもいかに映像主体の作品に音を当てるということが大変であり、それを通したかという一端が、垣間見えます。

sai96i.hateblo.jp

 

そういう意味では『チェンソーマン レゼ篇』は鶴岡陽太に長年、録音を担当した実績と、楽音舎出身という点からしても鶴岡音響に密接であり、シャフト作品にも多数録音として参加しており、中でも『傷物語』三部作にいることなどから、シャフト作品に縁のあるスタッフといえる。故に、本作は少なくとも、音響アニメという意味では「近傍シャフト」と言える。

スタジオこそMAPPAだが、音響監督=名倉靖(=シャフト作品群で録音を担ってきた中核人材)が音響監督として、メインスタッフに入っているからだ。音響監督の系譜がシャフト直系。ゆえに音響面の系譜で「近傍シャフト」認定で整合が取れる。

でも知らん人からしたらオシャレエンディングテーマにしかならないという二重苦。まぁそれはそれで、別に気にならないければそれまで。でもその場合、この「JANE DOE」の評価軸は「曲が良い/スターがすごい」という、言ってみれば当たり前の職能礼賛だけに収束する。 

アニメーターに絵が上手いとか、作曲家に曲作れるのすごい系の1=1系の入力=出力の同語反復である。1=1はただの点呼です。本来は1+1= でなければならない。

そしてそれは在り方としては作品に「かかっている」実感というものが底抜けしていることの証左であり、「作品」と「エンディングテーマ」は分離していてもいいと言っているようなもの。スタンスとしてそれもあり方はあり。でも全作品にそれを適応するのは、鑑賞者という立場からすれば絶対に「特別な作品」というものが生まれるので、いずれはこう言った問題に直面するはず。じゃあ直面しない方法は一つしかない。

OP=外輪/ED=内輪。

 

総合的に言えば『チェンソーマン レゼ篇』という作品は名倉靖の音響設計が映画に必要なバランスを与え、上田と花江が一行で記憶に残るを達成した。OPは規模で正解、EDは主語を取り違えた。ただしここは物語閉じをキャラクターの時間を止める(内在的エピローグ)か、映画閉じ=物語を観客の時間に返す(外在的エピローグ)という選択制であり、後者をMAPPAが選択したということ。

美点は明確、課題も明白。

 

ここから先の答えは、音で示せばいい。

 

そしてそれにかかる一番重要なポジションこそが「音響監督」なのだ。

 

 

追記.2025年10月8日

natalie.mu

やはりというべきか、牛尾自体はオファーのファーストインプレッションからして否定的。だがMAPPAの熱量によって快諾するという手順で起用されている。ここが問題だ。

初手の段階で担当する作家が「自分でいいの」と思うほど牛尾の中ではオファーされること自体が、予想外であったということが証明されました。

普段やってる自分の音楽性を鑑みても「私でいいんですか……」と。実際できるかどうか迷ったんですけど、大塚学社長をはじめMAPPAの皆さんがとても熱意を持って口説いてくださったので「一緒にがんばりたい」と思いましたし、原作を読んだときに「これめちゃくちゃだな」と感じたんですけど、それがすごくよくて。この印象を楽曲のコンセプトに据えたら楽しそうだなと思ったのがお受けした理由です。

結局、原作の面白さをコンセプトにできればな、という推進力こそ自ら生み出しているが、音楽的には「説得」された以上、原作に寄り添うこと。そしてその結果原作をコンセプチュアルに還元できれば「楽しそうだ」と発言しているからもお察しできるように楽曲との相性、必然性ではない。そしてそれは設計ではなく「牛尾」という名前のブランド性に依拠しているだけ。一体、何を思ってMAPPAの社長様と推した社員は「牛尾」に拘ったのか。ここが最終的な謎なのですが、これが「ネームバリュー」「ブランド」以外にあるのであれば、是非とも公開していただければと思います。『レゼ編』のサントラの功績は、牛尾が生み出したもの。なぜならば、牛尾が叙情的ストーリーにオケを導入したいという作家からの提案にによって生まれているからこそ、ようやくここで前景化してサントラとして極まったというわけです。だからこそテレビ版での意義というものは牛尾本人よりもMAPPAが握っているのでその点さえ明らかになれば問題は解決します。「名札で安心」ではなく「大義を先に立てる思想の深さ」。『国宝』はそれを実装し、『チェンソーマン』は欠いた。どちらもトップが推していても、設計思想の有無が力量差を露呈させ、結果の質を分けたわけです。原摩利彦は、現代音楽・環境音楽・コンテンポラリーのフィールドでは評価も実績もあるし、専門領域では十分に知られた存在。ただし 大衆的なヒットメーカーではない、つまり「名前で数字を保証できるタイプの作曲家」ではない。でも、だからこそ『国宝』での起用は重要で、大衆的な知名度に頼らず、作品の審美と音楽の必然性で選んだことにより、その結果として「100億規模の評価と興行」に繋がり、作曲家の知名度を逆に押し上げた。これがアニプレックスの村田千恵子とそれを繋いだ岩上敦宏の連携プレーの設計・座組の勝ち方である。一方『チェンソーマン』の牛尾は、逆に名札先行で選ばれた印象が強く、必然性の言語化が最後まで不十分。記号として通じる範囲にいたけれど、その意味と作品の意義が噛み合わなかったということが、このインタビューをして、余計に露呈しています。その上で、『レゼ篇』。ここになると、もはや制作の熱意ではなく、牛尾本人が「叙情的ストーリーにオーケストラを導入したい」と作家側からの提案を出したことがポイント。つまり外から押し付けられた枠組みではなく、作曲家自身が能動的に「音でどう物語を拡張するか」を提示した。結果、初めて音楽が前景化し、サントラとして極まった。だからこそここまでサントラの評価もテレビ版より高いんです。そこに名倉音響イズムが過去作との呼応で一致したのもあって。

たまたまですけど、今回の音響監督の名倉さんは「映画 聲の形」(2016年)と「リズと青い鳥」(2018年)のときのミキサーさんなんです。もちろん全体の方向性については名倉さんの統制下で進めるわけですけど、僕は“名倉音響組”のスタッフで、名倉さんは僕のことをすごくわかってくれているので、ある程度の裁量を渡してくださいました。ライブセットの場合、どこに何をどういうふうに当てるかってすごく大事じゃないですか? それって一般的には劇場作曲家の領分を超えていて、本来は音響監督さんとか選曲さんの仕事なんです。「ピンポン THE ANIMATION」「DEVILMAN crybaby」のダンスミュージックとしての音楽的側面は自分の今まで培ってきたものだし、名倉さんの信頼のもとそれをやらせてもらったことも、全体を構造的に作れたことの要因の1つかもしれない。あまり集大成という言葉は使いたくないですけど、これまでのいろんな経験則が結び付いて今回結実したことはよかったなと思います。

ここも象徴的ですね。当然ですが、設計の主語は名倉、牛尾は「理解され・裁量を委ねられた」立場。ライブセット的アサイン(どこに何を当てるか)の作業自体は、本来は音響監督/選曲の領域を牛尾が担えたのは、名倉の統制と過去作品における信頼「ゆえ」に成立しているのです。『ピンポン』『DEVILMAN crybaby』からのダンスミュージック的知見=作家の蓄積が今回「構造的に作れた」要因に直結。正直、ここには『チェンソーマン』以後の『ダンダダン』も含まれます。要は、制作が意味を設計したのではなく、名倉の設計×牛尾の能動が噛み合って初めて前景化したことが全てなんですよ。そしてこれらのことから分かるように、名倉の設計×信頼による裁量移譲×牛尾の能動の三点で成立していて、MAPPAの関与は実質ゼロ。『レゼ篇』は名倉がそれをよって上げたからできた。ゆえに、テレビ版の弱点(MAPPA主導の名札先行)は、ここで完全に露出した。これらが全ての真相です。

でも、だったら最初から蓮沼の方が名倉は妥協せずにいられたと思うし、好きな楽曲を本来の意味でアサインできた、という意味で『チェンソーマン』には適合であるという主張が妥当性を増します。果たして二期以後どうなるかはわかりませんが、この『レゼ編』で見えた諸々の課題は重要なので、それらを早いところ、全てクリアしてほしいものです。それに先のインタビューのこの部分からしても牛尾はしっかりと考えいる作家なので、その意味では仮に「交代」と言われてもすんなり受け入れる可能性が高い。

、「トロン:アレス」の音楽を手がけたトレント・レズナーアッティカス・ロスのコンビなんて非常にシンパシーを感じるチームではないでしょうか。

だいぶ恐れ多いですけど(笑)、勇気付けられます。僕はオーケストラの譜面を1人で書けるわけじゃありません。アカデミズムを経ない、アンダーグラウンド出身者でありつつ、劇伴作曲家をやらせてもらっていますけど、トレント・レズナー、ジャンキーXL、惜しくも亡くなられましたがヨハン・ヨハンソンの活躍を見るともう少しがんばれるかな、と思います。さらに僕の世代のルドウィグ・ゴランソン(1984年生まれ)は、最初からそこに垣根がない。すごくいい時代ですよね。

 全部が『MADMAX』『Socialnetwork』『Tron ares』など文脈を請け負う彼らが担当することで意義をもつ劇伴作家でもあり、その極致としてヴィルヌーヴという、現在における美と商業性と物語の三位一体を成立できてるハリウッド監督の「下地」を支えたヨハン・ヨハンソンをこのように評価するというのは、作品はそれに沿った作家であれ、という主張にほかなりません。大体そうじゃなければラゴンソンまで言及できませんよ。ヒドゥル・グドナドッティルまで言及すれば完璧だけど、これは枝葉的な意見ですが、そこも含めて多分組めている。

 

本記事の主張は『レゼ篇』のサントラ賛美、音響賛美。このどちらか、あるいは両方を支持することによって、名倉音響であることの必然性と、後から、「牛尾」が能動的に動きアプローチをしたことで生まれた設計思想に基づいた基準での図式を認めたことになり、それすなわち現状ベストであるということを認めるということになります。

つまり、しつこいようですが『レゼ篇』においてようやく「ベストに近いベター」になった。つまりこれはスタッフ功績であり、MAPPAは「助かってもらっている」「助けられている」という立場を自覚した方がいいと思います。実際の作品の出来、鑑賞者の反応、作り手のアプローチの違いといい全てがそれを証明しているので、本当に二期でこれらを解消しないと、スタジオとして成長できないと主張します。


 
《シャフトライン》

ef - a tale of memories. - アニメスタッフデータベース

夏のあらし! 〜春夏冬中〜 - アニメスタッフデータベース (不参加) 録音:蝦名恭範

 荒川アンダー ザ ブリッジ - アニメスタッフデータベース (不参加)録音:蝦名恭範

ダンス イン ザ ヴァンパイアバンド - アニメスタッフデータベース

ささみさん@がんばらない - アニメスタッフデータベース (不参加)録音:椎原操志

メカクシティアクターズ - アニメスタッフデータベース (不参加) 録音:矢野さとし

 

 〈物語〉シリーズ(主旋律)

化物語 - アニメスタッフデータベース

偽物語 - アニメスタッフデータベース

<物語>シリーズ セカンドシーズン - アニメスタッフデータベース

 

 

*1:因みに、仁氏の父親である明田川進は日本アニメ創世から音響周りを支えたマジックカプセル創業者でもあり、浦上靖夫に並ぶレジェンドである。担当作は『鉄腕アトム』『リボンの騎士』から『AKIRA』『銀河英雄伝説OVA

*2:月詠 -MOON PHASE-』(2004–05)、『ぱにぽにだっしゅ!』(2005)、『ひだまりスケッチ』(2007〜)、『さよなら絶望先生』(2007–09)、『まりあ†ほりっく』(2009)、『それでも町は廻っている』(2010)、『電波女と青春男』(2011)、『ニセコイ』(2014–16)、『幸腹グラフィティ』(2015)、『3月のライオン』(2016–18)、『美少年探偵団』(2019)

*3:主に吹き替えメインの音響監督。一番有名な仕事は『ハリーポッター』シリーズの吹き替え

『呪術廻戦』懐玉・玉折/渋谷事変 ― 劇伴論(1) ミニマル音楽と会話の格子

<前振り>

偶然、というかやっぱり中村悠一櫻井孝宏がWで主演の作品は見なければならんよなぁということで、食わず嫌いをしていた『呪術廻戦』より「懐玉・玉折」を最近、鑑賞しました。どうでもいいことではありますが、自分はこの記事でも述べた通り

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「ジャンプ的」なものが、どうも身に合わないのですが、そんな自分でも楽しめる作品であったので満足したというのが表の感想。あと、今更とはいえ、子安武人氏が演じる刀もったおっさんキャラクターが面白く、なんかそれこそ、『Fate/Zero』における衛宮切嗣vsアーチボルトという対比「魔術師殺しvs魔術師」というのが「呪術師殺しvs呪術師」という構図の再来に思えて、とてもそういう意味では気分が上がったんですよね。

 

(ちなみに『Fate/Zero』『PSYCHO-PASS』を推すのは作品がどういうもそうですが、それ以上に対複数人、会話メインという作劇において音響監督が岩浪美和さんがご担当されているという象徴性からの援用です。詳しく知りたい人はどうぞ調べてください)

 

向こうは小山力也と山﨑たくみで、まぁ一種目に見えた「やられ役」だったわけですが、「懐玉・玉折」っって描くの面倒いなので、玉玉って略しますが、この話では、ちゃんと強いけど最後には仕留められるという構図だったので納得感がすごく高かったんですよね。超強いもの同士の闘いっていうのが、売りなのか、あるいはそういった戦略と戦術の保線がうまいのか、その点は読んでいないのでなんともですが、キャラ造形はうまいなぁと思ったり、セリフの応酬においてはちゃんと櫻井孝宏に言わせるべきセリフを言わせていたり、中村悠一じゃないと成立しないセリフだったりと完全に計算されているような作品で満足感が高いし、それに対する子安武人の演技の妖艶さといったらね。特に櫻井孝宏子安武人に羨望を抱く役者の一人ですから、そんなお二人がああいう演技合戦をされるとそりゃ心躍るだろうという。

 

でもそれ以上に感動したのが劇伴。本当にシンプルに超良い。爆音で聴くこの快感。

フリー・ジャズ寄りのピアノ×ドラム・デュオ的構成で、ピアノとドラムの当て合い=呼吸と間合いの衝突という力の強さ加減を楽器同士のぶつかり合いで象徴させる運用のうまさ。グルーヴで運ぶよりせめぎ合いで張る方向のジャズ。これがtrack1なのが最高にかっこいい。

 

懐玉

懐玉

  • 照井順政
  • アニメ
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だから、まず「懐玉」で唸って「Our Mission」で笑いが止まらなくなり、「伏黒甚爾」で完全に方向性が読めて「No Hesitation」で到達できた気がする。そんな気持ち。

 

<劇伴を聴くということについて>

その前に一度スタンス的な感じなことを。ここにおける「良い」というのは、本来の劇伴の主張性として、妥当というか全うであるということ。つまり凄いのはいい加減わかるけど数多の作品で方向性として第一次源である梶浦音源は「信頼」できる分、それすなわち外さない曲調というのがありそれがアニプレ戦略×ufotableが築き上げた帝国スタイルなあって座組として梶浦由記が絶対的に劇伴作家として人気作品を担当するからこそ「さすが梶浦!!」になってもそれは同時に「梶浦の場合外さないからワクワクする劇伴」というものが、相対的に感じられにくいということ。

 

鬼の映画をみても椎名豪主体となったとて、「座組」の色が濃いからこそ、音楽は全くと言っていいほど主張性もないし記憶にも残らない音源であったし、じゃあどこで「おっ」となったかといえば終盤にちょろっと流れた「梶浦色」っぽい琴の音のその瞬間なんですよね。さまざまな理由で多面化をしている気がするが、ブランド作家で構築してきた手前、そうでない人が担当すると崩れるといういい例であると思う。予告編の音以上の衝撃がないのだから。つまり逆説的なんだけど、梶浦が安定を築いているからこそ、他の作曲家が前に出ても「主張」として届かないですよ。座組で組んでるゆえの弱さ。というか、梶浦由記とあのアニメでいけば最終戦は絶対にカルミナ・ブラーナ/ヴェルディ的な楽曲路線でコーラス重ねて盛り上げるくらい、設計が見えているのだからというのもあるが。

「カルミナ・ブラーナ」 ~ おお、運命の女神よ

「カルミナ・ブラーナ」 ~ おお、運命の女神よ

つまり、菅野よう子が『∀ガンダム』でそうしたように、鬼のアニメにおいて、ようやく梶浦由記がそのフェーズに足を踏み入れられる領域というわけです。本当にそこを狙ってくるかはわからないけど、それ以外に最終戦を盛り上げる、というのは梶浦スタイル的にはあまり考えられない。じゃあ、それでいえば梶浦由記の「MOON」枠がAimerあたりで聴けると夢想すればこそめちゃくちゃに熱いですけどね。

∀ガンダム (Original  Soundtrack) I

∀ガンダム (Original Soundtrack) I

Final shore ~ おお、再臨ありやと

Final shore ~ おお、再臨ありやと

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Moon

Moon

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終盤でちょっとだけ流れる「あ、梶浦っぽい」とそれまでの劇伴の記憶されてしまうのは象徴的。ブランドの強度が高すぎて、同じ現場に入った人間の音がかき消される。どうやら近藤社長と随分と作り込んだようだけど、正直いって座組で汲んでいるなら梶浦由記以外に、そのクオリティを求めるのは圧倒的に、間違ってる。「印象」に残らない曲しかないという「結果」に対して70曲以上作ったとかいう、「過程」の自慢も取れる文章と、喧嘩状態で作り上げる一方で「もう1人の音楽家梶浦由記とは」という記載がありメインの扱い方を間違え続け、首座の、椎名豪との関係は「近藤と一緒に徹夜して意見ぶつけ合いました!」という制作ドラマの色合いが強くなってしまっている。これは一見熱い現場に見えるけど、超大型IPの音楽基盤としては あまりにも不安定でプロデュース不足。音楽作品ではなく作り手と音響との衝突が物語として前景化。

 

そりゃいい構造的にも環境的にも印象に残る音楽なんて作れるわけないわなと。

 

だから一応、梶浦もクレジット上には記名されているとはいえ、椎名豪を「主体」に据えるというのは、構造的にいえば 『エヴァ』から鷺巣詩郎を外して別の作曲家に差し替えるのと同じこと。鷺巣が作る「エヴァ音楽」は、作品の空気そのものと不可分で、もはや映像演出と同格の柱になっている。そこを崩したら全体の統合感が壊れる。

 

フランスからクラシック音楽作法のコントロールが瓦解したらルグランオマージュの『thème du concerto 494』すらないエヴァの映像ってそれ片手落ちどころの騒ぎではないでしょう。

thème du concerto 494

thème du concerto 494

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作芸やジャンルこそ違えど、『新世紀エヴァンゲリオン』のような作品において鷺巣詩郎以外にあの音楽世界をコントロールできる人がいるかと言えば誰もできない。それと同じ。鷺巣詩郎が構築するからこそOP冒頭から、掴み、まとめ、独白BGMに至るまで、しっかりと鷺巣節が施され情景、哀愁さみたいなものがしっかりとあの世界を包むことで映像と音楽の掛け合わせでものすごいアニメ映画が成立するのでわけです。

tema principale: orchestra dedicata ai maestri

tema principale: orchestra dedicata ai maestri

euro nerv

euro nerv

berceuse: piano dans l’orchestre à cordes

berceuse: piano dans l’orchestre à cordes

what if?: orchestra, choir and piano

what if?: orchestra, choir and piano

born evil

born evil

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それがない、ただただ金がかかったアニメ映像とは?とか思ってしまうわけです。50/50の関係における映像/音楽の比率として明らかにバランスが取れていない。

 

比喩的にいえば『逃げ上手の若君』のエンディングの「ぼっちまるまる」の『鎌倉STYLE』のイントロのあの感じしか、記憶に残らない超大型IP劇伴っていう印象なんですよね。なんだよそれって話で。和風作芸なんだから琴が似合うのはともかくとして。

少なくとも全編梶浦だったら違ったことはむしろ客が一番わかるところ。

だったら『逃げ上手の若君』のEDイントロを聴いて、仲良く「うぉうぉ〜!!」とかいって、『鎌倉STYLE』を聞いた方が楽しいだろって話です。

鎌倉STYLE

鎌倉STYLE

  • ぼっちぼろまる
  • J-Pop
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「安心感=外さない」型の良さになってしまう座組で作品を安定的に組むアニプレックス案件の劇伴はその意味ではつまらない。梶浦と澤野をとりあえず使っておけばいい感というのは、安定だが、安定に勝る楽曲という新鮮味はいい加減ないんですよね。というよりもやはりこれは2000年代から続く潮流を引き摺っているからなんだと思うんだけど。菅野→神前という流れに並列していた梶浦が『コゼットの肖像』やら『.hack』で導線が生まれ、それが回り回って『ソードアートオンライン』『魔法少女まどか☆マギカ』『Fate/Zero』とアニプレの大型案件専門になったという手前、仕方ないけど、2010年代のアニメに馴染みがある層にとっては、梶浦がいくら新曲を書いても「凄い」という水準は保証されている一方で、「未知の驚き」や「新しい扉を開いた感覚」はなかなか得られない。自分が大好きなryo(supercell) も圧倒的に凄すぎて「わからない」が先立つくらい作品よりも楽曲としての作品性がしばし非常に強さというのは、主題曲におけるハズレのなさをわかる話。ああいうのは圧倒的にすぎてむしろ畏敬になるのだがそればっかりだと、つまり、すでにブランドが確立しているがゆえに、革新性を感じづらくなっている。

 

まぁ、劇伴の革新性ってなんだよっていう意味では「劇伴」としてどこまで「懇切丁寧」にアプローチがなされているかどうかの違いではあるのですが。

 

そういうふうに組み立てて考えていくと大手作家でいえば、菅野よう子は「懇切丁寧さのバリエーションを常に更新し続けた人」、梶浦由記は「一度確立した懇切丁寧さを鉄壁のフォーマットにした人」、澤野弘之は「懇切丁寧さよりも圧倒的な表層インパクトで接合部を押し切る人」というパッケージでまとめてしまえるほどこの三者はそれぞれ明確に差別化された「パッケージ」で聴けてしまうほどに作家性が強烈で、だからこそ音源を純度100%で「作品にだけ集中して楽しむ」ことは難しい。必ず作家の声が聴き手に迫ってくる。それは途方もなく凄いことなのだけれど。

 

さて、これが言ってみれば2000-2010年代の支流のあり方であったことを考えると、やはり転換期は牛尾になる。『聲の形』で山田尚子とタッグを汲んで以降、基本的に山田尚子作品では外さないし、イマイチな音源もあるが、基本は78点以上は出す劇伴作家にまで成り上がり、今や朝ドラとプロフェッショナルセットという大衆性まで浸透しつつある。そして彼の成り上がりはともかくとして、以後の潮流としてあるのが、アニメ畑ではない人に音楽を付与することで相乗性を盛り上げてそれが、なんとなれば音楽も前景化し、配信前提のサウンドトラックといい、顔となり劇伴もしっかりと顧みられるようになってきたということだ。じゃあ何で睦月周平は『リコリス・リコイル』の音源を開放しないんだとか思うんだけどそれはそれとして。

 

牛尾憲輔agraph)案件

DEVILMAN crybaby』(2018)、『日本沈没2020』(2020)、『平家物語』(2021)、『チェンソーマン』(2022)などで、電子~ミニマル~伝統音楽を横断。

オオルタイチ案件

『映像研には手を出すな!』(2020)で全編劇伴。ドメスティックな実験音楽出自の作家を番組丸ごと任せた象徴例

マルチ・アーティスト編成案件

『Sonny Boy』(2021)はtoe、ミツメ、落日飛車、VIDEOTAPEMUSICほか多数のオルタナ/電子勢を起用し、BGM(Conisch)と楽曲提供をキュレーション的に混在。」海外ビート~ビートミュージックの導入案件

『YASUKE』(2021)はFlying Lotusがエグゼクティブ・プロデューサー兼作曲。

ビート主体・音色志向の前衛ポップをアニメ側へ本流輸入へ。

 

こうした中に、照井順政の起用を『呪術廻戦』に当てたのは一種流れとしては当然の帰結といえよう。彼もアニメ歴は全くなく、ポストロック、エレクトロニカを主体として音楽を発表してきた「外の人」なわけだ。だからこそ『呪術』の場合、作品も劇伴作家も知らない状態で見たからこそ、余計にその新鮮度は高いし、劇伴としてのあり方も「目的」と「意図」と「方向」がしっかりと明白であるから、聴いていてとても快適であるということ。アニメ劇伴にこなれていないからこその作り方というのが音源に虹見てでいる。

 

この流れの中で構築していくと、『呪術廻戦』の劇伴は、大型漫画原作アニメという最大級の舞台で、「ブランド外」の作曲家に思い切り暴れさせるという到達点を示した。つまり、構造的にも象徴的にも「安定から前景化へ」の潮流がピークに達した事例といえるわけだ。だから、そういして考えていくと、アニプレックスの超人気IPの固有の座組で決めるのは超強いしそうでしか作品を作れない体制はわかるんだけど、がしかし、その分、「アニメ外」の人が作る劇伴と比較した時に新鮮さやアプローチの明快さなどが際立つからこそ、言ってみればちょっと時代遅れにも思える。

 

 

ということで、声の音響話を続けてきたここ数記事でしたが、久しぶりの音楽話を始めます。だけど色々と劇伴に対する整理整頓がないと、全体的な流れがわからないと思ったので前説として劇伴のあり方についてまとめました。別に、個人的には声優の声を音響ととることは全然ありで、むしろ音楽との対比としてはセマンティックとしての意味とサウンドとしての音、という読みなんですけれど。

 

 

 

では次項から『呪術』劇伴についてです。ちなみに本編知識は「懐玉・玉折」しかないです。よろしくお願いします。

 

<本編>

言及アルバムは「呪術廻戦  懐玉・玉折 / 渋谷事変 ORIGINAL SOUNDTRACK」です。

<ミニマル音楽として劇伴>

さて、本編を聴いた時にまず一番気に入ったのがミニマル音楽性が強い以下の曲

『A Little Lesson』

『Our Mission』

『仲間(じゅつし)の屍』

『Prepare Yourself』

『Arrogance』

 

はじめに『A Little Lesson』は、第25話「懐玉」でループしている時に「どのようにして脱出するか」という一種の謎解きの掛け合いを間抜けそうな日笠陽子ボイスキャラと強そうな三石琴乃が会話するシーンから流れ始める音楽です。

A Little Lesson

A Little Lesson

  • 照井順政
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(キャラ名とか知らんので全部声優名で行きます)

『呪術廻戦』第25話-「懐玉」

そう。なぜいいか?という答えは簡単。これはミニマル音楽だから。

ミニマル音楽とは何か?というのはこの記事に譲る

sai96i.hateblo.jp

その上で、画面とどう同期しやすいか、という意味では、ミニマル=反復と格子をつくる音。だから、時間を刻む。ゆえに、映像として通学・作業・監視・研究などの手順の可視化にはもってこいであり、舞台を前景化に切り替えることができる/集中できる音楽の使われ方が最適なのだ。だからこのシーンでいえば、その手前までホラー調であったのに対して「脱出」という方法論を考え始める途端に「ミニマル」音楽として流れはじめる『A Little Lesson』はタイトルの通りミッションでありその過程を前景させるからこそ、そこにミニマル音楽が映えるという理屈にかなった劇伴である。

この手法はもはや、教科書として存在する<物語>シリーズが顕著ではあるのだが、それは別に専売特許というわけでもなく、会話の応酬がメインとなる作品ゆえの当たり前の作り方、ということなのだが、そうした作品を鑑賞している人であれば/意識している人であれば、このシーン場面における転換の劇伴作用については大方理解できる。

そして続く、脱出以後、五条、夏油とあとなんか色々登場して、話の掛け合いにおいて流れるのが『Our Mission』。

Our Mission

Our Mission

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ここは会話メインでありながら、現場整理と状況確認という意味合いにおいて、「あのホラー空間とは一体なんだったのか?」というアンサーを会話の応酬でキャラを立てながら音楽と同期させていくという、一番手法としては明快なミニマル音楽作法、それこそ会話の応酬ではもはや当たり前と言っていいほどの作り方である。だから「懐玉」の第一話から、単にホラー調からバトルへの移行ではなく、思考プロセスを前景化するための音楽設計として構造化されているのだ。

実際、そのあと教師に怒られるくだりでは、音楽は無音。これは「ミニマル」である必要性がないからならさない、というたんに叱りを受ける場合、下手な音楽は挿入しないという当たり前な引きである。

 

 

そして3曲目『仲間(じゅつし)の屍』。これはシーン呼応どうこう以前に、あまりにもスティーヴ・ライヒのオマージュ作といっていいほどミニマル楽曲として成立しているのがまずテイストとして素晴らしいのがある。

仲間(じゅつし)の屍

仲間(じゅつし)の屍

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4〜6音程度の小フレーズを少しずつ足し引きして緊張を保つ構造だからこそこのシーンは第27話-「懐玉-参」において子安武人キャラが、五条を後ろから突き刺して動揺を誘うワンセンテンスに流れはじめる楽曲。

『呪術廻戦』第27話-「懐玉-参」 過去

『呪術廻戦』第27話-「懐玉-参」現在

昔の五条にあった時の回想と、現在という対比で「五条」というキャラが不意を突かれ、傷をおった、その緊迫感としてミニマルを使うというのは方法論としては真っ当ではある。刺突の瞬間から始めたワンセンテンスが、過去(回想)と現在(動揺)を同一の時間軸に縫い合わせる。観客は時間跳躍を連続として捉えられる。そこでライヒ的、というかポスト・ライヒを使うのが秀逸というか巧い。終止を引き延ばし、未解決のまま持続させるという場において感傷を抑えた冷たい昂揚を誘う音楽。緊張感を演出させるのであればこそ、待ってましたと言わんばかりの引用。

具体的には『Music for 18 Musicians』『Six Marimbas』系の援用型。

Music for 18 Musicians

Music for 18 Musicians

Six Marimbas

Six Marimbas

  • Norrbotten NEO & Daniel Saur
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つまりあの数秒に「刺突→動揺→回想→現在」を一つのプロセス音楽で貫ぬいている。視聴していて、とても理にかなったシーケンスとなっているのだ。だからこのシーンは「音楽が良い」だけではなくアニメの演出の運び方の巧妙さも相待ってもの凄く視認性、聴性の高いシーンとして記憶に残るということ。その上でポスト・ライヒを持ってくるというこの意味は、五条の最強=制御像と矛盾しない、どころか、むしろ揺らぎだけを抽出している。だからこそ、整理がついて、vs刀の人との戦いに挑むシーンで音楽はなりやむ。実に運び方がスムーズで理にかなった音楽の使い方である。

 

4曲目『Prepare Yourself』は29話「玉折」において象徴的な流れかたをします。

Prepare Yourself

Prepare Yourself

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「対症療法」と「原因療法」における説明で、「原因療法」を是とするキャラクターが呪霊がどうこう、という話を夏油にレッスンするという場面から流れるの楽曲。色々迷っているなかで、自分が後に歩む理想的なあり方を提示され、驚くこのカットから鳴り始める。

『呪術廻戦』第29話-「玉折」

この曲も先の楽曲と同様に、ポスト・ライヒとしてのスタンスが明確に表れている一曲だ。『仲間(じゅつし)の屍』が、弦楽器による「ゆらぎ」で持続する哀悼であれば、『Prepare Yourself』はピアノのリフで進行する緊張進行型。感情ではなく、手順が物語を押す場面を支える音。

タイトルが示す通り、ここでの役割は臨戦態勢の整流。主旋律ではなく、背後の反復が主役となり、作業/研究という思考の手順が対話と同期する。先述した「作業・研究」の2点における思考のプロセスが対話によってなされることで、この時の夏油を表す音楽としてライヒの『Piano Phase』『Drumming』の型に収斂させるのも一見「前衛的」と思いがちだが、実は機能性という意味では必然である。

 

Piano Phase (1967)

Piano Phase (1967)

  • エドムンド・ニーマン & ヌリット・ティルズ
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Drumming: Part III

Drumming: Part III

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なぜなら、志の明確化→呪詛への滑落というベクトルを感傷抜きの手続きとして提示できるからだ。結果として、キャラクターの目的と物語の方向が、ミニマルという道具立てで美しく一致する。

『呪術廻戦』第29話-「玉折」

『呪術廻戦』第29話-「玉折」

 

続くシーケンスでは、決意した夏油が村人に手をかける。まず〈調査報告書〉という事実が先に提示され、そののち過程が淡々と開示される。ここで鳴るのが「仲間(じゅつし)の屍」。もともとこの曲は、五条側の危機と過去—現在の移行をゆらぎで描いていたが、本話では、夏油が自ら悪行へ踏み出す緊張と、同時に走る学校側の内的動揺を併置するために用いられる。やがて音が途切れ、報告書に目を走らせた五条の「は?」が落ちる。音楽・編集・演技が手続きの論理として噛み合う瞬間である。

そして、事の一件起きて以後、夏油と五条が邂逅する場面で流れる「Arrogance」。

Arrogance

Arrogance

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『仲間(じゅつし)の屍』が弦のゆらぎで哀悼を持続させ、『Prepare Yourself』がピアノの短いリフと、等間隔における臨戦を整流したのち、この曲はその二つの語法を会話のための格子へ転化する。五条の動かない基準と、夏油の増殖する確信。二種の驕り(語り)が、反復という同じ床の上で並走する。「傲慢だな」という夏油が五条へと放つセリフが体現しているように、旋律が主語にならないから、和解も決裂も音楽が代弁しない。代わりに、優位の持続だけが耳の内部で続く。

『呪術廻戦』第29話-「玉折」

『Prepare Yourself』ほど段階的な加算は強くないが、『Electric Counterpoint』系譜の小セル反復とレイヤー操作で組み上げられており、微細な位相のズレ/密度の偏移によって会話の位相差を際立たせる。

Electric Counterpoint: I. Fast

Electric Counterpoint: I. Fast

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結果、情緒ではなく立場が固定され、画面は前に進めない対話として透明に定着する。

加えて、夏油を演じる櫻井孝宏の効果が大きい。乾いた中低域と硬質なサ行、プロソディ(韻律)の精密な段差づけにより

「意味はある。」(断定)→「意義もね、」(軽く受け)→「大義ですらある」(低く着地)
という三段が過熱せず論理先行で響く。これは忍野メメの「味方なんてしないさ、中立だ。」に代表される座標相対主義の話法(メメティック的)、槙島聖護の独白に宿る冷ややかな世界認識と地続きだ。傍観者→教祖→詐欺師→英雄へと立場をスライドしても核温度を一定に保ち、同じ声で別の倫理を語らせる力。

その役者×役歴の記号性が、夏油の台詞「意味はある。意義もね、大義ですらある
をただの名言ではなく、冷たい正当化の美学として音声に定着させる。

無論、これは受け手による役者×役歴の記号効果であるが、なぜ夏油傑というキャラクターに櫻井孝宏が選ばれたのか?という理由は間違いなくその役者×役歴の記号性ならない。

そして、そこに中低音の中村悠一の荒ぶる声との掛け合いにおける言葉の応酬が『Arrogance』と同期するかのように、響いていくというのも見逃せない。ここでは理念の投げ合い=言葉の戦闘が主役で、派手なアクションの連打で来た『懐玉・玉折』の結末に、真逆の対話の頂上決戦を据える意図が、劇伴(格子)×演技(韻律)で鮮やかに完遂されている。

 

この物語におけるミニマル楽曲の採用意図としては、旋律が意味を固定しないゆえ、ミニマルは場面文脈に従い意味を転覆させうる。まさに反復の美学の本質である。旋律で情を決めず、反復で立場を固定するからこそ、この会話は「勝ち負け」よりも決別の形がクリアになるという側面はおそらくあった。いずれにしても、ライヒ節全開ながらも、場によって二つの異なる場面で使用できる楽曲や、会話の応酬型としての楽曲と使い分けが巧みに処理されていることはいわずもがな。そして、こうした「ライヒ」を援用したミニマル音楽を「ジャンプ作品」の大型作品の劇伴で起用するという作法自体が、はたかみれば実験的でありながらも、おそらく照井順政氏からしみてば、正当な帰結として導き出した方向性であると言える。そしてその帰結は、アニメ劇伴に慣れていないからこその純粋に音楽で考えるという固有性が強いからである。

 

それは、Real Soundの「コンセプトから作る」インタビューでの照井順政の発言からも明白だ。彼はミニマル/トライバル/細かなギターフレーズ/変拍子をキーワードに据えつつ、テンポや陰影など映像側の制約に合わせることで必然的に新しい曲が生まれたと述べ、さらに汎用曲を減らし、特定場面に刺す曲を多く採用した制作方針を明らかにしている。

realsound.jp

――『呪術廻戦』の劇伴において、いわゆる劇伴らしい部分と攻めた部分のバランスはどのように意識しましたか。

照井:ミニマルミュージックであったり、トライバルなリズムであったり、自分の持ち味である細かいギターのフレーズだったり変拍子だったり……といったものはキーワードとしてありつつ、「もっとテンポを遅くしなきゃいけないんだ」とか、「ここは途中で暗くしなきゃいけないんだ」という制約があると、好き勝手にやっているつもりでも、今まで作ったことのないものになっていかざるを得なかった。そういう感覚でしたね。

照井:『呪術廻戦』は恐らく一般の劇伴より、いわゆる汎用曲みたいなものが少なくなっていると思います。そもそもメニューで指定された曲数自体が多いし、ある特定の場面にだけはめる曲みたいなものが多分一般のアニメよりは多いと思います。

 本当に日常の汎用曲みたいなものは、例えばループしやすいようにとか、転調はしないでどこを切っても変なふうにならないようにというのを多少意識したんですけど、それ以外の例えばバトルの象徴的な曲だったりは、基本的には制約を考えずに単純に特定のシーンにかっこよくはまるようにという感じで作っていました。

加えてCINRAのインタビューでは、初期打ち合わせ段階で監督から「スティーヴ・ライヒみたいな感じが欲しい」とリクエストがあり、自身も第2期でミニマル導入を提案した経緯を語る。しかも“まんまライヒ”ではなく、ポストロック由来の語法や現代的な要素で最適化したと明言されている。

kompass.cinra.net

照井:もっと真正面なことを言うと、自分がやってきた音楽は意図せずポストロックと呼ばれることが多くて、結構ミニマルの要素を含んでいたので、『呪術廻戦』にもその要素を持ち込めるんじゃないかと思って。それを最初の打ち合わせの段階で監督にお話したところ、面白がっていただいて、実際「スティーヴ・ライヒみたいな感じが欲しい」みたいなことも言っていただいて。

―『呪術廻戦』とミニマルが合うと思ったのは、なぜだったのでしょうか?

照井:呪術的な音楽は繰り返しのなかでトランスしていく要素があると思っていて。トライバルというか、原初的なリズムが核にあって、リズム自体は単純なんだけど、それが繰り返されていくことによって高まる要素がある。それで「ミニマルを取り入れるのはどうですか?」って、第2期の音楽をつくるタイミングでご提案したんです。

jujutsukaisen.jp

小林:「懐玉・玉折」で言えば、例えば夏油については「冷静で規則正しい・術師の秩序を重んじている・若い」といったイメージがあると監督が話していて。それを受けて照井さんから「ミニマルミュージック(※2、以下ミニマル)を取り入れるのはどうですか」という案が出ましたよね。

照井:呪術的な音楽は、音型は単純なんだけども、それが繰り返されることで人の意識が通常とは異なるトランス状態になっていく要素があると思っていて。それでミニマルを取り入れるのはどうでしょうと提案させていただいたんですが、監督には「いいね」と面白がっていただけたんです。「懐玉・玉折」については、五条と夏油の若くてエネルギーを持て余しているところ、ちょっと傲慢で暴走している感じや最強感があるところを表現したいというリクエストがあって、ジャズっぽい跳ね感のある音楽や、決めごとがなく即興的な雰囲気の音楽で表現してみようと思いました。

 

つまり、制作側は最初から音楽の方向性を定めたうえで、アニメ劇伴の慣習に縛られない作家を起用して新鮮味を狙い、それが場面特化の設計とミニマルの機能で大成功に結びついた、という理解で間違いない。

以上が『懐玉・玉折』におけるミニマル劇伴としての素晴らしさである。

 

その意味では、物語が基本的に、先生優位の物語であるからこその即時性と倫理の冷たさを質感で鳴らしていると言える。低域・無音・金属倍音で「先生の倫理」を語らせているとでいうべきか。だって、あらすじレベルを読むだけでも、『呪術廻戦』は、五条悟という「最強」の記号が物語の主権を握るという設計だし、夏油という理念の対偶がその重力を担っていることはわかるし、『懐玉・玉折』『0』が悲劇と特級主人公を先出しで完結させたことにより、受け手の評価軸は以後も五条基準にロックされているのも、まぁわかるわけだ。

 

ようするに、プリクエル主権効果(造語)じゃないけど、完結パッケージ(懐玉・玉折/0)が、物語の主権(誰の意思で世界が動くか)と音の設計思想を先生側=五条/夏油軸でカチッと固めてしまったという側面がある。この作劇上の帰結は、劇伴に還元される際の方向性の担保になる。ゆえに音楽はミニマル/ドローン/EDMの三位一体で機能配分される。

だからこそ、『呪術廻戦』の劇伴は、格子(ミニマル)・静圧(ドローン)・瞬発(EDM)で〈先生の倫理〉と物語主権を鳴らし続ける。

 

というわけで、既に全トラックを通して音楽的には分かる側面が多いのですが、本編未見のため、今わかる範囲という中で『懐玉・玉折』のミニマルベースに劇伴について述べました。何かの参考や再視聴のきっかけとなれば幸いです。

(2)(3)も音楽タッチの質感は既に掴んでいるので後は本編とどう作用しているを「視聴」してから確認すれば、続き物として出せると思います。よろしくお願いします。